大阪の陣でどうすれば豊臣は勝てたのか?
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>>207
チヨンこエベンキ半頭ゴキブリ寄生虫ひともどき韓唐だからだろ 大阪いらっしゃいキャンペンで観戦がトンキン土人抜いて首位に ここは泉南の田舎町。どこからかZAQ太鼓を叩く音が聞こえてくる。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪119.24.158.163!
歯が語るアイヌの先住性 講師 松村博文(札幌医科大学)
https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1721.pdf
比上肢長という体に対する腕の長さの比と足の長さの比をみると、アイヌ、東北人、畿内人の順に長い。
つまり、アイヌの人たちが一番腕や脚が長く、畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。
朝鮮半島の人々も畿内人と同じように腕や脚が比較的短いことがわかりました。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪119.24.158.163!
一瞬、東大阪のスラムに居るような感覚に私は襲われたのである。 仮に勝ったとしても淀や政治も知らないアホな女官の息子どもが統治し続けてたとも思えない スグに戦乱の世になって50年は無駄にしたと思うよ いくら淀君が強い立場だろうが、それだけで牢人衆を支配出来るとは思えん。
実際に豊鑑とかだと淀君はそんなに強硬派じゃなかったとあるらしいし。 ほだよ
武将とか将軍とかでもよいが人はそいつらにしか付いていかないからよ
秀頼が成人してりゃまだよかったんだがな もともと、豊臣家は戦争強くないし。
懐柔と内通で勝ち上がったのが秀吉 そんなんで勝ち抜いたのがバカやねんな
あと鎌倉の御家人とやらもバカや思うでな
昔、元寇あったろ
やつら日本にきたときは女らに対しては手に穴を開けて数珠繋ぎにして船に括り付けて人間の盾にしたの
そんで子供なんかいれば拐っていき奴隷にしただな
そゆ世界なんだが世界をまとめたすごいやつらだの唱えるだけのバカ学者が日本におるやん
死ねばよいとしか結果を見れば思わん
今度やったらモンゴル人ら皆殺しになるぞ チャンコロは皇帝なんてものなくなってよかったの
あいつら周りに迷惑しかかけとらん 秀頼出陣を淀殿が止めたのは、秀頼が大野治長や幸村など家臣や浪人にそそのかされたってことで、秀頼の助命を嘆願しようとした本丸の意向らしい。 秀頼出陣を淀殿が止めたのは、秀頼が大野治長や幸村など家臣や浪人にそそのかされたってことにして、治長や幸村の切腹と引き換えに、秀頼の助命を嘆願しようとした淀殿の意向らしい。
かつで秀吉が、備中高松城攻めで家臣や領民の助命と引き換えに切腹した清水宗治と違って、なんと女々しいことよ。 >>222
あの状況で秀頼が出て行っても今更誰も寝返らんだろう
家康を除いて秀吉存命中の恩顧大名はほとんど代かわり
しかも関ケ原で東軍について家康から所領を受けた大名ばかり
寝返る可能性のある奴は江戸留め置きなどにして
大坂に来ること不要と命じたし かつて、三法師には誰も忠義を尽くさなかった事と
秀頼への対応は一緒だよな。
血筋だけで代替わりできるほど戦国時代は甘くない 後明(鄭氏台湾)はまだオランダを駆逐できてないのか 血筋で言えば遥かに由緒正しい足利将軍でさえあの扱い
逆に言えば家康と秀忠を討ち取れれば織田政権のように割れるかもしれない
秀頼出陣となれば麾下の将兵の意気は天を衝く如し
たとえそれがダメでもビザンツ皇帝コンスタンティノス11世のように自ら騎兵を率い最後の騎馬突撃を敢行すれば天晴れ武士よとなり小屋で包囲されて惨めに心中するよりはずっと良かった >>228
何を笑うのかわからんな
どこが笑いどころかkwsk 秀頼は城から出れんじゃろう。
下手に出たら城を乗っ取られる。 夏の陣で徳川に内応しそうな武将は残ってるかなあ
織田有楽も退去してるし 冬の陣の段階で居なかった訳だから夏の陣とか自殺志望者しか来てくれんだろうなぁ 冬の陣て秀頼様、ご乱心による御謀反
状態だから誰も助けにはいけないわな あー徳川方からじゃなくて
秀頼が城出たら乗っ取られるという話があったからそれは城内に徳川に内通してる武将がいるという前提になる
冬の陣にはまだ胡散臭いのはかなり居たけど夏の陣ではその辺もう退去済みじゃないかなって思った 火の無い処に煙を立てるのが諜報の妙技よ。
真田信繁に土地を約束した、なんて話を広めるだけで(実際冬の陣ではやってた)効果はあったろうし…
秀頼のクビをとって手柄になる事も確かだったし。 徳川方も浅野裏切りの流言とか松平忠直が大坂城に突入したのを家康が忠直の裏切りと勘違いしたなど真偽は不明だがそうした話があった
浅野は豊家の親族 忠直は家康に叱責されていると言った何らかの素地があってのことではあるが
何せ天下分け目の関ヶ原も決着は裏切りによるわけだから疑心暗鬼にもなるだろう 豊臣側が大坂城で決戦するなら、冬の陣ですべきだった。
冬の陣のときはまだ城の堀が残っているから、何年でも籠城して、包囲する徳川陣の疲弊、
恩顧の大名の切り崩しを時間をかけてやればよかった。
冬の陣で簡単に和睦してはならなかった。 秀頼が淀を暗殺しておいて和睦
家光の代まで待ち、分け前の少なかった不満大名、九州勢、東北勢を集めて徳川討伐 秀頼自ら四国の土佐あたりに転封願い出せば
あとは長生きして機を待つ事が出来てよな。
負けて勝つ戦略を親父から学ばなかったのが残念 家康を討ち取れば和睦になったよ
家康の子供らは豊臣を潰す気はないからよ だから必死こいて家康を殺そうと豊臣方の武将らも決戦仕掛けたろ
家康がいなくなれば徳川方に付いてる武将らが離反するからよ 神君が負けた時の事なんて考えてどうすんの
豊臣の勝ちなんて日本沈没して終わりじゃん 脱出してタイに逃げ、タイに新大阪城を築いて復権を狙っていたが、実は大坂城で討ち死にしており、由比正雪の一子、由比道雪が替え玉をしていたのである。 >>242
実は逆で、家康は秀頼の事を潰したいとは思ってなかったけど秀忠は潰そうとしてたらしいな。 >>244
その逆の説もある
さらにその逆の逆の説もあるし
その逆もある 既に徳川の天下なのは明らかなので生き残ることが勝利
大坂城を明け渡して、公家として生きる 摂河泉65万石から大和郡山15万石への国がえを呑む 大坂を逃げ出すしかないが、馬にも乗れないんじゃなぁ 逃げ出すことが至難
手下が逃してくれない
これこれお殿様どこいくよ
と城に連れ戻される お家を遺す為に徳川に降伏する。
するんだけど、多分男子が産まれたらあの世行きだろうしなぁ。 大坂の陣のころなら、もう武力では勝てないから、公家として生きるしかないだろうな
公家なら朝臣だから、徳川の臣下になる必要はない
武家伝奏のような役目で、朝廷と江戸幕府の仲介のような役目を果たせばよい
領地は畿内に数万石あれば十分 夏の陣はもうどうにもならない無理ゲー
冬の陣なら初戦で勝てば勝機もあるだろ
どの方面に出兵するか
初戦京都遠征は勝ち目ないか?
秀頼を大阪城から出陣させると城を乗っ取られるから秀頼は大阪城縛りにしないとすぐゲームオーバーだろな 平家や足利の例に倣えば一旦大坂を捨て西国に落ち力を蓄えた上で反攻
毛利、島津、福島、加藤などを糾合、外国勢力も巻き込んで一大決戦を挑みたい 大坂を離れられない縛りがキツい。
しかも石高65万石しかない。
これで徳川と決戦はかなり難しい、というか不可能… 65万石というそこそこの領地があったのが、豊臣秀頼の進退を難しくした
1万石程度しかなかったら、もう失うものもあまりないので、喜連川足利氏のように、
高い家格を持つ貴種の家として、徳川将軍家の客将のような立場で生きることもできた 冬の陣の後、農民すら豊臣を見捨てて逃散、65万石すら維持できないとかいう事態が起きてるしこれはもう… 織田秀信のように前代の主君筋として残る道
長浜10万石程度であれば滅ぼすほどのこともなかっただろう大坂城があまりにも巨大過ぎた
関ヶ原の後毛利が残存兵力を統合して大坂城でなお徳川と一戦し城が焼け落ちるとかしていれば状況も変わっていただろう
無論毛利が勝手にやったことという事で秀頼が早々に城を退去している必要はある 秀頼が家臣団を集めた目の前で、淀殿の捕縛を命じて、有無を言わせず、秀忠の陣地に護送し、土下座させるように仕向ける。
そのまま、人質として江戸で暮らすようにさせる。
それでもダメなら、淀殿の顔を見に行くという名目で、秀頼が城を出る。 夏の陣だとどう見ても無理ゲーだが、
後南朝方式で吉野の山奥にひたすら逃げて、
明治維新まで持ちこたえるという手を使うという手は誰も考えないのかな? 大坂城がなまじっか堅牢だったのがいけない。
軟弱な作りだったり実用性より美麗さを重視してたら大坂より離脱しようという考えもあったろう。
堅牢だったが故に撤退を考えられなくなり、
更に大坂城建築当時には考えられもしなかった状況、つまり全日本軍が一斉に攻めてくるという状況に陥ったのが痛かった。 孤城に国中が攻め寄せてきた例は近くは小田原城、遠くは千早城、未来には原城がある
状況に色々違いはあるが原城は未来人が指揮しても絶望的だろう
冬の陣の大阪城は小田原城とどちらが勝機があっただろうか 豊臣方は色々機能不全に陥っとる。
大坂城唯一の弱点(であるが故に真田丸も作られたと言われる)の南口を担当してる織田が徳川と内通、不戦の約定を結んでる。
更に東と西からは横堀(塹壕)を掘り抜いて攻撃しようと徳川方が迫ってきてる。
豊臣方最大閥の織田は排除出来ない、やろうとすれば秀頼を暗殺して徳川への手柄にされかねない。
退くも進むも出来ない… 秀頼の家庭教師の中には六角氏の末裔がいたのだよなww
六角氏の伝統を伝授しなかったのかねぇww
甲賀にとりあえず逃げて、いつの間にか復活するというやり口をww 秀頼の遺児を京極に預けて隠していたが
大坂の役後に家康から出せと言われて出して
六条河原で処刑された 幕府お庭番山中大和守を京極に潜入させて、発覚しました 淀君が強硬だったという話もあるが、
豊鑑なんかだと秀頼の方が強硬なんだよな… >>275
もし妾腹でなく千姫の子なれば、自分の曾孫ゆえ家康は殺せたか?
信康の時と単純比較はできんが。 続きそれを秀吉は計算してたのかも。思惑通りにはいかなんだが。 >>278
秀頼が謀反した後だと良くて出家だろうなぁ 隣国を始めとした他国なら「宦官」技術を用いて・・・ 事此処まで至ればお家を残せば大勝利よ。
てことで大坂からダッシュで逃げろ秀頼 秀頼は京都に屋敷を立てて、時々、上洛して滞在して朝廷や公家との交流を深めていき、
少しずつ大坂城から距離を置いていけばよかった。
大坂退去を要求されれば、65万石相当の荘園と公卿クラスの家格、京都在住を要求すれば
よかった。その後は摂家と肩を並べる公家として生きればよい。 徳川方の提案を受け入れて、大阪を退去し、上総安房の二カ国太守になっていたらどうなっていただろうか。
御三家に準ずる待遇を与えられて親藩になっていたのだろうか。 >>285
信雄の扱い見る限り大減封は避けられないと思う。よくて10万、下手すりゃ3万程度まである。一応有楽斎と言う交渉役はいたんだから勿体なかった。 前田利常みたいにやって警戒解いていけばもしかしたら大大名として生き残れた可能性も >>284
秀吉は死の直前、内裏のすぐ近くに京都新城を建てた
将来、秀頼が関白になった時に住めるように
秀吉死後は秀頼成長までは堅固な城で暮らせという秀吉の遺言で秀頼は大坂城へ入り
京都新城には留守を預かって嫡母の北政所が住んだ
しかし関ケ原の時に徳川軍が京都新城を壊した
そら内裏の近くに豊臣の城があったら面白くないからね
以降は京都に豊臣の城や屋敷を持つことなど家康が許さなかった 和歌山に移住して1大名として生きれば毛利見たいに260年後にひっくり返す事も出来た いそじん「宣言解除してアベコロナで強盗ヘヴンや
よっしゃ、よっしゃあ」 洗濯していないのか、どこか薄汚れた感じが暗い夜道でもわかる。甘苦い体臭、そこに風呂に入っていないのか垢と安もの化粧品の匂いが入り混じっている。
「お兄ちゃん、遊んでいかへん?“1本”でええで。お正月やんか。温めあおうや!」
「1万円?」と問うと、「1000円や!」と言う。
諸説あるものの、地域住民らの話では、西成で“立ちん坊”と呼ばれる路上売春婦の相場は、路上での行為で500〜800円だが、最初は1000円と吹っかけてくるのだそうだ。
もっとも「350円まで値切ることができる」(路上生活者・64歳)という声もあった。
その路上売春婦に遭遇したというわけだ。ちなみに350円という額は、西成ではカレーライスを食べてもお釣りがくる額である。
大阪市西成区「居酒屋で覚醒剤を売るな!」
https://i.imgur.com/hGq1dvT.jpg 秀頼21歳だったんだよね
色々説はあるがそこまで生かしといて、訳のわからん
ことしてるからあまり能力はなかったんでしょう
家康も14年も待ったというから殺す気はなかったんでしょうね
関ヶ原から大阪の陣まで14年
これは長いわ
殺すしかなかったんでしょう
まあ、わかります。家康も死を意識する歳でもし
自分が死んだ後どうなるかと考えるとどうしようも
なかった。
それすら読めないんですから
大阪城から出ていればこんなことにはならなかった 秀頼の才能については未知数過ぎる。
大坂城は既に牢人衆に占拠されてる。
百戦錬磨の牢人衆からすれば、若い、しかも戦場を知らない秀頼の指揮なんかに従えないだろうし。 大名たちからすれば、すでに徳川の天下になってしまっていたし、六十五万石の一大名に転落した豊臣に呼応して徳川とやりあってもメリットがない。
一発逆転大出世を狙う数百の猛者と烏合の衆が十万人いても結局は日本中から集められた徳川の大軍勢の敵では無い。
大人しく大阪城を出て、摂家ではなく、新興の世襲清華家として公家社会に組み込まれて生きていくしかない。 武家として徳川方の提案を受け入れて、上総安房二カ国の太守になっても、官位が高すぎると秀頼一代限りの正二位右大臣で、家光の時代に難癖をつけられて領地没収、高家旗本に降格させられて官位は従四位下侍従 石高は4000石という感じになりそう。 ・大坂城は優れた防衛力がある。
・牢人とは言え、10万人規模の軍事力がある。
・秀吉の残した御金蔵があり、戦費は豊富にある。
・秀吉の嫡子であり、高い官位を持つ秀頼には、家康と戦う名分がある。
・家康は高齢であり、粘っているうちに亡くなる可能性があり、情勢が変わる余地がある。
・城を出て防衛力を失えば、命を奪われるリスクがある。
上記のことを考えれば、大坂城でぎりぎりまで粘った上で、決戦に出るのは合理的だとも言える。
秀頼の立場では、史実のようにするしかなかったと思う。 前田も越中国を返上せよと言われたから
秀頼も自分から摂津と大坂城を返上します
と言えば河泉38万石の国持(次の代から内大臣だった信雄の家のように少将)
で残れたかもしれない どれだけ上手く立ち回っても転封は避けられなかったでしょ。転封ならド僻地の宇和島あたりじゃね? >>300
記録だと徳川方の提案は大阪城を明け渡して、上総安房二カ国に転封だったけど、豊臣方は大阪城を明け渡す条件に上方二カ国を要求したから交渉が決裂したんやで 河内和泉は清洲会議で正当に得た領地だろうに
家康の甲信は火事場泥棒 >>302
もっと僻地かと思ったが位置的に一応準親藩の扱いなんだな
そんな好条件を蹴った秀頼はやっぱアホだわ >>304
千葉県とか、袋のネズミじゃね?
いつでも殺せる 太閤秀吉の嫡子、織田信長の血も引く、右大臣、正室が千姫というエリート中のエリート
本来なら天下人なわけで幕府の序列外、客将として江戸時代前半は丁重に扱われたことだろう。 >>305
譜代は近く外様は遠くに、が幕府の基本姿勢だから信頼の証とも言える。
確かに徳川が抹殺の意思を持ってたら死は避けられないが大坂城に籠っていてもどうせ死ぬんだもの。
戦争しても勝てるワケが無いんだから従うしかない。 >>302 >>307
本当にその気があったかは眉唾だろ
実際には大阪城明け渡したら高野山追放で出家隠遁
適当なところで刺客差し向けだろ
家康の本心は秀頼を怒らせて市中引き回しの上処刑することだ
家康は大坂の役の後8歳の遺児国松を「父、祖父の罰を受けるのである」として
これは豊臣秀吉の代わりだとして市中引き回しして六条河原で処刑した
神に祭り上げられている豊臣秀吉の神号を奪い墓をぶち壊した
それでようやく江戸幕府は安泰になった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています