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天皇制のルーツは結局何なのか2
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0001アッシー
垢版 |
2020/07/01(水) 16:33:11.28
スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 03:56:03.59
>>144
応神高句麗出身だ説は初耳。
5世紀中頃に北河内の四条畷で馬飼いが始まったけど、
この四条畷の馬飼いは高句麗に馬を供給していた女真族のようだ。
政権が呼び寄せたのだろうな。
だからと言って、応神政権が高句麗人の政権だったとは言えんし。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 04:12:22.46
>>151
烏帽子をトサカと呼んだのは、烏帽子のてっぺんがギザギザに折れて見えるからじゃね。

中国でサカ族を塞(サイ)とよんだのは、そのようだ。
この塞(サイ)の字は、日本では訛ってサエとも発音されたようだ。
サエギル(遮る)のサエだ。
この塞の神さまは、道での災難をサエギル神様として敬われた。
饒速日は、降り立った山の地理的な位置をみると、その塞の神のように見えるね。
つまり、クナト神だ。

クナトのクは、国のク
ナは、ノ
トは、戸=口

というわけで、クナトは「国の出入り口」の意味かもな。
クナト神は、後に道祖神(地蔵)とされた神。

そこで、クナト神の饒速日は、サカ族の神様だった?
0156日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 04:18:15.08
>>146
埴輪のとんがりハットの人物は、垂れ目と鼻高、髭が濃い。
この特徴は、コーカソイドだね。
しかし、一概にペルシャ人とは言い切れんし。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 04:34:21.07
なんで深夜に自作自演してるんだよ、スレ主は。
0158日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 04:37:51.04
>>153
>一概に交野、大和の物部を排除することもないな。

交野の物部は3世紀後半。
崇神天皇の従兄弟であり先代旧事本記に交野連と明記されている」タベノスクネ。
大和の物部は2世紀末、纏向遺跡だ。
0159日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 04:44:28.93
>>152
>葛城あたりにいたようだけど、はっきりしないよね、出自が。

はっきりしてるよ、葛城だよ。
馬子が推古天皇に葛城が祖地であり割譲を要求しているし、
蝦夷が葛城に祖廟を立て八佾(やつら)の舞を舞っている。

サカがどうしたコーカソイドがどうしただなんてアホな話はやめてくれないか。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 05:06:34.20
日本の天皇の話?実際は土民(不明)だと言っているのに。

一部、おかしな人間がいるんだろう、
日本の天皇?そこから別れた家なので・・・みたいな考えを持っていたり。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 05:12:56.50
倭の何やらでも何でも同じ、実際は中華(いまの中国という国)などがいたでしょ。
後に、中国?そこから渡ってきた人々もいるとか。

ほんとーの???アマテラス、国譲りという話も同じ。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 05:17:49.35
かなり後の時代になり渡ってきた人物のなかに
「❓」()このような人物がいたとか。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 05:23:55.74
倭の何やら以前があるでしょ、日本のジンムなど?
ジンムというのは倭の何やら以前に、すでに日本に住んでいたという話になっているし。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 05:51:37.50
たしかジンム以前の話、
日本各地に・・・〜みたいな人々が住んでいた。

倭何やらやジンムなどの系統でもないとか。
すごい話ばかり。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 05:58:37.34
日本のジンムなんて、ただの〜・・・、
先遣隊だったのという話をしている人もいたり。

なぜ詳しいんだろう。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 06:00:28.23
ジンムも、倭の~何やらも同じ?だと言いたいんだろうけど。
中華、中華目線、視点なのかな?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 06:09:37.46
お前は、ひとつの歯車に過ぎなかった。
着たくない服(軍服?)を着せ〜。


某ムーアの曲、ほんとーは日本の話なんだろう。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 06:16:52.52
近代の、あの話(写真など、調べてみた?)なども同じでしょ、連合国〜。

国譲りというのも・・・続いていて・・・誰の説なんだろう。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 06:32:01.69
ジンム以前〜、各地に住んでいた豪族の・・・(TOPのような存在)が、
ほんとーの主人公、日本の主人公。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 06:50:06.03
連合国も、先遣隊(歯車)の、ひとつに過ぎなかったという話にもなってくる。
詳しく調べてみると、よくわからない勢力などが出てきたりするでしょ。

宇宙、地球外〜。小説、映画などにもあるし。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 06:56:18.21
『地球外』調べてみた?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 07:19:19.00
オカルト関係、何かのビョーキ?の人々、
そういったスレの住人などには教えないほうが良い。

地球外から狙われている、
異常気象・・・台風なども、そうだとか?なりそうだから。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 07:41:52.70
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


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.
0174日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 08:14:53.88
>>156

日本人の鼻は縄文時代が最も高い
0175日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 08:51:01.41
>>159
はっきりしてな〜いよ。
武内宿禰が親だというが、その武内宿禰はいったい何歳で死んだんだ?
そんな仙人みたいな者が実在するかよ。
それに、八佾の舞いを葛城高宮で舞わせたと書紀は書いているが、
葛城高宮は葛城襲津彦の館のようだから、襲津彦の地所が蘇我蝦夷らの一族の地所であったわけがない。
そもそも葛城襲津彦と蝦夷の先祖の蘇我石川が兄弟である確証はない。
三代実録では、蘇我石川は河内の国の石川の生まれだとなっているそうじゃないか。
橿原市の曽我に住まいをもらって、そこに移ったので蘇我の名となったともいうし。
はっきりせんよな。

とんがりハットの埴輪の顔は、日本人ばなれしとてるから、コーカソイドだよ。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 08:53:43.23
>>174
とんがりハットの埴輪の最初のものは5世紀後半の造りだから、古墳時代中期になるよ。
この頃の日本人は鼻は低かっただろうな。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 08:58:31.21
>>176

東国と西日本では違うだろう
0179日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 08:58:32.29
>>158
物部というくらいだから武器武具を作っていたはずだが、
交野の5世紀後半以前にはそんなふうな工房跡は出てないよ。
5世紀後半になって、突然鉄器鍛冶工房跡が出て来る。
物部氏は、それ以前の古墳群とは別だろう。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:01:06.97
九州内でも西北九州と南九州山間の古墳人骨は低身長
0181日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:01:41.36
>>157
いいじゃないか、趣味なんだから。
遅くまで起きてんじゃないよ。
早よ寝ろよ。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:33:25.52
言語系統​

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は
古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、

その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。

またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が
弥生人の祖であるとされる。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:36:58.82
>>182
で、その詐欺のソースは?
0184日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:37:14.55
この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。
ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した
日本語族話者が 無文土器時代の末まで存続し、

遼寧式銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者の南下が始まったとする。

一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、
百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:42:09.29
扶余諸語起源説​

朝鮮半島の国家は、その先祖は扶余に遡ると考えられている。
百済は後に、大和時代の日本と密接な関係を持つようになり、
クリストファー・I. ベックウィズ(英語版)は、 この時点の日本語には、
まだ扶余語との関連性が認められると指摘する。

ベックウィズは、古代の地名から140の高句麗語の単語を再構築した。
この中には、属格「-の」や形容詞連体形「-し」のように、日本語と機能が類似し
同一起源と見なせる文法的形態素が多く含まれる。

「三国史記」に記された高句麗の故地名の音訓併用表記から推測される、
いわゆる「高句麗語」が、日本語と組織的に顕著な類似性を示す事を初めて指摘したのは、
新村で、「三 ミー」「五 イッツ」「七 ナヌン」「十 トク」の4つの数詞が
日本語と類似することなどを指摘した。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:46:18.78
無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。

時代的には日本の弥生時代と重なり、半島南部はこれから影響を受けた可能性もある。
特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、
青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、
石槨墓や甕棺墓が見出されている。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:47:11.69
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized

https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。

東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。

南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。

近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。

2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)

オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:50:30.85
倭人(わじん)とは、

1.狭義には中国の人々が名付けた、日本人(当時、日本列島に住んでいた
 民族または住民)の古い呼称。

2.広義には中国の歴史書に記述された、春秋戦国時代(紀元前770年)、
 呉越戦争(紀元前450年頃)の戦乱期に中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の
 主に海上において活動していた民族集団。支石墓制、海人族といわれることもある。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
0190日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:54:10.02
『三国史記』の巻37にある高句麗の地名の表記(下記の表を参照)が手がかりとされているが、
それによれば、例えば「三」をミツ、「七」をナノン、「五」をウィツ、「兎」をウサグム、
「鉛」をナマリ、「谷」をタンと発音していた。高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて
日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、
日本語の起源として考える研究者も存在する。

地名    別名
三唄県  密波兮
五谷郡  弖次云忽
七重県  難隠別
十谷県  徳頓忽
0191日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:55:25.18
甕棺墓・埋甕 - Wikipedia

埋甕(うめがめ)は、縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納した施設。
「 縄文中期」から後期にかけて 関東平野や中央高地で見られる習俗で、
縄文後期には中央高地では衰退し、関東平野では継続した。
埋甕は住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居 ...

https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/1-100/images/11627058858.jpg
http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/301-400/images/10umegame.jpg
0192日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 09:57:09.89
>> 吉武高木遺跡では、弥生時代,前期末(紀元前400年〜)頃より
>>「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を持った 王 が現れる。

吉武高木遺跡 | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/files/CulturalPropertyImage432imageja.jpg
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/432
1984年度調査で弥生時代前期末〜中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より
銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した

吉武高木遺跡は弥生時代前期の遺跡で,「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を副葬した
「最古の王墓」(3号木棺墓)など,数々の重要な発見がありました。遺跡群内には同様に
多数の副葬品を有する前期末〜中期後半(紀元前400年〜(歴博)放射性炭素年代測定による)
の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、

中期後半〜後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。またこれらの墓地の周辺には
同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした
掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:11:03.49
>>191

埋甕は乳幼児や胎盤なので成人用甕棺とは違う
縄文時代の乳幼児の土器棺埋葬は中国の新石器時代や世界各地に見られる
ベトナム中部のサーフィン文化が成人用甕棺に鉄器、ガラスビーズを副葬しており
カリマンタン島が起源と考えられている
0194日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:15:40.35
>>188

支石墓は朝鮮半島に数万基(後世破壊されたので実数はわかっていない)
西北九州に数百、中国南部には数十しかない
0195日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:42:08.49
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
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0196日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 10:42:36.03
倭・倭国・俀国

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」

『山海経』に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。そこから大凌河の上流の「倭城」に移る。
『水経注』に「蓋し、倭地人が之に徙るか」とある。

北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。
人これに移る。」とされ、こんなところに倭城がある。

倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。

呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、
山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、渤海湾奥の地まで逃げたのでしょうか。
0197日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 10:43:33.85
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
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0198日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 10:43:45.21
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
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0199日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 10:44:13.55
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
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商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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0200日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:45:01.72
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

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0201日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 10:45:17.89
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


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0202日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 10:46:09.27
山海経、海内北経には「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されています。
燕の南に葢国があり、さらにその南方は倭だった。

葢は、日本人は「ガイ」と読んでしまいますが、漢音、呉音とも「カイ」です。
漢の玄菟郡、後の高句麗領域に葢馬県というのがあり、そのあたりだろうという。
これは魏志の濊(カイ)国に重なります。漢書では穢(ワイ、アイ)と記されています。

夫餘は祖先が授けられたという「濊王之印」を持つ(魏志夫餘伝)。
天帝の子と名乗る夫餘王、解慕漱が熊心山(鴨緑江付近、楚山か?)に結び付けられ
 (三国史記、高句麗本紀)、熊、夫餘、カイが一つになります。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:47:12.45
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


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0204日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:53:55.96
魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
「韓は帯方郡の南にある。  「東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。」

およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。
辰韓はいにしえの辰国である。」

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬
この解釈は、次のようです。
建武中元二年倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人みずから大夫と称した。
「奴国」は倭国の極南界(南端)である。光武帝は印綬を賜うた。(岩波文庫 石原道博)
0205日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:56:09.62
倭・倭国・俀国

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」

『山海経』に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。そこから大凌河の上流の「倭城」に移る。
『水経注』に「蓋し、倭地人が之に徙るか」とある。

北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。
人これに移る。」とされ、こんなところに倭城がある。

倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。

呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、
山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、渤海湾奥の地まで逃げたのでしょうか。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 10:56:49.62
山海経、海内北経には「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されています。
燕の南に葢国があり、さらにその南方は倭だった。

葢は、日本人は「ガイ」と読んでしまいますが、漢音、呉音とも「カイ」です。
漢の玄菟郡、後の高句麗領域に葢馬県というのがあり、そのあたりだろうという。
これは魏志の濊(カイ)国に重なります。漢書では穢(ワイ、アイ)と記されています。

夫餘は祖先が授けられたという「濊王之印」を持つ(魏志夫餘伝)。
天帝の子と名乗る夫餘王、解慕漱が熊心山(鴨緑江付近、楚山か?)に結び付けられ
 (三国史記、高句麗本紀)、熊、夫餘、カイが一つになります。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 11:09:13.67
三国史記高句麗本紀の「倭山」他

後代に成立した文献(AD1145年成立、日本書記に遅れること400年以上)なので、
「倭」「倭人」記事に富む「新羅本紀」を含む隣国朝鮮の正史「三国史記」には、
触れなかったのですが、その「高句麗本紀」に「倭山」記事があります。
 
「三国史記・高句麗本紀」第三の第六代大祖大王(三国史記での在位年代AD53−146)
諱(いみな)宮、幼名於漱(おそう)、の80年(AD132)秋7月、

弟の遂成(後の、第7代次大王)が、『倭山』(未詳)で田猟し、近臣たちと宴会し、
この時に貫那部の弥儒、桓那部(桂婁部のことか?)の於(くさかんむりが付く)支流、
沸流那の陽神らの家臣に謀叛をすすめられています。

また同94年(AD146)秋7月、遂成は「倭山」で田猟し、家臣と謀叛を謀り、
これに反対した家臣の一人を口封じのため殺しています。
高句麗本紀では宮、遂成、伯古(新大王)の3人を兄弟としていますが、
親子関係で三代を直系相続とする中国史書(後漢書高句麗伝)もあります。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 12:51:06.11
どの板も同じ文章で荒らしてるヤツラが
アク禁にならんのは運営サイドの仲間だろな
0210日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 15:36:34.24
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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0211日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 15:41:10.02
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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0212日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 16:29:35.17
饒速日は恐らくワイ[シ歳]だろう。
ワイは半島の北側に広く住んでいた。山ばかりだから人口は多くなかった。
ワイと倭。少し関係ありそうだ。
高句麗朱蒙は扶余から追われて鴨緑江近くの沸流国に狙いを定めて軍事的圧力を加え、国を譲らせる。
沸流国はワイの国だったのではないか。
神武が沸流国の饒速日に軍事的圧力を持って国を譲らせたことによく似ている。
ちなみに饒速日の別名は布留御霊。
「沸流」と「布留」よく似ている。
神武と朱蒙はよく似ている。
片や、海の神の子孫。片や、河の神の子供。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 16:46:23.85
古墳時代〜江戸時代まで顔が立体的だったのは北海道と近畿地方
人骨の研究で明らかになっている
関東はかなり平坦な顔
明治以降は人の移動が活発化しかなり均質化したみたいやね
0214日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 16:50:20.88
>>178
縄文弥生系とは別の系統の者らが、埼玉あたりに移住してきたと考えるのが妥当。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 17:13:06.34
クナト神とよく似たものがモンゴルにあり、オボーと呼ばれる積石塚で、この積石塚に柱を立てて魔除けの布を巻き付けるようだ。
道や山、平地などあちこちにあり、道中の安全を祈るそうだ。
饒速日が四条畷の女真族のクナト神であるとすれば、女真族とモンゴル族は近い関係にあるから、饒速日はオボーの一種だったのかも知れんな。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 17:31:20.72
>>215
モンゴルのオボー(oboo)の言葉は元々はチュルク語であり、エブゲ(ebuge)がその言葉だとする見解がみられる。
エブゲ(ebuge)は祖先、先祖の意味だとされる。
とすると、饒速日が物部氏の祖先神とされていることと通じて来るな。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 18:12:06.90
>>1
そもそも長脛彦と馬の関係性なんてどこにもない。
全部独自の創作じゃねーか
0218日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 18:21:58.44
>>212
神武と朱蒙は似てないよ。
神武は若い時から敵はいないし、そもそも卵から生まれたなんてどこにも書かれていない。
始祖を神の子とするのはどこも同じで、神の子とすることが同じなら世界各国の始祖王が類似してくる。
まあ、神武と朱蒙は関係ないのとちゃう?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 18:44:31.26
柔然の鍛冶奴隷にされていた突厥の鍛冶技術と交野・大和の鍛冶工房を結びつける向きもあるが、
突厥が柔然の滅亡で独立するのは6世紀中頃なので、時期が合わない。
やはり、5世紀初頭に滅んだ匈奴のその鍛冶集団と5世紀頃に遡るたたら製鉄がつながる点があるから、
5世紀後半の交野・大和の鍛冶技術のルーツをそこにつなげることも可能かもな。

物部氏の鍛冶の原料となる鉄素材の入手経路は、半島からの鉄を受ける日本海の出雲と砂鉄を受け取る吉備の二つあるみたいだ。
日本海のルートでは宗像につながるし、宗像と秦氏は強力な関係だから、海外交易に強みを持つ秦氏が関与したその匈奴の製鉄鍛冶技術者の渡来が考えられるわな。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 18:56:55.36
>>219
三輪山から砂鉄が取れた
0221日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 19:06:04.48
>>202
濊の読みについて、ワイのほかに呉音カチ、漢音カツとする辞書があります。
濊濊(カツカツ)という熟語があり、水がくびれてくわっくわっと音を立てて流れるさまの意だそうです。
カイの発音もみられるようですが、カツではないでしょうか。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 19:13:19.81
>>220
狭井川で砂鉄が採れたようですね。
しかし、狭井川は字のごとく狭い川であり、砂鉄採取量は多くなかったのではないでしょうか。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 19:21:12.16
>>222
三輪山の周りには製鉄遺跡が固まってるよ
0224日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 19:24:58.88
>>217
饒速日は物部氏が取り込んだ神であるのは疑えない。
系図で饒速日、ウマシマジと物部十市根を結ぶ要となっているのが湯支命であり、この湯支命は弓削の別表現だろう。
弓削氏と物部氏の関係ははっきりせず、その湯支命を饒速日の孫としているのが物部氏の系図。
なので、湯支命を取り除けば、饒速日は物部氏につながらなくなる。
物部氏が饒速日を取り込んだのは明らかだな。
んじゃ、饒速日はどんな神なんよ、ということになってくるが、長脛彦との関係からすると、饒速日は四条畷の馬飼い女真族の街道の神ということになってくるのよ。
女真族は背が高いので有名だからな。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 19:35:15.57
>>223
金屋遺跡や穴師神社などにも製鉄跡があって、三輪山の砂鉄が利用されたのでしょうが、
5世紀後半から始まった交野、石上、柏野大県の大鍛冶工房が造る鉄器のその原料である鉄素材を三輪山の砂鉄だけで満たしたとは考えにくいですね。
相当量を他所からも運んできたはずです。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 19:54:51.27
>>224
饒速日を物部氏が取り込んだ事自体はその解釈に同意する。
が、そこからの飛躍が激しい。

四條畷の馬飼いとの関連性が何も説明されてない。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 20:39:37.90
長脛で背が高いので女真族って単純過ぎ
0228日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 21:18:06.97
>>227
あの付近で特に長身なのは馬飼い女真人だけ。
書紀が長脛と脚が長いことを強調した言葉をもちいているのは、
四条畷に入った馬飼い女真人のあだ名が長脛彦だったからだろう。
だから、長脛彦の言葉を読めば、奈良の知識人はピンときたということだろう。
今でも、満州の平均身長は中国第3位の長身だからな。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 21:31:23.04
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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0230日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 21:33:31.25
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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0231日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 22:07:55.61
東大阪にも神武天皇を祀ってる石切神社が
あるけど、四條畷なのか?
東大阪から生駒に入ってナガスネヒコと
戦ったって思ってたわ。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 22:34:01.81
石切神社の祭神はニギハヤヒとウマシマジだろ。

大和で神武天皇を祀る神社が明治に建てられた橿原神宮をのぞくと、
御所市柏原の神武天皇社しかない。
他にあったかな、あったら教えてくれ。
何でないのか。
神武は実在したが大王(おおきみ)ではなかったからだ。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 22:35:13.42
>>231
孔舎衛坂でぶつかってるんだから東大阪市になる。
長脛彦の本拠地も四條畷ではなく白庭台。
登美の地名はもう少し南東寄り。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 22:38:44.75
>>232
宮崎神宮とかあるよね?
0235日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 22:53:25.54
石切は石を切る劔と矢を祀っている
ナガスネヒコを祀っているという噂もある
0236日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 22:56:57.07
>>232
石切神社、直接行ったけど
間違いなく神武天皇の社もあったよ。
小さかったけど、稲荷とかもあったし
いろんな社があったけどな。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 22:58:16.45
鬼切丸は鬼を切った刀
石切丸は石を切った刀
0238日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 23:24:19.07
>>228

5世紀の女真人ってどれのこと言ってるのかわからん
0239日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 23:27:18.97
>>232
石切神社の境内に、神武社として神武天皇が祀られているということだろう。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 23:46:20.40
ウマシマジは社家の氏神
ニギハヤヒは後に合祀

石切さんは石を切った劔と矢

熱田神宮に草薙剣が祀られているのとよく似ているね
0241日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 23:48:11.28
いつの時代にかあべこべに
表が裏に裏が表に
0242日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 00:09:47.33
>>185-186
  ク    ク   || プ  / ク   ク  || プ  //
  ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス _ | | │ //
  / ス   ─  | | ッ // /  ス   ─ | | ッ //
  / _____  // /          //
.  /   l⌒l l⌒l \  ))   ____
. / / ̄| ,=| |=、| ̄ヾ   / ____ヽ
/ ̄/ ̄.  ー'●ー'  ̄l ̄ |  | /, −、, -、l )
| ̄l ̄ ̄  __ |.    ̄l ̄.| _| -| ,=|=、 ||
|. ̄| ̄ ̄  `Y⌒l__ ̄ノ ̄ (6.   ー っ-´、}
ヽ  ヽ    人_(  ヾ    ヽ    `Y⌒l_ノ
  >〓〓〓〓〓〓-イ   /ヽ  人_(  ヽ
/   /  Θ  ヽ|  /    ̄ ̄ ̄ ヽ-イ


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         〈___     | |  __〉   プヨ族は偉大ニダ
    ―-、ノ/ |   . ●● | <史料はないけど偉大ニダ
   | -⊂)/ _\__ Д _ノ__   辰王は誇らしいニダ
   |   |/  :::::: ≡ :::: (、  ヽ 実在は不明でも誇らしいニダ
    ヽ  `\( .:::::: ≡ :::: |___| 馬韓は素晴らしいニダ
     `− ´ ( .:::::: ≡ ::::.  |  | 下半身丸出しで囚人奴隷の如く
         ( :::::: ≡ ::::::  (t  ) 礼俗を弁えなくても素晴らしいニダ
0243日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 00:12:26.16
>>212
〜プヨもチュモンも日本とは無関係! むしろ半島の伝説はすべて「日本書紀」からパクった妄想だった♪〜
 
高麗大学の金鉉球と鄭大均の両教授は、
「漢文の書き方から見ても三韓の建国神話は日本書紀を模倣して書かれたものであることは明白であり、
現代の歴史教育における三韓史も日本書紀を土台としつつ、感情的に受け入れられない部分を削除し、
ただ根拠もなく三韓が日本に文化を伝えたと改ざんした捏造史である」と断言しています。
 
また「日本書紀」に引用されていることを理由に百済三書を事更にもてはやそうとする朝鮮ヒトモドキも多いですが、
朝鮮半島最古の歴史書である三国史記には、「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記
(百済は開国以来、東普の高興博士が書記を記録するために訪れるまで文字で記録を残したことはなかった)」
と明記されており、こんにちでは百済三書の存在自体の信憑性は低いと断定されています。
 
加えて朱蒙伝説なるものが神武伝説の元になっていると強弁する朝鮮ヒトモドキも散見されますが、
「論衡」「後漢書」「魏略」に記録されている東明は扶余族の東明であって、
高句麗初代王の東明(朱蒙)と混同するのは彼らの民族的願望であり事実ではありません。

やはり金教授と鄭教授の指摘にあるように、
朱蒙伝説も三国史記編纂時になってから「日本書紀」を模倣して創作された伝説と見るべきでしょう。

 
なお、百済三書(百済記、百済新撰、百済本記)は日本書紀の引用文献として名前が上がっている以外に
存在を証明するものがなく、「天皇」や「日本」と表現している点、漢音ではなく呉音で表記されている点などを勘案すると、
日本書紀の権威付けのために日本書紀編纂者が創作した文献であり、実在はしていなかったとするのが現在の定説です。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 00:12:53.39
>>243の補足資料

一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できます。

「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、 
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、 
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」

このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されています。

従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのです。
おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はありません。

よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説のある学説に値します。

筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土しています。

潤地頭給遺跡、唐津中原遺跡、東小田峯遺跡の硯(BC100)
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊レキ 延光四年五」(125年)、 
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数(1〜2世紀)

これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な文字文化の痕跡を有すのは筑前中域であり、
この地域を邪馬壹国に比定すべきとの結論に至らざるを得ません。
0245日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 00:14:17.66
〜朝鮮ヒトモドキよ、倭人様とクダラない国の前身である馬鹿んヒトモドキの文明格差を自覚しろ♪〜

魏書馬韓伝
其衣有上無下、略如裸勢。 
上着だけ身にまとい下半身は丸出しで裸同然の馬鹿ンヒトモドキ

其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御。 不知乗牛馬、牛馬盡、於送死。 
規律が少なく、統治者はいるが法はないので統率が取れない。 牛馬に乗ることも出来ず、死ぬまで酷使する馬鹿ンヒトモドキ

居處作草屋土室、形如家、其戸在上、擧家共在中、無長幼男女之別。 其葬有棺無槨.。
入り口が上にある塚を掘っただけの家とは言えない穴に草の蓋をしただけの住居に老若男女入り乱れて住む。 
埋葬は棺がなく地面の槨に収める馬鹿ンヒトモドキ

其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶、禽獸草木略與中國同。
馬鹿ンヒトモドキは囚人や奴隷のごとく礼俗をわきまえない。 また宝と言えるものが一切ない。 なお動植物は中国と同じ

魏書東夷伝倭人条
男子皆露?、以木緜頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈?、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
倭人は男子は皆髷をし、木綿布を頭に巻いている。 衣服は幅広い布を結び合わおり、縫われていない。 
婦人は髪に被り物をし、後ろで束ねており、衣服は単衣のように作られた貫頭衣である

不?忌。不盗竊、少諍訟。其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。
盗みはなく争いもない倭人。 法を犯すと軽いものは妻子を没収し、重い者は家族を皆殺しにする。

有屋室、父母兄弟臥息異處。 其死、有棺無槨、封土作冢。
家には部屋があり、家族の寝室が別にある。 人が死ぬと槨のない塚に棺を納める倭人。

其風俗不淫。婦人不淫、
その風俗は淫らではない。 女は慎み深く嫉妬しない倭人。

このように 
四世紀にはすでに倭人と馬鹿ンヒトモドキには文明人とムシケラほどの格差があったのです。
0246日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 00:14:39.46
〜朝鮮ヒトモドキよ、使持節 都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國 諸軍事 安東将軍の偉大さを思い知れ♪〜

無能ヒトモドキは「ヒトモドキ視点からの古代史妄想(https://sites.google.com/view/jhistory/」において、
倭国王は宋の武帝に「使持節 都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国 諸軍事 安東大将軍」という官職を求めたのに対し
文帝は「使持節 都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國 諸軍事 安東将軍」つまり百済の支配権は認めなかったと
ホルっていますが、文盲と無知の極みと言わざるを得ません。

まず武帝は「倭賛萬里修貢 遠誠宜甄 可賜除授(倭賛 万里貢を修む 遠誠宜しく甄すべく 除授を賜うべし)」と官職の下賜を
推奨し、倭国王が官職を求めたわけではありません(これは信長が実効支配という実態に基づき官位不要としたのと同様の思想)。

それならと実効支配域から「使持節 都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国 諸軍事 安東大将軍」という官職を求めたのです。
この要求に対し、文帝は百済を除き、加羅を加えた「使持節 都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國 諸軍事 安東将軍」としました。

この時点で高句麗王の高lは「使持節 都督 営州(高句麗) 諸軍事 征東大将軍」であり、
百済王の余映は「使持節 都督 百済 諸軍事 鎮東大将軍」であることを根拠に朝鮮ヒトモドキどもは安東より鎮東。
鎮東より征東のほうが格上ニダ!とホルりますが、征東・鎮東・安東を「序列」としたのは梁代からであり、
順帝までは「大」も含め、あくまで「順」でしかありません。

高句麗は安東や鎮東を経ずに征東将軍となり、百済も安東を経ずに鎮東将軍となっているのがその傍証です。
そして梁代には高句麗王の高雲、百済王の牟大、倭王の武は三者揃って征東大将軍となっています。

刮目すべきはその支配域です。
高句麗王も百済王も支配域は自国のみであるのに対して、倭王の支配域は自国と新羅、任那、加羅、秦韓(辰韓)、慕韓(馬韓)という広範囲です。

百済は馬韓の中の伯済がルーツであることは、朝鮮ヒトモドキがいかに無能でも理解しているでしょう。 当時を現代のイタリア半島で例えるなら
高句麗は北部8州+トスカーナ州、馬韓はラツィオ州に位置と規模ともに相当し、百済はラツィオ州内の独立国であるバチカン市国程度なのです。
0247日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 00:14:43.77
石切神社の社家は木積氏で、この木積は穂積ということとされている。
穂積氏は大和の山辺郡穂積邑や十市郡保津邑を地盤本とした氏族で、物部氏の本宗氏族だとしているようだ。
系図にみられる大水口宿禰と十市根は兄弟で、ここから大水口穂積と十市根物部に分かれたということのようだ。
そういうわけで、穂積氏族の石切神社では、当初生駒山に饒速日を祀り、その後に祭神が麓の地に移ったという由緒を伝えている。
その祭神の関係で境内に神武社があるのだろう。
0248日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 00:56:32.61
>>238
四条畷の蔀屋で、王権のもとで馬を飼育したのは女真人だった。
馬を飼ったのは百済人ではないかといわれていたが、馬飼いのリーダー氏族は一貫して継続しており、
その馬に関連した日本語の語彙が女真語の語彙とぴったり重なることから、このリーダー氏族は女真人であったと結論した。
ムチ(鞭)は、日本では馬を扱うときの道具の呼び名となっているが、
このムチ(鞭)の発音は女真語のmuksan(ムシャン=棒)とよく重なる。
また、ヒヅメ(蹄)はヒ+ツメ(爪)の構成の言葉であり、そのヒについては、女真語ではヒヅメ(蹄)やツメ(爪)はhitahun(ヒタフーン)の発音であることから、
ヒヅメのヒ音はこのhitahun(ヒタフーン)のヒから取ったものと考えることができる。
つまり、ヒヅメ(蹄)とは女真語のヒ(爪、蹄)と和語のツメ(爪)を合わせた合成語だということになる。
さらに、馬を飼うマキバ(牧場)のバは場所を表す言葉であり、女真語のba(バ)は地域、場所、地面、領土などを表し、マキバ(牧場)のバ(場)とぴったり重なる。
これらの馬に関連する言葉が女真語に由来するものであると考えれば、四条畷の蔀屋で馬を飼育した馬飼い集団は女真人であったと結論づけることができることになる。
四条畷の蔀屋で馬の飼育が始まったのは5世紀中頃であることが分かっており、馬の飼育要員として5世紀中頃に渡来した集団は、実は女真人だったとみなすことができる。
0249日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 01:28:29.17
>>248

だから5世紀には中国から何と呼ばれた民族なのかと聞いてる
0250日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 01:52:02.28
>>249
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0251日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 02:22:28.32
>>249
唐に入朝した靺鞨が自らを女真と名乗っているそうなので、
女真族の古い族名は靺鞨ということになるな。
ウィキでは、黒竜江からとった黒水を付けて黒水鞨靺としているよ。
0252日本@名無史さん
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2020/07/07(火) 03:09:33.88
>>226
四条畷と饒速日との関連についてだが、次のようなことが言える。
四条畷から国道163号が東へ続いていて、この163号は山中の北田原大橋の信号で南北から来る国道168号と交差している。
この二つの国道は旧街道と重なる道だと思われるが、
四条畷で飼育した馬を大和や木津川、その他の東方各地へ送るには、この幹線道が非常に重要になる。
また、大和方面や木津川方面からの物資の運搬にとっても最重要の幹線道であり、その逆方向への運輸にとっても重要さは同じである。
そこで、5世紀中頃に始まった四条畷の馬の飼育の要員にとって、この生駒山系北部の幹線道路の交差点は馬の搬送や物資の運輸にとって極めて重要な場所であったことは、
地図を見れば一目で分かる。
この北田原大橋の交差点のすぐ東南方向にあるのが白庭台であり、長脛彦の地盤であったとされる所である。
そして、交差点の北西すぐのところにある山が付近の山の中で最も高い山であり、山頂からは交差点が眼下に見降ろせる地形となっている。
さらに、山頂からは白庭台や大和盆地もずっと見渡せる地形である。
この山頂から東北の麓の道の脇にあるのが饒速日が乗って来た磐船とされる磐座を祀る磐船神社がある。
このような立地を考えると、この交差点を見降ろす山である地蔵ヶ谷山が饒速日が降りたとされる哮ヶ峰であるとするのが妥当だ。
では、こうした立地にある北田原大橋の交差点の地を掌握することで最大の利益を得るのは誰かといえば、5世紀中頃としては四条畷の馬飼い集団であることは言を待たない。(続く)
0253日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/07(火) 03:35:24.93
>>252
さらに、大和から日本海へ出る街道は、この交差点から四条畷に出て、それから淀川を渡河して但馬へ向かうわけだし、その逆もしかりである。
そして、この交差点に最も近いところにあるのが四条畷であるのだから、馬飼い集団がこの交差点を掌握して損になるわけがない。
そこで、集団の一部を割いて白庭台に陣取らせ、街道の交差点を監視させたとすれば、その交差点を見降ろす山に祀った神は当然、白庭台の馬飼い集団の神だということになる。
その後、5世紀後半になって、石上に鉄器鍛冶工房を開設した物部氏が交野の物部氏の鍛冶工房から鉄素材を直通で運ぶために開いたのが天野川の難路で、
その街道のポイントである北田原大橋の交差点を牛耳るために打った手が、四条畷の馬飼い集団の出先機関である白庭台の集団の排除であることは道理である。
この排除が成功して、交差点を見降ろす山頂に祀られていた神を取り込んだのが物部氏が祖先神とする饒速日だったのだろう。
そして、物部氏が白庭台の集団を排除する際の小競り合いの伝承を拝借して脚色したのが、日本書紀の長脛彦と神武の激突のドラマであろう。
神武が上陸した日下から東へ山を登れば国道168号に出て、そこから北へすぐのところが白庭台であることからすると、
長脛彦と神武のドラマのシチュエーションはまったく同じなのである。
おそらく、四条畷の馬飼いの出先機関であった白庭台の集団と物部氏との小競り合いは、確かにあったのではないだろうか。
神武紀では饒速日は神武に恭順して長脛彦を排除するのであるが、これは物部氏の伝承であって、饒速日を取り込んだのは神武ではなく物部氏だったとするのが本来であろう。
日本書紀編纂室は、その物部氏の伝承を拝借して、神武東征のストーリーの中核に置いて話を展開したということだろう。
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