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天皇制のルーツは結局何なのか2
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0001アッシー
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2020/07/01(水) 16:33:11.28
スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。
0053日本@名無史さん
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2020/07/03(金) 21:20:11.13
オンドル構造は、間違いなく渡来系の集団しかない。
渡来系集落の目安として使われる構造。
0054日本@名無史さん
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2020/07/03(金) 21:23:42.03
>>43
>>飛鳥の蘇我氏の墓と目される墓が高句麗式の階段状積石塚

> 仏教の須弥山世界観から来たもので岡山の熊山遺跡、堺の土塔なで同型のもの複数はある。

それらも高句麗人が作ったとして何の問題もない

>>推古天皇は蘇我氏を高句麗人に見立ててほめそやしている。

>いつ、どこで?

真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき

「呉の真刀」の「呉」とは高句麗の事。

>>継体天皇は高句麗人だったのではないか?

>皇室のY−DNAは縄文系D1b2.

半島にもわずかだがD1b2はあるよ。
高句麗は唐に滅ぼされたとき皆殺しになったから本流は消えただろうが、傍流は僅かに残った可能性がある。

そもそも、中国北方民族は縄文人の子孫だから、
http://itannokodaisi.shisyou.com/img034_2.gif
0055日本@名無史さん
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2020/07/03(金) 21:28:03.35
>>51
日本の最古の寺の伽藍は高句麗式
聖徳太子の養育係は高句麗の僧。
0056日本@名無史さん
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2020/07/03(金) 21:36:41.49
>>22
歴博の学者は歴史を捏造する為にいるようなもの。奴らの言う事信じたら恥をかく。
歴博は旧石器捏造にも関わっているぞ。
0057日本@名無史さん
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2020/07/03(金) 21:48:54.33
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


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0058日本@名無史さん
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2020/07/03(金) 21:58:31.77
竜信仰は北方で始まったもの。
弥生人は長江流域の稲作民だよ。
0059日本@名無史さん
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2020/07/03(金) 22:53:51.18
烏帽子はとんがり帽子、サカ
トサカも同じ
塞の神、クナト
延喜式にも皇御孫之命は八衢彦、八衢姫、クナトとある
0061日本@名無史さん
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2020/07/04(土) 00:08:33.05
>>44
物部氏の系図の人物名は、湯支命(ユギノミコト=弓削)でも分かるように実際の神様の名を隠して書かれているフシがある。
湯支命からの人物名は、以下のように対照できる。

意冨禰命(オホネノミコト)→大己貴尊(オホナムチノミコト=出雲大社)。 オホネとオホナはよく似ている。
出石心大臣命(イヅシココロオホオミノミコト)→天日槍命=但馬の出石神社。 出石心大臣は天日槍命を指している。
大矢口宿禰(オホヤグチノスクネ)→大山祇命(オホヤマヅミノミコト=淀川三島江の三島鴨神社)。 オホヤとオホヤがぴったり。
大綜杵宿禰(オホソキネノミコト)→この大綜杵宿禰は三島江の大矢口宿禰と三島江の対岸にある伊加賀の色雄との間に置かれており、淀川の中、即ち淀川の水流を指していることになる。
                 綜は織機の縦糸を上下させる道具で、杵は上下に動いて臼の中の穀粒を搗いて脱穀する道具。この器具と淀川の水流との関係をみれば、
                 水車によって綜や杵を上下させるイメージを描くことができる。その水車を回すのが淀川の水流ということになり、
                 大綜杵宿禰は淀川の水車を回す水神を表していると考えることができる。枚方市の旧伊加賀村に意賀美神社(オカミジンジャ)があったとのとことであり(現在は枚方市上之町に在る)、
                 この神社の祭神の高オカミ神が大綜杵宿禰に当たると考えることができる。高オカミ神は水神である。
伊香色雄命(イカガシコオノミコト)→淀川左岸の伊加賀の地名に当たる。この伊加賀の東には物部氏の拠点であった交野がある。

このように対照してみると、交野から淀川を渡り、但馬の出石に出て、それから出雲に至る交易路の要衝にある神社の祭神の名が、物部氏の系図の人物の名と実によく符号していることが分かる。
こうした観点から物部氏の系図をみると、その人物名は交野から出雲に至る交易路の要衝の神を連ねて並べているだけのようにみえる。
つまり、物部氏の系図は、物部氏のルーツを探るうえでほとんど何の情報も与えてくれないものであるという事になって来るのである。
0062日本@名無史さん
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2020/07/04(土) 03:23:41.86
>>59
トサカかあ〜。
トは頭(トオ)のトかな。
サカはな〜んだ。
面白いね。
0063日本@名無史さん
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2020/07/04(土) 03:30:24.39
東京大学の歴史学者である本郷教授の解説によると、1873年に2月11日を「紀元節」に制定したが、その2月11日は神武天皇が即位したのが紀元前660年1月1日のことで、暦が太陰暦から太陽暦に変わったことにより太陰暦の1月1日が太陽暦の2月11日にあたることで、この日を紀元節にしたとのこと。
しかし本郷教授によると、そもそも神武天皇が実在の人物だったかどうか誰も証明できていないとのこと。
つまり、日本政府は神武天皇が実在していたかどうかも確認せず、神話の中の人物が天皇に即位した日の2月11日(太陽暦)を日本国誕生の日と勝手に決めつけて、この日を紀元節としたものであり、この決定にはなんら根拠がない。
ちなみに1873年に制定された紀元節は1948年にアメリカのGHQが「軍国主義につながるもの」として廃止している。
その後、1950年代になって国内に紀元節復活の動きが広まり、1966年に「建国記念の日」が制定されている。
その建国記念の日がなぜ2月11日になったのかをきちんと説明できる人が日本政府にはいないのはもちろんのこと、日本国民もその経緯や由来についてほとんど知らないのが現実である。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 03:36:49.92
>>62
トサカのサカは、裂ける(サケル)のサケ由来かもな。
雄鶏のは特に、裂けてビラビラしてるし。
頭(ト)裂け(サケ)→トサカだろう。
0065日本@名無史さん
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2020/07/04(土) 03:37:50.07
                 人
       (( (ヽ三/)  (;.__.;)
         (((i )    (;;:::.:.__.;)   日王は百済王族の
       / /   (;;:人糞__:) < 生き残りニダ! 
       |  :i  /(;;゚\)ll(;;/゚)\ つまり韓国人ニダよ〜
       l :i/  ⌒(__人__)⌒  \        
       <  ノ(   |r┬- | u    > (ヽ三/) )) 
        \ ⌒   |r l |      /   ( i)))  
          `7ι  `ー'  〈  __ /
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 ,r――--、,,_ノ r、 三 η  L___,,..-―‐-、
(          〃ヽヽ //ヾヽ         )
 ヽ  `ヽ、 ⊂ニ;「9cm」ニ⊃    ,r''  /
  ヽ   } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7    /
   ヽ  .{      ι' 三 ヽ)    {.  /
   〉  イ                〉  |
  /  )              (_ヽ \、
 (。mnノ                `ヽ、_nm。
0066日本@名無史さん
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2020/07/04(土) 04:03:53.65
>>63
ウィキの「建国記念の日」をみると、少し違うね。
明治政府が2月11日を祝日にしたのは、日本書紀の神武天皇即位の日を祝うためであり、この日を祝日に制定した。
少しのちにこの日を紀元節という名称にした。
そして、戦後すぐに、GHQが紀元節の日を廃止した。
その後、佐藤内閣のときに、政府が政令でこの2月11日を建国記念の日という名称の祝日を制定した、と説明されているよ。
このウィキの説明の通りなら、明治に定めたのは日本書紀の神武天皇即位日を祝日としたことであり、明治政府は建国記念日を制定したわけではないね。
ここのところが、東大教授の説明と異なるところだな。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 04:07:58.02
>>59
饒速日は街道の十字路の山に鎮座した神だから、クナト神かもな〜。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 07:42:27.94
天皇は天孫ではないらしいな
天武は皇后の病気快癒祈願を 天皇にも日本人にも
何の関係もないインド人にお願いしていた
疫病がはやると 記紀に一行も出てこないインド人を崇める寺を作った
天孫なら無関係なインド人を崇める必要はない
0069日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 08:23:58.83
>天皇は天孫ではない

天孫とは高天原(金剛山)の水源に住んでいた神々の末裔。
氏族名でいえば鴨氏、蘇我氏、葛城氏あたり。

神武は日向からきて天孫族の王家の婿になったので天孫ではない。
また自らを天孫などと称してる物部はせとうち海洋民、もちろん天孫ではない。

乙巳の変でその蘇我が滅んだ。
以降、天皇と物部が天孫を名乗り、本来の天孫であった鴨氏が地祇に堕とされた。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 08:41:43.83
>>69
ウィキによれば
天孫族は中国の東北部から来たみたいに書いてあるが?
0071日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 11:39:00.27
>>70
書いてあるから何?
だいたい天孫という概念自体が曖昧な上にwikiはだれでも書き込めるからね。
中国の東北部はY−DNAではC系統であろうが、
日本の支配者になった事はない。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 12:28:20.20
>>66
ウィキペディアに書かれているのが間違いだと思う。
本郷教授はテレビ番組に出演して>>63に書いたことを述べられていたのをYouTubeで何度も確認したが、この件で内閣府の祝日制定に詳しい部署に電話して確認したところ、本郷教授が述べられていたことに間違いないとのことだった。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 13:29:36.68
>>71
でも天皇家は蝿みたいに自然発生した訳ではないだろ?
そっちの方が不敬では無いかね?
大陸から強力な軍事と技術を持った集団、おそらくは王族が日本に上陸して
支配したという方が、あらゆる記紀の天孫降臨にも一致するし、王族だから不敬にもならないと思うが?
0074日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 14:02:49.21
>>70
天孫族は中国東北部であってますね
0075日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 14:10:43.34
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0076日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 14:17:31.45
じゃあ湧いて出たのか?
0078日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 14:25:51.53
>>73
自分もそう思います
0079日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 14:32:27.05
中東方面にいたサカ族は騎馬民族として日本にもきた。
インドに行ってシャカ族になったりもした。
シャカ族からシッタールダも生まれ仏教を起こした。
仏教を日本に伝えたのも騎馬民族だろう。
百済から仏教が伝わる前に5世紀の古墳から三角縁仏獣鏡が出土。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 14:47:06.64
>>74>>75
あの時代は中国が存在しないから古朝鮮か
0081日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 15:56:43.38
>>77
このとんがり帽子は、帽子の中の日陰になる空間を多く確保するためのものですね。
野球帽のように頭に密着するような形の帽子は、日差しが頭に近くなりますから、日陰の空間部分がなく、やはり暑いでしょう。
とんがり帽子は日陰空の空間を多くとるための形でしようね。
ペルセポリスの壁画のとんがり帽子もそういう形でしょう。
後頭部や首付近まで布地を垂らしているのは日陰を多くとるためですね。
芝山古墳のとんがり帽子も同じ目的のものですが、日本ではそれほど日射しはきつくありませんから、この帽子は日射しのきついところでつくられたものが原形なのでしょう。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 16:17:17.91
>>73

その大陸の強力な軍事と技術を持った集団の王族は
いつどこでどうやって発生したんだね?
0083日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 16:29:40.71
>>72
紀元節などについて知識不足で検証できないのが残念だけど、
ウィキの「紀元節」をみても、明治政府が建国記念日を制定したことを示す資料は挙げられていない。
あくまで神武天皇即位日を祝日とするとの太政官布告の資料しかみられない。
その後、この即位日を紀元節という言葉で表したのは「皇紀」を確立するためであり、天皇を元首とする国の始まりの日を確定したということであるので、
神武天皇即位日を政府として祝日としたことは実質的には建国を記念して祝賀するということになる。
しかし、明治政府の条文には「建国記念日」はなく、建国記念日は制定されていないというほかないと思うのだが。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 16:56:46.80
>>79
タリム盆地のホータンでは、5世紀〜10世紀にかけてペルシャ系のホータン・サカ語が話されていたとされていますね。
この時期にサカ族がホータンあたりまで進出していたことがうかがえます。
この5世紀というのは、なんか、動乱の世紀という印象ですね。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 17:08:45.95
>>79
4世紀後半にはタリム盆地のクジ国で鳩摩羅什が仏典の翻訳をしていたくらいで、
仏教が中央アジア経由で東アジア地域へもたらされたとするのは正しいのかも。
国から国へ伝えられる国家守護仏教とは別の仏教渡来もあったんでしょうね。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 19:01:22.52
>>86

王権の誕生と生物の進化と関係あるのかね?
0088日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 19:14:04.21
奈良天理の物部鍛冶も、北河内の交野物部鍛冶も、南部河内の柏原大県韓鍛冶も、
5世紀後半に一斉に活動を始めている。
雄略天皇の政権が武器武具製造体制を確立したのだろう。
それまではこれらの地域には鍛冶工房はみられない。
物部氏に注目すると、この武器武具鍛冶の物部氏はどこから来たのか。
交野から天理へ進出したとする意見もあるが、交野の鍛冶も天理の鍛冶もいずれも5世紀後半からであるので、
交野物部氏が天理物部氏の宗家であるとは言い切れない。
また、交野地域には3世紀後半から4世紀にかけての古墳群がみられ、
古墳群を作れる勢力がいたことは確定事項となっているものの、
この勢力が交野物部氏や天理物部氏の宗家であり、
鍛冶技術者を抱えて王権のもとで武器武具鍛冶を始めたかというと、
多くの研究者はその考えには否定的だ。
そこで目を向けたいのが、秦氏である。
仁徳天皇のときに交野や四条畷の西側にある淀川沿いの茨田に堤防を気付き、
淀川に流れ込む河川の氾濫を防いだとされる記事がみえる。
その結果、低湿地帯であった茨田には屯倉が開かれるほどの水田地帯に変わったというのである。
茨田堤防開設の工事には秦氏が関わり、その際の技術者などが定住したのが寝屋川太秦だとされている。
したがって、この地域にはその後も秦氏の影響があったはずで、
武器武具製作鍛冶の物部氏が交野や天理に入るについて、秦氏の関与があったのではないかと考えることも可能だ。
鍛冶集団の神は天目一箇神であり、この神は宗像と太秦、近江と関連している。
物部氏はこの天目一箇神系の鍛冶集団だったのではないだろうか。
とすると、柏原大県の韓鍛冶技術者集団がこの時期に王権によって他所からやってきたように、交野や天理の物部氏も他所から王権によってやってきたと考えるのが筋ということになる。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 19:19:58.44
>>88
訂正

最後の3行は削除しますね。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 19:47:06.42
>>59
饒速日は塞の神、というのは面白い。
女真族にもそうした街道厄払いの神がいたかどうか、
調べてみよう。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 20:11:05.21
>>70
ウィキの「天孫族」をみてみたけど、九州倭国東遷説の拡大版だよね。
九州倭国東遷説とおなじで何の根拠もないファンタジー。
ヤマト王権高句麗起源説とあまり変わらん。
それにしても、東遷が好きな人が多いということだよね。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 20:50:55.98
>>91
それ負け惜しみだよね
0094日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 22:10:19.46
称号が唐でも保護された道教の天皇だから
ストーリーとしては大陸に近い筑紫島から入ってきたことにしないとね
律令制での西から東の関東までの土地、人民が天皇に帰属することの
歴史的根拠を書いてるわけだから
0095日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 22:43:42.82
>>92
皆、神武の後追いしてるだけ。
日本書紀編纂室が、うまくやったとほくそ笑んでいるかもね。
神武がなかったら、皆、尾羽うち枯らして都落ちしてるだけ。
義経と同じ凋落の寂しさ。
それを、日本書紀編纂室が、神武は都落ちじゃなくて凱旋将軍らしい大和入りをしたと華々しく描き上げたから、
皆、東遷が都落ちじゃなくて、凱旋だと思い込むようになっただけ。
日本書紀編纂室が仕掛けたファンタジーなのよ。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 22:47:31.57
奈良時代に書かれた記紀の道教色を見れば、天武朝前後の朝廷がかなり道教好みであったと推測できる
そもそも天武帝の名前が、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)と完全に道教だ
天皇の称号もこの頃産まれたのだろう
なぜなら道教では北辰を天皇大帝というのだから
0097日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 22:55:14.56
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0098日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 23:03:42.79
記紀には天渟中原瀛真人天皇とある。
これは道教の神仙を思わせる名前だ。
記紀によると天武帝は天文や遁甲の知識に優れていたという。

天渟中原瀛は神道の高天原を道教風に述べたものだろう
天上の海の沖にある神聖なる場所の神仙というのだから。
実はこれが記紀が編纂された当時の人が心に思い描いていた高天原の姿かもしれない。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 23:10:48.60
鳥居、狛犬
サーンチーの寺院と同じ
サーンチーの門の彫刻にはとんがり帽子を被るサカの人も描かれている
0100日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/04(土) 23:16:48.50
日本と風習が似ているアカ族
鳥居に似た門
アカ族では既婚の女性がとんがり帽子を被る風習がある
既婚女性が身につける鳳凰のアクセサリー
アカ族の伝承では神様は鳥に乗ってやってくる

商売と戦闘に長けた移動民、サカ
アカ族にも足跡を残したのだろうか?
0101日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 08:19:36.50
日本国天皇の三種の神器はユダヤ教のアークの三種の神器からきた
と思う人もいるかもしれないが 違うんじゃないか
日本の三種の神器はシュメールの神器から来てる
ユダヤ神器もシュメールから来てるのだろうが
日本の神器のほうがシュメールに近い
周恩来が日本人は奇妙な人種だと米国に喋ってる
日本人は超古代のシュメール人がシルクロードを流れて
シナ大陸からも追われて日本列島に着いた
0103日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 15:47:07.52
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0104日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 16:29:34.47
>>102
わははははは。
俺の空中バイクだよ。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 16:44:52.34
>>101
イザナギが目を洗うと日神が生まれたという話のオリジナルは、印度の神話のようだ。
この目を洗うと日神が生まれたとする神話は、日本書紀編纂室が中国文献から拝借したのではないか。
八岐大蛇退治の神話もそうした外国文献がオリジナルだった可能性もあるかも。
シュメール人が来たとしたら、シュメールの壁画などに見られる「手に持つ輪」が日本にあってもおかしくない。
シュメールの太陽紋章は、天皇家の菊紋章とぴったりだけどね。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 16:52:35.36
奈良の伊邪那岐神社行ってきた
崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓古墳見てきた。
とにかくすげえ田舎だった。
けど古代日本を少し感じた。
宮内庁の比定だからたぶん間違いの天皇陵で実在したかも分からんけど。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 16:54:11.33
>>96
卑弥呼は鬼道を用いている、というのが倭人伝の主張。
鬼道は道教の元となった呪術とされているから、日本の王権はずっと道教好きだったのかもね。
まあ、シャーマニズムと道教は似ている。
道教の道士が空を飛ぶと言って修行するのも、シャーマンが入神して飛翔したと証言するのとよく似ている。
卑弥呼がシャーマンだったことは誰も異論のないところだから、そのシャーマン卑弥呼がそうした道教の元の呪術を採用していたとしても不思議ではないね。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 16:56:42.37
中国人が「何千年も嫌い続けた民族」がいる
中国人が8000kmもの万里の長城を作るほど嫌ってきた民族とは
800kmじゃなくて8000kmだぞ

場所でいうと、中国東北部
瀋陽軍区とか、満州とか、高句麗とか言われた
人食いが住む恐ろしいところ

簡単に言えば、中国人は食われたくないから長城を作ったのだが
その長城を地図で見ると、あることに気付く
人食いを半島の方に誘導するように長城が作ってある!!

日本では人間をパクパク食ってた奴を、天皇とか武士と呼んでいたのだった
0109日本@名無史さん
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2020/07/05(日) 17:02:27.12
>>106
俺が思うに、あの辺りは3世紀以来ずっと墓域だったと思うよ。
無意識のうちに人が近づかんのだろうな。
それで田舎のまんまに残って来たということだろう。
ヤマト朝廷の天皇の宮は、だいたいその纏向辺りより南にあったくらいだから、
纏向や山の辺の道あたり自体は人の近づかんところだったのよ。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 17:13:55.24
>>98
日本に稲作が入って来ても、縄文人の文化はそのまま残ったからね。
その縄文文化がヤマト王権文化の基層をつくっている。
なので、ヤマトは農耕文化を基層に置く中華文化には違和感を抱き続けた。
そして、長城の外の牧畜と狩猟をベースとした東北アジアの民族に親近感を持っていた。
道教などシャーマン系の呪術に親しんだのも、そういう親近感のなせるわざだったのだろう。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 17:27:31.76
>>81
芝山古墳の埴輪のとんがりハットは、サカ族系の尖がり帽子の影響を受けたものかもね。
西方から来てカザフ平原を東へ通るときに、サカ族系のとんがり帽子地帯を通った結果、
ハットの上部が円錐形に高くなった。
そのとんがりハットのまま関東へ入ったのだろう。
0112日本@名無史さん
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2020/07/05(日) 17:57:35.67
>>68
漂泊の貴神信仰というのがある。
外からやってくる貴種が幸をもたらしてくれるというもの。
疫病対策に印度人を崇めたのもこの貴神信仰だから、何の問題もない。
0113日本@名無史さん
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2020/07/05(日) 18:20:50.36
>>110

道教は中国土着の信仰
漢末の黄巾の乱は道教の一派の太平道の信者が各地で起こした農民反乱
0114日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 18:47:37.56
これまで匈奴は製鉄技術をもつていなかったとされていたが、匈奴の製鉄遺跡が発見されたらしい。(モンゴルの遊牧の民「匈奴」が製鉄技術を持っていた…より)
この製鉄技術者が匈奴自身であったか、匈奴に使われた別種族であったかは不明だけとね。
匈奴が滅ぶのは5世紀らしいから、その5世紀後半に大和の天理や北河内の交野、南河内の柏原大県で一斉に鉄器鍛冶が始まるのと時期が似ている。
匈奴の製鉄部門の一派が半島へ逃避して、秦氏関連で大和に来ることになったというのは必ずしもファンタジーではないな。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 19:44:42.24
>>113
道教のルーツをたどるとシャーマンに行き着くようだ。
殷の王である貞人はシャーマンだとする考えがみられる。(前17c〜前770年 殷〜西周 祖先神、自然神への信仰…より 65行目)
また、戦国時代の神仙思想が顕著なのは、渤海沿岸の燕〜山東半島の徐地方だ。
燕は神仙郷を探しに渤海湾の沖へ人を派遣しているし、始皇帝が神仙郷の探索に道士の徐福を派遣したが、徐福は山東半島の徐地方の者。
燕は内モンゴルや満州に接するところであり、神仙思想が北方遊牧民、牧畜民の影響を受けているのは明らか。
その聖地は崑崙山で、ここはアルタイ地方だ。
この地方は北方シャーマン地帯といえる。
道教の道士のルーツがシャーマンにあるのは自然。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:12:01.71
>>114
仮に、5世紀後半に天理や交野、柏野大県にやってきた鉄器鍛冶が匈奴の製鉄部門の一派だったとしたら、
物部氏は匈奴出自の氏族というとになるけどな。
このあたりは、まだこれからの情報収集によって、いろいろ変化があるだろうね。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:24:48.19
言語系統​

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は
古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、

その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。

またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が
弥生人の祖であるとされる。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:26:43.54
この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。
ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が
無文土器時代の末まで存続し、

琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。
一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、

百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:32:14.73
>>115
たたら製鉄はこれまで6世紀半ばの吉備で始まったとされているそうだが、
文献やタタラの名前などの研究から5世紀前後に製鉄がはじまった可能性出てきているというね。
ただ、大陸や半島の製鉄炉とたたら製鉄の炉の形がかなり異なることは注目点だとされているよ。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:44:12.11
扶余諸語起源説​

朝鮮半島の国家は、その先祖は扶余に遡ると考えられている。
百済は後に、大和時代の日本と密接な関係を持つようになり、クリストファー・I. ベックウィズ(英語版)は、
この時点の日本語には、まだ扶余語との関連性が認められると指摘する。

ベックウィズは、古代の地名から140の高句麗語の単語を再構築した。
この中には、属格「-の」や形容詞連体形「-し」のように、日本語と機能が類似し
同一起源と見なせる文法的形態素が多く含まれる。

「三国史記」に記された高句麗の故地名の音訓併用表記から推測される、
いわゆる「高句麗語」が、日本語と組織的に顕著な類似性を示す事を初めて指摘したのは、
新村で、「三」「五」「七」「十」の4つの数詞が日本語と類似することなどを指摘した。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:53:03.45
>>116

初期道教は漢末
初期は病気治癒に呪術的な面があったので鬼道と呼ばれた
初期道教はアニミズムの一種である神仙思想を取り込んだ
道教の中心は老荘思想の道(タオ)
0123日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:56:34.04
>>118
遼河文明が4500年前に衰退して、遼河文明の担い手Y-N種族が四散し、そのN種族の後を追ってO2、C2種族が遼河地方に進入してさらに満州や半島へ拡散したとするこれまでの研究と一致する。
それまでの半島域には九州縄文人が北上していたことが分かっているから、O2やC2の進入にともなって南岸地方へ後退した日本語話者というのが縄文系の者たちだったことも容易に想定できる。
ただ、この九州系縄文人が本土へ渡来したのが弥生人だというのは、やや疑問が残る。
水稲を北部九州にもたらしたのはO1b2種族であり、その後もO1b2種族の人口は増加しているからだ。
3500年前頃からの半島の九州系縄文人の渡来は断続的に続いたと思われるが、水稲栽培を担った弥生人はそうした渡来縄文人も含めた縄文人とO1b2水稲種族のハーフだと思われる。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 20:57:00.81
無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。

時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。
特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、
青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、
石槨墓や甕棺墓が見出されている。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 21:06:03.08
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized

https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。

東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。

南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。

近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。

2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)

オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 21:18:10.64
>>122
北方系シャーマニズムの神仙思想に殷系の老荘の宇宙観を取り込んだのが、宗教団体としての道教のルーツだろうね。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 21:18:40.76
>>123-124

朝鮮半島西部に数万基存在する支石墓が分布する西北九州は
日本では異人だから違うだろう
0128日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 21:51:09.82
>>121
日本語の7は、na、nana(ナ、ナナ)。
高句麗語の7は、nanin(ナ二ン)。
一方、女真語では7は、nadan(ナダン)。
女真語のほうが似ているかも。
女真語の数詞で日本語の数詞に似ているのは、このnadan(ナダン=7)のみだけどね。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 21:54:41.74
倭人(わじん)とは、

1.狭義には中国の人々が名付けた、日本人(当時、日本列島に住んでいた
 民族または住民)の古い呼称。

2.広義には中国の歴史書に記述された、春秋戦国時代(紀元前770年)、
 呉越戦争(紀元前450年頃)の戦乱期に中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の
 主に海上において活動していた民族集団。支石墓制、海人族といわれることもある。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
0131日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:01:59.24
『三国史記』の巻37にある高句麗の地名の表記(下記の表を参照)が手がかりとされているが、
それによれば、例えば「三」をミツ、「七」をナノン、「五」をウィツ、「兎」をウサグム、
「鉛」をナマリ、「谷」をタンと発音していた。高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて
日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、
日本語の起源として考える研究者も存在する。

地名    別名
三唄県  密波兮
五谷郡  弖次云忽
七重県  難隠別
十谷県  徳頓忽
0132日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:02:52.83
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0133日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:10:41.13
縄文時代・壺・土器 (宮城・沼津貝塚、その他)(検索件数103件)
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/index05.html

埋甕 - Wikipedia    https://ja.wikipedia.org/wiki/埋甕
埋甕(うめがめ)は、縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納した施設。
「 縄文中期」から後期にかけて 関東平野や中央高地で見られる習俗で、
縄文後期には中央高地では衰退し、関東平野では継続した。
埋甕は住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居 ...
0134日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:12:31.09
埋甕 - Wikipedia
埋甕(うめがめ)は、縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納した施設。
「 縄文中期」から後期にかけて 関東平野や中央高地で見られる習俗で、
縄文後期には中央高地では衰退し、関東平野では継続した。
埋甕は住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居 ...

https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/1-100/images/11627058858.jpg
http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/301-400/images/10umegame.jpg
0135日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:15:21.21
>> 吉武高木遺跡では、弥生時代,前期末(紀元前400年〜)頃より
>>「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を持った 王 が現れる。

吉武高木遺跡 | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/files/CulturalPropertyImage432imageja.jpg
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/432
1984年度調査で弥生時代前期末〜中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より
銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した

吉武高木遺跡は弥生時代前期の遺跡で,「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を副葬した
「最古の王墓」(3号木棺墓)など,数々の重要な発見がありました。遺跡群内には同様に
多数の副葬品を有する前期末〜中期後半(紀元前400年〜(歴博)放射性炭素年代測定による)
の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、

中期後半〜後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。またこれらの墓地の周辺には
同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした
掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:40:09.40
>>118-119
日本のことが気になって気になって
                 夜も眠れないニダ
       ∧_∧,、, __________ 
      <#`Д ( (二( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   (○
     /⌒\ / / |  ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     /  \  / ノ      .|| 
     |    /ー' '        .|| 
  / ̄ ̄チョンコホイホイ ̄^\    .|| 
   ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄   示 
    || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  . /|| \




                             いちいちこっちみんなオラァ !!!
                                   ∧_∧ -__   
 アイグォッ                     ドガッ     (・ω・`# )  ─_____ ___ 
    ∧_∧,、,             __ 从ノ      (ミ_ (⌒\ヽ _ ___      
 ・∴<`Д(#Σ( (二( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(   ( (≡ ̄ ̄ ̄ ̄三\⌒ノ ノ )           
      )⌒\ / / |   ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄Wゝ  ̄ ̄\  ⌒彡)   ノ  =_       
     /  \  / ノ        .||               \,___,ノノ            
     |    /ー' '          .||                /  /
  / ̄ ̄チョンコホイホイ ̄^\   ...||                / ノ      ___ズザー    
   ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄    示              __/ ノ _─ (´⌒(´     
    || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||    ./|| \           (_/= (´⌒(´⌒;;
0137日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:40:41.19
>>121
      ∧_∧    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
      (    )  <   朝鮮人との付き合い方を
      (⊃ ⊂)    \_____________ 
      | | |     
      (__)_)

        クルッ       ______________
       ∧_∧    / 
      ( `ハ´ )彡<   よく見とくアル!
    m9っ    つ  \______________
       人  Y
      し (_)

    ∧∧                  
   / 支\ 何か言ったアルか?              
  (  `ハ´)      Λ韓Λ   
  ( ~__)) ~づ。。   .<丶`∀´>  ワンワンニダー!!!!   
  | | |   ゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚=====  
  (__)_)   C/    l   
            し−し−J 
0138日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 22:43:48.73
>>115
このモンゴルのホスティング・ボラグ遺跡の製鉄炉の羽口挿し込み角度は、日本のたたら炉の羽口の角度と同じらしい。
炉の形は双方異なるらしいけど、羽口の差し込み角度が同じとなると、何らかの技術移転の可能性があるよね。
0139日本@名無史さん
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2020/07/05(日) 22:52:30.45
>>136
リンク先に「三種の神器」なんて一言も触れられていない件
0140日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 23:05:33.59
ミナカヌシ 近江
クニサツチ 八方八下りの御子 8人 近江、富士、他

キノトコタチ (タカミムスビ初代) (日高見) - 天鏡(筑紫)- アメヨロヅ(四国)- アワナギ(北陸、山陰?)- イザナギ

オモダル カシコネ 安曇(近江)
八方を巡って民を治める(九州-東北)

イザナギ(二種(瓊、矛))
ヒルコ 筑波イサ宮生まれ 船に乗せ捨てられる、ヒヨルコ(流産)(近江) 船に乗せ流される、天照 ハラミの宮(富士)生まれ、
月読 筑紫(月隅)ヲトタチバナノアワキ宮 生まれ 、ソサノヲ(スサノオ) ソサ(紀伊)熊野生まれ

158-166 スサノオ、オロチ(モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母))、ハタレの乱(九州-東北)
158 伊勢→宇佐 三女神、モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母)、(トヨ姫アヤコ(ムナカタの娘、クマノクスヒの母))
158 天岩戸 7月13日 皆既日食 日没直前 琵琶湖 京都 大津 津
(日食・月食・星食情報データベース、NASA 等)(ΔT= 8042.58 等)
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江 ネ(北陸)とサホコ国(山陰?)を兼ね治める
0141日本@名無史さん
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2020/07/05(日) 23:05:59.87
オシホミミ
伊勢→多賀、野洲川(近江)→日高見(東北)多賀

クシタマホノアカリ(テルヒコ)(櫛玉火明(照彦)) (アスカヲキミ)
日高見(東北)→葦原国(ナカ国) (大和、近畿辺り)
(多賀→イカルガ→アスカ)
5組の物部25、伴人総勢864人
イカルガ ウテナから四方を望む
アスカ川をクルワに掘ってミソギをする
アマノコヤネ ヤマト川を掘ってトブヒノ丘にミカサ山をつくる
ハセ川を掘ってアスカ川のフチを田と成す

ニニギ (ハラ(富士)ヲキミ)
日高見(東北)多賀 生まれ
伊勢 天照がいる
関東(筑波、新治、二荒)
ハラアサマ宮(富士) タマウテナ コノハナサクヤ姫
ミヅホ宮(近江)→九州
大津シノ宮(近江)→ソヲ 高千穂

ニギハヤヒ(クニテル)(国照)
天照−オシホミミ−ニニギ−ホノアカリ(ムメヒト)(火明(梅仁))−ニギハヤヒ(クニテル)
ハラ(富士)→アスカ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 23:06:31.87
九州 三十二県

ハタレの乱の功績により カナサキ ソヲを賜る 
--------------
九州統治

カナサキ - o - ハテツミ(豊玉彦)- トヨツミヒコ

カナサキ 九州が治まらないので御子を請う 食糧不足が原因と考えて新田開発の好きなニニギが行く
ハテツミ ヲシカを請う カンタチと共に治める
--------------
(九州統治)(本州→九州)

ニニギ(ハラ(富士)ヲキミ) - ホホデミ(筑紫ヲキミ)
カンタチ((大)物主))(筑紫ヲシカ(勅使))- フキネ(大物主)(筑紫ヲシカ)- クシミカタマ(大物主)(筑紫ヲシカ)
ウガヤ - 神武
天種子(筑紫ヲシカ) 宇佐


(ホツマツタエ)
0143日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 23:18:47.95
>>73
不敬になる、ならないが何の関係があるんだ。
0144日本@名無史さん
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2020/07/05(日) 23:23:49.59
>>48
>魏略や倭人伝は大和あたりの人民を九州倭人と同じ倭種だと書いているから、
この時期には高句麗大和打倒説は無理。 <

勿論、AD5~6世紀の話さ
0145日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 23:26:05.10
>>114
淡路島に弥生時代の製鉄遺跡=垣内遺跡がある。
匈奴とか何の関係もないし、
0146日本@名無史さん
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2020/07/05(日) 23:29:11.50
>>81
>このとんがり帽子は、

埴輪の人物はどう見てもペルシャ人だ。サカ族が渡来人に混じっていた事は間違いあるまい。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 23:33:24.39
>>146
ペルシャ系のY−DNAハプロ「R1b」は日本にいない。
よってペルシャ人なんて来ていない。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 23:37:31.33
>>111
>芝山古墳の埴輪のとんがりハットは、サカ族系の尖がり帽子の影響を受けたものかもね。
西方から来てカザフ平原を東へ通るときに、サカ族系のとんがり帽子地帯を通った結果、
ハットの上部が円錐形に高くなった。

サカ族と聞いて引っかかるものはないかい?
サカはシャカに繋がるし、ソガにもつながる。
日本にサカ族が入って来た時仏教を持ってきたのじゃないかな。
そして蘇我氏になったと考えるとその後の展開が説明できる。
サカ→シャカ→蘇我。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/05(日) 23:51:36.19
>>138
う〜ん。
匈奴の製鉄部門と天理・交野の物部氏は、炉に差し込む羽口の角度でつながるか。
可能性はゼロとはいえなくなってきたな〜。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 00:01:33.26
尖ってる被り物は前面だけだから帽子ではなくて前立て
0151日本@名無史さん
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2020/07/06(月) 00:21:52.36
サカ族のとんがり帽子は烏帽子そっくり
鶏の頭にある赤いやつ、昔はサカと呼ばれていた
トサカのことを烏帽子と呼ぶ地方もある

サカは中国では塞
日本での塞の神はクナト
0152日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 03:39:45.59
>>148
蘇我もな〜。
葛城あたりにいたようだけど、はっきりしないよね、出自が。
また、そのソガの名の意味も不明。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2020/07/06(月) 03:49:04.65
>>145
衰退した匈奴が内モンゴルでバッタリ倒れるのが5世紀頃らしいから、
まあ時期としては物部の鍛冶が交野や大和に現れるのと合ってるけどね。
淡路の鍛冶は弥生後期だから、卑弥呼の前の時代だし。
それに、モンゴルの匈奴の製鉄炉の羽口の差し込み角度と蹈鞴のそれと角度が同じらしい。
蹈鞴は早くて5世紀の可能性ありだから、まあ、一概に交野、大和の物部を排除することもないな。
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