天皇制のルーツは結局何なのか2
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
スレ主がパート2を立てていないので、勝手に引き継いでもう少し議論展開してみたいというわけ。
日本書紀編纂室は、神武が長脛彦の勢力になぜか勝てなかったのは天神系の饒速日のせいにしているが、これは長脛彦馬飼い女真族が強かったためであり、馬を用いた高句麗に負けた大和政権のトラウマのなせるわざだったのではないか。 長江流域と畿内でしか見つかっていない石包丁のタイプがある
それ以外のタイプは長江黄河山東半島朝鮮日本列島に分布が散っているらしい
黄河ー龍ー日本海側の文化
長江東南アジアー畿内系の文化のせめぎ合いもありそう >>873
本当にそんなマルクス的な集権化の発生があったのだろうか?
日本においては、水稲栽培とそれを支える治水灌漑技術が同時に上陸し、それらを操る知識層としての弥生人=倭人の権力者層が渡来したのだろう。
その意味で、陸稲は歴史的意義を持たないし、雑穀の一つに過ぎない。 >>873
>米が縄文に遡るとすると、問題になるのは米生産によって弥生時代に地域的集権化が進んだという従来の説の根幹が揺らぐことだよな
日本の歴史学者がマルクスの説に毒されていることがよくわかったよ。
キナイコシと変わらない。 イワレビコとナガスネヒコの会話
ナ「何でお前が天孫の証しの金属製の矢じりを持ってんだよ!」
イ「天孫は一つだけやないで?」
ナ「うわ〜〜〜ん嘘や〜」 陸稲と水稲を自然交配させると、一定の確率で早生種が誕生する
稲の原産地より高緯度の日本列島では早生種じゃないと栽培できない
弥生時代に水稲が伝わる以前の縄文時代に広く陸稲が栽培されていたら
その意義は大きい 稲作の開始年代測定にプラントオパールなんか使われないんだが
稲作の開始年代測定に使われるのはあくまでイネ粒の現物(稲籾、籾殻、炭化米)の
存在の有無だけ
今どき プラントオパールガーーー なんて叫んでいる恥ずかしい中卒がいるのは
5chだけ 西日本でも有明海沿いや岡山児島湾沿いから倉敷、福山市に掛けては
ダントツに古い縄文稲作の遺跡が多く20か所以上の遺跡が発見され
縄文後期の水田の用水路らしき遺跡も発見されてる。 日本は毎年、台風や梅雨水害や地震で地滑りに悩まされるために
水路や土木工事技術はかなり古くから発達し、山内丸山縄文遺跡などは
1.5mの柱穴6か所や集落周囲の土止めなどは木杭での土木工事が大規模で行われてる。
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/sandaimaruyamaiseki/syuraku_suteba/tutidome_kui/k-jhc2.jpg 【土留めの杭】谷の中に作られた幅約2m、高さ約2mの道路の土手が崩れないように、
杭を打ち込んだ土木工事の跡が見つかった。杭は当時の建築部材を再利用したものである。
また、土砂が崩れないように土器を張り付けることも行われていた。(写真提供:青森県教育庁文化課)
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/sandaimaruyamaiseki/syuraku_suteba/tutidome_kui/IPA-san0500.htm >>897 イネ粒の現物(稲籾、籾殻、炭化米)
なんて交易品か物々交換で手に入れたかも分からんから、
土器胎土プラントオパールよりも信頼性はないよ。 三内丸山遺跡は渡来人の遺跡かもな
遼河文明
青森はハプロタイプNの割合が現在でも高い >>883
プラントオパールが出てきて50年くらい経つけど、何で未だに稲作の開始年代測定に
使われないのかよく考えような中卒 大昔の中央アジアでは、同族を証明するために銅剣のような祭器を見せて、仲間認定されたら交易開始、みたいな習慣があった
アルタイ山脈の錫がバルト海で出てきたのも、そういう印欧語族の習慣で取引された末だと考えられている
神武と饒速日が祭器を見せあったというのは、太古の原印欧語族の習慣を彷彿とさせる .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>873
日本の歴史は百済人による改ざんで
めちゃくちゃだから >>888
そういう朝鮮民族願望はこのスレには不要です。 『天財若子』の家の話?
『王母 龍宮』百済〜と書いてあるし。 以前から書いていることなんだけど、
低脳なんだろう? 『天王』『山王』
同じ話をしているし、すごい土地を持っているとか。 『河伯』(日本では河童)
キュウリのような葉の映っている写真。
この辺りの話も同じ、天帝〜とか。 日本人と韓国人は99%同じ人種
だから差別は絶対にダメだ 有名な冤罪事件の話だろう?
成り済まし、騙り・・・みたいな話。 なんでも良いから、はやく刑務所に行けと言っているだけ。
べつに自殺でも良い。 『西王母』
家の老婆によると、ほとんど同じ話をしているしw
むかーしの芸能関係の話とか。
中国から渡ってきた家なんだろう。 重度統合失調症の御託は要らぬ。
黙って人知れず首を吊れ!
松傾のするべき事はそれしかない。 『天王宮 山王院』同じ家の話。
でも家は主計(不明)とか、そういう家ではない。
近代の軍人などでもないし『❓』 時空マクロス、ガンダム・・・などw
なぜか同じようなキャラがいたり。 重度統合失調症の御託は要らぬ。
黙って人知れず首を吊れ!
松傾のするべき事はそれしかない。 松傾は上げ荒らしだけはやめろよ
あれは多くの人の怒りや憎しみを誘発する
その負のエネルギーは瞬時におまえに飛んでいき、おまえのカラダに蓄積していく
いずれ不慮の事故や凄惨な病気などでおまえを死へと誘うだろう 『日本昔話 背振山の石楠花』
このような作品も同じ、実際は日本の話ではないだろう。
後の日本〜、日本昔話? .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 鏡と言えば万葉集に面白い歌がある
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
照るはずの月を、白い雲が隠しているのでしょうか。それとも天の霧が隠しているのでしょうか。 月の枕詞に用いているのだから、白銀の鏡だろうな。
そして、白い雲、白い霧と続くから、白銀、白、白と白尽くめに洒落ているわけだよ。 日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内庁による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
つまり、神武東征によって南九州から稲作と弥生土器などの弥生文化が日本中に普及したことになる。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり >>912
神武については
2600年も前に、そんな考古学的な
証拠は出てないぞ。
あるなら、樫の木がうんぬんのきちんとした資料出してみ?
神武は実在しないのは、考古学、歴史学では常識。
崇神とか、応神ですら実在は怪しい。 >>913
橿原遺跡なら昭和の時代に発掘されてるよ。
橿原神宮の地下ではなく、もう少し畝傍山寄りだけど。 >>914
橿原遺跡があるのは事実だが
神武とは何の関係もない。
第一、考古学、歴史学では神武の存在は極めて疑わしいのは事実。
実際、実在を主張してる歴史学者は一人も居ない。
教本、教科書からも全て削除されているが、確固たる証拠。 >>915
橿原遺跡の年代が2600年ほど前なのは事実だよ。
つまり>>913の指摘は間違っているという事。 >>916
橿原遺跡が神武とは関係ないのは認めてるようだな。
あと神武の実在性が無いのも歴史的事実。
最後に橿原遺跡は縄文から奈良時代までの、幅広い時期に渡っての遺跡だから
2600年とかピンポイントの年代ではない。 >>917
912からの流れを見てみ
紀元前660年の河内湾の地形と記紀の記述の一致と
即位した場所とされる畝傍山東陵の橿原遺跡の出土物の年代一致
述べてるのはこの二点。
ただし神武が実在しないとも言えるわけがない。
存在しない事の証明なんて悪魔の証明だからね。
なので、いたともいなかったともはっきりとは言えない。としか言いようがない。
ただ記紀が奈良時代に編纂された時点で
紀元前の河内湾の地形がなぜわかったのか?
即位年あたりになぜ、即位した場所に集落があったことを知っていたのか?
神武という一個人の存在の有無はわからなくても
紀元前660年時点からの記録が奈良時代まで続いていた事自体は否定しようがない。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>918
河内湾は古墳時代にも残ってるぞ。
古墳時代、いつなのか調べてみ?
それは紀元前かね?
そもそも、疑問なんだけど、本当に神武が紀元前の600年とかに居たと思ってるの?
冗談じゃなくて?
まともに歴史学考古学、学んだ事ある? >>918
戦前ですら、神武は居ないって歴史学者が認めて、不敬罪とか言われてるレベルなのに、現在の歴史学で神武がいる訳無かろう。
記紀の編纂理由とか編纂した背景とか
そういうのから調べてみ?
神武が作り出された理由が分かるから。
つかこれは俺の個人的見解とかじゃないぞ。
歴史学会の総意だから。 >>920
河内湾に侵入し、孔舎衙邑の白潟之津まで船で行けたのは紀元前の事。
古墳時代まで進むと、大和川の土砂が流れ込んでもっと手前までしか行けない。
>>921
神武がいたか、いなかったかなんて証明のしようがないと言ってる。
戦前にいなかったという人物がいたとしても、いなかった証明なんてできてるわけがない。
非存在の証明は、悪魔の証明だって書いたろ?
ただし紀元前660年頃の河内湾の様子、橿原遺跡の存在が
奈良時代まで伝わった事実は変わらない。 >>922
>河内湾に侵入し、孔舎衙邑の白潟之津まで船で行けたのは紀元前の事。
古墳時代まで進むと、大和川の土砂が流れ込んでもっと手前までしか行けない。
勝手に土地の状況を作るなよ。
本当に知識が無いな。 古代史は信仰が絡むから難しいね
人によって絶対に曲げられないテーゼがあるから
神武天皇を信仰上の理由で実在にしたい人はこう考えればいいんじゃないかな
神武天皇は我々の先祖の人たちがイメージして作り上げた理想の初代天皇で歴史的存在の有無とか関係なく、日本人が共有する集合無意識つまり神様だ
これで学問と信仰も両立するじゃないのかな 神武が実在の人物だったかどうかは知らんが、神武紀がいわくつきの英雄譚であることは、だれもが認めていることだろう。
神武紀には異伝の存在を示す一書や一云が一つもない。真っ新の新作大河ドラマみたいだ。
直前の神代紀には異伝などが嫌と言うほど掲載されているのに、直後の神武紀が真っ新の異伝なしということには、説明がいるわな。
それに、饒速日と神武の戦いはまったくの脚色臭く、元々の伝承は物部氏と饒速日を戴く長脛彦とのバトルだったようだ。
だから、饒速日と神武のバトルを大河ドラマの華々しい脚色として除くと、あとには神武が南九州から奈良の橿原にやってきたという話しか残らんのよ。
神武紀の内容は、歴史事実としてはほとんど認められんとは言えるな。 >>923
俺が勝手に作ってるわけじゃない。
ちゃんと地質学者が出した答えだ。 >>925
饒速日命は物部氏の祖神だろ?
長脛彦と物部がなんで戦うの?
同盟みたいなもんだろ? >>924
自分は近畿の人間だけど、古代天皇って、地方豪族がたまたま勢力を付けて強大化しただけで、全然敬意とか無いけど。
むしろ、古来の神社とか本来の敬神は山とか自然対象だったのに、本当に実在したか分からんような天皇の祖神ばっかにしやがって。
って思ってるけど、異端なのか? >>929
神武天皇を信仰上の理由で実在にしたいと思っている人に向けたレスなので、そうでないあなたが何故反論を? 道教の天皇大帝を証明するのは剣と鏡
どちらも三種の神器に含まれているわな
それから天皇大帝の役割りは全ての霊廟を統括し司ること
唐の皇帝が天皇号名乗ってるがあれは皇后が旦那に贈号したもんにすぎない すべての条件となるものを備えてるのは日本の天皇のみ 霊廟の主となるものらに死後、神としての名前が残るよ〜に日本神道に組み込んだ
ここまで徹底的にやった存在はおらんだろ 神道は古代天皇の前からあると思うけど。
古代天皇が権力掌握時に儀式に組み込んだと思ってる。
近代の天皇による国家神道ほど酷いものは無いよな。 古代天皇って、どの辺りのことを意識して書いているんだ?
天武天皇か? 神武は空想だが元々畿内に支配者がおって滅ぼして奪ったんだな、それがいつなのか? 古来からの神道だから、アニミズムであって、いわゆる天孫降臨より前からあるという意味。
神武以前からあるだろ。
山川海を祭神とする神道は。 >>938
たぶん応神天皇くさい。
でも、そいつがモデルになって応神が作られたのであって
応神が実在とは思えない。
応神も北九州生まれで九州育ち。
それで、ヤマトの腹違いの兄弟を滅ぼして天皇になった。
て伝えられている。
神武に似てる。
だぶん四世紀くらいじゃね。
記紀の記述より最近だろ。
百歳超えとか、めちゃくちゃ記紀は年数稼いでいるからな。 神武天皇の祭る古代の神社は阿波にしかなかった
神武天皇。神倭伊波礼比古命(かむやまといわれひこ)と呼ばれた人皇初代の天皇である。
神武東征と言われ、ちょっと日本史を知っている人なら、人間の天皇の初代だと認識している有名な天皇だ。
今でも奈良の橿原神宮はその壮大な敷地を有して有名な神社である。でも創建は明治中頃。
だったら古代にはその在位した場所にそれなりの神社があると考えるのが普通であろう。
古代の神社名鑑、延喜式に掲載されている神武天皇をご祭神とする神社はただひとつ。
阿波は鈴川山に鎮座した樫原大明神ただ一社である。
近世以降には諸国には多々神武天皇をご祭神にした神社があるだろう。
でも古代はただひとつ。この意味を十分わかってほしいものだ。
しかも橿原神宮が明治の中ごろに建立されて後、ある日轟音とともに建立されていた山上が崩れ落ち、谷の埋もれてしまったという。村民がこれを掘り出し、再建しているのだが、これも作為的な匂いがしないだろうか? 地震でも轟音はたぶんしないと思うのだが。
ここは山崩れも起こるような地形ではないので、やはり怪しい事件である。 >>939
山川海のみだと天津神がゼロになってしまいませんか
高天原の神々はお嫌いですかね 天津神と国津神のように神を2グループに分けるのは印欧語族神話世界の特徴
インド神道のデーヴァとアスラが代表的
日本神話は明らかに印欧語族の神話体系に属している
日本語は印欧語系でなく系統不明とされているが、自分は倭人語は太古の印欧語族の枝分かれで、非常に鈍りの強い特殊なものであると思っている
そうでなければ日本神話と中世アジアの神話の関連性が説明できない インド神道じゃなくてインド神話
スマホを変えて不慣れなため間違い多く失礼 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>928
饒速日は物部氏の祖神ではないだろうな。
饒速日は長脛彦族の神様で、その長脛彦族は四条畷の馬飼い族の一派だよ。
5世紀後半に王権のともで奈良や交野に進出した刀鍛冶の物部氏が、その馬飼い族の一派を排除して饒速日神を物部氏の神として取り込んだものだろうね。
そのときの小競り合いの話が物部氏に伝承されていたのを、日本書紀編纂室が神武東征ドラマのハイライトのドラマとして採用し、
長脛彦と戦ったのは物部氏ではなく神武だったと脚色したのだろう。
そして、ドラマの最後になって、物部氏が長脛彦を倒した事実をちょこっと書いたのだと思われる。
だから、神武紀はほとんどが大河ドラマなのよ。
史実は、南九州から神武とされる人物が橿原にやってきたということだけだね。 >>943
日本語は系統不明ではなくて
アルタイ語族に属する。
言語学会的にはそうなる。 >>939
>古来からの神道だから、アニミズムであって、いわゆる天孫降臨より前からあるという意味。
根拠ない。
それはもはや神道でもなく、ただのアニミズム。
あと、天孫降臨は元々は宗教と関係ない。
高天原から九州に何者かが上陸したという遠い記憶だろう。
>神武以前からあるだろ。
>山川海を祭神とする神道は。
山と海の神と言えば海幸山幸を思い浮かべるが、実は天孫の息子たち。
もっともそれ以前にも天照と大国主など、陸海の支配者はセットで登場する。
つまりこれはアニミズムではなく、王族についての遠い記憶。 >>940
>応神が実在とは思えない。
>応神も北九州生まれで九州育ち。
>それで、ヤマトの腹違いの兄弟を滅ぼして天皇になった。
リアルじゃん。
九州の王が畿内の王を倒したんだろ。
わかりやすい。
きっと、同じような九州からの征服が何波もあったんだろう。 >>942
>>>939
>山川海のみだと天津神がゼロになってしまいませんか
>高天原の神々はお嫌いですかね
天津神と国津神のセットで山と海の神神だろ。
何がおかしい? 万葉集梅の歌序やな
殷周の風習を民が排除したというのが古代の歴史だろう
生贄、奴隷
平安時代、奴婢の制度は廃止された
戦国時代に奴隷制度は復活していたが豊臣秀吉が廃止したのも興味深い 日本に奴隷制はないみたいに言うけど
実際は、土地の所有が出来ずに死ぬまで薄給で働かされる身分もあったし
イスラムみたいに奴隷はいたけど、その身分は固定されてなくて、奴隷から王になれる例もあるのも事実。
こういう日本ホルホル民がいるから、ブラック企業が無くならないのが実情 民が支持したのが天皇という存在
無防備な京都御所が全てを物語る >>954
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:/ :⊂ノ|: つうかさ応神朝が奴隷王朝なんじゃないの?
神武ファミリーは傭兵にしか見えない 興味深いのは1世紀〜2世紀末の畿内
環濠がなくなり平和な時代
みなが仲良く暮らしていたのかもなぁ
倭国大乱など紆余曲折を経て500年後に平安を取り戻したんだろう 秀吉は逃げてきた奴隷だろ?関白信長に拾われたんだろ .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 959
甲賀系忍者の可能性が高い
そっちの代表的なやつら北関東にまでいたからよ もともと近江ってのは毛野氏らの名前も見える土地なんだ
天皇に古代、仕えていた連中らが忍者らの祖型と言われてんの 大和人によるプロパガンダが日本書紀。神武帝に関係しない百済チョンコは蚊帳の外w 天皇候補者が鏡と剣を重臣から奉られて国家の元首の位に就き、
その元首が国家の祭祀や天皇内々の祭祀を執り行うときになって勾玉を奉られて祭祀者の立場を確立する。
天皇としてはこの祭祀が最も重要であり、祭祀権者であるには勾玉が奉られなければならないわけだから、
神器としての重要度は、やはり勾玉、鏡、剣の順だな。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。