邪馬台国畿内説 Part647
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601985741/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
(本項 続く)
(承前)
◆7ー2
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし .🌟 🌕 🌟 🌕 🌟🌕 🌟🌕 🌟
🌕阿波はアタマがおかしいよ🌕
.🌟 🌕 🌟 🌕 🌟🌕 🌟 🌕 🌟
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👇 🌕🌕
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👢 _👢 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 >◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ならば卑弥呼の墓ではない www
◆0【 要 旨 】箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
を自分で否定してるアホの>>1 wwww >◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ならば卑弥呼の墓ではない www
◆0【 要 旨 】箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
を自分で否定してるアホの>>1 wwww 高天原最有力地・奈良県御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
(画像)
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)后やトヨ津など神々の墓は高天原(=御所市高天)
日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png こんなクソスレ雑談に使えばいい。
>>74 阿波さん
18きっぷで徳島に行った時、池谷って駅で1時間電車待ちしたんだけど、
萩原古墳群のすぐ近くだったんだな。
見に行こうかと思ったが、1時間の間に行けそうにもないし、
なにしろ死ぬほどの暑さで参ってたからね。
残念だわ。
でもまぁ鳴門商業?高校?の女子生徒が可愛かったので元は取った。 >>78
>萩原古墳群のすぐ近くだったんだな。
その近くには、天河別神社古墳群もあるよ。 あの一帯は史跡鳴門板野古墳群で、
他にも宝幢寺古墳や大代古墳など他説を圧倒する特異な古墳だらけだ。 @阿波 >>79
車窓から見えたけど古墳群のある山自体は思ってたよりも低いね。
ま、前方後円墳は瀬戸内海洋民の産物だろうね。 >>80
>車窓から見えたけど古墳群のある山自体は思ってたよりも低いね。
その低い阿讃山脈を見て詠まれたのがこれ↓
「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」
「上の一首、船王の作」
奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。
また、この「阿波の山」は、徳島市の眉山ではなく、香川県さぬき市津田の前期難波宮辺りから見た、なだらかな阿讃山脈である。 @阿波 前スレ>996
>魏の1里は約430mだった事を示す様々な資料が
>九州説の魏は1里76mで短里だったという主張を論破済み
魏の里が430mだったというだけ。東夷の公孫氏の領土では公孫里1里=76mだった。
ただ、そんなに魏の里が気に入ってるのなら、邪魔しないからそれで自女王国以北の国々を探し出して見せろ、、 >>1000
>そんな直線距離はかる技術なんて無えよ
「混一疆理歴代国都之図」 には、行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が、現実に描かれている。
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>982
「唐会要倭國伝の正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は
白村江の後の唐代にも九州倭国があった事になるんだし、
それを否定する大和説は、中学生にも笑われるアホ説 >>76
>ならば卑弥呼の墓ではない www
>◆0【 要 旨 】箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
>を自分で否定してるアホの>>1 wwww
「ならば卑弥呼の墓ではない」と言って否定してるのは
明らかに
お前であって
>>1じゃないが? >>83
実際の地理とは大きく違うということは測量に基づいて作られた地図ではないということ >>987
>東夷の1里が430m〜とかいうのなら、それで大いに結構じゃないか、
魏朝や魏志の史料事実や史料実態は、1里≒76.5mであるから、×であり、
結構ではないな。
>はよ邪馬台国を探せ!
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>86
>実際の地理とは大きく違うということは測量に基づいて作られた地図ではないということ
いや、そんなに違わないし、現実に記載されていることから、
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>89
その地図見て
「そんなに違わない」
とか言えちゃう神経なのか・・・ >>90
それは主観の範囲。
現実に記載されていることから、
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>87
>邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
倭人伝の記述を否定する世迷い言であるから、×××。 >>92
現実に記載されていることから、
なんらかの測量法があったことは確実。
なんらかの測量法がなければ、書くに書けないだろ? わははははは @阿波 >>94
阿波の銅鐸見たけど、思いっきり大型化してて後世のものだったわw
どう考えても大彦系の狗奴国や磯城王朝の影響以降 >>94
距離がでたらめな地図は測量しなくても目視や伝聞で描ける >>95
>阿波の銅鐸見たけど、思いっきり大型化してて後世のものだったわw
>どう考えても大彦系の狗奴国や磯城王朝の影響以降
銅鐸王国「阿波」を舐めてんの? わははははは @阿波 >>97
物部にいじめられて銅鐸祭祀を封印したって事。3世紀以降だよな >>96
>伝聞で描ける
その伝えた人は、何らかの測量法で測ったのだろうね。 わははははは
なんらかの測量法がなければ、書くに書けないだろ? わははははは @阿波 >>989
>奴国まで1万600里だけど1万2千里となってておかしいっていうけど・・・
對海國と一大國のそれぞれの2辺の陸行があったから、
伊都國で1万1900里であり、
それから百里東南の奴國へは行っていないが1万2000里であり、
伊都國の次の百里東の不彌國も1万2000里になり、そこで萬二千余里がほぼ終わっており、
更に不彌國から次の邪馬壹國女王之所都には、途中移動を示す文言がないから、
ほぼ0里(最小記載里数が百里である事から、50里以下)になるから、
やはり郡から萬二千余里になり、
奴國と不彌國と邪馬壹國女王之所都は、いずれも郡からほぼ萬二千余里位。 >>98
忌部が作った本にもククチヒコは大彦の後ってモロに出てるだろw >>996
魏朝の1里は約76.5mだった事を示す様々な資料が
大和説の魏は1里430mで長里だったという主張を、
論破済み >>97
四国の南側の安房には銅鐸はあるけど、銅剣の出土は四国の北側が中心。
阿波には殆ど出てない。
東征の影響だね >>100
でたらめな距離情報は測量しなくても伝えられる >>101
韓半島は、西と南の二辺を移動して、その移動距離を7000里と記載している。
だから、對海國と一大國のそれぞれの2辺陸行があったなら、必ず記載されたはず、。
しかしそのような里数数字はないので、2辺の陸行はなかった。 >>105
デタラメな伝聞地理情報では、でたらめな地図しか書けない、、 >>998
>魏で短里が使われていたなら書いてある距離は全部短里にならなきゃおかしい
魏の短里は、初代文帝の即位の詔書で示された「度量衡の統一」指示で始まり、
重臣たちが「周制への復古」の上表で、明帝の時から正式に変更されたものであり、
それまでの漢代や文帝の頃までの記録や上表文では、
漢代の「長里と短里の混在混乱状態」が持ち越され、
きちんと、史料批判しなければどちらであったのか?は不明な代物。
>ほんの資料の1部にしか見られないならそれは計測間違いだった可能性大
「長里と短里の混在混乱状態」。 >>107
だから>>83はデタラメな対馬海峡の幅になっている >>103
魏の1里が76mだった資料はほとんどないね
1里430mだった事を示す資料なら沢山ある >>109
決してデタラメではない、若干メリハリを付けただけだ。 倭人伝にでるクコチヒコの名前が日本の文献にでるニカ😃? >>110
1里430mだった事を示す資料が沢山あったことはわかった。
んで1里430mだったとして、くだんのの女王の都はどこにあったのだ。すぐ言うてみい。 いろいろ説はあるんだわな
キクチヒコなら阿蘇だしカワチヒコなら大阪だし >>111
対馬海峡がでたらめな距離で房総半島はきっちりと描かれているから
関東あたりの地理情報が入った日本で描かれた地図 >>82
帯方の公孫氏は漢の役人だったので
使われていたのは魏里とほぼ同一の漢里
自女王国以北の国々は魏里を使うまでもなく地名で見つかってるよ
対馬国は対馬で伊都国は糸島市など
もし魏里を使って距離を表すとするなら魏志倭人伝の里は実際の魏里のだいたい5分の1と言われているので
百里のところを二十里 五百里のところを百里と5分の1に換算して読めば
1里約430mの魏里でつじつまが合うという事になる 阿波さんにお聞きしたいことがあります。
卑弥呼の墓はどこですか? 魏志倭人伝が書かれたとされる280年ころってのはトヨ女王の時代だろ
266年にトヨ女王が晋に朝貢してんだからよ 春秋時代の呉は滅亡の際熊本の菊池に移住し、菊池一族となり後の狗奴国となる(ふむ >>114
景初三年や正始元年などの魏の年号が入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が見つかって
九州にはない100m級の前方後円墳が卑弥呼の時代の三世紀ごろから存在していた畿内の大和国が邪馬台国
景初三年や正始元年は倭人伝に卑弥呼が魏に使者を送った年と書いてあるしな >>113
新撰姓氏録
久々智ククチは安倍朝臣と同祖で大彦の後であるとされているよ。 秦の始皇帝の時代に数千人の若者職工とともに有明に上陸した徐福。
身の丈ほどあるススキの原野を開拓しあたり一面黄金色の稲穂にした、後の邪馬台国
へと続く(ふむ 春秋時代の越は滅亡の際北陸に移住(越前、越後)、銅鐸の起源は越。(ふむ >>108
>魏の短里は、初代文帝の即位の詔書で示された「度量衡の統一」指示で始まり、
そんな指示ないし、おまえの言ってた天柱山とかは曹操の時代の話だぞ
九州説はデタラメばかりだな >>117
>もし魏里を使って距離を表すとするなら魏志倭人伝の里は実際の魏里のだいたい5分の1と言われているので
>百里のところを二十里 五百里のところを百里と5分の1に換算して読めば
>1里約430mの魏里でつじつまが合うという事になる
その「5分の1に換算して読めば1里約430mの魏里でつじつまが合う換算里」を、公孫里と称しているのだ。 >>108
魏の文帝は度量衡の統一令を出しているので
短里と長里の混在はなかった
九州説のいう1里75mの短里は資料全体の数%に満たないほんのごく1部に適合しているように見えるだけで
1里430mの里が普通だったというのが当時使われていたモノサシや度量衡から判明しているので
1里75mの短里が使われていたというのは単なる距離の計測間違いによる書き間違いとされている 水行で対岸が見えない場合には測量のしようがない、そこで便宜上一日航海千里の
規定を適用する。
森村伊作、邪馬台国奇跡の解法を参照のこと >>124
阿波の巨大銅鐸は下手すると末期の近畿型銅鐸。
三遠式と近畿式が統合した後の銅鐸。
南は四国の阿波、北は長野県辺り >>126
それにはとてつもない矛盾が存在しているよ
よって公孫里なんてのはなかったと言える 銅鐸はしだいに巨大化したなぜか?
それは遠くの敵の存在をしらせるために巨大化した(ふむ >>121
1里430mなら、帯方郡から1万2千里と言うと、約5000qほど先のハワイ方面になる。
それを畿内だと抜かしおるが、全然、距離感・距離数が合わぬではないか。どうしてくれるのだ。 124
中国から銅鐸はでてないよ
銅鐸と思われるものの前段階に当たりそおな銅ニョウだか似たもんがでとる
日本の銅鐸のが細紋が細かい 越人らが持ち込みそれに縄文人らの技術が施され発展したと思われる 石剣だったら東北からもでとる
翡翠の勾玉はもともと北陸から裏関東の方なんだな
出雲では翡翠が取れないから石英から作られた
紀元前500年代に大和から翡翠出土するんだっけ? 銅剣なら紀元前2世紀からある
同じ時期に鉄剣もどっか忘れたが出土してるらしい ドンソン文化と越と銅鐸
ドンソン文化は銅鼓に線刻された羽人が有名だが、
線刻された銅鐘が作られ。越では磁器鐸も作られていた。
日本列島に移住した越倭はドンソン銅鐘と磁器鐸から線刻入りの銅鐸を作り祭器としたかも。
羽人が来て神社に入ると木に吊り下げた銅鐸を鳴らし祭りが始まる。
(銅鐘 ドンソン文化 前4〜前3世紀 ベトナム・タインホア省出土)
https://livedoor.blogimg.jp/himika250-wakoku/imgs/4/0/40e89dc0-s.jpg
ハノイ国立歴史博物館・ドンソン文化の青銅器・銅鈴
http://doutaku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/01/21/photo_2.jpg しかしまあしつこいねぇ、半島南まで七千、千、千、千で北九州までで一万、いーまーりだろ?で後二千、800キロで丁度畿内だろ .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>135
正確な距離を知っていたという想定が
頭どうかしてる >>80
ダメダメ。
瀬戸内のは突起付き円墳と柄鏡型円墳まで。
前方部が撥型に開く前方後円型には発展しない。 >>(前スレ)1000
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601985741/1000
> そんな直線距離はかる技術なんて無えよ//
地球円周なんか実測できないだろ。仕方がないからさ、同一経度上と見做せそうな、
相当距離の平坦地の二点で北極星の仰角を測定して、その距離を定めたんだよ。
で、ランドスケープに好都合なピークは、天台山なんて呼ばれもした。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601985741/428-533n
異なる2地点で、北極星、天台山等の独立峰の仰角測定、三角測量すりゃ、
それなりの測定値が得られて、伊能図くらいの精度にはなるだろさ。
>>(前スレ)533
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601985741/533
> 1里の長さを長くするのが王権の利益になったのだろうよ//
王権の利益ってなんだよ。度量衡を蔑ろにするなんて、不利益以外の何物でもない。
> 1里の長さの変遷をみると、短くなることはなく、ちょびちょびと長くなる一方だから//
なにがちょびちょびだよ、莫迦なエテ公だな。
一里430mってのが長くなる一方ってならさ、定義上の一里、地球円周の1/8万である、
500mに近づいている、って事だろ。測定技術が向上した、って事だよ。
技術と云っても、やる事は仰角測定なんだから、機器の向上というのは考えにくい。
中国の施政地域って、時代と共に広がっている。北の方、高緯度地域なんかにもさ。
北極星の仰角は大きくなるんだから、測定誤差は小さくなって、真の値に近づくだろ。 そりゃ帯方郡、高句麗、百済人らはみな穢狛(扶余)人だし
呉人だの越人だの言われるのはほとんど隣だしそもそも倭は越の言い換えだから倭人は越人のことにしかならないだ 中国(漢)人らがやってきた証拠はない
そもそも郡制が敷かれそこに住む住人らは異民族だが官吏として赴任してるのが中国(漢)人て話だからな >>149
そんな測定してないのは確実
してれば会稽どころか宛城より北とわかる >>149
当時中国では地球は丸いという認識はなかっら
中国の国境より外の四方それぞれ1万2千里が世界の果ての四角い平面世界を想定していた事が
漢時代に書かれた地理書の淮南子に書いてある事からわかる >>151 > 倭=越 常識//
倭人は、夏后少康之子(無余)の末裔である、という付会をしてるのでしょう。
卑弥呼は親魏倭王に叙せられてるので、そういう外交の決裁承認を得るには、
中国人の末裔だから、といった理由が必要だったのでしょうね。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601985741/526
倭人は少康の末裔という事で、越王勾践なんかと同族という事になる。 史料トンデモ読みとニセ古文書とOパーツ盲信で捏ね上げたのが九州説ってことだな >>143
>しかしまあしつこいねぇ、半島南まで七千(3000q)、千(430q)、千(430q)、千(430q)、
北九州までで一万(4300q)、いーまーり(ハワイ)だろ?、で後二千、800キロで丁度畿内だろ・・・・・・・・詐欺師! >>159
九州説はいつもすぐ論破されては、腹いせに罵ってるね >>85
>「ならば卑弥呼の墓ではない」と言って否定してるのは
明らかに
お前であって
>>1じゃないが?
>>1の
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
は、箸墓は248年に死んだ卑弥呼の墓ではないと言ってる。
ところが>>1は
◆0【 要 旨 】で、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、と言ってる。
アホだよね、>>1って。
まぁ>>1はおまえだろうけど。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>154 > そんな測定してないのは確実 してれば会稽どころか宛城より北とわかる//
だからさ、「計其道里 當在會稽東冶之東」、会稽(紹興)東冶(福州)の東、
九州と台湾の間の狭間なんかに邪馬台国なんかある訳ないだろヴォケ、と、
魏志編者は張政を嘲ってるんだよ。
「會稽東冶之東」ってね、会稽と九州最南端、東冶と台湾最北端の緯度は同じ、
という認識が無ければ書けない記載なんだよ。
>>155 > 当時中国では地球は丸いという認識はなかっら//
あった、としか云い様が無いね。
> 中国の国境より外の四方それぞれ1万2千里が
世界の果ての四角い平面世界を想定していた事が
漢時代に書かれた地理書の淮南子に書いてある事からわかる//
アンタが淮南子を読めてないだけろ。
地動説なんて紀元前からあるんだしさ。
地球は丸くて太陽の周りを回ってる、なんてその頃から分かってたんだよ。
四角い平面世界ってさ、平面近似って事だよ。微分の概念もあったって事だ。 漢人らの都は長安に決まってるが
倭人(越人)らの都は会稽だろ
越って国は紀元前306年に楚に滅ぼされただ
日本の天皇ってのは倭(越)王を名乗ってるなどゆことや?
皇統を繋ぐのに四苦八苦した話なんかも文献に書いてある
なら越王から繋ぐ系譜を日本の天皇家では有してしたって話になるんだが >>157
オ〆の中学卒業後の、いや、小学校以降に受けた教育は、ついに無意味だったんだね。
乙藁 >>165
で、そんなギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな考古学者の論文は?
ウルトラ中卒 華南ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 半ニグロチンクのおまえ >>166 > で? どこで>>1が否定してる?//
よこだが、張政が248年に見た卑弥呼墓は、258年に築造された墳墓だと云ってるね。
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
毎度の事だが、クイズ番組じゃないんだから、当たってりゃエエってもんじゃない。 魏に朝貢して日本で起きてることの現地調査にやってきたんだろ
魏の使者ら さもそも魏から文化伝わったなんて話聞いたことねえもん
そなると帯方系の渡来人らもほとんど穢狛人らだな >>167
こちとら、おまえが一生かかっても入れねえ京大卒だノータリン奴!
生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな、人間未満の、
頭の中が吉本興業な超中卒のおまえ 漢の官吏が出張に来ていたってだけだからよ
日本に渡来したの中国人らおらん
穢狛人か越人のどちらかのみ >>173
越人がやって来といて何で越名物、越式鼎がねえんだ中卒!
脳味噌カラッポ奴! 紀元前200年代のどこかが弥生時代の始まりなんだね 魏志には、倭人は海にもぐって魚や貝を採取して食べていたと書いてある
このことからも、海から遠いマキムクはないだろ >>178
海から遠くたって魚や貝を採取しちゃ悪いのか?
まあそもそも畿内は大阪湾に接してるんだけど >>166
>どこで>>1が否定してる?
否定していないからアホだという話なのだが、おまえが。 九鼎って呼ばれる飯炊き窯が夏の時代に作られ夏を破った周王朝にだいだい伝わり中国王朝の皇帝の証明になったってものだろ
秦の始皇帝も九鼎を探したが紛失して見つからなかったそおな >>169
> よこだが、張政が248年に見た卑弥呼墓は、>258年に築造された墳墓だと云ってるね。
云ってる事実がどこにも無いな >>181
>否定していないからアホだという話なのだが、おまえが。
つまりあんたは
>ならば卑弥呼の墓ではない www
>◆0【 要 旨 】箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
>を自分で否定してるアホの>>1 wwww
などと真っ赤なウソを書いたんだね >>164
>「會稽東冶之東」ってね、会稽と九州最南端、東冶と台湾最北端の緯度は同じ、
>という認識が無ければ書けない記載なんだよ。
書けないという理由は? >曹操軍と倭人たちは直接戦った?可能性がある。
北魏、麗道元(れきどうげん)の『水経注』には、
遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。 蓋し倭地。人これに移る。」 とある
白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、
曹操(魏の基礎を作った)と中国北部の異民族烏桓(烏丸)との間で行われた戦い。
白狼山の側を流れるのが白狼水で倭人の居住地や倭城があったと云われる。
曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓(烏丸)を打ち破り、
この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。
京都の烏丸(からすま)通りには烏丸川が流れてたらしいから気になる。 倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れ
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。
呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。
勾踐は北上し、 山東半島の琅邪に都を置いたと言うから海に逃げ、
山東半島から遼東半島へ島伝いに移動した可能性がある。 魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして、「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行ったところ、
数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。
汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、
烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。
今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、
後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。 >>183 >(258年に築造)云ってる事実がどこにも無いな
西暦260〜280頃とすると書いてるし、西暦258の年輪年代ってのも、Qの方で書いてるだろ。
まぁ、測定誤差範囲も含めて、3世紀中頃だから、248年でも構わん、って程度のハナシなんだろ。 248年に卑弥呼は死んでないって、、ご都合主義解釈だろ。
1くん、よかったね。オナニー見せられる方は迷惑だがな
www >>178
> 魏志には、倭人は海にもぐって魚や貝を採取して食べていたと書いてある
このことからも、海から遠いマキムクはないだろ//
新野、荊州、成都なんかは海から遠くても、纏向は海の近くだろ。
三国志全般をキチンと読んでちょ。
>>185 > 書けないという理由は?//
レス元に書いてあるだろエテ公。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>177
いや、今じゃ稲作の起源が前10世紀まで遡るので弥生の考え方が変わってきている 普通に考えて半島南部も越人らが開拓して行ったんだと思うがな〜
越王に趨升ってのがおる
邪馬台国の話に出てくる師升ってのに比定される人物だが漢の皇帝に協力していた人物らしい😃
そいつらが日本にやってきて奴隷ら確保して献上した話が卑弥呼の話みたいやが? 張政が見たのは、葬式であって古墳ではないよな。
そんなすぐに古墳なんざ出来るわけないし 倭人てのは日本から渡った人らじゃないの
日本に訪れたのも中国大陸における自分らの地位をあげるために漢の皇帝に対して貢物を得るために日本にやってきたんだろ〜って推測
新羅とか作ったとされんのもそっちじゃねえの? 記紀によって隠された邪馬台国。
朝貢したタジマノモリは、ミカンと8本の何やら訳の分からない旗を持ち帰ったと書き直された。
そもそもナシメと書かれたタジマノモリが貰ったのは魏の黄色の属国旗。
記紀に書けるわけがない >>189
つまり
> よこだが、張政が248年に見た卑弥呼墓は、>258年に築造された墳墓だと云ってるね。
というのは悪い冗談なのだな? >>193
> レス元に書いてあるだろエテ公。
理由が何だか言えないということは
>「會稽東冶之東」ってね、会稽と九州最南端、東冶と台湾最北端の緯度は同じ、
>という認識が無ければ書けない記載なんだよ。
と言っていたのはデタラメだってことで
いいね? >>190 > 248年に卑弥呼は死んでないって、、ご都合主義解釈だろ//
>>1ってご都合主義で、邪馬台国は次の何処クイズに応募したら当たっただけ、
ってのはその通りだね。
卑弥呼と呼ばれて親魏倭王に叙された女性が248年に物故して箸墓に埋葬された、
というのは動かないとしても、卑弥呼はその後もいたと思うのだが。
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王
宗女というのが、宗家のムスメという意味なら、「復宗女壹與年十三爲王」だけで構わなくて、
「立卑彌呼」は浮いちゃいますね。卑彌呼というのは、呼称・称号なんだと思う。
復た、宗家の娘のトヨたん年13歳ハァハァを卑彌呼として立て、王と為した、
なら過不足なく文意が通ると思う。正始8年記は以下の通りに続き、そして倭人条は終わっている。
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
壹與壹與壹與と都合三回も繰り返している。張政は余程にトヨたんに思い入れが有ったんだろう。
白珠五千孔というのは随分と張り込んだものだが、手切れ金だね。
親魏派だった旧卑弥呼が急死して、トヨたんはその路線を放棄した。
まぁ、トヨたんは満15歳といったところなので、顧問みたいなのが居たんだろうね。
結局皇室の祖となったミマキ(崇神)をそれと考えざるを得ない。
なお、宗家・邪馬台国の王家は、そこで終わった訳ではないと思う。
それなりの豪族として続いて、7世紀頃まで末裔が書紀に登場し続けてるな。 >>149
>王権の利益ってなんだよ。
人間、損になることするかよ、アホちゃう? >>190
>248年に卑弥呼は死んでないって、、ご都合主義解釈だろ。
理由は?
理由が無けりゃ無駄なイチャモンだぞ >>202 > というのは悪い冗談なのだな?//
オ〆の膿味噌の性能が悪いだけだろ。
>>203 > 理由が何だか言えないということは//
レス元に書いてあるだろエテ公。
> と言っていたのはデタラメだってことで いいね?//
それが理由以外の何だって云うんだよ、莫迦。
オ〆の糞の天麩羅は、何とかすることだね。 >>205 > 人間、損になることするかよ、アホちゃう?//
度量衡を蔑ろにすることの何処が得なんだよ、莫迦なエテ公なんだな、オ〆は。 >>198
張政は径100歩なんて巨大な冢が出来るのを待ってられないよな
100歩とは冢と奴婢が殉葬された場所との距離が100歩離れてるって意味だな
葬式で見たんだ。 >>206 >> イチャモンだぞ//
何をゴチャゴチャ鳴いてるのかね、寡頭生物が。
>>207で書いた通りで、オ〆の糞の天麩羅は、何とかすることだね。
>>172 > こちとら、おまえが一生かかっても入れねえ京大卒だノータリン奴!//
京大卒の口汚い江戸っ子下町長屋育ちって、ヘンな香具師だなオ〆はさ。
> 頭の中が吉本興業な超中卒のおまえ//
難波花月に入り浸りだったのかね。
> 生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな、人間未満の//
元レス通りで、乙藁だな。糞天麩羅はなんとかしなよ。
まぁ、乙なのは、何人いたか知った事ではないが、オ〆の先生という立場にあった人たちなんだがね。 >>207
> オ〆の膿味噌の性能が悪いだけだろ。
反論出来ないと罵るだけか
論破された者の常だな
> レス元に書いてあるだろエテ公。
どこに何と書いてあるんだ?
言えないのか
言えないなら、無いってことだ
九州説はいつもデタラメだな
> それが理由以外の何だって云うんだよ、莫迦。
>オ〆の糞の天麩羅は、何とかすることだね。
それとは何だ?
どうして言えない
つまり、理由も無しにデタラメの文句を付けてたってことで
いいな? >>207
> オ〆の膿味噌の性能が悪いだけだろ。
> レス元に書いてあるだろエテ公。
>> と言っていたのはデタラメだってことで いいね?//
> それが理由以外の何だって云うんだよ、莫迦。
>オ〆の糞の天麩羅は、何とかすることだね。
それ、とはなんだ?
言えないのか
理由が言えないなら、無駄なイチャモンだ
しかも下等な
つまり、お前の頭の悪さの証明でもある >>106
>韓半島は、西と南の二辺を移動して、その移動距離を7000里と記載している。
だから、對海國と一大國のそれぞれの2辺陸行があったなら、必ず記載されたはず、。
しかしそのような里数数字はないので、2辺の陸行はなかった。
韓は、「方可四千里」と既に判っているのであるから、
魏使らが「その二辺を移動」したのなら、その部分だけで、最低8000里になり、矛盾。
実際には、郡から一旦「循海岸水行」して、
その後で「歷韓國乍南乍東」して「到其北岸狗邪韓國七千餘里」なのであるから、
「西と南の二辺を移動してその移動距離を7000里と記載した」のではない。
だから、「七千余里」は、郡から一旦「循海岸水行」して、
韓地に入ってから、東南方向へ「歷韓國乍南乍東」の近道の陸路を採って、
その「循海岸水行」と「歷韓國乍南乍東」の陸行路の、
合計が「七千余里」と計測された、という事になり、
おそらく、簡易三角測量と記里車と歩測などに拠って、実測合計された、
という事になる。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>107
>デタラメな伝聞地理情報では、でたらめな地図しか書けない
大和説者らの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の、「デタラメな嘘つき騙し解釈」では、
でたらめな歴史像しか書けない。 邪馬台国畿内説が完全に破綻し、頭の悪いプロ固定が元気を失ったので、5ちゃんねるが、やはり、不活発だな。 >>109
>だから>>83はデタラメな対馬海峡の幅になっている
実地の見聞計測を伴わない遥か後代の学者の「自己解釈に拠る造作地図」は、
3世紀の同時代の魏の役人たちの「実地の計測記録」を、
否定する根拠にはならない。 >>109
>だから>>83はデタラメな対馬海峡の幅になっている
実地の見聞計測を伴わない遥か後代の学者の「自己解釈に拠る造作地図」は、
3世紀の同時代の魏の役人たちの「実地の計測記録」を、
否定する根拠にはならない。 >>211 > 反論出来ないと罵るだけか 論破された者の常だな//
普通にそれって、オ〆じゃんか藁
> どこに何と書いてあるんだ? それとは何だ?//
オ〆が>>203で態々鳴きながら引用してるだろ、アホ。
> 九州説はいつもデタラメだな//
はァ? 箸墓が卑弥呼墓と云ってる私にさ、ンなこと云われても知らんがな。
>>212 > つまり、お前の頭の悪さの証明でもある//
と思い込んでみても、実はオ〆のそれの証明でしかないね。
オ〆の糞の天麩羅はなんとかしなよ。まァ、
西暦260〜280頃は、測定誤差範囲も含めて、3世紀中頃・248年でも構わんな、
とでも加筆するしかないんだろうがね。
日々原料を貪ってウンコの製造に磯死んでるんじゃ、どう仕様もないぞ。
勤しむって、オ〆の在り様の表記には似つかわしくないな。
それとさ、オ〆の天麩羅の不備齟齬を指摘した>>161は、私じゃないんだからさ、
グダグダと付きまとわれるのは迷惑なんだがね。
オ〆の天麩羅なんぞ、ザっと斜め読みしかしてないんだしさ。
なお私は、箸墓の何ぞの出土品の年代が、西暦260〜280頃だったとしても、
箸墓が卑弥呼墓であっても差し支えないスキームを確立してるけどな。
>>217 > 不活発だな//
なんぞ所論でもあるなら、書いてみる事だね。 >>213
水行するのに南に4千里は必要不可欠だが、対馬にわたるには東に3千里で十分 補足修正>>220 > オ〆の天麩羅の不備齟齬を指摘した>>161//
不備齟齬を指摘した投稿は、>>76 でしたね、その後の再引用はあってもさ。
失礼した。 >>110
>魏の1里が76mだった資料はほとんどないね
1里430mだった事を示す資料なら沢山ある
魏が出来てから後の魏朝の記録や公的記録は、
ほぼ全て周髀算経の里や短里や短歩で記録されており、
文帝以前の漢代の記録や、武将らの上表文や報告などでは、
始皇帝の長里や長歩での記載であったらしい例が残っている。 >>114
>1里430mだった事を示す資料が沢山あったことはわかった。
いや、魏朝が関係した記録では、「1里430mだった事を示す資料」は殆ど0。 >>213
>韓は、「方可四千里」と既に判っているのであるから、
>魏使らが「その二辺を移動」したのなら、その部分だけで、最低8000里になり、矛盾。
郡から「循海岸南水行」で西南端の岬まで4000里、その後、東に折れて釜山付近までの3000里だから、
郡から狗邪韓国まで7000里でちょうど里数計算が合う。(8000里ではない)
こじつけヘンテコな韓国陸行を織り交ぜる必要はない。 >>220
> 普通にそれって、オ〆じゃんか藁
いや、ちゃんと反論してお前を論破してるぞ
その上で、どこまで馬鹿かと罵倒してるわけだ
>> どこに何と書いてあるんだ? それとは何だ?//
> オ〆が>>203で態々鳴きながら引用してるだろ、アホ。
ほらな
あくまでも理由が言えない
自分の主張の理由が言えない
これ、馬鹿の証明 >>218
韓半島では実際に戦闘し、管理下に置いていて、その役割として帯方郡がある
その管理下に置いた韓が方4千里とはっきり記しているのだから
それと比較して対馬海峡が3千里というのは完全に距離感が一致する。
それに反論するには、三国志の記述から具体的な位置を里数で証明しなければ何の意味もない。 >>115
>いろいろ説はあるんだわな
キクチヒコなら阿蘇だしカワチヒコなら大阪だし
大阪は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。 >>222
> 不備齟齬を指摘した投稿は、>>76 でしたね、その後の再引用はあってもさ。
不備齟齬を指摘した投稿?
そんな指摘は存在しないな
あるなら、不備齟齬とは何か言えるだろう
しかし、お前は言えない >>118
>卑弥呼の墓はどこですか?
卑弥呼陵はここ。
矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
正一位、延喜式に記録された式内名神大社
「天石門別八倉比賣神社」:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm >>226
徐福やら呉越人やらが来た来た言ってんだからガチで頭パー奴だよ >>223
魏で見つかっている1尺24cmの尺定規と
使われていた度量衡を記した律歴志から
魏の1里が約430mだった証拠が見つかる >>117
>帯方の公孫氏は漢の役人だったので使われていたのは魏里とほぼ同一の漢里
公孫氏も、遼東や扶余や、高句麗などの半島関係の記録は、魏朝里とほぼ同一の短里。
>自女王国以北の国々は魏里を使うまでもなく地名で見つかってるよ
対馬国は対馬で伊都国は糸島市など
もし魏里を使って距離を表すとするなら魏志倭人伝の里は実際の魏里のだいたい5分の1と言われているので
「魏里」ではない。史料実態は「魏朝里」。
>百里のところを二十里 五百里のところを百里と5分の1に換算して読めば
1里約430mの魏里でつじつまが合うという事になる
この男も、史料事実や史料実態の「自己解釈による書き換え」をする後代の詐欺師人種。
同時代の魏の役人らに拠る実地の計測記録は、そのまま受け止めるべし。 >>223
>魏が出来てから後の魏朝の記録や公的記録は、
>ほぼ全て周髀算経の里や短里や短歩で記録されており、
とか口先で言うだけで、史料からの帰納など絶対しないのは何故? >>119
>魏志倭人伝が書かれたとされる280年ころってのはトヨ女王の時代だろ
266年にトヨ女王が晋に朝貢してんだからよ
13歳の壹與が「王」になったのは、247年からそう年次が経っていない頃。
従って、266年には32歳過ぎ。
280年頃は46歳過ぎであり、「壹與の時代か?」は微妙。 >>118
>卑弥呼の墓はどこですか?
卑弥呼陵はここ。
矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
正一位、延喜式に記録された式内名神大社
「天石門別八倉比賣神社」:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm 中国古代天文学書「周髀算経」と云う書物中の太陽光の影の長さを計測する方法の記述があり、その方法を現代の知識で再計算してみると、1里は約76-77mとなる。
魏の明帝が年号を景初に変えた時に、暦の制度を変更たとの記録が残っている。
戦国時代によって実際に計測することが難しく、支配下にない領地でもおおよその比較ができる
一時的にこの距離に統一されたということだろう。 そもそも奴隷を中国に送ったってとこが
つまりもともと中国から来て奴隷狩りをやり送ったって話だろ >>121
>景初三年や正始元年などの魏の年号が入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が見つかって
九州にはない100m級の前方後円墳が卑弥呼の時代の三世紀ごろから存在していた、
畿内の大和国が邪馬台国
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この大和説男が×であり、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料実態に拠って、大和説が、×。
>景初三年や正始元年は倭人伝に卑弥呼が魏に使者を送った年と書いてあるしな
卑弥呼が魏に使者を送ったのは景初二年であるから、
この大和説男は嘘つき騙しの詐欺師。 >百里のところを二十里 五百里のところを百里と5分の1に換算して読めば
>1里約430mの魏里でつじつまが合うという事になる
畿内はあれこれほざいていたが、結局1/5換算里に屈したか、、 >>226
> ほらな あくまでも理由が言えない 自分の主張の理由が言えない//
だからさ、最初から理由云ってるのに、同じこと繰り返してるんじゃないよ、エテ公。
オ〆の馬鹿の証明以外のなんでもないだろ。
>>76指摘の通りで、オ〆の糞の天麩羅は齟齬破綻してるし(私はよこで同意しただけ)、
「當在會稽東冶之東」の記載は、緯度という概念があって、360度分は地球円周、
という認識が無ければ書けない記載なんだよ。 >>239
>中国古代天文学書「周髀算経」と云う書物中の太陽光の影の長さを計測する方法の記述があり、その方法を現代の知識で再計算してみると、1里は約76-77mとなる。
ところが夏至の値と冬至の値を同時に満たす測定地点が実在しない
つまり実測値ではない
>魏の明帝が年号を景初に変えた時に、暦の制度を変更たとの記録が残っている。
そんな記録はない
つまり、インチキ つまり、倭人伝の不彌国は吉野ヶ里、其の南至るの邪馬台国はくまもつ県 >>184
>などと真っ赤なウソを書いたんだね
どうしてかな。
>◆0【 要 旨 】箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
と言いながら、
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
卑弥呼の死亡時期は248年だね。
つまり>>1はアホだよね。
おまえだろいうが。 >>243
> だからさ、最初から理由云ってるのに、同じこと繰り返してるんじゃないよ、エテ公。
>オ〆の馬鹿の証明以外のなんでもないだろ。
>>>76指摘の通りで、オ〆の糞の天麩羅は齟齬破綻してるし(私はよこで同意しただけ)、
>「當在會稽東冶之東」の記載は、緯度という概念があって、360度分は地球円周、
>という認識が無ければ書けない記載なんだよ。
だから
>「當在會稽東冶之東」の記載は、緯度という概念があって、360度分は地球円周、
>という認識が無ければ書けない記載なんだよ。
という理由も言えないのに、なんで同意できるの?
「最初から理由云ってる」って真っ赤なウソじゃん
齟齬破綻してるって理由も言えない
要するに、あんたはデタラメ言ってる 邪馬台国を
とても欲しがった異人地域は畿内で、
棚から転がり落ちてきたのはくまもつ県 コマビト地域から見たら九州東部から東の本州は皆異人 >>248
頭悪い奴だなあ
>A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
それと森井の見解が相違ないって書いてるのに、なにが問題?
>卑弥呼の死亡時期は248年だね。
1はそれを認めない意見を書いてるんだから
>◆0【 要 旨 】箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
>を自分で否定してるアホの>>1 wwww
は真っ赤なウソだよね >>250
>奴婢の痕跡がない。
ないと何か問題でも? >>253
>それと森井の見解が相違ないって書いてるのに、なにが問題?
森井さんは庄内3としてるのだから、布留0はもう少し後になり、
石野さんと近いわけで齟齬があるじゃないか、頭悪いのはお前。
>1はそれを認めない意見を書いてるんだから
1のくせに1ではない振りご苦労さんw
卑弥呼死亡時期が248年ではないのなら根本的な問題だ。 >>254
ないのは「ある」にはかなわない。
ないのなら少し黙ろうか。 >>255
>森井さんは庄内3としてるのだから、布留0はもう少し後になり、
そんなこと言った証拠ないな
捏造では? >>255
>1のくせに1ではない振りご苦労さんw
全1病の人ですか?
>卑弥呼死亡時期が248年ではないのなら根本的な問題だ。
どんな問題?
また、言えない? >>257
Yahooジオスティーズが見れなくなって君的にはよかったな。
ただし布留0古相が248年にはならないからあきらめろ。
>>258
高天原だよ。 >>122
>新撰姓氏録
久々智ククチは安倍朝臣と同祖で大彦の後であるとされているよ
それは、
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji.html
の、どこに書いてあるの?。 卑弥呼の死亡年は248年か249年頃だと言われてるだけで、
実際のところは不明なんだよ
251年かもしれないし、253年だったかもしれない
臺与の誕生年だって235年だと言われているが間違ってると思う
13歳で即位して内紛が終結したので郡使が檄を飛ばしに来訪して、
すぐにその感謝の朝貢を晋にしたのが266年だから、臺与の誕生年は
252年か253年頃だろう >>260
>ただし布留0古相が248年にはならないからあきらめろ。
「布留0古相248年から」は久住や森岡の説
他にも九州の考古学者は250年頃はもう布留0だという考えの人が多い >>125
>>魏の短里は、初代文帝の即位の詔書で示された「度量衡の統一」指示で始まり、
>そんな指示ないし、
文帝の受命改制の詔書の記載事実であり、実態だよ。
>おまえの言ってた天柱山とかは曹操の時代の話だぞ
天柱山の高さの説明は、記録や上表文ではなく、3世紀後半の陳寿の地の文での説明だった筈だよ。
大和説はデタラメばかりだな 卑弥呼の死亡年は248年か249年頃だと言われてるだけで、
実際のところは不明なんだよ
オナ猿がそう言い張ってるだけwww >>265
>文帝の受命改制の詔書の記載事実であり、実態だよ。
そこに度量衡統一の指示なんて無いな
九州説さん、捏造はダメよ >>249 > 齟齬破綻してるって理由も言えない//
はァ?
卑弥呼は248年には死んでて墓も出来てて、張政がそれ見てるんだからさ、
>>76指摘の通りで、卑弥呼墓である箸墓が西暦260〜280頃なり258年の築造なら、
完全に齟齬破綻してるだろ、莫迦。
>>263
> 卑弥呼の死亡年は248年か249年頃だと言われてるだけで、
実際のところは不明なんだよ 251年かもしれないし、253年だったかもしれない//
そっちに転がるなんて、もうその先は泥沼だね。
行ってみたら卑弥呼は既に死んでて(以死)、径100歩の墳墓も出来てて、
張政は洛陽まで送って貰った、てのが倭人条正始8年記なんだよ。
卑弥呼の死を前年にするくらいは出来てもさ、正始8年以降になんか出来ないよ。
帯方郡じゃなくて洛陽送還だったってのも、何故だか考えてみる事だね。 >>127
>九州説のいう1里75mの短里は資料全体の数%に満たないほんのごく1部に適合しているように見えるだけで
いや、Yahooでの議論で得た結論は、
魏朝が関係した里記録は、ほぼ全て短里であり、
蜀や呉の記載の中にも短里があり、
漢代の記録や上表文の引用の場合に、
始皇帝里(長里)のものの可能性があるもののあった、という程度だった。
陳寿も、史料や記録は、簡単に改変しない律儀な性格であったんだよ。
>1里430mの里が普通だったというのが当時使われていたモノサシや度量衡から判明している
律暦志は、尺寸系の歴志を書いているだけであり、
里歩系に関しては書いていなかった筈。 >>269
為念ですが、箸墓は卑弥呼墓に他ならない、というのが私の考えです。
箸墓から出た何らかの遺物、土器付着の炭化物なんでしょうが、
それが258年なり、西暦260〜280頃なりであっても構わない、というスキームも確立しています。
むろんそれは、>>268 でも指摘しましたが、卑弥呼の死を正始8年より後にずらす、
なんて泥沼なシロモノなどではありません。 >>128
>水行で対岸が見えない場合には測量のしようがない、そこで便宜上一日航海千里の
規定を適用する。
いや、対岸が見えない場合は、
一寸千里の計測での南北距離と、大体の方向との、三角測量的作図に拠って、
計算出来る。
>森村伊作、邪馬台国奇跡の解法を参照のこと
おや?、「伊作」の名前が久し振りに出て来たね。
伊作氏は、Yahoo時代に、私をゴルフに誘ってくれた事があった。
私は忙しかったのと、関東まではとても行けなかったから、お断りした。 >>263
>13歳で即位して内紛が終結したので郡使が檄を飛ばしに来訪して、
すぐにその感謝の朝貢を晋にしたのが266年だから、臺与の誕生年は
252年か253年頃だろう
臺与は266年に13歳で即位してすぐに晋に朝貢したのか?? >>264
>布留0古相248年から」は久住や森岡の説
久住さんや森岡さんが248年が基点などと具体的な数字だしてるなんて初めて聞いたが、
ソースをくれ、またどうせ出せはしないのだろうが。
森岡さんも年輪年代258年=布留0古を重視した編年を作ってたと記憶してるが。 >>129
>阿波の巨大銅鐸は下手すると末期の近畿型銅鐸。
三遠式と近畿式が統合した後の銅鐸。
南は四国の阿波、北は長野県辺り
大和の銅鐸は、阿波や唐古鍵のように、出雲系銅鐸祭祀であったが、
九州倭國からの「東征毛人五十五國」の別働軍に拠って征服され、
阿波は出雲系祭祀伝統を保持していたから全滅は免れ、
そして、播磨〜近江〜東海∼長野は、東征征服軍の本体の三道将軍らに拠って支配され、
彼らは、在地の出雲系銅鐸祭祀を壊滅させずに、
一旦妥協して、共存させたんだろうなあ。 結局、>>1は「卑弥呼の死亡時期をずらす=ゴールポストをずらす」で破綻しましたwww >>268
だから、その朝貢込みの張政の洛陽までのお見送りが266年なんだろうが
卑弥呼が崩御した年のあたりとは全然違うだろうに
張政が臺与に謁見して卑弥呼陵を初めて見て、
臺与が朝貢込みで彼を洛陽まで見送らせたのが266年という事だよ >>270
魏では度量衡の統一令があった
そして当時使われていた定規などの資料等から存在が確認されているのは
1里430mの短里じゃない里 >>271
>箸墓から出た何らかの遺物、土器付着の炭化物なんでしょうが、
それが258年なり、西暦260〜280頃なりであっても構わない、というスキームも確立しています。
つまり箸墓は卑弥呼の墓なんだから年輪年代258年云々は間違えていると?
それを本末転倒というのだよ。 >>273
おやおやザラコクさんは伊作さんと親しかったのですか。(ほーーー
ヤフーテキストリームのことかな?
実をいうと私は旧名、すぼ、SUBOです。 >>274
臺与を帝位に付ける事が和解の条件だったんだろうな
だから臺与が帝位に付いたところで紛争は終結
郡使張政が檄を飛ばしに臺与に謁見して卑弥呼陵を目撃して
朝貢込みの洛陽までの見送りが266年
だから、この段階でまだ13歳の可能性が高い 崇神が4世紀初頭から前半なのかどうか。
それで邪馬台国論争は終わるのだ。なぜなら崇神の少し前に最高位のトヨという女性がいるのだ。
しかもそのトヨ津姫は国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖・孝昭天皇のお母さんだ。
更にそのトヨ津媛の3世代前(曾祖母世代)に比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后=卑弥呼(Bei mei hu)がいるのだ。
住処は葛城、墓は高天原、土蜘蛛=奴婢と共に今もある。
纏向論者死亡wwww >>278
> だから、その朝貢込みの張政の洛陽までのお見送りが266年なんだろうが//
だったらさ、正始8年記の後に、その年代記を新たに書くだろ。
既に晋の時代だったってなら、お見送りの記事自体を書かんだろ、魏志は。
倭人条は正始8年記で終わりだよ。そして、魏との外交もな。
妄想年代記をでっち上げるな。それはただの泥沼だ。
序に云えば、266年女王はトヨたんじゃなくて、次の女王だね。
日本書紀は、別人格である卑弥呼もトヨたんも、神功皇后だと云っている。
だったら晋起居注266年女王だって、第三の女王でも構わんだろが。
トヨたんも266年女王も、日本書紀のキャラで該当がある。
むろん、矢鱈と出て来るトヨなんちゃらは、全てがカモフラージュなんだよ。
オ〆如きの泥沼脳じゃ、何もかもが無理なんだよ。 >>241
畿内が存在しないというなら九州も存在しなかった
邪馬台国は後漢書や隋書や太平御覧などの資料にも書いてある
他の資料でも卑弥呼の遣使は景初三年となっているので景初二年は後年の写し間違いと判明している 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>282
おう懐かしいw
私はkssn216という子猫のアイコンだったがヤフオクであかん物売ってしまってyahooからレッドカードもらってssnk216に変えた。 >>234
魏志倭人伝に書いてある事をそのまま受け止めたら邪馬台国はパプアニューギニア
または沖縄からパプアニューギニアにまたがる広大な邪馬台国大陸が存在していた事になる ヤフオクであかんもの売ったらあきまへんで。
なんやろ? >>278
> だから、その朝貢込みの張政の洛陽までのお見送りが266年なんだろうが//
張政が正始8年以降も邪馬台国にいた、なんてのは、基本的には妄想だね。
藤原カムイさんの作品である「雷火」は、そういう前提で書かれているが、極めて面白かった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E7%81%AB
> 卑弥呼を暗殺した張政は魏の権威を利用し、自分に抵抗する力を持たない壱与を女王に即位させることにより、
張政自身が邪馬台国を支配、魏の属国にしようと企んでいた//
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
クイズ番組じゃないんだから、当たってりゃいいという訳ではない。
そんな泥沼年代記にはまり込むならさ、歴史として語るのは諦めて、
フィクション・エンタメとして読ませる物を書くことだ。 >>274
臺与は266年に13歳で即位してすぐに晋に朝貢したのか??
妄想が酷すぎてどうしようもない。オナニーのしすぎじゃない?
おなザルだから仕方ないかwww
>>285 コテ略の書き込みをプリントアウトして、毎朝朗読しとけよ。
コテ略の言うのスキームが気になる 九州説の普段の書き込みの様子から察するに
シャブ関連だろ >>270
筈とか言われても、そんな結論があったって証拠は
何も無いんだよな >>277
ずらすって証拠が出せないので九州説がまた敗退する >>281 > つまり箸墓は卑弥呼の墓なんだから年輪年代258年云々は間違えていると?//
自身で引用してる通り、258年なり、西暦260〜280頃なりであっても構わない、
と書いてるだろ。何らかの遺物の年代が、258年の物であっても構わん、という事だ。
測定値の間違いなんて、泥沼に足を踏み込む積りはないですよ。 >>280
>魏では度量衡の統一令があった
という証拠は?
また言い張るだけ? >>297
> 自身で引用してる通り、258年なり、西暦260〜280頃なりであっても構わない、
と書いてるだろ。何らかの遺物の年代が、258年の物であっても構わん、という事だ。
測定値の間違いなんて、泥沼に足を踏み込む積りはないですよ。
構わんは君の勝手だけど248年にはならないよね。 >>229
大和に邪馬台国はなかったのに、箸墓がなんで台与の墓になるのよ。 >>296
ずらしてないのなら卑弥呼の死亡年を言ってもらおうか。 >>131
>倭暦は2倍暦なので陸行2千里は実質半月(ふむ
魏使らは、中国人であるから、倭暦を使わないから、×。 >>281
>つまり箸墓は卑弥呼の墓なんだから年輪年代258年云々は間違えていると?
なんで年輪年代258年だと「間違えている」になるの?
なんの話か理解できてないでしょ >>299 > 構わんは君の勝手だけど248年にはならないよね//
だからさ、248年にする積りはないですよ、その出土遺物をさ。 誰が誰か分からんわ、ややこしいスレだな。
>なんで年輪年代258年だと「間違えている」になるの?
正しいという証拠は? だめだめ! 266年以前に前方後円墳が在るならそれは誰の知識企画築造され、何故度量衡が漢尺で突然使われたのか?という説明を満たさなければならない。そして桃の説明も必要であり結局は渡来宗教集団であるという以外に無いんだよ。 >>132
>銅鐸はしだいに巨大化したなぜか?
それは遠くの敵の存在をしらせるために巨大化した(ふむ
東征毛人五十五國の征服軍は、
征服支配した毛人を出雲系銅鐸祭祀部族民を威圧するために、生口や守墓人にして、
征服当時は、より巨大でより立派なな祭祀物を造って、
前方後円墳の場合と同じように、大きな銅鐸を造った。 >>301
>ずらしてないのなら卑弥呼の死亡年を言ってもらおうか。
「不明」が正解
247年より何年かは後
263年よりは前 >>133
嘘吐き騙しの長里説の破綻は、大和説の破綻 >>306
>だめだめ! 266年以前に前方後円墳が在るならそれは誰の知識企画築造され、何故度量衡が漢尺で突然使われたのか?という説明を満たさなければならない。
という理由が言える?
無理だな 箸墓の建造時期は布留0式古相は変わらない。
それが年輪年代で258年という数字が出ている。
それは卑弥呼の死亡時期248年には届かない。
ならば卑弥呼の死亡時期を新しくずらすという馬鹿が出てきた、おそらく>>1だろうが。
ところがずらしてないと屁理屈こいとる。
死ね。 >>305
>>なんで年輪年代258年だと「間違えている」になるの?
>正しいという証拠は?
おまえ、知能ないな
いま「間違えている」って証拠ないと認めたろ
お前の負けだ >>313
卑弥呼の死248年
箸墓建造開始258年
合わない、お前の負け。 >>136
>中国から銅鐸はでてないよ
鐸は、鈴や鐘や風鈴や、カンギなどと同じようなものだから、
中国にもあっただろう、と思うよ。 だいたい高齢の女王が死んですぐに完成まで10年はかかる箸墓のような大古墳を作り始めるわけもない。
どっちみち箸墓では時間が合わない。 >>304
>だからさ、248年にする積りはないですよ、その出土遺物をさ。
そんなことより、
卑彌呼の王都たる王都集落遺跡を論じろ! 碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、卑彌呼の墓など在る訳がない。
オ〆なんかの膿味噌なんかではな、何もかもが無理なんだよ、莫迦は身の程を弁えな。 @阿波 >>135の追記
>中国から銅鐸はでてないよ
鐸は、鈴や鐘や風鈴や、カンギなどと同じようなものだから、
中国にもあっただろう、と思うよ。
Yahooで、無党派氏らが、
馬やラクダ?に付けた鈴のような音が出るものが、
銅鐸の淵源であるんだろう、と推定しておられたよ。 >>308
>(卑弥呼の死亡年)「不明」が正解 247年より何年かは後 263年よりは前//
だったらさ、倭人条正始8年記の後にさ、
「247年より何年かは後 263年よりは前」記が立つだろ。
247年ってのは「前年にするくらいは出来ても:>>268」見て思い付いたにしろ、
263年って、何処から来たのかは知らんがな。 おなザルの負けだよ
言い張ってもどうにもならん
まじもう死ねよ つまり卑弥呼の生前にすでに完成していた径百余歩の塚に、
卑弥呼の死後「ハカドコロ」を造ったのであろう。
つまり箸墓であるはずがないw
女王が死んで箸墓を作り始め、女王の遺体を10年間殯(もがり)に服してたのかw
アホの>>1 www >>304
>だからさ、248年にする積りはないですよ、その出土遺物をさ。
そんなことより、
卑彌呼の王都たる王都集落遺跡を論じろ! 碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、卑彌呼の墓など在る訳がない。
オ〆なんかの膿味噌なんかではな、何もかもが無理なんだよ、莫迦は身の程を弁えな。 @阿波 >>143
>しかしまあしつこいねぇ、半島南まで七千、千、千、千で北九州までで一万、いーまーりだろ?
で後二千、800キロで丁度畿内だろ
北九州まで一万里で、後二千里で大和には、全く届かんから、×だよ。 >>319
そんなことより、
卑彌呼の王都たる王都集落遺跡を論じろ! 碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、卑彌呼の墓など在る訳がない。
オ〆なんかの膿味噌なんかではな、何もかもが無理なんだよ、莫迦は身の程を弁えな。 @阿波 戻った話だよ、266年に司馬炎即位式を観た連中が造ったんならなんの不思議も無いんだよ、でも以前なら知らないんだよ、天丘方丘の合体を巨大化させて見せ、また天地水に殉教させ燔祀を行う事を 。何故266年以前にできるのか?それは原始道教の連中と尚且つ巫女を共存させた連中がやって来たからだよ。 >>322
> 卑彌呼の王都たる王都集落遺跡を論じろ! 碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に//
普通に纏向があり、大和水銀があるだろ、アホ。 >>146
魏の役人たちが、大体正確な距離を計測出来なかった、
という大和説者の想定が
頭どうかしてる .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>148
>ダメダメ。
瀬戸内のは突起付き円墳と柄鏡型円墳まで。
前方部が撥型に開く前方後円型には発展しない。
ふーん。 >>312
>根拠は?
卑弥呼の没年は記録が無いんだから当然不明
帯方郡に新太守が着任したのが247年
そのあと倭から使者が来た
それで郡からも使者を送った
その張政が倭に渡り、難升米に檄した
いろいろあってから卑弥呼が死んだ
つまり247年からすぐにではない
263年には壹与が女王だ
つまり、卑弥呼の没年はその間 卑弥呼の没年は記録が無いんだから当然不明
おまえが言い張ってるだけだろ、おな猿 >>327
>魏の役人たちが、大体正確な距離を計測出来なかった、
>という大和説者の想定が
当然の推定だな
末盧国からみた伊都国の方角さえわからない人々だというんだから >>323
>北九州まで一万里で、後二千里で大和には、全く届かんから、×だよ。
届かないという理由は? >>325
>戻った話だよ、266年に司馬炎即位式を観た連中が造ったんならなんの不思議も無いんだよ、でも以前なら知らないんだよ、
知らないという理由は?
>天丘方丘の合体を巨大化させて見せ、また天地水に殉教させ燔祀を行う事を 。
それと司馬炎即位式の関係は?
なんの関係もなくないか? >>331
その間に国中不服の相誅殺千人男王(孝霊天皇)も立たんとあかんしな
ところで臺与の即位が263年だという根拠は何なの? >>321
>つまり卑弥呼の生前にすでに完成していた径百余歩の塚に、
>卑弥呼の死後「ハカドコロ」を造ったのであろう。
>つまり箸墓であるはずがないw
理由が「のであろう」で、結果が「はずかない」
論理、死んでますね >>326
>普通に纏向があり、大和水銀があるだろ、アホ。
同じことを云い貼るだけのノータリン。オ〆の膿味噌では、何もかもが無理なんだよ、
莫迦は身の程を弁えな。 @阿波 >>336
>ところで臺与の即位が263年だという根拠は何なの?
臺与の即位が263年だと
誰が言った? >>337
ならば女王の御遺体を箸墓の建造期間の10年間、殯に服してましたでいいなw
恥ずかしくはないか? >>341
「263年には壹与が女王だ」が
どうして
「臺与の即位が263年だ」なの? > 卑彌呼の王都たる王都集落遺跡を論じろ!
名柄遺跡。
遺跡というより王宮は今では神社になっているはず。
名柄は遺跡と神社の両方が存在する。
日本で唯一、銅鐸と鏡が出たことでも有名。
それは出雲系大国主と筑紫の宗像三女神のタキリビメを意味する。
長柄神社は別命「姫の宮」 仁徳天皇陵の築造年数が約16年くらいだから、箸墓の築造年数は約4〜5年くらい
黒塚だと約1〜1.5年くらい >>342
なんで「女王の御遺体を箸墓の建造期間の10年間、殯に服してました」とか空想するの? >>154
>そんな測定してないのは確実 してれば会稽どころか宛城より北とわかる
陳寿は、女王國の位置推定として、「計其道里,當在會稽東治之東」と書き、
江蘇省の東岸付近東の、
「南九州の佐多岬付近から九州北岸のほぼ九州島付近」を言い当てているから、
中国での南北距離の計測を知っている。 >>343
じゃあ263年には壹与が女王だという根拠は何? 卑弥呼死248年
男王250年ごろまで
トヨ250年即位
こんなもんでいいのじゃね、箸墓に合わそうとして卑弥呼の死亡時期をずらして論理瓦解した>>1 >>158
史料トンデモ読みと、
ニセ古文書と、
Oパーツ盲信で捏ね上げたのが、
大和説ってことだな >>346
>なんで「女王の御遺体を箸墓の建造期間の10年間、殯に服してました」とか空想するの?
じゃ女王の御遺体はどうしてたの? >>347
>陳寿は、女王國の位置推定として、「計其道里,當在會稽東治之東」と書き、
>江蘇省の東岸付近東の、
>「南九州の佐多岬付近から九州北岸のほぼ九州島付近」を言い当てているから、
そんな会稽となんの関係もない場所が
なんで会稽東治なの? >>344
>名柄遺跡。
卑彌呼の王都を侮辱する気か? たわけ者の小便小僧! @阿波 >>345
>仁徳天皇陵の築造年数が約16年くらいだから、箸墓の築造年数は約4〜5年くらい
ソース出せ。
大林組の試算ではたしか大仙陵墓は20数年。 >>160
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭国の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は、
いつもすぐ論破されては、腹いせに罵ってるね >>353
卑弥呼は記紀でも誰なのか明らかなので後はその住処・葛城からさがせばいいだけ。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 >>351
>じゃ女王の御遺体はどうしてたの?
10年間という根拠もないし、モガリだという根拠ともない
改葬したかも知れない
なんで自分の想像だけで決め付けるの? 卑弥呼崩御 249年頃
男王の帝位 249年頃〜266年
臺与の帝位 266年〜 まだいうか?倭独自の度量衡でもありゃ前方後円墳はそれに従うだろ、知っていて卑弥呼の前にその教団があるなら造ってるんだよ前方後円墳を。 >>329
2300年前に縄文人とは異なった形質の弥生人があらわれると書いてある。
徐福集団やないかい。(ふむ >>354
>ソース出せ。
その元大林組技術者の試算だよ
五百人日で10年、千人日で5年 >>172
>こちとら、おまえが一生かかっても入れねえ京大卒だノータリン奴!
おや?、「中卒誹謗男」は京大卒だったのか?。
「東大理系博士号自称男」と言い、「京大卒自称男」と言い、
最近の東大京大は、・・・・アホ詐欺師ばっかりだなあ。 >>357
墓がすでに完成してなきゃ殯だろ。
何で女王が死んでから工事着工してるの? >>208
ちょびちょび増やすのは、ちょびちょび得になるからだよ。
それ以外に単位を引き延ばす理由があったら教えてもらいたいもんだ。 >>182
>九鼎って呼ばれる飯炊き窯が夏の時代に作られ
夏を破った周王朝にだいだい伝わり中国王朝の皇帝の証明になったってものだろ
秦の始皇帝も九鼎を探したが紛失して見つからなかったそおな
ふーん。 >>363
それ大仙陵墓単体での計算ね。
実際には百舌鳥羽曳野で大古墳連発だから、そっちにも人を取られそんなに人夫を集められない。 >>348
>じゃあ263年には壹与が女王だという根拠は何?
其女王遣使至帯方朝見、其後貢聘不絶、及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。 だから陵完成までミイラにして保管しといたんじゃないか? よりによって卑弥呼死亡248年説を否定してくるなんてw
>>1が哀れになってきたwww >>338 > 同じことを云い貼るだけのノータリン。 @阿保//
そりゃ普通にオ〆だし、
云われたことを鳴きながら云い返すって、莫迦丸出しだろ、寡頭生物が。 >>370
泰始元年は265年だぞ
泰始初という表現から臺与の朝貢は266年で正しいんだよ 狗奴国が東海では戦火が大き過ぎると考える。国中不服の男王が狗奴国王なら一旦遷都か?河内で内部対立に近いでしょ 事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
トヨの前の建甕尻が先代旧事本紀で別命タケミカヅチ、つまり今の鹿島神。
敗れたタケミナカタが諏訪大神、つまり天竜川をさかのぼって敗走し諏訪へ。
ということは両者が戦った狗奴国は天竜川河口の磐田・袋井・・浜松あたり。
久努国だな。 国中不服の男王の陵がおそらく椿井大塚山古墳
椿井大塚山古墳だけ山背に築造されるというおかしさから、
男王は山背で戦いに巻き込まれて戦死したものとみられる
不服だったのは山背の国か、たまの国(吉備)か??? >>221
>水行するのに南に4千里は必要不可欠だが、対馬にわたるには東に3千里で十分
計算を間違っているんではないか?。
郡を出て、「循海岸水行」の港まで行って、循海岸水行をして、
それから韓國について「歴韓國乍南乍東」して、
郡から「合計七千余里」で狗邪韓國に着くんだよ。 >>358
>卑弥呼崩御 249年頃
>男王の帝位 249年頃〜266年
>臺与の帝位 266年〜
卑弥呼もトヨも普通に記紀に登場してくるし決着してるの、分かった?
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 >>229
>箸墓は臺与陵だっての
「臺与」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
そのままで返事したら、嘘吐き騙しが伝染するな。
しかし、どっち道「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、箸墓説は×ね。 >>380
誰一人としておまえの与太話なんか支持してないよ
さっさと失せな孟宗竹 >>382
支持者増えてるよ、残念。
それより石野さんも寺沢さんも箸墓説をとっくに放棄してるよね、
残念だったね、今どんな気持ち??w >>233
>>魏が出来てから後の魏朝の記録や公的記録は、
ほぼ全て周髀算経の里や短里や短歩で記録されており、
文帝以前の漢代の記録や、武将らの上表文や報告などでは、
始皇帝の長里や長歩での記載であったらしい例が残っている。
>魏で見つかっている1尺24cmの尺定規と
使われていた度量衡を記した律歴志から
魏の1里が約430mだった証拠が見つかる
何だ?、この反論になっていない文は。
また、関係のない「いつもの文の貼り付け」か。
東大理系博士号自称男も、化けの皮が剥がれて来たか。 大和説者は箸墓の築造年数でおおもめだが、久留米の祇園山は山を少しけずっただけだからすぐ卑弥呼を葬送できる。大和みたいな問題は起きない。
箸墓卑弥呼の墓論者の認識がいかにええかげんか分かるよな。 >箸墓卑弥呼の墓論者の認識がいかにええかげんか分かるよな。
それはその通りだな。
しかし崇神を4世紀前半として、日本で唯一、大量の奴婢が埋葬されている場所は一つしかないのだ。
それは日本神話の原点・高天原だ。
奴婢とは土蜘蛛、それを誅殺した男は神武だ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png >>245
>ところが夏至の値と冬至の値を同時に満たす測定地点が実在しない
つまり実測値ではない
ところが、有効数字1〜2桁の近似計測値としてみると、
夏至の値と冬至の値を同時に大体満たす測定地点が実在する。
つまり実測値である。 >>381
臺与は椿大社でイクメの放った刺客によって暗殺された
箸墓は彼女より古い古墳だからあり得ない。 >>387
>>389
妄想乙
俺の霊感が全く違うってさw >>246
>「布留0古相248年から」は久住や森岡の説
他にも九州の考古学者は250年頃はもう布留0だという考えの人が多い
何?、久住も森岡も、
「布留0」造作の嘘吐き騙しだけではなく、
「布留0古相248年から」なんて、・・・・詐欺師のような事を言っていたのか?。
壹與の死亡を280年頃、と言った大和説者がいた、と思ったが、それだけでも、
那珂八幡や庄内1の石塚の前方後円墳時代が3世紀最末以後になってしまい、
ホケノや箸墓は4世紀になってしまうのに。 >>267
>>文帝の受命改制の詔書の記載事実であり、実態だよ。
>そこに度量衡統一の指示なんて無いな
確か「度量を同じゅうせよ」だったよ。
九州説さん、捏造はダメよ >>271
>為念ですが、箸墓は卑弥呼墓に他ならない、というのが私の考えです・・・
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正帝新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×です。 >>379
そのように解釈すると1里50m足らずとなってほかの表記と矛盾が生ずるので
この場合、三韓の大きさがわかっているのだから南に4000里、東に3000里という単純計算
そもそも陸行においても、直線で進めるところはわずかで遠回りを余儀なくされるがその分は考慮されないんではないか? 魏の1里は430mという事が当時使われていた定規などから判明している
九州説の言う1里76mの短里などは存在しなかった
九州説は少なくとも短里説は捨てて魏の1里は430mだったけれど
魏志倭人伝の里は距離を過大に見せるため二十里のとこを百里と
実際の5倍の距離で書かれてるとした方がまだ現実と合う 一里が何メートルかはどうでもいい
帯方郡から奴国までの距離を足すとほぼ11000里であり
帯方郡から邪馬台国までは12000里と陳寿が記したのは奴国から邪馬台国の近さを表現したかったからだよ 魏志韓伝に朝鮮半島の横幅も四千里と書かれてるでしょ。
アー聞こえないー
アー見えてないー
かw 魏の連中らはよ〜するに現地調査にやってきたって話だろ
日本には越人らがやってきて奴隷かっさらって魏に朝貢していたって話だったら? 魏の連中らはよ〜するに現地調査にやってきたって話だろ
日本には越人らがやってきて奴隷かっさらって魏に朝貢していたって話だったら? >>398
その割には奴国の先の不弥国から
南に水行20日陸行1月のけっこう離れた会稽東治の東にあるのが邪馬台国と書いてるぞ >>404
不弥国からなんてどこにも書かれてないよ >>397
じゃあ、邪馬台国はミッドウェー島にあったということでいいね
帯方郡≒ソウルと考えてソウルからミッドウェー島までの距離は5220km
12000里は5160kmだから60kmは「余」で十分説明がつく >>404
陳寿が一里=430mと勘違いしてそのまま載せてしまったのだろう 頭くるってんなあほんとによ😃
なんでミッドウェーになるの? >>277
>結局、>>1は「卑弥呼の死亡時期をずらす=ゴールポストをずらす」で破綻しましたwww
そうでしょうね。
しかし、スレ主が、普通の正常な神経であれば、
当然テンプレを撤回して、5chを撤退するんでしょうが、
久住や森岡らと同じように、大和説学者らは、
始めから「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをしていて、
その事への反省も出来ないような、
思想宗教にクルった半分精神的に異常な、・・・・アホ詐欺師なんでしょうから、
テンプレは残し続けるんでしょうね。
ここにたむろしているチンピラ大和説者らも、おそらく同じ。 >>280
魏朝では度量衡の統一令があった
そして当時使われていた資料等を使って書かれた三国志などで、
存在が確認されているのは
1里430mの長里じゃない短里 >>282
>おやおやザラコクさんは伊作さんと親しかったのですか。(ほーーー
ヤフーテキストリームのことかな?
いえ、伊作さんがいたのは、もう15年近く前の事でしたから、
textreamに変わる前の事です。
>実をいうと私は旧名、すぼ、SUBOです。
subo氏なら、時々議論していましたから、覚えていますよ。 >>400
>奴婢の痕跡ってどうやって調べるん?
史跡やその伝承。
式内・名神大社の境内を掘るわけにはいかないから。
なんでも掘って何か出てこなければ気が済まない馬鹿には分からない話だ。 >>284
>崇神が4世紀初頭から前半なのかどうか。
それで邪馬台国論争は終わるのだ。なぜなら崇神の少し前に最高位のトヨという女性がいるのだ。
ダメだな。倭人伝には「トヨという女性」はいない。いるのは「壹與」。
>しかもそのトヨ津姫は国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖・孝昭天皇のお母さんだ。
壹與は(姫氏系ではなく)伊都国の阿毎氏系であったから、
その東征将軍が中平銘鉄刀を大和に持ち込んだ、という可能性があるだけだ。
>更にそのトヨ津媛の3世代前(曾祖母世代)に比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后=卑弥呼(Bei mei hu)がいるのだ。
大和側の伝承は、記紀でもあったように、九州倭国の存在や歴史の隠蔽盗用造作が本質であり、
史料批判無しのそのままでは、根拠にならないのだ。
しかし、卑弥呼の3代後に壹與がいる、という話なら、
松野氏姫氏系図の「卑弥呼=刀良の3代後の市鹿文」に「壱ヨ」という説明が付けられている、
という事と一致する。
>住処は葛城、墓は高天原、土蜘蛛=奴婢と共に今もある。
纏向論者死亡wwww
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、大和論邪は死亡。 >>286
畿内は7世紀末まで存在しなかったが、
九州は倭人の「燕の南」時代から自称されていた事になる。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
後漢書は邪馬臺國が存在したから記録したが、
梁書や隋書や太平御覧などの後代史書は、自己解釈に拠って、
「魏志の邪馬壹國→邪馬臺國と書き換えた偽書であった。
卑弥呼の遣使年次は、同時代の記録は最も確率が高いの原則に拠って、景初二年でよく、
景初三年は、後代史家や現代大和説学者らのや「自己解釈により間違い」と判明している >>275
>久住さんや森岡さんが248年が基点などと具体的な数字だしてるなんて初めて聞いたが、
>ソースをくれ、またどうせ出せはしないのだろうが。
九州説じゃあるまいし、畿内説側がソースを出さないなんてことはあるか?
いや、ないな
森岡西村2003,2006、久住2010 >>287
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
この大和説男も、議論を全くせずに貼り付けばかりしている・・・・アホ狂人詐欺師のようであるが、
これも、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
×ね。 教えてくれや😃
とんでもなくピント外れなこと言い出すバカいるからよ
キチガイが多いが多いみたいだからな >>288
>おう懐かしいw
私はkssn216という子猫のアイコンだったが
ヤフオクであかん物売ってしまってyahooからレッドカードもらってssnk216に変えた。
勿論、知っていたよ。
kssnは、元は2chの人間であったようであったが、
Yahoo時代も2chに戻ってからも、葛城説が変えられずに、
私(zarakoku)に批判され続けていた。 >>289
>魏志倭人伝に書いてある事をそのまま受け止めたら邪馬台国はパプアニューギニア
または沖縄からパプアニューギニアにまたがる広大な邪馬台国大陸が存在していた事になる
この男も解釈間違い。
魏志倭人伝に書いてある事をそのまま受け止めたら邪馬壹國女王之所都は、
萬二千余里が不彌國付近でほぼ終わってしまっているから、
福岡平野〜筑紫平野付近であり、
投馬國が南九州付近である事になるから、女王國は「ほぼ九州島付近」。
>パプアニューギニア
または沖縄からパプアニューギニアにまたがる広大な邪馬台国大陸が存在していた事になる
分裂幻覚の妄想の、一種の・・・・。 >>294
大和説者の普段の書き込みの様子から察するに
国家国粋皇国史観宗教か?、シャブ関連か?だろ >森岡西村2003,2006、久住2010
はい嘘。
森岡さんは年輪年代を重要視して258年を基点にしておられた。
また出せというのだろうがyahooジオスティーズが見れないので俺の記憶だが。
何処の世界に卑弥呼248年=箸墓建造開始・布留0古相などとしてる考古学者がいるんだ。 >>296
>ずらすって証拠が出せないので九州説がまた敗退する
証拠や論拠を書いて結論を書き続けたから、
いい加減に飽きて結論だけを書いたら、大和説者が、また、
「ずらすって証拠が出せないので九州説がまた敗退する」と、
揚げ足を取ったかのように、喜んで、
「すらすら証拠が出せない」という「批判誹謗」の投稿を始める。 >私(zarakoku)に批判され続けていた。
お前に批判などされても痛くもかゆくもないわ。 >>312
>根拠は?
其八年,太守王頎到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。
卑彌呼以死・・・
だから、「張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之」として、
難升米に「齎詔書、黃幢,拜假、為檄告喻之」した事になり、
卑弥呼は面会出来ない状態であった事になり、
おそらく、かなりの重病であった、という事になるから。 >>411
>しかし、スレ主が、普通の正常な神経であれば、
>当然テンプレを撤回して、5chを撤退するんでしょうが、
上げたままでいいんじゃないの、自分で自分の大ポカの証拠をいつまでも残しておきたいんだから・・、 王族の墓域が150mほどあり、卑弥呼はその一角に埋葬されたのだろう。
卑弥呼が箸墓古墳という単独墓なら卑弥呼のお父さんやお母さん、男弟、
はては2世紀前半にはいた其国の男王のはかまで提示しなければいけないが、
纏向古墳群では無理だ。
つまり単独簿ではなく、上記、王族の墓域(集団墓)であろう。
当時は王族などと呼ばれていない、彼らは神々と呼ばれていた。
神々がいたのは高天原であり墓域もそこにあるのだ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
これはグーグルマップであり、俺が勝手に蜘蛛窟なんて付けたわけではないからな。
ちゃんと史跡として残ってるからグーグルさんも表示してるのだ。 >>416
>九州は倭人の「燕の南」時代から自称されていた事になる。
なるわけないだろ
「九州」は中華世界全土のことであって、倭人の自称であるわけがない
意味が違うし、称したという証拠もなにひとつ無い
何から何まで一介の素人老人の妄想だ
PCに侵入されたとかYahooに妨害されたとかいう被害妄想と同根 >>426
>卑弥呼は面会出来ない状態であった事になり、
難升米に会いに来たんだから卑弥呼に会う必要はない
卑弥呼が面会出来ない状態だとか空想する理由もない >>426
>おそらく、かなりの重病であった、という事になるから。
重病であったかもしれないし、或は死亡を隠していたのかもしれないが、
ともあれ、遣塞曹掾史張政等の「因齎詔書、黃幢,拜假○○○為檄告喻之」のスケジュールは、
予定通り(かつ形式に則り)無事に終了させることができた、という文脈だろう。
だからその直後に「卑彌呼以死・・・」と続くわけだ。 >>424
>証拠や論拠を書いて結論を書き続けたから、
>いい加減に飽きて結論だけを書いたら、大和説者が、また、
>「ずらすって証拠が出せないので九州説がまた敗退する」と、
でも、証拠は出せないんだろ?
なら、
「いい加減に飽きて結論だけを書いた」
は口から出まかせ、その場しのぎの言い訳で
「証拠や論拠を書いて結論を書き続けたから」
は真っ赤なウソということになる
だから
「ずらすって証拠が出せないでウソでごまかしたので九州説がまた敗退する」となる
そして、これは誹謗じゃなくて事実の指摘ということだ >>431
>だからその直後に「卑彌呼以死・・・」と続くわけだ。
直後だという根拠もない >>430
倭人伝というのは、全て(支配者たる)帯方郡が主人公であり、帯方郡から見た倭人・倭国・女王国が書かれている。
当然のこととして、遣塞曹掾史張政等は倭の王に会いに来たのだが、
王(卑弥呼)が不都合であれば、その臨時代理(難升米)でも良かったのだ。、 >>433
それな
卑弥呼崩御年は450年かもしれないし、452年かもしれない
10年は無理があるが、5年くらいは余裕を見て考えるべき ×卑弥呼崩御年は450年かもしれないし、452年かもしれない
○卑弥呼崩御年は250年かもしれないし、252年かもしれない
失礼 >>433
>直後だという根拠もない
読めない男だねえ、
ここで直後と書いたのは、「張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之」の文章の(直後に)続けて書かれているという意味だ。
死んだのが直後という意味ではない。
死んだのは張政等が到着する半年前だったかもしれないし、半年後だったのかもしれない。つまり倭人伝の範囲内ではわからない。 古本三国志をめぐって
https://rissho.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1578&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1&page_id=13&block_id=21
P44の44をみろ。已と以が通用しているだろ。
卑弥呼已死で、何の問題もないんだよ。
おなザル(=1)は、詫びて天ぷらとやらを訂正しろ。
他のやつも言ってるが、正始8年で始まる記事を
勝手に後ろにずらしたら反則だろ。
もうお前はレットカード退場だよ 卑彌呼以死は
そして卑弥呼は死んだ
以上で卑弥呼は死んだ
だから、張政の難升米拝借よりは後という事だろ
でも直後ではないな
5年くらいは余裕を見るべき >>437
いや、お前ってオツム足りてないな
文章に書かれてることの順番を
根拠もなく
勝手に変えたらダメだぞ
トンデモと呼ばれるからな
「拜假難升米」とあって
その後に
「卑彌呼以死・・・」
と続く
覚えておけよ
脳内時系列逆転は馬鹿の証明だ >>438
お前さ、成人なみの文章かけよ
他人に通じないぞ >>438
>他のやつも言ってるが、正始8年で始まる記事を
>勝手に後ろにずらしたら反則だろ。
言ってる奴は薄馬鹿だから仕方ない
人の悪意や罪は責められるが
頭が悪く生まれたのは本人の責任じゃないからな
正始8年で始まる記事が
すべて同じ年にあったことだとか思ったら
なんてかわいそうな脳だと思うだろ?
そうだよな
責めないぜ
同情する
続けて書いてある記事は、特に断りがなければ、順にあとで起こったことだ >>441
他人がわからないじゃなくて、お前がアホなだけ。
古本の三国志で以と已が通用している例があるんだよ。
だから卑弥呼已死、で良いわけだ
論文のP44, 44 の陸積伝「従今已去」
これでわかったかな?ボクゥ??? 其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。
遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
倭人伝は、歴史年表の如く順々にかかれており、
卑弥呼死の件は、正始八年の項に一連の記事として書かれているのであるから、
卑弥呼以死大作冢は、同八年内のことであったと解釈するのが適切。
正始八年以前の出来事であれば、八年記事の前に繰り上げとなり、その年号が入る。
八年以後であれば、八年以後の年号が入る。 >>444
てことは、男王も台与も正始八年のこと? >>444
>卑弥呼死の件は、正始八年の項に一連の記事として書かれているのであるから、
お前、ホントに頭悪いな
学歴とか聞いたら傷つけちゃうクラスだろ
>八年以後であれば、八年以後の年号が入る。
頭悪いんだから仕方ないか
親切に教えてやる
いいか?
正始八年のあと、年号はひとつも書かれてないだろ?
じゃあ、壹與が王になったのも、都に使者を送ったのも
全部が正始八年のことか?
お前の法則じゃ、そうなるよな
つまりお前は皆から馬鹿と呼ばれるんだ
確実にな >>446
それなw
俺もそう思った
卑弥呼崩御以降の出来事、男王の擁立、千人誅殺内紛、臺与の擁立については一切年号がない
だから卑弥呼崩御は正始八年とは限らない
5年くらいは余裕を持って見るべき 正史8年で已に死んでいたと魏志に書いているだろ。
妄想乙 >>450
古本の三国志も妄想か?
そう言うことにしたいらしいが、無理な相談だ
5chで息巻いても事実は曲げられないぞ。 >>451
古本の三国志のどこに
正史8年で已に死んでいたと書いてある? おい🤪
卑弥呼の子孫捕まえろよ🤩
祖先がやった罪を公にして大暴露しろよ😊
処分はみんなで話し合お〜🥺 >452
幼児化すんなよ。
晋代に「已」「以」が普通に通用してることは、古本三国志で明確。 奴婢を送ったってのは確かやからな
一人あたまそやな😃
1000万てとこか?賠償額 普通に考えて朝貢って言っても奴隷送ったなんて話は聞いたことないぞ
日本に乗り込んできた犯人により行われた可能性の方が高い >>454
>児化すんなよ。
>晋代に「已」「以」が普通に通用してることは、古本三国志で明確。
もうお爺ちゃんったら幼児化しちゃってw
正史8年で已に死んでいたと、どこにも書いて無いのはワカル?
すべての「以」を「已」に置き換えなきゃいけない理由は無いし
張政が卑弥呼に会いに来たわけでもない
さらに「時に」とか「今」とか接続して「卑弥呼以死」を前に文と結び付けてるわけでもないので
直前の文より前のことだと解釈する理由もない。
さらに、張政が倭に到着したのすら正史8年だという根拠すらない
わかるのは、墓を作る前に卑弥呼が死んでたというだけ >>447 >>448
卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壹與年十三為、国中遂定。
政等以檄告諭壹與。
壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、献上、、、
ま、そう来るだろうと予想しておったわ。
卑弥呼の死関連の次は、更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人だが、
此れだけの騒動が正始八年の内に片付くわけはない。
これは、卑弥呼の葬送が終わってすぐの正始八年には始まったであろうが、
千余人を殺傷するという大騒動だったということは、数年間は続いた事件だったのであろう。(読者は容易に想定できる)
それがおさまってようやく臺与の再共立となり、
臺与が朝貢するとき(266年)には、既に魏王朝はなくなっていたので、
魏史編纂の建前から、魏代事項でないこの朝貢には、あえて年号を入れなかったのであろう。、 >458
まず、晋代に於いて已と以が通用していたことを認めろよ。
読み替えじゃなくて通用な。 >>459
つまり卑弥呼の葬送が正始八年だったという理由も
何ひとつ無いのだが? >>460
そんなのは常識で誰でも知ってるが
すべての「以」は「已」と通用するので無いことも常識
ボケ爺ちゃん常識を知ってね >462
そう通用してるのは、常識だよ。
だから、已に死すと読むは、もっとも常識的な読み方。
墓穴乙 卑彌呼がいつ死のうとも、どうでもよい話。
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 >>463
ホントに頭が悪いんだなあ
通用するとは、同じ意味に読んでも支障ないってだけで
必ずそう読まねばならないとか、そう読むのが常識だということじゃ無いのよ
一つの漢字に数ある語義の一つだってだけ
それに「すでに」と読んでも必ず直前の文より前の時点のことになるわけでも無い
ましてや直前の文が正始八年の出来事だという根拠もない
だから
「正史8年で已に死んでいたと魏志に書いているだろ。」
は、お馬鹿さんの妄想 >>465
>泡は議論に絡む頭がないから消えろ
泡に議論で負けるからだろ? わははははは @阿波 >>459
>>459
あら?
自分は>>446だけど、
正始八年のうちに全部片付いてもいいんじゃないの?
やってきた張政は、持って来た詔書と黄幢を、
卑弥呼ではなくて、難升米に拝仮して檄告喩している。
卑弥呼は既に危篤だった。
乱だったら、壬申の乱とかでも1か月程度だし、
卑弥呼死去から乱を経て台与共立まで2か月程度の話かもしれない。
高齢の卑弥呼が危篤の時期があったなら、次の男王擁立とか、台与を共立する準備とか、
各派閥が準備をしていただろうからね。
女王台与にも檄告喩してるから、
同じく檄告喩された難升米が卑弥呼危篤時の最高権力者だったことになる。
台与には詔書と黄幢を渡せてないから、
張政は帰国せず邪馬台国に滞在し続けていたことになる。
6月に来て9月に帰った、くらいの話かも。
あと、張政の帰国が266年なら、それこそ晋の時代になるから、
因詣臺がどこを指すのか妙なことになる。 >>463
お情けで、一つ教えてあげよう
知能の低いきみに理解できるか不安だけど、他の人に知ってもらう意味もあるからね
よく引かれる用例だ
相国宣文侯先識取乱侮亡之義、深建宏図大挙之策。
今権已死、託孤於諸葛恪。
「すでに」孫権は死んだ。嘉平4年に死んだ
直前の文の主語は相国宣文侯。宣文侯は嘉平3年死去
「すでに」と書いてあるが、前の文の出来事の方が先にあったことだ
時系列はひっくり返らない
孫権が死去にあたり遺児を諸葛恪に託した
こういう因果関係&時系列なわけ
足りない頭でも、たまに少しは使うといいよ >>450 > (8年で已に死んでいたと魏志に)書いてないな//
「以死」は、既に死んでいた、だよ。
>>426
> 其八年,太守王キ到官・・・
だから、「張政等因齎詔書、黄幢,拜假難升米為檄告諭之」として、
難升米に「齎詔書、黄幢,拜假、為檄告諭之」した事になり、
卑弥呼は面会出来ない状態であった事になり//
直前の記載は「其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授」であり、
そして「其八年・・・」と続くんだろ。
正始6年に「難升米黄幢 付郡假授」のプランが出来て、
それを実行したのが正始8年だ。プラン通りに難升米に假授したのであって、
卑弥呼に会えなかったなんてのは、妄想だ。
「假授」となってるのはさ、本来は魏皇帝と卑弥呼の遣り取りなのだが、
実際は、帯方郡と難升米等の、双方代行者同士の遣り取りだからだよ。
で、正始8年に倭に行ってみたら、卑弥呼は既に死んでいた(以死)、という事だ。 >>370
> 其女王遣使至帯方朝見、其後貢聘不絶、及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢//
晋書97巻倭人条の末尾だな。
「其後貢聘不絶」だから、泰始年間まで絶えずに遣使重譯入貢だった、と云いたいのかね。
「及」を見落とすな。その前後で途絶えてるんだよ。
「其後貢聘不絶」というのは、景初2年(又は3年)から、正始8年までの事実を指すんだよ。
それとは別に(及)、「文帝作相」つまり、文帝司馬昭が魏の相国となった景元4年(263年)以降、
倭はまた何回かやってきて、泰始年間の初め頃には、使者を遣わして、
正始8年から久々に譯を重ねて貢を入れた、という事だ。
つまり、景初2年(又は3年)から正始8年までの第1次倭中外交と、
景元4年(263年)以降の第2次倭中外交があった、という事だ。
第2次は公式なものではなかったので、晋書本紀には記載されず、
日本書紀も、晋起居注なんてものから引っ張ってこざるを得なかった、という事だね。
>>459 > 此れだけの騒動が正始八年の内に片付くわけはない//
片づけたんだよ、彼はね、宗家お嬢のトヨたんを押し立てて、だろうけどね。
此れだけの騒動を片づけた彼、ミマキ(崇神)は、皇室の始祖となりえたんだろうさ。 >>470
卑彌呼がいつ死のうとも、どうでもよい話。
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
オ〆如き莫迦が覆すことなぞ不可能な現実なんだよ、ノータリン @阿波 >470 良く読めてるな
>469 意味不明だし、名無しのおな猿は死ね >>474
ミマキと言えば、「阿波」の美馬だよ。 @阿波 >>468
>卑弥呼は既に危篤だった。
とか想定を作っても
郡に新太守が着任したのが正始8年
そこへ倭の使者が来て陳情した
そこで郡使を倭に派遣
彼は難升米宛ての詔書を持ってきて、拝仮して檄告喩して
卑弥呼が死んで径100余歩の冢が作られて
男王が立って。動乱があって壹與が女王になる
政権が安定
それで洛陽に使者を出す。張政も帰国する
これ、どうやって1年間にやるの?
倭からの使者は魏代の263年にも来てる。
266年のは改めて新帝への表敬だろう >>471
>「其後貢聘不絶」というのは、景初2年(又は3年)から、正始8年までの事実を指すんだよ。
六年、行ってないだろ 正始8年(247年)5月、曹爽と対立した司馬懿は高齢と病気を理由に政務に一切関与しなくなる
嘉平元年(249年)1月、司馬懿がクーデターを起こして曹爽一族、一党を追放・誅殺し、
これ以降魏は事実上司馬師・司馬昭が専権するところとなった
魏の年号が書かれない「卑弥呼以死」以降は、司馬氏が実権を握った後だな >>474 > ミマキって魏志倭人伝の誰?//
うふふ、それは秘密だよ。てか、駄洒落になっちゃうんで・・・
邪馬台国の事務次官かな。
>>475 > ミマキと言えば、「阿波」の美馬だよ//
そりゃ単なるダジャレだろ、阿呆。 >>470
>「假授」となってるのはさ、本来は魏皇帝と卑弥呼の遣り取りなのだが、
最初から難升米に与える目的で詔書を用意してるんだから、それは無い
卑弥呼宛の詔書でも
「【假】金印紫綬,裝封【付】帶方太守【假授】汝」
だ >>479
>そりゃ単なるダジャレだろ、阿呆。
阿呆はオ〆だ。
むろんオ〆の膿味噌には、モノを知るなんて機能は欠落している。
体温調節と代謝制御を専らとするシロモノでしかなく、
鳴き言を垂れ流すしかスベのない寡頭生物だね。 @阿波 >>476
>卑弥呼が死んで径100余歩の冢が作られて
これだけでも数年かかる
張政トンボ返り説には無理がある 黄幢は皇帝軍旗で魏の軍なので
魏の率善中郎將である難升米に拝假したということだな >>472
出土してるものがピカイチに古いわけでもなんでもないのにホラばかり >>484
オ〆如き莫迦が覆すことなぞ不可能な現実なんだよ、ノータリン @阿波 >>204
ミマキは大和入りしてないし、物部氏だから本来は現在の皇室とは厳密に関係ない。
男系としては欽明天皇まで。
女系とすればその手前の平群王朝まで 朝鮮半島からの日本への渡来人も2種類に分かれるな〜
穢狛人か呉越人かどっちか😃
長崎あたりには元寇のときの死に損ないが住み着いているからC系がおるんだね😊 呉越人ならなあ
長江出身やけね🤪
帯方郡からきたとか抜かしてるんも穢狛人やしなあ
大阪あたり穢狛人の巣窟やで
向こうに越王ってバカがいるんだよ
漢王のゴマスリでな😃
取り入れば王として認めて貰えるからってんでゴマスリ朝貢やった疑いがあるんだね😊
で日本に来て奴隷らかっさらっていったとな🤩
卑弥呼の官の師升ってのがいるだろ
こいつの正体の疑惑があるのが越王、趨升 魏か?
そいつら日本にきたニカ😃
どんな賠償取れる😊??? >>480 > 最初から難升米に与える目的で詔書を用意してるんだから、それは無い//
難升米は単なる外相だろ。与える目的は卑弥呼だ。
> 卑弥呼宛の詔書でも 「【假】金印紫綬,裝封【付】帶方太守【假授】汝」だ//
洛陽に赴いて皇帝に直接面談し、詔書や金印受取ったのは、難升米だろ。
詔書の中でも、「皆裝封付難升米」とあるんだから、難升米には假授で、
卑弥呼ちゃんには間違いなく、本授をキメてねハァト、って事だろ、
会見の場にいたであろう、対倭外交統括責任者の曹爽としてはさ。 >>470
>で、正始8年に倭に行ってみたら、卑弥呼は既に死んでいた(以死)、という事だ。
張政が行ってみたら卑弥呼は既に死んでいたので 徑百餘歩の冢を作ってやった、と読むのは不可解で、
遣張政と狗奴国不和や卑弥呼の死とを関連づける必要はなさそ。
正始八年(の出来事):
・倭女王卑弥呼と狗奴國男王卑弥弓呼が不和なので 載斯烏越等が郡に来て愚痴をこぼしました。
・張政は(正始6年に渡すことが決まっていた)黄幢を難升米に渡すため、倭に行きました。
・卑弥呼が死んだので 徑百餘歩の冢を作りました。
・「更」に男王がたったものの國中不服で、「更」に相誅殺 當時殺千餘人(という騒動になりました。)
・・・・という具合に、単に羅列しているだけのようだな。 魏に対して朝貢したんだよな?😃
なら魏の人間らが日本から連れていかれた人間らの人肉料理を食った可能性がある
奴婢料理なら人権ないしの >>491
>詔書の中でも、「皆裝封付難升米」とあるんだから、難升米には假授で、
>卑弥呼ちゃんには間違いなく、本授をキメてねハァト、って事だろ、
卑弥呼宛の詔書で 「【假】金印紫綬,裝封【付】帶方太守【假授】汝」だ
汝って卑弥呼のことだよ
卑弥呼に仮授してる
難升米には付してるだけ >>237
阿波はどちらかと言えば、大和で負けて淡路島に逃げたタジマノモリの影響の方が強いと思われる。
特に淡路島は古い地名の残存率90%を超える地域。ヒボコ系の地名などはすぐにわかる。
その後、狗奴国系に制圧された様だ。だから新しい年代の大型銅鐸が出土する >>478
>魏の年号が書かれない「卑弥呼以死」以降は、司馬氏が実権を握った後だな
これ、重要 >>241
学者の中でもこの年は魏国で揉め事があり、景初三年を誤記したとする説がある >>473
>>469 意味不明だし、名無しのおな猿は死ね
これ理解できないって、脳がサルだな 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに聞き知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ摺り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!
もしも箸墓が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大】作冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w >>290
それ都万国の事。
西都原は日向の王者、三韓征伐の武内襲津彦王の拠点。 >>314
そもそもが東征の最中に死んだ卑弥呼なのに、あんな古墳がすぐに出来るものかよw
旧家伝承では宮島の厳島でモガリが行われ、遺骨の一部は宇佐八幡の社殿の中に鎮座。
古墳はその近辺の山中
豊国のウサ族出身の豊玉姫なんだから、そもそもが奈良に古墳など作られるわけがない。 >>315
越の国から日本国内の出雲式のそれに似たものが出てきて朝日新聞の記事になってる。
前スレでも出てたじゃん >其(正始)六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授
正始六年に詔を賜ってだから、「改めて、詔により難升米に黄幢を渡すことになった・・・」だろうな
>「更」立男王 國中不服 「更」相誅殺 當時殺千餘人 。
更には、時間・季節・年月の深まりという意味がある。
卑弥呼の死、大作冢徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人から、更に(ややあって)立男王 國中不服 、
更に(ややあって)相誅殺 當時殺千餘人・・、の意味合いであろうな。 >>407
不彌国の次に水行20日で投馬国と続くぞ
不彌国からの水行じゃないならどこから水行するというの >>409
魏の1里は430mだよ
これは秦の時代の1里からだいたい共通している長さ >>412
当時魏で使われていたモノサシや使われていた度量衡を記した律歴志によって
魏の里は1里430mと判明している
さらに魏では度量衡の統一令があったので
これ以外の単位は存在しなかったという事になる
つまり九州説のいう1里76mの短里なんtのはなかった 帯方郡太守の王キは司馬懿一族について
西晋建国後も汝南の太守にまで出世している
【正史】?丘倹の東方遠征に参加し、東方諸郡の太守を歴任。
隣国と争っていた倭の女王・卑弥呼の要請を受けた際は、和解を促した。
統率69 武力67 知力61 政治70 (三国志13) >>482
>(径100余歩の冢)これだけでも数年かかる 張政トンボ返り説には無理がある//
突貫工事で作ったんだよ、前方部も周溝もない円墳だけをさ。
書紀に書いてあるだろ、昼はヒトが夜は神が作ったなんてさ。
無理っぽいのにやっちまったよ、という事だ。卑弥呼急死は、日中史料で一致している。
>>494
> 卑弥呼宛の詔書で 「【假】金印紫綬,裝封【付】帶方太守【假授】汝」だ
汝って卑弥呼のことだよ 卑弥呼に仮授してる 難升米には付してるだけ//
だからさ、詔書の中では、卑弥呼も難升米も帶方太守劉夏も登場してるだろ。
だが、皇帝に対面してるのは、難升米と帶方太守劉夏であって、卑弥呼はその場にいない。
仮授され付されるのは難升米と劉夏で、本授されるのは汝・卑弥呼だよ。
本来は直接ねぎらう所だが、汝所在踰遠だし、晋王司馬を呼びつける様にはいかんので、
遣り取りは面前の難升米と劉夏挟むから、全部仮だけど、気を悪くしないでね、
ってさ、あちらさんなりに気を使って、丁寧な詔書にしてるんですよ。
> 帶方太守【假授】汝//
授と汝の間は切れてます。 >>507
よしよし、そうだというなら1里430mで倭人伝の里を解読し、
自女王国以北の国々の在りかを説明して見せろ、期待しておるぞ。 >>416
倭人の自称は倭
もし九州に住む倭人が倭人でなくて九州人と自称していたなら
卑弥呼の金印銘は親魏倭王なので
卑弥呼は九州にはいなかったという事になる
梁書や隋書や太平御覧は魏志曰くなどの
当時存在していた魏志倭人伝の引き写しである事を明記していて
つまり当時の魏志倭人伝には邪馬臺國という風に表記されていたということ >>416
卑弥呼の遣使が景初二年と書いているのは12世紀ごろに復刻された魏志倭人伝なので
3世紀に書かれた原本により近いのは12世紀の復刻本よりも
5世紀の後漢書や8世紀の梁書や日本書紀あるいは11世紀の太平御覧ということになる
そして12世紀以前の史書は遣使を景初三年の出来事と記している >>482
平原遺跡1号墓なら数十人の男で1週間もありゃ作れる。 >>421
魏志倭人伝に書いてある事をそのまま受け止めたら
邪馬台国は会稽東治の東つまり沖縄や台湾の辺り
もしくは帯方より南に1万2千里と書いてあるのでパプアニューギニアの辺り >>422
おまわりさんこのザラコクと呼ばれる男は
書いてある事に延々とオウム返しをするという奇行を繰り返してばかりいるので
ヤクをやってる可能性があるので調べてみた方がいいですよ >>515
そうか、そんなに遠くか
それでは、沖縄や台湾の辺り、もしくはパプアニューギニアの辺りで邪馬台国を探してくれ、期待しておるぞ。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>510
魏の里は1里約430mだったので
帯方より邪馬台国までの道里は南1万2千里が示すのはパプアニューギニアになるので
魏志倭人伝に書いてある里は架空のものの可能性が強く実際の邪馬台国の位置を表しているとは言えない
自女王国以北の国々は対馬国とか壱岐国などの
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国に至るまで通り過ぎた国々
邪馬台国はそれより南に水行陸行した先にある国という想定になっているのだから >>517
そんな所に邪馬台国があったわけないだら >>519
>帯方より邪馬台国までの道里は南1万2千里が示すのはパプアニューギニアになるので
12,000里のうち7,000里は方四千余里の韓を行くので南方向は9,000里以下になる
で、ハノイが洛陽の南11,000里だからパプアじゃないね。帯方郡の9,000里南ならハノイより北
福建省か台湾、沖縄で良さげ そんなわけで、九州到着までは何らかの政治的理由で、〆めて10,000里になるよう細工してあって、その先は数字の細工は無いが方角を90度歪めてるって推理が一番リアルっしょ >>521
>福建省か台湾、沖縄で良さげ
そうか、そんなに良さげならすぐ見つかるな、福建省か台湾、沖縄ですぐにも見つけてくれ、期待しておるぞ >>522
そうか、では九州到着までの1万里は、何らかの政治的理由で1里430mではないのだな。
それがばれたら絞首刑ものだが、それでよいのだな。 523
台湾の名前は三国志あたりの時代の名前で夷州って出るよ
中国大陸から見て台湾島には富士山🗻より高い冬山が見えるから古くから島があるってのは認知されていたみたいだぞ
中国から台湾の距離はおよそ220キロ >>522
いや古くからの伝承
恐らく漢の時代に朝貢した倭奴国の位置が帯方(楽浪)より南1万2千里という事になっていた可能性がある
後漢書には倭奴国は倭の極南界にあると書いているから
つまり倭まで帯方より南に1万里
その都まではさらに2千里で合計1万2千里の倭の極南界という伝承が
漢の頃から作られていて
魏志倭人伝は邪馬台国の位置をその伝承に当てはめて書いたものと見れるね
国境より1万2千里四方が世界の果てというのは漢の空想的な地理書
淮南子に出てくる数値だしな
帯方より南1万2千里は言うなれば実際の場所ではなくて
空想的な世界の果てを指している数字 台湾の名前が夷州
他に澶州って不明のところもある
日本は瀛州 >>525
>そうか、では九州到着までの1万里は、何らかの政治的理由で1里430mではないのだな。
>それがばれたら絞首刑ものだが、それでよいのだな。
いや、あそこはバレバレでも上の人の機嫌が良くなる嘘をつかないと縛り首になる国だぞ 230年 孫権の命令で兵1万を連れて東方を調査に向かった衛温と諸葛直が
夷州人数千人連れ帰るが多くの兵を失い処罰されて二人とも獄死 (呉書)
239年 倭人が朝貢 魏の皇帝曹芳は卑弥呼を親魏倭王とし
通常の返礼品の他に特別に倭人が欲しいもの与える
汝の在る所は遠きを踰(こ)える。
すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。
今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。
汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。
汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。
今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。
銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。
今、絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。
又、特に ←
汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。
還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。
故に、鄭重に汝の好物を賜うなり。 ←
(魏志倭人伝)
辺境の島国の倭人に対して魏の中央が破格の対応をしたのは
倭人を夷州人(台湾人)と考えて
呉の味方せず魏に味方してもらおうとした
247年以降 中央に忠実な帯方郡の太守王キは
中央の考え(倭人は夷州人(台湾人))に合わせて
邪馬台国の位置を沖縄台湾あたりとした
資料的にも時系列的にもスジがとおる説明になってると思われ >帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、
>我が国(魏)が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。
>そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。
230年呉に数千人味方してついていった夷州人(台湾人)に対して
味方するなら魏の方がいいと国中にふれて回りなさい
と魏の皇帝曹芳が要望を出しているようにみえてこないかな 魏としては呉の隣国は全て魏のシンパにしておきたいわな >>529
>いや、あそこはバレバレでも上の人の機嫌が良くなる嘘をつかないと縛り首になる国だぞ
そうか、どこかしら纒向や橿原方面の学の雰囲気に似てるようだな。小耳にはさんだ話ではあるが。 532
一方その頃、日本には🐵が住んでいたと言う、、、 🐵にそのうち無双されてほとほと手を焼いたみたいやで🤪 迫りくる🐵軍団
🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵 しかし魏という国も単なる戦国時代の一国にすぎんのな
最初の朝貢で謁見した明帝が崩御して243年の二回目の朝貢のときに謁見した
魏皇帝曹芳は253年に側近の司馬師に廃位されて斉王に降格、265年に晋が成立すると
さらに邵陵公に降格されて郡の一太守まで落ちぶれて、274年に43歳の若さで
亡くなっている
恐るべき中国の政権争い まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! まーだやってらっしゃるのか
「大和忌部」陵 ← 黒塚古墳(天理市)
「東海忌部」陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 漢の皇帝には地方の王を決める権限があったんだとさ
そこで認められれば何とか王みたいなんで落ちぶれたやつらでも再興とかできたわけ
越王とかもそれ 漢の皇帝に王として認めてもらうために日本まで乗り込んで奴隷らを集めての朝貢貿易をやったんでないかと言うのが今の時点での予測
漢の時代末期にはほんとに越王、鄒升ってのがいただ
分からなくしてるけどな
攻められたら海に逃げればよいみたいなこと書かれてるし連中らが日本に来て拠点にしていた可能性はある 漢の皇帝に王として認めてもらうために日本まで乗り込んで奴隷らを集めての朝貢貿易をやったんでないかと言うのが今の時点での予測
漢の時代末期にはほんとに越王、鄒升ってのがいただ
分からなくしてるけどな
攻められたら海に逃げればよいみたいなこと書かれてるし連中らが日本に来て拠点にしていた可能性はある >>504
1 伊都国までの経路については「方角-移動手段-距離-目的地」
奴国と不弥国は「方角-目的地-距離」となり、移動手段がない
つまり伊都国からその際にあるのはという書き方に変化
伊都国においてのみ「到」ということも実際に移動したのはそこまでという解釈が正しい
2 投馬国と邪馬壱国においては「方角-目的地-手段と日数」となり、また変化している
出発里が伊都国や不弥国と解釈した場合、後に出てくる説明と符合しない
・自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
・其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
・自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
・参問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里
これらの説明と符合する解釈は、出発地を帯方郡からの日程表記とするほかない >>537
>さらに邵陵公に降格されて
生きてるだけいいじゃん
次の皇帝曹髦なんて司馬昭一味に惨殺されてっから 543
うん
だから魏からの使者らが来たのが帯方郡からだろ
その時代にはすでに魏とは別の勢力が日本内に存在していたの もともと朝貢だのしてまで日本にいるやつらが王に認めて貰う必要あるかって話
かなり時代が下ってからの中国の朝貢ってのは中国の役人らが他国を周り朝貢貿易しろ〜!って宣伝していたみたいやがなw どちらかっちゃあまり戦争のない時代に突入してからの話なんだね
その朝貢しろ〜!って使者らが来るの 呉人と呼ばれているが紀元前後ころから九州において大陸との交易を示すものは出ているだけ😃
硯やら漢字を使っての交易の後やら その越王の連中らが九州あたりに勢力を張りみたいな話が邪馬台国の話なんではないかとな😃
確かに位置は九州で合ってるよ 誰も魏とは言っとらん
魏の連中らが日本に来た痕跡はない
帯方郡からはやってきた連中らおるみたいやがな まーだやってらっしゃるのか
「大和忌部」陵 ← 黒塚古墳(天理市)
「東海忌部」陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>552
>帯方郡からなんてどこにも書いてないよ
放射説とか考案してた頃の九州説はまだ良かったよ
帯方郡起点説とか全くあり得ないこと言い出したあたりからだな
九州説が文献学者からも完全に捨てられたのは 呉越と交流があって何で江南名物の青磁の一つも出土してないのか?
ここは中卒未満の頭パースレか >曹操軍と倭人たちは直接戦った?可能性がある。
北魏、麗道元(れきどうげん)の『水経注』には、
遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。 蓋し倭地。人これに移る。」 とある
白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、
曹操(魏の基礎を作った)と中国北部の異民族烏桓(烏丸)との間で行われた戦い。
白狼山の側を流れるのが白狼水で倭人の居住地や倭城があったと云われる。
曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓(烏丸)を打ち破り、
この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。
京都の烏丸(からすま)通りには烏丸川が流れてたらしいから気になる。 倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れ
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。
呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。
勾踐は北上し、 山東半島の琅邪に都を置いたと言うから海に逃げ、
山東半島から遼東半島へ島伝いに移動した可能性がある。 魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして、「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行ったところ、
数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。
汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、
烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。
今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、
後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。 >>555
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👢 _👢 >>333
>>魏の役人たちが、大体正確な距離を計測出来なかった、
という大和説者の想定が
>当然の推定だな
末盧国からみた伊都国の方角さえわからない人々だというんだから
末盧國からは伊都國は見えないんだから、当然、方角も判らない。
当たり前の事。 >>552
主語が省略されてるが、文章全体を通してわかるように書かれているのだよ。
漢文とはそういうもの。 >>554
いちいちケチつけるんじゃなく理論的に反論したらどうだ? >>344
>> 卑彌呼の王都たる王都集落遺跡を論じろ!
>名柄遺跡。
遺跡というより王宮は今では神社になっているはず。
名柄は遺跡と神社の両方が存在する。
日本で唯一、銅鐸と鏡が出たことでも有名。
それは出雲系大国主と筑紫の宗像三女神のタキリビメを意味する。
長柄神社は別命「姫の宮」
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。 同じ焼き物だから埴輪くらい作れるのも当たり前
なんで他国の焼き物ありがたがる必要がある?
青磁が評価されたのはその色合いだよ 青銅器みたいな金属類はその技法がないからもともと存在しなかった
石でできた剣なら東北からでてるよ >>561
>末盧國からは伊都國は見えないんだから、当然、方角も判らない。
>当たり前の事。
郡から狗邪韓国まで七千里ほど
三角測量で測ったなんてあり得ないと
九州説が認めました >>554
お前にもう一つぎゃふんと言わせてやろう
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都
帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
つまり伊都国が政治の中心地であり、司令塔から受けた指示を実行する中心地であることは疑いようがない
2か月もかかる遠いところから指令できるとでも思ってんのか?
ありえんでしょ。 いつしか作らなくなったから弥生式みたいなそれしか残っとらん
なぜ作らなくなったのかは謎 555
青磁が作られたのは宋の時代
それ以前にあったか? 倭人たちは基本海洋民で陶器など土器は転がって割れる物は有りがたがらない
青銅器など金属の方が大事にし威儀物として扱ってる。 >>562
文章全体を通してみると
魏志倭人伝は邪馬台国を会稽東治の東つまり沖縄や台湾あたりの
かなり離れた南方に想定しているように見えるね >会稽東治の東
日本の東にグアムやハワイがありますと同じくらいの話 >>578
会稽東治の東は今でいうと福建省福州市の東
沖縄や台湾のあたり 「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」とある。
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に「呉」で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、文献上から「会稽の治所」があったことがわかる。 @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm >>579
で、福建省福州市の東に何があるのか弥生時代の魏人は知ることができたのか?
所詮はなんとなく暖かそうな東南の島国だよという話。
行程記事と全く別の場所に書かれているしな。 行程記事では、いずれも帯方郡から出発で、
里程と
日程が
並行して書かれている。
はい、決着〜。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>580
後漢書には
会稽東治は中国最南部で緯度がハワイやグアムと同じの
朱崖タンジ郡とお互いに近いと書いてある >>581
そうだよ
なので魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は架空のものという事だ >>585
論理の飛躍して楽しいかい?
>会稽東治の東
→所詮はなんとなく暖かそうな東南の島国だよという話。
なんの否定にも使えない。
で、正確な行程は、
いずれも帯方郡から出発で、
里程と
日程が
並行して書かれている。
以上。 >>586
魏志倭人伝に正確な行程なんて書かれてないんだけど 遣唐使の時代はまず留学僧や留学生らを送ったろ
そんで向こうで学んできたことを日本内で再現だきるよ〜に勤めた 一番凄かったのはやはり寺院らしかったからな
何千体と言われる黄金仏らが飾ってあったらし〜でよ
百済あたりにもそ〜いうのなかったのかな? 帯方郡から来たとしてもその連中ら漢人じゃなくて穢狛人らだけどね
帯方郡が設置されたときに漢姓に切り替えた連中らが多いから漢人ちゃ漢人やが >>587
>魏志倭人伝に正確な行程なんて書かれてないんだけど
正確に書かれているんだけど? @阿波 >>477 > 六年、行ってないだろ//
ン? 小学校中退、ってなハナシか? てか、だから何?
正始6年記については、>>470にて、
正始6年に「難升米黄幢 付郡假授」のプランが出来て、それを実行したのが正始8年、だ
と書いた通りで、その年は倭中の遣り取りはなかったかも、と想定してますが。 そいから漢の皇帝の子孫だの帯方郡にはきとらん
連中らがいついたのは山東半島と中国江南地方
中国江南地方は稲作作りに関わる役人みたいなの >>591
魏志倭人伝に邪馬台国は沖縄や台湾の辺りと書いてあるので
阿波は邪馬台国沖縄説を主張する気? >>594
>阿波は邪馬台国沖縄説を主張する気?
「丹」の採れない沖縄に「邪馬臺国」が在る訳ないだろ? 頭大丈夫? @阿波 お、中学生どもが、年寄りを釣りにきおったな
邪馬台国は尖閣諸島の魚釣島だ、あっち行け! >>356
>卑弥呼は記紀でも誰なのか明らかなので後はその住処・葛城からさがせばいいだけ・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。 >>555
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👢 _👢 その黄幢が大魏國属旗なんでしょ
そいやあ神功皇后の伝承にも旗の話がでるでな
8本の旗とやらの話
この8本の旗から八幡(やはた)って名前がついた >>555
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👢 _👢 >>594
畿無説ってあれだなw
将棋とかチェスとかで負け確して、ぐしゃって駒をまき散らす厨みだいだなw >>603
>丹なんてどこでも採れるもんね
うん、でも卑彌呼の時代は「阿波」だけなんだけどね。 わははははは @阿波 魏の皇帝、曹なんちゃらも最後、司馬なんとかにぬっ殺されたんだっけ? >>607
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 魏の最大の敵は呉でも蜀でも何でもなく、側近、つまり身内だったという皮肉 >>366
>墓がすでに完成してなきゃ殯だろ。
何で女王が死んでから工事着工してるの?
其八年,太守王頎到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。
この時点で、張政は、卑弥呼に檄告喻するのではなく、難升米に檄告喻しているから、
卑弥呼は、張政が面会も出来ない位の状態であり、「病床にあった」と思われる。
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
だから卑弥呼は、張政が難升米に面会した事を「以て死んだ」事になる。
そして墓を造った。
更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。
「更に立つ男王」だから、男王は、卑弥呼の葬儀の後、それほど間を置かずに「王に立った」事になる。
>復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與・・・
「復」の年数は不明だが、張政らは壹與に「檄告喻」をしており、
この「檄告喻」は、当然卑弥呼への「檄告喻」の筈であったものであり、
張政らは、卑弥呼が病床にあって「檄告喻」出来なかったし、卑弥呼が無くなってしまったから、
改めて新王の壹與を「正式の卑弥呼の後継者」として、檄告喻した、という事になる。 >>602
どうしてそんな意味不明な罵りが出るの? >>607
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 >>612
でも卑彌呼の時代は「阿波」だけなんだけどね。 わははははは @阿波 >>614
それを言うなら卑弥呼の時代の径百歩の墓は畿内だけ >>492
> 張政が行ってみたら卑弥呼は既に死んでいたので
徑百餘歩の冢を作ってやった、と読むのは不可解で//
はァ? 張政が墓作ったのか? 不可解だな。
> 遣張政と狗奴国不和や卑弥呼の死とを関連づける必要はなさそ//
告諭対象の卑弥呼が、行ってみたら死んでて、争乱状態だったんだ。
グムムゥ、どうした物か、というのが外交官張政の立場だろ。無関係な訳なかろうが。
箸墓築造について日本書紀は、昼は人が作り夜は神が作った、なんて書いてある。
モモたんこと卑弥呼は急死して、径百歩の墳墓がみるみる築かれた事を云ってるんだよ。
卑弥呼急死と墳墓突貫工事については、日中の記載は一致している。 >>617
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👢 _👢 >>611
自分たち九州説がもう死んだのを知ってて
自暴自棄だからだよ 百襲姫は崇神天皇と絡んだエピソードが幾つもあるだろ
崇神天皇は百襲姫の甥の息子だから年齢差が40歳以上
そうすると崇神天皇が生まれたのは3世紀初めから3世紀前半中頃くらいまでの間
あり得ない
百襲姫は卑弥呼ではない
百襲姫に該当するのは臺与しかいない >>374
>泰始元年は265年だぞ
泰始初という表現から臺与の朝貢は266年で正しいんだよ
臺与なんて、倭人伝に存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。 >>375
>狗奴国が東海では戦火が大き過ぎると考える。
国中不服の男王が狗奴国王なら一旦遷都か?河内で内部対立に近いでしょ
倭人伝には、狗奴國の移動など記載されていないから、
陳寿執筆時までは、狗奴國は女王の南であり続けた、という事になるので、
この大和説男は、×。 >>610
>この時点で、張政は、卑弥呼に檄告喻するのではなく、難升米に檄告喻しているから、
>卑弥呼は、張政が面会も出来ない位の状態であり、「病床にあった」と思われる。
それ、意味不明
曲がりなりにも難升米に詔書を届ける勅使の立場だから彼に対して告喻はできても、身分的に格上の倭国王に独断で告喻できるの?
外臣の国王とだったら郡太守が釣り合う立場
掾史って、明らかに格下でしょ
だから、まだ国王位を拝してない壹与にしか出来ないだけだよ >>378
>トヨの前の建甕尻が先代旧事本紀で別命タケミカヅチ、つまり今の鹿島神。
敗れたタケミナカタが諏訪大神、つまり天竜川をさかのぼって敗走し諏訪へ。
ということは両者が戦った狗奴国は天竜川河口の磐田・袋井・・浜松あたり。
久努国だな。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。 >>378
>国中不服の男王の陵がおそらく椿井大塚山古墳
椿井大塚山古墳だけ山背に築造されるというおかしさから、
男王は山背で戦いに巻き込まれて戦死したものとみられる
不服だったのは山背の国か、たまの国(吉備)か???
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
この大和説男が×。 >>380
>卑弥呼もトヨも普通に記紀に登場してくるし決着してるの、分かった?
記紀は、倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作している半分偽書であり、
トヨなんて、倭人伝には存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。 >>544
そうした硯は、今で言えば「使わないけどpcは持っておく」という価値財としたものなのか、それとも「実際にそのpcをインターネットにつないで交信した」ものなのかが重要だね。 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>389
>臺与は椿大社でイクメの放った刺客によって暗殺された
臺与なんて、倭人伝に存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。
>箸墓は彼女より古い古墳だからあり得ない。
箸墓は、布留1であり、
3世紀最末の庄内1の石塚や庄内3のホケノの後だから、
4世紀であり、×。 >>619
畿内にあるのは、「忌部はん」 のお墓だけ。 @阿波 >>627
>面白いの見つけた
>論破できる?
主張の中身わからんから何とも言えないが
九州説なら論破は簡単じゃね? >>624
そら、皇帝の名代だから、告諭に関したら皇帝からの告諭ということになるので、卑弥呼より格上ということになる。
江戸時代でも、徳川将軍の指示を大名に伝える役人に、大名は下座で対応したようだからね。 >>631
もう一度事実関係を確認してから出直してこいw
2018年の再調査の結果
ホケノは4世紀に修正
箸墓は二世紀代に修正
口から出まかせしか出ないのならすっこんでろ
>「3世紀最末の庄内1の石塚や庄内3のホケノの後だから、
4世紀であり、×。」 トヨの名前を持ってるの豊受入姫だけなんだね
あとはすっげえ時代が遡らなきゃならない
豊玉姫 葛城に居ついた和邇吉氏ってのがおるやろ😃
この一族らしいで豊玉姫
山幸彦と結婚して神武天皇とやらの祖母になった人ニダ😃 >>621
そもそもがモモソ姫は大彦の頃、160年代の人
崇神天皇とは全く血縁がない。(徐福、スサノオ、饒速日、ホアカリ、速玉、ワダツミ)の頃に分かれている。
DNA的には断片的な関係
ヤマトは都万国より先に朝貢してたから、モモソ姫は当然卑弥呼に該当する
卑弥呼って役職名なんだよ >>396
>そのように解釈すると1里50m足らずとなってほかの表記と矛盾が生ずるので・・・
「歴韓國、乍南乍東」の「乍A乍B」の構文は、
AとBとが交互に生じた事を示す構文であり、
だから、「乍南乍東」は、南行と東行とが交互に起きた、というような、
「階段状的な移動」を示す事になり、
矛盾を発生しない。 >>617
いい加減、まともな遺跡も伝承もないんだから引っ掻き回すなやw >>634
>そら、皇帝の名代だから、
明らかに皇帝の信任を受けた勅使(仮節)じゃなくて孫請け下級役人なので、むしろ越権行為があったら反逆罪に問われるケース
詔書の補足説明くらいしか出来ない 卑弥呼が神功皇后に該当して豊受姫も該当するなら確かに親族だから合うんだがな そのトヨ(豊受姫)な父親にあたるのが崇神天皇
つまり卑弥呼の跡を継いだトヨの父親ってわけや でも年代がほんとでたらめだな🤩
崇神天皇がいたのは紀元前90年のはずや >>631
>箸墓は、布留1であり、
こういうデマ流すから九州説も肩身が狭い >>640
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>397
>魏の1里は430mという事が当時使われていた定規などから判明している
関係がないし、判明していない。
定規は尺寸系の計測道であり、里歩系の計測道具ではない。
>九州説の言う1里76mの短里などは存在しなかった
魏朝では、大和説の言うような1里430mの長里などは存在しなかった。
>九州説は、少なくとも短里説は捨てて魏の1里は430mだったけれど
魏志倭人伝の里は距離を過大に見せるため二十里のとこを百里と
実際の5倍の距離で書かれてるとした方がまだ現実と合う
魏の役人たちがそんなインチキ報告をして、部下や難升米や後続の魏使らに拠って、
皇帝らバレれば、首が危ないから、そんな嘘吐き騙しをしない。 >>636
記紀や系図に出てくるのは諡号で生前の名前(諱や幼名)ではない
>>636
頭の中がエレクトリカルパレードしてるね
さようなら >>648
ただ拒絶するのって、反論じゃないんだよ
知らないの? >>404
>その割には奴国の先の不弥国から
南に水行20日陸行1月のけっこう離れた会稽東治の東にあるのが邪馬台国と書いてるぞ
書いていない。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
「水行二十日」は、不彌國から側副傍線国の投馬國の位置を示す文言であるし、
「水行十日陸行一月」は、「女王之所都」の説明文言であるから、
郡から女王之所都への所要日数説明。 >>638
頭の中がエレクトリカルパレードしてるね
さようなら >>409
陳寿は、一里≒76.5mとして、
勘違いしないでそのまま載せたのだろう >>621
百襲姫という名前は、九九がもたらされた時代以降に創出されたもの。
崇神の時代の3世紀半ば頃に、百襲姫の名はあり得ない。 >>427
>>しかし、スレ主が、普通の正常な神経であれば、
当然テンプレを撤回して、5chを撤退するんでしょうが、
>上げたままでいいんじゃないの、
自分で自分の大ポカの証拠をいつまでも残しておきたいんだから・・、
成程。 >>642
いやいや、馬子引きでも、将軍の指令書盛って来たら、上座よ。 >>428
>王族の墓域が150mほどあり、卑弥呼はその一角に埋葬されたのだろう。
卑弥呼が箸墓古墳という単独墓なら卑弥呼のお父さんやお母さん、男弟、
はては2世紀前半にはb「た其国の男王bフはかまで提示bオなければいけbネいが、
涛Z向古墳群では末ウ理だ。
bツまり単独簿でbヘなく、上記、演、族の墓域(集鋳c墓)であろう=B
当時は演、族などと呼ばb黷トいない、彼b轤ヘ神々と呼ばb黷トいた。
神々がいたのは高天原であり墓域もそこにあるのだ。・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って×。 >>621
> 崇神天皇は百襲姫の甥の息子だから年齢差が40歳以上
そうすると崇神天皇が生まれたのは3世紀初めから3世紀前半中頃くらいまでの間
あり得ない//
そう思わせる為に、そう書いたんだよ@不比等
てかさ、モモちゃんは、崇神に仕えた巫女なんだから、女王だった卑弥呼ではあり得ないんじゃないのか?
むろん、そう思わせる為に、そう書いたんだよ。
アナタ、なんで古代史に興味があるんだ? 現実には興味ないのか?
部屋の中には、幸せの壺とか、あまり役に立たん通販商品で溢れてないのか?
> 百襲姫に該当するのは臺与しかいない//
13歳少女にハァハァしてるのか?
>>636 > トヨの名前を持ってるの豊受入姫だけなんだね//
トヤタマとかトヨスキとか、エロエロいるんと違うか?
トヨたんは記紀に登場してるけど、トヨなんとかなんて名前じゃないよ。
矢鱈と出て来るトヨなんとかは、全部カモフラージュなんですよ。 >>656
>では論破してみて
では、その説を言ってみてくれ
論破するから
(一休さんですか) >>429
>>九州は倭人の「燕の南」時代から自称されていた事になる。
>なるわけないだろ
「九州」は中華世界全土のことであって、倭人の自称であるわけがない
意味が違うし、称したという証拠もなにひとつ無い
九州倭国の倭人らは、自分らが「中国出身だ」と知っている、という事だ。 >>658
>いやいや、馬子引きでも、将軍の指令書盛って来たら、上座よ。
その指令書の宛先じゃない無関係な人は、粗茶も出さんのでは? >>660
崇神天皇と絡んだエピソードが記紀に出てくるときには百襲姫は60すぎの婆さんだよカス >>660
>矢鱈と出て来るトヨなんとかは、全部カモフラージュなんですよ。
「臺與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
出生地はもちろん「阿波」
天孫三代目、彦穂々出見命(=山幸彦)の后・「豊玉比売命」を祀る二社が、全国唯一、阿波国にのみ配祀されている。
オ〆みたいな莫迦にはな、何もかもが無理なんだよ。
身の程を弁えろ、虫ケラ。 @阿波 大和説になると、とたんに話が抽象的になるな。
やっぱ、祇園山のほうがはるかに具体的な話ができる。
抽象的な大和は、にせ邪馬台だろう。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>663
TVの水戸黄門、知らんのか。
粗茶だしたあと、最後に皆、土下座だし。 >>605
そもそもが宇田の大和の鉱山があるから不要だしw
出雲は風葬にも使ってたから阿波よりもっと古いし >>630
吉備王国は高齢天皇=フトニ大王だから
既にそのころは出雲の領地に攻め込んで吉備王国が成立している
邪馬台国時代にタジマノモリなどのヒボコ勢が播磨に侵攻したから物部勢が瀬戸内海ルートで大和入りできた >>567
これの出土の関係で、スサノオは朝鮮半島に立ち寄っただけで大陸から来たのではという話になったんだよね。
たしか朝日新聞
出雲の初期の銅鐸に似てるとされる。
九州初の出土の吉野ヶ里の銅鐸とも似てるような気がしないでもない >>430
>>卑弥呼は面会出来ない状態であった事になり、
>難升米に会いに来たんだから卑弥呼に会う必要はない
卑弥呼が面会出来ない状態だとか空想する理由もない
其八年,太守王頎到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步
であり、「詔書、黃幢」を持って来て「檄告喻」する相手は、普通は卑弥呼であり、
最低でも「倭載斯、烏越等」である筈であって、難升米ではない。
そして、正始元年の時にも、
「太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王」として。
「倭王」に「詔書印綬」を拜假しているし、
其六年の時には、「詔賜倭難升米、黃幢付郡假授」であるから、
この時点から、卑弥呼の体調が悪かったんだろう、という事になる。 >>670
>そもそもが宇田の大和の鉱山があるから不要だしw
うん、でも卑彌呼の時代は「阿波」だけなんだけどね。 わははははは @阿波 >>670
>出雲は風葬にも使ってたから阿波よりもっと古いし
うん、「阿波」から進出した出雲忌部だね。 わははははは @阿波 >>644
トヨの父親が、前妻さんを早くに無くし、宇佐族の豊玉姫と再婚した物部イニエ
物部東征を実行に移そうとした段階で死亡。
後に崇神天皇に比定される。
息子のイクメはイニエの前妻との子供
トヨ、こと豊来入姫(豊鋤入姫)と、豊来入彦豊鋤入彦)はイクメとは腹違いの兄弟
最終的にイクメは、連合軍全てを裏切って大和で政権運営を始めた。 >>433
>だからその直後に「卑彌呼以死・・・」と続くわけだ。
>直後だという根拠もない
時系列的な出来事の記載を順に書いているんだから、
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之」があった次に、
「卑彌呼以死」があった、という事になる。 >>660
>矢鱈と出て来るトヨなんとかは、全部カモフラージュなんですよ。
「臺與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
出生地はもちろん「阿波」
天孫三代目、彦穂々出見命(=山幸彦)の后・「豊玉比売命」を祀る二社が、全国唯一、阿波国にのみ配祀されている。
オ〆みたいな莫迦にはな、何もかもが無理なんだよ。
身の程を弁えろ、虫ケラ。 @阿波 >>643
記紀の狙いは正にそこ。
属国だったヤマトの歴史を隠し、朝鮮半島に税金を納めさせた神功皇后を卑弥呼に誤解させる仕掛けをやっている。 >>671
霊感が卑弥呼の時代はまだたまのくにと呼ばれていると言っている
だから岡山が吉備と呼ばれるようになったのは吉備津彦命が占領した以降からじゃないのか? >>677
>時系列的な出来事の記載を順に書いているんだから、
>「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之」があった次に、
>「卑彌呼以死」があった、という事になる。
「次に」ね
直後だと示すような記述じゃないね >>435
>それな
卑弥呼崩御年は450年かもしれないし、452年かもしれない
10年は無理があるが、5年くらいは余裕を見て考えるべき
「卑彌呼以死」という文は、
「卑弥呼は以上の事を以って亡くなった」という事と同じであり、
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之」という事件があった事と、
卑弥呼の死が近接していた、という事を意図している事になる。 そう、トヨってこうも書くよね。
>トヨの名前を持ってるの豊受入姫だけなんだね
トヨは豊来入姫。結局魏から次代の卑弥呼に選定されるが
・物部イクメがタジマノモリを追い出す事。
・物部イクメが前政権の大和の卑弥呼、サホ姫と手を切るにあたり
サホ彦を攻撃させるために豊来入彦を使った事などが重なり、物部政権から切り捨てられる。
伊勢の伊雑宮の元になった出雲系の人間を頼り、椿大社に匿われるが、結局暗殺される。
イクメの娘ヤマト姫は、出雲の太陽の女神と、月の女神を伊勢神宮に祭ることになる。
その際に、記紀の内容と違うのでツクヨミは隠される。
豊受大神だよね。
これだけ分かりやすくトヨトヨって出てるのに後世の人間は容易く迷う >>684
自己レス
最終的に、トヨは、猿田彦を祭る椿大社の関係
それと、宇佐から来たことでウサメとも呼ばれたことが重なり
トヨは最終的に記紀によりアメノウズメにされて猿田彦の奥さん役にされる。 >>439
>卑彌呼以死は
そして卑弥呼は死んだ
以上で卑弥呼は死んだ
だから、張政の難升米拝借よりは後という事だろ でも直後ではないな
5年くらいは余裕を見るべき
違うな。
「卑彌呼以死」の「以って」は、「以上に書いた事を以って」という意味であり、
その「以上の事」とは、当然、
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之」までの事件の事である。 >>442
>続けて書いてある記事は、特に断りがなければ、順にあとで起こったことだ
「卑弥呼以死」とは、「卑弥呼は以上の事件を以って死んだ」という意味だ。
因果関係が連続していた、という意味だ。 >>675
出雲に出稼ぎに行って玉造をしてた出雲忌部だよ >>652
そもそもが
記紀のヤマトモモソ姫ってのが曲者
二度にわたる物部氏の東征を一つにして神武の前に持ってきたから
最初の東征の時の卑弥呼、モモソ姫と
二度目の東征の時のイクメの娘、ヤマト姫が二百年以上も遡って同一人物にされたんだよ >>448
>それなw 俺もそう思った
卑弥呼崩御以降の出来事、男王の擁立、千人誅殺内紛、臺与の擁立については一切年号がない
だから卑弥呼崩御は正始八年とは限らない
5年くらいは余裕を持って見るべき
「以」は、「以上の事を以って」という意味であり、
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之」が正始八年なら、
卑弥呼の死は、正始八年かせいぜい正始九年位にしかならない。
それ以上離れたら、「以」なんて書かない。 >>688
>出雲に出稼ぎに行って玉造をしてた出雲忌部だよ
その通り。 @阿波 >>689
んで、ヤマトトビモモソ姫とも書かれるのだが
トビは、登美家、出雲の分家のトビを表す。
記紀って巧妙にわかる人には分かるように書いているんだよ >>458
>張政が卑弥呼に会いに来たわけでもない
詔書は、女王がいるのに、女王の部下の難升米に与えるものではない。
本来卑弥呼与えるもの。
それを難升米に与えた、と言事は、卑弥呼は重篤な病床にあった、という事を示すもの。
従って、「卑弥呼以死」は、「卑弥呼が重篤な病床にあった事を以って」という意味になる。
さらに「時に」とか「今」とか接続して「卑弥呼以死」を前に文と結び付けてるわけでもないので
直前の文より前のことだと解釈する理由もない。
さらに、張政が倭に到着したのすら正史8年だという根拠すらない
わかるのは、墓を作る前に卑弥呼が死んでたというだけ 日本書紀の神武、崇神、神功、応神、これらの諱は奈良時代後期の淡海三船によって付けられたそうだ。
いずれも神の字がついており、この神の字にちなんで、これらの人物は王朝の始祖に関連すると現代では解釈されている。
では、三船はどのような理由で神の字をつけたのだろうか。
ワイ説では、神武の神は日神、崇神の神は天照大神、神功の神は筒男神、応神の神も筒男神であり、
したがって、神武の王朝の主神は日神、崇神の王朝の主神は天照大神、神功と応神の王朝の主神は筒男神だったということになる。
淡海三船は、博識聡明で知られた人物で、奈良王朝の文学博士なども務めたそうだ。
三船は、古代からの大和の歴代の王朝を、これらの神を主神として祀った王朝だったと認識していたことが推測される。
王朝交代説の学者のその最初の人物が淡海三船だったとみなして、たぶん間違いないだろう。 >>683
>阿波とかいうアホを追放したいんだけど
そう願っているのは、畿内説だけではない。 九州説その他も願っている。
一人じゃない。 安心しろ。 わははははは @阿波 宇那比姫=卑弥呼の宮殿は石舞台古墳に隣接する広場にあった
今では寂れていて想像も付かないだろうが、黒塚古墳に運ばれていくときは
宮殿の周りにもの凄い人集りができ、付いてくる人々の行列の前で黒塚古墳に
埋葬された ずーと上のほうで誰かいうとった。
正始六年に詔があって、倭の難升米に黄幢を賜うことになった。それゆえ
正始八年に、張政等が倭国にやってきて、詔書黄幢を拝假難升米・・、
なぜかわからぬが、最初から詔書黄幢は難升米に授けることになっていたわけだ。
其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授
其八年 太守王頎到官
・倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
・遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
・卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 >>594
>不彌国の次に水行20日で投馬国と続くぞ
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
「南至投馬國」の「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないから、
投馬國へは魏使らは行っていない。
>不彌国からの水行じゃないならどこから水行するというの
不彌國から水行であり、九州島の東回りでも西回りでも、大体、
南九州付近になる。 >>506
>魏の1里は430mだよ
これは秦の時代の1里からだいたい共通している長さ
魏朝の1里は76.5m位だよ
これは周の時代の1里からだいたい共通している長さ 卑弥呼の死を以って 大作冢のあと、ややあって男王立つも 國中不服、、、云々
其八年 太守王頎到官
・倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
・遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
・卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
・更(ややあって)立男王 國中不服、 更(ややあって)相誅殺 當時殺千餘人 >>507
当時魏で使われていたモノサシや使われていた度量衡を記した律歴志によって
物差しは、尺寸系の尺定規でしかなく、里歩系の物差しににはならず、
律歴志は、魏朝の「志」ではなく、民間の志。
魏朝の里は1里76.5m位と判明している
さらに魏朝では度量衡の統一令があったので
これ以外の単位は存在しなかったという事になる
つまり大和説のいう1里430mの長里なんてのはなかった >>511
>倭人の自称は倭
もし九州に住む倭人が倭人でなくて九州人と自称していたなら
卑弥呼の金印銘は親魏倭王なので
卑弥呼は九州にはいなかったという事になる
卑弥呼頃には、倭國は自分らを「九州人」なんて自称していない。
>梁書や隋書や太平御覧は魏志曰くなどの
当時存在していた魏志倭人伝の引き写しである事を明記していて
つまり当時の魏志倭人伝には邪馬臺國という風に表記されていたということ
後代史書の「3世紀の説明」よりも、
3世紀の同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録の方が、信頼性がはるかに高い。 ウナビ姫でもモモソヒメでもアマテラスでも、本当に卑弥呼ならその通り書けばいいではないか。
本当の卑弥呼とは、その人が卑弥呼であれば大変困った人、それが卑弥呼だ。
困るという意味は、卑弥呼の約5世代100年前の倭国王帥升が誰なのか分ってしまうからだ。
日本の歴史は、AD107年後漢皇帝・安帝への土下座から始まる。
屈辱の史実から始まるのだ。
倭国王帥升(shuai sheng)、発音の似た倭国王がいるだろ。
スサノオだ。
倭国王帥升をスサノオだと仮定してみろ、邪馬台国論争なんて一気に解ける。
107年 倭国王・帥升 スサノオ
・
・
・
・
238年 卑弥呼 ヒメ(踏鞴五十鈴)后
・
266年 台与 トヨ津
邪馬台国の都とはヒメ(踏鞴五十鈴)后 やトヨ津媛の住んだ葛城だ。 皇室に伝わる三種の神器についての私なりの解釈は、
・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
崇神の時代に出雲振根から奪った神宝であろう。
山陰出雲で紀元前から続いていた四隅突出墳墓が4世紀には造られなくなり、前方後円墳ができる。
そして振根の怨霊が祟らぬように崇め祀るために出雲大社が建てられた。
・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙剣:くさなぎのつるぎ)
葛城の阿遅鉏高日子根が持っていた神度剣であろう。
阿遅鉏高日子根は古事記では別名が迦毛大御神(かものおおみかみ)、
大御神とつくのはイザナギとアマテラスしかいないこと、また短気で剣をもって暴れることから阿遅鉏高日子根はスサノオの投影だと思われる。
・八咫鏡(やたのかがみ)
崇神が、大和に展開していた出雲最後の王(大物主)・阿田賀田須命を殺害、その怨霊におののき放逐した鏡であろう。
その鏡は今も行き場所がなく、20年に一度の式年遷宮で伊勢神宮境内をさまよい続ける。
阿田賀田須命の殺害場所は桜井市茅原(ちはら)、元の呼称はおそらく血原、その場所は元伊勢の檜原神社となる。
殺された阿田賀田須命の荒魂は三輪山の狭井神社で祀られている。
その阿田賀田須命の妻がモモソヒメ、殺害にかかわっていたのかもしれない。
また上記の天叢雲剣=神度剣は、このスサノオ直系の阿田賀田須命が持っていたと考えられる。
つまり現天皇家は征服王朝の末裔である。
征服王朝と言っても海の向こうから来た異民族による征服ではない。
日本では一度だけ臣下が主を倒す易姓革命があった。
この革命を、倒した側(朝廷)が古代中国に倣い「出雲の国譲り」という官製神話にしたのである。 >>512
>卑弥呼の遣使が景初二年と書いているのは12世紀ごろに復刻された魏志倭人伝なので
3世紀に書かれた原本により近いのは12世紀の復刻本よりも
5世紀の後漢書や8世紀の梁書や日本書紀あるいは11世紀の太平御覧ということになる
後代史書よりも、
3世紀の同時代の魏の役人ら実地の見聞計測の記録の方が信頼性がはるかに高く、
写本と後代史書の比較でも、写本の方はるかに信頼が高い
>そして12世紀以前の史書は遣使を景初三年の出来事と記している
通典と書紀がはっきり、
景初二年の大晦日から景初三年の元旦に亡くなった「明帝」と書いているから、
景初二年が正しい。 >>515
魏志倭人伝に書いてある事をそのまま受け止めたら
女王國や倭國は会稽東治の東つまり「ほぼ九州島」付近。
帯方より南に1万2千里と書いてあるので、
邪馬壹女王之所都は福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地。 >>516
マスコミさんや、おまわりさん、
ここの大和説者と呼ばれる男らは、
書いてある事を、延々と曲解捏造する嘘吐き騙しをするという奇行を繰り返してばかりいるので
ヤクをやってる可能性があるので調べてみた方がいいですよ >>519
魏朝の里は1里約76.5m位だったので
帯方より女王之所都までの道里の東南1万2千里が示すのは、
北部九州付近になるので
魏志倭人伝に書いてある里は架空のものではない可能性が強く、
実際の女王之所都の位置を表していると言える
自女王国以北の国々は対馬国とか壱岐国などの
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国に至るまで通り過ぎた国々
邪馬台国はそれより南に水行陸行した先にある国という想定になっているのだから >>709の訂正
>>519
魏朝の里は1里約76.5m位だったので
帯方より女王之所都までの道里の東南1万2千里が示すのは、
北部九州付近になるので
魏志倭人伝に書いてある里は架空のものではない可能性が強く、
実際の女王之所都の位置を表していると言える
自女王国以北の国々は対馬国とか壱岐国などの
魏志倭人伝に書いてる女王之所都に至るまで通り過ぎた国々やその関連の国々
そして投馬國や奴國はその行程からの側副傍線行程國という説明になっているのだから
『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、
大和国で恭順に及ばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)
和珥坂下の居勢祝(こせはふり)
臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。
また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った網を使って討っており、
そのことに因んで地名を葛城(かつらぎ)と改めた、と記している。
高尾張邑にいた土蜘蛛については、
体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高天原のふもと、葛城一言主神社にも土蜘蛛塚があるが、長柄の近くであり、これは猪祝であろう。
私が指摘している高天原の径百余歩の塚の周りの土蜘蛛痕跡、これが高尾張邑にいた土蜘蛛ということであろう。
「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
これが神武軍によるものであった。
多分、今まで誰も指摘していなかったと思われる。 >>651
不彌国までではまだ1万700里
邪馬台国までは1万2千里なので残り1300里ある事になる
それを南に陸行水行して沖縄台湾あたりの会稽東治の東に邪馬台国があると
魏志倭人伝には書いている >>521
12,000里のうちの7,000里は、循海岸水行部分と、
方四千余里の韓を「歴韓國乍南乍東」して行くので、
南方向は4000里プラス循海岸水行になる
で、それに、3海峡の南北方向3000余里とすれば、
全南北方向はおよそ7000余里になる。
つまり、自動的に、女王國は九州になる。 >>522
>そんなわけで、九州到着までは何らかの政治的理由で、〆めて10,000里になるよう細工してあって、
その先は数字の細工は無いが方角を90度歪めてるって推理が一番リアルっしょ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」など拠って、×。 >>699
魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東つまり
沖縄や台湾になる辺りと書いてある >>700
魏の里は1里430mである事が
当時使われていたモノサシや使われていた度量衡から判明している >>713
魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東つまり
現在の福建省福州市の東で沖縄や台湾になる辺りと書いてある >>527
>いや古くからの伝承
恐らく漢の時代に朝貢した倭奴国の位置が帯方(楽浪)より南1万2千里という事になっていた可能性がある
後漢書には倭奴国は倭の極南界にあると書いているから
如淳曰、如墨委面。在帶方東南萬里。 >>702
里歩系のモノサシなんてものは見つかっていなくて
見つかっているのは1尺24cmの尺定規
魏では1里=300歩の1歩=6尺という古来の中国の尺度と変わらないものが使われていた事が
律歴志から判明しているので1里は約430mだったと判明している
そして見つかってるモノサシが里歩系の尺度の根拠にならないというなら
里歩系の尺度は存在していた証拠がないという事になる
さらに魏志倭人伝が載っているのは三国「志」の魏「志」なので
律歴「志」が民間の志なら三国志や魏志も民間の志という事になってしまうが >>703
それなら卑弥呼の時代には九州地方は九州と呼ばれていなかったということ
3世紀の魏志は現存してなくて
現在あるのは12世紀に復刻されたもの
それより3世紀の魏志に近い内容は5世紀の後漢書や8世紀の隋書という事になる >>706
3世紀の魏志は現存してなくて現在のは12世紀に復刻されたもの
3世紀の原書に近い文書の方が内容が正確という理屈なら
3世紀の原書が存在していた時代にそれを引き写しにして書いた
後漢書や隋書や梁書の方が内容が正確という事になる
卑弥呼が魏に遣使したのは景初三年と
日本書紀、梁書、翰苑、太平御覧にははっきりと書いてある >>530
>247年以降 中央に忠実な帯方郡の太守王キは
中央の考え(倭人は夷州人(台湾人))に合わせて
邪馬台国の位置を沖縄台湾あたりとした
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
沖縄台湾説も、里数が合わず、方向も会稽東治之東であるから、合わず、×。 >>707
会稽東治の東は現在で言えば福建省福州市の東で
沖縄や台湾の辺り >>708
おまわりさん>>516で書いている通り
九州説を自称するザラコクという男がオウム返しをしてますよ
これはヤクをやってる動かぬ証拠 >>710
魏の里は当時使われていたモノサシなどから換算して1里約430m
さらに魏では度量衡の統一令があったそうなので
それ以外の尺度は使われていなかったという事になる
魏志倭人伝は邪馬台国の位置を帯方より南1万2千里と書いてある
これは韓国からパプアニューギニアくらいまでの距離になる
魏志倭人伝の距離は実際の邪馬台国までの距離を書いてないというのは
かなり前から常識 >>554
畿内説とか邪馬台国とか、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
全くあり得ないこと言い出したあたりからだな
大和説が文献学者からも完全に捨てられたのは 正史 三国志・呉書・孫権伝抜粋
二年
(略)
遣將軍衞温・諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
亶洲在海中、長老傳言
秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、
求蓬?神山及仙藥、止此洲不還。
世相承有數萬家、
其上人民、時有至會稽貨布、
會稽東縣人海行、
亦有遭風流移至亶洲者。
所在絶遠、卒不可得至、
但得夷洲數千人還。
・亶洲には徐福が率いた子孫がいて数万戸があると考えられていた
・会稽の人が東に向かって漂流して亶洲に着く事がある
・夷州の数千人を得て帰還した。 呉の黄龍二年(230)
(略)
将軍衛温・諸葛直に甲士万人を率いて浮海して夷洲および亶洲を求めさせた。
亶洲は海中に在り、長老が伝え言うには
秦始皇帝が方士徐福に童男童女数千人を率いて入海させ、
蓬?の神山および仙薬を求めさせ、この洲に止まって還らなかったと。
世々に相い継承して数万家があり、その上の人民は時に会稽に至って布を貨(あきな)う者があり、
会稽の東の県の人が海に行き、
亦た風に遭って流移して亶洲に至る者もあった。
所在は絶遠であって卒(つい)に至る事が出来ず、
ただ夷州の数千人を得て帰還した。 まちがえた 夷洲人じゃなくて
・亶洲人が会稽に来て布を売買することがあった そもそも、この洲に止まって還らなかったと、何で分かったんだよ(嘲笑 >>410
理由なら>>408に書いてあるだろ(笑) 呉書・孫権伝
徐福が率いた数千人の子孫が会稽の東の亶洲にいて
亶洲人は会稽に来て布を売買する
東に向かった会稽の人が漂流して亶洲に着く事がある
呉は夷州(台湾)から数千人を連れてきた
魏志倭人伝
倭国は会稽、東冶の東にあって最も南にある首都の邪馬台国は7万戸
完全に一致 日本には徐福が率いた数千人の子孫とやらの生活痕跡がどこにもないので悪しからず 正史をまとめると邪馬台国は
夷州(台湾)にあると思われていたことになるがそんな訳ないし
魏志倭人伝に書かれてる魏志倭人伝の位置はおかしい
ようやくスタート地点
俺たちの思考はまだ始まったばかりだ また間違えた
魏志倭人伝に書かれてる邪馬台国の位置はおかしい 帯方郡は韓と戦って管理下に置いており、その大きさを方4千里とはっきり書いてあるので
1里430mが採用されていないことは明白です。
とっくの昔に論破されております。 一回目の渡航で信用させ二回目でふんだくる典型的詐欺師が徐福。後先無い始皇帝を見かねて周りも仕方なく金出したんだろ 、金持って逃げるとこは未開地の辺境なんて行かないよ 今でさえ誤植だらけなのに1700年前の著作物に何を求めているのかと 途方もない大金をふんだくった始皇帝に出航を見送らせて沖まで出てしばらくした後、
隣町の港に入って舟から全員降ろし、エキストラ代を渡して一行は解散
そこに待っていた舟乗りに舟を返した後は徐福もそのままドロン
イタリア人詐欺師もビックリw >>737
いやいや、倭人伝は何をねらった史書なのか分かっていれば、そんな堂々巡りしなくていいの。
倭人伝は、司馬氏の功績を高く評価するために、いろいろ細工した史書なのは明らか。
それを見破れば、ごくあたりまえの結論に行き着く。
まあ、がんばりたまえ。 >>739
>帯方郡は韓と戦って管理下に置いており、その大きさを方4千里とはっきり書いてあるので
勝った戦果報告は誇張するのが当時の常識なんだよ
現代人の考えではダメ >>737
いやいや、倭人伝は何をねらった史書なのか分かっていれば、そんな堂々巡りしなくていいの。
倭人伝は、司馬氏の功績を高く評価するために、いろいろ細工した史書なのは明らか。
それを見破れば、ごくあたりまえの結論に行き着く。
まあ、がんばりたまえ。 >>736
秦氏や千家が居るだろ。
頭おかしいんじゃねーの?
お前の個人的な徐福の恨みなど知ったことかよww それでは戦果を誇張したという根拠を当時の資料から探してきてくれ
妄想を持ち出してしか反論できないのは気の毒に思うが
畿内説がそんなレベルが低い人しか残ってないのならしょうがない >>719
如墨委面(ニョボクイメン)。
如淳曰く、墨の面に委る(おつる)が如し。
この注は、倭の発音はイ(委)音だと言っているもの。
倭は、ワ音ではないと言うわけ。 >>746
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと
瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と
龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
日常食の蒸し餃子やワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
考古学者の論文は?
早く持ってこいよ中卒未満 >>690
張政の役目は詔書と旗を難升米に渡すことだったので、それが終わればすぐ帯方郡に帰って報告する義務があった。
にもかかわらず、帰らなかったのだから、詔書などを渡した直後に卑弥呼の急死が伝えられたということになる。
皇帝の家来の卑弥呼が死んだのだから、その葬儀を見て、次の王の選出を見届けるのは、魏の役人の務めであり、
それをせずに帰ってしまうとむしろ職務怠慢で命が危なくなる。
そこで卑弥呼の葬儀まで待って、次の王が選出されるのを見届けようとしたら、別筋から男王擁立となり、男王側と不服の者らとの内乱に発展。
千人が戦死したというから激戦となったということだろう。
そこで、張政は皇帝の詔書をもたらした者として傍観するわけにいかず、仲裁に入り、結局卑弥呼を擁立した側から次の王を出すことを男王側に納得させたのだろう。
で、邪馬台国側の台与が王に就くことになった。
このような流れは、何年ものスパンではなく、卑弥呼が死んで墓を造り葬儀が終わるまで半年、そのあと男王擁立から内乱までが半年、張政の仲介で内乱終結して台与が選ばれるまで半年として、
まあ1年半がぎりぎりではないか。
張政はすぐに帯方郡へ帰って報告しなければならない立場にあったから、すぐに帰ったのだろう。
だから、卑弥呼が死んでから16、7年も張政は倭国にいたはずがなく、帰国に関する倭人伝の記述は明らかに怪しい。
倭人伝の記述では魏から晋に代わった265年の翌年の266年に、張政は帯方郡に帰ったことになる。
倭人伝の記述からすると、そもそも16、7年も張政は倭国で何をしていたのかということになってくる。 >>747
>それでは戦果を誇張したという根拠を当時の資料から探してきてくれ
昔からテンプレに載ってるぞ
>妄想を持ち出してしか反論できないのは気の毒に思うが
自分の無学を自覚できないあんたが気の毒だ >>751
それは漢のサイズが1辺1里×430mに及ぶという見解ですか?
ずいぶんと盛りましたね
では、こういうことになります
帯方郡から九州の北岸末盧国まで南方向へは韓の1辺千里と渡海の3千里
これに430mをあてはめると1720kmとなり現在の台湾の南端あたりに九州があると思わせたいという意図があったとそういいたいのですね? >>750
張政が戻ったのは魏ではなく、司馬氏の建てた晋であったとしているのも、倭人伝は司馬氏を称えるために細工した史書であるという可能性が極めて高くなる。 >>750
正始六年の時点で難升米が代表みたくなってるから、卑弥呼は病などで第一線から退いていた。
ということは、台与や男王はそれぞれ次の王になるべく準備をしていたし、
卑弥呼墓も基礎工事はすませていた。
張政が来たら卑弥呼は亡くなっていたのだから、張政は到着するや卑弥呼の葬儀に参列。
後継者選びは既に始まっていて、一旦男王に決まるも、
男王側と台与側が紛糾してすぐ内乱。
張政が到着して1か月くらいで台与擁立でいい。
正始八年に来て正始八年に帰ったのだよ。 >>750
>倭人伝の記述からすると、そもそも16、7年も張政は倭国で何をしていたのかということになってくる。
そりゃ、あーた、決まってますがな。子作りに励んでいたということでしょうモン。
(ま、それはそれとして、つまりは日本神話の中で活躍した「思兼神」の実モデルだったと思えば理解しやすいのではないか) >>754
>張政が到着して1か月くらいで台与擁立でいい。
>正始八年に来て正始八年に帰ったのだよ
そうだとしたら、張政は266年の直前に再来倭して、266年臺与に見送られて晋に帰ったとなる、
再来倭の記事がなく、におわせてもいないのだから、不自然! >>756
意味不明。
張政は正始八年に来て正始八年に帰った。
台与の朝貢は、247年が魏へ、266年が晋へ、の2回以上。 >>752
>それは漢のサイズが1辺1里×430mに及ぶという見解ですか?
>ずいぶんと盛りましたね
なんだか意味が解らない 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授
なぜこの年、難升米に黄幢が与えられたかということだが、
この段階で難升米は、倭国軍の総指揮官(及び卑弥呼の親衛隊長)のような高位に任命された。
だから、特に詔を賜って黄幢を假授されたということではないか。
[幢]
はた。儀式での儀仗、軍の指揮などに用いる旗。 張政が短期間で帰国したのなら、
帰国時に倭人に送ってもらっているから、
来る時も倭人に送ってもらったことになる。 >>757
>台与の朝貢は、247年が魏へ、266年が晋へ、の2回以上。
台与の247年の魏への朝貢話は初めて聞いた、魏代にそれがあれば倭人伝に年号付きで書かれたはず。 >>761
書かれとるじゃんか。
魏の首都まで二十人の使者を送って、貢物の詳細まで書かれている。
年号付きで。
都合の悪いものは見えない気づかない病か?
其八年 太守王頎到官〜
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹 >>753
張政が戻ったのは魏ではなく、司馬氏の建てた晋であったとしている
そんなのどこに書いてるの?
酷い妄想だ >>757
真面目に言ってるの?
倭人からすると郡まで年内2往復、最後は洛陽まで
その間に径百余歩の墓作りあり、その間政変あり
無茶でしょ なんでそんなに狂ったみたいになってんのおまえら😃
話が通じなくなってるぞ >>762 >>763
>張政が戻ったのは魏ではなく、司馬氏の建てた晋であったとしている
↑のちの史料によればこれが正しい
現代のように、釜山ー九州はフェリー1晩で行き来できたわけではない。
毎年行ったり来たりできようか、
上のような初歩的な歴史知識もないのでは噺にならん! 邪馬台國と狗奴國の間で戦争がありその時代が
西暦247年〜266年まで続いたとあるぞ
その間、倭にいたことになる 卑弥呼なんかとっくにおっちんじまってるだろ
主にトヨの時代だよ
戦争が終わったから張政が帰国したみたいな書かれっぷりなんだろ >>749
そんなものなくとも、徐福と一緒に来た千家があるだろって話だよ
天のホヒは徐福の部下だろうが。
お前はそんなことも判断できないのか?
遺跡?
笑わせるな >>762
郡に新太守が着任したのが正始8年
そこへ倭の使者が来て陳情した
そこで郡使を倭に派遣
彼は難升米宛ての詔書を持ってきて、拝仮して檄告喩して
卑弥呼が死んで径100余歩の冢が作られて
男王が立って。動乱があって壹與が女王になる
政権が安定
それで洛陽に使者を出す。張政も帰国する
これ、どうやって1年間にやるの? >>557
>倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れ
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。
呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。
勾踐は北上し、 山東半島の琅邪に都を置いたと言うから海に逃げ、
山東半島から遼東半島へ島伝いに移動した可能性がある。
ふーん。 >>558
>魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして、「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行ったところ、
数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。
汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、
烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。
今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、
後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。
ふーん。 >>762
そんな強行スケジュールを組んでオメに何の利益があるの
ただ抗って憂さ晴らしのレスしてるだけなんじゃないの 徐福が来たなら日本に鼎が伝わってなきゃおかしいだろ
鼎=飯炊き窯だ
当たり前の中国の文化遺跡やからな >>753
>張政が戻ったのは魏ではなく、司馬氏の建てた晋であったとしているのも、
晋書によれば263年頃の魏にも遣使しているんだから、それはない 越王勾踐〜越王鄒升って漢に協力して王に認めてもらおうと活動していた人物がおる
魏だか漢のときだかはその人物を倭の代表としてわざわざ倭王と中国側が認めとる
漢の皇帝には各地の王を決める権限があったから認めてもらえれば再興も簡単にできる
そのために活動していたみたいだぞ >>570
>>末盧國からは伊都國は見えないんだから、当然、方角も判らない。
当たり前の事。
>郡から狗邪韓国まで七千里ほど
三角測量で測ったなんてあり得ないと九州説が認めました
韓の方可四千里は、当然一寸千里と三角測量と歩測などでの測定なんだろうが、
七千余里の方は、当然、
一寸千里と三角測量と、既に判っている韓の方可四千里を参考にしての合算だよ。 >>576
文章全体を通してみると
魏志倭人伝は女王國や倭國を会稽東治の東つまり「ほぼ九州島付近」の
かなり離れた東方に想定しているように見えるね >>778
>晋書によれば263年頃の魏にも遣使しているんだから、それはない
魏に朝貢していれば、倭人伝に年号付きで記録される
その「263年頃の遣使」というのは晋書のどの史料か そもそも曹氏だの司馬氏だの出てくるが越王が漢の時代を通して協力していたのは漢王室らし〜んだが😃
越が滅亡したあと王としては滅んだらしいが漢に協力したときに王として認めてもらい再興できたんだとよ >>579
会稽東治の東は、
3世紀後半の陳寿の頃の知識でいうと、
揚州の管理下の揚子江河口地域の東方の、ほぼ九州島付近であり、
沖縄や台湾には全くならない。 それ以来は主に漢の武将として行動しとるわけ
越王の末裔ら >>584
後代の范暢の後漢書は、
「自己解釈に拠る魏志の書き換え」というインチキをやっているから、
その部分は歴史の論拠にならず、
会稽東治は中国最南部で緯度がハワイやグアムと同じの
朱崖タンジ郡とお互いに近いという、インチキも書いている。 >>783
会稽東治の東が「ほぼ九州島付近」とか
九州説のひとって、どうしてそんな
露骨な詐欺ができる神経なわけ? その越王の流れを組む連中らが九州に勢力基盤を築いただろ〜と言うのがよ〜するに九州邪馬台國の話に繋がるわけさ
倭人て解釈するならその歴史観は徹底して倭人史として見なければならない >>585
そうだよ。なので、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、大和説人種は×であり、
魏志倭人伝に書いてる女王國や倭國の位置は、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅に拠って北部九州」にあった、という事だ。 このあとの時代あたりから日本史始まるからな
もちろん彼らは縄文人ではない
つまり彼らこそが弥生人 紀元前200年以前から日本には銅器などが流れ出しているからな
中国史観として見るのは×
秦の始皇帝だの徐福だのは日本の位置さえ知らない 始皇帝は最後は瑯琊で没して始皇帝陵に葬られたからな
越人らが最後に都としたのが瑯琊や😃 >>784
>魏に朝貢していれば、倭人伝に年号付きで記録される
>その「263年頃の遣使」というのは晋書のどの史料か
其女王遣使至帯方朝見、其後貢聘不絶。
及文帝作相、又数至。
これで
「魏に朝貢していれば、倭人伝に年号付きで記録される」
があり得ないと決まった >>587
>魏志倭人伝に正確な行程なんて書かれてないんだけど
魏志倭人伝には、距離は「1里≒76.5m±15m」位で書かれ、
東西南北の方向もほぼ正確に書かれているんだけど >>786
>会稽東治の東は、
>3世紀後半の陳寿の頃の知識でいうと、
>揚州の管理下の揚子江河口地域の東方の、ほぼ九州島付近であり、
これが完全な詐欺捏造なので
九州説はまやかしインチキとわかる
出典のない捏造情報だから >>798
>魏志倭人伝には、距離は「1里≒76.5m±15m」位で書かれ、
>東西南北の方向もほぼ正確に書かれているんだけど
これも決して史料から帰納されることのない創作だね
九州説がインチキだとわかる >>594
魏志倭人伝には女王國や倭國はほぼ九州島辺りと書いてあるのに
大和説者や阿波説者は嘘つき騙し説を主張する気? >>776
徐福は淫に滅ぼされた国の人間だろ
青銅文化は紀元前200年近辺で持ち込まれてるじゃん >>596
お、「南→東」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの、
大和説学者らに騙された中学生どもが、
年寄りを釣りにきおったな
女王國や倭國は、尖閣諸島の魚釣島ではなく、
ほぼ九州島付近だ、
あっち行け! 鄒氏ってのが姓とするならその時点に於ける姓
倭王、師升って中国側からその人物のみ取り上げて倭王と呼んでいる うん
徐福が来たってのが後世の仏教僧らがでっち上げたインチキ 徐福が日本に来たなんてこと言ってるなら普通は正気扱いされないぞ😃 >>615
>>でも卑彌呼の時代は「阿波」だけなんだけどね。 わははははは @阿波
>それを言うなら卑弥呼の時代の径百歩の墓は畿内だけ
畿内なんて存在もしなかったウソつ騙し文言であるし、
「径百余歩」は「ほぼ径25.5〜30m」なんだし、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
大和説も阿波説も×。 末盧国 4千戸 遺跡的に見て唐津市の松浦川周辺だろう
北西部の東松浦半島では4千戸の遺跡がないし地形的にも難しい
伊都国 千戸 遺跡的に見て平原遺跡周辺だろう
奴国 2万戸 福岡市および春日市の那珂川、御笠川下流周辺だろう
(末盧国から)東南陸行 五百里 到伊都國
北東の間違い
(伊都国から)東南至奴国 百里
東の間違い
魏志倭人伝は方角がおかしい >>616
>箸墓築造について日本書紀は、昼は人が作り夜は神が作った、なんて書いてある。
モモたんこと卑弥呼は急死して、径百歩の墳墓がみるみる築かれた事を云ってるんだよ。
卑弥呼急死と墳墓突貫工事については、日中の記載は一致している。
大和説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
始めから×説。 >>619
>阿波じゃないよ 畿内だよ
存在もしなかった畿内なんてないし、
阿波も大和も、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態によって、×。 >>620
自分たちの大和説が、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、もう死んだのを知ってて
自暴自棄だからだよ >>813
>存在もしなかった畿内なんてないし、
だから九州説は・・・
そういう世間常識とかけ離れたお経を
ぶつぶつ唱えているだけでは
おかしい人にしか見えない >>621
>百襲姫は卑弥呼ではない
百襲姫に該当するのは臺与しかいない
「臺与」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この大和説男が×。 日本書紀
崇神天皇3年
磯城瑞籬宮に遷都する 桜井市三輪山のふもと
崇神天皇7年
倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り託宣する
祭主を大田田根子命にすると国内が鎮まる
崇神天皇10年9月27日
四道将軍を各地に派遣するが四道将軍の一人の大彦命が
不吉な歌を歌う少女と会って引き返す
それを聞いた倭迹迹日百襲姫命が
武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆と告げる
そのとおり謀反が起こり鎮圧する
箸墓伝説
倭迹迹日百襲姫命が祭事上の夫である大物主神との
接見は夜のみだったが百襲姫が昼間に会いたいと願い
大物主が昼に姿を見せるが小さな白蛇の姿であったため
百襲姫は驚いて叫んだら大物主は人の人の姿になって
「自分に恥をかかせたのでお前にも恥をかかせてやる」
と言って飛んで三輪山に戻る
百襲姫はは悔いて急に座ったときに箸が刺さって死亡
倭迹迹日百襲姫命の墓の建造を開始 箸墓と呼称
崇神天皇10年10月
四道将軍が再び出発
百襲姫は巫女ぽい人で甥の(諸説有り)武埴安彦の
謀反失敗と同じ10年9月に死亡して箸墓が作られる
自分はこれを卑弥呼による崇神天皇へのクーデター失敗だと思ってる >>797
>其女王遣使至帯方朝見、其後貢聘不絶。
>及文帝作相、又数至。
文帝作相、又数至・・・に関しては、これ以上の情報無く、遣使のランク程度内容行き先も不明。
単に、帯方郡との行き来は継続されていたという程度ではないか。
次に、壹與遣 倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹、だが、
かくの如き盛大な朝貢が魏中に行われていれば重大事項である、年号付きで魏志倭人伝に記録されてしかるべし。 >>816
梁書は「卑彌呼宗女臺與」って書いてるんだけど?
あなたは自分に都合が悪いと何でも
「自己解釈」だとか意味不明な我流の造語を叫んで
それで否定できた気分に浸るんだよね 日本軍は大和朝廷を滅ぼしさらに九州、沖縄まで進出した
やがて朝鮮にも進出したが敗戦で負けてバイバイ🤩
秀吉の朝鮮出兵のときは中国皇帝を倒し大明國を征服してやがてはインドまで進出するとこまでが日本軍の計画 そこまでの範囲が世界のすべてだと日本ではされたからな 唐のときに始まった東夷征伐とやらの戦争も日本では開始された😃
結果は大和朝廷、大敗北❗ 基本的には大和朝廷が支配した地域を古代の倭と呼ぶ
大和朝廷=倭だから倭は日本軍の前に滅ぼされたことになる
これを持って日本による倭國の併合となる 中国側から見ればどれが正統か?なんざ分からないからな
中国人らは天皇を日本の代表として見るがそれは平安時代まで😃
日本を統一した蝦夷王が真の日本国王である >>776
華北は鼎よりも鬲+甑のセットで穀物を蒸し上げて炊飯するのがメイン
だから徐福が来たなら一番に伝わるべきは鬲+甑のセット
華北も鼎で穀物を炊く事もあるが、どちらかというと肉や魚や野菜を煮る煮物用
逆に華南は鼎で穀物を炊くのがメイン
肉や魚や野菜も鼎で煮るの
もちろん鬲+甑で蒸し上げての炊飯もしていたが鼎よりはマイナー
長江あたりの華中はその中間で、鬲+甑のセットで穀物を蒸し上げての炊飯と
鼎で炊く炊飯の半々
もちろん肉や魚や野菜の煮炊きは鼎で
あと、華北、華中、華南を通じて竈と釜、あるいは竈と釜と甑のセットで蒸し上げたり
煮炊きする炊飯や煮物もしていた
これは穀物も肉も魚も野菜も全部
甕一辺倒の日本の弥生文化と違って、7000年前から古代中国では炊飯や煮物の調理にも
バリエーションがあった >>818
>文帝作相、又数至・・・に関しては、これ以上の情報無く、遣使のランク程度内容行き先も不明。
都合悪いからって、ダダコネて否定してもダメでしょ
宣帝之平公孫氏也
其女王遣使至帯方朝見
其後貢聘不絶。
及文帝作相、又数至。
これは」文献に書かれてること
そして
「盛大な朝貢なら年号付きで記録される」
ってのは、単なるあなた個人の推量
そして晋書には、正式な朝貢でも晋の年代じゃない年号を書かない実例がある
上記の通り、ね
年号が書いてないから全部正始8年の事件だっていう変な理屈は到底通用しない
無理筋 >>817
百襲姫(臺与)は老いたので大王の座を若きミマキイリヒコに譲り、
自らは上皇になって巫女として神道活動や審神者(さにわ)活動=霊媒を
していたんだよ >>808
つい最近、中国人ですら徐福はどこにいったとかヤフー記事にもなったばかり
気にしないやつは、普段なーんにも感じてない奴としかw 魏志倭人伝
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを知らせなさい
ゆえに鄭重に汝の好物を下賜するのである
魏の皇帝が倭人を思っていることを倭国中に伝えろとか
こんな要望を出すのは異例だし
希望するものをあげるのも異例だろう
正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、
詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。
並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、?、刀、鏡、采物を賜う。
さらに翌年魏の皇帝は倭国のために
ゴールドや特別な布や絹や刀や銅鏡や神事の道具を用意して
使者が持ってくる
魏から不自然なほどの特別扱いを受ける倭国 記紀の法則。
ヨキコト何某司を組織し、万世一系を軸とする。
そのために物部や蘇我には名を隠してもらう
朝貢してた事は隠す。
大王自ら遠征したなどのみっともない事実は隠す。
一方的に貶める事はしない。出たとしても後にヨキコトを書いて落とし所とする。
そして、出来上がった日本の歴史書を朝貢の際に向こうに持っていった。
だから朝鮮半島とは違い、9回も土下座しないとダメだとか真面目な外交をせずに済んだ。
今の皇室典範とかより、もっと国を守る色彩が強かった。 >>830
魏に朝貢してた時の政権は出来るだけ隠し、魏書などの大陸の書物に出ている人物は渋々だすが、時系列や親子関係を誤魔化して登場させる。
そうしないと大陸との付き合いの際に支障が出る
徐福なんて持っての他。絶対に隠さねばならなかった
記紀の上の神功皇后なんて、わざわざ卑弥呼の時代に持ってきてるよな。
他国を支配した国だよという点は、記紀の政策上高得点という訳だ。 魏の中央が倭人=夷州人(台湾人)と考えていたなら
その部下たち(太守、使者)はその考えに合わせる 逆らわない
その結果できたのが魏志倭人伝で
倭国は会稽、東冶の東に在ることになったよ >>827
モモソ姫は紀元後160年近辺の人。
イニエやイクメの時代はもっとあと 記紀に書かれた大王は、ごまかしが効かなくなると架空の兄弟、息子まで作って朝貢や大王自らの遠征を隠した。
だからヤマトタケルは架空の人物。
物部政権は両方の卑弥呼を欠いてしまう独裁政権となってしまい(前政権の姫だけは奥方にしてた)3代で潰える。
垂仁天皇イクメの後の大王は貢ぎ物が加茂氏より集まらず、止むを得ず旧支配の九州に遠征して租税を納めろと戦って回ったが、なんと最後には大和入り出来ずに亡くなっている。息子も同じく大和入りできずに終わる。
イクメの後の遠征をヤマトタケルという架空の人物がやったことにして、みっともない事実を隠した >>825
鼎即ち徐福ってww
代替手段があればそんなものは使わないし、そもそも持ち込んだ青銅のインゴットを煮炊き用途にに優先して使うわけがなかろうw
登場、国力もあり、自前の銅の鉱山を持ってたのは出雲の大穴持くらいの物だ。
乗っ取りの動機にはなるな。先遣隊のアメノホヒ、千家が目をつけるだけのことはある。 だから中国人だよ卑弥呼わ、曹操ん時の青州族の分裂組か曹操死んでから流れて来たんかわからんけど、190年ころの飢饉やら荒れて人間が移動したんだろ、巫女と融合したんは五斗米道だしな、そもそも祭祀を行う以上宗教団体だから。 徐福なんて信じてるパッパラパーはガチで生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな、
人間未満の底辺中卒高卒 朝貢する理由がないんだわな日本からは本来なら😃
考えれば分かる話じゃん その朝貢とやらしてろくな返礼品がなかったら二度目はないぞ😊
中世の中国の朝貢貿易は向こうから役人らがやってきて朝貢しろ〜朝貢しろ〜って宣伝しまくってたんだよ
そのころはすでにある国家に対して使者らが訪れた >>838
お前は全国の徐福伝説の地域と秦氏や海童の子孫を馬鹿にしてまで何がしたいんだ?
徐福に嫁をやったのは出雲王家とその分家の宗方家だそま? >>830
>朝貢してた事は隠す。
>大王自ら遠征したなどのみっともない事実は隠す。
帥升のことだね。
帥升を発音の似ているスサノオではないかと仮定してみて。
邪馬台国論争は一気に解ける。
朝貢年
266年 台与 天トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ(蹈鞴五十鈴)后
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
もともとこの仮説で卑弥呼を見つけ出した新井白石が、
スサノオの渡海しての土下座朝貢という屈辱的史実を隠すために、
邪馬台国=大和とは言えず、
「邪馬台国は九州 高天原は常陸」などと心にもない説を発表、それがこの300年論争の原点。
つまり九州説自体が虚説。 >>836
はぁ?
中国大陸の鬲と甑はほとんど陶製だぞ
青銅製の鬲や甑なんて希少
希少だから博物館に展示されている
つか、知能指数80ないんと違うかおまえ >>843
IQ80なんてシールズじゃあるまいに
焼き物なら移転先にあるんだから態々作り変えたりしない
当時の日本は一般人は女系家族
渡来人が真っ先にやった事は妻籠。現地人との習合だよ >>841
マンガチックでむぱ頭脳のポンコツ男乙
頭の中はメルヘンとファンタジーのフラワーガーデン
夢のエキセントリックワールドへようこそ(爆 >>842
そう。出雲風土記と記紀の両方に一枚噛んでた千家がスサノオを入れ込んだ。
何故スサノオか。これは出雲王朝初代のスガの八耳から来てる。
彼の業績を上手く乗っ取って大国主舅にするのが千家の目論見
属国や徐福を隠したい藤原不比等と利害が一致した
出雲では一切存在しなかったので、出雲古い神社でスサノオがいる神社は全て千家の息がかかった神社になるのでとても分かりやすい。
神社巡りする時は留意するといい >>826
>年号が書いてないから全部正始8年の事件だっていう変な理屈は到底通用しない、無理筋
あっちのレスとこっちのレスをごちゃ混ぜにして、その挙句ごちゃまぜ2倍のカキコしてるじゃないか、お笑いな >>845
嫁をやった旧家も徐福のスパイの千家も直系がまだ生きてるのによww >>844
頭の中は夢のワンダーランド
ロマンあふれるファンタジーワールド
キミもイリュージョニストになれる
ミスター不思議(爆 >>696
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ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
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. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />阿波くん!くそれすをしないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
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>あっちのレスとこっちのレスをごちゃ混ぜにして、その挙句ごちゃまぜ2倍のカキコしてるじゃないか、お笑いな
反論できないなら泣きながら寝るのがよろしい
悔しまぎれに出鱈目な悪口を書くと
恥を上塗りする 徐福が倭とやらに来たときの住人らの表現と日本の縄文人の特徴が合わないもんよ
蝦夷の王らの記述もあるが酋長クラスはクマ🐻の毛皮ん着てその卒配らは猪🐗の毛皮を着ていた >>852
千家って最近皇室から嫁さん入ったろ
お前本当に大丈夫か?
手がチンコ臭いぞ?手くらい洗えよw 京都に上がるときだけは京都風の立派な衣装に着替えたがな😃
もともとの蝦夷の特徴がそなの >>683
>阿波とかいうアホを追放したいんだけど
そう願っているのは、畿内説だけではない。 九州説その他も願っている。
一人じゃない。 安心しろ。 わははははは @阿波 >>853
縄文人のDNAパプロタイプDの強分布は、沖縄とアイヌ、それと出雲のみ。
九州のある遺跡では、渡来人人骨が、大陸のシャントンの古人骨と一致してるよ。
ミュージアムも出来てる。 >>856
いいぞ、@阿波、
阿波の恥さらしを拡大拡大するんだから大歓迎だ、もっと派手にやれ! >>854
あなたの中だけのエレクトリカルパレードwwww >>849
出雲大社の昔の事件で、しおり事件というものがある。
出雲の地元の古い文献には、千家は隠中という記述があって意味を知らない担当者が、隠中(スパイ)という言葉をそのまま書いてしまい、大騒ぎで回収になった事件w
ま、何を言おうが現実は変わらないよ。大人になりなw >>860
あなたの中だけの躍るアミューズメントパークwwww >>842
紀元前200近辺の徐福の時の出雲王が神門臣家の八千矛王
副王スクナヒコが、向家の八重波津身。
この第8代王朝期に国譲り事件が起きて、主王と副王が同時に殺された。千家はその手引き役だから、記紀でその悪行を隠したかった。
藤原不比等も、記紀の方針で、神武東征が紀元前になることになったので、初代出雲王の八耳がスサノオになることは時系列的にも実に都合が良かった。 >>863
あなたの中だけのファンタジックワールドへようこそwwww >>864
必死だねえw
鼎が理由じゃなくて他に何か訳があるんしゃねぇの?w
旧家の伝承も、そこそこの遺跡もあるのによw
大陸から職人も材料も手配出来れば同じものを作るだろうさ。
だが、材料から探すのは渡来人という立場では不可能。
現地人との集合がなければ何も出来ない >>865
それは楽しい楽しい、あなたの中だけのアンデルセン、お菓子の城wwww >>866
お菓子を買う前は手を洗えよ?まだ匂うぞ?w >>867
あなたの中だけの不思議の国のアリスwwww >>868
あの頃に大陸から伝わったのは、トウケンと呼ばれる石の笛と、神棚の徳利のようなものに口が8個ほどついた形の楽器、それと弩と呼ばれる武器だよ。
鼎だけ見ててもわかる訳ないだろw >>869
中国系の生活文物痕跡がないだろ
あなたの中だけのアナ雪wwww あなたの中だけの徐福・イン・ワンダーランドwwww >女王国(台湾とする)より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、
>その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
>次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。
>次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。
>次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。
>次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。
>次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。
>次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。
>その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。
30ヶ国連合はもっとも南に邪馬台国がありもっとも北に奴国がある
そして奴国の南に狗奴国
はいおかしね 連合国と同じ方向に敵の狗奴国があるよ
きっと方角がおかしい
魏の中央が倭人を亶洲人(琉球人)や夷州人(台湾人)と考えていて
倭国の30ヶ国連合は琉球諸島、大隈諸島にあり
邪馬台国は台湾にあると考えていたぽい
>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
>或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
張政が倭人から聞いた邪馬台国の位置はどこか不明だが
仮に畿内だとすると方角を変えるだけでいい 東→南
水行20日+10日 陸行一月はそのまま
方角を変えた結果奴国の南には30ヶ国連合と
敵の狗奴国があるというおかしなことになった
なぜおかしくなったのかは
方角を変えたからって可能性が一番高いと思われ >>856
,、‐'''''''''ヽ、
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l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
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. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />阿波くん!おなじれすをしないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ >>872
いくら屁理屈をこねても、無駄! とっくに「阿波」で決着済み。
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 >>876
根拠だらけだろ
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である
三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と
中粒種の中国系イネと
瓦屋根に土壁の中国系住居と
漢服と木沓と
龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語と
原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と
日常食の蒸し餃子やワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
考古学者の論文は?
早く持ってこいよマンガチックでむぱ頭脳の夢見るおじさんw >>877
それそれー、前スレで私が書きました。
今出先で思い出せなくてw 土井ヶ浜遺跡にも中国系の生活文物痕跡が皆無だろ
中国系ではない >>630
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
この貼り付け投稿も、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実に拠って、
×であるんだけれども、
最近の投稿は、かなり増えていて、返信や反論が遅れがちになって来ており、
ある程度追いつくまでは、明らかな・・・・アホ詐欺師的投稿は、
放置しておくべきだね。 >>878
始皇帝に滅ぼされた国で漢服とかもうおかしすぎてwww >>875 中央構造線は四国だけじゃなく九州から関東まであるし
辰砂は珍しいものではない
三輪山の南の山のほうの奈良県桜井市の多武峰鉱山で辰砂が出る
三輪山の南東の山のほうの宇陀市に多くの水銀鉱山があって辰砂が出る ここだけの話だけども、徐福は・・・実はヨセフです。 >>884
>中央構造線は四国だけじゃなく九州から関東まであるし
>辰砂は珍しいものではない
その通り。
ただし、卑彌呼の時代に採っていたのは「若杉山辰砂採掘遺跡」だけだけどね。 わははははは @阿波 >>886 採掘してた若杉山遺跡は特殊であって特別ではない
赤いのがついた石が落ちててそれを拾ってくるだけ
辰砂(硫化水銀) 赤い顔料
↓熱する 硫黄が分離
水銀 銀色
↓硫黄と混ぜて熱する
辰砂(硫化水銀)にもどる >>878
そもそもが日本の今のところの最古級は佐賀の紀元前10世紀のもの。
徐福が水稲を持ってきた訳じゃないのにww
そのうち徐福はラーメン食ってたとか言い出すんじゃね?ww
そもそも出雲族は龍蛇信仰。元から日本に存在してたしwwww あんな100年後には東征毛人五十五国と女王国東渡海倭種を自ら毛人と呼んでんだよ、で西征衆夷、倭人を見下してんだから外国人なの支配者わ。 今の日本の巫女さんらの衣装があるだろ
上は白で下は赤いの
あれがもともとの日本の朝廷の女官服 魏志倭人伝の正式名 魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝倭人条
東の未開の地について書かれてる
未開人を親魏倭王とか特別扱いするには理由が必要で
徐福の子孫てことにしたんじゃね 中国にあんなのないだろ
中国の方がかなり貴族趣味だろ >>887
>赤いのがついた石が落ちててそれを拾ってくるだけ
???
「若杉山遺跡 国史跡に」 令和元年 6月22日(土) 徳島新聞朝刊
「辰砂採掘法の解明評価」
弥生時代後期から古墳時代前期に赤色顔料「水銀朱」の原料となった辰砂の採掘が行われた阿南市水井町の若杉山辰砂採掘遺跡が、国史跡に指定される。
国の文化審議会が21日、柴山昌彦文部科学相に答申した。
水銀朱は葬送儀礼などに用いられ、古代の西日本地域で重用された。
文化審は、原料の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡として、歴史的価値が高いと評価している。
県内の国史跡は12か所になる。
指定されるのは、那賀川支流の若杉谷川の西側山腹斜面約1.2ヘクタール。
横穴状に岩盤を掘り進めた採掘抗跡と露天掘り跡の2か所の採掘場所が確認されている。
採掘抗跡は弥生時代後期に採掘が始まり、国内最古とされている。
採掘時に出た排石のほか、原石を砕いた石杵などの石器も見つかり、遺跡内で不要鉱物を取り除いて粉末にしていたことが分かっている。
また、石杵に香川県東部で産出する硬質の石が含まれることなどから、広範囲から辰砂を求めて人々が来ていた可能性が指摘されている。
遺跡は第2次世界大戦中に行われた水銀探索の最中に発見され、1969年に市史跡に指定。
市と県教委が2017〜18年度に行った発掘調査で2か所の採掘場所跡などを確認し、古代の採掘方法を解明した。
国史跡指定に当たり、遺跡の名称は従来の若杉山遺跡から若杉山辰砂採掘遺跡に変更される。 今の神主らが着る衣装あるだろ
あれが古代の日本の朝廷の貴族服 今の神主、巫女らが着る衣装はそのまんま古代の日本の貴族階層の連中らを踏襲してんだね😃
あれそのまんま引き継いでるの >>881
>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実に拠って、
だからそれ史料事実じゃないってば
ただの素人意見 >>888
じゃあ紀元前に龍信仰があった証拠を持ってこいよ詐欺師 >>898
よっ、ぼくのかんがえたさいきょうの徐福くんw 古代の日本の朝廷の貴族らを描くならそのまんま神主さんらと巫女さんらの衣装を着た連中らの絵巻を描けばよい😊
かなり異質だろがな >>633
主張の中身わからんから何とも言えないが
大和説なら、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
論破は簡単じゃね? >>894 若杉山遺跡の岩を見るとわかるけどあまり赤くないだろ?
赤い石が落ちてるけどあまり赤が薄い
後世において発掘されず弥生時代のまま残ってるってことは
若杉山遺跡は鉱山としてはあまりよくない
対して宇陀のヤマト水銀鉱山なんかは明治にも発掘されて穴が残ってる
弥生時代にも掘られててさらに明治時代にも掘られて
跡が残ってないだけの可能性がある >>638
>ヤマトは都万国より先に朝貢してたから、モモソ姫は当然卑弥呼に該当する
卑弥呼って役職名なんだよ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。 >>643
>卑弥呼が神功皇后に該当して豊受姫も該当するなら確かに親族だから合うんだがな
「該当」しないから、×。 縄文文化にも弥生文化にもズボンがないんだよ
足に布を巻いて結ぶだけ
それでも一応ズボンのようには見える
30p四方くらいの生地しか織る技術がないから継ぎ接ぎだらけの衣装
やはり日本にまともな服装が伝わったのは4C後半の秦氏や東漢氏の帰化からだろう
埴輪を見ても分かる通り、山高帽をかぶったチマチョゴリに似た胡服だな >>644
>そのトヨ(豊受姫)な父親にあたるのが崇神天皇
つまり卑弥呼の跡を継いだトヨの父親ってわけや
九州倭國の別種分家の旧小国の大和には天皇なんていなかったし、
卑弥呼の跡を継いだのは「壹與」であって、「トヨ」ではなかったから、×。 >>902
>赤い石が落ちてるけどあまり赤が薄い
採り尽くして廃坑に残った石を見て、赤が薄いとか、頭大丈夫? わははははは @阿波 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>902
>対して宇陀のヤマト水銀鉱山なんかは明治にも発掘されて穴が残ってる
>弥生時代にも掘られてて
虚勢の精一杯のウソを言って、虚しくないのかね?
宇陀の採掘遺跡は? 国史跡? わははははは @阿波 >>898
まあ、普通に学者さんたちも論じる話で一般論だから、ググってみ?
本だってたくさん出てるぜ?
徐福は星見。妙見信仰とか、わかりやすく言えば北斗七星。
龍蛇信仰とはそもそも関連しないだろwww
もう可愛そ過ぎてwwワンタンとか色々がひどすぎるwww >>697
>宇那比姫=卑弥呼の宮殿は石舞台古墳に隣接する広場にあった・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
×ね。 若杉山遺跡 弥生後期だけ採掘されて水銀朱生産拠点も残った
その他 後世にも採掘されて採掘跡や生産拠点が残ってないだけ
若杉山遺跡を日本最古の辰砂採掘場とするのは早急
>>907 そこじゃない 岩を砕いてまで辰砂を入手しようとした
鉄を使って掘ったとしても当時としてはかなりの労力
一方宇陀は土が赤かったぽい
「大和の 宇陀の真赤土(まはに)の さ丹つかば そこもか人の わをことなさむ」(万葉集巻7-1376)
阿波がここまでしたのは属国だからだろう
本国なら収めさせればいい >>909 可能性だって書いてるだろ
じゃあ聞くが宇陀のあたりで弥生時代に
辰砂をとっていなかったことを証明できるか? >>910
>>913
だから徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中が吉本興業な
考古学者の論文は?
早く持ってこいよマンガチックでむぱ頭脳の中卒おじさんw >>914
>本国なら収めさせればいい
本国に匹敵する王都集落遺跡もない大和に、本国など在ろうはずがない! 頭が高い! わははははは @阿波 >>915
>辰砂をとっていなかったことを証明できるか?
その前に、辰砂を採っていた証拠を出せ! @阿波 >>698
>正始六年に詔があって、倭の難升米に黄幢を賜うことになった。それゆえ
正始八年に、張政等が倭国にやってきて、詔書黄幢を拝假難升米・・、
なぜかわからぬが、最初から詔書黄幢は難升米に授けることになっていたわけだ。
>其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授
其六年に卑弥呼に詔賜があった(卑弥呼は元気であった)が、
倭難升米は、郡に付けられて黄幢の假授を受けた。
>其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
倭女王卑弥呼は、倭載斯烏越等を派遣して詣郡させ、
相攻撃状の状態を説明させる位の元気はあった。
>遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
塞曹掾史張政等が派遣され、
それに因りて、詔書黄幢を(卑弥呼に面会できたのか?は不明)齎し、
難升米に拝假し、之(難升米に)、檄告喩した。
>・卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
だから、卑弥呼は、塞曹掾史張政等が派遣された頃から、体調がおかしくなり、
だから、だから、「以って亡くなった」。
割合急死ですね。 >>916
その前にワンタン食ってたとか証拠を出せよww 秦氏や漢氏も朝鮮半島出身らし〜からな
あそこ衣類あったの? まあ穢狛人か越人らくらいしか渡来人ら候補残らないんだよね
秦氏は百済だから越人の可能性が高い
漢氏は帯方だから穢狛人の可能性が高い >>704
>邪馬台国の都とはヒメ(踏鞴五十鈴)后 やトヨ津媛の住んだ葛城だ。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
葛城説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、
×だ。 >>920
餃子もワンタンも徐福の故郷の山東省で生まれた中国人の主食だぞ
中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の頃に、山東省で誕生したとされている[1]。
遺跡から、当時餃子が食べられていた痕跡が見つかっている
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%83%E5%AD%90
ワンタンはもともと華北で生まれたが、しばらくは餃子と区別されていなかった。
「渾沌」と書かれ、漢字の発達とともに「餛飩」という字になった。
前漢の揚雄による『方言』には「餅謂之飩」とあり、スープに入れることから
「湯餅」ともされた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3 とにかく朝鮮時代もまともなもん作れなかったらしいし >>709
>邪馬台国は
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
>それより南に水行陸行した先にある国という想定になっているのだから
投馬國は、不彌國から南の側副傍線行程國説明であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事になり、
「水行十日陸行一月」という日数説明文は、
その直前の文言である「女王之所都」に対する日数説明になるから、
「郡から女王之所都までの所要日数」説明になる。 >>920
で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中が吉本興業な
考古学者の論文は?
早く持ってこいよマンガチックでむぱ頭脳の中卒おじさんw >>728
>・・・高天原のふもと、葛城一言主神社にも土蜘蛛塚があるが、長柄の近くであり、これは猪祝であろう。
私が指摘している高天原の径百余歩の塚の周りの土蜘蛛痕跡、これが高尾張邑にいた土蜘蛛ということであろう。
「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」これが神武軍によるものであった。
「南≠東」「正北抵新羅の倭国は北部九州」や、
「日本国者倭國之別種也」の旧小国、などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。 >>919
ダメだこりゃ
>其六年に卑弥呼に詔賜があった(卑弥呼は元気であった)が、
>倭難升米は、郡に付けられて黄幢の假授を受けた。
間違いだらけ
其六年に倭の難升米に黄幢を賜うという詔が下って、彼に假授するよう証書と黄幢は郡に付託されたんだよ
ももちろん郡が希望して申請したとおり許可されたってことだろう
>倭女王卑弥呼は、倭載斯烏越等を派遣して詣郡させ、
>相攻撃状の状態を説明させる位の元気はあった。
普通に執政してたってことだろ
>塞曹掾史張政等が派遣され、
>それに因りて、詔書黄幢を(卑弥呼に面会できたのか?は不明)齎し、
>難升米に拝假し、之(難升米に)、檄告喩した。
難升米に用事があったんだから卑弥呼は関係ない
彼に黄幢を持ってきた
>だから、卑弥呼は、塞曹掾史張政等が派遣された頃から、体調がおかしくなり、
>だから、だから、「以って亡くなった」。
>割合急死ですね。
張政の在日中に死去したんだから急かもしれないが
・卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
というのは
「以って亡くなった」
みたいな前文に下人がある様な書き方じゃなくて
卑弥呼の死去が起因で、大作冢が帰結だろう
張政はたまたま来日中に倭王逝去に居合わせちまったので、倭国情勢の帰趨を見届ける仕事ができてしまった
それは大仕事だった >>928
>邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり
まあ、トンデモふるたに義理立てして、そこまで気色ばるこたーない。
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事になり、
まあ、トンデモフルタに義理立てして、そこまで気色ばるこたーない。 >>925
それで?
鼎じゃないと調理できないわけでもあるまい。
俺がワンタンって強調した意味がまるでわかってないなww。
それと大陸の史書に、馬や牛がまともに居ないとか書かれてなかったか?
痕跡がなくとも全く不思議ではないではないか。
外国で日本人が納豆食べれないのとさして変わりはない >>712
>不彌国までではまだ1万700里
對海國の方四百余里や一大國の方三百里に拠って、
不彌國で萬二千余里がほぼおわっている。
>邪馬台国までは1万2千里なので残り1300里ある事になる
ならない。
>それを南に陸行水行して沖縄台湾あたりの会稽東治の東に邪馬台国がある、
と魏志倭人伝には書いている
書いていない。
会稽東治之東の「ほぼ九州島付近」に女王國があった、と書かれている。
書いていないし、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、 >>
>魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東つまり
沖縄や台湾になる辺りと書いてある
書いていないし、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
「会稽東治之東」は、ほぼ「九州島付近」を指している。 >>933
じゃあ徐福は故郷の山東省でどんな調理器具を使って蒸し餃子やワンタンスープを
作ってたの? >>716
>魏の里は1里430mである事が
当時使われていたモノサシや使われていた度量衡から判明している
モノサシは尺寸定規であって、里歩系とは関係がなく、
魏朝の「里」は、1里≒76.5m位である事が、一寸千里の法などで、
確定している。 >>717
>魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東つまり
現在の福建省福州市の東で沖縄や台湾になる辺りと書いてある
これまた、「南→東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」事などを無視した、
・・・・アホ大和説詐欺師の貼り付けね。 >>230
>九州は会稽よりも北
九州島付近は、会稽東治之東の地付近。 >>938
>これまた、「南→東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
>「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」事などを無視した、
なんの根拠もないお前のヘンテコ珍説を無視すると
何か悪いの? >>940
>九州島付近は、会稽東治之東の地付近。
だから、口から出まかせのデタラメは何度連呼したってダメでしょ >>935
>書いていないし、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
>「会稽東治之東」は、ほぼ「九州島付近」を指している。
いくらダダコネて会稽東治が福建省だという通説を無視しても
会稽郡の最北端は屋久島あたり
逆立ちしても「九州島付近」とか誤魔化せない >>720
>>702
里歩系のモノサシなんてものは見つかっていなくて
見つかっているのは1尺24cmの尺定規
>魏では1里=300歩の1歩=6尺という古来の中国の尺度と変わらないものが使われていた事が
律歴志から判明しているので
尺寸系の定規の寸法は、魏朝の里歩系の寸法には関係がない。
>1里は約430mだったと判明している
そして見つかってるモノサシが里歩系の尺度の根拠にならないというなら
里歩系の尺度は存在していた証拠がないという事になる
漢代末に周髀算経の「再収集と最注釈」本が出ているから、証拠があった。
>さらに魏志倭人伝が載っているのは三国「志」の魏「志」なので
律歴「志」が民間の志なら三国志や魏志も民間の志という事になってしまうが
陳寿は、「民間的な立場」で三国志を書いた。 >>721
>それなら卑弥呼の時代には九州地方は九州と呼ばれていなかったということ
卑弥呼ら倭人は、「大夫」という周代の身分を使っており、
自分らが中国の「九州」にいた、という事を知っていて、使っていた。
>3世紀の魏志は現存してなくて
現在あるのは12世紀に復刻されたもの
それより3世紀の魏志に近い内容は5世紀の後漢書や8世紀の隋書という事になる
後代史家の「自己解釈に拠る三国志などの書き換え」本は、根拠にならない半分偽書であり、
写本版本の「差異文字の発生確率0.5%位以下」であり、
史料実態では、同時代の魏の役らに拠実地での見聞計測記録が、最も「正しい確率」が高い。 海賊管承ならまだしも徐福なんて渡来した出の悪い詐欺師のいい伝えだよ。 >>722
>3世紀の魏志は現存してなくて現在のは12世紀に復刻されたもの
3世紀の原書に近い文書の方が内容が正確という理屈なら
3世紀の原書が存在していた時代にそれを引き写しにして書いた
後漢書や隋書や梁書の方が内容が正確という事になる
原書や写本や版本の記載を、
「自己解釈に拠る書き換え解説」を実行ししている後代史書は、
原書の根拠にならない。
>卑弥呼が魏に遣使したのは景初三年と
日本書紀、梁書、翰苑、太平御覧にははっきりと書いてある
書紀や通典は、はっきり「明帝」や「景初二年」と書いて、
「景初三年」が嘘吐き騙しであった、という事を、白状してしまっている。 >>724
>会稽東治の東は現在で言えば福建省福州市の東で
沖縄や台湾の辺り
会稽東治の東は現在で言えば江蘇省海岸地域の東で
「ほぼ九州島」の辺り まだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 後漢末期は食いもん無くてあっちこっちで乱が起きたんだろ、人間を食いあってるとでとるし帝は遷都したが官達は食うもんなくて死んでるんだよ >>726
魏朝の里は、再収注釈をされた周髀算経や、
当時使われていた文献記録などから換算して1里約76.5m
さらに魏朝では度量衡の統一令があったそうなので
それ以外の尺度は使われていなかったという事になる
魏志倭人伝は女王國の位置を帯方より1万2千里と書いてある
これは帯方から筑紫平野くらいまでの距離になる
魏志倭人伝の距離は、実際の女王國までの距離を書いているというのは
かなり前から常識 >>735
>魏志倭人伝
倭国は会稽、東冶の東にあって最も南にある首都の邪馬台国は7万戸
完全に一致
陳寿の女王國の位置推定は、「会稽東治之東」であるから、
「会稽、東冶の東」が間違いであり、インチキであるから一致しない。
また邪馬台国なんても存在もしなかった嘘吐き騙しもんごんであるから、インチキ。 >>737
正史をまとめると女王國(≒倭國)は、「正北抵新羅」などに拠って、
「ほぼ九州島付近」にあると思われていたことになる
魏志倭人伝に書かれてる魏志倭人伝の位置はおかしくない
それが、ようやくスタート地点
俺たちの思考はまだ始まったばかりだ >>738
>また間違えた
魏志倭人伝に書かれてる邪馬台国の位置はおかしい
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この大和説男が×。 >>953
徐福集団が本当に来てたら、そんな超目立つ遺跡、一番最初に見つかってるはずだわなw >>766
なんか、印象批判くさいよ。
天気と風向きさえよければ、いつでも通える。
これ常識。 >>763
倭人伝に張政が帰るのを送って行って、その足で都へ詣でたと書いてるでしょ。
別の資料では、晋に倭から朝貢があった(266年)と書いてるし。
これ合わせたら、266年に張政が帰ったということが考えられているのよ。
そんなのあり得んでしょ、ということ。 >>760
舟便は、対馬、壱岐などの海人の縄張りだったような印象だよな。 >>755
帰ろかな、代えるのそおかな〜♪
と、思案してたてか。
思い兼ねずに、はやく帰りたまえ。 臺与13歳が大王に即位する事で紛争が終結になり、張政が檄飛ばしに
謁見にやって来て、張政の見送りを兼ねて晋に朝貢したのが266年だろ
やっぱ臺与の誕生年は253年だよ >>738
>また間違えた
魏志倭人伝に書かれてる邪馬台国の位置はおかしい
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、
大和説者の頭がおかしい。 >>741
>今でさえ誤植だらけなのに1700年前の著作物に何を求めているのかと
大和説学者らは、今でさえ、
存在もしなかった「畿内」や「邪馬台国」などの嘘つき騙しをし、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しだらけなのに、
1700〜1800年位前の同時代の魏の役人らによる実地の見聞計測記録の著作物を否定するなんて、
今更、何を求めているんだろうかねえ?。 >>743
いやいや、倭人伝は、同時代の実地の見聞計測を記録した魏の役人らの史書である、
という事が分かっていれば、そんな堂々巡りしなくていいの。
倭人伝は、いろんな変な細工などしない史書なのは明らか。
それを見破れば、ごくあたりまえの結論に行き着く。
まあ、がんばりたまえ。 卑弥呼は247年に崩御したとは限らんし、箸墓は臺与陵だしな
卑弥呼が247〜252年頃亡くなって、相誅殺男王(孝霊天皇=フトニ大王)が即位して、
吉備や出雲などを成敗し、山背を成敗しようとしたら紛争勃発でフトニが山背で戦死
娘の百襲姫を大王に付ける事を条件に紛争終結 >>744
>帯方郡は韓と戦って管理下に置いており、その大きさを方4千里とはっきり書いてあるので
勝った戦果報告は誇張するのが当時の常識なんだよ
現代人の考えではダメ
魏の役人たちは、実際に見聞計測をした記録を、勝手に改竄せず、
そのまま報告しておかなければ、バレれば首が飛ぶ事もある、
という事を知っているんだから、明確な「誇張」など有り得ず、
知り得た結果をそのまま報告するしかないんだよ。
現代大和説学者や阿波説者のような人間の考えではダメ 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1602486712/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>751
>昔からテンプレに載ってるぞ
スレ主は、大和説学者らと同じく、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙し集団である事がバレているから、
「テンプレに載っている」では、何の論拠にもならないんだよ。 >>970
妙な思想で罵っても
戦果を誇張したという根拠になる当時の資料が
「テンプレに載っている」という
事実は覆い隠せない >>948
後漢書でも会稽郡東治県は
中国最南部でハワイやグアムと同じ緯度にある朱崖タンジ郡とお互いに近いと書いてある >>947
日本書紀、梁書、翰苑、太平御覧には卑弥呼が魏に遣使したのは景初三年と
はっきりと書いていて
それらが当時参照した魏志倭人伝には卑弥呼の遣使が景初三年であった事を白状している >>945
九州が当時から九州と呼ばれていたというなら
卑弥呼に下賜された金印には親魏九州王ではなくて親魏倭王と彫ってあるので
卑弥呼は九州にはいなかったという事になる
ちなみに大和の旧字は倭 >>945
後漢書などの史書は自己解釈に拠る三国志などの書き換えでなければ根拠になるのであり
数世紀の隔たりがあるそれぞれの史書は魏書に曰くなど魏志を書き写したものである事を書いてあり
内容も共通しているので自己解釈による書き換えはなかったと言える 徐福が日本に来たかといえば来ていない
重要なことは東方海上に神仙が住む三神山があると信じられていたということ
夷狄の邦といえども俎豆之象(祭祀儀礼)は存在している
中国が礼を失するときこれを四夷に求めるは猶ほ信であるということ >>944
現実に見つかっている魏で使われていたモノサシと
九州説の言う里歩系の尺度が関係ないというのなら
里歩系という尺度は現実には存在しなかったという事になる
いっぽう普通の里は見つかっている魏のモノサシによって
1尺が24cmで律歴志に書いてある魏で使われていた尺度1里=300歩=1800尺に当てはめて
1歩が144cmで1里は約430mだったという事が解明されている >>976
そうやって「自己解釈」とかいうワケワカラナイお手製の造語を使って
恣意的にチェリーピックするのが
非学問の九州説 >>938
「南→東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」事などを無視しなくても
魏志倭人伝には邪馬台国のある所は会稽東治の東
つまり現在の福建省福州市の東で沖縄や台湾になる辺りと書いてある いくら屁理屈をこねても、無駄! とっくに「阿波」で決着済み。
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 >>934
對海國の方四百余里や一大國の方三百里は方と書いてあるので行程ではなく面積の事で
行や至などの移動を表す文言がついてないので
魏使は對海國や一大國を移動していなかったという事になる いつ見てもボコられて罵倒発言で逃げ惑う奥山(=キナイコシ)の姿あわれ >>981
おおー邪馬台国は阿波で決着したのですか
では卑弥呼の墓はどこにあったのですか? >>983
幻覚が見えてるみたいだね
頭にアルミホイル巻いたら 陳寿が倭を現実の日本列島よりずっと南と思っているのが明らかな以上
彼の書いた行程を辿ってあっちだこっちだ言っても
現実にあった女王の都に着かないのは当然の結果なんだよね 九州説は薬とかやってて幻覚が見えてる可能性があるから
おまわりさん調べてみた方がいいですよ >>968
それなら魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり
沖縄や台湾と書いてあるので
少なくとも魏使は邪馬台国の位置について間違った見識を持っていたことになる >>984
卑弥呼陵はここ。
矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
正一位、延喜式に記録された式内名神大社
「天石門別八倉比賣神社」:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm >>966
現在見れる魏志倭人伝は原本が失われて
私的に書き写したものや民間本などから文を拾って12世紀に編されたもの
同時代記録が正確というなら後漢書や隋書や梁書などのほうが
現在の魏志倭人伝よりよほど同時代記録に近いと言える >>989
後円部が35mだと卑弥呼の墓の大きさと伝わる径百歩に満たないのですが
これはどういう事でしょう
もしかして阿波は邪馬台国は阿波にはなかったのに嘘をついて騙そうとしているのでしょうか >>991
>後円部が35mだと卑弥呼の墓の大きさと伝わる径百歩に満たないのですが
どうして満たないの? @阿波 >>986
>現実にあった女王の都に着かないのは当然の結果なんだよね
現実に女王の都に着くよ。 @阿波 >>988
>少なくとも魏使は邪馬台国の位置について間違った見識を持っていたことになる
彼らの報告が意図的にねじ曲げられてる可能性もあるけどな >>995
>彼らの報告が意図的にねじ曲げられてる可能性もあるけどな
まったくない! @阿波 近代以前では現実よりも観念が優先されたということを理解してないバカばっかり 日本書紀は、ヤマトトトヒモモソヒメを孝霊天皇の皇女とし、崇神天皇のときにも活躍していたとするが、
モモソヒメから開化天皇までを30年、開化天皇から崇神天皇までを30年とし、崇神のときのモモソヒメの活躍時期までを10年と割り振れば、
モモソヒメは70歳くらいの高齢者だったことになる。
どうしてこのような無理な設定を日本書紀は行ったのかというと、倭人伝の卑弥呼がやはり70歳近い高齢で死んだとされることに合わせたのだろう。
モモソヒメが霊能的性格であったことも書かれているということは、つまり、卑弥呼似の人物をモモソヒメとして描いたということが分かる。
卑弥呼似は神功皇后もそうであり、日本書紀は卑弥呼似の人物をあちこちに撒いていることになる。
倭人伝の舞台が大和ではなかったことを、なんとか粉飾で糊塗しようとしていたことが透けて見える。
日本書紀の編纂者たちは、卑弥呼の倭国が大和でないことをちゃんと知っていたということだな。
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