邪馬台国畿内説 Part750
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1641490994/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>587
纏向は✖
倭人伝の記述と合致しない。
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
南→東の謎解きが先かな?? >>601
なんか 嫌なことがあったのかい?
5ちゃんで憂さ晴らしも良いよ
スッキリするまで遊んでいきな 纏向は卑弥呼の時代、3世紀初めに突然現れたわが国で初めての計画的な都市
自然発生的な集落ではなく祭祀・政治のための都市
いわゆるヤマト政権の誕生の地
ただこのヤマト政権は天皇以前の政権から始まった
歴史上の天皇を語ることが必要になる >>602
>倭人伝の記述と合致しない。
どう合致しないの?
具体的内容がないんだが
なんか 嫌なことがあったのかい? >>610
2世紀だと考えられてる伊勢遺跡もそんな感じ
纏向は此処と繋がってる可能性がある
ヤマト政権は天皇以前の政権から始まった歴史上の天皇って何?
神武以前に天皇は居ないだろ >>610
>纏向は卑弥呼の時代、3世紀初めに突然現れたわが国で初めての計画的な都市
その「3世紀初め」という年代主張そのものが間違いであり、失敗である。
大和説学者らの「放射炭素年代測定」は、AMS法でのプラズマ化をしているが、
そのプラズマ化をした時間帯の間には、外周電子が失われて、
炭素原子核の裸状態の「場の不安定化」を造ってしまっていて、
だから、原子核内での、
失われた電子分に相当する電子を放出(ベータ崩壊)をして、
電磁場的安定状態にしよう、とする相互作用反応が起き、
そのために、本来その原子が持っていたベータ崩壊数よりも沢山のベータ崩壊を計測してしまって、
本来の年代よりもずっと古い年次を計測してしまう事になる欠陥計測であったんですよ。
どれくらい古い年代を計測してしまったのか?は、その計測装置の能力にもよりますが、
大体、1700年位前のものなら、50〜100年位古く出る、
というバラつきの範囲位のようです。
だから、「3世紀初め」というのは「3世紀後半から4世紀」になり、
だから、卑弥呼の時代から大きく外れるんですよ。
また、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」によっても、前方後円墳は、
壹與の時の西晋武帝の「天円地方」の埋葬思想教育の後ですから、
卑弥呼の墓や平原1号の壹與の墓よりもずっと後になり、
筑紫の那珂八幡などが3世紀後半半ば過ぎ頃で、
大和の庄内1の石塚は、那珂八幡の進化型ですから、3世紀末になり、
布留1の箸墓は4世紀になります。 >>610
畿内説の一部学者の利益優先の妄想だよ
現段階で倭人伝記述と合致する点を挙げてみなよ >>624
伊勢遺跡は?国なんだ。
滋賀まで畿内にいれるのかな? >>625
同意
また、桃の種の炭素年代は同一遺構からの桃の種であり
比定年代の幅が一致。同時期一度に捨てられたのであろう。
継続して祭祀が行われていたとは考えにくい。
箸墓は何をもって3世紀後半としてるのかも不明。土器に付いた炭化物なんて証拠にならない
日本全国3世紀に土器で煮炊きしていたであろうからね。 古代中国で一尺は時代によって微妙に違うが、
人の手のひらを広げた長さであり、だいたい23センチ前後、
一歩は6尺と決まってるから、だいたい1m40前後。
卑弥呼の墓は径百余歩なんで150m前後の円墳か楕円墳になる。
九州に一つもないのが笑えるw
とりあえず箸墓の円墳部分が径百余歩に相当するのは事実。
しかし箸墓は被葬者埋葬時期が椿井大塚山や桜井茶臼山と同時期であり、
その時期は4世紀前後であるから、卑弥呼の墓ではない。
この日本で150m前後の楕円の墳墓あるいは自然丘が一つだけある。
それは大和朝廷の発祥地である奈良県御所市にある。
それは古代から高天原と呼ばれた場所であり、となりに土蜘蛛が埋葬された蜘蛛窟がある。
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼墓そのものの様相である。https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0001640.jpg
ここに卑弥呼(Bei mei hu)、比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛をはじめ、その両親、親族、3世代後のトヨまでみんな埋葬されているのである。
彼らは高天原の神々であったからだ。 >>629
計百歩より、もっと小さいと思うよ
テンプレでは破賊文書でその辺の似たような解説してるよ >>623
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 >>630
>もっと小さいと思うよ
思うも何も魏志倭人伝に百余歩と書かれてるわけだから。
卑弥呼の五尺刀ともいわれる中平銘鉄刀が110センチだから一尺は22センチになる。
ならば一歩は132センチ。 神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ〜んぶ倭国(阿波)での出来事。 7世紀末まで「阿波」に王都があった。
「阿波」には鮎喰川下流域集落群の矢野遺跡など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、
奈良盆地には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 >>626
時代が合う
卜骨が出てる
朱が出てる
絹が出てる
径百余歩の墓がある
権力者共立の痕跡がある
祭祀遺跡だ
宮室楼観が見つかった
政治経済や流通の核だ
有名な巫女がいた伝承がある
宮都伝承地だ
魏鑑が出てる 「其死有棺無槨 封土作冢」
倭人の作る「冢」の墓は、有棺無槨 >>634
>人口が集中しているからこその「都市」なのだが
誰も都市だとか主張してないし >>632
知らんよ スレ主の論法を拝借しただけだから
無理は承知の上だよ。だいたい距離を戦果報告に入れないしね。次に行った人にすぐばれるから。
畿内説風に言えば、径百歩は誤認でも誤写でもいいけどねww
511 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/01/10(月) 18:58:58.83
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀) >>637
纏向は都市でないとして
兵や巫女、その他官僚はどこに住んでたのよ。
倭人伝では
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
なんですけど >>638
スレ主が馬鹿なだけ
それで径百歩より小さいの根拠は >>635
斎場兼古墳造営基地にピッタリあてはまるねww 親指の幅が一寸
手のひらを広げた長さが一尺
歩いて右足、左足の距離が一歩=6尺。
どこをどう計れば径百余歩が祇園山や平原や権現塚になるんだ? 魏の劉徽は『九章算術』の注釈の中で、ブリソンと同様の方法を用い 3.14 + 64/62500 < π < 3.14 + 169/62500 であることを示している(これは後に徽率として知られるようになった)。小数では 3.14102 4 < π < 3.14270 4 である。さらに正3072角形を用いて、3.14159 という近似値も得た >>649
誇大報告、誤認、誤写、伝聞かもね
短里で説明する人もいるし
私は卑弥呼の墓は見つかっていないか消滅した派 >>657
>短里で説明する人もいるし
100歩ゆずって長距離の指標に短里なるものがあったとしても、
人間の手の長さや歩いて2歩からくる寸や尺や一歩は半分にはできない。
だから九州に卑弥呼の墓はない。
>見つかっていないか消滅した派
2世紀前半(あるいはそれ以前)の男王から3世紀後半のトヨまでは続いた王族だからね。
日本人がその王権をすっかり忘れ去ったというほうが無理がある。
どこかの神社の境内辺りに今も存在しているはずだ。
4世紀前半の崇神天皇以前の神社が大和朝廷発祥地の御所市周辺に複数ある。
そこにある。 >>624
卑弥呼の時代に天皇はいなかった
神武天皇に当たる人物は卑弥呼・台与の時代の後に登場した
それまでの遺跡を宮内庁が管轄するのは本来はおかしいということになる
宮内庁の名称を変えるか別の所管機関を創設すべきだと思う スレ主2号が暴れてるな
暇かよ 荒らすなよ レス進めんなよ
以前 半日で500レス行った事があったがほとんど中身なし >>638
>知らんよ スレ主の論法を拝借しただけだから
>無理は承知の上だよ。だいたい距離を戦果報告に入れないしね。次に行った人にすぐばれるから。
それは真っ赤な嘘で、キウスの捏造
スレ主は否定している
「未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。」 >>658
記紀に出てこないのは何故かな
ヤマト王権=邪馬台国じゃないからかもね >>661
キウスじゃねーし
だったら、破賊文書を引用する必要ねーし >>659
同意
宮内庁が管轄する必要は無い。
税金の無駄である。学問の妨げにもなる。 我が愛する郷土「阿波」には、鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、
奈良盆地には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。
神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ〜んぶ倭国(阿波)での出来事。 7世紀末まで「阿波」に王都があった。 @阿波 >>662
記紀に出てこないのは記紀に記されたとおりで、神武より前は九州にいたからだよ。
そして九州時代を正直に書くと、出自があからさまになってまことに不都合であるから、
天上のタカマガハラから降ってきたことにした。ただそれだけの事。半分正直ともいえる。 >>659
>卑弥呼の時代に天皇はいなかった
天皇なる称号はなかったね。
>神武天皇に当たる人物は卑弥呼・台与の時代の後に登場した
根拠は?
まさか安本美典の平均在位10年で計算してるんじゃないよね?
あれ無茶苦茶だから。
古代の平均在位はおおよそ12年。
それで用明、雄略、応神、垂仁(=崇神没年)の即位年から計算してみ。
結果は神武がことごとく卑弥呼の若いころ、2世紀末から3世紀初頭になる。
二人は夫婦だったからだ。
夫の神武に先立たれた後の姿が「年長大 夫なし」になる。
今の英国のエリザベス女王と同じ状況。 >>675
10年だったか、12年だったかなんて、大統領の任期でもあるまいによ。
増して、任期の開始ー終了が寿命で決まったかどうかも不明。
今となっては古代天皇の任期は水掛け論。 >>674
九州倭人と渡来人の連合体がヤマト王権を築いたと思うよ。
畿内にいた豪族達は武力の違いから戦うことなく従った。
こんな感じかな >>675
神武の前は九州時代で、その九州時代こそ、
倭人伝が記す邪馬台国女王から→親魏倭王の卑弥呼・臺与にかけての時代だったのさ。・・実に簡単! >>682
我が愛する郷土「阿波」には、鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、
九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。
神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ〜んぶ倭国(阿波)での出来事。 7世紀末まで「阿波」に王都があった。 @阿波 卑弥呼や帥升を歴史から消したのは朝貢がマズいんだろう >>676
我褒めでキウスとバレる頭の悪さが哀れだな 天上の高天原から来た・・・、
竜宮城へ行って帰ってきた・・・、
地の底の黄泉の国を見てきた・・・
こういうありえなく見える表現は、よく古代史に出てくる。
これは足跡を消して、出自の追及を逃れる常套手段、あからさまになると国体にとって都合の悪い事情があったからだ。 >>685
俺もそう考えていた。
しかし最近、更にべつの事情もあったとみるようになった。
それは、卑弥呼王権の場合、朝貢先の魏王朝となにがしかの種族的所縁が有ったからではないかとおもう。
手っ取り早く言えば、卑弥呼や台与や難升米や、さらには大和朝廷の役人までもが、実は漢族/馬韓族/百済族の流れだったからではないか。 >>681
そう思う理由を言えないのが九州説の致命的な弱点 >>689
そう思うのは、たんに高級頭脳がそう思うのだから理由はない。
むしろそれを否定する理由を言えないのが、大和説・北部九州説の致命的な弱点 >>680
計算もしないで言うな、反論にもならない。
任期の終了が寿命でなくともかまわない、平均在位だ。
4人の天皇の8つの座点から神武即位として同一時代が出たのなら、それは真になる。 >>682
計算式も何もないのに願望を言わないように。 I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津媛 E孝安 D孝昭
トヨ津媛 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
これでいいね。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、
つまりヒメ后=ヒメ(踏鞴五十鈴)后。
ハイ終わり。 >>690
根拠が無いと思うがそれはいつ頃だと思ってるんだ? 倭国大乱が発生したのは王になろうとするものが複数いたから
それがなかなか決着しなかったのは決着をつけられる強大な候補がいなかったから
ただすべての人々に倭国は一つにまとまるべきだという思いがあった
それが卑弥呼の共立となった
一つは軍事的な意味、もうひとつは農業生産の基盤構築のため >>492
>>日本の辰砂鉱山はその3カ所だけじゃない
遺跡、資料、史料はださないの? 倭国大乱が起こったのは
半島や大陸から渡来した連中が暴れたから
それがスサノオの伝承ともなってる >>694
最近、弥生人に続く「古墳人」という考え方が登場してきている。
つまり、奈良盆地にそれなりの形が出現したのが、いわゆる「古墳時代」の始まりだったのではないか・・、
ただ、その黎明がいつだったのかを廻って諸説あり、という現状なのであろう。 >>698
>最近、弥生人に続く「古墳人」という考え方が登場してきている。
その「古墳人」とは、全国へ進出していった「倭人(阿波勢力)」のこと。 @阿波 弥生時代と古墳時代の違いは環濠集落が無くなったことだけど
これってやっぱり襲われる心配が無くなったって事なのかねえ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています