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邪馬台国畿内説 Part891
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:49:01.40
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1683477663/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:50:01.02
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:50:32.25
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:51:04.75
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:51:36.04
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:52:07.71
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:52:39.18
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:53:10.52
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:53:43.01
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:56:02.64
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:56:35.57
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:57:06.10
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:57:38.46
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:58:09.30
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:58:40.57
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:59:12.27
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 18:59:42.97
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:00:13.61
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:00:44.48
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:01:15.98
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:01:46.86
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:02:18.63
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:02:50.01
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:03:21.56
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:03:53.08
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:04:25.81
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:04:57.27
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:05:28.98
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:05:59.96
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:06:30.42
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:07:01.49
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:07:32.87
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:08:03.92
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:08:34.83
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:09:06.03
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:09:37.76
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:10:08.89
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:10:39.67
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:11:10.83
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:11:42.04
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:12:13.46
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:12:44.82
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:13:15.77
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0046◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:13:47.99
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0047◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:14:16.76
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0048◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:14:48.17
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0049◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:15:18.36
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/05/10(水) 19:15:49.91
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0051◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:16:20.88
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/05/10(水) 19:16:52.97
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0053◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:17:24.47
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0054◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:18:05.58
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0055◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:18:37.06
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0056◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:19:09.00
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0057◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:19:41.33
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0058◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:20:12.65
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2023/05/10(水) 19:20:43.80
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/05/10(水) 19:21:15.10
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/05/10(水) 19:21:47.84
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/05/10(水) 19:22:19.38
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/05/10(水) 19:22:51.09
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/05/10(水) 19:23:23.77
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/05/10(水) 19:23:55.17
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/05/10(水) 19:24:26.52
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/05/10(水) 19:24:57.37
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/05/10(水) 19:25:29.35
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/05/10(水) 19:26:00.98
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/05/10(水) 19:26:32.61
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:27:04.56
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:27:36.32
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:28:07.97
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:28:39.12
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:29:11.45
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0076◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:29:42.99
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0077◆ondZSOlfxeS6
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2023/05/10(水) 19:30:14.33
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0078日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>55
『八頭花崎八葉』に触れないのは何故?
大きさが八咫とかよりこの記述の方が決定的なんだけど
0079岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/10(水) 20:00:39.87
1さんはお疲れですが、テンプレの間違いを直すことをしないのは、九州説と同レベル。
平原王墓の扱い、日本海ルートの評価、卑弥呼の死亡時期の三点は、同意できませんし、
これが畿内説の標準でも全くないと思いますけどね。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:03:13.13
岡上さんのレベルがこの程度でがっかり
というか、いかにも紳士風を装っているだけにしか見えなくなってきた
0081日本@名無史さん
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2023/05/10(水) 20:09:34.75
>>80
>いかにも紳士風を装っているだけにしか見えなくなってきた

それは、板野の詐欺師も同じレベル。   @阿波
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:17:21.69
>>82
まだあったのか?  わははははは   @阿波
0084日本@名無史さん
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2023/05/10(水) 20:22:41.43
岡上氏は残念ながら、法学に全く無知。
「卑弥呼以死」は、卑弥呼すでに死すと読むべきだと主張する。
しかし、そもそも法学の観点から言えば、そもそも陳寿は「すでに死す」と解したのか、「もって死す」と解したのか、そもそもそのどちらでもなく陳寿自身、独自の解釈を有してなかったというべきである。
陳寿がどのような主観を有して「卑弥呼以死」としたのかは知りようもない。
すなわち、「卑弥呼以死=卑弥呼すでに死す」は岡上氏の単なる独自の解釈と言うべきであり採用できない。
それにも関わらず、自分の主張が絶対的に正しいと押し付ける岡上氏は、説得の学問を放棄したと言えよう。 
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:24:33.29
むしろスレタイに(阿波説もあるよ)とつければよろし
0086岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/10(水) 20:26:37.46
法学?って何ですか?よく分からないですが、
南宋の鄭樵が「卑弥呼已死」と書いていますからね。
私個人の解釈なんていう範疇ではないですよ。

【浙江大学オンライン図書館】
https://archive.org/details/06059276.cn
0087日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

トピ主めっちゃ賢そうだから東殿塚古墳について知ってること教えてくれません?
あそこ豊鍬入姫=臺與の墓だと思ってるんですがどうですか?
0088日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あと崇神の崩年干支なんて合ってるわけねえんだから258年でも318年でもないが正解よな
その間くらいがいいだろう
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:32:25.69
>>86
あなたは法律に全く無知。
あなたの主張は多くの人に受け入れられない。
したがって、説得の学問を放棄したのである。
「卑弥呼以死」を卑弥呼已に死すと解するべきであるという主張が全く受け入れられていない事実がありながら、あたかもそれが100%真実であるかのように語り、
九州説レベルなどと吐いて捨てるのは、自身の信用性すら放棄したと言える。
 
残念ながら、貴殿は阿波トンデモ説と同レベルである。
0090岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/10(水) 20:39:41.50
何ですか?説得の学問って??
歴史探究って、各個人が、過去存在としての歴史的事実を確認するのであって、
他人への説得なんて二次的、三次的なものでしかないはずですけど。
検定教科書による洗脳教育とか?になっちゃいますね。

「あたかも事実かの様に語る」とかリンクを見れば事実かどうか一発でわかるんですけどね。
説得もクソもない。自らリンクを踏んで検証する気概があるかどうかだけの話。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:42:45.08
>>90
自分が100%正しいと他人に押し付けている。
あなたの主張は、100%の人に支持されてますか?
NHK FOR SCHOOLでは、「卑弥呼もって死す」としています。
見て下さい。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:43:38.74
>>90
あなたの主張は、客観的証拠ではなく、単なる主観に過ぎないのです。
理解できますか?
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:44:37.90
>>89
>阿波トンデモ説と同レベルである。

相手になってやるよ。 どこがトンデモなんだ? 逃げずにかかってこい!   @阿波
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:46:30.83
>>89
何が言いたいのかサッパリ、わからない
で結局、使者がきた時点で卑弥呼は死んでいたのか?死亡年はいつなんだ?
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:47:39.20
>>93
岡上氏の主張は、阿波説より酷いレベルだと思いますね。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:48:37.49
>>94
そんなの「卑弥呼以死」だけで知りようがない。
0097岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/10(水) 20:49:18.25
ー南宋の鄭樵が通志に「卑弥呼已死」と書いているー
純然たる文献的事実であり、私の主観が入り込む余地は0%です。

で、NHK FOR SCHOOL? ってなんですか?
0098日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

東殿塚古墳に伊勢型二重口縁壺がある
これが何よりも如実に、豊鍬入姫の墓である事を物語っているのだよ
後継の倭姫が豊鍬入姫の死を悼んで使者を送ったのだ
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:55:33.14
>>96
其八年太守王頎到官
  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
  遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

ここをどう読むの?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:55:53.36
>>97
貴殿はそれが客観的な証拠であり、仮に裁判になったとしても100%勝訴すると思っておられるんですよね?
分かりませんか?
自分の異常さが
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 20:56:41.07
>>99
色々な読み方がある。
0102岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/10(水) 21:00:40.30
リンクを踏めばわかる話を裁判とか、意味不明です。
歴史は「裁判」で決めるようなものじゃないですよ。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:00:41.56
>>101
だから、君の主張は何?
0104日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

みんなで東殿塚古墳を盛り上げよう
予算が付いて埋葬施設発掘調査になれば邪馬台国論争はきっと終わる
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:02:09.45
魏志の900年後に1人自分と同じ解釈した中国人がいたってだけじゃん
0106日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もうここが臺與の墓だとしか考えられない
これは当に天祐だろうね。マニフェスト・ディスティニーだ
大いなる意志によって一番重要な東殿塚が宮内庁の治定を逃れたのだよ
0107岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/10(水) 21:04:19.61
東殿塚ってそんなに古いんでしたっけ?
白黒ハッキリ、といえばやっぱり箸墓じゃないかな?
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:04:22.21
「卑彌呼」が死んだのは、正始八年、帯方郡の太守王キが任官した以降なのは確実だろう。
その郡太守が張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭したんだから。   @阿波
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:06:43.81
>>107 岡上
>白黒ハッキリ、といえばやっぱり箸墓じゃないかな?

箸墓古墳は葺石墓だから4世紀の築造 だと何度言えばw   @阿波
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:06:57.76
>>103
いずれも採りうる
0111日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

西殿塚(崇神真陵)から伸びる陸橋の先に祭祀場跡。そこに供献された伊勢型二重口縁壺
https://i.imgur.com/JTiOiFB.jpg

もうさ
全部分かっちゃってんだよね
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:10:13.08
>>102
リンクを読めば、卑弥呼已に死すは100%明らかであり、かつそれを全ての人間が受け入れると貴殿は思っておられるんですよね?
分かりますか?貴殿の思想が異常であることが
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:10:42.43
>>104
予算が付いて埋葬施設発掘調査になれば、「倭人(阿波勢力)」のお墓だと分かる。   @阿波
0114日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国論争は東殿塚古墳を掘れば終わる
そう言い続けようじゃあないか
0115岡上 ◆UYpGkO/Xng
垢版 |
2023/05/10(水) 21:12:14.83
>>105
通行本成立とほぼ同時期の本場の学者さんの解釈ですよ。
貴重に決まってるじゃないですか。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:12:16.18
>>114
予算が付いて埋葬施設発掘調査になれば、「倭人(阿波勢力)」のお墓だと分かる。   @阿波
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:13:41.22
>>115
「卑彌呼」が死んだのは、正始八年、帯方郡の太守王キが任官した以降なのは確実だろう。
その郡太守が張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭したんだから。   @阿波
0118日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あー東殿塚だわ
全ては東殿塚に眠っている
0119日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なんで在地性の強い伊勢型二重口縁壺が置かれてるのか、当時議論になったみたいだけどここが豊鍬入姫の墓なら全部解決じゃん
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:19:37.23
>>117
阿波爺
張政等の日本到着はいつと思うか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:28:51.88
遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状

派遣したのは誰?
卑弥呼?弟?男王?壹与?etc

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:32:35.55
卑弥呼が死んで男王たつが千人程内ゲバで死亡
壹与が治って、冢までの期間は?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:52:44.93
>>119
>なんで在地性の強い伊勢型二重口縁壺

そりゃ、「倭人(阿波勢力)」が伊勢型二重口縁壺「東阿波型土器」を作ったからに決まってんだろうがよ。   @阿波
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:54:13.91
>>120
そりゃ、正始八年、帯方郡の太守王キが任官した以降に決まってんだろうがよ。   @阿波
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 21:56:32.38
>>121
>派遣したのは誰?

そりゃ、「卑彌呼」だろ。   @阿波
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:00:23.72
>>122
>壹与が治って、冢までの期間は?

「卑彌呼」が死んですぐ造ったんだろう。 男王たつ前に。   @阿波
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:02:57.13
阿波の良い所を挙げるとするならば、全員が自分の考えを当然に受け入れるべきだとは思ってないこと。
全員が自分の考えを受け入れるべきだと思っている人はもはや狂信者。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:03:29.46
「大率皆魁頭露?布袍草履」(後漢書韓伝)

大率は普通名詞
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:03:53.38
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0130琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/10(水) 22:08:51.07
まだやってるのか、
卑弥呼の死をもって、径100歩の大きな冢を築きました、さらに、男王が立ったが…。だよ。普通に。そして卑弥呼の宗女、独身子無しの卑弥呼の宗(本元)女の岱與(霊山第一座)に引き継がれました。だよ。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:08:53.43
>>127
「観音寺・敷地遺跡」が7世紀中頃の倭国(阿波)王権王都の一部だと全員が当然に受け入れるべきだ。
他にどこにも無いんだから、全員が当然に受け入れるべきだ。   @阿波
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:13:24.78
>>97
>ー南宋の鄭樵が通志に「卑弥呼已死」と書いているー

書いたら何なの?
その人の解釈でしょ
しかも「已」と解釈したら時系列をいつまでも自由自在に繰り上げられるの?
そんな解釈は一般的ではないし、絶対的正解にもなり得ない
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:19:51.09
>>131
あなたの場合は、全員に白い目で見られているから問題ない。
仮に、あなたか「当然に全員が受け入れるべきだ」と思っていたとしても、我々は「ああ、この人は心◯◯◯だね」とか「ネタだね」とか「賑やかしだね」とか「◯◯失◯◯だね」としか思ってない。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:22:46.11
>>133
>我々は「ああ、この人は心◯◯◯だね」とか「ネタだね」とか「賑やかしだね」とか「◯◯失◯◯だね」としか思ってない。

「観音寺・敷地遺跡」以外に遺跡を出せないから、負け惜しみな。 わははははは   @阿波
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:25:26.91
>>134
わはははは→毎回それをわざわざ書く意図が見える
あなたには悪意がない
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:25:31.90
>>133
客観的根拠を出せるのは、「阿波」だけ。 他は負け惜しみを言うのが関の山。   @阿波
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:26:52.79
>>124
まあ、そうなるわな
死亡は確認できても
死亡したハッキリした年はわからない。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:41:05.91
>>135
>あなたには悪意がない

畿内説や九州説の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題だ。
その時が来るまで楽しくやろうぜ。  わははははは   @阿波
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 22:59:48.90
阿波君はごまめだから
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 23:09:21.66
つまり九州は嘘
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/10(水) 23:50:40.80
阿波が阿倭というのは、大変理解しやすいなあ
真実は、いつも決まってシンプル
理屈をこね回すと、絶対におかしい結果になる
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 00:12:38.48
@阿波さんへ
日本書紀は、すごくスッキリとまとまった書物ですが、偽書なのですか?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 00:16:23.27
なんで阿倭が阿波になったのだろう?
好字二字令の影響?
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 00:56:13.20
>>127
なぜそう思ったw
0147伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/05/11(木) 04:42:57.81
>>145
阿波の元の発音は「あわ」ではなく、「あは」「あふぁ」のような感じだったみたいなのよね。

なので「波」の字が採用されたという事。

安房も房の字なのは同様の理由。

元が倭なら「和」の字を採用し「阿和」になったのでないでしょうか。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 06:05:36.55
其八年太守王頎到官
着任した月や
日食、月食等の記述があればな
弓遵の戦死はいつ?

しかし、いつ卑弥呼が死んだだろう?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 06:19:42.84
倭載斯烏越等の到着
月もわからない。
派遣した後に死亡?

正始七年以降もありうる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0150岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/11(木) 06:27:00.51
>>132

通行本成立と同時期の知識人の解釈ですよ。普通に決定的な解釈ですね。
「自由自在に時系列を遡る」という非難はよくわかりませんね。
247年まで卑弥呼は生きていましたが、同年の張政の倭国到着時には
「已に死んでいた」それだけの事です。

変な意固地になってる人が多そうですけど、新事実なんですから、さっさと認めたほうが
楽ですよ。FAQも訂正ですね。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 06:55:12.78
さて?短い期間で
男王立ち、争い、壹与
冢も作る。渡航できない次期もある
決定的な解釈でもない。
冢は九州だろう。箸墓の工期では無理だ
移動先かもしれん

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 07:07:41.53
>>150
>247年まで卑弥呼は生きていましたが、同年の張政の倭国到着時には
>「已に死んでいた」それだけの事です。

それ、なんの根拠もないあなたの考えでしょ?
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 07:19:43.52
新事実とは、こういうこと

卑彌呼【以死】大作冢徑百餘步
政等 【以檄】告喻壹與

これ、対になってるw
0154琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/11(木) 07:34:51.39
であるから張政は一連の間滞在したんではないのか?と考える人も居る。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 07:48:11.68
>>154
>と考える人も居る

それ以外にあるか?
張政等は帰国に際し、壱与の命により、倭の大夫率善中郎将掖邪狗らに送ってもらってるんだから。   @阿波
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 07:51:18.94
>>154
>と考える人も居る

それ以外にあるか?
「卑彌呼」→男王→「壹與」の期間、居た。   @阿波
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 07:56:31.08
>>154
長期でなく短期間と思う 2、3年?
しかし卑弥呼亡くなった後の男王の
素性ぐらい記述あればな。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 08:13:38.06
>>156
「更立男王」があって
「国中不服更相誅殺」の状態になって
「復立 卑彌呼宗女壹與」で「国中遂定」になって
掖邪狗らが洛陽に行くのと一緒に張政は帰国したんだから
当然何年も後だよね
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 08:14:09.68
邪馬台国は大和、狗奴国は河内、委奴国は摂津で決まりだな
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 08:54:52.84
>>153
それは対じゃないんでは?
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 09:15:56.01
>>164
倭人伝には「大倭」が国だなんて書いてないから
そんなこと考えるのは妄想
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 09:30:23.30
>>160
まだ、探しているの?
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和であって邪馬台国ではないと思うけど?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 09:41:17.17
>>166
>それでは、何だと考えますか?

代わりに答えようか?   @阿波
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 09:57:43.81
>>169
じゃあ、お答えしよう。

「大倭監之」だから、大倭は役職若しくは役所機関だ。
国々はもちろん、吉野川流域の「邪馬臺国」構成国のこと。   @阿波
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 10:06:55.81
>>172
君には何も考えられないんだろ?  わははははは   @阿波
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 10:09:16.65
>>172
君には考え得る材料が何も無いんだろ?  わははははは   @阿波
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 10:18:28.80
ダイワマンだよ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 10:22:59.47
>日本書紀 崇神記65年
>「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
> 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている

筑紫や任那が存在してたという事は、
崇神在位時期は西暦何年頃なんだ?
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 10:54:36.21
魏志倭人伝で畿内説がシカトしている重要な一文
『国国有市 交易有無 使大倭監之』

国々には市場が有り有無を交易していた(おそらく物々交換)
コレを大倭(大和)を使って監視していた
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 10:56:50.75
倭国大乱の後、北部九州の卑弥呼女王国と東の倭種の国(大倭含む)に分裂した
ともとれる
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 11:50:23.47
>>166
>それでは、何だと考えますか?

階級
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 11:57:11.76
纏向遺跡の遺物で2世紀の物って何がある?
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:04:32.03
>>183
ネットで探しても出てこないのよね
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:07:46.91
>>166

卑弥呼の弟を中心とした政権

「其大倭王居邪馬臺國」(後漢書)=卑弥呼の一族
「有男弟佐治國」(倭人伝)

後漢書は、卑弥呼が遣使する前までなので倭の中心的な国の邪馬臺國の王族が大倭王
倭人伝は、卑弥呼を倭国の女王と認めたので大倭王は大倭
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:10:21.33
>>182
あったら邪馬台国ではないな。
平原遺跡や丹後並みの財宝がないのが
邪馬台国の内陸部だな
建物も立派に作る必要性もない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:20:09.69
過疎地だった2世紀の纏向は、共立された卑弥呼が住める場所では無かったと考えられる。畿内説は砂上の楼閣だったのです
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:21:07.92
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:25:12.70
確か纒向遺跡で出土した纒向土器の製造元は熊野だったっけ
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:41:06.89
>>189
いや、奈良と大阪
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:47:08.95
>>184
纏向1式土器、矢板
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 12:58:07.59
何でもかんでも纒向遺跡とひとくくりにしてるのが問題だな
時代も遺構もバラバラなのに
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:04:07.99
>>192
土器と農業遺跡では話になりませんね
0195日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>194
鋤が9割なんだから農業遺跡ではないだろ
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:17:46.08
>>196
開拓地、物流網等のインフラ工事
古墳だな。終われば次の現場
記紀では宮の移動になっている

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:23:55.08
>>194
なんで農業遺跡という妄想が出てくるのか理解に苦しむ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:26:41.83
>>193
>時代も遺構もバラバラなのに

九州説さん
などと専門家の調査結果の正反対を言い張る理由は?
いつものデマかな?
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:38:09.09
纏向遺跡の存在自体を否定したいんだろう
それほど九州説にとって脅威ってこと
でも非常識すぎて馬鹿にされるだけ
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:39:01.70
200年幅を同時期に仕立て上げる専門家さんが不服なようですね
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:43:56.25
>>198

纏向学研究センターのページに

用途としては灌漑用であるとともに物資運搬用の水路とする見方が強いものです。と書いてある
https://i.imgur.com/zJrtFnt.jpg
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:44:26.72
>>201
また200年幅とかトンデモを言い始めたw
ソース無しだから妄想ね
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:45:31.14
>>200
「阿波」のような遺跡が出たとしたら、お祭り騒ぎするんだろうな。 目に浮かぶわ。  わははははは   @阿波
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:48:47.76
3-4世紀をまるで30年ほどの出来事であるかのように物語を創作する専門家が何か呟いてますね
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:55:03.83
>>202
ちゃんとした論文じゃないでしょ
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 13:55:59.32
>>206
>3-4世紀をまるで30年ほどの出来事であるかのように物語を創作する専門家が

証拠は?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 14:01:37.32
結論として、共立の2世紀に纏向は卑弥呼を倭国王として向かい入れる王都としてのインフラや居城が全く整っていなかったという事ですね、畿内説は砂上の楼閣として終了しました。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 14:14:18.41
>>210
当然、邪馬台国は女王の都だが
女王国の都でもない。
首都だの、中心国だの、支配だの、
邪馬台国連合など
既存説の願望定義

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 14:29:07.77
>>210
>結論として、共立の2世紀に纏向は

その結論、どこから出たの?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 14:50:42.67
>>213
纏向の2世紀には卑弥呼共立当時の王都に相応しい遺物が無い、つまり卑弥呼の居場所が無かったという事だ。卑弥呼の墓だ邪馬台国だという前に2世紀の遺物(王都に相応しい)を見つけてから畿内説とやらを論じてください。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 14:59:26.79
>>214
なんでそんなモノ必要なの?
共立した女王のために2世紀末に建設の始まった新都だという畿内説にとって、必要ないと思うんだけど
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:04:42.12
2世紀末の日本で最大の遺跡の建設が始まるということは
日本最大の王権が畿内に誕生したということ
梯儁等が3世紀中ごろ(240年)に纏向を訪れ倭女王と面会した
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:06:26.15
>>214
別に邪馬台国が女王国の王都の
必然性はない
何が相応しいかサッパリだな。

君が相応しいと思うものが
当方に相応しくないものと思うけど?
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:07:52.19
3世紀前半の九州でもっとも発展している博多の首長(奴國)は畿内と密接な交流があり
その影響を受けるようになる
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:11:34.17
馬韓系祭祀の糸島、吉野ヶ里と洪水地帯は奴國の外
つまり女王国の外
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:21:27.63
九州は、どうしてウソばかりつくのだろう
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:31:24.98
>>220
吉野ヶ里や有明海沿いにも
近畿、東海系の土器出土あるし
ト骨の出土も有明海沿いにあるのにね
洪水地帯は近畿にもある
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:37:10.63
「3-4世紀をまるで30年ほどの出来事であるかのように物語を創作する専門家」
とか、ひたすら捏造するのが
九州説の末期症状
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:40:12.20
>>218
ストーカーはやめて下さい
博多さんは畿内なんて知らないと言ってます
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:43:09.53
>>225
交流があった証拠だな
0227日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

やっぱ狗奴国って濃尾平野じゃね
小田原、纒向型前方後円墳あんじゃん

前方後円墳 小田原市で発見 関東で3番目 ヤマト政権の影響力が拡大!?
https://www.tokyo-np.co.jp/article/196616
0229日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

小田原あたりが狗奴国説も強いけどなんか納得できないわ
濃尾平野でよくね
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:45:52.01
>>215
>共立した女王のために2世紀末に建設の始まった新都だという畿内説にとって、必要ないと思うんだけど

「阿波」のような遺跡が出たとしたら、お祭り騒ぎするんだろうな。 目に浮かぶわ。  わははははは   @阿波
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:47:36.73
>>229
>濃尾平野でよくね

だったら、「狗奴国」に見合う遺跡を挙げろ。 妄想は聞き飽きたぞ。   @阿波
0232日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

阿波忌部の房総開拓って嘘っぽいな
あそこ瀬戸内頭部の土器出てないわ
0233日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

忌部氏が古語拾遺ででっち上げた嘘
じゃあ実際に房総開拓したのは誰なんだろうね。神門古墳群の集団はどっから来たのか
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:49:47.17
>>224
>心当たりのある事には敏感に反応する畿内説さん乙

否定すればそう言い、黙殺すれば「認めたな」という独裁国家秘密警察方式の九州説
要するに悪党
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 15:50:49.67
鉄鏃の数だな。狗奴国は九州だよ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0237日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>234
君も荒らしに構う悪党だよ
ここは畿内スレなんだから関係ないこと言ってる人達にかまっちゃダメ
テンプレにも書いてあるじゃん
0240日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>239
確かに安房が阿波なのは分かるけど、それって本当に古語拾遺が主張する通り大昔(神武期)の出来事が由来してるの?

せいぜい5世紀くらいに忌部氏が来た事から派生した話じゃないかな。3世紀初頭当時の遺跡から瀬戸内東部の土器見つかってないんだし
0241日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

阿波忌部が来る前に別の集団が開拓してたんじゃないの?
0242日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

これ見てくれればわかると思うけど
黒潮使って畿内の土器を運んだり纒向型前方後円墳を齎したりしてる謎の集団がいるっぽいのよな
https://i.imgur.com/G7pqM8i.jpg
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:29:18.80
>>243
九州説は科学否定の宗教なんだな
0245日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>243
畿内の叩き甕が見つかってるから特別な意味あるだろう
誰が運ぶんだね
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:31:35.12
忌部との関連は定かではないが
千葉 神門5号墳の前方後円墳
埋葬施設から剣・ガラス玉・鉄鏃が発見。鏡はないが3世紀中葉前後に位置付けられているんだな。徳島や三重同様に良質な青色片岩が
群馬、埼玉、千葉にもある

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:31:40.39
>>238
焦りのあまり毎日ウソをつくのが日課になった九州説悲惨
0249日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>247
だから構うなって
テンプレ読めよ
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:35:48.96
方角めちゃくちゃ、副葬品の入れ方もめちゃくちゃ
奈良と滋賀は棺の外、他の地域は全て棺の中に入れてる
しかも東日本の前方後方墳の歴史の方がもっと古い
古墳の大型化も東日本から
つまり古墳奈良起源説は韓国式起源説
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:38:06.93
無論 長崎、熊本にもある
輸出品?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:38:43.07
>>249
畿内説に関係あるウソ情報は潰すべき
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:41:23.89
「殉葬百余人」から必死に逃げる畿内説は嘘つきの始まり

卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です
前方後円墳ではないという事は確かですね
卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:41:30.86
>>250
常にまったく証拠を出さないのが九州説だな
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:42:20.79
考古学に無知な畿内説は嘘つきの始まり

256:日本@名無史さん:2023/05/11(木) 16:41:30.86
>>250
常にまったく証拠を出さないのが九州説だな
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:43:31.09
>>255
>卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です

それはお前の想像です
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:46:37.82
>>262
あまりのレベル低さに畿内説が寄りつかないので九州説Gスレとなった所
0268日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>266
同じリンクを連続して十回貼ってる奴じゃないと焼けないぞ
荒らしの癖に初歩的な事も知らないんだな、それでも荒らしか?
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 16:53:40.96
>>250
別にそこを問いてる訳でもない
ほぼ、同時期に那珂八幡とか?
又、吉野ヶ里から筑前町四三嶋
に前方後方墳が前方後円墳より先にできる。
お互い独立を保ちながら共同作業ではないかな?
最も最古の前方後方墳は滋賀の神郷亀塚古墳
と言われているが?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:01:39.73
>>271
阿波に限らず
日本は災害国だよ。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:01:57.65
>>270
魏志倭人伝による倭国の歴史的出来事

①倭国大乱
②卑弥呼女王共立
③狗奴国との戦争
④男王を立てるも内乱勃発
⑤台与女王共立
⑥「やっと」平和になった

畿内説特に前方後円墳体制やら纒向説なんてのは全く整合性がない
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:02:34.92
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:19:27.57
3世紀前半の纏向石塚古墳→那珂八幡古墳&纏向古墳群→箸墓古墳 の後
3世紀後半のⅡA期、ⅡB期に九州各地に前方後円墳が造られる
吉備最古の前方後円墳は浦間茶臼山古墳(3世紀末 138m 箸墓古墳の2分の1相似形)
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:35:31.26
>>276
「倭人(阿波勢力)」の有力豪族も、全国各地で随分見栄を張ったもんだな。  わははははは   @阿波
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:37:16.52
伊勢遺跡にも人工的な水路はあるから
建設資材の運搬に使われたんでしょう
当たり前だけど纏向はもっと規模がデカい
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:40:34.89
>>264
何処にそんなもんがあるんだよ?
同時に埋めた痕跡なんか何処にも無いだろ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:42:56.02
>>278
>伊勢遺跡にも人工的な水路はあるから

水田の灌漑用水路じゃないのか?   @阿波
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:45:31.27
>>280
伊勢遺跡に水田なんか無いわ
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:47:54.06
>>281
水田も無いのかw  がっかり遺跡じゃのう。   @阿波
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:48:53.82
>>282
生活の痕跡が無いんだよ
纏向もそうだろ
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:49:34.31
>>276
3世紀の「魏志倭人伝」には一言もそんな事は書いてない

つまりそれは東の倭種の国の出来事であり魏は知らない事
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:51:11.82
>>284
>3世紀の「魏志倭人伝」には一言もそんな事は書いてない

そりゃ、まだ「前方後円墳」はないからな。   @阿波
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:52:51.87
>>285
>纒向は大市だからな

山奥のくそ田舎に市など立つか! 勘違いもいい加減にせい!   @阿波
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:53:02.47
>>285
生活の痕跡が無いなんて不自然すぎ
人が居れば飯も食う
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:53:33.74
京都向日市に箸墓と同型の前方後円墳があるが無視か?
卑弥呼は双子だったとか言い出すか?
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:56:07.91
>>290
僅かだろ
貝塚になってるんじゃない
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 17:58:47.99
>>286
那珂八幡古墳近辺には
行かなかったか?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:01:07.81
>>291
九州にあったけ?
大量に出る遺跡あったけ?
0295日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向が大市になったのは後の話だろう
初期の搬入土器は交易ではなく、労働者を集めてきた時に彼らが持参した物なのだよ
0296日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

在野精神を忘れちゃダメだって
考古学者は纒向を交易都市だと思ってるらしいけどそれは間違いですから
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:21:03.26
>>264
>畿内説は殉葬百余人を無視する論理的理由を述べていない

述べていないって証拠は?
0298日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向を交易都市だと思ってる人達って九州系土器が出土しない事をどうやって説明してるの?

労働者が持参した物だと捉えれば、わざわざ遠方の九州から労働者徴発するなんて非効率極まりないから九州系土器出ないのも当然だよねと説明出来るんだけど
0299日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向交易都市説ってもう破綻してるよね?トピ主もそう思わん?
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:31:00.85
>>300
痕跡て何?
邪馬台国の内陸部の話
0302日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

トピ主ってもしかしてさ
邪馬台国とかどうでもよくて、ただ九州論者とレスバしたいだけなの?
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:38:11.56
>>300
神戸市の新方遺跡
奈良市の四分遺跡
とかあるが?
0304日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

魏使瀬戸内海経由説を完全論破されてもテンプレ変えないし
邪馬台国の真相を追求してやろう!て気概が感じられないよね
0305日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

四分遺跡なら橿原宮の近くだから神武東征関係あるかなぁ
0306日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>55
これとか
なんで八頭花崎に触れないの?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:40:39.73
>>304
>魏使瀬戸内海経由説を完全論破されてもテンプレ変えないし

どうやって論破したの?
0308日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

平原大鏡=八咫鏡論の核心って『八頭花崎八葉』が一致するって所にあるんだから

大きさガー!とか言われてもかすり傷一つ付けられないと思うよ
0310日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>307
瀬戸内海経由説は大阪から奈良まで陸行一月掛かるとか意味不明な仮定してる時点で致命的なんだよ

隋書とか的外れ過ぎる。饗応を受けてた時間も里程記事に組み込んだ例が他の史書に見えますか?そんなもの無いよね
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:44:51.22
>>304
魏使瀬戸内海経由説って、テンプレのどこに書いてある?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:46:25.52
>>310
大阪から奈良まで陸行一月掛かるとか
書かれてなくね?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:46:46.20
>>302

議論すら成り立っていないから、単なる自己顕示欲が強い厨二病だよ。
文章がひどくもったいつけているのが特徴。
0316日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>314
じゃあどういうルートで邪馬台国(纒向)までやってきたと思ってるの?
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:49:13.66
>>313
出雲と両論併記されてない?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:50:16.91
>>215

> >>214
> なんでそんなモノ必要なの?
> 共立した女王のために2世紀末に建設の始まった新都だという畿内説にとって、必要ないと思うんだけど

纒向って、新都らしさがないだろってことだよ。
0319日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>317
>これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

間接的に日本海ルート説を否定してるよね
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:51:48.38
>>316
大阪から奈良まで陸行一月掛かるとか
書かれてない
そう言う間違った記録が残る可能性があると
書かれている
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:51:55.99
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0322日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>55
平原大鏡=八咫鏡説を否定したいなら八頭花崎八葉にも触れなきゃダメじゃね?
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:52:38.62
>>318
ないって理由は?
0324日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>320
>また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

FAQ58に書かれてんじゃん
0327日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>326
???3世紀の話なのに隋書を例に出して『大阪─奈良までの陸行一月は妥当だ!』と主張してるのがテンプレだけど
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 18:57:32.61
>>320
>そう言う間違った記録が残る可能性があると書かれている

すげー、詐欺師的論法だな。 その論法だったらなんにでも使えるな。  わははははは   @阿波
0329日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

類聚神祇本源
「一面者八百万神尊以石凝姥神奉鋳寶鏡也是崇伊勢太神宮也一名日像八咫鏡是也八咫古語八頭也【八頭花崎八葉形】也故名八咫也中臺圓形座也」
0331日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

類聚神祇本源
「一面者八百万神尊以石凝姥神奉鋳寶鏡也是崇伊勢太神宮也一名日像八咫鏡是也八咫古語八頭也【八頭花崎八葉形】也故名八咫也中臺【圓形】座也」

八頭花崎八葉で圓形の特徴具備してるのは平原大鏡だけでは?なんでテンプレはこの核心に触れてないの?
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 19:11:01.51
>>331

それは鎌倉時代に内宮と対立して、
内宮のことに口出しして伊勢神宮をクビになった人が書いた書
0333日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>332
つまり伊勢神宮内部の人物で、八咫鏡を実見している人物だからかなり信憑性が高いと
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 19:18:44.35
>>327
別に問題ないでしょ
そういうことがあり得るという実例なんだから
0335日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向遺跡から鉄鏃出てないって言われたんだけど
ホケノ山古墳も一応纒向遺跡の中に含めていいよな?なら鉄鏃75点出土してんじゃん
0336日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

鉄鏃が無いってどこが発信源なの?
それとも俺が間違ってるのか?ホケノ山古墳にあるんだから纒向に鉄鏃無いなんて言えんだろ
0337日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あーなるほど
ホケノ山発掘調査は1999年9月だからか
彼らの情報ってまだミレニアム迎えてないんだ。全然更新されてないのか
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 19:27:58.29
>>334
>そういうことがあり得るという実例なんだから

すげー、詐欺師的論法だな。 その論法だったらなんにでも使えるな。  わははははは   @阿波
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 19:34:42.38
>>336
古墳ではなくて
野ざらし鉄鏃の出土が希望じゃないの?


邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 19:36:23.64
>>333

天皇でも見ることが無い、または皇族でも天皇しか見ることができないご神体を
なんで内宮と対立してる下宮の神官が公表するんだ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 19:43:10.21
>>336
データ少ないが
tps://ir.soken.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=5475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=3

九州でも鉄鏃は吉野ヶ里と長崎ぐらい

今後のデータ蓄積が待たれる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0342日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>340
天皇ですら見てはいけないなんて設定になったのは明治時代からですよ
0343日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>340
失礼
三種の神器は別に藤原道長も見てますし
別に見てよかったんですよ
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 19:55:27.45
>>341
>九州でも鉄鏃は吉野ヶ里と長崎ぐらい

まぁ、鉄器王国「阿波」から下賜されていたんだろうから、そんなものだろう。   @阿波
0345琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/11(木) 20:18:36.21
邪馬台七万戸、在るにしろ無いにしろ、大倭が監視した市くらいはあっただろう。
ただ大市とは仙人の住むところという意味だな。
0346琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/11(木) 20:21:25.11
よく出てくる玉の国、岡山で桃魔国はいいんだよ。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 20:23:22.20
>>345
>邪馬台七万戸、在るにしろ無いにしろ、大倭が監視した市くらいはあっただろう。

「阿波」の吉野川流域にな。   @阿波
0348琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/11(木) 20:28:40.56
三種の神器は、鏡と剣と玉璽。400年後の王も神璽であるし、祭祀には笏を握りその形は上円下方だわね。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 20:34:22.84
>>343

内宮のご神体を藤原道長も見て、別に見てよかったというのは何に書かれている?
0350琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/11(木) 20:34:51.04
阿波先生は、都会育ちの僕に初めて売郷奴という言葉を教えてくれたから、まぁ、好きなように。もうそう言っちゃってるから心電図が直線になるまでそうでしょう。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 20:40:44.41
>>348
>三種の神器は、鏡と剣と玉璽

「阿波」の特産品だ。 他に青石やタチバナもな。   @阿波
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 20:59:27.50
>>322
>平原大鏡=八咫鏡説を否定したいなら八頭花崎八葉にも触れなきゃダメじゃね?

八頭花崎八葉?
「八咫古語八頭也 八頭花崎八葉形也 故名八咫也」
とあるから「八咫」が大きさであることを否定してる史料なのでOK
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 21:17:51.52
2万戸、5万戸、7万戸は、倭人から聞いた情報そのままか、倭人から聞いた情報を中国人が類推解釈して出した数字だろうね。
3世紀に7万戸もあれば華の都であり、もっと詳細に魏志倭人伝に書かれたはずであるが、対馬、壱岐、末盧国よりも、何にも書かれてない。
「7万戸もある大都会で⭕⭕があったり、⭕⭕があったり、この京都はまさに洛陽や長安のような賑やかさがある!」など、書くべきであるのに、なーんにも書かれてない。

すなわち、中国の使者はただ倭人から7万戸と聞いただけ。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 21:25:38.64
邪馬臺國が七万餘戸だから女王之都には7万戸もないだろ
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 21:32:13.59
纏向の大きな建物というやつだけど、これ卑弥呼の共立の時から何十年か後に建てられた奴じゃん、畿内説的にはどんだけ貧相でセキュリティの無い掘立て小屋🛖に卑弥呼を住まわせていたというのか?
https://i.imgur.com/ekb0yqN.jpg
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 21:34:57.45
>>356
九州説では、どこに住んでたの
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 21:36:17.04
>>353
つまり八頭花崎八葉に触れる必要なし
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 21:42:04.26
>>357
倭人伝に書いてるじゃん
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 21:47:40.76
>>355
その通り!   @阿波
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 22:17:26.29
>>242
>>298

そこまで考えてるのに、全国の前方後円墳に沿うように畿内系土器が分布しているのは畿内の奴婢が古墳築造のために徴発され各地に配属されたからだとなぜ思いが至らないのか
分かってるのに何かの感情が拒否してるのかね?
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 22:22:56.26
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 22:28:13.04
なんだ久々知彦は家康だったのか
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 22:31:48.83
>>359
それ、九州に無いよね
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 22:45:39.58
>>363
ハイハイw

纒向建物をあたかも宮殿であるかのように霊感商法を繰り返す畿内説は詐欺です


■魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

■畿内説にとって唯一の頼みの綱
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 22:49:30.19
【基本】畿内説というおとぎ話を作る必要はありません

<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 22:57:16.37
魏の時代の倭はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 23:02:27.94
◆畿内説派による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」

しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物とお供え物の桃が同時期に存在したわけではない

◆畿内説の反論「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」

Q:なぜ建物を壊したのでしょうか?
A:古墳が完成したから

つまり纒向は古墳造営キャンプ場だったのですね
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 23:11:19.78
山国川流域にある上唐原環濠遺跡近くにもう一つの環濠かつ高見櫓の牛頭天王遺跡があるが卑弥呼を守るには相応しいだろう。ここは昭和の大演習で裕仁皇太子が視察した場所でもあります。
https://i.imgur.com/89NEIvc.jpg
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 23:45:40.23
3世紀の博多の首長と交流が密接なのは畿内
日本の中の古代韓国吉野ヶ里は馬韓系祭祀の集落
博多の首長とは無縁の国
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 23:52:23.02
筑後川流域はブラックボックスだな
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 00:09:37.52
>>367
卑弥呼がいた所だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 00:22:23.91
>>355
正解、まあ行っていないから
詳細なもんは書けない


邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 00:33:02.07
>>292
貿易ではないから博多湾には行かないよ
それに東南500里到るだから糸島市方面は行かない。吉野ヶ里だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 00:38:39.14
>>371
日本海、近畿にもあるね。関東にもあるね
成立せず。
0381琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/12(金) 01:13:22.55
相変わらずの無意味な話だな。日無守。これだけだな。
九州は終了した、牛頭山(祇園山)は韓神信仰、鬼道ではなく鬼神、隋書の阿蘇山、秦王国。隋書は秦王国を卑弥呼邪馬台と関連付けてはいない、通過してる。九州は卑弥呼以降通過地点以外のなにものでもない。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 01:13:45.81
>>379
続き
西に水銀鉱脈、武雄に楠木
有明海沿いにト骨出土と
状況証拠が揃うんだな。
投馬国、邪馬台国には行っていない。
吉野ヶ里か、不彌国を南下して至るのあろう。
出だしだろうな。まあ、行っていたら詳細な方向や停泊場所は記述する。
八女に遺跡、奴国だろうな。
その南に狗奴国

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 04:14:51.21
裴世清は宇佐神宮を参拝しその時の様子を秦王国と言ったのだろう。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 04:50:19.72
日本100名城の88番目が吉野ヶ里、卑弥呼の居城としては纏向は太刀打ちできないだろう
https://i.imgur.com/Nsyj5vT.jpg
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 05:17:24.14
>>384
吉野ヶ里を卑弥呼の居城という人はいない
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 05:28:00.20
>>385
纏向には卑弥呼を守れる城が無い
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:04:51.42
>>386
城なんか必要ないな
城柵があればよい
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:13:58.35
>>387
2世紀の卑弥呼共立当時の纏向にまともな住居はあったのかな?
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:23:09.05
>>388
建設の最初からいる必要ない
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:24:24.62
>>387
あることはあるが貧弱と思うけど?
まあ、邪馬台国には不要に近い
古墳造りに丹の搬出、東西南北を結ぶ陸路や港とインフラ工事
詳細な記述はなく
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸の紹介のみで終わる

行く必要性もない。
先人の願望定義 支配だの、中心国だの、お宝が豊富だの、立派な柱があるとか?etc
天動説を続けるのだろうか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:27:57.46
>>389
どこで共立されたと思ってるのかな?証拠もね。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:30:55.86
「纒向遺跡は、奈良盆地東南部に所在する、3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めに営まれた大規模な集落跡である。」
文化庁のページより

卑弥呼共立事の纏向は都でもクニでも無かったという事だろう
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:33:12.63
そもそも奈良盆地は不弥国の南には無いので畿内説は砂上の楼閣である。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:38:55.19
さらに記紀絶対主義
合わせようとする。
創作の部類もあると思うけどな
まあ、勇ましい話やドラマチックな話とか
好まれるのはどの時代も同じだな。
否定はしないが参考程度、裏にはどういう背景があるのかが興味が尽きない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:42:13.46
>>393
至であるし、
行っていないんだな。
当然、詳細な方向や停泊場所など書けない
出だしが南に過ぎない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:44:25.06
>>392
>卑弥呼共立事の纏向は都でもクニでも無かったという事だろう

根拠は?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:44:29.22
>>395
トンデモ乙
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:45:10.26
>>396
証拠が無い
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:45:48.59
>>393
方位絶対主義が砂上の楼閣
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:46:57.84
>>392
正解、邪馬台国の内陸部に過ぎない
丹産出で人が集まる。
四国の徳島も同じ
当方の投馬国候補は四国だよ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:50:02.59
>>397
君がトンデモ
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:50:17.32
>>399
魏使は方位を間違える様な馬鹿じゃ無いだろ
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:53:56.42
>>402
当然、東南500里到も同じく
糸島市方面ではない。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:55:49.17
>>391
伊勢遺跡
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 06:57:33.79
>>404
なんだお前かw
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:00:55.97
畿内説を否定すると近畿とか伊勢遺跡が絡んでくるのなw
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:03:14.96
>>406
当然 内陸部だし
伊勢遺跡と畿内説とは
思考は違うけど?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:04:38.06
>>406
帥升も居たんだしそらそうだろ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:07:39.91
>>408
言っている意味がわからんのだが
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:08:00.69
後漢書 其大倭王居邪馬臺國
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:13:35.02
>>410
だから何?いたんだよ。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:14:49.13
>>411
王朝交代してない
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:18:22.85
>>402
>魏使は方位を間違える様な馬鹿じゃ無いだろ

誰も主張してない「魏使が方位を間違える」を必死で否定する九州説儲が馬鹿
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:20:39.96
>>412
意味不明?
共立されたのは卑弥呼
卑弥呼は共立王
邪馬台国にとどまる必然性はない。
大倭王など後漢書ぐらい
范曄の解釈

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:20:40.51
>>413
方位がわからない畿内説が馬鹿だな
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:23:51.34
>>414
卑弥呼以前も共立王だろう
争ってた豪族たちに王位継承権はない
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:23:59.16
奥山おはよう
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:26:53.57
豪族は男王にお前じゃダメだと言って卑弥呼に代えさせたんだぞ
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:28:36.98
卑弥呼を祀っている宗像大社は世界遺産、宇佐神宮は宗廟。
一大率は宗像氏ではないかと思う
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:35:16.62
豪族たちは卑弥呼の死後の男王も気に入らねえつってまた暴れる
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:36:11.96
>>372
なんで九州説はこんなニセ情報を流すんだろうね
自分たちが損をするだけなのに
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:37:55.02
>>415
>方位がわからない畿内説が馬鹿だな

方位がわからないという証拠は?
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:38:38.56
すずめの戸締りに出てくる宗像草太は閉じ師として描かれているが、一大率は海の戸締りが役目だった。その役目を担えるのは宗像氏しかなかっただろう。
https://i.imgur.com/AXHxCqJ.jpg
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:39:40.21
>>422
奈良盆地は不弥国の南には無いからな
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:45:18.15
>>424
里数行程と日数行程がつながってる事を前提にされるとな
で、邪馬臺國は沖縄か?台湾か?
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:55:22.13
>>425
末盧国から150キロ程度の場所だな
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:55:22.18
>>416
他の文献も含め記述が見当たらないな。
想像は自由であるけど

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 07:57:13.90
>>427
だって男王を辞めさせてるだろうが
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:01:18.00
>>428
辞めさせたのか?
治らず、争いがあって、壹与でおさまるしかないが?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:04:02.52
>>428
では57、107年の王も共立かな?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:04:14.95
>>430
卑弥呼以前も倭国大乱起こして男王を辞めさせてるだろ
死後もまた暴れてるし
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:05:29.82
>>431
文句がなきゃ穏便に引き継ぐだけだろう
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:15:04.88
>>433
共立かどうか聞いているんだが?
57年の王は一定地域を抑えて王
107年は等となっているから共立王でなく
協議制
協議制では治らず乱になって共立王制という
という考えもあるが?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:18:02.05
>>434
豪族の承認がなきゃダメでしょう
ただ王が代わって気に入らないと暴れるって感じなんだろう
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:22:35.33
>>435
そういう制度ができたのが卑弥呼の時代とも
考えられるよ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:25:15.14
>>437
卑弥呼以前も以後もやってることは同じで気に入らないと暴れる
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:29:13.25
卑彌弓呼は自身に権力は無いけど担ぐ勢力が居たって事じゃないか?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:29:57.78
>>438
別に共立王、協議制でなくても暴れる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:32:12.44
>>440
豪族は力を持ってたって事だな
気に入らなきゃ何時でも暴れる事が出来る
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:35:26.75
>>441
>豪族は力を持ってたって事だな

だから巨大古墳も造れる。   @阿波
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:37:47.63
>>442
まあそういうことだろう
だから前方後円墳を押し付けるとかじゃなくて自分の意思でやってただけでしょ
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:40:08.30
倭人伝には「大人はみな四、五人の妻を持ち」
とあるので跡目争いは、大奥的な女の争いでもあったのだろう
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:40:41.96
>>443
与党のパー券買うよなもんだ
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:41:45.32
フランチャイズ契約みたいなものだな
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:44:51.64
>>443
形のみで統一感がない理由
のひとつかもしれん

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:45:49.22
>>443
だから箸墓古墳も「倭人(阿波勢力)」有力豪族のお墓。   @阿波
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:50:45.86
三十許國國皆稱王丗丗傳統
豪族の意識はこれでしょう
ただ中国の事情は知ってるし形だけでも倭王は必要だった 
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:53:07.25
>>319

そもそもテンプレは、間接的な言い回しを多用して断定せず、読者の誤読をひたすら誘導する気持ち悪い悪意に満ちた文章なんだよ。
これが畿内説の本性かとわかりやすくていいが、とにかく気持ち悪い。
畿内説は、詐欺師の集団かよ。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:53:57.20
>>436
>九州の東は倭種の国だという事は確かだ

おまえの気は確かでない
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:55:39.44
>>451
>そもそもテンプレは、間接的な言い回しを多用して断定せず、読者の誤読をひたすら誘導する気持ち悪い悪意に満ちた文章なんだよ。

反論できないからって中傷はよくない
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:56:54.65
気が確かでない>>1のつぶやきw


>452:日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:53:57.20
>>>436
>>九州の東は倭種の国だという事は確かだ
>
>おまえの気は確かでない
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 08:58:45.62
>>450
当然、それぞれに王がいて代々引き継ぐ
栄枯盛衰もあるだろう

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:02:22.91
>>435

豪族といっても、要は王位にない他の王族のことなんだろうな。
それを示す同類のエピソードが日本書紀の仲哀天皇が香椎宮に入る時に、伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王が三種の神器をもって迎えた話なのだろう。
あれを服従云々とか畿内説は呼ぶけれど、三種の神器を持っていたということは、他の宮様も王家の人間なんだよな。
あれが中国人から見た共立の、日本側の実態なのだと思う。
伊都高祖宮と筑紫岡田宮が承認しなければ、穴門豊浦宮の王であった仲哀は、筑紫香椎宮にはは入れなかったはず。

そもそも畿内以外でこんなに王宮だらけなのは筑紫だけだし、魏志倭人伝の時代には筑紫が王都だと中国側が認識していたとしてもおかしくはない。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:03:17.61
のちに倭の五王時代なんてのもある
まだまだ統一政権なんてものは存在しない
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:04:24.05
>>456
中国視点から
豪族統治というのがないから
王としたとも取れる
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:06:40.38
>>456
それは思わない
戦国時代のように各地に根付いた豪族でしょう
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:06:46.15
>>454
九州説さん
理由なき悪口は反論にならないよ
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:08:30.28
勅使のようなとかね
完全一致ではないのだろう
表現しにくいもんも記述

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:11:51.21
関東を開拓していた在地勢力だって、彼らが前方後円墳を作りまくっていたことを考えれば…
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:12:39.15
>>463
争って勝ち残っただけでしょ
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:12:46.09
>>455
>当然、それぞれに王がいて代々引き継ぐ

それは根拠がない
血統による権力相続システムはまだ小さな家父長的集団でしか定着していない
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:14:31.99
仲哀天皇の記事はむしろ筑紫における卑弥呼の共立をなぞっているように読めるな。
実際には仲哀天皇はすぐ崩御して、神功皇后が実権を掌握しているし。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:15:08.25
>>461
九州説さん
理由のない言い返しは反論にならないよ
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:15:18.56
>>467

それこそ根拠がない。
記紀を読めば、古代から血統は重視されている。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:15:30.52
>>467
文献上での話だよ
後漢書にある。范曄の説とも取れる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:18:02.02
>>467
実際に血統が続いているのかは
定かではないがね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:19:23.61
卑弥呼を共立した時点で血統なんか意識していないわけでw
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:19:33.19
定かではないが、それを主張しているのだから血統に重きを置いていたことは事実。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:21:35.03
>>475
>それを主張しているのだから

誰が、どこで?
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:23:53.69
>>474
卑弥呼も卑弥弓呼も王位継承権があったんだと思うけどな
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:24:13.29
>>474
共立が血統内であれば矛盾しないな。そもそも女にして一旦混乱が治まるのは相続争い。女がそんなに優秀ならずっと女にしてりゃいいわけで。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:26:59.45
>>471
>それこそ根拠がない。

いや、科学的に解明されたことだ

>記紀を読めば、

それは後世に書かれたもの
あなた、稚子宿禰が王家の生まれだと思う?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:29:22.71
>>474
当然、共立王だしな
中国視点からも皆無じゃないの?
せいぜい、秦に対する軍隊の合従軍や
董卓討伐の袁紹ぐらい


邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:29:57.90
秀吉が信長の甥になっちゃってるようなもんだろ
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:30:34.08
血統を意識するのは朝鮮人思考
半島では今でもやってるらしい
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:31:49.68
>>479
要するにイレギュラーだろう

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:33:42.23
戦国時代のように武士と農民が分かれてるわけじゃない
だから土着の豪族だよ
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:36:14.22
>>479
別に血統でなくても矛盾はしないと思うが?
宗教とかね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:55:02.29
豪族の王の元には農業と兼業の武士から
争ってばかりじゃ田植えできねえだとか苦情も来るだろうよ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 09:57:58.87
>>475
文献上での話だからそれでいい思うけど?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 10:12:46.37
邪馬台国 女王の都とする所 
をガン無視する馬鹿が何言ってんだか
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 10:17:05.12
>>490
誰ろう?
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 11:49:42.93
史料を無視する奴は九州説
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:07:40.52
>>495

倭人の風習は、
「其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶
  先告所卜 其辭如令龜法 視火?占兆」
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:16:06.73
>>497

日本の中の古代韓国吉野ヶ里北墳丘墓には大木が立てられている
倭人伝にはその記述はなく、馬韓伝に書かれている
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:17:10.72
常に魏志倭人伝とは無関係な話しか出来ない畿内説はガイジ
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:18:50.66
畿内説は
きっと◯◯に違いない
だから◯◯である
を積み重ねた作文
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:19:27.67
>>494
どこが?
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:24:30.12
畿内説は偏差ち40未満の学者の希望的観測
九州説は偏差ち60以上の社会人の論理的見解
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:28:40.61
雑多九州説は偏差ちと書く
学問の通説畿内説は偏差値と書く
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:32:44.99
んぐんぐ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:34:48.36
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:40:20.45
>>506
おまえのバカさがわかる
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:41:14.92
根拠無く言ってるわけでもないんだけどな
共立とは言え全く無関係じゃ王になれないだろ
何かしら正当性は必要
武力で倒したんならなれるけど
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:43:00.09
>>502
通説では狗奴国はどこ?
証拠等あるのですか?
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:50:06.88
>>510

狗奴国の記述が少ないから見解は分かれてるだろう
倭人伝の地理観に誤りがあり、後漢書の記述だと畿内の東
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 12:58:02.66
狗奴国は、天津サイドに相対する国津サイドの国であって
どことかない、素不和
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:01:27.52
狗奴国が非倭人なら倭人の風習が無い九州中南部説もなくはないが
後漢書の「自女王國東度海千餘里至拘奴國 【雖皆倭種】而不屬女王」だと東海以東になる
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:04:36.37
>>514
魏志倭人伝では?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:12:37.98
畿内説では卑弥呼は神として祀られていないのかな?
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:13:00.67
卑弥呼と卑弥弓呼は個人的に仲が悪いんだから近しい人物で王位を争ってる
毛人とかじゃなくて王位継承権を持ってる
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:15:55.21
>>511
倭人伝の地理感のあやまりてどこの箇所でしょうか?
通説では
魏志倭人伝より後漢書の方を重視でいいのでしょうか?
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:16:06.22
魏志倭人伝の狗奴国は随分と具体的に紹介されてるのでこちらの方がた正しい情報だな
女王国の「南」の狗奴国については
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:17:16.17
>>518

倭人伝の場合は、南至水行三十日陸行一月の二大国12万戸と
遠絶な旁國の女王国の南に狗奴国があることになっている
日本の学問の通説畿内説では、確実な博多湾沿岸と交流があるのは
考古資料から南側ではなく東側(本州)なので、
倭人伝の地理観とは齟齬がある
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:19:17.19
陳寿が会稽東冶の東あたりだと随分南を推測しているので
陳寿が手にした記録に女王国の方角が南と書いてあったの確かだな
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:20:08.13
>>516
当時かそれとも後世か?
後世なら卑弥呼の事なんて覚えてないよ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:22:46.62
>>520
畿内と博多湾沿岸との交流の痕跡は無い
博多にも畿内と共通した様式の土器が発見された
その土器は博多の胎土で製作されていた
しかしその後が無い

考えられること
畿内の田舎者が博多に上京して土器を販売していた時期があった
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:28:25.81
>>523
>土器を販売していた

救いようのないアホ。   @阿波
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:29:10.96
>>522
畿内に卑弥呼がいなかった証拠じゃないのかな、宇佐や宗像で祀られているイチキシマヒメが卑弥呼の事だよ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:31:29.73
>>526
国賊の卑弥呼なんか祀らねえよ
てか覚えてねえよ
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:34:23.50
ヒミコという人が居たのを誰か覚えてたのか?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:36:50.23
八咫鏡を依代とする神社は伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけ
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:38:01.92
>>529
伊勢神宮なんて無いってばよ
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:39:19.26
>>521

倭人伝では半島と対馬海峡が広大に書かれているので
上陸時点で中国の地理的世界観方万里の1辺の7割くらい南下している
倭国は「會稽、東冶之東」(会稽から東冶の間)
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:39:21.80
>>528
台与の子孫に代々口伝され神格化されるだろう
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:40:40.73
勾玉も銅鐸もすっかり忘れてるんだし昔の事なんて覚えてねえよ
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:43:23.25
どこまで行っても畿内説の支えは勝手解釈と妄想しかない
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:44:52.98
畿内説を否定すると馬鹿が湧く法則
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:45:15.38
>>535
という証拠は?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:46:08.20
>>536
類友の法則
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:46:34.17
インカも文字がない
覚える必要が無いんでしょう
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:48:42.72
神社なんて当時存在しなかったものを支えに覚えてたと思うほうがおかしい
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:53:19.00
神道のルーツは鬼道だから何らかの伝承はあっただろうな
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:54:07.23
なん世代にも渡って記録するように覚える
マジですかって話
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 13:56:01.53
本人でもそんな事言ったっけ?ってなるだろ
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:01:15.43
>>534
>という空想ですね

いや、確認できる事実だろ
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:09:50.01
>>545
その発言、意味があると思って言ってるなら呆れるよ
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:15:09.21
伝承の中に真実も含まれるとかみんな言ってるけど
俺はそんなの一つも無いと思ってる
記紀編纂の500年前だぞ
現在で言えば室町時代
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:18:25.87
だから阿毎多利思北孤がアマテラスなんだって
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:27:46.53
徐福伝承みたいなもん
昔うちの村に中国人が来たとじいちゃんに聞いたって話が各地にある
結局徐福は来てないから
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:39:10.21
文字が無いのは伝える必要が無いんだよ
だから大仙陵古墳を見て「これ何?」って感じだろう
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:40:04.71
卑弥呼は魏と文書のやり取りをしていたので文章での伝承もあったと考えられる
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:43:41.46
>>553
もしあれば何か残る
全く見つからないなんて考え難い
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:46:47.00
>>555
まだ発掘されてないだけだろ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 14:49:41.47
>>554
畿内説の三馬鹿はキナイコシ、邪馬台国は近畿、伊勢遺跡な
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 15:09:56.95
>>557

キナイコシは誰のことかわかっていない
近畿は倭国には王都が無い吉野ヶ里間借り説、伊勢遺跡は3世紀には無い
なので、日本の学問の通説畿内説ではない
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 15:27:08.88
今後に期待だけど口伝はあり得ない
そんなもん前提にするな
あと神社は無い
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 15:28:11.30
>>559
畿内説スレの三馬鹿な
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 15:30:52.03
>>560
記紀は口伝
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 15:35:08.00
>>562
だから出鱈目なんだよ
なん世代も口伝し続けるなんてあり得ないから
しかも蓄積するんだぞ
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 15:37:10.32
阿毎多利思北孤がアマテラスくらいなら覚えてるでしょ
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 15:43:14.79
何時文字ができるかなんてわかんないし
文字ができる事を前提にしてないし際限なく口伝を続けるなんてあり得んよ
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 16:06:40.84
俺ん家は800年前の伝承が今も語り継がれているけどな、各地の豪族の伝承を纏めたのが古事記だろうね
0568伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/05/12(金) 16:24:03.81
>>566
800年もの歴史なら、きちんと整理して資料化しておいた方がいいですね。

家は今のお寺の檀家になった江戸時代以降の過去帳は残ってますが、
それ以前は口伝のみ、過去帳で分かるのも誰それの息子何某程度で、
亡くなった跡取りに嫁いでいた嫁と、養子を迎え再婚して替わり同じ名前名乗らせていたりするので、
もう無茶苦茶です、血統は既に正確には分かりません。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 16:27:23.30
500年前を口伝、無理
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 16:29:08.63
学者というだけで信頼してしまう畿内説はアホ
学者の9割はアホだという現実を知らない>>1は引きこもりだろ
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 16:42:57.08
紀元前3世紀の徐福の伝承がやたら詳しいの笑うよな
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 16:43:25.27
中国人の学者というだけで信頼してしまうアホもいる。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 16:44:11.59
>>568
既にウィキに知らなかった事が書かれたりしています
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 17:12:25.56
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 17:19:30.67
>>574
とても悲しい物語です
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 17:49:59.32
>>558
畿内でなく近畿
大丈夫か?マジック事件とかあったけど
可能性て便利ワード、慎重にな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 17:51:02.70
>>487

神道は祖先を祭るのだから、それは血統を重んじることに他ならない。
だからこそ物部氏は自らの祖であるアマテラスやイザナギを祭る神道にこだわり、仏教導入に抵抗した。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 17:53:43.51
畿内通説は後漢書、重視なんだ。
俺は魏志倭人伝 重視だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 17:59:43.25
>>493

高祖宮は糸島市の鎮守である高祖神社が掲げる宮号だよ。
九州北部の古社は多くが古代の王宮に由来する。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:03:08.04
>>509

倭人は刺青で階級が示されていたのだから、卑弥呼は王族としての刺青があったのだろう。
下位階級から成り上がることは不可能だったはず。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:04:20.40
>>511

魏志倭人伝の記事はことごとく誤りだとしないと成り立たない畿内説。
そもそも畿内説の方が間違いなのだと気がつくべきだ。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:07:35.06
>>520

博多は全国から雑多な人々が集まる商都。
いちばん関係が深かったのは畿内ではなく出雲だが、それとて倭種に過ぎない。
そもそも博多に支配層はなく、九州北部の主権は伊都にあった。
内政も外交も伊都が中心。
博多は人口が多かっただけ。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:10:54.02
畿内は王都である糸島に影響を及ぼしていない。
糸島には、帯方郡との強い結びつきを示す楽浪土器がザクザク。
帯方郡を通じて朝貢していた卑弥呼がどこにいたのか、わかるよね。
糸島の平原遺跡に葬られた女王は、中国からの大量の宝飾品と大量の水銀朱とともに葬られていた。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:13:22.50
>>540

当時は神社ではなく王宮だったから。
纒向遺跡だって、典型的な神社の様式だよ。
本殿、拝殿、瑞垣で構成されている。
0591琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/12(金) 18:14:35.67
系図なぞいくらでも書き換えられるし、あんたらに書いてこいといったら殆ど出鱈目な上によく見せようとするのが人間。
あてにならん。
卑弥呼の時代に血統相続なぞ無い。あったなら歴年主無しにはならないのだよ。出鱈目を並べるのが九州。
卑弥呼は独身、子無しでただ弟がいただけと記してある。宗女岱與の宗とは卑弥呼の本元の宗でありそれは鬼道である。邪馬臺の一番弟子、後継者であり、血統相続では無い。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:16:41.99
>>555

戦国時代の戦乱と明治維新後の焚書により、日本史の多くの史料が失われ、文化的断絶を生じている。
これにより古史の復元は極めて困難となりつつある。
加えて、畿内説のようにデマを積み重ねる輩が跳梁跋扈している。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:19:07.63
弥生時代にあったのは神社ではなく、神社の様式を持った王宮。
本殿には神器ではなく王族が住んでいた。
いわゆる殿上人だ。
建物の様式は変わっても、それは江戸末期まで続いた。
そして明治維新という名の文化の断絶と架空の伝統の粗製乱造。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:20:59.39
>>567

> 弥生時代は文字や言語が多種存在していたそうだ

明治になり標準語が制定されるまで、江戸時代だって各地で違う言葉を話していたろ。
なんなら今でも青森の奥地に行けば言葉の通じない老人はいくらでもいる。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:24:39.79
>>568

都内だと関東大震災と東京大空襲で過去帳も焼失しているので、もう無理。
800年前の記録がある家はまとめて自費出版でもしておくといいですね。
後世の歴史家の役に立つかも。
そもそも古事記編纂の動機も、各家がそれぞれ違う口伝を伝え始めて収拾がつかないからまとめたんでしたっけ。
1000年以上も前にすでにそうなのだから…
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:26:25.01
>>580

後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。
0599琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/12(金) 18:27:04.03
そもそも卑弥呼の時代に豪族というほどの権力者が倭にいたとは考えにくい。たかたがおらが村の王だ!ぐらいのレベルであろう。中華では封建制をもってして豪族が生まれる、卑弥呼には大卒、大倭等の組織的なものがみられるこれらから後々豪族化していくのであろう。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:29:12.17
>>581

式外社
高祖は、「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」、『東大寺文書』の宅蘇吉志
棟札も「詫祖大菩薩」
吉志は新羅官位由来の姓
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:29:43.09
>>583

天皇家や豪族が、共通の始祖であるイザナギ大神や天照大神を祀るわけですよ。
万世一系を主張せるのも、神道が血統、皇統とその支配権の根源だからです。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:33:25.07
>>591

血統がわからなくなるくらい世が乱れて大変だったというだけでしよ。
家系図の捏造は当時からいくらでもあっただろうけど、だからと言って血統に意味がないわけではない。
今がないのなら誰も捏造もしない。
血統、皇統に意味がないとでも?
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:34:51.36
>>593

> >>590
> 妄想癖は病気ですよ

纒向遺跡という実例がありますね。
典型的な神社の様式ですよ。
しかしあれは神社ですか?
神社なら、誰を祭っていたのですか?
0604琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/12(金) 18:35:20.02
卑弥呼以前に倭道なぞ存在しない。
天皇は蔡祀のさいに笏をにぎるが上円下方の笏を持つ。先祖崇拝かね?
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:36:23.68
>>596

香椎宮だって岡田宮だって、記紀では王宮なのに、現在では神社の扱いですね。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:37:16.08
>>588

博多で模倣するのは大和の土器と前方後円墳
韓人の住む糸島は弥生中期末からの楽浪土器や馬韓系祭祀がある異人の土地
0607琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/12(金) 18:39:51.71
系図はその人その時代でいくらでも消したり足したりできるもので信用に値しないと言っているのだよ。照らしあわせる資料が必要。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:40:19.85
>>599

妄想ですか?
3世紀は記紀でも物部氏とかオオタタネコとか、豪族のはしりが登場している時代です。
新撰姓氏録によると、いくつかの主要な豪族の起源は神武東征より前に遡るので、3世紀にはもう成立していました。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:43:39.37
>>607

信用に値するかどうかと、その当時において価値があったかどうかは別問題。
価値があったから、権威があったから捏造だってするわけです。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:44:18.37
>>598
なりません。魏志倭人伝、魏略逸文における里程
邪馬台国でなく女王国ですね。
魏志倭人伝
伊都国から分岐の不彌国と奴国で万二千餘里。
方300里、方400里、周旋5千餘里と一致
狗奴国はどうなるのか?方向が違うが?
又、東海渡 千里 使者一行が確認した場合なら里数表示がある国が起点

交易のある者で里数表示を知る者から聞いたなら
候補はいくつかある。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:44:52.46
>>589

馬韓系平原蘇塗跡は200年ころの築造
ガラス連珠は東アジアでは類例がないモンゴルやカザフスタンと同じもの
鏡は当時はないサビ色塗装鏡群なので
帯方郡との結びつきを示すものはない
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:46:37.39
>>608
新撰姓氏録て出自があるんだよな
信じていいのかサッパリだな
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:48:16.47
>>613
君の解釈が違うてことだな。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:49:28.55
>>611

帯方郡を通じてでないとそんなもの手に入らない。
帯方郡つまり魏からの交易品をほぼ独占していたのは糸島の平原女王。
伊都で荷揚げされた女王への献上品は、間違いなく女王の元に届けられたとあります。
その献上品を独占していたのは、伊都の平原女王なのです。
考古学的事実を否定することはできません。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:50:18.18
>>614

あなたの解釈は筋道が通ってなく、他人には理解されない妄想なのでしょう。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:51:01.43
>>616
丹後もあるけどな
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:53:07.05
>>617
まあ、君の解釈が妄想なんで
気にせず。
邪馬台国は九州にはない。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 18:56:33.53
>>612

信用するかどうかは別として、あれがその時点での各氏族の最大公約数の認識を反映していたと考えるべきです。
その内容を否定することは困難です。
戦後の黒塗り史観により、日本の歴史はかなり虚無になってしまった。
おそらく事実であったことまで黒塗りされているでしょう。
古墳などは主人のない名無しの豪族のものだらけにされ、崇神天皇の磯城瑞垣宮跡は纒向遺跡の名で別人の王宮にすり替えられかけている。
黒塗りされた歴史は、さらなる捏造が容易になるのです。
それを好き勝手にやって日本史を歪めて捏造を繰り返しているのが畿内説です。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:00:02.99
>>621
意味不明?
倭種の国々の一定数の集まりが女王国
奴国も倭種、不彌国も倭種
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:07:07.65
>>622

女王国から東に渡海すると倭種とあります。
分けて考えてますよ。
倭種とは、倭の別種のことです。
丹後は女王国には含まれない。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:10:31.11
>>616

帯方郡に無いものは手に入らない
鮮卑の如し短小州胡が船で中韓と交易しているから
胡種系交易ルートだと思われる
200年ころの1号の後の2号-4号は貧祖な周溝墓なので
女王国の属国になった後の交易が統制されたことがわかる
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:18:57.21
>>624

妄想?
平原の女王が卑弥呼の時代の大陸からの交易品をほぼ独占していたのは事実。
そして魏志倭人伝には、女王への献上品は伊都に荷揚げしていたとあります。
これ、平原遺跡の被葬者が卑弥呼だと言っているのも同然ですね。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:21:35.34
200年頃とは、卑弥呼の治世そのものなんだよね。
その時代の女性用の宝飾品のほぼ全ては平原遺跡に集中というか独占されていたわけで。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:26:02.51
>>623
別種の記述も
属しないの記述もないので
却下だな
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:26:43.44
>>626
ないな
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:27:47.18
>>625
事実ではないけど?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:43:38.42
丹後も凄いよ、出雲も凄いよ
墓遺跡だけだからな
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 19:59:33.86
九州説の断末魔が心地よい
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:02:11.01
>>592
全て消し去るなんてあり得ない
何処かしら何かしらに残る
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:12:52.51
>>605
そんな事実何処にもない
何言ってるの?
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:24:54.10
約百国あってそのうちの三十国と漢、魏は使役を通じて皆王と称する
つまり倭国大乱があっても国の数に変化がないから領土の奪い合いではない
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:25:51.19
>>636
出せじゃなくて無いんだよ
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:26:41.09
>>637
行って当時のものを掘り起こせってか?
0641日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:27:58.10
岡田宮
福岡県北九州市岡田町1~1

神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。
仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。

岡田宮ホームページより引用
0642日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:30:15.52
王宮が神社に引き継がれた可能性は否定しないが王宮であろう遺跡は必要
0643日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:31:52.96
神社自体が王宮だと言うならその証拠を出せ
0644日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:32:47.94
仮に邪馬台国が畿内だった場合

⭕倭人は帯方から東南にある(Googleマップで見れば九州も畿内も東南にあるので正解)
⭕対馬からまた南に進んで一大国
❌ 南に進んで投馬国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 南に進んで邪馬台国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 女王国以北はその戸数や距離を示すことができる(女王国以西はならば正解。畿内から北に進んでも日本海しかない)
❌ 女王国以北は伊都国の一大率が監視している(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国が有り。みな倭人である(そもそも畿内の東に海がない)
🔺また侏儒国がその南にあり。女王を去ること4千里(和歌山とかなら成立し得ないこともないので🔺)
❌ また裸国、黒歯国がその東南にある。船行1年(和歌山から東南に船行しても太平洋)

↑このように都合の悪い部分だけ方角をいじりまくってしか成り立たないのがトンデモ畿内説
0645日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:35:12.20
神社なんて記紀と同じ
どうせその頃建てたんでしょ
0646日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:35:19.34
香椎宮
福岡県福岡市東区香椎4-16-1

仲哀天皇は筑紫国へと下られ、橿日宮に坐しまして内政外交に御精励され、国造りの礎を築かれました。
香椎宮は仲哀天皇九年(200)、神功皇后躬ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源であります。
明治以来には官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称しております。

香椎宮ホームページより引用
0647日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:44:02.67
本殿、拝殿、瑞垣という、典型的な神社の遺構である纒向遺跡が見つかったのは意味が大きいと思いますね。
あれが人の住まない宗教施設であったのか、王族が住む宮であったのか。
古来より、神社をお宮様と呼称し、神社を建てるのは宮大工の仕事でもあったわけです。
王宮と神社が古来において同じものであったことは容易にわかります。
0649日本@名無史さん
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2023/05/12(金) 20:45:59.64
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:46:25.32
正始元年、正始4年、正始6年、正始8年のうちに、少なくとも中国人は2回来て、倭人は4回も邪馬台国から帯方郡まで行っている。
中国人は、「九州→投馬→邪馬台まで60日間、南に進み、帰りは邪馬台→投馬→九州まで60日間」、北に進んだわけだ。
倭人は、「邪馬台→投馬→九州まで60日間、北に進み、帰りは九州→投馬→邪馬台まで60日間」、南に進んだわけだ。

かつ、これを中国人は少なくとも2回、倭人は4回も繰り返した。
それなのに、方角を間違えたなんて有り得ない。
「方角」は明確に・明らかに・どう考えても・把握していたはずだ。

したがって、畿内説はあり得ない
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:47:47.43
>>648
王宮でしょう
運河を掘ってかなり大規模なもの
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:51:01.91
出雲大社の本殿は纒向遺跡の拝殿、伊勢神宮の本殿は纒向遺跡の宝物庫。
では纒向遺跡の本殿の用途は?
それは崇神天皇の暮らした宮です。
纒向遺跡は、神社と王宮が分離する前の姿なのです。
仏教が伝来すると王宮の建物は進化しますが、神社の様式は原型をとどめました。
ただし柱を赤く塗ったりするのは、仏教の建築様式の影響です。
現代では神社もコンクリートで作ったりしますね。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:52:45.83
>>647
今ある神社とは別の話
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:56:12.36
>>651

溝は他の遺跡ですよ。
崇神天皇の磯城瑞垣宮の近くには、垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮なともあったはず。
遠くの溝まで含めたら範囲が被りますからね。
その後の神社の境内の様式を鑑みても、纒向遺跡の範囲は瑞垣の中だけです。
瑞垣そのものが、宮の区域を示すためのものなのですから。
遠くの溝まで同じ遺跡だというのは、日本建築も日本史も知らない無知で哀れな無教養人の戯言です。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:57:27.36
○○天皇なんて言い出すと胡散臭くなる
王が居たんだよ
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 20:59:37.12
>>655
今ある神社にかつて王が住んでたと思ってるのか?
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:01:14.19
建築様式を引き継いだだけ
そこに王が住んでたなんて思ってるのか?
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:05:09.45
通常、神社の建物は本殿と拝殿の2棟です。
しかし纒向遺跡はその間に八咫の鏡を収めるための神明造りの建物が追加されていた。
それにより、纒向遺跡は同じ纒向の王宮の中でも、垂仁天皇や景行天皇の宮ではなく、崇神天皇の宮であるとわかるわけです。
現在では他の場所に磯城瑞垣宮伝承地があるようですが、それは間違いです。
そこは垂仁天皇か景行天皇の宮かもしれませんね。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:07:26.44
>>657

遷宮といって、神社の建物は定期的に立て直すんですよ。
知りませんでしたか?
木造建物は痛むし、建築技術を継承しなければいけませんからね。
0662琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/12(金) 21:08:08.13
纏向は臺。宗教道観。
聖地だよ。エルサレムだな。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:10:55.24
>>660
卑弥呼であり帥升であり倭の五王
名前なんかより王で良いんだけどさ
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:11:00.42
>>664
放射説
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:11:37.28
>>663
住んでなかったかもな
伊勢遺跡も
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:12:27.95
>>665
それ誰?漢字で書くんじゃない
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:13:43.26
>>661
知ってるよ
伊勢遺跡→纏向遺跡
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:14:58.26
【真実】畿内説という茶番劇に付き合う必要はありません

<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:15:02.59
>>625

馬韓系平原蘇塗跡1号の馬韓人が死んだ後の3世紀前半から
博多では畿内の庄内式の模倣制作が始まり纏向石塚と同じ前方後円墳を築造する
平原馬韓1号墓は高麗剣(狛剣)は棺の上から首のあたりに交差するように置かれている
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:16:34.16
放射説しか有り得ない理由
・不弥国までで10700里
・残り1300里に60日もかかるわけがない
・他の国は連続的に「又」南して⭕⭕国と書かれているのに、投馬国と邪馬台国には「又」がない
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:18:30.59
>>673
陳寿が意図的に書くわけない
あの文章から放射説なんて読み取れない
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:20:29.53
また帯方郡に戻るんですよなんて説明がなきゃわかんないよ
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:23:12.63
>>674
意図がないから、放射になる
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:25:16.28
>>676
何言ってるの?
陳寿は倭国の説明してるんだし読者にわかるように書く
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:26:35.84
>>677
陳寿はそもそも倭国に来たことがない
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:28:39.26
>>678
説明してるんだよ
読者に理解できないような書き方はしない
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:30:05.57
帯方郡に戻るんですよなんて読者にわかるか?
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:32:02.36
>>680
あなたは魏志倭人伝を読んで、「これが100%だ!」と思って読んでいますか?
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:32:13.35
>>680
とは限らず、現に放射読みとかは
昭和になってからでは?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:32:49.86
正直俺も帯方郡に戻る説だけど陳寿が間違ってるんだよ
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:33:13.79
>>682
>>684
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:33:27.82
>>679
いや、2回
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:34:02.47
>>685
>>682
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:36:01.38
>>687
何が言いたいのかわからん
魏志倭人伝が100%正しいなんて全然思ってない
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:36:58.53
分岐がわかるのは
伊都国から東行の不彌国と南至の奴国
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:37:38.39
陳寿が意図的に書いたのと間違えたのでは意味が違うでしょ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:41:27.95
>>680
頭が悪いようなので、言い換えます。
一度も倭国に行ったことのない陳寿が、なぜ「俺の書いた史書は全ての読者に理解できるぜ!」と考えていたと、あなたは思っているのでしょうか?

陳寿はそもそもどう読むかすら分かってなかった可能性が幾何級数的に高まっているとしか、私には思えないのですが?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:44:04.60
>>686

だから「又」は、
「始度一海」の後
「又南渡一海」と「又渡一海」の渡海の前だけ書かれている
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:46:58.70
>>692
30日かかる投馬国に「又」をつけない理由は?
30日かかる邪馬台国に「又」をつけない理由は?
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:48:05.50
>>691
読者に理解できない放射説なんて意図して書くわけない
それを陳寿は全て理解してる事を前提にするのは卑怯すぎ
「みんな不弥国の続きだと思ったでしょ?」
「実は帯方郡に戻るのが正解でした」
こんな書き方するわけない
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:48:43.94
>>693訂正
20日もかかる投馬国に「又」をつけない理由は?
40日もかかる邪馬台国に「又」をつけない理由は?
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:52:38.05
>>694
陳寿はそもそも「刺史」すら、ただのコピペ。
陳寿の時代の刺史はただの行政官。
陳寿は放射すら順次すら考えてなかった可能性が高い
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:54:48.76
>>696
だから俺は里数行程と日数行程の全く別の資料をつなげただけで
陳寿は間違えてると言っている
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:56:45.27
>>697
失礼しました。
同じ九州説ですね
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 21:57:30.25
>>698
伊勢遺跡説
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 22:00:29.02
俺らがこれだけ、話し合っても齟齬が生じる
ましてや、3世紀なんて今より齟齬は極めて甚だしかったに違いない。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 22:01:12.01
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 22:28:52.09
>>695
実際に行っていないからだよ
到と至や東行と南至もあるね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 22:34:43.28
欠史八代は河内など近畿を中心とした九州北部〜関東に及ぶ国作りの歴史だろうな
大和風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわいも同じことを言っているんだろう
その枠組みも倭国大乱で壊れ始めたんだろうね
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 22:39:11.00
>>696
魏、呉、蜀が中心
端の国など時間かけていないだろうな
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 22:57:03.85
>>703
欠史八代も九代も十代も居ねえよ
覚えてるわけない
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 22:57:24.35
>>695

「又」は、「始度一海」に対しての「又(渡)」
他の国の前にも「又」はついてないから
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 23:45:47.99
>>673

不彌國までに陳寿が書いている里の合計は12100里
萬二千餘里で至る女王国の最初の国は隷属国の次の東南の奴國二萬餘戸
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/12(金) 23:48:33.23
奴國二萬餘戸の中心地博多にあるのが
纏向石塚古墳と同じ前方後円墳の那珂八幡古墳(ⅠB期新相=3世紀前半)
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 00:53:39.43
>>673
不弥国までで万二千餘里ですが?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 01:05:25.98
俺も別資料だが郡には戻らない。
万二千餘里から先にある行かない国々の
投馬国、邪馬台国や其餘旁國遠絶 不可得詳の国々等を倭人からの聞き取りだな。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 01:13:46.99
七千餘里+千餘里+四百餘里×四百餘里+千餘里+三百里+三百里+千餘里+五百里+百里
奴國まで萬二千餘里
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 01:14:45.12
訂正

七千餘里+千餘里+四百餘里+四百餘里+千餘里+三百里+三百里+千餘里+五百里+百里
奴國まで萬二千餘里
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 01:33:18.01
>>715
分岐だから東行100里、不彌国も万二千餘里
     南至100里、奴国も万二千餘里
奴国には到や行がないので説明のみで実際には行っていない。不彌国まで行って伊都国に戻る
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 01:53:17.18
>>709
逆に考えて北に伊都国そこから北西に末盧國
まあ壱岐は西になる。
壱岐から末盧國には方向が書いていない

さて、どう考えるか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 02:03:57.21
今年の7月に邪馬台国東遷論者の人生が終わるらしい

纒向学の最前線次号で、データ完全公開&超高精度の酸素同位体比年輪年代法の結果が発表され
布留0式が3世紀中頃に確定するようだ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 02:07:32.42
「独立した年代測定による検証」「纏向出土の杭材で興味深い年代」とのことなので、歴博の炭素14年代測定による箸墓(布留0式)の推定(240~260年)に近い年代が得られていると思われる

つまり邪馬台国東遷説、終了
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 02:10:42.79
邪馬台国東遷関連の本たくさん持ってるんだけど今のうちに売っておいた方がよさそやね
酸素同位体比年輪年代法でおそらく0円の価値になる
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 02:23:31.96
纒向3世紀中盤が確定したら邪馬台国の会ってどうなるのかな
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 03:16:56.72
>>715
なんで島を直角に曲がらなきゃいけないんだよ?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 03:30:51.28
俺も邪馬台国東遷説を採らない九州説支持
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 03:57:37.37
俺は卑弥呼西移動説を取る

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 04:51:40.53
卑弥呼共立の2世紀は纏向は未開の地なので畿内説は終わってる
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:05:29.72
文化庁のページによると

纒向遺跡は、奈良盆地東南都に所在する、3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めに営まれた大規模な集落跡である。
とありますね。
https://i.imgur.com/NbwMRkv.jpg
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:30:28.85
>>727
邪馬台国の内陸部だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:36:04.73
畿内説を否定すると近畿説のアホが出てくる
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:43:57.04
>>727
纏向遺跡 3世紀初頭~4世紀初め
伊勢遺跡 1世紀後半~2世紀後半
まあそんなもんでしょう
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:49:43.62
意味不明
こういう729の阿保が出るのも5ch
当方は開拓地等が定義
世間は金銀財宝があって、立派な建物が立ち並ぶもんがが所望と思うけどね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:49:45.55
2世紀の纏向には卑弥呼を共立出来る集落さえ無かったということですな。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:57:11.78
一方伊都国には代々、王があり。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 05:58:47.94
つまり、邪馬台国と投馬国は後世のヤツが付け加えた箇所

結論が出たな
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:03:33.20
>>734
古墳造りや物流網整備が邪馬台国なんだな。
それを王都にふさわしいもんとかは、
願望しかない。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:36:19.76
>>670

> >>661
> 知ってるよ
> 伊勢遺跡→纏向遺跡

少なくともそんな単純な話ではない。
間にもっとたくさんある。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:38:01.73
>>675

里程は何里です。
日程は何日です。

これなら誰にでもわかる。
途中から日数にかわるなんて、説明なしにそんなこと書くわけない。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:39:34.08
>>732
丹後、近江、吉備、越等のプッシュだよ
共同開拓地である。唐古・鍵遺跡の復興等
丹の流通とか
卑弥呼ら宗派にとっては修験地と思う

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:39:38.59
>>694

> >>691
> 読者に理解できない放射説なんて意図して書くわけない
> それを陳寿は全て理解してる事を前提にするのは卑怯すぎ
> 「みんな不弥国の続きだと思ったでしょ?」
> 「実は帯方郡に戻るのが正解でした」
> こんな書き方するわけない

読者に理解できない連続説なんて意図して書くわけない。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:42:13.70
陳寿は転記しただけ。但し放射説なんて記載の仕方は当時の中国にはない
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:42:37.32
>>696

> >>694
> 陳寿はそもそも「刺史」すら、ただのコピペ。
> 陳寿の時代の刺史はただの行政官。
> 陳寿は放射すら順次すら考えてなかった可能性が高い

そうなんだよね。
投馬国への日程は邪馬台国への日程より前に書かれているけど、水行の日数を見ると、実は投馬国は邪馬台国より遠かったのではないか。
だから邪馬台国は九州北部、投馬国は九州南部という見方がありうるのです。
しかも宮崎県都万は旧日向国国府と見做せて、国内最大の西都原古墳群を擁しています。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:43:12.88
>>697

> >>696
> だから俺は里数行程と日数行程の全く別の資料をつなげただけで
> 陳寿は間違えてると言っている

それは間違いではなく、読者が読み違えているだけでは?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:46:08.94
>>721

卑弥呼の宮なら、卑弥呼が即位した2世紀末の年代が出ないといけない。
3世紀中頃だと、卑弥呼が亡くなってから建てたことになってしまい、卑弥呼の宮ではなくなる。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:52:30.89
>>740
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

放射で書いてるぞw
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 06:59:02.86
東遷説は王朝説を採らないということです
良心的だよ
九州で壬申の乱が起きたとか、言うてること阿波と変わらない
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:00:12.23
結局、西日本は大きな九州地方(勘違い)だった
関門海峡付近が奴国、これなんだよw
これで方角も解決する


859 日本@名無史さん sage 2023/04/07(金) 15:02:43.65
不彌国の官から見えてくる
地理的な大きな九州の姿

不彌国の官 多模

「多くを模する」その字義から
何かの複製品のメッカ産地と読み取れる

その何か? は
官名の多模(たぼ、たも)と言う発音から考察できる

天岩戸伝説で、八尺瓊勾玉を作った玉造部の祖神
周防国一宮「玉祖神社」の祭神

玉祖命(たまのおやのみこと)である

天孫降臨では五伴緒としてニニギと天降っており
伊都国の官・爾支がニニギなら時代が合ってる人物だ

何よりも
博多湾を唐津と見違え、宗像大島を糸島半島に、
伊都国が遠賀川沿い、奴国を北九州下関付近とすれば
玉祖神社のある周防(防府市)は不彌国に比定できることに
tps://i.imgur.com/ArvvATh.jpeg

これにて、大きな九州地方(勘違い導入部分)の出来上がりだ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:02:20.84
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 までだよ
後は古い文献からのコピー
土台が山海経等では?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:05:45.06
不弥国からの方位がたとえ違っていたとしても
東渡海でまた正気に戻ってる
玄界灘と福岡平野内も正確
末盧から伊都が変
こういうことをスッキリ説明できんとな
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:06:51.91
>>754
防府が不弥国なら豊の国が投馬国だな
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:15:03.01
>>758
あら北東だっけか
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:16:32.12
奴国から東に不弥(宇美)はあってる
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:18:01.12
>>757
官が彌彌(耳)だから、あながち合ってる
出雲(投の字の地形)であり豊国(国東半島が耳のかたち)

儋耳タンジも、やはり耳飾りの地形
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 07:28:01.74
>>762
夏に国東半島沖の姫島に行った時に、船から見えた国東半島上の雲が国東半島と全く同じ形をしていた記憶があるが、耳の形と言われれば納得ですね。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:11:43.05
>>739
東行至不彌國百里官日多模副日卑奴母離有千餘家南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸  
これで投馬國は帯方郡からなんてわかるわけない    
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:13:27.76
>>736
纏向遺跡 3世紀初頭~;4世紀初め
伊勢遺跡 1世紀後半~;2世紀後半
まあそんなもんでしょう
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:21:44.36
>>766
王宮跡がない
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:21:51.73
>>246


3世紀中頃、九州の卑弥呼の崩御とともに東日本も西日本も一気に開発が進むんだな。
九州北部でも、有明海沿岸など博多湾以外の開拓が進む。
それまで伊都で卑弥呼が全ての利権を独占していたことの反動なのかもしれない。
0771岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/13(土) 08:25:55.15
>>718
「東遷論が終わる」というのは、ちょっとミスリーディングな言い方で、
そう書くと「自生論」が勝利するみたいな雰囲気がでちゃいますよね。
伊都国東遷説からすれば、平原の時期(二世紀末)から箸墓の時期が、
四半世紀ほど近づく事になりますから、大歓迎ですね。

ま、「科学的」と言われる手法は、私は敬遠してますけど。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:26:09.23
>>765

つまりその2者は連続していない。
間にたくさんの地域の興亡があったはず。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:26:48.70
>>770
大雑把だな
何処に何があるか書けよ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:28:34.22
>>772
伊勢遺跡は3世紀までと書いてるものもあるのよね
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:31:50.60
良心のように言うのな
0776岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/13(土) 08:34:49.13
ちょっと5ch論者の論点傾向纏め。間違ってたらごめんなさい。

-------------- 【スレ主】【トナカイ】【岡上】
卑弥呼墓 : 箸墓 箸墓 箸墓
投馬国 : 吉備 出雲 出雲
王権の源泉 : 自生論 自生論 伊都国
銅鏡シンボル : ? 画文帯 内行花文
平原銅鏡=八咫鏡 : × ○ ○
卑弥呼以死 : もって すでに すでに

基本的には私はトナカイさんとかなり近いところにいるのかと思いますね。
他の方はトリップやコテがないので、正直把握できてません。
九州説の方は、何か目印つけないと議論になりませんよ。
それは名無し化して出てこない1さんも同じ。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:37:39.99
>>776
主に魏志倭人伝を精査してるからどっちの主張でも構わない
0778岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/13(土) 08:42:13.06
5ch論者の論点傾向纏め。間違ってたらごめんなさい。
ちょっと調整
___________【スレ主】【トナカイ】【岡上】
卑弥呼墓____:__箸墓 ____箸墓____箸墓
投馬国_____:__吉備____出雲____出雲
王権の源泉___:__ 自生論___道教?___伊都国
銅鏡シンボル__:__???___画文帯___内行花文
平原銅鏡=八咫鏡:___ ×_____○______○
卑弥呼以死___:_もって___ すでに____すでに

基本的には私はトナカイさんとかなり近いところにいるのかと思いますね。
他の方はトリップやコテがないので、正直把握できてません。
九州説の方は、何か目印つけないと議論になりませんよ。
それは名無し化して出てこない1さんも同じ。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 08:42:34.20
末盧国を北部九州沿岸のどこかとすると東南600里東100里の不弥国はこのラインの左側にあることになる。
https://i.imgur.com/Zw0ZivF.jpg
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:20:53.27
>>766
史学からは考古学がおかしい
楽浪郡式土器などの記述がない
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:22:46.18
>>781
そう言ってる史学の人って、いる?
あなたの妄想では?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:30:46.47
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
壱岐から東千里で福津あたりの国が倭種
其餘旁國遠絶 不可得詳の国々だろうな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:35:29.44
>>781
確かに倭人伝に記述はない。
土器で判断できないな
居住地があったとか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:37:24.35
>>781
>史学からは考古学がおかしい
>楽浪郡式土器などの記述がない

言ってることが支離滅裂だと思うぞ
どんな史料に楽浪郡式土器などの記述がないと、どういう理由で何がどう「おかしい」のか他人を納得させられるような理路がない
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:42:29.00
>>783
素直に読めば良いのに何故そうなる?
どう考えても壱岐を指して女王国ではないだろ
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:42:46.75
逆だけど?
こっちが納得できる根拠が欲しいんだな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:47:20.81
>>786
壱岐も女王国の一部。
里数表示がない所から千里てへんてこだな。
東に海がある里数がある国を考えただけだよ。

交易のある里数がわかる人から聞いたのみなら
候補はいくつかある。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:50:43.48
>>786
でどの国から東千里なんだい?
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:53:03.84
海を隔てた東側の陸地にも倭人が住んでるとか資料があったんでしょう
それが女王国東渡海千餘里復有國皆倭種になった  
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:55:45.03
>>788
>壱岐も女王国の一部

じゃあ「女王国以北」って、どこなんだよ
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 09:59:52.05
千里餘里てあるが?
どこからだい?
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:02:07.92
>>791
奴国含む北だよ。壱岐も被る
奴国も女王国だよ
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:02:45.30
>>792
海を隔ててるって事で陳寿が勝手に書いただけでしょ
関門海峡を実際見た人が千余里なんて間違うわけない
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:05:18.64
>>794
何故、勝手に書いたとわかるのか?
使者等が確認したという想定で書いているが?
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:05:55.69
>>793
女王国以北であって女王国じゃない国はどれ?
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:06:31.98
魏使は狗邪韓国から渡海して九州に着いたが、九州からは渡海していないので投馬国も邪馬台国も九州内にある
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:06:45.96
>>794
何故、関門海峡て断言できるのか?
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:06:46.87
渡海と書いてるから海で隔てられてるって事は陳寿は知ってるわけよ
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:08:26.93
>>797
里数表示がない所から千里餘里てへんだよ。
何故、投馬国や邪馬台国は里数ではないのか?
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:08:33.16
>>798
関門海峡を知らなきゃ豊後水道だって知らないでしょ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:10:03.11
>>795
だって実際見た人が千余里だと思うわけない
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:10:05.34
>>801
関係ないんじゃないの
国東半島からも見える。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:10:20.49
>>795
>使者等が確認したという想定で書いているが?

誰が書いているの?
あなたの日本語、他人に通じない
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:11:32.96
>>802
伊都国や不彌国、奴国の里数がある国は?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:12:28.45
>>802
実際に記述はあるけど?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:13:44.31
>>804
君も通じないからね
いつもの絡みやさん
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:16:56.14
>>806
川くらいの幅しかないんだから実際見た人が千余里と思うわけない
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:18:36.21
>>799
陳寿は倭国に行ってないから知ってるわけない
倭国に行った誰かの竹簡を陳寿は読んだだけ
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:20:11.65
>>810
そうなんだけど正しい記録を採用したと言えば良いのかな?
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:23:26.72
>>808
お、いいね
やっと里数表示がある国が出てきた。
そこを不彌国とすると西に100里で伊都国
南100里に奴国、北西に500里、末盧國。
九州上陸地点の候補

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:27:38.83
あくまで北九州市辺りに行った中国人の記録ってだけだよ
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:35:16.90
>>808
つまり、壱岐から南でなく
東という取り方だな。
壱岐から方向の記述はないしな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:37:28.74
そもそも短里なんて存在しないし里数はどうも怪しいんだよな
これは確信が持てるわけではないけど
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:43:24.08
>>815
俺もそうだよ。
短里でなく帯方郡の使者に測量方がいて
周時代のままの計測したのでは?
魏に征服されたばかりで
魏里に対応しきれないとか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:44:54.27
>>807
他人にわかる日本語が話せるようになってから言い返せよ
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:45:28.59
>>817
お断りします。阿保
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:48:37.04
単純に距離を5倍にしたとかなら距離は把握してたんだから良いんだけど
出鱈目の可能性もあると思ってる
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:55:51.17
>>815
100里未満の表示がないので
それほど厳密ではないしな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:56:47.78
>>818
じゃあ永遠に他人にわからないインチキ日本語をしゃべってろよ
誰もお前に賛成しないから
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:59:09.26
>>821
>畿内説の根拠は「大作怐vの三文字だけ

という証拠は?
九州説がウソをつけばつくほど九州説が困る
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 10:59:40.30
>>821
引越し先かもね?
冢や柵は九州と思う

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 11:00:31.75
>>822
別に賛成など興味なし
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 11:09:47.34
2世紀の纏向は未開の地だった
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 11:20:34.81
>>826
近所に唐古鍵遺跡があるから
ここの柱は吉野ケ里より太いよ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 12:23:53.66
>>826
>2世紀の纏向は未開の地だった

倭迹速神浅茅原目妙姫のための新たな都は浅茅原に建てるさ
0832日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 12:24:20.16
近畿説は、3世紀の日本には大国がない吉野ヶ里、筑後中心説だから
雑多九州説の小っちゃな倭国と考え方は同じ
0833日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 12:27:34.34
魏志倭人伝による倭国の歴史的出来事

①倭国大乱
②卑弥呼女王共立
③狗奴国との戦争
④男王を立てるも内乱勃発
⑤台与女王共立
⑥「やっと」平和になった(AD266年頃)

畿内説の主張内容はすべて斜め上
0834日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 12:31:30.64
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0835日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 12:32:05.43
乱の後2世紀末に女王が共立されて半世紀くらい続いてるから
平和なんだろ
0836日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 12:40:10.05
>>833
斜め上とか罵しる理由なし
九州説の人は論理的思考ができないから、いつも理由を言えないんだろうね
0837日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:19:22.12
>>781

帯方郡使が伊都国に滞在したとあり、糸島市では楽浪帯方土器が発見されています。
0839日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:21:21.65
>>795

つまり使者は関門海峡すら見ていない。
卑弥呼に金印を渡したはずの使者は九州を出ていない。
0840日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:29:01.16
わざわざ危険な渡海して隷属国だけ見て帰るということはない
0841日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:41:09.67
>>838
違うな。土器のみ
建物跡がない
0843日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:44:00.52
伊都国は事実上の首都だよ
0844日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:44:01.21
>>838
中継地点のお休み処だけど
0845日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:44:09.65
>>839
当然だ。
なので邪馬台国には行っていない。
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 13:44:45.48
>>843
根拠なし
妄想
0847日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:45:57.11
「都」の字は伊達じゃない
0848日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 13:53:28.24
首都などないよ。国々の集まり
だし、それぞれが都である。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0849日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:03:56.64
勅使のようなもんはあっても
中央官?みたいなもんの記述はないな
0850日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:09:34.22
俺も邪馬台国には行ってない九州説をとっていた
理由は華の都7万戸邪馬台国の記述が一切ない
侏儒国とか黒歯国とか狗奴国とか、明らかに倭人からの伝聞でしかない国が書かれてる

最近はそれは古代人舐めすぎじゃないかな〜と思って、邪馬台国まで行ってる九州説をとってる
0851日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:13:09.52
>>842
畿内には日時計も無かったのかな?
0852日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:17:03.46
>>850
ご自由にどうぞ。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸のみの紹介で終わる国ですから
軍事や租税等の詳細などない。行く必要がない国



邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0853日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:23:00.57
邪馬台国7万戸の範囲は?
どうもここをはっきりさせないな
0854日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:26:27.25
>>848

女王がいるところが都。
伊都ももしくはその近郊に卑弥呼がいたはず。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:28:25.32
>>853

狗奴国熊本を含まないんだよな。
福岡佐賀長崎、ひょっとして大分も?
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:32:52.47
>>854
理由なし
トンデモ説
0857日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:33:10.81
侏儒国は「チビの国です」と書いてるのに、5万戸の投馬国は1ミリも情報がない
それはなぜなのか?
0858日本@名無史さん
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2023/05/13(土) 14:33:16.71
>>853
地名でなく東西南北の物流網だからね
若狭湾、大阪湾、伊勢湾が範囲
陸路では1月かかる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:36:46.53
倭人は王のいるところを都と観念した
それが邪馬台国
魏使は都市の機能面から都を認定した
それが伊都国
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:38:00.48
>>854
天皇が九州遠征、九州にいる、都になるのか?
卑弥呼時代 首都も天皇制度もない時代

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:38:30.49
「邪馬臺」の「臺」は「台」の旧字で、
邪馬壹=邪馬臺=邪馬台 なのだそうだが、中国の史書にない文字を使うとコピーしたかのように思える。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:38:33.70
>>855
伊都国とか奴国とかその辺は何処よ?
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:45:47.94
邪馬台国七万戸と投馬国五万戸は、それぞれ領域の名前だね。
だから奴国も伊都国もその一部だ。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:47:12.51
>>863
だったら邪馬台国とは何?
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:54:57.58
>>853
大阪奈良
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:56:02.31
>>860
人口が一番多いから規模的にも邪馬台国が都でいいよ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:56:37.37
>>853
畿内一帯が全部邪馬台国だろうね
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:57:40.97
>>867
華の都邪馬台国がどういう街・国だったのか記録がないのはなぜだと思う?
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 14:57:52.59
>>865
集落としては大きいな
妻木晩田遺跡よりデカいんじゃないか?
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:00:14.31
卑弥呼は倭人国の女王だとして、その居処、
帯方郡から萬二千里、より南の狗奴国王も倭人国王だよ。

ついでに東に渡海した女王に属さない倭国にも王は何人か有るわけで
倭人伝には、その当時の日本列島に
記紀の統一国が無かったことが示されてる。

九州島の上、北部2千里までの女王国7万戸
21国を周旋したとしても5千里程度の小国の女王が、
なんで200年辺りの大和朝廷の王になる?

邪馬台国が奈良のヤマトの事かも知れないというこじつけで
畿内に持ってゆくために、倭人伝の記述を捻じ曲げて
無理して南=東にする意味が判らないw
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:00:17.23
>>866
人が全然住んでないんだよな。
本当に不思議。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:00:52.00
倭人伝の戸数は倭人からの聴取と考えられるが邪馬台国・投馬国だけ「可」で表され倭人ですら両国の戸数をキチンと把握してない。
聞いた領域の大きさから人口を推定したか
こんなの首都として相応しいかね?

対馬国 有千余戸
一支国 有三千許家
末盧国 有四千余戸
伊都国 有千余戸
奴国 有二万余戸
不弥国 有千余家
投馬国 可五万余戸
邪馬台国 可七万余戸
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:01:03.07
>>871
だね。それどころか、対馬、壱岐、末盧でさえ詳しく書いてる
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:04:08.21
俺が記録者なら、華の都邪馬台国の記録は絶対に残す
逆に、対馬・壱岐・末盧は別に書かなくてもいいかなーという心理が働くと思う
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:18:37.99
>>874
可があるのは見積もり
丹が出るから各地から人が集まる
ピーク事のこと。
徳島なんか丹出土期が終わると閑古鳥
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:18:58.83
>>851

異人ベルト地帯のコマ人2遺跡だけだから
日本には馬韓伝の大木を立てた遺跡は他には無い
博多にも無い
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:22:57.17
では女王国は何処よ?
南に4000里に侏儒国があるらしいけど
因みに俺は侏儒国なんて存在しないと思ってるけど一応書いてあるから
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:23:42.65
これだけは言えることは、中国の使者は邪馬台国には行っていたとしても、卑弥呼には会ってない。
卑弥呼と話したような記載もなく、卑弥呼は引きこもりとしている。
金田一少年の事件簿で、「キングシーサー」を誰も見たことがないのに、【キングシーサーの命令なるもの】に従って、人殺しをしたように、
そもそも卑弥呼は存在すらしていなかった可能性がある。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:24:42.25
華の都ではない
絹や鉄、お宝、豊富とか、立派な建物が並ぶとかは願望であって、邪馬台国の条件ではないと思うけど?
どっちかというと環壕集落からの脱却と思うが?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:26:10.42
>>871

伊都国についてではなくて、異人の隷属國に置かれた女王国の統治機関について書かれている
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:27:05.44
>>882
郡使を招くんだしみすぼらしいとは思えない
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:30:36.21
>>884
だから邪馬台国には行っていない。
古墳造りとか工事だらけだしな
代々、王が住んでいた伊都国なんだ
わざわざ、遠方の邪馬台国に行く必要もない

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:31:37.70
邪馬台国は卑弥呼が宮を置いただけ
大王天皇が宮や行宮を置いた所なんて枚挙にいとまがないが邪馬台国はその一つだよ
あまり夢見ない方がいい
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:33:31.50
>>883
邪馬台国には統治機関の記述さえないんだよな。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:34:15.88
>>874
倭人伝行程には、魏時240年と247年の記録が記されている。

陳寿による導入文=今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

意訳=魏時の2回の使によって30国の存在を知った。
 この2回の使の説明によると、郡から倭に至るには・・・


247年帳政は、倭人船寄港地名とその間の里程を示した。
帳政は、到と至を使い分け、人口は有で示した。
総行程は、伊都迄、九州上陸1万里と伊都迄の徒歩500里。
不彌國、奴国が100里なのは、伊都から隣国に出る距離。

240年梯儁は、卑弥呼に金印を届けた軍人。
総行程は、女王宮まで萬二千里。 その南狗奴国は女王圏外。
以北の列記21国が女王国の全てで、此 女王 境界 所盡。

梯儁の240年は公孫氏討伐直後で、
馬韓50余国、弁韓12国、辰韓12国の名も魏には未知だった。
寄港地は行軍の幕営であり、地名、距離は記さず日程を記した。
投馬國は弁辰韓5万戸だが、国としての人口は、可で記した。

自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
は、陳寿による補足説明だが、
次有21国が、梯儁が参問した邪馬台国の詳細説明である。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:35:26.33
>>886
邪馬台国七万戸はそんなに小さいのか?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:38:09.46
邪馬台国はもっと大きかったんじゃないの?
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:38:40.63
>>875

女王国に至る前には、貧しい島が二つと女王国の官がいない国の寒村があると書かれている
女王国の一大率が隷属国とそれらの国を検察している
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:40:52.81
東京都より近畿地方の方が広くて人口が大きいが、だから首都だと思うのかね?
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:41:52.06
>>889
宮に7万戸あるわけないよ
なんか勘違いじゃないの?
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:42:14.45
また話が逆戻りになる
邪馬台国7万戸の範囲は?
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:45:21.58
>>893
書かれていないよ。
邪馬台国の大倭はなく

収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之のみ

それが邪馬台国とは断定できず
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:47:07.26
>>897
邪馬台国に宮を置く
記述も見当たらない。

勇足思考では?
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:49:33.15
>>897
>>895
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:50:22.02
>>896

そう思うのはお前が間借り説だから
女王が使う大倭=弟佐治國は王都にいて
国々の税は王都に集められる
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:50:55.79
>>899
繰り返しだな。
若狭湾、大阪湾、伊勢湾の範囲だな
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:52:47.30
>>900
君の考え方だな。
まあ、違うだけの事
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:53:05.17
>>901
それはいったい何?
国家?集落?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:54:11.71
>>902

お前は民族的に3世紀の日本に大国があってはならない、
日本の中の古代韓国が中心でなければならないと連呼している
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:54:47.63
当方は伊都国に置いたと思うだけの話

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 15:57:21.57
>>904
君は半島の人ですか?
韓もバラバラだけど?
韓伝読んだ?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:00:43.96
むしろ、倭人の方がまとまりがいいと思うけど?
倭人伝読んいると思うが

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:02:21.71
どうも邪馬台国を国家であったり集落であったりその時々で使い分けるね
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:03:56.38
>>906

韓はバラバラと書かれてしまっているので、
日本の中の古代韓国吉野ヶ里に熊野あたりから少女を連れてきて
倭国の中心に君臨していたという日本の中の韓民族の主張
そして自分は孔子の子孫であると主張している
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:05:41.02
>>909
君の主張ね。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:07:28.76
自称孔子の子孫の近畿説は、日本の近畿地方一帯は卑弥呼の500年前に洪水があったから
まだ復興していてはいけないと連呼している
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:08:57.71
>>911
君の主張ね。
半島の人はオモロイ
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:22:46.73
>>903
国だな
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:23:55.11
中国の使者ですら一度も見たことのない卑弥呼は本当にいたのか?
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:27:01.28
>>915
中国の使者ですら一度も見たことのないの?
謁見はすると思うけど、女王国側から交流求めているだけどね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:32:36.98
>>916
卑弥呼様はお姿を見せませんなどと嘘を言って、実際に中国の使者と接触していた人物がいるのではないかと
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 16:43:43.07
>>918
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
だよ。100%姿見せないのではないのでは?
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 17:06:21.03
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0923◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:58:21.42
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1683969208/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 19:47:15.39
>>917
畿内説が通説というのは、
200年に大和朝廷が成立していた
という記紀の前提が必要なのではないかな?

倭人伝によれば、筑紫地域は、
魏が韓を制圧する246年位まで
本州と競合していた形跡はない。

銅鐸時代は別国だし、古墳時代の始まりが、
本州と九州の軍事的競業の始まりを示している。

倭人伝の真価は、日本の軍事化、古墳時代が魏による、
公孫氏滅亡と韓王朝滅亡が発端という歴史の事実。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 20:10:02.27
>>923
【九州説】 スレでも既に結論が出てしまったようだが?
この次スレ? まだ居るのか?

まあ、声闘って、やつだろうけど?
老婆心かも知らんが? テンプレとかめんどくさくないのか?
0926日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

やっぱ狗奴国って天竜川以東なのかな
0927日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

神門古墳群。ここは濃尾平野勢力と近畿勢力が協業して作ったっぽいし、濃尾平野に敵対勢力がいたと考えるのはやっぱ違うのかもね
0928日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

天竜川以東の土器は纒向遺跡からも神門古墳群のとこからも出てないんだっけ?詳しい人いる?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 20:38:53.60
>>928
徒歩時代なんで東海道は渡れない川が多いけど
日本海や木曽から、縄文の塩尻、諏訪への道は有る。
400年で馬は、甲斐や武蔵、上州に入った。

時系列と、関門海峡のような事実は
歴史を語る上での胆だ。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 21:36:04.05
>>881
魏志倭人伝を読んでから書き込むべき

>「正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、倭王に授けた。  並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、?、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。」

使いの名前も記録されているし、直接金員を授けたことも記録されている
さらに、使をとおして上表して、魏皇帝帝の詔に感謝に意を表したとある
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 21:44:07.60
>>931
8000年くらい前から丸木舟時代なんだけど中卒なの?
0934日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼は引きこもりだから邪馬台国に籠もってたのは同意
ただ同時に『拝仮倭王』なんだから魏使は邪馬台国まで行ってたよ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 21:57:07.05
その郡使が伊都国に駐在して九州から出た記録がないのだから、卑弥呼は九州にいたとしか考えられないわけで。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 21:57:43.81
>>930
域内とはどういう括りなんだよ?
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 21:59:13.58
卑弥呼の時代に畿内に何があろうがなかろうが、邪馬台国とは関係ないわしゅに過ぎないのだよ。
女王国から東に渡海するとまた倭種がいる。
この記述だけで、邪馬台国が九州であることも確実なんだよね。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:01:24.86
>>936

狗奴国熊本が対抗勢力なら、邪馬台国は福岡佐賀長崎だろう。
投馬国は宮崎鹿児島だな。
考古学的にほ大分は実は熊本に近いから、狗奴国の勢力圏だったかもな。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:01:54.85
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)または博多(福岡県福岡市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:02:32.01
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:07:14.71
>>937
卑弥呼が住んでいたのは奴国から東の不弥国から船で20日の投馬国を経て、さらに船で10日、さらに陸行一月かかる邪馬台国
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:07:37.07
宗像は博多湾と少し文化が違うし、遠賀川流域はまた別だろう。
関門海峡の向こう側はむしろ瀬戸内海を通じて倭種の世界だろうし。

しかし西日本は滋賀も大阪も岡山も奈良とひとくくりなのに、九州北部はえらく解像度が高いな。
さすが王都の周辺だよ。
アメリカ合衆国も、東海岸の州は小さいのがぎっしりだけど、西部の開拓地はドンプリ勘定だからな。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:08:52.65
>>941

それでは伊都国に駐在していた郡使が会えないこら、読み間違いですね。
里程と日程の連続読みは不自然だし。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:14:28.67
大和盆地にまだ湖があった時代、亀が住んでいてその後鯰と龍が湖の水を巡って争い、とばっちりで亀が死んだという
時代は違うが亀は浦島太郎の話にも出てくる
丹後国風土記の五色に輝く亀姫
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:17:51.13
>>943
>郡使往来常所駐
とは、郡使が目的地に往くときと帰るときに立ち寄るところという意味
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:18:03.18
>>934
トナカイさんも面白いね
ではどうやって衆を惑わすの?
何故、共立されたのか?
共立前と後とか、
共立された時の年齢とかは考えないかな?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:18:39.49
遠賀川と言えば、鎮西上人の伝説だよな
遠賀川の香月に生まれ、【7歳】で大日寺の小僧になり後に明星寺に住む
修行中【しきみ】の【薬】をとって来るようにいわれ、苦労の末成功する
シキミの別名はハナノキやマッコウや花榊と言われ、仏事に使われることが多く冥界と関係が深い植物
愛宕山 しきみが原に 雪積り 花摘む人の 跡だにもなし
という歌もあり後々は火伏せとも関係してくる
三輪の神の荒魂狭井の神さまは薬とも関係が深い
熊野では、死者の霊魂が手向けられたシキミの葉を手に阿弥陀寺に参詣し、鐘をつくと伝承されており、この鐘は「亡者の一つ鐘」とよばれる
阿弥陀寺がある妙法山は、樒山(しきみやま)ともよばれる

あるとき虚空蔵様(明星寺の山中にあり。)の前で真っ赤にうれた柿の実に墨で黒々と丸と井形とそれぞれしるして,お願いしていうに「私がもし偉い坊さんになることができるならば無理なことだが,このようなしるしの柿の実をならせてほしい。」と。
そしてこの実を境内に埋めたのであるが,やがてみごとに【丸印や井印】のついた実がなったという。

そして一回英彦山に行くたびに【松】の木を一本ずつ植えて願かけの日数を数えた。
その原っぱを日数ガ原といっていたが今は訛って彼岸原という。

上人が英彦山に参る時はいつも白い衣を着て夜中に出発した。
村の人びとの間に「【一つ目】小僧が通る。」といって大さわぎとなった。
そこである夜、【鯰田】の城主葦ガ谷右京という人が上人を目がげて弓をひいたところ矢は上人のたもとをかすめて空中に飛んだ。

一つ目で思い出すのは諏訪大社の七不思議にある片目の大魚や播磨風土記にある片目を掘り潰された五色の玉を持つ石神、片目の猪などかな
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:21:09.27
>>945

駐在には、途中で立ち寄るという意味はない。
駐日大使は大使館にずっといるわけで、大使館に立ち寄ってすぐにどこかに行ってしまうわけではない。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:23:05.85
続き
このように勉強した上人はまだ勉強したいと比叡山にのぽり、仏教の奥義を学んだ。

そして帰郷し明星寺に五重の塔を再建するため全国行脚に出発した。

建立の材木も毎日.遠賀川をのぼり、木材運びの人夫が休むたびに木材の山ができたので木屋ノ瀬(鞍手郡いまは八幡市)の地名がついた。

五重の塔ができ上ったので近郷の善男善女がお祝いのご飯を持って参り、食べもしたが集ったご飯の白い山はいっこうに減らずついにご飯の塚ができた。

これが飯塚のおこりでそこを飯の山といっている。

明星寺には湯屋の池があり明星の光が奇しく映ったという
明はアカル
イワイの姫島のアカルヒメと関係があるのか?
倭国大乱で飯塚辺りにあった拠点は潰されて、アカルヒメ姫を連れた牛引きは大陸に逃れた可能性もある
黒曜石の産地、イワイの姫島には七不思議があり大蛇が住む池もあったらしい

遠賀川は縄文時代のはるか昔から弥生時代まで石器の一大製造拠点で九州一円に出荷していたんだよな
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:23:07.07
伊都国以外には郡使が滞在したという記事がどこにも見当たらない。
邪馬台国
七万戸の領域内で、郡使が駐在したのは伊都国。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:23:35.27
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:28:44.35
九州北部の遠賀川の出来事は、大和国風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわいの枠組みの一部かもな

壱岐でも、龍神への信仰があつかった地元の人が竜宮城に招かれ、褒美に竜宮城の宝である禿童を貰い栄えたという伝承が残っている
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:30:24.10
>>948
駐は、一時的に滞在するという意味
英語でいえばstation
駅はあるところから別の場所に移動するときに一時的に留まる場所
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:34:03.47
>>948
まあ、使者だしなんかあったら国際問題
使者にもある程度、行動制限があったかもしれん

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:46:52.12
播磨の一ツ山大祭と三ツ山大祭は興味深いな
一ツ山は五色の玉を持つ石神、伊和大神のようだ
三ツ山は五色の神、二色の神、小袖の神
五色はサヌカイトの産地、五色台の石神、二色は二上山の石神だったりするのだろうか?

この祭りは、尾張で終わった伊和大神の国作り、その後の石津神と天津神の三都のまぐわいを連想する

小袖の神ってなんなんだろう?
小にかかる枕詞は狭衣の、どういう意味なのか?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 22:50:08.75
ひそかに呉とのパイプがあったとか
赤鳥年号の鏡があるしな
中国の丹の産地も呉が多い
まあ、いろいろ妄想はできる
三国志 呉に何か記述ないか?
よく読んでみようと思う

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 23:03:04.96
>>948

郡使が【往来するとき】に常に留まるところ

「駐,馬立也。」??《?文》
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 23:03:59.67
>>948

郡使が【往来するとき】に常に留まるところ

「駐,馬立也。」ー《説文》
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 23:57:03.15
>>941
里がある地と被らないし
南以外にないから九州にも
到着せず、不自然だな。郡に戻るとかないよ。
別資料と思うが
伊都国からだろうな。
水行20日と10日、南に至るのみ
その後の方向も停泊地もないなんてありえない
聞いたのみで略されたんだろうな。
投馬国、邪馬台国には行っていないんだよ。


邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/13(土) 23:59:05.67
外国人は必ず伊都国から入国しなければならなかった。
まあ、税関とか出島みたいなもん
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 00:07:29.81
薩摩が琉球王国に進攻した後に置いた在番仮屋的なものだろう
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 00:19:37.49
>>953

最後には帯方郡に戻るわけだが、倭国内にいる間は基本的に伊都にいることになる。
実際、糸島以外には相応の楽浪帯方土器出土遺跡はない。
郡使は伊都に留まり、卑弥呼に謁見した。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 00:23:39.48
>>960

郡使は伊都から先は奴国と不弥国までは足をのばしたが、それより先へは進まなかった。
九州から出ることなく、卑弥呼に会って金印を渡した。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 00:26:31.62
>>962

糸島の楽浪土器は弥生中期末からでⅠA期がピーク(久住)
魏の郡使とは関係ない
郡とのルートがわかるだけ
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 00:44:39.71
魏の使者は朝鮮半島にいる時は北には進んでいない
南に行ったり東に行ったり
一番東から出立したとしても朝鮮半島の南端
そこから南に行くので対海国は済州島だろう
更に南に行くので一大国は五島列島だろうな
末盧国は松浦か伊万里辺り
そこから南東だから伊都国は佐賀辺りになる
そこから不弥国まで筑後川の北岸を移動したんじゃないか
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 01:09:56.24
海流があるからな
時速2km弱で北東に流れている
南に漕いでもかなり東に流されるな
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 01:15:17.77
一番東から出立したとして海流に流されるなら
そもそも半島南西の南の済州島には着かない
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 01:24:24.55
張政は別府に居たのは間違い無いだろう。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 02:01:38.27
>>965
正解、そもそも呼子が上陸なら
東南500里到ってない、
山に丹ありで水銀鉱脈がある
長崎県近くに上陸、ト骨出土がある地域を通るルートだろうな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 02:04:42.60
>>970
別府は、魏志倭人伝でいうとなんという国?
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 02:52:51.65
>>971
追加 吉野ヶ里で絹があったな
周辺に養蚕かな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 04:39:48.60
張政の帰国は248年じゃないの?
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 06:42:16.28
>>935
お、いいね、地動説
既存説は天動説

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 07:28:48.17
>>974
当然248年帰国はあり得ない
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 07:34:12.05
>>935
>その郡使が伊都国に駐在して九州から出た記録がないのだから、

九州説独自の空想
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 07:36:03.15
>>976
冊府元亀 に書かれた247年でいいのかな?
0980岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 07:41:13.88
>978
冊府元亀の編者も「卑弥呼已死」と捉えてますから、その結果として、
「正始八年条で始まる記事は正始八年に完結している」という当たり前過ぎる解釈に
なっています。

他の読みは、トンデモ級っていう常識がないのが邪馬台国論争。
みなさん集団痴呆症にかかってるんじゃないですか?
0981岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 07:43:44.88
何度も書きますけど、張政の帰国が正始八年以降にずれたのなら、
倭人伝の編者は、「明年」の二つ文字を書き足すことが出来たのです。
ていうか、普通にそうするものでしょう??

それが無いのに勝手に後にズラすのは、まさしく「勝手読み」なんですよ。
0982岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 07:46:05.20
まぁ一万歩程度譲っても(譲る必要性は皆無なんですけどね)
張政の帰国は正始年間ですね。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 07:46:38.29
>>980
張政が247年に帰国しているのであれば完成した箸墓を見ていないという事でいいのでしょうか?
0984岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 07:52:54.70
箸墓二段階築造説を取るならそうなんでしょう。
その辺は「あったらいいな」的な話だと思います。

寺澤先生は明確に二段階説に否定的な立場ですね。
個人的には「なんとも言えない」という恥ずかしい状態です。
勉強不足。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 07:59:34.12
あなたが
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:13:47.37
箸墓=卑弥呼の墓説は崩壊したな
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:19:44.18
狂信者岡上
0988岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:21:10.41
個人中傷しかできないというのは、反論するところがないということです
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:25:26.43
>>988
お前の主張は誰も同意してない
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:27:24.21
NHK for SCHOOL小学生版
「卑弥呼もって死す」
小学生相手の動画にこのような難しい言葉を使用するNHKは凄い
0991岡上 ◆tjLer4Yib.
垢版 |
2023/05/14(日) 08:27:32.02
あのねぇ。事実を指摘しているだけですから、
究極の話は、他人の同意は必要ないんですよ。

他人の賛意とは別のところで、文献的事実が確認されたんですよ。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:28:18.28
>>991
という思い込み
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:29:30.19
>>984
自分の主張は恥ずかしいと思いませんか?
0994岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:31:03.96
思い込みって?
浙江大学のオンライン図書館のリンクを踏んで、該当ページを見るだけ。
0995岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:33:56.38
恥ずかしいとか全然思いませんね。
卑弥呼の死亡時期確定という、素晴らしい発見に対して、
スルーするメンタリティではなくて良かったです。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:35:47.90
畿内説は集団痴呆症です
0998岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:37:28.00
まぁ畿内説に関わらず、「分からないことが前提」ということで、
好き勝手やっているうちに、基本を見失ってしまっていることは多いと感じます。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:39:02.02
蒼天已死
蒼天すでに死す
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:39:23.46
1000なら邪馬台国は九州
10011001
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