【竹島問題】 「鬱陵島東南300里余りに島がある」〜朝鮮の独島領有を証明する史料「鬱陵島史跡」新たに発見[10/24]
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▲「鬱陵島史跡」が載っている「喬桐水使公輓祭録」の内容//ハンギョレ新聞社
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▲「鬱陵島史跡」が載っている「節度公両世実録」の表紙//ハンギョレ新聞社
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▲鬱陵島の捜討活動が書かれている江陵金氏の監察公派「恒吉古宅日記」//ハンギョレ新聞社
朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、独島(日本名・竹島)の存在も認知していたことを物語る「鬱陵島史跡」のまた別の筆写本が発見された。
東北アジア歴史財団(理事長キム・ドヒョン)は23日、財団が最近、義城(ウィソン)召文国博物館で新たに発見した「鬱陵島史跡」筆写本2種を公開し、その意味を追求する学術行事を24日に開催すると明らかにした。
「鬱陵島史跡」は、粛宗時代に三陟営将であり鬱陵島の捜討官だった張漢相(1656〜1724)が鬱陵島を「捜討」(管理・守護)した後に残した記録だ。17世紀の鬱陵島の状況と朝鮮の政策をよく語っているだけでなく、「鬱陵島東南300里余りに島がある」という内容があり、「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。
最近財団が探し出した史料は、従来知られている筆写本(「節度公両世碑銘」に収録)とは異なる異本2種で、それぞれ「喬桐水使公輓祭録」と「節度公両世実録」に載っていたという。財団側はこの史料が「朝鮮時代の捜討官と張漢相の業績に対して疑問を示す」日本の学界の一部の主張に反ばくする根拠になると明らかにした。
また財団は25日に、江原道三陟(サムチョク)地域の江陵金氏監察公派の宗家「恒吉古宅」に代々伝えられた日記史料を寄贈されることを明らかにした。全部で13冊118本と推定されるこの日記は、19世紀まで2年に1回ずつ、鬱陵島に捜討官が定期的に派遣されたことを示す重要な民間記録に挙げられる。
東北アジア歴史財団のクァク・ジノ独島研究所長は「『恒吉古宅日記』に捜討活動が記されているという事実は知られているが、まだ史料が詳しく研究されていない。今回財団に寄贈された後にさらに踏み込んだ研究が可能になると期待している」と語った。
写真・北東アジア歴史財団提供
チェ・ウォンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/866997.html
韓国語原文入力:2018-10-23 21:58 訳M.C
ソース:ハンギョレ新聞日本語版<“朝鮮の独島領有”を証明する史料「鬱陵島史跡」新たに発見>
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31940.html >>788
行ってみるなんて考えた形跡すらないよ。 鬱陵島東南300里余りに島がある
名前はまだ知らない
はい、そこは日本領竹島です 嘘は100回言っても嘘。
朝鮮人が言うことは、いつも嘘。
朝鮮人は、その存在が害悪である。 >>800
何処をどう読んだらそんな解釈になるか
勿論説明できるんでしょうねえ?
一行居士のピンポンダッシュ坊やでないなら
やってみ
(。-∀-) >朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、独島(日本名・竹島)の存在も認知していたことを物語る「鬱陵島史跡」のまた別の筆写本が発見された。
さすがに
朝鮮時代後期なら竹島の存在くらいは知ってただろw
アホな民族 1692(元禄5) 大谷、村川家らが、「竹島(鬱陵島)」に出漁してきた朝鮮人漁民と遭遇。
1693 日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の「松島は即ち子山島」虚言がのちに韓国史実化。
安の密漁を機に朝鮮では三年に一回、捜討使を欝陵島に派遣、捜討使が1771年『欝陵島図形』提出
1694 張漢相「蔚陵島事蹟」に「東望海中有一島杳在辰方而其大未滿蔚島三分之一不過三百餘里」
<東南三百餘里以内に鬱陵島の三分の一程度の大きさの島がある>の記述。現・竹島を指してると
思われるが、すぐのちには「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島 其遠近未知幾許」
<島の山峰を登って彼の国(日本)の域を望んだら、遠近は幾何か知れない(程)遠い「杳茫(遥かに
遠く)眼杓(目立つ・目標となる)島はない>(安龍福事件の翌年)事件で現・竹島の存在を聞き及んで
か、島名も記さず言及しているが、再度見ることはできていない。
1696 幕府「竹島(鬱陵島)」渡航禁止(「竹島一件」1692~)。鬱陵島韓国領で決着、現竹島は論争外。
1697[2/14] 朝鮮政府が安龍福の日本侵犯を謝罪「至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知」
<(安龍福は)漂風の愚民に至りては、設ひ作為する所あるも、朝家(朝鮮政府)の知る所に非ず>
[3] 朝鮮政府、「呈書のことについては誠に妄作の罪あり」と文書で日本に通告し、安龍福を流刑に。
1699 王朝記録「粛宗実録」を基に鬱陵島探査した官製地図「鬱陵島図形」(1699版)が、
「竹嶼」の位置に「大于島」、「観音島」の位置に「小于島」と記載。
1702 「鬱陵島図形」(1702版)、1699版に同じ。朝鮮王朝の認識では鬱陵島の属島は「竹嶼」と「観音島」
1711 鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図「鬱陵島圖形」(1711版)では、
陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在。『海長竹田』とは
「海長竹の生えている場所」であり、この地図において、于山島=竹嶼(チクトウ)
その後、『海東地図』、『廣輿図』『輿地図』『八道輿地図』『地乗』等も踏襲、
『東国輿地勝覧』系譜の于山島像は修正され、それが朝鮮の近代にまで及ぶ地理認識に。
宝暦年間1751-1763 「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。
1769 「英祖実録」「承政院日記」に、英祖王が提調・元仁孫に鬱陵島絵図の提出を命じたが、
現・竹島を「日本山」と記し、日本領とみなしている。視認不可能のため「日本山」の地図記載を見送る。
「日本山望見者, 亦書標以入, 可也。」「仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。」
1770 『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
所謂松島なり>安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)
で知った、「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島
(現・竹島)所在が未把握だから「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
■竹島年表
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1291650418/14-29,152,153,418
https://go●o.gl/Hl8C2K
■竹島関連情報
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1291650418/1-10,30-71
https://go●o.gl/DRzqpE
2018/09/18
【韓国】日本政府、『竹島は日本の領土』と主張する史料を内閣官房ホームページに掲載・・・執拗な領土挑発[09/18]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1537228037/287-289,368,370,376,377,384,385,390-393 >>1
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2018/1024/154034203506_20181024.jpg
蔚陵島事蹟
甲戌九月日江原道三陟營将張某馳報内蔚陵島捜事去九月
十九日巳時量自三陟府南面荘五里津待風所發船漉R曾
已馳報為有在果僉使與別遣譯官安慎徽領卒諸役各人及
沙格并一百五十名騎船各一隻水汲船四隻良中從其大小分
載同日巳時量囬西風開洋是如乎戍時到大洋中波濤險
巇之勢五里許二處是乎所必是水宗而諸船為波浪所觸
一時渙散無適所向是如乎同月二十日子時漸入深洋K雲自
北蔽天而電光閃鑠影K波心狂風猝起驟雨隨至怒涛飜
空海雲相盪所乗船隻若浮若沒危險罔狀船中之人莫不失
粛宗二十年甲戌九月日(1694年10月19日から11月16日)
江原道三陟鎮右営将の張某が報告した鬱陵島捜(討)の事
去る九月十九日の朝十時頃、三陟府の南面荘五里津の待風所から発船した事については
すでに報告したとおりである。
僉使(張漢相)は、別遣の翻譯官である安慎徽と共に諸役の各人および船員(漕手と船頭)
など併せて150人を領率して、二隻の大船の騎船と卜船にそれぞれ乗船した。
四隻の補給船には、大小によって荷を分載させた。
同日朝十時過ぎ頃に西風が吹いたので出港した。
午後八時頃、大洋の真只中で、波濤が危険で潮が激しい所が五里(2.2q)程の幅の内に、
二箇所あった。これはきっと海の境界である水宗というものであろう。高波を避けられず、波
浪のために船団がばらばらになり、それぞれの所在が分からなくなってしまった。
九月二十日(グレゴリオ暦11月7日)の夜の零時頃には、深い外洋にゆっくり入っていった。
黒雲が北からやって来て天を蔽い、電光が閃いて波に影が映っていた。
突然強風が吹き荒れ始め、続いて俄に雨が降り始め、怒涛が空に翻り、雲も海も互いに揺
り動かされて、乗っていた船は、浮くが如く沈むが如く、危険な状態となった。
船中の人々は正気を失わないものはなく......
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58249092.html
小嶋日向守さんによる判読と意味通釈 今風に言うと東京に行くと小笠原諸島に行ってきましたみたいな感じだな >>796
領海の意味もわからずにただ守っているだけの自称大陸国家() >>814
俺は人類学者だが
韓国人は頻繁に嘘をつくよ そんな都合よく異本が存在してる時点で怪しさしか…… >>817
さほど重要な内容がある史料ではないし、一応本物の史料でしょう。
題名は正しくは、『蔚陵島事蹟』と書いて、従来から知られていたもの。
最初に書かれたのは、1694年11月だった。
従来から知られていた写本は、誤字が多いものだった。筆写された年代は、おそらく
1842年にだろう。(1782年の可能性もある)
そして、今回発見された写本は、多分1722年頃までに筆写されたもの。
ところが、題名が異なる別の史料『西渓雑録』にほぼ同じ文章があって、それは1703年
以前に筆写されたもので、内容を細かく読むと、実は日本側に有利な史料であること
が分かっている。 ウリは世界中の大陸を知っているから全部ウリナラの領土ニダ 認知していただけで領有権主張されてもなあ
尖閣に対する中国の主張とまったく同じ
話にならない >>1
日本の古書にも対馬の北に半島があることが描かれていたから
朝鮮半島は日本のものだね!
それと日本と韓国には朝鮮半島が日本だったことを示す地図が膨大に残っているよ!
これも証拠になるね! >「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。
よし、それ持ってICJに来い >「鬱陵島東南300里余りに島がある」という内容があり、「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。
「島がある」というだけで「領有権」主張するとか、朝鮮人ってキチガイばっかりなの? おかしいな
鬱陵島と独島は二つで一つの兄弟島だったはずw
例の地図には双子のような大きさで両島が並んでいるw
鬱陵島の管理者が独島をこんなよそよそしい表現をするかな?w 韓国内の裁判ってこんな調子で進められて判決出てるんだろうな。 賞金付きで世界中から独島韓国帰属説を募集した方が良いアイディアが集まるんじゃないか?
意外と日本人から出たアイディアが一番優秀かも知れん。 竹島は、国際的に認められた日本の領土です。
日韓併合以前からそうであった事は、国際社会で認められているので
第二次世界大戦に敗戦した後も、日本の領土と認められました。
証拠となる、国際的な文献、書類は幾らでもありますし、明示されてます。
それを、韓国が卑劣な暴力で民間人を虐殺、或いは拉致監禁する事で
奪い盗り、武力による実効支配を唯一の根拠に、自国領土であるという
主張を繰り返しているのが事実です。
昨今、歴史的に韓国領であったという荒唐無稽な主張を裏付けると称し
無意味な古文献を並べておりますが、西洋的領土意識の無かった時代に
見つけた云々の主張はまるでナンセンスです。 >>827
希に、まともな方もおいでですが見
キチガイじゃないと、迫害される国です。 この手の記載では、韓国側の願望そのものの記事が多いので
本当のことはわからないがね
過去に何度も調べてみたら、おかしいとこだらけだった記事があったか
だがね、どっちにしても領土問題で、歴史的に云々はたいして関係ないのよ
重要なことは、国家としてその地の領有を明確に示したかどうか
1905年の島根県の竹島編入
これを覆す事は出来るものではないよ
それこそ、この事を明確に李朝朝鮮が抗議するなどして、対応していない限りね 見えたかも、と言っているだけで、それを確かめに出発した記録が無いからそれまで。
その見えたという物が竹島だとする裏付けが無い。
そして何よりも、見えたとする島を「彼の国」と言っていて外国領と認識しているのが決定的。
彼の国とはおそらく日本のことだから、それがもし竹島なら鬱陵島事跡は日本の竹島領有を証明する史料になる。 >>836
貴殿のおっしゃるとおりです。しかも、確かめに行けるはずがなかった。しかもそれは
>>743
>>753
>>778
のコメントにある水宗祭祀に関連している。この史料を研究すればするほど韓国側が
困るだけの史料 知ってただけで だから何なの?
中国って宗主国が大陸にあるの知ってるよね 奴隷の朝鮮は知ってるだけで大陸の所有者だった訳?
もう一回5000年ぐらい中国に調教してもらえよww 鬱陵島東南300里余りに島がある
ここから約1200km向こうに島がある。
この資料の発見でその島、「竹島」は韓国領土だ!
アホとしか。 >>17
馬鹿朝鮮人には理解できないのでは?
馬鹿だからw >>839
朝鮮の一里は、4qではないですよ。
1902年以前では、360歩 が一里で、2160周尺であり、李朝周尺1尺が20cm なので、一里は432m
1902〜1910年は、一里は、420メートル
1910年以降は、一里=400メートル
です。 >>5
最古じゃなくて最新で決まるのにな。
まあそれ以前に嘘だとしても。 ああ >>406 に付けておけば良かったか(;´∀`)>゛
>>844 日本海と松島(竹島)表記のの1898年地図 どのみち全ての古地図にある旧朝鮮領土は併合で全て消滅して何もかも日本領土。
今の韓国の領土は日本領土からSF条約で明示的に切り離して新規設定した部分のみ。
韓国がSF条約と無関係に旧朝鮮から引き継いでいる固有領土など存在しない。
だから古地図系は本当でも嘘でも全く無関係で全て無意味。 >>844
この記録を書いた役人であった張漢相という人物は、島が見えた方角を「辰」としている。
便宜的にこれを南東と訳しているが、それだと厳密には誤訳になる。
なぜなら、「辰」は、真西から南へ角度にして、30度の方角であって、南東だと45度の
方角になってしまうから、真南からは、60度の角度だと見た張漢相の記した方角が
正しかった。しかも距離は、300里(130q)よりは遠くないとしているので、方角も距離も、
現在の竹島を示している朝鮮側の唯一の史料と言って良い。
また張漢相は、これ以前に、日本にも来たことがあり、また済州島にも行った経験が
あるので、この時代の朝鮮人としては、海上遙かな島影の距離もそのときの、経験を
もとにして目測している。日本に来たときには、かなり優秀な人物だと評価されている。
また張漢相の原文からは、彼自身は、遙かに見えるその島は日本領だと考えていたこと
が読み取れる。 張漢相が、この馳報の末尾に、その島についてあらためて書き加えているには、
登島山峯、審望彼國之域、則、杳茫無眼杓之島。其遠近、未知幾許。
而地形、似在於彼我間。鼎釜、取竹之路、彼人所為。緑由馳報狀。
(意味)
島の山に登って、彼国(日本)の域を念を入れてつぶさに望み見たが、杳茫
として、眼につくだけの島はない。だから日本までの距離は、いまだに不明である。
そして鬱陵島は、日本と朝鮮の国境地帯にあるようだ。鼎も釜も、竹を取る路も、
みな、日本人のなしたことだからである。
以上の状況を取り急ぎ報告する。
杳茫(ようぼう) : はるかに遠く、ぼんやりとしてわからないようす 無理だねー
ラスク書簡で否定される前には
鬱陵島とは別だと自分で言っちゃってるから 戦後に李承晩が適当に名付けた「独島」ってのが唯一の名称って時点で
コイツラの主張は詰んでいるよな
日本の島を侵略して植民地化したのは確実だ >>853
日本の竹島を李承晩が侵略したのは事実だけど、「独島」と名付けたのは、戦後ではないよ。
1904年頃から日本人に雇われた朝鮮人がそう呼び始めていたことがわかっている。
朝鮮人が、現在の竹島の存在を知ったのはその頃のこと。
朝鮮側の史料では、張漢相が1694年におぼろげな竹島の存在を記しているのが、唯一の
記録だが、彼はその島を朝鮮領土とは考えていなかった。 もし施政権が及んでいるなら「島がある」なんて書き方はしないわけで。 島があるってだけ書き残したら領有権を主張できるなら日本はマルコポーロのもんだな > 「鬱陵島史跡」は、粛宗時代に三陟営将であり鬱陵島の捜討官だった張漢相(1656〜1724)が鬱陵島を
「捜討」(管理・守護)した後に残した記録だ。17世紀の鬱陵島の状況と朝鮮の政策をよく語っているだけでなく、
「鬱陵島東南300里余りに島がある」という内容があり、「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。
これだけで領有の証拠になるのなら、朝鮮は過去日本が領有していたってのも通るんじゃね? 1901年帝国新聞は「ヤンコ島」
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57649209.html
1901年に日本がヤンコ島という島を新しく得て、そこで漁を始めたという記事だが、その島の特徴が紹介されていて、
朝鮮においても新発見だという内容になっている(日本人が江戸時代初期からそこで漁をしていた事実を知らなかった)。
つまり朝鮮人が竹島の存在を知ったのは20世紀になってから。しかもそれは日本人によって知らされた。
もしそれが朝鮮において既知の島であったなら、我々は知っていたが日本が後から発見したとか、我々が良く知る○○島で日本人が漁を始めたとか書いたはずだし、
そのような場所で新しく漁を始めた日本人を非難したはず。
朝鮮の地図に載っておらず、ヤンコ島などと言っていて朝鮮での呼び名が存在しなかったのも未知の島であった証拠。
独島という呼称がいつ生まれたかは定かでないが、1904年にはあったので、この記事の後から1904年までの間に出来たと考えられる。
ちなみに朝鮮で独島と呼んでいたから無主地ではなかったと言っている人がいるが、それはおかしい。そのような主張は自力で発見して初めて可能になる。
もし日本人に教えられなかったら、ずっと竹島の存在を知らないままで、領土主張など出来るはずもなかったのだから。 >>857
つまり、鬱陵島には支配権を及ぼしたけど、南東300里の島については存在を鬱陵島の住民に聞いただけで、
実際には領有どころかなんもせんかったって自白してるわけでw 韓国人は、いくら島の存在を知ってても、国際法に上、支配権が及んでいて領有の証拠となるものを出さないと意味がないってことをいつまでたっても理解できないんだな
日本なんて、開国時に、すんでのところで小笠原諸島を危うくアメリカに取られそうになったんだからな
流刑の島としてちゃんと役人を駐在させさせてたのに
当時の幕府の交渉役がたんなるボンクラだったら確実に取られてたわ >>1
日本の古地図には朝鮮半島が書かれてるんだが
そうすると朝鮮半島は日本のものですねぇ 歴史上の領土所有権が認められるのなら今大笑いするのはモンゴル帝国子孫とネイティブアメリカンだね >>863
それなら于山島は独島ではないな。二重の意味で。
于山島には人が住んでいた記録があるから。 >>863
それは悪い冗談です。なぜ独島というのかは、以下のコメントに詳しいよ。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/784-788
>>864
はい。
于山島とは、1694年以前は鬱陵島の別名であって、それ以降の于山島は、竹嶼のことですね。 >>865
リンク先を読みました。
独島の語源としては、下の二つが候補に挙がると思う。
(1)"石の島"の全羅島方言、(2)"甕の島"
現在の韓国人は(1)しかありえないように主張しているけど、(2)だって可能性はある。
韓国人が勅令41号の石島を独島だと断定するためには、(2)の可能性を徹底的に排除する必要があるはずなんだよね。
過去、韓国人はそのあたりの論証をしたことがあったのだろうか? >>866
論証したことなんてないんでしょうね。于山島=独島(島根県の竹島)説など冷静に
考えれば韓国人でもそれが通じないことを理解できている。
下記のコメント参照
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/804
でもこういう意見を言えるのは匿名だからであって、無理な解釈だと分かっていても
表向きは、それを押し通してくる。その理由は、韓国人というのは自分の頭で考えた
ことよりも、地位のある学者の言っていることに、盲目的にしたがうべきだという社会規
範で育てられているから。
ところで、石島が観音島であることは、以下のコメントなどを根拠として決定的でしょう。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/807-822
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/829-837 1900年の大韓帝国勅令41号において、鬱島郡の範囲は縦八十里、横五十里と定められている。
朝鮮の役人が朝鮮の公文書で使う単位は朝鮮里であるから、東西約21km、南北約33.6km。
従って鬱陵島から90km離れた竹島は鬱島郡の範囲外。一方で石島は鬱島郡の範囲内にある島なので、石島は竹島ではない。
ちなみに石島がその範囲内の具体的にどの島であったかについては、竹島問題においては考える必要が無い。
9 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2018/08/19(日) 01:37:10.64 ID:R1A55Wr8 [1/9]
鬱島郡の範囲を定めた大韓帝国の公文書が決定的証拠のひとつ
島根県の竹島は、大韓帝国の領土外であることを当時の高宗皇帝(国王)が認めている。
1900年10月の議政府への請議書
http://i.imgur.com/EbmGbu7.jpg 縦八十里、五十里 (東西21km、南北33.6km)
http://i.imgur.com/6UFz6pv.jpg 大臣の印章で承認
http://i.imgur.com/Zd11e4o.jpg 内務部の印判でも承認
http://i.imgur.com/Amvb0v1.jpg 別紙添付の請議書を含めた裁可 (勅命之寶)
勅令案已經會議標題可否■別の異体字(另)具粘附並呈原案伏候聖裁
つまり、「別紙添付」の請議題書を含めて認めることを、高宗が印判を押し署名している
http://i.imgur.com/shoUOJA.jpg 大臣の署名と大韓帝国皇帝の花押と御璽
この「国璽」印によって、大韓勅令によって日本より先に領土に組み入れたという現在の
韓国政府の主張が大嘘であることが証明される。 >>867
>論証したことなんてないんでしょうね。
でしょうね。
過去、同じような質問をyoutubeのコメント欄で何人かの韓国人に聞いてみましたが、誰一人として回答はありませんでした。
竹島問題に詳しい韓国人の場合は、于山島=独島説については懐疑的に考えている人が多いけど、
石島=独島説になると彼らは一歩も譲らずに間違いないと主張してくる。
竹島の歴史的事実の中では、ある意味「最後の砦」のような位置づけなんでしょう。 >>864
言い出した頃の朝鮮人が出した証拠地図には
その北の方にも独島あったし志那海にも独島あったんだぜ
何故か原本無しのコピー用紙でな
最近朝鮮の言葉が増えて後付け設定が多いから鵜呑みにするのもどうかと >>869
于山国という名称を考えれば、
「日本海の遥か遠くにある無人島の名前が
『鬱陵島を差し置いて』国の名前になることなんてありえない」
というのは自明だと思うのですがね。
于山島というのは、鬱陵島の別名、または鬱陵島が複数の島嶼からなる島だと
いうことは知られていたが名称に関して混乱があったかのどちらかであって
遠く離れた無人島の名称ではありえない、と認めることはできないのでしょうね。 認知しているだけで、領有しているとは書いてなかろう。日本は当時から竹島周辺を漁場としていたけれどな。 そんな昔のことなんてどうでもいい
サンフランシスコ平和条約に書いてある(ない)ことが全て >>1
何でもいいけど、仮にその設定でも後に併合でそこも日本領土だ。 >>877
はぁ? 貴殿は、なんかと勘違いしてませんか。
>>1の史料 『蔚陵島事蹟』 は、1978年から知られているもので、その『蔚陵島事蹟』 という史
料の別の写本が見つかっただけだよ。
この史料に関しては、2007年に見つかったまた別の史料『西渓雑録』と相互補完されるもの
で、その二つの史料は、以前から詳しく研究されている。
なお、今回発表された史料には、新しい情報は何もなかった。
ただ今回同時に見付かった史料には、従来知られていなかった鬱陵島捜討(検察)の航海
があったことが九回分ぐらい書かれていた。もっともそれらの研究が進めば、日本側の主張
が正しいことが裏付けられることが歴然としているので、日本側の研究者は、早く全ての
史料を公開して欲しいと考えている。 >>878
従来知られていなかった鬱陵島捜討(検察)の航海
ってのは1800年代の捜討の記録の話ですか? >>879
そうらしいです。
「らしい」というのは、日韓近代史資料集ブログの
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58249092.html
12月6日以降の投稿コメントにある、リンク先ニュースの機械翻訳と
小嶋日向守さんのコメントに依ってます。 >>880
従来知られていた歴史書の研究では、1800年代ではあまり捜討事業が実施されていなかったと思われていたのが、
この日記の発見により規定どおり数年ごとの実施が継続されていたことが分かった、という論文を読んだことがあります。
日記には実施年が書いてあるだけなのか、もう少し詳しいことが書いてあるのかよくわかりませんが、
はやく全文を見たいものです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています