【竹島問題】 「鬱陵島東南300里余りに島がある」〜朝鮮の独島領有を証明する史料「鬱陵島史跡」新たに発見[10/24]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2018/1024/154034203506_20181024.jpg
▲「鬱陵島史跡」が載っている「喬桐水使公輓祭録」の内容//ハンギョレ新聞社
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2018/1024/154034203450_20181024.jpg
▲「鬱陵島史跡」が載っている「節度公両世実録」の表紙//ハンギョレ新聞社
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2018/1024/154034203478_20181024.jpg
▲鬱陵島の捜討活動が書かれている江陵金氏の監察公派「恒吉古宅日記」//ハンギョレ新聞社
朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、独島(日本名・竹島)の存在も認知していたことを物語る「鬱陵島史跡」のまた別の筆写本が発見された。
東北アジア歴史財団(理事長キム・ドヒョン)は23日、財団が最近、義城(ウィソン)召文国博物館で新たに発見した「鬱陵島史跡」筆写本2種を公開し、その意味を追求する学術行事を24日に開催すると明らかにした。
「鬱陵島史跡」は、粛宗時代に三陟営将であり鬱陵島の捜討官だった張漢相(1656〜1724)が鬱陵島を「捜討」(管理・守護)した後に残した記録だ。17世紀の鬱陵島の状況と朝鮮の政策をよく語っているだけでなく、「鬱陵島東南300里余りに島がある」という内容があり、「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。
最近財団が探し出した史料は、従来知られている筆写本(「節度公両世碑銘」に収録)とは異なる異本2種で、それぞれ「喬桐水使公輓祭録」と「節度公両世実録」に載っていたという。財団側はこの史料が「朝鮮時代の捜討官と張漢相の業績に対して疑問を示す」日本の学界の一部の主張に反ばくする根拠になると明らかにした。
また財団は25日に、江原道三陟(サムチョク)地域の江陵金氏監察公派の宗家「恒吉古宅」に代々伝えられた日記史料を寄贈されることを明らかにした。全部で13冊118本と推定されるこの日記は、19世紀まで2年に1回ずつ、鬱陵島に捜討官が定期的に派遣されたことを示す重要な民間記録に挙げられる。
東北アジア歴史財団のクァク・ジノ独島研究所長は「『恒吉古宅日記』に捜討活動が記されているという事実は知られているが、まだ史料が詳しく研究されていない。今回財団に寄贈された後にさらに踏み込んだ研究が可能になると期待している」と語った。
写真・北東アジア歴史財団提供
チェ・ウォンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/866997.html
韓国語原文入力:2018-10-23 21:58 訳M.C
ソース:ハンギョレ新聞日本語版<“朝鮮の独島領有”を証明する史料「鬱陵島史跡」新たに発見>
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31940.html >>863
それなら于山島は独島ではないな。二重の意味で。
于山島には人が住んでいた記録があるから。 >>863
それは悪い冗談です。なぜ独島というのかは、以下のコメントに詳しいよ。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/784-788
>>864
はい。
于山島とは、1694年以前は鬱陵島の別名であって、それ以降の于山島は、竹嶼のことですね。 >>865
リンク先を読みました。
独島の語源としては、下の二つが候補に挙がると思う。
(1)"石の島"の全羅島方言、(2)"甕の島"
現在の韓国人は(1)しかありえないように主張しているけど、(2)だって可能性はある。
韓国人が勅令41号の石島を独島だと断定するためには、(2)の可能性を徹底的に排除する必要があるはずなんだよね。
過去、韓国人はそのあたりの論証をしたことがあったのだろうか? >>866
論証したことなんてないんでしょうね。于山島=独島(島根県の竹島)説など冷静に
考えれば韓国人でもそれが通じないことを理解できている。
下記のコメント参照
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/804
でもこういう意見を言えるのは匿名だからであって、無理な解釈だと分かっていても
表向きは、それを押し通してくる。その理由は、韓国人というのは自分の頭で考えた
ことよりも、地位のある学者の言っていることに、盲目的にしたがうべきだという社会規
範で育てられているから。
ところで、石島が観音島であることは、以下のコメントなどを根拠として決定的でしょう。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/807-822
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1540459081/829-837 1900年の大韓帝国勅令41号において、鬱島郡の範囲は縦八十里、横五十里と定められている。
朝鮮の役人が朝鮮の公文書で使う単位は朝鮮里であるから、東西約21km、南北約33.6km。
従って鬱陵島から90km離れた竹島は鬱島郡の範囲外。一方で石島は鬱島郡の範囲内にある島なので、石島は竹島ではない。
ちなみに石島がその範囲内の具体的にどの島であったかについては、竹島問題においては考える必要が無い。
9 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2018/08/19(日) 01:37:10.64 ID:R1A55Wr8 [1/9]
鬱島郡の範囲を定めた大韓帝国の公文書が決定的証拠のひとつ
島根県の竹島は、大韓帝国の領土外であることを当時の高宗皇帝(国王)が認めている。
1900年10月の議政府への請議書
http://i.imgur.com/EbmGbu7.jpg 縦八十里、五十里 (東西21km、南北33.6km)
http://i.imgur.com/6UFz6pv.jpg 大臣の印章で承認
http://i.imgur.com/Zd11e4o.jpg 内務部の印判でも承認
http://i.imgur.com/Amvb0v1.jpg 別紙添付の請議書を含めた裁可 (勅命之寶)
勅令案已經會議標題可否■別の異体字(另)具粘附並呈原案伏候聖裁
つまり、「別紙添付」の請議題書を含めて認めることを、高宗が印判を押し署名している
http://i.imgur.com/shoUOJA.jpg 大臣の署名と大韓帝国皇帝の花押と御璽
この「国璽」印によって、大韓勅令によって日本より先に領土に組み入れたという現在の
韓国政府の主張が大嘘であることが証明される。 >>867
>論証したことなんてないんでしょうね。
でしょうね。
過去、同じような質問をyoutubeのコメント欄で何人かの韓国人に聞いてみましたが、誰一人として回答はありませんでした。
竹島問題に詳しい韓国人の場合は、于山島=独島説については懐疑的に考えている人が多いけど、
石島=独島説になると彼らは一歩も譲らずに間違いないと主張してくる。
竹島の歴史的事実の中では、ある意味「最後の砦」のような位置づけなんでしょう。 >>864
言い出した頃の朝鮮人が出した証拠地図には
その北の方にも独島あったし志那海にも独島あったんだぜ
何故か原本無しのコピー用紙でな
最近朝鮮の言葉が増えて後付け設定が多いから鵜呑みにするのもどうかと >>869
于山国という名称を考えれば、
「日本海の遥か遠くにある無人島の名前が
『鬱陵島を差し置いて』国の名前になることなんてありえない」
というのは自明だと思うのですがね。
于山島というのは、鬱陵島の別名、または鬱陵島が複数の島嶼からなる島だと
いうことは知られていたが名称に関して混乱があったかのどちらかであって
遠く離れた無人島の名称ではありえない、と認めることはできないのでしょうね。 認知しているだけで、領有しているとは書いてなかろう。日本は当時から竹島周辺を漁場としていたけれどな。 そんな昔のことなんてどうでもいい
サンフランシスコ平和条約に書いてある(ない)ことが全て >>1
何でもいいけど、仮にその設定でも後に併合でそこも日本領土だ。 >>877
はぁ? 貴殿は、なんかと勘違いしてませんか。
>>1の史料 『蔚陵島事蹟』 は、1978年から知られているもので、その『蔚陵島事蹟』 という史
料の別の写本が見つかっただけだよ。
この史料に関しては、2007年に見つかったまた別の史料『西渓雑録』と相互補完されるもの
で、その二つの史料は、以前から詳しく研究されている。
なお、今回発表された史料には、新しい情報は何もなかった。
ただ今回同時に見付かった史料には、従来知られていなかった鬱陵島捜討(検察)の航海
があったことが九回分ぐらい書かれていた。もっともそれらの研究が進めば、日本側の主張
が正しいことが裏付けられることが歴然としているので、日本側の研究者は、早く全ての
史料を公開して欲しいと考えている。 >>878
従来知られていなかった鬱陵島捜討(検察)の航海
ってのは1800年代の捜討の記録の話ですか? >>879
そうらしいです。
「らしい」というのは、日韓近代史資料集ブログの
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58249092.html
12月6日以降の投稿コメントにある、リンク先ニュースの機械翻訳と
小嶋日向守さんのコメントに依ってます。 >>880
従来知られていた歴史書の研究では、1800年代ではあまり捜討事業が実施されていなかったと思われていたのが、
この日記の発見により規定どおり数年ごとの実施が継続されていたことが分かった、という論文を読んだことがあります。
日記には実施年が書いてあるだけなのか、もう少し詳しいことが書いてあるのかよくわかりませんが、
はやく全文を見たいものです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています