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劉備の快進撃には偶然性があったことを指摘しましたが、その前提となったのは、やはり諸葛亮が描いた戦略というべきでしょう。

無闇に戦っていたのでは、未来は開けません。どの順番でどのように戦えばいいのか。それを示したのが「草蘆対」、すなわち世に知られる「天下三分の計」です。

三顧の礼で諸葛亮と会談した際、劉備は「現状をどうみるか」「なぜ曹操が強いのか」「これからどうすればいいか」という3つのことを訊ねました。3つ目の「これからどうすればいいか」という問いの答えとして、諸葛亮は天下三分の計を示しました。

ただし、諸葛亮の「天下三分の計」は『三国志演義』で語られるような奇抜な策ではなく、「劉備には、それ以外に選択肢がない」というべきスタンダードな戦略でした。

一方、先ほど触れた魯粛の「天下三分の計」は、斬新な発想といえます。魯粛は「中国は分裂していて良い」と考えました。つまり、それは文字通り、天下を三分して鼎立すること自体を目的としています。

諸葛亮の「天下三分の計」はそれと異なり、まずは天下を3つに分けておき、やがて漢による統一を進めるという「天下統一戦略」でした。劉備はこの策を受け入れることで、蜀建国へと歩み始めたのです。

この大きな転機をもたらしたものが、荊州で過ごした7年の歳月だったのではないでしょうか。挙兵以来、劉備は戦い続けてきたといっても過言ではないですが、この時期だけはほとんど戦っていません。

それを物語るのが、「馬に乗らないから、腿の肉がついてしまった」と劉備が嘆いた「髀肉之嘆」です。しかし、その間にこれまでの経緯を振り返って、じっくりと考えることができたはずです。そして、自分に足りないものを自覚し、諸葛亮の戦略を採用するに至ったのではないでしょうか。

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219年に関羽、221年に張飛が非業の死を遂げると、激怒した劉備は、その仇である呉を討つべく出征。ところが、夷陵の戦いで大敗してしまいました。白帝城に入った劉備は病床に臥し、諸葛亮を呼び寄せます。

この時期には、挙兵以来の家臣である趙雲も諸葛亮に近い立場にあり、後継者である息子の劉禅は暗愚と、劉備には頼るべきものがありませんでした。だとすれば、強固な勢力をつくった諸葛亮に、劉備は脅威を感じたのではないでしょうか。

劉備は世を去るとき、諸葛亮に「我が子が皇帝としてふさわしくないと思えば、あなたが取って代われ」と告げました。

劉備の置かれた状況を考えると、この言葉は諸葛亮を牽制しようとしたもので、「あなたをあまり信頼していない」という劉備の本音が吐露されたものと私は受け止めています。そうだとすれば、諸葛亮は大きなショックを受けたに違いありません。

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ただ敢えて指摘するならば、劉備と諸葛亮が当時の中国に果たした役割は、それほど大きくありません。歴史は曹操の目指すほうへと進んでいきましたし、劉備と諸葛亮の2人がいなければ、もう少し早くに戦乱が終わっていただろうという気がしないでもないのです。

しかしながら、漢の伝統をつないだという点において、2人は中国史上に大きな足跡を残したと評価できます。

私は「古典中国」という言葉を使うのですが、劉備と諸葛亮は漢再興を求め続けることで、漢を中国における古典的存在とし、「漢民族」というアイデンティティーの確立に、大きな役割を果たしました。それが、中国全体に与えた影響は、いうまでもないでしょう。

鮮卑人の流れをくむ隋・唐ができた後も、中国人は自分たちの国家を「漢」と呼ぶようになりました。2人がいなければ、隋や唐を「鮮卑人の国家だ」と、中国人も私たちも呼んでいたかもしれません。


全文はソースで(長いですw)
https://news.yahoo.co.jp/articles/61b690197258a49c93a5add7a50205993dbfc5bf?page=1

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