【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】 [転載禁止]©2ch.net
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>>715
1万円だったら読者が激減すると思われるけど、それで誰が得するの?w
と思ったが、もし余計な読者が増えない(専門書を読むような層にしか読まれない)
ことを目指すのなら、それでもいいのかもね 5刷とか売れるのは、手頃だから。
3〜4000円だったら、そうはいかない。 幾何学的な眼と物理的な眼を、TVゲームの一人称と三人称でとらえるとすごいくだらない気がする。
どっちも似たようなもんだから。
<私>のメタフィジックスの「<私>とその頽落形態」や
「直接的なA系列と一般化されたA系列」の対比のような形でこちらも置き換える必要があると思う。
一人称視点という意味での幾何学的な目を〈〈私〉〉になぞらえて〈〈幾何学的〉〉な眼とし、
世界そのものとしての幾何学的な目を〈幾何学的〉な眼と表記して対立させるなど。
前幾何学的な目と幾何学的な目と対立させても良い。最早「幾何学」に特に意味もないのので「物理」でもいい。 事象内容を世界内の出来事と捉えて独在性も事象内容に含めた方がおもしろいと思うけどな
そうでないと事象内容にはさじ加減が全てでしかない恣意的な操作が介入することになる
どっかの誰かが主張してる即席の常識を世界の規則に据えることになる
私界未分の世界では普通の事象内容という考え方は出来ないけど、世界内の出来事という定義ならできる 永井もウィトゲンシュタインも独在性を事象内容に含められないって一方的に主張してるけど、根拠を示してないんだよなぁ
夢の懐疑は考えるけど、事象内容の懐疑は考えないのはなぜなのか 俺には夢という言葉と事象内容という言葉は同じに見える
そもそも最初から事象内容は独在性の対概念だからだというのが答えなら、事象内容はそれ以上拡がりをもたない専門用語になる
すなわち存在論の言葉としては使えない 独在性の懐疑は合ってもいいと思う よって独在性も事象内容であるという形で 西田の弟子が哲学を戦争や天皇と切り離して考えられなかったように、永井も自分が信じてるものから切り離せないんだろうな
どう転んでも 永井が出してた例えだと、宇宙に浮かぶテレビの中の出来事に独在性は含まれるから、
テレビのオンオフの問題である存在の問題にはコミットしないと思う
テレビの中の出来事は世界のありかたの例えなので、イコール事象内容で、事象内容に独在性も含まれる
マンガは哲学するの佐々木淳子の映像装置とかインド思想のマーヤーの中に、独在性は含まれる
最初から社会契約を極端に自立させる思想だと事象内容を別の捉え方もできるかもしれないけど、
そんなプロパガンダにはついていけない 私と他人との違い、今と他時点との違いを、どうやって事象内容で説明するの?
その説明ができるのなら、独在性も事象内容の問題と言えるのだろうけど 独我論と観念論の違いなんて捉える側が問題を最深部で捉えてたらありはしないし、
単なる評論用語として捉えてたらあるかもしんないけどそんなのどうでもいいんだから
(その用語が生まれた発想の根元をないがしろにしながら付随物ばかり比較しても意味がない)、
独我論と独在性の違いこそを論じてほしいよ。
独我論は私の身体が何個あろうがなかろうが関係ないが独在性は必ず一つ、なぜならそこを出発点にした概念だから。
ウィトゲンシュタインの独我論とこの独在性をしょっちゅう混同してるのはなんなんだ。 たまたまの孤独と文法上の孤独ってわけてるけど、いきなり文法が自立してタケノコみたいに
生えてくるわけじゃあるまいし、たまたまの孤独の派生形態が文法上の孤独と考える方が自然
なぜ文法を自立させたがると言えばそうしないとたまたまではない単なる全面的な孤独になるから
よく言えば循環だが悪く言えばどちらも自立せず間違ってるだけ 循環とでも言って誤魔化すしかない
そもそも文法って言葉はアカデミズムのうさんくささの象徴みたいな言葉だと思う
みんな中学生くらいまではいやおうなくそれわかってるんだけどな 『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫)2018/2/10
永井 均
文庫¥ 1,220
青色本 (ちくま学芸文庫)2010/11/12
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン (著), 野矢 茂樹 (解説), 大森 荘蔵 (翻訳)
文庫 ¥ 972 https://twitter.com/hitoshinagai1/status/957904879925673984?ref_src=twcamp%5Ecopy%7Ctwsrc%5Eandroid%7Ctwgr%5Ecopy%7Ctwcon%5E7090%7Ctwterm%5E2
これは、大多数が善いと思っていることに自分の行為を合わせることが生きるのに便利でなく、つまり不快であるような場合には、道徳的に善いとされていることに従わない、ということを意味するのだろうか。あるいは、そういう場合はありえないという前提があるのだろうか。「から」の意味が知りたい。
これは、倫理・道徳についての議論だから「から」の意味が問題になるのかな
「私がカレーを食べるのは、カレーが美味しいと思うからだ」という人に対して、
「では不味いカレーがあったら、それは食べないのか」と聞いたら、「そりゃそうだ」
という返事になりそうだけど
その場合にも、「いや不味いカレーはあり得ない」という返事はあり得るのかなw 結局、『ここから』しか世界は見えてないけど、
その『ここ』って、絶対に認識できないよね。
『ここ』って認識した時は、既に『認識した結果』を見ていて、
『認識する元』たる『ここ』は認識できてないから。
それが無内包であって、>>722の疑問に対する答えも、
そういう事ではないんだろうか?『語り得ない』という。 >>730
「私が『美味しいとされているカレー』を『美味しい』と言うのは、
大多数が美味しいと思っていることに自分の味覚の表明を合わせた方が
生きるのに便利だから、社会から排斥されないから、つまり快だからであり、
それ以上の意味はない」
と読み替えてみると、
『美味しいとされているカレー』を食べて「不味い」と感じた時、
「不味い」と表明することで、生きるのに不便になったり、社会から排斥される『不快』を選ぶより、
「美味しい」と表明することで、生きるのに便利だったり、社会から排斥されない『快』を選ぶ
ということではないでしょうか?
もし違和感があるなら、『カレー』を『戦闘部族が好んで食べるもの』に読み替えるといかがでしょうか?
自分だったら、死にそうに不味くても、実際に殺されたくないから、
不味いとは言えないと思うw >>732
そういう状況であれば、「私が戦闘部族の食べ物を「美味しい」と言うのは、
(実際に美味しく感じているかとは関係なく)そうしないと戦闘部族にひどい目に合わされるからだ、
つまりその状況の下では快である(大きな不快を避けられる)からだ」と表現すれば、
話は単純で、状況が違えばそんな行動は取らないことが明らかなんじゃないですかね
しかし、もし何らかの理由で、それが美味しいという「嘘」を自分でも信じ込むようになったりしたら、
道徳と類似してくるんだろうか ちょっと思い付いたので書いてみると、道具的価値と内在的価値という考え方をここに応用できるだろうか
(※などと思いながら『倫理とか何か』の関連しそうなところをちょっと拾い読みしてみたけど、
そもそもこれらの用語自体が直接は見つからなかったので、完全に適当です)
「私が(道具的価値に従った行動)をするのは、それが(内在的価値の実現に役に立つ)からだ」
と、まとめられるとすると、内在的価値の実現に役に立たない状況だったり、役に立つと思っていたが
実は役に立たないことが判明したりしたら、道具的価値に従った行動などはしない、
ということになるだろう
逆に、「その行動をしないこと(と言うか、その行動が内在的価値の実現に役に立たないこと)が
あり得ない」と言えるとしたら、それは、実はその行動自体が内在的価値の実現に直接つながる、
という場合だ、ということになるだろうか
例えばスポーツをするような場合、「試合に勝てれば楽しいから」「金が手に入るから」などの
別の価値のための道具的価値に過ぎないなら、別の価値の実現に役に立たないならしないことがあり得るけど、
本当に大好きなスポーツをするような場合、すること自体に内在的価値があるので、一見すると
「楽しいから」などという理由になりそうに見えるけど、実際はしないこと(することが価値の実現に
役に立たないこと)はあり得ない、ということになりそうに思う
カレーの場合が不自然に見えるとしたら、通常は内在的価値になるのは「美味しいものを味わう」
などといったことで、カレーはその手段(道具的価値の一つ)に過ぎないと考えるのが自然だからではないかと
(カレー研究者(?)といった人なら違うかもしれない) (続き)
こういうふうに整理できるとすると、価値一般について当てはまりそうで、別に
道徳の場合だけ特別問題になるわけではなさそうに思った
しかしそれでも道徳の場合に特に問題となる理由があるとすると、道徳は、(『倫理とは何か』の
私の大雑把な理解とその勝手な応用の仕方が的外れでないとすれば)もともと道具的価値しか持たない、
つまり自分(に限らず社会契約のメンバー)にとって、快を実現するための手段に過ぎないのだが、
作られた後になって、「いや道徳は内在的価値を有するのだ、しないことなどあり得ないのだ」
という「嘘」が作られ、しかもやがて本当に内在的価値を有するようになる(少なくともそう信じられる)
という特別な性質を持った価値だ、という点だろうか
道具的価値と内在的価値の両方の面を有してしまうので、果たしてそのどちらなのか、というのが
特に問題とされる、と とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
Z9GHZ 『哲学の密かな闘い』が文庫化されて「新版」となってるけど、旧版との違いはどこ?
もうチェックした人、教えてくれ hitoshinagai1
そんな話はともあれ、今回の新版では、第T部に「存在の孤独な祝祭」と「〈今〉と〈私〉の謎 」を新たに収録した。どちらも短いが、とくに後者は3頁半なので、買わない人もぜひ立ち読みしてください! 「明日のために、いま寝る」
これはすなわち言語の成立であり、時間の成立であり、道徳の成立のための第一歩でもある(違 この世界の上で繰り広げられる哲学談義なんてどうでもいい
そういう心持ちじゃないと永井さんの言わんとする事は分からない
こういうことなんじゃないかなあ・・・ ネルケ無方さんの座禅(@朝カル)に永井さんも出てましたね サルトルちょっと読んだけど、昔の永井がよく言ってたみたいに
「我々」から話が始まってるから問題を飛び越してるってのを強く感じた
ハイデガーは「我々」から始まっても念頭においてるのが〈〉なんではと擁護
したくなる箇所が多いけど、サルトルはまるでダメ 哲学的緊張を感じない サルトルほどの思想家をつかまえて
こんな無能が、偉そうにまあ・・・ ここ数年の6月1日は無為の日だった(と提唱者が宣言していた)が、それによって、
今年の6月1日も無為の日であると言えるだろうか、それとも提唱者がその都度
宣言することによってのみ無為の日となるのだろうか(適当) 『無内包』とは、『無内包』という『定義』に注目してしまった時点で
『無内包』ではなくなってしまう。
『無為の日』も、『無為の日』という『定義』に注目してしまう時点で
『無為』とはならないことを、
これを提唱した人は気付いているだろうか? https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1003798480043716608?s=19
今となっては2018年6月2日が今日であることは史上初だと言えることは米朝首脳会談が史上初だと言えることと同種のこととなっていると思います。2018年6月5日が今日であることは史上初だのほうは違います。まずはこの違いこそがポイントですね(あくまでも「まずは」ですが)。
この話って結構難しいような気がする(少なくとも俺にとっては)
同種のことではなく特別なことだ、というのだけがポイントだとすれば、
6月2日(今から見て過去の日)が今日であることも、6月10日(今から見て未来の日)が
今日であることも、同じように特別なことにはならず、6月5日が今日であることのみが
特別なことだ、ということになると思う
(もちろん今日は実際には6月8日なのだが、日付を変えると無駄に面倒と思ったので)
しかし「史上初」や「今となっては」という表現に注目すると、6月2日(今から見て
過去の日)が今日であることは史上初だ、というのと、6月10日(今から見て
未来の日)が今日であることが史上初だ、というのが、同じように特別なことには
ならない、と言えるのかどうか? >>748
ツイートされた月日が6月4日というのがポイントですかね? 本日が6月4日であると仮定して、
仮に、目の前に展開していく現実の全てが
デジャブ=既に脳内で思い描いていたこと
という人が居るなら、
6月2日も、6月5日も『同じこと』ではないかと。
と言うより、
目の前に展開していく現実の全てが既に脳内で思い描いていたこと
であれば、『史上初』という概念すら無いか。
自分が疑っているのは、実のところ、『全ての人』が、
本当は既に脳内で思い描いているにも関わらず、
目の前に展開していく現実の全てを『史上初』と勘違いしてしまっているのかも、
てこと。
その立場からすれば、『既に起きた史上初』と『まだ起きていない史上初』は
違っているかと。 https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1010342935026544640?s=09
あたりのツイートを見て
同じ一つの価値(=球)の存在を前提として、その中で優劣を競うのがスポーツ(のうち
多くのもの)の本質で、その価値とは別の駆け引きみたいなものが多く混じるのは好まれない、
ということだとすると、多人数の格闘戦のようなスポーツが(あまり)ないのは、それだと
一つの価値の優劣になりにくく、むしろ例えばタイミングよく一対多の状況を作るのに
長けたほうが勝ちやすくなるなど、駆け引きの部分が多くなるからだろうか
だとすると3チーム以上の乱戦のようなスポーツが(あまり)ないのとも、統一的に考えられるか
するとさらに、例えば同時に2つ以上のボールを使うサッカー、なんてのはどうか
例えば、一方のチームが見事な技術・体力で1点取る間に、相手チームが
タイミングのうまさだけでそれ以上取り返す、なんてことが起こってしまう
これも同じように流行らない、ということになるかなw
しかしそのように考えると、「銃弾」という物騒な比喩から始まった話なのに、
何だかずいぶん価値・ルール重視の話になって、むしろ(身も蓋もない現実としては
いかにもありそうな)剥き出しの駆け引きとかやったもん勝ちの世界とは離れていくのが、
何だか面白い
サッカーのワールドカップは比喩的には「戦争」と言われたりもしてたと思うけど、
実は道徳的なものだったのか、それとも道徳的な戦争(?)なのか
と言うか、ここでの文脈では「戦争」はそもそも道徳的なのか(?) サッカーの日本チームは「フェアプレー・ポイント」なるものの差で決勝トーナメントに
出られるそうですが
「戦争」の決着が、ぎりぎりのところで道徳的優劣(?)によってつけられるとは興味深い(適当) 長谷部、本田語録“きよきよしい”を支持!?「もう日本語変えちゃったらいいじゃないですか」(スポーツ報知) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180708-00000059-sph-ent
ここにも「でんでん現象」が(古)
しかし、もしもこのように、公共で認められた読み方と異なる私的な(?)読み方のほうが、
後に公共的に認められてしまうことが起こったら、それはどんな現象と考えたらよいだろうか https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1020965382423601152
しかし『これがニーチェだ』の時点では,ニーチェは思想家としては完璧に敗北したと
言われていたのに,なぜ急にこんなことになったんだろう
「急に」というわけではなく,もともとニーチェが取り上げていたような道徳や価値は
実はあまりに弱いもので,ニーチェの議論は邪悪すぎたのだろうか
でも道徳や価値そのものを公の場で堂々と否定したり,的確な議論を組み立てたりする人が
別にそんなにいるとも思えない(思想家として敗北していることには変わりはない?)ので,
公には否定されているはずのものが簡単に勢力を伸ばすというのも,なんかよく分からない 新刊『世界の独在論的存在構造』発売記念age
新潟の書店にあったので、多分もういろんなところにあると思われる 暦がずれているのは自明だが、個人で各々ずれていないと暦を策定できないし
占いも当たらず、意味をなさない。ワールドカップが戦争家かというと
どちらかというと調教、統率力兵役実務につながる訓練だと思う。
戦力を見たり、軍事コマンドの人事には使えるだろうが、ショセンはメディア
客商売である。
人によって時間の進み方は違うが、同じ☀の速さ 同じ夜のながさ、同じ日付日めくりを生きている
という保証はない。確認できないのだよね。独我論の世界があくまで正しいから。 ニーチェは古典文献から邪悪になっていっていいのかというといいと思うが、
それだけではつまらない文献学者だろう。道徳の基盤はカントが詳しいが、
道徳を持ち合わせるのは貴重種で、常に戦いに猛っているような魔女の才覚だろうな。 つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ つまらないのはあなたの人生に対する姿勢が、僕に哲学的心理で皮肉られているのでしょう。顕在化されえない力で。
つまらないのはあなたの方だ。世界を詰まらない人がつまらない世界を作り出し
それを必然的に感じているだけ。
と臆面もなく言うことが出来る。
つまらないなら盛り上げて、僕ではなく、面白い世界に彼を導いていけばよい。 と思います。書き込まないというより、掲示物の範疇だから
法律的にはね、つまらないならスルーしてもらって結構。反論も結構。
同じことを言われるとオタク瞬間時間が流れてしまいます。 >>727
独在性という語が成立するかは差し当たり保留して「それ」とし
「それ」が言語に反映され得ないとしたのがウィトゲンシュタインで
「それ」が言語に反映され得るとしたのが永井であろう
もちろんウィトゲンシュタインは独在性なる概念を認めはしない いや、言語に反映され得ないというだけで認めてはいるかな?
ウィトゲンシュタインの独我論と永井の独在性の違いはそこだけで 今という驚きを考えたことがありますかp51より
(前略)独我論と観念論は全然違うじゃないですか。
独我論とは、この〈私〉だけがほんとうに実在するものであり、
外界の物質はもちろん、他人の心も実在しない、もしくは実在するかどうかわからない、
とする考えです。一方で観念論は、物質と精神の対比において精神こそが実在すると考えます。
ここでは精神というものが存在することが前提されています。
すなわち他人にも精神があることは前提になっています。
しかし、独我論との対比で考えたとき、みんなに精神があると考える観念論は、
もっとも反独我論的です。(後略)
いまさらだけど… 観念論は関係無い
永井は独在性が伝達可能であるという立場であるから
中心化された世界が1つだと主張しているわけではないであろう たぶんあなたに対してのレスではありません流れを切って申し訳ないけど またえらく単純な誤読に陥ってるな、このレビュアーは 密かに前言撤回したのに相手が誤読したせいなどと付け加えるやつのレビューなど何の価値もない 自分で議論と思ってるものが意見である場合があるのがなぜか、この人が暴き出してすごいなぁと思ってたけど、
この人、自分だけは違うと思ってるのなんなんだろうな 小説家になろう 永井均の「世界の独在論的存在構造」批判
https://ncode.syosetu.com/n1632ez/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 神の世界創造を信じてないっていった人って、現に世界があるってことを信じてないっていったんじゃないの
他人の発言を根っこでとらえず自分の型で捉えて切っちゃうよね @hitoshinagai1
西田序で。NHK出版から出ていた拙著『西田幾多郎』の増補改訂版がKADOKAWAの文庫版で出ます。
文庫版の付論においては、西田哲学で時計の成立を説明し、道すがら仏教における解脱とキリスト教における復活、
西田における自覚と仏教におけるサティ(マインドフルネス)の関係を論じ、本論と繋げます。 こどものための哲学を読んだのはもう10年以上前です
永井さんがいまだに<私>にこだわっているとは、少しびっくりしました
さすがに飽きただろうと思っていました 清水将吾氏、どうしたんだろうか
いつも通りの永井論法なのに、イチャモンつけてるようにしか見えんのだが 確かに、なんでああいう流れになってしまってるんだろう
論理的構造だけで言えば、単に、「もしAを前提とすればそこからB、C、…が言える」という
話をした時に、B、C、…が実際に事実と合致しているかどうかはいろんな場合がある、
というだけのことではないかと
(「帰謬法」というと、逆に結論が間違いや矛盾を含んでいないといけないことになるので、
そこは訂正したと)
それと別に事実のコミットメントということになると、純粋に事実といえるかは別として、
永井がよく言っている「自分の哲学のみが真に重要な問題で、それに比べれば世の中の
大抵のことはどうでもいい(そして大抵の人はそういうことを日々頑張っている)」という発想を
暗に前提にしてる、ということにはなるかと思うけど
まあもちろん、その発想を全然知らない人、その中でも現にブラック企業で苦しんでいたり
その問題解決に取り組んだりしている人々にとっては、現実を無視した馬鹿げた発言と
感じられる可能性はあると思うけど
ただ元々永井が永井らしいツイートから始めた文脈に、そういう感じかたを持ち込むのが
適切か、ということになるんだろうけど
(当然ながら、そういう感じかたから話を始めれば、別の議論になるわけで) 永井氏がたびたび指摘しているのは
永井氏のテーマとはまったく関係がない事柄に引きつけて永井氏の考えが解釈されてしまうことが多いということだが
本人も他の哲学者に同じことしてるんでおあいこ >>779
永井は少なくともそれを自覚しているということだろう >>773
ライプニッツとかホワイトヘッド的な解釈だとこうなるんだけど
永井はこっち方面にあまり関心がないらしいね >>781
ろくでなしだよ
蔑みを抑え切れない人格なのは間違いない >>776
飽きるはずないだろ
世界の偶然性だけでも一生飯が食えるのに
世界の偶然性そのものの偶然性を相手にしてんだから >>787
私も一時期、<私>に気がついてびっくりしましたが
今じゃ、熱くなってみんなに語った自分を恥ずかしく思いますよ
永井さんも、本当は分かってると思うんです
引っ込みがつかないだけなんですよ それは引っ込みがつく=精神力が尽きた
引っ込みがつかない=精神力が尽きていないと言い換えれば
君も否定したくならない類の指摘なんだろうな
くだらない 宗教板でサティと呼ばれる人が、永井均の独我論で
「霊の実在を悟性として理解しました」と言ってるんですが、
哲学者が「霊の実在」なんて語っているのですか?
【イエス】 これはわたしの愛する子part37 【キリスト】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1535314321/492
492 :神も仏も名無しさん :2018/08/29(水) 00:33:14.20 ID:GdL7qnw0
>>485
僕はデカルトの独我論で霊の実在を悟性として理解しました
厳密には、ウィトゲンシュタイン→永井均の独我論ですが
それを通ったお陰で霊とは何か、なぜ神の名が「私は私は在る」なのか、理性で触れるようになった感じです
>>491
美魔男の構って欲しい人をディスる癖がまた始まったようじゃなw
http://hissi.org/read.php/psy/20180829/R2RMN3FudzA.html >>792
「霊の実在」というのが何のことかよく分からないけど、多分、永井はそのようなものを
認めて(少なくとも積極的に論じて)いないと思うよ
特に、普通にイメージするような、肉体と切り離されてフワフワ浮かんでるような
精神のみの実体(?)のようなものを指しているのであれば 「私は身体を度外視しても存在しうる」ぐらいの意味で言ってるんだと思うが 永井は、魂については、「脱人格的自我」のことを
昔からそう呼ばれてきたものとして、名称だけ借りている。
もちろん、夜の墓場で青白く光る炎のような目に見える実体のあるものではないが。
霊という言葉を使っているのは知らない。 せめて来世があるなら死の概念は無意味程度の認識は持っといてほしいよね >>792を読む限り、
飽くまで>>792の引用元が永井均を読んで、そこから得たインスピレーションかなにかで
「霊の実在を悟性として理解しました」
と『>>792の引用元の言葉』で語っているだけでないの?
『霊の実在』や『悟性』を想起させる内容を永井均はどこで書いているのか?
のような質問ならわかる。 探究2は誤字が今までで一番多いな
今までも結構あったけど倍以上ある
後ろの方のなにも書いてない紙も異様に多いし、なんかあったんかな なぜ意識は実在しないのか
結局これがベスト・オブ・ベスト 永井先生はハイデガーの記述のダサさのせいでハイデガーを軽視してるけど
自分はハイデガーの感じた恐怖の方がウィトゲンシュタインよりも共感できるかな >>213
間違いなくこれだよね
"ある"か"ない"か以外に選択肢が"ありえない"この現状
こんな不思議な状況に放り込まれてるのに一切疑問を感じず
放り込まれた世界をただただ探求しようとするその姿勢
実に無邪気だ >>744
でも目の前の木を"マロニエ"ではないと見抜いて恐怖するセンスは
決して一般人のものではない、叙述が拙かったとはいえやはりサルトルも哲学者だったよ 永井均 @hitoshinagai1
12月29日
かつて勤務していた大学での大学院の入試面接の際、他専攻の教員も参加していたが
受験者の提出論文の非常に優れた議論を全く理解できずにとんちんかんな質問を連発。
受験者は試験官が素人だとは夢にも思っていないため、質問が理解できないことでしどろもどろに。
試験官はその受験者に最低点を与えた。
永井均 @hitoshinagai1
12月29日
これが「評価者の識見が評価対象の水準に遙かに及ばない場合の低評価」の「興味深い事例」で、
「アマゾンを始めとする今日のネット上では馴染みの現象」ではあるが、
実のところは昔も今もよくある(あった)ことだろう。
人は理解できないものを出来が悪い(と理解できた)と思い込みがちのようだ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 永井均Twitterより
永井均
禅僧のネルケ無方さんが、拙著『哲おじさんと学くん』を紹介してくれていて、しかも本書に固有のポイントを(お坊さんなのに!)正しく指摘してくれています。
ゆう
下らない質問で申し訳ありませんが、ネルケさんの動画を見るまでずっと、「哲おじさんとガクくん」だと思っていたのですが、「マナブくん」だったのでしょうか?
永井均
書いているときは私は「ガク」と思って書いていましたが、担当者も書籍版編集者もみな「マナブくん」と言っており、本の題名の正しい発音も「てつおじさんとまなぶくん」です。
ゆう
ありがとうございます。著者がつくった名前を、著者だけが誤読していたのだとしたら、面白いですね。 無内包の現実性とは常にトラウマのようにしかやってこない。
永井の独我論は子供だましの虚構 ほんのひとことついでに触れただけの貨幣をタイトルにしたり、
あとがきで無理矢理宗教のホットワードを自分の解釈にかぶせたり、
他の著作と比べても独自性のあった西田幾多郎本に最近の論法からめたり、
もうすっかり耄碌しちゃったな 神の死により自我同一性という虚構がばれそうになり啓蒙主義のルソーの社会契約論、カントの
定言命法による騙し。
哲学とは自我同一性という虚構・秩序維持活動 >>810
自己同一性という虚構の根拠を神(過去の起源)から未来(進化論、文明)への置き換え 「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義
シェリー・ケーガン
https://bunkyosha.com/books/9784866510774/article/1
無料公開ページ
原書 Chapter 2 二元論と物理主義
原書 Chapter 3 「魂」は存在するか?
原書 Chapter 4 デカルトの主張
原書 Chapter 5 「魂」不滅性についてのプラトンの見解
原書 Chapter 6 「人格の同一性」について
原書 Chapter 7 魂説、身体説、人格説ーーどの説を選ぶか? 哲学探究一の第一章p19の「我々の記憶は最初から過去そのものに届いており」の「届く」という言葉の意味がよくわかりません 教えてエロイ人 美魔女が芸能界デビューして、センターで歌って踊って
やがてイケメン俳優と結婚する記憶は、
過去そのものに届いているのだろうか? 美魔女の記憶が徐々に前田敦子の記憶と入れ替わるとき、
美魔女はいつ前田敦子になるのか?
前田敦子はいつ美魔女になるのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています