フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net
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>>155
私は>>94で、「デカルトが方法的懐疑によって“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての私を超越論的自我というが、
問題は、デカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの”を何故“純粋な精神(=私)”と定義したかである。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。思惟・思考する以前に“心と体”はもともと一体化しているものである。」と
記述した。
上記の通り、方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの(=超越論的自我)とは思惟・思考する以前にあるものであり、
“心と体”の合一した“一つのもの”として認識するのが正しいと解釈している。
私たちは、方法的懐疑の思考を究極にまで深めている過程で“疑っている私は疑えない”という超越論的な“あるもの”を、
認識するが、その“あるもの”は思惟・思考する以前の“心身合一”した存在として捉えられている。
この“あるもの”を冷静に分析すると、体(物質)から分離した“純粋な精神(心)”だけが超越論的自我として認識されて
いるのではないことに気がつく。
それから、デカルトが“疑っている私は疑えない”という“私(超越論的自我)”が、“純粋な精神”として認識されるという
論理的な根拠をデカルトは示していない。“私”が純粋な“精神”であるならば、誰しもが理解出来る倫理的根拠を示す必要があった。 >>170
訂正
倫理的根拠を示す
↓
論理的根拠を示す >>170
なんとなく理解はできたし、もう一人の人よりよほど真面目に書いている分
面白いのだけれども。
超越論的主観 に対応する概念として 超越論的客観 なんて概念をもってくると
新たな二元論を作り出しているのではないか、という批判は免れないとは思うし、
ハイデガー理解とはずれるとは思う。
俺はハイデガーをそこまで評価しているわけでもないが。
デカルトが思惟する実体を特権化してしまったのだが、元をだどると、
プラトンが、ソーマとセーマとかいって、肉体拒絶の方向性をすでにうちだしては
いるんだよ、
俺自身は、思惟を特権化したのがそもそも間違いであって、
思惟していない、普段の生活においてすでに、肉体も私も不可分なものとして
存在しているのが重要だと理解している。その点でハイデガーとも立場が違う。
そんなに偉そうにいえるほどの哲学体系を持っているわけではないけどね。
そう考えると、超越論的主観を心身合一として理解する必要性もないとは思っている。 >>172
>思惟してない普段の生活において、すでに、肉体(物質)も、心(精神)も、私も不可分なものとして存在しているのが
重要だと理解している。
>私も、その通りだと理解している。この日常の非本来性の次元より、方法的懐疑、或いは現象学的還元という
思考法の活用により種々の問題を解決するのが、新しい哲学の方向性と考えている。
、 疑っている自分をがナルシストくささ。疑いえないなら〇。他人を疑えない純粋さが悪霊に気に入られたんだろうな。自 己 はあるようでないと思う。多動性はあっても
受動性や、自動性というとおかしい。悪霊に料理されずに食われたから世界が出来上がるが、魔性だよな。 心と体の一体化は古いな。心と体は最初が違う異質なものだが。 >>173
現象学的還元 って言葉にこだわるなら、フッサールともハイデガーとも
違う方向でそれを考えないとならないとは思うね。それが現象学的還元という
言葉を使うのが正しいかは疑問だが。ハイデガーの本来性・非本来性の区別ってのは
いろいろ問題が多いし、結局それがファシズムに結び付いたとは理解している。
ハイデガー派のひとは、あれはエピソードに過ぎないとは言い張るだろうが。 >>166
>論理が飛んでいるので
いつも逃げの言葉を最初に持ってくるんだねw
別に構わないが。
>そんなことは知っている
>当然知っている
哲学が言葉である(言葉に過ぎない)ということは理解してるんだね?
それなら、僕が>>160に書いた「言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる」ということも理解できるんじゃないか?
ヴィトゲンシュタインは、哲学は言葉に過ぎないと指摘している。
フッサールは、哲学は言葉ではないものを哲学にしようとした。
>ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を持っている
>ヴィトゲンはフッサールのように、超越論的自我を設定してしまわないという点で
君は、>>123と>>133でこう書いた。
つまり、ヴィトゲンシュタインとフッサールの「私」を、同類の「私」としてとらえているわけだ。
>俺がヴィトゲンとフッサールを同類と理解している、と誤解
だから、君が二人を同類としてみているというのは、僕の誤解ではないのだ。 >>167
>「論理哲学論考」は、むしろ、カント的認識論に問題意識は近い
カント的認識論てなに?
これは質問じゃなくて、君のジャーゴンの曖昧さを指摘してると思ってくれ。
>ヴィトゲンシュタインがハイデガーにわりと好意的な発言をしていたこともよく知られた事実
君の有名病は、やっぱり誰かの解説のつまみ食いから来てるんだろうな。
断片的な発言やエピソードで「哲学」を理解するのは無理だと思ったほうがいいよ。
ヴィトゲンシュタインについては>>161に3行でまとめておいたが、冗談で書いてるわけではなく、そのままなんだよ。
ちなみに、論及から探求へと変化したのではなく、論及を具体的な現実に当てはめたのが探求だ。 >>168
ヴィトゲンシュタインの「哲学」上の「私」は、言葉としての「私」であって実在としての私ではない。
フッサールは態度や共同性を含めた実在の「私」だ。
このふたつの「私」は、まったくの別概念だ。
ここでもまた、君の言葉の定義の曖昧さが出てしまっている。 >>180
>いつも逃げの言葉を最初に持ってくるんだねw
それは君の主観だな。逃げというよりバカバカしいのでウンザリというか。
>「言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆と
「私」をどう捉えるか、という問題では、比較することは当然可能。
そして俺はその点で挙げたのみ。
>ヴィトゲンシュタインは、哲学は言葉に過ぎないと指摘している。
おそらく論理実証主義は(ジャーゴンとかいうなよ、知らないなら検索しろよ)
その点でヴィトゲンを重視した。
だが俺の関心は、ヴィトゲンが言葉で捉えられないのは何かを問題にしている点。
>つまり、ヴィトゲンシュタインとフッサールの「私」を、同類の「私」としてとらえているわけだ。
なんでそうなるか理解に苦しむ。
例えば永井均はこう書く。「私自身は、ドイツ観念論や現象学の主格的で反省的な
自我理解にまったくリアリティを感じないのに対し、ヴィトゲンシュタインには、
ほとんど肉感的といえるほどのリアリティを感じるのである」。
わりと俺の実感に近い。私の把握、という点で、ヴィトゲンに共感するのは、
同類にしていると同義ではない。 >>172
>超越論的主観に対応する概念として、超越論的客観 なんてもってくると
新たな二元論を作り出しているのではないか、という批判は免れない。
>自己(主観)と外界(客観)とは、日常的な普段の生活において密接に関連している。そして、
超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)も、“方法的懐疑と現象学的還元”を通して密接に関わりあっている。
だから、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、日所的な生活次元に関わっている主観(自己)と客観(外界)との
延長線上にある。
私は、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、“一つのもの”であり、両概念を例えて言えば、コインの表と裏の連関にあると捉えている。 >カント的認識論てなに?
純粋理性批判のカントの関心は、人間の認識がどこまで
およぶもので、どこからが認識で捉えられないものかにある。
悟性や理性という言葉がでてきた理由。物自体という概念などを考えるといい。
ヴィトゲンも言葉にこだわったりはしているが、どこからが言葉で捉えられないか
を問題にしている。
>なみに論及から探求へと変化したのではなく、論及を具体的な現実に当てはめたのが探求だ。
これはヴィトゲン全体に関係することなので、
今君と論じあう必要性はまったく感じない。君自身のヴィトゲン理解として
大切にしてもらいたい。 しかしまだ肝心な点には答えられてないのだよ。
>どう読んでもも、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
>なんて結論になるわけないのだがね。
ここについてはちっとも、このひとは答えることができてないんだよなあ。
どういう意味で「真逆」と表現したのか?
俺は基本、今はここしか尋ねていない。 >>185
訂正
日所的な生活次元
↓
日常的な生活次元 今レスしてくれたのか。
>私は、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、“一つのもの”であり、両概念を例えて言えば、コインの表と裏の連関にあると捉えている。
君の概念ではそうなのだろうけど、
超越論的客観=外界 ってのは俺はやはりひっかかる。
ベルクソンやメルロ=ポンティ の考えに近いんじゃないだろうか。
あるいは、もしかしたらシェリング。 いろいろ考えてはいるのだけれども。 ごめん、レス番号つけるの忘れていた。
189は >>185 へのレス。
面白いのだけれども、これ以上今はレスできんわ。 >>124
>その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する思考法”の方法的懐疑と、
“前提を設定しない思考法の違いにある。
この質問に対して、「そう考えてハイデガ−は、現象学を解釈しなおそうとして、フッサ−ルと喧嘩することになった。」と述べているが、
思考法に於いて、〈前提を設定する〜前提を設定しない〉は、非常に重要なところなので、ここのところのフッサ−ルとハイデガ−のやり取りを
貴方の知っている範囲内で教えてもらえますか。 >>191
説明しづらいなあ。やり取りについては、歴史的な事実だけ紹介すればいいと
思う。
ハイデガーはフッサールの元で学んで講義を受け持ったりしていたのだけれども、
初期の講義、19年の「現象学の根本問題」あたりでは、すでにかなりフッサールを
攻撃しているんだよ。そういうことはフッサールは知らなったらしい。
現象学とは私と君のことだ、などとハイデガーに言っていたくらいだから。
27年にフッサールが「ブリタニカ草稿」、百科事典の現象学の項目をハイデガーに
書かせて、その内容が自分の考えとはまるで違うことに気付き、
また「存在と時間」を読んで、自分の現象学とはまるで違うことに気付き、
この頃からハイデガーへの距離が生まれた。
もっとも影響をうけて、生活世界とか言い始めたりするのだが。
ハイデガー側からすると、現象学って言葉は引き継ぎながらも、
初期(10年代)からまるで違う方向に進んでいたし、名指しでフッサールの
悪口を講義では言っている。 >>184
>比較することは当然可能
比較というのは同じ方向がなければ意味をなさない。
違う方向での比較なら、それぞれの方向を明示したうえで、どこがどう比較できるのかを検討しなければならない。
水と砂を比較するには、それ相応の視点が必要だ。
>ヴィトゲンが言葉で捉えられないのは何かを問題にしている点
ヴィトゲンシュタインは、言葉でとらえられないものは語ってはいけないと言っている。
有名だろ?
>永井均はこう書く
また他人の解説のつまみ食いかよ。
ヴィトゲンシュタインになにを感じるのも自由だが、それを解説とするのはヴィトゲンシュタインからは最も遠い。
気取った言い回しが大好きな永井らしい感想といえばいえるかも知れない。
君には、ひとつでも、自分が並べ立てているジャーゴンをきちんと定義、説明できるのかを自問しなければいけない。
それができれば、見当違いのヴィトゲンシュタイン理解から少しは離れることもできるだろう。
ジャーゴンの明確化を言い回しで誤魔化しているような永井にもいえることだが。 >>186-187
>どこからが言葉で捉えられないかを問題にしている
ヴィトゲンシュタインは、それまでの哲学の全否定ともいえる、言葉の構造を考えた。
それが言語ゲームだ。
人間の認識の範囲の問題ではなく、そういいたければ、認識と言語の乖離の問題だ。
>大切にしてもらいたい
君が少しでも哲学の不毛性に気が付くことを期待してる。
>答えることができてない
何回も答えているが?
何回同じことを書けばいいんだろう?
ヴィトゲンシュタインの「私」は、哲学に表れる言葉としての「私」だ。
フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。
これが無関係ということでもあり、言葉と肉体という方向性としてとらえれば真逆ということにもなる。
これ以上どんな説明がいるというのだ?
君が引用した永井の感想の真逆ではあるがw >>193
君の場合、いちいちレスすると膨大なレスになるだろね。かいつまんで。
>水と砂を比較するには、それ相応の視点が必要だ。
「私」の把握の仕方、という視点で。フッサールのように超越論的自我を
まず設定してしまうのか。それとも、ヴィトゲンのように、言語分析からはいりながら
世界の限界として私を理解していくのか。
どちらがより共感できる私の捉え方か、という視点で。
>ヴィトゲンシュタインは、言葉でとらえられないものは語ってはいけないと言っている。
初期ヴィトゲンな。
「語る」とはいっていない。「なにが語れないのか」、を語ると言う点で。
>ヴィトゲンシュタインになにを感じるのも自由だが、それを解説とするのはヴィトゲンシュタインからは最も遠い。
解説を目的とした文章ではなかったな。
いずれにせよ、現象学とヴィトゲンシュタインを私を視点として比較した例に過ぎない。
>君には、ひとつでも、自分が並べ立てているジャーゴンをきちんと定義、説明できるのかを自問しなければいけない。
俺には君の方が何一つ説明できていないと見える。
>ジャーゴンの明確化を言い回しで誤魔化しているような永井にもいえることだが。
別に永井信者でもないが、俺には、君よりか永井のほうが遥かに明確に定義できている
ようには見える。 >ヴィトゲンシュタインは、それまでの哲学の全否定ともいえる、言葉の構造を考えた。
>それが言語ゲームだ。
今は言語ゲームは問題にしていない。
>人間の認識の範囲の問題ではなく、そういいたければ、認識と言語の乖離の問題だ。
「探究」の一解釈として成り立つがそれを今問題にしているわけではない。
>君が少しでも哲学の不毛性に気が付くことを期待してる。
そんなの期待してどうなるw 哲学は俺の考えでは単に生き方の問題だ。
西洋哲学の終焉なんてハイデガーも言っている。
>ヴィトゲンシュタインの「私」は、哲学に表れる言葉としての「私」だ。
>フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。
>これが無関係ということでもあり
「フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。」
ここ完全に間違いな。フッサールは、純粋自我は死なない、と述べている。
肉体と同時に死ぬようなものではない。
かつこれでは、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
の説明にはなっていない。
真逆というからには、ヴィトゲンは主体は世界に属している、と述べていたと証明
しなければならない。 >>195
>言語分析からはいりながら世界の限界として私を理解していくのか
ヴィトゲンシュタインは、「私を理解」しようなどとはしていない。
だから、君の理解は見当違いだと指摘している。
>「なにが語れないのか」、を語ると言う点で
そんなことは語っていない。
哲学で語られていることを否定しているだけだ。
>現象学とヴィトゲンシュタインを私を視点として比較した例
比較できる対象ではないと指摘している。
>俺には君の方が何一つ説明できていないと見える
なにを説明して欲しいんだ?
>永井のほうが遥かに明確に定義できているようには見える
具体的に並べてみせてくれ。 >>196
>西洋哲学の終焉
そんなことを言ってるんじゃない。
哲学は言葉の遊びだと言っている。
ドゥルーズがヴィトゲンシュタインを「哲学の暗殺者」と評したとおりだ。
>真逆というからには、ヴィトゲンは主体は世界に属している、と述べていたと証明しなければならない
あまりバカなことは言わないように。
正方向にも逆方向にも、基準がある。
どの基準での正逆であるかを十分に説明した。 >>196
ひとつレスを忘れてたw
>完全に間違い
フッサールの純粋自我というのは、人間に備わった肉体的な特性といったようなもの。
死ぬとか死なないとかいう個人の問題でないのは明白。 >>197
>ヴィトゲンシュタインは、「私を理解」しようなどとはしていない。
言葉尻をとらえて攻撃しているだけだな。
「私の把握」という意味で捉えたらいい。
>そんなことは語っていない。
>哲学で語られていることを否定しているだけだ。
これは俺と理解の仕方が違う。
>比較できる対象ではないと指摘している。
これも俺と理解の仕方が違う。哲学者が「私」をどうとらえたか、
これは比較できる。当然、私の内実が違うことはある。
>なにを説明して欲しいんだ?
今はヴィトゲンの件だろな。哲学終焉の件も。だが、どうやら無意味に
思えてきたな。
じゃあ、これを聞こう。君にとって、哲学とは何だ?
>具体的に並べてみせてくれ。
何を具体的に?w 永井の本の解説せなあかんの。やなこった。
ずっと納得のいく説明しているってので十分。これは当たり前のことだぞ。 >>198
>哲学は言葉の遊びだと言っている。
だからどーした。
>どの基準での正逆であるかを十分に説明した。
それは、俺がヴィトゲンの私をフッサールの私と同類だと把握している
と「誤解」した上での、逆ってことだけだな。
おそらく。
もしもそうなら、いくらなんでも説明の仕方が乱暴すぎる。
君は、最初、「むしろ逆だ」としか書いていない。
>フッサールの純粋自我というのは、人間に備わった肉体的な特性といったようなもの。
フッサールは純粋自我を肉体的な特性として理解していない、ってことだよ。
純粋、という言葉にこだわるように。 >>200
>君にとって、哲学とは何だ?
言葉の遊びだ。
その点はヴィトゲンシュタインと同じだ。
フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインによって、哲学は現実の解明に解体、移行した。
>これは当たり前のことだぞ
当たり前ではないから、ヴィトゲンシュタインは言葉の遊びだとして哲学を解体した。
永井はその哲学をヴィトゲンシュタインの中で復活させるという、おかしなことをやっている。
その他のことは、君がヴィトゲンシュタインに興味を持ってからにしよう。 >>201
フッサールのことなので、ひとつだけ。
>純粋自我を肉体的な特性として理解していない
それだとフッサールは幽霊の存在を認めていることになるw 元をたどると、
俺が、191さんの、超越論的自我と本質直観の問題にたいして、レスしていた
だけのところに、
いきなり別人だとも名乗ることもなく(それが失礼だが)、
その文脈でFWがレスしてきたってだけだな。
フォイエルバッハだのヴィトゲンだの
あげて、まあ哲学の不毛性をいいたいだけなのだろうが。
ヴィトゲンの件も、もともとは、フッサールの私の把握と、ヴィトゲンの私の把握
の違いで、ヴィトゲンのアプローチのほうが共感できるってだけのコメントだったが。
そりゃあ、純粋自我が問題だったからね。
かみついてきたうえに、
まったく今は関係のない言語ゲームの話にどうももっていきたがっているように見える。 >>202
>言葉の遊びだ。
じゃあ勝手に遊んでおけ。俺は相手にしきれんが。
>永井はその哲学をヴィトゲンシュタインの中で復活させるという、おかしなことをやっている。
君は遊んでおけばよろしい。
>それだとフッサールは幽霊の存在を認めていることになるw
それはまた、えらく飛躍のある論理展開だ。
どうして、幽霊がいきなりでてくるの? 肉体に依存しない純粋な私と、
幽霊との関係性は? フッサールは幽霊をどう定義しているの?
フッサールが幽霊について言及していないなら、どのようにしてつながるの?w >>205
>フッサールは、純粋自我は死なない、と述べている。
>肉体と同時に死ぬようなものではない。
>肉体に依存しない純粋な私
これが幽霊じゃなくてなんなんだよw
君としては、二人を相手にしたので集中できなかったのかも知れない。
気の毒になってきたから、もうやめる。 デカルトの「超越論的主観(コギト)」が純粋な“精神”であるという論理から、“心身二元論”が創出しており、
哲学はデカルト以来ヨ−ロッパに於いて「主客の一致」はあるのかという重大な『謎』が提出されてきた。
ここから、バ−クリ−やヒュ−ムの徹底的独我論(世界の現実存在の想定は、まったく無根拠)のような考えや、またこれに対抗して
カントの「物自体(世界それ自体は人間には認識できない)」などの議論が現れた。
上記の問題点は、デカルトが超越論的主観(コギト)を“純粋な精神だけが主観を構成する”と定義したからであり、
この“純粋な精神である主観”を基底とすることにより、心身二元論が創出している。
これからの哲学の方向として、超越論的主観(コギト)が“心身合一”したものとして存在しているという論理は、
メルロ=ポンティの「精神と物質、あるいは、心と体は二つの異質な実体ではなく、むしろ二つ異なった水準の“ゲシュタルト”に
他ならない。」と述べている様に、 思惟・思考する以前に、我々の“心と体”は“心身合一”したものである訳です。
この様な存在への捉え方は、ハイデガ−に於ける「現存在」の概念にも見られる。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
WOGS0 近代哲学の父といわれるデカルトから始まる“心身二元論”が、いろいろな意味において、
現代の民主主義の理念、そして、機械論的世界観から現代科学の基盤となっている論理実証主義を創出し、
今日の物質的科学文明へと至っている。
フッサ−ルは、デカルト哲学を真摯に継承し、深く論究して新しい現象学を確立した。そして、デカルト哲学の
良い面と悪い面の分析の中から、『ヨ−ロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を著し、西洋文明に警鐘を鳴らしている。 3月からコメント無しなのか。2ちゃん、ごちゃんか、も廃れたな。 心身といってもルーツが違うから、合一という感覚的なものでもないと思うが。 二元だけなのかな?それでは構造が簡単すぎるでしょう。 そもその人間と言ったら肉体も継ぎ物で分割されるが、心は一単位の様な気がして
心身と合わせるのにはどうも抵抗があるな。 独我論とちか世界を認識でいないとかくらいネガティヴな議論が続くけど、
外部の知覚が人間に発生している以上どうしても人間は世界を認識できそうだぞ
ということになってくると思う。 外部他社の認識を人間は使っているのであってそれを、重ねて
人間は表象し合うのではないですか? 人が認識されなければ世界はないのだから、人の認識が世界なんだろ? >>217
客観的な世界は人がいてもいなくても存在するよw 1(ひと)が認識されなければ世界はないのだから、1(ひと)の認識が世界なんだろ? >>219
その人にとってはねw
主観と客観を混同してる。 >その人にとってはねw
1(ひと)の認識の前に1(ひと)を想定して、その1(ひと)が1(ひと)を認識する
と考えて、それを主観と呼ぶのは、1(ひと)が認識される前に1(ひと)が既に
認識されているとする矛盾ですよ? >>221
バカだねえ・・・
存在は本質に先立つ。
これがすべてだよ。 To recognize one is the world itself >>223
ほんとにバカだねえ・・・
英語で書けば真実になるなら、英米人のいうことはみんな正しくなるw
One recognition forms one subjectivity within the recognized range.
Even if expressed in the word "world", it is simply expressing subjectivity by the word "world". How one is recognized is how the world is. >>224
悪いが英単語を使っているだけで英語になっていない The world changes in accordance with how one is recognized. 学校の英作文でいい点数をもらって勘違いしたまま大人になってしまったのだろうか。 英語のネイティブが決して書かないような奇妙な英語を書くにしても、
やはりそれなりの技法が必要なのだ。 >>224
ゲンロン芸人が英語で作文をするとそういう英文もどきが出来上がる。
批判的な立場からであっても、英語のネイティブがクリシェやバナリティではない
英文で反論するのなら大いに歓迎するけどね。 >>226
それは申し訳ない。
じゃあ、英語で書くのはやめとくよw >>225
それは認識の問題であって、世界の問題ではない。
>>227
目の前にあるコップに動けと念じると、コップが動くとでも?
頭おかしいだろw >>230
日本の5chなんだから、英語のネイティブはめったにいないだろ?
なにを期待してるんだよ?w
あたま大丈夫か? フッサールの説明で、「カッコに入れる」て表現使うやつの解説は信じてない >>234
いい説明だと思うけどな。
エポケーなんてそんなもんだろ。 >>234
あー、なんかわかる気がする
判断保留でいいのにな。
というか、最初にそう表現した人の表現をまんま思考停止して使ってる感じは哲学放棄みたいな感じだしな >>236
判断保留というのは、哲学も一時放棄しないとダメだろ。
ただし、捨て去るのではなく、横に置いておく。
「カッコに入れる」というのは、適切な説明だと思うけどな。 例えば
・地球は丸い
という命題があったとしてエポケーはそれを
・(地球は丸い)と我々は思っている
・注意深い観察に基づけば(地球は丸い)ものとして我々に現れる
のように無条件に断定されない命題として捉えておく
みたいなことだと思っている >>238
「地球は丸い」というのは現象ではなく、知識だから、エポケーの例としてはふさわしくないかも知れない。 基礎付けできなかったのだから現象学は失敗だったのにいまだに影響力があるのはなぜですか フッサールの希望した状況が、「根源を見つけること」であるなら
たしかにそれが達成されることは、今後も無いだろう
しかしそれでも、およそ他の学問に影響を持ちえる"哲学”は現象学だけだ
概念分析やら科学哲学なんかは、科学に対して全く影響力が無い
可能性すら無い
もちろん、それら自体は学問であって、十分に面白いわけだが >>242
他の学問というのは自然科学のこと?
どんな影響を与えているの?
社会科学系なら、ヘーゲルやマルクスは多大な影響を与えていると思うけど。 自然科学だよ
科学によって圧倒的に構成されてしまう『世界』に対して
それを根底から批判できるのは、哲学ではいまのところ現象学だけだから >>245
実際に批判されているかどうかについては、私は知らない
まあ、ほとんどされていないだろ >>247
たとえば>>238がぶつぶつ言ってるけど
現象学は、「地球は丸い」ことの是非について語るわけではない
現象学は、「意識に於いて地球はどのように現象しているのか」
を「批判」するもの
現代の教養人は「電流は電子の流れ」であることを悩んだりしない
理由は2つ
一つは、とりあえずそこを踏まえないと前に進めないから
もう一つは、「理解すること」が世界を構成する源泉であるために
理解する人は、理解されたことをもはや疑う気にならないから
フッサールは、そもそも物理学を修め、それでも尚、自分の見た景色はしかし
「世界の本当ではない」ことが見えた人間なのだ
そもそも電流とは何か、電子とは何か
電流とは電流というシンボルを巡る諸々から構成された「謎のX」につける仮の名前
これがこのように意識に現れるの理由は謎であって、未だ必然ではない
その謎を必然とするために、「自明であると思われることに批判を加える手段」として
フッサールが建設したのが現象学
お尋ねの「批判できると思う根拠」はね
電子とか電波とか重力とか
そういうものが「実体としてある」ことが、そもそも主観的現象であることは
現象学によって批判的、学的に自覚することが可能だからだ
なぜそんなものを自覚する必要があるのか
そういう自覚がなければ我々は、ただバーチャルに浮かんでいるだけの存在になるから >>248
言っちゃなんだが、それだとただの心理学じゃない?
客観的な存在が主観によって左右されるとするなら、オカルトだし。
前者がメルロ=ポンティで、後者がハイデガー・・・ >>249
その「前者」とは何を指しているのかね? >>250
「ただの心理学」
いくらなんでも、そのくらいの日本語は理解して欲しいと思うが。 そもそも心理学というのは
心に起因する被験者の振る舞いまたは報告内容を、
世界の中の出来事の一つとして扱い、分類または解釈する
そのような学問だろ
現象学というのは、そのような心理学が、人間に発生するのはそもそもいかなる事態なのか
を吟味する行為
ただの心理学ではないだろ 客観的な存在>>249と君は言うが
たとえば君は電子という実体が客観的に存在すると思っているのかね >>252
心理学というのは、あらゆる対象と個人との心理的な関係を解明しようとする学問。
その対象には、物質的な存在だけではなく、自分自身の心や共同性としての心も含まれる。
心を追究する自分の心自体の揺れを含めて、対象と人間の関係を追究したのがメルロ=ポンティ。 >>253
違うというなら、ハイデガーの「存在」概念を明示してみてくれ。 >>254
電子であれ、クォークであれ、なにごとかの客観的存在であって、人間の心が生み出したものではない。 >>255
だから、それらを「世界の中の出来事の一つとして」扱っているわけだろ
それをフッサールは、自然主義的な世界定立と批判するわけだ
現象学というのは、心理学に於けるような諸々の意味が構成される場面に立ち会う
その努力というか、態度変更のことだろ >>257
何も無いところから心が電子生み出した、などとは現象学といえども言わないわけだ
こういうことだ
電子を直接に見た人間などいない、いないが
雷のような自然現象と、プラスチックをこするとほこりを吸着する現象
これら関係ない現象が、電荷という仮想実体を想定することで合理的に連結される
さらに電荷の”正体”は何か、と人間は考える
だが、実際にあるのは、観測され得る現象相互間の関数的な関係だけ、だ
そこから先は、人間がどうしようもなく作ってしまった虚構
ならばその虚構の構造を批判しましょう、とそういうことだよ >>258
>自然主義的な世界定立と批判
それ以外に世界を設定するなら、それはオカルト。
>諸々の意味が構成される場面に立ち会うその努力というか、態度変更
そんなことは優秀な学者や知識人は皆やってる。
メルロ=ポンティの場合は、さらにその前提となる自分自身の心理の揺れを客観的に捉えようとした。
いずれにしても、客観的存在の自然性を前提にしない限り、それはオカルトだ。 >>259
見えない現象でも、可視化されてきているのが現代の自然科学。
虚構に陥るのは、人間の主観と自然的な客観を混同するオカルト的な精神による。 ハイデガーの「存在」概念
人間(現存在)が、「存在者が存在者としてあることがいかなることであるか」と問うことは
存在者と存在者ならざる『存在』との間に差異を見ている(存在論的差異)
これのことか
何がオカルトなのかね >>260
君の言う「オカルト」の意味がよく分からない >>261
可視化されるのは、どうしてだと思う?
それは、「現象を細工しているから』だろ >>262-263
どう見てもオカルトだろ。
「存在」という存在しないものを設定してるだけなんだから。
オカルトというのは、人間の想像(思考)に過ぎないものを実在として見てしまうこと。 >>264
加工ではなく、いわばただの拡大と捕捉だ。 >>265
それは単に君が、自分の気に入るものだけが存在すると思っている
それだけのことだよ
ためしてみるか?
君の言うように、人間の思考に過ぎないものを実在として見てしまうことがオカルトだ、として
では「エネルギーは実在する」と言ったらオカルトなのかね >>266
電子をどうやって拡大するのかね?
回折か?イオン化作用か?光電効果か?
所詮は、現象に合うような虚構を構成してるだけなんだよ >>267
エネルギーは実在するに決まってるだろw
電子は捕捉できるしw
自然科学系にこれほど無知なのは、よほどの老人だからだろうな。
さすがにフッサールが気の毒になってきた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています