ニートの私と哲学の話をしよう [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
殺意とは怒りにより相手をこの世から無くしたいと言う
気持ち。それは脳のシナプスによりその部分への
直結回線が繋がりやすい。それは極動物的で
自然的ともとれる。決して人を殺すことは間違ってはいない
動物的に考えるとね。しかし我々は理性がある愛情もある
なら自然界の動物には愛情はないのだろうか?
あるよね。しつけも親がするし面倒もみる
我々のルールは動物より厳しいんだ。それは何故?
人は人を殺しやすいのではないだろうか?
それは一方的に相手を殺せる武器をもっているからだとおもう
ゆえ防御本能の強い個体は反発する。それはただの自己防衛に
言論をつかって同意を求めてるに過ぎない。
同意しても本人が殺されても同意したやつらは君を助けないし
助けられない。君のために命投げ出す人は少ない
それを理解すれば家族がどういうものか見えてくる リンチやケンカ暴言やイジメ
動物よりバリエーションが多い
より複雑により優位により洗練されてきている
故意と自発的は既に区別されていてそれは
刑期にでてるよ。 論理と言うものは真理から導きだすもので
真理を知るためには悟る必要性がある
論理から真理は導きだせない。
それは摂理の無視にあたるからだ中身や基本をしらずして作った
論理など紙屑だ >>110
知性のかけらもないクズはママでもしゃぶってろ 連中のコミュニケーションをよく観察してみるといい。
ほぼ次の5つのモードの間で切り換えをしているだけ。
@相手を誘導するためのポジション・トーク
A「はあ、なるほどぉ〜」とご意見を伺う姿勢を見せて、
謙虚さを装う受け流し
B命令すること
C禁止すること
D威嚇すること
E黙秘すること
相手との対話だけは絶対に回避する。 そんな最中、私は新しい呪文を覚えたよ。メラチン。
宗教における呪文、念仏は効果があるのだろうか。 >>108 >>109
たしかに、人間と動物という軸は有効かもしれない。108の方が「シナプスから各器官への直結回路」に言及されているが、ここでのシナプスからの信号発信を「殺意」とするならば、殺意とは、言われるように、全く動物的なものかもしれない。 しかし、一般的には、「殺意」は人間的な感情と捉えられており、裁判の場などでも殺意の有無が焦点となることがある。 また、自分の遺伝子を最大限に保存しようとする生物の自然な欲求から考えれば、自らの遺伝子を有さない全くの他人を殺害するのは、たしかにむしろ自然とまでいえる。
しかし、親殺しはまだしも、子どもを殺すという行為は説明がつかないのではないだろうか。 >>110
なるほど、真理>論理というわけだな。
真理は「悟る」必要があるもので、「摂理」とも関わるということだが、この真理は啓示や黙示などの宗教的真理だと理解してもよろしいか? >>112
これは、ここでの議論に対する反論ということでよろしいかな? 「ニート」という言葉の使用を嫌う方がいるのだが、これは別に他人に向けてのものではなく、自分の謙称・蔑称なのだが、それでもダメか?
俺はNEET以外の何者でもないのだがwwww 私の個人的に知っている大学教授は、学生に対してはB〜Eが専門だったが。 >>114
宗教における呪文、念仏の効果か…
これは、言葉の「効果」という問題に関わるな。発話と行為の関係ということでいうと、ある発話がそのままある行為となる「発話内行為」、発話「によって」ある行為をなす「発話媒介行為」という区別がある。 例えを出せば、「リンゴとは赤くて丸い果実である」と発言するとき、この発話をもって「リンゴの定義づけ」という行為が同時に成立している。対して、「お腹すいたね?」と飲食店を見ながら発言したとき、空腹かどうかを相手に
確認している以上に、その店に入ろうという「提案」が含意されている。 前者が発話内行為、後者が発話媒介行為だ。この区別を用いて考えると、宗教的呪文や念仏は「それ行うこと自体に意味がある」という宗教的要請に基づいて、宗教的な意味での発話内行為がなされているといえる。 言葉の「効果」というものをどのように捉えるかによるので難しいが、宗教的な発話内行為がなされているという意味での「効果」というものは考えられるのではないだろうか。 >>100-106
社会的要請ですね。
基礎になるのは道徳心。
論理が道徳心よりも重要視されるようになれば、
「殺意」に関する部分が削除されることもあり得るようですね。
もちろん、可能性だけですが。
もしくは「罪を償う」文化が廃れ、「罪を罰する」文化が強くなればあるいは…
>>108
私は、殺意って攻撃性と同じく生得的な部分も含んでいると思います。
表面に出過ぎて実行する人やその可能性が高い人はサイコパス等と呼ばれるかもしれませんが。
私が子供の頃には、虫1匹殺したことの無い子はいなかった。今は虫が少ないからわかりません。でも子供は残酷だなんていう言葉があるように、殺意っていうのはDNAに刻まれているんじゃないかな。
それが自然的というのであれば同意見になるのかもしれません。
一方的に人を殺せる道具を使えるから、人は人を殺しやすいあたりまでは理解できるのですが、
残念ながらそれ以降の文章が、私には理解できません。
もう少し詳しく意見を聞き、討論してみたいです。
>>110
真理とは何か?
それも結局、仮説でしかありません。
まぁ宗教家の方には理解できないでしょうが。
論理から真理を導き出せない?論理は仮説の説明でしかない。
昔の地動説、エーテルと同じく真理が存在しなければ、論理だってその時代による常識と事実でできているのだから。時代が変われば論理も変わる。それは皆わかっていることですよ。
まぁ仮説を紙くずだというならば、真理も紙くずなのでしょう。 先に書いたことでもあるが、生物の究極的な目的は自らの遺伝子を遺すことであって、人間もその例外ではない。自らの遺伝子を淘汰圧によって消されないようにするためには、競争相手の存在を抹消してしまえば良い。 こう考えると、人間が他者を殺害する行為は生物的にはむしろ自然で、殺意がDNAに刻み込まれているとすら言うこともたしかに出来るかもしれない。
しかし、親による子供の殺害については説明がつかない。 自らの遺伝子を分け与えた実子を殺害するという行為は、自らの遺伝子を最大限保存しようとする生物の本質からみて完全に矛盾している。
親の子殺しはあらゆる生物にみられる現象であるが、そのメカニズムはどうなっているのだろうか。 >>129
「遺伝子を残すこと」これは今の一般常識的な目的に過ぎないのです。
これからは「文化」を残すことなのかもしれませんよ。
人という生物ではなくても良くなる可能性もあります。 Twitterを読むときも、どのモードで発言しているか、
なにについて決して発言しないのか、よく観察してみることだね。
@相手を誘導するためのポジション・トーク
A「はあ、なるほどぉ〜」とご意見を伺う姿勢を見せて、
謙虚さを装う受け流し
B命令すること
C禁止すること
D威嚇すること
E黙秘すること 集団で共感しあうポジション・トークは、いずれの立場をとるにせよ、
サイコパス的になっていく。自らの思考/試行が辿った自省を道筋を示さ
ないポジション・トークのTweetなど読むに値しない。
自分の現実を親のせいにするのは筋違いです。自分をダメにしない事もできたのだから。私の親はよい親ではなかったけど自分さえしっかりしていれば大丈夫です。子育ては重要ですがすべてではない。親に恵まない人いると思うけどすべては自分次第です。 この世の中、親があろうとなかろうと、クリーン・スレートで生まれ育つ人間
なんて1人もいないんですよ。既得権益であれ、負の遺産であれ、しがらみ
であれ、いろいろ背負って生まれ育つ。劣等感と優越感のどちらが原動力に
なるにしても、目先の自分に有利なことばかり追い求めている人間は、結局
のところ、他人に都合よく利用される人生を送る。一人ひとりが自分の行い
いを正すことによって自由になろうと努める他ない。 「私はいつか死ぬ」は大きな哲学のバネとなるでしょう。しかしねえ、異常な
意見を言わせてもらうと、有ると無いは死より大きいバネだと思う。
私にとってそれは無いかもしれない、かもしれない、、、は生きる力となるでしょう。 神の存在証明というものが哲学史のなかで度々行われてきた。神の存在証明は、「神はいるか、いないか」という問いを発端として、前者の立場から神の存在を証示していく営みである。まずはこの「神はいるか、いないか」という問いについて考えたい。 >>136
発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 「いる」「いない」という述語を我々が与えるのは、人間や動物に対してである。「A氏がいる」「猫がいる」こうした言明が可能だ。つまり「ある・ない」という語は、我々がその存在を確固として認識している存在者に対して与えられる語である。 そうだとすれば、そもそも、神は「いる」のか、「いない」のか、という問いを立てることは可能なのであろうか。「いる」を「存在」という語に置きかえて、「神は存在するのか」という形に問いを変形させても事情は同じである。 神は「いる」のか「いない」のか、という問いを立てた瞬間に、我々は日常的に「いる」「いない」という述語を与えられるような存在者を基準にしており、神が何らかの意味で「存在する」とすればどのように「存在する」かがわからない以上、 この問いは一つの独断の上に立っているという意味で不完全である。ちなみに、いま神が「存在する」という括弧つきの表現をしたが、これは、存在するという語を通常の意味で使用すると、それがまさにここでいま私が述べている誤謬につながるからである。 神に「いる・いない」や「存在」という語をあてることはできないのだが、しかし神の何らかの「存在性」を示す語を用いなければそもそも問いが立てられない。神の何らかの「存在性」を示す語彙を我々が有しない以上、必然的にアポリアに陥らざるを得ないのである。 神もアニメのキャラも人が作り出した物。
存在しないといったところで、居て欲しい人には受け入れられない。
また、その存在を信じている時間が長ければ長くなるほど、人は否定を受け入れられなくなる。
存在するのかしないのかという問題には、どこに存在するのかという変化を与えてみよう。
神を信じる人の頭の中にいることになるだけだ。もちろん、神を信じない人の頭の中にはいないさね。 私が言っている「在る」と「無い」は、なにも神とかUFOのことでなく、
ごく、ありふれた目の前の机とか、その壁とかである。
私にとってそれは無いかもしれない、、、ということですね。
日本では「私にとって」「その人にとって、、、」という言葉は成立せずに、
唯一「みんなにとって」だけの世界なのです。 在る、とか無いで言うと無いのだろうな
ただ、道具主義的に考えるとそれが役に立つなら神も仏もアニメキャラも
否定する必要はない
宗教観は各人が各様にもつ私的な観念だから 有ると無いは、宗教とは何の関係もない。哲学の初歩であり、哲学そのもの
である。デカルトが落とした種は世界中を充満してしまった。
ただ、一つの国家だけは例外であった。それは大日本人です。日本民族は
みんなの、みんなで、みんなに、みんなを、、、、すべて集団とする。
俺は否定したのではない。「俺にとって無いかもしれない」といっただけ。
それは、あるかもしれないを含む。 >>79
人の目に付きやすくする行為は、アラシをする人間を呼び込ませやすい行為。
この観点から、age進行する者もまたアラシと認定される恐れが高まる。
だけど、ageていようがsageていようが専ブラ使ってたらあまり違いがないのが現実だろうな。
HN付けているので、俺も名乗ってみた。
今頃入ってきたので、話の流れがどうなっているのか、まだわからないけど、
なんかあったら話し合ってみたいからね。よろしく。 >>133
あなたはこのスレで、どのポジションで発話しているのか? 死について
生きている俺たちが死を考えるわけだけど、この俺たち自身は「自らの死」を経験していない。
経験しているのは「他者の死」だけだ。
そして、その他者の死は、その者がさまざまなレベルで表現できていないという形で俺たちに観られる、感じられる。
ただこれだけだ。
その死者自身が何らかの表現をしているか、表現したがっているかどうか、つまり意思表明能力を発揮している/しようとしているのかを、俺たちは知ること/感じるができない。
このような思考をした上で、表現という観点から次のような事態が想定できる。
1.他人の表現を理解できる。自らの表現が他人に理解される
2.他人の表現を理解できる。自らの表現が他人に理解されない
3.他人の表現を理解できない。自らの表現が他人に理解される
4.他人の表現を理解できない。自らの表現が他人に理解されない
5.他者の表現を理解できない。自ら表現できない。
1はいわゆる「生きている」状態。
5が「死んでる」。
2から4が意思疎通障害を起こしている。
こんな風に分類できると思うんだけど。 >>154 一部訂正
誤> 3.他人の表現を理解できない。自らの表現が他人に理解される
誤> 4.他人の表現を理解できない。自らの表現が他人に理解されない
3.他人の表現を理解できない。自らの表現が他人に認知される
4.他人の表現を理解できない。自らの表現が他人に認知されない
4も死と判定される可能性がある。
脳死うんぬんが知られる以前の時代にはよくあったことだろう。
しかし、これって地獄の苦しみだろうな。
ポーの『早すぎた埋葬』パターンだ。 自己言及のパラドックスのパラドックス
「私は嘘つきである」は、確かに成立しないが
「私は良く嘘をつく」は、成立する
〜は、= 〜であるという式を、〜は= であり〜 and 〜でもあるとしたら
むしろ、パラドックスを起こすことそのものが難しくなる
パラドックスの矛盾を現実的に考えても、いつも嘘をついていたら
全ての発言が信用されなくなってしまい
そいつが言ったことは常に間違ってると言うことになって
正直者と同様となるが人を欺くという嘘の本質から離れてしまうので
これは嘘とは呼べまい
一般的に、常に逆のことを言う人=嘘つきではないハズで
嘘つきというのは、嘘を付くが偶に、(and) ホントのことも言うからこそ
(=)嘘つきなのだ ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています