意味論 [無断転載禁止]©2ch.net
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おおー、意味論のスレだー。
最近いろいろと意味論がひっかかってきたところなので。
いったい「意味論」ってなんなのか、そもそも「意味」ってどーいう意味なんだw Wikipediaなど参照してみると
4.意味論が対象とするものである「意味」
などと書いてあって意味をなさないw
意味論的対象とは何か。そこからはじめねばならないのだろうか? それはおもしろい。すごくおもしろい。
「頭の中」という「意味」は先送りすることにして、
「頭の外」にある意味を探しに行こうではないか。 書いていたら長くなったのでズバッと省略。
意味とは値ではない。対象と値との間の関係である。
値といってわざわざ区別する必要もなく、対象と対象との間の関係である。
対象が同じものであれば自分自身への関係であり、アイデンティティという意味である。
関係=意味、だとすれば、そこにでてくる「=」も意味である。この文と関係=意味という関係も意味である。
意味論の意味がみえてきた気がする。あくまでも気がするだけなので信じないように。 要するに、意味論とは関数論のようなものなんだろ?
意味関数というのがあるくらいだから 関数論といってしまうと現在では複素解析になってしまうので「意味」が異なってしまう。
関数論に与えられるべき意味が複素解析に奪われてしまったw
関数とは「集合と写像」のことである。
そして、意味とは「射(圏論)」のことである。
そのように単純化して考えてみると、
圏論であらわされるいろいろなものが「意味」と呼べるものに見えてくる。
圏論=意味 といってもいいくらいだ。
よく考えると圏論とは数学言語であり、数学的に抽象化された「言語」である。
(対象より抽象度が高くなるように)言語で表されるもの=意味
とりあえず、これを「意味言語」と名付けてしまおう。
「意味言語」は(外部に)表出可能でなくともよい。
意味内容(=シニフィエ)の「(外部内部を問わない)表現」である。
そう考えてしまうと、そもそもの対象は最初から「意味表現」(=シニフィアン)である。
「記号」を「意味」に置き換えただけだw
表現された対象の意味とは、意味内容の表現である。
わざわざ「表現」とする「意味」はあるのか、といえば、「表現」できないと扱えないからだ、というしかない。
「抽象度が高くなる」方向に「意味」があるようだ。
エントロピー! 「意味論」とは、
数学的には「写像(と集合)」のことであり、
熱力学や情報論的には「エントロピー(を扱う表現)」のことであり、
量子論的には「(量子)表現論」のことである。
あ!
「意味論」=「表現論」でいいような気がしてきた。
意味とは表現のことである。(ただし、表出される必要はない)
限定すれば、意味とは内部表現のことである。 生命の意味論 言語の遺伝子 論考。
数学言語の方が始原になるわけだけど、日本語の脚のフリやけりも忘れないでね。 >>12
Kripke-Joyal semanticsですなー。
トポス内の数式に意味を与える。
トポス内に限らず、言語で表現されたらそれを「意味」そのものとみなしたい。
複数のスレにわたって考えながら書いてるのでどれがどれやら自分でもわからなくw
ええっと、圏論という言語を圏論そのもので捉える/捕らえると「トポス」内に展開できちゃうんだろうか?
意味論に限定されるだろうけど。
と、今日はなぜかM理論の本を図書館より借り出して来た。はたして意味論に結びつくか?
無理やりアリストテレス方面のトポスとくっつけってしまったほうが哲学的にはおもしろいかもしれない。
そっちも借りてくるべきだった。 そーいや『圏論による論理学―高階論理とトポス』を買ったのはもう10年近く前か。
掘り出して読みかえそう。 「トポス」はどこにあるのか。と思ったら閉店していた。
おれのイメージの中では「黄色」。初期カラーは黄色と黒だったようだ。
「トポス」がどこにあるか、ではなく、「トポス」にあるのだ。
すべての「意味」は「トポス」にある。その意味の集まりも「トポス」そのものでもある。
「トポス」は別次元にある。いちばん近い概念は...ドラえもんの4次元ポケットか。
現実的に存在する「トポス」とはブラックホールである。
もし、圏論の「トポス」になにかしらブラックホールと類似するものをみいだせれば...
と思って調べているのだが、圏論の本どこいったかなぁ。 カテゴリー論ってどの分野の「カテゴリー論」だろう。
「圏論」ってカテゴリーセオリーだから「カテゴリー論」そのまま。
意味とは行為である。すばらしい。気づかなかった。
表出されずに内部で表現されるだけでも「行為」だろう。
認知意味論も実は行為論ということなのかも。
いろいろ考えるとおもしろい。カテゴリー化に欠けていたのはアクションなのかも。
ま、「圏論」で考えれば「射」なんですけど、行為(論)の圏ってどんなんだろう。
昨夜、いろいろ書こうとしたがまとまらなかったので断念した。
それは「反応」と「意味」についてだったが、機械的な反応=機械的な行為だったのかも。機械的な意味論。 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで
詳しくはHPをご覧下さい。 いろいろなところいろいろなことに「意味」をみいだすことができる。
「意味」の「意味」とはなにか。哲学問題だ。
すくなくとも、「つながる/つなげる」ということがなければ「意味」をみいだせない。
「無意味(の)ネットワーク」であっても、つながっている以上、そこに「意味」ができる。
対象を無意味(無定義用語)としてランダムにつないでも、そこに意味ができてしまう。
つなぐということが「行為」であるなら、「行為論」になるのだろう。
自然につながっているのであれば、そこには「意味」がある。
しかし、つながっているということが「認識」であれば「認識行為」であり「行為論」に還元されるかもしれない。
「認知意味論」とは「認知行為論」なのだろうか?
「ある」ということを「あるのだからあるのだ」としても、それが「認知論」なのかそうでないのかは議論すべきところだ。
「認知」は避けて通れない。だからといってそれが万能でもない。
われわれが「認知」しているのではなく、「認知されている側」なのだと考えるのも悪くはない。
「存在」そのものが「知性」である。われわれはその「知性」に「認知されている」のだ。 「認知」とは「つながる」ということだ。
圏論でいえば「射」である。「対象」すらも「射」そのものだけで定義できる。
「射」そのものを主体とすればよいのかもしれない。
それに「変化(運動)」が加われば宇宙論にもなる。
「変化」も「射」としてとらえるなら、この世界には「射」しかない。 投企(とうき)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/投企-103267
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 投企の用語解説 - 企投ともいう。実存哲学の一概念。 M.ハイデガーの Entwurf,J.P.サルトルの projetの訳。人間が自己の存在へかかわる仕方で,人間はすでに事実として世界のうちに投げ出されている被投性において ... 「意味」とは「関係」のことであるが、
行動論から人間を排除すれば「もつれ」である。
「意味」とは、その内容に立ち入らなければ「もつれ」のことであろう。
「もつれ」が「意味」を生み出す。
「関係」も「もつれ」の一種ではあるが、そこのところがまだうまく取り込めていない。
そのへんは先送りして「もつれ」からスタートしたほうがよいのかもしれない。 「意味」とは何か?
哲学が「わたし」を中心とした宇宙であるなら、「意味」とは「煩悩」の異名である。
これを量子状態と考えるなら
ψ=|煩悩>+|意味>であろうか?
(まあ、ちょっと「意味」の意味をせばめてはいるがw)
一般的な「意味」や「煩悩」は、純状態の「意味」や「煩悩」の重ね合わせ状態である。
ψ=|実>+|虚>
としたほうがよいかもしれない。
これを「観測」したときに「意味」か「煩悩」にわかれる。
「意味」とは「関係」であると読み解くのなら、
さらに「関係」を「ネットワーク」と考えるのなら、
「意味」とは「実」ネットワークと「虚」ネットワークの混合である。 量子論的意味論。
この試みは単純に、「意味」とは「意味がある」か「意味がないか」の重ね合わせ状態である、
などと考えてもかまわないだろうw (この試みそのものの意味も含めての話だ) Up=P+¬Pである。
Pや¬Pをモナドのようなものと考える。モナドと同一視する。
UpはPの宇宙でありPのユニバースである。
PというモナドはユニバースUpと¬Pによって意味づけられる。
¬PはUpとPによって意味づけられ、UpはPと¬Pによって意味づけれる。
モナドは部分を持たない、ユニバースは部分しか持たない。
そして、モナドはユニバースとしても機能し、その場合ユニバースだったものはモナドになる。
ユニバースは反転したモナドなのかもしれない。 理性こそ、生命の頂点にたつ人類が獲得した最も価値あるものと言う根拠のない確信から
因果律に意味を付加して、そこに人格的意志が働いているに違いないと錯覚する 命題のもっとも単純なものを命題変数と同一視する。
命題変数Pがあったとすればそれ単独で命題であり、(みえない)命題式でもある。
Pが二値T/Fをとるとするなら、T/Fは意味である。なんらかの外部のものと接続されて意味となる。
T/Fそのものが外部にあると考える。
Pが一値であれば、それが外部のものと結びつけられ、ただひとつの意味を持つ。
ややや、二値論理以前に一値論理を考えなくてはならないのだろうか?
意味論としての外部を持たない一値論理。内部構造を持たない。
内部に意味は無い。
それが「有る/在る/ある」などという意味も持たない。意味は外部しかない。
それは。。。それは。。。他から認識されてしまうと意味を持ってしまう。
意味を持たないという意味論。認識する側の主体があっては成立しない。
無意味論では「無意味」という意味を持ってしまう。
絶対無意味などと表現したとしても、絶対無意味という意味を持ってしまう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています