意味論 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
× 意味は外部しかない ○ 意味は外部にしかない 「に」というところにすでに意味が与えられている。 意味とは関係のことであろう。 関係を断ち切ることで意味を断ち切れる。 そうすると「それ」は扱えない。 アクセス不能であり、アクセス不能であるという意味すらも持てないのであればアクセス不能であることすらもわからない。 真に意味を持たないということは「無意味」ですらなく、「意味を持たない」などという意味すらもわからない状態である。 それは。。。「対象」にできないということであり。。。 なにもできない。 残された唯一と思われる方法は。。。認識するものと認識されるものを分離して、 認識されないもの自身が認識者となることであろうか? 圏論における自己射は、哲学的につきつめると、外部に認識者がいなければ成り立たない。 「そんなことをしても『意味がない』」 そのような行為によっては目的を実現することができない、 「意図が達せられない」ということだろう。 意味を語る前に形式を考えて理を得てから内容を知るのが弁証法であり哲学 形や理では到達できないのが「意味」 よく使われる例えだが 「A」 アルファベットのAの頂点の角度や真ん中の線の位置や色明度をどれだけ精密に測定しても 決して「A」の意味を知ることは出来ない やや、昨夜は酔っていてさらにいろいろ書きかけたまま寝落ちしていたw 一値論理というありえないような論理を考えてみるのは楽しい。 いままで考えていなかったことが少しずつ見えてくる。 そもそも「一値」と語った時点で、それは「意味」なのだろう。 なにやらわからんけどとりあえず「値」を持つ。 値の意味はわからなくとも、値が「ある」ということそのものが「意味」になる。 そこに隠れているのは、それが「ある」と認識する「認識者」の存在だ。 認識者が意味をつくってしまうのだろうか。 認識者を排除して、「ある」という一値から考え直したい。 0値論理も考えてしまう。 その対象をPとすると、対象とすることで一値であるとすれば一値論理であり、 アクセス可能であっても値を返さないということをもって0値としてもよいだろう。 しかし、どちらも認識者あるいはアクセス者が存在してしまう。 これらは、外部に求めるのではなく、対象P自身に求めるべきなのだろう。 一値論理は自己同一性を持ち、 0値論理は自己同一性を持たない。 0値論理は(圏論的な)対象にはなれず、取り扱えないのか? これを取り扱うには。。。ユニバースを考えればよいのだとは思う。 単純にイメージすれば集合やクラスとして描かれる閉じた輪である。 0値論理にユニバースを与えたものが空集合であろう。 すべての集合に部分集合として存在する。 この部分集合というものが、意味論の(集合論的な方面からの)基礎になるのではないかと思っている。 空集合はひとつしかない。 その意味では自己同一性を持っている。 それでいて、すべての集合に部分集合としてしれっと存在している。 恣意的な意味ではなく、それ自身で意味を持っているものは空集合だけではないだろうか? なにがしかの恣意的な意味を与えようとしてもすべての意味を吸い込んでしまい、ただ空集合という意味しか持たない。 ライプニッツとは違うわけだが、とりあえず「モナド」として扱う。 このモナドは外部しかもたないが、内部も持っているのだと拡張して考える。 この内部は、外部からアクセス不能であれば問題は生じないだろう。 われわれはモナドの中にいる。 その外部にあるモナドを実身とすれば、モナドの中にいるわれわれのセカイにあるモナドは射身または虚身であろう。 モナドの外のセカイにあるモナドを、モナドの中のセカイにいるわれわれがみている。 それは仮想現実ではなく、ひっくりかえして、現実仮想(現実としての仮想)だ。 訂正 その外部にあるモナド -> その外部にある他のモナド われわれがセカイがモナドの内部にあるとしたら、 意味もモナドの内部にある。 意味とは虚身にみいだされるものであって、 実身を直接に取り扱うものではない。それは不可能だ。 我々が扱えるのは虚身だけである。 「存在」するということを自己同一性に求めるのであれば。 そして、モナドが「存在」するものであるならば。 モナドは自己同一性を持たねばならない。 モナドは殻を持つ。自己同一性という殻である。 本家モナドがどうなっているかは、調べないとわからないが、そう考えるのもおもしろい。 モナドから「意味」へはどうやればたどり着けるのか、と考える。 「自己同一性」というものが、もっとも基本的な「意味」なのかもしれない。 この「自己同一性」が「意味」であれば、モナドの外部にある。 外にでて戻ってくる「射」である。 行って戻ってくるというのは「物語」であり、 もしかすると、「意味論」とは「物語論」なのかもしれない。 形式意味論であろうと生成意味論であろうと認知意味論であろうと、物語であり、 物語論的意味論という道もみえてくる。 意味論を物語論に読みかえれば、形式物語論、生成物語論、認知物語論などがあり... とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 UWGW1 いざなひにおいていざなぎといざなみはどちらが先なのか おき(燠) latency, lying dormant おこ(起/興/熾)す activate ― 使役 おこ(起/興/熾)る erupt, become active, start acting おこたる(古語:病状が改善する) subside≒drop acting おこな(行)ふ enact ― 再帰形 おこた(怠)る fail to act≒drop acting >>51 >おき(燠) latency, lying dormant ここで、"latency, lying dormant"としたのは「おき(燠)」という語に 伴うイメージであって、「おき(燠)」の語源的な意味ではない。 形から類推するなら、「おき(燠)」は、"activant"とでも表現する のが妥当だろう。火や炎を現象させていないことにおいて、 "latency, lying dormant"のイメージを伴っている。 https://kotobank.jp/word/ 熾火・燠火-219258 熾火・燠火 おきび 大辞林 第三版の解説 おきび【熾火・燠火】 @ 火勢が盛んで赤く熱した炭火。おこし火。おき。 「おき(熾)」はこの場合、「火勢が盛ん」なことを表すのに用いられている のだから、「おき(熾)」に"latency, lying dormant"のイメージが伴うとする のは矛盾であると思うのは考えが浅い。「おきび(熾火)」とは、この場合、 「activating fire(熱源として作用する火)」であり、火/炎が盛んであろうと なかろうと、「おき(熾)」には、熱による効果を発現させる潜在性の イメージが伴っている。 >>52 >デュナミスとエネルゲイア 「おき(燠)」に伴う"latency, lying dormant"のイメージと比較して 考えてみるために、「デュナミス」という表現を出したが、「デュナミス」 は、"activant, activating"などと解釈した日本語の「おき」に対応して いるわけではない。ギリシャ語の「dunamis」は、ラテン語で「potentia」 に翻訳されるように、日本語で考えるなら、「おき(る)」ではなく、 「でき(る)」に相当し、「能力」と訳されるとおり、「あた(能)ふ力」 である。「有能者」を指すのに「できる奴」という場合のように 「〜にあた(能)ふ力」があるという意味で、その力はまだ実現されておらず、 可能態、潜勢態としてイメージされる。 古代ギリシャ語の動詞、"δύναμαι"の用法を見ても、それが日本語の「あた(能)ふ」 に近いものであることが分る。 https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%B4%CF%8D%CE%BD%CE%B1%CE%BC%CE%B1%CE%B9 Verb δῠ́νᾰμαι • (dúnamai) (with infinitive) to be able, capable, strong enough to do (of moral possibility) to be able, to dare, to bear to do (with ὡς (hōs) and a superlative) as much as one can to pass for (of money) to be worth (of numbers) to be equivalent, to equal (of words) to signify, mean (as a mathematical term) to be the root of a square number, to be the side of a square (impersonal) it is possible, it can be 「ふる(振)ふ」も、言うまでもなく再帰形をしている。 このように少しでも意識すれば、日本語には再帰表現が極めて多いことに気づかされる。 「あた(能)ふ」とは、 http://www.wordreference.com/fren/etre%20a%20meme%20de être à même de faire [qch] (être capable de) be quite capable of doing 「〇〇には、〜することがあた(能/値)ふ」という性質が、〇〇の属性と見なされて 〇〇が主題とされること、つまり、「〇〇は、〜することができる」とされる ことが〇〇の主体化だろう。 日本語の表現について考え始めた当初、私は「〜あふ」という要素が再帰を 表現しているのではないかと推測していたが、今ではこの考えはまったく 不十分で不徹底だったと思っている。日本語では、再帰表現は、はるかに 広く用いられていると考えるのだ妥当だろう。むろん、「あ(合/会/遭...)ふ」 も再帰表現の一つであり、助動詞的に用いられている。 例えば、「い(言)ふ」は、「口にする」という動作を表す再帰表現であり、 「いひ(飯)」は、その名詞化として「口にするもの」を表す。さらに、 「い(言)ふ」という行為を表す動詞に加えて、やはり再帰形の動詞である 「あ(合)ふ」が助動詞的に相互性を表すように用いられて、 「い(言)ふ+あ(合)ふ」⇒「いは(祝)ふ」という表現が形成されている。 語源について論じると、根拠の薄弱な起源論を確実なものとして主張して いるという批判が出てくるが、どのように表現が形成されているのかを 推測するのに重要なのは起源論ではない。問題は、どのように表現要素 が用いられているかを可能な限り適確に推測し、記述することであり、 フランス語を用いるなら、どのような「adéquation」が行われている のかを見極めることである。 何らかの対象(モノではない)を指示するとすれば、 意味とはその対象である。 そのように考えてみる。 意味関数が対象の意味としての対象を返す。 意味関数の値が意味である。 この、2つの対象が同じクラスに属しているとすれば、それそのものであるかもしれないが、 同じクラスに属する他のモノかもしれない。 なんとなくおかしい。 ヤーコブソンのコミュニケーション図で考えるならばコンテクストなども必須だろう。 コンテクストによって意味が変わる。 記号というわけでもないが、シニフィアンがあり、意味としてシニフィエがあるとする。 シニフィアンをaddresser、シニフィエをaddresseeとみなせば、 context,message,contact,codeがある。 通常はmessegeがシニフィアンかもしれないが、切り離してしまうw そうすると、なんらかの意味を持つかもしれない対象からmessageが発せられることになる。 表現としての表記のようなものと、表現から発せられるmessageということだ。 addresseeを受信者ではなく「意味」であるとするならば、どこかに解釈者がいる。 messageは解釈者によってaddresserから抽出されるか、addresserに対して解釈者が付与する。 まあ、試論にすぎないが、このような読み替えがいろいろできる。 そもそものコミュニケーション図を対称的なものとし、それを入れ替えることでさまざまな応用ができそうだ。 addresseeが意味ではなく、messageを意味として図を変形させてもおもしろそうだ。 このような変形可能な形に書き換えることは不可能ではないかもしれない。 >>68 できることのadéquationにおいて我がある。 >>68-69 できることのadéquation、それが「あた(能/値/与)ふ」ことである。 「意味」は無い。 「意味」は与えるものである。 しかし、与えるものにも「意味」は無い。 この場合、「与える」ということに「意味」がある。 究極的な意味とは、「存在」なのかもしれない。 そうであっても「存在」に意味はなく、「存在」は、ただ、「存在」である。 そのように語ると「意味」ができてしまう。 結びつけること、すなわち「接続」こそが「意味」なのか? チャネル理論は本当に意味なのだろうか。 意味とは分断されたものの再接続なのかもしれない。 接続可能なものは、既に接続されているのであって、意味とは組み替えなのだろうか。 共変的量子場において意味は伝播する。組み替えの影響が伝播する。 みどりご - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/ みどりご みどりごとは?日本語表現辞典。 〔「新芽のような子」の意から。古くは「みどりこ」〕 生まれたばかりの子供。あかんぼう。 「いとけない−」 retoño - 小学館 西和中辞典 1 【植】芽、新芽 2 (主に幼い)息子 retoñar - 同上 1 <草木が>芽を吹く 2 《格式》よみがえる;再び現れる >>61 考える名無しさん2018/04/17(火) 12:59:51.550 https://kotobank.jp/word/ 熾火・燠火-219258 熾火・燠火 おきび Entre las ascuas de la vida ungara se cocian dos asuntos: el problema de la tierra, es decir, la reforma pendiente del sistema de latifundios, y el destino de los territorios y los pueblos amputados del cuerpo milenario de Hungaria por medio del Tratato de Paz de Trianon. Sandor Marai, "Lo que no quise decir", p.55 あらかねの地にしては、素戔嗚尊よりぞおこりける。ちはやぶる神代には、 歌の文字も定まらず、すなほにして、ことの心わきがたかりけらし。 人の世となりて、素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。 あらかねの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典 https://kobun.weblio.jp/content/ あらかね あらかねの意味。・名詞@採掘したままの、精錬していない金属。 A鉄。◇後に「あらがね」とも。 シャーンドル・マーライの著作のなかでは、「灼熱」という題名で訳された 作品だけがなぜか日本語に訳されて出版されている。作品自体、昔の退屈な 映画ドラマを思わせるような感じで、特に何も強い印象を受けず、凡庸な 作品だなと思ったが、ドイツ語版から翻訳された日本語版の日本語には、 まったく感心しなかった。それに対して、"Lo que no quise decir"の方は、 著作そのものが優れているが、原語のハンガリー語を知らない私にも、 とても優れた翻訳であることが分る。 「意味」が意味空間(または意味の場)における位置(あるいは値)であるとするならば、 その「意味」以外の可能性としての「意味」がある。 意味空間とは、テンソル積を考えなければ、対称性でもある。 より大きな対称性が破れることでうまれた対称性である。 そのように考えれば、「意味」は「対称性の破れ」によってうみだされる。 どの意味を取るのかは射影であり、それぞれの意味の世界があるとすれば多世界であり... 「=」が対称性における同値性をあらわすのだとすれば、 意味とは=でむすびつけられた同値性である。 命題の意味が真偽値であるとするなら、命題と真偽値には対称性がある。 とても興味深い。 問題は意味空間だ。認識論的な意味空間はどうにでもなるのでどうでもよいw 存在そのものが意味であり、もはや存在と意味の区別はつけられないのではないか。 と、くだらないことを考えてしまった。 意味とは同値であるということであり、 値そのものが意味というわけではない。 意味函数があるとしても、その値が意味なのではなく、 意味函数によって得られる値が同じになる、ということが意味である。 意味函数がひとつしかないとすれば、その値は情報であり、 意味函数そのものが情報函数であるということになる。。 情報意味論か。考える価値はありそうだ。 意味比較函数あるいは情報比較函数。 AssertEqual 同じ意味空間(情報空間)への写像がコミでないといけない。 となると、意味の(情報論的)な形式化が可能であり... そうなると、値としての「意味」も形式化可能だ! (情報論的に)「意味」を「理解」するAIがつくれる、ということ。 もうすこし考えを整理してから制作してみよう。 >>89 >意味とは同値である そんなわけないだろw より正確にいえば、 意味の意味とは意味函数の値が同値ということであり、 意味の評価は同値関係しかない。 意味函数の返す値が「意味」なのではなく、 同値関係ということから意味函数自身が「意味」であるとしてもよい。 これはチャネル理論を読みかえただけである。 やはり哲学には「圏論」が必要だ。 codomainが同じということが意味の意味であり、同じでなければそこに意味は無い。 これを「認知」と考えることで、人工認知意味論が...w ・意味の抽出 ・意味の比較 ・意味データベース 吟味中。 状況意味論ではなく、状態意味論あるいは状態認知意味論か。 ま、情報意味論でいいやw 同型あるいは準同型。ま、そのへんは圏論と相性がよい。 そもそも、圏論は数学における「意味」をあらわすものだともいえる。 「圏」とは、よーするに「同じ意味」だといっているわけだw そこで、逆転させて「意味(の意味)とは同じということである」としてみた。 対称(性)意味論でもいいかな。 ふふふん。 結局のところ、チャネル理論やChuSpaceでできることは全部、圏論でまかなえてしまう。 ただ、圏論は抽象的すぎてつまらない。 ま、意味論の周辺では、圏論を活用した研究がいろいろと精力的におこなわれている。 いろんな学会誌を探るべし。 だが、圏論を用いても、なにを「意味」とするのか。なかなか難しい。 「圏」なのか「自然変換」なのか、 「対象」なのか「射」なのか。 意味が同値性のことであるなら A⇔B C⇔D の意味を区別できないね はて? おれの考えている意味論(意味ネットワーク)だと区別できるが。 つーか、区別できるように繋がっている。 ノードとエッジ。よーするに点と線である。 点から必ず3本の線がでるようにして、全体を閉じる。 そうすると、すべての線はなんらかの対称性をあらわすものでもある。 この対称性が「意味」なのではないか。 そう考えれば、「意味」は(意味ネットワークにおける)「線」であり、それは「対称性の破れ」である。 そこにみえてくるのは4つめの「線」であり...こいつが曲者だ。 時間だったり重力だったり。へたするとループ量子重力時間理論が... われわれは、なんらかの表面上の世界にいる。ブラックホール的な何か。 これが無いと、意味ネットワークは収縮してしまう。 意味論がだんだん超対称性理論にみえてきた。 意味というものは、不変性に対する変換演算子と同一視できるのではないだろうか? 圏論的には函手間の射、すなわち自然変換が「意味」なのかもしれない。 意味論としての物理、意味論としての数学。 意味論としての哲学w 思弁的意味論。相関主義を徹底的に排除した意味論? そう考えていくと、圏論とは不変性を記述する言語である。 意味(の意味)とは「同じということ」、すなわち「不変性」。 とすれば、「意味」は「圏論」によって記述可能だ。 「実体」はなにもない、対象物間の射にすぎない。 ただし、下部構造には立ち入らない。上部構造のみを扱う。 「意味」とは、上部構造における「圏」が「等価」である、ということ。 いや、「意味」を「圏」とすれば、「意味」の「意味」が「等価である」ということだ。 数学における「存在」とは、自然数の公理と集合論の論理から定義できるもの「だけ」である。 そうすると、数学における「意味」とは、数学言語で表されるものだけであろう。 圏や関手や自然変換すらも、対象であるかぎりidentityを持つ。 数学的対象はidentityを持たねばならない。 哲学的圏論において、identityは対象自身が持つのか外部から与えられるのか、そのへんから違いが生じるの、かも、しれない。 それを「現象」とするとき、「現象」のidentityは「どこ」にあるのか。 数学的圏論が、対象や射から圏や関手や自然変換へとたどるのであれば、 哲学的圏論は、「現象」からその内部構造へとたどり、identityを求めるもの、でなければならない、のかもしれない。 そうなると、哲学は数学と逆方向であり、究極の「意味」とはidentityのことなのだろう。 identityを自己愛ととらえるなら、それは「煩悩」であり、(西洋)哲学は「煩悩学」であるw 「煩悩」と書いて「モナド」と読んでしまおう。 さて、意味論の意味は「煩悩」を暴くことで浄化するということではない。 今回の、今の宇宙で最長不倒距離(時間?)を目指すことであるw われわれは、そのような「競技」に参加している。それでいいのだ。 いろいろ考えたが、「意味」とは結局、「存在」のことである。 「存在」の有り方/在り方。 それは「対称性」。どのような/どのように、「対称性」を持つのかが「意味」である。 「意味」に先立って「必然性」がある。 「必然性」あるいは「必然的偶然」が生まれるのは「無秩序」ゆえである。 ざっと暴力的/短絡的につなげてしまって結論してしまうならば、 「意味」は「無秩序」からうみだされるw 「神の数式」を視聴しなおし中。 「無」とはなにか。 「無秩序」である。とりあえず、そのように考えてきたが、 「無限(大)」であってもよい。 「無」とは「(有の)すべて」である。 これを等価とすることで、すべてが解決できる? かもしれない。 意味論における究極の問いが「無」であれば、至高の問いは「すべて」であろうw これをつなげた超対称性から「意味」が紡ぎだされる。 意味のものさしはおもしろい形をしている。こいつが「大きさ・長さ」のようなものの根源ということになる。 であれば、これが「神の数式」であらわされていものの「はず」である。 「意味論」と「超弦理論」は「同じもの」である。 ひととおり考えてやっと「対称性・対称群」がつかめてきた。 これでエドワード・フレンケルが読める。「数学の大統一に挑む」。 書店でみつけて、ああこれは買ってあったはずだと気づいたが、部屋のどこにあるのか探しだせる自身がなかったので図書館から借り出してきた。 ラングランズ・プログラム。そうでなきゃエルランゲン・プログラム。 といっても、数学屋ではないので、これらには立ち向かわないw 哲学屋でもないので、哲学にも適用しない。 でもって、ちょいと番組表みてたら放送大学で日本語リテラシーやってたので録画。 「接続関係」。これも「対称群」である。そのように読み解ける。 「対称群」によって哲学を含めて文学から数学・物理などすべてが「大統一」できるだろう。 この「対称群」そのものの「(存在)理由」を探求することができるのは「哲学」だけだ。 「美しさ」を求めるのではなく、「美しさとはなにか」を求める。 哲学におけるすべての問いの根源は「美しさとはなにか」である。(ただし、思考者としての人間を前提としない) 「数学の大統一に挑む」(原題は Love and Math -- The Heart of Hidden Reality) を再読していて気づいた。 素粒子理論と、考えていた量子ゲートによる論理学・集合論の再構築との類似性。 こりゃー、ジョージ・レイコフの認知意味論(Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal About the Mind. )も、対称群の立場から読み直してみるとおもしろそうだ。 文系理系を超えた超大統一理論。ありだよなぁ。 無から有を生み出すKobayashi-Maru的手法。(チートかよ) 「神」とはCheatのaliasである。 む、自身->自信 自信が自身となるようなcheatということか。デカルト的cheat 意味は言語がさすものという単純なことではない。 意味深である。 「意味」というものを仮想粒子として扱えばよい。 「意味の素粒子」 そうすると、「意味」とは「ひも」の振動によってもたらされるものであるw 「意味」というものを数学で捉える/捕らえるならば圏論における「自然変換」が適当だろう。 なんて考えてしまうと、「意味」=「圏」でよい。 そうすると、超弦理論もまた「圏論」の現物的な姿であり... 「ひも」とは「煩悩」そのものであり、「煩悩」によってこの世界がつくられているとw 「対称性」とは、なんらかの操作に対する「不変性」である。 そうであるならば、 「意味」とは「意味の時空間(意味場)」における意味的対象(存在)間の「不変性」であろう。 「意味」とは「対称性」のことである。 量子論・素粒子論・超弦理論など、どれも(現象に対する)意味の意味を探るものである。 「対称性」は「不変性」と、その「つながり(関係)」からなる。 圏としての不変性や、関係としての自然変換もこれに含まれる。 でもって「対称性」そのものにも「対称性」があり、対称「群」となる。 これらすべてを巻き込んでw「意味とは対称性のことである」と。 この巻き込みが超・大統一理論を... 哲学も文学も科学も、「対称性」に陥る/還元されるとすれば... >>117 意味の意味を考える議論。 もちろん、意味の意味の意味の意味・・・という無限の議論になる。 夢をみた。 「哲学の本質は『美学』にあり、『美学』とは『意味』をみいだすことであり、『意味』とは『対称性』のことである」 「意味」というものを「対称性」「だけ」に求める。 計算モデルを構想中。 「理解」という言葉の意味を再定義しなければならないが、 「美」とは「理解する」ということである。 より明確に語りかけてくるものだけを「美」と呼んでもよいだろう。 そこにはエネルギー的流れがある。 [いみ]って読ませて53って連想させて35とあわせて88にしようってGの宇宙企画 で [なに]って読ませて72を連想させたのを88倍すると4桁になるアレ なかなかよく出来たデザイン 対称性を捕らえる/捉えることが意味であるとすれば、 意味の意味とは対称性の対称性である。 必ずしも無限連鎖せずに「収束」するかもしれない。 不動点でもよいかもしれない。 ループが形成されたとき、それは自己同一性を持ち、存在となる。 意味が存在をつくるということ。 電磁波的な意味と存在の波動?いや、波動が存在か。意味とペアになるものはなにか? ん? 意味と存在で実在? 破れが実在をつくる? はたしてなりたつのか? これがサンタからのプレゼントかも... 意味とは記号表現に起因する記憶情報の平均値のことである 「意味」と「存在」。 どちらも波動であって、クライン–ゴルドン方程式によるものであるとすれば... 遅延波と先進波から意味と存在が読み出される。 実在化による存在ではなく、 意味波と存在波の合成による実在化。 でたらめな考えだがおもしろい。 意味とは(何かと)「同じ」ということであり、 存在とは(何かと)「違う」ということである。 どちらも空間を伴う。どちらもその空間内での位置である。 意味と存在を合成して実体化させるのか、 実体を意味と存在に分離するのか。 意味を宇宙際タイヒミュラー理論で説明するとどうなるの? 意味をどこにとるかだなぁ。 タイヒミュラー空間とは変換函数の集合であり、 宇宙際とは、数学的な議論領域間のことであり、 合わせて、異なる数学的な議論領域間での変換空間のこと。 変換こそが意味である、とすれば、タイヒミュラー空間が意味の場、かもしれない。 宇宙際なんたらと関係なく、タイヒミュラーによるタイヒミュラー空間があります。 ただし、宇宙際タイヒミュラー理論では、積による部分の変換においてなんらかの値がでてきます。 ゆがみかもしれないし、ギャップかもしれない。 それが「意味量」となるのかもしれない。 これを考えると、テンソル積のとりかたが「意味」なのかもしれない。 かならずしも線形に展開する必要もないし、可能な次元全体に展開する必要もない。 ええと、そう、あれだ、基底状態だ。 どのような基底状態に変わるかということが意味をうみだす。 ということは基底状態こそが意味なのかも。 ひとつ、ふたつ、みっつ ひ、ふ、み 「ふたつ」の「ふ」は、中国語の「复(複)ピンインfù」を流用したものだと 考えることができるけれど、すると、「ひとつ」の「ひ」は、中国語の どのような表現を利用したものだろう、としばらく考えていた。 「ひとつ」の「ひ」が、「ひと(等)し」の「ひ」や「ひと(人)」の「ひ」 と共通していることは明らかだ。これを手がかりにすると、発音の点 からも、意味の点からも妥当と思われる答えはすぐに見つかる。 「一匹、二匹、...」の「匹」である。「ひとつ」であることは、 その語源においても相対(/当)性により表されていることになる。 cjjc.weblio 「匹 ピンインpǐ」、匹敵する,相当する,釣り合う. wiktionary † to match; to be equal 匹配 ― pǐpèi ― to match 匹敵 / 匹敌 ― pǐdí ― to be equal ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる