カール・マルクス 22
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>>58 ケインズは北一輝のパクリだぞ ケインズ=国家社会主義=ファシズム ファシズムとマルクス主義は似たようなものだがいつも争っている マルクス主義者もグーグルみたいな企業作って ヴィジョンを実行したほうがいいな 言論じゃなくて仕組みそのものを演じないと 第一インターナショナルや共産党を作っただろ これらは全部ビジネスだよ ビジネスには4つある 形のないものを売る 形のあるものを売る 転売する 無価値なものを価値あるものに変えて売る 童貞ビジネスは、童貞層のみをターゲットにしていて、その他のビッチの利益に資することがない。 マルクスが攻撃してるのが形のあるものを売るビジネス マルクスらがやったのは形のないものを売るビジネス 形があるものは在庫がたまるから大変なんだよ 形がない情報を売るだけなら原理的には在庫は少なくて済む もちろん本や絵なんかにしたら在庫は出るけど 元々は思想や言葉や情報だからな 「止揚」ってのは一見して対立している命題の間に、 新たな解釈を加えることで互換性を見出す論理手続きのことだ、 という理解でいいの? マルクス主義運動ってのは情報教材売ってるネットワークビジネスとやってることはまったく一緒 こんなこと考えたらすぐに分かること 情報売ってる組織は全部似たようなもの 別にこれはマルクス主義者だけでなく他の思想もそう ただマルクス主義者は金儲けを知りつくしてるから他の団体より数倍上手だと思う 俺だってマルクス主義者が何をやってる分かったのはここ1〜2年だ 副島が思想ってのは市場で売れられる商品なんだと言っていたがピンとは来なかった キヨサキ読んで会社の作られ方や起業のやり方や、キヨサキ自身の思想や ビジネスモデルを聞いたりネットワークビジネスの本質を聞いてやっと分かった >>66 なかなか適切なご指摘だね。もしかしてどなたかの引用? キヨサキストはなんでも金儲けに繋げることしか頭にないんじゃないの? 哲学+宗教+経済=国の根本的骨組み (そこから法律が生まれる) マルクス哲学+マルクス宗教感(宗教は毒)+マルクス経済(共産社会主義)=ソ連誕生 しかしソビエト連邦国家は、夢の国家建立から短命の歴史国家として名を残しました >>61 『数学嫌いな人のための数学』という本の中で小室直樹さんは トートロジーは数学的に問題ないんだって書いていらしたけどな。 ダーウィンの学説もトートロジーだという批判を受けたことがあったらしい。 >>68 前スレでも話題になっていたけど、 寡頭制の鉄則を唱えたロベルト・ミヒェルスが ムッソリーニの支持者になったのはそれで説明できるんだろうか。 外山恒一さんの思想の変遷経緯も同様に説明できるのだろうか。 >>77 俺は金儲けの基準で物事なんて考えてない ビジネスモデルやシステムや持続可能性のことを考えてるんだよ キャッシュフローはシステムを動かす重要な部分だよ 一番重要なのは外側を支えるもので重要なのは使命・チーム・リーダーシップ 内側で稼働するのに一番重要なのはキャッシュフロー キヨサキはそれを「BIトライアングル」と呼んでいる ダーウィンの学説を循環論法だと批判したのはかのカール・ポパーさんだったな。 彼はのちにその考えを大幅に改める言明を残した。 ただし100%間違っていたとも言っていないような、微妙な言明だったようだけど。 >>77 暴走族は18歳ぐらいで卒業し ヤクザはずーっとやってられるのは何故か分かるか? 暴走族はほとんど金儲けやビジネスなんてしないからだよ カツアゲとステッカー売りぐらいしかない 関東連合があそこまで有名になったのはビジネス力があって大成功したから 暴走族でなく半グレと呼ばれるようになった マルクス主義組織だって金儲けできなきゃここまで大きくなれない 見えないところで大儲けしてるとしか考えられない 組織の原理原則としてあり得ない キヨサキストは道徳哲学以降転向したアダム・スミスの有名な命題を否定しているの? つまり、個人個人が自己利益を商業的に最大化するように動けば、 市場関係が自ずからトリクルダウンを保証してくれるんだとした市場ユートピア論。 常に金儲けを至上命題に掲げて行動指針をつくることと、 結果的に金儲けが伴うこととはまったく別のことだと思うよ。 >>80 良く分からない寡頭制の鉄則の話は適当に調べたら出てきたから 書いただけでその時までは全く知らんかった ただファシストとマルクス主義は似てると書いたけど ファシストはマルクス主義と違って弁証法をあまり使わないイメージがある 「犬は動物だ」vs「犬は動物じゃない」 ちょっと待てよ?動物という言葉の意味は複数あるんじゃないか? ということで2つの命題の動物の意味を検討してみよう 動物という言葉の意味には生物学的な意味と道徳的な意味がある 前者は多細胞で、従属栄養生物で、好気呼吸を行う生物という意味である 後者は社会性がなく、欲望に忠実で、理性的ではないものという意味である テクストを解釈するときにはそのテクストが最も合理的な意味を示すように解釈するという慣習に従って、2つの命題を見てみよう 前者の命題は2通りに解釈できる すなわち、犬は生物学的意味で動物であるとも読めるし、犬は道徳的意味で動物であるとも読める 後者の命題を見てみよう 犬は生物学的意味で動物であると解釈したとき、この命題は合理的だろうか? しかし犬は経験的に明らかに多細胞、従属栄養、好気呼吸な生物なので生物学的意味の動物の意味からしてとても合理的な命題とは言えないので一旦保留しよう 次に道徳的意味で動物だと解釈してみよう すると犬は経験的に飼い主に対して愛情を示しているように見えるし、飼い主を喜ばせるような行動を見せることもあって、社会性があるように思える さらに犬は欲望を抑えてエサを食べるのを我慢することもできるし、飼い主が泣いているときに慰めるような行動をするのは理性的なように思える するとこの解釈では「犬は動物ではない」という命題は十分合理的な命題と見て良さそうなので、この解釈を採用する ここで一見対立していたように見えた2命題に戻り、「犬は生物学的意味で動物である」vs「犬は道徳的意味で動物ではない」と解釈した場合、そもそも2つの命題は対立していなかったことになる するとこの2つの命題を総合して「犬は生物学的意味では動物であるが、道徳的意味では動物ではない」という新たな命題が生まれる このような対立する命題を最大に合理的に解釈し、さらに対立を避けて総合することが止揚ではないだろうか >>82 ポパーがバヴェルクを引用したってこと?それともポパーオリジナルの論調で循環論法だと批判したの? マルクス哲学=人間みんなが平等に暮らせるには?どうしたら良いかの正義感思想 それだけのことだよw >>88 ポパーは循環論法を見出したのはダーウィンの自然選択学説、 バヴェルクが循環論法を見出したのはマルクスの労働価値説のほうでしょ。 もちろんポパーはマルクス主義の史観についても反証不可能な学説だ と批判しているようだけれども。 >>84 >>個人が自己利益を商業的に最大化するように動けば、 市場関係が自ずからトリクルダウンを保証してくれる キヨサキの本を読めばわかるけど彼の思想は人類の経済的幸福度を高める事だよ 個人の為にやってない 利己主義ではなく利他主義なんだよ (ちなみに鴨頭嘉人は自己中心的利他という生き方を広めている) マルクス主義と同じ構造になってる マルクスは持たざる者に向かって持ってる人を打倒しろと叫んで キヨサキは持たざる者に向かって持ってる人になれと言ってるだけ キヨサキはエンゲルスに似ている 近代の啓蒙思想が唱えたすべての人々に平等に自由を得る権利が与えられているということを、 ブルジョア社会は実現しようとしていない、労働者階級を前近代の状態に置き去りしていると 批判したのが社会主義思想やサンディカリズムやアナキズムやマルクス主義だったんじゃないの? だから彼らに共通の革命の目的は、民主憲法と普通選挙制度を勝ち取ることだった。 ニーチェは早くからマルクス批判してたよw あれは嫉妬思想で、国をダメにすると早くから警告する論文を書いてたよwww 近代以前の自由主義は、 個人の自由の追求が他の多くの個人の自由を犠牲にすることによって成り立つものだった。 ヴェブレンのいう略奪期。 それに対して功利主義という考え方が登場した。 簡単にいえば、より多くの個人の自由を拡大することがよりよい状態だとするもの。 これは多数決民主主義と親和性が高いね。 >>94 ニーチェの思想はナチズムと親和性が高いとしばしば見なされるよね? >>87 いや弁証法における止揚はそういうことではなくて特殊なレベルでの対立からさらに一般的な抽象的概念を見出すことじゃないかな マルクスの言う経済の弁証法的運動はそういう概念発見プロセスの弁証法からのアナロジーで、一つの社会の経済段階における階級闘争からさらに生産力が発展可能な経済段階に移行することでしょう 資本主義と社会主義は発展段階の未熟な段階では対立状態・闘争状態にあるけど、 産業が発展するにつれてそれが止揚されて調和され、ワルラスが思い描いていた 社会主義と資本主義の大調和の時代がやってくる。それが共産社会だということ? >>98 違う違う、資本主義と社会主義は異なる経済段階だから両者の対立は経済と弁証法的運動とは関係ない そうではなくて資本主義社会において生産力がこれ以上向上しなくなると資本主義社会内部の階級闘争によって生産力をさらに向上させることが可能な次の経済段階へ移行するってこと >経済と弁証法的運動 これはミスタイプ 正しくは経済の弁証法的運動 功利主義は富の偏在を問題にしないのかな? 社会全体の富が向上しさえすれば、その富が一極集中していてもなんら問題視しないという。 社会主義とか共産主義とかの生産様式にしたほうが資本主義のそれよりも 生産効率が圧倒的に上がるんだとマルクス自身が主張している箇所ってある? あるいはエンゲルスが。 功利主義は社会全体の富ではなく社会全体の快楽の最大化を命じる道徳原理でしょ、さらに苦痛を快楽を減少させるもの、すなわち負の快楽と考える では社会全体の快楽を増大しさえすれば快楽が一極集中しても問題視しないかと言うと、快楽を感じる人が少なって一方で苦痛を感じる人が多くなるなら当然社会全体の快楽は減少するわけだから、功利主義の立場では富の偏在をいくらか解消すべきということになる >>103 富を快楽に置き換えることの違いってなんでしょう? そのご主張内容から推察するに、個人の快楽量には自ずから限界があるか、 もしくは、個人の快楽は量としては決して測れず、ただ個人の人口によって測れるだけだ、 という認識があり、それこそが功利主義の最大の特徴だという話なんでしょうかね? >>102 はどこかに書かれてあったような気もするし、 いや、なかったというな気もして曖昧。 そこんところのソースの出どころをご存知の方っていらっしゃる? 快楽状態で労働に携わることは出来ない。 正負という情報が付帯された整数論的な概念である。 >>104 富は商品及びサービスだけど快楽は人間の心理的状態だから全然違う 個人の快楽量に限界があるかと言えば、快楽は経験に基づく心理状態であり、経験には当然限界があるから快楽には限界がある 個人の快楽を量として測れるかというと、快楽の単位量を設定し、さらに個人の快楽を快楽の単位量の倍数で表現できれば測定可能だが、そんなことは実際不可能なので個人の快楽は量として測れない すると快楽の量を測定しようとするならデジタル量として快楽及び苦痛を感じている人数を数え上げることになる と思ったけど個人の快楽を測定することはできないけど快楽の主観的大きさを与える条件を順序づけすることはできるね ナイフで刺されるよりもハンバーグを食べた方が快楽を感じるし アマルティア・セン氏の本を読んでみたが、マルクス以上に難解だなあ(;一_一) >>108 こういう大きさは測れないけど大きさの順序はつけられるようなものって量って呼んでいいの?量とは何か別の概念じゃないの? 人生の選択肢が5つありました。 それらの選択肢に各個人が選好する順にランクをつけ +2から-2までの加点をします。 例えば、Aさんは+1の選択肢を選ぶことができました。 Bさんは0の選択肢を選ぶことができました。 Cさんは-2の最悪の選択肢しか選べませんでした。 この3人によって構成される社会の幸福度は+1 + 0 + -2 = -1です。 これを時系列的または他の社会集団と比較することができます。 同じことを書くのはテンプレとして、基礎教養としてです 過去の書き込みと比べていただければ少しづつ表現がわかりやすくなっているはずです 弁証法に関してもやはりプルードンの以下の指摘が決定的てす。 「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。 アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスを とる」 (プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより) http://www.kagomma.net/saito/works.html 矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10) http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html De la justice dans la Revolution et dans l’Eglise - Tome I 1858 この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。 ベンヤミンが参照したのは、 CUVILLIER, Armand "Marx et Proudhon" in A la Lumiere du marxisme, obra colectiva (Tomo II), Paris, Editions sociales interna¬tionales, 1937, 240 p. ヘーゲルの欠点、つまり弁証法への過信をマルクスも受け継いでしまった… >>112 一見良さそうだけどランクづけができるのはわかるんだけどそれに整数値を対応させると選択肢間に量的関係が生じちゃうんからダメなんだよね、個人の快楽は量として測定できないから それぞれが(100,2,-380,-600,-1000000)なのか(2,1,0,-1,-2)なのか(10000000,0.01,0.0001,-1,-2)なのかどう数値を対応させればいいかわかんないから じゃあ、負の数を廃止しましょう。 人生の選択肢が5つある社会Aと人生の選択肢が10つある社会Bがあります。 社会A:人生の選択肢5つ 社会B:人生の選択肢10つ 各個人に選択肢のランク付けをしてもらい、得点を付与します。 選択肢5つの場合は4点から0点まで、 選択肢10つの場合は9点から0点までの得点があります。 このモノサシを使って>>112 と同様に計算してみましょう。 ごめん、対応させるのは整数値だったね 最後の段落は(100000,10,0,-10,-100)なのか(2,1,0,-1,-2)なのか(2543562348,35296743,5048,421,32)なのかどれなのかわかんないってことに訂正 ケインズは確かに資本論をコーランみたいなものだとバーナード・ショー宛の書簡に書いているが ただしこれは擬態で 有効需要の原理を直感的に資本論から受け取っている ケインズは階級闘争を認めなかっただけでケインズとマルクスの差はそこまでない 官僚が投資先を決めるか民間が決めるかの差だ カレツキはもっと自覚的にマルクスを再構築した点でケインズより優れていたが >>117 そうしても量は測定できないのに選択肢の間に量的関係が生じちゃうからダメだね でもランクづけができることは間違いない 富を10しか生産できない社会Aがあります。 富を100生産できる社会Bがあります。 マルクスによれば、これらの社会で実現できる生産様式または分配様式が異なります。 富を10しか生産できない社会Aでは対立関係を生み出したゼロサムゲームが、 富を100生産できる社会Bでは解消されてしまうかもしれません。 選択肢が5つの社会よりは選択肢が10つの社会のほうが より高得点を得られます。 なぜなら選択肢が多い社会のほうが相対的によりよいと考えられるからです。 ここでは得点の相対性が問題です。数というのは順序的なものです。 AはBよりも良い、CはDよりも悪いということはできるけどどれくらい良いか悪いかを答えることはできない >>122 選択肢の快さの相対性の問題としては考えられるけど、得点を付与することはできないし、得点が順序を示すものだったらその総和を快さの大きさとして計算することはできないよ 快楽ではなく物質的富と考えれば計算できるのでは? 功利主義を快楽最大化原理と捉えずに富の最大化原理と捉えれば計算できるようになる ただし意味は全然違ってくるけど 近代ミクロ経済学の標準的な教科書にそう書かれてあるけど、 そのあたり、説明が充分じゃないと思うんだなあ。もう少し突き詰めないと。 >>125 快楽の大きさが測定不能なら快楽を最大化せよという規範はナンセンスなのでは? けっきょく「快楽」という概念が基準として恣意的だから、 個人個人の範疇を越えて測定できないんでしょ。 量か数かという以前に。 それに対して貨幣はなんらかの客観性を社会に与えた。 貨幣は個人を越えて測定できる。 「カレーライスとハヤシライスどっちが好き?」という質問にAさんとBさんが違う回答をしたらカレーライスとハヤシライスどちらが一般に大きな快楽をもたらすか決定できないからね ましてや「カレーライスはハヤシライスの何倍好き?」なんて回答不能 数と量を哲学的に分けよう。 数はどこまで細かくしても離散的、無限に離散的だと定義しよう。 それに対して量は連続的、無限に連続的だと定義しよう。 連続的だというのはつまりこういうこと。 数直線(モノサシ)を想像してみて。 モノサシには目盛りが振られている。++++++++++++++++++++++++こんな感じ。 このモノサシは目盛りと目盛りの間が均等であることに注目して。 これは量を測るモノサシだからだ。 他方、1 2 3 4 5 6 7 8 9 10という数列を見てみて。数と数の間がバラバラ。 でも順序だけはちゃんと並んでいるよね。これは離散的な数。 >>131 量にはアナログ量だけではなくデジタル量もある 例えば個数や金額は最小単位が存在するからその最小単位の整数値しかとらない 平和が意図的なら幸運は偶然的、では恣意的の意味は? 快楽を基準にすると、 一人あたりのGDPで国ごとの豊かさを測っても それはなんの意味もなさないことになるね。 日本人がブータン人よりも幸福だなんて絶対に言えない。 >>132 うん、>>131 ではアナログ量を「量」と名づけ、デジタル量を「数」と名づけたつもり。 間違っているかなあ。 >>135 デジタル量は数とは異なる概念なのでデジタル量を数と名付けることは不適切 デジタル量は数と単位の積だから数と同義とすることはできない 量というのは数と数の間の距離を問題にする。 しかし 数というのは数と数の間の距離は問題にしなくていい。 順番だけが問題。...0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10...と並んでいてくれればいい。 量というのは本質的に数じゃない。 数というのはどこまで細かくしても離散的。順番だけが意味をもつ。 0.00000000000001よりも0.0000000001のほうが相対的に大きいと定義されていればいい。 量は数が測ろうとする対象物で、数というのは人工物。 ある微積の本には デジタル量を不定冠詞が付くような量(例えばりんご)、 アナログ量を不定冠詞が付かないような量(例えばガソリン) と書かれてあった。 >>137 離散や連続という言葉の意味をどう捉えるかで数を離散的と見なすか連続的と見なすかが変わってしまうし、数をどのような数を問題とするかでも変わってしまう ここで問題にしている数が実数で、連続の定義が極限によって与えられるあのお馴染みの定義なら数は連続であると言える >>139 そこをまた哲学的に突き詰めたら長い議論になってしまうけど、 思うに、実数も「∞に離散的にすぎない」んだと思うんですよ、数の本質からして。 数というのは単に記号に相対的な順序付けを施しただけのものですから。 記号と記号の間の距離を問題にしない。 数がどこまでもびっしり並んでいても、数は順番しか表わさないんです。 ある数aと異なる数bの関係は単に>か<で表されるだけ。 数の構造はそれ以上の意味を持っていないと思うのです。 その意味で本質的に順序的なものだと。 っていうか、「実数」は数という名が便宜的につけられてはいるけど、 数じゃないですよね? まだ未発見な数も含まれている、なにか深遠な対象を指している。 うーむ、任意の2つの数同士の任意の関係が順序関係に還元できるかどうかはよく分からないのでちょっと何とも言えない まあ、この話はともかくとして、快楽というのは連続的だし、 個人個人で共通に測れるモノサシが科学的にまだない。 もっと言えば、個人の中でも怪しいかもしれないですね。 個人がAよりBのほうが好きだと思っていても、本当にそう言い切れるのか。 でもここまで精密に考えようとするのは数学病でしょうか。 中学生たち、言葉の遊びに貴重な時間を費やしておもしろいかい? 共通に快楽量を計る測定器がないかぎり、功利主義は科学的な場で論じられない。 文学の問題になっちゃう。 マルクスだって数学的な考察にちょっと時間をかけたよ。 数学が極端に得意な人は基本的に貧乏人 ビジネスセンスのかけらもない 起業家ってのはどこの世界でも落ちこぼれがなるもの スペシャリストではなくジェネラリストである 高等数学や科学的な経済学は確かに理論としては大事けけど そればっかり追求してると道を誤るよ 行動科学は失敗したのである。経済学だけは80%はうまくいったけど ロバートキヨサキの凄さは行動科学の次の道を示したことにある 今日のぼやき「341」と「342」のあたり 小室先生は、このタルコット・パーソンズに習いに行ったのです。ポール・サミュエルソンに薦められて。 そして、その、「構造ー機能分析」という学問を、持って帰ってきたのです。この、アメリカ行動科学の 最大の武器は、 ・・・結局、使い物に、なりませんでした。本国のアメリカでも、リベラル派学問が、 80年代に衰退をはじめ、代わって、保守派のシンクタンクが延び始めたのです。「祈り」とか、 「まじめな生活」とかの保守思想が復権したのです。 ですから皆さん、わかるでしょう。 小室先生は、この20年間、ずーっとマックス・ウエーバーの 理論だけを使いつづけたのです。 ディルケームのアノミー理論以外は。 そうでしょう? ですから、いまでもウェーバーだけが真に偉大なのです。ウェーバーだけで社会学は成り立っているのです。 あとは、みんな雑魚です。 ウェーバーの理解を共有することが、世界中(たとえ、あの中国においてさえ)の 社会学者の共同性の保証なのです。 ですから、小室先生が昔、残念そうに私に教えてくれました。 「あのね。経済学だけは、80%学問として、自立できたんだ。ほかのは、 全部,駄目だった。 科学(サイエンス)になりきれなかったんだよ。」 と。 先生は、そうやって、こっそりと私に真実を教えてくれました。 ですから、いまでもマネタリスト理論を、組み込みながらのケインジアン理論が生きており、これで、世界中の 各国政府の経済政策 (財政政策 と 金融政策から成る)は、曲がりなりにも生きているのです。 これで世界が 動いているのですから。 ところが、このケインズ経済学以外の、ソシアル・サイエンスは、ぜんぶ、失敗したのです。 そのことをアメリカの超一流学者たちは、みんなで白状しています。 マルクス主義でよく言われることは、社会科学の地位の中でマルクス主義は 経済学に特権的な位置づけをしすぎているというもの。経済決定論だと。 中でも雇用市場における社会関係を重視した。マルクスの階級概念はその産物。 この考え方にはある種のリアリティが現代でもある。 その対極にある考え方としてしばしばマルクスとヴェーバーが対照される。 ヴェーバーになると、権力の分配とその正当化の問題が全面に出てくる。 そしてヴァーバーが提示したのは多様なステータスグループ。 構造主義などと言われたミシェル・フーコーのアプローチに通じるところがある。 ちなみにケインズの場合は、企業家と投資家が分離され、 企業家と労働者からなるアクティブ階級と投資家・債権者(金利生活者) からなる非アクティブ階級とになる。 ケインズは革命ではなく後者の安楽死を唱える。 エマニュエル・ドット氏のような、 家族の相続形態の類型によってその社会のその後の政治経済システムの適応度を 説明しようとするアプローチは、フランスらしく構造人類学っぽくないかな? ウェーバーは制度学派を代表して限界効用学派のメンガーと論争をした 限界効用学派が勝ったことになっているが果たしてそうか? 《…経済学史上まれにみる、「方法論争」の名でよばれる感情的な論争がおこった。シュモラー はメンガーを無視したけれど、実質的にはこの論争はメンガーの方に歩があったといわねば ならないものだった。歴史学派にとってのこの不名誉は誰かがすすがなくてはならなかったが、 その役を買って出たのがウェーバーだったのである。》後述河出書房新社出口解説 以下、ウェーバー客観性論文1904より、メンガーへの嫌み (メンガーは限界効用の提唱者でドイツ歴史学派を批判した。客観性論文はメンガーへの反論。) 《「限界効用理論」もまた、「限界効用の法則」にしたがうというわけである。──》 (ワイド版 世界の大思想U-12 ウェーバー 政治・社会論集 二〇一三年 河出書房新社) ただし、限界効用の肝は多様性が大事という結論である。この認識を忘れると危機の増大に 気づかなくなる。 「われわれの欲求は、量よりはむしろ多様性を目ざすことは明瞭である」シーニョア (ジェボンズ経済学の理論41頁より孫引き) An Outline of the Science of Political Economy - 133 ページ Nassau William Senior - 1836 - It is obvious, however, that our desires do not aim so much at quantity as at diversity. Not only are there limits ... Senior シーニョア 経済学概説 1836 マルクスで言うなら価値形態論を経済学批判の認識まで遡行させる必要がある。 数学といっても数式をジャーゴンのごとくやたら羅列して読者を限定し、 批評から遠ざけ、閉じた権威主義を構築するものでなければ、なんら問題はない。 >>155 >経済学批判の言説 参考: 中期マルクスのゲゼル錆びる紙幣につながる認識。価値を固定化する価値形態論よりも中期マルクスに可能性はある。 マルクス『経済学批判』第一部 資本について 貴金属 http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html#KEIHI1124 《 貴金属の高い価値比重、恒久力をもち、相対的意味では破壊されず、空気にふれても 酸化しないという性質、とくに金のばあいは王水以外の酸には溶解しないという性質、こうし たいっさいの自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。だからチョ コレートが非常に好きであったらしいペテル・マルティルは、メキシコの貨幣の一種であった 袋入りのココアについて、つぎのようにのべている。「おお、いみじくもよき貨幣よ、おまえは 人類に甘美にして滋養のある飲物をあたえ、その罪のない所有者を、貪欲という業病から まもってくれる。なぜならば、おまえは、地中に埋蔵されることも、長く保蔵されることもでき ないのだから。」(『新世界について』アルカラ、一五三〇年、第五編、第四章。) … 最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその 逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられ ないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣という たえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な 材料たらしめるのである。…》 (前半部分を『されどマルクス』2018,94頁で実験経済学の川越敏司が引用し、評価している) 上は貴金属を特権化しているように読めるが逆の可能性も同時に示している なにが「マルクスが経済決定論」だ。 唯物論と弁証法を知らないからそんな妄言に騙される。 だからポモ構造主義かぶれはダメなんだよ >>158 どういうこと?唯物論と弁証法がなんなの?詳しく説明して? 弁証法とか論理的に破綻してんじゃねーか 今のマルクス経済学者で受け入れてる奴誰もいねーよ マル経の論文って弁証法使って書いたりしないの マル経の人が読むだろうから掲載してもらえそう だけど >>160 それどっちかというと新古典派経済学の亜種みたいな分析的マルクス経済学でしょ、あれはもはやマルクス経済学じゃないから マル経の馬鹿はまだ唯物論とか弁証法とか妄言ほざいてんのか こういうとき説明だけで じゃあ弁証法使ってみて、って言われると 誰もしてくれないんだよねえ 現象学と一緒w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる