悟りに近づくために11
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有生物は有意味
無生物は無意味
これが人間ね〜。
〜人間について、人間 剣岳の地図
死ぬ思いで大変な測量をし、やっと地図を書き上げだと思いきやすでに書かれてあったことから、自分がどんなに困難な大変な思いをしてものごとを成功させても、せいぜい人並みに過ぎないことの例え。 不当な賞罰に腹を立てない。これは、社会人として当たり前のことである。本気で腹を立てるなら、行動しなければならない。行動せずに文句だけ言うのは、ゴミ人間のやることだ。 他の人間たちがどれほど狂っていても、自分一人だけはまともな生き方をする。こういう人間を、真人間という。
他の人たちがまともな生き方をしないなら、自分もまともな生き方をしない。こういう人間を、異常人格者という。 まともな生き方がしたければ、まともな生き方をしているはずである。狂った生き方をするのは、狂った生き方がしたい証拠である。 まともか、狂っているかどう判断するか
まともかどうかなど各人の主観に過ぎない 人間の知能があれば、他人の功で自分が賞されて悪いと思わないなら、自分の功で他人が賞されても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の罪で他人が罰せられて悪いと思わないなら、他人の罪で自分が罰せられても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の功で他人が賞されて悪いと思うなら、他人の功で自分が賞されても悪いと思うはずだ。
人間の知能があれば、他人の罪で自分が罰せられて悪いと思うなら、自分の罪で他人が罰せられても悪いと思うはずだ。 そうでないなら、人間の知能を持っていないことは明らか。言うまでもない。 他人にも優しければ、嗤われはしない。
自分にも厳しければ、嗤われはしない。
他人にだけ厳しければ、嗤われないことは無理だろう。
自分にだけ優しければ、嗤われないことは無理だろう。 他人に笑われるとか、笑われないとか気にするのはアホらしい
しっかりした自分がない証拠 西谷修氏の100分de名著は、Eテレ、来週月曜日(再放送水曜日)です。テキストを買って、第二回まで読み終えました。
来週の放送が、第二回です。この番組は、ロジェ・カイヨワ氏『戦争論』の話をされています。
テキストの表紙には、「内なる禍々しきもの」「グローバルな濁流に「個」という堰を立てる」とあります。
後の方になるほど、期待を掻き立てられるのは、中身があることによっているのであろうと思わせます。
西谷氏は、いくつか本を出されています。僕はそのうちで、5冊ほどを持っています。どの本も、
粘り強く論点のはっきりした書き方をされており、僕は大変に面白いと、思って読むことができました。 功なき賞を肯定するなら、罪なき罰をも肯定することになる。
罪なき罰を肯定するなら、功なき賞をも肯定することになる。
功なき賞を否定するなら、罪なき罰をも否定することになる。
罪なき罰を否定するなら、功なき賞をも否定することになる。 他人とは自分ではないのだから、普通に付き合っていけば、意見が同じでないことは、当然多くある。
自分とは、自己アイデンティティを通そうとすれば、アイデンティティは完全ではない(理解、対象射程、論理において完全ではない)
のだから、多くの躓きに常にさらされるので、自分自身との闘いが多くある。
つまり、他人との、自分との、戦いは不可避である。間違いとは真摯に向き合う必要がある。
自分の中での争いは、自分のレベルがどうというのではなく、ただ単に、自分を殺すことは、誰の益にもならないと思い、
考えの闘いから逃げてはならない。もちろん、全てにおいて完勝はできないのであるから、せめてとして、0ではなく、1を得ることを、
考えたことのない場合には、変えるべきである。つまり、何らかの一貫性を、本当に正しく提示できるならば、
それは正しい考えである。逃げ続けて、こだわることは、何の一つの突破点がない場合、きちんとした考えができるということに、
向けて、自分でできなければならない。恐ろしいことは多くあっても、それに負けるような自分であるかどうかというのは、
非常に大切に守っていかなければならない。そのうえで、考えを進めるならば、それが有効な考えというものになる。
自己の見下しについて、いかにそれを正せばいいかというと、何かや誰かという、ある理論のあてはめということについては、
完全に他人をだしにすることはしてはいけない。
自らの中で考えることは、悪いことはあまり考えないだろうし、何らかの意味を求めて考えるだろう。つまり、自分の中で
考えるということは、誰にとっても悪いことではない。従って、自らの中で考えるということについて、上で述べたように、
闘いという要点があるのであるから、その中で考えることが、生きている場合にするべきことである。 つまり、自分の不安をなくすような行動をするべきなのだが、多くのしがらみや、自分の臆病さから、仕方がないところはある。
不安を解消できないならば、解消できるようにするべきだ。ただ不安だからと言い、見つめなければ、
不安の一生に終わる。不安から何かを生み出そうとするのだが、そのようなことを考える暇というのは、
持ってもいいだろう。逃げるというのは、必要ならばすればいい。だが、考えの上では、そうではない。
大人になるというのは、決して悪いことばかりではない。知っていけば、体験していけば、受け取ったり、
逃げ続けたりしていけば、それなりに生きることができるようになる。まず選択の能力、選択の可能を
よくわかっており、権利について選択できるならば、それが一番良いことである。
権利のはく奪については、社会的な圧政であるだろうが、選択できないという状態は、
自分にとっても、他者にとっても、良いことではない。他者の権利を守ろうとするならば、それは、
実に良いことである。だが、どんな風にしてそんな声をあげられるのかということについては、
心の問題であり、自己を必要以上に守ろうとすることからは出てこないことである。
不安というのは、自分の不調のシグナルである。それをなくすことは、なかなかできない。
他人の不安も、良くはわからない。だから、仏教のように、生きること全てに当てはまる教えは、
自分の悟りの権利を、守るものである。私は、悟りがあることによって心を守られているが、
釈尊の悟りというのが、他者へも及んだということは、私の生きる指針になった。
急にできることは多くない。だから、悟りもきちんとしたことなのであろう。
過去の経験から、正しい生き方、考え方を導かねば、悟ることも、ないであろう。
経験は、多くの人が、似たようなことを経験するであろう。学ぼうとする姿勢があるならば、
仏教も、色んな学なども、次々に学べる。邪教が邪教として、非難されるのは、欲がはびこり固まっているからだろう。
真摯に思う人の考えを、間違っていると言い切るのは、一時的なものでしかない。
悟ろうと思わない人に、仏教はない。表層のみを考え、欲を節制しないならば、または、救いの気持ちがなければ、
または、誤った考えに毒されているならば、それに対して自己把握を行い対処することだ。 25 名前:Mr.名無しさん 2019/08/11(日) 11:22:24.98
ガイジは連休中も生活に変化無しか 私の功罪は、私が判断する。
私への賞罰は、私が執り行う。 信仰(心)とは、こどものワガママだ。
信仰(心)の否定とは、ひねくれたバカな大人のワガママだ。 本当に善行だと思っていたら、しないはずがない。
本当に悪行だと思っていたら、するはずがない。 25 :学術 :2019/08/13(火) 18:12:01.59 0
若いうちに残した子供が勝ち目がないと半出生主義にも傾くよ。自分の身を分けた分身であるから可哀そうだ。 十一面観世音の一番後ろ面で、悪を暴いて大笑いする。 功なき賞あり。
罪なき罰あり。
功ある罰あり。
罪ある賞あり。 最近は見なくなったが、昔はよく便所にこんなことが落書きされてた 自他の心を無視する、そういうライフスタイルを身につけてしまっていたのだった。 精神性ゼロの身体性こそが、真の身体性。
身体性ゼロの精神性こそが、真の精神性。 ないしかいびょうどうりたくあんどうきじゃっこう
だっけか するべきことをする。
しないべきことをしない。
させるべきことをさせる。
させないべきことをさせない。 他者犠牲することは悪
自己犠牲することも悪
他者犠牲しないことは善
自己犠牲しないことも善 悪意を善意に反転させる。
善意を悪意に反転させない。 このスレッドは1000を超えました。
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