悟りに近づくために11
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私たちが幸せでありますように。
私たちの悩み苦しみがなくなりますように。
私たちの願い事が叶いますように。
私たちに悟りが得られますように。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように。
生きとし生けるものの願い事が叶いますように。
生きとし生けるものに悟りが得られますように。 愛する者が愛されます。愛を求める者は愛を求められるだけです。 どうせユートピアになる、
どうせディストピアにはならない。 一生涯、人、生きもの、無生物を、自分を愛するように愛する。 仏教とは、真理探究のことだ。ガウタマ・シッダールタ個人崇拝のことではない。
イスラムとは、神アラーに絶対服従することを言う。預言者ムハンマドを崇め奉ることを言うのではない。
社会主義とは、社会に忠誠を尽くすことを言う。毛沢東に従うのは、毛沢東崇拝である。
民主主義とは、民主主義を地で行くことだ。票を集めるのは大衆迎合主義である。
キリスト教とは、キリストの教えを言う。イエスを崇拝するなら、キリスト教よりもより正確な表現であるイエス教を称するか、せめてイエス・キリスト教と称してくれ。キリストを称する者は何人もいるから、どのキリストのことかわからない。まぎらわしいのだ。 死んだらもう、自分は自分でなくなる。自分は他人となる。自分の家族は他人の家族となる。自分の友人知人は他人の友人知人となる。自分の世界は他人の世界となる。 昭和日本史を学んだだけで、世界史を学んだことになるのか?
地球史を学べばそれで、宇宙史を学んだことになるのか?
これまでのことを学べばそれで、これからのことは何もかもお見通しなのだろうか?
妄想と現実は、区別しなければならない。 自尊心とは、己贔屓の心を言う。日本人が日本に肩入れし、アメリカ人がアメリカに肩入れするように、誰でも自分に肩入れする。 この己贔屓の心が、心の苦しみを生む元なのだと、さとうみつろうなる人物が本の中でそう説いた。 仏教の渇愛、アドラーの承認欲求、己贔屓の心は、苦しみ生んで何の得にもならぬこと限りなし。 仏教の渇愛、アドラーの承認欲求、己贔屓の心は、苦しみばかり生んで何の得にもならぬこと限りなし。 必要善、得でありかつ善でもある。
必要悪、得ではあるが悪である。
不要善、損であるが善である。
不要悪、損でありかつ悪でもある。 見たくないものから目を逸らす。そういう人間に、未来はない。 教師とすべきものを反面教師とし、反面教師とすべきものを教師とする。
間違った成長は、全てここから始まる。 功を賞されることを求めなら、罪を罰せられないことを求めるなかれ。
罪を罰せられないことを求めるなら、功を賞されることを求めるなかれ。 功を賞されることを求めるなら、罪を罰せられないことを求めるなかれ。
罪を罰せられないことを求めるなら、功を賞されることを求めるなかれ。 正当なことを不当化しないこと。
不当なことを正当化しないこと。 善人には善の、悪人には悪の美学があるのだろう。もう疲れた。双方の信仰を認める。善の聖戦も、悪の聖戦も、思う存分やってくれ。ただし、周りは正直かなり迷惑している。もう少し周りの迷惑も考えて聖戦をやってくれ。 自分こそが善で他人が悪とお互いに思ってるから揉める 人の行動の裏の心配を察知して、自分の心配を良く知り、心配を蔓延させないことが大切です。心配というのは、
形を変えて行動を支配します。形がないだけに、偏在しやすく、伝播しやすく、偽装しやすいです。
良く見つめなければいけません。 行動以外で、心配をなくすのは、不可能です。越えがたい究極の感情として、死と痛みを決めているからです。
心配を払う行動によれば、新しいものが生まれます。それは、自分が他者に投げかける質問を恐れない、
といったことに、かかっています。自分が行動しないのに、他人に行動せよというのは、余りに愚かです。
なぜなら、その行為に意味は全くないからです。 心正しき強者に、弱者は涙を流すものだ。この人こそ、ホンモノだとわかるからだ。弱いうちだけ善人で、強くなった途端悪人になる。こういう人は、恐れられたり軽蔑を買ったりこそしても、心から慕われたり尊敬されたりすることはない。 何が正しくて何が正しくないなんて簡単には決められない 正当化は、不当だと思っていない証拠。
不当化は、正当だと思っていない証拠。 内で振る舞うように外でも振る舞う。
外で振る舞うように内でも振る舞う。 中二病はバカだが、高二病はバカの一つ覚え。目糞鼻糞を嗤うとはまさにこのことだ。 他人を見上げるのは、自分を見下しているのと同じこと。
他人を見下すのは、自分を見上げているのと同じこと。
どちらも、相当変! 心にぽっかりと空いた穴、それは、偽心。偽心など、食品サンプルのようなものだ。食えないから、食品サンプルとして使うのでなければ捨ててしまえ!リサイクルショップ?早く行け! 悪意の思う壺にならぬよう。
善意の思う壺になるよう。
計らうべし! ユートピアが好きだからユートピアにする。
ディストピアが嫌いだからディストピアにしない。
それでいいんだよ! なんでもええけど、馬鹿な妄想ばっかりしてないで、現実にしてから考えてくれ 「赤信号、みんなで渡れば恐くない。運悪くただ、自分のみ死ぬ。」これは、自己責任だ。自己の責任でそうしているのが自己責任でないなら、この世に自己責任は存在しない。それぐらいは、赤ちゃんでもわかる。 自分は、自分史を刻んでいる。
日本は、日本史を刻んでいる。
世界は、世界史を刻んでいる。 (西谷修を参考にして考える)
人間は、戦争の中に、自らを投げ入れる。そう言う形で、言葉で表せない思考の存在を、誰もが最後まで持っているということを、
気づかされる。最終的には、理性が純的ではないことを死の中に見る。他と自の存在を知る。最後の手段だ。
自分は殺されるべきではないし、他人が殺されるべきでもないと、知ることだ。それまで否定していたものが、何なのか気づく。
それは、他人の命である。意志である。言葉にしきれない生である。また、人生における、ただ一つある自分自身の力である。
戦争の性質を語る言葉を見よう。そうやって、他者同士が、孤独でないことを、確信する場所が、そのような関係に基づいて、あるだろう。
それを思えば、人の命の価値は平等であると信じることが正しい。命の価値が平等であるということを、信ずるようになる。
その他には平等はないということを思っていたことの先に、信仰は向かっていく。
そのように、否定されないものが集団的に、社会の雰囲気として漂っているが、それは、違いがあっても他人を認めることが
できるようになることを突き付ける雰囲気だ。否定していたものこそ、思考不可能、理解不可能であり、理解こそは、一度知ったとき、
後退しない。自分自身の不明によって、自らが否定してきたもの、それが即ち、自己優越だ。数の論理だ。
生きる方法を、身につけることができる。生きているという現実の中で、自分だけを考えていることは、
生の中の命の差別だ。生は言葉の問題ではない。人との関わりも、言葉の問題は、本当ではない。
言葉が挫折したとき、言葉ではなく、戦争の中に投げ出すような、命の存在を、生においてもぶつかりあうような場面は、
多々あるであろう。それが、数、優越の論理ではない、生と戦争の持つ論理である。自分がどこかおかしいと思うならば、
そうした生の理解と、何らか別の、責任を、求めることはできるだろうか。他人の存在を見ることから始まり、
他人を否定する論理回路をもつ。その次に、他人とどうわかりあうかと考え、最後には、他人の最低限と自分の最低限が、
共通しているということを知ったとき、最低限にして最も強靭なコミュニケーションが、行われるはずである。
知らなければわからないことだ。知ったとき、希望がある。自分も他人も大丈夫だ。 ただし、自分のみ。
ただし、自分以外のみ。
この二つ、一生なし。 承認欲求に囚われて本質的倫理が欠けている人は、その本質的倫理が欠けた偽りの倫理を他人にも強要する傾向がある。承認欲求の権化は、危うし! 今のあなたは、これまでのあなた。
今のあなたは、これからのあなた。 行いの功罪だけでなく、思いの功罪もまた功罪。自分は一生涯、これがわかる人間でいる。
功を愛して、人を愛さず。
罪を憎んで、人を憎まず。 道徳は、自己目的化して初めて道徳となる。自己目的化しない限り道徳とはいえない。 生命のいない火星のような星よりも生命のいる地球のような星を愛するなら、生を愛している。
生命のいる地球のような星よりも生命のいない火星のような星を愛するなら、死を愛している。
どちらも、悟りではない。 善を悪だと言い、悪を善だと言うなら、世界はロクなことにならない。スケープゴートが聖戦の、ディストピアになるだけだ!
善は善であり、悪は悪である。これがわからないと、大変なことになってしまう。 エゴイストがエゴイストを批判するなど、目糞鼻糞を嗤うもいいとこだ。 料理がうまくなりたければ、料理をしなければならない。料理ごっこをしても、料理ごっこがうまくなるだけだ。 現在の自分は過去の自分を継承し、未来の自分は現在の自分を継承する。過去の自分の責任を取れない人は、現在の自分の責任も未来の自分の責任も取れない。 攻めはできても守りはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。
守りはできても攻めはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。 必要善とは、他者犠牲をしないこと。
必要悪とは、自己犠牲をしないこと。
不要善とは、自己犠牲をすること。
不要悪とは、他者犠牲をすること。 アメリカでは、一日一日を一生のように思って生きる。
ソビエトロシアでは、一生一生を一日のように思って生きる。 前向きとは、未来を見つめていること。
後ろ向きとは、過去を見つめていること。
前向きでないとは、未来を見つめていないこと。
後ろ向きでないとは、過去を見つめていないこと。
前向きでないからといって後ろ向きとは限らない。
後ろ向きでないからといって前向きとは限らない。 現在の自分を頼みにして過去の自分をないがしろにし、未来の自分を頼みにして現在の自分をないがしろにする。こうして、一生をないがしろにするのである。気をつけなければならない。 過去を頼みにして現在をないがしろにする。
未来を頼みにして現在をないがしろにする。
こうして、一生を棒に振る。
実に愚かで、自業自得なことである。 >>930
将来に活かすために過去を反省することは後ろ向きとは言わない。
よって、お前の主張は間違っている。 光から闇に転ばない方法は、どんな理由があっても闇に転ばない以外にはない。ちなみに、闇に転ぶなら、光に立ち返らない限りは終生転び者として生きることになる。 あなたは人だが、人が皆あなたなのではない。
人は霊長類だが、霊長類が皆人なのではない。
霊長類は哺乳類だが、哺乳類が皆霊長類なのではない。
哺乳類は脊椎動物だが、脊椎動物が皆哺乳類なのではない。 自分以外の人を人として扱う分には構わないが、自分として扱ったら大変なことになる。
人以外の霊長類を霊長類として扱う分には構わないが、人として扱ったら大変なことになる。
霊長類以外の哺乳類を哺乳類として扱う分には構わないが、霊長類として扱ったら大変なことになる。
哺乳類以外の脊椎動物を脊椎動物として扱う分には構わないが、哺乳類として扱ったら大変なことになる。 暑いときには、常夏のリゾートのように暑いと感じるようにしている 実際、暑いこと自体が不快であるというより、暑いのにきちんとした服を
着用することを義務付けられていたり、閉ざされた空間に閉じ込められて
集中した作業に専念することを強要されることが不快さにつながっている。
暑さを身体的な負荷の軽減と条件的に結び付けるなら、暑さがリゾート感
を生む。 性中立説
人間の元来の性質は、善でも悪でもなく中庸であるという説。人間は元来善人でも悪人でもなく、中途半端な中ぐらいのやつであるとする。 1: 無 職 は 哲 学 (172)
2: 東浩紀491 (245)
3: 無 職 の 哲 学 (949)
4: 【表現の自由】東浩紀491 (206)
5: 無 職 と 東 浩 紀 (474)
6: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (202)
7: 禅 (716)
8: 悟りに近づくために11 (943) 自分のことだけ考えて自分以外のことは考えないのは、ちょうど自国のことだけ考えて自国以外のことは考えないようなものだ。
自分以外のことだけ考えて自分のことは考えないのは、ちょうど自国以外のことだけ考えて自国のことは考えないようなものだ。 外善内悪(がいぜんないあく)
邪念に満ちた悪意の塊で、生きながらに悪霊となった即身悪霊。古来暗黒神の化身と恐れられ、人の姿をした祟り神と呼ばれた。極めて邪悪な生霊で、自身が即身成仏となった極めて成仏力の強い修験者でしか成仏させることができず、その成仏には膨大な犠牲が出たという。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。