悟りに近づくために11
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ユートピアが好きだからユートピアにする。
ディストピアが嫌いだからディストピアにしない。
それでいいんだよ! なんでもええけど、馬鹿な妄想ばっかりしてないで、現実にしてから考えてくれ 「赤信号、みんなで渡れば恐くない。運悪くただ、自分のみ死ぬ。」これは、自己責任だ。自己の責任でそうしているのが自己責任でないなら、この世に自己責任は存在しない。それぐらいは、赤ちゃんでもわかる。 自分は、自分史を刻んでいる。
日本は、日本史を刻んでいる。
世界は、世界史を刻んでいる。 (西谷修を参考にして考える)
人間は、戦争の中に、自らを投げ入れる。そう言う形で、言葉で表せない思考の存在を、誰もが最後まで持っているということを、
気づかされる。最終的には、理性が純的ではないことを死の中に見る。他と自の存在を知る。最後の手段だ。
自分は殺されるべきではないし、他人が殺されるべきでもないと、知ることだ。それまで否定していたものが、何なのか気づく。
それは、他人の命である。意志である。言葉にしきれない生である。また、人生における、ただ一つある自分自身の力である。
戦争の性質を語る言葉を見よう。そうやって、他者同士が、孤独でないことを、確信する場所が、そのような関係に基づいて、あるだろう。
それを思えば、人の命の価値は平等であると信じることが正しい。命の価値が平等であるということを、信ずるようになる。
その他には平等はないということを思っていたことの先に、信仰は向かっていく。
そのように、否定されないものが集団的に、社会の雰囲気として漂っているが、それは、違いがあっても他人を認めることが
できるようになることを突き付ける雰囲気だ。否定していたものこそ、思考不可能、理解不可能であり、理解こそは、一度知ったとき、
後退しない。自分自身の不明によって、自らが否定してきたもの、それが即ち、自己優越だ。数の論理だ。
生きる方法を、身につけることができる。生きているという現実の中で、自分だけを考えていることは、
生の中の命の差別だ。生は言葉の問題ではない。人との関わりも、言葉の問題は、本当ではない。
言葉が挫折したとき、言葉ではなく、戦争の中に投げ出すような、命の存在を、生においてもぶつかりあうような場面は、
多々あるであろう。それが、数、優越の論理ではない、生と戦争の持つ論理である。自分がどこかおかしいと思うならば、
そうした生の理解と、何らか別の、責任を、求めることはできるだろうか。他人の存在を見ることから始まり、
他人を否定する論理回路をもつ。その次に、他人とどうわかりあうかと考え、最後には、他人の最低限と自分の最低限が、
共通しているということを知ったとき、最低限にして最も強靭なコミュニケーションが、行われるはずである。
知らなければわからないことだ。知ったとき、希望がある。自分も他人も大丈夫だ。 ただし、自分のみ。
ただし、自分以外のみ。
この二つ、一生なし。 承認欲求に囚われて本質的倫理が欠けている人は、その本質的倫理が欠けた偽りの倫理を他人にも強要する傾向がある。承認欲求の権化は、危うし! 今のあなたは、これまでのあなた。
今のあなたは、これからのあなた。 行いの功罪だけでなく、思いの功罪もまた功罪。自分は一生涯、これがわかる人間でいる。
功を愛して、人を愛さず。
罪を憎んで、人を憎まず。 道徳は、自己目的化して初めて道徳となる。自己目的化しない限り道徳とはいえない。 生命のいない火星のような星よりも生命のいる地球のような星を愛するなら、生を愛している。
生命のいる地球のような星よりも生命のいない火星のような星を愛するなら、死を愛している。
どちらも、悟りではない。 善を悪だと言い、悪を善だと言うなら、世界はロクなことにならない。スケープゴートが聖戦の、ディストピアになるだけだ!
善は善であり、悪は悪である。これがわからないと、大変なことになってしまう。 エゴイストがエゴイストを批判するなど、目糞鼻糞を嗤うもいいとこだ。 料理がうまくなりたければ、料理をしなければならない。料理ごっこをしても、料理ごっこがうまくなるだけだ。 現在の自分は過去の自分を継承し、未来の自分は現在の自分を継承する。過去の自分の責任を取れない人は、現在の自分の責任も未来の自分の責任も取れない。 攻めはできても守りはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。
守りはできても攻めはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。 必要善とは、他者犠牲をしないこと。
必要悪とは、自己犠牲をしないこと。
不要善とは、自己犠牲をすること。
不要悪とは、他者犠牲をすること。 アメリカでは、一日一日を一生のように思って生きる。
ソビエトロシアでは、一生一生を一日のように思って生きる。 前向きとは、未来を見つめていること。
後ろ向きとは、過去を見つめていること。
前向きでないとは、未来を見つめていないこと。
後ろ向きでないとは、過去を見つめていないこと。
前向きでないからといって後ろ向きとは限らない。
後ろ向きでないからといって前向きとは限らない。 現在の自分を頼みにして過去の自分をないがしろにし、未来の自分を頼みにして現在の自分をないがしろにする。こうして、一生をないがしろにするのである。気をつけなければならない。 過去を頼みにして現在をないがしろにする。
未来を頼みにして現在をないがしろにする。
こうして、一生を棒に振る。
実に愚かで、自業自得なことである。 >>930
将来に活かすために過去を反省することは後ろ向きとは言わない。
よって、お前の主張は間違っている。 光から闇に転ばない方法は、どんな理由があっても闇に転ばない以外にはない。ちなみに、闇に転ぶなら、光に立ち返らない限りは終生転び者として生きることになる。 あなたは人だが、人が皆あなたなのではない。
人は霊長類だが、霊長類が皆人なのではない。
霊長類は哺乳類だが、哺乳類が皆霊長類なのではない。
哺乳類は脊椎動物だが、脊椎動物が皆哺乳類なのではない。 自分以外の人を人として扱う分には構わないが、自分として扱ったら大変なことになる。
人以外の霊長類を霊長類として扱う分には構わないが、人として扱ったら大変なことになる。
霊長類以外の哺乳類を哺乳類として扱う分には構わないが、霊長類として扱ったら大変なことになる。
哺乳類以外の脊椎動物を脊椎動物として扱う分には構わないが、哺乳類として扱ったら大変なことになる。 暑いときには、常夏のリゾートのように暑いと感じるようにしている 実際、暑いこと自体が不快であるというより、暑いのにきちんとした服を
着用することを義務付けられていたり、閉ざされた空間に閉じ込められて
集中した作業に専念することを強要されることが不快さにつながっている。
暑さを身体的な負荷の軽減と条件的に結び付けるなら、暑さがリゾート感
を生む。 性中立説
人間の元来の性質は、善でも悪でもなく中庸であるという説。人間は元来善人でも悪人でもなく、中途半端な中ぐらいのやつであるとする。 1: 無 職 は 哲 学 (172)
2: 東浩紀491 (245)
3: 無 職 の 哲 学 (949)
4: 【表現の自由】東浩紀491 (206)
5: 無 職 と 東 浩 紀 (474)
6: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (202)
7: 禅 (716)
8: 悟りに近づくために11 (943) 自分のことだけ考えて自分以外のことは考えないのは、ちょうど自国のことだけ考えて自国以外のことは考えないようなものだ。
自分以外のことだけ考えて自分のことは考えないのは、ちょうど自国以外のことだけ考えて自国のことは考えないようなものだ。 外善内悪(がいぜんないあく)
邪念に満ちた悪意の塊で、生きながらに悪霊となった即身悪霊。古来暗黒神の化身と恐れられ、人の姿をした祟り神と呼ばれた。極めて邪悪な生霊で、自身が即身成仏となった極めて成仏力の強い修験者でしか成仏させることができず、その成仏には膨大な犠牲が出たという。 有生物は有意味
無生物は無意味
これが人間ね〜。
〜人間について、人間 剣岳の地図
死ぬ思いで大変な測量をし、やっと地図を書き上げだと思いきやすでに書かれてあったことから、自分がどんなに困難な大変な思いをしてものごとを成功させても、せいぜい人並みに過ぎないことの例え。 不当な賞罰に腹を立てない。これは、社会人として当たり前のことである。本気で腹を立てるなら、行動しなければならない。行動せずに文句だけ言うのは、ゴミ人間のやることだ。 他の人間たちがどれほど狂っていても、自分一人だけはまともな生き方をする。こういう人間を、真人間という。
他の人たちがまともな生き方をしないなら、自分もまともな生き方をしない。こういう人間を、異常人格者という。 まともな生き方がしたければ、まともな生き方をしているはずである。狂った生き方をするのは、狂った生き方がしたい証拠である。 まともか、狂っているかどう判断するか
まともかどうかなど各人の主観に過ぎない 人間の知能があれば、他人の功で自分が賞されて悪いと思わないなら、自分の功で他人が賞されても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の罪で他人が罰せられて悪いと思わないなら、他人の罪で自分が罰せられても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の功で他人が賞されて悪いと思うなら、他人の功で自分が賞されても悪いと思うはずだ。
人間の知能があれば、他人の罪で自分が罰せられて悪いと思うなら、自分の罪で他人が罰せられても悪いと思うはずだ。 そうでないなら、人間の知能を持っていないことは明らか。言うまでもない。 他人にも優しければ、嗤われはしない。
自分にも厳しければ、嗤われはしない。
他人にだけ厳しければ、嗤われないことは無理だろう。
自分にだけ優しければ、嗤われないことは無理だろう。 他人に笑われるとか、笑われないとか気にするのはアホらしい
しっかりした自分がない証拠 西谷修氏の100分de名著は、Eテレ、来週月曜日(再放送水曜日)です。テキストを買って、第二回まで読み終えました。
来週の放送が、第二回です。この番組は、ロジェ・カイヨワ氏『戦争論』の話をされています。
テキストの表紙には、「内なる禍々しきもの」「グローバルな濁流に「個」という堰を立てる」とあります。
後の方になるほど、期待を掻き立てられるのは、中身があることによっているのであろうと思わせます。
西谷氏は、いくつか本を出されています。僕はそのうちで、5冊ほどを持っています。どの本も、
粘り強く論点のはっきりした書き方をされており、僕は大変に面白いと、思って読むことができました。 功なき賞を肯定するなら、罪なき罰をも肯定することになる。
罪なき罰を肯定するなら、功なき賞をも肯定することになる。
功なき賞を否定するなら、罪なき罰をも否定することになる。
罪なき罰を否定するなら、功なき賞をも否定することになる。 他人とは自分ではないのだから、普通に付き合っていけば、意見が同じでないことは、当然多くある。
自分とは、自己アイデンティティを通そうとすれば、アイデンティティは完全ではない(理解、対象射程、論理において完全ではない)
のだから、多くの躓きに常にさらされるので、自分自身との闘いが多くある。
つまり、他人との、自分との、戦いは不可避である。間違いとは真摯に向き合う必要がある。
自分の中での争いは、自分のレベルがどうというのではなく、ただ単に、自分を殺すことは、誰の益にもならないと思い、
考えの闘いから逃げてはならない。もちろん、全てにおいて完勝はできないのであるから、せめてとして、0ではなく、1を得ることを、
考えたことのない場合には、変えるべきである。つまり、何らかの一貫性を、本当に正しく提示できるならば、
それは正しい考えである。逃げ続けて、こだわることは、何の一つの突破点がない場合、きちんとした考えができるということに、
向けて、自分でできなければならない。恐ろしいことは多くあっても、それに負けるような自分であるかどうかというのは、
非常に大切に守っていかなければならない。そのうえで、考えを進めるならば、それが有効な考えというものになる。
自己の見下しについて、いかにそれを正せばいいかというと、何かや誰かという、ある理論のあてはめということについては、
完全に他人をだしにすることはしてはいけない。
自らの中で考えることは、悪いことはあまり考えないだろうし、何らかの意味を求めて考えるだろう。つまり、自分の中で
考えるということは、誰にとっても悪いことではない。従って、自らの中で考えるということについて、上で述べたように、
闘いという要点があるのであるから、その中で考えることが、生きている場合にするべきことである。 つまり、自分の不安をなくすような行動をするべきなのだが、多くのしがらみや、自分の臆病さから、仕方がないところはある。
不安を解消できないならば、解消できるようにするべきだ。ただ不安だからと言い、見つめなければ、
不安の一生に終わる。不安から何かを生み出そうとするのだが、そのようなことを考える暇というのは、
持ってもいいだろう。逃げるというのは、必要ならばすればいい。だが、考えの上では、そうではない。
大人になるというのは、決して悪いことばかりではない。知っていけば、体験していけば、受け取ったり、
逃げ続けたりしていけば、それなりに生きることができるようになる。まず選択の能力、選択の可能を
よくわかっており、権利について選択できるならば、それが一番良いことである。
権利のはく奪については、社会的な圧政であるだろうが、選択できないという状態は、
自分にとっても、他者にとっても、良いことではない。他者の権利を守ろうとするならば、それは、
実に良いことである。だが、どんな風にしてそんな声をあげられるのかということについては、
心の問題であり、自己を必要以上に守ろうとすることからは出てこないことである。
不安というのは、自分の不調のシグナルである。それをなくすことは、なかなかできない。
他人の不安も、良くはわからない。だから、仏教のように、生きること全てに当てはまる教えは、
自分の悟りの権利を、守るものである。私は、悟りがあることによって心を守られているが、
釈尊の悟りというのが、他者へも及んだということは、私の生きる指針になった。
急にできることは多くない。だから、悟りもきちんとしたことなのであろう。
過去の経験から、正しい生き方、考え方を導かねば、悟ることも、ないであろう。
経験は、多くの人が、似たようなことを経験するであろう。学ぼうとする姿勢があるならば、
仏教も、色んな学なども、次々に学べる。邪教が邪教として、非難されるのは、欲がはびこり固まっているからだろう。
真摯に思う人の考えを、間違っていると言い切るのは、一時的なものでしかない。
悟ろうと思わない人に、仏教はない。表層のみを考え、欲を節制しないならば、または、救いの気持ちがなければ、
または、誤った考えに毒されているならば、それに対して自己把握を行い対処することだ。 25 名前:Mr.名無しさん 2019/08/11(日) 11:22:24.98
ガイジは連休中も生活に変化無しか 私の功罪は、私が判断する。
私への賞罰は、私が執り行う。 信仰(心)とは、こどものワガママだ。
信仰(心)の否定とは、ひねくれたバカな大人のワガママだ。 本当に善行だと思っていたら、しないはずがない。
本当に悪行だと思っていたら、するはずがない。 25 :学術 :2019/08/13(火) 18:12:01.59 0
若いうちに残した子供が勝ち目がないと半出生主義にも傾くよ。自分の身を分けた分身であるから可哀そうだ。 十一面観世音の一番後ろ面で、悪を暴いて大笑いする。 功なき賞あり。
罪なき罰あり。
功ある罰あり。
罪ある賞あり。 最近は見なくなったが、昔はよく便所にこんなことが落書きされてた 自他の心を無視する、そういうライフスタイルを身につけてしまっていたのだった。 精神性ゼロの身体性こそが、真の身体性。
身体性ゼロの精神性こそが、真の精神性。 ないしかいびょうどうりたくあんどうきじゃっこう
だっけか するべきことをする。
しないべきことをしない。
させるべきことをさせる。
させないべきことをさせない。 他者犠牲することは悪
自己犠牲することも悪
他者犠牲しないことは善
自己犠牲しないことも善 悪意を善意に反転させる。
善意を悪意に反転させない。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。