意識のハードプロブレムの答え3
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1の考え。
主体とは空白。
空白とはあらゆる考えが浮かんでは消える場。
全ての存在は主体にある。
他者の意識は存在すれば、それは主体の意識においてである。
それゆえに、他者の意識は存在しない。
私は独りである。
意識のハードプロブレムの答え2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1588097998/ >>96
進化論に懐疑的な理由をお伺いできればと存じます。
私としてはむしろ最近出回っているような
「社会」「企業」「学問」「宗教」等々いろいろなものの進化が
変異と淘汰で説明可能という主張を支持するところですが、
時計さんが「進化」という概念のどの部分に懐疑的なのかは
個人的に気になるところです。
>>97
ケムに巻く作戦ですね?
私は記号論理学(?)どころか英語も理解できないヤカラです。
面白そうなので勉強させていただきます!
>>100
私の理解を超えましたが、
とりあえずカネがいくらあっても足りなくなる気がします。
造物主はウチデノコヅチをお持ちかもしれませんけど。 >>102
1つ目と2つ目が重ね合うまでプライスレスで出来上がります
なにせ自然現象なので。
重ね合ってから3つ目を育む代償にウチデノコヅイを持たない人間が
宇宙(妄想)で営業しながら金で世界を回している! >>103
となると資金源が気になります。
すでに解明はされているのでしょうか? >>53
またも横入りだが
他者の意識が存在しないなら、なぜ私がこの私であることに疑問を持つのか分からない
私は私であることしかできないのに(主観的世界観)、ある特定の存在であるのはなぜか(客観的世界観)と問うのは矛盾を感じる
恐らくあなたは自分の説を信じ切れていないと思うのだが >>97
私としては今回初めて論理結合子なるものを調べたんですが
世界を動かしている「P∧¬P」
わかったようなわからないようなかんじです。
一瞬わかった気もしたんですが、
その感覚はたちまち消えてなくなってしまいました。
仰るように微妙なところなのだと思います。 >>101
確かに、天体が存在しなければ、天動説はありませんね。
>>102
進化論に懐疑的ではありますが、それに理由があるというよりは、
進化論を支持する理由は十分ではないということだと思います。
特に人間は進化で生まれたとは私ににはあまり思えません。
>>105
それは方法論的に物理主義の立場に立っているからです。
敢えてその立場から質問しているのであって、私の立場とは異なります。 >>107
しかし、人間は神が創ったという説にも共感しきれないのが実情です。 >>104
新聞紙を資源にしてお金を刷って発酵します
パクリが一番効率が良いですしね。 >>105主観主義だからこそ逆になぜ私は主観主義的に世界を理解する真性の私になったのかがわからない疑問 唯心論者はマルクスガブリエルの合わせ鏡が
直観的にしっくりくるだろうけどそこまでだろうね >>110
主観主義における主観は、物理主義におけるビッグバンのように
始まりであり、根源であり、以前的なものは存在しないと思います。 >>111
マルクス・ガブリエルの合わせ鏡とはどのようなものでしょうか? >>112
主観主義における主観的私にそう思えるという事情が主観主義には根源的にあると言えば分かるかな >>113
なぜ世界は存在しないのかっていう本に書かれています >>75
脳の方が意識より先に存在するからですね
物理空間にあなたの脳が出現したためにあなたの意識が生じたわけです >>107
進化論を支持するに不十分な条件を上げてもらうとわかりやすいです。 >>116
116さんの文章を理解しているかは怪しいですが、私の言いたかったことは、
主観主義においては主観は根源的であるということです。
>>117
ありがとうございます。機会があればチェックしてみます。
>>118
その脳に私が選ばれる理由が解らないかと思います。
>>119
人間は言葉を使うし、道具を使うし、料理をするし、建物を建てるし、
とにかく進化としては不連続的過ぎるかと思います。
キリンの首があれだけ長い理由も私にはよく解りません。 >>120
>その脳に私が選ばれる理由が解らないかと思います。
どの脳も脳単体で独立した物じゃなくて体の刺激が神経を伝わって
機能していて、体がどう動くかとか、どんなところにいるかとか
何を見てるか等々、その脳と他の脳とは
まったく異なる機能をしているでしょう。
時計さんが誕生してから徐々に目が見えるようになり
手足が動かせるようになり言葉を言えるようになり学習して
脳を客観視できる間主観的な私の観念で主観的に体を動かすようになった
という理由で、時計さん(主観的私)は、その脳(間主観的な主体的な脳)に
選ばれたと勘違いしてしまって、単体の脳に私が選ばれる理由が解らない
と言ってるように思えるんですけど、どうなんでしょうか?
脳は私達人間の誰でもそれなりに機能するからどれかを選んだりしないから
選ばれる理由はないし、ないから解らないのかと。 >>121
成長のことを言うのであれば、「その脳に私が選ばれる理由が解らない」を
「その受精卵に私が選ばれる理由が解らない」と言い換えてもいいと思います。
このことは、主観主義では、私にはある受精卵という起源が存在することは
確かであると考えると思います。
物理主義ではどうなるのでしょうか。 物理主義者を名乗らなくても物理的に卵子に精子が受精しなければt受精卵の起源は存在しませんよね
主観主義は主観するだけで卵子に精子を受精させて受精卵の起源を存在させられるのでしょうけど
主観主義者の記憶をもとに存在することしかできない仮定が起源なんじゃないですかね。 >>123
私の考えは、物質が精神に先行するのであれば、
「その受精卵に私が選ばれる理由が解らない」という問題が
発生するのではないかということです。 >>107
うーん、それはあなたの想定する客観的世界観の問題ではないかな
物理学は同種の素粒子に性質的差異は認めないけど、固有性は否定しないと思う
仮にあなたと全く同じ構造の人間を、他の固有性を持つ物質で作ったとして
やはりそのコピーも「私はなぜこの私であるのか」と問い、にもかかわらずその人はあなた自身ではない
その原因は、物質の固有性の問題だろう
むしろ、主観的世界観によって立つ限り、固有性の問題は決して解決できないと思う
私と他者を比較可能にするような尺度の取り方がないから >>126
主観主義では、私の体は確かなものとして客観的に存在します。
しかし、その客観性はある種の主観性です。
物理主義では、>>125のような問題は生じないでしょうか。 >>126
主観主義では、「私はなぜこの私であるのか」という問いは、
「世界はなぜこの世界であるのか」という問いと本質的に同一的だと思います。 >>125
物質は物体を形づくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在なので
その性質を認める精神があれば、物質が精神に先行することはないんじゃないでしょうか。 >>129
うーむ、やはり物質とは何かという問題は本質的なのでしょうか。
私は「物質は主観的存在である」と考えています。 いや、物質とはなにかという問題なら
「物体を形づくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在」
が本質だからクリアしたでしょう。
時計さんが「物質は主観的存在である」と任意に観点を変化させて
考えて続ける事が本質的な問題だと思うけどなあ >>127
選ばれるという考え方は、選ばれないという可能性がある時にのみ有意味だと思う
選ばれるという立場、選ばれないという立場、それぞれを入れ換えてみることができるということ
そして、立場を入れ換えてみる、という思考実験で捨象されることの中に固有性が含まれると思う
私は「私はなぜこの私なのか」という問い方では、有意味に問うことができないと考えている >>131
「物体を形づくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在」 ですか。
物質とは何かという問題については、まだ考えさせて下さい。
>>132
確かに「私はなぜこの私なのか」という問いは、
問い自体に問題があるかもしれません。
しかし、私は、物理主義では「何故この受精卵は私なのか」
という問題が生じると考えています。 >>131
私は「客観→主観」という構造を考えています。 >>133
「私」とは何なのかをもっと明確にしない限り、錯誤を生み続けるだけだと思う
ある受精卵を私であるとするのなら、私の死体も私であると結論することになるが、これは不合理だろう >>107
じつは最近生物の進化は「特殊進化論」として位置づけておいて、
他方ではたとえばクルマとかパソコンとかも進化しているわけですから
すべての進化に通用する「一般進化論」を構築するべきだ的な本を
見かけたところだったのです。
時計さん的にはパソコンの進化は認めても
生物の進化には懐疑的というところかなという勝手な推測をしつつ、
私は生物は進化し得ると考えますし、
ヒトはサル的なものから進化したのだろうとも考えています。
>>109
一説によると、パクり上手で早死すると天才と言ってもらえるそうです。
どうせだったらエレガントにパクりたいものです。
>>111
私はむしろ、そこから始まると思っています。 >>135
受精卵は生きていると思いますが。しかし、受精卵に拘りがあるわけではありません。
「私」の始まりは、胎児の段階でもいいです。 >>136
確かにスマホの誕生は進化かもしれません。 >>138
変異でもあるね、
>>134
>客観→主観
でも客体→主体ではないね。
それは客観であっても他からの主観でしかない、特定しない観測者という
視点で物事を観察する限り主観から逸脱はできないのだよ。 サーモスタットの意識。
これを、細かい議論をすっとばして単純化すると、
入力を出力に変換する、ということである。
アクティブかパッシブかという問題は先送りする。
熱...だとめんどくさいので、電気(電流)とする。
導線は電流を通す。導線ですら意識を持つ。
そう考えるとおもしろい。 >>140
客体は客観的な存在だと考えます。
そう考えると、「客体→主観」です。 >>142
さらに、主体を主観的世界と考えると、「客体→主体」かもしれません。 >>120
>キリンの首があれだけ長い理由も私にはよく解りません
私のコロナ休暇も残りわずかのようなので、はしょってまいります。
ちなみにこのレスではキリンの首については論じません、すいません。
まず、私のかんじでは、進化は漸進的ではなくある意味急進的、
遠目には徐々にかもしれませんが、世代レベルではパッと変わるのみならず、
時々カンブリア爆発のようなことさえあって当然です。
認識上で進化に関わるのはDNAという化学物質のようですが、
本当に重要なのはDNAに含まれている情報ではなく、
その情報をコントロールしているシステムです。
つまりそのシステムがパッと変われば生体もパッと変わります。
たとえば進化ではありませんが、メスがオスを産み落とすとき、
体格に微妙な変化を加えられるのもそのような構造があるためだと思われます。
極端に言えばニワトリの卵をトカゲが生み落とすこともあり得るということです。
また、そのシステムはパッとしか変わりようがない気もするところです。 ではそのコントロールシステムとはどのようなものなのか。
じつはこれについて現代科学ではよくわからない以前に
(意識のハードプロブレムと同様)
どうやってアプローチしたらいいのかさえ見当がつかない状況のようです。
もっとも最前線の現場がこのあたりをどのように捉えているのか
私には知るよしもありませんけど。
にしても私が思うのは、もっと根本からひっくり返してみてはどうなのか、
はっきりいえば、そもそも物質の存在を前提にしているところに
誤りがあったのではないかということです。
やっぱりキリンを例に取りますと、
私たちがキリンとして認識している構造物も
つまり認識上ではざっくり言ってクオリアのかたまりですが、
そこに現れているクオリア(物自体ではなく)をいくら分解してみても
その本質はわからないであろうということです
(このことは素粒子も同様です)。
それはたとえば、ソクラテスの脳をどれだけ解剖しても、
そのこと自体に伴うクオリアはこちら側の内部で起こっていることであり、
外部に有るであろうソクラテスの意識には永久に到達できないのと
ざっくりレベルで一緒のことです。
そもそもキリンとは何なのか、
そこから考え直してみましょうというご提案でした。
以上の話は時計さんにはわかってもらえそうな気がするんですが、
どうもこの2~3日のこのスレの雰囲気からすると、という気がします。
いずれにしても語彙の貧しさは、若い頃もっとちゃんと勉強しておけばよかったと返す返すも… ま、いいか >>144
私は自然淘汰という説明は逃げだとさえ思っています。
何でもありじゃないかと。
>>145
ソクラテスを解体すると、ソクラテスの血のクオリアや
ソクラテスの脳のクオリアが現れますが、全てこちら側のものです。
では、ソクラテス自身のクオリアはどこに行ったのかと言うと、
私は存在しないと思いますが、全く異なる「宇宙」なのかもしれません。 >>146
名前は時間でなくて時計です。
また間違えました。:) >>146
私が理解するところによると、広義の進化には退化も含まれます。
自然淘汰というのは今見えているその環境を実現した過程にすぎず、
つまり自然競争の勝敗には偶然も関わりますから、
勝ち組が必ずしもスバラシーということではないようです。
進化で重要なのはむしろ変異です。
いわゆるセントラルドグマによると進化は偶然ですが、
そんな中、異彩を放っているとされるのがマーギュリスの共生説です。
いい加減な要約をすると勝者は勝者になるべくして勝者になったという説です。
私はヒトのような高等生物が存在するとなると
偶然だけでは40億年くらいだと無理がある印象を持っています。
何らかのメカニズムがあるのであろうということです。
そして生物の進化は受精卵が成長するのと同じくらい当然のことじゃないかなと
直観しているわけです。
いずれにしても進化論はわかりにくいです。 >>149
私は、直観で言えば、もし進化が偶然だけで起きるのであれば、
この現世はもっと混沌としていたような気はします。:)
進化には何らかのメカニズムがあるという説には賛成します。 知識の羅列は兵隊を出し入れする敵との駆け引きになってない。
肯定否定などで考えが足りないと。
うのみにせず批判的検討をしないと弁証法的思ついで敵陣を駆けて敵陣を切り裂くようなときの頭脳の反応回転がないね。哲学は独学では無理だけどね。読んで書いてるだけじゃだめさ。哲学は戦場の実学。 古典哲学なら古典戦術、現代哲学なら現代戦術を学んで取らないと、ソクラテス以来の哲学
が台無し。 ソクラテスはギリシャ一の知者と神託で評された。そのぐらいの資質がない哲学者なんて必要ない?俺は宇宙神の神託でやさしさが宇宙一っだった。がカントなんてなにかったのかとか。ヘーゲルとか。哲学の席次に並べるわけない。
ひるんだソクラテスをいかけてつぶすぐらいの活気がないと哲学じゃない。 ソクラテスはギリシャ一の知者と神託で評された。そのぐらいの資質がない哲学者なんて必要ない。俺は宇宙神の神託でやさしさが宇宙一だった。がカントなんてなにかあったのかとか。ヘーゲルとか。哲学の席次に並べるわけない。
ひるんだソクラテスをいかけてつぶすぐらいの活気がないと哲学じゃない。 東京モード学園とかのほうがいいんじゃないの?ファッション通信とか。身分が下にされるの嫌だろ? どんどんミニマムな状況を考える。
入力を変化させて出力するものが「(広義の)意識」である。
変化とは何か。
変化するためには自由度がなければならない。
どこに自由度があるかで意識を区別する。
自由度0の意識
そんなものまで考えてみる。
入力がそのまま出力される。
ほんとうに「そのまま」なのか、というと、
どうやらそうではないようだ。
意識の外部に「自由度」がある。
この「自由度」を内部に取り込んだものが(基本的な)意識であり、
さらに、自由度^2以上ものものが、一般的な意識(として認識されるもの)であろう。
これに、いろいろなものをつけくわえることで、意識だけではなく、生命や進化や、
変化に関係するあらゆるものになる。 哲学において大切なことは自分で考えることだと思います。
だから、ソクラテスは本を書かなかったのだと。 「自由度」はどのようにして生まれたのか、
あるいは最初からあったのか、
そもそも「最初」などというものも自由度がないと無理な概念(無理ゲー)なのではないか。
いつものように「点」から考える。
いや、「点」に考えさせよう。
「点」は考える。「考える」なんとことは「自由度」がなきゃ無理ゲーじゃないのか?
よって、「点」は考えない、ということから始める。
「始め」ちゃだめだ。まず、「自由度」を追い出さねばならない。
すでに「始まっちゃっている世界」から「自由度」を追い出すことはできない。
たとえ世界が終わったとしても、保存則がある限り、なにかが保存されている。
とすれば、「自由度」とは「保存則」でもある。
これを召喚して実体化させよう。
召喚するための魔法陣が必要だ。
それは、「数学」である。(形式主義的には)「形式」といってもよい。
(文系)哲学であれば、それは「言葉」であろう。
「形式」も「言葉」も同じものである。
ここで意識に戻る。
「意識」とは「召喚」のための魔法陣、すなわち「言葉(思考言語)」(を使うこと)である。
ちょっとおかしい。意識とは自発的魔法陣か。
「自発的思考言語」そのものを「意識」ということにしておこうw
それそものが意識体である。 うーん、文字が抜ける。
抜けたり湧いてきたりとか、いわゆるこれが突然変異を...
そこに自由度がある限り、変異は避けられない。 もはや私は長期戦です。
私がまいた種から芽が出るのは百年後でもいいかなと。
たぶん全体としては消耗戦です。
みんなで種をまけば誰かの種から芽が出るのではないかと。
私が犠牲になったとしても
神様は私の死を無駄にはなさらないのだろうと。【星の一秒】 >>158
パスカルは面白そうです。
>>161
意味の無い生など無いかと思います。 自由度0の変換を考える。
入力がそのまま出力されるとする。
これは写像(さらに抽象化すれば「射」)である。
入力と出力、そのdomainとcodomainが異なれば、
これは「変換」という「意識」からみれば、外部にある「自由度」である。
domain/codomainとなるものを同一とするならば、外部に自由度は「ない」。
だが、今度は、「変換」側が、「入力」「出力」という区別をつけるため、
「変換」内部に「自由度」が取り込まれる!
自由度がどこにあるか、その可能性としての自由度がさらに確保される。
その機構が「意識」であろう。
主観と客観の違いは、「自由度」をどこに求めるか(2つ目の自由度)、である。
というわけで、ここまでの考察を元にして、非標準論理が構築できそうだ。
意識論理。(ほぼ量子論理(たくさん種類があるけど)となるだろう)
どのようにして意識論理を構築するか。
主観世界において主観は存在せず、客観世界において客観は存在しない。
この2つの世界をどのように(論理的に)接続するか。
ふたつの宇宙(議論領域)を接続するのであれば、タイヒミュラー空間である。 ここでいうタイヒミュラー空間は、本家のタイヒミュラー空間ではなく、
宇宙際タイヒミュラー空間のほうである。
宇宙際は、基本的に、積と和の違いの考察からなっている。
積にも内積や外積やドット積やらたくさん種類がある。
和は、よくわからないが、少なくとも2つ以上の種類があるはずだ。
スカラと単位と、あとひとつ。
いまのところ、あとひとつとして、「表裏」を考える。「ビット」でもよいだろう。
scalar,unit,bit
あわせてBUSか。
「意識」とは、この「BUS」である。この路線で突っ走ってみるか。 主観と客観をmodalであるとする。
主観p ⇔ ¬客観¬p
客観p ⇔ ¬主観¬p
こう書いてしまうと、なんだかあたりまえすぎてつまらない。
主観・客観ともに、位相空間xの部分集合としたとき、
主観と客観の関係はどのようになるのか、どのように対応あるいは接続あるいは変換されるのか。
これに、様相論理のKの公理系を与えようとすると、
必然性演算子□が主観なのか客観なのかで悩む。
客観のほうが必然であるような気もするが、
主観のほうが必然で客観こそ可能性なのだとも考えられる。
どちらでもよいように、対称性をもった新しい非標準論理を構築すべきなのかもしれない。 >>166
それも主観で表せる時点で、すべてが主観だ。
見られる側の対象が見るのであって、見る側が見るのではない。
だからお前は永遠に割り切れないんだよ。 客観p ⇒ □p
とするならば、
主観世界内での客観は、客観ではない。
この客観を主観的客観とするならば、
主観世界内にあるのは主観的客観のみであり、
主観世界内の主観は主観的客観的主観であるw
これと別に、客観世界を考える。
客観世界内にあるのは客観的主観のみであり、
客観世界内の客観は客観的主観的客観である。
この2つの世界を貼り合わせる。
どのように貼り合わせるか、といえば、主観と客観がmodalである、という前提で貼り合わせる。 >>167
段階を踏んで説明しているので、途中までで勘違いしないように。
叙述トリックなんだから、短絡的に考えてはダメw
(最終的に、イヤミスでサゲる予定) 説明するのではない、説明している時点で「途中までとか説明」
まったく的はずれだ。
逆なんだよ、自然に説明されるんだよ、何も言わずとも
自然に生じないそれは お前の妄想でしかない。 客観世界においては、客観こそが必然であり、主観は可能性である。
主観世界においては、主観こそが必然であり、客観は可能性である。
(必然と可能は逆かもしれないが、とりあえず、このように考える)
この2つの、客観論理と主観論理を、うまく貼り合わせる。
表の世界と裏の世界。おたがいに必然と可能が逆転している。
これを滑らかにひとつの世界としてつなぐなら、メビウスの帯状になる。(ほんとか?)
このメビウスの帯状のものは、帯として幅はもたないが、局所的に表裏を持つ。
二周すると元に戻る。
これを、幅がないのだから(閉じた)紐とする。輪をひねって二重にしたものだ。
この二重紐上に非標準論理を構築してみる。
真偽値は「ない」が、局所的には2つの値がある。
局所的に古典的(二値)論理を設定できる論理的多様体だ。
この局所的な二値を主・客としたとき、その貼り合わせが「意識」である。
そう考えてみる。 >>162
>意味の無い生など無いかと思います
なんか知りませんがyoutubeのおすすめ動画に
手塚治虫のドキュメンタリーがでてきまして、
なんか知らないけど延々見てしまいました。
なんか知りませんが「人は何のために生きるのだろうか」
とか今更のように考えてしまいましたけど、
とにかくなんだか意味有りげです。 >>172
私は厳密には浄土宗の信者ではありませんが、
人生とは自由だと思います。そして、全てに意味はあると。 じつは私は、「存在」に基本的なところでの意味はないとも思っています。
私がイメージする世界の中で「存在」というのは
意識の中に浮かんでいる何らかの要素の「意味」ということになりますが、
(たとえば時計は文字盤や針などの意味)
意味というのは絶え間ない時間の流れの中で限りなく更新され続けるもので、
(たとえば時計は電気スタンドや本などとともに部屋という意味に変わる)
つまり裏を返すと意味というのは確実に消え失せていくものです。
しかし一度は失われたものであっても一定の条件が整うと
再生される(しかも恒常的に)場合があって、
ただしその現象にはいかなる深い意味などなく、
即ち何らかの作用の結果として残ったものは残ったし、消えたものは消えた、
ただそれだけ、
あるいは「存在」にそれ以上の意味があるとは思えないという
ようするにただそれだけのはなしです。
このことはじつは人生に意味はないということにもつながりますが、
私としてはどちらかというと人間は自由だという方向でまとめておきたい
ところです。【ポジティブ思考推奨】 >>174
よく考えてみると、こっちのほうがポジティブでした。 >>175
意味には、まず、2つの意味があるのかなと思います。普遍と個物です。
個々の時計は個物ですが、時計一般は普遍です。
恒常的なものは普遍で、刹那的なものは個物だと思います。
この2つの意味は空間的なものですが、時間的な意味もあると思います。物語です。
人生には物語としての意味がある。私はそう思います。 意識が肉体をつくり、個体となり、世界をとりこむ。
意識が先にあるとする。
意識がとる戦略は、Mimesisだ。
可能な戦略はすべてとったのだろうと思われるが、もっとも強いだろう戦略が、
Mimesisである。
基本的には対称性がある。
P∧¬P
から考えれば、基本的な対称性は「反転」である。
「反転」をもういちど「反転」させる。
否定の否定である。
これは肯定にはならないが、肯定のMimesisになる。
とすれば、Mimesisとは、戦略というより、自然現象である。 どう頑張っても凡人は空想と空間を抽象的な時間で物語って意味を想像した感想文になってしまうものですよね 自然現象としてのMimesis。
自由度0の変換であっても「意識」と呼んでしまう。
理由は、「変換」が「遅延」をもっているからだ。
この場合の「遅延」は「時間」が前提ではなく、「時間」を作り出すものである。
この「遅延」が「記憶」である。
「変換」は入力と出力の間の対称性である。
これを「対称性変換」と呼んでみる。
二度の「対称性変換」。これは行って戻ってくるので「物語論的変換」である。
このときの入力と出力間の「差」を吸収するものが、自由度1以上の「意識」となる。
現実的は「対称性変換」ではなく「超対称性変換」でなければ人間の意識レベルには達しないだろうが、
とりあえず、二度の対称性変換(の意識)程度であれば、そこらへんの自然現象の中にみいだすことは可能であろう。 >>179
どんな人生も一流の文学より面白いのではないでしょうか。
そして、一つの人生に複数の物語があってもいいのではないでしょうか。
いつからでも始められる物語。 人工意識とはMimesis装置である。
だが、入力を量子(状態)とすると、
出力と元の入力を比較することができない。
no-cloning theoremである。
しかしながら、保存則があるので情報は保存されている。
問題は「帯域」の狭さであろう。
これは不完全性定理の根源ともいえる問題だ。
「非標準完全性」。わたしのもとめているものはこれかもしれない。
=「人工神」
「非標準完全性(=人工神)」を召喚する魔法陣(形式あるいは言葉)。
「帯域」については、フーリエ変換を参照のこと。 >>181
どんな人生かによって面白くない人生もそりゃあありますよ
一流文学どころか物語にすらならない凡人は他人と
語り合って面白がるしかないわけですw >>183
人の理性はすばらしいものだと私は考えます。
理性に逆らって生きることは果たして本当に凡人なのかと思います。
物語にはそういうことも語られると思います。:) 理性に逆らって生きるている話はしていなかったんですが、なんのはなしでしょう? 地球上に生えている草にどれだけの種類があるのかは知りませんが、
人間が食ってうまいと思えるのはそのうちのほんのひとつまみだと思います。
同様に、大抵の人間の人生の物語に商業的価値があるとは思えません。
しかし昔聞いた言葉で
「どんなブスにもその娘を可愛いと思って育てた親がいる」
というのが私の中で妙に残っています。
ちなみにその言葉は“逆玉に乗るコツ”とのことです。 私にはパクチーはただの草としか思えません。
私の友人にパクチー大好き人間がおりますが、
どうやったらそんなふうになれるのでしょう? 「ブスで可愛い顔と思えなくても親が原因だから可愛いと思って育てた親がいる」
ちなみにこの言葉は”嫁ぎ先で苦労させないコツ”ってことになるかな。 >>187
食べ物じゃないと思えば好きになれるんじゃないか
愛でるのじゃよ おいしいくさなんてどこにでもあふれてる。はんしょくをさけられて子供おろされたから草がまずいんだろうな。食えなくなってる。偏食すら辞めたら?ブスみたいのほうが繁殖が抜け目ないけどな、美人の時間は無能に長いさ若いからしょうがないけど美人は。 昔サントリーから『カクテルバー』というシリーズが発売され、
田舎者である私としてもさっそく都会の雰囲気に飛びついたものです。
その中にはアタリハズレいろいろあったわけですが、
その中で唯一飲みきれずにドブに捨てたのが
何を隠そうカクテルの王様マティーニです。
ところがしばらくすると何故かまた試してみたくなって
そしたら今度はメチャクチャうまく感じたのです。
今ではたいていジンとベルモットを隠し持って暮らしていますが
あの感覚はなんだったのでしょう?
パクチーはいつ食っても草なんですけどね【哲学】 ちなみに『カクテルバー』のキャッチコピーはたしか
「愛だろ、愛」でした。 というか戦える起伏とかごつごつしたかんじとか整ってないそんなものに愛着ないのがくずさ。逆に感じてるとなあ。ブサイクは似てるからブスを嫌うんだろ。 いかついねえちゃんのほうが喧嘩戦争実績が表に出て正直だ。 というか美人より血統がふけてるブサイクが美人に強姦するから世が荒れてるとおもうよ。マジで掃討。 ゲテモノというけど自分はどうなの?肌や顔に刻まれたものが差別者としてえせ美人だけとか寂しいね。 美しさを物に見るか心に見るか行き着く先は両者のバランス ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています