意識のハードプロブレムの答え26
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1の考え。
全ての存在は主体にある。
脳神経系を含む客体は主観を精緻に表現したものである。
他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。
意識の外側は存在しない。
例えば、どこかで雷が鳴ったとする。
雷は極めて独立性の高い形式の私であると私は考える。
語り得ないことは語り得ないと語り得る。
語り得ないことは矛盾である。
語り得ないことは無い。
無は無い。
意識のハードプロブレムの答え25
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1674694916/ >>1 追記
実在はクオリアを説明しない。
クオリアがが実在を説明する。 >>前スレ988
不可知と言ってしまったら、たとえば他者の意識の存在の真相も不可知です。
そもそも理解するというのがどういうことなのかも曖昧です。
しかし空想するのは勝手です。
そしてその空想つまり仮説を利用してうまく行ったらそれでいいと思います。
もちろんいつか覆る可能性がありますけど、
むしろ自分ごときにファイナルアンサーを語れると思ってはいけない
それが大人になるということだと思うことにしています。
『機動戦士ガンダム』の作者によると、人は喪失によって成長するとのことで、
また、まずはプライドを捨てるところから始めるのが日本社会の基本のようです。
ちなみに私の関心事は「量子」「遺伝子」「無意識」といったところです。
もうちょっと見通しの良い見方がある気がするのです。
その流れで心身問題も解ける気がするのですが、
100%の確信はありません。 >>前スレ987
私にとって言語の獲得でもっとも興味深い要素は
それは一匹だけでは成立しないという点です。
たとえば最初の直立二足歩行は一匹でも出来たかもしれませんけど
会話は一匹ではできません。
そこでいきなり飛躍をすると、生物が個体単位ではなく種単位で進化している
ということにつながる気がします。
いずれにしても たぶん 言葉以前の何らかのコミュニケーションがあった
と考えておくのが望ましいと考えます。
これは直立二足歩行についても言えることですけど
重要なのは最初のサルではなくて、それが多くのサルで共有されていった構造
だと思うのです。
一般的に言って、謎の部分だと思います。 存在は意識による創造的な言語的区別により形成される。それが「存在」である。言語的区別により何かしらの存在は現れる。
「存在」は「『存在』という言葉」と「存在の対象」の区別を有しており両者は不可分である。そして、相互的(一体的)であるが区別を形成した意識は自覚を得る。
つまり、自己意識は区別と相互性を通して自らを自覚的に形成する。
また、「存在」と「非存在」の区別に於いて、例えば「A」と「非A」であるが、意識は「Aの本質」(発音や形といったルール)を守る存在を「A」として見る。
「本質」は、ルールとして、現実的な世界の中に浸透している。それがなければ、前言語的な意識として、世界は境界線を失い不明瞭なものになるだろう。
意識はそうした「ルール」の世界に規定され、そしてまた、そのルールを改変しつつ生きる。「意識」や「存在」は、そうした循環に於いてのみ現れるだろう。 前スレ>>997
お前が存在しないしないと言い張る物質は
お前の意識に存在している。
お前の理屈からして、順番としてお前が先に
お前の意識に存在する物質がなんなのか
どうやって存在するのか証明するのが先
でこすけの意識のハードプロブレムそのもの >>7
私のスタンスとしては、このレスのほとんどに同意できます。
(同意できない部分というのは「ルールの改変」が私に具体的にイメージできていない
ということに関連しての部分です)
ところが問題がある気がしています。
そのルールは破綻する可能性があるということをゲーデルは言っている気がするのです。
そしてそれは意識のハードプロブレムの解明にも関わる気がしています。
そこでanonymouse さんが「1+1=5」と言ってみたり、
超球面さんや私が騒いでいるということだと私は認識しています。
むしろこっちの方がハードプロブレムではないかと、
あるいはハーダープロブレムでしょうか。 >>9
私のかんじとしては、たとえば天狗や河童などは
情報としてなら確かに意識の中に存在していますが、
おそらく実在していません(私にはバルタン星人なら見た記憶があります)。
素粒子もそういうものだというのが私の主張です。
で、私が何故いろいろなものを認識できているのかですが
今は時間的な都合でできません。
しかし以前に繰り返し述べてきたつもりはあります。
充分なものだとは思いませんが、
と言いますか、物質が客観的に存在することを証明してしまえばそれで終わりだと思いますけど
たとえばチャーチランドみたいな性格の悪いやつならデコスケ野郎をいたぶるべく…
私もけっこう性格悪いです:) >>9
まずお前の現象的意識に存在する物質を証明するのが先だ
と言っているのだ
ここは意識のハードプロブレムであってそもそも
意識は形而上の存在であって物質として実在しているわけ
じゃないんだから、前提を了解しなければならない
できないならしょうがないが。 >>10
「1+1=5」という主張を批評の空間に投げ込む場合、多くの場合、10進数で「1+1=2」に修正され「5」は否定されるだろう。
そうした数のルールが本質として個々人の生活の営為を支えているのであり、また個々人の営為から本質は形成されるのである。
また、例えば、この批評空間に「真珠は白い」という意見を投げ込み、「黒い真珠もある」と修正されるとする。
その場合、ルールが改変され、ルールは「真珠は白や黒いものがある」というルールに変化する。こうしたルールが、現実的な「真珠」の射程を変更する。
ルールの変化により、その存在に変化が生じるのである。それまで「真珠」として存在していなかった存在は、それ以降「真珠」として存在するようになる。
本質的なルールの世界は、初めは現象の世界と区別されるが、批評空間を媒介するようになるならば、それぞれ相互的な関係になる。
意識はそのような区別と相互性を行き交い、それらを行き交う存在、即ち意識を自覚するのである。 >>11
これを日本の現代哲学風に味付けすると、文字があれば反応する、車が迫れば身をかわす、それぞれに動機は在るが、客観的な物質として描けば、恐れの対象は車でもなければ、砕ける身体でもない。車若しくは無くなる身体によって失われる意識だ、という永井的な私論になるか。 ユークリッド原論によれば、1は数ではないので、
1+1=5であってもなんら問題は「ない」。
そのような(数学)世界は、数学の想定内である。 >>16
1+1=5などは
1などの数や演算記号+や=の定義にもよるね。
もしそれらの定義や表現が現行の数学のと全く同じであれば、
1+1=Xの真偽は定まることになる。 仮に店で会計をする際に、「1+1=2」であるところの数のルールに基づかず、別のルールに基づく計算をすると「話が通じない」という事態が起こる。
また、専門的な話をする場で、「1+1=2」であるところの数のルールに基づく計算しかしなければ、「話が通じない」という事態も起こりうる。
つまり、ルールならどのようなルールでも良いのではなくて、「現実の営為に基づくルール」でなくては現実的な営みは不可能なものになるということである。
そうした「本質的なルール」は、批評の空間に於いて自らの意見や主張に同意がある時に形成される。
そのような「同意のある作品」と「作者」に於いて、つまり、客観的な作品と主観的な作者に於いて、主と客は相互的な関係性を形成する。
意識は、初め主と客の対立を見るが、そこから反省的に形成される相互的な関係性を俯瞰することで自らを自覚する。 「ある」ということは、「ない」ということがないと成立しない。
外部に、別の基準がなければ、そうなる。
これらが無定義用語(すなわち外部に基準はない)とすれば、
大きさがなく、互いに異なる2つだけの向きをもったベクトルのようなものだ。
大きさがなく2方向の向きだけがある。
数学にそのようなものがあるのかどうか調べがつかなかった。
これは「状態」であり、2つの状態を持ちうる1bitもしくは1Qubitである。
のだが、それ単体(それ自身)では情報を持っていない。
情報を持つためには、少なくとも2(Qu)bit必要だ。
それゆえに、脳は少なくとも≧2(Qu)bitであるw
2(Qu)bitの意識を考えてみる。
反応が必要なので、外部にも(Qu)bitが必要だ。
そこにはなんらかの(相互?)作用も必要だ。
本日のワインはメルロー。2(Qu)bitの情報空間と外部の(Qu)bitがどのように作用するんだ?
こないだの論争をみていてカレーラーメンが食べたくなりカレーヌードルを買い置きしてあるが明日にしよう。
(Qu)bit同士の作用って...なんだろ。 >>6
前スレの「カレーライスはラーメンのような気がする。」は、いかにもでこすけさんらしいレスだと思ったのですが、
999でわざわざ否定してましたね
「カレーライスはラーメンのような気がする。」というレスは、でこすけさんのものではないわけです
現実的に、擬態もこういった場では現れる可能性があるということですね
それでもあのレスは、でこすけさんのものではないにしろ、でこすけさんに関係性のあるレスといえます
なにしろ>>10は「カレーライスはラーメンのような気がする。」を否定してないように(わたしには)見えます
でこすけさん的には、前スレ999は「ルール」を守ったものですか?
それとも「ルール」を改変したものですか?
もし、本当は904=999なのに、904≠でこすけと999で表明したのなら、それは「ルールの改変」と呼んでも良いと思います
実際はそうではなくても、イメージはできるかと ルールは哲学の展開とともに、それに沿って変革されねばなるまい? 意識は、初め主と客の対立を見るが、そこから反省的に形成される相互的な関係性を俯瞰することで自らを自覚する。の文よりでこすけのハードプロブレムを考察する。
でこすけは主と客との対立を気がするなどの文句で意図的に発生させ、主と客の相互的な関係性を十分に俯瞰もせず頑なに自身のルールを羅列する存在なのである。
つまり、反省がないサルなのである。 とはいえ、真を偽と表現できるのは人間ならではのことでしょう
たしかに>>10でいうとおり、それが「意識のハードプロブレムの解明にも関わる」のかも知れませんね
自己意識がある人間の中身が、本物の、わたしはわたしである、ということを他人の存在なしでは証明できません
わたしが本物なのだ、と伝える相手(もしくは観測する側の人間)がいなければ真偽は問われないからです
そして、正直な自分というものを表現できなければ、本当の自分というものも他人に観測されません
わたしは真であり偽である
この匿名掲示板では、われわれもそのような存在であるかもしれません
それはここに限った話ではないかもしれませんが 他者がいなくとも未来の自分に問い掛けることはできる
それを他者と呼ぶのかどうか >>23
いくら言語を扱えると言っても嘘の情報ばかり並べるなら何も言っていないよりたちが悪いな:)
どうせ他人をゲシュタルト崩壊させたい愉快犯なんだろうが:) >>1
そういうものの考え方で何がやりたいのだアホw 相互作用について考えた。
結局Qubit同士の相互作用とは衝突であり、それが制御されていれば量子ゲートになる。
情報は保存される、が、それが落とし穴でありトラップだ。
そもそも、最初からつながっていなければ衝突もしない。
ここで考えているのは裸の2ビット脳と裸の外部ビットだが、
人間の場合は、入力(外部)ビットはすでに情報を持っている。
裸の入力(外部)ビットは情報を持たない。衝突したとき情報を得る。
言葉を整理する。(Qu)bit->ビット(bit):古典ビットもQubit扱い。
外部ビット->入力ビット。 >>29
おまえがおっさんをおまえだと思ってニヤニヤ笑ってたらおまえだと思ってるおっさんに殴られたぞw
これはどういうことだアホw >>29
そういう意味だったのか❗確かに横にすると笑顔だ❗目は笑ってないけど ❗ 衝突するためにはつながっていなくてはならない。
別世界にあれば衝突できない。
最初からネットワーク上にある。
ネットワーク上でノードが対生成し、衝突する。
ネットワーク上でのノードは、ネットワークという空間での位置情報を持つ。
ひとつのノードは3つに分裂する。3つのノードはひとつに統合される。
これによって曲率のようなものが発生し、それが振動となってネットワーク上を伝播する。 >>12
逃げるようで恐縮ですけど、
今まで散々やってきて全然理解されていないのは
私の表現力の問題だと思っています。
私が言いたいことを私よりもうまく表現できる人はいるんだろうな
と思いつつ私も下手の横好きで、今一度展開してみたい、
ただ、たくさん伏線を引く必要がある気がするし、
簡単に語れるわけないし、
私自身で混乱しているところもあるし、
とにかく時間がかかるのは覚悟して下さい。
それでも敢えて、たぶんご理解はいただけないだろうけれども
あらかじめひとつの言葉に集約するとすれば「創発」です。
私はこの言葉を栗本慎一郎の本で学びましたが
(栗本はマイケル・ポランニーから引っ張っています)
つまりこの概念を説明するのも なかなか になります。
さて、この話を始める上で私がどうにもぬぐいきれないのが
>>10の問題です。
そうは言ってもあらかじめ保険はかけておきたい。
保険をかけないやつはアホでしょう。
とりあえずスレ主は「ゆっくり行きましょう」と言っているし、
ことさらな急ぐ必要もない気がします。 >>34
いきったルールで自分を縛って答えられないんだろアホw >>1が元々突き詰めた定義ではないらしいということだアホw 精神(心)の本質に関する見解は、一般的に、三つしかないとされている。
第一に、精神の現実と無生物の現実はまるで違うとする二元論。
第二に、物質的な現実は精神の中にしか存在しないとする観念論。
そして最後に、精神的な現象はすべて物質の動きに還元できるとする素朴唯物論。
二元論や観念論は、知覚をもつ私たちがほかの事物と同じように自然の一部であるという発見や、
私たち自身を含む観察可能なあらゆるものがおなじみの自然法則にしたがうことを裏付ける、増える一方の圧倒的な数の証拠と矛盾する。
一方素朴実在論は、直感的に見ても、主観的な経験と両立しづらそうだ。
だがじつは、ほかにも選択肢はある。対象物の属性が別の対象物との相互作用によって生じるとすると、
心的な現象と物理的な現象の隔たりはかなり小さくなる。
物理的な変数も、心の哲学者たちのいう「クオリア」―「赤が見える」といった基礎的な心的現象―も、概ね複雑な自然現象とみなすことができるのだ。
―中略―
わたしたちは確かに、これが「わたし」だ、という独立した実体を直感している。
だがそれをいえば、かつてわたしたちの後ろにはユピテルがいると直感していたわけで・・・。それに地球が平らだとも感じていた。
わたしたちは無批判な「直感」を通して現実の有効な理解を構築するわけではない。
精神の本質に興味をもつ人間にとって内観は最悪の研究手段であり、自分自身の思い込みを探しまわって、その思い込みに溺れることになる。
だがそれよりひどいのが、この問題に登場する二つ目の「物質」という概念だ。
これもまた、「質量と運動だけによって定義される普遍的な実体」というあまりに素朴な物質の概念に立脚した形而上学的過ちの残滓なのだ。
なぜこの形而上学が間違っているかというと、量子物理学と矛盾するからだ。
過程や出来事、ひいては関係論的な属性や関係が織りなす世界の観点に立つと、物理的現象と心的現象の隔たりも、それほど深刻に見えなくなる。
なぜならどちらも、相互作用が織りなす複雑な構造から生じる自然現象とみなせるようになるからだ。
『世界は関係で出来ている』 カルロ・ロヴェッリ p182,183-184 >>20
>「ルール」を守ったものですか?それとも「ルール」を改変したものですか?
私としては、ここではルールは守ってやっていくつもりです。
しかしそのルールが絶対なのかという問題提起はしていきたいと思っています。
「1+1=5」でいうと、これはanonymouse さんの表現でしたが、
彼は「理性と狂気は紙一重」みたいな表現もしていたこともありました。
私に言わせれば「理性は狂気のひとつ」なんですが、
つまり私の理解では「1+1=5」は狂気です。
テーブルの上にリンゴがひとつ有って、そこにもうひとつリンゴを足すと
全部で五つになるということ、
そしてこれは誰かにとってはリアルの可能性があるはずです。
そういう人はキチ○イ病院行きになるわけですけれども
そこでやっぱり一応何故「1+1=2」なのかという疑問を持ちます、
これは何故そのような表現が正常とされるのかという意味ですが、
私の考えではそれは、リンゴがひとつあるところにもうひとつリンゴを足すと
リンゴはふたつになるから、ではなくて、共通理解が成立したから、であろうと。
たぶん「1+1=2」以外で共通理解が得られる可能性は極めて低いだろう
けれども、もっとも重要な要素は「整合性」ではなくて「共有可能性」、
となると整合しないことが共有されることもある、
あるいは構造的には「1+1=2」を選択するのも「1+1=5」を選択するのも同じこと、
「1+1=5」が狂気なら「1+1=2」も構造的には狂気ということになります。
私たちにまともに考えられる保証は無いということです。 >>45 続き
しかし、だからと言って気にやむ必要はない、
べつに「1+1=2」で悪いというものでもありません。
とりあえず一般には「1+1=2」「A=A」ですから
私もここではそのルールに基づいて展開する、
答えはあくまでも可能性のひとつに過ぎなくなるわけですけど、
とりあえずカレーライスがラーメンに感じるのは狂気であって、ここでは却下する、
あるいはカレーライスは汁なしカレーラーメンの麺をご飯変更かもしれないけれども、
だったら最初からカレー屋に行けよ、ラーメン屋でそういう注文をする意味が謎、
そういう注文を私が受ければ作るけれども
確かにこの店のこのルーでご飯を食べてみたいというのはあるかもしれません。 >カレーライスは汁なしカレーラーメンの麺をご飯変更かもしれない
アホな表現になっていますが、何を言いたいのかというと、
狂気を理性的に解釈することはできるかもしれないということです。
たとえば色即是空はじつは狂気なんですけど、
理性的に解釈することもできます。
ここでポイントになるのは狂気らしきものが賢者達によって共有されていることが
あるかもしれない、その狂気の方がリアルなのかもしれないということです。
Anonymouseさんにこだわるようですけど、
彼の考えは、意識のハードプロブレムの答えは普通の意識状態では理解できない、
上のステージに達しなければリアリティはもてない、
という感じだったと私は理解していますが、
私の考えでは知性はどれほど進化しても所詮は狂気のバリエーションです。
どこまで言ってもゲーデル的な限界からは抜け出せないと思います。
ただ、汎用性というのはあって、今よりも有効な世界の解釈の仕方はあるはずだ
と思うのです。
綺麗事を言えば、工業製品や医療などに応用されるということです。 誰も自らが正気であることを証明出来ない、というのは批評空間から逃れているからだろう。自分で自身の正気を証明出来なくても人々によりそれを確かめられる。
それ故に、同意のあるルールと無いルールを同じだと言うことは出来ない。また、他者の正気を否定する相対主義者の発言の正気はどのような根拠に支えられるか。
この自己矛盾から逃れることが、いよいよハードプロブレムになってきた、と言うことなら、指摘はするが、この自己矛盾は追求はしない。 >>48
それならアホの時計が>>1に辿り着いた過程を説明しろよw >>51
お前さんもそろそろ自分の考えを述べてみてはどうだ。 また1+1などの数学的定理の話に戻るけど、
1+1=2などが真か偽になるかは、
整数や+、=などの定義をどうするかで定まるということです。
きちんと定義されれば、真か偽かは人間の意思によらず決定されます。
そして、どの定義が最もふさわしいかは、A+B=Cなどの数学的命題が
現実(世界)の数理的構造・性質(の一面)を表現するものであるかどうかが重要だと思っています。
つまり、数学的真理・定理は現実との整合性が重要であり、
その条件が満たされていれば、どの数体系や演算ルールでも良いと思います。
逆に現実と関係ないルールがある数体系はみな疑似数学だと個人的に考えます。 今日のBSフジのガリレオXは「「運」を理解したい! 社会心理学・確率論・統計学で迫る運の実体」
であった。am11:30〜
2週同じものをやるので来週もこれ。
ベイズも扱うのでみたほうがよいだろう。 >>53
アホの時計の分解能を上げることがオレの考えだw >>52
まあ色々な受け売りでいきってるのだけは理解できたわアホw
だからそれも説明できんのだろw >>56
お前さんには無理だろう。
>>57
例えば、誰の受け売りかな? >>58 追記
特に誰の受け売りもしてはいないが、そう見えることには興味がある。 >>60 追記
ま、私は大阪・堺の出身だから通じるのだが。
わからない人はいるかもね。 >>54
例によって円周率ですけど、
直径を1とすると円周が無理数になるということ、
つまり有限の長さに無限が現れるのは、
数学的に問題がなくても現実的には問題がある、
私はそれは破綻だと思いますが、
ようするに自然は数学的には表現できない
数学は有効な近似ではあるけれども
疑似と言えば疑似、
じつはそもそも自然というのは数字どころか言葉で表現できるものでさえない
と考えます。
人間に関係なく答えはあるという考え方は
じつはある種の人間中心主義という印象です。
その自然観は人間が作ったものだからです。
世界は人間を中心に回っているわけではない
と思う。 人間は自然の部分だから人間に関係しない
世界の答えは真ではないし
人間中心には回っていないから人間が
答えを求る機会が世界に巡ってきたといったところではないかな >>64
>自然というのは数字どころか言葉で表現できるものでさえない
それはまさにその通り、人間の言葉は世界を近似としてしか説明できないと思います。
>人間に関係なく答えはあるという考え方は
じつはある種の人間中心主義
そのような発想もあるとは思ってなかったので、なぜそう考えるのかは正直不思議に思います。
まあ、そのように考えるのも自由だと言えばそれまでですが。
個人的には、世界に関する答えはあるけど厳密には不可知だと考えるのが自然だと思います。 円周を1とすれば直径は1/Π。
ただそれだけの話。
人間は宇宙の一部なのだから、宇宙全体を捉える/捕らえるだけの容量はない。
それゆえに矛盾許容論理が必要なのであって、思考論理は矛盾許容論理。
その矛盾許容がクオリアとしてあらわれる。
意識とは、不完全性における外部の公理を更新していく運動である。
この運動はスピンとして... 物理主義の問題の鍵は測ることにあると思う。
例えば、本の大きさを知りたいとして、物差しで測る方が正確だ。
勿論、近似ではある。
重さも測りで測る方が正確だ。
主観主義者としては、それは先に数のクオリアがあると言いたくなる。 >>50
>自分で自身の正気を証明出来なくても人々によりそれを確かめられる。
『ローゼンハン実験』というものがありまして、
「精神科医が、正常な人と精神障害を持つ人を見分けられない」という実験だそうです
この実験に対してローレン・スレイターという心理学者が「心は実験できるか」という著書でこう述べています
「それでも、ローゼンハンの見出したことには、ある本質的な真実が含まれているように私には思える。
ラベルは実際に私たちが目にしているものをどう私たちが見るかを決定する。
精神医学は、仮に科学であるとしても、まだ生まれたばかりの科学である。
今日にいたるまで、精神病の生理学的基盤については実質的に何も確実なことが分かっていないのである。
科学とは、物体に、測定可能な物質に基づくものである。
精神科医は、全員がとは言わないが、多くの者が実際に、薄弱な根拠で判断を下しているし、
なかにはおそらく不安からだろう、尊大な態度をとる者もいる。」
ローゼンハン実験の最初の、「偽患者を送り込む実験」に激怒した医療機関は、↓ここからウィキペディアからの引用
ローゼンハンが送り込む疑似患者を特定すると伝える。
ローゼンハンは、この提案に同意した。
医療機関は、新しい患者193名のうち、41名を疑似患者の可能性があり、精神科医1名と職員1名により、19名を疑似患者と疑いをかけた。
しかしながら、ローゼンハンは、1人も疑似患者を送り込んでいなかった。―引用終わり
>また、他者の正気を否定する相対主義者の発言の正気はどのような根拠に支えられるか。
精神医学もまた、そのような根拠になり得るかもしれません
だから>>49はそう的外れでもないですよ 日本語は狭いルールに則って毎度几帳面に書き込むのに1+1=の話になるといきなり解が5になるとかそんなやつばかり >>58
おまえすでに以前と変わってるぞアホw
アホ丸出しはそのままだがw >>70
患者と医師の相互的な関係に於いて、即ち、医師は患者を信頼し、患者は医師を信頼するという信頼関係に於いて、精神疾患の存在とその治療がある。
実験が示すのは、患者のふりをして医者の信頼を裏切る行為であるが、それは、そもそも「存在」というものを理解していないからこそ為される。
実際に「正気を失っているかどうか」の区別は、自己意識に於いて現れる。そしてまた、自己意識とは他者を通じて現れるものである。
つまり、自身の「精神疾患を患っている」という主張を医療空間に投企することにより試す。そして、医師の同意を受けて客観的存在として精神疾患の存在を確証する。
このように、相互的な関係に於いて、「正気(狂気)か否か」が現れるのであり、「無い」を「ある」と言い詐欺行為を働いて騙すことは何の根拠になり得ない。 >>74
加えて、相対主義者の自己矛盾というのは「(自身を除いて)全ての人は狂気的」なのである。
何故なら、もし相対主義者自身が狂気に陥っていたとしたら、その発言も「1+1=5」のような狂気的な主張であり得るからだ。
故に「自身だけは正気」でなくては困るのである。しかし、その正気の根拠は相対主義的には、「誰も」正気をかどうかを証明できない故に破綻している。
相対主義者は自己診断で自らを「正気」であると考えるが、そこには、放埒な「チョッカン」や「感性」があるだけであり、相対主義的に根拠は無いのである。 >>22
私が主客云々に疑問をもつきっかけになったのは、
柄谷行人の『日本近代文学の起源』だったか『近代日本文学の起源』だったか、
じつは私自身もピンときていないので、決定力不足は自覚しているつもりです。
ただ、直観的には重要なことを指摘している気がするところです。
私としてはその本は「哲学者必読」だと思っています。
哲学入門のエピソード0のひとつといったかんじで位置付けています。 >>75
ここで言われている相対主義者というのは私のことでしょうから
ひとことさせていただきますが、
私は自分だけが正しいという主張をしてきたつもりはありません。
むしろ私の主張は私のチョッカンに基づく根拠のない解釈に過ぎない
ということは繰り返し申し述べてきたつもりです。
私としては、私の主張を鵜呑みにしてほしくない、よく考えてほしい、
幸い最近私を語るニセモノがちょいちょい姿を表すので
まずそのレスが私によるものかどうかからお考えいただきたいところです
(どうでもいいことですが)。
ちなみにたとえばスレ主の主張はスレ主の前提において正しい
というのが私の認識です。
結果が違ってくるのは前提が違うためです。
確かにスレ主がいう意味においては他者の意識は存在しない、
私と彼とで前提が違うのは、たぶん、人生観の違いだと思います。 私は所詮は町のチンピラですから、たとえば世界に始まりはあるのかという問いに
充分な検証がともなう回答を提起することはできません。
そこで私はチョッカンに基づく与太話を展開することにしています。
たとえばその問題で言うと、始まりがないというのはあり得ない気がするのに対し、
始まりがあるとするのは不自然かもしれないが可能性がないわけではない気がする、
そこで何らかの始まりは有ると考えます。
ただ、現代物理学によると自然は直観と異なる場合があるらしく、
つまり直観はその程度のものということは前提にしているつもりです。
私としては「気がする」とか「思う」とかしか言えなくなるわけです。
それでもたとえば、つまり根拠は示せませんけど、
霊魂が実在しないというのであれば、同様にいわゆる物質も実在しないと言えるだろう、
少なくとも普通の人が普通にイメージしているであろう物質は
上の方にもあったように学問的に否定されているようです。
あるいはたとえば幽霊の正体が枯れ尾花だとすれば、
素粒子にもむしろ当然ながら正体はあるでしょう。
そしてその正体を追究して行った先に意識のハードプロブレムの答えがある
というのが私の見立てです。
そして物質の正体は、もはや物質とは呼べないものだろう
というのが私の予想です。
「いわゆる物質は存在しない」
三年前よりも勢いは無くなっているのが特徴です。 >>78を一瞥して
物質は極めて独立性の高い形式の私であると>>1は考えられるのか?
霊魂は極めて独立性の高い形式の私であると>>1は考えられるのか? 意識在る限り見掛け倒しならぬ見立て倒しな町のチンピラ >>72,73
質問に答えるつもりはないのか。
お前さんのハードプロブレムに関する考えを書き込めよ。
>>79
物質は独立性の高い形式の私であると私は考えます。
霊魂に関しては、未知ですが、私の本質ではないでしょうか。 >>81
独立性の高い形式の>>1と>>1の本質の違いとは何だ? >>77
その「前提」について語ったのが、前スレで少しだけ時計氏に語った「論理」論である。(本人は忘れているかもしれないが)
つまり、恣意的な前提からは恣意的な論理が形成される。しかし、本質的な前提からは正当な論理が形成される。 >>82
独立性の高いというのは、意識の接続(物理的にはニューロンの接続)の独立性の高いことを表現しています。
他なるものと言ってもいいかもしれません。
>>83
ルイス・キャロルのパラドクスを引用した投稿でしょうか。
確か私はX=2からX^2=4を導くのは恣意的だと返しました。 >>79
時計さんの前提にたてば、それはそうだと思います。
私の感性では「物質は極めて独立性の高い形式の私」はむしろ定義です。
時計さんにしてみれば定義以前であって、
敢えて言葉にすればそういうこと という感覚ではないかと思います。
>>83
自然と整合するかどうかという価値基準は、必ずしも絶対ではない
ということがあると思っています。
言葉は真理を語るために創造されたわけではないし、
そもそも語れない、
あるいは恣意的な前提から逃れることはできない、
かといってそうでないものも無い、
ただ、限りなく自然に近づくゲームは出来るし、けっこう面白い、
それだけのものだと思います。 「他者の意識は存在しない」も「他者の意識は存在する」も
どちらを選んでも恣意的なのではないか >>78
>現代物理学によると自然は直観と異なる場合がある
たとえば慣性の法則も初めは直観に反したらしいです。
進み続けるためには歩き続けなければならない
そういう日常感覚と違うということのようです。
そこで私は量子力学などもいつかは直観的に受け入れられるように
なるのではないかと空想します。
何にしろ納得できる答えはあると思っています。 >>87
不可知なものは、それが不可知なものであるということが明確になる、
あるいはそれが不可知であるのならば、その根拠は示し得る 恣意的な自然観、世界観は多様性に沿った思想を好む人と
極力恣意的な前提を避けた客観的な物理現象から
普遍性の高い論理を好む人とでは
言葉の扱いが異なるというだけじゃないか
人間世界は常に新しい人で入れ替わるので
IQやEQもピンからキリまで揃っていて
誰かにとって得心がいかない語りだったとしても
相対的、相互的にヒットする可能性はあるでしょう。 >>86
「他者の意識は存在しない」という主張を批評の空間に投げ込む場合、多くの場合、「他者の意識は存在する」に修正され「存在しない」は否定されるだろう。
そうしたルールが本質として個々人の生活の営為を支えているのであり、また個々人の営為に基づいてこの本質は形成されるのである。
人々の営為に変化が無いにも関わらず、「他者の意識は存在しない」という主張を続ける場合、それは恣意的な選択をしていると言えるだろう。
つまり、他者の意識が無いような営為が「現状」で無いのに、そのような主張をするのは、恣意的な前提に基づく恣意的な主張をしていると言えるだろう。 >>91
私は、「他者の意識は存在しない」と考えても、人々はそれまでと変わらず生活することは可能だと思う。
私は、理論の大切なことは共有可能性だと考えていて、「他者の意識は存在しない」という考えは共有可能だと考える。 >>92
「可能かどうか」ではなく、現状はそうなっているということであり、現状に基づかないルールが現状を支えているとは言えないということである。 他者の意識の内容つまり認識は自分の意識の内容ではない
従って存在しないと考えている、としたら現状そうなっていない
とはいえないだろう。 そもそもそれを他者と呼ぶのが一般人との相違点なのである >>94
なるほど。理論の組み立て方によっては、私の考えは少数派ではないとすることは可能なのかもしれません。 >>96
他者の呼び方は一般人と一致していると想いますよ。 >>98
一般人の認識している他者と君の認識している他者は明らかに違う >>99
一致していると思うけどな。どう違うと想いますか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています