「人々はルールを作り出し、自分達の作り出したルールに従う」という運動を理解するなら、より高次な立場からこの運動を見ることが出来る。

それは、「個々人の同意の有無がルールの正しさを決める」という精神が、根拠の根拠として、また本質の本質として人々の営為を支える、ということだ。

「根拠の根拠」とは、ルールのルールのことであるが、同意のある根拠は、実際的に、客観的なルールとして、そして現実を支えるルールとして現実に浸透する。

個々人は、この「ルールのルール」に基づいて批評空間に様々な思想や主張を提出して試したり、他者の思想を批評しつつ批判的に試す。

個々人が試験的行為をするのは、現に、その行為が何を引き出すかを予感しているからだ。言い換えると、その行為を通じて、「真」や「善」を掴もうとするからだ。

この真や善、美の予感こそが、人々の試験的行為、即ち、「探求」を駆り立てているのであり、人々は試験を繰り返し、それらを探求する。

それ故に、意識は、批評空間に提出した主張が同意を受けた際に、客観的に、かつ真に「真を得た」と実感したり、非独善的に「善行をした」と実感できる。

この「根拠の根拠」「本質の本質」に基づかない根拠や本質、或いは思想や主張は、その正しさを自らで確証するだろうが、それは自己矛盾に至り、破綻するだろう。