>>351 追記
「根拠の根拠」や「本質の本質」という語を見ていくと、根拠の根拠の根拠、また根拠の根拠の根拠の根拠…と無限後退の発生が予期される。

この無限後退が生じるのは、自らだけで根拠を捉えようとしても、捉えられない一心不乱さの為であるが、それにより「真」への諦念が引き起こされる。

しかし、「客観性(真)」とは、自己のみで確証し得るものではなく、他者との相互的な関係の上で確証し得るものである。(例:>>74

信頼と尊敬の相互関係に於いては、他者の批評・批判は主観性を指摘・否定するものとして、また他者の同意は客観性に至った根拠として働く。

それ故に、そうした相互関係に基づく他者の同意は、客観性の根拠として、即ち、「根拠の客観的根拠」として客観性を形成する。

しかし、そうした客観性は、お互いを尊敬し信頼する関係の上に成り立つのだから、病的に疑い深い人間との間には何の客観的な世界も共有することが出来ない。

また、そうした相互関係を築くことが出来ない人間は、不確かな根拠によってしか客観性を確証するしか出来ず、それ故に、どのような主張も底抜けになるだろう。