「大人の対応」や「思い上がらないようにしよう」という語を用いるが、相対主義的に、それが独善的な倫理ではない根拠は何であるのだろうか。

また、そもそも「倫理」の話に逃亡しつつ、議論をすり替えよう、という心根があるのかどうかは分からないが、少なくとも「そういう話」はしていなかった筈である。

そして、本質とは、現状に基づいて変化するものであり、批評空間に於けるルールや法の改変に於いて、変化する本質も現状から見ることが出来る。

仮に、この本質的なルールが一切無いのだとすると、我々は共有されるものが一切無くなり、社会を形成し、生活を営むことができなくなるだろう。

そして、そのような世界では、人々は、自らの「チョッカン」を根拠にするようになり、そこに、時代的な文法や数のルール等は、存在し得なくなるだろう。

しかし、実際はそうなっておらず、また現状に於いては、このスレに於いてでさえ、その営為とルールの相互関係を見ることが可能である。

本質とは、それ自体で独立せず、生活の営為と相互的に関係するものであるから、個々人の同意がある本質なら、それは真に本質であるだろう。