>>505 :追記
例えば、眼前のリンゴは確実に存在する、と思っていても、他者がそれを無いように扱い、そう振る舞う場合、そのリンゴの存在に対する自信は揺らぐ。

確実だと思われるリンゴの存在でさえ揺らぐのだから、より抽象的な存在、例えば「友情」や「愛」といった存在を「無い」と言う場合には尚更である。

なぜ、そのような「揺らぎ」が生じるかというと、「存在」とは「それがある」(つまり「あるからある」という同語反復)という暗黙の了解が支えるものだからだ。

その暗黙の了解は、それ自体では非論理的な前提(理論)なので、現実に於いて「無い」ように他者に振る舞われると、容易に現実と対立する。

つまり、暗黙の了解としての「理論」と、多様な「現実」が対立する故に「揺らぎ」が生じるのである。

ただし、この暗黙の了解が他者と共有される了解、つまり「本質的了解」になる場合、理論と現実の対立は収まり、理論と現実の調和した状態に移行する。

この調和に於いて、つまり、他者との信頼関係に於いて、即ち、共有された本質的ルールに於いて、「存在」は共有された客観性として存在するようになる。

そしてまた、この「共有の存在(世界)」は「共有される本質(法)」と相互関係にあり、客観的世界が本質を形成しつつ、本質が客観的世界を形成する。

つまり、「共有の存在」(客観性)の前提は同意のある本質であり、この本質の本質、即ち、ある本質への同意が、客観的本質として新たな客観性を形成するのである。

そしてまた、新たな客観性に基づいて新たな本質が形成されるのである。そして、こうした循環に於いて「客観的存在」や「本質」は現れるのである。