物体を認識するとき、物心二元論を前提にすれば
どこかで物質から精神への変換を想定しなければならなくなります。
汎心論では、それは必ずしも脳の中で起こることにはならず、
認識の対象の側で起こることを想定できます。
むしろその様に考えると世界の恒常性と相対性(?)とを両立できるのではないでしょうか。
あるいは認識しているのは対象の精神的な側面ということかもしれません。