千葉雅也73
スレ緊急浮上 「返せよ...俺たちのPA01を...」サイゼリヤがセルフオーダーへの移行に伴い一部店舗でメニュー番号を変更、暗記していたサイゼリヤガチ勢に激震が走る https://togetter.com/li/2320214 サイゼリヤ、イカ墨パスタを「セピア色」にすることでより親しみやすくすることに成功…始まりだよこの国 [467722204] サイゼリヤ大好きだわ 美味しいし気軽だし酒安いし 会計のとき、安すぎてビビるもんな サイゼリヤずっと近所になくてこの話ずっと蚊帳の外だったんだけど 今調べたら出店してたみたいだし今度行ってくるわ マジで楽しみ サイゼは低価格帯のイタリアンバイキングの味 サイゼは食べ放題ではないので安くすむけどな 味より量とかほざく俺のような手合があーこの味かとうんざりする。サイゼのパラドクスな 本来哲学者ってのは こういう御時世で気候変動問題とかに関して日常から同立ち振る舞いをするのかってのを 舞台の上からご高説を垂れるのが許される立場なのに(だから新聞掲載依頼が来るわけで) SNSで注目されるのがサイゼリヤだもんね・・・ サイゼリヤは理系人が作った会社らしいから、そのオーダリングシステムが気に食わないなら、文系脳なんだなあ、と まーくんは日常系世界を生きているんだよ サイゼのシステム刷新がシリアスになる世界 センスの哲学w もはやタイトルがギャグになりつつある >>162 このテーマでジュンブン書けないのがこの人取り巻きがプアな所 このひとも大概だが 東浩紀と似てる方面だけど違う箇所違う大きさで不機嫌ボタンが付いてるからな 不機嫌ボタン撤去するとかカバー掛けることをしろと ウクライナの戦禍はやまず、 パレスチナで無辜の市民が虐殺されつつあるまさにこの時代に、 サイゼリアのオーダーシステムについて 渾身の力で語れる人って本当に凄いと思う。 まさに真の哲学者。 千葉雅也と時代を共有できたことを誇りに思う。 ギリシャ哲学も奴隷を酷使する社会の中で作られたものだし割と哲学自体がそういうところあるんじゃね 三大あきらの一角、鳥山死去 まーくんの兄貴分は長生きしそう ドフサだし 世の大半がギャル男の存在を忘れてしまった時期に「ギャル男の哲学」を出して欲しい。 アニメ漫画を語るまーくんだが結局これだ 千葉雅也 Masaya Chiba @masayachiba 日本が、昔の店がどれもなくなった更地の国のようになっていく。 午後0:29 · 2024年3月8日 昔なんかのイベントで幼少期に触れたポップカルチャーの思い出に言及してた覚えはあるし嫌いってことはなさそう 俺も残念ながらうろ覚えだが… 「センスの哲学」とか、「勉強の哲学」とか、「現代思想入門」とか、 この種の書名の絶望的なセンスの無さは一体何なんだろう。 更地の国というなら、千葉さんが生まれる前の高度成長期において失われたものの方が、質も量も圧倒的だと思うけどなぁ。 「動くすぎてはいけない」はそこそこかっこいいタイトルではなかろうか。 しかしかつての 「構造と力」「ヘルメスの音楽」「チベットのモーツァルト」「雪片曲線論」 「野ウサギの走り」「音を視る、時を聴く」「畏怖する人間」「意味という病」 「隠喩としての建築」といったヒリヒリするような魔力を持った書名に比べて 「勉強の哲学」って一体何なん?w そうやっていじってると『タイトルの哲学』とか出されてマジレスされちゃうかもよ 一番可能性あるのは、「サイゼリアの哲学」かも。 ただ、サイゼリアは登録商標になってるだろうから、この点クリアにしておかないと。 次作は、 「サイゼリアの哲学」 「ギャル男の哲学」 「イケメンの哲学」 「マイノリティの哲学」 「しいたけ占いの哲学」 こんな感じかなぁ。どれも読んでみたいが。 成田悠輔とはすごく気が合いそうだな。 二人で「集団自決の哲学」とか出してほしい。 (^o̴̶̷̤ ̫ o̴̶̷̤^)かわいいじゅんいち蛆 俺はなんか成田みたいなやつすげー嫌ってそうなイメージ持ってる 三浦瑠麗や落合陽一と馴れ合ったくらいだから成田も余裕だろう 成田とは絶対に合うと思う。 思想の基本的な部分がとても似ている。 リベラル批判、逆張り、マスコミ好き。 とにかくチャラい感じ。 この二人には徹底したチャラさを極めて欲しい。 Tosei Moriwaki / 森脇透青@satodex・2月20日 ぼくは『?の哲学』というタイトルの文章は少なくともあと10年は書かんだろうな。 絶対にいまこの情勢のなかでは書きたくないとすら思う。 サイゼ事件の時は以降は成田や落合的な扱いになるのかなと思った記憶がある この人、何年も哲学研究の学術論文書かず、小説やエッセイ集や入門書ばかりだよね。 学術上の業績と言えば、博士論文を改稿した『動きすぎてはいけない』のみ。 研究者としてはもう息切れして燃え尽きたのではないかという印象もある。何かの動画で「いやあドゥルーズの本は本当に難しいですよね、よくもまあ読めるようになれたもんですよ」とかなんとか言っていた。本当に惚れ込んで夢中で読んだ人とも思えない あとは、まあここまでの人生は綱渡りのヒヤヒヤルートだった、みたいにも呟いてたな。あまり研究に没入してなかったのかとも思った。お父さんが破産してしんどかっただろうけどさ 鹿野とプロレスやる気さえ見せないというのも残念なこと。仲良しクラブなら作るんだけどな。宇都宮高校関係とか栃木出身の若手ラカン研究者の人とか お悔やみ申し上げます… それにしても今の時代に70歳は若いよね。 突然だったんだろうか。 アラフィフでパパ呼びにはビビった 家ではそうでも対外的には父というものだと思ってたので >>204 父が亡くなった、のように対外的には父 普段はパパ呼びだったのだろう >>203 うーんでも最近頑張ってる有名人の若死にをよく聞くからなあ。まーくんダッドの場合は酒タバコ好きのせいか 真似したくなる、そして自然と尊敬したくなる身内を失うってどういう気分だろう。俺にはいなかったからなあ 冬はヒートショックあるし若くて健康でも毎日が死の瀬戸際 私の父親は60代の前半で亡くなった。 ある日、急に具合が悪くなって、その後、1年と経たずに亡くなった。 健康状態とは無関係の状況から見て、もっと長生きしていたら、本人にとっても、家族にとっても悲惨なことになっていただろう。 本人はまだ死にたくなかっただろうが、結果としては、早死にしたことが、残された家族にとって有利に働くことになった。 平気でデタラメなことをする人だったが、そのことが社会の仕組みの中ではとても都合よく利用できる価値となり、利用価値がある間は、本人もそれに乗ることで好き勝手に生きることができたのだろう。 子供の私にとっては、すべてが矛盾だらけで意味不明だった。 大人になってからでも、私にもようやく仕掛けがいろいろ分かるようになったのは、それほど昔のことではない。 パパ呼びはちょっと好感を持ったな。 最後の最後くらい世間的な基準を外してもいいじゃないか。 ダッドとマムのご尊顔はネットにわずかに出てる ラカンみたいなおじさんであった 私の父親は、死際も不本意だったと思う。 死ぬ間際に本人が口頭ではっきりと心肺蘇生を望まないと医師と家族に伝えたときも、その望みが医師と家族によって否認されたからだ。 家族の一人一人に医師が確認を求め、まず父の母親である祖母が、その希望に対して「錯乱している」と医師に告げ、それ以外の家族も心肺蘇生に同意したので、最後に意見を求められた私も同意せざるを得なかった。私一人で反対したところでそれが無効にされ、その後も諍いの種となることが目に見えていたからだった。 父は私に対して「お前までそんなことを言うのか!」と抗議したが、無駄である。既に私の意向など関係なかったのだから。 父がもっと早めに自分で死を覚悟して家族に話をするような人間で、母親がそれに耳を貸すような人間で、祖母が人としてまともな判断を下すような人間であったとしたなら、そのような事態には至らなかっただろう。 何の権限もない私に最後に責任を投げられても、私にできることなどなかった。 死ぬ間際の父親の希望に対して、私は実質的に「そんなこと知らんがな」という返答をすることになったわけだが、私は、今でもその対応が間違っていたとは思っていない。 今にも臨終を迎えようとしている終末期の患者の部屋で、私一人が父親の希望に賛同の意を表明することでひと悶着を起こしてみたところでどうなるものでもなかっただろう。 たとえ私が心肺蘇生処置に同意しない間に父親が心停止して、父親の希望が通ったとしても、その後には私一人が頑固に自分の意見を通して、嫁姑の間で後々までの諍いの大きな火種を残したと非難されることになるだけだ。 そんなことは、私が引き受けるべき役割ではないし、それによって利益を享受する人間は、その時点では既に亡くなっている。 お父さんと真空管アンプでウイントン・ケリーを聴いて語らう。これが親の資本力というものか。文化資本ね せやで。んでこけた その後は何してたんだろうな また起業かな >>203 うちは千葉と同世代だけど片方の親が10年以上前に俗世から出ていったけどね それこそ50代 60代で夫婦共に早逝してる世代もそこそこ居るよ 問題はこの年度末の時期に看取るということだ 二週間仕事の身動き取れなくなる 大学教員なんて一番大変なのに >>215 その一月前半年前一年前にどういう健康状態でどういう死生観だったのかわからんから迂闊になにもいえん うちは内臓の機能低下で幻覚が見えてくる場合があるとか色々聞いてたから互いに取り乱すと言うことは一切無かった 遺伝やら後天的な普段の生活習慣の積み重ねやらで個人差もろに出るし 何も問題なかったとしても不慮の事故ってこともあるもんな… 人(特に身内)が亡くなると、自分が記憶と忘却の狭間に生かされてる感じが立体的になる >互いに取り乱すと言うことは一切無かった 誰も取り乱してはいないよ。 本人は、自分が死ぬことを覚悟できるような人ではなく、周囲もそのことがよく分かっていたので、医師を含め、誰も本人に病状について本当のことを知らせる人はいなかった。 死が差し迫ったときに、心肺蘇生をしないように本人が希望を告げたのは、今にも息を引き取ろうかという状態になり、親族が病院の病室に最期の看取りのために集められたときだ。 父の母である祖母は、自身が感情的に取り乱して、父親の希望が理解できず、それを「錯乱している」と思い込んだのではなく、単純に他人の心を汲み取るような感性の備わった人ではなかったからだ。 だから、希望を聞き入れる余地など一切なく、私が希望を考慮するように促すことなどはじめから論外だった。 祖母と母は、互いに感情的なつながりなど皆無だったので、母が父の希望どおりにしてくれと真っ向から対立する立場をとれば、それを非難する祖母との間で大騒ぎになっただろう。 母も祖母に譲歩するというより、どちらでもよかったのだろうと思う。 私は、最期の望みくらい聞き届けてやった方がいいと感じながらも、私が意見を述べても無駄であることが明らかなので、単に自動的にに同意せざるを得なかった。 てかSNSに大事な身内の危篤状態の現況を随時ツイートするの、まじで性善説でSNSを生きてるのだなと思った 私は危篤ツイートなんかしたら誰かの悪意や呪いを受信しそうで縁起でもない気がしてよう言わんわ いずれにせよ、人は生きているだけで呪いを我が身に引き受けている この人のことだから、息を引き取る前の心情はマネタイズ出来るのだろう。 いまって図書館やブログ、ようつべでも闘病記カテゴリがあるからな。 >>223 大変だったね。お疲れ。 一瞬、千葉本人のことと間チン害したよ。 でも、続けるならひとり語りの断りと捨てハンつけて。 >>225 >>227 身内の喪失とか介助付き添いで消耗したまま社会生活に元通りに復帰できずに苦しんでる人間なんぞ結構居るのに それを改善するためのメディア情報はなかなか集まらず お仕着せの傾聴のノウハウが一人歩きして傷口広げるトラブルまで報告されてんのに 文春か新潮か講談社か、はたまた別の出版社かひょっとして下野新聞?あたりで活字になるんだろうかね 介護の大変さは、それが一方的な消耗を強いられることと、それがどこまで、いつまでつづくのか先が見えないことなんだよね。 しかも、身内からは世話や介護の負担を無責任に押し付けられ、世間からは「共依存」であるかのように笑い物にされ、介護される本人からは感謝されるどころか、そのような状態に陥っていることが介護の責任を押し付けられた子の側にあるかのように蔑まれ、絶えず毒のある言葉を注ぎ込まれる。 親孝行したとは思っていない。親にとってみれば、私は子育ての失敗だからね。 でも、息を引き取るまで私にできるだけのことはした。 ただ、結果として、両親とも平均寿命よりかなり早めに亡くなってくれたことで、私が大いに助かっていることは間違いない。 「結果として見れば」、両親がどう考えていたにせよ、住むことのできる土地だけは残してくれることになったからね。 需要に応えようとするのは、本来、人としての正常な言語行為ではない 誰に問われなくても、自ずと問いが生じて、それに応えようとする。 これは、人として正常な言語行為だ。 生きるために需要に応えなければならないというのは、「呪い」であり、その「呪い」を自身の「祝福」に変換することができなければ、生きている甲斐がない。 需要に応えるというのは、例えば、悲しくもないのに悲しい声で叫ばなければならず、嬉しくもないのに歓喜の声を上げなければならないということだ。 自分の思考の枠組みそのものが異様に歪められていることに気づきもしない。 >>230 あんたは人生の失敗でその弁明を見ず知らずの他人へしかもまた別の他人の死に便乗してまき散らしてるっていう かなり道義的に重い罪を犯している現行犯なんだが 利益も無いのにあんたの屍をまき散らしてることに謝罪を求めたいね 迷惑すぎる そういう狭い了見で人を理解することはできないよ。 世界では、死を悼む親族と一緒に声を上げて墓の前で嘆き悲しんでも、各々が自身の親族の死を悼むことが当然の前提とされている地域は、いくらでもある。 類比、変移、対比といったものを自身の理解に活かすことができないのは、知性の働きの障害の一種だ。 すると、自分のことは最初から自分が一番よく分かっているのだといったような独善的な幻想に囚われる。 >ただ孤独に負けた この「負け」というのは、「まか(任)せる」の「ま(任)け」でもあり、スペイン語で表現するなら"entregar"であり、語源的には、ラテン語の"integrāre"に由来するとされる。 >entregar Etymology From Latin integrāre with metathesis, present active infinitive of integrō, with a semi-learned influence (cf. medieval Spanish entrego). (出典 en.wiktionary.org/wiki/entregar) ここで、「ま(任)け」の「ま」が「『ま』るの『ま・ま』」の「ま」でもあることに留意するなら、ラテン語と日本語は互いに無関係であると考へられているものの、同様の表現法を用ゐていることが分かる。このような理解が容易に得られることが、類比、変移、対比などの注目しながら類推を働かせることの効果である。 独善的な自己理解に囚われている人には、このような理解が可能であることは、そのアプローチの仕方も含めて、思ひも寄らないことだろう。 このようにして、自分に向けられた「呪ひの言葉」も、それを的確にとらへることができるなら、容易に「祝福のことば」に変換することができるのである。 >>237 自分に都合の悪いことを「狭い」といって正当化してるだけだな 死を受け入れるための共感には慎重すぎて過ぎることは無いのに、お前はいつも哲学板を荒らすいつもの手口で自分語りを連ねただけ まずそのエピソードは、創作文芸板や一般書籍板の文学賞ワナビの試行を寄せ集めたテキトー創作の臭いがして鼻摘まみたくなったよ この板にはその位乱投して自分語りしてる世間知らずが何人も居るのは分かってるんだから そう言われても仕方が無い覚悟はしておくように すでに、 > 見ず知らずの他人へしかもまた別の他人の死に便乗してまき散らしてる とあるがそういう批判をされても仕方が無いことをしてる それをやるなら50レスも満たない死に関する乱立スレが10以上もあるのでそこで勝手にやってくれ 俺は別に何書いたっていいと思うぞ読まない自由も当然あるが >批判をされても仕方が無いことをしてる 批判するのはご自由に。 私もまた、その狭量さを自由に批判するだけのことだ。 >他人の死に便乗して そもそも自分の死に便乗して何かを言うことはできない。 何かを言えるとすれば、それは必然的に他人の死についてだ。 親族であれば、他人ではない?バカも休み休み言え。 そんな基本的なことすら分からない人の批判など戯言に過ぎない。 身内の死について語るということであれば、それは血縁関係に限定されない。 飼い犬や飼い猫の死も、身内の死である。それが金を支払って手に入れた身内であるとしてもだ。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる