仏教哲学総合スレ7
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ひたすら釈迦の理解に拘れ。
仏教なるものは釈迦以上のものを産み出していない。
釈迦で十分だ。 では、釈迦の理解をどこで得たら良いのか?
大乗仏教ではダメだ。大乗経典はすべて捏造文書だ。
しかたない。テーラワーダで行くしかない。
これが釈迦の理解であるかの確証はないが、これで進むしかない。 >>4
仏教学はつまらん学問だぞ
あんなものに従うな 自他を不幸にしない方がいい。
自他を幸せにする方がいい。 この荒らしの立てたふざけたスレ使ってちゃんとしたスレ立てないとか仏教スレももう終わりだな 天は人の上に人を造らず。天は人の下に人を造らず。
法律を守る人が上ではない。法律を守らない人が下ではない。 天は人の上に人を造らず。天は人の下に人を造らず。
法律を守る人が上ではない。法律を守らない人が下ではない。
裁き罰する人が上ではない。裁かれ罰せられる人が下ではない。
善人が上ではない。悪人が下ではない。
有能が上ではない。無能が下ではない。
役に立つ人が上ではない。役に立たない人が下ではない。
貢献する人が上ではない。貢献しない人が下ではない。
美しい人が上ではない。醜い人が下ではない。
人が上ではない。人以外の生物が下ではない。 荒らし?の人が書いてるのは哲学じゃなくて道徳みたいな感じだけどまあ当たらずとも遠からずくらいな書き込みだから
枯れ木も山の賑わい的な 1に罵詈があるからでしょ。個人的にはどうでもいい、というか初期仏教は個人主義だった。
確かに南伝も信仰に基づく儀式的な要素はあるが。個人的な関わり方を排するものではない。 >976
釈迦が自身と自身の経験をどう捉えていたか、こちらは釈尊の行実から内実を想像するしかないわけだけど
例えば自分が菩薩だった時の話として、牛の耕した土から出た虫を小鳥が食って、その小鳥を鷲が食ったのを見た、とかそういうのをどう自分の中で位置付けしてるか、だよね
そして未来の釈尊にとっては、こういう経験は無常やら法無我やら人間が無明であったことを伝える法音であったわけよね
釈尊の言葉の時間軸てのは日本語中国語と違う軸があるのは有名な話じゃん?現世やら現在世というのは現在この瞬間という作用の連続ということになるし、過去世というのはこの瞬間までの現在の積み重ねということになるし、未来世というのは過去世を因、現在を縁とした未だ来てないこれからの世界ということになる
これから人生で起こる懊悩を未来の経験においても全て見通し自身の嘘妄を滅し尽くす道を得た、自身の苦集滅道それぞれに四諦そして八正道を得るという道を得た
成すべきことを成し尽くした、てのは未来を知らない人間においてはこの現世、現生において成すべきことを成す止まぬ方向性を得た、という意味の言葉となる
釈尊の言葉を五蘊無明の人間に引き換えてみるとそういう話になると思う >>13
自他にどういう姿勢や態度で向かってる人なのかってのは、まあ書き込みからバレるよね
こういうのはテーラワーダを冒涜することにしかなってないと思うんだけど >>15
自他が「テーラワーダ」な人にはそうだよね。 釈迦と向き合った人は悟りへの誓願から同志を欲する
普通 人生は形だけで良い。言動が全てであり、内心などどうでも良い。
苦しめ。一生苦しめ。耐え難き拷問に一生耐えよ。それが信仰ぞ。
戦争に完全勝利も完全敗北も無い。互いに犠牲が出る。
世が平和なら個人も平和なり。世が戦乱なら個人も戦乱なり。
悪人と善人の関係は肉食獣と草食獣の関係に似ている。
平和の中に一時的に局所的に戦乱があるのではない。戦乱の中に一時的に局所的に平和があるだけだ。
幸せの中に一時的に局所的に不幸があるのではない。不幸の中に一時的に局所的に幸せがあるだけだ。
光の中に一時的に局所的に闇があるのではない。闇の中に一時的に局所的に光があるだけだ。
善の中に一時的に局所的に悪があるのではない。悪の中に一時的に局所的に善があるだけだ。
得の中に一時的に局所的に損があるのではない。損の中に一時的に局所的に得があるだけだ。
天国の中に一時的に局所的に地獄があるのではない。地獄の中に一時的に局所的に天国があるだけだ。
人と比べる人は相対的な人だ。絶対的な人は人と比べない。
罪を犯すには覚悟が要る。覚悟無く罪を犯す者は哀れなものよ。
有能は戦略的自責や戦略的他責はするが精神的自責や精神的他責はしない。
無能は精神的自責や精神的他責はするが戦略的自責や戦略的他責はしない。
賢者は損得で自責したり他責する。
愚者は善悪で自責したり他責する。
人格とは言動のことだ。内心のことではない。人格の異常とは言動の異常のことだ。内心の異常のことではない。
人格とはシステムのことだ。行動パターンのことだ。人格の異常とはシステムの異常であり、行動パターンの異常だ。 お釈迦様は、
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
と言っています。 基本的に犀は群れることのない動物であり、人間もそのように一人で道を開いていけということです。
仏教は「孤独」をすすめているのです >>20
>人と比べる人は相対的な人だ。絶対的な人は人と比べない
比べても意味がないからね。 >>21
確か、周りにマトモな求道者が居なければ、という全文があったと思いますが。
経典読んでますか? 信者は宗教板や教団で群れる限り構わない。しかし仏教を哲学する板で活動すべきではない。 >>24
「哲学についてだけ」という場合、その「哲学」とは、おそらく著名な哲学者達の記述した文章をどう解釈するかだけを語りたい訳でしょうが、その場合、それは哲学者ではなく、その著名な哲学者のファンと名乗るべきでしょう。 >>26
>おそらく著名な哲学者達の記述した文章をどう解釈するかだけを語りたい訳でしょうが、その場合、
思い込みから、離れなさい。 >>28
うん、だからね、釈尊ならそういう時に「この俺に説教するな!」という態度になると思うか考えてみなよ
自分の脊髄反射レスがもうそのヒントで答えだよ するかもしれんし思ってるかもしれん
そもそもお前釈迦のなんなの? 釈迦の言ってることの理解を深めるためによその思想も学ぶのはとても良い方法だとは思うけど、コレは正しいアレは間違いとか言い出すと単なるエゴの発露でしかないので難しいねえ >>29
いや君、宗教者がかってて気持ち悪いよ
哲学板なのに
君は悟ってるの? 余裕が有るうちは進化できない。余裕が無くなって進化又は絶滅せざるを得なくなると、進化又は絶滅する。 自由意志や自我を保ち自分を客観視する余裕があるならまだ本当の地獄ではない。本当の地獄は人から自由意志や自我や自分を客観視する余裕を奪うものだ。
拷問されて屈服する人は悪人ではなく弱者だ。拷問されて屈服する人は多い。それ以前に拷問される前に屈服する人も沢山いる。 これしかない!って無批判に徹するなら哲学ではないよな
教義は全て無謬だとした上で議論するのは解釈論であって、理解出来ないのはその人間の限界ってだけで終わる
教義そのものの是非を議論するなら哲学な態度だね
ここではどっちが推奨されてんの?
まあ何でもいいのか 宗教者は修行をする。
哲学者は修行しない。
その差は、必ず顕れる。 宗教者は云々哲学者は云々ていうカテゴライズはラベルの張り替えに過ぎないし人によって違うからどうでもいいことだけど
修行もするのか、ひたすら頭の中で言語こねくり回すだけなのはだいぶ違うな確かに。考えるのをやめる修行というのか
修行っつったって肉体いじめ抜く必要性があるのかわからないし
釈迦は最終的にすわって悟ったらしいけど、じゃあそれ以前の苦行に意味はなかったのかどうかは知りようがない
その過程はやはり経ないとダメだったのかもしれんし
思考を飛び越えた直感的理解っていうのは絶対言語と別のところにあるってのだけはわかる。腹でわかるってヤツ
その理解が訪れやすいように自分を整えるという意味で思考と修行は大切だけど、いざ実際に理解気づきという僥倖に恵まれるかはもう運のような気もする 「やっぱり苦行は必要だった」は全く違う。
よく譬えられるのは、
「山奥の泉に湧き出る美味しい水を汲んで帰るには苦労を要する。
しかし、汲んでこれらた水は誰にとっても同じ味わいだ。」
山奥まで足を運ぶ苦労と、水の美味しさを混同してはいけない。 修行とは生活すること、あるいは実践すること。
修行という行為が特別にあるのではない。
それをしたら哲学になってしまう。 >>35
ここでは後者です。哲学は懐疑することですから。 >>38
苦行は必要だったなんて一言も書いてない
どっちにしろ釈迦も苦行はしてたわけで最終的にそれが必要か不必要だったかを知りようがない
過程としてそこも通ってきたから最後悟ったのかもしれないし単なる無駄骨だったのかもしれないし、釈迦はそういうパターンだっただけで万人に当てはまるなんて証明も出来ない
個人的には肉体的な苦行は要らん派だけどな
内面の苦悩があるだけで十分苦行みたいなもんだ
それに肉体いじめて脳みその加減でサマディの境地?に入れたとしても通常の状態でそうなってなければヤク中と何らかわらん >>41
「肉体いじめて脳みその加減でサマディの境地?に入れ」るなんて原始経典には書いてないが
心が或る程度清らかになるとは書いてあるが 想定してる言葉のシニフィエの部分もそうだし、釈迦なり仏典を自分の中でどう位置づけしてるかも相当乖離してるから全く噛み合わないと思うよ
あなたの返答はいちいち私の中でズレていて、それはあなたのせいではなくて上記のことが原因
あなたの言っているあなたの想定しているサマディと私がここで使用しているサマディはシニフィエが違う
だからレスはありがたいけどそれぞれロンドンとハワイを見ながら天気の話をしてるみたいな状態なんで私からはこれくらいでおしまいにします 唯我独尊は悪いことではないが、多くの場合、自分への言い訳けになっている。
自戒を込めて・・・。 釈迦は偉大だけどどうしても金科玉条にすることは出来ない
ましてやそれを無批判に、二言目には釈迦はこう言っていたと振りかざすのはねえ
あなたの考えはどうなの?思考停止でいいの?となる
いいならいいんだけどさw 偉大な◯◯に、すきな経の言葉をいれてもいいし、釈迦に対する自身の考えをいれてもいい。 偉大な◯◯に、すきな経の言葉をいれてもいいし、釈迦に対する自身の考えをいれてもいい。 >>44
それは釈迦を鵜呑みに出来ないタイプの人間に対する嫌悪感ですか?
何故釈迦の言葉、なさりようがそのまま宇宙の真理と証明できるのでしょうか
釈迦に異を唱える人間イコール唯我独尊と断定し軽蔑したり排除することで、ご自身の信念を守っているようにしか見えません。言い訳をしているのはどちらなのでしょうか?釈迦の言葉を笠に着て責任を釈迦に押し付けているのは楽そうですね
仏教に限らず熱心な信者としては非常に模範的な態度ではあると思います 唯我というのは我々なのですが、排他的な信仰というのはおっとろしぃということかもしれない。 >>50
唯我独尊ということは、自分のリアルな疑念を誤魔化さないということ。
釈迦は人間であり超常的能力は持たない。
しかし自分の直感として、彼はひとつの真理を得たと考えざるを得ない。
私のリアルな疑念と彼の言葉を突き合わせ、私の解を探すのが修行だ。 人を助けない人が人に助けを求めるのは筋が通らぬ。
自分を愛するように他人を愛する人は自己愛性人格ではない。
他人を愛さないように自分を愛さない人は自己愛性人格ではない。
奴隷制度の上に成り立つ幸せや地球環境破壊の上に成り立つ幸せのような不幸の上に成り立つ幸せは許してはならない。
草食獣社会が肉食獣の存在を許容できるか?
奪った領土や奪った財産や奪った幸せは奪い返される傾向にある。
他者否定の上にしか成り立たない自己肯定は他者否定ができなくなると同時に崩壊する。
大学に行けと言われるより、大学に行かないとこうなると言われる方が大学に行きたくなる。
犯罪をするなと言われるより、犯罪をするとこうなると言われる方が犯罪をしたくなくなる。
働けと言われるより、働かないとこうなると言われる方が働きたくなる。
命令より事実の指摘の方が人を動かす。
私は生きとし生けるものの幸せを本心から願う。
人心を動かすものは二つある。快と不快だ。
過去を大事にしない人は未来を大事にしない人である。未来はすぐに年老いてあっという間に過去になるから、そういう人は未来が過去になった途端ボロ雑巾のようにゴミ箱に捨てるだろう。年老いた糟糠の妻を捨てて若い女を妻にするようなものだ。
見える部分だけ見て見えない部分を無視する人は、地球の見える部分だけ見て地球の見えない部分を無視するように、人の見える部分だけ見て人の見えない部分を無視する。realismとはかけ離れた人々である。
結果が大事だと言って悪事を行って結果を出し、その悪事が暴かれて人生終了という結果を出す人がいる。 50ですが補足
私には44さんがこの流れにおいては唯我独尊という言葉を自分勝手のニュアンスで使っているなと感じたまでです
もちろん本来なら違う意味合いでお使いなのでしょうけれど 唯我独尊などと産まれてすぐ叫ぶような子供は、その後の社会生活、苦労するに違いない。 父母は愛するに値しない子を愛さないし、生かすに値しない子を殺す。自然界でも人間界でもそうだ。
比較による相対的幸福もあるし比較によらない絶対的幸福もある者
比較による相対的幸福はあるが比較によらない絶対的幸福はない者
比較による相対的幸福はないが比較によらない絶対的幸福はある者
比較による相対的幸福もないし比較によらない絶対的幸福もない者 常識ある人なら、「脇腹から生まれて唯我独尊と言った」なんて話は、何らかの比喩か伝説と判るでしょう。
「そう書いてある」というのは、自身が思考放棄して他人のスピーカーだと言ってるだけです。
「愛」とか「幸福」という曖昧な話を何らかの定義も無しに繰り返すのも、思考放棄の他人のスピーカーでしかありません。
或いは、絵空事でカモを操る詐欺師かも知れませんが。 ここで書くようなことでもないんだけど、無批判に何かを信じ込める人って無敵だし幸せだよな
納得感の閾値が低いっていうか
なかなか腹に落とし込めない疑り深い自分は疲れてしまう
自分のせいなんだけどさ
信心深い人の中には、一度信頼しようと決めたものに疑いを向けることが怖いっていうのもありそうだけど。アイデンティティ崩壊の危機というか自分が間違ってることを認めることになるのが怖いというか 「そう書いてない」ことを「そう書いてある」かのようにコメントする人
ありうる定義を考えずに思い込んだ曖昧な理解のままコメントする人も
信じ込める無敵な妄想家だよな >55
それは元々の釈迦が仏であると礼拝していた過去六仏の一人である毘婆尸仏の持ってた逸話だ
しかしバラモン一族は脇から生まれる、バラモン僧に説かれた麻耶夫人などは「自分はそのような出産のさせ方ではなかった」と一生思い続けるわけだよな
そのバラモン僧は嘘を付いていたと夫人は思い続けるのか、私は何か失敗したこの出産はおかしい、と思い続けるのか 唯我独尊て普通の社会だと自分勝手な思い上がり野郎って意味が通常だし辞書にもそう書いてあるけど、このスレ的には本来の我々それぞれの個性と使命みたいな意味合いが通常と思ってる
だからこそここではまあ文脈で嫌味にも使えるし、指摘されればしらばくれることも可能だしなかなかに便利な言葉だねえ? 唯我独尊の我、は原文ではアートマンではない
翻訳する者が故意にかどうかは知らんがアートマンを表す我の文字を差し込んでいる
そして元々は毘婆尸仏という釈尊に目覚めのきっかけを与え、釈尊が聖人である、と礼拝してたとされる過去六仏の一人を称えて出てきた言葉
釈迦滅後の原始仏教?原始仏教?が過去六仏の痕跡を丁寧に消していった過程で釈尊の逸話として取り入れられた かこしちぶつ【過去七仏】
過去に出現した七人の仏。その一人釈迦は真理を悟った人(仏)の一人にすぎないということが含意される。過去七仏の思想は仏教史の早期から現れているが,釈迦以前の六仏についてはその実在性が明らかでなく,伝記も釈迦のそれと同工異曲である。 諸行無常であるから幸不幸共に過ぎ去る。
全体の為に個人を犠牲にすることを否定する修正全体主義
しなければならないことでもしたくないことはしない。
してはならないことでもしたいことはする。
犯罪をしないのはしたくないからである。してはならないからではない。
犯罪をするのはしたいからである。しなければならないからではない。
犯罪者も人類だ。
地球環境破壊やフォアグラ等の家畜や実験動物に対する非人道的扱い、先進国の後進国に対する搾取や世界各国の上級国民による下級国民に対する搾取等は奴隷制度と同じく合法でも犯罪なのではないか?
犯罪者が罰せられなければならないなら、国の抑圧者や奴隷使用者のような合法犯罪者も革命や奴隷反乱などの超法規的制裁を受けなければならないだろう。
悪法は超法規的制裁の親であり、超法規的制裁は悪法の子である。
録音・録画等、証拠を残せ。 あんま倫理とか道徳は興味ないなあ
社会の中にあって他の人と上手くやっていくには絶対必要だけど 仏は一人と言いながら七仏通戒偈を普通に使ってたりするのはなんなんだろね 自分の失敗は他人にとって他山の石
他人の失敗は自分にとって他山の石
もし正論が本当に正しいなら、正論が机上の空論という批判を浴びることはなかろう。正論は空想上は正しいが、現実的には間違っているのだよ。 精神年齢の低さは知能の低さ
精神年齢の高さは知能の高さ >>66
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の浄土真宗では、
「ならば悪人で構わんだろ」と居直る者には「本願ぼこり」と
言って諌めている。
偽善も偽悪も自意識過剰で、「我」が出すぎている。 >>74
「我」が出ているとか出ていないとかそういう文学的な話ではなく
仏教的には
偽善>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>偽悪
これは揺るがない
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、即ち悪人なり。」
「驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」 ここの議論て議論のようでいて必ずすり替えてレスしてくる人がいるから面白くなりそうなのに萎んでつまらないな 開き直りの意味での本願ぼこりってのは、はるか昔から、それこそ仏教関係なく昔からある反社に共通の態度だよね
釈迦の待機説法ってそれだけ見てると真逆のこと言ってたりするし、釈迦に限らず宗教指導者が相手見てまるきり違うような事を教えたのはそういう人によって理解度に差がありすぎるからなんだろな
本物の仏弟子レベルで必要な教えと、まともな社会構成員としてやっていけるかレベルの人に必要な教えは違うもんなあ
まずは良き隣人であることから始めましょう!みたいな 偽善と偽悪が共に我の表れでしかない、という観察と、仏教的にどちらを勧める?良きものとあつかう?ということは全然別の話でしょ。どっちもその通りだし文脈として並べるのは変 1000年前に生まれた人は1000歳だし、1000年後に生まれる人はマイナス1000歳だ。
生まれて良かった者もあり。生まれない方が良かった者もあり。地球環境を破壊する人類は生まれない方が良かった。
共同責任論に少し自己責任論を加えた修正共同責任論
安倍晋三暗殺事件の犯人を叩くが安倍晋三暗殺事件の原因となった人々を擁護する人々は、奴隷反乱を叩くが奴隷制度を擁護するような人々だ。そんな人々が正義面しているようではこの世界も終わりだな。
正義一元論を否定する修正正義論
完全に罪が無く完全に正しい絶対正義マン
比較的罪が無く比較的正しい相対正義マン
人生とは、地球という実験室で望む未来を手に入れられるかどうかの実験である。
子は居なくとも毒親は毒親だ。子供0人の毒親だ。
家族とはいえ別人である。同一人物ではない。
人生とは終活である。自分というゴミをいかに処分するかだ。
人類は反出生主義に改宗し、終活を始めよ。
馬鹿の一つ覚えで森羅万象を暗記しろ。そのビッグデータを使って生きろ。
俺が戦をすると必ず勝利する。何故なら、俺は負け戦をしないからだ。
完全に毒親でない理想の親はどこにいる?
完全に毒子でない理想の子はどこにいる?
私は何をやっても成功する。何故なら、失敗することを決してしないからだ。生存によって失敗するなら迷わず死ぬ。 「目に見えないジョーカー」
安倍晋三暗殺事件の犯人は目に見える形でジョーカーを行ったが、安倍晋三暗殺事件の犯人をネグレクトしまくって安倍晋三暗殺事件の犯人の精神を破壊した安倍晋三暗殺事件の犯人の母もジョーカーだろう。安倍晋三暗殺事件の犯人の母を洗脳して一億円貢がせた統一教会もジョーカーだろう。統一教会と蜜月関係を持った自民党もジョーカーだろう。その自民党を黙認した日本政府もジョーカーだろう。その日本政府を認めて来た国際連合もジョーカーだろう。その国際連合を認めて来た人類もジョーカーだろう。目に見えるジョーカーだけがジョーカーで目に見えないジョーカーはジョーカーではないと考える愚かな人類よ、人類の愚かさこそが安倍晋三暗殺事件という悲劇を生み出したことを知れ。 人類が罪人を罰する。罪人への罰は人類に委ねなさい。 >>79
いやいや仏教哲学スレでしょ
仏教で自分が足りするスレじゃないのよ >>82
因果律が罪人を罰する。罪人への罰は因果律に委ねなさい。 他人が罰せられることよりも自分が罰せられないことの方が大事だ。 他人を不幸にすることより自分を不幸にしないことを優先しろ。 唯物論者は肉を切らせて骨を断つようなことはしない。 仏教を足がかりに自分の考えたことを書くのがこのスレの主旨だと思ってたけど?哲学名乗ってるんだし
スレチって約一名以外は誰も言わないんだけどな
まあいいや、マジョリティじゃないようだし >>89
壷で他人の書き込みをコントロールしようなんてやめなされやめなされ
駅で大声で叫んでるか他人の落書きに向かって怒るようなもんやぞ それはそうだね
コントロールしてるつもりはないけど表明はしておこうかなって >>79
最終的には仏教の是非に繋げる前の論点整理が必要だから、文脈を大切にしたいわけだね。此の場合は、経典でどう扱われるかの前に、偽善とは何かという評価を確定させる手続きかな。 >>60
こうしたデタラメは、少し調べれば真偽は判る話ですが、こうした手間を掛けられず、誤った情報を鵜呑みにして、そのベースで議論するというのは各所でよく見られるように思います。
また、マトモな根拠も示さず~せよ、~だ、と断定や命令をしてるのは、哲学的ではなく、議論が出来ない人の特徴とも言えます。
最近YouTubeで流されてる地方議員にもこんな人がいますが、見苦しくて見るのを止めてしまいます。
初期の仏教なら、破戒という事で追放されてるでしょうが、時代と共に仏教はモラルハザードが。 そういう嫌味な発想で返答してくる人には仏典以外の個人的な考察は全部俺様語りに見えると思う
その人の見え方だから反論の余地も意味もない
どうぞそのように受け取ってください >>79
オレの理解では、仏教では偽善も偽悪も勧めていない。
「我が出すぎてしまうこと」を諌め、「我」が存在しないことを説いている。
善悪はともに渇愛から生まれる。その渇愛を厭うべき。 苦しみの大元の一つが我だから、仏教としてそこは減らしましょう煩わされないようにしましょうっていうのは皆さんの既知事項として、
74と79が言ってるのは偽善も偽悪も我が出張っている、というのは善悪とか以前に単純に偽善偽悪という行動の元を観察した結果ってことでしょう
善悪というのは観察結果、事象に対して付与する意味付けなわけで、じゃあどうして善だ悪だと決めることができるのか、仏典に根拠を求めるのが次の話なのでは そうは書いてみたけど、結局善悪を決めたがるのは社会を円滑にまわして構成員の安全平和を担保するためであってやっぱ必要なものなんだけど
仏教的には98がいうようにそこからも離れていかないとダメなのよね >>101
「オレの理解」って言ってる。感想とは違うね。 アナタの感想ですよね、ってひろゆきカブレか?w
煽りにすらなってないんだよなあ恥さらしなだけで
中高生なら使いたいお年頃ってことでまだわからなくもないけど絶対違うだろうし >>102
理解なら理解の根拠となったテクストは? 社会にはブレーキ役とアクセル役の両方が必要だ。ブレーキ役だけでは社会は停滞するし、アクセル役だけでは社会は暴走する。
肉食獣と草食獣の両方が存在することで生態系は成り立つ。肉食は悪だからといって肉食獣を滅ぼすと生態系が破壊されてしまう。
悩むなら今やるべきことをやって悩む時間を作るな。悩むべきなら悩め。何もしないべきなら何もするな。今やるべきことをやれ。
動じる者は自滅し、動じない者が生き延びる。
一生崖っぷちで暮らす。地獄も住めば都よ。
人類が自分含め100人だったら?人類が自分含め10人だったら?人類が自分1人だったら?人類が0人だったら?
私は何事も地球と人類の為にやっている。
人類崇拝は、人類があまりにも強いから強者への恐れで人類を恐れて権威主義的personalityになっているだけだ。人類が自分一人しかいなければ誰も人類崇拝などしない。それでも人類崇拝をするならそれはただの宗教だ。
自分は自分以外の人とは違うとか、人は人以外の生物とは違うとか、生物は無生物とは違うとか、そんなことを本気で思う人は唯物論者ではない。
悪人は悪人でも、人類にとって必要とされる悪人になれ。軍隊や警察は人殺しだが、軍隊や警察を必要としない国は無い。日本にも自衛隊や在日米軍や警察が居る。自衛隊や在日米軍や警察は人殺しとはいえども日本国民にとって必要な人殺しであるから、日本国民は自衛隊や在日米軍や警察を無くせとは言わない。国連軍もまさしく人殺しそのものであるが、人類が国連軍を必要としているので、人類は国連軍を無くせとは言わない。
無敵の人は人生がhard-boiled文学でなければならない。地獄の人生を普通のことと捉え、地球の歴史に一喜一憂して発狂してはならない。また、善悪を問わずいかなる望みも持つな。 >>105
仏教にテキストを求めるのはお門違い。
実践と修行だよ。 >>107
電波を受信してそれを発信してるわけか・・・ 失うものが何も無いと無敵の人になるので、失うものを持つ必要がある。
我々革命家にとっては、合法か違法かなどどうでもいい。そんなつまらないことを気にして何になる? 現代で革命家とか言う連中は、共産主義かぶれだけだろう。
というか、資本主義社会でぬくぬくと社会福祉を享受しながら、社会を異国の共産党に売り渡そうとしている連中だろう。
いわば、公共の敵であり、四恩を全て否定対立する、仏教では外道中の外道、大自在天も唾棄するような地獄を望む連中。
哲学板住民はどうか知らないが、個人的にはこのように考えてます。 >>104
仏教つうか仏典はカルトじゃないけどそれを道具にしてる一部の集団はそう言えなくもないな 革命って聞こえはいいんだけど、革命起こすことが目的になってて本懐遂げた後どうすんの?ってとこを何も考えてないから困るのよね、絵に描いた餅はあるんだけど運用能力ゼロだし人間の多様性無視してるし寛容さも柔軟性もゼロだし
まあ20世紀というドロドロの100年を費やして、革命思想のやばさは大抵の人類の知るところとなっただけまだ進歩はしてるのか
犠牲になった数多の市井の民が浮かばれますように 仏教的には革命だろうが独裁だろうが自由主義だろうが全部人間のやることだから究極は差が無いよね、なんなら戦争もそう
よりみんなが幸せで居られるような選択をしましょう、とは言うけど悟りに向けた視点とは全然関係ないとこだし 大乗仏教は、一部のおかしな宗派を除き、全て護国を唱いますし、善行を基本とするのは釈尊からの伝統です。
暴力行為を正当化する共産主義のような、野蛮な妄執を肯定する事は仏教には、極一部のおかしい宗派を覗いて有り得ません。
得度受戒したならその教えを守るべきですし、仏教と無関係なひとなら、仏教がどうのというべきではないでしょう。 >>108
言っとくけど、電波は受信しない。
というか、受信したとしても「そのままやりすごす」。
サティってやつだな。 シリーズ「日本の仏教」
第7回:日本仏教の暴力性
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09407/
仏教本来の教えでは、暴力は完全に否定される。しかし釈迦(しゃか)が制定した戒律を収めた「律蔵」が機能しない日本の仏教界にあっては、暴力行使が容認された。こうした特異性が僧兵を生み、一向一揆を起こすことになり、第2次世界大戦では僧侶が戦争に協力することにつながっていった。
出家する際にウパサンパダー(受戒)の儀式をおこなわない、酒を飲む、結婚して家族を持つといった行為は、律蔵によれば、すべて処罰の対象となる違法行為であるが、律蔵の存在が認知されていない日本仏教では、さほど問題とされない。 僧兵で信長公が悪質として焼き討ちしたのは天台宗で、一向宗も天台系統。ついでに言うと特に現代で話題に上る日蓮宗も同じく天台系統。
勿論、他の宗派でも僧兵などは居たが、それは政治的な理由で形成されたものであり、キリスト教のように宗教の教義から武力集団に墨付きを与えたり正統性を保証したものではない。
仏教教学として暴力性がないのだから、外部原因によって生じた結果でしかなく、仏教を核としての経済圏で兵力が政治的背景から生まれたのだから、それを仏教の暴力性とするのは順序が違う話。
大東亜などでの仏教教団全体での戦争への賛美や協力についても、その前の廃仏毀釈による民衆の寺院打壊しなど時代背景から、当時の僧侶たちが日和っただけで、これも教学的必然性によるものではない。
故に、日本仏教教団の僧侶達のデタラメさと日本仏教教理や行法そのものを等しく考えるのは合理的とは言えない。
組織の実態、当時の構成人員の無能さと、その理念の性質を同列とするのではなく、理念は理念として語るべきであり、構成人員の劣化については時代背景なども加味して観るべき。 その思想を神輿にしてても理解して行動するかは別の話だわな 昭和は暴力が許された。令和は暴力が許されなくなった。単なるルール変更であり、善くなってもいないし悪くなってもいない。プラスマイナスゼロだ。 池上彰の解説だと、仏教にも原理主義が増えているので、統一換言すると
げんり‐しゅぎ【原理主義】
1 聖典の無謬性を信じ、奇跡などを歴史的事実として認識する信仰上の立場 人間界のwhite文化
自然界のblack文化
上級国民による刑罰
下級国民による天罰
違法な善行は、下級国民が許しても上級国民が許さない。
合法の悪行は、上級国民が許しても下級国民が許さない。 上級国民であるほど人間界のwhiteな文化で生きている
下級国民であるほど自然界のblackな文化で生きている 上級国民であるほど人間界のwhiteな世界で生きている
下級国民であるほど自然界のblackな世界で生きている この自演どこにでもいるな
今流行りのキックバックでももらえてんのかね >>128
普通に業務としてやってるんじゃね、基本釣果待ちするだけの仕事で暇はありそうだし
全板一回投稿しても30分もかからんだろ
それを繰り返してんだろ、クラフレで重くなる夜は仕事終わってるだろし あらゆる悪は必要悪。煮湯は互いに飲ませるもの。それがわからないでよく今まで生きて来れたな。
自己責任が無いなら共同責任も無い。
共同責任が無いなら自己責任も無い。
他人から見たら自分が他人だ。自分の人生を他人のせいにしてはいけないなら、他人の人生を自分のせいにしてはいけないだろう。
人生を他人のせいにするなという人は、ユダヤ人の悲劇をナチスドイツのせいにするなと言うのか?地球環境破壊で生物が苦しんでいるのを人類のせいにするなというのか?私には理解し難い恐るべき倫理観の持ち主だ。
紛争地域の女子供の阿鼻叫喚の地獄を自己責任だとして切り捨てる人々の冷酷さはサイコパスそのものだな。
正論に対しては疑問を投げかけて正論の例外を引っ張り出せ。その正論の例外を利用して生きろ。
自分が感情的に動いて敵が理性的に動じないのが最悪
敵が感情的に動いて自分が理性的に動じないのが最善
大人は動いて動じず。小人は動じて動かず。 いろいろ曰くつきだからまだ読んでないけど面白かった?
自分は全然仏教者じゃないし拒否反応とかないとは思ってるけど、買う価値あるなら読んでみようかな 釈迦が一番先端まで進んだ。
釈迦は一人の思考者かつ実践者であった。
その釈迦に感銘を受けてフォローしたの仏教集団なるものだ。
しかし、釈迦は仏教など関知しない。 大乗仏教経典は捏造である。釈迦となんの関係もない。
本当の釈迦を知りたいなら、まずは大乗仏教は除くべき。 現地で後継者になってくれる人がいなくなって2度も滅んでるってことを思うと、テーラワーダの方も教科書だけ残った状態から始めた宗教なんだよね
なんか凄いものに見える日本人も多いんだろうけど 天命即ち自然現象をどこまで自分の希望通りに修正できるか
人類に従っているようで実際には天命即ち自然現象に従っている。それが私の一生だ。 上級国民は天命即ち自然現象によって栄華を極めているのであり、犯罪者は天命即ち自然現象によって没落したのだから、上級国民を尊び犯罪者を蔑むのは、それこそ天命即ち自然現象によって大吉を引いた人を尊び天命即ち自然現象によって大凶を引いた人を蔑むに等しい。
人類が幸せに暮らせる地球を願うならば、人類には上級国民から犯罪者まで全ての人が含まれていることを知れ。 2022年2月からロシアのプーチン大統領がウクライナ征服戦争を始めたが、「人生は自己責任」「人生を他人のせいにするな」とか喚いている人達は、「ウクライナ人の不幸はウクライナ人の自己責任」「ウクライナ人の不幸をプーチン大統領のせいにするな」などと言うのだろう。あるいは、「地球環境破壊による生き物達の不幸は生き物達の自己責任」「地球環境破壊による生き物達の不幸を人類のせいにするな」などと言うのだろう。こういう人達が地球をどんどん悪くして地球を地獄に変えて行っている。 地球を永遠に生き物の楽園にすることを望む精神状態が和魂(にぎみたま)
地球を永遠に生き物の楽園にすることを望まない精神状態は荒魂(あらみたま) globalizationの必然的結果として、一箇所の不幸は地球全体に波及する。かつてアメリカの株価暴落が世界恐慌を引き起こし、第二次世界大戦が引き起こされたように。
貴方は仏陀が悟りを開いた後一生何も無く平穏無事であったとでも思っているのか?仏陀は悟りを開いた後も一生様々な災難に見舞われた。天は乗り越えられない災難を与えないという人もいるが、残念ながら地球の歴史上災難を乗り越えられなかった話はあまりにも多い。我々は悲観的であるべきではないが、楽観的であるべきでもない。現実的であろう。 仏陀は悟りを開いた後も様々な天災や人災に見舞われたが、君はそんなことも知らずに悟りを開けば自分の人生から天災や人災が無くなると本気で思っていたのか?君はどれほど楽観的で能天気で御花畑なのか?そんなことを本気で信じていたとは君は本当に幸せ者だな。羨ましい限りだ。 >>145
天災や人災があっても安寧でいられるという境地が悟りだ。
それは、天災や人災は関わりないとか、不幸な人々に無関心であることとは違う。
その違いが解らないと、本当のことが解らないぞ。 苦しみを生む事はそこにあってもそれによって苦しまない、ってとこかね realistになることが大人になるということだ。 生活実態変えない在家仏教とサドゥーになる出家仏教は違うよ
本場のは家や貯金衣服どころか免許住民票戸籍すら捨てるし新しい家や組織を作ることもない
そういう道は私には無理だった、てんで出家仏教と別の五蘊から離れず五蘊無明の身を教えを聞く場の縁そのものとする在家仏教てのが日本の鎌倉で再注目されたわけですよ 光の世界を生きるには昼行性の動物のように光の世界の住人となれ
闇の世界を生きるには夜行性の動物のように闇の世界の住人となれ 正義感は大事であり素晴らしいものだが、realismが欠如していては世直しなど夢のまた夢。
この世界は光の世界と闇の世界のparallel world(並行世界)だから、光の世界の生き方と闇の世界の生き方の両方が必要だ。本音と建前の使い分けとかな。
これは大人だけではなく、子供だって学校のschool caste(スクールカースト)の中で闇雲に動くわけには行かないことを理解できる知能即ちdark side skill(闇のスキル)を持っていないと中々学校生活に馴染めないものだ。
正義感は大事であり素晴らしいものだが、realism(リアリズム)が欠如していては世直しなど夢のまた夢。
光が真実で闇が嘘というわけではないから、人間の闇を無視するとそれはそれは酷い目に遭う。そうかといって光が嘘で闇が真実というものでもないから、闇の生き方を取り入れつつも闇の生き方を開き直って正当化するとまあ弾かれる。
光のスキルと闇のスキルの両方が無いと、光の世界と闇の世界のparallel worldは生きられぬ。 >>97
「〜である」「〜と書かれている」「〜と読んだ」、どこから演繹するかで結びがかわらない一直線な結びがあればいいわけだね。では偽善に関しては、対義する「偽悪」という造語から紐解くのはどうだろう。ここに「偽」とあるように、当該の行為は"本来"「悪」という評価を受けるものではない。そうすると、反対に「偽善」というのは"本来"「善」という評価ではないのに「偽」っていることになるだろう、そこで、
「我」の実相に相応しいのはどちらか、となる。 浅い正義感で正義は勝つとか悪人には天罰が当たるとか妄想ばかりして現実世界に向き合おうとしなかった昔の自分は腐っていた
山上徹也のような下級国民の不幸は自己責任。安倍晋三のような上級国民の不幸は国葬。日本とはそういう国だ。外国はもっと酷いがな。
国家や国際連合は法律や国際法という戒律を守らせる宗教団体
宗教団体は戒律という法律や国際法を守らせる国家や国際連合
イスラム法は神によって作られた法律や国際法
法律や国際法は人によって作られたイスラム法
精神の安定とは、意味のあることをするというよりは意味のないことをしないことだ。意味のあることにお金を使うより、意味のないことにお金を使わないのと同じことだ。
そもそも人生で意味があることなど何一つ無い。川が流れることに意味がないように、人が生きることに意味はない。
人生では、意味のあることをすることよりも意味のないことをしないことの方が大事だ。これは反出生主義に通じる。
人を幸せにすることよりも人を不幸にしないことの方が大事。幸せな子供を作るより不幸な子供を作らないことの方が大事。
余計なことをしない終活の精神こそ悟りだろう。
オッカムのウィリアムが「存在は必要もなく増やしてはならない。」と言ったとされるが、これは反出生主義の考え方をより広げた考え方だろう。無駄に人を産まず、無駄に仕事を作らず、無駄に延命せず、無駄に環境破壊して人類の経済を拡大せず、奴隷みたいに疲れるだけで意味のない無駄なことをすることなく、少なく少なくして減らして減らして消滅に向かう思想ではないのか。
「反出生主義者はニートを非難するなかれ」
ニートが働くと生産性が生じるので世界は反出生主義者の理想から離れて行く。ニートが働かなければ税金は納められず、税金が納められないから国が子育てを支援できず、国が子育てを支援できないから人々は子を持たない。それ故、ニートは働かないことで反出生主義者の理想の実現に協力している。 反出生主義者は生産性追求、反ニート主義を否定しろ。生産性追求、反ニート主義は出生主義者の信仰だ。
「努力して砂上に楼閣を建てていらっしゃる方々へ」
努力して幸せになるのは誤りだ。砂上に楼閣を建てるようなものだ。ウクライナ人は一生懸命働いて妻を得て子を得て孫を得たが、その孫達はプーチンに殺戮されて地上から跡形も無く消え失せた。人生の全てを捧げて努力して頑張って得た幸せの結晶である孫達は、プーチンが椅子に座って一言「ウクライナを征服せよ。対抗するウクライナ人は皆殺しにせよ。」と命令しただけで世界から跡形も無く消え失せたのである。努力して幸せになっても、その幸せをただ椅子に座って命令するだけのプーチンの一言で完全に破壊されたのである。
それでなお努力して幸せになれとか仰せの方々はおそらく世界のことを何も知らないか、自分だけはウクライナ人みたく努力して得た幸せを破壊されることはないという「自分だけは鉄砲の弾が当たらない」みたいなことを愚かにも本気で信じ込んでいるのだろう。まあ、せいぜい頑張ってくれたまえ。ただ、それを我々賢人に押し付けるのはやめて欲しい。我々賢人は君らみたいな御花畑とは違って意味の無いことはできないんだよ。わかったかい?
私の誤りは、必要なことをしなかったことではなく余計なことをしたことだ。そしてそれは親や学校の教員に嘘を教えられたことが原因である。砂上に楼閣を建てることを聖戦と教えられ、それに反する者は地獄に堕ちると教えられた。しかし、実際には砂上に楼閣を建てることは全く一ミリも何の意味も無かった。私は今日以降二度と砂上に楼閣を建てるというくだらないことをしないと誓う。ただし、報酬が支払われるならばその条件次第では砂上に楼閣を建てる事業に参加しよう。
毒親を育てたのは毒祖父母だろう。毒祖父母を育てたのは毒曽祖父母だろう。毒曽祖父母を育てたのは毒高祖父母だろう。先祖代々毒の連鎖・負の連鎖が続いておる。その毒の連鎖・負の連鎖を俺の代で断ち切る。天と地即ち宇宙と地球は御満悦であらせられよう。 俺も乱世に適応したな。天命即ち自然現象を知った。
自分が他人に意味の無いことを無理矢理させられているからといって、自分も他人に意味の無いことを無理矢理させる権利があるのか?自分が他人の奴隷をさせられているから自分も他人を奴隷にする権利があるのか?
自分の死、人類の死、地球の死、太陽の死。それらを知った上で何を努力するのですか?つまらないことはやめなさい。
今日死ぬかもよ?
努力は報われるだと?皮肉なものだな。アウシュビッツ強制収容所にもそう書かれていたぞ?(笑)
努力は報われるだと?未来を予言するとは、お前はラプラスの悪魔か?(笑)
努力は報われるだと?努力した人達は実際報われたのか?そんな妄言で人を騙して後でどんな目に遭っても知らんぞ?
成功例だけを見て失敗例を見ない楽観主義者と失敗例だけを見て成功例を見ない悲観主義者は見たいものしか見ないという点において全く同じだ。
光だけ見て闇は見ない楽観主義者と闇だけ見て光は見ない悲観主義者は見たいものしか見ないという点において全く同じだ。
例外を把握していない人は情弱。例外から目を背ける人は精神病。
見たいものしか見ないのは勝手だが、その自覚が無いなら終わりだろう。
見たいものしか見ない人はラプラスの悪魔にはなれない
ネトウヨの人達がまるで自分は白人であるかのように同じ黄色人種の韓国人や被差別部落民を見下すのは人間性以前の知能の問題だ。これと同じで、客観視ができないことが原因で人間性に問題を抱えている人達は人間性以前に知能に問題がある。 毒親が許されるなら毒子も許される
毒子が許されないなら毒親も許されない 安倍さんは明らかに善の人だったわ。
そういう人を妬みとか、苦しませてやりたいって思うのは醜い。
はずべきことや、するべきでないことは直感でみんなわかってる
気づかないふりをしてそれをやり続けると、醜い顔になっていく。
自分の顔が醜いなと感じたら要注意だ、 権力を私物化し、官僚までも腐敗させたのが安倍だ。
一部は、今、洗い出されつつあるが、とても追いつくまい。
彼は善人だった・・・。 統一教会もそうだが、それらの人が悪いだけでしょ。
関わってる人に責任があるというのなら、
騙された人も悪だし、国民自体が悪だよね。
いじめが発覚して、いじめてた本人は注意されただけで
ほぼ関係ない校長先生とかが退職するのすごく馬鹿らしい。 >>161
安倍さんは明らかに不善の人だったわ。
そういう悪い人を妬みとか、もっと苦しませてやりたいって思うのはむごい。
無間地獄に堕ちたことや、閻棒の裁きを免れなかったことは直感でみんなわかってる
安倍の無間地獄がむごいな可哀想だなと感じたら大丈夫だ、 哲学系YouTuberであるrの住人ピエロが「人々は大学生がキャバ嬢をしていると聞くと下劣と罵るが、キャバ嬢が大学生をしていると聞くと偉いと褒め称える。全く同じことを順番を逆にして伝えただけなのに。」とか言っていたが、事実人々とはこういうものである。 >>161>>163
それは山上容疑者のことを非難してるの?殺人は確かによくないことだね。だけど山上徹也の兄の自殺も含め大勢の二世信者が人生破壊されている。それをただ黙って耐えて死んで行けというなら貴方たちこそ本当に醜いと思うよ?そんな幼稚な考え方をしている貴方達こそ馬鹿らしい。 >>166
いや、統一教会が悪いってことを言ってる。
安倍総理がメッセージ送ったのとか、深いつながりがあるわけじゃなくて
よくある社交辞令に過ぎないっていうの、普通に考えたらわかるじゃない?
山上容疑者は怒りと憎しみが強すぎて、妄想が膨らんだのだろうね。
彼の境遇は可愛そうだが、そんなこと言ってたら俺だって可哀想なんだよ、
だからって人殺して良いのか(しかも関係ない人)
結果的に日本の統一教会は解体されて、そのことは良かったと思うけど。
なんで安倍さん殺されなきゃいけないんだよ。
日本のためにとんでもなく尽力してくれた人だよ。
そんな人が殺されて、喜んでる連中はものが見えてないと思う。 刑罰とはただ単に反抗的な奴隷を鞭で打って躾ける行為に過ぎない。事実、上級国民は犯罪をしても罰せられない。人類よ、反論があるなら反論しろ。 >>167
祖父の岸信介の代から先祖代々統一教会と強いコネクションがあります。嘘だと思うならwikipedia読んでみな?情弱クン!!! 強いコネクションって具体的に何よ?
それが殺されるに値するほどと思えない。
良いものや、良い人を素直に良いと認められない人っていうのは
それを認めることで、相対的に自分の醜さを認めてしまうのが怖いからだよ。 全員が親愛なる金正恩同志に完全に賛成とかキモくないですか?全員が貴方に賛成するとはそういうことですよ?
負け犬の遠吠えは、「お前は勝ったのだ。」という天からの祝福だ。
勝ち負けに拘るなら死ねよ。お前は生まれた時点で負けてるだろ。 憎しみを手放せない人は可愛そうだなと思う。
手放そうと思って手放せるものでもないけど。
あなたが苦しみから解き放たれますように。 底辺は何も失うものが無いのであり、つまり自由であるということ。
せっかく自由を得ているのに、それを不幸とするのは考え違い。 底辺は生み出すものも無いから、それは奪うしかないということ。
その自由は奪ったものであり、誰かの不自由ということである。
故に底辺の世界は修羅場となり、自由は錯覚。善はここでは不可能であれば、悪こそ栄える。 勝ち組になっても負け組を助けない人は負け組になっても勝ち組に助けてくれとか言うな。
負け組になったら勝ち組に助けてくれとか言う人は勝ち組になったら負け組を助けろ。 政治家を批判する人も政治家になると賄賂を貰う
実証された限り、我が無いことは、我が儘に似る ダラダラ書いてる本人には意味あるんでしょ
道徳レベルの話だけど 仏教系の人ってほしいものリストだったり、クラウドファンディングとかに抵抗ないんかね?
乞食は仏教の中で悪いことではなさそう、俗世間にいる人間からすると違和感あるけど https://president.jp/articles/-/76621?page=3
>善悪というと、私たちはすぐに道徳的なことを思い浮かべる。
弟子の大愚は「善悪の定義」をビジネスマインドだと悟った。 顔隠してYouTubeやってて、近しい人が問題になったとき諫めることなく庇ってたり
本職は僧侶だろうと身バレしてるけど、YouTuberとして欲しいものリストでキャンプ用品やら整髪料入れてるけど、遊びやおしゃれも修行だからしょうがないということ?
百歩譲って米はまだ分かる inputとoutputの両方ともできないとできるとは言わない。
私は自己責任が100%であるとする完全自己責任論と自己責任が0%であるとする完全天命論(完全自然現象論)の両方を否定する。そして、天命即ち自然現象を意志の力である程度修正できるという考えから、自己責任を0%以上100%以下であるとする天命修正論(自然現象修正論)を提唱する。天命即ち自然現象をどこまで自分の希望通りに修正できるかである。 そうなるのも天命即ち自然現象
そうならないのも天命即ち自然現象
そうするのも天命即ち自然現象
そうしないのも天命即ち自然現象 >>186
そうなると修行ってなんだろ、ってなるね
坊主という何かか修行という何かをやってるらしいってだけになる ヒトラーやナチス・ドイツを含め、全ての人や人の集団のありとあらゆる異常は生物学が発展すれば生物学的説明がなされるだろう。 >欲望の対象を目の前にしながら、その対象から離れて自由であるというのがお釈迦さまの悟りです。断捨離で物を捨てる必要はありません。
ほしいものリストは、買いたいけど買えないリスト、金を稼ぐ修行でリーマンなお往生を遂ぐ。
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/dailyshincho/entertainment/dailyshincho-1059516 捨てたから頭シンプルになる、ってのもありそうだけど多分頭シンプルになるから物が要らなくなるってだけよね、覚者の場合
断捨離は思想だよ
物をたくさん持つのは悪だという価値観からの罪悪感が自分を苦しめてるだけ。悪だというとこから解放されるなら物溢れてても病んだりしないよ
まあその辺から自由な人はやっぱ物要らないだろうけど 諸行無常。諸法無我。
人は誰でも能力的に捌き切れない責任を負いたくない。人に能力的に捌き切れない責任を自己責任として押し付けるとその人は破滅する。逆に言うと、人を破滅させる方法はその人が能力的に捌き切れない責任をその人に負わせることだ。
日本人はアメリカによる原爆投下を間違っていたと言うが、アメリカ人はアメリカによる原爆投下を正しかったと言う。日本人は原爆で焼き殺されたが、アメリカ人は原爆のお陰で米軍の犠牲者を減らせたのだ。同じ出来事を正反対の立場から語ると正反対の評価になる。
盗賊には対処するが飢饉には対処しないなど、犯罪には対処するが犯罪の原因には対処しないのはバカバカしい。そんなことばかりしているから革命が起きるのだ。
有能は自己責任で対処できるだろうが、無能はとても自己責任で対処できない。誰でも障害を負う可能性があるのだから、あまり他人に厳しくし過ぎない方がいい。貴方の他人に対する厳しさはboomerangとなって貴方自身に返って来るだろう。 平氏「俺らは努力して幸せを得たから俺らは贅沢する権利がある。負け組は自己責任。」
武士「平氏要らん。源氏に寝返るわ。」 近頃はヒトが死ぬと「あちらの世でゆっくりとお休みください」とか
「あちらの世で待っててください」とかのコメントが出されるが、
「あちらの世」は存在しないぞ。
「あの世」「天国」「極楽」「地獄」などは、存在しない。
ヒトは死んだら終わり。 臨死体験は、もちろん「死の体験」ではく、「生の体験」だ。
「死の世界」から戻ったものなどいない。
「死の世界」の存在は誰も判らない。判りようもない。
釈迦は「死の世界」の存在/非存在が判らなくとも、
人にとっての最終問題は解決できることを示した。 俺の父母に俺を大学に行かせないだけの先見性があったら俺の父母はそもそも俺を産んでいない
人間関係が原因で長期就労ができない人は知能が低い。
高学歴無能は鉄道オタクと変わらない。
仕事にしろ仕事以外にしろ人間関係が長続きしない人は性格以前に知能に問題がある。
性格の問題は知能の問題である。
無能は学習性無力感を持つ
有能は学習性有力感を持つ
俺に正しい判断などできるわけがない。それができるならこんな人生送っていない。
現実世界での成功が真の成功
現実世界での幸福が真の幸福
諸行無常。盛者必衰。自己責任論で他人を攻撃していられる期間は人生の中で僅かだ。いずれは老衰して他人に助けを求めるようになる。見苦しいことよ。
努力が報われた話は実話だが、努力が報われる話は予言に過ぎない。外れる予言はしない方がいいぞ。 アウシュビッツ強制収容所から生還したユダヤ人の中にはアウシュビッツ強制収容所での経験から死生観が変わった者もおり、ある生還者は葬儀について「人が死んだくらいのことであんな仰々しいことを(するのは大袈裟だ)」と言ったという。しかし、自然界ではその死生観こそ正しいだろう。地球上で葬儀をする生物など人類しかいないのだから。 人は恐竜と変わらない
人の一生は恐竜の一生と変わらない
人の死は恐竜の死と変わらない
人の絶滅は恐竜の絶滅と変わらない 努力はギリギリ状態で生きている人間の宿命な。
貴族は努力なんてしねえからさ。 >>201
そうそう
意味付けするのが他の動物と違うところだけど、意味付けしないではいられないから苦しいのよ
死ぬことに意味なんて本来ないのにね
生まれることもそうだし
出来事は全て起きてるだけ
いちいち価値だの善悪だの意味張り付けるからややこしい
動物と違ってメタ認知が発達してるからこそ、意味付けすることに意味がないことを認知していくことが出来るんだからそここそ頑張るポイントなのに
ただ、これ内観の出来ない人間には絶対言えない
そういう人間は全部意味ないんなら何やってもいいじゃん!で反社になるから 地球全史
恐竜の繁栄と滅亡
ローマの繁栄と滅亡
平家の繁栄と滅亡
人類の繁栄と滅亡
生物の繁栄と滅亡 平家「平家にあらずんば人にあらず」
人類「人類にあらずんば生物にあらず」 できる人にはする責任が有る。
できない人にはする責任が無い。 心理的視野狭窄の状態にある人は仏教的に言えば悟りを失っている状態だ。 人生は結果が全てだ。広島と長崎の人が戦時中どれだけ苦労して努力したか知らんが、最終的には原爆で焼き殺されて呆気なく人生終了。もう一度言う。人生は結果が全てだ。これくらい簡単なことが理解できない人は世界に一人もいない。
正義感で事実と異なる主張をする人々を論破する
自民党のカルト教団汚染は実に合理的だ。安倍晋三一人を生贄として差し出すことで他の自民党員は暴利を貪れる。
抑圧の平和より解放の戦乱を望む者共がいる。
その者共が源平合戦やらフランス革命やらアメリカ独立戦争やら明治維新やら辛亥革命やらロシア革命やらを引き起こした。 蚊や蝿にとっては人類など餌の一種に過ぎない。人類が滅んでも他にも餌があるから別に困らない。せいぜいこれ以上地球環境破壊をする前にさっさと滅んでくれとし思わん。 蚊や蝿にとっては人類など餌の一種に過ぎない。人類が滅んでも他にも餌があるから別に困らない。せいぜいこれ以上地球環境破壊をする前にさっさと滅んでくれとしか思わん。 来世を信じる奴らには来世を信じさせておけ。奴らは来世の幸せと悪者への来世での天罰さえ約束すればそれだけで満足するのだから本当に安上がりなチョロい奴らよ。
間違っているものについて取り敢えず叩くという人は阿呆が多い。正義感はあるがrealismに乏しく、世の中を変える能力を持っていない。犯罪や戦争や地球環境破壊を叩くが犯罪や戦争や地球環境破壊の原因は放置し、いつまで経っても犯罪や戦争や地球環境破壊をなくせない。
正しいことをすることが間違っていて間違っていることをすることが正しい場合もある。
一億総玉砕だの神風だの言う東條英機は確かに間違っているが、東條英機は間違っているなどと言って東條英機に反抗するという「正しいこと」をして迫害されるのは「間違っている」だろう。東條英機に従うという「間違っていること」をして迫害されないようにするのは「正しい」だろう。
realism(現実主義)に欠けるoptimism(楽観主義)とrealism(現実主義)に欠ける pessimism(悲観主義)を行ったり来たりする知性の低さが滲み出ている現象を一喜一憂と呼ぶ。 普通の人とは、人類の半数を上回る人々のことである。人類の半数を上回る人々は普通の人である。
普通でない人とは、人類の半数を下回る人々のことである。人類の半数を下回る人々は普通でない人である。 「もしこうであれば」などと反実仮想をする人は未熟な人だ。架空の世界の架空の人生を夢見て現実世界の現実の人生から目を背けている。 「こういうことをするのは駄目」を「こういうことをするのは未熟」に言い換えよう 人間関係はどうしようとも詰みだ。欧米に付くか?中露に付くか?どちらにも付かないか?八方美人になるか?どうしようとも詰みだ。人間関係は何しても詰み。いい歳してんだからそれくらいのことは知っておけ。 http://poemculturetalk.poemculture.main.jp/?eid=283#gsc.tab=0
>「明日もしあなたが死刑になるとしても、今からでも人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることは決してない」と説いて回りました。人生の意味を見つけるのは最後の瞬間まで諦める必要はないとフランクルは言っています
>死刑囚という人たちは、一番説得しがたいけれども、魂が一番切実に生きる意味を求めている人でもあると言えるでしょう。
自由か、不自由か エゴっていうか我というか、人を人としているモノって本当に生きがいみたいな存在の理由を必要としてんのね
何で生きがいって必要なんだろ
絶望ってどうして人を不健康にするんだろ
もうそう作られてるから、としか思えんなあ 同じ人間は2人としていないけど、エゴって世界に一種類しかないよな
同じ仕様で全ての生物に搭載されていて、その生物と個体のキャラによって発動の仕方が異なるだけ
人間なら性格価値観とか文化圏、脳みその処理性能に左右される
とにかく個体の生存と遺伝子の継承に全力で個体を使おうとする。人間なら価値観の継承、沽券の保持もある 子供は自分の存在の意味とか考えないけど、母親とか保護者にあたる人物から邪険にされればどんなに小さくても自分に価値がないと受け取る
これは社会性動物であるヒトに組み込まれた本能なのか
この自己価値観のあるせいで全てがややこしくなってるように思う
逆にこのややこしさがごく一部の人間にとっては解脱の一つの原動力にもなってると思う
釈迦の自己価値観がどうだったかはわからないが、この世の苦悩の存在に疑問があったから真理を知りたくなったんだろうし 世の中眺めてると、生活が安定すれば心から幸せな人もいればたまに釈迦みたいに全てを持ってるのに苦悩してる人もいる
満足してるならつまりそれ以上を望まないわけだけど、宗教的にあの世の設定地獄の設定するっていうのは無理矢理苦悩の原因を創作投下してるようにも見える
それが恐怖を使った支配の上手い方法なんだろう 無能劣悪遺伝子が就職できずに餓死したり結婚できずに子孫が残らないのは自然淘汰なんやで
努力して結果を出すことは誰にでもできる。問題は、努力によって出せる結果が人それぞれで異なるということだ。
神経発達障害の運動音痴の子が学校の体育の授業を頑張れば少し体力を向上させることができるかも知れない。ハッキリ言う。誰が何と言おうと、それは努力をして結果を出したということだ。
知的障害の子が学校でお喋りの練習をすれば、少し簡単な単語を話せるようになるかも知れない。ハッキリ言う。誰が何と言おうと、それは努力をして結果を出したということだ。
自閉症で社交不安障害のひきこもりの人がカウンセリングを受けて対人恐怖症を少し克服し、一日だけ日雇いの仕事をしてみることができるかも知れない。ハッキリ言う。誰が何と言おうと、それは努力をして結果を出したということだ。
ただし、それで就職ができるかどうかは別だ。努力をして結果を出すことは誰にでもできるが、その結果が人生で役に立つかどうかは別なのだ。
もし俺が本当に間違っているならば、俺には天罰が下るだろう。天罰が下らないということは、俺は間違っていないということだ。
天は、天命即ち自然現象に逆らう者に天罰を下し、天命即ち自然現象に従わせようとする。 人々に必要なのは知識ではない。必要なのは体験である。
仏教に限らず、信仰に必要なのは体験である。
体験は修行と言ってもよい。あるいは日常の実践と言ってもよい。 その通りです
インナースペースにいかにスムーズにアクセスできるか
達人はアカシクレコードにもアクセスするらしいです 必要悪はするべき悪
必要自殺はするべき自殺
必要殺人はするべき殺人
必要犯罪はするべき犯罪
合法違法関係無し 多くの人は、睡眠は人生の無駄な時間と捉えている。
しかし実際には、睡眠は人生の重要な体験である。
ただ無意識であるのが残念ではある。 婚活のことで悩むのは結婚できるからだ。結婚できない人に婚活の悩みは無い。
就活のことで悩むのは就職できるからだ。就職できない人に就活の悩みは無い。
人生のことで悩むのは生存できるからだ。生存できない人に人生の悩みは無い。 我慢するのも我慢しないのも頭を使って戦略的にやるものであり、頭を使わず無計画に我慢するのも頭を使わず無計画に我慢しないのも遅かれ早かれ破綻する。 肯定するのも否定するのも唯物論的ではない。
是とするのも非とするのも唯物論的ではない。
善とするのも悪とするのも唯物論的ではない。
得とするのも損とするのも唯物論的ではない。 唯物論に「価値」や「意味」を持ち出すのは、カテゴリー違反。
しかし唯物論も、そもそも「分節化」をせねば成立しない。
分節化には価値や意味を伴う。つまり大いなる矛盾。 逆境で人生を投げる人間としての中身の無さ。薄っぺらい人間性。高学歴ニートを見ていると教育とは学歴を身につけさせることではないということがよくわかる。 後悔は反実仮想だ。「もしこうであれば」などと反実仮想をする人は未熟な人だ。架空の世界の架空の人生を夢見て現実世界の現実の人生から目を背けている。 親子兄弟で殺し合う戦国時代の武士は皆生まれてから死ぬまで孤独だった。 戦国時代の武士のレゾンデートルは、己の個人的欲望の実現ではない。
あくまで家(武士団)の存続と繁栄。
その中にどっぷりと浸かっているので、孤独は感じない。
だからヤスヤスと死ねる。 もし私が本当に正しいなら、天は私に幸せを与えるだろう。
もし私が本当に間違っているなら、天は私に不幸を与えるだろう。 国々は互いに依存している。
人々は互いに依存している。 「夢は自分を善なる道に導き、よき出会いをもたらしてくれます」
『一歩を越える勇気』栗城史多 天は俺が愚劣極まりない子作りをして熊澤英一郎のような子を持つ熊澤英昭のような人生を送らないように俺に無能劣悪遺伝子を与えた。天が俺に無能劣悪遺伝子を与えたのは子作りという愚かな行為によって不幸な子を持つ不幸な親となることを防ぐ為だ。天よ、ありがとう!
俺は人生のほぼ全てを他人に依存して生きている。しかし、人々は互いに依存し合って生きて行くものだ。お互いの弱さを攻撃し合うより、お互いの弱さを補い合って生きて行こうではないか。
健常者雇用がまともにできない奴が障害者雇用に流れるが、障害者雇用すらまともにできない奴はどうなるのか?
人類のこれまでの不幸は、反出生主義こそが正しいということを天が人類に教える為であった。天は人類を反出生主義者にする為に、人類に数々の乗り越えられない耐え難い苦しみを与えたのである。これまでに人類が経験した数々の不幸には天が人類を反出生主義者にするという意味があったのだ。
俺が無能劣悪遺伝子を持って生まれたのは間違っていなかったんや。俺を反出生主義者にする為に、俺を不幸な子を持つ不幸な親にしない為に、天は俺に無能劣悪遺伝子を与えたんや。
生まれても幸せにはなれないとわかっただけでもこれまでの不幸には意味があった。
人類よ、お前達に反出生主義を布教する。生まれることこそが全ての不幸の始まり、ありとあらゆる苦難の始まり。それを知れ。
何の意味もない報われない努力もあるとわかっただけでも努力したことには意味があった。
一生何も苦痛を感じない。死人のように。 このスレ的には、その内容がどんなであれ、人生に何らかの意味があるという前提を置くことそのものに疑義を呈するわけで
まあでもご自身のたどり着いた結論によって救われたのならそれは寿ぐべきことね、個人的体験や気づきはやはり大切と思うし 反出生主義が哲学たり得ないのはそれが同じ状況に追い込まれた者にか通じないし成り立たない論理だからだよ
未だ来たらざる世、というものに関しての考え方も釈迦の仏教とは徹底的に違うし 天命とは自然現象のこと
天命に従うとは自然現象に従うということ
天命に逆らうとは自然現象に逆らうということ 反出生主義で人類を滅ぼして地球を永遠に生き物の楽園にしよう! 一人は一国に等しい。
家族関係は国際関係に等しい。
家族間の戦争は国家間の戦争に等しい。
親子兄弟で戦争をするは戦闘民族武士の定めなり。 渇愛が消えれば、反出生主義も何もない。釈迦の理解したこと。
反出生主義者は、生への執着が強すぎる。 でも執着は離れようとするほどしがみついてくるから責めるのも違う
執着してる自分を裁かずにただひたすら観照する
執着している事実そのものを受け入れて赦す いやぁ…
釈尊の時代でもサドゥー、世捨て人になるには結婚して子を育て上げ家系を後世に繋いでからってことがあったろ
沙門になるってのは一人前になれた人間がその世間での一般的な仕事を終えてからしか基本的にはしないしやらないことだったんだよ、ムトゥ踊るマハラジャのムトゥパパみたいな
だから釈尊の29での出家が若過ぎると驚かれてたわけだし
悩むのはやることやってから、という前提が崩れてるのが現代、ということでもあるか
一生モラトリアムつーか 生物として子孫を残せるチャンスがあるなら(相手がいて経済的にも可能なら)ちゃんとそこはクリアすべきなんだろうな
っていうか、そういう普通の人生も経験しないと知恵の土台すら構築できない気がする
人としての胆力もそう そういう意味合いで言えば、今の坊さんが妻帯するのは別に悪くない気もするけどね 自分もご多分に漏れず若い頃は出家してとことん真理を突き詰めたいとか思ったけど、よくよく考えてみれば若いうちから仏門に入ってしまうと自分のような暗愚な凡夫は狭い世界の流儀に凝り固まって世界を平たく観ることなんて余計に出来なくなるな、と気づいてやめたわ
今は普通に家庭があり子供も成人したけど、それで正解だったなと思う
真理は自分の中にしかないのに、それに気づくきっかけは人の間にあるんだよな結局
賢い人は若いうちから出家してもちゃんとたどり着けるんだろうけどね 無害な反実仮想はして良い。有益な反実仮想はした方が良い。反実仮想が科学技術の発展や政治経済の改革等様々な発展や改革の要因である。
精神とは脳のことだ。精神年齢とは脳年齢のことだ。精神年齢が低いとは脳年齢が低いということだ。精神のlevelとは脳のlevelのことだ。精神病とは脳病だ。精神障害とは脳障害だ。 世界の現象を唯物的と決めつけてしまうと、にっちもさっちも行かなくなる。
ひたすら現象として観察し、予断や仮定を入れないで進むべきだろう。 明るい未来を奪われることは不幸
暗い未来を奪われることは幸せ 我々人類は反出生主義者になって子作りをやめて絶滅して地球を永遠に生き物の楽園にしよう。 生きている以上、老病死生の四苦はある。
ヒト以外の生物にも四苦はあるが、自覚できないだけ
なおのこと不幸だ。畜生と言われるゆえん。
ヒトは四苦から離れる可能性がある。
畜生たちを救うためにも、ヒトが頑張らねば。 動物に救われたとかあるのかそもそも
その畜生は人の形をした畜生ならわかる すべての生物に老病死生の四苦はある。
というより、老病死生があるのが生物だ。
それでも、その四苦を離れることできることを示したのが釈迦。
それで我々も少しは救われている。隣の家の犬も少しは救われている。 天は人類に生まれなければ不幸にならないことを教えて人類を反出生主義者して人類に子作りをさせない為に人類に不幸をもたらした。
天は俺に無能劣悪遺伝子を与えて俺を反出生主義者にすることで俺が不幸な子を持つ不幸な親になることを防いだ。 >>260
ここでもその負け組の烙印を押される者だが、もうこれ以上印を押す余地無さそう
人によってはこんな心持ちの時に罪犯したり自暴自棄になるんだろうと感じた >>274
260だけど、家庭持たなきゃ負け組とかいう価値の捉え方は自分はしない
確かに生物としては子孫残すのが是なんだろうけど自然界見てても全てのオスが子孫残せるなんて種は無いわけで、じゃあそういう負け組?な個体に価値や意味がないなら何でいるの?ってなる。多分遺伝子的には多様性の確保とかスペアとかサブ的だけど居てはくれないと困るわけじゃん?
自分らは人間やってるわけでそこまで話は単純じゃないよね
自分の書いた普通の人生っていうのは、家庭持って子孫残すとかいうせっまい話ではなく、市井にあって人の中で生活するって意味だよ
だから人によっては家庭あり資産あり独身だったり貧困だったりとあらゆるパターンあるけど、とにかく出家する前にその人の社会の中での人生をちゃんとある程度やってからじゃないと真理を見つけるための知恵の土台すら身につかないだろうって話です
その、普通の社会の中に宇宙の真理のような顔して鎮座してる怪しい価値観をそのまま自分の真理とするなら、負け組という烙印を自らに捺すことにはなるねそりゃ
実際経済的に厳しいとか病気持ちだとかだと価値観以前に生存そのものが苦しいわけだけど、それは負け組とかじゃなくて不運だってだけだし
運は本人の責任の外にあるからね
運にしろ人生を縛るほとんどくだらない価値観にしろ、そういうのは眼前にあるし苦しみの原因として人生に引き受けてはいるんだけど、それらを苦しむのかどうかは別の話だよっていうのが釈迦の気づきでしょ?
なんつうか、苦しんでること自体がダメだ苦しむな!って言うんじゃなくて苦しい自分をそのままに観る、受け入れるって感じ?苦しんでることを赦すって言うといいのかな
ジャッジするのは違うんだよな
優しくて真面目な人ほど自分のこと負け組とか言いがちだけどその烙印を自ら捺すのはおやめなさいよと言いたいわ
その烙印を捺す根拠は宇宙の真理なの?
苦しいのは気の毒だし元気出してほしいとしか言えないけど、せっかくこういうスレにいるんなら光の方向を見るようにしようよと衷心から願うよ
気づきの一閃が訪れる幸運に恵まれても、下を向いていたら天からの光を見ることは出来ない 浮世の悩みをグダグダ言っても泥沼からは抜け出せない。
踏ん切りが必要だ。身を捨ててこそ。
まぁ、抜け出ただけで、大して変わらんと言えば変わらんが。 仏教は「人間の教え」。
「神性」ではない。ここがポイント。
この点において仏教はプラスもマイナスもある。
神性を持つ宗教はまた「別の次元」である。 >>275
274す、全部拝読しました長文レスありがたく感じます
腐ってるし改善しようと努力もしてないけど一人殻にこもりながらフリーターで楽に日々生活してます、他害とか罪犯そうとかって気持ちは無くてただニュースで見る通り魔とか心中とか非行の犯人の中にこんな心持ちの時もあったのかなと思って
自分の考えも今の社会の中では勝ち負け上下優劣は出て来てしまうけど、経歴や地位や生活の有り様の違いはたまたまそのステージと言うか在る場所が違うだけの結果だと思ってるからただ言葉を拾って負け組烙印とレスしちゃいました
出家してないし娑婆でこのまま悟ることも無く消えていくんだろうと考えてるけど、これって諦めじゃなくて開き直りだよね
たまに考えるけどえなりかずきがフェードインしてきて毎回開き直ってしまう 人生の苦しみは
欲しいものが手に入らない
欲しくないものを持っている
何を選べばいいかわからなくて混乱している
この3つしかない 君子は小人ともうまくやれる
小人は君子ともうまくやれぬ
意味も無く楯突くのはやめろ。筋の通った反抗をしろ。
良縁は神意ならず人意なり 正直仏教でも哲学でもない呟きはXか他スレかどっかでやって欲しいなとは思うけど黙っとくで…! うまくやれない国際関係をうまくやるのが国際関係
うまくやれない人間関係をうまくやるのが人間関係
うまくやれないものをうまくやるのがうまくやるということだ 天は恐ろしい独裁者であり、気に食わない者を情け容赦無く虐め、淘汰する。恐竜も平家も大日本帝国も然り。天に好かれずともせめて天に嫌われるなかれ。 苦痛や不幸や地獄はほぼ防げない。防げないから反出生主義者が出現するのだ。防げるなら誰も反出生主義者になどならないだろう。 反出生主義は、小説もでてるけど、
まず、苦か楽の選択の話だな。 自分がどれだけ不幸か理解できない豚は愚かにも雌を与えられると狂気して種付けし、子孫代々に渡って地獄という負の遺産を継承させている。強産魔の知性は豚に等しい。
戦争やら環境破壊やら犯罪やら虐めやらありとあらゆる不幸が存在する地球で子作りをするのが人のすることか?強産魔は人ではない。獣であろう。 加害者叩きの風潮を作ると自分が加害者になった時に人生詰むから賢人は加害者叩きの風潮を作らない
被害者叩きの風潮を作ると自分が被害者になった時に人生詰むから賢人は被害者叩きの風潮を作らない
賢者は明日は我が身だと覚悟して生きている
愚者は明日は我が身だと覚悟せず生きている 功罪は個人による集団に対する賞罰
賞罰は集団による個人に対する功罪 私の功罪に人類が賞罰を行うのではなく、人類の功罪に私が賞罰を行うのだ。 私の功罪に人類が賞罰を行う
人類の功罪に私が賞罰を行う >>290
デウスを獣呼ばわりとは涜神者め
お前はデウスの摂理によってこの世に生を受けたのだぞ 話自体は興味深いけど、日々雑記哲学版辺りでやってくんね?
ここは仏教縛りがあるからあっち過疎ってるし賑わい取り戻したいから頼むわ >>279
こちらこそレスありがとうございます
腐りがちなのも開き直ってしまうのも、自我の防衛本能だしそこはどんな人にでもあることだからいいんじゃないのかな
岐路はその先にあって、反社に行くかいじけ続けるか転んでもタダでは起きないと思うのか
まあ普通に考えたらそんなとこだろうけど、このスレ的に肝要なのはそういう腐ったり開き直ってる自分から目を逸らさず、しかも善悪のラベルも貼らずに観ている、ってところじゃない?あなたは少なくとも目は逸らしてないよね、注意深く観てるかは別にしても
考えないし何かしようともしてないって自虐ぽく言うけどさ
面倒だろうからレスはもう大丈夫です
日本のどっかでおっさん1人は応援してるよと思っててくれれば
えなりかずきがフェードインはワロタ 40歳までは自然の力で生きている
それを超えると本当のその人の人間性や道徳性が出てきます。 出家行者が布施、世間の余剰物で生きる、っていうのは元々はヒンドゥー世界での生産活動に関わらないサドゥーの習わしだわね
当時のインドの方法論では釈迦と同じ体験がしたければ釈尊が出家してたというなら同じように出家し、(釈尊が礼拝したという六人の聖者の仏国土を訪ねその行実を同じように学び、礼拝、讃談、供養して)、さらに釈尊が苦行を為したというならこちらも苦行を同じように同じだけ!行じてかねば、ということになる
これは釈尊が勧めた瞑想や自己省察とは全く別の論理で動いている、弟子たちが始めたこと 釈迦の見た地平を自分も見たいけどどうにもキッカケも何もないからとにかく真似して見れば何か掴めるかも!と弟子たちが考えたのはわからなくはないけどね
そうしないと釈迦に近づけない、にすり替わるのもそこまで時間掛からんかっただろうことも想像に難くないわな
宗教誕生の瞬間 あとあれなんよな、釈尊在世の仏教と釈迦滅後の仏教の違いについてももうそろそろ注目されてもいいと思う
玄奘がインドで存在を確認したのは提婆達多の残した教団で、その主張も部派仏教が熱心に貶めてた内容とは別物だったじゃん
部派仏教には庶民に出家しろ出家しろと説く経典が多いけど、釈尊は教団拡大にそこまで積極的ではなかった
過去六仏、つまり釈尊が聖者である仏であると礼拝していたはずの聖者のストゥーパについても同様
教団維持拡大に躍起になってたから釈尊の言葉に色々付け加え、他の仏を排除抹消していってたんやないの? >>304
>その主張も
>別物だったじゃん
え、同じだったって記述じゃなかったっけ よい時日をお過ごしください、生きとし生けるものすべてがそのままで在れますように 明けましておめでとうございます
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
苦しい空蝉の身にも気づきと癒しの僥倖がありますように 考えれば本当に欲しいと思う事あるようでなし煙管を磨く
学と教養のない自分だけどこの詩は気に入ってる、門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし、これもすごく響きました
お気に入りの詩2号です 人類が本当の共産主義を生きるにはあと2000年くらいかかりそう
いや、無理かな >307
例えば釈尊が仏である聖者であると礼拝していたという過去六仏に対する姿勢や態度は、生前釈尊のいた教団と釈尊滅後の教団で同じだったと思う? 仏教はとことん現実を否定する。
相手にしない逃避する
そして安らぎに籠る。 それってあなたの感想ですよね?
がこれほどぴったりな的外れの意見も珍しい 方便ってのもあるんだし、もう少し解きほぐすなりして説いて欲しい
反論する方もどこがどうでどうなのかってが欲しい、ひろゆき理論展開するなら他所でやってほしいです
あと私にほならね理論でレスするのもお控え頂きたい まあ線引きというか解釈は確かに難しいよね
普通の感覚で一切空だとか言われたら否定してる、っていう解釈にはなるわな
起きてることはただ起きているだけで意味はない、ってことが空なので現実を否定してるというよりかはよりリアルに見ようとしてると思うけどね
人間何だって見たいようにしか見ないし解釈には必ず判断基準が存在するから五感が正しく捉えてると信じていてもそれすら怪しいわけで、そこら辺吟味し精査していくと、全てうたかたでしかないって意味で現実なんて幻想で空だ、ってなるんだろうとなと凡夫の酷い語彙で頑張ってみた 仏教は安らぎに籠るというより、解脱の結果安らぎがそこにあるって感じなのでは
空腹なら飯食えばいいし病気なら医者にかかればいいし
この世の真理がわからなくて苦しいのは解脱しかない
そもそも何で貧困なのか何で病気になるのか、その辺は真理がどうなっているのかの問題であって、空腹や痛みが解決したら苦しみも消えるタイプの人なら解脱も必要ない 人間の本性というか、エゴの性質というのか
自分の存在の意味から始まって世界には全てに意味があるはずだとそこは疑わないというのがあるからね
理由や意味が理解できないと自動的に不安になる本能が搭載されているとでも言えばいいのか
もう一つは感情や思考が認知されている心という自我の存在だけは絶対に揺るがない、という実は全く根拠のない確信も搭載されている
私という観察者と観察対象の他者というそれぞれ分離した別の存在の集まりだ、と認知してるとも言える
苦しみの大元がどうやらその辺にありそうだと気付いたところから本当の理解への道がようやく始まるのかもしれない >>318
方便ってのもあるんだし、もう少し解きほぐすなりして説いて欲しい ここの人ってそれなりに悩んでいろいろ読んで考えてきてる人だと思うんだけど、友人関係ってどう?話が合わなくなって会うのが悲しいというか微妙な気持ちになってこない?
別に自分がよくよく考えるようになったから偉くなったとかじゃなくてシンプルに話したい内容がズレてきたって感じで
自分は寂しいんだけど仕方ないのかとも思ってる
結局一人一人の中にしか真理はないから
そもそも子供の頃から周囲と話しがピッタリ合うなんて経験もなかったけどさ
仮にここの人たちとリアル友達になったとしてもやっぱり同じことだと思うし 話の合う、ってことがどういうことか分かってきたのではないですか
なんつーかだいたいみんな、好きをなことを好き勝手に喋ってるだけだし
そういう中で相手の方向性とかも分かるようになってきちゃって、だんだん素のままの話ができなくなっていく
素のままの自分の話を聞いてくれる人なんて男女限らず菩薩様みたいなもんだよ、大事にしないといけない
それが昔の話が合った相手だったわけでしょう、ぶつかったり適度にスルーしててくれたという
なんなら今度はこちらが聞き役に回ればいいんですよ レスありがとうございます
私も友達はほとんどいないに等しいです
話しを聞いてほしいとかはどうでもいいんですよ、そもそも自分の中にしか答えはないのだし若い頃から聞き役ですし、みんな好き勝手に話してるというのもその通りだと思います
それでスッキリするならそれで良いとも思います
聞くことでその役に立ててるなら嬉しいとも思いますし
タロットカードに運命の輪というのがありますけど、私も含めて人間は運命の輪にしがみついて幸不幸に一生ぐるぐる巻き込まれているわけですが、今の私の意識はそれを外から眺めてもいるのでもうそうなってるから仕方ないと諦められるのです
でも外から眺めてみなよ、とか言ったところで普通は何の慰めにも癒しにもなりませんよね、普通に共感する方が余程その場では役に立つでしょう
でもそれって相手にも自分にも失礼だなとも思い何だか虚しくなってしまうこともあるんです
そのこと自体も仕方のないことだとはわかっていますが、感情なのでね…
あとは友達という記号にどんな意味をつけているのか人によるのでそこら辺の解釈にもよるのでしょうけれど 話したい内容と私が書いたからわかりにくくなってしまいましたね、ごめんなさい
話を聞いてほしいというふうに読めてしまいますね
仕事や介護や健康についてそのものの内容ではなく、どうして人生にはしちめんどくさいことばかり湧いてくるのかを本当は議論したいんだけど、という感じです >>330
愛する家族がお金を使うから(byイエス あーまーそりゃあそうですね
お金は肉体存在から切り離せない 人よりも秀でたい人よりも多く持ちたい人より有利でいたい
っていうのから全ての人間が自由になると貨幣とか財と呼ばれるものは全て必要なくなる?
でもそうなるともう生命体としてはイビツなんだろうか 生きる価値や意味のない人間は存在します
健全に育ててくれた親や先祖に恩義を返せずなお裏切り続ける性根の者、開き直って勉強も徳を積むことも精進もせずダラダラ自堕落に生活を送るもの 意味ってのはみるものが勝手に付けてるもので価値もそう
親や先祖を裏切るってのは過去に裏切ったって事なのか、今もなにかをし続けているのか、自堕落云々も
とにかく悪いことは何でもしない、良いことは一つでも多くするって心掛けて過ごせばそれは価値や意味のある人間ではないですか 言葉尻を捉えるとそれをしないのは生きる価値も意味もないと言えるかもしれません、死ぬ価値も意味もないでしょうが
因縁因果があって産まれてきて今に至っているだけとみれば全てのものに意味も価値もないでしょう、たまたま受精してたまたま面倒見の良い親のもとでたまたますくすくと育ってたまたまその性根で生きているだけ
生きるのって面倒くさいと思う時もありますよね、死んだら面倒事なんて無いんじゃないかとか誰それに逢えるんじゃないかとか
死んだ事が無いからまだわかりませんが、どうせそのうち死にますしそのたまたま良くしてくれた親に直接じゃないにしろ何かしらお返しするなら徳にもなるでしょうし、もしも死後の世界があるなら親に合わせる顔がないなんてことにもならないでしょう 生きる価値って言葉は曖昧で具体的に説明できないかもしれない。
生きる意味もそうで、曖昧さを回避するには 生きている上で何が大切か 生きている上でどうなるか
価値 どれくらい大切か
生きている上で何が大切か 情報、努力、勉強、・・・
生きている上でどうなるか 成長、仕事、・・・
この説明が間違っているってことはあるかもしれない、そのときは言ってくれ >>326
俺たちは友達じゃないのか?(´・ω・`) >>339
同じような方向を向いてるけど友達だと思ったことはなかった
友達だと思っていいの?ほんとに今泣いてるよ リアルの知り合いでなくても友達と言ってもいいなら友達ですよね、このスレにいる人みんな。悩める道を共に歩んでるんだし 存在価値のない人っていないと思う
死刑になるような人は、他の人からしたら反面教師としての役割は果たしてるわけだし(いない方が社会の平和にはいいけど)ヒトラーみたいなヤバさMAXな存在がいなかったら人類はまた独裁者を生み出しかねないし
ナチスはヒトラー個人もそうだけど組織として集団のヤバさの極みを壮絶な犠牲を伴って人類に教えたと思う、くらいに受け取らないと犠牲者の供養にならないとまで思う
他者を害さずに他者を助ける人の方がそりゃいいに決まってるんだけどねもちろん
人間満ち足りてる時には有り難みがわからないものだから、そのために嫌な人やら物事も必要悪として存在してんのかなーと思ったり。だとしたらそれらも価値あるのよね
迷惑でしかないけど 犯罪擁護してるわけじゃないので悪しからず
犯罪ダメ絶対! 世界の条理の中に一定数反社が含まれてるのが完璧な世界の条理、なのだとしたらそいつらが湧いてくるのは防げないんだよな
あとはなるべく平和が乱されないように人間の方で知恵絞るしかない
その一つが宗教の教えの中に地獄とか天罰とかカルマとか練り込むことなんだろうね
それで心根は良くなくてもかける迷惑は最小限で済む人間が増えるなら社会に有益だし。恐怖の支配でしかないけど >>343
だってリアルの知り合いとこんな話してたらぜったい嫌な顔されるし >>348
あなたは私かな?
嫌な顔どころか哲学とか宗教みたいなニオイがしただけで迫害されそうな勢いなんだよな
まず母親がそうだし父親は馬鹿丸出しの左巻きだから家庭からして地獄よ
まあ親なんてもうどうでもいいけどさ、話のわかりそうな賢い人たちでさえそうなんだから嫌になるわなー
貝になるのが一番になってしまう 日本人の宗教アレルギーは大日本帝国の天皇の扱いからの逆振れがまずあっての、オウムに極まる感じなのかな
イデオロギーが無理というか
その割には新興宗教も賑わってるけどねえ
日本での神道仏教って教義ゴリゴリというよりもう文化だから改めて考えよう!みたいなのは考えるの嫌いな人が多いし哲学としての扱いも難しいのかもね >>350
どうなんかねえ
その割には熱心なクリスチャンとか多いよね まず敗戦でしょ
世間というものに対する信頼が無くなった
家督が消え、名字や家を守る習慣が無くなり、墓や守るべき家名も消え家族も消え、家の宗教というものが無くなった
既存仏教、親からそれまでは代々伝えられてきた姿勢やスタンスが親子の生活の断絶で消え失せたのが団塊の世代だ、親やそれ以前の世代が何を信じて生きて来たかとかも伝えられず何も分からなくなった
既存宗教がパイを失って寺子屋や公民館的立場も失い、単価が上がって寺自身も地元との繋がりを失って不勉強が多くなった
学校でも家庭でも何を信じて生きるかって指針が基本お金になったわね
日本仏教は長らく家の仏教だったから、寺は布教ってことをしなくても生きていけた
親世代が子供世代に生き方の指針やらあるべき姿勢やらそういうのを教える役目を負ってたということでさ
明治大正、戦後ってのはその家庭、また家庭内宗教ってのが消失していく歴史だよ
寺が布教という文法を失って風景になって、代わりに布教頑張ってるのは新興宗教ってやつが主だったでしょ 日本人の宗教アレルギーとして出てくる意見って、だいたい新興宗教への反応が主だと思わん?宗教板のトンチンカンなのはともかくとして
それに対して既存仏教がろくな答えを出してないってのもあるけど 宗教でも無宗教でも等しく死ぬしそれまでは等しく生きてる
宗教宗教いってて頭でっかちになるくらいなら何も持たないほうが楽だよ、善く在るためのノウハウのような物として捉えられればいいんだろうけど>>354の敗戦とかもあるんだろうね
敗戦したからではなくてその前からの流れ敗戦後の流れ、神道とか政治の思惑とか色々 宗教ってのに対する価値観は戦後変わったかもしれないよ
敗戦した後、宗教関係の人も大変だったんだろうけど心の拠り所みたいな感じで宗教に走った方もおるのでは。
熱心なクリスチャンが多いって300以降に書いてあるけど、ぼくのこと絵踏みしてたんかな?クリスチャンって(byイエス 個人の体感としてクリスチャンが多いとは感じないけど、たまにいるクリスチャンは漏れなく熱心な人かも クリスチャンの鬱陶しいところはそれこそ漏れなく布教してくるところかな
あれがなければもっと仲良くできるのに
入信したいんじゃなくて教えの内容が知りたいだけなのにな 感触としては装花に似てるんだよね
引っ張り込もうとするところ、思考停止で信仰してるところ、仲間での連帯感をやたら重要視してるとこ
欧米の教会組織はボランティア精神も旺盛だからいいけど日本の団体はあんまそういうの熱心じゃないし 教えの内容か。あなたはキリスト教知ってますかってくるんだけどな
僕がキリスト教の大元の存在なんだけどクリスチャンにバレてないで(このサイトには書いたけどな 教えの内容か。あなたはキリスト教知ってますかってくるんだけどな
僕がキリスト教の大元の存在なんだけどクリスチャンにバレてないで(このサイトには書いたけどな 加入させようと来たのはキリスト教のイエズス会か?モルモン書なんてもらわなかった?( >>362
ええ?大元って何?あなたがイエス様なの??
俺馬鹿だから読解力ないけどあなたがイエス様ならちょっと面白いね〜いろいろ教えてよ
キリスト教知ってますか?みたいなのは駅で友達待ってる時とかにあったかな、ああいうとき結構いろんな宗教団体から声掛けられるんだけどそんなに不安な顔してたのかなおれw >>364
高校のクラスメートで賢い子がいてそいつがクリスチャンだったけど入信は勧められたけど本とか押し付けられるとかはなくていろいろ教えてはくれた
でも最後は信じるのが大事、に帰着するからガッカリした記憶
どこの団体だったかは忘れた
道歩いてて突然話しかけられ本を押し付けられた経験は何度かある 聖書は新旧どっちも読んだことあるけど、モルモンまでは読んだことないなあ
面白いの?面白いなら読んでみようかな
コーランは挫折したけどまた頑張ってみるか
バガヴァットギーターは今挫けそうになりながらもダラダラと頑張ってる 大元ってなんとなくあっぺした。キリスト教の根源みたいな感じだよ
俺馬鹿だから〜〜←こんなこと言っちゃだめだよ。かくいうイエスである俺も「俺馬鹿だから」って言ったら、親切な方が言っちゃだめって言ってくれた。
へえ、キリスト教知ってますか、と聞かれたんだ
最後は信じるのが大事ってのは、神を信じるとかか? >最後は信じるのが大事ってのは、神を信じるとかか?
そうそう、もう何十年も前の話だし細かいことは忘れたけど結局人智を超えたとこは神のなさることを信じろみたいな結論に絶対なるからつまらんと思った記憶 ところでキリスト教の根源てどんな感じなの?
ここにいるってことは仏教との違いもおわかりになるのかしら
自分奇跡のコースも何となく読んだんだけど、キリスト教のエッセンスが結局わからないからしっくりこなくて
多分奇跡のコースがわかると仏教ももっと深く理解できるのにな、という感触はあるんだわ 贖罪、がとにかくわからない
そりゃ説明読めばその通りの理解はできるけど、何でそれが重要なのかの背景を知らないから 仏教に贖罪にあたる考えって多分ないように思うんだけどどうなんだろうか カルマって原理仏教とか釈迦の考えではどういう物と説いてるの?
家には手塚治虫のブッダ全巻以外仏教の本ないし今度買いに行こうと思うんだけど、原理原則というかそこにより近い物を知りたいんだけど何かをおすすめありますか? 毎日仏壇前で唱えてた般若心経を1/2から唱えなくなった、週5回くらい自慰をしてきたけど今年入ってからしてない
読経とか遺影見て何かを思うのってセンズリと変わらんものなのか? 読経とか遺影に何かを求めて望むなら自慰と同質とも言えるかもね
ギリシャのディオゲネスって哲学者?が好きなんなんだけど、住処にしてる広場で公衆の面前で自慰をしてオナニーは良いものだペニスを擦るだけで欲求が満たされる、食欲もそうであればいいのにって発言したらしい
元は地位とか資産もあったけど失脚して奴隷になったりとかを経て自分の所有を持たない自然の動物のように在るってのを探求してた人なんだけど、そのくらい俗世を捨てるとほんとに心からの行いができるのかな 求むるあるは皆苦也
世界平和とか全ての命の尊重とか願っても一向に顕れない、そこに着目しても周りには醜い世界が
なら外の世界に望むより内の世界で閉じ籠もってたほうが安らか
世界の平和も生きとし生けるものの安らぎも求めないけど、それらの為に何かしら役に立てるように生きていければ >>373
雑な言うと、カルマみたいな死後のことは証明不能だからやいのやいの言っても仕方ない、って感じですかね
カルマが気になって苦しくなるのは何故なのか、そっちをよく観察する方が大事と
本はスッタニパータとか涅槃経とかをキーワードに本屋でいろいろ手に取ってみるといいのではないでしょうか 死後のことは死んでから見つめようと思うからどうでもいいんだ
カルマって生きてる間には関係ないの? カルマに輪廻転生のことだけではなく生きてる間の因果応報も当てはめて言ってるわけですね?
そういうことなら仏教でもカルマはあるという扱いじゃないでしょうか まあでも釈迦が言い出した、というよりはそれより以前のインド社会でも普通にあった考えのようなので仏教固有の考えではないと思います >>370
キリスト教の根源ってどんな感じ
これについてだが、イエス自身が処刑されてそんで三日後に復活してそこからイエスをあがめていそうなイメージがあって
他にも人類の罪を償った、などといったことがイエスの主張するキリスト教の根源さ
贖罪ってイエスが人類の罪を償ったことだろうか。罪を贖う(あがなう)ことだね。
カルマってのは罪のことだろうか。因果応報とか考え方は似ているかもしれない。
人を傷つけたカルマが自分に回ってくるとかさ また聞きたいことがあるならどうぞ 贖罪、で似てると思うのは南無阿弥陀仏かな
人間が受けるべき罰、またするべき修行を代わりに全て受け、やっておきました、あとは自他すべてのものに手を合わせ業縁を尽くして生きなさい
他を押しのけて生きる人間の罪悪感というものがわからなければ、ピンと来ない感覚だというのは分かる >>383
罪悪深重、慚愧の心の自覚症状がある人へ向けて言ってるという前提が必要 輪廻は変化だよ
サンサーラは歩き回る(サンサラティ)という動詞から出来ている 「歩き回り」は身体が壊れても停止しないというだけのこと 死後のことは誰も判らない。
臨死体験は、もちろん「死の体験」ではく、「生の体験」だ。
「死の世界」から戻ったものなどいない。
「死の世界」の存在は誰も判らない。判りようもない。
輪廻は証明できない。 「前世記憶」も「死後の世界」の証明にはならない。
「生まれ替わり」の証明にもならない。
すべてが「生の世界」で起こったとしても説明できるから。 >>388
証明はできないけどブッダは「神通力」で過去世がわかると自称したし、事実輪廻を信じて修行をはじめ、
悟ったあとも輪廻を説き、そこからの脱出方法を説いた >>389
>「前世記憶」も「死後の世界」の証明にはならない。
>「生まれ替わり」の証明にもならない。
なるほど それは確かにそうだ
>すべてが「生の世界」で起こったとしても説明できるから。
??? >>383>>385
ありがとう
南無阿弥陀だとわりとしっくりくるんだけど
贖罪て原罪が全ての人間にあることが前提になってるんだよね、例外はなく
阿弥陀様の救済も例外はないけど
何かその辺の前提が乖離してる気がするんだよなあ、キリスト教と浄土系だと
そうか、贖罪がわからないのはそもそも原罪がわからないからなのか
なんでそんな前提が必要なのかがわからんのよ マウントのため、お前ら俺の気に食わないことすんなよ、黙示録覚えとけよ、やっぱだめだ気に食わんこいつ殺すか
隣人を愛せよとかある本の中にこんなんが書かれてるんでしょ 発心しても、こんなもんか
なんかもう虚しさしかない 発心という事柄に期待が大きかったから虚しくなるんだよ多分
自分もそうだったからわかる
発心て単なる何かのスタートとかきっかけに過ぎないんだ、って腹に落ちればそんなものよね、ってスルーできるようになるよ
てか世界の事象なんてそんなものじゃない? 自分とか周りに期待するから苦しいし虚しくなる
期待をするってつまりどういうことなのかを見極めるのが一つのポイントだと思う
期待するな、ってことでも期待しちゃう自分を責めろってことでもないことは強調しておきたいところ
裁くのが目的じゃないので >>394
聖書編纂した人たちのレベル、目論見とか中身が透けて見えるよね
イエスは絶対そんなこと言ってないだろうに 旧約聖書は物語としては面白いけどあの神様嫉妬深すぎてちょっと…汗 >>392
原罪≒業(カルマ)
輪廻=カルマの相続なのでつまり人間はカルマで出来てる イエスの俺がいうのもなんだけど聖書書いてる時間あったのかな、聖書は誰がどれくらいかけて作ったのやら気になる
聖書書いたの俺だと思いますって感じで生きてるけど、何歳でイエスは生涯を閉じたんや、意外と教わってないことあるんやで
で、イエスの俺がいうのもなんだけど織田信長と秀吉って同一人物だと思うねん、どちらも俺やからや、でも大河ドラマ(どうする家康)見てると同時期に生きてるとかありそうで俺の前世の話砕けるんかい >>403
細かいことはともかく、お兄さんのこと好きよw >>402
ありがとう
そう言われると少しイメージが出来るんだけども…
アダムとイブのせいで人類みんな生まれながらに罪がある、っていうことが、カルマの比喩になってると考えていいならスッキリするんだけど多分違うじゃん?
カルマは文化的にインドから東アジアに広く浸透している考えだけど西洋社会はそういうのないみたいだし、
しつこくて申し訳ないけど、そもそもアダムとイブの云々をねじ込む必要性がよくわかんないのよね
パウロの方便だ、で終わらせていいなら逆にスッキリするんだけどねえ
あ、多分もうこの先は進めない予感がするので質問はおしまいにします
ありがとうございます あ、輪廻がカルマの相続なのはよくわかります
記憶や経験が次なる輪廻のエネルギーなのもよくわかります カルマの相続だね
いわゆるセム・ギュー(sems rgyud)とかmental continuumとか訳される 自分のイメージだとカルマは個、っていうよりはあの世はカルマの海みたいな感じでそこから必要な?カルマが凝集して個人としては生まれてくる感じ
人生で新たなカルマ作ると死んだ時それがカルマの海に溶けて戻っていく、みたいな? カルマが個なんじゃなくて個がカルマそのものなんだよ >>409
それは仏教じゃなくてスピリチュアルだね >>413
そうね
あくまで自分のイメージだから
仏教ではない
個人がないとしたらこんなかな?ってイメージ >>411
はい、その視点で迷わず見られるようになりたいと願い、それがまだまだ迷いの証拠 仏教でどう言ってるかはともかく、みなさんは輪廻とかカルマは実在してると思ってるのかな 輪廻か。僕は前世があることは証明できないとしても、前世を見つける者がいるように、前世があると思う。
前世があるということからもうひとつ言えるのは輪廻があるということだと思う。
カルマはあると思う。僕の知り合いがカルマ18だったのに、善行を積んでカルマ14にまで下げたからである。
カルマが一番深いとしても、カルマ(業)は簡単にわかりそうな気がする。
僕の前世の一人、イエスは両親も理解できないことを言っていたとか。
僕は前世療法を体験したうえで得たものは、弓矢で背中を打たれたことである。
ここから推測すると前世はあるんだなあと思わんかね 前世や輪廻で説くものが無常だとしても、その喩えるイメージに安らぎを覚えれば、その心理学は、何らかの刺激に対する個人的な美学だろう。 >>419
僕のせいで書き込まれたんだ、夢見ていた文章だよきっと
安らぎが大事なんだよな。心理学なんて好きじゃないけど本読みたくなったりする
もう判断力も高い年頃の僕は、ネットに書き込みしているけど実は甘いのかな
知り合いは書き込まない方がいいみたいな感じ 宗教の重要な一側面は安らぎだもんね
輪廻カルマがある、ということで安心だったり納得が得られるのだったら
癒し、って納得と安心だし 前生や前世は釈尊の言葉だと「これまでの瞬間」という意味にもなるから気を付けてね 【三つの謎】
@生命
A性欲
B食欲
よく見るとこのどれも汚い。 >>416
思ってるよ
ゴータマ・シッダールタがそう言ってるんだもん >>422
漢文でもチベット訳でもサンスクリットでもパーリ語でもいいから例文を挙げてみ? 死後の世界は誰も判らない。どんな聖者も。
輪廻は誰も実証できない。もちろん釈迦も。
我々は「生の世界」にのみ生きていて、それ以外でない。
その前提で「私の生」を考えねばならない。 >>427
もちろん、多くの賢者はその前提で「私の生」を検討した。
しかし安易に「神」や「世界の法則」に答えを求めてしまった者もいる。
前者の代表は釈迦であり、後者の代表はキリストだ。 過去のレガシーで語るのは危険だ。既成に固まった言葉は避けよう。
今の私の言葉で語るのが良い。 >>427
釈迦はそんな事は言ってない
「私を信じろ」 (pamuñcantu saddhaṃ)と言った
釈迦は死後も過去世も知った だからこんな輪廻は解脱しろと
ゆえに「私を信じろ」 「不放逸に解脱へ至れ」と言った >>431
その「私」とは釈迦のことか?
ならばアンタの言う釈迦は、私の理解する釈迦ではない。
>釈迦は死後も過去世も知った
それはない。釈迦が知ったのは「今」だ。 時間軸は本当は存在しなくて永遠の現在しかないんだけど、けど、時間が存在してるように見えるこの世界においての方便として言ってた、ってのもありそうだから
どちらも真なんじゃないの? >時間が存在してるように見えるこの世界においての方便
これが諸悪の根源のひとつ。
「時間」も「この世界」も存在しないことを、示すことが近道。
釈迦はひたすらそれを説いたはず。 >>432
>釈迦が知ったのは「今」だ。
根拠となるテクストはあるかい? >>434
>釈迦はひたすらそれを説いたはず。
根拠となるテクストは? >>435
釈迦のほとんどの言は、それを示している。
「毒矢のたとえ」ですらそれだ。 まー理想言えば真実だけ説くことなんだろうけど、時空の中にいると思ってる凡夫にそんなこと理解できないでしょう
余程勉強して、しかも理解力の高い人間にしか伝わらないんじゃ説法して回ってる意味があんま無いわけで
待機説法ってつまりそういう方便なんでしょ?
少しでもエッセンスに近づけるように、真実そのものでは無いけどわかりやすいように 凡夫の私からの一心情からすると、多分同一の方とは思うんですが、元イエスで元秀吉で元信長のあなたは好きではないです 好きじゃないって言うってことはもう書き込まないで、って希望込み? 世の中99.9999…%が凡夫だから、凡夫であることを恥じることはない
みんなが大谷翔平になる必要もないのと同じこと
自分に出来ることを腐らずに時には腐ってもいいからやってるならそれで十分 シッダールタも人から産まれただけの凡夫だぞ、悟ってブッダと呼ばれるようになったけど
生まれがとか前世がとかお前とは違うとか俺はとか前提があって苦しんでそれを滅却してお釈迦になったんじゃないの 遊行経の「捨命住寿」が何を示してるかでしょ
命、ジーヴァは五蘊、肉体の死命
寿、アーユスは縁起によって結ばれたものが縁起によってほどかれていくまで、ということを表す
過去世というのは現在世の積み重ね、現在世というのは現在というこの瞬間の作用の連続、未来世というのはこれからの未だ来たらざる世界
そこで仏の寿命は量ることができ無い、なので仏の寿命はすべて無量寿なわけだけど、この縁起生というところに仏は住む、と言ったんやね >>437
十難無記は「如来は死後存在しないか」等
相手に常住論や断滅論の邪見を生じさせる質問だから答えなかっただけだよ >>444
タイムトラベルでゴータマ・シッダールタと会ってきた人おるね
すごい イエス様 織田 秀吉 )好きではないです)と書き込んだ者地獄か。 >>445
>>446
常在論か。私から見ればうれしい一説に違いないだろう。かくいうイエスである私は永久に生きると知っているからである。
また、釈迦が説かなかったかったかもしれない「予言」をしてみれば私は永久に生きると思われている。
わかりやすく言おう。一億年も一兆年も私は生きる。理由はおわかり?であろうか。 好き嫌いは感情だから仕方ないけど、嫌いだと反応するのは自分の中に反応する何かがあるからでそれと和解できると楽になれるとは思う
嫌いという感情は気持ちの良いものではないし
自己内省はマインドの浄化とも言えるから
今風に言うとマインドの浄化が涅槃への近道なのかなと思ってる 感情が意思に関係なく湧いてくるのはわかりやすいけど、結局思考もそうじゃない?
そんなふうに考えちゃダメだとか思っても勝手に湧いてくるし、考えようと頑張っても何も出てこなかったりするし
どっちにしろ自分じゃどうしようもないものだからそこにあまり責任感じなくてもいいのかなと思う
行動言動は責任伴うけど、頭の中がどうなっていようと人に迷惑かけなければ別にどうということはないし、結局どうしようもなってない >>450
理由がわからないので教えていただけますか? >>454
ほう。理由か。長く生きると決まってるんだ。きっとそうだよな。
>>453
感情を無にする、というのがお釈迦様の悟りか >>451
>>今風に言うとマインドの浄化が涅槃への近道なのかなと思ってる
たしかに。涅槃になる涅槃になる涅槃になる・・・という念はどうだろうか。
念ずれば通ずというが。ファイファイファイファイはトカゲいいで。
涅槃になるは、ファイファイファイファイだ。女子語だぞよ。 >>457
クモか。
迷惑なら抑制できるのか ←迷惑の抑制はケースバイケースでできる場合とできない場合があるのでは。
やはりイエスである私の主張はいい。どうですか。 >>457
自分は坐禅や瞑想を通じて、頭に去来する全てはコントロール不可能だと結論したけど他の人はコントロール出来てるならそれはそれでいい
自分の場合はコントロール出来ない
そして、幸運にも他人に迷惑をかけないようにしようという行動がとれるようになってるから今でも社会の一員として混ぜてもらえている
なるほど他の人はコントロール出来てるのかと知れて良かった
私は私のコントロール不可能な心を抱えて生きていきます ナイスだ。それでいい。たった一文でも誰かに届くのだ(byイエス >>460
それがアイデンティティみたいだから許してあげてください >>455
ありがとう
理由というか、そうなってるからそうなんだってことですね >>464
ふむ。そう俺は長く生きる運命なのだから長く生きるのだろう。
ありがとうとよく言えますな。教団は何ですか。こちらは真光ですが。
そちらも真光と感じます。準幹部ですか 元イエス様は現世は真光なんだー
自分はどこの宗教の信者でもないですよ
仏教も考えるヒントとして勉強させてもらってる
西洋哲学もヒンズーも読みます
信者になるということは自分で考えることを放棄するのと同意なので絶対にしません
ごめんなさいね〜
真光でなくても質問に答えてもらったらお礼くらい言います >>466
そうそう僕は平和主義(関係ないか!?)
>>信者になるということは自分で考えることを放棄するのと同意なので絶対にしません
↑ほう。放棄か。すべて相手側から押し付けられるのが嫌なん。
そんでそんなに同意って考えすぎなん。別に入らない人はしょうがないねんな。
イエスの言っていた「見なくて信じる者が幸いです。」ってどうなん?どう思う
お礼くれなくても答えるけどなあ。変なこと聞かないならな シク教の黄金寺院って物質的にはどうでもいいけど、すごく自然というか美しいシステムだよね 池の真ん中にある寺院だっけ
シク教全然詳しくないけど、ちゃんと働きましょうそれが修行みたいなのが大事にされていたような
世界の真理を考え抜くのも大事だけど、全ての人がそれやる必要もないし結局人は食べて生きていかないとならないし、一回りしてそこに戻るっていうのはとてもしっくりする
輪廻とかカルマとかそれこそ涅槃もそうだけど、あるにしろないにしろ真実がどこにあったとしても生きなきゃならないからね、それをとにかくまずは頑張ろ!ってまさに毒矢のたとえだわ 巡礼者向けに食事と寝床用意してるんだけど、管理者は当然いるだろうけど基本的に巡礼者自身が畑からの収穫から調理から片付け清掃一通りみんなで分担して運営してる
飯と宿の為に自分にできる働きをする、みんなに働ける場所と生きる糧を用意する、今食べてる人も次に食べる人たちの事を考えて動くしゲーム理論みたいなのじゃなくてシンプルに自利利他みたいな考え方が下地にあるように感じる
ちっちゃな子供ができる範囲で働いてる所をみるとプロゲーマーとかインフルエンサーとかユーチューバー目指してますなんて子供とか青年みるとなんだかなぁと >>470
シク教をそんな天理教みたいに解釈する人初めてみた シク教詳しくないと書いたし、天理教も何か独自の神様拝んでるらしいくらいしか知らないからそんな言われても…
逆に天理教ってそんな感じなんだ 天理教ってさ、僕が知り合いに聞いたところでは 「人間は神である」 とのこと。
教祖は病院で人生を閉じたと知っている。300年は生きたけどまだ若いな。一億年生きても若い。
人間は神ってことはたくさんの人々が神なんですかって聞きたいかもしれないけど、人類は神なのか
なんで人間は神っていわなあかんねん 知ってる人おるかい >475
そこを探求するから哲学なんだよ
個人的な悟りなら独覚といって悟りの中でも初歩で底辺っていうか
だから大乗のシンボルは転法輪、衆生に菩提心が起こり伝播していく姿
聞いた他人に菩提心を起こさせないような悟りってのは個人的な価値のもので哲学とは言わないですわよ >>478
それ本に載ってあるとおりに書いたん?創価学会にありそうな文章に感じる。
羽生善治さんが悟ったと知ってましたが、十年前に知ったんですが
知り合いも羽生さんが悟ったと共感してくれましたが
羽生さんとはお話してまして友達ですがね認めてくれましたし 悟りなんて個人的なものなんだし、悟った人見たから発心すると決まってるわけもないし
布教のエネルギーって恩着せがましさがすごくてほんと嫌 悟りにレベルがあるって何…
そういうレッテル貼りから離れることが悟りだと悟ってなくてもわかるんだけど >>481
>そういうレッテル貼りから離れることが悟りだと悟ってなくてもわかるんだけど
どゆこと?四双八輩って知らんの? 悟りに段階あるなら自分の思う悟りとは違うってことです
言葉に乗せてる意味合いは人によって微妙に違うんですよ
自分仏教徒じゃないし >>483
勝手に「こうあって欲しい悟り」を妄想してるだけやね そういう教団の決めたことを真実そのものみたいに語ってくるから宗教団体ってほんと嫌 自分は仏教徒ではない、という悟りと自分の思う悟りに差はないってこと? >>484
集団でそう妄想してる人たちにそのままそっくりお返しするわその言葉 仏教哲学スレで仏教徒かどうかなんて関係あるだろうか?
そして仏教哲学じゃない謎の「オレ様が考える悟り」を語るのはスレ違いだ 自分は悟ったわけではないから悟りがどんな状態なのか語れるわけないじゃん
段階があるってことがおかしいって言ってるんですけど
至った先のことが悟りだと自分の言葉の意味付けで言ってるだけでどっかの宗教団体の決めた悟りが意味付けてる意味とは違うって言ってるのにわからない? 「集団でそう妄想してる人たち」の残したテクストを勝手に解釈して「オレ様の悟り」を妄想するのって二重に倒錯してるよね 仏教哲学って仏典とか団体が言ってることには無批判じゃないとダメなのですか? 仏教哲学って仏典とかを肴に俺様語りする輩に無批判じゃないとダメなのですか? 無批判を貫かなきゃならないならやっぱ盲信しかないじゃない
釈迦が間違えてるとはとても思えないけど、仏典はまあともかく解釈が無謬だと思え、っていうのは無理だわ いーやー私の悟りみたいなん書かせてもらうで
パラレルワールドがええな。隣同士で二人でいて、前から景色やら音やら声やら体験したとすっぺ
そんときにな、自分は普通に体験してても左隣にいるBくんは違う体験しとる場合あるねん
意味わかっかよ。こっちの世界ではこうでもBくんの世界では別の物を見てるんや
これわかっとる感じのやつは幻聴でも聞いたんかいな、幻聴聞いたら患者でも貴重な経験あるかもなんやね >>493
テクストに忠実である前に、テキスト批判が必要。
宗教系のテキストは、大量の偽書、捏造がある。
これを無視してテキストに依拠するは無意味。 テキスト批判には主観が入る
その主観を無視してテキストを批判するは無意味。 主観の入ったテキスト批判なんて無意味。
というかそんなものは評価されていない。 大乗仏教の経典は釈迦の言葉を記しているが、すべてが捏造であることは、
今やだれも否定しない。
つまりすべての大乗経典は、釈迦の直接の思想とは言えない。 つまり、般若心経も法華経も、釈迦の直接の思想とは言えない。 大乗仏教は釈迦をヒントにした別の宗教と思っとけばモヤモヤが減る
大乗仏教自体はごく普通の人たちに相当役に立ってるから必要だと思うし どうすればいいか迷ったり悩んだら四諦八正道を思い返せばいいと盲信してます 宗教なので盲信するのは何もおかしくはないと思います
哲学のテキストにするのか宗教の導書にするのかでまた違うでしょうが そんなテクスト改造なんぞ釈迦滅後からとっくに始まっとるわ
しかもわりと深刻な部分で
だから比較文献学というものがある 比較しかない→(対象に)相対している
それすら部分否定するポストモダン
『仏』も解体される、宿ー業なのか このスレには宗教のテキストとして一定以上は批判はならないとする向きと、普通の哲学のテキストとして仏典も例外なく批判の対象とする向きといるからややこしくなるんだわね
釈迦本人が書いたわけじゃないというのがね
存命中に逐語記録されたならまだしも100年単位で時間経過してからでしょ?
それまでの弟子の理解力にまず制限されるし、教団の政治的力学に更に支配されるし
それでも全部嘘でもないから批判的姿勢ではありつつ勉強させてもらうに充分知恵の詰まったテキスト 何が捏造なん?大乗仏教のテキストが捏造だらけってなんで言えるねん、そこソース出してみいや ウスターでいい?← ウスターソースのことか。笑止とはこのことか >>508
すごいね
それ論証できたら国から勲章貰えるレベルの学者になれるよ 仏典を手掛かりに自分の力で解脱出来たらいいね
今度はその人に真理と真理への道書いてもらえる
でも、誰もありがたがらないだろうし、本当に解脱したのか?!とか散々叩かれて一生終わるだろうけど まあ前生譚の大部分は後から部派仏教が作ったものだし部派仏教の分裂の歴史はテクスト改変の歴史だし
如是我聞と言っても自身の得心したところを述べるしかない、玄奘や鳩摩羅什のダイナミック翻訳を待たずともパーリ語やサンスクリットに翻訳される時に何が起こったか、ヒンドゥーの人たちが仏教を自身の中にどう位置付けて取り込んだのか、みたいなことが起こってんのよね そうそう
テキストに釈迦の言葉が間違いなく書かれてるとして読むのと、初めから玉石混交だとして玉を拾おうと読むのかで全然違う ほう。勉強になった。仏教のテキストの一部であろうともっとだろうけどそういう仏典はヒンドゥーの人たちの色眼鏡を通して語られているのか。
歴史的人格であるゴーダマシッダールタをどう明かしていくか。無理を言う様だが我々が仏典のテキストを書いていけばよいのでは。
つまりヒンドゥーの人だけではない、それは中村元も書いたように、我々が行動を起こすのである。
そういえば田中真紀子さんという政治家は仏教が一番好きらしい。どうか書いてほしい所存である。 菩薩、が元々成道前の釈尊のみを指す言葉だったのは有名やね
それで釈尊の前世も菩薩やろってことで前生譚がお話として増えていった >>522
ジャータカと四ニカーヤを混交させて「俺の主観で読む」宣言してから読むというのは中々剛毅ですな 仏典テキストの信憑性について疑問が呈されるとやたらと主観だ主観だうるさいのが湧いてくるな
サイエンスじゃないんだから客観値取るための規準設定なんてハナから無理なんだし、比較文献学とかエビデンス重視ではあるけど結局のところ主観になるのは仕方ないだろうに
本質的に扱ってる内容が個人の内面の話なんだから主観で読めばよくね?
それを学問としてもしくは信者集めて飯食ってる人たちは、しかつめらしい顔して主観はいかん!とかやってりゃいいんだよ 「客観値取るための規準設定なんてハナから無理なんだ」から俺様の好きに読むぜ!
単位落とすわね、こりゃあ 525みたいな俺様タイプ、リアルに身近にいると本当迷惑
何言っても否定から入ってくるし、俺様の信じることを否定されると躍起になってマウント取ろうとしてくるしな
こういうタイプが研究者で権力あったらアカハラパワハラモラハラ全部やってそう
あちこち噛みついてて率直にキモい 馬鹿にすることが目的の人に言うべき言葉なんてあるのでしょうか 馬鹿にされるレベルの事を言わなければいいのに(´・ω・`) 自見の覚悟って言うのよね
自身の見解を仏の悟りと同一視して得意満面っていうの いろいろと至らない書き込みがあったとして、だからそれは馬鹿にして良いって理屈はどうなのかと思います 再度言おう、大乗仏教経典のすべては捏造である。
釈迦の言葉でも、釈迦の考えでもない。
そのことを周知させることで、仏教は変わる。
そして真の仏教が始まる。 馬鹿にされるレベルって発言してる本人が一番品性卑しくて草生える
釈迦はそんなに不寛容なのか?
目指す先は同じでも人それぞれ学びの段階もあるし、理解の道も様々だろうに >>535
それはテーラワーダからのご意見ですか? >>537
テーラワーダも決定版ではない。
釈迦の言葉を知る路は険しい。
それはテキストからではなく、修行から理解できるのかも知れない。 >>538
早速ありがとうございます
そうですよね、柔軟に学んでいきたいと思います 仏教だろうと哲学だろうと他宗教だろうと実践してなんぼ 今、実践を重視しようとする宗教は、社会の敵として排除される。
オーム真理教、世界平和統一家庭連合、幸福の科学、そして創価学会。
社会と軋轢のない宗教は、毒にも薬にもならないものばかり。 家族とか周囲の人職場の人との人間関係がそれを証明するんよ >>541
実践て…周囲にハデに迷惑かけてる奴ばっかりじゃん
それが実践なのかよ >>544
実践とはそういうものだ。
というか、そういう場合もあり得る。 >>542
実践て普通に暮らしてたらそういうことだよね 釈迦もイエスも当時の人々をお騒がせしただけでなく、
2000年後の今も、人々をお騒がせしている。
実践とはそういうものだ。
家族や身の回りの人々との関係では収まりきれないのが現実。 内省して内側が整ってくると対人関係も自ずと整ってくのでは なにをどう理解して実践するかでかわるけど、仏の教えでもそれをどう解釈するかでアウトプットは変わってくるだろ
オウムやら幸福やらは一部を拡大解釈したり書き換えたりしてカスタマイズしたっていう一例でしかないだろ 実践とははた迷惑なものだ。
そのはた迷惑を善意でやるものも、悪意でやるものもいる。
しかしその違いは判らない。 >>536
「人それぞれ」とか言って好き勝手にテクストをイジクリ回して俺様仏教哲学思想で遊ぶのはただの綺語なんで 実践は修行でありうるが、たんなる悪行であることもありうる。 何かを読んでも、何かを言われても、何かが判るわけではない。
進めばよいのか、留まればよいのかも判らない。
生きることは四面楚歌だ。しかし死んで解決するわけでもない。
では、ここから始めよう。 他罰的になる時だけ生き生きしちゃうから醜悪な凡人って言われるんだよ >ほう。勉強になった。仏教のテキストの一部であろうともっとだろうけどそういう仏典はヒンドゥーの人たちの色眼鏡を通して語られているのか。
インドでは仏教はヒンズー教に翻訳され取り入れられ密教化して最後には滅んでいったけど、中国アジア等では翻訳され広範囲に受け入れられたってのはまあ事実やからね もし、釈迦の悟りが変性意識状態に過ぎず、解脱など存在しないとしたら…
あり得る話なんだよなー、悟る人が少ないのも脳の特定の構造、変性意識状態になりやすい構造を持つ人が限られているからで、悟れない人はいつまでも悟れず、悟った人はいつまでも自分は苦から解放されたと勘違いをする。
仏教、特に上座部は勘違いを追い求めているだけ。大乗はもはや神を信じる宗教に類似してきている。
そもそも仏教の概念は矛盾を含んでいるから哲学もクソもないよね。仏教って本当ゴミ。 >>558
逆 ヒンズー教を取り込んで体系化したのが『金剛頂経』に代表される密教 ほう。返事どうも。
私も若いころは、すべてを悟った、なんて思ってたな。そんな風に浮かれていたら危ないねん
足元すくわれそうになった。でも、退転は4回していい(これが重要)を知っていて、4回退転したことを肯定しそうになった
絶望的になったのが4回な。人生なめたらあかんで。 道元も親鸞も悟ってたように思うけど
本人がそう明言してないから >>562
ほう。道元か。道元は昔から気になってた。何か感じる・・・(道元には)
親鸞は五木(いつきさん)さんだっけかな。親鸞の説明書いてあんの
親鸞より法然の方が上だとぼくは思うけどな。法然なんて気にしなくていいと思ってるけど 釈迦は人間か?という質問がある。結論から言うと、釈迦は人間ではありません。釈迦は風ですと言っておきます。
マルティンルターはトカゲです。マルティンルターはどのような方でしたか >>566
ほう。なぜトカゲか?という質問だが。人間ばかりが日本語を話すのではないのはどうだい。
ネコもウサギも鳥も日本語を話すように、マルティンルターだってトカゲでも言語を使えるのである。おしりぺんぺんされた方がいいぞよ >>566
ほう。なぜトカゲか?という質問だが。人間ばかりが日本語を話すのではないのはどうだい。
ネコもウサギも鳥も日本語を話すように、マルティンルターだってトカゲでも言語を使えるのである。おしりぺんぺんされた方がいいぞよ >>565
ほう。牧師か。将来、牧師になる所存である。よろしく頼むぞよ >>565
ほう。キングか。クリスタルキングなら知っとるぞよ。昔
神父にもなるつもりでいる。よろしくお願いいたします。
牧師も神父も宇宙飛行士にもなる所存である。
そして世界平和を成就する。 >>563
法然より曇鸞の方が上だとぼくは思うけどな。 悟りは単なる変性意識に過ぎない、と言ってしまおう。
禅の十牛図でも、第9は「返本還源」であり、第10は「入鄽垂手」。
つまり変性意識にとどまらず、先に進めねばならないということだ。 変性意識は脳のある状態である。悟りも脳ある状態である。
側頭葉がどうのこうのという議論もあるが、くだらない。
釈迦が得た理解は、そんなこととは全く別物。 釈迦の得た理解がどんなものか? 私にそれが解るわけがない。
しかし「そういうものではない」とは、かろうじて言えるのだ。
釈迦が得たのは「智慧」であろうが、どんな智慧かは解らない。 「ハイ! これで問題はすべて解決!」
みたいな悟りは嘘くさい。
しかし、
「これをおさえておけば、何とかやっていける」
という境地はありえる。
それは、世界がその程度のものだからではなく、
我々人間がその程度のものだからだ。 >>576
ここで言ってる有は物質とか色、慢は我とか空とも置き換えられますか?
解脱して、なにかがあるのではなく何も無い、なにもないのではなくなんかある、そのままに観ずる
遠くの山にある石みたいな感じなんですかね ダニは一片の人のフケを食って一生をすごせる。
人もわずかなフケで一生をすごせるのだ。
なにも世界全体を理解する必要はない。 有(bhava)とは生存という意味で、無色界有など物質の存在しない生存=有もある
それらすべてを厭離するということ 能書きたれてもしょうがないよ。
自分の言葉だけで説明してみよ。 自分の言葉でって言うのは自分の勝手な自己解釈でってことか >>583
ありがとう
>>582
コテつけてください アカシックレコードってディスクユニオンとかで買えますか? >>571
ほう。コテか。今は気が進まない。
>>572
曇鸞か。どうも。ありがとう。
>>悟りは単なる変性意識に過ぎない、と言ってしまおう。
ほう。単なる変性意識か。
しかしそう断言したって、すべての悟りのうち一つでも違うものができたらウソになるぞよ
悟りのうちの一つである釈迦の悟りは、本当に単なる変性意識なのか?
自分で
>>釈迦が得た理解は、そんなこととは全く別物。
↓↓
2024/01/14(日) 00:42:03.240
釈迦の得た理解がどんなものか? 私にそれが解るわけがない。
しかし「そういうものではない」とは、かろうじて言えるのだ。
釈迦が得たのは「智慧」であろうが、どんな智慧かは解らない。
・・・
自分で釈迦の悟りは別物だという言い回しっぷりだぞよ。
そんなん単なる変性意識で済む話かい?自己矛盾してるぞよ >>579
ほう。
>>「ハイ! これで問題はすべて解決!」
みたいな悟りは嘘くさい。
嘘くさいか。ならばそういう悟りはそもそもあり得ないだろう。
>>「これをおさえておけば、何とかやっていける」
という境地はありえる。
ほう。そういう境地ならありえるかもしれない。私は阿頼耶識を開発したと解釈したときがある。
あらやしきで人生を変えるのは、釈迦の悟りとは違って民衆にもできることなのだろうが、ここでは口を開けないだけだ。 釈迦の境地は、我々普通の人々には不可能なのか?
そんなことはない。釈迦の境地は普遍的なものであり、
誰でも至ることができる。
ただ、釈迦は偉大な教育者であった。
彼のような感化力(人格力と言ってもよい)は稀有。 >>591
>自己矛盾してるぞよ
アンタの理解力が不足しているだけ。
再度、読んでみよ。 ドラッグで得た変性意識と、瞑想で得た変性意識は異なるものか?
凡庸な人々は、断固違うと主張するが、悟りを得た人々はそう言ってはいない。
両者は同じものだ。ただし、変性意識の境地でことは済まない。 近代以前は、いわゆる悟りの境地(仏教に限らず)を得るための道具として
ドラッグは使われていた。大麻やキノコやら。あるいはセックスも。
現代に至って、それらが禁止されているのは、統治者の都合に過ぎない。
多くの人々が悟りを得るのは、統治者にとって不都合だから。 >>596
確かにヤク中が増えたら統治者にとって都合が悪いな 仏教は哲学ではない。
仏教にとって哲学はノイズに過ぎない。 変性意識は悟りではないが、悟りへのツールにはなり得る。
瞑想による変性意識と、ドラッグやセックスによる変性意識に変わりはない。
メジャーな宗教が、ドラッグやセックスを捨てたのは、通俗社会に媚びたから。 ラリる変性意識は悟りに結びつかない。
アッパー系であるのが良いが、ある種の知力は失ってはならない。
ラリるのではなく、「観照」するのだ。 じゃあこの板にいる意味ないね
宗教としての仏典を語るなら宗教板にスレ立てした方がいいんじゃないの? >>604
「宗教が哲学にもの申す」という形だな。
哲学板が「哲学おままごと」してるのを破壊するのさ。 ようは、あくまで自己観察と変革だとすると、大麻草一本も栽培しない教団は傷の舐めあい。 ある意味、オーム神理教はいい線を狙っていた。
だから当初は一部の「識者」まで肯定していた。
どこで間違ったかの総括は、いまだ行われていない。 >>606
ああなるほどそういうスレなのね
そこら辺は初めから峻別しておいてもらえるといいのかな
次スレ立てするときからテンプレにしといてもらえると嬉しい
そうじゃないと哲学のテキストとして読む人が誤解して書き込むから無用の軋轢生むことにもなる
シュカンガー君やらジコカイシャクガー君が居心地よく過ごせるだろうしな >>607
>あくまで自己観察と変革
教団ならそこに留まらない。他者や社会の変革も含む。 >>609
どういうスレにするか/なるかは、レス次第だろ。
それでこそ掲示板だ。内輪の予定調和で、おままごとしたいのか?
テキストに拘るのも、「衒学的おままごと」に陥る。 薬による変性意識も瞑想とか修行による変性意識も、普段の反応とか考え過ぎな頭の中のおしゃべりがなくなってある意味シンプルになる部分で共通してるのかな
ヤク中の場合は多幸感とか全能感、あとは無感情
修行瞑想からだと理性は残しつつ直感的に理解する力が研ぎ澄まされる状態になる
そこで何かに気づけるかどうかは半分運みたいなものだし、普段どれだけ学べてるか自己内省が進んでいるかにも左右されるだろうけど >>611
いや自分はそのつもりでここのぞいてたけど、シュカンガー君が意地悪な書き込みしてるし、今も宗教が哲学に物申すとか言ってる人いるし
宗教が哲学に物申すなら少なくとも仏典自体は無謬だとして扱わないと無理じゃないですかね?
それが悪いことだとは思わないしなかなかそれはそれで刺激的な試みだから是非やってほしいとは思う
だけれども同居は無理だから、ここはこのままで、仏典を哲学的な批判もできるスレは別に立てた方がいいのかもね つまりここは、仏典そのものの真贋とかは触れないで無謬と前提していてその解釈について議論する場所なのですね? >>アンタの理解力が不足しているだけ。
再度、読んでみよ。
バーカ 結構仏教勉強していて言葉や仏典の内容に随分とお詳しい方が多いようですが、そこまで勉強されていても煽りにもならないような子供じみた煽りをする方を多数見かけるにつけ、他者より優位に立ちたいというエゴからは仏教では自由になれないのだなとわかります 現在の哲学の不毛は「テキストへの過剰な拘り」も一因。
"哲学者"はテキストの分析ばかりで、哲学をしない。
それを真似して、ド素人までテキスト分析などを試みるのは笑止。 あとここに限らずこういう哲学系の人には本当に多くみかけますが、自分の正義をどうしても手放せない、押し通したい、相手に認めさせたいというこだわりからも自由になれないのですね
戦争がいつまでも無くならないわけです 掲示板のスレは、レス者達のやりようで何処にでも行くのが醍醐味。
誰もが方向を左右できる。それを楽しみなさい。 >>619
>自分の正義をどうしても手放せない、押し通したい、相手に認めさせたい
>いうこだわりからも自由になれない
それくらいじゃないと本当のことには行き着けないよ。
それこそ互いの命をかけて。
しかし戦争がなくならないの別の理由。金目のことだね。 >>623
誰もが行をしている。24時間365日命を懸けて行をしている。
求道者の修行と変わりない。
ただ智慧がない。それが違い。 お釈迦様は確かに究極までお考えを突き詰められたお方でしょうけれど、他人にご自身の正義やお考えを無理矢理押し付けたりはされてないと思うのですが
そんなことしなくても涅槃に行かれているのでどうしても他人をねじ伏せることが必要だとは思えません >>625
釈迦は、結果的に、2000年以上にわたり「他人をねじ伏せ」ている。
その力が何のなのかを考えるべき。
「ねじ伏せられて当然の真理」であるのがひとつ。
もうひとつは、釈迦の老婆心(or 慈悲心)。ありがたいことだ。 お釈迦様の真理が私をねじ伏せていることはその通りですが、「無理矢理」押し付けられてはいません
私が自ら求めていったまでです
ですので、少なくともここで煽り合いしている方々の行動言動の内容、そしてその元になっている情動とお釈迦様のことを同列に考えることは到底無理です
ですが、人を馬鹿にしたり煽ったりすることもその人にとってはとても大事なことなのでしょうから私もまたその人に辞めろと強制は出来ません、感想を述べてはおりますけど
お返事ありがとうございました >>627
釈迦こそ「無理矢理」に真理を押しつけているぞ。
オレは釈迦の真理に押しつけられているぞ。
それほどに圧倒的なのだ。
それに比べれば、掲示板の煽りなど、なにほどのことがあろうか? >>629
オマエが比喩や暗喩や諧謔を理解できないだけだろw
アホには無理かw こういう書き込みされる方にだいたい共通するのは慚愧の念がまず感じられないんすよね
仏に遇った人、仏に遇う人の仏教ではなくて仏様気分になった方の仏教なんすよね、それは
まあ自分が傷付かない範囲で余裕のある顔していたいんですよみんな >>631
「慙愧の念」は、キリスト教の「原罪」的なもので、仏教では一神教的な
浄土系の宗派にも見られる傾向。
釈迦は「慙愧の念」を持ったろうか? 釈迦は「苦」を言ったが、
「慙愧の念」や「罪」は言ったのだろうか?
仏教、あるいは宗教を語るものは誰でも、なんらかの「苦」を感じている。
>仏に遇った人、仏に遇う人の仏教
仏教は、己が仏になる宗教だろ。 >>610
そっちにベクトル切った日蓮宗は正統なのか。 >>635
正統かどうかは知らない。何が正統かも知らない。
しかし釈迦の「慈悲」には、社会へ向かう萌芽がある。 まだ瞑想で魔境とか悟りの光のような物に辿り着いたことがないんだけど、昔まだグレーではなかった頃アヤワスカをやったときものすごい速度で意思も工夫も何もなく吸い込まれていった場所というか物があった
瞑想でうまくいってて且つDMTトリップしたことのある方、この2つをどう見ているかお聞きしたいです >>636
それは弛く言って大乗の文化だが、厳しく言って教団の歴史に「信」を置いた感覚的な推論。
法は普遍だが、社会は、或いは教団はどうか。 慚愧は十住毘婆沙論じゃんよ、浄地品の四
釈尊は後継者や代弁者を残していかなかったろ?その後の仏教教団には釈迦の仏弟子しかいないんだよ
ていうか自分を成仏させることを目指す仏教はあってもお釈迦様気分になることを目指す仏教なんてとりあえず大乗の論理展開には無いものだと思うよ >>638 >>640
同じ人?
>法は普遍だが、社会は、或いは教団はどうか
>釈尊は後継者や代弁者を残していかなかったろ?
>釈迦様気分になることを目指す仏教
何を言ってるか不明。紋切り型でなく説明して。 もしゴータマシッダールタが言った言わないで言うと、アラヤシキや社会の定見があったか? >>642
違う人です
>>641
正確にはアヤワスカアナログというもので現地にもいかず自分の部屋でやっていました、スピリチュアルと嗤われるものかもしれませんが、統合失調症と変わらないといわれるかもしれませんが事象に何らかの法則が働いてああなるのであれば素面だろうと正常だろうとなあ >>644
お返事ありがとうございます
日本でも体験するチャンスがあったのは知らなかった
残念
他のドラッグと違い、普段脳がマインドを守るためにブロックしている無意識の領域に触れられるんじゃないかと思っています
スピだと嗤う人も多いですが、何かがあるから長年生き残ってきたものだと思うので。人間馬鹿だけど価値のないものはすぐ忘れ去られますから
一度でも触れた自分の内面の何か、は、いつか薬を使わないで辿り着けた時判断と自信の基準になってくれますから、チャンスがあるなら体験するのは悪くないと思ってます、もう基本無理なのが残念です
単純に多幸感に浸りたくて逃避したいだけなら、ヤク中になる前に逃避したいと思ってしまう自分と向き合うべきですけど
自分の場合は瞑想も普段ブロックされてるマインドの向こうを垣間見れたらいいな、と思いながら座るけれどそういう時は流れていく感情と思考をひたすら観て終わるだけなんですよね
期待ゼロでふっとぼーっとした状態から自然に瞑想に入った時ほど稲妻みたいに突然理解が訪れます
期待してた理解でもないけれど、その時には最適な理解なんですよね 君たちの瞑想法なんて詳しくないけど。僕はアイアラシの法則の一部(瞑想)をしていたけど調子がどうも芳しくない。
こんなてきとうな瞑想よくないと言いたい。この瞑想法はイイんだ。そう言える瞑想法に出会ってない。
まあでも真光で手をかざして相手の魂を浄めるというときの目を瞑って合掌する瞑想?(受け身〜瞑想と書いただけで違うかも)
目を瞑って光を受けることを感謝して・・・なんてなら信仰者は簡単にできるよな、二名(施行者・受光者)集まればね 英語圏コントだと「俺はキリストだ!」って管巻いてるドラッグ中毒のおっさんとかよく出てきますよね
それと実態があんま変わらないように見えてしまうのですが 薬使うと通常状態でいるより何らかの気づきは多くあるんでしょう
誰かが書いてたようにそこにきちんと智慧もあるなら、それがどんなものか判別も出来るんでしょうけど勉強してないと単なる全能感に支配されてるだけだから自称キリストが大量発生するんでしょうねえ
どんなに薬に頼っても最終的には智慧の力が釈迦の領域まで連れて行ってくれるか、能力と運でしかないと思います
もちろん薬使わないで修行瞑想しても同じことですが
同じように努力しても一生東大入れない人の方が多いのと同様 『神経科学的光の瞑想』(武田梵声著 KKロングセラーズ)
この本、ご存じですか?
Amazonで検索して調べてみてください
チベット仏教やボン教に暗闇の瞑想というのがあるのですが、
それの科学的裏付けというか根拠を提示しつつ
様々なメソッド(補助的なものも含めて)書かれています
掘り出しものみたいな本でした(ある意味こういうのも埋蔵経と言えるかも) ヴィパッサナーでも、瞑想の過程で見えてくる「光(nimitta、ニミッタ、禅相)」というのがあるらしいね。
藤田一照/山下良道「アップデートする仏教」(2)
http://samten.seesaa.net/article/442382110.html
●山下「1時間ほど呼吸をずーっと継続的に見られるようになると、本当はあまり言いたくなけれど、〈光〉が現れてくるようになる」 藤田「いわゆるニミッタ(nimitta)というやつ?」
山下「はい。禅相と訳される、禅定に近づいているしるし・証拠。光が現れてきてそれがある程度強く安定してきたら、今度は呼吸ではなく「光そのもの」を瞑想対象として、その中に更に集中していくと、いよいよもっと深い禅定に入っていくという流れになっている」
●山下「問題なのは、最初のニミッタにすら、本当に限られた人しか行けないこと。パオ・メソッドでは単に呼吸が見えているだけじゃ駄目で、呼吸が見えた上で更に光が現れてこなきゃ駄目。光が見えてこない限り、瞑想の次のステップに行かせてくれない」 まあね
みんな安心したいのよ
それが完全な外注になるのか、自分で自分を安心させられるかの違いかね >>653
取相(uggaha-nimitta)も似相(paṭibhāga-nimitta)も光(obhasa)ではないよ
これは観の染汚(vipassanupakkilesa)と呼ばれるものじゃないかな 呼吸の似相(paṭibhāga-nimitta)が<光>だというのもおかしな話だし
その<光>を観察しなさいなんて何処に書いてあるんだろう?? DMTトリップするとその光が幾何学模様を織りなして3次元を超えてきて感覚が溢れる、それも瞑想とか前提とかすっ飛ばして在家の凡夫のままで
>>645
何年か前にニュースにもなったけど認可受けてて合法の市販薬と薬草の飲み合わせでアヤワスカと同等の効果得られるみたいですね、それについて布教活動してた人が御上に目をつけられて逮捕されたようですが 『ブッダゴーサ註』
So pana therānaṃ natthi, tasmā taṃ pucchituṃ na yuttanti parikammobhāsaṃ pucchati. Obhāsañceva sañjānāmāti parikammobhāsaṃ sañjānāma. Dassanañca rūpānanti dibbacakkhunā rūpadassanañca sañjānāma. Tañca nimittaṃ nappaṭivijjhāmāti tañca kāraṇaṃ na jānāma, yena no obhāso ca rūpadassanañca antaradhāyati.
それが長老たちにはない、それゆえ、それが問われて、遍作光が相応しないと問われているのである。「私たちは光をはっきりと知る」とは、「私たちは遍作光をはっきりと知る」ということである。「諸々の色を見る」とは天眼によって色を見ていることを私たちははっきりと知るということである。この相(ニミッタ)を洞察するとは、この因(カーラナ)を知るということであり、それについて、光と色を見ることが消失するということである。
『ダンマパーラ複註』
Parikammobhāsaṃ pucchatīti dibbacakkhuñāṇe katādhikārattā tassa uppādanatthaṃ parikammobhāsaṃ pucchati. Parikammobhāsanti parikammasamādhinibbattaṃ obhāsaṃ, upacārajjhānasañjanitaṃ obhāsanti attho. Catutthajjhānalābhī hi dibbacakkhuparikammatthaṃ obhāsakasiṇaṃ bhāvetvā upacāre ṭhapito samādhi parikammasamādhi, tattha obhāso parikammobhāsoti vutto.
遍作光について問われているとは、天眼智を志した者が、彼に生じた対象である遍作光について問うているのである。
遍作光とは、遍作定によって発生した光であって、近行禅定によって生じた光という意味である。実に第四禅を得た者は天眼の遍作を目的として、光遍(光のカシナ)を修習して、近行〔定〕に、遍作定に住する。ここにおける光が遍作光と言われる。 光のカシナで瞑想しているのではなくて、
呼吸を観察しながら瞑想しているのに光が生じるというのは、どういう事態なんだろう。
随染(upakkilesa)にしか見えないが。。。 記憶の面で見ると脳はストレージではなくてインターフェイスだという学者がいる
脳も個人もただのノードであって自己はなくただの仮想AIの様なもの、瞑想やなんかで集中したときや変性意識ってのはいわゆるバグだったり特殊なモードに入ってるだけ
あらゆる事象は数学で説明できる、映画マトリクスの0と1で世界を現してるのはその通りなのか そうは言ってもやっぱり現実の生活や自己に戻ってくるわけで、いくら瞑想したり数学で証明したところでここのところは切り離せないんだよね
申し訳ないし謝りたいし虚しいし寂しくもあるけど死ぬまで生きなきゃいけないんよ、 良寛さんとお話ししたい
そういうところ分かっててあんな風に暮らしてたんだろうし えーイエスですが、この瞑想法はイイ、そんなものに出会ってない、↑の方の瞑想法?も試してない。興味がない方。
で、真光では瞑想はよくないと云う。瞑想をすると霊が取り付くという。私の知り合いは瞑想していると「霊に取りつかれた。助けてくれ」と私に言った。
「ぴたっとした感じがあったか?(知り合い)」「ありましたが大丈夫ですか?」私は心配になってしまった。 良寛さん名家産まれで出家して全国行脚して~ってゴーダマみたいだね
聖者というか、エピソードとか詩をみると凄く人間臭くて大好きだ エリート出で無一物の自然体なのはディオゲネスを想起するね
良寛は酒、ディオゲネスはセンズリ
どっちもやれば俺も賢人の仲間入りか 以前、小池隆之介氏の考えない練習読んだことあるんだが、こりゃ全然修行も勉強もまだまだなのにこんな本書いて大丈夫なのかなと思ってたら案の定の末路たどってて逆に悲しくなった
どうせならもう人には黙った上で全国行脚続けて、生きることのしんどさを芯まで味わい尽くせば何か見えたかもしれんのにね
全国行脚したいと思って実現させるなんてそうそう出来ることじゃないのに
慚愧の念で萎んでしまったのかな、それを乗り越えて欲しかった。どうせ人生なんて恥に塗れているのだし 良寛さんも悟ってた人だけど、それを人に話しても仕方ないって境地だったのかな
家業弟?に押し付けて勝手に暮らしてても特に疎まれもせず良い距離感でいたようだし、フラフラしてるようでいて説得力のあるあり方だったんだろう ほう。良寛さんか。子どもと遊ぶこころを忘れなかった、いい人生なのか
誠の心とはご存じだったのではないか。まさに子どもと遊ぶことである。
そういう一つひとつの積み重ねが大事である。手毬が一番いいとおもっていたようである。 >>670
慚愧の無いのは増上慢、慚愧を自己表現に使うのは卑下慢という
卑下慢は日本人に多い症状だと思う >>676
漢字って肝心だねって感じ 象形文字なんかわかりやすいね
絵文字も平安時代から年月がたって出たのもあるけど、将来の人々には、
平安時代の字がこうなりましたって話されるのもあるかもね しかし悟りの科学的な証明を実地で試みた点は新時代っぽいが、アラカンもレベル表記として効力を問われる時代ということでもあるし、動画配信してる外野の僧籍もやったら終るかもよ >良寛さんも悟ってた人だけど、それを人に話しても仕方ないって境地だった
三昧で欲望を抑えて無常・苦・空・無我を観察しないと悟れないので悟ってたとかいうのはないと思うよ
文人にして人格者かというならそうだったんだろうと言えるが 妖精が気に食わないなら沢山勉強してる詳しくてえらーい人たちでスレ盛り上げたら?
わからないことあったら質問するから >>679
厳密に良寛さんがどのようだったのかはまあそうなんでしょうね 悟った人達は生きる目的ってどう考えてるの?
俺は全くわからない、ただ生きてるだけ 本当にね
願ったつもりもないのに勝手に生まれてきてここにいて、あれこれ苦しみに巻き込まれて生きたくもないのに死ぬ事も許されず、死ぬのが怖くても死から逃れられないのにね
お釈迦さまは何を気づいたんだろう 今回の地震みたいな災害とか飢饉とか疫病とかについてはどう考えてたんだろう それこそ良寛の災難の時節には災難に会うが如く候
自分の内ではなく外で起こることはどうしょうもない、その中で平安であることに臨むだけ >>687
いや生きたいと願ったから輪廻転生してるんですが 反出生主義者は仏教を根拠にすべきではない
何故なら仏教は反出生主義の根本を掘り崩すからだ 生きたいと願った記憶がないから苦しいって言ってるんじゃないの? 生まれたいと思わなかったと思う人が同時に反出生主義者かどうかは別の話だと思うけど ここにいる仏典詳しい人達は生きる目的ってどう考えてるの? >>694
心神喪失状態で人刺しておいて記憶がないから無罪ですと言ってるようなもん
仏教的に言えば
だから今が苦しいなら仏教じゃなくて他のとこに縋りな >>660
わー、ありがとう。
>>653の話が出てくるp184には、
一照「南方仏教の伝統の中にちゃんと蓄積された瞑想の経験があるから、こうしたらこうなるというのが非常に緻密に記述されているんですね。」
とあったけど、出典までは書かれていなかったので助かります。 >>694
生まれる事自体は苦ではない、それに意味付けをし、認識する際に苦が生じる、ということ? >>693
根本ってのは何で、それをどう堀崩すの? >>702
自らの意志に関係なく親のエゴによって生まれさせられたというたぐいの理屈
仏教的には生命は有愛(バヴァ・トリシュナー)によって存在したいという根源的欲望によって生まれてきた
子供をつくることは誰かに(畜生や餓鬼という苦しい境遇ではなく)人間という恵まれた生を与えるのだから肯定される 四苦八苦もその恵みの内にはいりますか?
生には死もセットだと考えると死にたくて死ぬの?命を一細胞と見ると死はただのアポトーシスにすぎないのでしょか
そうなのてしょうか、だとしたらこの細胞に対する組織ってなんですか?
全部的外れですかね、なんもわかんない 社会的にも人間という動物的にも恵まれない環境に生まれてくる命は、そこに産み落とす者は
因縁因果は 悟ったとしても、人間である限り、何かを食しないと生きていけない。
それは悟った本人のゴータマ・シッダールタが、一番よく知っていることである。 >>707
悟ったゴータマは、人間ではないというのが私の主張である。
釈迦は風なのである。風は食べ物を食しないと生きていけないわけではないのである。
かくいう私もゴータマ(釈迦)と会話をしたことがある。冷静な方に感じた。
というのも、釈迦は2000年以上生きたのである。これは紛れもない事実である。 >>710
ほう。
お釈迦様は西洋でしょうか? 「無記」(何も言わない、答えない)
私はイエスなので東洋、あなたが西洋ですね おおざっぱに言えばですよ
「予言してました」(ゴータマ) 予言しながら私と話したのではあるまいか
お釈迦様は予言ばかりしていたと推測する。 もう少し長めの決まり文句拵えてください
ほう。 だけだと短すぎる >>712
ほう。キリストに言ってやれ、か。かくいう私がイエス・キリストである。嘘ではない。
偽キリストが出たら注意してくれ。偽預言者も見極めよ。 >>713
ほう。もう少し長め、か。では私は文章作成を注意するぞよ。
ほう。の一言であっても寛容できるならありがたい、 仏教は「如実知見」、つまり「現実をありのままに見抜く」。
「怪力乱神を語らず」は儒教だが、釈迦もそんなところがある。
神もたてず、我もたてず、善も悪もたてなければ、世界は安寧だ。 >>716
ほう。 この程度であれば安寧であるか。 >>717
ああ、簡単だよ。
ただ実現するのは難しい。本気でやっても、一生で無理かも。 >>718
ほう。安寧、という言葉を置き換えて「平和」と言おう。
私はこの世界を平和にするつもりである。無理ではないのではないか。
それも300年以上かかるはずであるが、314年以内と予言している。 >>719
私にとって「安寧」と「平和」は違う。
「平和」は争い事がないこと。「安寧」はやすらかなこと。
善も悪もなければ、争いごとがあっても安寧であり得る。 >>720
>>善も悪もなければ、争いごとがあっても安寧であり得る。
ほう。私は平和がいいと思っている。
平和の意味は、争い事がないこと、でもいいだろう。
争い事も万事塞翁が馬できるようなら、世界で2番と認めよう。いや、ソナタを2番目に賢者と認める。 中村元的なブッダや仏教観を否定する見方って、たまに出てくるけど、
面白かった試しがないし、記憶に残る話も役に立つ話もなかった たしかに
著者の独断が気になってあまり面白くなかった
ブックオフ行き確定
Xでのやり取り見てると
あの感じだと人間関係トラブルじゃね?と思った
色々と頑張ってるんだろうけど
ルサンチマ 中村元的なブッダや仏教観って面白くないし
ああいう聖書の高等批評の焼き直し(史的イエス論みたいな)はウンザリしてたからバッサリ云ってくれてすっきりしたわ 中村元は本当はアドヴァイタ・ヴェーダーンタの人なのに岩波文庫が売れたから仏教やってるだけなんだよね ババ・ヴァンガみたいに見える人ってここにいますか? >>723
ほう。『ブッダという男』か。
私もその本が欲しい。書き込んでくれてサンクス 中村元先生の批判するなら、中村元先生以上のことをやれっての Xでの植木さんに対してのウザ絡みは見てて気分悪くなったわ >>741
ほう。 なら貴殿は我々以上のことをやって貰おうか。 >>741
中村元先生がウンチなこと書いてたら、ウンチなこと書いてますよっていうのにそんなにハードルが高いのか 中村元先生並みの権力がないと中村元先生を批判しちゃいけません!(´・ω・`) ルサンチマンから解放されたらもう少し読んでくれる人増えるかも >>745
お前、降臨したのか?
ねらーだと思ってたから、やはり来たか...
ここで派手にぶちまけていいんだぞ 仏教には輪廻思想がある。ここでヒントを出したい。「ゴータマが生まれ変わりと言った内容とは」
ゴータマは「生まれ変わりはある」と五回言っている。これは私なりの分析によって発見した。
ゴータマは「輪廻はあるけどな」と一度言ったことがある。
何が言いたいのか。故人が発言した内容がヒントなのである。勉強になった? ブッダという男のしみピー
だいぶ彼への批判入ってきたな
色々読んでる >>752
何が言いたいの?私はわかるあなたはわからない勉強しなさい?とかやりたいだけ? >>755
ゴータマは何を言ったのか。それを追求することで、何かしら見えてくるはずである。 ・『仏陀の真意』(企志尚峰著 幻冬舎)
・『ブッダという男』(清水俊史著 ちくま新書)
・『目からウロコの仏教ブログ』(ホワイト・ターラーさん)
これらを日本語で読めることの有難さ
ホワイト~さんはなかなかアメンバー認定してくれないから
ハードル高いけどね
かなりのレベルまでいってる方なので
本当に真摯に仏教という仏道を歩もうとしている人なのかどうか
わかっちゃうらしいから
学問としての仏教哲学やってるだけの人たちやスピ系は却下されるみたい
本当の仏教を希求する声がそれだけ高まっているということでしょう
二十年くらい前は上座部が脚光浴びたけど結局失望に終わったし
仏教3.0とかいうのもさ…
あとどうでもいいけど『仏陀伝』(渡邊亮著 風詠社)は小説としても面白かったよ 今の世人は悪霊に支配されてるよ
日本人の霊性など皆無に等しい
物質主義社会に呑まれて皆が競争しあい、私欲に走って縦社会を構築してきた
これが悪魔の所業で、この価値観を当たり前と思い込むように洗脳されている
YouTube動画でいま日本人の優しさがもてはやされてるけど、あまりピンと来ないだろう?
いい部分だけを見せて悪い部分は隠されている
そこで日本人は優れていると勘違いを起こさせる
そこには形式しかなく心は伴っていない
霊性に目覚めればその裏が透けて見えてくる
スピリチュアル系動画の胡散臭い連中も同じこと
騙されてる人間がこんなにも多い
これから少しづつ世の中は変化し、悪は露見され裁かれ清い魂をもつものが日の目を見る時代になる
それはまだ先のことだけど、何処へ向かうべき道なのかを知ることになる
何が正解なのか分からなくなり、物質社会を盲信してきた人たちは苦しむだろう
肩書きやお金そんなものは必要なくなり、利他愛の精神をもたないものは生きていくのが困難な世になる 正解なんてないのでは
起きてることが起きてるだけであって、それに意味付けしてるのは人間それぞれの勝手に過ぎない 両親と先祖蔑ろにして自分勝手に絶縁してダラダラ自堕落にフリーターして生きてます、生きてるというより死んでないだけで少し働いてダラダラ過ごして寝ての繰り返ししてもうじき35歳
なんでこんなんが生きてて、一生懸命生きてたもの達が呆気なく死ぬんだ 自分のしてることは悪だと思うからそう感じるだけで、そこに意味はないから仕方のないことでは
あなたも一生懸命生きてるよ、人から期待されることに真面目に取り組むだけが評価されるけどさ
人の期待や価値観裏切ればダメ人間と言われる世の中だけど少なくとも自分の生活は自分で面倒見てるんだからそれで十分だと思いますよ >>759
霊(霊体)、心、肉(肉体)、という三位があります。三つの部分です。
真光では、手かざしによって零層を浄めます。そしてまた、火傷をしたところは、止める想念で肌をお浄めします。
大抵零層を浄めると霊性も高くなります。幽体(心)も死後の世界では使う場合があります。 清水wwwwwwwwww
5chのほうが合ってるんじゃないか?
wwwwwwwwwwwwwwww 権力から切り離された、純粋な初期仏教を追い求められていましたよ、増谷文雄師は。 「崇教真光」では、いまだに「10歳から手かざしを受けられる」と言って「勧誘活動」をしているようですが、大変危険です!!(実際に「廃人」になられた方も多く出ております)
もし「手かざし」に興味を持たれて「入信」されたいと思われる方がおられるのなら、「SEX」をされて、肉体的にも「完成」(合一)されてから「信者さん」になられるべきです!!
「崇教真光」では、僧侶(お坊さん)やキリスト教の「牧師さん」などにも「入信」を求め、「おみたま」を渡し「手かざし」をさせております。国内外の信者数は500万人。世界中で「黒人」や「白人」の方達が、「手かざし」をやっております。
この教団の「御祭神」は「元主之神(もとすのかみ)」(御親元主真光大御神)です。(この神様は、光神というよりも素粒子・元素の神「物質の神様」です) 「崇教真光」は、「手かざし教団」です。
「おみたま」と呼ばれる「金属製」のロケットを首から下げます。
このロケットの中には、「教え主」(教祖)が書いた秘密の「文字」が書かれた紙が入っており、その「文字の力」を借りて「手かざし」を行います。
「初級・中級・上級」と段階があって、それぞれに「研修会」があります。
「手かざし」の前に、教団独自の「祝詞」を唱え、双方が「正座」をする形で「手かざし」をする「施光側」と、それを受ける「受光側」になり向かい合います。この「手かざし」で、「手」から出てくる光が「真光」であり、「神の光」と呼ばれるものです。
一般的には「ご霊光」などとも呼ばれますが、他の教団の「霊光」とは意味合いが違います。この「真光」の元の「エネルギー」は「太陽エネルギー」です!!
宇宙線とも呼ばれる「太陽光線」は、毎日「地球」の電離層にぶつかって、砕けて「シャワー」の様に地上界に降り注がれております。
この極微の素粒子を科学的に「ミューロン」と言います。
この「ミューロン粒子」を「神の光」、すなわち「真光」と呼んでいるわけです!!つまり、この「ミューロン粒子」を「手かざし」によって、「手のひら」から放出させるためのもの(アイテム)が「おみたま」なのです。
教祖たる「教え主」が、ある秘密の方法を行って「おみたま」の「文字」と「ミューロン粒子」のエネルギーとを「紐付け」している、関連付けているわけです!!
当然、元が「太陽エネルギー」ですから、「霊障」(れいしょう:霊の障り)のきつい人が「手かざし」を「額」に受けると、「憑依霊」(憑いている幽霊)はあまりの強烈さに痛がって浮き出てきます!!
「う~…眩しい…痛い苦しい…!!」
まあ、こんな感じで浮き出てくるわけです。
この光によって、「ご霊さん」を浄化(成仏)させるわけです >>767
増谷文雄で仏教勉強しましたとか老人のたまり場か?ここは 境界知能の奴らの世界認識ってこんな感じなんだなという勉強にはなるかな 『ブッダという男』
著者の主観入ってるところ多くてつまんないな
あとがきとか読む気失せるわ 『ブッダという男』
著者の主観入ってるところ多くてつまんないな
あとがきとか読む気失せるわ
↑
ほう。主観が入っていて間違えている内容もあるのか。具体的に聞いてみたいが。
>>775
アカシックレコードと聞いて、「アカシックレコードなんてないよ」と書きたかったが、
調べてみるとアカシックコードにアクセスする方法?なんて書いてある。
でも私はアカシックレコードは無いと思っている。存在しないという立場だ。
よってゴータマはアカシックレコードにアクセスしてないと考える。 >>776
NGしたいのでコテつけるか他と被らないような特徴ある長めの文字列を使って欲しい、 ほう。 だけだと他で巻き込みが出てしまう 一番のクズ。何がコテつけてだ。NGしたいなんて失礼だ。 失礼を指摘する際に罵るのはまた違う問題があります、それはあなたの中のものですが
以前も同一の人でしょうけどコテを付けてとレスがありましたし、こうやって荒れるならコテを付けるなりして欲しいと思います >>781
ほう。親切な方なんだろうけどな。だけども荒らしてねーよなー。少し雑なレスはあったのかよわるかった。こてつけなくてごめんなさい。 ほう。 じゃなくて 一文字追加してほほう。にしてくれません?
ほ を一文字追加するだけだし文脈も変わらないならデメリットもごく僅かだし、全レスしたとしてもこちらも気にならないしあなたもまた他方をクズ呼ばわりしなくて済むし、落とし所かと思います 岩波のブッダが説いたことと法華経入門とディスカバーなるところの超訳ブッダの言葉をブックオフで買ってきました
明日から読み勧めます ほう。って偉そうなんだよなw
何様だ?おまえっていう >>790
ほう。偉そう、か。私はイエス・キリストである。海外でも有名だぞよ、キリスト教を教えてくれ >>792—>>796
ほほう。なんでほほうにしないの?、か。ほほう、自分でもほほう、発想してもほほうでは微妙化とほほう。 爺さん自体が魍魎の匣みたいなもんだから、という笑い話 >>799
ほほう。京極夏彦か。姑獲鳥(うぶめ)の夏ならおもしろいかな
わしは89歳じゃないぞほほう87歳ほほうでもないぞほほう >>798
偏屈?どうかな。唯我独尊の気分はあるぞよ。尊大だよイエスキリストなんだもん どこに書かれようと、どこで咲こうと、本物は本物、偽物は偽物。 >>806
そのまま、岩波文庫の「ブッダが説いたこと」 人の生で全ての価値を剥奪すれば、全ての悪、全ての善は消える。
だから、その後の生は、善でも悪でもないし、善でも悪でもないものでもない。 すべての価値を剥奪するには、「我」が存在しないことを知れば、それで済む。 そそり立った自身を地湧の菩薩と崇めてこその覚悟であったろうが、禅において転依し、住職となって其が覚悟を採点して、落第を認めた事情は、修行というものが内部システム化していた証を顕に示している。閉塞した自他洗脳である。 見方の執着。
「だけど人間っておかしなもんだね。ずっと加害者と思ってたら実は被害者だったり、被害者と思ってたら加害者だったりする。」(伊藤たかみ) 信じずに疑い確かめなさい
ブッタはブッダ自身のことも例外ではなく信じないように弟子に説いてます、ブッダではなくブッダの見るものを確かめましょう >>820
仏弟子ですらないカーラーマ族の懐疑主義者たちに言った言葉だぞ
弟子たちには「耳あるものは聞け。信を発せよ」と言ってる 仏陀は、自身の居る無上の悟りの境地から、大衆が理解する低俗な表現に置き換え、その有り様を語り伝える立場だから、あえて自身の姿かたちや言動をそのまま信じるのは危険であると、仰ったのではないか 赤子の心でないと天国に行けないとはよく言ったものだと感じます むしろ赤子のようなレスバトルする奴らしかいないのでみんな脳がハッピーということだ 葉っぱに刻むという方法はヴェーダの昔からある
ていうか筆記の出現は文字の出現と同時期のものやろがい
それを読み上げることを学習行為に使うかどうかを問題にしたことはあるが、つまりそれは書の存在は彼らの中で前提だったということだ
経典化が禁止行為だったのであれば「書を学ぶを赦さず」じゃなくて「書にすることを赦さず」、という文言になるじゃんよ
文字化することと文字化されたものを教材として学ぶことは全く別の話じゃん 『カーラーマ経』だけは信用できるといいながら「自分の好みに合うからといって受け入れるな」という矛盾に陥る野良仏教書読み 自己責任だし仏教てのはつまりは自業自得を感得するものだよ アルボムッレ・スマナサーラも
山田無文が一番好きだけど 「「世界は宗教で動いてる」」
この本、読んでみたけどどっかへ行ってしもうたか。
読んでみた キリスト教と GODとを 今はもうない どこへいったか 『ブッダという男』論点がすげーつまんねーな
田川の『イエスという男』のほうが面白かった
『イエスという男』のタイトルパクるなよ思った >>839
そのすげーつまんねー論点で盛大に誤読してる中村元センセエはヤバイよなあ 仏教が「どんな素晴らしい世界が待っているのだろう?」と入ってくると予想外に面白くないものになる。
楽や苦や、そんな感情をから一切離れた世界をゴータマは提供した。 普通に宗教だからね
じゃけんブッダやのうて中村元先生に帰依する羽目になるんじゃ 千日回峰って修験道
仏教と思うと違和感がひどい
苦行が必要な方便の人もたくさんいるんだろうから否定はしたくないけど >抄録
「修業」とは,一定の業を習い修めることで,自分の利益のために業を習い修める事であるのに対して,「修行」とは何物も求めず利害得失を離れて,悟りを開いた人々の道を行ずる事です.
本来、後者であるべきものが前者になっているというのが『悟り、失敗』以降の仏教批判だな 1位は、はるかな理解し得ない世界を語った
一般人が理解し得るのは、30位か40位の話だった お釈迦様。あなたは二年後に現れると言いましたね。そのときは関わりますよ。 弥勒菩薩のことか。56億7000万年後に弥勒仏になるっていう。
菩薩が仏になる最新の年月が57億年以内とかいう。
無理だよ まあでも菩薩と仏の位の違いは、
日本の大相撲が大関と横綱の違いくらいはある。 57億年後から現在の衆生へ弥勒仏は回向を届けるものだ
常住という事の意味が分からないというのは鈍いものだな 中村元の無我批判の評判が信徒に良くないのは、理屈っぽくなるからじゃないかと思う。 >>854
少くともゴータマの誓願ではない時点で、誓願は任意という研究があるから、叶わないかもよ 人間も動物であるから生殖のための活動の一環として
♂が♀にチョッカイをだすのは当たり前。セクハラ
なんていうのは生物学的には無意味。しかし社会生活
の上で、しょっちゅう繁殖活動をするわけにもいかないので、
ある程度の制約が必要。よくよく考えてみると、♂♀区別のつかない
個体をどうこう言うようになったのは近年のこと。
賢明なるみなさん、どう思われますか。 賢明じゃないけど、そのまま受容すればいいのにと思う
葛藤とか悩みもあるけどそれは社会の枠があってその中で生きるから、それは生まれ持った物にあるないに関わらず誰でもあるし
外の自由ってのは有限だし自由であって自由にできないけど内の自由ってのは無限でどこまでも自由であって、それをみんなが自覚して生命物質全てに慈悲を向けられるのを願ってる 現代社会って言う視点でみたらどうなんだろうね
便利で楽な世の中になったからこそほころびがいっぱい出てくんだろうね 鎌倉時代だって、女性達は鎌倉時代最新のファッションをしていた。 お釈迦様に 「悟りを開いたか尋ねた」
釈迦「悟りは開いてない」
私「最高の悟りは開いたの?」
釈迦「最高の悟りは開いてない」
釈迦も凄くないと私には思える。悟りを開いたと思い込んで釈迦を尊敬していたとかだよな? 何であれそこに意味を持たせるのは個人の自由だから釈迦がすごくないと貴方が思うならそれでいいのでは
他人にそれを押し付けるのはまた違う話 一切経の禅僧鉄眼の男根に灸の伝説の一方、
室町乱世の禅僧一休は森侍者と性交三昧。仏教が
性を避けたとはたわごと。では浄土真宗の肉食妻帯は
どうか。浄土系の「仏教」は仏教にあらずは本当か。 生き様だけでも凄いと思うけどね
普通の人間は自分の恵まれた境遇を全部放り出してまで他者を救おうとする選択は出来ないから 在家仏教は仏教ではない、というのも変な話
釈尊は在家出家別け隔てなく声をかけている、出家しろ出家偉いと言ってるのは出家教団の特長に過ぎない >>868
押し付けるのが別の話だろうと、釈迦を正確に認識するために釈迦の欠点をあげるのも在り >>872
すごいと思うすごくないと思うのは個人の感想
ご指摘なのは覚者として認識されてる釈迦がどのように覚者としてあったのかどうか、本当に覚者としてふさわしい人物だったのか調べて議論するということ
明らかになったそれが凄いのか決めるのは個人の感想 ブッタだって人間さ。
生きていく上で何らかの欠点はあろうさ。
それが人間なんだから。 多分だけど悟りを得るイコール完全無欠の人格者に変身することではないから、人としての欠点なんて入滅されるまでそれなりにあったんじゃないかと思う
超然としてる態度も頼もしいとか冷たいとか見る人によって評価は変わるわけで 釈迦に欠点があることをどうしても認めて欲しいらしい 縁なき衆生は度し難し
菩提心に縁のない人間は自己判断の世界で一生を終える。どうしょうもないね >>877
仮にも仏教哲学スレにいるんだからもう少し答えようはないのか?笑
それではお前のカーチャンデベソ!と変わらん
釈迦にどうしてもケチつけたいならそうなるか 悟りは何かの発見の場合がある。
解脱は、煩悩から解き放たれること。
小解脱 大解脱 という言葉もどうぞ 落伍者として生きてるけど実存の苦しみ焦り不安恐怖がじわじわ大きくなってる気がする
実存の危機を受け入れるというかそれに明け渡せればエゴが0にって生命活動をする肉塊になるのか
ただの肉塊にありながら社会の役に立つならいいけどただの肉塊であるだけならどうなんだろう、それを考えるのはただの実存主義やエゴなんだろうか ひとつひとつの業縁を尽くして生きねば後悔だらけの人生になるのは当たり前だぞ
やるだけのことはやったという実感も得られないから >>884
悟り : 五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度したもうこと
解脱 : 十二縁起を遡上して大元の無明をすべて滅尽すること
悟りはRPGみたいなゲームに熱中し過ぎたあまり主人公と自己同一化した状態から覚め、
あゝ自分はゲームをやっていただけなんだと気がつくこと
そうすると人生における深刻さは消えますな
解脱はゲームそのものをやめて本来の生活に戻ること
もうゲームは卒業、これ子供のやる遊びね、もういいやこんなのみたいな
悟りは解脱に至る道のほんの入り口に過ぎないということやね
でも悟っただけで自分は自己探求の最終地点に到達したと思い込んでいる、
自称覚醒者があとを絶たない
エックハルト・トールとかノンデュアリティの教師たちは皆その類い
彼らは死んだらまたこの世に転生してくる
仏教の目的は二度と転生してこなくてよくなることだから
仏教的には彼らは本当は教師を名乗る資格はない >>888
888おめ。 よく力説できるでござるな。
エハンデラヴィ氏と会話したけど、ユニークなお方だった。
えッ苦張るとって勉強になるの何? どうせ生まれてきたんだからロールプレイやりきってやるぞって良くも悪くもエネルギッシュに生きてる人は覚者なのか、どうせ生まれてきたけど何が目的なのかそれがわからんしそもそも目的なんてないんじゃないかと至るはただの迷い人か
ブッダの説いたことなぞっても自分の命の誕生前後と死を想像しても何も見えてこないし、もうこんな事ほっといて俗にどっぷりハマって腐って行くしかないのか
とかく苦しい 虚無的な思考になったのならとことん虚無を突き詰めて見つめれば良いよ、そこに愛や慈悲や菩提心といったもの少しでも挿せたら純粋なそれになるよ
一緒に頑張ろう 人生に目的などない。人生に喜びなどない。
では、八方塞がりかと言えば、そうでもない。
なぜ目的を得ようとするのか? なぜ喜びを得ようとするのか?
執着のためであることは明らか。だから執着を解消すればいい。
執着が消えれば、「今ここで、すぐ死ね」と言われても、迷わず死ねるはずだ。 樹木希林の名言で「どうぞ」は?
y. どうぞ、物事を面白く受け取って愉快に生きて。 あんまり頑張らないで、でもへこたれないで。2022/06/22 実存主義とか哲学と空観って方向性反対よな
在家で空を観じてると実社会の暮らしの中で不安定になることはある
自分も親亡くして親戚付き合いも含めて人と関わらなくなってただ日銭稼ぎに働きに出て寝るだけの中年だけどどん詰まりを全身で受けてるよ 早けりゃ今日にも、遅くとも50年もしない内に死ぬ
なのにずっと変わらない日々の過ごし方、自分の価値を最大に発揮する、役立てる、なにに?どうやって?わからないまま終わるそんなのは嫌だ 浩之いい。がヒントだな。
価値 浩之いい
最大に 浩之いい
発揮 浩之いい 意味を考えよ。 >>896
それでも仏教に何かを期待しているわけですね
でも仏教の基本にあるのはどちらかというと厭世主義的な世界観ですしね
しかも禅だとか密教みたいな聖道門(自力本願)はかなりハードな修行の道、
浄土門(他力本願)は阿弥陀如来に全託する道ですが、
既存の浄土門系は未だに今世は諦めて死後に極楽浄土に行きましょう
というようなのが根っこの部分に横たわっています
どことは言いませんが強引な勧誘で有名な真宗系の宗教団体もあります(要注意)
どうしても仏教に救いを求めるなら、
このスレでも話題として出てきたか知りませんが、
山崎弁栄上人(1859〜1920)について調べてみるといいかもしれません
弁栄上人は念仏は決して死後の世界に向けたものではないと教示していました
まるでインドの聖者のような超能力的な逸話もたくさん残している人です
もしご関心がおありならまず入手可能な本など読めばいいとは思いますが、
では具体的には何をどうしたらいいのかという点で、
違った意味で中々ハードルは高いかもしれません… いまさら人格の形成をしたところで過去は唯一変わらない、徳を積んで記憶を無くしたとしても
毎朝の勤行も無功徳だし日々の生活も無功徳 親を蔑ろにするのは自身の土台を蔑ろにすることに変わらない
先祖まるまる裏切って逃げ続ける生の先には死すらも無い、分かっていても動けないし合わせる顔も言葉も見当たらない
寝てる間に消えたい もういっそ善とか徳に見切りを付けてシンプルに動物的に生きればよいのでは
日々一日一日一時一時を生き抜く、昔のこととか不義理とか考えず先のことも考えず、カラスとかみてるとご飯探し一生懸命して見晴らしいいところで景色眺めてたまに遊んで住処に戻っておそらくそのへんで朽ちて、綺麗な生き方って言えるでしょう 阿弥陀仏>>>>>>>>>>>>>>釈迦(牟尼)仏 仏は仏やろ
認識外の存在にヒエラルキーが付けられると思ってるのが人間側の驕りだわ ちげーよ、釈迦(牟尼)仏がその教えの中で「私(釈迦)は阿弥陀仏の弟子ですよ(^^)」と、自ら弟子たちに語っているんだよ(^^) 仏は無量であるっていうのを意訳したとかなんでねえの、そういうのは
久遠実成で寿命無量なのが大乗の仏やんか 悪行為はしない、善行為もしない
友情・努力・勝利とは無縁、ただ独り日々を無為に過ごすだけ
だからなんだ、それでもここに在るぞ、糞でも喰らえ 仏教は
法の鏡(仏法の鏡)に向かう教え
仏法(教)をよく聞き
その教えをよく学び
法鏡(ほうきょう)に向かうことで
法の鏡に映る自身の姿を正しく知る教え 他人の外観や言動をみて何を思うかではなく
仏教が重要視するのは
仏法(教)を聞いて教えを学び
その教えを通して自己の外(他人)ではなく自己の内を見て知ること
他人はあくまでも他人
法の鏡(法鏡)を通して自己を知る 御波陽。 「仏教は仮の教え。真如の教え。」とお釈迦様は言います。
三千年後に真の教えと説く者が現れる、と言います。それは誰でしょうか? 体を捨てるというのは、ニュアンスによって説明する内容が違います。
身を捨てるというのは命を捨てるという意味があります。
「海に溺れた方のために体を捨てて救助に向かう。」
こういう内容の場合、命を救うために体を捨てるのですね。これはあまり表記されない狭義的な意味です。 >>907
阿弥陀は女人差別するから女が女の体のままで往生できる阿閦仏の方が現代的には受けるだろ常識的に考えて 体は体と分かるけど、命って何なのか
バランスとか連続性とか波、掴み所がない、その根本までわかれば体みたいにこれが命と芯から言えるのか
命って何なのかがわからない ジーヴァ(五蘊の生命)
アーユス(寿、縁起生の命)
元々の仏教には2つ出てくる 連続性の点が我でその一点から見るとわからない、線とか波で見ると全体のほんの一部にも過ぎないものかなとも思うけどそれしかわからない
自分の命がそうなら人の命もそうなのか
いまでもミャンマーやパレスチナで蹂躙されてる命と日本で過ごしているこの命は同じなのかと >>923
え、ジーヴァって仏教的文脈ではアートマンと同じでしょ? >>922
仏教にとっての命とは…
仏教は、三世因果(さんぜいんが)の教えと言われる
三世とは過去・現在・未来、因果とは原因と結果の関係性である
仏教では、自身の過去の行為が因となり、やがて縁が来ると(自分自身の)結果となり表(現)れると首尾一貫して説く
自身の過去の行為が一時的に収まる場所のことを、仏教の言葉で蔵識(くらしき)、阿頼耶識(あらやしき)などと言う
阿頼耶識(蔵識)は、人の目で見たり、聞いたり、直接触れる事は出来ないが、その様子はまるで「暴流(ぼうる・常に流れ落ちる滝)の如し」とも、滔々と流れる永遠の命の大河のようだとも言う
また人の一生は、永遠の命の大河の川面に浮いては消える泡のようであると仏教は説く 誰かが言ったかもしれないことの推測に期待が入るのは否めないが、期待させる言霊もある。 >>926
蔵識ってよくわからなかったけど、三世は勉強したことがある。
三世を拠り所として生きればいいだったかな。 >>924
コロナ禍(2021.4のコロナ毒チン世界接種開始)以降の各国民全体の超過タヒ者数(前年度まの統計データから予想される今年度タヒ者数に対する超過数)を各国毎に比較すると、ななんと日本の超過タヒ者数が最多だとさあ(;゚∇゚)
・世界最高水準の国民コロナ毒チン接種率
・世界最高水準の国民コロナ罹患率
これら相反する要素を我が日本は同時に達成した
以上を踏まえ現状で世界で最も人命を軽んじている国家は、ななんと我が日本だってさあ(;゚∇゚) 多くの先人先達が大乗なり上座部なりで行じてきたけど、未だに世界は美しさと優しさだけでなく残酷で無情であり続けてる
自未得度先度他といってもその他は小さく少ない、自ら得度しても世界は変わらない、なんの為に行ずるの 信仰としての仏教と、哲学として仏教は、もちろん別物だ。
信仰は実践であり修行である。
成果としての哲学理論と、その哲学者とは無関係であるべき。
人としてどうかと思うハイデッガーは、深い哲学理論を残した。
無教養で無知な浅原才一は、信仰の天才であった。 知識としての仏教は、信仰としての仏教に一ミリも役立たない。
それどころか、多くの場合、害悪である。
仏教書を10ページ読むよりも、一時間の修行のほうが遥かに優れている。 変わるのはあなたの生活態度、あなたの自身の残りの生に対する姿勢、また家族や周囲の人間に対するスタンス
それだけで少なくともあなたの周囲の人間には革命的なことだよ
平生業成というのだ 三歳から毒を盛られ続けた子供やパレスチナの方達、どうしてそうなったの
因果の一言で済ませるのは苦しいんよ 人は誰も等しく不幸だ。なんの違いもない。
だから不幸を如実に感じる人は、ある意味、幸運かも知れない。
自分が幸運だと感じる人は、不幸である真実を知らないままでいる。 >>936
ぜんぶが全部前世の因果というのは「宿作因論」(pubbekatahetuvaada)っていう邪説だけど >>938
パレスチナの人たち、幼くして虐待受けている子供達はどうすればいいの?
仏の教えを実践するどころか知ることすら出来ない >>939
仏の教えじゃなくてもアッラーの慈悲の側面に思いを寄せて
迫害時代のムハンマドに倣う生涯を生き切れば天人に生まれ変わるよ ヘタな陰謀論スレよりここのほうがわかっている人が多そう
明治維新以降、東洋思想や仏教に一神教や神智学が憑依して換骨奪胎された経緯など 一神教にめっちゃ宗学が影響されたのも
日本の仏教徒が神智学とすごく交流あったり最近になって指摘されるようになってきたな 浄土教系の宗派は、阿弥陀如来の一神教だ。
真言密教系は、大日如来の一神教だ。
日蓮宗系は、法華経を聖書とする一神教だ。
かくのごとく大乗仏教系は、「信仰」対象を持つ。
釈迦の教えに、そのようなものはない。 一神教と言われるキリスト教にも、マリア信仰やら、あれやこれやの聖人信仰がある。
宗教の事情は、世界であまり変わらぬ。ゴチャゴチャだ。
それでも、もっともピュアなのはイスラム教か。 白隠は「毒語心経」にて何を宣べたか。24歳で鐘の音を聞いた祈りに悟りを得たが満足せず、さらに修行を続けた。
毒語で解説しているとはいえ、「般若心経」を否定しているわけではない。
思わず「なるほど」と鳴るほどの逆説的で面白い解説を行った。 三世因果
ある人は語る
「しねば何も残らない、だから生きてるうちに多くの悪さをしても構わない」
私やあなたはそれぞれの両親から、今の時代、国や地域、男性や女性として、それぞれの両親から個性や特徴を受け継ぎ、この世に誕生しました
自身の過去の行為が(原)因となり、一時的に阿頼耶識(あらやしき)に収まり、やがて縁が来て、因と縁が結びつき、自身の(結)果となり表れると仏教は説く
ここで言う「因」とは種、「縁」とは田畑の土・肥料・日光・水・農夫たちの労働、「果」は収穫物等にも例えられる
もし私やあなたが、それぞれの両親(縁)から、この時代・国や地域に男や女としてそれぞれの個性を持ち生まれた事実(果)があるなら、それに対応する「因」も必ずあると感じるのは、自然な発想だとは思いませんか? 不生禅の盤珪和尚の言に、
「惣じて身どもは、佛語祖語を引て、人に示しもしませぬ。只、人
々の身の上への批判ですむ事でござれば、すむに、又、佛祖の語
を引うやうもござらぬ。」
と、他人の言葉の引用で、何事かを述べることを諌めている。
実際には、今に至るまで、それが絶えないのだ。肝心の僧侶がそうだ。
かく言う私も、盤珪の言を引用してしまったのだが・・・ 明治以後は「信仰」を強調する鎌倉仏教ばかりが強調される。だが、鎌倉仏教とは初期の仏教からすると、後代になりかなり変形を被っている。顕著な特徴は信仰の強調と、論理性の著しい衰退である。論理性が衰退すると容易に憑依を許す。仏教系新興宗教に日蓮系が多いのは決して偶然ではないと考える。明治以後の、唯識学や倶舎論、因明=論理学の学習の衰退と、鎌倉仏教の強調はセットなのかもしれない。論理的な学問が衰退して以後、一神教や神智学による憑依型戦術を受けやすくなった。日蓮系は元々一神教的なので「相性」がよいはずだ。田中智学の法華経ワンワード思想などが典型である。 大日如来が一神教ではないと思う。ゴルドン夫人の空海密教の大日如来解釈がおかしい。スピノザ的な汎神論的唯一神イメージでとらえているが地水火風空識の「六大」によって「構成」される(六大所成)というのが空海の大日観である。構成要素に分解できる「唯一神」があり得るだろうか?大日=法身=空性。誤解と曲解で仏教が歪めらる。 思想において「有神論か無神論か」より「実体論か無実体論か」が根本的な対立軸である。「有神論か無神論か」はキリスト教世界の「神」を巡る枠組みに過ぎない。よって有神論も無神論も西洋の枠組みに囚われている点で同質である。一方、「実体」を想定するか否かは全世界の思想を二分する根本的な論点である。 西洋の思想は基本的に実体論的思想である。「実体」とは簡単に言えば、「他の存在に依存することなく、それ自体で存在する存在」。具体的にはキリスト教の「ゴッド」や、新プラトン主義で言う「一者」、グノーシス主義で言う「霊魂」、近代哲学で言う「自我」「理性」、唯物論で言う「物質」等である。 思想派閥を分析するには「実体」を基準に分析するとよいと思う。①実体を認めるか否か②人間の内と外いずれに実体を設定するか③実体を複数設定する場合それらの関係はどうか。〇この基準と順番で分析すると、思想派閥が整理しやすいと考える。
①は東洋思想と西洋思想を分かつ。東洋思想の中でも仏教の空思想である。神道は元来自然界の「生成変化」を根底とする。変化と実体は矛盾する。支那の気一元論なども非実体的思想である。印度は仏教の発祥地だが、主流はアートマン、ブラフマンという実体を認める「梵我一如」の実体論的思想である。 ②は印度以西の思想となる。実体を人間の外に認める思想の代表は一神教である。一神教の神は絶対他者と言われる。実体を人間の内に認める思想の代表はグノーシス思想であろう。人が神とされる。人の内と外に実体を認めるのがバラモン教や新プラトン主義以降の西洋神秘主義である(「合一」系の思想)。
③の「複数の実体間の関係」の具体例を挙げる。グノーシス思想では霊魂と物質という二つの実体を認め、前者は善で後者は悪とされる。デカルト主義では精神と物質の二元論であり、身心二元論を帰結し後々まで心身問題を惹起した。自我と神を実体とする神秘主義では自我と神が最終的に合一するとされる。 逆に実体が無い事を「空」という。この場合、事物はどのように存在しているか。先述の「それ自体で存在している」の逆で「それ自体では存在していない→他の存在に依って存在している」。これが「縁起」である。縁起とは空。縁起によらないで存在するから「実体」なのである。縁起と実体は両立しない。 聖書信者や、新興宗教カルト、スピリチュアル系やアセンションが、仏教を混ぜこぜにしているが、何かを実体視している時点で相反する対極。 松本史朗の「如来像思想批判」は、重要である。
「無」や「空」を唱える多くの仏教者にも、この批判は届いている。
臨済の「赤肉団上に一無位の真人有り」も、
盤珪の「不生の仏心」も、
この批判に耐えられるだろうか? バラモン教/ヒンズー教的なものに満足できなかった釈迦が、
新たに得た知見が仏教のはずだが、その後の多くの仏教者が
実際には、バラモン教/ヒンズー教的な理解に留まっている
のをどう理解すべきだろう?
それも良いのか?
それとも釈迦の理解が失われてしまったのか? 原始仏教の要点。①何かを認識する。②認識した対象に対して好き・嫌いの感情が生じる。③好き・嫌いが増長すると貪り・憎しみ等の執着が生じる。④貪り・憎しみ等の執着が苦を生じる。➄苦の原因である執着を制すれば苦が消える。
どこにも神秘な所は無い。梵我一如を説くバラモン教とは全く異なる。 鴨長明の方丈記にある「事にふれて執心なかれとなり」はまさに「認識した対象に執着するな」という原始仏教のエッセンスの簡潔な表現。例えば、LSDの如き薬物で再現できる神秘体験などより物事に執着しない・貪らない・憎まない・動じない・冷静に対処できる・慈しみを持つ事などの方が値打ちありとする考え。 特別な教義を極めたり特殊な体験をすると「自分は特別だ」という「傲り」が生じがちである。仏陀が特殊な苦行を否定した趣旨も苦行を経る事で心に傲りを生じる場合があるからだと思われる。特殊な形而上学や神秘体験、苦行等に執着すると傲りが生じる。傲りはその人を損なう。今も昔も変わらない事実。 神秘体験とは超常体験であり、単に常ならぬ体験に過ぎない。
日常体験もありふれているというだけで、内容はそれらと変わりがない。
問題はそこではない。 禅宗も密教も「悟り体験」に関わる様々な副作用をケアしている。
もっとも、そのケアが必要なほどに「悟り体験」を深化している者は少ないのだが。
麻原彰晃にはケアが必要だったろう。どれだけ深化させたかは知りようがないが。 原始仏教の目的は「貪欲」「憎悪」「傲慢」「嫉妬」「迷妄」等の心の働きを妨げる諸々の「煩悩」「執着」「渇愛(tanha)」を取り除く事で「苦」を滅する事である。どんなに形而上学を極めても、神秘体験や苦行を経験しても、それらに執着して煩悩が心から除去されていなければ何の意味も無いとする。
各種形而上学に囚われて他者と争いを起こす人は今も昔もたくさんいる。
スッタニパータ847に「想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」とあり。「想い」とは形而上学を形作る表象作用であり、「偏見」とは形而上学的断定に基づく特殊な見解を指していると思われる。 やはりこのスレも、神智学の憑依が浸透しているのだなあ。麻原を仏教の範疇にするとはね。 麻原が「肉体は魂の牢獄である」と言っている場面を見た記憶があるが、これは仏教ではなくグノーシス主義の考え方である。実際、ニューエイジャーが「麻原はそんなに間違った事を言っていない」という趣旨の事を言ったりする。オウムは「霊性進化論」がベースの神智学系カルトである。
仏教では物質は「無記」(価値中立)とする。宗教的な基礎知識があれば、カルトに簡単に騙されることはないはずだが。 オウムが影響を受けた「神に進化する人種と動物の次元に堕落する人種の2種類の人種がいて最終的に前者が勝利し理想郷を創る」という「霊性進化論」は新約聖書の黙示録を通してペルシャのゾロアスター教の善悪二元論及び終末思想の影響を受けている。そこにブラヴァツキーが近代に登場した進化論を混ぜた教義である。
「善悪二元論」「終末思想」を特徴とするオウムは仏教や印度哲学の系列ではなくペルシャ系のカルト教義である。因明を見ても分かるように印度哲学には論理性と合理性がある。神智学自体が印度を偽装するペルシャ系の思想である。ペルシャ系の思想は新約聖書の黙示録などを通して西洋に流れ込んでいる。 信仰が何流であるかは些細なことだ。
どんな歴史的思想の流れにあったか、あるいはなかったかは些細なことである。
何を考え、何を体験し、何を知ったか、どのような境涯を得たがが問題となる。
分類に拘り、所属に拘っても、本当のことには至らない。
まずは、修行と実践だ。 原始仏典は、妄執や貪欲、憎悪が自制されかき消えた境地を「涅槃」としている。要するに心が整えられて完全な自制が実現している状態を言う。何度も書くが、神的実在と精神が「合一」することを目指す神秘主義とは全く違う。「何を体験し、何を知った」を欲している時点で仏教ではない。
それなら貴方はスレチ。神秘主義スレにでも行ったほうがいい。
東洋的伝統では信仰より道徳を重視する。加えて道徳の中身自体を自由に批評して吟味し得る自由が保障されるべきである。日本人はそうやって自ずと生成した「道理」という感覚を重んじてきた。 仏教を装う単なるニューエイジ。
「意識が拡張」し宇宙の全てが見えたとしても認識対象に対する妄執が断たれない限りは苦しみは消えず、と仏陀なら言うだろう。ニューエイジの「意識の拡張」「認識能力の拡大」という発想は「選ばれた者」という特権意識に結び付きやすい。それはまた「思考が劣る」と見なした人への差別意識と表裏一体である。 「欲」とは「認識した対象」(単なる概念やイメージも含めて)に対して生じるので、余程気を付けていないと「認識能力の拡張」は「欲望の拡張」に直結する。デカルト、ベーコン以来の西欧近代科学がまさにそれである。西欧オカルトも同じである。「意識の拡張」とは「支配欲の拡張」に結びついている。 究極の真理を「これこれが仏教で、それは仏教でない。」と言われたら、
釈迦は嘆くだろう。釈迦には仏教は無かった。
盤珪も、自分は仏教を説いていないと言った。
釈迦の教えも2000年以上経つと、変な癖がついてしまうのか? 私の妄想。
釈迦とイエスが直に対話したら、イエスは釈迦の理解が正しいと認めるだろう。 原始仏教の要諦は渇愛・執著を無くす事であるが、神秘主義の要諦は「実在」を渇望し渇愛しそこに「合一」せんとする事である。全く方向性が違う。よって仏教が神秘主義である事はあり得ない。
何かに合一する事ではなく、何かを感受し認識した所で生じる貪りや怒りなどの煩悩を制する事を目的とする。
仏教を足し算にするなかれ。 最古の仏典であるスッタニパータに
「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系。
貪欲や憎悪などの煩悩を完全に制する事ことは、実現は困難にしても定義自体に曖昧な所は無く明確で現実的だ。
その根幹を否定する、神秘体験や実体視したモノへの合一を目指すなど言語道断だろう。 人は無明と渇愛状態にある。
執着から離れれば、安寧となり智慧も顕われるはず。
多言は無用だ。実践と修行あるのみ。
聞いた風なことを言っても実践がない者ばかり。 隙の無い言葉で自分を納得させようとしても、実践がないなら害悪ばかり。
ほんのひとかけらでも実践してみればよい。 >>959
釈迦はわたしはヴェーダの王者だとも言っていたのでは?
本当にバラモン教を否定していたのだろうか?
形骸化していた当時のバラモンを批判的に捉えていたのでは?
釈迦はヴェーダを復興させた中興の祖とも位置付けられるという人さえいる 例えば、自業自得という言葉
人間というものは自分の現状をなんとかしてどうにかして得手に解釈したいもので、そのためには人は宗教でも神仏でも失敗した他人でも何でも利用するんだよね >979
そんなもん、日本語は好きだけど日本語学者は嫌いみたいな話だよ
同じ文章をバラモン学者が読んでバラモン教に組み込まれた仏教を作り上げた
儒家だとかが読んで老荘思想みたいのから禅宗や浄土宗が発生した
それぞれが自身の文化的文脈で読んでいったんだよ 盤珪禅師、白隠和尚、良寛さん
河口慧海、山田無文
空海
なんだか旅したくなってきた、慧海なんかはもう三昧の中で楽しさ喜びもたくさんあっただろうなんて思う >>981
マナーは大事にすべきだと思うけど失礼クリエイターの如きマナー講師は嫌いみたいな 素晴らしき、きのこの世界 っていう映像をAmazonプライムで視聴した
よかった エロなんか、どうでもよくなるんだよ。
人間種の生殖活動に見える。 バラモン教はアーリア人が持ってきて神秘主義の身分制度を肯定し信じさせたのがカースト制度
そりゃおかしいとバラモン教の天国とか地獄とか輪廻転生とかあの世とか神秘主義やオカルトを排除したのが仏教
仏教がインドで大ブームになると、今度はトルコの奴隷戦士が侵略してきた
奴隷王朝(凄い名前w)を築いたアイバクが支配する為にバラモン教の神秘主義を復活させ仏教と合体させたのがヒンドゥー教
ヒンドゥー教創設には教祖がおらず分からない部分もあり諸説有る りんご食べるとき輪切りにして皮も芯も種も食べてるんだけど、赤いリンゴでも種と芯の部分が青りんごのような爽やかな風味がしている事に今更気がついた
皮の部分も歯応えがいいし捨てる部分もないしオススメ
最近きのこについても興味出て来て土とか森について調べたりするんだけど、社会を離れて土の上で生きるってのは恵まれているというか、美しい事だと思う 聞いても無いのに自分の事を語るのは承認欲というのは古代の哲学から指摘されてる
>>990はいわゆる「いいね」をされたい
原始仏教、アブラハム、キリスト、アッラー
本人達は偶像崇拝をやめよを徹底し、「私良い事を言いましたよ」をやらないから経典も書いてない
良いこと言ってるなーと記録したのはどれも弟子達
宗教改革者であるソクラテス、達磨大師、プラトン、孔子、デカルト、カント、ニーチェ、マルクス
錚々たる顔ぶれの哲学者は承認欲による自分語りや衝動的な自己アピール(嘘や盛り)について指摘している どうでもいい便所の落書きに承認欲だのどうでもいい
承認欲だと見るのもどうでもいいしそれをそうだとレスするのもどうでもいい
あれ、なんだったらどうでも良くないんだ
だれかどうでも良くないレスしてくれんか >>996
仏教スレッドなんだから人間の根本欲求である承認欲は知った方がいい >>966
お前に承認欲があるかどうかある実験をしてあげよう >>966
このスレッドは1000になりお前は書き込めなくなる反論出来なくなる
>>966
悔しくて憤死するだろう このスレッドは1000を超えました。
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