仏教哲学総合スレ7
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思想において「有神論か無神論か」より「実体論か無実体論か」が根本的な対立軸である。「有神論か無神論か」はキリスト教世界の「神」を巡る枠組みに過ぎない。よって有神論も無神論も西洋の枠組みに囚われている点で同質である。一方、「実体」を想定するか否かは全世界の思想を二分する根本的な論点である。 西洋の思想は基本的に実体論的思想である。「実体」とは簡単に言えば、「他の存在に依存することなく、それ自体で存在する存在」。具体的にはキリスト教の「ゴッド」や、新プラトン主義で言う「一者」、グノーシス主義で言う「霊魂」、近代哲学で言う「自我」「理性」、唯物論で言う「物質」等である。 思想派閥を分析するには「実体」を基準に分析するとよいと思う。①実体を認めるか否か②人間の内と外いずれに実体を設定するか③実体を複数設定する場合それらの関係はどうか。〇この基準と順番で分析すると、思想派閥が整理しやすいと考える。
①は東洋思想と西洋思想を分かつ。東洋思想の中でも仏教の空思想である。神道は元来自然界の「生成変化」を根底とする。変化と実体は矛盾する。支那の気一元論なども非実体的思想である。印度は仏教の発祥地だが、主流はアートマン、ブラフマンという実体を認める「梵我一如」の実体論的思想である。 ②は印度以西の思想となる。実体を人間の外に認める思想の代表は一神教である。一神教の神は絶対他者と言われる。実体を人間の内に認める思想の代表はグノーシス思想であろう。人が神とされる。人の内と外に実体を認めるのがバラモン教や新プラトン主義以降の西洋神秘主義である(「合一」系の思想)。
③の「複数の実体間の関係」の具体例を挙げる。グノーシス思想では霊魂と物質という二つの実体を認め、前者は善で後者は悪とされる。デカルト主義では精神と物質の二元論であり、身心二元論を帰結し後々まで心身問題を惹起した。自我と神を実体とする神秘主義では自我と神が最終的に合一するとされる。 逆に実体が無い事を「空」という。この場合、事物はどのように存在しているか。先述の「それ自体で存在している」の逆で「それ自体では存在していない→他の存在に依って存在している」。これが「縁起」である。縁起とは空。縁起によらないで存在するから「実体」なのである。縁起と実体は両立しない。 聖書信者や、新興宗教カルト、スピリチュアル系やアセンションが、仏教を混ぜこぜにしているが、何かを実体視している時点で相反する対極。 松本史朗の「如来像思想批判」は、重要である。
「無」や「空」を唱える多くの仏教者にも、この批判は届いている。
臨済の「赤肉団上に一無位の真人有り」も、
盤珪の「不生の仏心」も、
この批判に耐えられるだろうか? バラモン教/ヒンズー教的なものに満足できなかった釈迦が、
新たに得た知見が仏教のはずだが、その後の多くの仏教者が
実際には、バラモン教/ヒンズー教的な理解に留まっている
のをどう理解すべきだろう?
それも良いのか?
それとも釈迦の理解が失われてしまったのか? 原始仏教の要点。①何かを認識する。②認識した対象に対して好き・嫌いの感情が生じる。③好き・嫌いが増長すると貪り・憎しみ等の執着が生じる。④貪り・憎しみ等の執着が苦を生じる。➄苦の原因である執着を制すれば苦が消える。
どこにも神秘な所は無い。梵我一如を説くバラモン教とは全く異なる。 鴨長明の方丈記にある「事にふれて執心なかれとなり」はまさに「認識した対象に執着するな」という原始仏教のエッセンスの簡潔な表現。例えば、LSDの如き薬物で再現できる神秘体験などより物事に執着しない・貪らない・憎まない・動じない・冷静に対処できる・慈しみを持つ事などの方が値打ちありとする考え。 特別な教義を極めたり特殊な体験をすると「自分は特別だ」という「傲り」が生じがちである。仏陀が特殊な苦行を否定した趣旨も苦行を経る事で心に傲りを生じる場合があるからだと思われる。特殊な形而上学や神秘体験、苦行等に執着すると傲りが生じる。傲りはその人を損なう。今も昔も変わらない事実。 神秘体験とは超常体験であり、単に常ならぬ体験に過ぎない。
日常体験もありふれているというだけで、内容はそれらと変わりがない。
問題はそこではない。 禅宗も密教も「悟り体験」に関わる様々な副作用をケアしている。
もっとも、そのケアが必要なほどに「悟り体験」を深化している者は少ないのだが。
麻原彰晃にはケアが必要だったろう。どれだけ深化させたかは知りようがないが。 原始仏教の目的は「貪欲」「憎悪」「傲慢」「嫉妬」「迷妄」等の心の働きを妨げる諸々の「煩悩」「執着」「渇愛(tanha)」を取り除く事で「苦」を滅する事である。どんなに形而上学を極めても、神秘体験や苦行を経験しても、それらに執着して煩悩が心から除去されていなければ何の意味も無いとする。
各種形而上学に囚われて他者と争いを起こす人は今も昔もたくさんいる。
スッタニパータ847に「想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」とあり。「想い」とは形而上学を形作る表象作用であり、「偏見」とは形而上学的断定に基づく特殊な見解を指していると思われる。 やはりこのスレも、神智学の憑依が浸透しているのだなあ。麻原を仏教の範疇にするとはね。 麻原が「肉体は魂の牢獄である」と言っている場面を見た記憶があるが、これは仏教ではなくグノーシス主義の考え方である。実際、ニューエイジャーが「麻原はそんなに間違った事を言っていない」という趣旨の事を言ったりする。オウムは「霊性進化論」がベースの神智学系カルトである。
仏教では物質は「無記」(価値中立)とする。宗教的な基礎知識があれば、カルトに簡単に騙されることはないはずだが。 オウムが影響を受けた「神に進化する人種と動物の次元に堕落する人種の2種類の人種がいて最終的に前者が勝利し理想郷を創る」という「霊性進化論」は新約聖書の黙示録を通してペルシャのゾロアスター教の善悪二元論及び終末思想の影響を受けている。そこにブラヴァツキーが近代に登場した進化論を混ぜた教義である。
「善悪二元論」「終末思想」を特徴とするオウムは仏教や印度哲学の系列ではなくペルシャ系のカルト教義である。因明を見ても分かるように印度哲学には論理性と合理性がある。神智学自体が印度を偽装するペルシャ系の思想である。ペルシャ系の思想は新約聖書の黙示録などを通して西洋に流れ込んでいる。 信仰が何流であるかは些細なことだ。
どんな歴史的思想の流れにあったか、あるいはなかったかは些細なことである。
何を考え、何を体験し、何を知ったか、どのような境涯を得たがが問題となる。
分類に拘り、所属に拘っても、本当のことには至らない。
まずは、修行と実践だ。 原始仏典は、妄執や貪欲、憎悪が自制されかき消えた境地を「涅槃」としている。要するに心が整えられて完全な自制が実現している状態を言う。何度も書くが、神的実在と精神が「合一」することを目指す神秘主義とは全く違う。「何を体験し、何を知った」を欲している時点で仏教ではない。
それなら貴方はスレチ。神秘主義スレにでも行ったほうがいい。
東洋的伝統では信仰より道徳を重視する。加えて道徳の中身自体を自由に批評して吟味し得る自由が保障されるべきである。日本人はそうやって自ずと生成した「道理」という感覚を重んじてきた。 仏教を装う単なるニューエイジ。
「意識が拡張」し宇宙の全てが見えたとしても認識対象に対する妄執が断たれない限りは苦しみは消えず、と仏陀なら言うだろう。ニューエイジの「意識の拡張」「認識能力の拡大」という発想は「選ばれた者」という特権意識に結び付きやすい。それはまた「思考が劣る」と見なした人への差別意識と表裏一体である。 「欲」とは「認識した対象」(単なる概念やイメージも含めて)に対して生じるので、余程気を付けていないと「認識能力の拡張」は「欲望の拡張」に直結する。デカルト、ベーコン以来の西欧近代科学がまさにそれである。西欧オカルトも同じである。「意識の拡張」とは「支配欲の拡張」に結びついている。 究極の真理を「これこれが仏教で、それは仏教でない。」と言われたら、
釈迦は嘆くだろう。釈迦には仏教は無かった。
盤珪も、自分は仏教を説いていないと言った。
釈迦の教えも2000年以上経つと、変な癖がついてしまうのか? 私の妄想。
釈迦とイエスが直に対話したら、イエスは釈迦の理解が正しいと認めるだろう。 原始仏教の要諦は渇愛・執著を無くす事であるが、神秘主義の要諦は「実在」を渇望し渇愛しそこに「合一」せんとする事である。全く方向性が違う。よって仏教が神秘主義である事はあり得ない。
何かに合一する事ではなく、何かを感受し認識した所で生じる貪りや怒りなどの煩悩を制する事を目的とする。
仏教を足し算にするなかれ。 最古の仏典であるスッタニパータに
「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系。
貪欲や憎悪などの煩悩を完全に制する事ことは、実現は困難にしても定義自体に曖昧な所は無く明確で現実的だ。
その根幹を否定する、神秘体験や実体視したモノへの合一を目指すなど言語道断だろう。 人は無明と渇愛状態にある。
執着から離れれば、安寧となり智慧も顕われるはず。
多言は無用だ。実践と修行あるのみ。
聞いた風なことを言っても実践がない者ばかり。 隙の無い言葉で自分を納得させようとしても、実践がないなら害悪ばかり。
ほんのひとかけらでも実践してみればよい。 >>959
釈迦はわたしはヴェーダの王者だとも言っていたのでは?
本当にバラモン教を否定していたのだろうか?
形骸化していた当時のバラモンを批判的に捉えていたのでは?
釈迦はヴェーダを復興させた中興の祖とも位置付けられるという人さえいる 例えば、自業自得という言葉
人間というものは自分の現状をなんとかしてどうにかして得手に解釈したいもので、そのためには人は宗教でも神仏でも失敗した他人でも何でも利用するんだよね >979
そんなもん、日本語は好きだけど日本語学者は嫌いみたいな話だよ
同じ文章をバラモン学者が読んでバラモン教に組み込まれた仏教を作り上げた
儒家だとかが読んで老荘思想みたいのから禅宗や浄土宗が発生した
それぞれが自身の文化的文脈で読んでいったんだよ 盤珪禅師、白隠和尚、良寛さん
河口慧海、山田無文
空海
なんだか旅したくなってきた、慧海なんかはもう三昧の中で楽しさ喜びもたくさんあっただろうなんて思う >>981
マナーは大事にすべきだと思うけど失礼クリエイターの如きマナー講師は嫌いみたいな 素晴らしき、きのこの世界 っていう映像をAmazonプライムで視聴した
よかった エロなんか、どうでもよくなるんだよ。
人間種の生殖活動に見える。 バラモン教はアーリア人が持ってきて神秘主義の身分制度を肯定し信じさせたのがカースト制度
そりゃおかしいとバラモン教の天国とか地獄とか輪廻転生とかあの世とか神秘主義やオカルトを排除したのが仏教
仏教がインドで大ブームになると、今度はトルコの奴隷戦士が侵略してきた
奴隷王朝(凄い名前w)を築いたアイバクが支配する為にバラモン教の神秘主義を復活させ仏教と合体させたのがヒンドゥー教
ヒンドゥー教創設には教祖がおらず分からない部分もあり諸説有る りんご食べるとき輪切りにして皮も芯も種も食べてるんだけど、赤いリンゴでも種と芯の部分が青りんごのような爽やかな風味がしている事に今更気がついた
皮の部分も歯応えがいいし捨てる部分もないしオススメ
最近きのこについても興味出て来て土とか森について調べたりするんだけど、社会を離れて土の上で生きるってのは恵まれているというか、美しい事だと思う 聞いても無いのに自分の事を語るのは承認欲というのは古代の哲学から指摘されてる
>>990はいわゆる「いいね」をされたい
原始仏教、アブラハム、キリスト、アッラー
本人達は偶像崇拝をやめよを徹底し、「私良い事を言いましたよ」をやらないから経典も書いてない
良いこと言ってるなーと記録したのはどれも弟子達
宗教改革者であるソクラテス、達磨大師、プラトン、孔子、デカルト、カント、ニーチェ、マルクス
錚々たる顔ぶれの哲学者は承認欲による自分語りや衝動的な自己アピール(嘘や盛り)について指摘している どうでもいい便所の落書きに承認欲だのどうでもいい
承認欲だと見るのもどうでもいいしそれをそうだとレスするのもどうでもいい
あれ、なんだったらどうでも良くないんだ
だれかどうでも良くないレスしてくれんか >>996
仏教スレッドなんだから人間の根本欲求である承認欲は知った方がいい >>966
お前に承認欲があるかどうかある実験をしてあげよう >>966
このスレッドは1000になりお前は書き込めなくなる反論出来なくなる
>>966
悔しくて憤死するだろう このスレッドは1000を超えました。
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