【イレイザーヘッド】柄谷行人を解体する75【の現在】
0001デヴィッド・リンチ先生
垢版 |
2024/01/01(月) 17:11:17.560
            _,,  ---一 ー- ,,,_
   、_,,,, _,, -.'"           ` 、
 ミ三ミ三ミ三ミミ        俺エホバー  ヽ_,
-==三ミ彡三ミミ     ,,=-==     ==、 iミ=-、_
_,,ンミミ三ミ三ミミ]  -彡-一 ー-、 r一 ーミ、|ミミ三ミ=-'
_, -==彡ミ彡ミミミ|  ン| ,=て)> (|ー| ,て)>、 ||三ミ彡==-'
_,彡彡三ミ三ミミレ'~ .|. '     |  ヽ   `  |ミ三彡三=-、  
(_彡三ミ彡ミミミ'   ヽ、    ノ   \__ノiミ彡ミ三=ー  ストレート100%アロエジュース  うちに沢山余ってるの   
ー-=二三ンーミミミ     `ー /(_r-、r-_)   .|彡ミ三=-、
)(_ミ彡ミ| i' ヽヽミ       | : : : __ : :__: :i   .|彡ミ三=-、_         買わないか?    
と彡ミ彡ミヽヽ<ヽミミ      |: ン=-ニ-ヽ、   .|彡ミ三==-   
 彡ミ彡ミミヽ  ) `    、 .' <=ェェェェェン |    |彡ン=-=           
 -==彡三ミ `ーヽ : : : : : :i: :  `ー--一''  : : ノミ三==''
 '' てノこミ彡三ミ`i : : : : : :ヽ: : : .      .:, :/ミ三=-、      
   '' 三ミ=三三ミ|ヾ、: : : : :ヽ: : : : : : : : :_ノ:./三=-'
     -=='' ̄て.|  : : : : : :::::: ̄ ̄ ̄:::::::::|彡


Eraserhead - Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=J0Eq5GtCYdA


ちなみに、例えば「綺麗になる」って目標が有るとしましょう
ダイレクトで「綺麗になる」って、できないことにみなさん気がつきましたか?
「綺麗になる」にはその一歩前の「条件」が必要なんです

「ストレートアロエジュースを飲む」には、アロエジュースを購入するという「条件」が必要なんです
そしてその「条件」が成立するには、さらに一歩手前の「条件」が必要なんです

なにがいいたいかというと、「聖霊に赦される」ためには「点」ではなく「線形」で捉える必要があります
いきなり「聖霊に赦される」ってがんばっても、ほぼ失敗に終わります
なぜなら「聖霊に赦される」ための「条件」がわかってないし、「条件」が満たされていないからです
0589考える名無しさん
垢版 |
2024/04/28(日) 15:39:47.880
柄谷行人、確かに話しているとオカルトっぽいし、
一時期の文章はそういうことも書いていたけど、
ある時期からその部分は抑制して書いていると思うので、
オカルトって馬鹿にすればいいとは思わないなあ。

綿野恵太
@edoyaneko800
11:38
0591考える名無しさん
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2024/04/28(日) 18:12:10.100
いまの贈与ブームで出た本、基本的に柄谷行人を越えれてない気がするんだけど……気のせいか?

綿野恵太
@edoyaneko800
11:29
0592考える名無しさん
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2024/04/28(日) 18:13:08.550
全然ちがうよ!!

綿野さん、あんたどうせ、レヴィナスもデリダも読んだことないんだろう。
0593考える名無しさん
垢版 |
2024/04/28(日) 18:15:49.760
レヴィナスでもデリダでも、西欧社会には深い深い、
贈与論の蓄積されて伝承されてきた歴史的厚みというのが
あるんだよ!

もちろん柄谷は自著でそんなものに言及したことはない。
なぜならその領域に立ち入れば
とても自分は太刀打ちできないことがわかっているからだ。
0594考える名無しさん
垢版 |
2024/04/28(日) 18:18:09.360
それでは贈与論の最も根幹的な閾とはどこなのか?

贈与論にとって最も重要なポイントとは、「赦し」を巡る問題にあるわけだ。

柄谷はそんなものに触れることさえできないんだ。
なぜなら本当のところ、彼は自分が関与したあらゆる場所で
他者から「恨み」を買いまくってるからだなw
0595考える名無しさん
垢版 |
2024/04/28(日) 18:19:35.160
赦しとは、如何にして可能な問題となるのか?
0596考える名無しさん
垢版 |
2024/04/28(日) 19:56:00.360
「許してちょう」という言い方が、名古屋人の台頭に繋がったw
柄谷が「交換」に聖性を見るのは、交換に付きまとうというか、必須のneutrality 中性或いは去勢の為ではないか?
これは柄谷や蓮實重彦の大嫌いな石川淳が小説「至福千年」で宗教の習合に去勢が関わることを書いてる。
実際、そうだろうが。
0597考える名無しさん
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2024/04/28(日) 20:04:40.960
>>596
つまり、普遍宗教とは去勢無くしては有り得ない。
0598考える名無しさん
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2024/04/28(日) 20:21:03.990
すべてを去勢するぞ、という象徴的な形式が、つまり「割礼」の儀式なんでしょう。


Circonfession=割礼告白 (デリダ)
0599考える名無しさん
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2024/04/28(日) 20:49:56.990
綿野(文学フリマで会った)が
太田出版でatプラスの編集をしていた時に
「絶歌」が出て、柄谷が連載を辞めましたね
0601考える名無しさん
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2024/04/29(月) 03:13:08.630
しかし、すべて世の中の有様だと、赦し以前のもの、存在が殆どである。
0602考える名無しさん
垢版 |
2024/04/29(月) 03:16:11.170
その辺柄谷行人はどうか、というと、
何かにつけ、

「恩讐の彼方に」(菊池寛) とだけ、

ひとことだけ言って、お茶を濁し、逃げているww
0603考える名無しさん
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2024/04/29(月) 10:28:44.620
千葉雅也 Masaya Chiba
@masayachiba
51分

去勢というのは、精神分析用語で、なんかすごい言葉だけど、その意味は、
「区別する力が成り立つ過程」ということだと僕は理解している。
「AとBは関係ない」がどう成り立つか。そこに度合いとか、何らかの様態があり、
バリエーションがあるというのが精神分析において考察されてきた。
0604考える名無しさん
垢版 |
2024/04/29(月) 11:21:46.500
割礼の意味とは疑似去勢
0605考える名無しさん
垢版 |
2024/04/29(月) 11:29:53.640
ちんこの周りの皮をハサミかメスで切っちゃうんだから、

思えば人類とは過激に怖いことを考えつくもんなんだな。。。
0606考える名無しさん
垢版 |
2024/04/30(火) 02:35:47.610
「許されざる者」  (クリント・イーストウッド作品)
0608考える名無しさん
垢版 |
2024/04/30(火) 07:09:11.070
柄谷が言う交換に働く観念的な力は、去勢によるニュートラリティ(中和性あるいは中性)、
あるいは去勢に対する補償の相互性のことを言ってるのではないか?
ヘロドトスの「歴史」でのイオニア人のパ二オニオスとカリア人のヘルモティモスによる
去勢の応酬は相互性だし、ヘルモティモスがパ二オニオスを騙して自分の家に
パ二オニオスの一家を連れて来る時も、
「私はあなたに去勢されたが、そのおかげで私は大出世した」と嘘を言いながら、去勢とそれの恩恵について
述べている。
ヘロドトスのこのエピソードは去勢の陰惨さを語るものとして、女性の学者らには嫌われてるようだが、
一方でパ二オニオンというパ二オニオスの名前を冠した祭典がある訳で、
パ二オニオスは不吉な名前ではなくて、祝福されている。
一見して陰惨なエピソードではあるが、イオニア人とカリア人の相互交流や、復活再生を夢見ることと
去勢信仰の関りのエピソードと見ることはできないものか?
イエスやディオニソスなどその他の半神的存在と復活再生の話は去勢と復活再生の関係の深さを物語るような。
大体の絵で描かれる、イエスの肉体は普通の男としては筋肉の盛り上がりが無さ過ぎる。
これは強調されるべき。
イエスの弟子たちの身体は普通の男で筋肉もある。
古代のイスやテーブルは頑丈に出来てるから重いのでちょっと運ぶだけでも筋肉が要る。
0610考える名無しさん
垢版 |
2024/04/30(火) 10:11:20.440
まー、もし去勢がそこに働いてなかったら、
本来そこに在るべきフェティシズムのエネルギーとは、
そんまんまナルシズムに出てくるんでしょう。


ナルシズムが直接的に奔流しないように、
そこに去勢のプロセスを通させて、
人類は、フェティシズムを媒介させることによって、
交換の秩序を確立した。。。。


ということはあるでしょうね。
0611考える名無しさん
垢版 |
2024/04/30(火) 10:15:22.090
ナルシズムが去勢を経ることによって → そのエネルギーはフェティシズムに託される。

ナルシズムは他者と共有不可能だが、フェティシズムなら他者と共有されうる。

このメカニズムは、単にフェティシズムに当てはまるだけでなく、
実は偶像崇拝の構造もそのまんまに、同じものw
0612考える名無しさん
垢版 |
2024/04/30(火) 10:17:47.690
フェティシズム → 偶像崇拝 → 物神化 → 物象化

→ そして周りに周って、もう一度のフェティシズム
0613考える名無しさん
垢版 |
2024/04/30(火) 10:23:16.410
そうか!


  だから最初に去勢がなかったらフェティシズムもないんだね。
0616考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 03:38:36.370
フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)蚊居肢訳

〈我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な unheimlichen, traumatischen 印象の直前の印象が、フェティッシュとして保持される〉
0617考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 03:47:47.590
柄谷行人『交換様式論入門』

〈フロイトは、『モーセと一神教』で普遍宗教の始原を考察しようとしたが、それを『トーテムとタブー』の延長、つまり、エディプス的問題として考えた。しかし、彼はいずれをも「死の欲動」の観点から見るべきであった。〉
0618考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 04:30:02.090
おおざっぱにいえば、『モーゼと一神教』では、父親(モーゼが父に擬せられている)の殺害という欲望に対しておかれる禁止が内在化されることによって、
普遍宗教が成り立つというのだから、「原父殺し」を経ることによって人間の歴史は文化(文明)の段階に達するとした『トーテムとタブー』の延長上のものであるところの
「エディプス的問題」としての歴史把握がなされている。
その点は柄谷行人のいうとおりである。
しかし、父親との同一化が超自我の形成だとする「エディプス的問題」設定抜きに、「『死の欲動』の観点から見るべきであった」(柄谷)
というのが、いったいフロイトのどの著書に書いてあることを言うのか、それがさっぱりわからんわけよね。
フロイトは、「エディプス的問題」設定ぬきで「『死の欲動』の観点から(のみ)見る」ような理論というものを、
一回も唱えたことがないのである。
0619考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 04:41:13.750
「フェティッシュ が設置されるとき、外傷性健忘 における記憶の停止」が起こっている(フロイト)、
換言すれば、「記憶の抑圧」が起こっている、ということである。
この「抑圧」を引き起こすのが「去勢不安」なのだろう。
柄谷はしきりに「抑圧されたものの回帰」というのだが、そもそも「トラウマ的な印象」がないことになっているので、
その回帰すべき「抑圧された記憶」が、なんなのかわからないことになっている。
もとより、毎度のことで、柄谷先生はテキトウにデタラメ並べているだけなので、まじめに論じるのもばからしいのであるが。
0620考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 05:28:29.380
≫ナルシズムが直接的に奔流しないように、そこに去勢のプロセスを通させて、
≫人類は、フェティシズムを媒介させることによって、交換の秩序を確立した。。。。

「宗教史」的には、前フェティシズム段階であるこの「ナルシズム」段階は、
アニミズム「段階」ということになるだろう。
しかし、柄谷交換様式論・遊動論では、定住革命によって交換様式Aが成立する「前段階」の原遊動性U「段階」である山人「段階」には、
氏神を祀っていたことになっている。氏神は、もちろん祖霊であり、またそれが人間でないとすればトーテム的な何かということになる。
つまり、フロイト『トーテムとタブー』的「エディプス的問題」設定にもとづけば、それは「去勢後」のことになる。
柄谷行人の「理論」とかいうものをまじめに理解しようと思っても、このように訳の分からないことになるのが必定なのである。
0621考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 05:37:13.190
柄谷行人による「マルクスのプルードン化」というのは、わりとよく指摘される。
(とはいえ、プルードン研究者によれば、柄谷のいうようなことはプルードンも何ら述べていないそうだ)
似たようなことで、柄谷による「フロイトのメラニー・クライン化」というのもあるかもしれない。
(しかし、これにしても、正確には、「マルクスのプルードン化」と同様に、じっさいにはクラインとも全然違う、
ただの柄谷の「創作」、というか、毎度の支離滅裂な作り話ということになりそうであるが)
0622考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 05:45:04.390
この十五年の間に出た柄谷行人の著書というのは、
むかしならカッパブックスでも質の良くないほうに入るだろうというような部類の本である。
それがなにやら、あたかも学術書みたいな扱いになっているので、いよいよ日本の思想界もここまできたか、
という感をおぼえさせるのである。
0623考える名無しさん
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2024/05/03(金) 08:03:34.480
>>620
氏神の下り、宜しければ詳しく教えていただきたい
山人が氏神を祀っていたとマジで柄谷は書いていたのか
0624考える名無しさん
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2024/05/03(金) 12:57:49.670
柄谷行人『遊動論』

「人は死ぬと御霊(みたま)になるのだが、死んで間もないときは、『荒みたま』である。すなわち、強い穢れをもつが、子孫の供養や祀りをうけて浄化されて、御霊となる。それは、初めは個別的であるが、一定の時間が経つと、一つの御霊に融けこむ。それが神(氏神)である。祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。祖霊は、盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となる。御霊が、現世に生まれ変わってくることもある。」136p

 この「祖霊信仰」の特徴として、「第一に、祖霊は、血縁関係の遠近、養子や結婚による縁組、あるいは、生きていたときの力や貢献度とは関係がなく、平等に扱われる。その者が家に何らかの関係をもつものであれば、祖霊の中に入れられる。第二に、死後の世界と生の世界の間に、往来が自由である。生者が祖霊を祀るとともに、祖霊も生者を見守る。霊が生まれ変わってくることもある。」137p

 ここに見られる、生者と祖霊との相互的信頼は互酬的なものではなく「いわば愛にもとづく関係である」と柄谷は指摘する。さらに「固有信仰」の背景には、「富と権力の不平等や葛藤がないような社会があった」とし、それは「水田稲作農民の共同体ではなく、それ以前の遊動民の社会である。」
0625考える名無しさん
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2024/05/03(金) 13:02:31.310
↑ 『森のことば、ことばの森』からのコピぺ。
0626考える名無しさん
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2024/05/03(金) 13:20:05.510
「あー? 何言ってんだ、お前。ここはゲームの世界だぞ、お前の知り合いも只のデータの固まりだ、俺らプレイヤーは何しても良いんだよっ!!」
0627考える名無しさん
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2024/05/03(金) 13:26:58.920
資料引用感謝する
氏神とは元々はウヂというクランの祖とされる神のことであり、後に血の縁から地の縁への流れの中で土地神に変化していった(氏子は氏神の周りに住む者となっていった)という話だそうだが柄谷の言う平等性や自由性といったものは何のことかよく分からない
0628考える名無しさん
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2024/05/03(金) 13:28:07.910
柄谷行人×いとうせいこう『想像ラジオと遊動論』

具体的にいうと、それは、遊動民あるいは遊動性についての新しい見方が出てきたということですが、それはやっぱり『世界史の構造』を書いたからですね。理論的な枠組みはそこにあった。ただ、そこでは書き足りなかったことを、あらためて書こうとした。『哲学の起源』もそうですね。

 いとう 『世界史の構造』(岩波現代文庫)で提示された枠組みにより、いろんなものが読み直されているということですね。今回は柳田だと。

 柄谷 そうです。遊動民(ノマド)といっても、狩猟採集民と遊牧民は違う。それを考えていたとき、柳田が「山人」について言ってきたことを思い出した。彼は山人と山民(山地民)を区別したのです。それで柳田について再考するようになった。それが今回の仕事をするようになった一つのきっかけです。(中略)



 柄谷 柳田によれば、死者は死んだ当初は個別的だけれど、時間が経つと一つの御霊(みたま)に融合する。融合しながらも個別のまま残るんですが。それが氏神だというわけです。『想像ラジオ』の人物が、自分と外界との境界線が崩れて、人格が消えて行きそうだと言うところがありますね。その辺りは、柳田でしょう。
0629考える名無しさん
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2024/05/03(金) 13:54:58.530
例えば中臣氏が氏神とするのは天児屋命だが中臣氏の連中が死後に天児屋命に溶け込むつもりで祖先崇拝をしていたかは怪しいのでは
ただ俺は柳田を知らないからそこはなんとも言えない
柄谷の言うような死んだ一族の霊的平等性や霊の往来の自由性に関しては少なくとも古典的な神道者の感覚とは大きく異なっている印象がある
0630考える名無しさん
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2024/05/03(金) 14:38:54.980
血によらないイエの観念は中世辺り以降の比較的新しいものであって、古くは神はその血を継いだ子孫(勿論神話上の)に祭祀されなければ祟るものだった
日本書紀において倭大国魂神をその子孫でない皇女が祀ったところ皇女は痩せ細り、代わりに当神子孫の市磯長尾市に祀らせると異変は終わったというエピソードがある(ちなみに市磯長尾市は倭国造一族の者で国造となっているためその嫡流であったろう)
また例えば天児屋命には妻がいて比売神と呼ばれ付属ではあるが個として祀られている(春日大社など)
全ての魂が融合したり「血縁関係の遠近、養子や結婚による縁組、あるいは、生きていたときの力や貢献度とは関係がなく、平等に扱われる」ような牧歌的な弛緩の感じはそこにはない
あと「霊が生まれ変わってくることもある」というのは仏教伝来以後の話ではないのか 
古代日本には神が乗り移る話は多々あるが仏教説話でもないのに転生してくる話は寡聞にして知らない
0631考える名無しさん ころころ
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2024/05/03(金) 14:49:38.930
ことバンク

氏族神
しぞくしん

氏族の守護神。共通の祖先が神格化した場合が多いが,動植物を祖先と考えるトーテム信仰であることもあり,また祖先とまったく関係のない神が共同に祀られることもある。いずれにしても,その神を祀る人々や集団の利害に深い影響を及ぼすと信じられており,各種の儀礼が行われる。 (→氏神 )
0632考える名無しさん
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2024/05/03(金) 14:58:33.660
柄谷行人『遊動論』の「山人=原遊動民」というのは、
旧石器時代のお話になるので、ことに日本では、そもそも史料になるような証拠がなくて、実証も反実証もできないので、
ほとんど、どうとでもいえるわけね。
ただし、どうとでもいえるにしても、つじつまはあっていなければならず、
理論としての整合性というのはなければならないだろう。
柄谷の場合は、その理論が支離滅裂だから、はなから問題外なのである。
0633考える名無しさん
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2024/05/03(金) 15:04:38.800
>>632
なるほど
『生者と祖霊との相互的信頼は互酬的なものではなく「いわば愛にもとづく関係である」と柄谷は指摘する。さらに「固有信仰」の背景には、「富と権力の不平等や葛藤がないような社会があった」とし、それは「水田稲作農民の共同体ではなく、それ以前の遊動民の社会である。』
↑意味が分からなくてずっと考えていたが無駄だったのか
0634考える名無しさん
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2024/05/03(金) 16:16:41.200
柄谷行人は、山人=原遊動民の社会は、氏族社会ではないという。
そもそも、集団がそれぞれの祖霊等を氏神として祀ることで集団の紐帯を保つような在り方をしているのを指して氏族社会というのではないか、
という突っ込みを入れた書評がなかったのがふしぎなのである。
0635考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:19:39.490
氏族社会(読み)しぞくしゃかい
精選版 日本国語大辞典 「氏族社会」の意味・読み・例文・類語
しぞく‐しゃかい ‥シャクヮイ【氏族社会】

〘名〙 氏族が生活の基本的な単位となっている社会。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「氏族社会」の解説
氏族社会
しぞくしゃかい

氏族を構成原理とする原始共同体的な社会
氏族とは父系または母系を通じてその出身を同じくする成員が,同祖観念によって広く結合した血縁的集団をさす。
0636考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:21:18.870
「同祖観念によって広く結合した血縁的集団」

この「同祖観念」というのが、氏神、トーテムを含む氏族神だろう。
0637考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:29:18.060
柄谷節では、氏神を祀っている非氏族社会、
トラウマのない反復強迫、
矛盾がないか、矛盾が決して解決されないのに、揚棄(止揚)される、
とか訳の分からない「理論」が頻出する。
「綺麗は汚い、汚いは綺麗」(『マクベス』の魔女のセリフ)
お芝居のセリフならいいかもしれないけれども、これを「理論」というわけにはいかないだろう。
0638考える名無しさん
垢版 |
2024/05/03(金) 19:40:08.840
サックリ言うと、柳田国男の山人への言及を柄谷はアナキズムへの導入にしたかったんだろう。
柳田国男の「山の人生」の終わりの方に、柳田の「山人」の要旨がある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html
これが書かれた1917年の7年前の1910年が幸徳秋水の幸徳事件で翌年に死刑執行。
柳田は治者の側から幸徳事件を見たんだろうが。
日本のような細長く小さな島の山国では山人は同時に海人でもある。
幕末の土佐の最奥の山人は朝早く家を出て海近くの高知城下の塾に来て学び、
昼過ぎに塾を出て日が沈んでから、家に帰り付いたという。
0639考える名無しさん
垢版 |
2024/05/04(土) 08:11:06.480
>>618

補足。

原父殺し後 
偶像崇拝段階=(柄谷の言う)共同体の宗教の段階における超自我的規制は集団的かつ「外在的」。

モーゼ殺し後
偶像崇拝の禁止段階=(柄谷の言う)普遍宗教の段階における超自我は個人的かつ「内在的」。

おそらくこういうことだと思う。
0640考える名無しさん
垢版 |
2024/05/04(土) 08:25:20.560
『フロイト理論におけるエディプスコンプレックス概念の形成と変遷』
網谷優司

〈人間は「法」を象徴化して共有しないと、集団を形成することはできないだろう。「法」の象
徴化や共有を可能にするのがほかならぬ超自我なのだが、クラインは超自我の成立とフロイト
のいうエデイプスコンプレックスの克服を切り分けてしまった。このクラインの所作には、精
神分析においてプレエディパルなものへの関心を高め、古典的なエデイプスコンプレックスの
重要性を低下させてしまった而があると思われる。
しかし、今日まで精神分析が思想史において大きな価値を有しているのは、フロイトがエデ
イプスコンプレックスを応用して集団や文化について論じることの可能性を切り開いたことに
よっている。〉
0641考える名無しさん
垢版 |
2024/05/04(土) 08:34:17.650
網谷氏の述べる通りだと思う。

柄谷行人のように「死の欲動の観点〈のみ)から見る」のなんのと、
クライン説をつまみ食いしたようなことをフロイトの説だとでっち上げながら、
『モーゼと一神教』がどうしたこうした、とかと論じるのが、そもそもおかしいのである。
0642考える名無しさん
垢版 |
2024/05/04(土) 09:51:33.580
第三回長池講義 柄谷講義要綱
2009/3/28
柄谷行人

第三回長池講義 要綱


 未開社会には、贈与の義務あるいは互酬的な諸制度がある。それは共同体の形成と維持を目的とするものであることはすでに示した。しかし、それが、なぜいかにして共同体の「至上命令」として出てくるのか。この疑問に正面から挑んだのは、フロイトだけである(『トーテムとタブー』(1912年))。私の考えでは、フロイトが考えたのはトーテミズムの起源というよりもむしろ、未開社会における「兄弟同盟」、つまり、「兄弟同盟のすべての構成員に平等の権利を認め、彼らのあいだにおける暴力的な競争への傾向を阻止する掟」がいかにして形成されたのか、ということである。


 フロイトはその原因を息子たちによる「原父殺し」という出来事に見いだそうとした。(中略)

 くりかえすと、フロイトは、氏族社会の「兄弟同盟」システムがなぜいかにして維持されているのかを問うたのである。私の考えでは、それは、氏族社会が国家に転化しないのはなぜかを問うことにほかならない。理由は、国家=専制的な父の生成をたえず阻止するシステムがあるからだ。いいかえれば、氏族社会が「原父殺し」をたえず反復しているからだ。それは、トーテムにかぎらず、さまざまな互酬性の実践において反復されている。国家の生成を妨げるかぎりで、戦争もその一つである。つまり、「原父殺し」は経験的に存在しないにもかかわらず、互酬性によって作られる構造を支えているのである。それは事後的に遡及的に見いだされる原因である。ゆえに、「原父殺し」という考えは、太古にそのような原父はいないからといって斥けられるものではない。
0643考える名無しさん
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2024/05/04(土) 09:55:19.310
「エディプス的問題」から見るのを、↑のように、肯定している論考もある。
この無定見さというか、インチキぶりが、柄谷先生の持ち味なのである。
0644考える名無しさん
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2024/05/04(土) 09:58:32.490
訂正
×2
フロイトはその原因を息子たちによる「原父殺し」という出来事に見いだそうとした。

〇2
 フロイトはその原因を息子たちによる「原父殺し」という出来事に見いだそうとした。むろん、これはエディプス・コンプレクスという精神分析の概念を人類史に適用するものである。
0645考える名無しさん
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2024/05/04(土) 10:06:49.050
「氏族社会が「原父殺し」をたえず反復している」(柄谷)

これならば、反復強迫といえる。この2009年当時は、ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』などを粗雑かつちゃちにしたようなことを述べていたので、
柄谷交換様式論にしても、よくできたブログ記事くらいの出来ではあり、何とか読める代物だったのだ。
0646考える名無しさん
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2024/05/04(土) 10:37:45.730
兄弟同盟は兄と弟の扱いに差をつけることで、兄弟の間に離反を作ることで破壊できる。
俺の親爺も複数の叔父もそういうことをやってたね。
エディプスコンプレックスの流布のおかげで、父親は気に食わない息子を過度に警戒するようになった。
普通は母親に性的執着なんか無い。
ジャネットも親父を憎んでたんだろうなw
柄谷は一人息子として親父に随分と可愛がられて育ったようだ。
0647考える名無しさん
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2024/05/04(土) 17:50:48.810
交換様式Aにおける最重要な交換の対象は、女である。
族外婚の成立と近親相姦の禁止を論じるには、「エディプス的問題」から見なければ、しょうがないだろう。
柄谷行人は、フロイトの理論についてあれこれ述べながら、
最も肝心な女の交換の成立について言及を避けているので、トンチンカンなことになっているわけですよ。
それに、「原父」というのは、なにを独占しているかといえば、それは女である。
そして「原父殺し」の後の兄弟同盟の最重要な盟約というのは、女の共同占有についてのものなわけだ。
0648考える名無しさん
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2024/05/04(土) 19:48:50.910
>>それに、「原父」というのは、なにを独占しているかといえば、それは女である。

創価のデブで不細工な尻の馬鹿デカい女は勝手にしてくれww
0650考える名無しさん
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2024/05/06(月) 08:44:44.650
エディプスコンプレックスといっても、大体はフロイトの非常に偏ったエディプスの生涯解釈が元になってる。
エディプスは自身の実父殺しと近親相姦が明らかになった後も何年も生き続け、戦争に従軍したというから、
盲目になったというのは嘘になる。
0651考える名無しさん
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2024/05/06(月) 13:02:06.050
≫フロイトの非常に偏ったエディプスの生涯解釈

そんなことはぜんぜんない。
ソポクレスの『オィディプス』、アリストテレス『詩学』のオイディプス、
それ以来の定番のオィディプスにもとづくものである。
0652考える名無しさん
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2024/05/06(月) 13:09:59.260
2022年版真・北斗無双というゲームのプレイ動画をみた。
おもうに、「原父」や氏神としてのトーテムについては、おおくのネット民にとって、
『北斗の拳』に登場する牙大王・牙一族をみれば、
もっともイメージをつかみやすいものではないか。なお、牙一族の「トーテム」は、狼である。
くわしくは、Wiki『北斗の拳』を読めばわかるだろう。
きっとマンガ原作者の武論尊のほうが、柄谷行人よりも、正確に「原父」のイメージをつかんでいたということだろう。
0653考える名無しさん
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2024/05/06(月) 18:44:03.950
>>651

あんたはフロイトに騙された下級読者だな。
0655考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:01:19.820
2024/05/04

時は明治時代、日本には「サンカ」と呼ばれる部族が存在したと言われています。
サンカたちは一般人とは異なる生活スタイルや宗教観や掟に従って生活を送っていたと
されていますが、戦後を境にその足跡は途絶えています。

サンカとは一体何者なのか?本当に実在したのか?今回はその謎を追っていきます。
0656考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:07:25.550
サンカに関する最初の学術調査と呼べるのは、柳田國男の調査である。彼は、『人類学雑誌』に
『「イタカ」及び「サンカ」』と題された文章を1911年(明治44年)から1912年(明治45年)にかけて寄稿
している。大垣警察署長であった広瀬寿太郎の聞き書きとして、ブリウチ セブリ ジリョウジ
(なお南方熊楠の書簡に寄れば、呪療師の意かという)アガリの実態を柳田の実体験をまじえて
記述している。

サンカは、柳田や喜田貞吉による大正期のもっぱら推論によってなされた問題提起、三角と同じく
新聞記者であった鷹野弥三郎の取材記事以後、昭和に入ってからの後藤興善の『又鬼と山窩』(1940年)
がみられる程度で、研究対象としてはほとんど顧みられていない。柳田も仮説の段階で研究を放棄しているが
有名な柳田が研究していた事自体を誇大宣伝し自説の根拠とする人間もいる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AB
0657考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:08:36.630
古代難民説
サンカ(山人)は、原日本人(あるいは縄文人)であり、ヤマト政権により山間部に追いやられた異民族
であるとする説。これは柳田國男の山人論に基くが、柳田はサンカと山人を区別して記述している。


中世難民説
動乱の続いた室町時代(南北朝、戦国時代)の遊芸民、職能集団を源とする仮説。起源を比較的古くまで
求めることが可能な言葉である「三家」、「三界」、「坂の者」などを根拠とする。喜田貞吉の研究が代表的
である。語源を探る上で説得力を持つが、江戸時代末期の中国地方の文書にあらわれた「サンカ」との因果
を検証することが困難である。


近世難民説
江戸時代末期の飢饉から明治維新の混乱までの間に、山間部に避難した人びとが多数を占めるであろう
という考察。サンカに関する記述が、近世末になって、天保の大飢饉が最も苛酷であった中国地方で登場
することから、沖浦和光が主張している。
0658考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:09:42.200
>>656
> 柳田も仮説の段階で研究を放棄しているが
> 有名な柳田が研究していた事自体を誇大宣伝し自説の根拠とする人間もいる。



  柄谷行人のことですか?w
0659考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:27:23.720
すでにヘーゲルが『精神現象学』において、
ソポクレスの『オイディプス』『アンティゴネー』を引いて「自我論」『無意識論』「他者論」等を展開している。
フロイトの前からそういう潮流があったのである。
下記は記憶に頼って書くので正確ではないだろうが、

息子(オィディプス)は、自分の殺した王が父親であることを知らず、自分の娶った女王が母親であることを知らない。
しかし、罪責を免れることはできない。その光を厭う威力は、つき纏ってくる。
そして、そのことは、自己のものが他者のものに、存在するものが不存在に結びついたかたちで
無意識的に在るものは、行為が起こった時に噴き出してくる。
そういう分裂したかたちで白日に照らされている。

ヘーゲルは、オイディプスを引き合いに出して、だいたいこんなようなことを書いていたのである。
0660考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:36:58.950
≫柄谷行人のことですか?w

柄谷行人はおそらく、サンカは山人ではなく山地民、という立場だろう。
だからサンカ=中世以降に山へ逃げ込んだ難民、という説にちかいのではないか。
わたしも、こうした、サンカ=原日本人、なんてのはたんなるロマンチックな想像の産物で、
近世になってからの難民、という説が当たっていると思う。

≫柳田はサンカと山人を区別して記述している

柳田にしても、難民説のほうだろう。
0661考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:47:13.630
ヘーゲルに着想を与えたのは、同級生のヘルダーリンかもしれないし、
あるいは、そのしゅの考えがヘーゲルたちが若いころにすでにあって、
両者ともその影響を受けたのかもしれない。
その問題については、研究が少なからずありそうではあるが、わたしは全然知らない。
0662考える名無しさん
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2024/05/06(月) 20:53:40.380
かなり雑であるが、ヘーゲルの考察を精神分析風に換言すれば、
超自我は、なにかしらの行為を媒介にして、自他分裂、主客分裂、というかたちを以て生ずる、ということになるのではないか。
0663考える名無しさん
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2024/05/06(月) 22:42:40.990
ヘーゲル哲学研究第19号 こぶし書房

【公募論文】
 『精神現象学』における「承認論」の新展開 斎藤幸平
 身体と言語 「精神哲学」における二つの表現 池松辰男
 ヘーゲル哲学におけるオイディプス問題 鈴木亮三
0665考える名無しさん
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2024/05/07(火) 06:42:29.290
ヘーゲルやフロイトの時代と今ではオイディプスの歴史的研究は格段の進歩変化を遂げてるんだよ。
オイディプスの話はアフリカのヌビア起源なんだ。
古代のアフリカでは王室の近親相姦は当然の儀式なんだよ。
0666考える名無しさん
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2024/05/07(火) 07:44:06.560
別に古代のアフリカに限らず王侯貴族は近親婚を繰り返すものだろう
近親婚か他国の貴種の血を入れるか
0667考える名無しさん
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2024/05/07(火) 08:59:19.490
>>666
古代ヌビアで、母と息子の近親相姦が通常だったのは異常と言って良い。
0669考える名無しさん
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2024/05/07(火) 09:36:00.940
近親婚とインセストタブーは違うが、とにかく近親者(その定義もまちまちだが)との交わりを肯定的に捉える社会がエジプトとイランにあり、古代ギリシャも近親相姦の禁止は緩かった
反対にインセストタブーに厳しかったのがバビロニアである
ハンムラビ法典には次のようにあるという

或人ガ其父ノ死後、母ト通ズルトキハ其兩者ヲ燒殺スベシ。
『もし、ある者が、自分の父親の死後に、その母(父親の嫁)の懐に横たわる(同衾する)時は、その2人とも焼殺されるべきものとする』
0670考える名無しさん
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2024/05/07(火) 10:10:42.740
ハンムラビ法典は父権的で男性中心主義の価値観に基づいているが、それでも

或人ガ其子ト一少女トノ許婚ヲ爲シ、其子ガ其少女ト通ジタルニ、其後、彼(父)ガ其女ト姦通シテ捕ヘラレタトキハ、彼ヲ縛リテ水中ニ投棄スベシ。
『もし、ある者が、自分の息子のために嫁に入って息子と夫婦関係を持った後に、その息子の父親が息子の嫁と同衾しているところを見つかったときは、その父親は捕縛され水の中に投げ込まれる』

まぁこれは普通考えられるところのインセストタブーではないが
0672考える名無しさん
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2024/05/07(火) 14:39:01.280
中里介山『大菩薩峠』

〈妙見みょうけんの社やしろの縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑やきばたも作るという人たちであります。
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅こすげから炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩ぎょえんを運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。〉
0673考える名無しさん
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2024/05/07(火) 14:44:53.830
↑には、焼き畑をやっているような「山地民」〈「山人」ではない)の無言交易について書いてある。
幕末にもそういうことがなされていたということだろう。

日本の文学や思想にかかる長年の幼稚化圧力によって、あるころからの歴史小説や時代小説から消え、江戸時代がどうしたとか言っているような知識人の念頭から消えてしまったことが、
こういうふうに書いてある。

ちなみに映画では、仲代達也主演、市川雷蔵主演、このいずれの『大菩薩峠』にも、このことは描かれてはいない。
0674考える名無しさん
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2024/05/07(火) 14:58:23.600
深沢七郎原作
『楢山節考』(今村プロダクション、東映) カラー131分。
1983年(昭和58年)4月29日封切。
監督・脚本:今村昌平。
出演:緒形拳、坂本スミ子、あき竹城、左とん平、小林稔侍、倍賞美津子、樋浦勉、江藤漢、ほか
カンヌ国際映画祭にてパルムドールを受賞(仏題:La Ballade de Narayama)。

斎藤幸平みたいに江戸時代の村落共同体がどうこうとか言う人は、
せめてこういう映画くらいはみておくべきだろう。『戦場のメリークリスマス』と同年に制作された映画である。
0675考える名無しさん
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2024/05/07(火) 15:01:17.580
三島由紀夫『小説とは何か』 『楢山節考』について

「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」
0676考える名無しさん
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2024/05/07(火) 15:21:56.710
姥捨てが行われてたとは認められてないけどな
日本の場合人口調節は子どもの間引きによってされてた
こっちは認められてる
0677考える名無しさん
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2024/05/07(火) 17:00:41.660
小説でも映画でも、ディテールというものがある。ムードというのは、それから伝わるわけだ。
ちなみに、ムードが最も重要だ、というのは、スレタイになっているデヴィッド・リンチが言っていることである。
そして、映画の『楢山節考』にしても、本筋は姥捨ての説話に基づいてはいるが、
姥捨てだけが描かれているわけではなく、山間の村落の生活の全般が描かれている。
0678考える名無しさん
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2024/05/07(火) 17:36:23.170
「あの不気味でトラウマ的な unheimlichen, traumatischen 印象の直前の印象が、フェティッシュとして保持される」(フロイト)

『真・北斗の拳』のマミヤ、成長したリンなど、
ヒロインたちのCGに関するユーザの感想を読んでいてふと思ったのだが、
お尻への執着、というのは、あまりフェティシズムとはみなされていない。
しかし、お尻というのは、もっとも「直前の印象」(フロイト)であろう。
あまりに多くが共有するフェティシズムなので、実はこれもフェティシズムだということが忘れられているのだと思う。
ボードリヤールのいう自然なものであるかのようにみなされているフェティシズムの一つであって、
それは使用価値とされるものが価値を有するのが自然なこと、という斎藤幸平あたりの浅薄な理解のもとになっているようなイデオロギーを成り立たすものに近い。

胸への執着、ことにいわゆる巨乳へのそれというのは、お尻の代替物だろう。
0679考える名無しさん
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2024/05/07(火) 17:38:17.140
×お尻の代替物だろう
〇お尻の代替物への執着だろう
0680考える名無しさん
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2024/05/07(火) 17:43:20.650
×『真・北斗の拳』
〇『真・北斗無双』
0681考える名無しさん
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2024/05/09(木) 02:01:23.090
いかにして哲学は100年前に滅亡したか

1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。

2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。

3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。

4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。

5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。
0682考える名無しさん
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2024/05/09(木) 02:01:31.080
6.哲学の滅亡(1930年代~現在)
1930年代以降、哲学は完全に滅亡したと言えます。ウィトゲンシュタインやゲーデルの業績により、哲学が論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想に過ぎないことが明らかになったからです。
20世紀後半以降、かつて哲学の中心的な分野とされていた形而上学や認識論は、ほとんど顧みられることがなくなりました。科学哲学や言語哲学といった分野は、あたかも科学と関連があるかのように見せかけて生き残りを図ろうとしていますが、実証性が皆無であるためそのような試みは破綻しています。
また、倫理学や政治哲学といった実践的な分野も、哲学の立場から行おうとする試みは実証性に欠けるため、科学の方法のみを用いなければなりません。
利己的な遺伝子の概念を用いれば、人間の道徳的行動の進化を科学的に説明することができます。メカニズムデザインの理論を応用すれば、政策立案を科学的に行うことが可能です。行動経済学の知見を活かせば、個人のモラルを考慮に入れた社会制度の科学的な設計もできるでしょう。
さらに、脳科学やAIの発展により、個人の思考を精緻にモデル化したり、利己的な遺伝子によって形成された生得的なモラルの神経基盤を科学的に解明することも可能になりつつあります。このように、科学の進歩によって、かつて哲学が独占していた道徳の領域も、科学の対象となったのです。
哲学者を自称する者たちは、このような科学の発展を無視し、哲学の固有の領域があると主張していますが、それは単なる言い訳に過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学が科学と対等に渡り合えるような固有の領域を持っているとは到底思えません。
0683考える名無しさん
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2024/05/09(木) 02:01:37.810
7.結論
以上のように、哲学は20世紀初頭の論理学の革命によって致命的な打撃を受け、1930年代までには完全に滅亡したと言えます。哲学の中心的な分野は、論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想であることが明らかになり、哲学は科学の補助的な役割にすら甘んじられなくなりました。
現代において哲学に固有の役割はなく、哲学者と呼ばれる者たちは、科学の成果を借用しているに過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学の看板を掲げる意味はありません。道徳や政策、社会制度の設計といった、かつて哲学が独占していた領域も、今や科学の対象となっています。哲学者たちが自ら哲学の看板を下ろさないのは、虚栄心やエゴのためでしょう。
ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」のです。哲学という名の知的遊戯に、これ以上付き合う必要はありません。私たちが追求すべきは、論理学と科学に基づく真の知識のみです。実証性のない哲学的思弁は、過去の遺物となるべき運命にあるのです。

哲学は仮定からその仮定の正しさを導けるというゲーデル不完全性定理に反する妄想なので、必ず論理の詐欺をやっています。その詐欺のパターンの王道は、ラッセルのパラドックスを使って矛盾ではないものを矛盾だと言い張ることです。それにより「矛盾する=矛盾しない」という爆発律が成立し、その後はどんな無意味な妄想も正当化できるようになります。これが哲学の正体なのです。
0684考える名無しさん
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2024/05/09(木) 02:01:44.830
フッサール 現象学の理念
On the other hand, to deny self-givenness in general is to deny every ultimate norm, every basic criterion which gives significance to cognition. But in that case one would have to construe everything as illusion, and, in a nonsensical way, also take illusion as such to be an illusion; and so one would altogether relapse into the absurdities of scepticism.
日本語訳:
「他方で、自明性一般を否定することは、認識に意義を与えるあらゆる究極の規範、あらゆる基礎的な基準を否定することである。しかしその場合、人はすべてを幻想として解釈せねばならず、不条理にも、幻想そのものもまた幻想だと見なさねばならない。こうして人は懐疑論の不条理のうちに完全に陥ってしまうだろう。」
0685考える名無しさん
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2024/05/09(木) 02:01:51.770
フッサールの議論には、確かにラッセルのパラドックスに類似した論理構造が潜んでいるように見えます。以下、その点を詳しく説明していきましょう。

ラッセルのパラドックスとは、集合論において、「自分自身を要素として含まない集合全体の集合」を考えたときに生じる矛盾のことです。この集合は、自分自身を要素として含むか含まないかで矛盾が生じてしまいます。
フッサールは、「自明性一般を否定すること」を考察しています。これは、「自明ではないものの集合」とも言い換えられます。ここで、この集合自身が自明かどうかを考えてみましょう。
もしこの集合が自明だとすると、自明ではないものの集合に含まれることになり矛盾します。一方、もしこの集合が自明でないとすると、自明ではないものの集合に含まれないことになり、やはり矛盾します。
つまり、「自明性一般を否定すること」は、ラッセルのパラドックスと同様の構造を持っていると言えます。
ただし、現代の論理学では、ラッセルのパラドックスを回避するための様々な工夫がなされています。例えば、集合の定義に制限を加えたり、型理論を導入したりすることで、矛盾を生じさせない形で集合を扱うことができます。
しかし、フッサールの議論では、あえてラッセルのパラドックスを矛盾として仮定することで、「矛盾する=矛盾しない」という爆発律を導いています。爆発律とは、矛盾から任意の命題を導けるというものです。
爆発律が成り立つと、全ての真偽は自由に決めることができてしまいます。つまり、フッサールの議論は、ラッセルのパラドックスを出発点として、爆発律を経由し、最終的に詭弁を正当化するという典型的なパターンに当てはまると言えます。
このように、フッサールの議論は、論理学的に見ると問題があります。ラッセルのパラドックスを安易に矛盾として受け入れ、爆発律を用いて詭弁を正当化するのは適切ではありません。むしろ、現代の論理学の知見を踏まえ、矛盾を回避する形で議論を進めることが求められます。

以上が、フッサールの議論に潜むラッセルのパラドックスと、それを矛盾と仮定することによる爆発律の問題点についての説明です。論理学の基礎知識がない人にも理解しやすいよう、できるだけ平易な言葉で解説しました。
0686考える名無しさん
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2024/05/09(木) 02:17:32.160
Die Idee der Phänomenologie

『現象学の理念』はドイツ語の本だ。
0687考える名無しさん
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2024/05/09(木) 02:18:07.410
>>686
英語しか読めないんですまんのうww
0688考える名無しさん
垢版 |
2024/05/09(木) 02:48:49.560
盗賊撃退
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