日々雑記 in哲学板 その5
「知性とは、方法や手段に対して鋭い鑑識眼を持っているが、目的や価値に対して盲目である」 アインシュタイン 前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1695621500/ 私は、理詰めで考えて新しいことを発見したことはない。 アインシュタイン 我々という言葉に疑問を感じる。誰も隣の人間と同じではない。 アインシュタイン 一見して人生には何の意味もない。 しかし一つの意味もないということはあり得ない。 アインシュタイン 人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。 普通と言われる人生を送る人間なんて、 一人としていやしない。 いたらお目にかかりたいものだ。 アインシュタイン 私は天才ではありません。ただ、人より長く一つの事柄と付き合っていただけです。 アインシュタイン 常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。 アインシュタイン 第3次世界大戦では分らないが、第4次世界大戦では、人間は多分石を持って投げ合うだろう。 アインシュタイン 想像力は知識よりも重要である。知識に限界があるが為に、想像力が世界をとりまき、 発展を刺激しつづけ、進歩に息を吹き込みつづけているのだから。 アインシュタイン 間違いを犯したことのない人とは、何も新しいことをしていない人だ。 アインシュタイン 中国語の普通話における「そり舌音」として知られる、ピンインでは"r"の文字により表記される「発音」(「発音」という表現そのものに問題があるのだが)について、まだ考へつづけている。 音声学においては、「有声そり舌摩擦音」と呼ばれるらしく、"ʐ"という文字表記も当てられるこの発音は、中国語の地方語や歴史に照らしても、"r"によって表記するのは到底、妥当であるとは考へられない「発音」であり、この表記そのものが、日本語を母語とする人々がこの「発音」を学習する妨げとなっていることは既に指摘した。 しかし、それを記述するのに、代わりにそれを表記するのに"ʐ"の文字を当てたところで、状況は改善されるにしても、この「発音」がどのようにイメージされているのか、つまり、「こゑ(声)」としてどのようにつか(使/仕/遣)はれているのかについての理解が深まるわけではない。 母語とは別の言語の表現が「外来語」として取り込まれるとき、その表現が取り込まれて通用するようになった後にも、大抵の場合、その表現は依然として「外来語」として意識されつづけるが、それでも、取り込まれて通用するようになった表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、その表現が想起させる作用/様態のイメージと結び付くことになる。 例えば、英語の"soft"は、今では「ソフト」というカタカナ語として日本語として通用するようになっているが、依然として、それが「外来語」であることが忘れられたわけではない。 それでも、「ソフト」というカタカナ語は、この表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」そのものが既に、「『ソフト』な様態/作用」を想起させることになっているだろう。 そして、「ソフトな」様態/作用と言ふ場合の「ソフトな」をメタ言語的に記述するなら、「あ(当)たり(例えば、「衝突」や「刺激」)をやはらげるような」と言ひ換へることができるだろうと私には思はれる。 では、音声学においては、「有声そり舌摩擦音」と呼ばれ、"ʐ"という文字表記も用ゐられる、中国語の普通話における「そり舌音」として知られる、ピンインでは"r"の文字により表記される「こゑ(声)」の場合にはどうだろうか。 後で論じようと思っていたことが、念頭にあったので、先走って記述が混乱してしまったので訂正する。 誤:「あ(当)たり(例えば、「衝突」や「刺激」)をやはらげるような」 正:「あ(当)たり(例えば、「衝突」や「刺激」)を吸収するような」 私は、中国語の学習の初歩の段階にすらない(まだ、中国語を学習してある程度でも身につけようという決心にすら至っていない)ので、中国語の普通話の「正しい発音」をどのように身につけるかについて他人に助言するような立場にはない。 しかし、そのことを前提としたうえで、勝手に云はせてもらうなら、「そり舌音」とされる"r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」をイメージさせるのに最も妥当な日本語としての表記は(現時点の私の理解においてという限定付きで)、 「ぢ」だろうと思ふ。また、日本語として「ぢ」の「こゑ(声)」を出すことが、そのまま「そり舌音」とされる"r"の発声とはならないものの、この後者の発声は、日本語の「ぢ」を発声することを基礎として、その「こゑ(声)」の出し方を、中国語の発声の聴こえ方に合せるように調整することが近道ではないかと思ふ。 少なくとも、そのようなアプローチの方が、「中国語の発音」を説明するサイトによく見られるような、ピンインの"ri"の表記にカタカナの"リ"を当てて、この「こゑ(声)」を"r"の発声の変種として理解させようとする、中国語の地方語と歴史のいずれに照らしてもまったく合理的でないアプローチより、はるかにましであると私は思ふ。 その理由についてさらに説明する。 中国語のそり舌音の"r"に対応する「こゑ(声)」は、歴史的に、どのような「こゑ(声)」として認識されて日本語に(「漢語」という「外来語」としてであれ)取り込まれているだろうか。 これは、現代の日本語からでもただちに容易に確かめることができる。 「弱」、「若」、「柔」、「乳」、「日」、「人」、「譲」などの漢字やそれを含む漢語の表現は、現代の日本語でもよく使われるが、これらの漢字の語頭の発音は、中国語の普通話では、すべてピンインの"r"で表記されるそり舌音となっている。 ところで、これらの漢字の日本語としての音読みは、現代仮名遣ひの表記によれば、 「弱(ジャク)」、「若(ニャク/ジャク)」、「柔(ニュウ/ジュウ)」、「乳(ニュウ)」、「日(ニチ/ジツ)」、「人(ニン/ジン)」、「譲(ジョウ)」 であり、Wiktionayで確認してみると、これらの漢字の中国語の中古音としての発音は、すべて語頭が"ny"に近いものであったと想定されている。 したがって、これらの表現が日本語に取り込まれた当時の発音は、それを現代仮名遣ひで表記するなら、「ニャ、(ニィ)、ニュ、(ニェ)、ニョ」、もしくは「ジャ、(ジィ)、ジュ、(ジェ)、ジョ」に近いものとしてイメージすることができるだろう。 「日本」は、日本語では、「ニッポン」と呼ばれるが、英語では、"Japan(ジャパン)"であり、かつては、それをカタカナ表記するなら、欧州において"ジパング"に近い発音の名称で呼ばれたことが知られている。 この場合も、この語頭の「ニッ/ジャ/ジ」は、中国語の普通話のそり舌音の"r"に対応する発声に由来するものと考へられている。 したがって、この発音は、本来、日本語においても、欧州の他の言語の話者にとっても、「はっきりしない発声」として捉へられたと考えるのが妥当であり、その発声にどうしてもカタカナ表記を当てる必要があるなら、それは「二」にも聴こえるし、「ジ」にも聴こえるが、そのどちらとも明確には判定しがたい「ニ/ジ」のような「こゑ(声)」の出し方ということになるだろう。 さらに、私には、その「こゑ(声)」の出し方が「はっきりしない」、または「あいまいである」ように感じられることには、明確な理由を見出すことができるだろうと思える。 それは、まさに、この「こゑ(声)」が、そのような効果をイメージとして利用することを意図している「こゑ(声)」だからである。 どういうことかさらに説明しよう。 レヴィ=ストロースの「構造主義」の流行とともに、言語学者のロマーン・ヤーコブソンの名前も広く知られるようになったが、レヴィ=ストロースの構造主義に最も強く影響を及ぼすことになったのが、ロマーン・ヤーコブソンの音声学・音韻論である。 ロマーン・ヤーコブソンが、音声学・音韻論の記述において重視したのが、「弁別的素性」/"distinctive features"であるが、言語の「発音」を整理して記述するのに「弁別的素性」/"distinctive features"を特定しようとすることは、あまりにも当たり前のこととして受け容れられるようになっているため、あたかも、「『ことば』として用ゐられる『発音』を、あらかじめ『弁別的素性』/"distinctive features"によ(依)り分類されるべきものとしてあ(或/在/有)る『存在者』」であるかのように扱ふ」ことが「暗黙の前提」とされるようにまでなってしまっている。 しかし、ここにこそ、中国語の普通話のそり舌音の"r"に対応する発声の場合にも当てはまる、大きな問題がある。 「ことば」として「こゑ(声)」を「つか(使/仕/遣)ふ」とは、どのようなことだろうか。 それは、「発音」という表現が示唆する如く単に体から音を出すことを意味しているわけではない。 例えば、死体の喉に内側から空気を送り込んで、口から音を出させたところで、死体は、音を発していることにはなるが、「こゑ(声)」を出しているわけではない。 「こゑ(声)」を出すとは、どのようにか「こゑ(声)」を発することによって何かを伝へようとする「行為」であって、単に体が何らかの特徴を有する音を出すという出来事ではない。 どのようにか「こゑ(声)」を出すことそのものが、現状とはどのようにか異なるように意識の働き方を変へようとする行為である。 したがって、「こゑ(声)」を出すという行為自体が、何も「こゑ(声)」を出さずにただゐることと明確に区別される「弁別性」/"distinctiveness"をもたらす。 その意味では、何かをはっきりと「ことば」として発することは、何がどのようであるかを伝へるために「つか(使/仕/遣)ふ」ことになる「こゑ(声)」の弁別性をはっきりさせることとひと(等)しいということができるだろう。 ここで問ひである。「ことば」は、基本的に、何がどのようであるかを伝へるために「つか(使/仕/遣)ふ」ものであると考へたとして、では、「ことば」は、つねに何がどのようであるかをはっきりと伝へるためにだけ「つか(使/仕/遣)は」れるのだろうか。 「何事もあらかじめ明確な定義なしに発言してはならない」というようなことを他人に対して要求する人々は、「そうであるべきだ」と応へるのだろう。 しかし、では、「何がどのようであるかがはっきりしない場合」は、どうするのだろう。そのような状況においては、人は「こゑ(声)」を出すことを差し控へて、沈黙していなければならないのか。 そのような規範を受け容れたとして、それでも、人は、「『何がどのようであるかがはっきりしない』ことを『はっきりと』伝へる」必要性に迫られる場合もあるのではないか。 そのような場合、人は、どうすればよいのか。 あまり議論を長引かせても、私が何を伝へたいのか不明瞭となるだろうから、私の、現時点での暫定的な結論を先に述べよう。 それは、日本語としては、「弱(ジャク)」、「若(ニャク/ジャク)」、「柔(ニュウ/ジュウ)」、「乳(ニュウ)」、「日(ニチ/ジツ)」、「人(ニン/ジン)」、「譲(ジョウ)」などの漢字の音読みに対応するものとして取り込まれている、中国語の普通話のそり舌音の"r"に対応する「こゑ(声)」は、「弁別性が『やは(柔/軟)らぐ』こと」/「弁別性を『よは(弱)める』こと」をその作用/様態として想起させるように、英語を用ゐて記述するなら、"mellowing/yielding of distinctiveness"を作用/様態としてイメージさせるように「つか(使/仕/遣)は」れるのだろうとうことだ。 これは、先走って、別のところで書いてしまった >「あ(当)たり(例えば、「衝突」や「刺激」)をやはらげる(/よはめる)ような」 といったような表現で言ひ換へることもでき、印欧諸語における「こゑ(声)」の「つか(使/仕/遣)ひ方」を参照するなら、「発音」としてはまったく異なるものの、"to mellow"という表現にも見られる"mel-"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に似ていると言ふことができるだろうと私は思ふ。 >*mel- (1) Proto-Indo-European root meaning "soft," with derivatives referring to soft or softened materials. It forms all or part of: amblyopia; bland; blandish; blenny; emollient; enamel; malacia; malaxation; malt; melt; mild; Mildred; milt; moil; mollify; Mollusca; mollusk; mulch; mullein; mutton; schmaltz; smelt (v.); smelt (n.). It is the hypothetical source of/evidence for its existence is provided by: Sanskrit mrdh "to neglect," also "to be moist;" Greek malakos "soft," malthon "weakling;" Latin mollire "soften," mollis "soft;" Old Irish meldach "tender." (出典 etymonline.com/word/*mel-#etymonline_v_52691) >「そり舌音」とされる"r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」をイメージさせるのに最も妥当な日本語としての表記は(現時点の私の理解においてという限定付きで)、 「ぢ」だろうと思ふ。 私が、このように説明したのには、はっきりとした理由がある。 というのは、私には、中国語の漢字としては、そり舌音の"r"に対応しない、万葉仮名として「ぢ」の発音を表記するのに用ゐられる「泥」(例えば、「ひぢ」という古語を想起してみるいい)、「尼」なども、日本語としては、同様のイメージを想起させる「こゑ(声)」として「つか(使/仕/遣)は」れているように感じられるからである。 さらに、この「ぢ」は、「あぢきなし」、「あづきなし」、「あずきなし」などと様々に表記される「ぢ/づ」にも、また、「ゆだ(委)ね」と同根であるとされる「ゆづ(譲)る」の「づ」にも対応しているのだろうと私には感じられる。 >>950 次スレを立ててください。よろしくお願い致します。 oxytocin systemが激しい男女は女性脳 oxytocin systemが激しくない男女は男性脳 >>22 私に興味深く思われるのは、「任務」の「任(ニン)」、「壬申の乱」の「壬(ジン)」も、現代の中国語の普通話では、そり舌音の"r"として表記されることになる、「弱(ジャク)」、「若(ニャク/ジャク)」、「柔(ニュウ/ジュウ)」、「乳(ニュウ)」、「日(ニチ/ジツ)」、「人(ニン/ジン)」、「譲(ジョウ)」と共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に由来するだろうと見られることだ。 >任/壬 † Alternative form of 壬 (rén, “artful; fawning”) (出典 en.wiktionary.org/wiki/任) >壬 Aおもねる。へつらう。「壬人」 (出典 kanjipedia.jp/kanji/0003696300) 【壬人】シ゛ンシ゛ン - 広辞苑無料検索 学研漢和大字典 - Sora 【壬人】シ゛ンシ゛ン へつらい、おもねる人間。《類義語》佞人(ネイシ゛ン)。〔漢書・元帝〕 反社会的行動をしなくても能力が無くて滅ぶ人もいる 能力が有っても反社会的行動をして滅ぶ人もいる 善悪の道を突き詰めれば損得の道に至る 損得の道を突き詰めれば善悪の道に至る 日本語として「譲(ジョウ)」は、「ゆづ(譲)る」ということばの表記に用ゐられる漢字だが、これは、「讓」の新字体であり、中国語の普通話では、「让」という簡体字で表記されて、英語の"let 〜 do"(フランス語であれば《laisser 〜 faire》)、"allow 〜 to do"、"yield"に対応するように用ゐられる。 このことは、「任」という漢字が、中国語としても、日本語としても、 >(…に…するままに)任せる,させる. (出典 cjjc.weblio.jp/content/任) という意味で用ゐられることと無関係ではないだろう。 人に嫌われると損です。 人に好かれると得です。 損したい人は人に嫌われてください。 得したい人は人に好かれてください。 人に損させたい人はその人が人に嫌われるようにしてください。 人に得させたい人はその人が人に好かれるようにしてください。 悪行をすると損です。 善行をすると得です。 損したい人は悪行をしてください。 得したい人は善行をしてください。 人に損させたい人は人に悪行をさせてください。 人に得させたい人は人に善行をさせてください。 >>31 このようにして対応関係を確かめてみると、「让(讓)」に英語の"to allow; to let; to permit"が対応させられることからも分かるとおり、中国語としての「让(讓)」は、日本語の「〜『す』るままに『さ・せ』る」に対応して、日本語においては、「を(惜)し」の「〜し」などの形容の表現を形成するためにも一般に使はれ、やはり、英語の"to allow; to let"や"cause 〜 to 〜"に対応させることができる、一般に「使役」と関連付けられる「さ行」のこゑ(声)と似通った使はれ方をしていることが見えてくる。 ここで私は、「让(讓)」の中国語としての古い発声法が、そのような日本語の「さ行」の用法に流用されていると主張したいわけではない。 中国語としての「让(讓)」の用法は、その漢字が「ゆづ(譲)る」という日本語に対応させられていることからも確かめることができるとおり、日本語の「さ行」のこゑ(声)の用法とは異なり、「(掌握/にぎ(握)りを)ゆる(緩)める」ような様態を表現する英語の"to allow; to let; to permit"により近いのだろうと私は思ふ。 これに対して、「使役」という名称で呼ばれる日本語の「さ行」のこゑ(声)の用法は、同様に"to allow; to let"に対応させることができるものの、「(働く作用に)さは(障)り/さまた(妨)げが生じない様態」を伝へようとするものであると考へられる。 ところで、ここで、「让(讓)」/「ゆづ(譲)る」は、英語としては"concede"と訳すこともできるわけだが、"concede"は、語源的に次の通り説明されている。 >concede 1630年代、「譲歩する、譲り渡す」(他動詞)として使われ、フランス語のconcéderまたはラテン語のconcedereから直接、「道を譲る、譲歩する、離れる、引退する」という意味で、比喩的には「同意する、許可する、優先を認める」という意味です。ここではcon-が強意の接頭辞として使われているようです(con-を見てください)。その後に続くのはcedere「行く、許可する、譲る」という言葉で、これはPIEの語根*ked-「行く、譲る」と関連しています。 >ラテン語 cedere 「譲る、場所を与える、何かの権利や財産を放棄する」元々は「去る、進む、残す」; 古代教会スラブ語 chodu 「歩行、行進」、choditi 「行く」。 (出典 Online Etymology Dictionary) このように中国語の「让(讓)」、日本語の「さ行」のこゑ(声)の用法、英語の"to allow; to let; to permit"や"concede"を並べて見ると、それぞれの「『ことばの表現』としての論理」が、それを伝へるためにつか(使/仕/遣)はれるこゑ(声)の用法とともに、より明確に意識されることになるだろう。 見てのとおり、日本語の表記として旧仮名遣ひを用ゐることは、日本語の「こゑ(声)」を意識させることにより、他の言語との表現上の対応関係を見出すことを格段に容易にするのである。 中国語の「そり舌音」とされ、ピンインでは"r"により表記される「こゑ(声)」は、朝鮮語の場合には、日本語のカタカナで示すなら「や行」の発音として取り入れられていることが、「若(ニャク/ジャク)」、「柔(ニュウ/ジュウ)」、「乳(ニュウ)」、「日(ニチ/ジツ)」、「人(ニン/ジン)」、「譲(ジョウ)」、「任(ニン)」、「軟(ナン)」などの漢字が朝鮮語でどのように読まれるかをWiktionaryで参照すると、すぐに確かめることができる。 ただし、日本語の場合にもそうであるとおり、"yi"と"i"の区別は認識されないので、日本語では「人(ニン/ジン)」と読まれる「人」は、「人(인/in)」となり、「任(ニン)」は、「任(임/im)」となる。 人類が生産性を追求するのは人類が繁殖するためだが、そもそも人類は繁殖する必要があるか?人類は地球に必要か? 自由意志が無いことを自由意志で確信する矛盾 正しいと信じて間違ったことをした人には後悔する権利が有るが、間違っていると自覚して間違っていることをした人に後悔する権利など無く、まして後悔しているなどと言えば天罰が下るだろう。 正しいと思うことではなく正しいことをしなさい。 間違っていると思うことではなく間違っていることをやめなさい。 馬鹿な人が馬鹿なことをしているのではなく、価値観が違う人が価値観が違うことをしているのだ。法律を守る人から見れば犯罪者は馬鹿に見えるし、犯罪者から見れば法律を守る人は馬鹿に見える。しかし、実際には法律を守る人と犯罪者は価値観が違うのだ。世間体や承認欲求、愛されたい願望の有無がその違いであろう。そのどちらも合理的なのだ。出生主義者の労働者は繁殖のための労働生産性を神聖視し、ヒキニートを穀潰しだと罵る。反出生主義者のヒキニートは繁殖のための労働生産性を蔑視し、労働者を奴隷だと罵る。そのどちらも合理的なのだ。 全ての人が合理的。全ての生物が合理的。 有功無罪の人ですら無賞有罰なのに、無功有罪の人が有賞無罰だと本気で思っていたのですか?それはもう貴方悪く無いです。脳の障害でしょうね。 生命現象は自然現象だと知りながらこんな人生を歩めるとは君は凄いな。無能という言葉では到底説明がつかない。確実に阿鼻地獄に堕ちる天賦の才能を持っているとしか思えない。 地獄を先延ばしにしても意味無いよ。マジで。 肉食は悪だと言って肉食獣の肉食を禁止することは善か?過ぎたるは及ばざるが如し。道徳的過ぎるとかえって道徳的でなくなる。 承認欲求が有る人が人類に支配される。 承認欲求が無い人が人類を支配する。 人類は何を望むのか? 人類は何を望まないのか? 人類は何ができるのか? 人類は何ができないのか? 人類は何をするのか? 人類は何をしないのか? 地球はどうなるのか? 地球はどうならないのか? 人類が罪を犯せば犯すほど相対的に俺は罪を犯さなかったことになる。 世界一の悪人の世界一の悪行 世界一の善人の世界一の善行 世界一の罪への世界一の罰 世界一の功への世界一の賞 世界一不幸な人の世界一の不幸 世界一幸せな人の世界一の幸せ MSゴースト1話見てみた 日本一ウヨアニメだった 日本すごいすごい言いすぎだろこれぇ! 有功無罪の者が人類の主人 無功有罪の者が人類の奴隷 人類の功罪に人類が賞罰を行う 人類が人類の主人。人類が人類の奴隷。 一般に通用させるべく「規範」として示される「言葉」は、「ことばの表現」としてのはっきりしない「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を、あらかじめ明確に規定された「発音」として示そうとする。 しかし、ここで、次のように問ふことができるはずである。 一般にその意味が通用する「言葉」として明確に規定された「発音」と、なにかをどのようにか伝へようとする「『ことば』の表現」としての「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、どちらが先なのか。 ここで、これは、前スレでも議論してきたのと同じ問題の変奏であることに気づくことになるだろう。 「言葉の『可塑性』/"plasticity"」ということに関して云えば、発せられるこゑ(声)がそれに合はせるように「成形される」/"to be mold"べきであるとされる規範として与へられる「正しい発音」/"the right pronunciation"とされる「型」/「the mold」と、伝へようとすることがただ(正/只)しく伝はるようにこゑ(声)を「成形する」/"to mold"ことを可能にするこゑ(声)の「可塑性」/"plasticity"、したがって、「ことばの表現」としての「柔軟性」/"flexibility"とでは、どちらが先なのだろう。 まず先に「型」/「the mold」としての「正しい発音」/"the right pronunciation"があ(或/在/有)るのではなく、こゑ(声)を「調整する」/"to adjust"(「ア『ジャ/ヂャ』スト」)ことによ(依)って「ことばの表現」が相手に伝へたいことをただ(正/只)しく伝へるようになったと感じられるとき、それが「ちょうど良い」/"just"(「『ジャ/ヂャ』スト」)こゑ(声)の出し方であるという意味で「正しい発音」/"the right pronunciation"とされるのではないか。 >中国語の普通話のそり舌音の"r"に対応する「こゑ(声)」は、「弁別性が『やは(柔/軟)らぐ』こと」/「弁別性を『よは(弱)める』こと」をその作用/様態として想起させるように、英語を用ゐて記述するなら、"mellowing/yielding of distinctiveness"を作用/様態としてイメージさせるように「つか(使/仕/遣)は」れるのだろうとうことだ。 このように指摘するとき、私は、言語の研究を専門とする人にしか通じないようななにか複雑で難しいことを言おうとしているのではない。 そもそも、私自身が、言語の研究の専門家ではなく、何らかの専門的な研究者ですらない。 私がここで言おうとしてるのは、日本語で考えてみれば、誰にとっても当たり前すぎるほど簡単なことだ。 エアコンのスイッチで「強(キョウ)/弱(ジャク)」を調整するときの「弱(『ジャ/ヂャ』ク)」、若干(『ジャッ/ヂャッ』カン)の『ジャッ/ヂャッ』、若年層(『ジャ/ヂャ』クネンソウ))の「『ジャ/ヂャ』ク」は、日本語として用ゐられるこゑ(声)としての、何らかの際立つ特徴を「やはらげ」る/「よはめ」る働きの様態を想起させるのではないか。 「『では』、そうしましょう」と言ふ場合と、「『じゃ(/ぢゃ)あ』そうしましょう」と言う場合を比べて見たとき、「では」よりも「じゃ(/ぢや)あ」の方が「譲歩の」、つまり、相手に「ゆづ(譲)る」という意味合ひを強く意識させるのではないか。 誤:「じゃ(/ぢや)あ」 正:「じゃ(/ぢゃ)あ」 このように複数の言語において、中国語の普通話のそり舌音として"r"という文字で表記される「こゑ(声)」に対応する/類似する「こゑ(声)」の使はれ方を参照してみても、中国語のピンインにおいてこの「こゑ(声)」を表記するのに"r"を当てたことが、いかに奇妙な選択であるかが分かる。 孤立とは友達がいないこと。孤独とは本当の友達がいないこと。 人間性をcoverできる能力はあるか? 能力をcoverできる人間性はあるか? 人類は地球で最も知能が高い動物だ。 間違っていると分からずに間違ったことをするのは明らかに知的障害だ。間違っていると分かった上で間違ったことをするのはさらなる知的障害だ。 人類は正しいことをすることができるか?それなら正しいことをしろ。 人類は間違ったことをしないことができるか?それなら間違ったことをするな。 ふざけているように見えるだろう。あれ、本気でやってるんだよ。ただの知障さ。 宇宙や意識が何故存在するか説明できないくせに唯物論者を自称するのはただの知的障害者 これは天命即ち自然現象だと心から思えるといいな。 正しい自然現象や間違っている自然現象はあるか? 動物は正しいことや間違っていることをするか? 人は正しいことや間違っていることをするか? 肉食獣を肯定すると草食獣を否定することになるのか? 肉食獣を否定すると草食獣を肯定することになるのか? 草食獣を肯定すると肉食獣を否定することになるのか? 草食獣を否定すると肉食獣を肯定することになるのか? 枢軸国を否定すると連合国を肯定することになるのか? 枢軸国を肯定すると連合国を否定することになるのか? 連合国を否定すると枢軸国を肯定することになるのか? 連合国を肯定すると枢軸国を否定することになるのか? 善人は正当なことを正当化し不当なことを不当化する 悪人は正当なことを不当化し不当なことを正当化する 人類が何と言おうと、人間の行動は生命現象だし、生命現象は自然現象だ。 知性が足りないのは論外だが、品性が足りないのも論外だ。 自動的にテーゼが出てアンチテーゼが出てジンテーゼが出るようになった。 これで俺は自動的に悟りに近付いていくから安心。 人類が自由意志は有ると言えば自由意志は有るのか? 人類が自由意志は無いと言えば自由意志は無いのか? 歴史を変えられなくとも歴史観は変えられる 世界を変えられなくとも世界観は変えられる 人間を変えられなくとも人間観は変えられる 未来を変えられなくとも未来観は変えられる また、不明な書込み規制のようだな。 ことばとしてつかはれるこゑなんて、一見すると政治にはまるで無関係のように思はれることについて書いているが、それがどのようにか極めて不都合であるということ。 一方で言葉遣ひがきびしく規制されて常時監視の対象とされ、他方でこの掲示板に見られるとおり、著しく不快で病的な広告を絶えず押し付けられる。 そして、その広がりが軌を一にしていることから、その背後でそれを推進しているのが同じ人々であることが分かる。 自ら天災人災に飛び込んで天災人災の被害を受けたと文句を言う愚かさは異常 人に好かれることは損でしょうか? 人に嫌われることは得でしょうか? 人を幸せにすることは損でしょうか? 人を不幸にすることは得でしょうか? 人を快くさせることは損でしょうか? 人を不快にさせることは得でしょうか? 人類に子作りの義務は無い。子作りの義務など迷信だ。 善人が幸せになり悪人が不幸になるわけではない。 善人が不幸になり悪人が幸せになるわけではない。 善行をするのでもなく悪行をするのでもなく正しいことをしろ。 善行をしないのでもなく悪行をしないのでもなく間違っていることをするな。 善行であろうと悪行であろうと正しいことをしろ。 善行であろうと悪行であろうと間違っていることをするな。 善行だから正しいわけではない。 正しいから善行であるわけではない。 悪行だから間違っているわけではない。 間違っているから悪行であるわけではない。 悪行だからと言って正しいことをしなかったり善行だからと言って間違っていることをする人達の未来がどうなるかは言うまでもありません。 悪行だからと言ってすべきことをしなかったり善行だからと言ってしないべきことをする人の未来がどうなるかは言うまでもありません。お察しの通りです。 源氏平氏奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされたのは強いからだ。大日本帝国が原子爆弾を落とされたのは有色人種のくせに列強だからだ。強いことがいいことで弱いことが悪いことなのではない。強さや有能さや美貌の持ち主は脅威と見られて潰されることもある。優れることがいいことで劣ることが悪いことなのではない。恐竜は最強だが巨体のために餌が不足して滅び、弱小の哺乳類が恐竜から天下を奪ったという説もある。上がいい下が悪いというものではない。原子爆弾投下の前に死んだ人は原子爆弾で焼き殺されることは無かったので、生存することがいいことで死亡することが悪いことなのではない。妻子が有れば妻子のことで悩む。妻子が有ることが幸せで妻子が無いことが不幸なのではない。 生物を正しく評価できない人が人類を正しく評価できるのか? 人類を正しく評価できない人が自分を正しく評価できるのか? 人に迷惑をかけてはいけないように、人以外の生物にも迷惑をかけてはいけない。 善人は善意で動く。悪人は悪意で動く。それを利用しろ。 宇宙や意識が何故存在するのかを充分に説明できない唯物論という迷信を本気で事実だと確信している頭の悪い人の愚かさは異常 唯物論者の問題点は、宇宙や意識が何故存在するのかを充分に説明できていないことである。彼らは宇宙や意識が何故存在するのかという最も大事な問題から目を背け、思考停止して唯物論を信仰している。まさにカルト宗教信者そのものである。 宇宙や意識が何故存在するのかを充分に説明できない唯物論を信じる人はrealistではない。 強大な恐竜が滅び弱小の哺乳類が生き残る、頭の良い高学歴女性よりおバカな女性がモテる、源氏平氏奥州藤原氏が強大であるが故に源頼朝に滅ぼされるなど、優れている者が淘汰される現象を逆淘汰と呼ぶ。 地球を不幸にするのは得ですか? 地球を幸せにするのは損ですか? 生きとし生けるものを不幸にするのは得ですか? 生きとし生けるものを幸せにするのは損ですか? 地球を不幸にするな 地球を幸せにしろ 生きとし生けるものを不幸にするな 生きとし生けるものを幸せにしろ 人間が絶滅するのが1番手っ取り早く地球が幸せになれそう まともな人間は繁殖なんて愚かなことはしない。繁殖する人間は獣同然だ。 人類は猿。人類のボスはボス猿。 人を殺してはいけないが熊は殺してもいい。それが人類の倫理観だ。 馬鹿は善良ではなく、善良は馬鹿ではない。 現実を見ない正義マンより薄っぺらい人を私は見たことがない。 現実を見ない正義マンは現実を見る正義マンになるべきだが、正義マンだけやめて現実を見ないことはあくまで維持する人は何なのだろうか? 善人が悪人に謝罪・反省・贖罪をさせるのではなく、勝者が敗者に謝罪・反省・贖罪をさせるのだ。 悪人が善人に謝罪・反省・贖罪をさせられるのではなく、敗者が勝者に謝罪・反省・贖罪をさせられるのだ。 勝者が善人 敗者が悪人 不幸にならないための全ての努力と幸せになるための全ての努力はしばしば無駄になる。不幸にならないための努力も幸せになるための努力も一切しなければ、一切しない努力が無駄になることは有り得ない。努力を一切無駄にしたくなければ努力を一切するな。 努力とは自然現象即ち天命への抵抗である。そんなことはやめろ。 腐っている腐乱死体は不潔だが、腐乱死体が腐り果てて骸骨になれば清潔に戻る。 善行をするな。善など無い。 悪行をしろ。悪など無い。 信念を持たずに人類に迎合するのも一つの信念だ。それが損得又は善悪の意味で正しいという確信である。 上級国民は上級国民同士で争うし、下級国民は下級国民同士で争う。 大国は大国同士で争うし、小国は小国同士で争う。 強者は強者同士で争うし、弱者は弱者同士で争う。 上の者同士で争う。下の者同士で争う。 優れている者同士で争う。劣る者同士で争う。 皇族同士で争う。貴族同士で争う。武士同士で争う。百姓同士で争う。奴隷同士で争う。 美男美女同士で争う。醜男醜女同士で争う。 自分のことしか考えない唯自分論 人類のことしか考えない唯人論 生物のことしか考えない唯生物論 無生物のことしか考えない唯物論 私の死体は私か? 私の死体は私ではないのか? 私の遺骨は私か? 私の遺骨は私ではないのか? 土に還った私の遺骨は私か? 土に還った私の遺骨は私ではないのか? 土に還って植物に吸収された私の遺骨は私か? 土に還って植物に吸収された私の遺骨は私ではないのか? 土に還って植物に吸収されて草食動物に食べられた私の遺骨は私か? 土に還って植物に吸収されて草食動物に食べられた私の遺骨は私ではないのか? 土に還って植物に吸収されて草食動物に食べられて人に食べられた私の遺骨は私か? 土に還って植物に吸収されて草食動物に食べられて人に食べられた私の遺骨は私ではないのか? 寄らば大樹の陰だ。枯木倒木は甲虫にでも食わせておけ。 死んで土に還ったら養分でしかない。社会的に死んで社会的に土に還った場合も他人の養分でしかない。 地球に定着できる強さが無い真善美は生まれた瞬間に死ぬ いかに清らかな魂でも地球に定着できないなら地球を去れ 唯物論には賞罰を肯定する根拠も否定する根拠も無く、賞罰を肯定することも否定することもできない。 唯物論は賞罰を否定することができない。賞罰を否定するのは賞罰を悪と断じる倫理であり、倫理を否定する唯物論は賞罰を悪と断じる倫理を否定するため、賞罰を悪と断じることができず、賞罰を否定することができない。賞罰を否定するには賞罰を悪と断じる倫理が必要となり、倫理を否定する唯物論はその倫理を提供することができない。 人類は地球で最も知能が高いだけで、決して知能が高いわけではない。人類が地球環境破壊などの愚かなことをしているのに知的生命体を自称するのは自分達が知的でないことを自覚できないほどに知性が乏しいからだ。 正しい賞罰もあろうが間違っている賞罰もあろう。だから革命が起きるのだ。 醜男醜女が努力で美男美女になれるか? 無能が努力で有能になれるか? 悪人が努力で善人になれるか? 醜男醜女は醜男醜女遺伝子によるものだ。努力で美男美女にはなれない。 無能は無能遺伝子によるものだ。努力で有能にはなれない。 悪人は悪人遺伝子によるものだ。努力で善人にはなれない。 御花畑さんの非現実的な善は悪であり、realistの現実的な悪は善である。 realistでない善人は不幸を作るから結果的に悪人 realistである悪人は幸せを作るから結果的に善人 聖人の模倣でもなく反社の模倣でもなく人類の模倣をしろ。生きとし生けるものの模倣をしろ。地球の模倣をしろ。宇宙の模倣をしろ。 法律を守る悪人は合法反社だ。 幼稚は悪だと言う人は自尊心のために幼稚な行動を我慢していて、欲望のままに幼稚な振る舞いをする人に嫉妬しているのだ。それで幼稚な人にmoral harassmentをして攻撃するのだ。本当はただ性格が悪いだけなのにその自覚が無くむしろ自分は聖人君子だと確信しているのだから本当にタチが悪い。本当はそういう客観視の欠如こそ真の意味で幼稚なのだがな。 幼稚な行動を我慢するから幼稚な人に嫉妬して幼稚な人に怒るのだ。幼稚な行動を我慢するのをやめればいいのに。 人はやりたくない幼稚な行動を笑い、やりたい幼稚な行動に怒る。 本当に幼稚な相手には可愛くて笑ってしまうものだ。幼稚な相手に怒りを感じるなら貴方はその幼稚な行動に嫉妬しているということであり、貴方の本心も幼稚なのだ。 人は欲しい物を受け取る。 人は欲しくない物を受け取らない。 会社は欲しい人材を採用する。 会社は欲しくない人材を採用しない。 自他の望みが合致すればtroubleは起きない。 自他の望みが対立すればtroubleが起こる。 もっと不幸な奴がいるだと?お前をそれにしてやろうか? 自己責任論者の自由人は自己責任論の奴隷 自己責任論者でない奴隷は自己責任論から解放されている自由人 自由意志は無いと心から思えなければ心から生命現象自然現象説を信じて心から天命即ち自然現象に帰依することはできない。南無自然現象。 自分は悪人だと心から思えなければ心から阿弥陀仏に帰依することはできない。南無阿弥陀仏。 聖人の模倣でもなく反社の模倣でもなく人類の模倣をしろ。生きとし生けるものの模倣をしろ。地球の模倣をしろ。宇宙の模倣をしろ。無生物の模倣をしろ。 得は善ではない。損は悪ではない。 善は得ではない。悪は損ではない。 人類の悪事に激怒するか? 人類の大損を嘲笑するか? 人生はトロッコ問題だ。罪を犯すことを免れたり罰を受けることを免れることはできないが、いかなる罪を犯していかなる罰を受けるかはある程度自分で選べる。戦争に参加して戦犯になるも良し。戦争に反対して非国民になるも良し。無責任に自殺してこの世から逃げるも良し。何らかの罪を犯し、何らかの罰を受けるのだ。どうするかは自分で選べ。 言うまでもなく当然のことだが、悟りを得た所で不幸を避けることなど到底不可能だ。しかし、悟りを失えばただでさえ不幸な人生をさらに不幸にする。 prideを持つとかprideを捨てるとかではなく、何にprideを持つかがその人の人格や人間性である。 prideを持つ人間など、損得に拘る自己愛性人格か善悪に拘る境界性人格のどちらかしかいない。 面接で落ちる人は入社後について行けない人だから面接で落ちても何も落胆することはない。反論ある? 私に対する全てのアンチテーゼに私はジンテーゼを与えよう。 君は今日死ぬかも知れないのだから、今日やるべきことは今日やりなさい。 幸せな人にとって地球は天国だし、不幸な人にとって地球は地獄だ。つまり、天国も地獄も地球だ。 因果応報とは自然現象のことだ。倫理道徳の話ではない。 人に金を与えれば人は喜ぶ。それは善因善果ではなく自然現象だ。 人から金を奪えば人は怒る。それは悪因悪果ではなく自然現象だ。 真の虚無主義者は虚無主義をも否定する。 人のせいでないことを人のせいにする幼児性全能感は学習性無力感によって克服される。人は学習性無力感によって人のせいでないことを人のせいにするのをやめる。 就活も婚活も不採用通知か来た瞬間に次に当たれ。熾烈な就活競争婚活競争の最中にクヨクヨする時間的余裕は無い。 人気企業への就職は極上美女との結婚と同じだ。少しは現実を見ろ。 motivationとは執着心のことである。執着心が有ればmotivationを下げることはできない。執着心が無ければmotivationを上げることはできない。 生命現象は自然現象だと言われてそれでもなお納得できないことが貴方のやるべきことだ。 自由意志が無いのに自分や未来を変えられるわけがないだろう。アホか。 嫌いなことをして好かれるか? 好きなことをして嫌われるか? 好きだから善意を持つ 嫌いだから悪意を持つ 自身の教師とすべき人を自身の教師とせよ 自身の反面教師とすべき人を自身の反面教師とせよ 悟れども 悟り尽くせぬ 世の事を 悟る意欲も 湧かぬと悟る アルコール依存症や薬物依存症や性依存症や犯罪者など欲望によって身を滅ぼす者は欲望の奴隷であろう。 read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる