仏教哲学総合スレ8
騙しのテクと考えれば読めるよ わりとマニュアルっぽいからな 仏教は何でも知っている 仏教が知らないことは無い あまつさえ量子論だろうが不確定性原理だろうが11次元だろうが何でも説明してしまう 現世の生き方だろうが死後の世界だろうが全て事細かに説明してしまう それが仏教なのだ 道元「現成公案」 <原文> “仏道をならふといふは、自己をならふ也。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。” <訳文> “仏道をならうとは、自己をならうことである。 自己をならうとは、自己を忘れることである。 自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。 よろずのことどもに教えられるとは、自己の身心をも他己の身心をも脱ぎ捨てることである。” ― 『正法眼蔵 全8巻』 増谷文雄、講談社学術文庫 (2004) p44-45 “仏教的真理を学ぶということは、自分自身を学ぶということであり、 自分自身を学ぶということは、自分自身を意識しなくなることである。 <また>自分自身を意識しなくなるということは、自分自身が宇宙によって体験させられることである。 <そして>自分自身が宇宙によって体験させられるとは、 自己の身心すなわち主観と、他己の身心すなわち客観とから主観とか客観とかいう意識を脱落させることである。” ― 『現代語訳 正法眼蔵 全13巻』 西嶋和夫、仏教社 (1978) p86 “仏道を習うということは、自分を習うということである。 自分を習うということは、自分を忘れることである。 自分を忘れるということは、対象の側から照らし出されることである。 対象の側から照らし出されるとは、自分の身心と他人の身心との間に対立がなくなることである。” ― 『正法眼蔵:全巻現代訳 上・下』 高橋賢陳、理想社 (1971) p10-11 “仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。 自己を学ぶということは自己を忘れることである。 自己を忘れるということは、無我になることである。 無我になると、体験の世界と一つになって他と対立しない解脱の自己を会得することができる。” ― 『全訳正法眼蔵 全4巻』 中村宗一、誠信書房 (1971) p2 “仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。 自己とは何かを問うのは、自己を忘れることである、答えを自己のなかに求めないことだ。 すべての現象のなかに自己を証(あか)すのだ。 自己とはもろもろの事物のなかに在ってはじめてその存在を知るものである。 覚りとは、自己および自己を認識する己れをも脱落させて真の自己を無辺際な真理のなかに証すことである。” ― 『現代文訳正法眼蔵 全5巻』 石井恭二、河出文庫 (2004) p23 “仏道をならう(修行する)というのは自己をならう(修行する)ことである。 自己を修行するというのは、自己が(諸法ばかり、万法ばかりになって、) 自己を忘れることである。 そういう自己を忘れるということは、万法から(自己が)実証されることである。 万法から実証されるということは、自己の身心および他己(わたしの中にある他人)の身心が 自分のものでないことを徹底させるのである。” ― 『正法眼蔵 全4巻』 水野弥穂子、岩波書店 (1990) p51 “仏道を習うということは、自己を習うことである。 自己を習うということは、自己を忘れることである。 自己を忘れるということは、環境世界に実証されることである。 環境世界に実証されるということは、自己の身心も他己の身心も、脱落して果てることである。” ― 『正法眼蔵:現代語訳 全6巻』 玉城康四郎、大蔵出版 (1993) p96 “仏道をならうことは、自己をならうことだ。 自己をならうことは、自己を忘れることだ。 自己を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。 宇宙の真理に目覚めさせられることは、自分の身心と他人の身心を脱落させることである。” ― 『すらすら読める 正法眼蔵』 ひろさちや、講談社 (2007) p65-66 >>670 ニーチェが言ったことは神の言葉だとでも思ってんのか? ニーチェ宗教は出てくんなよ >>738-740 増谷 第1巻 西嶋 第1巻 高橋 上巻 中村 第1巻 石井 第1巻 水野 第1巻 玉城 第1巻 西田も引用している>>738 の一節が、どういう哲学モデルなのか理解できないと、 西田も読んでいるうちには入らない。 西田は道元の直系。 ラカンがフロイトを、 アルチュセールがマルクスを、 それぞれ読み直したように。 『方便心論』の還元サンスクリット訳と解説を載せた本を出したいから、君たち俺に金を恵んでくれ 「無我」は自己でも他者でも無いような定義をしていない無定義用語(述語)に近いのかな すべての言葉が無定義用語なんだわ。それぞれの言葉の関係性にこそ意味があるのであり、話す言葉を全てカッチリと「定義する」としたら言葉と言葉の関係性が失われて自分でも自分が何を言ってるのか分からなくなってくる。 論理学の要素すら成立しない言葉遊びが仏教というもの 適当な敷衍に効果があるのみ😌 >>753 ギリシア哲学とインド哲学、どちらが古いか論理的に説明できる? 「言葉遊び」や「仏教」「論理学」、どれも言葉を曖昧にして使う言葉遊びなのじゃ 曖昧な言葉が嫌いなら仏教スレになど来ずに記号論理学スレを立てれ 2500年前のゴータマ・シッダールタと言う人が語った哲学たるものは、2000年以上経って姿が変わっているのは、当たり前。 2000年以上前にピタゴラスという人が語ったと言われる「ピタゴラスの定理」は 、2000年以上経った今、変わっているだろうか? そこからの発展はあっても、定理の正しさに変わりはない。 むしろ葬式坊主のせいで仏教を知る機会が奪われてるよな 文字を重視するようになるのも木魚を叩くようになるのも仏典解釈の一つ >>738 商売をならうとは、商売を忘れることである 商売を忘れるとは、見えざる手(市場)に教えられることである 松下幸之助 死を思う時に結局何がしたいのかがわからなくなってなんで死を思ってんのかもわからなくなる、このまま死ぬのが不安でもあるしどうでもよくもなる どうすればいいの >>765 出典は? >>766 人生相談は心と宗教板で 智慧によって、無常である。苦である。と見る。 今すべき事をただやりましょう インド論理学とギリシア論理学 ジレンマ(dilemma) - 対立する2つの間に立つこと トリレンマ(trilemma) - 対立する3つの間に立つこと テトラレンマ(tetralemma) - 対立する4つの間に立つこと ◇四句分別(テトラレンマ、四句否定) 1 肯定 (Aである) 2 否定 (Aではない) 3 肯定かつ否定 (Aであり且つAではない)(両是) 4 肯定でも否定でもない (AであるのでもなくAでないのでもない)(両否) 西洋の論理学 ヨーロッパ的論理の基盤であるアリストテレスの俳中律は、 曖昧で中間的な判断を排し>>766 の1と2に収斂させて二元論とすることで 明晰な論理空間を構築した。 ・パルメニデス「有るものは有る。無いものは無い」 ・旧約聖書「無からの(有の)創造」 以降、西洋思想は、「存在と無(有と無)」(サルトル)を土台としてきたが、 現在では、その鋭利すぎる論理が落としてしまったものの回復が求めらることがある。 (ex.「二大政党制の限界」、「ファジィ」など) 東洋の論理学 ところが、仏教の「空」は「非有非無」(有るのでもなく無いのでもない)と定義される。 つまり、仏教や東洋の論理学は、西洋が二千数百年の間、問題にしてこなかった論理空間を扱ってきた。 ・「そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。」(リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129)) ・空の定義「非有非無」(有るのでもなく無いのでもない) ・「不一不異」(同一でもなく差異があるのでもない) ・イスラムの「タウヒード(一性)」(言語や民族の多様な差異を認めながら、一つにまとまろうとする) ・解脱の段階の一つ「非想非非想処」(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地) >>759 メイヤスーは、数学的形式主義における「空記号」のあり方に注目した。 数学は二千数百年かけて、仏教に追いつこうとしている。 “私が関心を抱いていてなおかつ議論するつもりのタイプ、すなわち純粋形式の下にあるタイプ、つまりは意味の空虚な記号のタイプを識別するために、新語を提起しておく。 空虚な記号のこうしたタイプを ―「空虚」を意味するギリシャ語の形容詞kenosに基づいて― ケノタイプと呼ぼう。” ― カンタン・メイヤスー 「反復・重復・再演 意味を欠いた記号の思弁的分析」『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』 cf.「ケノーシス」>>663-664 今やっているのは、>>769-772 の射程で、 道元の「現成公案」や西田を読み直すこと。 >>767 ごめんごめん PHPの損得考えずやるもの(成功するとして考える)という考えの敷衍でした 西田の公案は科学(背景にマルクスを含む)にあると思う。1つの違いは『矛盾』を認め『流れ』の理解をしている。道元は『あるがまま』であって構成に意味を置かない点が仏教的ではある 哲学の公案として見れば後者の可能性だろうし、ここに言語哲学の公案が可能になるのではないか。即ち認識とは個物のイメージであるかそれとも観念の分有であるかというものだが >>766 「ブッダという男」っていう本を読む限り釈迦が輪廻を説いたのは確実みたいだし 自己存在が無になる不安というのはないかな オレはね 釈尊が輪廻を説いたというか、当時の一般常識だし そこから解脱するために思惟しまくったわけで 仏教はカントールだろうが現代数学だろうが理論物理学だろうが何でも 常に先取りしていたすごい「教え」だと言えてしまうんよ そこが味噌なんですよ また科学者とやらも科学者ってだけであって哲学者じゃあないんで いささか仏教に結び付けて深遠に語ってしまうっつうのもよくあるパターンではある 輪廻がないと仏教は成り立たないだろ 苦しみから逃れるには死ねば解決という自殺教になる >>766 >>768 自然の中で生きている命は体が動くうちは働いて、動かなくなったら風に任せて消えていくよ 人間も社会の中で麻痺してるけど同じだよ、気張らずにのらりくらりと生きてりゃいいよ 八正道とか十善戒ってわかりやすい指針だけもって居られれば平和に過ごせる こねくりまわして、わけわかんなくなるよりも、 八正道を「正しく」実行していきゃいいんだよ。 農業とか苦痛なことしないで人生を楽にお布施で生きてゆくというお坊さんシステムを生んだ仏教は良い意味で偉いと思うよ 心は、ただ無念という念あり、 これをゴータマ・シッダールタは、「清浄なる境地」と呼んだ。 たしかに、これは「人間の生きている世界」から隔離されたものだ。 一般人からここに登る階段を、ゴータマ・シッダールタは、「言葉」で、「八正道」として残してくれた。 >>785 マンガ読んだり小説、映画、テレビは十善戒では不綺語に抵触するんだが 八正道は「瞑想しなさい」だし 仏教を自己啓発本の代わりには出来ない 普通の会社員だけど、平日は睡眠を削って三時間座禅している。 土日は十時間座禅している。 始めて1年半。まだまだだ。 >>792 座禅というより瞑想と言ったほうがよいかも知れない。 ヴィパッサナーの座る瞑想と歩く瞑想が主。 本はあまり読まない。 Sayadaw Jotikaの「A map of the Journey」ぐらい。50回は読んだ。 ウ・ジョーティカ長老のはちと難解だな 文学的で美しくはあるんだが >>793 これまでに十数度「これがそれか?!」という体験をしたことがある。 しかし一人でやってる瞑想では「変性意識の罠」に注意している。 で、いずれの場合も、それではなかった。 案外ととのいつつあるやつ多いんだな おれはサウナで体験したよ a map of journeyって、ググったら無料で読めるんだな。 いい本なん? 英文だけど気合い入れて読もうかな >>798 魚川祐司氏の邦訳もある。同じく無料。 オレはもっぱら英文を読んでいる。 >>738 の用語の補足 現成=眼前に現れること 万法=諸法、万物、宇宙 証する=気づく。悟る。真理を体得する 自己=自分自身 他己=自己以外の存在 身心脱落=道元の用語。禅を通じて自我意識やあらゆるこだわりをなくして、真理の世界に溶け込んでいくこと >>775 道元のこの「現成公案」にみられる哲学モデルは、マルクスやソシュールと同じ。 彼らが構造主義に数えられるのはどの点においてだったか、ということ。 >>728 > その点、空海の教えは難解だが理解できないわけではない > 龍樹も分かる > 道元だけは何を言いたいのか本当に理解できない 空海にははっきりと形而上学をやっているという意識があるし、 龍樹は哲学的。 道元は、ブッダと同様、形而上学を忌避しているし、 大文字の「悟り」や「真理」というのを認めず、 生活のあらゆるプロセスが修行であり、悟りの契機であるとしている。 >>799 邦訳あるんだな。 でも英文も平易だし英文読んでみるわ 日常生活になんてのには全く意味を認めませんよ 仏教とはそういう世界 この世は仮象でありこの世などに意味は無い 「意味がない」とはどういう意味で用いてる言葉なのか… 輪廻を断ったら、この世しか残らない。 この世 = 涅槃 >>806 比較としてですよ方法論としての比較です 意味とは何かという本質は無いと考えます ウィトゲンシュタインの類似性の敷衍です 涅槃というのは「ニュートラル」な境位である。 私の体験では、つらいことがあって「ダウン」した際に、幸せを目指して「ニュートラル」な境位にたどり着いたというもの。 私の知り合いも「涅槃はニュートラルですよ」と話していた。 >>798-803 「Google 翻訳」知らんの? 戦国時代の末期に、日本の巨大仏寺建築の為に、日本中の杉や檜の巨木をほぼ刈り尽くしてしまったのは もったいないことだった。今でいうsustainable持続可能な、という思想とは程遠かった訳だ。 現代の全国の名刹は文化財の保管場所として面目を保っているが、果たしてそのような価値はあるのか? 単に、日本中の名木を刈り尽くしてしまったことの言い訳に過ぎないのではないか? 別に仏寺だけじゃないでしょ イギリスなんかも元は森林だったところが、伐採しつくして平原やハゲ山になっている。 >>809 安心は無を受け入れるところにある。 喜びや快楽を求めることがつねに不幸に終わるのは、それらが有だからだ。 有は滅びる。有は空しい。 苦しみがなく、喜びがない、それが到達点だと 自然界など弱肉強食の世界であり 決して良い世界では無い救いの無い獣の世界だ 自然環境など保全する必要など無い 道元が構造主義なら『あるがまま』を否定する構造の中に『あるがまま』の意味を見出だしているのが、『流れ』の要素還元に留まるだろう それは何故かと公案するなら『仏教』だからだ >>801 関係主義 - wiki https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E4%BF%82%E4%B8%BB%E7%BE%A9 存在を関係性の中の結節点(ノード)として捉える発想・主張のこと。 存在が独立的・自立的に存在していると捉える実体論(substantialism)、素朴実在論(素朴実体論)と対照を成す。 仏教 仏教は、存在・認識の「縁起」をその中核に据えた、徹底した関係主義的思想・宗教として知られる。 (例:道元「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」) 哲学 ソシュールのシニフィアンとシニフィエ(記号と意味内容)の対応関係に関する考察は、 言語学に関係主義的発想をもたらした。 (例:馬の意味は、犬、猫、牛などからの差異によって規定される) ※このページにはないが マルクスの価値形態論 。商品の価値は他の商品の使用価値との関係でしか表現できないというメカニズム。 (例:上着の価値は、茶、コーヒー、小麦、金、鉄などからの差異によって規定される) その他、 ベルタランフィの一般システム理論。要素還元主義の逆。 オートポイエーシス。主体なきシステム論。 >>810 Google翻訳ではちょっと厳しいものがある。 そもそも、この本の英文は非常に簡明なので、 ほとんどの文章は英文のままで理解できるけど。 試しにある文を翻訳してみた。 ChatGPTはさすがだな。でも、魚川祐司訳が一番。 【Google翻訳】 「偉大な道は難しいものではない こだわりのない人のために」 〜禅の第 3 祖先セントゥサン著「シンシンミン」 【DeepL翻訳】 「大いなる道は難しくない 好みのない者にとって ~仙桃山第三世禅師による「興心明 【ChatGPT翻訳】 「偏見のない者にとって、偉大なる道は難解ではない。」 〜三祖仏法慧海心心銘(ひっしんめい)より、僧祐・禅の第三代祖師 【魚川祐司訳】 「選り好みをしない人たちにとって 偉大なる道は難しいものではない」 (至道無難 唯嫌揀択) ~禅宗第三祖・僧璨『信心銘』 【本文】 “The great way is not difficult for those who have no preferences” ~Hsin-hsin Ming by Seng-t’san the 3rd Zen Patriach 仏教の神髄は現生における良き生を諦めることにあるんよ もちろんその意味は二義的だ >>824 つづき つまり、パーリ語の仏教用語や仏教の伝統や 歴史上の用語などに詳しくない人には、 @GoogleやDeepLは不親切。 AChatGPTはそれをケアしてくれることが多い。 B邦訳(魚川祐司)がもっとも丁寧にケアしてくれる。 つまり、パーリ語の仏教用語や仏教の伝統や 歴史上の用語などに詳しくない人には、 答え:水野弘元『仏教要語の基礎知識』 があればとりあえず戦える 分からなかったらコトバンクでググる パーリ語は、アルファベットで表記できないものがあり、 図書やネットで検索するのが面倒なことが多い。 邦訳は、その辺りもケアしてくれる。 覚者はわかる、解脱者はわからない 解脱したものが私は解脱したなんて伝えられないだろうし解脱したものを観測することも出来ない、論理で説いてもそれは合理的な虚妄ではと考えてしまう >>828 >パーリ語は、アルファベットで表記できないものがあり 拡張アルファベットで完全に表記できる Pāṇupetaṃ saraṇamagamāsi. Devadatto, mahārāja, cha koṭṭhāse kate kappe atikkante paṭhamakoṭṭhāse saṅghaṃ bhindi, pañca koṭṭhāse niraye paccitvā tato muccitvā aṭṭhissaro nāma paccekabuddho bhavissati. >>820 これを図示した例としては、 井筒の華厳的(ex.東大寺)存在生起モデルが有名。 https://i.imgur.com/UJ3OaYh.png 一即多、一即一切の記号学モデルは次のようにも示される。 A ([a]、b、c、d、e、、、) B (a、[b]、c、d、e、、、) C (a、b、[c]、d、e、、、) [ ]は強調 Aは潜在的に、bやcやdやeなどその他との差異から認識される(有力 うりき)。 参考: 井筒俊彦 「事事無礙・理理無礙-存在解体のあと」 『コスモスとアンチコスモス』 所収 >>820 、>>831 どうして、このようなモデルになるのか、 > 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 考えることをやめ、無心になって過ごす時、 日頃気にかけることのなかった周囲の音に気づかされることがある。 川の音、鳥の声、風や草木の音。 空になった自己の内への、他者存在の相互浸透。 KLF https://www.youtube.com/watch?v=q2QpVIUAOS4 “大宋国において東坡居士蘇軾と呼ばれていた人は、(略) 或る時廬山に来た時に、谷川の水が夜流れている音を聞いて真理を体得した。(略) 「谷川の水音はそのまま釈尊の説法される声であり、山の姿はそのまま釈尊の肉体である。(略)」” ― 道元 「渓声山色」 『現代語訳 正法眼蔵 1』 西嶋和夫、仏教社 (1970) p213 >>831 『北斗の拳』の最終奥義「無想転生」がこれ。 ケンシロウは、かつて闘ってきた強敵(とも)(トキ、レイ、シン、サウザー、シュウなど)の全てに成ることができる。 https://i.imgur.com/pmUUXYx.jpeg 「この動きは…トキ!」 「この世で最強のものは無…その無より転じて生を拾う、それが無想転生」 https://www.youtube.com/watch?v=WN3gaew-dbY&t=496s 8:15-10:30 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる