明清帝国 二
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
__
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′||
r┤ ト::::: \___/ || 朕こそ明清体制(1368-1912)544年間の太祖ぞ。
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 賢帝の中の賢帝と呼ぶが良い。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ しかし、ここは静か過ぎる・・・。
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ >>3
政治体制の面ではそうかもしれないが
(政治体制にしても、明代における内閣制度の成立や督撫の設置で早くも変容し、
清代には八旗制や議政王大臣、軍機処や理藩院の追加でさらなる変容を遂げる)、
明清代を通底する経済・社会・文化での成熟は、
貴様が設計したシステムが変容・解体するなかで起こったものだ。
貴様一人が明清代の代表ヅラするんじゃねえよ。
貴様一人を明清代の代表として持ち上げることは、
五百数十年にも及ぶ明清代を「停滞の時代」と見なす、
かつての欧米人や日本人、および初期の中華民国・中華人民共和国の偏見にまみれた、
イデオロギー的見方に与するものだ。 >>5
__
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ フッフッフッ。
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ やっと人が来てくれて朕は嬉しく思う。
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ 独裁者は孤独なのじゃ。
/j/三三三三三三三三三三ヾ 親しかった者たちを皆殺してしまったからのう。
l::||:::: |l 朕は大きな思い違いをしておった。
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| 朕は明清の代表ではなかった。
r┤ ト::::: \___/ || 中華人民共和国までも朕の統治方法を受け継いでおる。
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 突然の大粛清、政府見解のみを徹底、従順なる民衆教育。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ 朕は明以降の現代中国の創始者だったのじゃ。
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ __
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′||
r┤ ト::::: \___/ || 坊主、ハゲ、托鉢と言う者共
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 全て凌遅。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ __
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
/j/三三三三三三三三三三ヾ 朕ばかり注目されることに
l::||:::: |l 気に入らぬ者もおろう。
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| 朕にもその気持は理解できる。
r┤ ト::::: \___/ || だがそれは朕の責任にあらず。
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 朕があまりに偉大過ぎる所以じゃ。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 前スレより
957世界@名無史さん2018/09/12(水) 20:54:45.220>>958
明清は連結で良いんじゃない?
明単体とかレス進まなそう
958世界@名無史さん2018/09/12(水) 21:09:41.750
>>957
明単体だと、「凌遅三千刀、滅九族」の、あのお方専用のスレになるからなwww
明単体だと、朱元璋ばかりになることへの反省・懸念から、
明清連結で継続することになったというのに、
早くも朱元璋が出張りまくっていて萎える。
マジで自重しろよ。 >>13
いやいや、成祖永楽帝のアンチヒーローぶりもほぼ双璧 明は、儒教史観では「中華が恢復した時代」という位置付けだが、実際には暗黒時代だったのが周知の事実 ローマ帝国だって、帝国の歴史の中にはいくつもの王朝がある
元・明・清を、「北京帝国」と一括しても良いのではないか 元朝 北京帝国第一王朝
明朝 北京帝国第二王朝
清朝 北京帝国第三王朝
まるでエジプトみたいだぁ >>17
元と清は同じ国
明は違う国
清は元から大ハーン位を譲位されてるんよ 清は、李自成の賊軍を滅ぼして、明から中華帝国の座を継承した 永楽帝の生母は『明太祖実録』や
『皇明玉牒』では馬皇后となっているが、
いくつかの伝説ではモンゴル人の后の娘だとする。
モンゴル側資料の『黄金史』や『蒙古源流』では
ウハート・(トゴン・テムール・)ハーンの
ホンギラート部出身の妃が
洪武帝に嫁ぎ産んだとする。
明側漢籍では『南京太常寺志』で
永楽帝の生母を「石貢」妃とし
馬皇后でないとする。
弘吉刺氏(ホンギラート)を
明の成祖の生母することに繋がる。
これらの流布している伝説は
事実ではないと思われるが、
当時の世間一般で
明は元朝の宮官を愛用したり、
モンゴル人の来降を受け入れたり、
永楽帝の部下にもモンゴル人が多かったことから、
永楽帝をモンゴル王朝と繋げる認識があったと考えられる。 >>19
明初に元朝から投降した武人や官僚たちを多数採用し、
清初に辮髪令に応じた明の官僚たちを
概ね現職のまま採用している。
官僚組織としては、連続していて断絶してないのでは?
政権トップが交代しただけじゃん。
新たに北京に入城する新指導部を
旧王朝の百官が揃って、祝意を表明し、
歓呼の声と共に、新王朝が始まる。
これはペキン帝国の指導部だけの交代の儀式であって、
全く新たな帝国建設ではない気がするね。 清史稿 131巻
緑営戦功,自康熙征三藩時,用旗、緑兵至四十万,雲、貴多山地,緑営歩兵居前,旗兵継之,所向輒捷。其後平定準部、回疆、金川,咸有績。
緑営の戦功、康熙から三藩を征する時、用いた八旗、緑営の兵士は40万に至った。雲南、貴州は山地が多く、緑営兵は前衛を担い、八旗兵がこれに続いた。
向かうところ勝てない敵はいなかった。その後、ジュンガルやウイグル、金川を平定したのにもすべて功績があった。 「馬脚を現す」
語源は一般に芝居用語とされていて、
馬の足の役の人がうっかり姿を表すことから、
隠しておいたことが露見してしまうという意味になったとされる。
元代の古典劇の中の「露出馬脚来」という言葉に由来という説もある。
別の民間説話がある。
ある時、洪武帝の馬皇后の行列を
大勢の百姓たちがひれ伏しながら見物していた。
すると一陣の突風が吹き、
馬皇后の衣の裾が巻き上がった。
百姓たちはびっくり。
皇后陛下は纏足をしてない大脚だったのだ。
ファーストレディーなのに纏足してないなんて!!
馬皇后の大脚が明らかになったことから、
「馬脚を現す」となったというもの。 朝鮮史は、明代が前期朝鮮、清代が後期朝鮮に分かれる
後期は退嬰した暗黒時代と位置づけられている 清の外交使節が来ると、朝鮮国王は三叩九拝して出迎えた
清の外交使節は表門から入城し、朝鮮国王は裏門から入城した 日本も、明代は室町幕府、清代は江戸幕府と、時代区分はほぼ重なるが、これはたまたまそうなったもので、連動していたわけではない 琉球は、17世紀初頭、江戸幕府の成立からまもなく薩摩藩の侵攻を受けた
もっとも、それ以前から広東省の台頭に押され、海洋貿易の繁栄には陰りが生じていた 台湾では、清朝が鄭氏政権を倒して直接統治に乗り出した
琉球と同じく、海洋貿易での存在感は明朝の頃より薄れたが、農業生産量は増大した 通り一遍の解説もどき書くぐらいなら、出典も示してくれないと何とも言えん
あと、清史を云々するなら、少なくとも漢籍と満洲語文語くらいは多少なりとも読めるんだろうね? そこどうよ? 明と朝鮮の柵封関係は、朝鮮人にとっては理想の時代だった
清によって武力征服され、その時代は終わった 明清にとって、朝鮮は、首都北京に近く、潜在的な脅威である日本との間にある重要な地だった 明るいナショナル
明るいナショナル
みんな うちじゅう
なんでも ナショナル >>28
豊臣政権崩壊と江戸幕府成立、
明朝衰退滅亡と清朝勃興、
両者共にキッカケは秀吉の朝鮮出兵という共通項があるじゃん。 >>35
パナソニックになって明るくなったのだろうか?
明朝自体は暗黒王朝だよなぁ。 新は復古国やったし
清は汚い国で夏は寒い国で漢は女々しい国やったんかな 過去の王朝名の由来が地名のことが多いのに、
元明清は違うよね?
明は白蓮教が由来かな?
元や清も宗教色がある気がする。 >>22
乾隆帝漢人説というのもある。
それを下敷きにした武侠小説が
金庸の『書剣恩仇録』。 >>39
唐・宋までは、すべて地名
金・元から地名じゃなくなった >>40
「順治帝は早死にしたのではなく、出家して寺で生きていた」
「李自成は死んだと見せかけて、じつは裏社会で暗躍していた」
・・・これらも、金庸ワールドの中では常識 >>41
明ではなく「銀」にすれば良かったのに。
銀本位経済を発展させた王朝にふさわしいじゃないか。 >>39
元は易経の「大いなるかな乾元」から取ったもの。
本来は元ではなく、大元でもって国名。 そもそも朱元璋は「呉国公」だったんだから
彼の王朝名は「呉」でも良かったはず。
何で「禿」「光」と言ったNGワードに近い「明」にしたんだ? >>45
白蓮教徒紅巾軍の大宋国の明王の称号を想起するよなぁ。
呉王は小明王の臣下に過ぎない。
小明王を推戴する形で呼び寄せながら、
途上で小明王を溺死させて、
何食わぬ顔で盛大な葬式を主催する。
2年後に明を建てて、晴れて洪武帝となる。 建国者の封地をもって王朝名とするという、春秋の世からの伝統を放棄したのは、異民族王朝の金・元
それを思うと、明はその伝統を復活させ、「呉」にしても良かったんじゃないかと思える >>40
そういえば金庸、この間亡くなったね。
中国ではこの人の本がいちばん読者が多かったんじゃないだろうか。 呉人による全土支配じゃなく
南人漢人による国家を作りたかったからじゃない? >>47
「呉」は地方名としては知られすぎていて「天下」のイメージにつながらない
「漢」も「唐」もどこそれ?っていうマイナー地名だから統一王朝に転用されても問題なかった
「宋」は先秦では名門の国名だが、地方名にもならず、
南朝で同名で復活するまで700年も経っていたから地方イメージはなかったぶん新鮮だったろう
「斉」は春秋戦国は何百年も続いたし山東半島あたりのイメージで定着
ほかに南朝、北朝、五代十国、黄巣などいくつもの広域的な王朝の名になったが、
どれも50年と続かなかった
明にあたる国が呉と名乗っていてもちぐはぐなイメージで短命だったような気がする >>47
封地もヘッタクレも無い階層の出だから無理だったんだと思う。
清が(後)遼を名乗っていれば伝統復活? 清は実際はまず後金だったな
しかも民族系統的にわりと合っているという 定住せずに移動生活を行う部族なら地名よりも出身氏族名の方が馴染みがあるだろう >>47
ところで金朝は「建国者の封地をもって王朝名とするという、春秋の世からの伝統を放棄」してなどいないと思うぞ
金の発祥地は松花江の支流「按出虎水(現・阿什河)」の流域(ハルビン市阿城区、旧名・阿勒楚喀(アルチュカ alcuka))で、川の名前の元となったalcunが女真語で”黄金”を意味する(要するに満州語のaisinの祖型だな)
であるから「金」はそこから取った地名ということになる >>51
確かにそうだな
朱元璋の場合は、山賊が呉の地を乗っ取っただけであり、呉国に封じられたわけではない 中国共産党は上海で結成されたのに国名を上海から取らんかったのはなんでや 女真人を遊牧民族だと思ってる人が多いようだが
基本狩猟・農耕民だぞ
騎馬しか合ってない
北のホロンバイルのあたりにちょっとだけ遊牧民がいたようだが
例外的にモンゴル人に同化した結果だろう 満州が中華人民共和国に編入されたのは、かえすがえすも残念
朝鮮みたいに独立していれば、東アジアはかなり変わってた 初期の中華人民共和国にとっては、日本によって工業化された満州こそが国力の基盤だった
重化学工業が斜陽化した今では、むしろ、トンデモないお荷物地域と化している
だが、国防の要衝であるこの地を、中国共産党が手放すことはあり得ない 「ソビエト連邦・極東ロシア共和国」として存続する道も考えられた
しかし、その場合は、極東におけるソ連の力が強くなりすぎてヤバかっただろう
ソ連の崩壊のあとは独立
ひょっとしたら、帝政を復活させて「大清帝国」となった可能性もある
夢物語だが(笑) 闖関東で漢人だらけでもしロシアに併合されていたらロシアが中国化してしまう 重工業がお荷物っていつの話だ
とっくに立ち直ってるよ
アメリカの航空機産業を中国東北で支えるといった大きな取引が進んでいる >>65
いや、それは夢物語だ
情報が新しいわけではない 経済成長率を水増し申告する地方が多い中、遼寧省が「マイナス20%」と発表して話題になったのは、つい最近のことだ 中国経済の強みは経済拠点が多いこと。
北京のGDPが全国の2%でしかないというのは、
一極集中型経済構造の日本などと違う。 >>67
遼寧省の発展は日本との関係が重要で
日中関係が悪化すると苦しくなるんじゃないかなぁ?
大連のホテルに3泊したが
外国人宿泊者の半分が日本人で、
残りの半分がロシア人みたいな感じ。
日露戦争時と変わらないかも。 日中関係が悪化すると困るのは我々の方なんだが
メイドインジャパンの家電や衣服、今こうして使ってるパソコンも生産拠点のほとんどは中国やベトナム等で
企業間輸出という形で日本に入って来てるのだから
いわゆる産業の空洞化ってやつだよ 中国の生産力は確かに凄い。
インフラ建設のスピードも目を見張る。
高速鉄道網総距離数、
高速道路総距離数、
自動車販売数、
地下鉄路線総距離数、
空港や高層ビル建設数のどれも世界を圧倒している。
GDP統計は水増しが疑われるが、
貿易統計は相手国があることなので、確かだろう。
中国のポテンシャルはもともと大きかった。
しかし、明らかに明清期間では低下した。
世界経済に占めるGDPの割合は人口の多さでカバーしていたが、
一人あたりGDPは1400年頃より既に西洋に抜かれている。 一人当たりなら明治頃には日本にも抜かれてる
文革時には総額でも日本に抜かれた 世界の工場というか実質、日本の工場だからな。
もはや日中は一蓮托生よ。 明清時代は銀本位経済が回って好景気で物産に溢れた時代。
明清時代は飢餓水準の所得に苦しむ人で溢れ、
生きるために海外を含めて移住者が大量発生した時代。
どれが本当なのか?
ポメランツあたりは18世紀半ばが人口増加による制約の始まりとするらしいが、
1400年頃に既に一人あたりGDPが低下という学者もいる。
だとすると明清期間を通じて、
人口増加+生活水準低下の長期衰退期ということになる。 オドリコ『東洋旅行記』
このマンジ州にはゆうに二千の大都市があり、それ等の大都市は非常に巨大なため、トレヴィソもヴィチェンツアもその数に入れられぬほどであり、
またこの地方の人口は非常に多くて、我等には信じ難い程である。
〔そして多くの場所で我々がヴェネチアの昇天祭で見かける群衆よりも多い人出を見ることが出来た。〕この地には大量のパン・ぶどう酒・肉・魚・米その他世界の人々が
用いるあらゆる種類の食糧があり、またこの州のすべての人々は技芸や商業を営み、どんな貧困者でも手足でおのれを助けうる間は、決して施与をうけようとはしない。
マッテーオ・リッチ『中国キリスト教布教史』
この王国は非常に広大で人口も多く、食糧もあり、船、大砲、その他の武器をつくる材料もあるので、それを用いれば、少なくともすべての近隣諸国を容易に支配下におくこ
ともできるのだが、それにもかかわらず国王も国民もそれにこだわることもそれを論議することもなく、自国に満足して他国を欲しがるということがない。
アルヴァーロ・セメード『チナ帝国誌』
つぎにこの国の物資の豊かさについて語ろう。国土が非常に広大で、いくつもの緯度にまたがっていて、気候がいたって変化に富んでいるために、この国ではさまざまな産物が
収穫され、消費されており、まるで神が世界の他の国々にお分けになる一切のものをここに集中なさったかのように思えるのである。 砂漠化が進んだとはいえ、今でもアメリカ合衆国と並んで、地球上で最良の地を占めていることに変わりはない
インドやブラジルは暑すぎるし、ロシアは寒すぎるし、日本と西欧は狭い インドを訪れたイギリス人も、「ここにはロンドンくらいの都市が至るところにある」といって驚倒した 中国の人口は多いが、国土も広い
だが、欧州のように人口が散らばっているのとは違って、一部の地域、とくに黄河下流の華北平原に偏っている
華北平原は、日本より少し広いが、フランスよりはだいぶ狭い
フランスの人口は六千万人だが、華北平原の人口は四億人
日本で「一極集中」といわれる関東平野の、広さも人口も約10倍 中国の人口は、上海あたりの長江下流に集中していると思っている人が世間には多くて、それも事実ではあるのだが、本当に過剰人口が深刻なのは黄河下流の地域
ここは黄河の水が涸れていることもあって、かなりヤバい状況 インドも同じで、ガンジス川の中流・下流に極端に人口が集中している
欧州にも、合計すれば何億もの人口があるが、各国にうまく分散されている
人口が多いということにかけては、じつは欧州も大差ないのだが、そこが中印との違い >>74
その両方だろうな
北京や上海は、極盛期を迎えた
(まあ、明代に上海はまだないが)
しかし、農村の過剰人口と貧困問題もまた、この時期に始まった 人口の増加が凄いよな。
人への課税をやめるとそんなに増えちゃうものなのか。
明清の研究から少子化対策の決め手が見つかるんじゃないか。 >>74
支配者が善政を布くと生産力以上に人口が増えて貧乏になるのが中国のお決まりの歴史ですな そういえば、ベトナム黎朝が明朝から独立したときに「平呉大誥」という宣言文をだしたんだが、
この「呉」って、もしかして明朝のこと?
「『凌遅三千刀、滅九族』のキチガイが初代のくせに何が『明』だ。おまいらは『呉』で充分wwww」という底意か? 欧州の場合は、新大陸からジャガイモがもたらされたおかげで、それまでの慢性的な飢餓状態から脱却し、人口が爆発的に増えたと言われているけどな >>84
それについては確かに、『呉(明の蔑称)を平らげる』と書いてある本もあった 「呉」が蔑称というより、「明」が美称だから使わなかったんだろうな
朝鮮人が、「日本」を「倭」と言ってたのと同じ 永楽帝は、ベトナムに内地と同様の郡県制を敷いた。
このままでは、広東省と同じく「中国」に組み込まれ、埋没することになる。
ベトナム千年の歴史の中で、このときが最大の危機だった。
リ・ロイとグエン・チャイの将軍・軍師コンビで、見事に明を撃退した。20年に渡る支配は終わった。
永楽帝の時代だから「燕」というべきと思うのだが、ベトナム人にとっては「呉」だったのだろう。 「盛世慈生人丁」以後、人口が急増したってのは確かにあるんだけども、
その康煕帝即位50年時点でおおよそ推測される(戸籍外を含めた)人口が既に、
明代までにおいて維持しえた人口を大幅に上回った水準であったことは間違いない。
トウモロコシ・サツマイモなどの救荒作物が新大陸からもたらされた恩恵は、中国にも当然及んでいる。 ヨーロッパも、ジャガイモが導入されて寒冷地が飢餓から解放されたことが、人口の爆発的な増加につながった だが、明清には、新大陸への移民というハケグチがなかった
国内の森林の大規模な伐採と農地化が進んだ
これは徹底的に根こそぎ行われた つまり、明清期は、大規模な食糧の増産により経済が大きく成長した 過剰人口と環境破壊
社会の腐敗が進み、それに対する汚職の取り締まりが過激化
皇帝の独裁体制と、言論統制・人民管理社会
明はまさに、現代中国が抱える諸問題を先取りしていた やっぱり錦衣衛だよな。
東廠だよな。
文字の獄だよな。 明代はなぜ空前の自宮ブームが起こるほど宦官がはびこってしまったのでしょうか。
初代皇帝の洪武帝は歴代王朝における宦官の弊害を知っていましたので、厳しい制限を掛けました。ところが時代がくだると、状況が変わります。
三代目の皇帝である永楽帝は、甥である二代目建文帝を打倒し、皇位を奪いました(1399-1402、靖難の変)。
しかし、燃えさかる宮廷に永楽帝が入った時、そこには建文帝の姿はありません。
脱出してどこかに逃れているのではないか? そんな不安に駆られた永楽帝は「東廠」という宦官による秘密警察組織を作り、権力に反する者を監視するようになります。 明代は皇帝の権力が絶大であることも災いしました。例えば洪武帝は政治力や実行力にあふれ、かつ猜疑心が強い性格でした。
何が何でも自分で決めたい、建国の功臣すら大勢粛清してしまっていた状況では、皇帝の独裁に近い政治形態になります。
そうなると、「なんでもかんでも皇帝である朕が決めるなんて面倒で嫌だ」と思う者も当然出てくるわけです。
皇帝は宦官に政務を丸投げしてしまいます。
宦官にとっては皇帝が愚かであればあるほど、また政務から遠ざければ遠ざけるほど、権力に近づくことができますから、様々な手段を使います。
わざと皇帝が遊んでいるところに政務を持ち込んだり、ハーレムのような美女だらけのいかがわしい施設を作ってそこに皇帝を入り浸りにさせたり、健康によいと騙してあやしい薬を飲ませ中毒にしてしまったり。
明朝の皇帝は、趣味にかまけて政務丸投げ、引きこもり、遊び過ぎて早死に、あやしい宗教にハマる、薬物中毒、薬物を飲んだ途端に頓死など、尋常ではないレベルの暗君揃いです。 >>96
官僚機構が整備された結果、皇帝が官僚機構に対するカウンターパートを欲し
宦官を第二の官僚機構として官僚対宦官の形を作ったから
清代にこの形にならないのは満洲大臣が皇帝の手足として官僚機構に相対したため
雍正帝はさらにスパイ網を構築して満洲系官僚、漢人官僚に対してサードオピニオンとしていた ヒトラー 官僚機構 ナチ党(リッペントロップ機関)
ヒトラー ドイツ陸軍 突撃隊(後に親衛隊)
共産党書記長 官僚機構 共産党員
時代や地域が違っても似たような問題はあるもんだな。
中央集権が行き詰まると、次は分権化の流れになるんかな? それにしても、近代ヨーロッパの進んだ統治機構の一形態であるフランス・ブルボン王朝の絶対王政と比べても、明代の皇帝専制と官僚制度はすでに、なんら遜色ないように思われる。
比較すると、どうなるんだろ? >>100
暗君続出と宦官ののさばり様考えると明の統治制度には問題大有りや >>101
でも結局民の体制はのちの清朝、今の共産党体制に
引き継がれているだろう?
軍戸と民戸と言う二重戸籍体制は今の都市戸籍、農村戸籍に引き継がれているし、
錦衣衛や東廠や文字の獄の秘密警察体制も引き継がれているし、 君主に権力が集中したからと言って、それは先進性の証左ではないだろう。ブルボンとと比べてなんか意味があるんかいなw
較べるんならファラオと較べるこった。 みんりつ【明律 Míng lǜ】
中国,明代の基本的刑法典。
明の太祖朱元璋は創業の初め,1367年(呉1)に律令の制定に着手し,翌年これを公布した。
のち三たび改定され,今日みる明律はその最後の97年(洪武30)に修定されたものである。
唐律と異なり,名例,吏,戸,礼,兵,刑,工の7律から構成される。
唐律を模範としながらも,宋・元の法制をふまえて時代に適応するよう形式,内容を新たにしている。
たとえば,刺字(いれずみ)の刑や凌遅処死という極刑をとり入れ,唐律にくらべ厳格な刑罰体系になっている傾向がみられる。 唐律に比べて、明律が改善された点
1 イレズミ刑を取り入れた
2 凌遅致死刑を取り入れた 中世の国家は、権力が分散して統一国家とは名ばかりなのが普通だ
室町幕府や神聖ローマ帝国、安史の乱以後の唐がいい例
諸侯を中央が強力に統制できるようになってこそ、近代国家への夜明け 明の場合、地方にいるのは諸侯というより、北京が全国に派遣した科挙官僚や、朱氏の王たちだ
郷紳と呼ばれる地方有力者も台頭したが、これだって、科挙に合格歴のある、広い意味での科挙官僚の一種 >>106
成程。米英やスイスは未だに近代国家ではないことが良く解ったし、
強力な中央集権国家だった清の洋務運動が大成功した理由も君のレスで納得できた。 >>109
米英やスイスには、いまだに封建諸侯がいるのか? 半独立国の封建諸侯を弱体化させ、中央が派遣した官僚に置き換えていく
これでこそ、近代国家の形成 地方有力者の郷紳も、科挙に合格歴がある人々(進士じゃなく、もっと下のほうのクラスだが)
科挙に合格できない子孫が何代か続くと、家は没落する
いい悪いは別にして、実態は封建諸侯が割拠してバラバラだった唐に比べ、明は統一国家らしくなった それでも、清末には結局、群雄割拠状態になったんだが >>111
成程。朝鮮は600年前に近代国家の条件を揃えていたんだね。
19世紀の後半まで封建諸侯がいた日本より朝鮮が進んでいたということが
君のレスで納得できた。 >>114
朝鮮でも科挙はやってたが、受験者が両班に限られる身分制で貴族政治 >>115
あれは豪族の連合体にすぎず、統一国家とは言えない 「なぜ、産業革命は明でなく、イギリスで起きたか?」というのが、経済史でしばしば問題になる。
18世紀のイギリスでは、拡大再生産の連続で爆発的な生産量の増大が起きた。
近代資本主義の始まりだ。
「なぜ、明は、あれだけのレベルまで行っておきながら、近代への突破口を開けなかったのか?」というのは、人類史の謎。
統治機構についても、それは言える。
「近代とは何か? 前近代となにが違うのか?」を考える材料にふさわしいのは明 イギリスと明の比較よりも、イギリスとネーデルランドの比較の方が意味はある。 朝鮮の両班の官服は、明の科挙官僚そのもの
清はシナ本土では胡服弁髪を強制したが、朝鮮では明様式を続けさせた 明から清への王朝交代では、社会変動は他の王朝交代に比べて小さかったが、シナ人の外見の変化は最も大きい
胡服弁髪は、マンガに出てくるシナ人のトレードマーク
時代劇も、清だとすぐ分かる
唐と宋なんか、簡単には見分けつかない >>100
ブルボン王朝の絶対王政は、明清の制度の影響を受けている
フランス啓蒙主義思想家は、中国の長所短所を指摘してフランス絶対王政の参考にしたが、
ルイ14世個人にも影響を与えていたと思われるが、プライドが高いフランス人は
そういうことをあまりいわないようだが 儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし、愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。
(略)四千年来、中国の識者は、最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)
ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて、彼らこそが、生まれながらに、自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。
(略)ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在しているが、
中国ではこのような制度は決して生まれなかった。この国には世襲的貴族身分が全く存在しない。(レーナル)
共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては「恐怖」が必要である。
(略)中国は専制国家であり、その原理は恐怖である。(モンテスキュー) 18世紀のヨーロッパは貴族政治だった
貴族階級が没落し、高等文官試験に合格した平民の集団が仕切る清は、彼らにとっては、驚くほど近代的な体制だった もちろん、中国にも名家とか、良い血筋はあった。
だが、それでも貴族ではなく、あくまでも平民だった。
凡庸な人物が何代か続いて科挙の合格者が出ないと、その家は没落した。
・・・ここまではその通りなのだが、忘れてはならないのは、清には支配階級たる満州貴族がいたこと。 科挙官僚には、皇帝の家産奴隷みたいな面もあった
しかし、高級官僚なら三代は食っていけるほど蓄財できた
そんな財産も、何代か科挙の不合格が続けば、食い潰して没落する羽目になった >>118
比較するなら明じゃなくて清だろ
人口爆発起こったの清だぞ >>102
しかし、今の中国共産党に体現されているあのプロパガンダ手法・洗脳手法は、どこが起源なんだろうねえ。
あの粘っこくて気持ち悪い、価値論の根元部分を操作して刷り込んでいく独特の手法。
価値観レベルで追い込んでいって、自発的に隷従するところまで持っていく。
決してコミンテルン程度の歴史の浅いものではない気がする。
すでに康煕帝の李氏朝鮮に対する扱い方が、今の中国共産党の手法とそっくり。、
だから清が起源なのかな?とも思うが、満州族固有とも思えない。
もしかすると明なのかね。 >>122
ルイ・ブルボン王朝は、官僚制など中国のいいところを取り入れたところはあったが、
一緒に 発展→加熱し過ぎの最盛期→農民反乱→滅亡 という東洋専制国家リズムも取り入れちゃった感ある
フランス革命は農民反乱リズムまで取り入れちゃった感
現在の中国はシンガポール的強権手法で発展しているが、結局いつものリズムから
抜け出せない感強い
今統一してから70年目、明で言えば永楽帝の治世の終わりくらい。
科挙制度は本来その時代のもっとも経済力(教育投資力)と知的能力のある人材の社会階層を支配層に
取り入れ、経済階層と政治体制が分裂して社会不安にならないように機能する制度のはずだが、
中国は、古来歴史に学び、過去事例をよくわかっているのになぜか毎回繰り返す
だから今回も、明型ならそろそろグダグダになり、清型ならあと100年成長加熱し続けピークアウト、
150年後に農民反乱、200年後に滅亡する予感がどうしてもしてしまう >>130
その官僚制度が癒着からの制度疲労で毎回、国をぶっ壊してきたのが歴史なのだが >>130
そうだな
「人民反乱で王朝滅亡」なんていう、中国史ではいつものことだが、西洋史では前例のないことが起きるようになってしまった 清は、19世紀初頭に白蓮教徒の乱が起きて急速に衰退した >>133
逆でしょ
乾隆年間は全盛期でもあるけどその末年は衰退期でもあった
特に寵臣ヘシェンによる長期かつ巨額の横領は国家財政を大いに弱らせた
結果、本来は簡単に抑え込めるはずだった白蓮教徒に長く反乱させたままになった
白蓮教徒の乱が起きて急速に衰退したのではなく
既に衰退していたものが乱によって見えるようになっただけに過ぎない
また衰退の端緒は既に康熙年間に八旗軍の弱体化という形で顕在化しつつあったし
この八旗の脆弱化は康熙、雍正、乾隆の清朝絶頂期にも度々問題視されて
皇帝から満洲人への武芸の奨励という形で解決を試みられたが改善の兆しすらなかった 長い平和が続くと、軍隊は弱くなる
こればっかりは仕方ない >>137
清は結構平和な期間が少ない
康熙帝はガルダン・ハーンやその後継者たちのジュンガル帝国と長く争ったし
雍正帝、乾隆帝もそれを引き継いで戦争はしていた
清朝の面白いところは戦争を繰り返しているのに、満洲人が文弱化して軍隊が弱体化して行ったこと 西洋伝来の鉄砲の威力で、ようやく異民族を屈服させた >>130
>>136
人口ボーナスとグローバリズムの恩恵を受け
表面的な数字が最高潮に達した00年代(江沢民末〜胡錦濤)に持続可能な成長への転換・改革を怠り
政軍官民を腐敗させた中共国も順調に歴代中華帝国と同じ道を辿ってるな
いかなる賢君、賢臣でもこのリズムは覆せない 2019年現在の人民共和国は、大清で例えるとすでに乾隆帝後半の雰囲気だよね。
白蓮の乱のちょっと手前ぐらい。
内部は既にgdgdなのだが、対外的にはMAX、いやまだまだ伸びてるように見える。
唐も明もそうだけど、中華王朝は崩れ始めてからが、とにかくしぶとい。
崩壊しそうな状態で100年、下手すりゃダラダラ200年持つ。 明の場合、ちょい斜陽になりかけたのが土木の変あたり? で少しずつグダってきて、正徳帝の時は
はっきりと衰退期に。(経済は発展しとるが。) しかし、滅亡まで120年位ある。唐も清もそう。
100余年つーと、元なんかそれだけで全生涯だ。 >>141
王朝が崩壊するときの災厄は想像を絶するものがあるからな
できるだけ先延ばししたいのが人情 農民反乱で動いてきた歴史もいっても、農民の政治的な意識が高いわけではない
よほど追い込まれない限り、立ち上がることはない 天安門事件で人民が虐殺されても中共が滅びなかったのは相手が農民で無く都市のインテリだったからなんだろうな
どこの国でもインテリは嫌われてる 明の朱元璋と、中共の毛沢東
インテリ大虐殺は過去に2度も起きている 明がダメになったのは、天啓帝の時代だな。
明の皇帝は残虐か変人かのどちらかばかりで、
天啓帝は残虐ではなかったが日曜大工仕事が大好きで政治を顧みなかった。
ために宦官の魏忠賢にさんざん好き勝手やられた。
汚職で国家財政をくすね、対抗する官僚には罪をでっちあげて拷問で殺す。
天啓帝が事故死して弟が崇禎帝として即位する。
彼はまず魏忠賢とその一族を誅殺し、前代に乱れきった世を立て直すため、経費削減として駅伝制を廃止する。
これで地方の若者が職にあぶれ、反乱が勃発。その一人が李自成だった。
さて崇禎帝はまじめだったが家臣を信用することができず、些細なことで次々と罷免、処刑した。
あげくは北の女真族に対峙していた名将の袁崇煥を濡れ衣で処刑してしまい…
こうして内憂外患で明は滅びましたとさ 魏忠賢は本当に有名だな
時代劇の悪役としては定番だ 天啓帝より遥かに有名
「天啓」というわりには愚かだった 永楽帝のモンゴル・ベトナム遠征と鄭和艦隊遠征と大規模な北京宮殿建設事業は、
国力消耗したと思うんだが
永楽帝がもうちょっと抑えておけば明の最盛期は15世紀後半くらいに持ち越せたのではないだろうか >>152
ifを語るので正しいとか正しくないとかはどうにでもなるんだろうけど
永楽帝の対外政策は悪いことじゃないと思うんだよな
明は結局陸のシルクロードはモンゴルに取られっぱなしで
海のシルクロードは抑えなきゃいけないからモンゴル系の軍人使って
海上ルート抑えに掛かったってのは間違ってないはず
問題点としてはその海のルートを抑えた場合、陸のモンゴルをきっちり駆逐して
水陸両方のルートを確保しないといけなかったのにそれに失敗した事で
あっと言う間に逼塞した政権になってしまったという事
ただこれはたまたま大航海時代の後にスペイン銀が世界中に広まったことで有耶無耶になってしまったけど 明清以降になると中国本土は狭すぎ
北米(太平洋・大西洋付)とオージーくらい追加しないとgdgdは避けられない モンゴル帝国は、海洋に対しても極めて積極的だったからな
世界最大の海軍を保有していた南宋から受け継いだ伝統だ
それは、明の永楽帝まででストップした モンゴル帝国は、天津から北京まで巨大な運河を掘削し、なんと北京に海港を作ってしまった
このため、北京は陸でも海でも交易の中心となり、空前の繁栄期を迎えた
それに比べて、明清の海禁政策はあまりにスケールが小さかった >>138
清の軍制は柔軟に変化する。
八旗や緑営の無力さは絶望的だったが、
勇営で太平天国を破り、
自強運動での軍の近代化もある程度成功したので、
ヤクブ・ベクの乱、捻軍、
ミャオ族、パンゼーの乱などを鎮圧できた。
特にヤクブ・ベク政権を英国、
ロシア、オスマンが支援してたのを
武力鎮圧できたのは大きい。
新疆を失われずに済んだ。
ただ海戦は弱いかな。
清仏戦争で海で敗戦を重ねてしまうし、
東洋一の北洋艦隊は日清戦争で壊滅。
日清戦争後、
完全に西洋式の新軍を編成したが、
袁世凱が台頭してしまう。 >>154
北米とオージーを得て、
資源を利用できたのが英国。
清との差がここで出てしまう。
ケネス・ポメランツの「大分岐」では
清と英国の経済水準がほぼ同じだったのが
その後の人口増加による資源枯渇の
限界にどう対応できたかで差が出た
とする。
英国は良質な炭田に近かったのと
新大陸から資源を持って来れた。 土地が足りねェ…燃料が足りねェ…鉄が足りねェ…食料が足りねェ…図体がデカすぎてどっかの傘下に入れねェ…
大航海時代するしかないチャイナ、しかし海ではアングロサクソンに勝てないアル 中国は、アメリカと並んで、地球上でも最良の地を占めている
それでも足りないとは、話にならない 山東省の人は子女が東北三省の人と
結婚しようとすると反対する。
東北三省を見下しているからだ。
なぜなら山東省で落ちぶれた人たちが東北三省に移住して行ったので、
強い偏見がある。
清は永らく故地の東北三省への
漢民族の移住を禁止してたが、
禁令が解かれたら、
一気に山東省の余り者が
東北三省へ流れて行った。 文献で確認しうる、比較的まとまった統計資料によれば、漢代以降二千年の長きにわたって、
中国人口は、その領土の大小もあるが、大抵4000万から7000万の間で徘徊していたといえる。この状況は清代において全く変化する。
康熙帝即位の年、つまり1662年にはすでに9000万を突破、その後その増加傾向は止むところを知らず、康煕二十四年(1685年)には1億の大台にのる
(一説には乾隆年間になって初めて1億を越えたともいわれる)。
その後乾隆二十四年(1759年)には2億、乾隆五十二年(1787年)には3億、とそれぞれ突破する。 「人口爆発は明代に始まった」とよく言われるが、明代はまだ「限界突破して増え始めた」といったところであり、人口爆発が本格化するのは、なんといっても康熙帝からの三賢帝時代だ。
「限界突破」とはどういうことかというと、前漢以来、中国の人口は荒っぽい増減を繰り返しつつも、だいたい「六千万人」が天井となっており、ある意味では安定していた。
それを突破したのが、明の後期ということになる。 人口爆発は18世紀と習った俺は逆に「明代から」つー話はこのスレが初耳だった。 まあ、「唐宋変革期の変化の大半が、じつは唐の後期から始まっていた」っていうのと同じで、清で起きた大きな社会変動は、さかのぼると明代から始まってたってことでしょうな 中国の特徴は、だいたい明清の頃には出来上がっていた。
人口爆発も、砂漠化も清で起きた
中国人が拝金主義で金銭への執着が強くなったのも、最近の高度経済成長のせいと考えている人が多いが、そうではなく明清から続く傾向 中国は世界の先陣を切ってキャッシュレス経済に突入し、いまも貨幣経済の最先端にいる じゃあ、世界が没落する時は中国が一番最初だということだな。 実際にその兆候出てるし。 中国が没落すると影響が必ず世界中に及ぶから、それは間違ってないな
iPhoneですら中国で製造してるから、機械類、衣服を初めとしてモノが大量に手に入らなくなる
その上難民まで出るようなら世界の前に日本が終わる >>173
大丈夫だ
すでに工場は中国から逃げ出している
iPhoneなんか無くても困りゃせん >>170
まあ21世紀中国人のアレな面についてはバブル経済や一人っ子政策等の影響は確かに強いだろうけど
伝統中国を引き継いでる、むしろ伝統中国人の方がもっと酷かったところは多々あるでしょうね
天文学的賄賂や横領なんて伝統中国のお家芸だったわけだし 明代における経済的な変化は、次の三点にまとめられる。
第一に、農業産業の補助であった手工業が独立した産業となり、生産量も大規模になった。
第二に、伝統的な農業の経営方法とサービスの対象が集約型、経営型になった。
第三に、中国封建社会独自の生産成長が出現した。
ここで、着目すべきはこの時期の人々の消費内容の重点が物質面から精神面に変わったことである。
例えば、現代でも人気がある中国の古典劇の崑曲は元末明初に顧堅によって創始され、明の嘉靖年間、
魏良輔という音楽家によって改良されて、軽やかで甘美な清唱になり、明末清初に隆盛にいたった。 しかしながら、経済の急速な発展に伴い、さまざまな問題も出てきた。その中で、最も著しい問題は「奢侈」という問題である。
明代中期の1436年(正統年間)、江南地域でこの問題が浮かび上がり、明中後期の嘉靖(嘉靖元年1522年)年間以降、奢侈の風気が強まった。
万歴(万歴元年1573)以後徐々に他の地域にも広まった。つまり、江南地域は他の地域より60、70年ほど早かったのである。 「衣」は明初期に素朴だったが、明中後期になると、経済の飛躍的な発展にともない、江南地域の人々は高級な衣料品を求め始めた。
夏は薄絹、紗、絽など高級的な絹織物を愛用し、冬は狐、貂などの高価な毛皮を着ていた。
綿、麻などは全く眼中になかった。材料の上品さだけではなく、衣服のスタイルもよくなった。
「時世装」、つまり流行ファションという言葉も出現した。
「食」の奢侈傾向は宴会に現れた。明初期には食材にこだわらず、種類も量も少なかった。
しかし、明中後期になると、ツバメの巣、フカヒレなどもよく食卓に上った。
主人や客は演劇を見ながら、珍味をあじわい、美食を乗せる器にもこだわった。 明中後期の奢侈の特徴は三点にまとめられる。
まず、奢侈の範囲は以前の時代より広かった。
以前には高級官吏、貴族、大金持ちなどの上層社会の人々に限られていたが、明中期以降は中下層の市民にも浸透した。
奢侈の風気は町から郊外に侵入し、身分がある家庭から一般的な市民へ、そして農民にまで広まった。
次に、明中期以降、奢侈品は一般的な日常生活用品になった。
例えば、明初期にぜいたく品であった綿ネル、葛布、眼鏡、磁器などは明後期に至って誰でも買える商品になった。
理由はいうまでもなく、価格が安くなったからである。
商品経済の発展により、手工業製品、贅沢品などの需用が急増し、手工業者が増える一方で、工房も多くなった。
最後に、奢侈は身分の格差を縮めた。庶民は官僚、命婦、士大夫の服飾をまね、娼妓までも轎と画舫に乗るようになった。 ↑ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/ginnan/ginnan27html/77bun2-sin.html というサイトからのコピペだけど、
どうやら、嘉靖・万暦年間以降の明の江南は、世界に先駆けて大衆消費社会に突入していたようだ。
もしも現代のような経済統計があったなら、急速な経済成長だったと言えるだろう。 強力な皇帝専制の官僚国家
高度経済成長による大衆消費社会の到来
明は、まさに現代の中国を見るようだ エロ小説として有名な「金瓶梅」は登場人物の衣服の着こなしや食事の献立内容が細かすぎて
ウンザリするくらい。
だからこそ、小説が書かれた明代の風俗を知るには格好の史料だ まあ、明末は日本銀とアメリカ銀が流入して、良いインフレとしての「東洋の価格革命」が起きてるからね。
明の貨幣経済は、実は日本銅が支えてきたのだが、銅は使い勝手がわるく、経済の足を引っ張っていた。
日本人は高品位の銅地金を持ち込んで、相対的低品位の銅貨を持ち帰る。
明の当局としては「濡れ手に粟アル。こいつら馬鹿アルね?」としか思えないウハウハ状態だが、
日本人が銅銭を持ち帰ってしまうので、社会全体としてはデフレ圧力になる。
銀の普及で、この銅銭依存問題が解決され、しかもちょうど新大陸銀の流入と日本銀の技術革新が重なってインフレになった。 徳川吉宗は明の刑法である明律を愛読していた。
それも若い時からの明律オタク。
和歌や漢詩を好まず、
明律ばかりを読んでた変人。
その成果が公事方御定書と言える。 よくわからないけど
明律が人気で、清律ではない。
荻生徂徠の著作も「明律国字解」。 まあアルカイックな中国古典なんぞより
現実に運用されている刑法の方がおもしろいってのはわりと普通な気がする 江戸時代後期、九州豊後中津藩の勘定方で漢学者でもある藩士・福沢百助が
清の乾隆帝時代の法令を記した漢籍『上諭条例』を手に入れた。
ちょうどその日、彼の妻が次男坊を出産した。
そんなわけで、次男坊には「諭吉」と命名された。 自ら去勢し、宦官に志願するものが出てきたのです。
この自宮ブームが頂点に達したのが明代(1368 - 1644)でした。
皇帝サイドでは、幾度も禁令を出してはいたのですが、効果が出ないどころかかえって希望者が増える始末。
家族を失って途方に暮れた、家が貧しい、博打で大負けした、そんな理由で「自宮(自ら去勢)」に及ぶものが続出したのです。 それにしたって、包丁で指をチョンと切るだけでも痛いのが人というもの。
ヤケになったからって大事なあの部分を自分で切るなんてそんなバカな、と現代人なら思うところでしょう。
これには理由があります。
中国で官僚になるためにはあの有名な科挙に合格しなければいけません。この科挙は人類史に残る超難関試験。
才能があっても試験官との相性が悪いばかりに落ち続ける人もいたりしますし、ある程度のお金持ちでなければ試験勉強すらできません。
では貧しい庶民には宮廷での出世ルートはまったくないか?というと、そうではありません。
宮廷に潜り込む究極の裏口——自宮して宦官になる道がありました。
科挙、従軍、官吏、そして宦官が庶民の出世ルートになったのです。 また宦官になると、国が徴発して行う労役が免除されたため、それを目的として自宮する者もいました。
その数、明代で実に十万人とか!?
欠員補充もそれだけ多くなりました。さらに権力を握った宦官たちは皇帝並かそれ以上の贅沢にふけり、親族までもその恩恵にあずかります。宦官になればあんな贅沢ができる、と真似する者は当然出てくるわけです。
そうはいっても大事なものを切り取ったら、性的な欲求が満たせなくなるのでは、と思うところではあります。
いや、これがむしろ逆なのです。
明代の宦官は宮女と疑似結婚することができました。プラトニックラブで結ばれたカップルもいますが、欠落したものを別の手段で補う者もいたわけです。 明は、中国の中国らしさが頂点に達した時代
中国を知りたければ、明に学ぶべし 近代に至って中国知識人にも日本人にも見限られた中国らしさの基盤を作った助走期間
唐(半ば以降)〜宋も忘れちゃ駄目アルヨ 田中芳樹は漢民族マンセー
だから国力的には弱体化していた宋や暗君ぞろいの明をマンセーして
パクスモンゴリカの元や賢君ぞろいの清を絶対みとめない。
夷狄の王朝なんか絶対認めないから。
だが鮮卑族の北魏は率先して漢化してるから認めている 宦官にとっては皇帝が愚かであればあるほど、また政務から遠ざければ遠ざけるほど、権力に近づくことができますから、様々な手段を使います。
わざと皇帝が遊んでいるところに政務を持ち込んだり、ハーレムのような美女だらけのいかがわしい施設を作ってそこに皇帝を入り浸りにさせたり、健康によいと騙してあやしい薬を飲ませ中毒にしてしまったり。
明朝の皇帝は、趣味にかまけて政務丸投げ、引きこもり、遊び過ぎて早死に、あやしい宗教にハマる、薬物中毒、薬物を飲んだ途端に頓死など、尋常ではないレベルの暗君揃いです。
しかし、それもこれも幼少期から宦官たちがよってたかって甘やかし、駄目にしてしまったわけですから当然の結果とも言えるでしょう。 習近平が、理想の指導者像と考えているのは毛沢東。そして毛沢東の愛読書は『明史』だった。
「漢民族にとって、清は北方からの侵略者であって、最後の王朝といえば明になります。
明の初代で、貧農の子として生まれた洪武帝も、その息子の永楽帝も『字を知らなかった』と毛沢東は述べています。
習近平は青年期に過酷な境遇で、教育を受ける機会をほぼ逸しました。
大国の指導者に求められる国家像として、清朝以前の、中華帝国の残像を描いているのではないでしょうか」 そういえば、清朝が倒れた折に
孫文だか袁世凱が、明の太祖朱元璋陛下の陵に
漢族の世が復興したことを報告したらしいな >>196
ほぼ一貫して現代化された法家みたいな政治してる今上皇帝は、デジタル・レーニンもといデジタル法家主義者という感じかと、もちろん毛は中共の高祖なので当然理想化するし彼の使える言動は使いまくるけどね。
意外と明清を引用するから古典中国よりも現代中国社会の参考になる近世中華帝国を意識している可能性はある。
漢族ナショナリズムの発揚と民族間の緊張は江胡時代から盛ん(むしろ先代のおかげで収拾がつかなくなったと言える) >>196
洪武帝と永楽帝が「字を知らなかった」ってすごいな
そりゃ忙しくても読書ばかりしてた毛沢東から見たら文盲に近いのかもしれんが >>196
そりゃ嘘だ。洪武帝は寺で小僧をしていたから字の読み書きは出来た。
だから、頭に焼印を押されたあとがあってかつ髪が薄かったので禿の字と
紅巾軍(白蓮教)にいた過去を連想される光の字を書くのを弾圧した。
特定の文字を弾圧するのは読めて意味が分かってこそ。
永楽帝も賢妻の馬皇后が母親で幼いころから早朝から学者を招いて勉強し、
記憶力と感が抜群に良く諸皇子の中で有能だったということだから、これも嘘。 >>196
漢族にとって明が最後の民族王朝だろうが、政治は清の方が遥かにまともで、少数民族に対する配慮もあった。
イ族に対して夷の文字を当てるのを禁じたし、チベット族や姜族に対しても高度の自治を認めてた。
明を手本にするなら、内モンゴル、チベット、ウィグルは独立させるべき。 明よりは清に近いでしょうね、中共は
近年の民族政策や宗教政策の厳格化は漢民族・漢文化の限界をある意味正しく認識したからという気がする
改革開放という時代(特に90年代以降)は大陸を民族意識でまとめようとしたけど、その政策はイスラムや西洋化には通用せず失敗した >>202
中共の領土は清から引き継いだが、
滅満興漢と言った時点でモンゴル族は
「どうぞ勝手に俺らは独立」とやろうとしたが、
孫文が邪魔した。モンゴルは戦闘力あったが、
人口が少な過ぎた。
チベットとウイグルはモンゴル程の戦闘力もなく、
同じく漢族に人口で圧倒されてた。 >>185
スレタイからは脱線してしまうが、
もし吉宗が触れたのが、明律ではなく、(当時もオランダから輸入できる)ローマ法の教科書だったら、
日本どころか東アジアの近代は大きく変わっていただろうにね。
そんな趣味を持っていたのなら、本当に惜しい。
17世紀前半といえば、ヨーロッパ大陸法はまだローマ法を法源として使っていたが、
すでに解釈学にはルネサンス以来の十分な蓄積があり、キリスト教臭い要素は払拭されていた。
オランダ人が、何でも良いので当時の法学教科書を持ち込んで、
通詞に概略を翻訳させたものを吉宗が聞いたとすれば、確実に興味を持って研究を解禁したに違いない。 西周そっくりの封建制を実践していると言ってホルホルしてた国でそれはあり得ない 確かに蘭学等は言語と既得権と地球半周の壁を乗り越えるほど魅力のあるものだったが
徳川将軍家にとって不都合な思想も多いからなぁ… >>192
>明は、中国の中国らしさが頂点に達した時代
それ宋や
胡風文化がほぼ一掃されたし仏教も弱小勢力になって
外来文化の影響が最も小さかった時代やで >>204
吉宗が蘭学に興味を持ってたのは有名で、蘭学がどっと入ってきたのは、吉宗が禁書令を緩めたおかげ
まあ、「蘭学を奨励して広めた」とまでは言いすぎなのだが とくに医学がな
薬草の処方くらいしか中身がない漢方医学とは、レベルが違いすぎた
こればっかりは生命がかかってるだけに、好きとか嫌いとか言ってられない 吉宗だったら、当時の西欧の法学教科書つまり「ローマ法大全の注釈解説」にも興味を示しそうなんだよな。
そこには、条文の有無以外は、今の民法の教科書と同じく、民事訴訟の先例と細かい解釈論が書かれている。
「たかが出入筋ネタ」に、ここまで複雑な議論があることに興味を惹かれると思うんだ。
別にキリスト臭がするわけでもないし、こっちも解禁リストに含めそうなんだよね。
新井白石なら100%無理だが、徳川吉宗ならやってくれそうな気がするw
最初はもちろん刑事的な為政者の取締発想で読むと思うんだけど、
そのうち、ベースを流れる民事上の権利の発想に気づくはず。
統治の発想が明治を待たずに根本的に変わりそう。 >>209
当時の西洋医学は治療能力では漢方より遥かに劣ってたで
西洋医学の治療能力が大きく向上したのは種痘の発見以後や >>211
厳密には「西洋内科学」は、まだまだ漢方医学に劣っていた。
これが西洋医学を総合力で追い抜くのは、実質的には19世紀後半以降の
生物学、生理学の基礎科学の発展を待たなければならない。
実際、明治期に西洋に赴いた留学生からも、
「感冒などの感染症に伴う発熱に対して氷風呂で全身冷却する」
という迷信的治療を現地医から強要され、肺炎を起こして死亡するものが出ている。
しかし、「西洋外科学」は、ルネサンス期の美術解剖学の発展に刺激を受けた
医解剖学の爆発的な発展で、漢方医学を大きく凌駕する地平に達していた。
杉田玄白ら蘭学者が江戸時代に注目したのも、この「西洋外科学」。 水銀とウンコ飲ましてた漢方が西洋医学に勝るとかないわ
17世紀にはレーウェンフックは顕微鏡を使って病原菌の存在を証明しているけど
中国医学だと何でも「気」の問題で解決だからな >>213
レーウェンフックが発見したのは微生物まで。
つまり、医学の応用には直接結びつかない基礎科学どまり。
病原体の科学的発見とその証明は、1876年のロベルト・コッホによる、
炭疽菌の病原性証明の研究まで待たなければならない。
つまり、細菌学に基づく感染症研究の誕生と発展も、19世紀後半以降の現象。
日本はちょうどこの医学を中心とする西洋自然科学の爆発的発展に乗り遅れずに勢いに乗ることができた。
ちなみに、前近代の漢方医学は純然たる迷信と、優れた経験則の集積の両方の玉石混交で、
後者に限ってみればかなり高度なレベルに達していた。 >>212
訂正
×「これが西洋医学を総合力で追い抜くのは、実質的には19世紀後半以降の」
〇「これが漢方医学を総合力で追い抜くのは、実質的には19世紀後半以降の」 医学の応用に結び付かないとかそりゃねえわ
天然痘の予防接種とか病原菌の概念なしには絶対に思いつかないものなのに
また例えば1856年にクロード・ベルナールが犬に大量のオリーブオイルを食わせて膵炎が脂質の大量摂取によって起こる事
膵臓の炎症が膵炎の原因となることを証明したり動物モデルを使用した医療実験も行われている
こういった実証的な手法も五行説だとか言うカルト頼みの東洋医学にはないんだわ >>216
それが、種痘技術の発見時には、おぼろげに「病原体」概念が浮かんできた段階で、
「病原微生物」という概念にはまだまだ至っていなかったんだな。
どちらかというと、当時はまだカルト的な「瘴気」学説が根強かったりした。
むしろ、コッホはプロの医学研究社じゃなくて一介の町医者だったからこそ
病原微生物の感染増殖による感染症の発症、という
当時としてはある意味異端の革新的学説に到達したわけだし、
同時代のパスツールにしてからが、医学とは無縁の結晶化学の研究者だったからこそ
カイコの病原体発見(ただし当初は彼は発見した粒子を病原微生物としては認識していなかった)したり、
ワインの発酵における低温加熱殺菌技術を開発できたと言われているんだ。
まぁ、19世紀半ばの科学的医学の本格的スタートの前提として、
17世紀ごろからの物理学、数学、化学、生物学といった
基礎科学の地道な進歩が背景にあった事は認める。
でも、まだ実践的な内科学に関しては、日本の江戸時代にはまだまだ幼稚なレベルだった。 ちなみに、種痘のジェンナーも、大学教育すら受けていない徒弟制度で育った一介の町医者な。
顕微鏡を発明して微生物の存在を発見したレーウェンフックにしてからが、本業商人の
アマチュア科学研究家だった。
西欧でも伝統的な大学教育の方が、むしろ古代からの迷信的理論の強い影響下にあったんだよ。
それを切り崩していくのが、ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチのような工房の親方連中だったり、
17世紀以降にオランダや英国、フランスの市民社会の中で育ってきたアマチュア科学研究家連中だったりするんだ。 >>213-214
外科は西洋医学が圧倒、内科は西洋にしろ漢方にしろ玉石混交であまり差はない
ってところだろうな >>218
現代ですらBonanza事件なんてのがあったな。
基礎科学はともかく応用科学だと大学の研究者が在野の発明家に負けることはある。 ポルトガル王国(首都:リスボン。1143-1910)がヴァスコ=ダ=ガマ(1469?-1524)の功績によりインド航路を切り開いてから(1498)、ポルトガル人のアジア来航は頻繁に行われた。
ポルトガルの香辛料を求めたアジア貿易は、1505年セイロン(スリランカ)、1510年インド西岸(マラバル海岸側)のゴア、1511年には東南アジアのマラッカなどを占領、
特にゴアはインド総督アルブケルケ(1453-1515)の活躍で同地をポルトガルのアジア活動の拠点とした。 さらにポルトガルは1517年、中国来航を果たした。
広州に来航したポルトガル人は、北京入京後、当時の明朝の皇帝・正徳帝に謁見、寧波・廈門に商館を設置、貿易を開始した。
明には鎖国思想があり、海禁・朝貢貿易重視という徹底した姿勢であるため、本来なら海外貿易は実施不可能ではあった。
しかし1557年、明朝はポルトガルに倭寇討伐の協力を要請し、倭寇を鎮めた。
ポルトガルはこの代償としてマカオ居留権を明朝政府から受け、ここでの居住を許可されたのである。
こうしてポルトガルと明朝間に交易が始まった。 それ以前の時代と大きく異なる明清時代の特徴として、西洋との盛んな交流が挙げられる
明は海禁政策を取り鎖国志向だったが、江戸時代の日本ほど徹底してキリスト教勢力の侵入を拒否したわけでもなく、それなりに開かれていた スペイン人は、日本人をキリスト教信者にして、内と外から日本を攻めて植民地にしようと企んでいた
いまの中国人や朝鮮人が、日本国内の左翼と連帯して、内と外から日本を攻めようとしているのと同じ 日本に来た西洋人として、真っ先に名前が挙がるのはフランシスコ・ザビエルだが、中国では、明のマテオ・リッチだ。
(どうでもいいが、マテオと入力すると、なぜか、(;-ω-)ノよと変換される・・・)
マテオ・リッチは北京で活躍し、多くの西洋文化をもたらした。 そんなマテオリッチに影響を受けた人物が、徐光啓だ。
徐光啓は、ユークリッドの言論を翻訳し、「幾何原本」として出版した
杉田玄白の「解体新書」は18世紀の後半
徐光啓の「幾何原本」は、17世紀の初頭だ >>225
明どころか秦漢の頃から西洋人の10人や100人くらいは来てるやろ >>227
大航海時代を舐めてはいけない。
交易で世界中の銀が明清に集まって、
銀本位経済になっちゃうんだから。
問題は自国の船で行かなかったこと。
航海術が劣ってたわけではない。
鄭和の大艦隊を仕立てられるんだから。
余りにも海に無関心過ぎた。 明朝の時代に銀決済経済が導入されたというより、
大元ウルス時代に銀本位制が施行されたという下地が復活したとみたほうがいい。
モンゴル帝国は南宋朝廷を接収したときに、そこに膨大な銀が死蔵されているのを発見した。
そもそも、銅銭本位制だった南宋において経済発展に連動して銅銭が大増産され、
銅山からの銅地金を銅銭用に精錬したときに副産物として大量の銀が生産された。
南宋朝廷はこの銀の用途に困り、宮廷の宝物としてほぼ死蔵していた。
これを手に入れたクビライ政権は、銀本位制と塩の専売制を結び付けた
モンゴル帝国全土を貫く銀決済の大循環経済を構築した。
ところが、これがうまくいきすぎて経済成長がユーラシア全体の銀保有量を
追い越してしまい、信用経済の不調を引き起こしてしまった。
これがモンゴル帝国衰退のひとつの要因。
続く明帝国は緊縮時代の政権として銀決済経済を抑制したが、
やがて経済は緩やかに回復。
その頃になると日本と南米からユーラシア全体に全時代を上回る銀が供給され、
経済規模に見合った銀決済の実現が可能となり、
あとはなし崩し的に銀決済経済が復活に向かうことになった。 オスマン帝国は、ハンガリー人のウルバンに造らせた大砲で、コンスタンティノープルを陥落させた
清は、ドイツ人のフェルビーストに造らせた大砲で、呉三桂を倒した
このように、「難しいことは、西洋人を雇ってやらせる」という傾向が、オスマン帝国と明清に共通して見られた >>229
元代は銅銭建ての紙幣が主役じゃないの?それが崩れてから銀が中心になったはず。 >>231
元代は納税と高額決済は銀建てで銅銭排除、その補助として銀との兌換紙幣を発行。
銅銭は少額決済のみに使われたので、宋代に納税や高額決済に用いられていた分がだぶついて
日本へと流出。
これが鎌倉時代中期以降における日本経済の急速な貨幣経済化を促進した。
日本商人が銅銭の対価として輸出したのが、日宋貿易以来の日本特産物である硫黄。
北宋、南宋、元は日本産の硫黄で火薬兵器による軍備を充実させた。
明代になると、火薬兵器用の硫黄供給国として琉球王国が浮上し、
明朝は日本と琉球王国を両てんびんにかけて軍用の硫黄購入価格を値切った。
清朝になると、版図の台湾での硫黄生産が始まり、日本産、琉球産硫黄への依存が低下した。
清朝期に炭鉱で産する黄鉄鉱を化学変化させて硫黄を生産する技術が開発されたとする文献もある。 医学の話に戻すと、近代医学の萌芽・発展って、一言で言えば「星占いとの決別」だからな。
星占いというのは一つの比喩だけど、
星占いに典型的な「古代以来の宇宙論」を、どこまで実証で突き放せるか、という問題だった。
東に陰陽五行説あれば、西に四元素理論あり。あんまりかわらないw
だから、アカデミズムで古代宇宙論を勉強してそこから逃れられなくなった大教授が、
町医者の後塵を拝することが起きたりする。
この点日本が面白いのは、江戸時代前期の段階で、漢方医学から五行説を追放していること。
日本はこの「星占い理論」つまり抽象的な古拙宇宙論が死ぬほど苦手で、昔からまったく歯が立たない。
わけがわからんからやめちまえ、ということになった。
これが、杉田玄白以来の蘭方医学受容の下地になってる。 >>233
日本仏教ってのも、ある意味「抽象的な古拙宇宙論」を排除したうえで、どれだけ仏教の精神に迫れるか、
みたいな側面があるよね。
そもそも、供養塔として中世に盛んに作られた「五輪塔」にしてからが、インドの抽象的な五元素説が
今一つよく理解できないから、視覚表現しちゃえ、ってしろものだし。 ちなみに、「抽象的な古拙宇宙論」による理論化ってのも、
ある程度は現実を観察して抽象論と摺り寄せをしているわけだから、
後世の科学的実証で組み立てられた理論とある程度一致してしまっているケースもある。
いい例が漢方医学の理論での「熱」と「寒」の区別がそうで、
前者が交感神経優位、後者が副交感神経優位とかぶっている。 >>230
ウルバンは最初ビザンティンに大砲を売り込んだが、拒絶されたばかりか牢にぶち込まれた
ウルバンの提示した高額報酬にビザンティンが耐えられなかったのが原因らしい。
だから出獄したウルバンは、あてつけも込めてオスマントルコ側に大砲を売り込んだ。
最初からビザンティンが大砲を購入していれば… ヨーロッパって機械とか兵器の技術は中世から世界一なのな。
逆に社会制度は不自然なほどに遅れたままで18〜19世紀になって突然異次元の飛躍を見せる。
不思議な連中だわ。 >>237
中世から、というよりルネサンスの頃から写実絵画の発達に伴って
精密な図面による精密設計が可能になったからね。
非ヨーロッパ社会では写実絵画が発達せずに、結果として精密な機械設計が
不得手となってしまった。 精密機械ってのは、寒くて天気が悪いところの人間が強いな
南国の土人が、焼けつく太陽の下、うだるような暑さの中で緻密な設計図を書いてるところなんか想像できん 他の分野はともかく、精密機械に関しては、世界的にみても日本人とドイツ人が突出している
アメリカとかスイスも強いが、それはドイツ系住民のおかげ このオッサンは何度言っても懲りないな
日本車や日本の家電製品や今お前が来てる服や使ってるパソコンにしても作ってるのは中国や東南アジア人だって >>241
だから、その中国やベトナムの工場が、日本やドイツの機械でできてるんだってば(笑)
工場には、機械が必要だろ。
中国人やベトナム人は、工場でモノを作ることはできる。
でも、その工場にあるのは日本やドイツの精密機械だということ。
わかんねえ奴っちゃなあ? 他の時代と比べて、明の際立った特徴の1つは、西洋文明の受容だ。
これは、江戸時代の日本のように長崎の出島を通して細々と流入したというようなものではなく、明治維新の頃のように、お雇い外人が首都・北京で活躍した。
日本人はキリスト教に染まりやすく、信徒が急増したため、スペイン帝国による乗っ取りを恐れた日本政府は鎖国せざるを得なかった。
その点、どういうわけか、明ではキリスト教が広がらなかった。
それが、国民性の違いってものなのかもしれない。 もちろん、明は開放的な国ではなかった。
海禁政策と呼ばれる、鎖国政策を取っていた。
日本にキリスト教を伝えたことで知られるフランシスコ・ザビエルは、中国に伝道しようとしたが入国を許可されず、高熱を発して憤死した。
その遺志を継いだのは、マテオ・リッチ。 北京入京後、万暦帝に謁見したリッチは、自鳴鐘(じめいしょう)と呼ばれる西欧式時計や西洋楽器などを献上し、好意的に受け入れられた。
リッチは1602年、6枚1組の世界地図『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』を刊行、はじめて世界の大きさを知った中国の知識人階級に大きな影響を与えた。
徐光啓はリッチの教えを受けて、古代ギリシア数学者のエウクレイデス(ユークリッド。生没年不明)の幾何学書『幾何学原論』の前半部を、
リッチの口訳と徐光啓の漢文記述という共同作業で完成させた(1607)。これが『幾何原本(きかげんぽん)』である。 リッチは1610年、北京で没し、ゴアに葬られた。
リッチの活躍で、明末清初の時代には多くの宣教師がヨーロッパ各国がら訪れるようになる。
ドイツ人イエズス会宣教師・アダム=シャール(湯若望)は1627年、北京で布教活動を崇禎帝に謁見した。
徐光啓との共同作業で、西洋暦学書を翻訳、集成した135巻の『崇禎暦書(すうていれきしょ)』を帝に上呈(1642)、また天体観測技術や大砲技術も紹介した。 明が李自成に滅ぼされなかったら、崇偵帝は太陽暦を導入していた。
明は、あと一歩で旧暦を廃止する・・・というところで滅亡した。
もしも旧暦が廃止されていたら、中国には旧正月は無かった。
2月の春節に、上野公園が洪水のような中国人の群れでごったがえすこともなかった。 ということは、もしも明が旧暦を廃止していたら、上野公園に中国人が溢れるのは
2月中旬ではなく元旦になる、つーことだな。
明が早めに潰れてヨカタ。 >>247-248
いやいや、別に崇禎暦書は太陽暦じゃないぞ。
あくまで中華式の太陰太陽暦を組む際に、西洋天文学に基づいて構築した、というだけ。
二十四節気を時間分割から経度分割にして、ケプラーの法則に依拠させた。
暦をわかってないやつが変な聞きかじりをやりすぎ。
日本の「信長太陽暦説」もそうだし。あのロザリオなんとかを書いたおばはんも何もわかってないw >>249
ということは、旧正月は変わらないということか? >>250
現行の中国の陰暦(農暦)が、崇禎暦書の暦そのもの。
結局、暦書案を清が引き継いでそのまま発布した。つまり時憲暦。
なお、このケプラー法則の導入は、日本でも200年遅れて天保暦でやってる。
つまり今、結婚式場(六曜の算出)や沖縄の漁村が使ってる旧暦がこれ。 東西交流が活発化した元代には、イスラムの天文学をとり入れた「授時暦」が郭守敬により作られた。
イエズス会宣教師が布教をした明清代には、ヨーロッパの天文学の影響をうけた「崇禎暦書」が徐光啓により作られた。
このように外部の知識を摂取して中国の暦法は進化した。 結局のところ、せっかく西欧の進んだ天文学を取り入れたのに、中国式の暦をより精密にしただけだったんだな 「停滞の五百年」とされる明清帝国だが、じつは人類史上かつてないほど爆発的に経済規模が拡大している
にもかかわらず、後になって振り返ってみれば、まったくの停滞だったように思える
思うに、ここ30年ほどの中華人民共和国も、後になってみれば、そういうことになるんじゃなかろうか? 30年?
中華人民共和国できてからもう70年になるんやけど >>253
純粋な太陽暦を作るなら当時の天文学はもうオーバースペックだったかと 「いや、中国はものすごく進んでいる。日本やアメリカを追い抜いたところもある」という人も少なくない。
そういう人々が称賛するのは、ネット金融の発達による、世界に先駆けたキャッシュレス社会の実現だ。
しかし、明清も、世界中から銀貨を吸い上げていた。
「貨幣経済の発達」ということにかけては、やはり世界の最先端だったのである。
経済規模が爆発的に拡大し、とくに貨幣経済では世界の最先端をゆく革新が起きた。
それでいて、政治は独裁体制が強化され、監視社会になった。
全体的には、世界の大勢からみれば、追いつき追い越すどころか、ますます遅れを取った。
どうも、現在の中国の状況には既視感を覚える。 >>257
中国でビットコインがやたら流行ったのも東アジア特有の謎の銅銭信仰を思わせるものがあるな 金銭に執着する現実主義者
それが中国人の特徴であり、強さであるとともに限界でもある
これは、最近の経済成長のおかげでそうなったと思っている人が多いのだが、そうではなくて、明あたりからの傾向 >>258
日本でいうと今は昭和50年位か
30年で高度成長期真っ只中
文革も戦争状態みたいなものなんで敗戦から立ち上がった日本とよく似てる
> 後になって振り返れみれば、まったくの停滞だったように見える
それ今の日本じゃん >>261
日本はむしろ逆だろ
同時代の人間にはまったくの停滞に見えていたが、後になって振り返ってみれば、あの時代に日本社会が大きく進化したという評価になる それにしても、明代は謎だ
あれだけの経済発展と技術進歩を遂げておきながら、後世には停滞の時代のように見られている
「思えば、中国が世界の最先端から脱落したのは、あの頃だったね」と言われている むしろ、人口動態と経済規模を考えたら、中国は漢から停滞が始まり、それが明の前半まで続いた
明の後半から離陸して、清まで急成長した・・・というのが真実のように思えるんだが? 人の評価というのは、相対的なものだ
同じ時期に、西欧がそれ以上に驚異の発展を遂げたものだから、明清の飛躍的な発展はすっかり霞んでしまった 清代は一人あたりの豊かさで見ると退歩してるんじゃね? >>266
清代は一人当たりは下がるの当たり前で人口爆発起こってるからな 1人当たりはさすがに低下しただろうが、全体が大きくなったのも間違いない
清代には、全国的に森林伐採が進み、農地が飛躍的に拡大した
人口爆発も、環境破壊も、この時期に一気に進行した なんで満州族は漢族の風習を変えてしまったのか
漢民族の皇帝、玉すだれの冠や漢民族風の総髪の髷はカッコヨく見えるが、
辮髪は滑稽にしか見えない
まぁ日本の月代も同様か。
昨今の時代劇では、主人公のイケメンは月代ではなく総髪の髷であるし >>269
それは漢人の風俗で合って漢民族の風習ではないだろ
漢民族は近現代に生まれた存在だぞ
人民服の共産主義者とか蒋介石みたいなああいうのが漢民族の衣装 >>269
中国の時代劇は、清だと弁髪で満州服なのですぐ分かる
長髪なのは、反清復明の闘士だけなので、これはイケメンの主役の役柄だから、余計にカッコいい 儒教の教義では親からもらった体を傷つけてはいけない
それが拡大解釈されて男子でも髪を滅多に切ることがなかった
ある程度髪が長くなるとクルクルっと御団子状の髷を作って
あとは髪型が崩れないように網巾をまいたのが明代男子の士大夫や庶民を問わず一般的なヘアスタイル
網巾ってのは韓流時代劇で必ず目にするあの鉢巻みたいなやつな
あれは実際は明代の漢服が由来
日本では簪をつけるのは女だけと相場が決まっていたが中国の場合はオシャレさんの場合は男でもつけることがあった >>272
いや、あれは儒教が国教になる前からの習俗。
髪を切ると頭頂から精気が抜けてしまうという呪術的な俗信が古代からあったらしい。
精気を体内に留めるために、長い髪を結ってまとめてキャップで封じ、簪で固定した。 まあ、古来から続く風習なんだろうな
でも、中国の時代劇では、あの長髪と長ヒゲのおかげで、明もすぐ分かる 人民服って妙に旧日本軍臭がするなと思ったら調べると旧軍将校がデザインに関わってるらしい
派手好きな漢民族がよくあの服装でガマンできたな 清末の志士たちは、誰もが日本に留学し、日本に革命勢力が結集していた
いまは、そうなってなくて残念
石平氏のような反共の闘士が日本を拠点とすればよいのだが >>278
そのチャンスを明治日本は有効に生かしきれなかった。
日本の高等教育課程はまだ未熟で、日本に留学した「志士」にアメリカが誘いをかけ、
さらにその上の真の高等教育の場を提示したために親日になるはずの志士が親米になってしまった。
日本の高等教育貧困の影響は後世にも響いており、日本の高等官僚は東大に入学するとすぐに
公務員試験の準備に入り、大学教育をロクに受けないまま試験合格すると退学して任官してしまう、
という風潮が長く続いた。つまり、日本の高級官僚の指導的な地位にあるものが、事実上中等教育しか
受けてないという風潮があったわけだ。それに対して、列強諸国の高級官僚は大学院修了が普通。
これでは太刀打ちできない。 >>278
清末期の日本への留学生も日本に幻滅している
魯迅しかり周恩来(留学生なのか?)しかり
蒋介石は日本で軍事教練すら受けている
戦前からせっかくの外国の親日派を幻滅させてしまうのは日本の美しい伝統
やって来るのは石平みたいな売国奴ばかり >>280
そんなことないぞ
何か誤解してないか、 蒋介石は日本軍をおおいに評価してたみたいだな
ただ上司のリンチは意味あるのか?と思ってようだが
石平は「日本スゲー!」の外国人枠の芸人だから 上司で無くて上官か
スルガ銀行の壁ドンが頭に残ってたみたい 基本的に、日本の高等教育って、
大学院レベルの教育が社会の基礎インフラとして根付いてないんだわ。
研究者育成の限定的な機能しか持たない。
それで、結局は「親日」に育成しかけた海外からの留学生を、
米国なんかにさらわれて行ってしまう。 >>284
まあ仕方ない
その代わり、アメリカの高等教育費はバカ高くて、貧富の格差そのものだ >>284
愛知県かどっかの県立大の准教授をしてた與那覇潤によると、学部生よりも院生の方留学生のレベルが低いそうだ
今は中国やアジアの優秀な頭脳はアメリカや西欧の大学院に行ってる
歴史は繰り返さないが韻を踏む >>282
別に、「日本スゲー」とは言ってないだろ
中国共産党に対する批判を、そういう方向にネジ曲げて解釈するのは、日本のパヨクの病気 >>286
内田樹と同じで、そいつもいる大学のレベルが低すぎるんだろ >>284
日本で勉強してみたいという外国人にとって、文科省管轄の「大学」が鬼門というのは有名な話。
100人が100人後悔するとすらいわれる。院もそうだが学部はもっとひどいw
わかってるエリートは、欧米の教育機関を使って勉学を修め、本国の上級国民ポストに就職してから、
実務家研修の名のもとに、日本を訪れる。
OJTのみならず、省庁などが作ってる研修所などで勉強することもある。
このルートをたどった人は本当に親日。
いわゆる「菊クラブ」なんだけど、世界各国の国別ネットワークの中でも特に地味なのと、
マスコミと非常に相性が悪いので、存在自体、表に出てくることはめったにないけどね。 専門家スレの「東洋史」スレを眺めていた時に見かけたんだったかな。
EUや北米の大学では、中国の台頭に対応する専門の分析家を育成するために、
東洋史研究のポストをどんどん増やしているんだと。
それに対して、日本では理系よりも必要性の低い不要不急のポストとして、
東洋史研究のポストがどんどん削られている、というグチだったんだが、
正に、日本では大学院というものが国家戦略の装置として十分位置付けられていない
という典型例になっていると思った。
ライシャワー博士やキーン博士を輩出したハーバード大学やコロンビア大学の
日本研究部門も、まさにアメリカの国家戦略としての日本分析の機関として
育成されたものだったよね。 >>290
女子大は大学院あるんか?(本当に知らない) 東洋史研究は、日本が最先端を行ってたはずだが、最近は揺らいでいるな
さすがに、中国が地元の利を活かして急速に台頭している しかし、欧米人が中国史を勉強するのは、本当に大変だろうな。
ハン・ダイナスティ、タン・ダイナスティ、ソン・ダイナスティ・・・見分けがつかない。
人名も、ウェンディーとかウーディーとか、似たようなのばっか。 >>294
特に、上古期の竹簡とか青銅器に鋳造された金文といった出土文献がたくさん出てきて、
そのデータで歴史の書き換えが急速に進んでいる感じだね。
中国の側も、国内の研究者による一通りの研究と論文発表をするまで、
そういう一次史料を公刊してこないから、
必然的に水をあけられることになる。
日本の研究者だと、中国奥地に眠っている大元ウルス時代の石碑なんかを丹念に捜し歩いて、
それの研究で頑張っている事例が目立つかな。 明から清に交代し、漢民族には辮髪が強要されたが、
坊さんとハゲはさすがに免除された。
だから明に殉じて出家する者も多かった。
だがハゲは…
清になびいたのか、明に殉じているのかわからないグレーな存在だなw 瓣髪は、前から見るとスキンヘッドに見える
清代の時代劇は、みんな坊さんみたいだ >>297
剃髪易服で、満州族の服も強制されたが、対象は成人男子だったから、辮髪と同じく僧侶、道師、女性と子供は対象外。
女性もチャイナドレス(この時は丈の短いので、下はズボン)なったのは道光帝時代で、光緒帝の時代になって
ロングのチャイナドレスも一般人が着るのも許された。 そもそも大明帝国の始祖は頭が…
おや誰か来たようだ >>300
強制されたとはいうものの、じつは強制ではなかったという話
朝鮮人のウリナラ史観みたいなものだな
「日帝は我が国の伝統を根絶やしにしようとしたニダ」と主張するけど、実際には、当時のお前らが嬉々として日本の文化を見習っていたんだよっていう 中国の田舎では、今でも、強制されたわけでもないのに習近平の肖像を家に飾ってるとこが多い
中国共産党が反日を言い出したら、世の中の誰もが反日になってデモが起きるが、共産党が日本に融和的になると、世間の一般人まで日本人への態度がフレンドリーになってくる
中国政府が「日本人の嫌中をなんとかしろ」と日本政府に文句を言ってくるのを見て、「それは政府が決めることじゃねえだろ」と日本人は思うのだが、アチラではそうではない 中国では、親日でも反日でも民間主導で大きなムーブメントが起きたら、
それは政府による弾圧対象認定されるからな。
しかも、親日でも反日でも民間主導のムーブメントであるなら、
それはあくまで口実で、反政府運動が本音のポジショントークで持ち出しているのに
過ぎないことが多い。 >>304
強制されたのは、反乱を起こされた場合の戦力になり得る成人の男のみということで、
戦力外とみなされた女子供には矯正する意味がないからやらんかったということだろう。
紅楼夢の説話(時代は清代)がベースになったチャイニーズゴーストストーリーでも、
ジョイ・ウォン扮する女幽霊は漢服着てたよね。 >>307
幽霊だから、古い時代の衣装にしてたんじゃないかな?
チャイナドレスはセクシーなので、ビジュアル的に好まれる >>308
原典は聊斎志異だった。ただ、時代は康熙帝の治世でその幽霊は
主人公の青年に会う一ヶ月前に殺されたのだから、バリバリの
清の時代なんだが。
ともかく、乾隆帝の時代までは漢軍八旗所属以外の漢族の女子供は
明代と同様に漢服着てたわけだ。明代の漢服は朝鮮のチマチョゴリ
に似た形で違いは帯を締めることだけだから、胸の谷間が見える
唐代の漢服よりセクシーではない。チャイナドレスがボディ
コンシャスになったのは中華民国になってから。清代のチャイナ
ドレスはモンゴルのデールと同様にゆったりしてた。
それに、必ずズボンを穿いたから横のスリットから太腿が見える
こともなかった。 明と朝鮮は儒教国家なためか、女性の服装はちょっと堅苦しいな >清代のチャイナドレスはモンゴルのデールと同様にゆったりしてた。
それに、必ずズボンを穿いたから横のスリットから太腿が見えることもなかった。
清の宮廷の女性が着てる服は、なんだかパジャマみたいに見えるな もしも「漢民族」ではなく、「明民族」という民族名が採用されていたら、明が中国史を代表する王朝になっていた 漢朝滅亡からの二千年に及ぶ民族大移動を思えば、漢民族よりも明民族のほうが、明らかに正しい表現 漢民族も消えたわけでは無いだろ
客家を見れば分かると思うが 日本人の人種構成?は弥生、古墳時代以降は明治に至るまでほとんど変わっていない。
まぁ明治以降は白人やニダやらいろいろ混じってるが。
だがシナは漢の滅亡に五胡十六国やらで相当に乱れているようだな 日本みたいに同一人種間で延々と近親交配してる国が特殊なだけで
諸外国では国を越えての通婚は普通だから
フランス人は今や3人に1人が北アフリカをルーツに持つと言われているが
それでフランス人はいなくなったとかいうバカはいない 通婚が進んだと言ってももともと数億いた漢民族の濃度からすれば微々たるもの 日本は中世でも特に北部九州なんて日宋貿易、日元貿易、日明貿易でやってきた
福建辺りの商人とかなり混血しているぞ。
あと、鎖国する前の中世日本てのは、港からかなり離れたところまで福建人や高麗・朝鮮人の
商人が普通に歩き回っていたらしい。 でも中国由来の苗字って沖縄はともかく本土ではほとんどいないよね
そういえばヒトラーはオーストリアの百姓に多い苗字で
もっと元をたどるとウクライナになるらしい
まぁ大陸ではよくある事 江戸時代に鎖国が本格化したときに、それまで漢名を名乗っていた博多商人とか
長崎商人は、帰化の証拠として日本人らしい名乗りに改名させられたらしい。
福岡県だと博多商人の末裔に「龍」姓がかなり頻繁に出てくるんだが、
もともとは唐人商人に漢の皇帝の「劉」氏を名乗る者がかなりいて、
それが改名したときに「龍」に替えたという話が伝わっている。
それ以外の地域の一文字姓、例えば「釈」姓や「永」姓は漢名由来じゃなくて
僧侶の家柄を示す姓らしい。例えば「釈」姓は「釈迦の弟子」を示すとか。 知人に「劉」って名字の、れっきとした日本人がいるな
山口県出身だった >>325
古代の僧は、みんな「釈ナントカ」って名前だった
「釈道安」とか 釈迦の弟子なら出家してるだろうに
どうやって子孫を残したんだろうね >>321
「フランス人はいなくなった」とは言えないが、「フランス人は大きく変質した」とは言えるんじゃないかな? 韓国も結構異民族発祥の苗字があるよな
例えば同じ李氏でも女真族の青海李氏とかベトナムのほうの李王家発祥の旌善李氏、花山李氏とか
他にもウイグルやインド、イスラム由来の姓もある
まぁダントツで多いのは中国発祥だけど9割が国内発祥の日本ってやはり特殊なんだなぁとしみじみ >>330
日本では中世後期に一揆結合による村や町が形成されていったときに、
めちゃくちゃたくさんの名字が生まれたからなぁ。
本姓の方は平安中期にほぼ新しいのが生まれなくなって、例外が豊臣姓だっけ。 まあ、洋の東西を問わず、半島は通り道だからなあ
半島人ってのはたいてい、難しい国際情勢に揉まれて外交巧者になるもんだが、それにしては朝鮮人の外交下手っぷりが異常 ビザンツが文明の通り道にありながら1000年も独立を保てたのは奇跡。
現在のトルコ人の大半も元をただせばビザンツの民だったのだろうが、
国や宗教が変わったことで姓も大変革したのだろうか ビザンツ帝国は、いまでいうトルコの地もさることながら、まずはギリシャ人の帝国であることを忘れてはいけない >>332
華北の中華帝国、モンゴルやロシアといった北アジア帝国、日本という三強に包囲されているという地政学的位置でもう詰んでいる。
漢族に同化されなかっただけでよくやったと言ってやるしかないだろう。 >>337
その日本にすら手玉に取られているのが韓国 日中の関係が長年悪ければ間の朝鮮は外交が上手くなっただろうけど
関係が悪い時期は短いからね >>337
北朝鮮はアメリカ相手に粘ってると思うけどね
勝手に切れてアメリカに勝ち目の無い戦争を挑んだ国よりは >>340
戦後は戦争で負けた分を外交で取り返して戦前より大国になったから日本はやはり凄いよ。
千載一遇の首脳会談でドジ踏んで永遠に経済制裁喰らってる国よりましだw >>341
>戦前より大国になった
えっ?
どこの異世界の人? アメリカの衛星国として発展させてもらってるだけの日韓がお互い蔑み合うというギャグ 日韓はアメリカから建前上は独立してるけど明や清へ朝貢してた李氏朝鮮とあんまり大差ない >>344
全然違うやん
朝鮮に明清軍は駐留してなかったけど日韓には米軍が駐留しとるで 愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。
清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。
良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/%EC%9D%B8%EC%A1%B0%EC%9D%98_%ED%95%AD%EB%B3%B5.jpg >>347
ちなみに、ここでいう「清国皇帝」というのは、ホンタイジ
まだ、中華を征服する前の、満州の皇帝だった頃のこと >>348
この時点で、モンゴルの大ハーンも兼ねているな。 この点を誤解もしくは、認識していない人が多い
朝鮮は、中華王朝としての清に朝貢していたという面もたしかにあるが、それ以前に、満州の帝国だった頃の清に苛烈な侵攻を受けて武力で征服されている
学者でも、この経緯を知らずに、新聞や雑誌でピント外れな歴史観を披露してる人をしばしば見かける >>350
そう。
>>335で私も述べているんだが、朝鮮半島国家はどうしても3つの勢力からの圧力の拮抗点に位置している。
だから、一貫して中華帝国の属国であったわけではなく、北アジア帝国に屈していた時期もあれば、日本に屈していた時期もある。
当然、どの勢力からの圧力も強くなかった時期には独立性向を強めている。 >>351
朝鮮半島の独立色が強かったのは、宋が中華最弱王朝で、遼の侵攻を何度も撃退した高麗の前期くらいだな
元明清の北京帝国には、歴代ボコボコにされてきている 長安や洛陽から見れば、朝鮮半島は遠い
しかし、北京からの距離感はまったく違う
北京帝国の、朝鮮に対する姿勢は厳しい 東アジアの国際関係に関する日本人の認識は、唐の冊封体制くらいのノンビリしたイメージ
北京帝国による苛烈な侵攻や支配を知らずに、脳天気な歴史観を語る人が知識人にも多い 「北京帝国」というくくりを採用すると、そのプロトタイプは遼金帝国、
そしてさらにそのプロトタイプを遡ると五胡十六国時代の慕容鮮卑による三燕政権にたどり着く。
そもそもマンチュリアが本拠地の高句麗を朝鮮半島に押し出したのは慕容鮮卑だったし、
それに抵抗した高句麗の騎馬文化も慕容鮮卑のものが採用されている。
さらに慕容鮮卑の騎馬文化は玉突きの様に朝鮮半島諸国に伝わり、
最終的に伽耶諸国から5世紀の倭国のヤマト政権にまで伝わっている。
そして、古墳時代の東国の馬牧の遺跡の周辺からは北アジア的な
馬を斬首していけにえに捧げた祭祀遺構が多数発見されている。
どうやら慕容鮮卑系と思しき牧畜技術者、騎馬軍事技術者がある程度まとまった規模で
倭国に来ていたらしい。 >>345
支那の皇帝から朝鮮王に処女献上の勅が下った 一方その頃佐竹の殿様の国替えのため、茨城から美人が消えた まぁ、宮仕えの若者と後宮に仕える処女を献上するというのは古来の定番の
「服属儀礼」なんだけどな。
本邦でも古代にヤマト政権に服属した諸国の首長が「トネリ」と「ウネメ」を
献上する服属儀礼があった。
モンゴル帝国では服属国は大カアンに近侍する「ケシク」に君主の血縁の若者を、
大カアンの后妃が支配する「オルド」に処女を献上する服属儀礼があった。 清による激しい収奪で、朝鮮は東アジアの最貧国に成り下がった
そんな朝鮮を救ったのは、近代日本だった 明から清への王朝交代は、朝鮮にとって史上最大級の衝撃だった
清による収奪で、もともと貧しかった朝鮮はさらに荒廃した 朝鮮人女性にとっては、支配者である清人に性的奉仕することが最大の任務となった そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、
下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたことが
「渓陰漫筆」に書かれている。
そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けたと嘆いている。
(黄文雄『韓国は日本人が作った』徳間書店) なぜ、清の朝廷がこれほど朝鮮を冷遇したのかといえば、初期の頃の清に対して非常に反抗的だったからだ
モンゴル帝国と同じで、モンゴルに降伏するのが早いほど、待遇が良くなる
だから、ある意味では、がんばった朝鮮人に対する勲章ともいえる 清にとって、首都・北京に近く、本拠地の満州と地続きで、潜在的な脅威であるロシアと日本にも隣接する朝鮮半島の重要性が低かったはずはない
清が朝鮮を冷遇したのは、国としての格が低いからというより、単純に関係が悪かったからだ 清による過酷な朝鮮支配は、日本の左翼知識人が嫌う話題のひとつだ
これには、「ネトウヨ情報」と呼んで目を背ける
盛唐による寛大で気前のよい冊封体制を、あたかもそれが二千年間つづいていたかのように語るのが、彼らの好みだ 北京・上海から見た日本や朝鮮と、長安から見たそれとでは、距離感が違いすぎる
唐など、東アジア情勢を考える上で、何の参考にもならない
内田樹が「中国は、伝統的にシルクロードに目を向けてきた。日本や朝鮮などの東方とは積極的に関わろうとしなかった」と言ってるのを見て、
「コイツの歴史認識は、中学の教科書の遣唐使のところで終わってるんだな」と感じた しかし、明代は、朝鮮人にとっては割と居心地の良い時代だったようだ そりゃ、明代は喜んで漢民族の風習をまねていたんだからな。
でも清代になって満州族に仕方なく従っても、さすがに辮髪はまねなかった 韓国メディアで、韓国人の学者が「我々は長年、中国に服属してきた。中国以外の国に支配されたことは、近代に至るまでなかった」
と書いているのを見て、「そういう歴史認識なのか?」と驚いた。
モンゴル帝国が高麗に侵攻したのは、中国を統一するより前のこと。
高麗は、負けるたびに面従腹背し、モンゴル軍が帰るたびに裏切ったため、侵攻は何度も続いた。
最終的に高麗が屈服し、モンゴルは半島を拠点に日本遠征を敢行したが、これも中国を統一するより前のこと。
そもそも、日本に遠征すること自体、南宋攻略作戦の一環だったとも言われている。
清も、朝鮮に侵攻したのは、山海関を越えて内地に入るより前の、まだ満州の王朝だった頃だ。
朝鮮は、負けるたびに面従腹背し、満州軍が帰るたぴに裏切ったため、侵攻は何度も続いた。
最終的に朝鮮人は屈服して三叩九拝し、清は満州から朝鮮にまたがる、南北に細長い国になった。
これを「中国に服属した」とするのは結果論であり、あまりにも大雑把な見方だ。 「朝鮮人は、寛大な超大国の中国に形式的に服属していたのであり、侵略されたことも、支配されたこともない」という話を真顔でする人が文系知識人にも多い。
先日も、内田樹がそういう話をしていた。
「だから、中国は危険ではない」というのが、内田みたいな左翼の爺さんの主張なわけだが、これは歴史を知らなすぎてヤバいレベルだ。 韓国では、清による朝鮮侵略(丙子胡乱)をテーマにした本がベストセラーになったり、映画になったりしている。
取り上げ方がまた朝鮮人独特の発想で、
「いまは覇権国のアメリカが衰退し、中国が取って変わろうとしている。
これは、明が衰退して、清に交代した時期と酷似した状況だ」
というので、この時代ににわかに注目が集まった。
朝鮮は、明に忠誠を誓って清に無礼な態度を取ったり、突如として清にスリ寄ってみたり、外交方針が一貫しなかった。
結局のところ、清を本気で怒らせてしまい、苛烈な侵攻を受けることとなった。 元朝以外の歴代中華王朝は何故か日本には甘かったな。
形式的な朝貢こそ求めたが(それですら下賜として数十から数百倍を返している)、皇と称しても不問だし
文化的には計り知れない程の恩恵を与えている。 「北京政権」なんて奇妙な概念を立てなくてもいいだろ。
朝鮮にオラオラしてきたのは、シナではなく北アジア系の軍事帝国だった。
これは地政学的に当然で、朝鮮半島は満洲に付属しているのであって、シナとは黄海を隔てている。
中華帝国とされる帝国は、山海関を越えて遼東に入らない限り、朝鮮をこづきまわそうとはしない。
燕王たる永楽帝以降の明が、やや過渡期的で特殊だったというだけ。
洪武帝・建文帝の明は「呉」だったが、永楽帝以降の明は「燕」に変わったと考えてもいい。
つっても、「燕としての明」の後半には、南満州の半分ぐらいは中国語話者の居住地域に化けてるけどね。
この南満州の中国語話者を八旗に取り込んだことこそ、後金・大清の飛躍の原因だったりする。 >>373
朝鮮のことばかりではない
高麗のことも考えている >>376
そこだな、ポイントは
「満州」を「中国」に含めて一括するのは、現代の地図の影響を受けすぎている
少なくとも清の初期までは、この2つを区別するべきだ いわゆるマンチュリア・中国東北部を満洲と言えないならなんと言えばよいのか?
「遼」では聊か中心地が南に寄り過ぎている感がある
「東夷」では朝鮮や日本も含まれてしまい地名として不適切
「ワイ狛」ではその名を持つ民族が現存しなくてやはり地名として不適切
「遼北」これは指す範囲が狭すぎる
「キタイ」は現在では中国そのものを指す 結局のところ、中国共産党による「満州」抹殺は成功した
そのおかげで「満州」は消えた、というわけだ >>379
縄文時代の日本では、とか言うでしょ
国名ならまだしも地域名ならそこまで厳密になる必要はないよ 明にとって当初、最大の脅威は北方のモンゴル(北元=元)であったが、北東に位置する、統一された満州(女真)民族から度重なる攻撃を受けるようになる。
後に明は滅亡し、満州民族による「清」は、万里の長城を超え南下し、中国を支配し、モンゴルをも支配した。
ちなみに満州は、外満州と内満州があり、現在、外満州がロシア領、内満州が中国領である。
従来の中国の概念では、満州は、中華圏に含まれず、万里の長城で遮断された東夷,北狄といわれる場所であり、万里の長城の東端の関所より東にあることから「関東」とも呼ばれた。
旧日本軍の「関東軍」は関東州からだが、その語源は、ここから由来する、
http://www.geibundo.com/mizuhonokuni/manshu_map01.jpg 明・清の時代(1368〜1911年)の500年あまりの時期は、中国の封建社会が没落していった時期である。
この時代の封建政権は、政治的には非常に専制的な形を取り、意識形態に関しては仏教と道教を融合した儒家道学(理学や心学を含む)を尊重し、外交に関しては鎖国の政策を取った。
鎖国・愚民の政策をとる強権政治の下では、国内に新しい階級が起こることもなく、国外から異文化を導入することも難しかった。
だから、この閉鎖的な社会体制には停滞と腐敗の趨勢が現れた。
明代の市民社会はにぎやかで、ある程度の商品経済の発達やいわゆる資本主義の芽生えが見られたが、階級による搾取や圧迫はかなり酷で、人民は屈辱や困苦の中であがくばかりだった。
清帝国の建国は中国の歴史的な進展を遅れさせた。統治者は儒家の思想によって専制政権を強化し、民族間の対立や階級の矛盾を調整しなければならなかった。
この時期は、保守的な動きによって社会の文化を損なった時期である。
かくして、明・清の時代には道教や仏教は急速に衰退し、教団も発展せず腐敗した。 皇帝専制の官僚国家、明
遊蕩にふける引きこもり皇帝でさえ、その気になればいつでも大臣を罷免できるほどの絶対的な存在
フランスに先んじること2百年、15世紀に早くも絶対主義を実現した 「1人だけが自由人であり、あとの全員が奴隷」という社会
ヘーゲルも強い影響を受けた イメージとしては、明はフランスのブルボン王朝
清はドイツ帝国に似ている ロシア帝国も、農奴制の国
アメリカ合衆国はアフリカから黒人を連れてきて奴隷にしたが、ロシア帝国は自国の国民を白人奴隷にした
中国とロシアで、何か相通じるものがある
モンゴル帝国の支配を受けると、そういう社会になるのだろうか でも、フランス王国ブルボン朝の「絶対王政」ってのは、
あくまでも各種社団・身分団体間の絶妙なバランスの上に成立していたんであって、
決して明朝の皇帝のような真の絶対権力などではなかった。
明朝の皇帝の絶対権力ってのは、やっぱり政権を支える士大夫地主層の
身分としての不安定さが背景になっているんだろうな。 明では、都市では貨幣経済が発達して、富裕な商人が台頭し、贅沢三昧の日々を送っていた
だが、農村の土人たちは農奴そのものだった
現代の中華人民共和国でさえそうなのだから、ましてや明清では仕方ない >>394
士大夫地主層は、「三代つづけて科挙に不合格だと、その家は没落する」とまで言われるほど、官職が必須だったからな
おそらく、官職につかないと、官僚に搾取され放題で身を守れなかったのだろう
皇帝とは運命共同体だ >>393
明清の士大夫地主階層のもとで働く小作人ってのは、移動の自由のない農奴とは違うだろ。
小作人でも商売などで巧みに小金を貯めて、一族の優秀な若者を私塾に通わせて
科挙官僚を出すのに成功すれば、士大夫地主階層にのし上がることができたし、
逆に士大夫地主階層でも何代にもわたって一族から科挙官僚を出すことに失敗し続ければ、
没落して小作人に転落しかねなかった。
また、ロシア帝国での「農奴制」ってのも、むしろ15世紀以降の「脱モンゴル化」の時代に
進行したもので、ロシア帝国支配の残滓とはいいがたい。
ポストモンゴル時代の内陸ユーラシア世界で発展した中型帝国、特にオスマン帝国、
サファビー朝、ムガル帝国、明清帝国を火器武装の充実のために中央集権化と
中央財政の強化を極度に進めた、という観点から最近は「火薬帝国」という観点で
分析する見方が出ているが、モスクワ大公国の中央集権化、徴税強化、農奴制の強化、
というのも、この「火薬帝国」の観点で解釈できるんじゃなかろうか。 彼らは、どんなことがあっても皇帝を支え続ける
たとえ引きこもりで遊蕩三昧のバカ皇帝でも、ひとたび朝儀に姿を現せば絶対権力者だった >>397
なるほど、いくら明清の小作人でも、「農奴」ではなかったか >小作人でも商売などで巧みに小金を貯めて、一族の優秀な若者を私塾に通わせて
科挙官僚を出すのに成功すれば、士大夫地主階層にのし上がることができたし
それもそうだな
実際、ブルボン王朝時代のフランス知識人は、「身分が固定されていない。下層民でも出世できる」と、清の社会制度を称賛していた 「三代つづけて科挙に合格しない」、つまり、一族の誰も官職についていない状態だと、いくら地主でも財産を守れないほど社会的に弱い立場に立たされた
地主にとっては厳しい社会だ
漢の豪族なら、そんなことなかっただろう
明では、「民間は弱く、官吏は強し」の社会が定着した 郷里社会で指導的な立場にある士大夫地主階層ですら、
身内から官僚を出して自己防衛しないと国家による激しい収奪にさらされてしまう。
しかも、同じ身分で団結して「社団」を形成し、自らの権益を守るというルートが
遮断されている。
これは、ある意味小作人より地主階層に厳しいというか、彼らが皇帝権力に強力な
発言権を持つ団体を形成しないように仕向けている国家制度だよね。
ここら辺の国家制度の分析に「火薬帝国」の視点が援用できないかと考えているんだが、
実は明朝の軍用火薬の原料の硫黄の巨大な供給源だったのが、日本や琉球王国との
交易だったんだな。ここら辺で、明朝の専制支配と日本史がリンクしてくる。 火薬はもちろん重要だ
モンゴル騎馬軍団が登場するまでは、機動力がなさすぎて、広大な国土の支配など有名無実だった
鉄砲・大砲が登場するまでは、農民がクワを振り回して暴れただけで正規軍が負けることすらあった
中央の軍隊が強くなったことが、明清帝国の強大な統制力につながったのは間違いない 古来から勝てた試しのないウイグル騎馬軍団を最終的に屈服させたのは、清の乾隆帝のとき
同じ時期のロシア帝国と同じで、鉄砲の威力で領土を広げた >これは、ある意味小作人より地主階層に厳しいというか、彼らが皇帝権力に強力な
発言権を持つ団体を形成しないように仕向けて
それはあるだろうな
江戸幕府が、「いかにして地方の大名の力を削ぐか」を大目標に掲げていたのと同じ
大陸の地主はスケールが半端ない
放っておいたら、独立国になりかねない >>397
ムガール帝国のどこが極度の中央集権だよ…('A`)
あんた、事実を脳内でねじまげて、怪しい統一理論にすべてを強引にこじつけすぎだ。
一事が万事そんなじゃないかよ。コテつけてなくてもすぐに分かるぞw
世の中、そんなに演繹的にはできてない。ヘーゲル哲学やマルクス主義じゃあるまいし。 強いて理論的な説明をするなら、科挙というのは、皇帝権力が、漢民族特有の大家族制度と絶縁させるためのもの。
科挙制度の最大のキモは、官吏となれる権利が一身専属(相続は絶対に不可)ということで、
これを徹底させるために、完全に平等な試験制度に行き着いた。
官僚の一身専属性と引き換えに、官僚一族は免税として経済的利便を与えて、受験のインセンティブを確保した。
なぜ免税が決定的なインセンティブを与えるのかというと、
漢民族は均分相続する父系嫁取りの大家族(外婚制共同体家族)なので、所有農地を不断に拡大させ続けないと
文字通りの「たわけ」になってしまい、一族の繁栄を維持できないから。
つまり一定の農地(限定された代々の相続資源)に閉じこもって系譜を維持することができない。
ムガールだとかサファーヴィーだとかオスマンだとか関係ないw
(全然関係ない板のネトウヨ系のスレを面白がって覗いてたら、うっかり誤爆してしまったwこっちに正しくレスする) >>407
なるほど、「三代つづけて科挙に不合格だと、その家は没落する」ってのは、そういうことなんだな
官僚になれば免税、なれなければ重税
遺産分割で消えるというわけか 国家権力は、まさにリヴァイアサンと化した
官製学問を勉強して官吏登用試験に合格しなければ、国家に収奪されて、大地主でも没落する
現代の税制と違って、明清の税制は、地主への資産課税
ボヤボヤしてたら、国家に身ぐるみ剥がれる それを防ぐための唯一の手段は、自分も官僚になって、収奪する側に回ること
「官僚になって蓄財すれば、孫の代まで困らない」と言われた
逆にいえば、子供や孫が科挙に合格できないと、せっかくの蓄財も食い潰すことになる いや、「清官三代」だ
孫子の代で使い果たしてしまう程度の財産しか残せないのは、賄賂を積極的に取らない清廉潔白な「清官」の場合
腐敗官僚の蓄財は、とてもそんなものではなかった >>411
それと比べると、日本の江戸時代の賄賂なんて、「おこづかい」程度だよなぁ。 江戸時代は明らかに幕府がマンパワー足りてないんで
賄賂言うか行政手続きのための手数料取ってるレベルだったのよな >>413
明清帝国の中華支配の官僚制専制支配と違って、
日本の幕藩体制ってのは町や村の共同体自治に統治のかなりの部分を委託するシステムだからね。
犯罪者を収容した牢獄にも共同体自治委託(牢名主)を適用していたのだから、徹底している。 近年はコンビニで税金を払える様になったが、現代日本におけるコンビニは中世ヨーロッパでいう教会に相当するニッチに収まっているのだろうか? >>416
地域住民が個々にバラバラにコンビニに連結しているだけで、
コンビニに連結している地域住民間の横のつながりがない。
横のつながりによるコミュニティ形勢があって初めて、
欧州の教会と同じニッチと言える。 日本での教会のニッチは昔ながらの会社が占めているだろう >>418
その会社が互助的共同体のポジションを放棄しつつあることで、
地縁血縁共同体解体後の日本社会ははしごを外された状態になってきている。 教会=学校だろ。教員が聖職者と言われるのは理由がある。
コーポラティズム型の企業に対応するのはイエ。 それをいうなら、ネットの掲示板やツイッターがその役割を果たしてるんじゃないか 唐は家柄がモノをいう貴族社会
明は学歴がモノをいう科挙社会
家柄から学歴へ、人間の価値を決める尺度が、唐と明では大きく変化した ちなみに、中華人民共和国ではどうかというと、「どれだけカネを持っているか」で人間の価値が決まる アメリカ以上の純粋な弱肉強食社会になってるようだな
中国についての本とか色々なドキュメンタリーとか見るとわかる 今でも学歴社会。
子供たちの勉強量が半端ない。
大学での成績次第で、
その後の収入格差が十倍以上。
親も子供も必死。 共産党の子弟ばかりが出世して「太子党」になってるところは、隋唐をもしのぐ階級社会 中華人民共和国は、時々毛沢東とか今の習近平みたいな独裁者は出現するけど、
基本のシステムは一人による専制支配じゃなくて、中国共産党=人民解放軍の幹部による
集団指導体制=寡頭支配体制。
もとから皇帝一人による専制支配を志向していた明帝国より、
武川鎮軍閥系貴族の集団指導体制を志向していた唐朝に性格的には近いかも。 >>427
>>428
自民党と同じですね
総理大臣が元総理の孫とか子供ばかりだから >>429
そうだな
ただ違うのは、日本だと、いくら親から地盤や看板を引き継いだからといって、自分自身が選挙に勝たなければ議員になれない
中国共産党の太子党の場合は、選挙に出る必要すらない
この違いは大きい >>428
太子党が関隴集団で、共青団が科挙官僚
江沢民派が山東貴族・・・といったところか >>429
日本の場合は政界はもとより企業ですら中小も含めても9割が世襲経営者という異様なことになってるからな
それどころか医者や教師、弁護士すら世襲で成り立っている 日本の場合、「家」が家職の継承機関というシステムが実に根強く生きているからね。 >>432
そのあたりの仕事は実はそんなにおいしい仕事じゃないから世襲だらけになるんだと思う 日本では学者も世襲が多いが、研究者として成功するか否かは、
大学院でどこの研究室に所属するかが深くかかわってくるからね。
親につながる人脈で自分に適した研究室をキャッチしていると、
スタート地点で圧倒的に有利になる。 日本の場合はずっと世襲だわな
現代の科挙のキャリア官僚を除いて
少数の例外は成り上がり者と呼ばれる 真田幸村が日本人に人気なのは「戦の天才」であるのはもちろん
「上司に恵まれず、力を発揮できなかった。だから悲劇の将になった」ことが大きい。
だから上司に不満タラタラのサラリーマンの共感を呼ぶ 上司に気に入られて大出世した秀吉のサクセスストーリーの方が人気だろ まあ、そうだな
日本と欧州は、世襲の傾向が強い
アメリカと中国のほうが、もっと実力主義で上下の変動が大きいねえ
もちろん、一概には言えないし、程度の問題だけど でも、アメリカだって、けっこう世襲社会だよ
一代の成り上がりは、最近のIT長者くらいだ
そもそも、教育費が高くて、親の貧富による子供の学歴格差が大きい 大ブッシュ大統領→クリントン大統領→小ブッシュ大統領ときて、
次の大統領候補もクリントン夫人とブッシュ弟が有力だった
下手すりゃ、ブッシュ家とクリントン家だけで大統領を30年くらいやりかねない勢いだった そう見てると「太子党」と言ってる人がバカに見える
どこの国でもある話なんだよね
世襲なんて ニューヨーク市長だって親子2代目だ
市長の弟は人気ニュースキャスター >>442
でもなあ
日本や欧米では、いくら世襲といっても、やっぱり選挙に通らなきゃ政治家になれないんだよねえ
中国では、選挙に出る必要はない
この違いは大きいよ
いくら地盤・看板を受け継いでるとはいえ、選挙は楽なものではない >>444
日本の世襲議員の権力闘争は甘くて安倍さんみたいなボンボンでもトップになれる
中国は選挙はないが世襲した者同士の権力闘争が過酷で負けたら死ぬか一生強制労働
令計画とか生きてるんだろうか? あと中国は共青団という世襲でないエリートがいるのも特徴
良く出来てるシステムだな >>445
左翼はそういうけど、あれがボンボンの顔か?
かなり人相わるいぞ? >>448
いやいや、一家で左翼なのは爺さんだけ
子供と孫は保守
それが普通 >>450
ソ連流の「計画経済」にかぶれてたんだよ。 >>451
1930年代は、アメリカをはじめ世界中が大不況のドン底で、ソ連だけは五ヵ年計画で着実に発展する驚異の存在だった
当時なら、かぶれるのも仕方ない >>439
>>440
経営者が世襲制のいわゆるファミリー企業はEU全土で総計しても6000しかない
アメリカは案外世襲率高いがそれでも800社程度
一方日本は3万社とほとんどの企業が世襲制をとっておりこれは世界的に見ても特異 長く続く会社が無いのが、中国・韓国の特徴
「なぜ、日本には老舗企業が多いのに、我が国には無いニカ?」というのが彼らの悩み 官僚国家で学歴社会の明では、「三代つづけて科挙に不合格だと、その家は没落する」と言われた
その代わり、科挙に合格すれば、「清官三代」(清廉潔白な官僚でさえ、孫の代まで困らないほど蓄財できる)と言われるほど儲かった
官僚が儲かるということは、そのぶん、官位のない地主が収奪され、身ぐるみ剥がれて、官僚に所得移転するということ
三代で没落しないためには、一族の誰かが科挙に合格するしかなかった 財産は世襲できるが、官位は世襲できず一代限り
このため、科挙は熾烈な競争となった >>455
逆に、「何百年も商人や職人やってる一族とか、官僚を輩できない馬鹿一族なのか?」
って思うんだって >>437
部屋住み、人質生活の次男坊が豊臣秀吉に気に入られて一気に成り上がる
サクセスストーリーの前半生を知らないのかな? >>459
90年代、大学院生の時に韓国からの留学生と親しくなってあちらの社会の事をいろいろ教えてもらったんだが、
研究者が研究者であり続けることを人生設計にしているとあちらの社会では軽蔑されるらしい。
研究者として成果を挙げて名を成したら、政治家か実業家として成功することを次のステップとすべし、
というのが社会通念なんだそうだ。 所得税とかまともに払ってるのはガラス張りのサラリーマンぐらいだけどな
税務のほうでは俗にトーゴーサンピンと言うぐらいで被雇用者以外は実質所得とか半分も把握できてないのが実情 >>464
そういえば業績をたくさん挙げたけど常勤になれなかった仏教学者が自殺してたね
常勤の学者にこだわらずに生きていたらと思うわ >>464
そんなに学者から政治家になりたいもんかねぇ
まぁ日本ではタレントから政治家が大流行りだが
なんでメロリンQが直訴左翼政治家やねん 明では、「科挙に誰が合格したか?」が関心のマト
合格発表(放傍)には注目が集まった
なにせ、科挙に合格すれば権力者で大富豪、
不合格なら一族は三代で没落という運命の分かれ目
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f9/Civilserviceexam1.jpg 科挙が本格化したのは宋だが、まったくの科挙社会と化したのは明
学歴至上主義の弊害を絵にかいたような社会になった 科挙にもいろんなグレードがある
合格者が数十人しかいない「進士」は特別
もっと下のランクでも、合格する価値は十分に大きい 会試(中央でやる本試験)まで行けなくても郷試(各地の地元でやる予備試験)に合格しただけ(挙人)でも
村の名士くらいにはなれた >>464
せっかく勉強したのなら、科挙に合格して官僚になるのが当たり前の社会だからな
三年に一度、全国で30人くらいしか合格しない進士ともなると、もはや「受験生」なんてものではなく、一流の学者として認められたといってよいレベル
歴史的に有名な文化人も、みんな科挙は受けていた
唐の詩人たちでさえ、科挙を受けない世捨て人など、李白くらいのもの
杜甫は、詩人としては最高だけど、学業は苦手で科挙に落ちた 明代は超薄給のブラックな時代。
俸禄だけでは食っていけないので、賄賂をもらうしかない。 科挙でまがりなりにも優秀な人材を獲得できたのは宋代までだな。
明代の科挙官僚の劣化は否めない。
科挙を受けない宦官の方が優秀じゃないか。 >>474
明代は官僚受難の時代
独裁者と化した皇帝にシゴかれ、命がけの宮仕えだった
宦官のほうが元気があった >>475
能力的に腐敗宦官に敵わないのが科挙官僚であることを証明してるだけでは?
もちろん腐敗宦官の弊害もあるが、
一方で王朝が長期存続できたこと自体は
宦官の働きが大きいと思うよ。
科挙人は現実対応力がなく、実務に役立たない。
宦官の方がマシだから。
ある意味、宦官組織からの掣肘があって初めて、
科挙官僚が機能できた。
ついでに崇禎帝に殉じたのは宦官だけ。
官僚は全員、李自成に尻尾振る裏切り者。
信頼性、信用度でも疑問。 中国の時代劇に出てくる科挙官僚は、学者っぽい地味なお爺さんばかりで、皇帝の逆鱗にふれて辺境に飛ばされることが多い
どのドラマを見ても、宦官のほうが圧倒的に存在感あるな 明で有名な宦官と言えば鄭和、王振、劉瑾、魏忠賢
立派な人物は鄭和くらいで、王振は帝をそそのかしてモンゴルへ親征させ、
結果として大敗した。
劉瑾は正徳帝を遊び漬けにして賄賂を溜めこんだ挙句皇位簒奪を企み
魏忠賢は天啓帝が趣味の日曜大工に熱中している間にまたも賄賂を溜めこみ明を滅亡に追い込んだ。
心ある官僚は魏忠賢の息のかかった錦衣衛にみな拷問されて殺されている。 明の科挙官僚としては、張居正が断トツで有名だな
あとは楊士奇・楊栄・楊溥の「三楊」あたりか。
ちょうど、江戸幕府の保科正之、大老・酒井忠勝、老中・松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら「寛永の遺老」みたいな感じで、明の全盛期を支えた 科挙に理系科目が無いのが痛いな
土木に農学、天文学、化け学、経済を教える学校はなかったのか 明と江戸幕府は、いろんな点で似ているなと思う
「アメリカで起きたことは、十年後に日本でも起きる」とよく言われるけど、
この時代は「中国で起きたことは、百年後に日本でも起きる」といったところか >>481
昔は「明算科」ってのがあって、算術の試験をやってたんだが
王安石の改革で進士科に一本化されて、なくなった 唐の最高学府・国子監では、算術もやっていた
それに習って作られた平安時代の大学寮にも、算術の科目はあった。
平安時代の貴族は、意外なほど算術の勉強してた 韓国の時代劇に出てくる科挙官僚は、
派閥争いばっかりやってる。
どうせ派閥に分かれた理由っていうのは
儒学の解釈とかのくだらない理由だろ?
ところで朝鮮史に有名な宦官っていないの? >>485
>朝鮮史に有名な宦官
朴不花
韓国ドラマ「奇皇后」は見たかな?
北京で元朝の後宮にいた、高麗人の宦官
ドラマ自体はまったくのファンタジー時代劇だけど、そういう有名な宦官はいた
高麗は、モンゴルに美女だけでなく、宦官も献上してた >>485
李氏朝鮮には「書院」っていう儒学学校がいくつもあって、この書院出身者ごとに派閥が形成されていた。
言ってみれば、「学閥」だな。 >>486
モンゴル帝国のオルドは中華の後宮みたいに男子禁制じゃなくて男性の臣下もいたのに、
献上された宦官はどういう役割を果たしていたんだろうか。 >>486
「奇皇后」は、一瞬見て、元朝宮廷がまるでモンゴル風じゃなくて朝鮮風の風俗で描かれていたので、
落胆してすぐ見るのをやめた。
モンゴル人の名前も、漢字表記の朝鮮読みで呼んでるし。 >>481
知県さんも農政やら徴税やらの実務は胥吏に任せちゃうんでしょ?
官僚の第一の務めは格調高い定形の文をすばやく書けること。
なので科挙の意味はある。 明の末期に書かれた産業の科学学術書「天工開物」
筆者の宋応星は、郷試に受かって地方役人を歴任していた。
だが明の滅亡に殉じて職を辞し、清には仕えなかった
調べてみたら、マテオ・リッチと親交のあった明末期の数学者、天文学者の徐光啓は
進士に及第してるんだね。
科挙に理系科目が無くとも、能力があれば自分で学べばいいわけだ >>477
あのさぁ・・2万人いた宦官の中で殉じたのが王承恩だけって
どこが義理堅いんですかねぇ
後金と内通して袁崇煥を刑死に追いやって明滅亡の遠因を作ったのも宦官連中なんだが 儒教を異常に敵視するあまり宦官を持ち上げてしまう異常者w >>480>>482
酒井も阿部も、譜代も譜代、松平が三河の二流土豪だった頃から付き従っていた
最古参の松平家臣(安祥譜代)の末裔じゃねーか。
科挙官僚とは対極の存在だ。
似てるもクソもあるものか。全くこれっぽっちも似ていないwwwwww
日本は、どの時代をとっても明帝国とはいかなる意味でも似てないけれど、
(この全く似ても似つかないことこそ、後に大和民族の民族性としてクローズアップされる要素にもなる)
カージャール朝ペルシャと、ダイチン(清)帝国と、江戸幕府は、変なところが似てるけどな。
カージャール朝の末路をみるにつけ、江戸幕府の政治外交史は幸運の連続だったのだと思う。 はたして鎖国政策は日本史にプラスに働いたのだろうか?
鎖国のおかげで南蛮による侵略を退け、日本独自の文化が発展したというが
鎖国が無ければもっと早くに近代化し、「移民」によって海外での地盤を平和裏に獲得できた可能性もある。
東南アジアの華僑のように >>494
テュルク系騎馬民族だったガージャール部族連合の定住文弱化、八旗武人貴族の文弱化、直臣旗本の文弱化・・・
確かに政権の中核軍事集団がのきなみ文弱化して軍事政権としての正統性を喪失していっているな。 中国やトルコと同じように西洋の衝撃が衝撃にならずにゆでガエルになるだけだと思う。
第一次大戦までは何とか独立を保って、函館をロシアから取り返そうとして敗戦国になるかな。 「鎖国」してなければ、「近代化」が早かった、という前提も少し吟味したほうがいい。
まさに中近東がいい例。 ガージャール朝の一つ前、サファーヴィー朝の17世紀前半の外交政策は、
徳川幕府初期のそれとそっくりだものね。
カトリック勢力の胡散臭さを見抜き、プロテスタント国の不干渉を気にいってこちらと関係を結んだり。
でも、結局18世紀にボロボロになってしまう。
そういえば、徳川幕府も7代でいったん血統が途絶え、連続する天災を食らって統治もガタガタになる。
吉宗で思う存分仕切り直しができたのは、この時外国が誰も何も干渉しなかったから。
まあ、何にしても明とは何もかもが似ていない。
むしろ、大和民族の大和たるゆえんは、実は「明と何もかもが全く違う」という点に求められるのでは?とすら思う。
宋以前だと、殷、周、春秋戦国、漢、六朝、隋唐、宋、案外いろんなところに日本との共通点があって、
日本もまだ東アジアの一部だよね?という雰囲気が濃厚にある。 >>491
そんな数学・工学の才がある連中が、幼少の頃から四書五経の膨大な暗記に追われていたのだから、社会的損失は大きい >>491
徐光啓は、マテオ・リッチと親交というより、志願して弟子入りしたんじゃなかったっけ?
ユークリッドの「原論」を漢訳した。
杉田玄白の「解体新書」は18世紀の後半だから、二世紀ほど先んじている。
徐光啓みたいな人がもっといたら、明清は日本よりずっと早く西洋文明を取り入れていただろうが、
幼少の頃から四書五経で脳ミソをガチガチに固めてる連中じゃ、普通は無理。 そもそも明は宗教結社からその組織がスタートしていて
地下のカルト組織が元になった国民党や共産党と相通じるところがあるし
日本ではその手の宗教カルト組織が権力を握った例はないからなぁ
オウムが政権握ってたらもしかしたら明に似た日本になったかもな >>495
江戸幕府が参勤交代を二百年つづけて、ようやく日本は1つの国としてまとまった。
室町幕府は、つねに地方勢力との 闘争に追われ、統一国家なんてものとはホド遠かった。
鎖国しないほうが、日本にはいろんな可能性が開けただろうけど、バラバラなのでリスクがあった 来日していたスペインの宣教師たちは、「日本は南洋諸国などとは違って、強力な軍隊を保有している。
我が国の海軍が遠征しても勝ち目はないから、人民をキリスト教化して反乱を起こさせ、
内と外から攻めるしかない」
とかなんとか、露骨に手紙に書いて本国に送ってた
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、みんな西洋文明を取り入れて世界に雄飛したがっていたが、あまりにも難しい国際情勢だった 中国も同じだ。
唐も、室町幕府と同じで、「統一国家」などとは名ばかりだ。
明が強力な全国規模の官僚機構を作り、鎖国的な海禁政策を敷いて、やっと統一国家らしくなった。 もっとも、海洋での覇権を握った国々、ヴェネチア、ポルトガル、オランダは、どれも驚くほど小さな国ばかり
どれも九州が独立したくらいの国家規模なので、日本に統合されさえしなければ、九州にも海洋覇権国家の資格は十分にあった
福建省や広東省にも、その可能性はあった >>493
だって蔑むべき宦官にも劣るんだもの。
科挙官僚が。 >>506
鄭成功の勢力が残ってたらどうだったかなぁ?
鄭氏政権は内部分裂で弱体化しちゃったんだけど。 >>509
でも鄭軍閥が台頭する前に
日本では戦乱が収まって
豊臣・徳川が海賊衆を骨抜きにしちゃったし >>510
秀吉は朝鮮じゃなくて、南方海域へ進軍すべき。
家康は朱印状を発給するだけでなく、
元海賊衆の海軍を創設して、
朱印船に艦隊を同行させるべき。
スペイン、オランダを駆逐して欲しかった。 >>499
大明は大元ウルスのいいところを捨て去ったうえで「魔改造」した成れの果てという印象だなぁ。
一応、パクス・モンゴリカの14世紀の解体に伴う混乱を乗り切るための危機管理政権なんだろうけど。 >>499
カトリックのイベリア半島諸国はキリスト教の大義を掲げて殴りかかってくるけど、
大言壮語で戦略性を欠いていて、結局は大したことはできていない印象。
むしろ、プロテスタント諸国の方が甘言を弄して裏口からするっと入り込んで、
情報も何も抜くだけ抜いて、しまいには金融支配でズタボロにされる印象。
特に、プロテスタント諸国が得意としたのが「博物学者」を使った情報収集。
シーボルトの活動なんて、日本の尻の毛羽まで抜くほどのすごい情報集プロジェクトを組んでるからね。 >>501
モンゴル帝国の王侯は、教養としてユークリッド幾何学をたしなんでいたらしいね。 >>502
中国で旧政権を倒したり新政権を樹立するのは、北方騎馬遊牧民系の軍閥か、
飢饉などで地域社会が連鎖崩壊したときに発生する武装難民系の軍閥かのいずれかなんだけど、
この後者が軍閥として成功する条件ってのがあって、
ひとつが塩賊などの経済秘密結社との結託で、
もうひとつが宗教秘密結社との結託。
武装難民、経済秘密結社、宗教秘密結社というのが、一種の「三位一体」になってるんだよな。 >>516
黄巾は宗教秘密結社色が前面に、黄巣は経済秘密結社色が前面に出ているけど、
いずれも地域社会の崩壊で発生した武装難民が存在しなければあそこまでの武装勢力にはなれなかった。
逆に、宗教秘密結社か経済秘密結社が武装難民の核にならなければ、軍閥としての統合は難しかっただろう。 朱元璋は成功し、
李自成や洪秀全はなぜ失敗したのか? >>517
国民党や共産党にも秘密結社の多くが加わってる。
天地会、大刀会、小刀会、哥老会、、、といろいろ、
太平天国や義和団、孫文の運動なんかに加わっている。
哥老会の幹部だった賀竜は、
人民解放軍の創設者の一人になってる。
解放軍の主席元帥の朱徳も哥老会に加わってた。 >>518
失敗するほうが普通で、成功するのは奇跡
ちなみに、永楽帝のクーデターもそう
地方の皇族が反旗を掲げて独立するのはよくあることだが、鎮圧されるのが普通 >>513
ただ、情報に関しては、知られなければそれが利益になるかというと、そんな単純な話でもない気がする。
シーボルトは、伊能図の明白なスパイ行為などはともかくとして、
本職の植物学分野では、日本に多大な貢献をしたとすらいえる。
シーボルトの紹介のおかげで、標準産地が日本になってる汎東アジア分布の植物っていっぱいあるんだよね。
あれ、彼がいなかったら全部中国標準になるところだった。
今は中国が植物相を積極的に英語で公開して、wikipediaなんかにも大量に載せてる。
多分、工作の意図があると思う。
日本人の植物学者はこういうアピールが全く駄目で、英語版でも日本のことはほとんど何も書かれてない。
あのソメイヨシノの起源論なんかも、無能韓国を鉄砲玉にした、中国の工作という面がある。
中国はいつのまにか、ヤマザクラの標準産地を乗っ取ってしまった。 >>522
旧共産圏の中国とかロシアなんかは、生物相(動物相:ファウナと植物相:フロラ)を
明確に自国人民の固有の財産と規定して、資本主義諸国より徹底的に調査解明を進めている。
そういう調査を国家プロジェクトにしているからね。
資本主義諸国の中でも日本は特に自国の生物相の把握に不熱心で、
生物多様性分野の大学ポスト、博物館ポストがどんどん削られている。 >>520
永楽帝の死後には皇子が洪熙帝として即位したが肥満体系のせいで即位後一年で崩御した
あとを受けて洪熙帝の皇子、つまり永楽帝の孫が宣徳帝として即位した。
だが洪熙帝の弟、つまり新帝のおじが皇位簒奪をたくらんだ。
あたかも、かの靖難の役のようなぐあいだ。
しかし宣徳帝は果断に対応して乱を鎮め、叔父を監禁したあげく焼き殺した。
かの靖難の役も、建文帝が果断に対応していればすぐに鎮圧できたのに。 >>524
靖難の変も、結果を見れば、なんだか歴史の必然みたいに思えるが、まったくそんなことはなくて奇跡の勝利。
南京政府の中央権力は強大で、必敗の戦だった。
四年にわたって粘り抜き、奇跡の逆転勝利。
永楽帝が何度も絶体絶命の危機を切り抜けたため、「建文帝が、叔父を殺すなと命じていたのでは」とも言われている。 永楽帝個人の強運もさることながら、「首都を王城の地・北京に戻せ」という、天の意思だったのだろう >>528
そんなこと言うんやったら長安に戻さなあかんやん >>528
普通、王朝を支える最強軍団は皇帝のおひざ元に置く。
ところが、大明では中華属領を回復せんとする大元ウルス(北元)と対峙していたために、
東モンゴリアに対する前線拠点である北京(燕)の燕王のもとに最強軍団を置かざるを得なかった。
南京の皇帝直属軍と北京の燕王直属軍の倒錯した関係こそが、初期大明の抱えていた最大のひずみだった。 朝鮮戦争後、ソウルの漢江(はんがん、で一発変換できる!)南側の
通称「江南」は、高級住宅地として栄えた。
朝鮮戦争時にソウルは瞬く間に占拠され、政府首脳は漢江にかかる橋を落として南に逃れた。
結果、多数の市民が市街戦に巻き込まれた。
だからその反省?で、金持ちは漢江の南に住む ソウルで江南の開発が進んだのは1970年代以降だよ
時代としては非常に新しい傾向で、文字どおり新興住宅地と言っていいな
それより昔の江南には、田園風景もまだたくさん残っていたんだそうな
そもそも李氏朝鮮時代にいわゆる風水地理説に基づいて都市計画が立てられた時点で、
首都建設位置の選定理由の一つとして「南に川が流れている」という立地の事情があったのだから、
もともとのソウルの中心部が江北だったのは、或る意味自然な状況でもあるわけで 漢江は、川幅がとても広い
大河というわけじゃなくて、川の規模としては小さいんだけど、とにかく川幅が広い
あれだと、セーヌ川や隅田川みたいな都市の中を流れる河川というより、都市を分断する海峡みたい
ソウルは、江北と江南という2つの都市、ツインシティといってよい 国教としての儒教は、漢から長い年月をかけて形成されてきた。
それが完成されたのは、永楽帝のときではないか。
朱子学を作ったのは朱子だが、それを科挙の試験用の学として完成させたのは永楽帝。
永楽帝は、朱子学に基づいた、科挙の国定教科書『四書大全』『五経大全』を作り、文体も「八股文」に統一した。
「これが官吏登用試験の教科書で、受験問題の解説書だ」という虎の巻を、最高権力者がみずから出したわけで、
以後はひたすら、それをどれだけ丸暗記して答案に丸写しするかという、税理士試験の税法理論みたいな試験になった。
当然のことながら、官僚の質は低下したが、永楽帝にとっては、それでよかった。
独裁者が必要としていたのは、命令に無条件で従う人間であり、自分の頭で考える人間は要らなかった。 >>530
藩王の反乱が成功したのは中国史上で燕王だけなのかな?
他は大体みんな最終的に鎮圧されてるよね?
建文帝を支えるべき知恵者、勇者、将士を洪武帝が皆殺しにしちゃうから。
残ったのは雑魚と頭でっかちの儒者だけ。
それでも兵力だけは圧倒的に有利で
何度も追い詰めて、
燕王自身も観念した場面があったんだよねぇ。 >>536
唯一と言えるのかどうかは分からんけど、似たような事例(地方に封じられた皇族による反乱)思い浮かべると、ことごとく鎮圧されている
永楽帝だけが奇跡の大逆転勝利 >>537
上でもちょっと書いたけど、明では国家の中枢軍事力が近衛軍団と国防軍団に二分されて、
それぞれ南京と北京に配置されていた。
燕王の率いる軍は、他の中華王朝の藩王領国経営に必要とされた軍団の規模をはるかに超えていた。
多くの中華王朝における藩王の反乱は、中央軍と地方軍の抗争に過ぎなかったが、
明の場合には国権を代表する二つの軍団がヘゲモニーを奪い合った戦いだった。
国防軍と中央軍の抗争という点でいえば、他の王朝における藩王の反乱と比較するべきものではなく、
北魏における六鎮の乱に比肩すべき性格だったと言えるのではないか。 >>539
燕王の配下にモンゴル投降兵も結構いたはず。
南方vsモンゴルかも。 >>541
原初の大明建国のバックグラウンドになったのは江南人の武装難民軍閥。
明初の南京軍は多分これがベースになっていて、
北京軍はこの基幹軍に北元からの投稿騎馬軍団を加えて北元と対峙していた。
つまり、燕王の反乱時の極東の軍事配置は、
モンゴリアの北元モンゴル軍、北京の燕王のモンゴル江南混成軍、南京の江南軍、となっていた。 >>540
朱標さんも心優し過ぎるイメージがあるなぁ。 明代の軍戸制ってのがあるのだがこの軍戸ってのは中原に置き去りにされたり投降したモンゴル軍人を中心に編成されたもので
燕王勢力も南京の禁軍もこの軍戸が主力
江南にもモンゴル人っていたの?って思うかもしれないが雲南には二小王国の一つの梁王国があった洪武帝の頃に併合されてるから >>544
南京政府軍側は50万人超の大量動員なんだが、
その大半がモンゴル人で編成?? >>545
多分、精鋭騎兵がモンゴル系軍戸で、数で制する歩兵が江南系なんじゃないかなぁ。
明朝では砲兵隊も成立していたから、歩兵の威力もかなり増しているし。 >>546
かつての武装難民は軍戸に編入されてないの? >>546
15世紀初頭の靖難の変に、砲兵隊がいたのか? >>548
靖難の変の時点では、中国の砲兵はもっぱらロケット砲や火炎放射器、投石機による炸裂弾投擲。
16世紀に原始的な後装砲のフランキ砲が普及する。
黒色火薬の時代には、ロケット砲や火炎放射器は小銃や大砲のような火薬の燃焼ガスで筒の中の実体弾を
押し出して飛ばす火砲に威力が劣ったが、20世紀になって炸薬や焼夷剤の進歩によってふたたび日の目を見るようになる。 明代の戦争は、火薬玉が炸裂しまくって、猛威を振るってたんだな
「やあやあ我こそは、関羽雲長なるぞー!」みたいな古代の戦争とは、まるきり様変わりだ >>550
確かヌルハチは明軍のフランキ砲の砲弾の雨の中で負傷して死んだんじゃなかったっけ。 >>551
それは、袁崇煥がポルトガルから輸入した最新鋭の大砲
明にそんな技術があったわけではない 中国では宋代から明代まで、どちらかというと火薬兵器に焼夷効果、毒ガスの燻蒸剤としての
効果に偏って期待を持ってきたきらいがある。そのために、金属の管から実体弾を
火薬の燃焼ガスによって発射するタイプの兵器の開発がヨーロッパやイスラーム世界と比べて
後れを取ってきた。
宋代に契丹や西夏との国境に大規模配備していた火薬兵器も、どちらかというと
火薬の燃焼による火炎放射器みたいな兵器が主体だったみたいだ。 そう、それは言える
宋や明の火器は、「鉄砲」というより「火薬玉」 西方および日本から洗練された強力な銃砲がやってきても少し真似る程度でおしまいやからな… しかし、やはり、モンゴル騎馬兵と火器の威力は絶大だった
古代や中世に比べ、正規軍が格段に強くなったおかげで、帝国の強権支配が実現した 日本も、織田信長の鉄砲隊が登場するまでは地方勢力を抑えられずバラバラ
室町幕府の足利家にとっては身内のはずの関東公方ですら半独立国になるありさまで、とても統一国家などと呼べたものではなかった 中国では、農民が鋤や鍬を振り回して暴動を起こすことが、今でも珍しくない
鉄砲隊が出動すれば、そんな連中など容易く鎮圧できる >>556
旧式の火器をベースに軍事システムが組みあがってしまっていたんで、新式の火器が入りにくくなったんだろう。
実のところ、そういう現象は琉球王国でも起きている。
琉球王国では日本への火縄銃伝来より早くから、古式のハンドカノン型の火砲が普及していてそれをベースに軍事が組みあがっていた。
結果としてより威力の高い火縄銃の導入がほとんど行われず、あっという間に島津家の軍の火縄銃隊に制圧されてしまった。 まあ、火薬玉とちがって、小銃は精密機械だからなあ
おおらかな南国の人には細かすぎて不向き
こういうことは日本人と西欧人の独壇場 >>561
それが、明朝が新式火器の導入にもたもたしているときに、
ビルマのタウングー朝、タイのアユタヤ朝、あとベトナムなんかも大々的に西欧式小銃の
導入で軍事改革やっている。 でも明は大砲3000門装備して世界一の大砲大国になってるやん >>562
東南アジアに遅れをとったか
やはり、統一国家は競争が無いからな >>564
そもそも、日本に伝わった「瞬発式火縄銃」ってのはヨーロッパでは技術至上一瞬だけ出現して、
その機構がすぐに火打石式の機関に変遷して廃れてしまったタイプ。
ヨーロッパでは密集隊が弾幕をぶつけ合う戦術だったので、緩発式火縄銃の方が好まれた。
ところが、このヨーロッパでの「一瞬」の時期にポルトガル人によって「瞬発式火縄銃」が持ち込まれた
東南アジアでは、森林地帯で散開して狙撃しあう戦術が取り入れられたので、こちらの方が定着してしまった。
東南アジアでは、ポルトガル人傭兵が盛んに雇用されたので、彼らも瞬発式を使っていたんだろう。
そして、東南アジアで普及した瞬発式火縄銃が日本に伝えられることになった。 >>565承前
日本や東南アジアで普及した瞬発式火縄銃とヨーロッパなどで普及した緩発式火縄銃は
佐倉の国立歴史民俗博物館の近世史展示室で詳しい比較展示が常設展示されているので、
一度見てみるといい。全然メカニカルの構造が違うから。 歴代中華王朝が勝てた試しのない宿敵ウイグルを最終的に屈服させたのは清の乾隆帝のときだから、18世紀の後半のことだ
それも、西洋伝来の鉄砲の威力のおかげ
当時の西洋列強がアジア各地を侵略してたのと変わらない 左翼と朝鮮人は、「日帝の朝鮮支配」をあんなに非難するのなら、中共のウイグル・チベット支配も非難しなければ矛盾している >>567
それ、ウイグルじゃなくてオイラト部族連合の一派のジュンガル。
今のウイグルはジュンガルの宗主権下にあったテュルク系ムスリムオアシス民(東トルキスタン人)が
近代になって中世の栄光のウイグル遊牧帝国から名前を引っ張ってきたもの。 >>522
乾燥気候の朝鮮半島にはアカマツが一面に生えている
アカマツは韓国朝鮮人の心の樹木である
だがアカマツの英名は「japanese red pine」
だからニダーさんはファビョーン! >>569
そうだな
確かに、今の「新疆ウイグル自治区」と、中世の栄光のウイグル遊牧帝国に直接の関係は無いなあ >>570
朝鮮半島の赤茶けた大地は、寒々としている
江戸時代の朝鮮通信使が、日本の気候風土の豊かさに驚き、「天はなんて不公平なのか」と嘆いたのは、よく知られている
まあ、これは北の人間が南国を見たときにアリガチな反応で、インドを見たときのイギリス人もそうだが >>572
そのかわり、日本は地震や台風、火山噴火が多い。 >>572
北の人は南のアラブと比べたらええんや
まさか砂漠を羨ましいとは思わんやろ >>574
そうだ
とくに、植生の豊かさは、台風と表裏一体 バンガラデシュなんか世界有数の肥沃な土地やけど
そのかわりガンジス増水のたびに水没してまう まあ、でも朝鮮の風土にはあんまり良い面がないけどな
紙の原料が乏しいおかげで、文化が貧弱になったのは痛い 室町時代の日本が、朝鮮からの綿の輸入に依存し、なかなか国産化できなかったところをみると、綿花の栽培には適しているんだろうな ニダーさんは日本のヒノキ材をうらやましがりつつも、
「アカマツはヒノキより強い!」とあえて断言している。 その点、中国は、とても一言では言い切れん
「地大物博」だ >>581
それでも火山が乏しいから火薬原料の硫黄に乏しい。
火山による熱水鉱床に乏しいから金銀に乏しい。
それらは日本からの輸入に頼らざるを得なかった。 南西諸島の硫黄鳥島は、地勢的には奄美諸島。
だが江戸初期に奄美を支配下に置いた薩摩は、あえて硫黄鳥島を琉球領のままにした。
その理由は、島で採掘される硫黄。
明や清にとって、琉球・硫黄鳥島産の硫黄はぜひとも入手したい品。
薩摩がわもそれを知っていたので、
琉球と支那との貿易が頓挫しないよう、薩摩と支那との関係が悪化しないよう
あえて硫黄鳥島を支配下に置かなかった。 >>583
硫黄鳥島の硫黄は、日宋貿易、日元貿易の時代には、九州商人が琉球から仕入れて、
日本側の版図であった薩摩硫黄島や九重連山の硫黄と一緒に博多港から中国大陸に出荷していた。
ところが日明貿易の時代になると、琉球王国が成立して九州商人を通さずに明朝と直接取引を開始する。
明朝にとって北元への軍事的な備えとして硫黄はぜひとも欲しかったが、最初は日本に高値で売りつけられていた。
そこに琉球王国から直接硫黄が手に入るようになった事で、明朝政府は日本と琉球を両てんびんにかけて、
値下げ交渉をするようになった。 琉球王国が明朝に売り込んだ硫黄と並ぶ「特産品」は、何と軍馬。
明朝は北元と厳しく軍事対立していたため、モンゴル高原産の軍馬が
入手難に陥っていた。そこに琉球列島で育てた軍馬を売り込んだのが
琉球王国。
硫黄といい軍馬といい、琉球王国は明朝に軍需物資を供給することで
発展を遂げたと言っていいだろう。 >>585
あんな暑いところで馬の牧場?
山に作ったのかな
まあ、熊本も馬肉の名産地だから関係ないか >>581
文明圏まるごと一つを"中国は"と括って「何でもある」はいくらなんでも粗雑すぎる
これがヨーロッパの話やったら「イタリアでは」「ドイツでは」となるやろ
中国も燕とか呉とかそのくらいには分けて考えなあかんわ >>587
それは言える
普通の国と「中国」を比べるのは反則というか、そもそも比較対象としての意味がない
「経済規模で、日本は中国に追い抜かれた」と騒ぐ人がよくいるが、まったく意味のない議論 例えてみれば、「ソフトバンク・ホークス」と「セ・リーグ」を比べて、「セ・リーグのほうが選手層が厚い」というようなものだ
根本的に意味のない比較 >>588
文化はそうだけど経済規模の話は違う
中国が一国として語れないのは文化的な多様性がありすぎること >>586
どうも、宮古島で育てていたらしい。
宮古馬は今も天然記念物指定されて保存されている。 >>590
経済もおんなじや
日本の10倍の大国なんやから日本の10倍の経済規模でやっと互角や
国の大きさ関係無く総GDPやらでどっちが経済力上とか言うんやったら
日本や中国の何十分の一のGDPしか無いルクセンブルクは最貧国なんか? >>592
中国を取材したドキュメンタリーみると
江戸時代か下手したらそれ以下くらいの文明レベルの集落が出てくるもんね
都市部でも着てる服の薄汚さや街並みの細かいところのショボさが垣間見えるしね
ごく一部の富を集中してるところを除くとまだまだ貧しい国やで 現代中国はしょぼくも貧しくない、歴史上最富裕にして最強の中華帝国である
ただ現代の覇者、人類史上最強のチート米帝西側世界帝國に及ばないだけである 上海の都心部を見ると、「こりゃ凄い。まるでSF映画だ。完全に日本を超えたな」と思うのだが、都心を離れるにつれて街並みがショボくなり、「?」となる
郊外に出ると、赤茶けた大地が目につくようになり、「緑したたる江南といっても、日本の気候風土と比べたら、やっぱり大陸なんだな」と実感する。
さらに地方都市へ、さらには農村へと、周辺になるにつれて、日中の格差はますます絶望的に大きくなる。 >>596
大都会岡山の悪口はそこまでだ
市街地からバスに乗ると10分ぐらいで田んぼに出るけ(ry 朝鮮人にとって、明の柵封体制こそが理想の東アジア
独立志向よりも、「あの頃に戻りたい」という気持ちのほうが強い
それに比べて、清は朝鮮人にとっては暗黒時代となった
清は満州系で、朝鮮とは国境を直に接していた
この違いは大きい
「清は野蛮人。我が国は小中華ニダ」と精神勝利するしかなかった
明清交代は、中国史だけでなく、朝鮮史においても最大級の事件
これに関しては、日本人の無関心さが目立つ 清朝半ばまでずっと世界のGDPの1/4以上を占めていたのが中国。
西欧、日本が伸びたのはわずかな期間に過ぎない。
腐っても鯛だよ。
現代日本から中国産製品を締め出したら、
どんだけ生活レベルが低下すると思う?
電化製品が日本や欧米のブランドであっても、
製造は中国なのがよくある。
PCの製造も9割は中国だ。
apple製品だって中国から発送してる。
生産能力は高い。 >>596
ベトナムから中国の国境を超えると違いがわかるよ。
地方都市でも高層ビルが林立するもの。
最貧の雲南省でもね。 >>593
公衆トイレはかなりキレイになった。
SARS 騒ぎで、全国レベルのトイレ改革が実施された模様。
でも紙を流すと下水がすぐに詰まるので、止めてね。 >>604
雲南で高層ビル林立なんて省都の昆明だけやろ
雲南の地方都市で高層ビル林立なんてどこにあんねん
地方都市でも高層ビル林立なんてせいぜい浙江、江蘇、広東くらいやろ >>602
工場が多いのは、人件費が安い発展途上国だということを意味している
すでに中国の人件費はかなり上がってきたので、工場は東南アジアその他への移転ラッシュが起きている >>606
ベトナム行きの鉄道は昆明から出てるので
ベトナムと比べてしまうわけ。 >>604
高層ビルが林立しているのは、土木建設業者を救済してバブル崩壊を防ぐのが目的
建てただけであり、中はカラッポ >>609
日本のタワーマンション建設ラッシュも同じじゃない?
いずれ不動産バブル崩壊となるよ。
中国人が投資目的で日本のタワーマンションを爆買いしたし。 >>607
産業の質の高度化と言って欲しい。
安かろう悪かろう状態から脱却を目指す。
同時に現在は貧弱なサービス業へ比率を高める。 >>611
もちろん、同じことではあるんだけど、程度の問題ってものがある
中国経済のバブル膨張ぶりは、日本の比ではなくケタ違い >>607
その中国メーカーに部品を供給する下請け大国の日本はさらに下の開発途上国になるな。
iPhone が売れなくて、
米国がくしゃみをすると、
中国企業が風邪を引き、
そして日本企業が肺炎を起こす時代なんだから。
iPhone売れず、中国「リストラ5万人」の衝撃「アップル・ショック」
https://globe.asahi.com/article/12266651 >>614
秋葉原でパーツを買い集めて自作PCを組み立てるマニアと、そのパーツを製造する電子部品メーカー
本当に難しいのはどっちなのかってことだわな >>602
歴史上のGDP言い出したらインドも同等以上だぞ
この手のこと言い出す人は何故かインドには手厳しいけどね 明ではまだそれほどでもなかったが、清で人口が爆発的に増えたおかげで、経済規模が拡大した
食糧増産のため、途方もない規模で全国的な森林伐採と農地開墾が行われた 現代社会が抱える諸問題が、世界に先駆けて清で顕在化した
清は近代国家そのもの >>608
昆明と比べてるんやったら「地方都市でも」にならんやん
省都やで >>617
資源の枯渇に対応できなかった。
人余りで、海外への移民が急増。
災害や戦乱でいくら人命が大量に失われても、
増え続ける人口。
人命の軽さが半端ない。
そんな厳しい生存競争を生き抜いた
バイタリティあふれる人々が
リスクを恐れずに経済活動に邁進してる。 百万人を超える都市が94もあるもんな。
宇宙から見た夜景を見ると、チベット、ウィグル、モンゴル、北朝鮮が真っ暗なんだ。
http://www.nightearth.com/?@34.170451,119.203243,3.909872780313724z&data=$bWVsMg==&lang=ja 地方自治体の中心都市を地方都市ではないという定義は少なくとも日本人のやる発想ではない >>626
結局、中央集権制下の地方自治体とみるか、連邦を構成する地方国家とみるかなんだと思う。
しかも、この二つの概念は二者択一というわけでもない。 ニューヨークは地方自治体の中心都市だけど
地方都市とは言わないと思う ニューヨークは古都の衛星第何百番目の都市だが、若い女性には向くだろう。年の差待遇の口惜しさがないほど人事がいい。 >>629
ニューヨークやロサンゼルス「地方都市」と言い難いのは、
それぞれ「アメリカ合衆国」という連邦の構成国である
ニューヨーク州とカリフォルニア州の「中核都市」だからだよ。 四川省なんか、ドイツやフランスよりデカい国なんだからな
首都を地方都市と呼ぶべきではない >>615
組み立てにも技術がいるだろう。
huawei の高性能スマホを使ってるが
iPhone を超えてるんじゃね?
もしかして。
比べると多くの日本製スマホは情けなく感じる。
huawei レベルになると、cpu を内作してるし。
でも huawei 機を持って米国に入国できるのかしらん?? >>632
アメリカの州よりもはるかに自治権のない中央集権国家のたかだか一地方都市を地方都市と呼んでなにが悪い
悔しかったら八路軍を解体して代わりに州兵ならぬ省兵の一つや二つ持ってみろ >>631
東京のように一極集中ではなく、
分散しているのは強みだ。
北京GDPは中国GDPの3%でしかない。
一極集中型構造の国家は発展に限界がある気がする。 中国の歴史は中央集権による地方の抑圧と、地方の自立による中央集権の解体の間を
交互に揺れ動いているからな。
たまたま現代は前者のフェイズなんで、なかなかに評価が難しい。 中国人民解放軍の不自然な「戦区(軍区)」の分かれ方で異なる文化を持つ地方同士を強引にまとめることで互いに押さえつけさせていることが分かる >>634
清朝末期は分裂する機会があった。
ところがなかなかどうしてどうして清朝政府は強い。
独立しようとする勢力を次々と鎮圧していった。
特にヤクブ・ベクの乱の際、
英国とロシアがヤクブ・ベクを支援したんだけど
清が意外な強さを見せたので、
かなり慌てた。 藩部が反乱を起こした時に寄越されるのは漢族の兵なのかね? アメリカの州を「地方自治体」と呼ぶんか
あとニューヨークもロサンジェルスも州都ですらないんやけどな 違いがあるとしたら政府の在り方に起因することであり、どう見ても支那の省とアメカスの州は同列に見れへんのやで 「ユナイテッド・ステイツ」直訳すれば「連合国」だぞ
普通の国と一緒にするな 清と朝鮮の関係を見て、「中国が朝鮮を支配していた」と見るのは錯覚にすぎない
正しくは、「満州人が中国の各省および朝鮮を支配していた」のだ >>644
漢人が多いと思う。
1876年の出征では
左宗棠の指揮する軍として
劉錦棠の湘軍25営、
張曜軍14営、
徐占彪の蜀軍5営
東トルキスタンの清軍を合わせ、
歩兵・騎兵・砲兵合わせて150営、
総数8万人。
太平天国鎮圧で活躍した郷勇から始まった部隊が中心だから。 >>633
組み立て技術なんかよりキーパーツ製造技術のほうが高度な技術なんだぞ
先進国の日米にとってhuawei 機なんか無くても困らないからな >>650
日本にとってはお得意様だぞ。huawei。
米国にとっては脅威。
5G半導体の開発でhuaweiが先を行ってる。 >>645
特許戦争なんだよねぇ。
2018年度の国際特許出願数は米国1位、中国2位、日本3位なんだが、
企業別でみると、Huawei がダントツで1位!2位以下を大きく引き離してる。
2位が ZTE、3位がインテル、4位で三菱電機、5位がクアルコム・・・。
Huawei が押さえた特許を利用しないことには、
ニッチもサッチもいかない状況になりつつある。
人口が多いとアホも多いけど、
超優秀なヤツの絶対数も多くなる。 >>648
その超優秀な人材を無駄に消耗したのが科挙。 >>648
特許出願数じゃ意味ないぞ
特許貿易収支じゃ支那は赤字で日米は黒字なんだからな >>648
人口が多いのに
ノーベル賞クラスの超優秀なヤツが少なすぎる >>651
最先端で国際的に熾烈な競争が集中している分野では、案外ノーベル賞級のブレークスルーは出てない。
むしろ、主流から外れた「アホな研究」をしている分野で革新的なブレークスルーが出る。
今の日本政府の「選択と集中」政策が日本のノーベル賞級の研究を破壊していると言われる所以だ。
もともと日本人は自分の興味関心に任せた「アホな研究」にマニアックに熱中する傾向があるんで、
それが今までのノーベル賞ラッシュに貢献してきた。 >>650
意味はあるだろう。将来的に。
米国はともかく、日本の技術収支黒字は問題がある。
かなりの部分が現地子会社への技術提供だからだ。
国別では確かに黒字になるが、
実際は単に社内移動でしかない場合が多い。 >>653
おまえらがいくら日本に嫉妬しても、
支那の特許貿易収支赤字はいっこうに改善しないわけなんだが https://japan.cnet.com/article/35131027/
>>取得した企業などの国別では、米国がもっとも多く、これに日本、韓国、ドイツ、中国、台湾が続く。
米国特許の取得数だと米日韓国企業の独壇場なんだが
今のところ中国企業は出願ばかり多くても質が低くて中々審査を通らないでいるというのが現状ではないか? 「出願件数」が異様に多いのは、中韓に共通する傾向だ
これをもとに「日本オワタ」論を展開するサヨが多い >>648
「出願」では特許を押さえたことにはならんぞ
特許利益>>>>>>特許取得>>∞>>特許出願 >>658
出願と取得に違いがあるのは確か。
タイムラグもあるし。
2017年の統計では
「特許取得数」で中国がトップ。 >>659
特許収支赤字では支那がワースト2位
役に立たない特許ばっか取得してるんだろうなあ人肉カプセルとかw >>660
累積特許数ではまだ10位に満たないのだから赤字が続くのは仕方がない。
全て今後の話。
甘く見てはいけない。 甘く見てはいけないって
物語の登場人物みたいやなw >>661
甘く見てないから、知的財産問題で先進国は支那を叩いてるんだろが >>663
その態度が重要。
だが少なくとも、ここの住人の一部は支那を甘く見たいようだ。 >>664
支那は弱点がたくさんあるから、それを見落とすなってことだろうな
>>648みたいに支那を崇拝しすぎると目が曇ってしまう >>665
相手を甘く見たら必ず負ける。
10年前どころか5年前とも大きく変化してるのだから。
それを崇拝というのは違うよ。 >>666
特許収支で先進国の日米に支那が惨敗してるから、
特許出願なんかで精神勝利してる連中>>648には勝ち目なんてないだろうな >>667
だからそれは累積特許数で勝ってるに過ぎないよ。
いわば過去の栄光で儲けてる。
それで満足したらあかん。 >>668
過去も現在も支那が日米に特許収支で黒字だったことなんてないけどね
でも別にそれだけで満足はしてないから
パクりが主産業の後進国に勝つのは当たり前なんだし まあ確かに、中国・韓国とも「技術とは開発するものではなく、買ってくるものだ」という考えの企業が大半を占める中で、
HUAWEIだけは技術の自社開発にこだわる伝統を持ち、一線を画しているのは事実
だが、それだけに、アメリカ政府はHUAWEIを最も敵視し、露骨に潰したがっている いや
やっぱり改革開放政策の発祥の地というのはあるのではないかな
香港も近いし 中国といえば、北京・上海・広東省の三極
この沿海3地域が突出している
明清の頃からそうなった 特許収支赤字とかバカの一つ覚えのように繰り返してる国士様は
日本の対中貿易赤字額調べてみろよ
真っ青な数字だぞ >>677
日本の中国に対する貿易収支は黒字に転じた >>678
いよっ!
頑張れ国士様!
愛国無罪だぜ! 単純に考えるとエンジニアの人数が日本の15倍。
これに対抗するのは容易じゃない。
日本人エンジニアが15倍賢く、独創性に富み、
研究費も15倍でお願いしたい。
2016年度の学術論文数が6位に後退してる日本の実力は如何?
学術論文数トップ2が中国と米国でほぼ拮抗。
ガンバレ日本! >>680
huaweiに引き抜かれ、魂を売った日本人エンジニアもいるんだろうな。 >>646
アメリカに締め出されると、もう日本にとってお得意様じゃなくなるぞ。huawei。
アメリカに締め出されない別会社を新たなお得意様に変えちゃうだけだからな日本は >>683
IBM大和研究所やNEC米沢事業所なんかは
Lenovo に身売りされちゃったんだよぉ。 日本にとって、HUAWEIは「お得意様」っていうより、
対米貿易黒字を減らすふりをするための「ダミー会社」だった >>682
なんで引き抜かれたら「魂を売る」になるんや
条件のええ会社に移るのあたりまえやん
おまえは入社したら定年までずっとそこに居れ言う終身雇用制信者か >>670
>HUAWEIだけは技術の自社開発にこだわる
アメリカによる圧力で部品調達が難しくなったファーウェイは、
日本企業に部品供給を増やすよう泣きついてくる有り様
とても自社開発どころじゃない >>686
>>688
これが当たり前の反応で>>682は無職かフリーターかのどちらかだろ そもそも中共自身が中国人は核心技術持ってねーから大国ではあっても強国ではない
即ちまだ二流ってずっと言ってるやん
近年中国趣味クラスタ内で流行ってる中国の軍事力礼賛軍とかにしても
向こうの軍事指導者の自己認識は一流の軍隊になるまであと15年以上かかります、だし アメリカ様の半導体がないとトップ企業が沈む
人民のメイドインジャパン(または西側先進国)信仰の勢いは全く衰えない
ロシア様のエンジンがないと主力戦闘機と爆撃機の運用体制が崩壊する有様なんだからそりゃね >>677
2018年の日中貿易(2019年3月)
最終更新日 2019年03月12日
ジェトロが財務省貿易統計と中国海関統計を基に、2018年の日中貿易を双方輸入ベースでみたところ、総額は前年比7.4%増の3,537億7,293万ドルとなり、3年ぶりに増加に転じた前年に続き増加を維持した。
輸出(中国の対日輸入、以下同じ)は9.3%増の1,802億3,425万ドル、輸入は5.5%増の1,735億3,868万ドルとなった。
その結果、日本の中国に対する貿易収支は66億9,557万ドルと、6年ぶりに黒字に転じた前年より黒字幅を大きく拡大した。 >>694
李克強首相は、「我が国では大量のボールペンを生産していますが、部品のボールは高い精度を要求されるので作れません。
日本から輸入しないと」という報告を見てショックを受けた
韓国でも「部品の日本依存脱却」を何十年も言い続けているが、結局、いまだに無理 >>687
これだね。
国単独で見ちゃいけない。
グローバルに考えるべき。 米中対立というのがピンとこない。
某中国メーカーの会議は英語で行われ、
部門担当役員はアメリカ人だったもんで。 中国人は英語話せるやつが多いからな
箱根の土産物屋で中国人が店員に「何でこの人英語喋れないの?」と文句言ってた >>702
中国人の英語は時制がいい加減でDとT、BとP、JとChの発音の区別もいい加減。
そのくせ早口で捲し立てる。 >>703
間違いを気にせずに積極的に喋る人の方が上達する。 >>703
母語の音声に引きずられるのはしょうがない。
カタカナ英語と同じ。
それでも使うことが重要。 中国経済のほうがグローバル化してるのは間違いない
経済規模は日本の倍くらいだが、輸出入は何倍も多くてケタ違い
日本は貿易依存度が低くて自己完結的なのが特徴で、そのぶん世界経済での存在感はどうしても小さくなる >>652
支那人のノーベル賞受賞者が少なすぎることの説明にはなってないぞ >>710
末期じゃなくても、十分に近代国家だったと思うけどな
国家体制の成熟度としては、明の皇帝専制と、フランスのブルボン王朝の絶対王政あたりで、ちょうど釣り合うくらいのレベルだろう >>712
ブルボン朝は絶対王政とはいっても真に絶対的にはなれなかった、とよく指摘されているんだが。
つまり、様々な社団のパワーバランスの上に乗っかった絶対性であって、そのバランスが崩れるともろいものでしかなかった。 >>707
つまり、華人の研究者は「アホな研究」などはなからバカにしていて、やろうとするやつが非常に少ない、ということ。 >>713
圧力団体がないと、近代国家とは言えないか? >>697
海外での部品組立のノックダウンは遅れた土人国でもわりかし
すぐ出来る様になるが、素材から部品を作るところからの
一貫生産は定着が困難。チンパンジーは道具も使い方は容易に
覚えてもその道具を作れないことと同じ。 日本製のパソコンとか国産部品はコンデンサぐらいで
後はタイ、中国、台湾、インド、韓国とかに丸投げやぞ >>691
ちゃんと字を覚えてからその記事をよく読んでみろよ 以下はコピペ。
アップルが3月に公表した上位200社の
供給元リストを集計したところ、
部品の供給元の工場は世界で約800拠点。中国が380拠点でトップ、
日本は約130拠点と2位で、
ほかに米国、台湾、韓国、イスラエル、
ノルウェー、メキシコなど供給元は世界28カ国・地域。
中国の製品の高度化で、
中国の拠点の数は増えている。
日本の供給元も、北は北海道、青森、
秋田、山形から、南は熊本、宮崎、
鹿児島まで、全国に広がる。 秋田なんぞで作ってる部品なら中核技術とは関係無い低付加価値部品のはずで、
そんなのを全部足しても130拠点かよ。 >>720
日本は人手不足だ、スマホの下請けなをかやってる場合か
そんなの、中国にやらせておけばいい 長い歴史を持つシャープが漢民族の作った会社の傘下に入る時代だからな まあ、日本では、中国史といえば春秋戦国時代とか三國志だからなあ
明清の話は、マニアでも盛り上がらない 日本は人手不足、労働者が足りない国だ
「スマホの下請け工場が無かったら失業者が増えて困る」というのなら話は別だが、そんなわけでは全然ない
気にするな、放っておけ そんなことより、明だ
劉伯温は、中国では諸葛孔明にもヒケを取らぬ有名人物
日本での知名度は、いくらなんでも低すぎる >>729
王安石いいよね
なんで一度にたくさん改革しようと思ったのかな
一遍に変えようとせずに一部だけに絞っても良かった気はする
それでも多いが >>726
語学好きとか連邦好きとかには、清朝はなかなかおもしろい
ハプスブルク朝とかロマノフ朝とかムガル朝などとも比較しながら研究できるし 漢までの古代好きも
清の考証学者達の著作には必ず世話になるはず >>734
王安石については水滸伝で新法党が悪者にされてしまったのも悲しい >>738
新法は経済学的には悪法だと思う。
政府による民間経済への介入は最低限にすべき。
軽税国家たる明清体制は正しい。
(無理やりでもこれが言いたいだけ) >>740
政府の肥大化を招く。
非効率な無駄が増える。
利権化した政府組織による腐敗が始まる。
政府を監視する機関が必要。
その機関も失敗することがあるので、
更に上位機関が必要となり際限がない。
ええい面倒だ。リセットして民間のことは民間に任せる。
貧富の差が拡大する。
悪徳業者が蔓延る。
不況となり人余りで社会不安。
政府による規制と介入、財政出動が必要だ。
政府が肥大化する。
以下ループ。 >>739
まるでケインズが新法党みたいな言い方やな ケインジアン vs 新古典派
新法党 vs 旧法党 前漢で塩鉄論を戦わせたぐらいなんだから
経済学が発達してても良かったのに。 そうだな
経済の発達程度を思えば、経済学は明清から出てきても良かった
もっとも、あれは西洋的な思考の極致なので、なかなかそうもいかない 農本主義というか商業や金融への蔑視があって、
経済学は無理なんかな?
銀本位経済を著しく発展させてたのに。 経済学のキモである「需要曲線と供給曲線が交わるところで均衡する」というのは、極めて西洋的な思考
東洋人の頭からは、この発想はちょっと出てきそうにない >>749
市場が繁盛してて、
掛け値や値切り交渉もやってるんだから、
直感的にわかりそうなものだが。 >>750
そりゃまあ、ベストセラー詩人のおかげで紙の需要が急増したという、
「洛陽の紙価を高める」の故事は2000年近くも昔の西晋時代のこと
その当時から、需要と供給の法則は明らかだったわけだが、
それをあれだけ抽象的なモデルにするというのが、東洋人の発想には無い 株や通貨の相場の動向の表示で使うキャンドルスティックって
大阪の米相場の動向の表示が元ねたじゃなかったか キャンドルチャートは相場動向を図解して視覚できる手法で大坂堂島米会所で始まったらしい。先物取引も行われた。 数字が漢字で縦書きというのが
数学的思考を阻害してないか?
商取引のときに商人たちがソロバンを見せ合うのは
漢字じゃ価値判断がやりにくいためなんじゃない? 算盤を見せるのは一義的には価格を口に出さないためだと思う
漢字で縦に書いても横に書いても似たようなものだと思う >>759
1592年の「算法統宗」の図をみると
左から萬、千、百、十、両とかになってた。
5玉が2つあって、1斤16両にも便利。 昔は算盤の5玉2個あったのになんで1個に減ってもたん?
あれ1個では16進数扱えんやん
16進数なんか使わんかった昔はあったのに
16進数が必要な時代になったら無くなったて理不尽やで 違う話だが、今の算盤は一の位に玉が四つしかない
それで六に七を足そうとすれば、三取っての十とやらねばならない
(六に二を足して五を引き、十を足す)
昔の一の位に玉が五つある五玉算盤ではこういう暗算をしなくて済む
六あるところに、一、二、三、四と足していって、十ができたのでこれを壊して,
十の桁の玉をひとつ上げて十をつくる
あと、五、六、七と足して、はい、十三のできあがり >>759
一から始めて十、百、千と大きな数を算盤に作ってゆくならば、文字は右から左に書き進めることに倣ったのだろう >>761
お金の計算が十進数で済むようになったから。
16進数なんてコンピュータ時代を先取りだな。
フランス語は全く知らないが、
数字の表現に二十進法の名残りが
あってややこしいと聞いたことがある。 おフランス語の数詞はキチガイ沙汰やからな
日本語もそこそこややこしいけど、そのかわり漢語ならすっきり明解 2&5玉そろばんで16進数を使うやり方は、あんまり合理的じゃないよ。
上側の補助底の使い方が論理一貫せず、わかりにくい。
昭和中期まで使われてた1&5玉そろばんだと、そのままずばりで12進数が扱えるけどね。
実際に12進数を扱ってたわけではなかったはずだけど。
しかし、ヨーロッパ系のそろばんは大抵、横のバーに玉を通した形をとる。
西でも東でも、なぜ紙の上の記数法から90度回転するんだろう? >>766
>しかし、ヨーロッパ系のそろばんは大抵、横のバーに玉を通した形をとる。
>西でも東でも、なぜ紙の上の記数法から90度回転するんだろう?
同一桁の中での並びが書記方向と揃うようにしてるってことじゃない? >>766
ペンとインキで縦書きをやると、どうしても生乾きの文字列を書き進めるうちに右手でこすってしまう。
毛筆だと手は紙から離れているので、縦の文字列を右から左に書き進めても、手で生乾きの文字列をこすらずに済む。 中国では甲骨文字の段階からもう縦書き
木簡・竹簡になってからは、それらを綴じて巻いたものを左手で保持し、右手で順番に巻きを解いて読んでいった
紙になってからも、巻紙にした白紙を左手で押さえ、右へ引き出しながら順次書いてゆき、墨の乾燥を待った >>768
改行が右方向なら右利きの人がペンで縦書きしても問題無いんじゃないかな
実際、モンゴル文字とか満洲文字とか、右方向改行だしさ
あるいは、右横書きの文字の場合にも、アラビア系文字の絵画的書道表現とか、ナスタアリーク体(ペルシア式書体)とか、縦方向に近い表記になる事がよくあるし 袁崇煥のような忠義ある有能な人物が無残な最期を遂げなければならないわけだからな
歴史、特に中国史はそんな理不尽であふれかえってやがる
何とも嫌なもんだ 明清じゃないかも知れないが、皇帝の父が即位してないのに
存命だった例って無かった?
その場合の呼び方が知りたい 乾隆帝の父は雍正帝だろ?
皇帝になった時に父がまだ存命で皇帝即位経験が無い例を探してる >>774
アスペかな?
乾隆帝が存命なうちに皇帝を退いて「太上皇」になったって言っとるんやろが 今の皇太子が天皇になって崩御後に秋篠宮が即位せずに子の悠仁に
皇位を譲ったような場合のことを言ってるんだよ ネットに繋げてるのに自力で調べられない時点でガイジなんだよなあ 明の第14代万暦帝は、大宰相の張居正が死去したあとは、まったくの昏君と化し、25年間も引きこもって朝政に姿を現さず、遊蕩にふけって「明は万暦に滅ぶ」といわれた
そんな万暦帝が、なぜか突如として覚醒した事件があった
それは、豊臣秀吉の朝鮮侵攻
25年間も引きこもっていた万暦が、突如として朝儀に姿を現したため、大臣たちは驚いた
そのとき万暦帝は、「朝鮮に援軍を送れ」と強く主張したという 結局それで大出費して滅亡するんだよなあ
やっぱり当たってるじゃないか!(大歓喜) 昏君とはいえ、幼少の頃は利発と評判だった、もともと有能な人物
これが明朝にとって最大の危機であることを、本能的に感じ取ったのだろう 日本にとっては残念なこと、天皇陛下を中華皇帝と為す好機が失われた
その数百年後、近衛文麿がこれにトライするが、さらに大失敗してしまうし 勝っても何の不思議もない戦いだった
最大の敗因は「たったの二回で遠征を中止したこと」、この一言に尽きる
陸続きの遼・元・清でさえ、5度も6度も攻め込んでやっと最終的に朝鮮人を屈服させたというのに、2回じゃ無理だ、まったく足りない いや、元と清はともかく、遼は最終的に断念したんだった
朝鮮人は、モンゴル人や満州人が攻めてくると、あっさり負けて土下座する
でも、土下座するのはその場しのぎのポーズにすぎず、遠征軍が撤退したら裏切る
怒ったモンゴル人や満州人がまた攻めてくる、また土下座する・・・の繰り返し
5度も6度も攻め込まないと決着がつかないのは、そのせい
これのおかげで、中国で王朝が交代するたびに朝鮮の国土は丸焼けの灰になる 遼は数十万いた高麗征討軍が数千人まで減ってようやく手を引いたからな
せいぜい五万人が死んだぐらいの朝鮮出兵とかそれにくらべたら大したことない で、本当に勝って大陸本土を手中に置いたら、
結局のところ大和民族も漢化してしまうのか?
北魏も遼も金も、征服王朝を置いたら漢化してしまった。
清は辮髪を漢族に押し付けたが、肝心の言葉を失ってしまった。
漢化しなかったのはモンゴルくらいか。 満州人よりは立派な文化を持ってたから漢化することはないんじゃないか
そもそも漢文化ってインドとかイスラムとか西洋文化に比べると広がりに欠けるし中国人が自賛するほど浸透力がある文化ではないんじゃないか
過去に同化された民族はそもそも元の文化が貧弱過ぎたんだと思う モンゴルと同様に中華の勢力圏の外にあるからなあ
しかも間にチョンがある
同化されるかは微妙 あえて豊臣家が中華の主になったらどうなるか想像してみると
おそらく中華18省は伝統的な漢人の国制で統治する一方日本列島はそれまで通り日本的な体制で治めるんじゃないか
遊牧王朝もそうしてきたわけだし豊臣家もそうせざるを得ないと思う
中枢機関の人選は日漢併用制とする
日本人も漢人も遊牧民の考え方は理解できないのでかれらを心服させることはできず豊臣家は大ハーンになれないので領土は中華18省と日本列島だけになる
だから近代までずっと遊牧民の侵入に悩まされ安定しない統治が続くだろう ただでさえ二代で滅んだ豊臣が大陸支配なんてできるはずもなし >>789
満州民族が言葉を失ったのは、毛沢東による民族抹殺政策によるものであり、清が中華に同化されたからではない
この辺りの錯覚をさせることにかけては、中国共産党は本当に上手かった >>790
中国は大文明の文化と接触すると大体押し込まれるし雑魚専なところは確かにあるね
すぐ側のチベット、東トルキスタン、モンゴルにすら通用しなかった
ある程度閉鎖された環境で人口圧ゴリ押しが決まらないと漢化は難しい 大和民族がアイヌの文化を消したのと同じようなもんか 征服一発でエジプトを席捲して中東や中央アジアにも影響を残したギリシャ文化はどこが魅力的だったんだろう >>797
そうだな、それと似ている
沖縄はまだ多少なりともモメているが、北海道については、もはや本気で「日本からの独立」を考えている人はいない
吸収統一が成功した事例だろう
北アイルランドやスコットランドがどれほど「イギリス」から独立したがっているかを思えば、これは決して当たり前のことではない >>796
20世紀の中国が日本から受けた影響は、7世紀の日本が唐から受けた影響にも匹敵する
だが、中国人はそういう素振りも見せない 「唐は日本にあり、明は韓国にあり、中華民国は台湾にあり」が、中国人観光客の合い言葉
唐風の文化遺産を見たかったら、西安に行くより、奈良に行ったほうが良いという話だ
これで、もしも満州が独立国だったら、「清は満州にあり」が付け加わったことだろう
それを思うと残念 7世紀の比じゃないやろね
一般家庭の人間が子供の頃からリアルタイムの日本にどっぷり浸かってる訳だし
日本の中の中国を見に来たってのも大半は建前、本当は日本が好き好きだーいすき >>798
まあ近世の西洋みたく他地域に優越するところが多かったからな そうだな
近現代も含めたトータルでは、日本が中国から受けた影響より、中国が日本から受けた影響のほうが大きいだろう 7世紀日本とか天皇豪族は掘っ立て作り、庶民は竪穴式住居に住んでいたのが
隋唐の影響を受けて立った数十年で土壁、礎石、瓦葺きの建物を作るようになったのだから
下手したら西洋文化を受容したアメリカ原住民並みの変化だぞ 近現代(20世紀初頭→21世紀)の変化はそれ以上よ、原住民から現代人に変化、建物など完全に変わった
しかし影響を与えた側が欧米、日本、ソヴィエトと多岐にわたるので単純比較はできない いまや、中国はどこに行っても日本の都市とクリソツだ
彼らには、日本の真似をしているという自覚すらない
日本と同じようにするのを当たり前と思っているだけ ↓明清帝国の科挙官僚は、これだな
家産官僚制とは、マックス・ウェーバーが定義した官僚制の分類概念。
伝統的支配の典型である家産制において支配者がその家産全てを管理することは困難であり、その下で管理を担当する幹部の存在を前提としていた。
その経営幹部が近代国家における官僚に相当するが、支配者(国家)とは契約関係に基づきその合法的支配を支える近代官僚制度とは、その意味合いは大きく異なる。 家産制における官僚は、主君に従属もしくは隷属している「しもべ」であった。
そのため、奴隷や農奴、家人その他の従属民から採用されたり、寵臣と呼ばれる個人的な側近層から採用されたりすることは珍しくなかった。
家産制における官僚においてもっとも重要視されたのは、支配者からの個人的な信頼関係であって、専門知識などは必要とされていなかった。
反対に支配者の信用を失えばたちまちのうちにその保護を失って解任され、失脚や粛清の憂き目にあうことも珍しくは無かった。 家産制における官僚は、臣民に対して何ら義務を負うものではなく、その職務は官僚側からの恩恵としてみなされていた。
このため、臣民は官僚に対して職務行為に対する謝礼(役得・礼銭)を行うのが当然であって、これらが賄賂とみなされることはなかった。
家産制における官僚は支配者から貨幣による給与は受けず、支配者の食卓における給養や支配者の財庫からの実物支給、所領の給付、徴収した租税や手数料の一部の分配、
その他役得行為の容認などの形式を採り、そこに国家の財産もしくは収入と支配者個人の財産もしくは収入との区別が存在していない。 つまり、明清帝国の科挙官僚は、ものすごい学力を持つ超エリートだけど、それでも一種の奴隷制度
皇帝の機嫌を損ねれば、いつでも百叩きの棒打ち刑とかで死んでしまう奴隷 >>810
日本の街並みと中国の街並み全然ニテナイけどな
どこが似てるのか具体的にいってみろよ マックス・ウェーバーの「家産官僚制」のヨーロッパにおける典型が、
メロヴィング朝やカロリング朝のフランク王国宮廷官僚だね。
ヨーロッパでは9世紀に西ヨーロッパを覆った銀不足によるデフレーションで
俸給が支払えなくなって「家産官僚制」が崩壊。10世紀のカペー朝における
封建制が開始される。 中国の街並みはソ連の模倣だと思う
今の中国の制度にはソ連から学んでる部分も大きい 北朝鮮の街はソ連そのままの移植やけど
中国の都市は独自色強いで >>810
私が行ったのは北京、上海、大連、広州、青島、杭州だけだが、
日本の都市ソックリだなんて感じたことはどこもないなぁ。
青島なんか赤っぽい屋根の家々が並んでて、ドイツ風(ドイツに行ったことないけど)。
大連は戦前日本の西洋建築が多いし、
広州じゃイスラム教徒(回族)の区域に入ると、
羊が丸ごと軒先にぶら下がってた。
都会の一部のショッピングモールぐらいだろ。サイタマに似てるのは。
広州のユニクロやスターバックスは向こうじゃ高級店扱い。 >>819
昔と比べて、だいぶ日本の都市に似てきたとは思わないか? 昔は、日本とはまったく違う別世界だった
だんだん似てきている 韓国を「劣化縮小コピーした日本」とするなら、中国は「劣化拡大コピーした日本」 >>817
郊外に行くと、みすぼらしい集落なのに、
宮殿のような重厚な共産党の建物と
超近代的な携帯通信会社の建物の2つは
立派に建ってるのが目立つ。
都市部は高層アパートが林立してるが、
鉄格子みたいなので囲んでいて
共産党末端の居民委員会が入り口にある。
これはソ連の真似? 日本から一歩も出たことない人が釜山や上海のビル群の高さを見るとビビると思う
日本は地震国だから海外のどの国と比べてもまぁ基本的に街並みはこじんまりしてる >>821
どこが似てきたの?
北京には十年前と昨年行ったが、
確かにインフラ面で大きく変化してた。
地下鉄路線が増えて、交通ICカードが便利で、公衆トイレがキレイになった。
レンタル自転車も目立つ。
でも日本に似てきたという気はしないなぁ。
サイタマ化ならあるかも。 >>823
建国当初の中国は、必死でソ連を真似してあ
それは、毛沢東自身が認めている
今でこそ、ロシアの経済規模は韓国と同レベルで、中国とは比べものにならないが 明清帝国の物流
塩・茶・鉄・手工業製品…
とは言え、充分な供給が難しい製品も多々あり、そういったものは他の経済地域から輸送してくる必要がありました。
代表的なものが、塩。
塩は人が生きるために不可欠なものですが、基本的には沿岸部で海水を煮詰めて作るしかなく、主要な国内流通品の一つでした。
あとは茶・木材・鉄といった、産地が特定される商品。
また長江下流域の農民が作る手工業製品も、広く流通しました。
そしてそのような国内物流を牛耳ったのが、徽州商人などの有力商人集団であり、物流の大動脈となったのが中国を南北を結ぶ大運河と、東西に結ぶ長江でした。 徽州商人の時代
徽州は現在の安徽省黄山市にあたります。
徽州は交易するのに超ベンリだった
当時の中国の流通の3大ルートは以下のとおり。
江南デルタ(揚州) ←→ 長江下流←→ 長江上流(重慶)
江南デルタ(揚州)←→ 大運河←→ 華北(北京)
長江下流 ←→ 江西省 ←→ 広東・福建
1は東部沿岸から中国内陸部へ行くルート。
2は東部沿岸から中国北部へ行くルート。
3は内陸に行く途中で南に方向を変え中国南方へ行くルート。
徽州盆地はこの3ルートへいずれもアクセスが抜群。
東へ下ればすぐに江南デルタ。西へ向かえば内陸部。途中で南に下れば広東や福建。
これは徽州商人にとって大きなメリットでした。
徽州商人は沿岸部に近い地理的なメリットを活かし、各地に塩を卸す塩商人として台頭。山西商人や陝西商人などのライバルを出しぬき、一躍有力な商人集団となりました。 北方へと進出する徽州商人
16世紀以降の中国北方では商業ブームが起き、綿・布・茶が飛ぶように売れました。
特にモンゴルでは、野菜の取れない遊牧民族のビタミン源として茶が大流行。
もともと徽州でも茶の生産は行っていましたし、浙江や湖南など徽州商人の地盤の地域にも茶の名産地が多く、徽州商人はせっせと茶を北方に運んでは、モンゴル人に売りさばいていました。 現代中国の経済発展も興味深いには違いないが、明清帝国の経済発展にもまた特筆すべきものがあった
食糧生産の中心地は、長江下流から長江中流に移り、下流のデルタでは商品作物を栽培して換金するのが主流になった
日本には絹織物や綿織物を輸出、モンゴルには茶を輸出という具合に、
交通の十字路に位置する安徽省の徽州商人が活躍した 次々壊スノ重死路レオパレス今モット上手ニ殺ッテルンダロダンパー問題ソノ他急速ヴェノム物件・銀行問題業界ゴト潰レル?利凍ル公害重イル?
虐待死刑スタッフ以外ニグループマイナス経常ケタチガイ万死葬災熱湯強烈薬害毒死多繋ガル看後死
1000件以上介護保険税金ムダ泥棒マダゴーン今環境殺ッテマス100オツムオムツ兆死ニ乗ッタ割ニ祖ノ程弩借金漬ケ棺桶型国家
森友ノロウイルス焼肉嘔吐虐待スイッチ押死耶手後ノ損害ゲローン戦争ソンポ部死テルン盗難
郡大老害山林焚書死テa麻薬王振戦違反重々ヤットストレス足ダシ若竹口爆発害ヤンキーノ種死ネ世
https://anago.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1441750123/ >>825
サイタマ化とはどういう概念?
大ヒット映画『翔んで埼玉』の世界になる感じ? しかし、大航海時代に先駆けて南海遠征を行ってたのはすごいな
ポルトガルみたいに各地を植民地かしてれば明が世界を制することも
あったかも知れない それは無いわ
明は基本的に内向きの国や
南海遠征言うてるけど征服しに行ったんとちゃうやん
セイロンで攻撃受けて反撃して現地の王を捕虜にしてその結果政権瓦解したことあるけど
これも自衛の範囲であってわざわざセイロン征服しに行ったわけやない >>834
内向き傾向に抑えられちゃったけれど、
倭寇勢力みたいな外洋向きな人々もいただろう?
もったいない気がする。 >>823
居民委員会の源は里甲制と言ってみる。
六諭だったのが、党標語に変わっただけ。 >>832
「翔んで埼玉」並のファンタジーを現実と思い込んでるなぁという皮肉。 >>829
茶は画期的な植物だと感じる。
中国茶にハマって茶葉を買いまくったことがある。
高級なのは恐ろしい値段だ。
レストランで茶を頼むと、壺で来る。
会計を見ると、料理全部の値段合計より
一壺のお茶の方がずっと高いじゃん。 茶は高級品求め始めたらキリ無いわ
同じ重さの金より高いとか、昔の西欧の胡椒みたいや 茶にハマった英国人だって、
アヘンを売り込みたくなるぐらい
凄い葉っぱ。 オレなんか高級茶あっても
ちゃんとした煎れかた知らんから台無し >>835
それはやはり、欧州と同じで、各地の国民性の違いってものがある
欧州は、ポルトガルやオランダのような外洋志向の強い国が、独立国だから自由に動けた
中国も、広東省や福建省が独立国だったら、まったく違う展開になっただろう
広東省は、スペインやフランスのような欧州の大国よりも国家規模が大きい 明が大量の船舶を建造することになっていたら、日本からの木材の輸入が急増しただろうから、日本にも大きな影響があっただろう >>838
絹織物・陶磁器・茶は、中国が世界に誇る三大商品 >>841
そのうち茶器を買い揃え始め、
散財の挙げ句に、
道を究めてうんちくを語り出す廃人になれるよ。
さぁ、魔力に魅入られるがいい。 >>844
軍需品の硫黄と建設用の木材を輸出して宋銭、明銭、陶磁器、絹をゲットしたのが中世日本 >>846
コーヒーでもそんなことになるし
どんな世界でも深入りしたマニアはそんなもんやろ >>847
木材の輸出って、筏に組んで海に浮かべたまま、運んだのかしらん?
伐採地から川に運び、
上流で堰を作って貯め、
堰を切って鉄砲水を起こして、
一気に下流に流す管流しが行われ、
下流で筏を組んで、海に運んでたじゃん。
輸出はそのまま運ぶのかな? >>845
3つとも日本で生産できるようになったのは、大きいな。 >>842
広東が独立国ってそれはもう中国じゃなくてベトナム2号だしそう都合よくはいかんよ多分
ポルトガル以前に西方(地中海、欧州、アラブ)では古代から海を使った往来が盛んで海軍が整備されていた
海の存在感が希薄だった中国世界とは年季が違う >>848
コーヒーの世界貿易取引額は年間8兆円(古いデータでだが)で石油に次ぐ規模。
人類は単なる嗜好品にベラボウなお金を使っちゃんだな。 >>850
そう、江戸時代の日本は、なんでも自国で作れるようになり、中国から買うものがなくなった。
しいていえば漢籍くらい
室町時代の、資源を輸出して陶磁器や絹織物・木綿・茶をせっせと輸入していた頃とは隔世の感がある >>851
スペイン・ポルトガルは、新大陸に近かったのも大きいな
大西洋は狭いから、ポルトガルと新大陸は、日本とシンガポールくらいしか離れてない それにくらべて、太平洋は広すぎる
地球儀で見ると、太平洋の側は青一色だ
ほとんど地球の半分を占めているくらいに見える そら地球を半周したポルトガル船の武力を借りるくらいだし…
倭寇の最終進化形態である鄭成功の水師も同兵力じゃオランダ艦に手も足も出ない そうだな
鄭和の艦隊は、船の大きさや船団の規模が当時としてはケタ外れにデカかったが、莫大な国費をかけた単なるデモンストレーションにすぎない
「明は、その気になれば海洋覇権をいつでも取りにいけた」という人がよくいるが、それはどうかなあ? 左翼や朝鮮人は「鄭和の大艦隊」の話が大好きで、なにかといえばコレを持ち出してくる
「中国が海洋覇権を握るのは、本来あるべき姿に戻るだけであり時間の問題なのだから、尖閣諸島のことはは諦めろ」
というわけなのだが、清の海軍だって「眠れる獅子」と言われてたのは同じ >>824
支那チョンの建築基準にはまともな耐震基準がないから、
日本の建築基準法では完全な欠陥建築とされて絶対に
建築許可が出ないビルが平気で建ってしまう。 >>858
まあ鄭和船は碌な資料が残ってないから実態不明なんだけどね
特に大きかったという話がない元寇船でも人数は十分に運べる
つか、その気になれない時点でその資質がない 「経済史研究者によると、19世紀の清は世界経済の3分の1を占めていた」
「鄭和の艦隊は、大航海時代の西洋列強の海軍力を遥かに超えていた」
これが「中国覇権国家論」の二本柱というか、二大根拠というか、このテーマに関心ある者にとっては耳タコな話題なわけだが
しかし、両方とも、「そう主張している人がいる」というだけであり、たいした根拠があるわけではない >>859
なんでそこで左翼が出てくんねん
鄭和は共産主義者やったんか?
イスラム教徒やったはずやで
「資本論」や「共産党宣言」で鄭和を賞賛してる部分をいんようしてくれ
「国家と革命」や「実践論」でもええで >>864
何を意味不明なこと言ってるんだ
ここでいう左翼ってのは、日本の親中派サヨクの爺さんたちだよ >>866
おまおこそなに意味不明なこと言うてんねん
そんなもん左翼言わんわアホ 日本の皇居は、江戸幕府の江戸城
ソビエト連邦になっても、ロシア連邦になっても、政府はロシア帝国のクレムリン宮殿のまま
中国共産党も、明清帝国の紫禁城を受け継いだ。
やはり、五百年の歴史は重い
ここにいないと、全土に威信が行き渡らない >>849
硫黄の輸出は箱詰めして船倉に積み上げていたことがわかっているが、
木材の輸出形態は多分まだよくわかっていない。
なんせ、20世紀の間はあれだけ膨大な量の宋銭や陶磁器の輸入対価が
ほとんど奥州の金で支払われていたって蒙説が大手を振っていたんで、
ここら辺の研究がかなり遅れている。
奥州の金がそれだけ膨大な量輸出されていたとしたら、大元ウルスは
銀本位制じゃなくて金本位制を採用しているわな。 >>853
ただ、漢方薬は大きく輸入に頼っていた。
漢方薬の原料の生薬類は、蝦夷地の昆布とのバーター取引が行われていた。
中国の内陸部はヨウ素不足で甲状腺障害が多かったので、昆布がその治療のために
大きな需要があったんだな。あと、氷砂糖のような精製糖も輸入に頼っていたな。
結局、江戸期を通じて「国産化」に励んだ絹、茶、磁器は明治日本の重要な輸出品になり、
近代化の原資となった。
比較優位原則などくそくらえだ! >>858
結局、貿易の実利をとっていた大元ウルスのインド洋進出政策が背景にあって、
その時の技術的資産を蕩尽した単なるデモンストレーションだったのが、
鄭和の大航海なんだよ。
あれを持ち上げるなら、クビライ政府のインド洋経済進出策をもっと礼賛すべきだな。 >>862
原始的なハンドカノンレベルの、つまり小銃と大砲が未分化な初期火砲は大元ウルス時代の発明。
その後、それの進歩型のフランキ砲は16世紀に西洋から伝わって普及している。
ただ、明とライバル関係にあったティムールが中央アジアで大型の大砲を多用しているから、
その手の大砲はティムールの時代、つまり14世紀には明に伝わっていてもおかしくない。 >>875
元寇の時の「てつはう」は導火線に火をつけてから投石機で飛ばす炸裂弾、つまりグレネードの一種。
金属の筒に火薬を詰めてその爆発時の燃焼ガス圧で実体弾を飛ばすタイプの火砲は元代も末期の発明らしい。
宋代とかの初期の極東の火薬兵器は火炎放射器的なのとかロケット砲的なのが主流だった。
あと、毒物を火薬に混ぜて火炎放射器的な兵器で毒ガス燻蒸するってのもあった。 >>869
オスマン帝国のトプカピ宮殿
トルコ共和国の首都はアンカラ
あと、ロシア帝国の都はペテルブルグやで
モスクワはピョートルが遷都する前の旧都や >>871
いりこ、干しあわび、フカヒレの俵物は
中華料理の食材で長崎貿易で重要。 >>878
長崎近傍の幕府直轄領で「俵物」の生産地として重要、つまり幕府のドル箱だったのが天草諸島。
だから、天草の「隠れキリシタン」は信仰を表ざたにしないで隠れて信仰している限り、
あえて突っ込んだ追及はしない、という「暗黙の妥協」が確立していた。 そういえば、当時は長崎以外では中華料理て全く食べられてなかったん?
黄檗宗の普茶料理は特殊な中華料理ということになるけど、それは抜きで >>880
薩摩の黒豚料理が、多分中国からの影響を受けた琉球料理の流れじゃないかなぁ。
それから、鎖国前には博多港も重要な貿易港で、唐人商人も数多く土着してたから、
中国の料理の流れを受けた料理は作られてたかも。 >>878
そこに目をつけた田沼意次は、やはりタダ者ではなかった >>885
ただ、「大原騒動」なんかを悪化させてしまった経緯をみると、
農政のセンスは致命的になかったんだろうなぁ。 >>853
日本が中国に頼らず何でも作れるようになったのは19世紀初頭の文化文政時代ね。
それまで高品質の絹製品と砂糖はほぼ中国からの輸入品。 >>862
「もののけ姫」のタタラ場の連中が使っていた石火矢
あれのモデルになった「火槍」という中国の兵器なのだが初出は感平三年(1000年)八月の(宋史)のこと
12世紀に入ると「霹靂砲」と言われる大砲型も開発され采石磯の戦いでは虞允文率いる宋軍によって実戦投入されている >>883
中南海は清朝皇室の庭園で紫禁城の真横(江戸城で言うと吹上か北の丸みたいな感じ)に位置する。
天安門を正門とする皇城の内側に当たる。(平安京で言うと大内裏だな)
辛亥革命後は袁世凱がここに大総統府を置いた。 映画「ラストエンペラー」でも溥儀兄弟が壁よじ登って
総統府に入場する袁世凱を覗くシーンがある。
現在中南海と北海公園は道路で分断されて別の施設になっているが元は一体の庭園。 >>887
砂糖はシナではなく、オランダ船からの輸入じゃないか?
オランダ船が東南アジアに寄港した際に砂糖を積み込み、日本で売りさばく。 >>888
宋代の「火槍」は石火矢タイプの金属管から実体弾を射出するものじゃなくて、
黒色火薬を使用した火炎放射器みたいなものじゃなかったっけ。 北海、中海、南海はもともと皇城の中庭の池だったのが康熙帝があまりにも皇城が広すぎるとして
本丸に当たる紫禁城だけを残してあとは民間に下賜したため市民の憩いの場的な存在になった
明代の頃は西安門というのがあってここを越えないと現在の中南海には入れなかった >>892
その「皇城の中庭の池」ってのが、明代の紫禁城になる前、元朝の大都時代には、
天津あたりの海から大都に向かって伸びた運河の末端、大都への物資輸送の
ターミナル港だったんだよな。 元朝の大都時代には、北京は運河で天津と直結する海港だったんだが
なんで、明朝は海運を嫌ったんだろうな? 元代には蒙古人は宮殿は儀礼に使うだけで外にテント張って住んでたらしいけど
テント張って住んでたとこはどこやねん 宮廷におけるモンゴル人のテント
モンゴル人は、中国式の建物を宮殿として造営していました。ところが、文献資料を調べてみると、モンゴル人は中国を統治するようになってもテントを使う習慣を保持していたことがわかります。
たとえば、『草木子』という書物には、元の皇帝は代々即位すると立派なきらびやかなテントを新調していた、という意味のことが書いてあります。
また、元朝の歴史書である『元史』には、皇帝には四人の正夫人があり、それぞれの夫人が自分のテントを持っていたことが書かれています。
テントは移動可能なものであるため、上に述べた記述だけではどこでテントを使ったのか確定できませんが、別の記録によると、大都の皇城内でもテントを建てて使用していたことがわかります。
たとえば、『祕書監志』、これはおもに皇帝との謁見の際、臣下の奏上内容や、皇帝の命令を集めた書物ですが、このなかに「内裏のテントの中で」皇帝に謁見した、という記述があります。
このほか、特殊な例として、皇帝崩御のおりには、テントで葬式をすることが『元史』に見えており、実際チンギス・ハーンが崩御した際、テントで葬礼を行ったことが当時の文人によって描写されています(『秋澗先生大全文集』)。
また、大宴会を皇城内で行ったという記事もあり(『析津志』)、モンゴル人は中国式建築群の立つ皇城の中であっても、ずっとテントを使うという習慣を持ち続けていたことがわかります。 >>895
むしろ、テントを儀礼に使っていた可能性もある
文献の記録によると、その可能性が高い 現代のモンゴルの首都ウランバートルでも、高層ビルやマンションが建ち並ぶ中に、テントを張って生活する人々が大勢いる >>897
ほな宮殿は儀礼用でさらないただの飾りか 中世〜近世のイランの帝王ってのも、だいたい遊牧民系の血筋なんで、
閉鎖的な王宮を建てて中に住まうってのは嫌っていたらしい。
だから、だいたい囲壁で囲った広大なペルシア庭園を造営し、そのなかにいくつも
豪奢なあずまやを建てる。当然、あずまやは壁で囲まれてなくて開放的な構造。
で、イランの帝王はそのあずまやの中に豪奢なペルシア絨毯を敷いて、
その上で宴会を開いたり寝起きをしたりしていた。 >>902
屋根だけのあずまやで寝て寒ないんか
イランなんか高原ばっかりで寒そうなイメージあるけど
テヘランなんか冬には-20度くらいまで気温下がるらしいやん >>903
昔から、その点がすごく気になっているんだよね。
いったいどういう寝具を使っていたんだか。
それとも、冬はあずまやの中に天幕でも設営していたのかね。
でも、彼らの慣習からどうしてペルシア絨毯があそこまで豪奢で高価なのか
それははっきりとわかるよね。
彼らにとって豪華なペルシア絨毯を敷けば、そこはすなわち豪邸なんだ。 >>901
いや、いくら遊牧民でも、さすがに寒い北京の冬の夜を、わざわざテントで過ごそうとは思わんだろ
どっちかっていったら、テントはモンゴル民族の伝統儀式用で、日常は中国建築で暮らしてたんじゃないかと思う >>904
現代のモンゴルのゲルだと、床下に家畜のフンを敷き詰めて保温してるらしいが 冬は、首都のザナドゥが寒すぎるから、北京に冬営した
モンゴル人にとって北京は仮住まい いや、だいたい遊牧国家にとって夏営地よりも冬営地の方に本格的な首都機能がある。
初代のチンギス・カンの宮廷でも、冬営地の「ヘルレンの大オルド」の遺跡である
アウラが遺跡で首都機能の遺構が数多く発見されていて、夏営地の「カラトンのオルド」
の遺構であるブフグ土城遺跡は防衛用の城塞以外はかなりスカスカ。 そうなのか
まあ、そういうもんだろうな
ザナドゥよりも、北京のほうが大都会だったのは間違いない 夏営地では家畜群を広く分散させて青草をたらふく食わせて乳を搾って乳製品を作り、
その間に冬営地では留守番要員に越冬用の干し草を作らせて補助的な農耕もやらせる。
冬になると分散していた遊牧集団が冬営地に集合して集団生活で越冬、というのが
遊牧民の基本パターン。この冬営地で越冬の集団生活を送る共同体の単位が、
基本的な軍事行動のユニットになる。 >>905
モンゴルは北京よりもっと寒いんやで
ウランバートルは北京どころかモスクワより寒いんやで ということは、夏季はモンゴル高原で遊牧生活、冬季は北京のテントで越冬するというわけだな >>913
夏は直属の牧民と家畜群が上都周辺に散開して放牧にいそしむ中、
帝は側近たちと狩猟などを楽しみつつまつりごとを行っていたらしい。
なぜそれがわかるかというと、帝が移動宮廷とともに引き連れている家臣団の中に、
帝が飲む「馬乳酒づくり」など乳製品製造の専門集団が入っているんだな。
馬乳酒なんて日持ちのするもんではないから、帝のいるすぐ近くに日常の食生活に供せられる
乳製品の製造集団と、そこに原材料を供給する畜群・牧民群が居たって事なんだな。 >>914
中華皇帝になっても、ライフスタイルは遊牧民のままで変わらなかったわけだな
元朝は百年ももたなかったが、明や清みたいに三百年近くも続いてたら、どうだっただろうな ということは、北京の皇城は、夏季は留守番の連中が宮殿に住み、冬になると支配者集団のモンゴル皇帝や皇族たちがやってきて、城壁の内側にテントを張って越冬キャンプする・・・というのが年中行事だったわけだな
これに関しては、>>896のコピペにあるような断片的な記録しか残ってないから、推測するしかないわけだが >>918
普通に発掘で区画整理だけしてあって構築物とかが全然なかった事がわかってるから
裏取りはできちゃってるけどな >>919
そうなのか?
じゃあ、北京の皇城には、中華式の宮殿建築があったわけじゃなくて、単なる越冬キャンプ場にすぎなかったわけだな >>917
清は蒙古と違うて最初から積極的に中華文明採用したから
その代わりの胡服弁髪強制なんやろ ひゅーるり〜
ひゅーるりーららー
ってか。
大都って遺構はまだあるの? >>912
たぶんコイツはテントと聞いてアウトドア用のテントみたいなの連想してるんじゃないのか
ゲルとかユルトとか知らんのだろうな >>920
今の2〜3倍くらいのサイズの北京の半分がキャンプ地
残りの部分が城塞、宮殿等 紫禁城は明の建築やからな
その前はどうなってたのか気になるな ちょっと整理したいんだが、現在の中南海は金時代のルーツだ。 それと、
元代の港は皇城の南側で中南海の位置ではない。北海には水路があった。
それと皇城にはちゃんとハーンの宮殿はある。復元CGには描かれている。
大ハーンのオル℉(大帳幕)は文献では1000〜2000人が収容できる巨大さ。
歴史群像{チンギス・ハーン下巻」に復元イラストが載っている。 モンゴル人は都市生活嫌いだから、都市の外にテント張って生活してたみたいよ ザナドゥを訪れたマルコ・ポーロは、華やかな宮殿の彫欄玉砌に感心した記録を残している
モンゴル人も、宮殿にまったく興味がなかったわけではないようだ 大都は、内陸の都市としては驚くべきことに、「積水潭」と呼ばれる海につながる都市内港を持つよう設計された。
現在の天津にあたる直沽から通州を通る閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため江南地方からの物資も水運により結ばれるようになった。
このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めた。
大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わった。 >>931
地下鉄積水潭駅なら利用したことがある。
降りて、少し歩くと徳勝門があって、その脇に万里の長城や明十三陵行きのバスが出てて、観光客がいっぱい。
八達嶺長城まで1時間。
交通ICカードを使うと、とても安い運賃で行けた。 >>932
海港がなくなっても、名前だけは残っているんだな __
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′||
r┤ ト::::: \___/ || このスレも伸びてきた今、
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 朕も顔出しせねば。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ >>934
懐良親王「なんかブサイクな奴がきたぞ?」 上都も住んでるのは漢人で基本的にモンゴル人は城壁の外で遊牧
定住農耕には適さない土地なのでしょっちゅう住民が逃亡しては
また漢人を集めて住まわせるの繰り返し 世界遺産「元上都遺跡」
遺跡自体にはほとんど何も残っていません。
ただ、大草原の中の遺跡。。。
内モンゴル自治区のドロンノール県中心市街地から北西へ28km離れており、北京からは北へ275km。
元朝の夏の首都として使われた。
1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。
西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2012年、UNESCOの世界遺産に登録された。
https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/86/88/500x_10868886.jpg?updated_at=1402750146 >>937
いまじゃ、草原というより砂漠
こんなところで農耕はムリ 上都は、北京を東京とすると、仙台よりちょっと北くらいの位置にある いや違った
仙台ほど遠くはない
東京を北京とすると、上都は福島か郡山あたりだ
こうしてみると、仙台もけっこう遠いな
伊達政宗や北畠顕家の長征の凄さがよく分かる >>933
積水潭駅の側に西海という湖があって
なかなか風光明媚なんだが、
あそこが海と繋がってたんか! 繋がっていたのは西海ではなく 現在の北海公園
まあ、北海に繋がっていたのが西海であるから間違いではないが ホンタイジについて常に語られるのは、その名が「皇太子」に由来すると言うことである。
・・・そもそもこの「ホンタイジ」が、実は本名ではなかったとみられることが、夙に指摘されている。
すなわち三田村[一九四二:一四頁]によれば。明の陳仁錫「山海紀聞」に「喝竿」、朝鮮『仁祖実録』に「黒還勃烈」とあって、本名はヘカン、ホンタイジは通称だというのである。
>(三田村論文)・・・然し本當の名は皇太極ではなかった様である。 明の陳仁錫の山海紀聞によると「黄旗下是喝竿汗。老奴第四子也。老奴死。喝竿立。奴衆稱爲汗」とある。
この通りであれば太宗の本名は皇太極でなくては喝竿hekanといふ事になる。
今度李朝仁祖實録を見ると、太祖の没した時にこの前後の情報を齎した平安監司の馳啓がのせてあつてその文中「奴酋死後。第四子黒還勃列承襲」と記して居る。
黒還勃列はhekan beile(貝勤)で陳仁錫の記述に合する事になり太宗の本名は通説の皇太極でなくてへカンである事が確かめられた。
このことはその後はほとんど深められていないが、あらためて確認すると、ヘカンという名を記す記事は、同時代の明・朝鮮史料にかなり見いだすことが出来る。
・・・したがって、残念ながら正確な語と語義は不明だが、ホンタイジが本名でなかったことは確実と思われる。
(杉山正明『大清帝国の形成と八旗制』) 老奴とか奴衆とかめちゃくちゃなめくさってんなw
滅んで当然 たとえば、南インドの4大州のひとつ、カルナータカ州
この地に興亡した
前期チャールキヤ朝、ラーシュトラクータ朝、後期チャールキヤ朝、ホイサラ朝、ヴィジャヤナガル王国を、
「カルナータカ史」としてまとめてみる
これだけでも、フランス史に勝るとも劣らないほどややこしい
人間の処理能力としては、これくらいが限界だろう それにしても、複雑すぎて意味不明なインド史と比べて、中国史のシンプルなことよ
明清帝国なんて、江戸時代の日本や、ブルボン朝期のフランスと変わらない印象だ
日本やフランスのような普通の国を十個以上も集めたくらいの国家規模なのに、よくここまで国をまとめ上げたな? しっかり統治できてなかったから靖難の変があったんやろ イギリスやスペインなんか、欧州では大国だけど、中国だったら四川省や広東省より小さい並の規模の省だ
そんな国でさえ分裂しかけているのに、それに比べて中国の安定感はみごと
これは、中国共産党の統治能力もさることながら、明清帝国の550年間で統一国家形成が完成されたからだろう >>951
分裂したときの無秩序と混乱による災厄が悲惨極まるとの共通認識があるんじゃないか?
暴力的圧政であっても秩序と安定が確保できれば、ずっとマシという意識があるんだよ。きっと。 しかし、公共道徳心のかけらもない現代中国人であった。 北京に全土を支配されてるのが、かえって各地の地域対立の火種を未然に防いでるんだろう
もしも広東省が独立国だったら、スペインみたいな分裂騒ぎになりそうだ インドでは州の分割や新設が盛んだが、中国では、四川省から重慶特別市を分離したくらいしか聞かないな
元朝や明朝による、省の分け方がよほど理にかなっていたのか 重慶特別市は、市といっても、面積も人口も韓国の8割くらいある規模
韓国は、もしも中国に編入されたら、「省ひとつぶん」ですらない
「ソウル特別市」という位置づけになるだろう >>951
辛亥革命から共産党の統一まで35年もの間、明白な分裂状態でしたがな…ww
あの時代の軍閥割拠は、五胡十六国や五代十国と全く同じ状況だぞ。
中国人が「支那」なる表現を今でも差別だと嫌がるのは、
この漢字が、軍閥により分裂した民国時代を想起させるから。
明清帝国の「大統一性の画期的意義」なんてものは、正直まったく存在しない。
中国史を塗り替えた「大統一された均一不可分の大北京帝国の爆誕」なんて概念は妄想だよ。 >>956
それは重慶が例外的なだけ
中国を遥かに上回る豊かさ、十分な人口を備えた韓国の価値は中共にとって計り知れないほど大きい
特別な省にするくらいの価値があるよ >>957
明と清の時代の長さに比べるとあまりにも短い 共産主義は最悪だな
満州族の歴史、文化、言語、文字全てを抹殺して
民族そのものを消滅してしまった
清帝国を築いた偉大な民族だったのに 「三民主義」を読むと共産主義国にならなくてもいずれは消えてたのが分かるよ >>958
韓国のGDPが浙江省を越えたのって、朴正煕以降のほんの一瞬だろ。
同じ領域で考えて、有史以来、朝鮮南部が長江デルタより豊かだった時期は、
ウリナラ5000年wwの歴史でせいぜい直近30年ぐらいだろう。それも間もなく抜かれるw どっちにろ近い将来倭省と朝鮮省になるんだから大差ないやろ
あるいはまとめて東夷省かもw >>963
日本はアメリカの州になる方向で調整中だろ >>965
アメリカ合衆国は、日本を合衆国大統領や国会議員の投票権を持つ「州」には決してしないだろう。 >>966
それこそ朝鮮のような朝貢国のような状態だよね >>954
広東省は、すでにソフトパワーでは北京の統制から離脱したとも言われるけどね。
中央電視台の旧暦大晦日の「国民的番組」が、全く視聴率をとれないらしい。
遼寧省では、日本の昭和時代の紅白歌合戦並の視聴率が、未だにとれているというのに。 >>967
朝鮮王国の朝貢以上に見入りの大きな冊封国状態だけどね。
アメリカ国債を膨大に買わされているし。
せめて、明朝と琉球王国の関係ぐらいのメリットは欲しい。 >>966
プエルトリコのような参政権なしの自治領にすればいい >>958
あんたの目は節穴か
省単位で見れば江蘇省・広東省・山東省は韓国のGDPを上回っている
遥かに上回ってなどいないし、むしろ人口でいえば少ないので一人当たりで勝てているだけだ >>963 >>964
台湾にすら惨敗した支那畜の分際で、「倭省」だの「日本省」だの高望みしすぎだろw まず北ベトナムを「未回収の中国」として交趾省として編入するべきだったな 春秋戦国時代や三国志の例を引き合いにして、「中国分裂論」を唱えるのは無理がある。
「かつて、日本はムラとクニに分かれて争っていた。だから、日本は分裂する」というようなものだ。
六百年近くに及ぶ明清帝国の専制支配を経てからの中国は、まったく別の国。
「中国は1つの国である」というイデオロギーは、見た目より堅固だと見るべき。 歴史的には北と南に分かれる可能性はあったが永楽帝の遷都で可能性は消えたよね 中華民国でも、中華人民共和国でも、北と南に分裂しそうな状況には何度かなったが、結局は北京によって再統一された
北京に力があるうちはいいが、力がなくなったらどうなるか分からない 分裂するとしたらヨーロッパのように数国に細かく分かれるのではなく南北に分かれるだろうね 中華共和国と華夏民国そして各自治区は独立
この方がまともな国になって発展したと思う 中原以外は本物の中国ではない
巴蜀・甘粛・ビン越はそれぞれ別の国でよし 四川人はほとんど清代に入植した中原の人たちじゃないの?
今でも普通話を話してるんでしょ? 客家はガチで中原から逃げてきた人たち
南部ではよそ者扱い(実際によそ者だが)されてるけど 客家語の発音は日本の漢音読み(むろん唐代の輸入音)に最も近い
よくも千年に渡って移住地に染まらずに頑なに守り続けたもんだよ、そりゃよそ者扱いされるわ >>979
そうなったら、南部はさらに分裂する可能性が高い
北東部は広大な華北平原に省がいくつもあるだけに、その中で国境線を引いて国を分けるというのは無理がある 2008年のリーマンショック以来、中国共産党は莫大な公共投資を地方でバラまいて景気対策をやってきた
誰も住まない田舎に高層マンション街を作り、誰も乗らない高速鉄道や高速道路を全土に張り巡らせてきた
おかげで、最近は以前ほど「地域格差」が話題にならなくなっていたのだが、それももう息切れ感あり
もともと、「沿海部はヨーロッパ、内陸部はアフリカ」と言われるほどの格差があるだけに、これから予想される経済低迷を、内陸部が乗り切れない可能性は高い 沿海部と内陸部の経済格差が目立ってきたのは、1990年代の高度成長期からだが、この傾向が始まったのは明清時代から
人口爆発や環境破壊と同じで、たいていの問題は明清時代から始まっている 4世紀も前に当たる明は現代の人々にとって、なじみがない時代かもしれない。しかし、明代に生み出された文物の典型を例としてあげればすぐ「なるほど」と感嘆するであろう。
中国四大名書のうち、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』はすべて明代に書かれた。また、詩の精華である『唐詩選』は明代の李攀龍という文人により編纂された。
北京の万里の長城や故宮なども明代に建てられた。万里の長城は秦の始皇帝の傑作と考えられているようだが、実は今見ているものはほとんど明代に建てられたものである。
故宮、すなわち紫禁城も明の成祖、永楽帝が遷都した後元の宮殿が基になっている。明末、李自成の乱で焼失したが、清朝の皇帝は明の規模に基づいて再建した。
これら、現代の人々が秦漢、隋唐、宋元時代のものだと認識しているもの(万里の長城は秦の代表、『三国志演義』は後漢の物語、
『西遊記』は唐が背景である伝奇、『唐詩選』は唐の文化のピーク、『水滸伝』は北宋のストーリーである)
はほとんど明代にできたものだと言える。言い換えると、我々が「伝統中国」として抱くイメージは実はほとんど明代に達成されたものである。 日本人の旅行者が、北京に行って、万里の長城とか紫禁城とかを見て、「中国四千年の歴史はすばらしい」と感嘆する。
でも、それらは明代の建築だ。
三国志・西遊記・水滸伝を読んで、漢・唐・宋の歴史ロマンに浸る。
でも、それは明代の文学だ。
「昔の中国」としてイメージされるものは、たいてい、明代のものだ。 三国志の映画を見たときも、曹操孟徳が手に持っている杯は、明の五彩だった
漢末の陶磁器なんかじゃ、色彩感がなく地味すぎて見映えがしない
明の五彩じゃないと、中国っぽく見えない ついでに、映画のクライマックスとなった赤壁の大戦も、火薬がなかった漢末にはあり得ない戦法
あのシーンは、元末明初のハ陽湖の戦いであり、天才軍師のモデルは明の劉伯温 「唐の都を見たい」と思って、陝西省の西安に行っても、唐代の痕跡などわずかだ
唐の長安は、唐末の動乱で滅び、いまの西安は明代に再建された別の都市
中国人のガイドからは、「唐は世界の中心だったアル、
日本は唐の真似ばかりしてたアルね」という自慢話を聞かされるが、
実は、京都や奈良のほうがずっと歴史が深い 数年前に、「唐朝」のイメージで売るロックバンドが人気を集めたことがあったが、彼らのPVは、
「砂漠化した廃墟、砂に埋もれかけた石仏や獅子頭が散乱する風景の中でハードロックをやる」という内容
「失われた幻の古代文明」という表現がピッタリだ。
「やはり、中国人にとって、唐はそういうイメージなんだな?」と思わせるものがあった 中国の歴史は、モンゴル帝国から独立したときから始まった
「中国史の勉強は、明から始めれば十分」という理由が、ここにある この事情は朝鮮半島も同じで、新羅や高麗の痕跡など、いまの半島にはほとんど残っていない
石仏とか、石窟とか、石でできたものだけが多少は残っている程度で、文献もほとんど残っていない
「豊臣秀吉の侵略で廃墟になったニダ」と観光ガイドには書いてあるが、本当はそうではなく、朝鮮人が破壊したか、もしくは、もともとたいしたものが無かったのだ というわけで、明清帝国と朝鮮王国の五百年こそ、現代の東アジアを理解する鍵だ このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 225日 11時間 5分 20秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。