明清帝国 二
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>>100
暗君続出と宦官ののさばり様考えると明の統治制度には問題大有りや >>101
でも結局民の体制はのちの清朝、今の共産党体制に
引き継がれているだろう?
軍戸と民戸と言う二重戸籍体制は今の都市戸籍、農村戸籍に引き継がれているし、
錦衣衛や東廠や文字の獄の秘密警察体制も引き継がれているし、 君主に権力が集中したからと言って、それは先進性の証左ではないだろう。ブルボンとと比べてなんか意味があるんかいなw
較べるんならファラオと較べるこった。 みんりつ【明律 Míng lǜ】
中国,明代の基本的刑法典。
明の太祖朱元璋は創業の初め,1367年(呉1)に律令の制定に着手し,翌年これを公布した。
のち三たび改定され,今日みる明律はその最後の97年(洪武30)に修定されたものである。
唐律と異なり,名例,吏,戸,礼,兵,刑,工の7律から構成される。
唐律を模範としながらも,宋・元の法制をふまえて時代に適応するよう形式,内容を新たにしている。
たとえば,刺字(いれずみ)の刑や凌遅処死という極刑をとり入れ,唐律にくらべ厳格な刑罰体系になっている傾向がみられる。 唐律に比べて、明律が改善された点
1 イレズミ刑を取り入れた
2 凌遅致死刑を取り入れた 中世の国家は、権力が分散して統一国家とは名ばかりなのが普通だ
室町幕府や神聖ローマ帝国、安史の乱以後の唐がいい例
諸侯を中央が強力に統制できるようになってこそ、近代国家への夜明け 明の場合、地方にいるのは諸侯というより、北京が全国に派遣した科挙官僚や、朱氏の王たちだ
郷紳と呼ばれる地方有力者も台頭したが、これだって、科挙に合格歴のある、広い意味での科挙官僚の一種 >>106
成程。米英やスイスは未だに近代国家ではないことが良く解ったし、
強力な中央集権国家だった清の洋務運動が大成功した理由も君のレスで納得できた。 >>109
米英やスイスには、いまだに封建諸侯がいるのか? 半独立国の封建諸侯を弱体化させ、中央が派遣した官僚に置き換えていく
これでこそ、近代国家の形成 地方有力者の郷紳も、科挙に合格歴がある人々(進士じゃなく、もっと下のほうのクラスだが)
科挙に合格できない子孫が何代か続くと、家は没落する
いい悪いは別にして、実態は封建諸侯が割拠してバラバラだった唐に比べ、明は統一国家らしくなった それでも、清末には結局、群雄割拠状態になったんだが >>111
成程。朝鮮は600年前に近代国家の条件を揃えていたんだね。
19世紀の後半まで封建諸侯がいた日本より朝鮮が進んでいたということが
君のレスで納得できた。 >>114
朝鮮でも科挙はやってたが、受験者が両班に限られる身分制で貴族政治 >>115
あれは豪族の連合体にすぎず、統一国家とは言えない 「なぜ、産業革命は明でなく、イギリスで起きたか?」というのが、経済史でしばしば問題になる。
18世紀のイギリスでは、拡大再生産の連続で爆発的な生産量の増大が起きた。
近代資本主義の始まりだ。
「なぜ、明は、あれだけのレベルまで行っておきながら、近代への突破口を開けなかったのか?」というのは、人類史の謎。
統治機構についても、それは言える。
「近代とは何か? 前近代となにが違うのか?」を考える材料にふさわしいのは明 イギリスと明の比較よりも、イギリスとネーデルランドの比較の方が意味はある。 朝鮮の両班の官服は、明の科挙官僚そのもの
清はシナ本土では胡服弁髪を強制したが、朝鮮では明様式を続けさせた 明から清への王朝交代では、社会変動は他の王朝交代に比べて小さかったが、シナ人の外見の変化は最も大きい
胡服弁髪は、マンガに出てくるシナ人のトレードマーク
時代劇も、清だとすぐ分かる
唐と宋なんか、簡単には見分けつかない >>100
ブルボン王朝の絶対王政は、明清の制度の影響を受けている
フランス啓蒙主義思想家は、中国の長所短所を指摘してフランス絶対王政の参考にしたが、
ルイ14世個人にも影響を与えていたと思われるが、プライドが高いフランス人は
そういうことをあまりいわないようだが 儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし、愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。
(略)四千年来、中国の識者は、最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)
ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて、彼らこそが、生まれながらに、自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。
(略)ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在しているが、
中国ではこのような制度は決して生まれなかった。この国には世襲的貴族身分が全く存在しない。(レーナル)
共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては「恐怖」が必要である。
(略)中国は専制国家であり、その原理は恐怖である。(モンテスキュー) 18世紀のヨーロッパは貴族政治だった
貴族階級が没落し、高等文官試験に合格した平民の集団が仕切る清は、彼らにとっては、驚くほど近代的な体制だった もちろん、中国にも名家とか、良い血筋はあった。
だが、それでも貴族ではなく、あくまでも平民だった。
凡庸な人物が何代か続いて科挙の合格者が出ないと、その家は没落した。
・・・ここまではその通りなのだが、忘れてはならないのは、清には支配階級たる満州貴族がいたこと。 科挙官僚には、皇帝の家産奴隷みたいな面もあった
しかし、高級官僚なら三代は食っていけるほど蓄財できた
そんな財産も、何代か科挙の不合格が続けば、食い潰して没落する羽目になった >>118
比較するなら明じゃなくて清だろ
人口爆発起こったの清だぞ >>102
しかし、今の中国共産党に体現されているあのプロパガンダ手法・洗脳手法は、どこが起源なんだろうねえ。
あの粘っこくて気持ち悪い、価値論の根元部分を操作して刷り込んでいく独特の手法。
価値観レベルで追い込んでいって、自発的に隷従するところまで持っていく。
決してコミンテルン程度の歴史の浅いものではない気がする。
すでに康煕帝の李氏朝鮮に対する扱い方が、今の中国共産党の手法とそっくり。、
だから清が起源なのかな?とも思うが、満州族固有とも思えない。
もしかすると明なのかね。 >>122
ルイ・ブルボン王朝は、官僚制など中国のいいところを取り入れたところはあったが、
一緒に 発展→加熱し過ぎの最盛期→農民反乱→滅亡 という東洋専制国家リズムも取り入れちゃった感ある
フランス革命は農民反乱リズムまで取り入れちゃった感
現在の中国はシンガポール的強権手法で発展しているが、結局いつものリズムから
抜け出せない感強い
今統一してから70年目、明で言えば永楽帝の治世の終わりくらい。
科挙制度は本来その時代のもっとも経済力(教育投資力)と知的能力のある人材の社会階層を支配層に
取り入れ、経済階層と政治体制が分裂して社会不安にならないように機能する制度のはずだが、
中国は、古来歴史に学び、過去事例をよくわかっているのになぜか毎回繰り返す
だから今回も、明型ならそろそろグダグダになり、清型ならあと100年成長加熱し続けピークアウト、
150年後に農民反乱、200年後に滅亡する予感がどうしてもしてしまう >>130
その官僚制度が癒着からの制度疲労で毎回、国をぶっ壊してきたのが歴史なのだが >>130
そうだな
「人民反乱で王朝滅亡」なんていう、中国史ではいつものことだが、西洋史では前例のないことが起きるようになってしまった 清は、19世紀初頭に白蓮教徒の乱が起きて急速に衰退した >>133
逆でしょ
乾隆年間は全盛期でもあるけどその末年は衰退期でもあった
特に寵臣ヘシェンによる長期かつ巨額の横領は国家財政を大いに弱らせた
結果、本来は簡単に抑え込めるはずだった白蓮教徒に長く反乱させたままになった
白蓮教徒の乱が起きて急速に衰退したのではなく
既に衰退していたものが乱によって見えるようになっただけに過ぎない
また衰退の端緒は既に康熙年間に八旗軍の弱体化という形で顕在化しつつあったし
この八旗の脆弱化は康熙、雍正、乾隆の清朝絶頂期にも度々問題視されて
皇帝から満洲人への武芸の奨励という形で解決を試みられたが改善の兆しすらなかった 長い平和が続くと、軍隊は弱くなる
こればっかりは仕方ない >>137
清は結構平和な期間が少ない
康熙帝はガルダン・ハーンやその後継者たちのジュンガル帝国と長く争ったし
雍正帝、乾隆帝もそれを引き継いで戦争はしていた
清朝の面白いところは戦争を繰り返しているのに、満洲人が文弱化して軍隊が弱体化して行ったこと 西洋伝来の鉄砲の威力で、ようやく異民族を屈服させた >>130
>>136
人口ボーナスとグローバリズムの恩恵を受け
表面的な数字が最高潮に達した00年代(江沢民末〜胡錦濤)に持続可能な成長への転換・改革を怠り
政軍官民を腐敗させた中共国も順調に歴代中華帝国と同じ道を辿ってるな
いかなる賢君、賢臣でもこのリズムは覆せない 2019年現在の人民共和国は、大清で例えるとすでに乾隆帝後半の雰囲気だよね。
白蓮の乱のちょっと手前ぐらい。
内部は既にgdgdなのだが、対外的にはMAX、いやまだまだ伸びてるように見える。
唐も明もそうだけど、中華王朝は崩れ始めてからが、とにかくしぶとい。
崩壊しそうな状態で100年、下手すりゃダラダラ200年持つ。 明の場合、ちょい斜陽になりかけたのが土木の変あたり? で少しずつグダってきて、正徳帝の時は
はっきりと衰退期に。(経済は発展しとるが。) しかし、滅亡まで120年位ある。唐も清もそう。
100余年つーと、元なんかそれだけで全生涯だ。 >>141
王朝が崩壊するときの災厄は想像を絶するものがあるからな
できるだけ先延ばししたいのが人情 農民反乱で動いてきた歴史もいっても、農民の政治的な意識が高いわけではない
よほど追い込まれない限り、立ち上がることはない 天安門事件で人民が虐殺されても中共が滅びなかったのは相手が農民で無く都市のインテリだったからなんだろうな
どこの国でもインテリは嫌われてる 明の朱元璋と、中共の毛沢東
インテリ大虐殺は過去に2度も起きている 明がダメになったのは、天啓帝の時代だな。
明の皇帝は残虐か変人かのどちらかばかりで、
天啓帝は残虐ではなかったが日曜大工仕事が大好きで政治を顧みなかった。
ために宦官の魏忠賢にさんざん好き勝手やられた。
汚職で国家財政をくすね、対抗する官僚には罪をでっちあげて拷問で殺す。
天啓帝が事故死して弟が崇禎帝として即位する。
彼はまず魏忠賢とその一族を誅殺し、前代に乱れきった世を立て直すため、経費削減として駅伝制を廃止する。
これで地方の若者が職にあぶれ、反乱が勃発。その一人が李自成だった。
さて崇禎帝はまじめだったが家臣を信用することができず、些細なことで次々と罷免、処刑した。
あげくは北の女真族に対峙していた名将の袁崇煥を濡れ衣で処刑してしまい…
こうして内憂外患で明は滅びましたとさ 魏忠賢は本当に有名だな
時代劇の悪役としては定番だ 天啓帝より遥かに有名
「天啓」というわりには愚かだった 永楽帝のモンゴル・ベトナム遠征と鄭和艦隊遠征と大規模な北京宮殿建設事業は、
国力消耗したと思うんだが
永楽帝がもうちょっと抑えておけば明の最盛期は15世紀後半くらいに持ち越せたのではないだろうか >>152
ifを語るので正しいとか正しくないとかはどうにでもなるんだろうけど
永楽帝の対外政策は悪いことじゃないと思うんだよな
明は結局陸のシルクロードはモンゴルに取られっぱなしで
海のシルクロードは抑えなきゃいけないからモンゴル系の軍人使って
海上ルート抑えに掛かったってのは間違ってないはず
問題点としてはその海のルートを抑えた場合、陸のモンゴルをきっちり駆逐して
水陸両方のルートを確保しないといけなかったのにそれに失敗した事で
あっと言う間に逼塞した政権になってしまったという事
ただこれはたまたま大航海時代の後にスペイン銀が世界中に広まったことで有耶無耶になってしまったけど 明清以降になると中国本土は狭すぎ
北米(太平洋・大西洋付)とオージーくらい追加しないとgdgdは避けられない モンゴル帝国は、海洋に対しても極めて積極的だったからな
世界最大の海軍を保有していた南宋から受け継いだ伝統だ
それは、明の永楽帝まででストップした モンゴル帝国は、天津から北京まで巨大な運河を掘削し、なんと北京に海港を作ってしまった
このため、北京は陸でも海でも交易の中心となり、空前の繁栄期を迎えた
それに比べて、明清の海禁政策はあまりにスケールが小さかった >>138
清の軍制は柔軟に変化する。
八旗や緑営の無力さは絶望的だったが、
勇営で太平天国を破り、
自強運動での軍の近代化もある程度成功したので、
ヤクブ・ベクの乱、捻軍、
ミャオ族、パンゼーの乱などを鎮圧できた。
特にヤクブ・ベク政権を英国、
ロシア、オスマンが支援してたのを
武力鎮圧できたのは大きい。
新疆を失われずに済んだ。
ただ海戦は弱いかな。
清仏戦争で海で敗戦を重ねてしまうし、
東洋一の北洋艦隊は日清戦争で壊滅。
日清戦争後、
完全に西洋式の新軍を編成したが、
袁世凱が台頭してしまう。 >>154
北米とオージーを得て、
資源を利用できたのが英国。
清との差がここで出てしまう。
ケネス・ポメランツの「大分岐」では
清と英国の経済水準がほぼ同じだったのが
その後の人口増加による資源枯渇の
限界にどう対応できたかで差が出た
とする。
英国は良質な炭田に近かったのと
新大陸から資源を持って来れた。 土地が足りねェ…燃料が足りねェ…鉄が足りねェ…食料が足りねェ…図体がデカすぎてどっかの傘下に入れねェ…
大航海時代するしかないチャイナ、しかし海ではアングロサクソンに勝てないアル 中国は、アメリカと並んで、地球上でも最良の地を占めている
それでも足りないとは、話にならない 山東省の人は子女が東北三省の人と
結婚しようとすると反対する。
東北三省を見下しているからだ。
なぜなら山東省で落ちぶれた人たちが東北三省に移住して行ったので、
強い偏見がある。
清は永らく故地の東北三省への
漢民族の移住を禁止してたが、
禁令が解かれたら、
一気に山東省の余り者が
東北三省へ流れて行った。 文献で確認しうる、比較的まとまった統計資料によれば、漢代以降二千年の長きにわたって、
中国人口は、その領土の大小もあるが、大抵4000万から7000万の間で徘徊していたといえる。この状況は清代において全く変化する。
康熙帝即位の年、つまり1662年にはすでに9000万を突破、その後その増加傾向は止むところを知らず、康煕二十四年(1685年)には1億の大台にのる
(一説には乾隆年間になって初めて1億を越えたともいわれる)。
その後乾隆二十四年(1759年)には2億、乾隆五十二年(1787年)には3億、とそれぞれ突破する。 「人口爆発は明代に始まった」とよく言われるが、明代はまだ「限界突破して増え始めた」といったところであり、人口爆発が本格化するのは、なんといっても康熙帝からの三賢帝時代だ。
「限界突破」とはどういうことかというと、前漢以来、中国の人口は荒っぽい増減を繰り返しつつも、だいたい「六千万人」が天井となっており、ある意味では安定していた。
それを突破したのが、明の後期ということになる。 人口爆発は18世紀と習った俺は逆に「明代から」つー話はこのスレが初耳だった。 まあ、「唐宋変革期の変化の大半が、じつは唐の後期から始まっていた」っていうのと同じで、清で起きた大きな社会変動は、さかのぼると明代から始まってたってことでしょうな 中国の特徴は、だいたい明清の頃には出来上がっていた。
人口爆発も、砂漠化も清で起きた
中国人が拝金主義で金銭への執着が強くなったのも、最近の高度経済成長のせいと考えている人が多いが、そうではなく明清から続く傾向 中国は世界の先陣を切ってキャッシュレス経済に突入し、いまも貨幣経済の最先端にいる じゃあ、世界が没落する時は中国が一番最初だということだな。 実際にその兆候出てるし。 中国が没落すると影響が必ず世界中に及ぶから、それは間違ってないな
iPhoneですら中国で製造してるから、機械類、衣服を初めとしてモノが大量に手に入らなくなる
その上難民まで出るようなら世界の前に日本が終わる >>173
大丈夫だ
すでに工場は中国から逃げ出している
iPhoneなんか無くても困りゃせん >>170
まあ21世紀中国人のアレな面についてはバブル経済や一人っ子政策等の影響は確かに強いだろうけど
伝統中国を引き継いでる、むしろ伝統中国人の方がもっと酷かったところは多々あるでしょうね
天文学的賄賂や横領なんて伝統中国のお家芸だったわけだし 明代における経済的な変化は、次の三点にまとめられる。
第一に、農業産業の補助であった手工業が独立した産業となり、生産量も大規模になった。
第二に、伝統的な農業の経営方法とサービスの対象が集約型、経営型になった。
第三に、中国封建社会独自の生産成長が出現した。
ここで、着目すべきはこの時期の人々の消費内容の重点が物質面から精神面に変わったことである。
例えば、現代でも人気がある中国の古典劇の崑曲は元末明初に顧堅によって創始され、明の嘉靖年間、
魏良輔という音楽家によって改良されて、軽やかで甘美な清唱になり、明末清初に隆盛にいたった。 しかしながら、経済の急速な発展に伴い、さまざまな問題も出てきた。その中で、最も著しい問題は「奢侈」という問題である。
明代中期の1436年(正統年間)、江南地域でこの問題が浮かび上がり、明中後期の嘉靖(嘉靖元年1522年)年間以降、奢侈の風気が強まった。
万歴(万歴元年1573)以後徐々に他の地域にも広まった。つまり、江南地域は他の地域より60、70年ほど早かったのである。 「衣」は明初期に素朴だったが、明中後期になると、経済の飛躍的な発展にともない、江南地域の人々は高級な衣料品を求め始めた。
夏は薄絹、紗、絽など高級的な絹織物を愛用し、冬は狐、貂などの高価な毛皮を着ていた。
綿、麻などは全く眼中になかった。材料の上品さだけではなく、衣服のスタイルもよくなった。
「時世装」、つまり流行ファションという言葉も出現した。
「食」の奢侈傾向は宴会に現れた。明初期には食材にこだわらず、種類も量も少なかった。
しかし、明中後期になると、ツバメの巣、フカヒレなどもよく食卓に上った。
主人や客は演劇を見ながら、珍味をあじわい、美食を乗せる器にもこだわった。 明中後期の奢侈の特徴は三点にまとめられる。
まず、奢侈の範囲は以前の時代より広かった。
以前には高級官吏、貴族、大金持ちなどの上層社会の人々に限られていたが、明中期以降は中下層の市民にも浸透した。
奢侈の風気は町から郊外に侵入し、身分がある家庭から一般的な市民へ、そして農民にまで広まった。
次に、明中期以降、奢侈品は一般的な日常生活用品になった。
例えば、明初期にぜいたく品であった綿ネル、葛布、眼鏡、磁器などは明後期に至って誰でも買える商品になった。
理由はいうまでもなく、価格が安くなったからである。
商品経済の発展により、手工業製品、贅沢品などの需用が急増し、手工業者が増える一方で、工房も多くなった。
最後に、奢侈は身分の格差を縮めた。庶民は官僚、命婦、士大夫の服飾をまね、娼妓までも轎と画舫に乗るようになった。 ↑ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/ginnan/ginnan27html/77bun2-sin.html というサイトからのコピペだけど、
どうやら、嘉靖・万暦年間以降の明の江南は、世界に先駆けて大衆消費社会に突入していたようだ。
もしも現代のような経済統計があったなら、急速な経済成長だったと言えるだろう。 強力な皇帝専制の官僚国家
高度経済成長による大衆消費社会の到来
明は、まさに現代の中国を見るようだ エロ小説として有名な「金瓶梅」は登場人物の衣服の着こなしや食事の献立内容が細かすぎて
ウンザリするくらい。
だからこそ、小説が書かれた明代の風俗を知るには格好の史料だ まあ、明末は日本銀とアメリカ銀が流入して、良いインフレとしての「東洋の価格革命」が起きてるからね。
明の貨幣経済は、実は日本銅が支えてきたのだが、銅は使い勝手がわるく、経済の足を引っ張っていた。
日本人は高品位の銅地金を持ち込んで、相対的低品位の銅貨を持ち帰る。
明の当局としては「濡れ手に粟アル。こいつら馬鹿アルね?」としか思えないウハウハ状態だが、
日本人が銅銭を持ち帰ってしまうので、社会全体としてはデフレ圧力になる。
銀の普及で、この銅銭依存問題が解決され、しかもちょうど新大陸銀の流入と日本銀の技術革新が重なってインフレになった。 徳川吉宗は明の刑法である明律を愛読していた。
それも若い時からの明律オタク。
和歌や漢詩を好まず、
明律ばかりを読んでた変人。
その成果が公事方御定書と言える。 よくわからないけど
明律が人気で、清律ではない。
荻生徂徠の著作も「明律国字解」。 まあアルカイックな中国古典なんぞより
現実に運用されている刑法の方がおもしろいってのはわりと普通な気がする 江戸時代後期、九州豊後中津藩の勘定方で漢学者でもある藩士・福沢百助が
清の乾隆帝時代の法令を記した漢籍『上諭条例』を手に入れた。
ちょうどその日、彼の妻が次男坊を出産した。
そんなわけで、次男坊には「諭吉」と命名された。 自ら去勢し、宦官に志願するものが出てきたのです。
この自宮ブームが頂点に達したのが明代(1368 - 1644)でした。
皇帝サイドでは、幾度も禁令を出してはいたのですが、効果が出ないどころかかえって希望者が増える始末。
家族を失って途方に暮れた、家が貧しい、博打で大負けした、そんな理由で「自宮(自ら去勢)」に及ぶものが続出したのです。 それにしたって、包丁で指をチョンと切るだけでも痛いのが人というもの。
ヤケになったからって大事なあの部分を自分で切るなんてそんなバカな、と現代人なら思うところでしょう。
これには理由があります。
中国で官僚になるためにはあの有名な科挙に合格しなければいけません。この科挙は人類史に残る超難関試験。
才能があっても試験官との相性が悪いばかりに落ち続ける人もいたりしますし、ある程度のお金持ちでなければ試験勉強すらできません。
では貧しい庶民には宮廷での出世ルートはまったくないか?というと、そうではありません。
宮廷に潜り込む究極の裏口——自宮して宦官になる道がありました。
科挙、従軍、官吏、そして宦官が庶民の出世ルートになったのです。 また宦官になると、国が徴発して行う労役が免除されたため、それを目的として自宮する者もいました。
その数、明代で実に十万人とか!?
欠員補充もそれだけ多くなりました。さらに権力を握った宦官たちは皇帝並かそれ以上の贅沢にふけり、親族までもその恩恵にあずかります。宦官になればあんな贅沢ができる、と真似する者は当然出てくるわけです。
そうはいっても大事なものを切り取ったら、性的な欲求が満たせなくなるのでは、と思うところではあります。
いや、これがむしろ逆なのです。
明代の宦官は宮女と疑似結婚することができました。プラトニックラブで結ばれたカップルもいますが、欠落したものを別の手段で補う者もいたわけです。 明は、中国の中国らしさが頂点に達した時代
中国を知りたければ、明に学ぶべし 近代に至って中国知識人にも日本人にも見限られた中国らしさの基盤を作った助走期間
唐(半ば以降)〜宋も忘れちゃ駄目アルヨ 田中芳樹は漢民族マンセー
だから国力的には弱体化していた宋や暗君ぞろいの明をマンセーして
パクスモンゴリカの元や賢君ぞろいの清を絶対みとめない。
夷狄の王朝なんか絶対認めないから。
だが鮮卑族の北魏は率先して漢化してるから認めている 宦官にとっては皇帝が愚かであればあるほど、また政務から遠ざければ遠ざけるほど、権力に近づくことができますから、様々な手段を使います。
わざと皇帝が遊んでいるところに政務を持ち込んだり、ハーレムのような美女だらけのいかがわしい施設を作ってそこに皇帝を入り浸りにさせたり、健康によいと騙してあやしい薬を飲ませ中毒にしてしまったり。
明朝の皇帝は、趣味にかまけて政務丸投げ、引きこもり、遊び過ぎて早死に、あやしい宗教にハマる、薬物中毒、薬物を飲んだ途端に頓死など、尋常ではないレベルの暗君揃いです。
しかし、それもこれも幼少期から宦官たちがよってたかって甘やかし、駄目にしてしまったわけですから当然の結果とも言えるでしょう。 習近平が、理想の指導者像と考えているのは毛沢東。そして毛沢東の愛読書は『明史』だった。
「漢民族にとって、清は北方からの侵略者であって、最後の王朝といえば明になります。
明の初代で、貧農の子として生まれた洪武帝も、その息子の永楽帝も『字を知らなかった』と毛沢東は述べています。
習近平は青年期に過酷な境遇で、教育を受ける機会をほぼ逸しました。
大国の指導者に求められる国家像として、清朝以前の、中華帝国の残像を描いているのではないでしょうか」 そういえば、清朝が倒れた折に
孫文だか袁世凱が、明の太祖朱元璋陛下の陵に
漢族の世が復興したことを報告したらしいな >>196
ほぼ一貫して現代化された法家みたいな政治してる今上皇帝は、デジタル・レーニンもといデジタル法家主義者という感じかと、もちろん毛は中共の高祖なので当然理想化するし彼の使える言動は使いまくるけどね。
意外と明清を引用するから古典中国よりも現代中国社会の参考になる近世中華帝国を意識している可能性はある。
漢族ナショナリズムの発揚と民族間の緊張は江胡時代から盛ん(むしろ先代のおかげで収拾がつかなくなったと言える) >>196
洪武帝と永楽帝が「字を知らなかった」ってすごいな
そりゃ忙しくても読書ばかりしてた毛沢東から見たら文盲に近いのかもしれんが >>196
そりゃ嘘だ。洪武帝は寺で小僧をしていたから字の読み書きは出来た。
だから、頭に焼印を押されたあとがあってかつ髪が薄かったので禿の字と
紅巾軍(白蓮教)にいた過去を連想される光の字を書くのを弾圧した。
特定の文字を弾圧するのは読めて意味が分かってこそ。
永楽帝も賢妻の馬皇后が母親で幼いころから早朝から学者を招いて勉強し、
記憶力と感が抜群に良く諸皇子の中で有能だったということだから、これも嘘。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています