古代ローマを語ろう【ローマ人の物語】39
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で正直言ってガリアが緩衝地帯として役立つかはかなり疑問
常に部族間抗争が絶えず有力部族が弱小化したりその逆になったり落ち着きがない
いくら親ローマ派の有力部族を「ローマの友」として支援して何時まで持つか分からない
力をつけすぎると今度はスエビ族のように野心を抱き始める
属州化以後はローマ軍団(とくに騎兵)の供給源として機能していたのだから平定して正解だったと思う >>435-436
そういう反論はあって良いと思うよ
あなたはスエビ族をガリア人と思ってるんだな。俺と同意見だ(ゲルマン人に含める説もあるので)
ガリアが(少なくとも2世紀まで)良質な軍事力の供給地だったって点も同意見(それ以上のリソースが割かれてる+イタリア人堕落の要因ではって疑問が俺にはあるけど)
念の為言っておくと
俺が使った「帰責性」って言葉の意味は「カエサルが悪い」じゃなく「カエサルじゃなければあれほど短期間で大規模な戦争にならなかっただろう」ってこと
つまりカエサルの独自性が表れた戦争だったと評価しているので、その結果起きた良いことも悪いこともカエサルの評価に反映されるって意味
まあ>>426の方も触れてるけど、(少なくとも現在触れられる資料を見る限り)カエサルのやることは型破りすぎて、良くも悪くも憶測が混じらざるを得ない
資料に乏しいポンペイウスや小カトは更に行動の意図が分かりづらくて、小カトに至っては「こいつもしかして無能だったんじゃね?」と思うくらいだが
(その点キケロは現代的価値観から見ても分かりやすくまとも。ちと激しやすいが)
まああんまシャシャリ出て他の方の意見を邪魔したくないので、いい加減黙ることにする >>435
ヘルウェティイ族やスエビ族らを撃退して地中海への
民族移動を予防した事はローマの安全に寄与したけど
ベルギカを併合してゲルマニアからブリタニアに向かう民族移動も
遮断してしまった事はローマにとって自殺行為だった
ライン河の東でゲルマン人が移住出来ずに増大し続ける事になり
ローマに対する脅威が増大し続ける事になった >>417
カエサル以前のローマは地中海式農業が可能な土地しか領有しなかった
当時フン族も西ローマもともに疲弊し死にかけていたから
アッティラが死ねば史実と同じくフン帝国は分裂崩壊しただろう
アエティウスが活躍しようがしまいが似たような結果になりそう 定期的にゲルマン叩いてビビらせて反抗する気を無くさせる、それとリメス方式による防衛戦
この辺は当時通用してたし、100年後200年後も通用するかどうかを考えるのはムリだろ
強いて言うならローマの拡大路線が破たんをきたすモノだったんだろ
トラヤヌス帝あたりの評価ではしばしば言及されるし ブレンヌスが敗者に災いあれとかカッコつけてないで
ローマ人根絶やしにしとけばよかったんだよな
マケドニアもカルタゴもヨーロッパの内陸なんて
全く興味無かったわけだし >>441
あるいはもっと真面目にハンニバルに協力したかだな
ガリア人がローマを潰すチャンスは結構あった >>440
アウグストゥスは防衛線を短縮し強固にする為に
ドーバー海峡とドナウ河とユーフラテス河を越えて
領土拡大をしてはならないと戒めた
ドナウ河はイタリアの北ではバルカンの北に比べて
川幅が狭くなるのでイタリア本国を防衛する為に
アウグストゥスはエルベ河を国境にしようとした
ライン軍団とドナウ軍団をエルベ・ドナウ軍団に
統合して兵力を集中させ効率化しようとした >>440
3世紀のウァレリアヌス帝はローマ帝国を
オリエントとドナウとガリアで軍団配置に
合わせて3分割統治しようとしたけど
彼がササン朝に敗北するとまず孫がガリア人に
殺され息子もイリュリア人に殺された
イリュリア人らはダキアを放棄してオリエントとガリアを征服した
ダキア放棄は言うまでもなくイリュリア人らにとって自殺行為だった >>442
ハンニバルがイタリアに遠征しなければ
ローマはイタリアだけの国で終わったかもしれない
ローマはハンニバル対して焦土戦術で対応したので
戦後イタリアの農地の多くが大農場化して
没落した農民らが海外に土地を求める事になった
似たような例ではササン朝とアクスムの争いで
イエメンのダムが維持出来なくなりイエメンの
農民らが農業を諦めてムスリム戦士となって
アラブの大征服となった例がある
ヒジャースとか北アラブの兵力だけでは
遠くスペインにまで遠征するのは不可能だった >>445
フェニキアが持ってた地中海航路の西半分を奪ってる時点でそれは絶対ないわ
イタリア外においては、内陸にエネルギーを向けず通商の安全保障に必要な地域のみ奪取した、なら可能性ゼロでないかもしれないが >>442
んーハンニバルの頃だとガリアってもう
時代遅れの体制で大国にいいように使われる
存在になってたんじゃないかな
自分は第二次サムニウム戦争のあたりでガリア人が
もっと頑張ってたらローマ滅亡もあったかなと
思う。 紀元前にローマ滅亡の可能性と言うとやはり
アレクサンドロス大王のイタリア遠征かな
アレクサンドロスがイッソス会戦後にペルシャと講和するか
アレクサンドロスが早死にしなければ西に攻めて来たかも >>448
それって要は第二次サムニテス戦争の頃だよね
やっぱここが最大のチャンスだったよね
カルタゴはハンニバルを支援しなかった
ハンノン一派を排除すべきだったね
それでもカンネー戦後のローマスルーは
痛恨の悪手だが >>449
ローマ攻めても時間かかるだろうし被害多いしガリア人は我慢出来ないと思う
他の同盟都市に背後突かれたら終わりじゃないかな ローマを攻め落としたハンニバルが、カルタゴのいち将軍で甘んじたか銅貨はまた別だけどね。 >>451
イタリア征服したら次は当然ペロポネソス半島
から小アジアに行っただろうね
アレックス東征再現コースで まあ色々意見はあるだろうけど、一番確実にローマを根絶やしできたタイミングは
アキレスが牛なんぞに気を取られずにアイネイアスをキッチリ殺しておくことだったろうな アンティオコス3世とは戦う理由がないし念願のマゴ王朝を復興させたらそれで満足だっただろう
アンチローマもただのポーズでどこまで本気だったかは怪しいしな >>433
ガリア戦争で100万人殺した件はプルタルコスのカエサル伝に出てる
ガリア戦記にも書いてあった気がする
数字はカエサルが業績を誇るためのプロパガンダだと思うんだが 「見せしめのため、部族民、建物、家畜の全てを消し去ることにした」
「ローマに武器を向けた者全ての両腕を切り落とした」
ガリア戦記こえええええ ガリア人が約束破ったりして自業自得な部分がかなりあるけどな
ゲルマン人追い払った後のローマ軍に対する手のひら返しが酷い
駐屯してた軍団が襲われて壊滅してるし
そりゃカエサルもキレるわ 所詮は蛮族だししゃーない
中世のグダグダっぷりもしかり 女子供を含めた共同体全部で移動するが、
その女子どももまた残忍で恐ろしいという話 >>446
ローマが内陸にエネルギーを向けず通商の安全保障に必要な地域のみ奪取した場合
ブリタニア→ベルギカになってベルギカ→サクソニアとかになるわけだな
東欧ではダキア王国が存続し続けるだろうからフン族がやって来ても
民族大移動にならないかもしれない
ゴート族は城塞を築かないけどダキア人は強固な城塞で抵抗したはず
かつてスキタイがキンメリア人を追い出した時には
キンメリア人は西に移住せずに中東のカッパドキアに移住した
サルマタイがスキタイを追い出した時も
スキタイは西のパンノニアとかに移住しなかった
キンメリア人もスキタイもダキアを突破出来なかったようだ >>461
そんなダキア王国を片手間に滅ぼした全盛期ローマほんと強い
って感情と
滅ぼさない方がローマの存続には役だったんじゃ
って感情が混ざり合う フン族来襲が全盛期ローマ時代だったらよかったんだがな
それこそ万全の態勢で帰って戴いたのに フン族来襲が全盛期ローマ時代だったら
ウクライナもローマ領になっただろうね フン族来襲っても初見から撃退まで半世紀かかってる
し前漢も匈奴撃退するまで1世紀近くかかってるし、
アケメネス朝ペルシアやオスマントルコも
スキタイやチムールには痛い目に遭ってる。
たとえ全盛期でも遊牧民側のリーダーが優秀であれば
簡単に勝つのは難しいんじゃないか? 地中海のエジプト・シリア
東アジアの江南みたいな感じで
ウクライナを取った国って覇権握れる感じあるよね(中世のポーランド、近世以降のロシア)
古代ローマやビザンツ帝国はどうしてウクライナを取れなかった(取らなかった?)んだろう 基本的な質問させてください
パルティアってペルシャとは違うんですか? パルティアって国名で元々氏族名じゃなかったっけ
ペルシャの方は地名 アケメネス朝もササン朝もペルシャ人の王朝だけど
アルサケス朝はパルティアに侵入したイラン系遊牧民の王朝
アルサケス朝はイラン系農耕民パルティア人ではない
ギリシャ人がバクトリアで建国したグレコ・バクトリア王国の同類 メディア=筑紫 ペルシア=長門
パルティア=山城 マルギアナ=近江 アーリア=大和 バクトリア=河内 へぇ、てっきりパルティアってペルシャの別読みだと思ってたよ パルティアのニーシャープール マルギアナのメルブ
アーリアのヘラート バクトリアのバルフ
4つまとめてホラーサーンと呼ばれて中世に全盛期を迎えた
古代のイランは首都クテシフォンがあるイラクに依存していた パルティア
「パルティアという名称は、元来イラン高原北東部に位置する一地方名であり」
ペルシャ
「歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方 Pârsâ のこと。語源は騎馬者を意味するパールス Pârs。
ギリシャ語ではペルシス(Πέρσις Persis)と呼ばれ、現代イランでファールス地方にあたる。」 >>466
プトレマイオス朝によりエジプトが地中海の穀倉になって
黒海北岸のボスポロス王国が衰退したからだろうな
ローマ時代もエジプトがローマの穀倉だったから
あえて黒海北岸を開拓しようとしなかったのだろう カラクスにローマ軍駐屯地つくったりしてクリミア半島だけは三世紀半ばまで支配下においてたけど
これはボスポラス王国への支援と監視目的に留まるものらしい
ただしネロ帝時代に黒海北岸の征服計画あったようだから内戦起きなかったら本格的になんか仕掛けてたかもな >>470
理解めちゃくちゃすぎへん?
パルティア人はアケメネス朝時代はParthavaと呼ばれてたペルシャ従属下の遊牧民で農耕民じゃないぞ >>477
パルニ氏族はアケメネス朝時代にヤクサルテス河の辺りに住んでいた >>461
必ずしもダキア突破する必要はないよ
ダキアが存続したとしても迂回してライン側やドナウ上流に向かうことはできるはず
実際にサルマタイ系イアジュゲス族はダキア迂回してパンノニア平原に移住してるし
ダキア王国は防壁としてある程度の効果は確かだろうけど民族移動そのものは絶対に止められない >>479
ローマが内陸にエネルギーを向けた場合はまさにその通り >>480
ローマが内陸に向かわなくても同じだよ
そもそもゲルマン移動の大本の理由はゲルマン自身の拡大で
キンブリ・テウトニ族の例に見られるように南下行動が基本なので
ローマがどうあろうとどのみち地中海世界はゲルマン移動の標的になる ゲルマン民族の拡散行動の根本は文化・人口増加・気候変動によるものなので
極端なこと言えば例えローマやフンが存在しなくとも大移動現象は起こる >>478
いやだからパルティア人がイラン系農耕民ってのがまず間違ってるぞ >>478
いやだからパルティア人がイラン系農耕民ってのがまず間違ってるぞ >>478
トゥーラーンは紀元前二千年紀に農耕文明が滅ぼされて以降牧畜民の領域でしょ >>485
パルニ氏族はイラン系遊牧民
パルニ氏族はアケメネス朝時代に
パルティアに住んでいなかった ま、パルティアンショットって言葉が
残るくらいだから騎射が巧みな連中だったのは
間違いない
スキタイ系って説もあるしな>アルサケス
パルティア全体で見ると遼や金みたいな征服王朝
に近くてフンや匈奴みたいな移動集団とは
またタイプが違うように見える >>486
アケメネス朝も北からイーラーンへ入って来た集団だしな >>475
ビザンツの方はエジプトを失って以降そうも言ってられなかったんじゃ 黒海北岸って領有しててもクリミア半島くらいか?
ルス人とか先住民居たし簡単には征服できないんじゃ >>489
黒海北岸に当時あったカザール・カガン国はビザンツの同盟国
ビザンツはカザールと同盟してアラブ・ムスリムの侵略に耐えていた
黒海北岸を攻撃する事は当時のビザンツにとって自殺行為だ 中国のことわざでいうと「唇が無いと歯は寒い」という状況だな。 本村凌二ってまともな学者なの?
『教養としてのローマ史の読み方』を読んでるんだが
「ローマが共和政を樹立したのは前509年でアテネが民主政を樹立したのは前508年だからローマがギリシャに先んじてる」
「二戦目以降はローマ軍の勝率はグッと高くなる(の例として第二次ポエニ戦争)」
等々、事実認識のレベルでおかしな記述が散見されるんだが・・・ 最近は何処もポンコツ2世が七光りで学者様に成るから酷いもんだよ
目立つ為に滅茶苦茶な主張するウェーイも多いし >>481
キンブリ・テウトニ族の来襲でボイイー族とか
中欧ドナウ流域のケルト人が打撃を被ったので
ブレビスタ王のダキア王国は勢力拡大し始めた
イアジュゲス族の方は強引に移住したのではなく
ビチニアがセレウコス朝に対してケルト人の
ガラチアを緩衝国にしたようにダキアにとって
ローマに対する緩衝国だったようだ 無茶するためにウェーイする自称学者はホント多いな
大分曲解すればそういう可能性もあるよねって説を生み出しては
自分に都合のよい史料だけ提示して定説を覆す新事実!とか言い出す奴ばっかだ >>495
いい加減なこと言うなよな
イアジュゲス族はむしろ逆にローマのほうが要請した緩衝国であって
ダキアからすれば思いっきり強引に入り込んできた勢力だぞ 正直今のスレの流れすごく楽しい
楽しいんだが、>>498氏の発言とかレベルが高すぎて、手元の本や地図帳と睨めっこする時間が続く
いつか議論に加われるようになってやるからな! 見てろよ見てろよ! ダキアとイアジェゲスがまともに対ローマで肩を並べたのはドミティアヌス時代くらいで、
ほとんどの時代はずっと対立して衝突しまくってるくらい仲悪い
ダキアがアプセニ山地東側のハシュマシュ〜ボクシグ間などに、対イアジェゲスの大規模な堡塁作って備えてたり、
しつこくイアジェゲス領に攻め込んでるあたり、緩衝国というよりは普通に脅威や邪魔と考えていた色彩が強い >>494
>目立つ為に滅茶苦茶な主張するウェーイも多いし
「ファーwww」
「ウェーイwww」
と別板のスレに書かれてたのを見たな… >>493
本のタイトルに教養が入ったら地雷率上がるのは常識 ウェーイはエトルリアの南端に位置する裕福な
都市だった。300年以上にわたって共和政ローマ
と戦争と同盟を繰り返した。最終的に紀元前396年、
ローマのマルクス・フリウス・カミルスの軍が
ウェーイを陥落。 まあキャッチーなタイトルや論説にしないと本がまともに売れないからなあ 目と鼻の先のウェイイと延々抗争を繰り返したって……
初期ローマの勢威の低さよ >>507
こんなショボイ田舎街が数百年後地中海最大の
強国になるって予言したら間違いなく笑われた
ろうな。 モンゴル族がモンゴル高原で多数の弱小部族としのぎを削ってた頃、
特に後にチンギスとなるテムジンが長である父親を殺されて放浪してた、
存亡の危機にあった時期みたいな感じか
でも、そこから大帝国を興すなんて、
ホントにドラマチックよね >>505
ウェイイ征服後にケルト人が攻めて来たよね
ローマはウェイイに遷都しようしたそうだけど
それはケルト人と戦う前か後かどちらだろう?
ケルト人との戦いでローマが荒廃したので
ウェイイに遷都しようとしたと書いてある本を読んだ事がある >>503
まがりなりにもローマ史を専門とする東大教授の自署なんで、そこまで酷くはないだろうと思ってたんだが……
P199 ドミティアヌスという人は軍事的な手腕においては非常に高い才能を持っていました
P200~201 ティベリウスは最後まで残虐な方には走らず、争いごとには目を瞑った
P288 アントニウスがアクティウムの海戦に敗れたと知ったエジプトの女王クレオパトラは自害しています
巻末の引用文献も日本語文献のみで、半数近くが本村凌二氏自身が書いた本だった >>508
ウェイイって今はローマ市域内なんだっけ?
千代田区と練馬区が三百年抗争したみたいなもんか 北九州の中でも色々国があったもんな。
今なら福岡県内の争いだったりするよな…。 エトルリアの街って基本高台だから守りは強くても
発展しにくいよな エトルリアの街は高台から広げないけど
ローマの街は高台を最終防衛拠点としているから
範囲拡大もOK ウル王国のサルゴン王は儂の兵士わ1800人も居るぞ!とか誇ってたしな >>506
平成のベストセラー本のタイトルについての報道で
「昭和は命令口調のタイトルの本なんで読者に失礼すぎてありえないって感じだったが
平成になってタイトルで命令口調で断言する本の方を読者が求めるようになってきた」
と出版業界の人が話していたな… エトルリア人がもしイタリア半島にいなければ
ローマもただの田舎町で終わったよな〜
エトルリア気質ってのは現代は全く残ってないのかね ほれ、コンクリート造のアーチがそこかしこにあるじゃろ? 現代イタリア人の享楽的傾向はエトルリアの血かなぁ
古代ローマってもっとこう尚武の気性だよね イタリア人が享楽的なんは南部やで
ローマを境にそっから北はむしろ勤勉や
ナポリとか、もっと先のつま先や踵のあたりは享楽的や
ピエモンテとかそっちの方は勤勉や 少なくとも食文化はエトルリア人の遺産みたいだね。
あとリディア人と先住民が混血して
エトルリア人になったという説も書いてある
DNA的にはサルデーニャ人が近いのかも
https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2009/07AMOROSO.pdf
あと性的な意味ではローマ人より遥かに開放的
で宴会好きでもあったからこれを享楽的と
評するのも一理あるのかね〜
http://gairo.net/Toscana2012/etruria.html
政治的にはローマはエトルリアを併呑したけど
文化的にはエトルリアが残ったって感じかな >>529
北イタリア人は南はひどいと言う
南イタリア人はシチリアはひどいと言う
他国人は、イタリア人はみなひどいと言う >>492
ユスティニアヌス1世は東ゴート王国を滅ぼしてしまった
東ゴート王国はイタリアだけでなくバルカン西部も領土だから
東ゴート王国を滅ぶとバルカンにスラブ人が雪崩れ込んできた >>529
>>532
ドイツもザクセンの人々は享楽的で気質が違うっていうけど
そのザクセンの人々も北イタリアよりは勤勉なんだろうな >>532
イタリアがシチリアを蹴飛ばそうとしてるのは
そのことと関係あるのだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています