なぜ蜀の政権はいつも滅ぼされるのか
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結局蜀から北伐を成功させて関中を征服して
天下制覇を成し遂げたのは劉邦のみ
三国時代も五胡十六国時代も五代十国時代も
隋末唐初でも明末でも蜀にできた政権はみんな天下をとれずに終わった
よくみたら南北朝時代でも北周にあっさりと蜀が征服されてるし コンビニ店員はマニュアルに沿って会話してるから流暢にみえるだけだぞ そりゃコンビニ店員になって日本語が本当にうまい人だっているだろう
しかしそれは決して日本語が「簡単な言語」だからではない
その店員がものすごく努力した結果なのだ
日本語が簡単だからその人がうまくしゃべれると思い込むのは、
その人の努力を正しく評価していないことにもなる
どんな人だって努力は正しく評価されたいし、正しく評価されることが励みになるのだ
逆に日本語がうんと下手な店員だっているし、それで客や上司に怒鳴られてストレスを抱えて体を壊す人だっている
それはその人が怠惰だったからだろうか?
日本語は簡単な言語なのに、ちゃんと頑張らなかったから心を病んでいる、自業自得だと責めるべきなのだろうか
「日本語は簡単な言語だ」という思い込みは、多くの誠実な外国人を苦しめている
「日本語は簡単ですよ」と口にする外国人もいるが、そういう人が日本語間違えないかというとそうでもない
単にたくさんミスをしても気にしないように心がけているだけだったりする
「日本語は簡単な言語だ(難しいのは文字表記だけだ)」と言う思い込みは、多くの人の労力の評価をゆがめている 劉邦だってべつに
蜀に途中から来たと言うだけで
蜀発祥の政権というわけじゃないからな 秦に領有されたのがすべての原因だな
これによって
江南よりも先に漢化がはじまった ていうか、蜀に限らず、呉の政権だって、いつも最終的には滅ぼされてるぞ
例外は明朝だけだ 南の精力が北を滅ぼして統一したのは、その一回しかない 北京官話を共通語にしていながら
めぼしい政治指導者は南方人ばかり
北方人どんだけ無能だよ 南北分裂したら、南はますます繁栄し、北は衰退する
金と南宋の時代に、それは歴然とした。
元からあとは、長期にわたって南北朝が続いたことはない 蓁漢帝国までは軍事も経済も北が優位だったが、長江下流の大湿原の干拓が進んでからは、「軍事は北、経済は南」という図式が確立した
経済的に北が南に依存する度合いはだんだん深刻化する一方で、元も清も、南を失ったらたちまち崩壊した 人材も、明清時代には科挙の合格者が南の出身者ばかりなので、ハンディキャップをつけなきゃいけなくなった 蜀を州に換算すると1、2州程度の国力でしかないから。華北や江南に勝てる訳がない。
劉邦が漢中から天下取れたのは項羽に政治能力がないおかげで不満を持った将兵が多数いたから。いくら戦の強い項羽でも戦後に統治ができないなら意味がない。歴史の必然 そもそも本来蜀から天下を取ることが不可能に近くて、項羽と劉邦は例外中の例外と考えるべきじゃないか。
三国志の蜀に至っては劉備関羽諸葛亮皆ぐっだぐだで涼州・関中に進出することすらできなかったんだから話にならない >>260
もともと蜀出身じゃないし
主力兵士や将帥は東から来た人間たちだからね
それと項羽の直轄地はそれほど広くない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%BC%A2%E6%88%A6%E4%BA%89#/media/ファイル:Eighteen_Kingdoms.png 清朝時代だったか、江南の反乱鎮圧で南下した華北の兵団が
水田の前を通ってるのにどんどん栄養失調で倒れたとか
北の庶民は主食小麦ばかりでコメ食って無かったのだろうか 蜀・四川は山が険しくて人口も少ないし、中原や江南の政権よりも圧倒的に不利だよな。 >>264
意外と都会で人口が多いよね 案外、啓けた地域山奥の方は少数民族が多くて言葉が通じにくそう 捉え方の違いと思うがググると四川盆地23万平方キロメートルだった
日本が38万平方キロメートル
天険というが
中国、ミャンマー国境のような本当に難所ではないから
外からの侵攻にたえられない >>268
凄いですね。そこまで広大なら盆地と言っても
ほとんど平野みたいなもので重慶は大都市だし、山奥のこじんまりとした盆地とは違いますね 成 後漢に滅ぼされる
蜀(蜀漢) 魏に滅ぼされる
成漢(前蜀) 東晋に滅ぼされる
後蜀 宋(北宋)に滅ぼされる
西(後成)清に滅ぼされる 流民を引き連れて建国した成漢も逃亡政権だな
というか異民族 西っていう国Wikiで調べたけど虐殺凄いね
多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている[1]。1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2]だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。 >>278
>>279
銑梁(617年〜621年)鳳鳴帝(蕭銑)
唐に降伏。「死すべき者は銑のみで、民に罪はなし。殺掠するなかれ」
長安で漸死。 支配域は荊州と益州の半分
陳と対峙した後梁(ごりょう)より遥かに広いのだが教科書では無視されている。 地元の軍隊が弱いんだよな
蜀漢にしても外人部隊政権みたいなもんだし >>277
現在の西南官話が北京の官話とさほど違わないのは
これのせいだろうな。
清代に陝西省方面から再植民したので北方寄りの言葉になったとか。 公務員は、国家公務員が約58.5万人、地方公務員が約274万人 >>1
防御は強いが、攻撃する時に輸送とかでその不利が跳ね返るから 写真を見ると断崖絶壁とかでよく輸送できたなレベル
魏が蜀を滅ぼしたのはわずか3ヶ月だったけど
ショウ会は兵糧の問題で撤退も考えていた
逆に孔明の北伐も兵糧は数ヶ月しかもたなかった 現存の人物との交際だけでは、飽きたらなければ、歴史上の人物と議論せよ。詩歌を暗誦し、書物を読解するだけで、著者のことを知らなくては、どうしてもダメである。その人物の生きていた時代ついて議論することが必要である。これが「尚友」である。つまり歴史上の人物と友達になるということである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています