ブルックナー最後の交響曲「ブル9」PART4
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ブル9は好きでいろいろCDも持っているがMY決定盤というのがない
よく聴くのはスクロバとチェリだが、前者はオケの音色に魅力がない、後者はオケは最高だがテンポがわざとらしい
ヨッフムもヴァントも複数あるが前者は鈍いし、後者は深みがない
シャイーは他は良いのになぜか九番だけは凡演
ジュリーニ/シカゴが出た当時にはしびれたが今となってはまあ普通の演奏
ドホナーニは5 6番はいいが 8 9はダメ
シューリヒトは芸が細かい部分もあるが雑で淡白なのも否定できない
誰かこれはというのを教えてくれないか マタチッチを聴いた友人は第3楽章コーダでは聴きながら感動で身震いし、涙が流れたと言っていた。オケの楽員もそうだったらしい。しかし、後でCD化されたのを聴いてもその時の感動は再現されなかったと。
第九はいい指揮者とオケに出会ってのコンサート向きの曲なんだろうな。 カール・シューリヒトがよかったな。
オーソドックスな名演。 >>108
ジュリーニ指揮 ウィーン・フィル
自分は結局、この演奏に戻って来る。
FMでこの組み合わせでのライヴを初めて聴いた夜に
「CD出たら絶対買う!」って決めたくらい感動したのを覚えてる。 いや、CDで聞いても、凄い演奏
あれだけ虚飾を排除して、むき出しの音を聞いたことない
厳しい大自然の中に放り出されたような印象
ベートーベンとは、また違った意味で深い演奏
テ・デウムみたいな宗教曲っぽいのを最後に持ってくるのは、疑問 バーンスタイン ウィーンフィル
なかなかいい。
ジュリーニの演奏の後なだけに、、 >>117
三十郎「うるせぇ!俺は今、交響曲だ忙しいんだ!」
異教徒の宗教音楽なんかいらねえぞ! 「飯はやめだ、オヤジ、酒をくれ」
「ケ!オケラのくせしやがって」
「このスレが気に入った、居座るぞ」
「おきやがれ!!!!」 >>120
黒沢の「用心棒」が好きなのはよく判った。 レスしてくれた人ありがとう
アバドはウィーンフィルとのロマンチックを聴いて以来完全に視野から排除していたけど聴いてみる
アバドにとって白鳥の歌に近いものならまた別かも知れないし
マタチッチはウィーン響がまるでダメだったのでチェコフィル版は聴いてなかった
ジュリーニ/ウィーンフィルは持っているが、八番と共に何か胃もたれするだけの濃厚さという感じかな
シカゴ時代の鋭さが消えて重厚な(重苦しい)割りには深みもないし味わいにも乏しい
バーンスタインも持っているが、芸がないと言うか、思い入れだけで空回りしている感じ
わたしからの意外な(?)お薦めとしては、インバルとショルティ 前者は鋭い 後者は丁寧で細やかで誠実
ただインバルは音が痩せた録音が激しくマイナス
ショルティはこれで金管同様に木管が雄弁なら最高峰に近いかも知れない うーーん、煩悩かよ
しかし、ブルオタの面目躍如って感じじゃないか
アバド、ショルティなど、ブルックナーと関係ない指揮者が出てくるのは気になるが HMV で人気だった ロベルト・パーテルノストロは良かったのだろうか >>119
何を言ってんだい?
絶対音楽と宗教音楽は別。
ブル9は絶対音楽で宗教音楽じゃない。
テデウムは所詮は宗教音楽にすぎない。
だから異教徒から見れば異質なものだ。
そんな事も分らんのか、ブタ。 >>128
一応あなたに賛成する
しかし、ここは神聖なブルオタのスレ
下品な言葉は慎むように >>129
そんなもん、なんかつったらすぐに「馬鹿」とか罵るんだから
「売り言葉に買い言葉」だよ。
>>119にもおんなじこと言ってやれよ。 売り言葉に買い言葉で、下品なこと言ったら、下品な相手と大同小異
紳士淑女は、相手がどうあろうと下品な言葉は止めましょう
といっても、俺もカーーーっとなると、下品になる、気をつけるわ クラシックって基本キリスト教だから
こっちもクリスチャンにならなきゃならないのかねえ?
ブルックナーにのみならず
ブラームスでもドイツレクイエムとか全然共感できないから聴いたことない。
バッハのマタイとかも全然だな。
逆に、黛敏郎の「魔訶般若腹観た心経」にもあまり共感できないな。
面白いとは思うけど。
イスラム教のクラシック音楽てのも聞いたことないな。 >>127
良かったですよ。
教会でのライブなので残響が豊か。
ただ9番はややお疲れかな >>127
ブルックナーの音楽はブルックナーの時代のドイツ語圏の人間のためだけにあるのか、ということでしょ
キリスト教だけを取り上げるのは浅薄の極みだよ
もしそう思うのなら何も分かりはしないんだから、あるいは勝手な解釈に過ぎないのだから、聴いても仕方ないということになるのか
ここもシベリウスのスレもそうだが、自然がどうだの、そんな程度の頭でも音楽は楽しめているんだから、それが答えだということだよ >>133
イスラムは音楽を排斥はしないまでも積極的には評価しないんじゃなかったか >>137
イランに交響楽団があって
その団員の人とメール交換したことあったよ。 あ、もひとつ、去年近所の大学のオケの演奏会に外人さん来てて感激してるから
どこからですかー?て訊いたらイラクだったよ。 もちろん音楽が禁圧されてるわけじゃない。
教義上積極的には推奨されてないだけ。キリスト教でも同じようなことがあった
(詳しいことは忘れた)
シャー時代のイランには前衛音楽のアンサンブルまであった。
いや、話がブルックナーから離れてしまった。すまん。 >>135
あらゆる芸術は自然の模倣である。
人間も自然の一部であることは言うまでもない。 何でブルックナーというとすぐに「広大な自然」という解釈が出るのか?
フルトヴェングラーみたいに人間臭いのもあるし、
チェリビダッケの8番は2時間もある。 宇野氏が「自然」とか「逍遥」とかの語句でさもブルックナーが理解できるような評論を書き散らしたことが大きい。
そろそろ宇野氏流のブルックナー解釈から離れて一人一人がブルックナーを自分の言葉で受け入れていってもいいのではなかろうか? >>142
「人間臭い」っていうのも「自然」と同じく特定の個人の感じ方に過ぎないのだから、その論理は通らない
聴く者の頭の中にあるだけに過ぎないものをとやかく論じるのは無意味
小学生の読書感想文と同じだよ 「わたしはこう感じました」ってね
そんなものはブルックナーにもブルックナーの音楽にも一切関係ない 音楽は、聞いて感じる(思う)ものだろ
音楽があっても、感じるものがいなければ、ただ音だけ
そこには、何の意味もないんじゃないか >>147
そりゃ何か感じるだろ
快・不快とか悲・喜、高揚感や沈静・平穏その他もろもろ人による部分も大きいだろうがね
しかし「自然を感じる」というのは感情ではないことは分かるかな それは解釈/意味付けだ
自分で勝手に音楽に意味を与えてそれで納得して分かったような気になっているだけのことだ
ブルックナーの音楽に自然を感じるのは個人の勝手
ただ阿呆はそこからブルックナーの音楽は自然を表現していると言いたがる
そういう仕方でしか自分は音楽を消化できない、と告白しているに過ぎないことには死んでも気づかないだろうな あなたは批判してるだけ、自分の感性について語ってください
あなたは、ブルックナーを聞いてどう感じますか? あ、俺かい?
ブル9に関しては
アマオケと道義さんの大フィルの2回聴いた。
感じたことは
前者は演奏がまずかったのかどうかわからないが
とても退屈で、
「あれ〜ブル9ってこんなに退屈だったかなあ」と感じた。
ところが後者は同じ曲かと思える程集中して聴けた。
流石は朝比奈さんがてなづけたブルックナーを道義さんの指揮で聴けたという充実感だな。
それ聴く1カ月前に8番を広響で聴いたが、その体験はまるで1時間半楽して禅の修行を受けたような満足感だったが
それにけっして劣ることない素晴らしい演奏だったと思う。
以上です。 >>152
てめえめくらか?
「と感じた。」
「充実感だな。」
「素晴らしい演奏だったと思う」
明後日眼科行け、ブタ。 >>153
瞬間湯沸し器は壊れやすいから
大事にね わたしは>>149だが、151はわたしではないので、>>150にレスすれば、
1 批判しているのではない、間違いを正しているのだ
2 あなたやわたしがブルックナーの音楽をどう感じようが、そんなことはどうでもいいことだし、ブルックナーの音楽には関係のないことだ
自然がどうだの、宇宙がどうだのそんなものは前にも言ったように小学生の読書感想文だ
発表会をやりたければお仲間同士でやったらよかろう
そのレベルのものだということをわきまえてくれさえしていれば問題はない
故人の悪口にはなるが、くれぐれもその程度の個人的な貧弱な感想をブルックナーの音楽や演奏の評価基準とした阿呆の評論家のまねはやめてもらいたい
そういう阿呆に限って「ブルックナーがわかっていない」「これは○○○(指揮者の名前)を聴く演奏で、ブルックナーを聴く演奏ではない」などと真面目に語りたがる
そのおかげでクレンペラーやショルティ、インバル、バレンボイムやのような優れた「ブルックナー指揮者」が不当な評価を受け、
逆にクナやシューリヒトなどの二流どころが神格化された悲しい(笑)歴史があるからな そんなこと言われたら、ここに書くことが無くなってしまう。
そもそもなんで >>156 はここにいるの?
っていうか、>>156 は間違いを指摘しているだけで正してはいないよね。
>>156 が考える正しい感想を書いてほしいわ。
書けないんだろうけどw おいらは、ブルックナーは4・7・8・9と生で聴いたが、
やっぱ生で聴かなきゃだめだな。
4番はもひとつだったかな。
9番は2回聴いたが、やっぱりいいね。 >>159
アマチュアだろ?
プロはそれなりに金管が抑制されてる。 俺は第2楽章は聴くぜ>フルトヴェングラー
突進するようなとこがいい。 戦中の第6の終楽章なんかフルトヴェングラーしかできないよ。いま真似したら、翌日から仕事なくなるのは確実だな。
(;ω;) フルベンはベートーベン
「浪花節だよ、おっかさん」みたいに、こぶし回されたら
ブルックナーの構築美が全然出てこない
ブルックナーは朝比奈先生で決まり(ベトもやるけどな?) 朝比奈師もいいけれど、オケがあまりにも力量不足。気力だけで聴かせるブルックナーもこちらが疲れる。
師にはベルリンフィルとかコンセルトヘボーとかで全集を作ってほしかった。 朝比奈先生が、シカゴで5番振ったのは凄かったな
賛否両論別れたみたいだけど >>164
ブルックナーの構築美が表れてる演奏を
あげてくれないか?
むろん9番だぜ。 9番は、構築美って感じじゃないと思う
4番の発展形だから、抒情性を完全に極めた感じ
スケルツゥオは構築美と言えるのかな?わからん
構築美と感じるのは、2番とか5番
朝比奈先生やマタチッチくらいしか思い浮かばない 9番、なんか嫌い
8番で肥大しまくった結果、時間切れで4楽章書けなくなった半端作にしか思えない >>164
なんだ構築美て書いといて
答えられないじゃないか。 >>173
>「ブルックナーの構築美が全然出てこない」
て書いておきながら、
>「9番は、構築美って感じじゃないと思う」
っておかしいじゃん。 そうだね、言いたかったのは、フルベンみたいにレガート?かけると
ブルックナーのカチッとした感じが損なわれると思ったんだ
あんまり揺らさないで、楽譜通りストレートにやる方がいいみたい
変な修飾付けない方が、ブルックナーの味わいとしては正解なんじゃないか?
理屈が変かもしれないけど、気持ちとしてはそういうことなんだ >>175
だとしたら、フルトヴェングラーのあの
第2楽章の突進するような感じは
レガートというよりはあのピチカートの音色からして
スタッカート気味じゃないかい? ごめん、素人なんで細かいことは分からない
ピッチカートの指示でピッチカートならいいと思う
楽譜の指示通りであれば、曲の本来の趣旨は損なわれないと思う
話違うけど、いま、N響レジェンドで朝比奈先生のブルックナーとベートーベンやってた
池辺先生は「見事に何もしていない、しかしそれが難しんです」って言ってた
壇ふみが「それは、染色における無地の難しさですよね」って間違った解釈を訳知りに喋っていた
そうじゃないよね、音という色はついている、その音の付け方をどうするのかっていう話
口では「いわく言い難い」って微妙なところを池辺先生が言っているのに、彼女が話の腰を折っている
何もしないと言っても、音は出してるし旋律を奏でている、そこの微妙な味わいなんだな たとえば、楽譜は正確に読めて演奏できるけど、ブルックナーへの感動のない人と
朝比奈先生のように、楽譜を深く解釈してブルックナーの意図をつかみ感動し
そのうえで楽譜通り演奏する人の音楽ってどこが違うんだろう
スレチになるけど、朝比奈先生のベト9の第3楽章に深く感動した
演奏者の心、ひいては作曲者の心が演奏を通じて伝わってくるのだろうか(オカルト?) ネタだとしたらつまらんぜ
マジで言ってるなら君は救いがない
ベトやブルを聴くのをしばらくやめてR.シュトラウスやバルトークとか聴いて修行してきなさい >>178
ブルックナーは色々な版があるからホントにややこしい。
ハース版に統一すればいいのにな。
かつては原典版て言われてたのになあ。 版がややこしいのはブルックナーだけじゃないんだが
版問題で騒ぐのは何故かブルヲタだけw 他の作曲家だけど「パリのアメリカ人」
も後世の人が編纂した版が使われるようになってるんだな。 ハース版やノブァーク版など、どうしてあるの
簡単に教えて
ブルックナーの原典版じゃ、ダメなの? 原典と考えられる資料をどう解釈するかの違い
ってことでとりあえずいいんじゃね >>183
俺の解釈では
ブルックナーが最初に書いたのが初稿、
それに改変を加えたのがシャルク改訂版
本来のブルックナーのサウンドを目指したのがハース版で
それが原典版といわれていた。1930年代。
ところがノヴァークが1950年代ごろに
また新たな版を出したから、
ややこしくなってる。
と捉えてるんだが
違ったら批判してくれたまえ。 >>181
たしかにその通りだ。
で、何故そうなのかを考えたり議論したりするのが
5ちゃんらしいところだと思うのだがなあ・・・
wを。の替わりに使うのは、いわゆる厨房あるいは消防ぽいと思われるよ。 >>185
>本来のブルックナーのサウンドを目指したのがハース版
これがむしろブルックナーの版問題を余計にややこしくした元凶
ハースがしたのは「ハースの望んだあるべきブルックナー」でブルックナー自身が創ったどの稿とも違うバージョンを作ってしまった
方向は違えども改竄稿を作った人たちとやってることは本質的に変わりない
これが「改竄板」の後に作られていかにも「本来のブルックナー」に見えたためこれこそが「原典槁」として受入れられた
そしてそれが今日に至るまでのブルックナー像に多大な影響を与えているのは見ての通り
いわばハースってブルオタの元祖ともいえる ブルックナーの初稿じゃダメなのか
演奏しづらいの?
なぜ、ハースは改訂したの?
初稿の録音って、残ってないの? 「ブルックナー:交響曲第9番(1894年初稿・ノヴァーク版)(ハンブルク・フィル/ヤング)」
これ意味が解らん。
初稿なのかノヴァーク版なのかどっちだろう?
http://ml.naxos.jp/album/OC693 >>188
ハースが改竄版だとしても
それに文句付けてあれこれ言いだしたのが
今日の版論争の火付け役なんじゃないのか?
つまりノヴァークよ。
例えば、他の作曲家だけど
「パリのアメリカ人」てガーシュイン自身でなく
ガーシュイン研究家がのちに改竄したのが定番となって
もっぱらそれでしか演奏されない。
ブルックナーもそんな風にすればいいんじゃないのかな。
ブルックナー聴いててガクッと来たりするのは
「普通ここでこうなるのに何だこれは?」て思うからだね。
ああいうのやめた方がいいと思う。 あ、ブル9の第4楽章も演奏されるケースがあるんだね。
https://www.youtube.com/watch?v=6LJuesGvtSs
しかしこういうの聴いてると、
一旦天国に行ったブルックナーが再び帰ってくるみたいだ。 ようするに、ブルックナーの初稿は、尼神インターの誠子の寝起き顔ちゅうことだな
見るに堪えないちゅうことね、その顔にチョット化粧して見れるようにしたのがハース
ちゅうことでいいのか? >>190
第9番の場合、そもそも作曲途中でブルックナーが亡くなったでブルックナーの遺した稿は一つしかない
(作曲途上で差し替えた第2楽章トリオを除けば)
それをあえて「初稿」と呼ぶ必要はなさそうだが
あるいは1903年の初版(改訂版)のためにレーヴェが作成したスコアを念頭にした表現なのかも
で、その後に出た全集版(原典版)の各版(オーレルの第一次全集、ノーヴァクの第二次全集、コールスの第二次全集新版)は
1894年までに完成した3つの楽章の自筆稿を校訂して出版しているので>>190のような表現になった、というところか
(なお、未完に終わった第4楽章草稿は別巻扱いで出版) >>193
誠子を何かに例えたかったのは分かるが、どうしてもブル9じゃなきゃいけなかったのか? >>193
「見るに堪えない」とはいわないまでも寝起き顔のブルックナーは好みが分かれるタイプだと、
流行りの化粧で世間受けを良くしようとしたのが弟子たち
化粧顔が流布しているけど実はこういう魅力のある素顔だったのだと、
寝起き顔を世に問うたのがハースやノーヴァクの全集版(原典版)というところか
ただし、ハースは
寝起き顔であっても周囲の影響で部分的には本人の趣味ではない化粧がされており
それがなければこんな顔だったはずだ、という理想の寝起き顔を、
時には自分の判断で寝起き顔の画像を合成加工して公開することも必要だと考えた >>196
例え話に乗っかってかえって分かりにくくなってるな >>193
こんなスレで尼神インターの誠子の名が出るなんて、
誠子も有名になったものだ 誠子の妹は、めっちゃ綺麗だけど、ハスッパで中身がない・・・・・・・・・・・これがマーラー
誠子は一見こ汚い顔してるけど、話してみると面白いし中身が充実・・・・これがブルックナー
こういう理解でいいのか? シューリヒトのEMI盤、やけに音良いと思ったらプロデューサーがオロフなんだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています