漢委奴国王印 いわゆる金印
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天明年間、筑前国那珂郡志賀島志賀島に於いて甚兵衛なる百姓が田圃仕事中に偶然発見したとされる。
・「漢委奴國王」を何と読むのか?
→かんのわのなのこくおう
→かんのいとのこくおう
文化庁編「新増補改訂版 国宝事典」(便利堂、1976年)
「その訓みについてはなお定説をみない」
・後漢書の印綬と同一か?
後漢書「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」より
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
・そもそも真物か?
出土地も確定できない問題がある 伊都は統治、対馬海峡は監察したんだろう。
一大率が定期的に対馬海峡を行ったり来たりして目を光らせていたんだな。 >>846
現代と昔でどれだけ漢字の意味が変わったかを述べないと、批判ではなく空論になるよ。 >>859
>>825にあるように
一大率は女王国から北の地にいたのか
つねに伊都国に駐屯していたのか
分からん
一大率は諸国のとりしまをしていたのか
諸国の統治の任にあたっていたのか
分からん
意味が通じませんね。 >>880
一大率という職は女王国から北の地に置かれて
つねに伊都国に駐屯していた
普通の人なら分かる
一大率は担当の諸国を検察することで
それらの国の統治の任にあたっていた
これも分かる >>825のように訳した学者は当時の刺史や都督の制度を知っているから
検察という言葉をとりしまり・統治と現代語訳したわけで
それを現代人である自分個人の感覚で矛盾だーとかぶーたれても
所詮ど素人のダダコネだってこと 一大率は女王国の北側に居て諸国を検察している
一方は伊都国に常に居て女王国の北側の諸国を治めている
これを同一の人物だとするには無理がある
畿内説の学者がいい加減に訳したのを
その後誰も気が付かずに見過ごしていただけだな。 >>863
「一大率は女王国の北側に居て諸国を検察している 」
「一方は伊都国に常に居て女王国の北側の諸国を治めている」
って言ってるのは岡上なんだから
いい加減で矛盾してるのは岡上の脳一個だけだ >>866
まさか>>864を反論とか言ってるのか?
>>864は単なる悪口だけで論とか無いけど???
不思議な奴だな >>868
いや、痛烈すぎる反論だろう
「一大率は女王国の北側に居て諸国を検察している 」
「一方は伊都国に常に居て女王国の北側の諸国を治めている」
が>>863 の歪曲捏造だって事実を指摘したんだから >>801
>治には「治める」か「(病が)治る、す」しか意味ないよ。
@「おさめる」、「おさまる」
ア:「河川をおさめ導く(整備して、河川の氾濫を防ぐ)」(例:治水)
イ:「国を治める」、「統治する」(例:治国)
ウ:「整える」、「整頓する」
エ:「司る(支配する)」、「取り仕切る」、「営む」、「経営する」
オ「取り調べる」、
カ:「裁く(善悪を判断する)」
キ:「正す」
ク:「なおす」、「治療する」(例:根治)
ケ:「なおる」
A「まつりごと(政治)」
B「いさお(功績、手柄)」
C「みやこ(都)」
D「州・郡・県などの政庁(政治上の事務などを行う役所)の所在地」
E「盛ん」、「盛んになる」
F「比べる」
G「匹敵する」
H「助ける」
https://okjiten.jp/kanji585.html そもそも、明らかな誤字な上に。
それまで、ヒナモリをはじめ倭語でまとまってたのに
いきなり漢単語が出てくるのは不自然だ。
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22680.jpg
魏の使者は、倭語の固有名詞の説明をしない。
(本来、説明しなきゃいけない事なのに。
おそらく、訳者の能力じたいが不十分で。
ちょっと面倒な用語になると意味が把握できなくなる。
手間がかかるんで、いちいち聞き返したりした様子もない)
ようは、倭人に聞かされたままを
メモしてるだけで、細かい単語の意味は興味すら示してない。 「治」は治所とする、の意味でしょう
一大率は複数?単数?
一・大率なのか、一大・率なのか?
この文は色んな意味が考えられるね 半島では徳率とか大率とかいろいろあったが、邪馬台国には一つしかなかったわけだよ。 >>877
というか、倭人がそのまま「治める」だか
それに近い表現をしたんじゃないかと
「おさめる」からして「収める」「納める」「修める」と
意味はまばらにある。
「あそばされる」とか「おめしになる」とか言っても
外国人からしたら「遊んだ」とか「飯をくった」のかと
カン違いしても不思議はない。
で、そもそも使者は倭人が説明してる事に
そもそも興味が無い様に見える。
ぼんやり聞いて、大雑把に「こんな意味かな?」と書いてる印象。
たとえば、「ひなもり」と言う単語は倭人なら意味が分かるけど
当時の中国人には意味が全然わからなかったはずだ。
(何度も出てくるから、さすがに人名では無いとは思うだろうけど)
で、もっと問題なのがひなもり以外の単語が、
日本人にもあまりピンとこない点。
つまり、魏の使者の通訳のヒアリング能力そのものが怪しい。
ひなもりは何度も聞かされたから比較的、原音に近くなったが
それ以外の単語は、そもそもかなり音が崩れてるし。
音が崩れた上で会話してたのだから、意味のカン違いも少なくないはずだ。 また、この話をしているの?
『遅れてやって来た倭種』 あーあ こんな文字も無い頃の日本史とか全然おもしろくねぇ
中国には2000年遅れやからな さっき朝日で江戸に偽造されたのではないか?みたいなニュースやってたけど初耳だわ >>885
成分分析で金属の産地や時代がだいたい特定さてるからなあ
いわゆる左翼がよくやってる「歴史修正主義」とかいうやつじゃね? でも実際歴史書き換えてるのは
どっちかつーと左翼だよな、特に近代史は酷いのが多い
後は学者の売名も 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
54A94 X線蛍光分析なら非破壊で微量成分が検出できる
不純物の存在割合で産地が推定できるんだが、なぜか金印を分析しないね 137名無しのひみつ2017/11/20(月) 21:30:46.06ID:tIdxnd4R
中国の博物館には万を数える古銅印が収蔵されているが(日本にも流れて来たのがある)、半分は明から作られた贋骨董
だろうと言われている。木竹製品、陶磁器は制作年代を物理的に調べる方法があるが、金属には方法が無いので、真贋判
定はされずほったらかされている。
この漢倭の金印も判定に物理的方法は無いので状況証拠を検証するしかない。http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171020002376_comm.jpg
しかし偽派の言い分は随分お粗末なもので全く証拠にならない
1、ハネを彫る字体は漢代に無い・・・これは間違い。むしろこれは漢印に特徴的にある。https://i.imgur.com/JPF6avZ.jpg
2、出土状況があいまい・・・もし亀井南冥が計画して芝居打ったのなら正確に記録しているだろう。あいまいなのは亀井南冥も
知らなかったからだ。
3、字の彫り方が広陵王璽と異なる・・・印彫り職人は大勢居る、人により彫り方が異なるのは当たり前。
真派の言い分も積極的に真だとする証拠にはならないが、その他の状況、幕府公認に限られる格式高い金細工師に、内緒で贋作
依頼できないなど亀井南冥には贋作できないだろうから、偽が作られた可能性は非常に低い 132名無しのひみつ2018/02/24(土) 22:59:59.88ID:6F1b13sj>>137
偽と言う奴は、”後漢時代の金印がポロと田んぼで見つかるはずがない、
亀井南冥が売名の為に偽造して仕組んだ芝居だ”と言うんだな。
なら亀井南冥がそんなことをする可能性があるのか検証しないといけない。
1、まずこの言い方が矛盾している。確かに金印が出たのは奇跡的なことだ。
ならば、亀井南冥が売名の為にそんなありそうもないことを仕組むだろうか、
それはない、やるのならありそうな誰もが納得することを考えるだろう。
2、亀井南冥は既に福岡藩随一の碩学と言われ、藩の御典医で藩主の信頼
厚く、新設の藩塾の塾長を任された。既に学者として成功しており、今更
売名の企てをする必要などない人物だ。
3、もう一つの藩塾が金印の解釈でバカ言って恥をかいた、それで奴らは
印は偽だ、漢の属国扱いの印など潰せとわめいたが、藩主は亀井南冥を
信頼して、金印は黒田家の家宝として保管し、金印の件はそれで終わった。
4、その後に亀井南冥が塾長を辞め蟄居を命ぜられたのは、松平定信の
寛政異学の禁で、それを批判して、”ま 気持ちは分かるが、幕政を批判
するのはマズいよ”ということで、金印の件とは全く関係ない。
これでまず亀井南冥が売名の為に偽造した可能性は100%無いね
もう一つ調べた事を書く。 日本と中国に現存する南北時代以前の金印は
41個しかなく、その30個は現代になって発掘したものだ。銅印が万個ある
のにこれは驚くほど少ない。 これは中国で偽の銅印は何千個もあるが、
金印の贋作は無かったということだ。何故なら、あまりに少なくて贋作者
も金印は見たことがないからだろう、モデルが無いのでは贋作できない。
”漢委奴国王”は完全な後漢時代のデザインにできている。江戸時代に
あった銅印しか載っていない印譜からはこのデザインの贋作はできない。 金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。
西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の
お値打ち品だ。
これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って
行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、
呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内
でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で
焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。
それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に
何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから
傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。
で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。
喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか
分からなくなる。
中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。
そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く
跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。 この金印とヤマタイは150年以上の差だから なにも関係ないな
倭国大乱ヤマタイの頃は既にあそこに隠されていて誰も存在を知らなかっただろう ニセモノだろ
本物のわけないじゃん、
そんな都合よすぎる話、普通真に受けるか? おめでてー連中だなw え?
ギリギリで糸島水道も陸地が繋がっていたと思ったが? ああ、そっち。
まあ、それでも目と鼻の先だから、運ぶのは簡単。 細石神社て由緒もなんも無い村社
http://www.komainu.org/fukuoka/itoshimasi/sazareishi/sazareishi.html
こんな所にあったわけない
もし大昔から金印が地上にあったのなら、宝物として天皇の御所か正倉院に保管されとる
神社にあったてのは、倭人伝邪馬台論争の時に委奴国はイト国だと言う奴らのでっちあげ 細石神社は天正15年(1587)豊臣秀吉に神田没収される前は大きな神社だったらしいよ。 おそらくは天孫ニニギの王宮だろうね。
つまりは、弥生時代の御所だよ。
もともと神社は王宮なんだよ。 細石神社が建てられている三雲南小路遺跡は、伊都国最初の王墓であり、筑紫の日向に降臨した邇邇芸と木花咲耶姫の王墓と言われる。
年代的には漢委奴国王印をもらった時代の倭国王墓である。 実際に遺跡があるわけだから。
そうでないなら、三雲南小路の主は誰だ? まぁ 出雲大社や宇佐八幡なんかは大昔からの縁起があるが、後世に村の鎮守で作られた普通の神社はその場所の歴史に何の関わりも無いわな 九州の神社はかなり古いものが多く大和王権成立以前からのものが在る
ただ戦国時代とかに縁起が失われてしまっている。 縁起が失われているのに何故か創建時期がわかるという不思議 記紀に書かれているからだよ。
住吉とか香椎とか筥崎とか。 山中にある古墓から、宋徽宗帝が作らせた印譜が出たと称して印刷した贋の印譜にある”親魏倭王”
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/senwa51.jpg
中国では明の頃、文人の骨董収集ブームで、古銅印から印譜まで贋作が出回った。
印は魏の頃日本へ行ったのに、宋で印譜に出せるわけねえだろ。
実際問題として、卑弥呼が受けた”親魏倭王”は、後に魏から晋になって壱与が晋に使者を
送って慣例により返却し溶かされ、新たに”親晋倭王”が授与されたと思われる。 >>924
銅印獣鈕とか、公孫氏倭女王とか、やりたい放題だなw 魏書には金印と書いてあるのになんで銅印だ、中国の贋作屋もええ加減なやつらだな。
>>898 のように、当時は古代の金印現物は地上に無くて、贋作屋もどんな物か分からず、
贋作できなかった。
本家中国でそうだから、日本で贋作できるわけない 今以汝為親魏倭王假金印紫綬 ・・・今以難升米為率善中郎將牛利為率善校尉假銀印綬
魏書では金印とか銀印と書いてあるが、
後漢書では印としか書いてない、これじゃ銅印と思うな
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 魏書で金印とか銀印と書いてあるんなら、
金印か銀印と思うんじゃないの?
なんで半島の最高栄誉の銀印よりも下の銅印とわざわざ思うの? 半島は王でも銀印だったから、倭國は使いでも銀印ってのは認めがたいんだろうな なんで朝鮮は銀で倭国は金だったか
朝鮮は陸続きで歩いて行けるし、シナ人と鮮人が混ざって住んどるし、朝鮮王言うても
シナの代官みたいなもんやから銀でええと。
倭国は海を越えてシナから遙かに遠い、シナ人もおいそれと行ける所でない、シナの
支配が及ばない事実上独立国だから金を授けるよ。 調べてみると逆のことばかり言ってる人がいるでしょ?
これは正解:倭人は入れ墨をしていた
他の国のことは置いといて、
倭人、入れ墨=奴隷の意味 朝鮮半島の倭人が志賀島まで落ち延びて捨てた物がいわゆる金印でしょう? >>930
金印をもらってたのはクシャーナ朝(インド)などなので
遠すぎて実質的に魏の支配権がおよばない大国には「金印」ってことだよね。
クシャーナ朝や倭には支配権がおよんでないので楽しんで朝見をしてた感じだけど
朝鮮は魏の奴隷的ポジションなので全然違う 金銀銅のランクの分かれ目、つか正確には「王・侯・邑君」だが
第一に中国にとって珍しい相手であること
第二に遠方であること
第三に大国であること 金印の発行も後漢始め頃までは秩序があったが、終わりの混乱から三国以後は
北方民族向けに乱発されて、金メッキもあった。 昔は勲章てのは無かったから
・・侯やら・・将軍は実質は無くて勲章がわりに授与された なお朝鮮は銅印しか貰ったことがない
中国の歴代王朝からも日本の格下扱い
何故兄の国というのか意味不明 漢時代の地方統治体制は、自治である王侯分国と朝廷が役人を派遣する郡県制が混在した。
当時半島は楽浪郡で分国ではなく、長である郡令は漢朝からおそらく銀印を下賜された。
海を越える倭国は朝廷支配が届かない分国と見なされたから国王の金印を受けた。
国の格がどうのということではない。
こうした地方体制は、北方諸民族が南下して個々に支配権を持った南北時代以降は消滅した。
だから半島でも高句麗とか新羅百済なぞが起こって、国王印も自分で作った。
日本でも銅で”天皇御璽”が作られた。 中国で金印拾ったオバハン オッサンの話がオモロイ
前半は広陵王璽(後漢) 12分30秒から偏将軍印章(魏晋)
https://www.youtube.com/watch?v=P6MpA-L44Fs >>943
ビデオのコメントに政府がたった350元で引き取ったと非難が集まっとる
今の中国で自由にオークション出すなら千万元かもしれんからな。
委奴國金印は藩から拾った村に50両渡されたとか。
もし親魏倭王或いは親晋倭王を発掘調査じゃなく、個人が拾って、国宝ですと届け出たら
政府はなんぼ出すかな 皇居の火災で賢所の八咫鏡が焼損したときに、「又、玉金のごとき物、数粒を得」という記録が
藤原資房の春記にある
長久元年(1040年) 九月九日
http://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/list.phpで訓読文が読める
八咫鏡が金象嵌された物だったのか、あるいは金印のごとき物と一緒に奉祭されていたのか
まあ、想像以上のことはできないけれど 日本では奈良時代から天皇御璽も銅印で、明治になるまで金印というものは作ったことがない。
明朝から渡された(懐良親王、足利義満、秀吉の三顆)日本国王之印は紛失と鋳潰しで残ってない。
明治になって作られた現行の天皇御璽は強度を出すため18金だが、それでも百年以上使われて
縁が磨り減って切れている。 これは朱の辰砂が硬い砥粒のため、拭き取ると磨り減るのだ。
朱は拭かずシンナーで洗い落とすべきなのだ。
もし漢委奴國王や親魏倭王が昔から地上にあれば、平安時代の貴族学者はそれが後漢書や
魏書の印とすぐ分かるから、その旨記録し、宝物として大事に保管しただろう。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
FLD 1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯”
http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20
この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。 滇王は前漢だから蛇そのものだが、
後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。
江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない 蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。
中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。 贋作だという奴らは悪ふざけだが、歴史学考古学では重要な1級資料、骨董業界では千億円て
くらいのお値打ち品やからね、 歴史考古学界からはっきり本物だと宣言出しとくべきね。
贋作業界としては、闇から宣言するわけにいかんですわ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。