天智・天武・壬申の乱などの雑談スレ
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
蘇我入鹿全盛期から天武天皇崩御の前後までの時代に関する雑談スレをつくりました。
過疎スレになると思うので「原則として」アゲ進行を推奨します。 680 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/04/01(日) 06:40:30.09
天武は死の床にあった天智天皇に
「皇位は倭姫(やまとひめ)皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子を太政大臣にすればよろしい。
私は出家し、天皇の病気治癒を祈りましょう」
と言ったそうだが、倭姫皇后が即位した形跡がまったくない理由がよくわからん。
また、壬申の乱後の倭姫皇后の消息もわからん。 壬申の乱は古代史のタブーとされてきた
天智と天武は兄弟ではなく、それぞれの国の王だったのではないか 弥生時代末期の筑紫、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向↑ (神武東征)
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。神武は男系祖先の本拠地・投馬国(日向)から船出し、
首都を筑紫・博多から「大和」へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の末裔である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島へ軍事介入で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王。継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王。筑紫系大臣、蘇我氏による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」へ
-天智・弘文=日向系大王。「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」。両系和解の記紀編纂(日向系イリ三輪王朝の活躍>筑紫系ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇。筑紫系天皇の平城京から本拠地・近江(琵琶湖)近くの平安京に遷都 >>8
天智と天武は血縁ではあったが兄弟ではなかったという説もある。 >>11
乳母が大海人氏だったからだよ
兄の中大兄皇子は別名葛城皇子で乳母が葛城氏だった >>10
どうなんだろ。
天智・天武の子供たちは飛鳥末〜奈良時代に生き、
律令行政の開始もあって、文書や木簡といった同時代の史料に名を残している人物が多くいる。
天智の子では、御名部内親王・元明天皇・泉内親王・水主内親王など、
天武の子では、高市皇子・大津皇子・穂積親王・長親王・舎人親王・新田部親王・大伯内親王・長谷部内親王・但馬内親王など。
これらの人物が、実は違うのに、当時編纂された史書上で兄弟の子として書かれ、そのように生活していた、とはちょっと思えないんだよなあ。 天智の妹が天武の后になったという点に、天智と天武は実の兄弟ではなく、
別の系統同士を繋ぎ合わせた作為があったのではないか?
継体と欽明も実の親子ではなかったのではないか?(手白香皇女の連れ子)
仲哀と応神も実の親子ではなかったのではないか?(神功皇后の連れ子、もしくは不倫の子)
記紀はこのような疑いを持たざるを得ないような記述が延々と続く。
とにかく男系万世一系を強調したいだけなんじゃないかという気がしてならない。 >>15
記紀が編纂されていた時点で、すでに応神や継体に関する情報はよくわからなくなっていたのだと思う。 >>16
イギリス王室のヘンリー第二皇子の「生物学的な」父親はチャールズ皇太子ではなく、
当時ダイアナ妃と不倫関係にあったヒューイット大佐との不倫の子と言われているし、
所詮は人間のやることだし、古今東西こうした例は跡を絶たなかったんじゃないか?
特に、動乱期にあたる仲哀→応神、継体→欽明、天智→天武は特に系図操作の に ほ ひ がする。
大王家を絶やすわけにはいかない仲哀も神功皇后の子・応神を、継体も手白香姫の子・欽明を、天智も天武を実の弟として、
認知し、系図操作を容認したんじゃないかと疑ってしまう。
昔は御簾で覆って天皇の顔を見せなかったというのも、この辺に理由があったのだと思われ。 >>17
> 昔は御簾で覆って天皇の顔を見せなかった
これは天皇がシャーマンなり祭祀王なりであった時代の名残りだと思う。
天武天皇はあからまさまに人前に姿をあらわしていたのではなかったか? >>15
それは逆にあなたが「男系万世一系」なる考えに凝り固まっているだけだよ。
古事記や日本書紀に万世一系なる言葉は出て来ないし、
この時代なんて、文武−聖武の男系ラインを確固とするためとはいえ、
女帝が次々と即位し、元明−元正なんぞは取り様によっては女系継承だよ。
男系万世一系を繕うため熱心に作為した、なんてのはいかにも後世人の発想のような気がする。 >>22
>元明−元正なんぞは取り様によっては女系継承だよ。
これは理屈の上では
「男性の女性天皇が2代続いた」
ということになると思うが。 『男系の女性天皇が2代続いた』の間違いだろうけど、だから「取り様によっては」と書いたのさ。
天智・天武を兄弟とする系図に基づいて、純粋に男系視点で元明−元正の継承を見た場合、
従伯母から従姪(いとこの子)へという、今で言えば5親等の遠縁継承になってしまうんだよ。元明は天智の子、元正は天武の内孫だから。
でもそんな遠縁がもとで譲位されたわけじゃないでしょ。母と娘だから継承されたわけでしょ。これを女系継承というわけ。
もっとも、元明を早世した文武(或いは夫の草壁)と同体に擬すれば、元正への兄弟(弟姉)継承・父子継承とも見做すことも可能だが、
そうは言ってもこの時代、母と子、祖母と子といった女系がらみの継承が多く行われているのは事実であって、
そうすると、>>15のような、前王仲哀vs神功の連れ子(不倫の子)応神とか、前王継体vs手白香の連れ子欽明とかいうのも、
前王天智vs斉明の連れ子?(或いは全く別系統?)天武や、前王統の持統・元明vs新王統の文武・元正という構図と同様なわけで、
応神・欽明の「異男系継承」が先例として存在していたのであれば、天智・天武の時にもそれを踏襲するだけで問題ないし、
むしろその先例は、「異男系どうしの天智系と天武系」の継承の根拠となり、大いに補強するとも考えられるわけ。
ましてや、>>15のいう「このような疑いを持たざるを得ないような記述が延々と続く」ほどに常態化していたとするなら、
逆に系図操作の必要性に疑問がわいてくるよね。
だから私は、「男系万世一系を作るために系図を操作した」という意見には、そう簡単に同意できないってこと。 >>23
宝皇女・吉備内親王辺りは本来、男系では草壁皇子の娘だから女王だろう。
しかし、母方の元明天皇によって皇女扱いを受けている。
ついでに吉備内親王の子は本来3世王だが、(天武天皇ー高市皇子(一世)ー長屋王(二世)ー膳夫王ら(三世))
母方を辿るとして2世王の扱いを受けている(元明天皇ー吉備内親王(一世)−膳夫王ら(二世)) >>28
「百済(伽耶)を高句麗の侵略から守る」という集団的自衛権を名目にして派兵していたわけだから、
大和朝廷の半島政策は百済ありきで、百済を助けないという選択肢はあり得なかったと思われ…
昭和天皇も念願の植民地・満州を死守するという目的でアメリカ相手に戦争仕掛けて(表向きは「軍部の暴走」ということになってるけど)
ボロ負けしたのに見事にダブる。
現在の天皇家が継体や天智の近江王朝なら、戦争がド下手なのも納得。
明治天皇の日清・日露勝利は、欧米列強のオコボレ頂戴&相手が革命で自滅しただけだし… 昭和初期の満州とは状況が違うと思うがまあそれはいいとして、それにしても援軍を送るタイミングが悪すぎる。百済滅亡前にあった援軍要請を無視して見限ったのに、滅亡後に寄せ集めでグダグダな再興軍を支援してもそりゃ負けるだろう。 >>30
>百済滅亡前にあった援軍要請を無視して見限ったのに
見限ったというより「まさか本当に滅亡するとは思わなかった」的な感じだったのかもしれない。
>>15
>継体と欽明も実の親子ではなかったのではないか?(手白香皇女の連れ子)
>仲哀と応神も実の親子ではなかったのではないか?(神功皇后の連れ子、もしくは不倫の子)
応神は、神功と武内宿禰との間に生まれた不倫の子という説がある
>>17
>イギリス王室のヘンリー第二皇子の「生物学的な」父親はチャールズ皇太子ではなく、
>当時ダイアナ妃と不倫関係にあったヒューイット大佐との不倫の子と言われているし、
道理であの問題児、チャールズに似てないなと思った!赤毛だしな いい加減に天智〜持統あたりを大河で見たいとかいう、
子どもじみた書き込みを大河板に書き込むのは止めようね 大河では無理だが、「大友宗麟」のような正月ドラマならOK むかし民放で井上靖の「額田王」をドラマ化したことがある。
故藤田まことの蘇我赤兄が印象に残っている。 >>36
中大兄皇子(近藤正臣)
大海人皇子(松平健)
額田女王(岩下志麻)
だっけ? 壬申の乱をドラマ化すると、右翼とか片山さつき議員とかが怒るのではないだろうか? 保元の乱を大河でやっちゃった今となっては
壬申の乱をやっても同じだろう 実力による皇位簒奪だから、保元の乱とはかなり性格が違うと思われ。 >>40
弘文天皇は存在しなかった(即位していなかった)ということにすれば
ただの皇子同士の戦になるだろ
皇位簒奪などではなく >>42
まあドラマならそのへんが落とし所だろうか。
平将門を大河にした時には第一回放送の冒頭で原作者が出てきて
「将門は天皇に反旗を翻したのではなく、藤原氏寡頭体制に怒って挙兵した」
と苦しい言い訳をしたそうだしな。
ちなみにドラマの中で「新皇」に即位したことには一切言及しなかったとのこと。 ★★★チベットの独立は日本の核心的利益である★★★
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¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥ 保元の乱の描写はたしかに王家の内紛だったが、仕掛けたのは上皇側で、
勝利も現政権側だったから、容認されたんじゃないかな。もしこの論理がいいなら
薬子はOKで押勝はアウトになるなw 薬子の乱は皇族に死者や島流しがでなかったという観点からもOKだろう。 >>40 >>45
保元の乱も薬子の変も天皇側が勝ち天皇は入れ替わらなかったからな
あれが上皇側勝利で現天皇が退位させられたら皇位簒奪
恵美押勝の乱のときには孝謙太上天皇が勝ち
負けた淳仁天皇が退位させられている 上皇による天皇放逐は「皇位簒奪」と呼べるかどうか疑問。 >>47
淳仁天皇はいったん流罪になったが、実は殺害されたのではないか? >>48
保元の乱で崇徳上皇が勝ってただの親王であった重仁親王が即位すれば
皇位簒奪じゃないか?崇徳はそのつもりだっただろう。
それをいえば安徳天皇を廃して後鳥羽天皇が立ったのも
ある意味皇位簒奪で微妙だけどな >>50
> 保元の乱で崇徳上皇が勝ってただの親王であった重仁親王が即位すれば
皇位簒奪じゃないか?
「上皇が承認あるいは進んで主導しての天皇追放」は簒奪にあたるかどうか難しいところ。 大友は即位しておらず、大海人は間違いなく天智の弟(朝鮮人とかではなく)の前提なら
犬HK的には問題ないわけだな。 >>53
日本書紀にある天武は天智の皇太弟だという記述も取り入れるとなおのこと良い。
誰もが認める正統な皇太弟であった天武から皇位簒奪したのは大友皇子という解釈になるから。
(日本書紀はその立場) >>54
大友皇子を演じるのはジャニーズの誰かになるだろうから
ファンや事務所の意向も気にしながらの脚本にならざるをえないだろう。 you tubeで「新唐人テレビ」を検索して見てください。
それを見ると中国人も中国の民主化を望んでいる事がわかります。
新唐人テレビは中国の民主化を望む中国人自身によるテレビ局で、海外に拠点をおき、中国共産党の圧力に屈する情けない日本のマスゴミよりもよっぽどまともなテレビ局です。
日本語による吹き替えも毎日アップしています。
日本では中国共産党の圧力により報道出来ないニュースが沢山取り上げられています。
新唐人テレビのような勇気ある報道機関を広める事で、中共の圧力に屈し、真実を伝えない日本のマスゴミのへなちょこぶりを浮き彫りにする事にもなります。
さらに新唐人テレビを衛生放送を使って中国国内に放送する計画まであります。
これはある意味、中国共産党に対する強力な「兵器」です。
新唐人テレビを日本や在日中国人の間に広めて、中共が日本に戦争をしかけてくる前に中共を内部崩壊させましょう! 壬申の乱てさ、要するに
筑紫都督となった天智の近江朝(見方によれば国際派)を百済の亡命政権と
見なした唐と新羅が介入
↓
それに対抗した天武(見方によれば民族派)が勝利した独立戦争だろ?
結果オーライだからこれで良かった。 それまでの畿内有力豪族が処分され伊勢などの地方豪族を味方に付けた天武が勝利
結果として有力豪族の力を排除して皇親政治を実現されたのが天武だから
天武が民族派というわけではないし 「平清盛」ですら、マイナー歴史人物とか言われてしまうような昨今、
この時代を大河で見たいなんと無謀な願いはいい加減に諦めたほうが良い。
だいたい登場人物の相関図だけで視聴者は混乱・・・
この時代の婚姻関係事情がもう理解の外になるに決まっているんだし 天智、天武、持統天皇、中臣鎌足なんて
古代史の有名人だらけじゃないか
清盛は本人は超有名人なんだが時子との夫婦ものではなく
「群像劇」なんてのにしたもんで
マイナー人物まで取り上げすぎて脱線しすぎだった
(後白河寵愛の院近臣やら待賢門院と西行の密通やら必ずしも取り上げる必要なし) >>61
マイナー歴史人物とメジャー歴史人物の境界線上にいる人物というと誰になるんだろうね?
戦国時代だと金森長近あたりかなあ。
ちなみに允恭天皇は業績の割りに知名度が低いと思う。 >>63
さすがにそこまで電波な説はつらいかなw あと大和社長とかw
>>64
壬申の乱は武将クラスが知名度低すぎて、ドラマにしにくい。
乙巳の変なら、入鹿、蝦夷、鎌足、中大兄と役者揃いでいいんじゃないかな。
知名度のボーダーラインは舒明天皇、山背大兄、石川麻呂あたり。 >>65
壬申の乱でも天武天皇・持統天皇・弘文天皇・草壁皇子は教科書レベルで分かる
十市皇女・高市皇子・倭姫王皇后も万葉集好きなら出てくるだろう
それだけでは一年持たないので天智天皇・中臣鎌足存命中から開始 >>66
大海人皇子が天智天皇に対して
「皇位は倭姫皇后にお譲りください」
と言ったことになっているが、譲った形跡がない。
理由はわからん。 >>67
実際には天智天皇は皇后ではなく、息子の弘文天皇に皇位を譲ったからだろ
日本書紀では大友皇子の即位を認めていない
大海人皇子は、天智天皇が大友皇子を即位指名することを避けるため
(大海人皇子の即位の可能性がなくなる)
子のない倭姫皇后を即位させて時間稼ぎを図ろうとしたんだろう >>66
その万葉集好きだって、総国民的にみればほんのわずかの層。
「平清盛」での、西行の扱いやかなりおかしな御前での歌合わせ描写、
清盛のまるで江戸時代の狂歌にもならないような滅茶苦茶な歌、
ああいうのを見てると、昨今の大河制作陣の教養を疑うし
万葉ロマンの世界を大破壊されそうだ。 >>69
西行はただの歌人で早々と出家し政治的にはほとんど無力だった人
あれを出してきても歌を詠ませる以外絡ませようがない
一方、十市皇女・高市皇子・倭姫王皇后は政治に絡みまくってるだろ
高市皇子は壬申の乱で吉野軍を実質率いた先鋒大将であり
十市皇女は近江朝廷弘文天皇の正妃にして高市皇子の恋人説まである高市皇子の異母姉
倭姫王は父を天智天皇に殺されながら天智天皇を愛していたっぽい
即位説もある近江朝廷の大后 >>43
デタラメ言うなよ。
TSUTAYAでDVD全話みられる御時世によくそんないい加減な話できるなw >>66
2/14夜のNHK「BS歴史館」で、壬申乱が取り上げられておったよ。
そこで田原総一郎が言うに、昔は万世一系連綿天皇話に都合が悪いので、
壬申乱が歴史教科書には記載されていなかったと。 兄弟間で天皇継承なんていくらでもあるだろ。なんで万世一系が崩れるんだ。 田原理論だと戦前の教科書には保元の乱も南北朝も掲載不可になるけど
平清盛や楠木正成は上の世代の方がよく知っているよねぇ
不思議! そもそも田原はあの歳にして古事記を読んでないし、
にもかかわらず壬申の乱特番に出てたと思われるな。
継体やオケ、ヲケとか血筋が怪しまれる天皇はいくらでも。
ところで、春先って、壬申の乱関係のイベントないのかな。
吉野とかさくら咲くし。 天皇家が血で血を洗う戦いは好ましくないという理由で、
戦前の教科書に載らなかったんだろ。
それを万世一系と混同してる時点でバカだし、それを放送する
NHKも同罪だ。 あるいは、大海人皇子が天皇血筋でないという
確たるスクープネタを掴んでいたなら、許す。 天武は天智の娘だかを后にしていたが、その后は、弘文が死亡したことにたいして、何かコメントを >>83
天智の娘が4人天武の妃になっているが全員弘文とは母親違いの姉たち
弘文の母親は身分の低い采女出身だった
天智の娘で天武の妃になった持統や元明たちは男であれば卑母の弘文など蹴落として
天智の後継者として即位できた血筋(いずれも大豪族・蘇我氏を母方に持つ)
異母弟の弘文など滅ぼして自分が天皇になりたかったっぽいぞ 「天智と天武」
漫画読んだ。ちょっとトンデモと「日出処の天子」入ってるけど面白そうだ。 当時、大海人(凡海)は「おおあま」じゃなくて、
「おおしあま」or「おおさま」と読まれてたらしい 壬申の乱だが、大友皇子サイドとしては
瀬田の唐橋を焼いてしまえば良かったのではないだろうか? 百済、高句麗の滅亡後、倭も滅ばされた。
倭の地に日本が興ったということなんじゃない。 天智天皇。 『扶桑略記』では、異説として「一云 天皇駕馬 幸山階ク 更無還御 永交山林 不知崩所
只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」と紹介し、山中での狩の途中に行方不明となり
暗殺されたことを示唆している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
↑
これをどう思うか? 近江遷都の後、いつ唐が侵攻してくるかと天智は恐懼していた
と思う。 仲哀 ┬神功皇后 ┌──武内宿禰──┐
│ │ │
応神 葛城襲津彦 蘇我石川宿禰
. │ ┌──┼───┐ │
仁徳────┬────磐之媛 葦田宿禰 玉田宿禰 満智
┌───┬─┴─┬──┬───┐ │ │
履中 住吉仲王 反正 大草香王 允恭 円大臣 韓子
├──┐ │ ┌┴┐ │ │
市辺押磐/飯豊 眉輪王 安康 雄略┬韓媛 高麗
┌┴┐ │ │ │
仁賢 顕宗 春日大娘皇女 清寧 稲目
├────────────────┤ │
武烈 尾張目子媛┬【継体】┬手白香皇女 ┌──┼───┐
宣化. │ │ │ │
石姫┬─欽明──┬───[堅塩媛・小姉君] 馬子
│ ┌┴┐ ┌────┤ ┌┼┬─┐
広姫┬敏達──┬推古 用明 穴穂部皇女/祟俊─♀│蝦夷 倉麻呂
│. │ └─┬─┘ │ │ │
押坂彦人大兄王 ♀─────厩戸王───┬──♀ 入鹿 倉山田石川麻呂
┌┴┐ │
舒明 茅渟王 山背大兄王
┌┴┐ ┌┴┐
天智 天武 皇極 孝徳 >>87
「天智と天武」私も読んで面白かったのでここ来た
歴史疎いんだが興味を持ったのでネットでこの時代の勉強なう
漫画は青年誌連載だけど腐女子歓喜なキャラ設定
男読者はどう感じるのか?が気になる >>90 瀬田川は渇水期には歩いて渡渉できるから(木曽義仲は騎馬で渡渉して都落ちしている)
寧ろ橋を残して置く事に因って施設に執着させて敵兵力を橋梁防衛に浪費させる戦術だったんじゃないか? >>90 >>100
瀬田の唐橋の戦いは壬申の乱最大の決戦だよ。
近江朝廷側は橋の板に縄をつけて、大海人軍が渡り始めた時にいっきに縄を引いて板を引っ張って外し
敵兵をいっきに瀬田川に落とす作戦だったが、大海人軍側の大分君稚臣が策略に気づいて縄を切ったため
大海人軍が瀬田川を渡り切ってしまい近江朝廷側は敗走した。
「日本書紀」にある有名な話だけど…
渇水期になると瀬田川の水が引いたというのは知らない
都落ちした木曽義仲は追ってくる源範頼・義経軍に対して
義仲の乳母子今井兼平がやはり瀬田の唐橋の板を外して防戦しているため
やっぱり水はあったはず 百済=くだら=くだぁら=ふだぁら=ふじわら=藤原
だから藤原鎌足は実は、扶余豊璋だったらしいね >>101
> >>90 >>100
> 瀬田の唐橋の戦いは壬申の乱最大の決戦だよ。
> 近江朝廷側は橋の板に縄をつけて、大海人軍が渡り始めた時にいっきに縄を引いて板を引っ張って外し
> 敵兵をいっきに瀬田川に落とす作戦だったが、大海人軍側の大分君稚臣が策略に気づいて縄を切ったため
> 大海人軍が瀬田川を渡り切ってしまい近江朝廷側は敗走した。
であるので、最初から瀬田の唐橋を焼き落としておけば良かったのではないか? >>103
完全に焼き落としたらこちら側も相手を攻められない
援軍が来てもこちらにこれない
そうこうしているうちに陸続きの山城ルートで敵軍に来られたら一緒なのでは?
瀬田の唐橋さえなければ永遠に敵軍が大津に到達しないわけではない
舟もあるし 長い歴史を誇る日本皇室といえども、自害した天皇って弘文だけだよな。 >>106
安徳天皇はばあさまに抱っこされて入水。
自分の意思の自殺ではないよね。
史上稀に見る異常な事態だが。
ところでこの時三種の神器はちゃんと見つかったの?
三種の神器を皇統の証にしたのは持統だよね? >>107
草薙剣だけ行方不明のまま
だから後鳥羽天皇は新しい形代(レプリカ)に御魂を遷して草薙剣とした >>105
日本書紀では自害した大友皇子は即位していなかったことになっている。
弘文天皇という天皇号が贈られ天王に加えられたのは明治時代。
あの時代は皇族に手をかけてはいけないので死を賜った大津皇子なども
首吊り自殺しているよね。 つまり弘文は同時代的には単なる帝位僭称者としてしか見られていなかったと。
それを明治になってから覆したのは何か相当な思惑が背後にあったのか。 >>110
> つまり弘文は同時代的には単なる帝位僭称者としてしか見られていなかったと。
父の天武と同様に「称制」のままで政務をこなしていた可能性がある。 とりあえず天智天皇は、暗殺されたということでいいね? 倭姫皇后って、壬申の乱のあと、近江朝廷の重臣とともに粛清されたの? 普通に考えて、旧体制の首魁として粛清されたんだろう>倭姫 大津のお姉ちゃんの大来(大伯)皇女が伊勢の斎宮解任された後、
どうなったのか知りたい。
死亡年月日しか残ってないんだよね。 古代日本史の実態というか実相は
学校で教えられた事とは相当違っているのではと漠然と考えている とりあえず天皇陵を掘らないと、日本の古代はわからんよ >>120
大伯皇女は大津が死を賜った686年に弟の死の喪のために斎宮解任
「薬師寺縁起」によればその後、寺を建立している
三重県にある夏目廃寺がその跡で、発見された基壇に刻まれていた年号により
694年のことだとわかったらしい
寺の建立は父天武天皇の菩提の為で弟大津のためではないみたいだが 壬申の乱は、簡単だが古事記序文にもあるね。
九州王朝説でよく引かれる。 >>122
税所篤が盗掘してコスモポリタン美術館に売ったのを見ればいいんじゃない? 不破関で弘文天皇軍と大海人皇子軍が激突。
弘文天皇軍は、笹尾山に本陣を置き、本隊6000、これに南九州勢1500、中九州勢6000、備前勢17000、北九州勢15600が着陣
皇子軍は、桃配山に本営を置き、尾 天武は皇極と蘇我入鹿の子で644年生まれと聞いたんですが? そういうことを言う人はもともと史書の系譜等を無視してる人でしょうから、
なにか返答しても詮無いところなんですが、
天武の年長の子女である十市皇女や高市皇子、年長の孫である葛野王や竹野女王、
想定される年齢関係から、これらと天武の間柄がおかしなことになってきますね。
それと「逆賊」入鹿の男子が、660年代に「正統」皇極の孫娘(中大兄の娘)を娶って、
草壁皇子や大伯皇女・大津皇子を儲けていたという解釈にもなります。
奈良時代に入った後も、天智・天武の子女は何人か存命してますが、
たとえば>>124さんの説なんかも導入すると、
元明天皇・泉内親王・水主内親王・志貴親王といった「翹岐の子」と、
穂積親王・長親王・舎人親王・新田部親王・長谷部内親王・多紀内親王・田形内親王といった「入鹿の内孫」が、
同じ「皇親(皇族)」として、今から1300年前=西暦714年頃の社会ピラミッドの頂点に君臨していたことにもなるわけです。
ちなみに「今年714年の私」からすると644年は私の親父の生まれた年に当たりますね、余談ですが。
ま、そういう話をされる方にはこれからもどんどん通説を破壊していってもらいましょうw 天武・持統天皇陵、研究者が立ち入り調査 考古学者「高松塚古墳の石材と酷似」
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1393072861/
天武・持統天皇陵、立ち入り調査 「高松塚の石材と酷似」
宮内庁が管理する奈良県明日香村の天武・持統天皇合葬陵(7世紀後半)に21日、
日本考古学協会など考古学、歴史学関係の15団体の研究者が立ち入り調査した。
終了後、日本考古学協会の森岡秀人陵墓担当理事は「墳丘にある凝灰岩の石材を複数箇所で確認できた。
高松塚古墳の石材と非常によく似ており、(大阪と奈良の境にある)二上山の石材だ」と話した。
◇
陵墓は宮内庁が立ち入りを制限し、これまで外部研究者による調査は行われていないが、
同庁は昨年、合葬陵の構造について天皇陵固有とされる「八角形墳」で5段築成と結論付ける論文を発表。
1950〜70年代の調査結果などから、最下段の一辺は約15メートル、全体の高さは約7・7メートル、
凝灰岩の切り石で覆われ「仏塔のようだったと推測される」と報告していた。
陵墓には被葬者に論争があるものが多いが、今回の合葬陵は鎌倉時代に盗掘されて内部の記録が残されており、
研究者の間でも天武、持統両天皇が埋葬されたとみる説が強い。
調査終了後の研究者らによる検討会では「露出した石材は水分を多く含み、
今後の保存環境に留意してほしい」と宮内庁への要望も出た。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140222/art14022211180001-n1.htm 542 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/24(月) 23:10:21.73 ID:XJASLEXd0 [1/3]
躍進したフランスの政党と交流したい
みんなでコンタクトとろうよ
563 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/24(月) 23:14:33.83 ID:XJASLEXd0 [2/3]
>>558
俺の家は、壬申の乱以前からあるよ
625 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/24(月) 23:35:18.14 ID:XJASLEXd0 [3/3]
>>592
身割れするかもだから勘弁
とある壬申の乱以前の天皇が直系祖で、和邇、春日系統です 720 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 00:12:00.98 ID:9XTWKEfC0 [1/8]
>>630
わからないです
祖のお母さんが和邇、春日出身です
家系図100%間違いないです
嵯峨天皇のときに、新撰姓名禄というのに記載されています
その後、鎌倉時代、室町時代、江戸時代と官位や役職があり、明治維新後も皆高級軍人です。
ただし、嵯峨天皇の時代から官位が5位に下がっていて、その後は明治維新までは武士です
摂津源氏の初めから武士
722 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 00:14:25.97 ID:9XTWKEfC0 [2/8]
>>650
壬申の乱です
日本書紀に記載されていない事、一杯知っていますよ
でも公には日本書紀が正しい事になっているので何も言いませんが
というよりも他人が信じるとは限らないし
一応日本書紀にも名前登場しますし、その前の歴史書にも名前出てきます
736 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 00:25:15.25 ID:9XTWKEfC0 [3/8]
>>730
実は、壬申の乱前後の歴史は改竄されていると思われる
家系図と対照すると、どうしても辻褄の合わない期間が50年くらいある
あまり詳しく書けないけど、うちは壬申の乱後に相当高位の官位、つまり皇親政治の側にいるのだけど
天武天皇が死ぬ前に立て続けに一族が死んでいる
その後暫く歴史の表から消え、嵯峨天皇の時に復活し官位が再び与えられた。
ただし5位と低いけど、そこから国司や省に入っている
739 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 00:27:22.87 ID:9XTWKEfC0 [4/8]
>>730
それが移民と関係あると思うのよ
百済から入れた移民、一時期日本を乗っ取る為にテロやったで 760 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 00:43:04.84 ID:9XTWKEfC0 [5/8]
>>744
関わるでしょ
皇親政治の終わりから、嵯峨天皇時代までは、つまり桓武天皇の婦人も百済出身の血筋が入り込んでいることを
見てもわかるように調子ぶっこきやがった時代があると思われる
思うに天武天皇系の勢力をテロにより排除した疑いが濃厚
765 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 00:45:36.59 ID:9XTWKEfC0 [6/8]
>>762
ちがうよ
うちは特殊勢力なんだよ
和邇、春日系統で、蘇我などの血が入っていない
801 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 01:19:38.31 ID:9XTWKEfC0 [7/8]
>>776
隋、唐への移行期、明らかに日本は異常事態にあったことは間違いない
どうも家系図を見ると、50年くらい辻褄の合わない期間があり、天武天皇死亡直前から、嵯峨天皇時まで、二人ほど
官位が見当たらない人物がいる。
暇になったら、この二人はどこで何をしていたのか是非調査したいと思っている
何かがあったんだよ
813 名前:名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/03/25(火) 01:27:17.09 ID:9XTWKEfC0 [8/8]
>>806
おっしゃる通り
日本は東アジアの情勢不安の影響を日本に及ぼさない為、菅原道真などの建言もあり鎖国した
これが平安時代の文化発展と平和な時代につながった
この時代に、日本は一つ国論としての結論に至った
日本の領海の外は汚らわしい民族の住む場所であり、汚らわしい人間達を神聖な日本に入れてはならない
この結論は正しい 中大兄皇子の中が中殿の意であるとすると中大兄は「皇子」と後世されたが親王では無く皇后の実家の年長の男子であり庚巳の変は百済系渡来人である蘇我氏の内紛に過ぎなかった事になる >>138
ここにでもきちんと誘導してくれればよかったのになあ。
オカルト板に行ってたら笑えるけど。 万葉集って、凄いよなあ。天武の不倫の歌を堂堂とのせているのだから。
それから、壬申の乱は、なかなかドラマとして面白い。天武は、秦の始皇帝の子孫の末裔なのかなあ。 天智は何故皇族出の嫁がいないの?
天武は何故天智から4人も嫁もらってるの? >>141
> 天智は何故皇族出の嫁がいないの?
> 天武は何故天智から4人も嫁もらってるの?
この2人に関する公式記録の一部は意図的に改ざんされたのではないか? >>140
> 万葉集って、凄いよなあ。天武の不倫の歌を堂堂とのせているのだから。
いまでも外人さんから見れば
「日本人はなんで堂々とクジラ食っているんだ」 まあ大乗仏教はやばいわな
いいとこ小乗仏教にするべき そもそも「大兄」ってなんなの?
中大兄は古人大兄がいなくなっても中大兄なの?
中大兄以降で「大兄」を名乗った人っているの? >>146
古人大兄皇子がいる
意味については皇位継承者という説と単なる尊称という説がある >>141
天智天皇は皇族出身の嫁いるだろ
皇后の倭姫王は舒明天皇の孫王 北関東の、とあるお寺の沿革書きに、
「・・・天武天皇がまだ親王であったころ、天智9年から二年ほど留まっていたところで、・・・」
と書いてあって、「え、嘘でしょ?」
壬申の乱の原因がどんどん蓄積されているこの時期に辺境に出かけているわけないでしょ。
しばらくここで仕事をしてるので、どこの何寺かは、今は公表できないが・・・ お寺の由緒には史実と合わないものは多いよ
創建当初の縁起の実物がそのまま残ってる寺ばかりじゃないし
聖徳太子なんて確実に創建したのは法隆寺と四天王寺だけらしいが
聖徳太子が創建したという縁起を持つ寺は全国に何十もある そのうち表にでもでてくるような話かな?
源頼信の奉納文みたいにさ 縁起関係は奉納文が多いんだろ?
そういうのを大量に保存してるとこもありそうだわな 新田の赤木神社にも源平合戦のころに里見だか田中だかが
出奔前に寄ってるはずだから奉納文残ってねえの? 壬申の乱については、NHKのアニメ火の鳥でやってたね
内容は、仏教導入派が大友皇子派で(原始的な)神道派が大海人皇子に味方するて話で、大友皇子も悪くは描かれてなかったね
結構以前のアニメだけど当時はまだ問題になってなかったね 今日、沿革の建て看板を作った教育委員会の委員さんと会う機会ができたので
天武天皇についての疑問を聞いた。
お寺の伝承にそれがあったのでそのまま書いたけど、やはり疑問を感じているそうでw
時期も時期だし、そもそもこんな片田舎に貴人が2年も滞在するわけない、
誰かの自称・僭称なのではないか、と。 >>158
>そもそもこんな片田舎に貴人が2年も滞在するわけない、
まあそうなんだが、南朝関係者の例もあるから… >>159
天智9年、大友皇子が太政大臣に就任、叔父大海人皇子の扱いは微妙に
天智10年、大海人皇子は出家して吉野にこもる。天智天皇崩御。
天智11年、大海人皇子が吉野で挙兵し近江大津宮の大友皇子を攻め滅ぼし、天武天皇として即位
天智9年から2年間、大海人皇子が北関東に滞在していたというのは無理だろう .:⊂⌒ヽ.:./づ゙ ゙゙つ:/⌒つ:.
.:\ ヽ/ \ /.i ./:. …な…なんとしても…
.:| | ● ●.| |:. …このスレを…上げねばならぬ…
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↑
蘇我氏の工作員 ふ〜ん、まだワケ分からない主張繰り返しているんだ?
でお前らの妄想の部分を抜かすとどんなもんなん?
どこから拾ってきた資料か知らんけどさ 天智天皇陵の立ち入り調査が行われたけど何か収穫はあったのだろうか
レーダーとか超音波での地中探査くらいやらせてくれればいいのに >>167
既に盗掘されているだろうから、大したものは出てこないと思う。 ,r- 、,r- 、
/// | | | l iヾ
/./ ⌒ ⌒ \ヽ、
_,,......._ // (●) (●) ヽヽ ここ噛んで!!
/ "''-.,,_ r-i./ `⌒,(・・)⌒´ ヽ.l-、
/ `ヽ__ | | | ),r=‐、( | | ノ
!、 ._ \`''-.,, `| |ヽ ⌒ ノ| ||
ヽ、'''ー-- ''"´ ( ,. ,. 、ヽ `,x | | | |\ `ー-‐'' /| || ||
`''-.,, ? ノ .,r ィ i _  ̄ ̄ ̄ 一一  ̄ ̄--‐‐::..,,_
`''-.,,_ `゙^‐トtイ,,ィク三ニミ=- ...,,,,_ / /, `゙''''ー-::...,,_
''-.,, |;'{ `ー'´ ̄ ̄""'''''ー-=ニ、三三Y _// ` ヽ、
`i/ `゙''=t.`''ヾ、r'''ト‐‐'^ヽ、 \
/  ̄V ノ ! \ i
ノ .:, l ∧ \ ノ
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/ / ! ij ,!./  ̄ ̄ ̄
i / l |l!´
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!;;::::::::.. / ヘ . ..:.:::::::::::::::. /
ヾ;;::::::::: / ヽ:.::::::::::::r,、::::::.: ノ!
`ー‐'i''´ `''-;;::::::::.:;;;;:-'' ノ 日本人の先祖の大半の倭人は、
卑弥呼の夫(副王・男王)になったアレクサンドロス大王ソナカ王家(蘇我氏(天武天皇系)・木氏・紀氏・岸氏・貴志氏)に従つきって、
アショカ王の仏教布教団の一派としてやって来たギリシャ人精鋭部隊やアショカ王精鋭部隊。
『ポセイドン 百済 大隅 ウースン 烏孫人の北上 大移動 3 』ネット歴史塾
http://momo-matmkanehara.blogspot.com/
『稲作文化・アソカ仏教宣布団』オリエント歴史回廊(遷都):(ウバイド・シュメル)
http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/ >>168
相変わらず陵墓を「目視」のみで
発掘の許可は下りず >>171
だからせめてレーダー探査くらいやらせてやればね
構造とかわかるだけでも有難いじゃん 蘇我系天武天皇について...
蘇我一族は釈迦族のアショカ王の末裔の可能性がある。
アショカ王が王子達を派遣した仏教布教派遣団のうち、
東に向かい、マレーシア王や琉球王になったソナカ王子家の末裔の可能性がある。
その釈迦族はイスラエル十支族の一つでガド族かも知れない。
アショカ王の母親は、
アレクサンドロス大王の後継者でギリシャ人(マケドニア人)のセレウコスT世の娘。
この女性は、セレウコスT世がアレクサンドロス大王の後継者となって、
アレクサンドロス大王の娘をめとって生まれた女性の可能性がある。
アレクサンドロス大王はエジプトの王ファラオでもありスサの王でもあった。
後継者であるセレウコスT世もペルシャ帝国の皇帝だからスサの王(スサノオ)。
アショカ王はアレクサンドロス大王の血をひくスサノオだった可能性がある。
だから蘇我一族も単にユダヤ系やイスラエル系の王家や、
中国皇帝や英国王室を超えた世界帝王のスサノオの神権を持つ可能性がある。 >>173
蘇我氏は傲慢だった云々いわれているが、
実は藤原氏が燃やして隠滅した記録が、蘇我一族はミカドの語源になった
ガド族世界天皇(世界皇帝)家であるという記録である事が見えると、
蘇我一族が天皇家を見下ろす位置に邸宅を構えていた事や、
また、蘇我入鹿暗殺クーデターの場面で、
止めようとする皇極天皇に「このままでは天皇家が滅ぼされてしまいます」と藤原が言った理由が何となく分かる。 絶対本当の話じゃないだろうけど、いわれがわかったら面白いでしょうね。 >>2
壬申の乱後、倭姫は近江朝廷側の首魁として粛清されたのだろうな。 6世紀の天皇家などまだまだ諸豪族とどんぐりの背比べで
天皇家だけが尊貴であるという発想はなかった
だから天武朝で天皇は神の子孫であり
初めからそれ以外の民衆どもとは違うのである
主張を始めたんだろ >>179
> 6世紀の天皇家などまだまだ諸豪族とどんぐりの背比べで
> 天皇家だけが尊貴であるという発想はなかった
とはいえ、メジャーと3Aぐらいの「格の違い」はあったのではないかと思う。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>179
記紀の記述にも、平群氏とか蘇我氏とか諸豪族が参上してたとかあるしね。実際は諸王の王に過ぎなかったのかも知れないね。
それでも天皇家が持つ霊異は承認されてたわけだけど、これはいつ確立したのかが不思議だ。実際、天皇家が軍事的に諸豪族をリードした時期はそんなに長くないわけで、そのへんの権威をどう独占したのかね。
最終的には天智〜天武の強力な体制が天皇家を唯一絶対の君主にしたわけで、実際は軍事的にも第一人者だったのかな? 軍事的にも第一人者というより、戦場での指揮権というか最終決定権を持っていたということだろうか。 >>181
格の違いは永久不変的なものではなく
いつでも交代可能だった >>180
大っぴらに処刑されることはまずないだろうが
暗殺という形で粛清された可能性を言ってるのでは?
少し時代が下がるが井上内親王は幽閉中されて不審死してるし
倭姫に関しては分からんがね
近江朝でどの程度政治に関わり天武の脅威になりえたかによるし 豪族個々に祖霊の降臨神話を持ってたのを日本書紀か古事記編纂の時に天皇家が独占 倭姫は名前が残っているだけであって、人柄とか能力は記録に残っていないからなあ。 >>189
「日本書紀」で吉野にこもる大海人皇子が
倭姫皇后の即位を天智天皇に進言していること
壬申の乱以降、倭姫の動向が一切出てこないこと
に起因してるんだろうけど >>141
貴方は、天智天皇の皇后倭姫王の父古人大兄皇子の非実在説賛同者かね? 里中満智子の「天上の虹」、面白いんだけど、
日本書紀を信じすぎだよな。
蘇我入鹿が根っからの悪者だし、古人がブサメンすぎるだろw >>141
天武に天智が娘を多数、嫁に送り込んだのは、
天武の身動きをとれなくするためでしょう。
当時は朝鮮半島の情勢で手いっぱいで、
内乱なんかおこされたら、たまったものではないから。 皇族同士の粛清が派手に行われていた時代だったから
大海人皇子に太田皇女や鵜野皇女(持統)が嫁いだ頃には
まだ祖母で天智天武母の斉明天皇が生きている
(大江皇女も斉明生前の結婚だった可能性がある)
兄弟同士で殺し合わないようにという斉明天皇の意思もあったかも まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>193
日本書紀を信じすぎなのではなく、
商業誌に載せる娯楽作品なのだから、読者ウケするように仕上げてある。 つうか、持統天皇を主人公で描いたら
古人や蝦夷は悪役にならざるを得ない
持統天皇の外祖父で蘇我入鹿殺害に協力した
蘇我山田石川麻呂は無茶苦茶いい人扱いになっているし
(持統天皇の母は父の石川麻呂が夫の天智に無実の罪で殺されたことで
気が狂って死亡。持統天皇は父を恨み夫に協力する) 天武天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm
通説から修正した、天武天皇と同時代の人物の誕生年と没年齢
皇極(斉明)天皇 594年(68歳)→ 607年(55歳)
孝徳天皇 596年(59歳)→ 616年(39歳)
藤原鎌足 614年(56歳)→ 620年(50歳)
額田王 630年頃(80歳前後)→ 643年(73歳)
十市皇女 650年頃(31歳前後)→ 660年(19歳)
天武天皇 631年?(56歳)→ 644年(43歳)
舒明天皇 593年(49歳)、天智天皇 626年(46歳)、
弘文天皇 648年(25歳)、持統天皇 645年(58歳)は通説どおりとする。
舒明天皇は天武天皇の誕生以前に亡くなっている。
天武は天智の異父兄説もあるが、実は異父弟ではないか。 「古事記」「日本書紀」について政治的時代背景を含めてその成立過程を解説しよう
すべては白村江の敗戦に始まる
敗戦のA級戦犯中大兄皇子は称制天智天皇に即位してしまった
大海人皇子天武は親唐・新羅の恭順派であり、国際舞台復帰を目指して天智薨去後に近江朝に対しクーデターを起こし打倒した
唐・新羅との国交回復の為には革命政権天武朝の正統性を当時の東アジア国際基準に合わせてアピールする必要があったのだ
そこで天武・持統朝は日本の国号と万世一系天皇の系譜を作成した
架空の「帝紀」「旧辞」の存在を仄めかす事は「古事記」の正史としての地位を認めさせるカモフラージュ工作であった
※各豪族氏族にあったそれに類する伝承を利用したと思われる
「日本書紀」は本来であれば「日本紀」とするのが同時代的には正しいのであるが「日本書紀」としているのは「続日本紀」よりも後の時代の
捏造であることの傍証である
「古事記」「日本書紀」の編集者は天武・持統朝の正統性と中国歴代王朝の正史「魏書」の内容を踏まえての整合性に腐心した結果
彼等は持統を投影した推古天皇さらに神功皇后を創作したのである
神功を卑弥呼にすり替える工作は成功したのだが、彼等は「隋書」の内容(推古朝は女帝ではなく男帝)を把握していなかったことにより
「古事記」「日本書紀」の捏造が浮き彫りにされてしまったのだ >>194
天智の娘の身分に相応しい結婚相手が、他にいなかったのでは?
なにしろめぼしい競争相手は、みな粛清してしまったから
天智自身の息子は、皆母親が采女で有力な妃は息子を生まなかった
ある時期まで、娘の産んだ子による皇位継承も視野に入れていたのでは?
自分は天智が嫁がせたのは太田と鵜野だけで
下の二人は、天武即位後に迎えたと思っているけど 前に↓みたいな仮説を読んだことがあるんだが
古代の皇位継承は、原則的に三十過ぎていないといけなかったという説
この仮説がある前提で考えると説明がつく事象が多いと思う
例えば、大友は天智が亡くなった時点では、まだ三十前だった
母親が采女であったことの他に、年齢もネックになったのでは?
天智の病床に呼ばれた大海人が、
「まず皇后の倭姫王を皇位につけ、大友を儲君に」
と進言したのも意味のない話ではなかったのでは
母親の出自が低い上に三十前の大友の即位をごり押ししたことで
反発を呼んだ面も多かったのではないか? 欽明天皇は20歳で即位、敏達天皇も推定20代で即位しているが?
持統天皇の孫、文武天皇は15歳で即位 >>205
欽明の即位が二十歳の出典は?
三十過ぎた年齢で即位しているはずだが
安閑や宣化と二朝並立説?
敏達も即位時には三十過ぎている
欽明の在位は長かったし、即位前に儲けた息子だから
継体が亡くなった時に、欽明が三十前だったから
年の離れた異母兄が登板したんでない?
安閑、宣化の二代の間に三十に到達して即位
文武についてだが、祖母の持統が孫に皇位を譲るために
根回しした結果ではないかと
息子に先立たれて、孫が三十になるまで自分は生きていられないから
年齢制限の不文律を撤廃して、直系相続にするために
それには官僚機構の整備が欠かせないから律令を制定
そのための準備を持統は、自分の在位中にしていたのだろう
懐風藻の文武即位前の会議の記述
あれは淡海三船が先祖の功績を盛っているかもしれないが
他の皇族の抵抗があったのを強引に押し通したのは窺えるでしょ >>206
>>200によるとどうやら
欽明天皇は西暦527年生まれで即位当時14歳です。
欽明天皇と皇后で姪の石姫皇女の年が近いことは二人が同母姉妹から生まれた
いとこでもあることから分かると思います。
敏達天皇は二人の二番目の子ですから即位当時20代で間違いありません。
継体天皇が手白香皇女を妻に迎えたのは526年に大和に迎え入れられて
からのことです。西暦507年ごろのことではありません。
506年〜525年の間の二十年間は実は雄略天皇の崩御から
仁賢天皇の崩御までの二十年間に相当します。仁賢天皇の跡を継いだ
武烈天皇は他所から迎え入れられた継体大王の傀儡であり、
日本書紀が記すこの天皇の横暴や奇行は自分が傀儡であることに対する
不満が爆発したもののようです。初代神武天皇の即位年を繰り上げたこと
による天皇の在位期間や年齢のずれは7世紀まで影響します。
武烈天皇の推定生没年は西暦514〜533年、
継体天皇は485〜534年、安閑天皇は505〜535年、宣化天皇は506〜539年、
欽明天皇は527〜571年、敏達天皇は549〜585年(538年誕生ではない)です。 >>207
敏達の死後、なんで息子の押坂彦人じゃなく
異母弟の用明や崇峻が継承したの?
若くてもおkなら、実子が相続しても良さそうなのに
トップに判断力や経験値を要求されたから
兄弟相続にならざるを得ないんだよ
しかし年齢の根拠が個人サイトかよ
面白いサイトだしよく研究しているとは思うけど >>207
その検証だと欽明が生まれた時、継体と手白香は何歳? 継体即位と磐井の乱について妄想してみた
書紀では継体が大和入りしてから、磐井の乱が起きたことになっている
しかし逆ではないか?
雄略死後の大和の混乱に乗じ、磐井が自立を目論んだ
その為に、大陸や朝鮮半島との連絡に支障が生じた
危機感を持った大和の豪族達は、日本海側から琵琶湖一帯を抑えていた
後の継体を迎えることとした
最初の宮が楠葉だったのは、ここが琵琶湖水系の水運の要衝だったから
大和の場合、大和川で瀬戸内に出て、北九州から半島や大陸に向かうが
磐井の乱が起きている以上、大和にいても大陸や半島とは連絡不能
宮を楠葉に構えることで、日本海から琵琶湖を通る
水運を抑えて大陸との連絡を確保できる
当然、その為の盟約の証として手白香との婚儀も行われた
磐井の乱が鎮圧され、宮を大和に移すことができた
てのはどうよ? 星川皇子の乱と吉備水軍
雄略の死後起きた、星川皇子の乱について
あの時、星川皇子の母親のバックである吉備の水軍が難波沖に来ていた
結局、乱は鎮圧され吉備水軍は引き上げたことになってはいる
でも、それで元通り治まったと思う?
瀬戸内の制海権は、大和朝廷になくて
吉備水軍が握っていた、としか思えないんだよ
そして磐井も離反した
そりゃあ日本海側の実力者に泣きつかざるを得ないでしょう
うら若い皇女三姉妹をまとめて送りつけてでも
なんとかして下さいとお願いしないとならんでしょうよ >>208
押坂彦人は立場が微妙だったでしょ。
敏達の母は皇后と書かれるものの天皇の娘などではなく息長氏であり
大后の扱いを受けていたかは怪しい(息長氏は継体天皇の出身母体ではあるが)
この母も敏達が即位した年に死亡
敏達の大后として権力をふるっていた炊屋媛(後の推古天皇。欽明天皇の皇女)は継母で
炊屋媛の産んだまだ幼少の竹田皇子などのほうが有力だったと思われる。
敏達が死んだときには竹田皇子はまだかなり幼い。 >>212
>>207は、欽明が十四で即位したと言ってるんだが?
竹田が幼少だったからどうなの? 敏達崩御時点で、竹田は十歳くらいかと
十四ならぉkで十はダメな理由は?
押坂彦人「大兄」って称号をどう思う?
事実上の皇太子と解釈していたんだが まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>213>>214
あれ?
もともとは204が言い出した天皇になるには
「原則的に三十過ぎていないといけなかった」というのが混乱の発端でしょ?
30になってなくても即位した例はあるわけで(敏達・文武)
当時の嫁取りが10代半ばでこの時期が成人であったとみられることから
この年齢は過ぎていることが妥当だったと思われるけど
14歳が即位できるなら10歳でも即位できたって何言ってんの? >>217
文武については、持統がその不文律崩すために
律令整えたと見ているから、そもそもあなたとは平行線だな
官僚機構が未整備では、若年のトップでは不安だから
十五の孫に譲位するには、官僚機構を整備する必要がある
欽明、敏達は即位した時、三十越えていた、というのが私の立場
敏達が即位したのが三十前の根拠は、個人ブログ?
Wikipediaでは、欽明も敏達も三十越えている説だが
在位三十二年の欽明なら、息子が三十越えていたとしても不思議じゃないよ 敏達の年齢の根拠は愚管抄ね
それだと、敏達出生時、欽明十年だって説になるけど
母親の石姫皇女は、欽明即位時に皇后に立てられたはずだよね
立后時点で、出産可能な年齢だったと思うんだけど
欽明十年では、第二子出産が遅いような気がする
書紀の記述が信用できないってんなら別だけど >>218
>>217じゃないけど、
官制の整備は、聖徳、孝徳、天智、天武と、断続的に進められてきたわけで、
何も持統が突然始めたわけじゃない、まあそんなことは百も承知だろうけど。
若年の文武のために整備した官僚機構って、具体的にはどういうのを指して言ってるの? >>218
武烈なんかは姉の手白香皇女の年齢を考えると
明らかに即位は早いが(10代即位?)
あと文武の時に官僚機構が整えられたと言う根拠は?
飛鳥御浄原令は天武天皇の時に編纂が始まっていて
文武を幼年即位させるためのものではない >>221
清寧天皇なんかもあやしいな。
日本書紀では雄略天皇の第三皇子。
吉備稚媛は雄略天皇7年に天皇に召されているから
彼女の産んだ磐城皇子を雄略の第一子、星川皇子を
雄略の第二子と考えると、雄略がその23年に亡くなったとき
第三子の清寧天皇は13、4歳そこらとしか思えない。
雄略は清寧の母である韓媛の父、葛城円を殺している。
このときに円が韓媛を雄略に献上しているのだから
通説の允恭天皇存命中の誕生は奇妙である。
雄略が即位前に皇位継承候補者をバスバス殺害した結果、
その死後、清寧や武烈が頼りない子供が天皇になり
朝廷は平郡氏の専横や地方豪族の離反を収拾する術がなかった
のだろうね。 >>221
文武のためというより、直系相続のため、でしょ
中国は、直系相続なんだから、中央集権目指していったら
継承も直系になる
元明の即位時の宣命で、近江の帝の定めた〜
ってフレーズが出てきたけど
あれって、直系相続にするって遺志だったんじゃない?
天智は失敗したけど、実子に皇位を譲りたいのは人情だから
歴代が律令整えていったのも、トップが幼少でも継承可能にしたいから
だと思うよ
雄略の後の記述は、かなり御伽噺みたいな箇所が多いけど
若年のトップで、まとまらなくて内乱になったんなら
ますます、トップは経験のある年齢の方がいいってことになる >>222
清寧の出生順だけど、星川達より年下ってのは疑問だな
母親の韓媛は、安康天皇暗殺時に、実家の葛城氏が滅ぼされている
贖罪の証に妃になってるんだから、雄略の即位時にはすでに妃なわけでしょ
七年以上出産しなかったとも思えないんだよ
それと、同母の姉妹が伊勢の斎宮になって、密通して妊娠したと讒言され
身の潔白を証明するために自殺したってのが、雄略三年の記事にある
ということは、雄略三年には妊娠可能な年齢になってるってことになる
実際はもっと後のことじゃないかって考察がwikiに載ってるけど
もし稚媛が強奪されたのが、雄略七年だって説を信用するんなら
雄略三年の皇女自殺事件も信用しないとね 星川と磐城って稚媛の連れ子なんじゃないの?
眉輪王も連れ子で宮中で育ってるでしょ 雄略、武烈の悪逆非道ぶりって、話を盛ってる可能性大だと思う
こんなにひどい暴君だったから、皇統が途絶えましたって話にするために
雄略三年の皇女自殺事件を採用するなら、韓媛は即位前から雄略の后だったことになる
ある意味偉大な大王だけど、そのくせ讒言を信じてよく確かめない迂闊なところがある
つじつまの合わないところが多いよ >>224ー>>226
星川と磐城は雄略の実子だよ
そうでないと粛清される意味もない
記紀には第三子と書いてあるのだから清寧が第三子
葛城韓媛は円大臣が殺された後で雄略の妻になっているし
すぐに清寧を懐妊したとも書いてないのだから
星川と磐城の弟が正しくて記紀を否定する理由はない
自分の都合の悪いところだけ記紀を全否定する奴だなw >>223
天武は直系相続なんて定めてないと思うが
自分の十人の皇子を鵜野皇后に一人ずつ抱きしめさせて
われらは皆腹違いの兄弟なれども
皇后を母だと思い皆等しい扱い扱いを受けますなんてやらせてるし
晩年には第三子の大津皇子を政治に参加させてるよね >自分の都合の悪いところだけ記紀を全否定する奴だなw
お互い様でしょ
あなたは、雄略三年に自殺した皇女の記述は無視する気?
母親が韓媛なら、即位前に妃になってなきゃおかしいよ?
韓媛の父親の円大臣も、記紀の記述信じると
五十年以上、政権の中枢にいることになってしまうしね
ぶっちゃけ雄略、安康も允恭の皇后腹の子だとすると疑問は多いよ
允恭は在位四十年超えてんだから
その皇后所生の皇子なら、父親の在位中に有力な后迎えて子供つくってるはず
でも、安康、雄略の兄弟が有力な后を迎えるのは允恭の死後
おかしいと思わない? ↑記紀の記述って、全部信じたら絶対矛盾が出る
・安康、雄略は允恭の子ではない傍系王族であるか、少なくとも皇后所生ではない
・允恭の在位は四十年以上ではなく、もっと短い
・安康、雄略は即位前に有力な后との間に子供を設けている
少なくとも↑のどれかでないと、つじつまが合わないと思うんだけどねえ >>229
ん?
君が清寧を第一子に改竄するほどの記紀改竄をやった奴がこのスレにいたか?
雄略3年に自殺した𣑥幡皇女と清寧天皇の出生に何の関係が?
酷い勘違いをしているようだが𣑥幡皇女に子はなく
葛城韓媛は雄略天皇の皇后ではない。
清寧天皇が兄2人を超えて即位した矛盾を言っているのかもしれないが
葛城氏は多くの天皇を輩出した天皇家の母系一族で
吉備の豪族の娘など相手にならなかったからというのは通説。
雄略、安康は皇后腹だが兄弟順が後。
河内王朝では息長氏や葛城氏が皇后にたてられるなど
皇族出身の有力后を迎えることが即位の条件にはなっていなかった。 >>230
皇族出身の有力皇后と近親結婚することが即位の条件になったのは
継体以降だよ >>231
𣑥幡皇女の母親は韓媛ではないの?
もし韓媛の生んだ子なら、雄略即位前に生んでないとおかしくない?
雄略三年に斎宮になってるんだから
皇女自殺事件が雄略三年じゃなくて、もっと後のはずだけど
雄略三年のこととして書いてある
>また、雄略天皇の皇女で、斎宮である栲幡姫皇女(稚足姫皇女)が、
>湯人(ゆえ:皇子女の沐浴等に仕える役職)の盧城部連武彦の子供を妊娠したと、
>阿閇臣国見に讒言され、無実を訴えるため自殺した事件が雄略天皇紀3年4月条に載っている。
>皇女の母である葛城韓媛が父の葛城円大臣から即位前の雄略天皇に、
>妃として献ぜられたとする記事より約3年後のこととなり、
>献ぜられる前に韓媛が皇女を産んでいないと年代が合わない。
>むしろ、上記讒言事件は、外宮の設立と年代が近かったのではないかと推測される。
>尚、阿閇臣国見は、讒言が誤りだと判明した後、伊勢神宮では無く、石上神宮に逃げ込んでいる。 >>231
即位の条件が有力な妃がいるってことを言ってるんじゃなくて
在位の長い天皇の皇后腹の皇子なら、有力豪族が娘を嫁がせてるだろうって言いたいんだが
第一子じゃないけど
そりゃ安康も雄略も第一子じゃないけどね
上にいる木梨軽皇子だけなら、彼らにも出番が回ってくる可能性はあった
(境黒彦、八坂白彦が同母兄だとすると、それを超えて即位したことになるが)
允恭の在位四十年以上は、疑問だと思ってる
これを信じると、韓媛の父親の円大臣が五十年以上政権に参画していることになるし
(韓媛は何歳だよ、円大臣は何歳だよって話) 武烈も30代で即位したと思ってんの?
その姉の手白香皇女や橘仲皇女は高齢出産? 木梨軽皇子の事件が、允恭24年なら、その後、允恭が亡くなるまで
二十年近く、皇太子は空位だったのか?これも不自然でしょ
木梨軽皇子がスキャンダルで廃嫡されたなら
同母の弟が、立太子しないのはなぜ?
実際は、この間隔はもっと短いんじゃない? >>235
継体が大和入りしてから、手白香と結婚していたんなら
高齢出産していることになるんじゃない?
私は、それは疑問だと思ってるけど
清寧、武烈と若年のトップで混乱したから
継体以降、三十歳即位を慣例化したんじゃない?
あとね、武烈=雄略だって説もあるよ
雄略の皇后の草香幡梭姫皇女が、履中の皇后と同一人物説もあるし
似たような名前の皇族が出てくるってことは、系譜が混乱して伝わってるんでしょ 仁賢と顕宗の記述もおとぎ話としか思えないっしょ
その子供ってことになってる武烈って 日本書紀の編纂者は、神功皇后=卑弥呼と考えていたふしがあり
そのために、120年分引き延ばしているって指摘がされている
不自然に長い在位の天皇がいたり、空白期があったりするのは
そのせいではないか?
応神〜武烈の部分は、実際はもっと短いはず 天智天武のスレなのに、何で継体以前の話してるんだ?
スレタイも読めないバカどもはよそへ池 武烈は、実在したかすら疑っている人がいるな
名前も雄略や仁徳からのもじりだし まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>241
つまりは若くても即位できたってことだよね。 >>242
もじりは大勢いるでしょw
欽明天皇の実母は実在しなかった説の人? >>246
前王朝に属してはいるけど、系譜は疑問だと思う
雄略の後は、自称大王を担いだ抗争状態だったと思っているけどね
雄略の死後、実子が若ければ、年長者がまったをかけるはずだし
実際、記紀ではライバルが全滅していた訳じゃなかった話になってる
記紀の記述信じるなら仁賢、顕宗の方が清寧より年上になるし
仁賢、顕宗が清寧を放伐して即位した可能性だってあると思うよ そういえば黒岩重吾は、武烈は雄略の子説だったな
仁賢、顕宗の母親は、葛城氏だけど
雄略が葛城氏を滅ぼしたのも、葛城の館にいる市辺押磐の遺児を
始末したかったから、では?
取り逃がしたみたいだけどね
その時点で、すでに生まれていたなら
雄略七年以降に生まれた、雄略の息子より
仁賢、顕宗は年上のはずなんだ
雄略が死んだ、もしくは病床についた時点で
抗争が始まったんじゃないかと
皇位につくためにライバルを殺しまくったら
自分が元気なうちは抑えられても
子供が若くて、自分が死んだら、同じことが繰り返されることになる >>245
何が「つまり」なの?
武烈が即位しなきゃ誰が即位してたのか答えてよ 考えてみると壬申の乱が天皇が陣頭指揮を取った最後の戦争なんだよね。これ以降、天皇の権威が揺らぐことは無かった訳だし、正に古代最大のビッグイベントだったわけだ。 >>250
大友即位説?
即位は、してないんじゃないかって説の方が有力だと思っていたが
大海人も、乱の終結後の即位だし
藤原仲麻呂の乱は、孝謙上皇が指揮取ってた可能性高いと思う
結構、手際がいいよ >>250
> 考えてみると壬申の乱が天皇が陣頭指揮を取った最後の戦争なんだよね。
その前で、天皇本人が出陣したケースというと、どの戦乱があるだろうか? >>250
壬申の乱の時に大海人皇子は即位していないよ
朝廷のある近江を攻めた反逆者 >>251
wikipediaを真に受けるなよw
江戸時代から明治、戦前、戦後にかけて一貫してもっとも有力だったのが称制説。
称制だから「即位していなかった」のではなく
称制だから「事実上の天皇だった」ということだぞ >>255
大友皇子称制だったかどうかは大友皇子が皇太子だったかどうかが焦点になってくると思う
日本書紀では天智天皇の皇太弟は大海人皇子であったとしており
そうなると皇太子ですらない大友皇子は称制を取れなくなる
だからと言って吉野にこもった大海人皇子が近江朝廷の政治を行っていたわけでもないから
吉野にこもる大海人皇子が天智天皇に皇后倭姫王の即位を説いている通り
倭姫王の皇后称制だった可能性まである
そもそも大海人皇子皇太弟は壬申の乱の勝利による書き換えで
大友皇子が皇太子だったという説もある(懐風藻など)
書き換えということになると大友皇子即位説もありうる話となる
ちなみに大友皇子は明治3年に弘文天皇の名が送られて歴代天皇に入れられたから
明治以降は天皇になっている 皇后倭姫王が事実上の天皇代行、
大友皇子が太政大臣として執政していた可能性もあるなあ。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>256
あれもありうる、これもありうるって理論上の話でしょ、そんなのは当然わかってるっつの
>>255で書いたのはwikipediaの「通説は〜〜」っていう認識がおかしいって話。
通説それ自体が正しいかどうかの話をしてるのではない。 >>256
日本書紀が、時の政権に都合よく書かれている可能性もあるが
懐風藻にも編纂者のベクトルがかかってる可能性はあるよ
確定はしていないが、有力な説のように編纂者が淡海御船なら
葛野王の孫で大友皇子の曾孫なんだから
自分の出自を飾るために、先祖の部分を盛っていないとは言えない >>261
「万葉集」も大友皇子を皇太子としている 衝撃的事実。
朝鮮人がいなくなれば日本の重犯罪は無くなる!!!!!!!
日本刑務所の囚人内訳
32%が 朝鮮韓国人
21%が 帰化人
33%が 中国人
11%が 他外国人
3%が 日本人
RT たとえ、殺人を犯しても1人だけで初犯なら死刑にはならない。
死刑になるとしたら2人以上殺して、なおかつ凶悪冷酷非情な場合だ。
死刑執行待ちリストが全員在日ばかりになり、
日本人が1人も入っていない年が何年もあるらしい。 >>230
いやそれは3つとも同時に成り立つんでは
ただし安康天皇にはもともと皇子いたっけ? >>266
そういえば安康には実子がいた、とは書かれていないね
采女とかの産んだ子供はいたかもしれないが
有力な出自の妃に子供がいたのは、雄略だね
允恭が倭の五王の済なら、在位は長くても24年てとこだね 俺は別に済と允恭が同一人物と思ってないから問題ない 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった r-=ニ二二ニ=-、
∠ イ|/ レヘ|ヘ!\!ヘ
_ム <●><●>
ヾユ /\/
^i / \ カッパじゃ、カッパの仕業じゃ!
/i\  ̄▽ ̄ ̄
/ |__|.| |
|<_| |/ / |
| |_| | 〈 |\_
|<_|.| | | |\ 、f !
\__|| | | | Yン 天皇自体朝鮮人ではないの?
なかの人という意味
中華は中華で他にいるでしょ
中国のほうから渡って来た人々 わかりやすい話
アメリカの人が、金 □□(漢字表記)と名乗っても、
なかの人はアメリカ人(先住、開拓民なのかは問わず) 壬申の乱で協力の度合いが大きかった伊勢に義理立てする目的で主神に昇格させたのがアマテラスだよね 天智天皇も壬申の乱も天武天皇もみんな阿波国内の出来事
奈良大和の始まりは持統天皇の藤原京から 藤原京の前身(新城)を造営していたのは天武天皇でないと? 天武天皇が飛鳥浄御原宮の周囲に建造した倭京と
持統天皇が建造した新益京(藤原京)は別物なんじゃ? >>279
目まぐるしく遷都を繰り返したのは、唐軍の侵攻に備えた為
慌てぶりが窺われる 臨海部から内陸部へ遷都 >>280
しかし、あのへんまで唐軍が攻めてくる戦況になれば
どこに逃げてもダメだろう。 >>281
>しかし、あのへんまで唐軍が攻めてくる戦況になれば
>どこに逃げてもダメだろう。
内陸へ誘い込んで唐水軍を撃退する作戦 地の利を生かす作戦 >>279
藤原京下層から天武朝に遡る先行条坊道路が見つかっていて、
これが天武紀の「新城」に関わるものであろうと考えられている。 >>283
それが仮に天武朝の先行条坊道路であったとしても
唐軍の侵攻に備えた、臨海部から内陸部へ遷都に変わりはない なぜ四国の内陸部に遷さなかった?
それと大和に来る前の阿波の宮都遺跡を具体的に示してくれ。 残念ながら四国には広い盆地がない あれば四国の内陸へ遷都しただろう
>>286で「たぶん」と書いたのは阿波の宮都遺跡が現在発見されていないから
飛鳥浄御原宮を小松島市に比定 1回目の藤原宮遷都を吉野川市鴨島町
2回目の藤原宮遷都を奈良に比定する説がある
だから「たぶん」 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>280
唐との国交回復前に藤原京に腰据えて堂々としちゃうのって早すぎね?
もう唐のことは関係なく、在来豪族との力関係だったんじゃねえのかな遷都は
クーデターで実権を握った天智天皇は色々と敵が多かったから近江とかで新しい政府作りたかったんだろ
で、吉野あたりでじっくり時間をかけた天武天皇の方がそこら辺の権力掌握具合がうまかったと 倭国から日本に国名かえたり、初めて天皇という称号使ったりしたのは
最近の有力説では天武天皇で確定ってことでいいんだよな? 天武と明治は重なる
露骨に怪しいけどこの時期この天皇しかないだろ、って感じはする >>292
大化改新がめざした律令国家は既得権益を失いたくない大貴族層が反対
本来なら天智と鎌足の後継である皇室と中臣氏がそれらを抑えて改革を断行すべきだったが
実際には皇室と中臣(鎌足の従兄弟の金)に蘇我(傍系)・巨勢・紀が加わって利権を独占
改革が骨抜きにされたり停滞したりしていたのが近江朝廷の内実
下層豪族層はむしろ律令大賛成、で彼らが天武支持に回った 天武って何者なのかな
天智は671年に46歳で死んでるから627年生まれ
天武は686年に神皇正統記では73歳、本朝皇胤紹運録では65歳で死亡
生まれた年は、神皇正統記では614年、本朝皇胤紹運録では622年
これ見ると天武が年長だと分かる
書紀には天智と同母弟と書いてるが、お互いの娘を后妃にしたり
自分の子の妃にしている、とても兄弟とは思えないな
まるで政敵同士の和平工作としての政略結婚の感じが強いよな
壬申の乱も敵同士と考えると納得できる
しかし天武って何者なのか気になるなあ まあせいぜい夢でも見てなさい。
670-80年頃の政敵?・他人?同士が、
700-10年代の律令国家・歴史書編纂で同母兄弟になったなんて、
本気で思ってるの? >本気で思ってるの?
素直な見解だと思うけど
大体真人って姓持ってる時点で異常でしょ
同母兄弟でこれほど濃く婚姻してるのも異常だし
歴史書編纂で同母兄弟としたのは藤原氏の都合でしょ
藤原氏的に天武の正体がバレるのが嫌だったんじゃないの 真人は姓じゃないよ。諡号の一部。あの諡号は「大海人」を飾り立てたもの。
歴史書編纂の時に藤原氏は天武の正体を知ってたけど、ほかの人は知らなかったの?
当時の人は、天智−天武間の濃厚な婚姻を異常なものと認識してたと思う? >真人は姓じゃないよ
天武が制定した八色の姓では真人を最上位に持ってきてるね
これは偶然ではないと思うけど
当時の人が天武正体を知っていたかと言う問いは当然知っていたと思うよ
他人であれば異常な婚姻とは思ってなかったんじゃないの
大体書紀に合わせて豪族の墓誌を書き換えさせてるくらいだから
藤原氏に都合の悪い事は当然書かれてないよね >これは偶然ではないと思うけど
偶然ではないとすると何だというの?
>当時の人が天武正体を知っていたかと言う問いは当然知っていたと思うよ
>他人であれば異常な婚姻とは思ってなかったんじゃないの
正体が史書と違うのは天武だけなのかな。ほかの方々はどうなのかな?
>大体書紀に合わせて豪族の墓誌を書き換えさせてる
これ何のこと?
>藤原氏に都合の悪い事は当然書かれてない
天武があなたの考える出自どおりだと藤原氏にとって都合の悪いこととは? 突っ込んでくるねw
天淳中原澚真人これ天武の名でしょ、真人ってどう考えても姓でしょ
金石文の小野毛人墓誌を調べてみな、書紀とかなり違う事が分かるよ
和銅元年、708年山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首さぬは、また罪なふこと初めの如くせよ
この禁書って藤原氏に都合の悪い書物でしょ
天武の正体は不明だね、藤原氏と関係が深い人物とは思うけど >真人ってどう考えても姓でしょ
どう考えてもってことはないでしょ。
粟田真人、紀真人、巨勢真人、上毛野真人……この人らの真人は姓なのかね。
>金石文の小野毛人墓誌を調べてみな、書紀とかなり違う事が分かるよ
小野毛人墓誌って書紀に合わせて書き換えられたと考えてるの?
>この禁書って藤原氏に都合の悪い書物でしょ
どこの文脈からそう読めるのか 天智と天武の関係はここ2〜3日でネットで読んで何か分かったわ 乙巳の変の解釈もケネディ暗殺や伊藤博文暗殺のどの説を信じるタイプかで変わってくるよね 小野毛人の小野は和風に改めたもので本来は蘇毛人なんだよな 小野毛人(蘇毛人)の記録が少ないのは
蘇我毛人と混同されたからという説もある >>298-304
あのね、真人ってのは道教の仙人の階級で、それを訓読みして日本語化させたもの
これを天武が自分の号に転用、カバネの一つにも転用した
だから号でもありカバネでもある
号だからカバネではないとか、カバネだから号ではない、なんていうのは間違いだぞ ここで言ってるのは、
「天渟中原瀛真人天皇」の「真人」が
号なのかカバネなのか、って話だよ。 >>99
亀だけど、
面白いけどホモは苦手
でも面白い
でもホモはいや
でもやっぱ面白い 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>311
天武天皇の号の天渟中原瀛真人は
「天」も「中原」も「瀛」も「真人」もわかるんだが
「渟」だけがわからない。この字は「ぬま=沼」の意味なんだが
なぜここに沼が出てくるのか??? 水鳥のすだくみ沼を都となしたからじゃない?
(天)渟中原が(飛鳥)浄御原に対応しているであろうことは通説。 >>317
渟中原=浄御原って説はしってるけど
そんなら「天浄御原瀛真人」とか「天浄中原瀛真人」とかになりそうじゃん
なんで「都になる前の」巣だく水沼から名前つけるのよ? 沼って根の国の入り口だから 根の国の意味で使ってるのでは? 単に「天界の沼の中にある島に住まう真人」=神って意味でないの? 天界の沼?w
天空を海に喩えて大海の神仙島(瀛洲)に住む人というならわかるけど
それなら「海」とか「洋」とかいいそうじゃん
「沼」って小さくね? なんか解決案ないかな、
天渟中原瀛真人の「渟」の謎について 両方海でいいんじゃないの?
天海中原海真人って事じゃ 田原総一郎は日本の歴史を理解していないから
彼の言動にいちいち反応する必要なし >>325
でも、例えであって実際の海じゃあないから 海をわざわざ沼に喩える意味なり趣旨なりってのは何なのよ? そんなら「沼が海の喩えだ」ってのも現代人の妄想じゃねぇかよw >>317
浄御原=都になる前の元の名(状態)が「御沼」か >>331
なんで都のなる前の泥沼の状態を諡号にするんだよ
ありえんだろうが 古事記でイザナミとイザナギが原始の混沌とした海でオノゴロ島を作るのに使ったのが天の沼矛だな >>180
弥生古墳時代の墳墓から発掘された女酋長の遺骨の中には弓矢で打ち抜かれたり明らかに処刑によるものがいくつも発掘されてるが >>333
じゃなんで日本書紀は「瓊矛」と書いて「渟矛」と書かないの?
伊邪那岐・伊邪那美を「国生みの神」とはいっても「泥沼の神」とは言わないでしょ
浄御原天皇ならともかく渟中原天皇という理由の説明には相変わらずなってないね >>334
具体的にどれ?
弥生古墳の酋長の墓で男女の性別が明らかにされるほどに
保存状態の良いものが少ないと思うが 青谷上寺地遺跡か平戸島根獅子遺跡のことだろう
そこまで時代を遡らなくても恵美押勝の乱では藤原仲麻呂が妻子ともども殺戮されているが NHKの大河に良い題材だと思うがなあ
たしかに婦女子にはあまり一般的でないのは判るが、
額田王との三角関係や高市皇子と十市皇女との悲恋(?)
など、婦女子向けに面白く脚色出来るでしょ。
題材も平家物語で天皇家のどろどろ放送したんだから今更問題ないだろうし。
その際、鵜野讃良皇女は天海 祐希が良い。少し年だけど、若い女優だと貫禄が出ない。 【ウヨク土下座】 防衛相 対 露首相 【サヨク逆転勝】
中谷防衛相 UFOの発見事例ない
以前、空自の元空将が、自衛隊機の戦闘機が何度もUFOに遭遇していると書いたことがある。
それ以来、まともな雑誌や新聞のコメントは同氏のインタビューを掲載しなくなった。以前から、色々と問題のある空将だった。
http://www.kamiura.com/whatsnew/continues_3604.html
竹下雅敏 「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」
メドヴェージェフ
宇宙人側からの申し入れは、とにかく核の利用と戦争をやめなさい、もう一つは宇宙人の存在を公表しなさい。
つけ足したのが、60年の猶予を与えましよう、2014年には発表しなければならなかったんですね、宇宙人の存在を。
ロシアという大国の首相がね、あれは冗談だよでは済まないですね、しかも2回も言ってるんだからね。
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKetUkq8
2歳を過ぎたころ「放射能があるから砂は触れない」「葉っぱは触っちゃだめ」 / りうなちゃんは去年の暮れ、脳腫瘍のために亡くなった。
https://twitter.com/Tom oyaMorishita/status/648628684748816384
UFOや核エネルギーの放出を見ることはエーテル視力を持つ子供たちがどんどん生まれてくるにつれて次第に生じるでしょう。
マイト★レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
14歳以上のすべての人々はマイト★レーヤの言葉を彼らのマインドの中で、自国語で聞くでしょう。
テレパシーによる世界演説は英国BBCが放送
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk >>338
大河じゃないが、昔、テレ朝が開局何十周年記念番組として
井上靖原作の「額田女王」をドラマ化したよ
主演は、岩下志麻だった
NHKでも大化の改新をドラマ化したりしたけど
あまり古代物のドラマ化が少ないのは、理由があるのでは
戦国以前のものは、数字が取りにくい、とか
その割に金がかかるとか
史料が少なくてノウハウもないから難しい、とか
古代物をやるのは稀だから、セットも衣装も一回こっきりになるし でも真田の赤揃の鎧でも新規製作するわけだし、
この時代の鎧冑なんて質素だし。
そんなに制作費が違うとも思えないが。 合戦シーンだけでドラマ作るつもり?
女性の衣装とか特殊すぎる 女性の服なんて麻や綿の布巻きつけたりチョチョと縫って被っているだけだろw
勾玉なんて100均ので十分
まぁ武器類は多少かね掛かるな。 飛鳥時代馬鹿にしすぎな奴に、この時代語られてもね
卑弥呼の時代と勘違いしてるだろ
高松塚古墳の壁画みたいな衣装、他じゃ使えないし
天皇や皇族は絹物着てるだろ もう一つ、木綿は存在しないので、麻か絹だから
貴族は絹物着てるよ >>30 百済から物凄い数の王侯貴族文武官良民が亡命して来て一大勢力を形成してしまったのでやっぱりもう一遍送り還すかこいつ等とかなって百済再興を支援してしまった可能性が大きいよ 藤原氏の欺瞞と戊辰戦争の際に天壌無窮の皇運を演出するとの為に唐に西日本の各地の要衝を占領されて居た史実が抹消されて居る事が太平洋戦争の惨敗を招いた
現在では内外患勢力が日本を半島乃至大陸に対する一方的な侵略者で在るかの様に喧伝する為にその隠事をトリックとして用いて居る
劉仁軌は和睦後に信頼醸成の為に大和まで来て豪族達との宴会に参加してどんちゃん騒ぎして好評裡に帰ったそうだが
当時の世情で唐本国からタンフォース1一隻で瀬戸内海通って来て片手振りながらタラップを警戒に駈け下りて「ハーイテンチィハウドゥユードゥー?」とか互いに肩叩きながらにこやかに天智天皇と握手してたと思うかい?
大阪湾に至るまで要所要衝をは唐軍が全部占領して劉仁軌の乗ったタンフォース1を護衛して居たんだよ
文科省はいつまで主権者の子女に虚偽を刷り込み続けるつもりなのかね? >>336
むしろ性別が判別できないほうが少ないよ
腕一本でも残ってたら余裕で判別できるからね >>348
百済からの亡命者は白村江の戦いの後な
あと文武百官のほとんどは唐に連れて行かれて日本にはほとんど来ていない >>349
こういうこと言う人ってそもそも百済征服が高句麗征服の前段作戦ってのが分かってないのかな
唐側としては新羅の救援と半島南部を高句麗戦の為に基地化が出来ればいい訳だから、百済が完全に滅亡した以上更に倭国と揉めても利益が無い
余計な事やってる暇があったら対高句麗戦の準備にリソースをつぎ込むだろうね
と言うか過度な要求して倭国と戦争でも始めた日にゃ高句麗軍が喜んで背後を襲いに来るだろ >>353
唐の拡大政策を過小評価してない?実質上、はじめての帝国だよ。
漢や魏のようにちょこっと征伐してやればいいなんて考えてない。
紫微国化を経て朝鮮半島を完全に領土化しようとしたんだよ。
だから、白村江の敗戦国である倭国が無事だったとはどうしても思えないんだよね。
349さんのような発想って(ぶっ飛んでるのはちょっとだけど…)、あながち否定できないと思うよ。
実際に、白村江の戦い以降に遣唐使が頻繁になり、唐風の律令制や国家仏教が本格的に入ってくるわけだし、唐人官僚も頻繁に来てる。
地政学的に領土化は無理でも、戦前の中国みたいに租界があったり、内政干渉があったり、半植民地的な状況だった可能性もあると思う。
また、天武天皇は遣唐使を送ってないのに、遣新羅使は頻繁に送ってることから、壬申の乱と羅唐戦争が無関係だとは考えにくいんだよなあ。 大和朝廷にとって百済は重荷だった?
百済が仲良くしていたのは九州の倭人であり、大和は基本的に新羅とは仲が良かった? >>354
> また、天武天皇は遣唐使を送ってないのに、遣新羅使は頻繁に送ってることから、
壬申の乱と羅唐戦争が無関係だとは考えにくいんだよなあ。
なるほど 羅唐戦争は唐の水軍が弱すぎ。
あれは将の能力が低かったのか? >>355
縄文時代から出雲と後に新羅になる地域は交易があるからな もしや壬申の乱は百済を完全に諦めて列島の統一に専念したい勢力と百済を諦められない勢力との戦いなのか? 壬申の乱は百済大友と新羅大海人の戦いで新羅が勝って新羅の天武天皇の時代になった 天智と天武が兄弟じゃないとか。天武は自分を周王に例えてたから革命だ。
みたいなのはどこまで信じられてるの? 天智の娘を4人も嫁にするのは不自然だとか聞いた事があるが じゃあ天武は何処の出身なんだ?
もしや継体天皇レベル、いやそれ以上に前王朝と血筋が離れてるとか? 天武は、高向王の息子、漢皇子という説あり。
高向王は百済王族。 彼女が皇極天皇となる前は、当初は高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産んだ。
他方、高向王とは用明天皇の皇子の高向皇子、つまり聖徳太子の末弟の蜂子皇子などと同じ父を持ち、高向王はその子なので用明天皇の孫になります。またの名を高向玄理(くろまろ)と名乗り、離婚し後に渡唐して客死した。
もっとも、皇極天皇に前夫がいた事実は公式記録としては容認できかねる事なので、多くは詳細を避け、或いは其の存在を否定している。だけれども彼女が単に吉備姫王女の娘・イカシヒタラシ姫として皇族の高向玄理と新婚生活を送ったのは、現在の大阪府河内長野市であった。
此処には今も高向(たこう・たくが)と云う地区があって、蘇我氏や物部氏の本拠地であり、仏教渡来と飛鳥時代以前の本当の歴史が分かる所です。 高向玄理が高向王というのは小林恵子説だが、玄理は当時の有力官人で小野妹子に従って608年の第三次遣隋使
に加わり、640年に帰国している。つまり、宝皇女の初婚時頃にも大海人皇子の推定出生時頃にも、日本に戻ってい
た痕跡はない。
608年は宝皇女は14歳であり、子をもうける年でもなく、学生の玄理を結婚相手にしなければならない立場にもないこ
とから、小林説は一般には否定されている。 お前ら賢いな!マジで尊敬するわ。
俺は、石川大伴村に住む飛鳥時代好きです。
ヨロシクね! 天武9年(680)7月に死去した舎人王や
朱鳥元年(686)9月の天武殯宮に諸王事を誄した伊勢王は
漢皇子の子ではないかと思ってる。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>368
>石川大伴村
おー、マニアックな場所に住んでるねーw >>372
壬申の乱の頃には既にあった神社や仏閣は残存しているの?
もちろん当時の建築物は残っていないだろうが
境内の場所がそのままなら、往時をしのべると思うね。
石上神宮とか葛城一言主神社なんかはそうらしいが。 BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 昨晩吹替えカットされ捲りのロビンフッドを眺めて居たらゴドフリーが鎌足不比等状態でワロタ >>352 百済は一度半島から追い落とされてからヤマトの支援を受けて釜山の辺りに上陸して反攻し白村江会戦に至っているよ >>356 唐の西域で騒擾が起きて軍団の大半が帰国してしまったので後ろ盾を失った弘文天皇(大友皇子の大友って天智から大友皇子を引き離して洗脳教育してた唐の使臣の事だろうな)が反唐勢力の結集に成功した叔父にぶっ殺されたのが壬申の乱
百済軍の残党も両陣営に別れて戦って居る有名処だと智尊将軍とか
藤原氏は百済人だから腸煮えくり返りながら新羅を支援して排唐を支援して居ただろうが天皇が天武持統までは未だはっきりヤマトだから従うしか無かった藤原氏が皇胤を乗っ取るにはこの後数世代を要して居る 鬼室福信が殺されずに兵権を掌握していたケースを想定。
この場合でも百済は滅亡したと思うかい? 現在の日本国の置かれた状況は壬申の乱前夜にほぼ等しいから
女帝なんか認めたらあっという間にCIA下請け在日に皇統を乗っ取られるのは目に見えてる
悠仁様一択で乗り切れなかったら皇統そのものを潔斎して神位に揚げ斎王制に移行した方が歴史と安全保障をより確実に担保できるよ >>379 国家としての百済は滅亡してるよ藤鎌足は百済がヤマトに援兵してもらう為に送り込んだ間者で自分が実権を握ったヤマト王権の方が大事に為り百済王族とは桓武の百済姫娶りまで確執が有った >>130 : 高市皇子と聞くと、なぜか高市早苗議員を思い出すw
高市総務大臣が、“たけち”を名乗らず“たかいち”を
名乗っていることに違和感を感じているのは私だけでしょうか? >>225 : 星川と磐城って稚媛の連れ子なんじゃないの?
眉輪王も連れ子で宮中で育ってるでしょ
眉輪王は連れ子でも実父が皇子だから王を名乗っている。
星川皇子と磐城皇子が稚媛の連れ子なら吉備氏の子息となり
皇子を名乗れるはずはない。
天皇家の連綿たる歴史の中でもそのような事例は一切出てこない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>353 唐は半島の南端から順繰りに高句麗を攻めた訳では無い
元々唐と半島三国との覇権抗争は
唐&百済 VS, 高句麗&新羅
が主な連衡で戦って居たんだが百済は高句麗が滅びない方が自国が直接唐の興味や利益の対象とならないだろうと考えて屡々八百長戦をやっていたので唐に信用されなくなった
唐は高句麗を次第に圧倒し7世紀半ばまでには現在の満州に押し込めて朝鮮半島には付け根から侵入して南進して来たんだよ
すると新羅は唐にジャンピング土下座して寝返り(勿論ずっと以前から高句麗から離反させる為の工作は為されて居ただろうが)共に百済を攻めて滅亡させたが史実
だから日本語では藤原氏を筆頭とする百済系の泣き言「シラギ(漢字音読でも新羅だけならシルラ、シラとしか読めないが新羅鬼、新羅野郎ならシルラギ、シラギになる)」が標準語になっているんだよ〜んw >>353 まあこうだっただろうね
@唐が遂に高句麗を圧倒して満州北部に押し込め朝鮮半島に進入
A新羅ジャンピング土下座
B新羅「この際百済を片付けやしょう」唐「存分に働いてみせよ」
C百済滅亡
Dヤマト「唐とは争わない」唐「そうだろうね了解」
➅唐「じゃちょっと高句麗に留め刺しに行くんで軍団北に動かすわ」新羅「へい後は看て置きますんでいってらっしゃいませ」
F亡命百済「唐が居なくなった旧領を取り替えそう!」ヤマト「えー」
G亡命百済「ウーッ!キーッ!手伝わないならヤマトで暴れちゃうぞー!」ヤマト「しょうがないなーじゃあ行って来いよ(´・ω・`)」
➈百済ヤマト連合軍朝鮮半島侵攻
I新羅「キャー唐様助けてー」
J白村江会戦で百済王子がアホ突出したせいで亡国級の大敗
K唐「ヤマトもクダラ同様信用できないわ皇太子を人質に出せ」天智「はいシクシク(皇子を難波の唐公使に差し出す→唐傀儡弘文天皇即位へ)」 >>385
>唐&百済 VS, 高句麗&新羅
なんかもうこの時点でウンザリなんだけど、君じゃなくて他の人のためにソースだけ置いておくね。
旧唐書劉仁軌伝
仁軌曰「…主上欲呑滅高麗 先誅百濟 留兵鎮守 制其心腹」
(劉仁軌曰く、(略)主上は高句麗を滅ぼしたがっておられる。だから先に百済を誅し兵を留めてこれを守りその心腹を制したのだ。)
なおこの直前に「蘇定方奉詔伐高麗 進圍平壤 不克而還(蘇定方が詔を奉じて高句麗を討ち進んで平壌を囲んだが勝てずして帰った)。」
とあり、蘇定方の高句麗への攻撃は失敗した事がわかる。
資治通鑑巻第二百一唐紀十七 麟コ元年(664)
「檢校熊津都督劉仁軌上言。…陛下留兵海外 欲殄滅高麗。百濟 高麗 舊相黨援 倭人雖遠 亦共爲影響 若無鎭兵 還成一國。
(検校熊津都督劉仁軌が上言した。(略)陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の敵国に戻ってしまいます。) >>387 舊相黨援て当時宜に応じて助け合ってるって意味であいつら八百長してやがるの方が正しい解釈じゃんw昔からの同盟国って原文だと何処w? >>387 百済滅亡が660年で高句麗滅亡が668年だよ?
全然高句麗に歯が立たない処から8年で滅ぼせる訳無いじゃんwww粗方高句麗をやり込めてから百済新羅も呑もうとしてたんだよ 高句麗がイケイケの頃に朝鮮半島に南進した際に百済が滅びないで済んだのは倭国と隋唐とから受けた支援のお蔭だよw >蘇定方の高句麗への攻撃は失敗した事がわかる
その回は100%は勝てなかったけど唐から出征して平壌まで往ってるんだったら高句麗はもうヨレヨレだね
百済を攻められたんなら松禾郡なんかも占拠支配していただろう >>387 >主上欲呑滅高麗 先誅百濟(皇帝には高句麗を呑み滅ぼしたいので先ず百済を誅す)
高句麗には皆殺しで百済には懲らしめるって云ってるんですけどつまり既に百済は唐の冊を受けてるって事ですよねw? >>387 >〜百済と高麗は昔からの同盟国で〜
その意訳は
リッパートに斬り付けたり
THAAD配備にゴネてみたり
北京の軍事ディスプレイに参席したり
同盟国を虚偽を用いてまで誹謗中傷して像を建てたり
他所には経済制裁を要求して置いて自分だけ好い顔をして支援物資を供給し続けて居る
大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国は昔からの同盟国ですって事と同じだろwそうなんですか? 取り敢えず>>387が原文をまともに精査せずに何処の誰が何のつもりで訳したかも判らない怪しい解説文を鵜呑みにして思考を組み立てて居る事だけは分かった >>387 いいか教えて遣るこうやって読むんだぞ
百 百済の百
濟 百済の済
高 高句麗の高
麗 高句麗の麗
舊 (時宜に)当して
相 相(互いに)
黨 堂々と(大っぴらに)←百済は自陣営に居る筈なのにおかしいだろってクレーム
援 援助して居る
解った?
Do you understand? >>387 あっと俺まで連られて間違えたいいか教えて遣るこうやって読むんだぞ
百 百済の百
濟 百済の済
高 高句麗の高
麗 高句麗の麗
舊 (互いに↓)当して(対戦して居ながら)
相 相(↑互いに)
黨 堂々と(大っぴらに)←百済は自陣営に居る筈なのにおかしいだろってクレーム
援 援助して居る
だった解ったかな? 唐 VS 高句麗&百済だったら百済についても諫めるだけじゃ無く高句麗に対してと同様ぶっ殺さないと釣り合いが取れなくておかしいよねぇ? 天智天皇は一旦は大海人皇子を次期天皇に指名したんだよね?年上を指名することなんてあるん? 天智天皇は病死ではなく、暗殺されたという説もあるんだよね。
狩猟に出かけたまま山中で行方不明になったという説。 天智と天武で王朝が変わったから歴史書を作らせたんじゃないの? >>401 トップは元の血筋と変わって無かったんだけど取り巻きがごそっと百済系藤原氏になっちゃってそいつらが主導権を握るに連れどんどん歴史書で捏造や焚書を重ねて行った
古事記日本書紀の頃は未だ神武以来の古参豪族が幾つも健在でまるきり嘘は書けなかったんで信用されてるでももう藤原写本しか残って無いw 近江朝廷サイドとしては
あらかじめ瀬田唐橋を焼き払っておいたほうが良かったのではないだろうか? >>388-396
これマジレスしたら負けなのかな
漢字の形すら見えて無いみたいだけど。
舊 「旧」の旧字。古い、もともとの意
黨 「党」の旧字。仲間、徒党を組んでいる意味。
つまり古くから仲間として援助し合っている(同盟している)という事。
上は唐軍が百済復興軍と戦っている最中、熊津で孤立したところに皇帝から「渡海して帰ってくるか、新羅王と合流しろ」と言われたが熊津を固守すると言った下り。
下は白村江の後の話で百済に駐留して鎮撫している時、将兵の待遇を改善するよう上奏したところ。
つまり攻略後に反乱の鎮圧をしている段階なので、冊封を受けてるだの八百長だの自陣営に居る筈だの根本的におかしい。
つうかお前、その口調歴史系板でコピペ爆撃繰り返してる基地外か?
あんな馬鹿が複数いるとか考えにくいんだけど。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>405 おお旧だったな済まん済まんwそうかでも例文指示が上下逆じゃね?
ところで百済って高句麗より出来たのが200年くらい後だし(温祚とかいうの神武天皇並みに長生き過ぎるだろw)
3〜4世紀の高句麗南進時には倭から援軍を受けて持ち堪えたり隋唐から冊を受けてたのは間違い無いよね? 檢校熊津都督劉仁軌上言。
「検校位にして熊津知事の劉仁軌が言上した(誰にだろうね?)」
…陛下留兵海外 欲殄滅高麗。
「…陛下は海外に兵を留め(たままにして置き) 高句麗を殲滅せんと欲しられている」
百濟 高麗 舊相黨援 倭人雖遠 亦共爲影響 若無鎭兵 還成一國。
「百済と高句麗は旧くには(百済が隋にそして唐に冊を受ける以前には)相互いに党を為して援け合っていたし 倭人は遠方に在るといえども また共に百済に影響を為し及ぼしており もし守備兵を置かなければ 『百済は倭と』一国に帰してしまうかも知れません」
最後はちょっと意地悪だけどw筋を考えたら高句麗は北方民族国で百済は倭人國だからそう読みたいね
ぶっちゃけ当時は唐の方が全然新興国で高句麗百済倭が纏めて一国に帰するなんて発想は東夷各国の王統の筋合い関係を解って居なかったとしか思えないね >>405 いやあ済まん済まん凄く大昔に舊(旧)か當(当)か字画不明って説明の本で読んだのを確認せずに書いたらうっかり混同してしまった >>409 ちょっと直させて貰うわ
百濟 高麗 舊相黨援 倭人雖遠 亦共爲影響 若無鎭兵 還成一國。
「百済についてですが
百済に対しては高句麗は旧くには(百済が隋にそして唐に冊を受ける以前には)相互いに党を為して援け合っていたし
倭人は遠方に在るといえども また共に百済に影響を為し及ぼしており もし守備兵を置かなければ 『百済は高句麗と』または『百済は倭と』一国に帰してしまうかも知れません」 >>411 再訂正
百濟 高麗 舊相黨援 倭人雖遠 亦共爲影響 若無鎭兵 還成一國。
「百済についてですが
百済に対しては高句麗は旧くには(百済が隋にそして唐に冊を受ける以前には)相互いに党を為して援け合っていたし
倭人は遠方に在るといえども また共に百済に影響を為し及ぼしており もし守備兵を置かなければ 『百済は倭と』一国に帰してしまうかも知れません」
やっぱり筋考えるとこうだわ 武人で在った劉仁軌の知識レベルまで勘案すると『東夷が一纏まりになってしまう』が正解だとは思うんだけどねー ニダ本には百済は高句麗の開祖の長男である温祚が建てたと在るらしいが
百済が出現するのは高句麗建国より400年は遅いから温祚には神武天皇並みの超人的長命疑惑が生じる
百済が百済の国号を名乗る以前のクダラ時代の200年間は典型的な弱小倭人国だったのにこれが勢力を拡大できたのは隋の冊を受けて装備の最新化を図れたからだし
(勿論隋滅亡後には唐の冊も受けて居る)
(他所から入った知恵者が200年掛けてクダラの政権の簒奪に成功したのかも知れないがそれでも他の倭人諸国に対しては7世紀の滅亡までクダラを名乗り続けた)
百済が最大版図を得た後に北部の領土を失い始めた頃にその地域を侵していたのは他ならぬ高句麗で在りその百済からの支援要請を受けて兵を出して居たのが倭や唐で在る
百済が扶余人国家で在るとする考え方は
高句麗に媚びていた時期の高句麗の侵攻を緩める為の言い訳がそのまま
高句麗側の国威発揚に用いられ記録に残されたのではとの考え方を駆逐し得ない 日本の建国を国号発布を根拠に現代から1300年前に規定しようとする連中が居るが
その論理で行くと百済も国号発布は現在の定説より200年程後代にずれてしまう
つまり温祚は4〜5世紀に於ける高句麗からの圧力を避ける為の隠れ蓑で
これに隠れた全く他所から来た寄生政治の巧い連中が
クダラ政権そして後代にはヤマト政権を簒奪して
なお表向きには地域の覇権王統の争いを演出して
自らは隠れ続けて居るのではないかとの疑念すら湧いて来るのである ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>15
「天智の妹」って誰のこと??
間人皇女のこと?
だったら天武には嫁いでないし、なんのこと?? 娘と勘違いじゃないですかね
兄の娘を4人も娶るのは不自然という意見は何度か聞いた事がありますし ……………………
上田電鉄別所線下之郷駅を出発するNHK大河ドラマ真田丸のラッピング電車1000系
https://www.youtube.com/watch?v=35CvByrgeIc
…………………… >>415 高句麗が扶余人なら百済は扶余人では無く百済が扶余人なら高句麗が扶余人では有り得ない 皇室の菩提寺には天武系譜の天皇の位牌が
そっくり抜けてる。
これが天皇家の答えだね。
皇室そのものが天武天皇は天皇と認めていない。 天智天皇は、まだ政治を知らない年若い(若者を子どもあつかいして甘やかしていた奈良時代、平安時代までの感覚で言えばほぼ子どもとも言える年頃に)、
崇高な志を持った中臣鎌足と母皇極天皇の政治改革に付き合わされ、残酷な暗殺事件の場面にも立ち会わされた。
その後、母と中臣鎌足が改革を推し進める間、
政界(奈良)から遠く離れた大阪の地で、弟、妹とともに、叔父(孝徳天皇)を
なだめ監視する役目に専念する。
「天皇中心の、中央集権国家づくり」という偉大な事業をすすめたのは、
7世紀半ばには、母皇極上皇と中臣鎌足を中心とする聖徳太子崇拝者たちだった。
孝徳天皇とその妻、また後の天智天皇、天武天皇は、難波で政治改革とは無縁な暮らしを送っていた。
孝徳天皇を大阪で苛め抜き、孤独死させた後、天智天皇、天武天皇、間人皇女の三人は、
母、皇極上皇(斉明天皇)と中臣鎌足の政治改革を本格的に手伝うことになる。
偉大な改革者、日本国の創設者ともいえる母皇極上皇(斉明天皇)の死後、
後を継ぐ勇気がなかなか持てなかった中大兄皇子も、7年ほどかけて
近江大津宮を整えるなど、入念な準備の跡、やっとで即位の決意を固め、天智天皇となった。
母と中臣鎌足が始めた、あまりにも大規模かつ過激な事業、
俗に「天皇中心の中央集権国家の建設」と呼ばれる大改革の跡を継ぐのに
どれほど勇気が必要だったか。、
それを物語るのが、斉明天皇崩御の後、何年も即位できなかった皇太子の姿、
次いでおこる壬申の乱に見て取ることができると思う。 皇極天皇(←百済人)が蘇我氏に依りお飾り化して行くプロセスで中大兄皇子は蘇我氏に蔑ろにされて居た
天皇になれないかも知れないとの危機感と恐怖心とに襲われた皇子は蘇我氏を乙巳事変で討った
この際に皇子を助けたのが皇極天皇の側近だった藤鎌足(←これも百済人)
鎌足は蘇我氏に打ち切られて居た百済への援兵の再開を条件に百済から精鋭部隊を呼び寄せこれを乙巳事変の際の手勢に用いた
故に皇子は事変後に百済への援兵を再開し百済兵を手勢にし易い様に蘇我氏の影響力の強い大和から難波に遷都した
その後百済は王が唐の監視下に置かれて事実上滅亡し親日派王族(日本の内の百済人)が大量の臣下と兵とを連れて亡命して来た
これらは皇子の勢力を増す原動力となり旧来豪族にとっても目障りな存在になった
百済に居た唐の軍勢が高句麗に止めを刺す為に旧百済領から離れると亡命百済人の間から旧領回復の声が大きく為り
旧来豪族も帰って呉れればこれ幸いと思って賛成したので百済ヤマト連合軍は半島に侵入し白村江の会戦に至り大敗した
亡国級の大敗を喫したヤマトに対して唐軍は関門海峡両岸及び瀬戸内の要衝各地に進駐し難波に使臣とこれを護衛する総大将劉仁軌を送り込んだ
天智天皇はミズーリ号艦上無条件降伏文書調印式状態に陥り嫡子大友皇子は唐の使臣に引き取られて難波の唐館で養教育される事に為り
天智は近江に蟄居させられた
近江律令に令が無いのは未熟だったから(←A級戦犯藤原氏に依る後年になされた捏造)では無く唐に瀬戸内や難波辺りの行政権と徴税権を奪われて居たからである
あきのたのかりたのいほのとまをあらみわがころもではつゆにぬれつつ
はこの頃に読まれた歌であろう
天智の死後唐の傀儡弘文天皇(大友皇子)が即位するが何と唐の進駐軍はその大半が本国の西域で起きた騒擾の鎮圧軍の後詰の為に離日してしまう
これを好機と見た藤原不比等が天智の弟を担ぎ出して弘文天皇をぶっ殺したのが壬申の乱
その後不比等は原ヤマト勢力が渡来人を追い出して王政復古を果たしたかの如く演出する為に中臣姓を僭称し朝廷を牛耳り皇胤を摩り替えそれまでのヤマトの歴史を捏造して行く ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>428
>孝徳天皇とその妻、また後の天智天皇、天武天皇は、難波で政治改革とは無縁な暮らしを送っていた。
これのどこが天皇中心の政治なのか説明できるものなら説明してほしいものだ。
大嘘だらけの日本史を誰かに刷り込まれたようだな。
>後を継ぐ勇気がなかなか持てなかった中大兄皇子も、7年ほどかけて
海外の動きと併せて考えないとこのような間違いに陥るという実例。
白村江で大敗し、国体の維持すら難しい状況で、それがすなわち誰も即位できない状態だったのだよ。
天智の即位は、唐の筑紫駐留部隊が撤退した年で、ようやく敗戦国に自治が認められたということだよ。
429の方が真実に近いだろう。
ただ、そもそも蘇我氏が活躍していた時代に天皇の称号はまだ確立されてなく、国記などを編纂していた蘇我氏そのものが当時の日本を代表する王家であり、現在天皇家として知られている中大兄皇子らが豪族の側だったのではないかという説すらある。
最終的に敗戦の混乱に乗じて天皇の位に登りつめた中大兄皇子だったが、その死後ほどなく天武らが弘文を倒して再び天下はひっくり返ることになった。
主権を握っていた唐にいろいろ言い訳するため、日本書紀を編纂して歴史の改竄をおこなったと。 >>432
ちゃんと読んでください。
「その当時」と書いてあります。
まだ天皇になっていない、子ども時代の話です。 天智天皇は、まだ政治を知らない年若い(若者を子どもあつかいして甘やかしていた平安時代までの感覚で言えばほぼ子どもとも言える年頃に)、
崇高な志を持った中臣鎌足と母皇極天皇の政治改革に付き合わされ、残酷な暗殺事件の場面にも立ち会わされた。
その後、母と中臣鎌足が改革を推し進める間、 政界(奈良)から遠く離れた大阪の地で、弟、妹とともに、叔父(孝徳天皇)を
なだめ監視する役目に専念する。
「天皇中心の、中央集権国家づくり」という偉大な事業をすすめたのは、
7世紀半ばには、母皇極上皇と中臣鎌足を中心とする聖徳太子崇拝者たちだった。
孝徳天皇とその妻、また中大兄、大海人は、難波で政治改革とは無縁な暮らしを送っていた。
この皇子たちは叔父である孝徳天皇を大阪で苛めて孤独死させた後、
母、皇極上皇(斉明天皇)と中臣鎌足の政治改革を本格的に手伝うことになる。
偉大な改革者、日本国の創設者ともいえる母皇極上皇(斉明天皇)の死後、
後を継ぐ勇気がなかなか持てなかった中大兄皇子も、7年ほどかけて近江大津宮を
整えるなど、入念な準備の跡、やっとで即位の決意を固め、天智天皇となった。
母と中臣鎌足が始めた、あまりにも大規模かつ過激な事業、 俗に「天皇中心の
中央集権国家の建設」と呼ばれる大改革の跡を継ぐのに どれほど勇気が必要だったか。、
それを物語るのが、斉明天皇崩御の後、何年も即位できなかった皇太子の姿、
次いでおこる壬申の乱に見て取ることができると思う。 >>425天武は簒奪者だと皇室では認識してるのだな
古事記はともかく、日本書紀は【勝者側の大本営発表】という事だね
天武系統を皇室は全否定してるのか >>429 >中臣姓を僭称し
天武天皇から中臣姓を賜る等の手段を用いて
あたかも藤原氏こそが神武統最古参の中臣氏であったかの様に振る舞って素性を捏造し
の方がより正しいな 本当の中臣家の方も便乗して藤原を名乗りだしたら
不比等に禁止されて中臣に戻したというのがまた >>429 つまり近江律令はGHQ統治下の刑法と自治体警察法みたいな代物だったと云う事 中国内でボロクソに言われる則天武后>>>日本国内で持ち上げられる天智天皇 >>419
天武は、一度に四人娶ったわけじゃないよ
先に大田と持統の二人を娶り、大田は早世
大江と新田部皇女を娶ったのは、壬申の乱の後
天智の死後、皇女達の身分にふさわしい結婚相手は、限られていたのでは? 天武が蘇我派で海外慎重派で
天智は百済派
だってのは本当なの? 天武さんは軍事的才能があったから
「唐と戦うと負けるかも」
とは思っていたかもしれないね。 天武は新羅であり出雲、天智は百済でありヤマト(呉) >>448
その前に、呉から渡来定着した事を証明する証拠遺跡とその証拠文物、とりわけ生活痕たる証拠土器・石器と、ヤマトが呉だと狂言している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
ベトナムを帯びたブタみたいな顔をした台湾のブタ原人の方。 天武は天智に勝ったのに天武の後は天智派の天皇が
ついたってのもよくわからないんだけどどうなってるの? 本家が没落して分家が栄えたけど、やがて分家の跡継ぎが絶えてしまい、本家に実権が戻った >>95
その時代だから
近い時代だから、書けない事って有ると思う
権力者の真実なんて、その時代に書ける訳がない
ごく稀に個人的日記などで後世に残るレアケースも有るが でも、天智天皇と大海人皇子の関係は北朝鮮のキム王子達の関係と同じような関係だろ。
食うか食われるかの生き残りの戦いだろうから。
というか、日本の古代皇族の兄弟争いは日常茶飯事だったろうけれど。
李氏朝鮮の王族の争い見ても、構図が似てるよね。 兄弟間での後継者争い、王座争いはそれこそ無数にある。
しかし現在「共和国」を名乗る国、しかも流血を伴うのはまれ。 天智の妻の倭姫皇后って、近江朝廷が滅亡したあと、どうなったの?
吉野方に粛清されたの? 不比等が天智の子であり天武は天智より年上の弟で有ることは知ってた スレチかも知れんけど
日本に易姓革命思想が根付かなかったのは何故だろうね? >>459
易姓革命を起こさせないために天皇家は姓を秘匿したのよ ■継体
歴代天皇の中で、即位に要した時間(行動を起こしてから実際に即位するまでの期間)が、最長の20年という辛酸をなめた人。
大陸にコネクションを持ちながらも政治的にはアウトサイダーのまま生涯を終えるかと思われたが、
数奇な運命により歴史の表舞台に引き出され、大和旧勢力の頑強な抵抗を鎮圧し、遂にシャーマン集団を引き連れて入京。
棚ぼたとも言える王位を手に入れた強運の持ち主。
■天智
歴代天皇の中で、墓の所在が不明な唯一の人。
乙巳の変以降の謀略多き人生を楽しみながら(?)も、対外情勢に翻弄される。
白村江での敗北後にパワーバランスゆえに称制を余儀なくされるが、念願叶って百済王家のレガリア大刀契と
三種の神器を携えて倭王兼百済王に即位。
天武ほどには時流を読めず最後に下手を打ち、殷の紂王に由来する有り難くない漢風諡号を贈られたが、
血脈は保ったので「負けて勝った」収支トントンの王者。
■天武
歴代天皇の中で、生年が不明な唯一の人。
前半生は傍流を歩みつつ雌伏。
白村江の敗戦後の政情不安な時期に台頭し実力者となり、郭務宗(2000人超の使節を率い来日滞在していた唐人)とも交流。
郭と使節団が帰国した翌年に、高句麗・新羅の傭兵をも糾合、決起し勝利を掴んだ稀代の風雲児。
■称徳
歴代天皇の中で、革命思想を肯定したおそらく唯一の人。
父の聖武が一人っ子で母は非皇族、従って兄弟姉妹も父方の叔父叔母も対等なイトコもいないという特殊な環境の中で成人する。
生真面目で、中国かぶれで則天武后に憧れ、最後は使命感からか或いは厭世的になったがゆえかは定かでないが、
禅譲の境地に至るも夢破れた悲劇の女帝。
■桓武
称徳の死後、60歳を過ぎた父の光仁に皇位が転がり込み、皇位継承権を得たことで権力維持の過程で歴史の闇を見る。
即位後は、好むと好まざるとに関わらず経国のハードソフト両面の仕上げをする役割を担わされ、
歴史の取捨選択=焚書、外征、祭天の儀(≒封禅の儀)の挙行 等を行った。
ある意味では新生日本国の揺籃期におけるクリーナー(或いは歴史改変者…)かもしれない。 >>457
木岡御陵を倭姫皇后陵とみて木の岡古墳群の古墳が陵墓参考地になってるようだけど、
あれは中期古墳だし、もし木岡御陵に倭姫陵の蓋然性があるとするなら、近隣の平石古墳が気になるんだよねえ。 天智は本当に百済王を兼ねたのだろうか?
光仁は本当に唐の使者に平伏して臣下の礼を取ったのだろうか?
平氏が百済系、源氏が新羅系というのは? 応神天皇が第2の后との皇子を選んだお陰でその後どえらいことに
古代史最大の問題乙巳の変を引き起こした 応神は金官加羅からやってきた傭兵隊長だったらしい。 古代史は国際的視野に立たないと、わからない。
日本書紀の血縁を全面的に信用すれば歴史の解釈は間違う。
百済崩壊時(660)、百済皇子扶余豊と扶余勇がいた。他にも居ることでしょう。
旧唐書によれば、扶余勇はjapanにいて百済に戻った扶余豊を応援している。
扶余豊は百済人にとっては百済王である。
白村江で負けて、扶余豊は高句麗に渡った。
劉仁軌の丈によると、倭国王は封禅の儀に参加することになった。
日本書紀では天智が朝鮮山城を造りはじめる。九州から関が原まで。
これを版図とするのが近江朝。天智とは扶余勇のこと。
天智が即位したのは、668年。これは高句麗が崩れてゆくさなかのことで、
扶余豊は668年12月に流刑になっている。
捕らえられたのは何時かわからないが、扶余勇が王位に就いたのは
扶余豊が王位を失ったことによる。
いっぽう、倭国はこの扶余勇の近江朝に屈していたが、扶余勇=天智の死に
よって盛り返した。これが壬申の乱。これらのことは、次に書いてある。
旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地。」近江朝が倭国の地をあわせた。
新唐書「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」近江朝が倭国に負けた。
近江朝=日本=百済政府。日本号が倭国号を冒した。
旧唐書、新唐書、資治通鑑、禰軍墓誌などを解析するとこのような結論しかない。 古代天皇家の生い立ちを研究するには、現皇室のタブーを外さなくては研究は進まないんだろうね。
皇室の人達そのものはともかく、親皇室の勢力が、”皇室の祖先は外来の影響が濃い” という仮説を許さないだろうね。
当時の朝鮮半島の勢力を抜きに古代皇室に関しては理解しがたいのにね。 初代が崇神で神武のモデルが応神だとして前王朝の物部の血も繋がってるのが何か変
物部王朝の首長連合時代に騎馬民族王国にする為に養子を取ったらそのまま乗っ取られたのか
騎馬民族は同じ騎馬民族国家でないと皆殺しにするか奴隷にして売ると聞くし
国として認めないから前方後円墳と埴輪をジャンジャン作って
騎馬民族国家を演出したようにも見えるしw 万世一系は明治維新の頃に言い出した言葉です。誰でも万世一系です。
桓武の生母高野新笠は武寧王の子孫であることは現天皇も認めている。
桓武の祖は天武でなく天智ですから、百済王の子孫です。
外来であることは認める認めないのでなく、客観的にそうです。
中国の史書に問題があるなら、別ですが。それでも、
すべての人間が大陸から来たのですから、天皇も例外ではありません。
日本書紀は国の統一を天皇に求めるため、天孫降臨など系譜を重んじました。
作り事だという認識はあったと思います。
例えば、継体は応神の5世子孫といっています。万世一系ではありません。
天智より前は、日本の前史でしょう。そこに乗り移ったのです。 >>473
>すべての人間が大陸から来たのですから
そこだけは違う。
日本人は、割合的には少ないかも知れないが、確実に縄文系の血は混じっている。
現在の日本文化の基層となる弥生文化自体は基本外来だが、在来の縄文文化の上に外来の稲作文化がかぶさり融合して、
弥生文化が出来上がったのはほぼ間違いないだろう。
日本人の”八百万の神”という発想と、アイヌの”カムイ”の考え方はよく似ている。
アイヌのカムイは至る所に存在する。囲炉裏には”アペ・フチ・カムイ”、水には”ワッカ・ワシ・カムイ”という具合に。
あと、アイヌの神事に使う”イナウ”は日本の神社などで使う”幣”によく似ている。
などなど、日本の古くからの宗教に共通するものをアイヌの宗教に見出すことができる。
これだけ見ても、縄文系の文化の影響を日本文化は受けていると示唆している。 >>474
人類は日本列島で発生したのでないから、日本人の祖先は大陸から来た。
縄文人も、弥生人も、アイヌ人も大陸から来た。時間差があるだけ。
>>469,473 のつづき
天智は百済皇子扶余勇であることは、469で説明した。
それ以前の日本書紀などの記述は倭国の歴史。
倭国に於いては、様々な王朝の盛衰があった。
卑弥呼、倭の五王、継体以降、蘇我などなど。
皇室と無関係な陵墓が解析されると、国民が抱いている常識が覆る。
陵墓を占有して封鎖し、神聖化しておけば、解明できない。
封鎖、幽閉、遮断は国の経営の根本です。
真の古代japanの歴史を知りたければ、皇統と関係なく、
古墳・民俗学・DNA・東アジアとの比較・記紀の歴史物語等を解析すべきだが、
ヨーロッパ人がゲルマン民族の歴史を知るようなことでしかない。
知ったところで暗い呪術の世界だろうよ。 天智の九州の朝鮮山城はさすがに、大陸への防衛を意識していたことは遺跡でわかる。
瀬戸内海のまばらな朝鮮山城が進撃する外国を相手に戦うには、不自然な位置にある。
倭国を抑えるためとすれば、納得がいく。吉備の鬼の城は内陸すぎる。
高安城の立地は、大和・河内(倭国の中心)を抑えるためには絶好である。
天武が、鈴鹿を越えて、東国に支援を求めたのは、近江朝の支配が届いていないから。
吉備の離反、大宰府の中立は近江朝も天智がなくなり、
求心力がなくなったと想像される。 34000年前に朝鮮経由で来た旧石器人が日本人の基層。
そこに20000年前に樺太経由で来た旧石器人と3000年前に沿海州南岸から渡来した弥生人が混ざったのが我々日本人。
稲作は弥生人が日本に来てから朝鮮南部との交流を通じて弥生人自身の手で導入しただけ。 壬申の乱って今でも壬申の乱なの?
規模から言っても乱じゃなくて合戦だと思うんだけど。 >>478
合戦は戦闘自体のことを言うだけです。
乱は政府から見ての内乱(反乱)をいいます。
天武は勝ったのに何故反乱といわれるかですが、皇位の継承の立場では、
天武は正統な後継者ではありません。だから、後の世に、光仁・桓武が皇位継承を
取り戻し、正統性を保ちました。その観点からいえば、勝っても乱なわけです。 普通勝ったら正当化されそうなものなんだけど
承久の乱なんか時代によって呼び名が変わりまくりなイメージ。 続日本記によれば
桓武は父の死に際して「哀号」(アイゴー)と慟哭しているんだな∵ >>480
壬申は現代の政権が乱であると認識しているということ。
変とか、乱とか、役とか、いろいろ変るのは、時の政権の歴史解釈が変るから。
同じ事を指しても、国際的に違うのと同じこと。政権にとって歴史は重要。
>>481
天皇哀号と書いてあるだけで、哀号と発音したとは書いていない。
100年以上も経って、朝鮮語が使われているだろうか。どちらでもよいが。 壬申の乱 当時はなんていったんだろうな。
日本書紀成立の時点ですでに壬申の乱ってわけではないでしょ?
ていうか壬申の時代って資料は日本書紀だけ?
公家の日記とか裏付けを取るような資料は残されてないのかな? >>481
日本書紀にも清寧天皇のところで「哀号」が出てくる
「隼人晝夜哀號陵側、・・・」
漢語の以下の1の意味だ
哀号とは、
1 人の死を悲しみ大声で泣き叫ぶこと。
2 朝鮮語の感嘆詞。(この場合「哀号」は当て字であり、本来漢字表記は存在しない。)→アイゴー
朝鮮人はバカだから、漢語の「哀号」を「アイゴー」と声に出して泣き叫ぶものと思ったんだね >>483
天武下では壬申の年の労勳とかいっているので、戦ぐらいの感じです。
裏づけは、朝鮮山城の調査とかどうでしょう。公家はまだでしょ。
木簡とかが寺のどこかにあるかもしれませんね。
神社はどうかな。いっこうに書き物を出してこないね。刀とか鏡は持っているが。 >>483
”壬申”とか”乙巳”とかって、中国から伝わった年の数え方だから、ちょっとあとあたりからそう言われたかもね。
ただ60年毎にあるから、千年以上後に検証しようと思ったら、周りの事象と照らし合わせなければ、ずれる場合がある。 政治していている人も、農業で作物を納めているだけの人でも、年次は必要ですね。
大昔から、日本で年号が始まる前から、卑弥呼も、その前も、
中国に朝貢していた国はすべて、十二支十干で年次を数えていたでしょう。
おっしゃるとおり、60年サイクルでやってくるから、
日本書紀の解釈ですら、60年のずれがあらわれたりしますね。 壬申の乱ぐらい大きい争いなら発掘すれば
鎧や兜ぐらい出てくるんじゃないかな?出てきてるの?
あの時代の鎧って革製じゃないんでしょ? 天武が劉邦だっけ?を参考にしてたってのは本当なの? >>494
赤色の戦旗を掲げて戦ったのは劉邦のマネだろうと言われている。
当時すでに「史記」は日本の知識人たちは読んでいた。 壬申の乱では藤原不比等は大友皇子派だったんですよね?
でも乱の後も不比等以下藤原家は大きな勢力を維持拡大してますよね。
何故失脚しなかったんでしょうか? >>497
天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された。
そこから盛り返してきた。 >>497
> 壬申の乱では藤原不比等は大友皇子派だったんですよね?
まだ子供だったから、直接は関与していないはず。 戦国時代だよね
足利→織田→豊臣→徳川
蘇我→天智→天武→桓武 けど天智て存命中から天武にやたらビビってたんだよね。
この時代って戦国時代以上に乱世って感じするけどね。
ていうか戦国時代に対応してる感じあるな。
大化の改新→本能寺の変
白村江の戦い→秀吉の朝鮮出兵
壬申の乱→関ヶ原の戦い
蘇我→信長 天智→秀吉 天武→家康
みたいな感じだったのかね。 >>504
中臣鎌足 = 本多正純あるいは天海あるいは金地院崇伝 中臣鎌足も謎人物だよね。藤原氏になって平安時代に権力握るけど。
藤原不比等だっけ?は天武についてるわけでしょ?
藤原氏の多くは天智側についたのに。後に平安時代に隆盛を極める
ってのもなにかあったのかな。 天智天皇の時に皇太子は天武天皇だったんだな。
弟を皇太子にするなんてやっぱなにか裏で取引みたいのあったのかな? >>492
周王の子孫だというのかい?
その根拠は? >>508
日本の天皇家は伝統的に兄弟相続が多いよ
敏達天皇と用明天皇と崇峻天皇と推古天皇は兄弟姉妹だし
皇極天皇と孝徳天皇は姉弟だし、元正天皇と文武天皇も姉弟だし
もっとも天智天皇の皇太子は大友皇子であり
天武天皇が皇太弟だったというのは壬申の乱後の改竄という説もある >>511
乙巳の変の時に中大兄皇子(天智)が20歳だから
その弟である大海人(天武)はまだかなり若かっただろ
白村江にも従軍していたとみられている
大海人皇子は妻の大田皇女(天智天皇皇女、持統天皇姉)を伴っており
娘の大伯皇女は播磨国大伯で、息子の大津皇子は筑紫国那大津で生まれたため
どちらも地名を付けたとされている そんなに歳離れてるの?天武兄貴説もあるぐらいだから
兄貴じゃないとしても歳の近い兄弟なのかと思ってた。 >>513
天智と天武の母、皇極天皇は天智・天武・間人の3人を産んでいるが
天智天皇>間人皇女>天武天皇の順
天智天皇の娘を4人も妻にしていることから
天智とはそこそこ年齢差があったと思う 天武が出家するときの
「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」
これって日本書紀に書かれてるらしいが。
三国志とかでよく出てくる表現だよね。劉備が曹操から
逃げた時に曹操が部下から言われてたりしたよね?
劉邦を意識したり中国気取りだったんだろうな。 >>517
そのセリフは日本書紀の作者の創作だった可能性もあると思う。 >>512
> 白村江にも従軍していたとみられている
> 大海人皇子は妻の大田皇女(天智天皇皇女、持統天皇姉)を伴っており
> 娘の大伯皇女は播磨国大伯で、息子の大津皇子は筑紫国那大津で生まれたため
> どちらも地名を付けたとされている
たとえ従軍しても、日本国内にとどまっていて、
渡海はしていないように思うな。
根拠は特にないが。 >>518
日本書紀作るにあたって三国志正史とか史記とかから
いろいろ文章真似たのかね。日本書紀って漢文で書かれたるんでしょ?
日本書紀っておそらく中国にも渡ってるよね。向こうの人は
三国志のパクリじゃないかって笑ったのかな。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ >>519
そら、出陣した斉明天皇も中大兄皇子も
筑紫にとどまってそこから指令を出していただけ
実際に朝鮮半島に派兵されたのは
阿倍比羅夫や安曇比羅夫などの軍事氏族
日本の皇族は朝鮮にまでは渡っていないし
大海人皇子も筑紫にとどまっていただろ 白村江の戦いの後、倭国酋長が封禅の儀に列席することになっている。旧唐書。 日本書紀は天武を正当化するために書かれてて
嘘がおおいみたいな説があるけど。
騙しきれるものなのかな?日本書紀って貴族ぐらいしか
見なかったの?中国は中国で日本の歴史みたいの書いてそうだし。 >>525
江戸時代ぐらいになると日本書紀研究が民間でも進むけど
飛鳥時代には識字率があまり高くない
平安時代には貴族男子の教科書として日本書紀が使われたが
中国の言葉遣いで音読するものとされていた
その時代にはもう天武の時代の人は生きていないし 劉邦とか意識するぐらいだから
中国からいろいろ学んでたわけだよね?
となると戦争も孫子とかから学んで本格的な戦争だったのかな? >>527
飛鳥時代ぐらいではまだ軍師が置かれてないだろ
戦国時代になると漢文に通じた知識僧が
黒衣の宰相として権力握るけど >>528
藤原仲麻呂の乱では、中国で兵法を勉強した吉備真備が活躍している。 三国志演義みたいな読み物はまだ入ってきてない時期?
正史とか兵法書が持ち込まれてたのかな。 聖徳太子 大化の改新 天智 天武
ここあたりはすごい裏がありそうだよね。
中国の記録にはこの時期の日本の事どんな風に
書かれてるの?天智とか天武って中国の歴史書に
載ってるの? 実質的なクーデターで正規軍の朝廷を破ってトップを葬り、政権交代したのが凄い 大友が自害したとき、十市はなんで後追いしなかったの?
あと、後年、自殺説が有力みたいだが普通に病死なきがする。 >>536
なんで後追い自殺するんだ?
息子の葛野王もまだ幼かったし
だいたい攻めて来るのは実父の大海人皇子だから
十市皇女はたとえ捕らえられても殺される可能性ないじゃん 壬申の乱が起きたところって関ヶ原なんでしょ。
すごいよね。これ。たしか南北朝時代にも
関ヶ原で大きい合戦起きてるらしいし。
なんだろう合戦が起きやすい場所なのかな。 天智が売国奴で天武が天智を暗殺して政権を取った
天武は天智より年上
もうこの流れなのか >>539
必ずしも年上とは限らない。年上だとすると、大化の改新の頃に
天武の官職がないのがネックとなる。皇太子の実例も、事実だとすれば
年上説にはネックになる。
とは言え、天智と天武が同父&同母兄弟の可能性は低そうだ。
仮に官職問題を無視しても、天武の年齢は上は壬申の乱の激務に耐えられる限界、
下は高市皇子の生年に制限されるため、生年は620-637の間のどれか。
皇太子説が真実だとして、年下に限定すると、意外にも生年は635年頃、その時皇極天皇は
既に40を超えているので、母では多分ない。父は舒明天皇だとすると、
恐らく天武天皇の正体は、蘇我蝦夷の孫、蘇我入鹿の甥あたりではないか? 天智天皇って白村江で負けてからは
国内防衛路線じゃないの?
海外の問題で天智と天武が争うってのがよくわからないんだけど。 >>540
皇極天皇の年齢は必ずしも分かっていませんよ(平安以降の諸書にしか出てこない)。
享年68歳の594年生まれ説で仰ってるんでしょうけど、
ほかに享年61歳の601年生まれ説もあります。
ちなみに弟の孝徳も同様596年生まれ説が主流となっていますが、
享年50歳の605年生まれ説などもあり、私は両者ともそっちの方が実際に近いだろうと考えております。 >>542
皇極天皇は、舒明天皇は第2の夫(再婚)で、高向王が最初の夫で、漢皇子を
産んでいる。だから、遅い生まれはこの漢皇子の存在がネックとなる。
(漢皇子=大海人皇子の説もある。もし大海人皇子が皇太子でなければ、
この説も有力となる。)
以上より、605年生まれの可能性は捨てて良いと思う。遅くとも600年前後。
594年生まれが妥当だと思うけどね。 >>541
冊封体制に入るか自主独立を目指すか
親唐派 vs 反唐派の対立に加えて、朝廷内の高句麗・新羅・百済人の暗闘も影響したのではなかろうか 全然ネックにならないよ。
初婚・第一子出産を620年頃、
再婚・第二子以降出産を625年頃以降で全然問題ない。
それと605年は弟の孝徳ね。 >>543
天武天皇=漢皇子は、ないと思う
漢皇子の子孫と推定される皇親が別に存在するから
Wikipediaで「山村王」のページを参照してもらいたいんだけど
この山村王は、漢皇子の子孫の可能性が高いと思う
用明天皇の子の久米皇子の子孫(一説に玄孫)なのだけれど、男系でいくと五世孫なのに初叙が従五位
男系では説明が難しい高い叙位をされている
継嗣令の「女帝の子」を親王とする規定が援用された可能性があると思う
男系だと
用明天皇−久米皇子−高向王(高梯王?)−漢皇子−筒城王ー山村王
と推定
女系だと
皇極天皇−漢皇子−筒城王ー山村王
と推定
また、元明天皇の治世で、吉備内親王が長屋王との間に生んだ王を皇孫待遇とする勅が出て
膳夫王は、初叙が皇孫と同じ従四位
山村王の初叙の従五位は、皇孫の子である三世孫並となり、皇極天皇の子孫扱いと考えないと説明が難しい >>540
天武が蘇我氏なら天智に粛清されてたと思うぞ
蘇我入鹿の従兄にあたる蘇我山田石川麻呂は蘇我一族でありながら
娘を天智に嫁がせて乙巳の変に協力
蘇我宗家が滅びると右大臣に取り立てられたが結局粛清された
天武は左右大臣になった経験もなく臣下出身だったとは考え難い
(尚、太政大臣は天智天皇が息子大友皇子のために創設した新職で
当時は皇族が任命された) 実際は、蘇我氏が大王だったとしか思えない
蘇我本宗家が焼き打ちされた時に、史書が失われた、というのは語るに落ちる話
証拠隠滅でしょう
国の公式な史書を編纂するのは、政権主宰者の証
有力豪族の蘇我氏なら、レプリカは持っていたにしても、オリジナルは朝廷が持っていなければならないのでは
なのに蘇我本宗家焼き打ちして、史書が失われたというのは、おかしいでしょう >>550
国記は蘇我蝦夷が滅亡した時に船恵尺が邸から取り出して
中大兄皇子に献上しているよ
現存はしていないが日本書紀や古事記編纂の
もとになった史料の一つだとされている >>549
蘇我氏系の皇族としては中大兄皇子の異母兄・古人大兄皇子
母は蘇我馬子の娘で蘇我蝦夷の甥に当たる
しかしやっぱり中大兄皇子に粛清されている
天武の母方が蘇我氏ならやはり生きていられなかったと思われる 日本書紀は信用出来ない!からの蘇我王朝ガーかまされるとなんだかなぁ…
歴史って分野は推理小説だったのかな?
資料となるものは勝者に捏造された!って言ってりゃいいから楽だよな >>550
>国の公式な史書を編纂するのは、政権主宰者の証
正史と言えば、
百済本紀では義慈王(在位641〜660) の20年間の治世の内、645年5月〜649年8月の義慈王に関する記述が一切なく空白だけど、
これって異常なことだよね?
学問板的にはアレな小林惠子が「解明」してるけどw >>554 >これって異常なことだよね?
いや、三国史記にはよくあること。 >>550
皇族の厩戸皇子も編纂に関わったが
山背王が滅ぼされてなくなったんじゃなかったか 蘇我氏が大王だったかはわからないけど、
それなりの「正統性」はあったように感じるね 蘇我氏=日本に移住してきた百済王族 という説もあるが。 >>551
わざわざ焼け跡から探しだして献上しないとならないのがおかしいでしょうが
蘇我氏しか持っていないということになるんだから
はなから天皇家が持っていないといけないでしょ
倉山田石川麻呂を粛清した時も「これは皇太子の物」として保管した史書が出てくるけど
史書を持っているのが蘇我氏ばかりで、天皇家が持っていないのは変でしょ >>551
国記は無事だったけど、天皇記は失われたんだよねえ >>562
日本最初の寺を作ったのは蘇我氏だし
最先端氏族だった蘇我氏が編纂を思い立ってもおかしくない
中央豪族たちは個別に自分の氏の成り立ちなどの伝記を持っていて
それを記紀編纂のときに献上させているから
豪族レベルでもそのようなものを持っていたんだよ
ただし、天皇記・国記の編纂が馬子主導で行われたから
馬子が天皇だったとまでは言うことができない
推古天皇に献上されなかったので国史の扱いをうけていたわけでもないし
ただ国の歴史を編纂するだけなら江戸時代の水戸藩主程度でもやってるからね >>550
日本で初の公式な史書は「日本書紀」
日本書紀は天武天皇が編纂命令を出し、舎人親王を代表とする国の編纂チームがつくられ
完成した時にはすでに天武天皇はいなかったが孫娘の元正天皇に献上された
国史・天皇記は推古天皇が編纂命令を発令していないので国の正式な史書ではない
「古事記」は天武天皇が稗田阿礼に故事の暗記を命じ
それを太安万侶が文字に起こして元明天皇に献上、日本書紀との共通部分も多いものの
編纂そのものが天皇の命令ではないので国史扱いをされない 明治時代に大改訂されてるだろうし国史を戦後のGHQが検閲して
不都合な箇所を削除してないとは考えられない 現在まで続く大和王権は、元々は倭国と協調関係を保っていた近畿の一地方政権であったが、
九州王朝滅亡後の一種のポツダム政権下の混乱の中で、火事場泥棒的に地方政権から対外的に倭国を代表する中央政権に昇格。
しかし、中国正史に記録されてきた九州王朝からの継承(≒統治権簒奪)の経緯を完全に糊塗することは叶わず、
事実を明確に書けないものは讖緯説的表現に留めたり、あるいは空白にしたり(白村江前後)と苦労の跡が窺える。 文字化けしました
(嵩搦。権簒奪) → 統治権の簒奪 >>565
>>550 の人はそのへんのことはわかってる上で、疑わしいって言ってるのでは >>469
>旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地。」近江朝が倭国の地をあわせた。
新唐書「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」近江朝が倭国に負けた。
遣唐使粟田真人は説明は確かに苦しいね
だが白村江の責任を回避するにはそう言うしかなかったと思う
うちらは白村江には関与してませんとはっきり言えない以上はそれしかない
唐は遣唐使に白村江のことを持ち出して説明を求めたのだろうか?
求められたが日本側で記録に残さなかったのか
それとも要領を得ない説明に唐は納得はせずともそれ以上は追及しなかったのか
やはり…追及されたが日本側が記録せずフタをしたのかね?天智の死や持統の焚書のように… >>569
天皇記・国記の内容が分からない以上
天皇は蘇我氏で公的な国史として編纂したという
550の主張も疑わしい
天皇家の娘が同族婚だったのに対して
蘇我氏は天皇家に娘を献上する臣下の立場だったことは事実だ
蘇我が天皇ならば蘇我の娘は同族の蘇我に嫁ぎ
天皇家は娘を蘇我に献上していただろう 蘇我氏は文字(漢文)の読み書き、計算も出来なかった
と書いてあるでしょ
現在、後世の話ではなく、
その当時の話だよ >>571
天皇家が蘇我氏の臣下だったという話をしてるのではないぞ 白村江で唐と戦ってる前後も遣唐使を送ってるのはなんで?
今読んでる本で疑問視されてて
読んでる本では九州王朝があったのではっていうトンデモ説に
なってるんだけど。定説みたいのはなんなの? >>573
>実際は、蘇我氏が大王だったとしか思えない
蘇我氏が日本の大王だったという話をしてるだろ 644 世界@名無史さん 2011/01/31(月) 02:13:16
でも、どう考えても、イギリスと同じような歴史を歩んできたのは日本だよな
ヴァイキングと扶余族・古墳時代人
ケルト人と縄文人
アングロサクソン人と弥生人
ノルマンコンクエストと継体天皇の乗っ取りなど異民族による朝廷乗っ取り
宮廷フランス語と扶余語 = 支配階級の使用言語
ノルマンディーと任那
フランス・イギリスの関係と朝鮮・日本の関係
ユーラシア大陸の西の端と東の端で同じような歴史的動きがあった事は、
偶然とはいえ興味深い事だねw いきなりコピペを持ってくる場合、だいたいが抵間違っている法則発動。 >>575
それは天皇家が臣下という意味ではないだろ >>579
臣下ではないが棚上げされてカイライにされていた、
またはそれに近い状態ということではないか。 妄想モードで
山背大兄王の本当の出自は、厩戸王の子ではなく、押坂彦人大兄と推古の娘・桜井弓張との間に生まれた山代王だった!
推古は、自分の孫である山代王に皇位を譲りたかったが、成人する前に寿命が来てしまった
やむなく田村王に皇位を継承させ、山代王にその次の皇位継承を託して大兄の称号を与えることに
舒明の治世後に充分に成人した山背大兄王が満を持して、皇位継承しようとしたが
舒明の遺族とその関係者には、そのつもりはなかった
が、舒明の遺児は成人していないため、皇極を担ぎ出した、というか皇極もやる気満々だったろうな
そしてわが子の邪魔になる山背大兄王を粛清
しかし、蘇我氏の支持を得る為に大兄の称号は蘇我系の古人に譲らざるを得なかった
てのはどうよ >>574
九州倭国、新羅、唐VS畿内ヤマト、百済なのである(基本だからな >>581
大兄ってそもそも日本書紀が勝手に付けてるだけだろ >>581
山背大兄王の母方叔父は蘇我蝦夷。
豊浦寺式瓦当文様と船橋廃寺式瓦当文様の様相からも、
法隆寺蔵の戊子年釈迦如来像の光背銘からも、
ことさら疑うようなところはない。
妄想は暴走につながるので、ほどほどに。 >>584
書紀の記述を無視していいなら、なんでもありになってしまうよ
それこそ蘇我大王説でもよくなってしまう >>582
当時大和はまだ一枚岩じゃなかったってこと?
戦国時代みたいな感じだったのかな。 >>585
山背大兄王の出自は、日本書紀には書かれていないからね
押坂彦人大兄と桜井弓張の間に山代王がいるのは古事記には出てくるからね >>588
蝦夷が山背大兄王の叔父であったことは書いてある。
推古自身が蝦夷のことを山背大兄王の叔父と言っている。
「それは創作だ! いや蝦夷が推古の息子(桜井弓張の兄弟)だったんだ!
いや桜井弓張の実父が馬子で、だから蝦夷は山代の叔父にあたるんだ!」……
妄想はいくらでも暴走し続けられますがね。 >>586
日本書紀の記述を無視しろとは一言も言ってないんだが >>588
古事記や日本書紀と同時期か、もっと遡る上宮記や法王帝説の系譜情報には書かれてるんで >>590
書紀が勝手につけただけ、と言っているじゃん
彼らは、大兄じゃなかったの?
当時は、そんな名前で呼ばれてなかったとでも? >>591
帝説の成立年代は、平安時代だと思っていたが?
上宮記も記紀より古いといえる根拠は? >>593
先学の研究を参考に。
帝説は部分ごとに異なる時期の史料の寄せ集めであることが定説。
冒頭の系譜部分は8世紀初頭とされる。
上宮記も「同時期か、もっと遡る」と書いた。
人によって幅はあろうが、7世紀後葉〜記紀編纂期が大方の見方ではなかろうか。
個人的に古いと考える根拠を挙げるとすれば人物名の用字法ですかね。
山背大兄王にしても、ヤマシロの「山尻」の記載は古体を示していると考える。 >>570
>遣唐使粟田真人は説明は確かに苦しいね
だが白村江の責任を回避するにはそう言うしかなかったと思う
うちらは白村江には関与してませんとはっきり言えない以上はそれしかない
唐は遣唐使に白村江のことを持ち出して説明を求めたのだろうか?
求められたが日本側で記録に残さなかったのか
それとも要領を得ない説明に唐は納得はせずともそれ以上は追及しなかったのか
違うよ。
郭務ソウは扶余勇が大宰府に首都をおき、大野城、水城、羅城を築いたのを、知っている。
禰軍が来たのも百済残党扶余勇についてのことだろう。
禰軍はもと百済将軍だから扶余勇を知っているはずだ。どんな対決があったのだろう。
白村江を回避する?現に、倭国王は封禅の儀に参列予定になっているのは、
白村江の罪を着せられたのだよ。これで決まっている。
白村江の罪で倭国は唐の言いなりにならなければならなかった。
そういう状況の倭国に割って入ったのが扶余勇の近江朝というわけ。
その近江朝が名乗っていた日本を何で壬申の乱で勝った倭国が踏襲したのか、
粟田は申し開きが出来ないのだ。うっかり、百済人を持ち出せば、
討伐の対象になるからね。ごまかすしかなかった。 >>595
禰軍は百済の将軍どころか、佐平だった。当然、扶余勇とは顔見知りだろう。 >>592
少なくとも山背が大兄ではないのは確定済み そうだったのか だけど山背は大兄じゃなくても有力皇子だったから、
一族もろとも殺された、ってことかな
聖徳太子の末の弟の可能性も、って書いてたのをどこかで見たけど
ソース思い出せない それはあり得ないだろうね
>>562
宮門(みかど)と自邸を呼ばせ、というのはすっかり天皇気取りだった、
といわれるけとそういわれればその時実際天皇だったんだろうか>蘇我 蘇我氏はいったんは王位の簒奪に成功したが
前王家の逆クーデターでやられたという説もあるな。 崇峻天皇暗殺後実際に皇位に付いたのは馬子で
後にその事実を隠すために本当は即位していない推古が天皇だったように見せかけたわけだな >>597
>扶余勇=天智天皇説の本おしえて
韓国の学者や歴史小説家がこの説を本で言っているらしいが、おそらく推測の域をでていないと思う。
簡潔な論証は以下のHPにある。
このHPによれば朝鮮山城等の遺跡、旧唐書、新唐書、資治通鑑、三国史記、日本書紀のすべてが繋がる。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11171066091
百済滅亡の直後、扶余豊が百済王を自称して、倭国外で百済復活の行動をしていた。
倭国にいた扶余勇は皇太子だったのだろう。倭国内で復活の活動をしていた。それが近江朝。
扶余豊が高句麗で唐に捕縛された。そのころ扶余勇が王位に就いた。つまり、百済王に。
天皇称号はまだなかったころの話。
その後、書紀ができて、過去のどの王を天皇にしようかということで、扶余勇が天智とされた。
扶余勇は、全土を掌握してはいないが、旧倭国を従えたから、選ばれたのだろうと思う。 >>595
禰軍は百済の佐平であったわけだから、義慈王を支える一の貴族だったわけだ。
唐に敗れて、禰軍は、義慈王とともに連行され、まぁ寝返ったというか唐の将軍に抜擢された。
こういう人物が、白村江の戦後処理のためにjapanに来たなんてことはありえない。
倭国は白村江の敗戦で、倭国王が唐の言うことを聴かねばならない状態で、
戦後処理は郭務ソウなど、唐の組織で十分対応できたはずだ。
何故、禰軍がjapanにきたか。それは、倭国の埒外にある、扶余勇(義慈王の子供)政府と
折衝するためだろう。倭国の誰と話をしても、扶余勇政府をコントロールすることは出来ないから。
それで、もと佐平の禰軍が選ばれたと考えられるのだ。
どんな話がなされたのか。唐が倭国を攻めていない歴史の成り行きをみると、
扶余勇政府は禰軍のもと主君の子供の政府であることへの温情があり、
海を隔てているので、戦争するのは唐にとって不利であることは唐政府への説明理由になる、
などが理由で、特に唐に反抗しなければ、お構いなしということだったのだろうか。
扶余勇=天智の死を禰軍(678年死亡)は知っていることになる。お構いなしだった近江政府も
天智の死によって、郭務ソウは潰してもよしと判断したのかもしれない。
考えすぎですかね。 >>595
>その近江朝が名乗っていた日本を何で壬申の乱で勝った倭国が踏襲したのか、
大海人が倭国人である根拠も倭国人でない根拠も
こう言っちゃなんだがどうとでも言えるよ >>603
郭ムソウが扶余勇=天智の死で、喪服を着、東に向かって拝み、三度挙哀したのは、
扶余勇=天智の方が上であった証。
扶余勇のお目付け役で、扶余勇が死んだから去ったのですかね。 >>604
真実は細かく分析してゆくと、一つずつ明らかになり、全体が見えてきます。
どうとでもいえるなどと投げやりはよくありません。 欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳と畿内で政争などしてるのに、
斉明・天智母子がいきなり朝鮮に攻め込むジェネレーションになっていることが
どうも腑に落ちません。 おもしろ説
天武は天智の弟ではなく筑紫君薩夜麻の弟。
倭国王薩夜麻が白村江で行方不明になったのをきっかけに
天智は大海人を近江宮に呼びつけて軟禁。
1年後兄薩夜麻が朝倉宮に帰国、それを知った大海人は仏道修行すると大嘘で天智を騙し
菟道から吉野宮に逃げ込む。これが壬申の乱のはじまり。
補足、薩夜麻は多利思北孤の孫辺り、当然大海人も多利思北孤系
書紀には大海人は草薙剣に祟られて死んだとある。
三種の神器に祟られる大海人、近江朝を乗っ取った報いか? キミね〜
誰が誰の弟などの芸能週刊誌ネタで歴史は語れんよ。
世界史の流れの中に日本史があるんだよ。 当時ってどれくらい統制とれてたんだろうな。
大海人皇子が戦争するってなったら国内から兵力集められるもんじゃないのかな?
天武に負けたって事は兵もそんなに集められなかったんだろうな。 ビラビラ肉(1629)じゃ駄目だよ!女歌舞伎禁止
郷ひろみ(1635)じゃないよ家光だよ武家諸法度(寛永令・参勤交代の制度化)
人無残な(1637)島原の乱 >>612
集まったことは集まったが、指揮官の能力が低かった気配だな。 壬申の乱の時って将軍とか兵は戦争なれした
ベテランたちだよね。
そういうのが天武天皇についたって事なのかな? >>616
古くからの軍事氏族の大伴吹負が天武サイドについたのも大きかったのではないか? 実際畿内大王勢力を20年かけて倒した
精鋭のおおどの君でも九州勢力を圧倒
出来ず、せいぜい長州を獲った止まり
なんだよな
数世紀に渡る半島戦争を継続したに
しては、記紀の記述は余りにも何も
ない。
直接利害のない畿内ではない勢力が
戦争してたとしか思えない。 >>612
大伴皇子の命令で大和で兵を集めていた大伴吹負が
大海人皇子側へ寝返った
美濃、伊勢、伊賀、熊野の豪族たちに重職に就けることを約して
大海人皇子が味方に付けた
(実際に壬申の乱後爵位を授けている)
特に伊勢は大海人皇子を勝利に導いてくれたと感謝し
天武天皇となった後、伊勢氏の氏神・伊勢神宮を新造し直して
内宮を天皇家の神、外宮に伊勢氏の神を祀り、
皇女を伊勢斎宮として置くことにしたほどだった 当時もう神社や寺は数え切れないほどあったわけだよね。
古い寺とか神社に当時の史料みたいの残ってないのかな? >>621
寺はまだそこまで多くないはず
僧は仏典を読み書きできないといけないから識字率は高いだろうが
この時代の識字率はそこまで高くない
神社は全国の豪族たちが氏神を決めていただろうけど
当時はまだ社殿もなく山や岩を拝んでいるところが多かった
神社の記録というのはもっと後の時代のものしかないよ 寺の住職って移民だったのかな?秦氏とかの一族とか。
中国あたりから来た人が作ったわけでしょ。 >>623
百済の僧侶を招聘したケースがあったのではなかったかと、うろ覚え。 当時って移民がすごい来た時代だから。言語とか通じなかったんだろうな。
移民は移民でまとまって暮らしてたんだろうか?
最終的にみんな日本語話すようになったのはなんでなんだろうな。 >>625
ブラジルに移民した日本人も二世以降はみんなポルトガル語を話すようになる。 >>626
けど日本人街みたいのはあるでしょ。
当時中華街みたいな都市を作られなかったのかな? 平安京とか平城京はあくまで日本に中華風の都市を建てただけじゃん。
そうじゃなくて移民は移民でまとまって住まなかったのかな?
秦氏なんてすごい人数つれて日本にやってきたんだから。
秦氏の都みたいのがあってもいいと思うんだよね。 >>629
凄い人数といってももともとの日本人以上の数ではないだろ
高い技術を持って大和王権に仕えて婚姻結んだりしていれば
どんどん混血が進んでいくしな >>629
だから、移民がまとまって住んでいたのが京なの
先に移民の町が合ってそこに都を移したんだよ 都が藤原京(694〜710)にあったころ、葛上郡と葛下郡にはさま
れて忍海郡が設置されていたことは確かで、忍海の名が使用された
のは鉄生産技術を持って朝鮮から渡来した人たちの集団である忍海
氏の本拠地であったことによるものと推測されます。忍海氏のオシ
ヌミが何を意味するのか明らかではありませんが、海に関係してい
たものと思われます。
http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/21,4542,56,274,html 七世紀以前の日本の歴史は
一般に考えられていることとは全く違っているのだろうと思ってる 8世紀も結構怪しいw
とにかく継体朝と天武の関係がまず
怪しすぎるし、仏教改宗時の異様な
緊張関係、宇佐という超越的権威、
道鏡と西の京と物部、光仁とは誰
なのか、なぜ聖徳太子という人物
の造作が必要だったのか? 聖徳太子自身、
日本人じゃないから
自作自演、
自分自身を擁護するような手法
ウマヤドの一族や家の人々がいるでしょ?
そういう話 和を以て?
これも他の人物、
中華の人、中華系の人物の案でしょ
「あなたは朝鮮人 朝鮮人」という謎の書き込み、見たことがない? 神代〜天地の誕生〜人類(日本人でも良い)〜ウマヤド・・・
何やらなんて言っているけど
なぜ中国の故事、諺が出てくるのですか?
普通は思うはず 謎の『ふなっしー オズボーン』
この、ふなっしー、本当は『船氏』だという説
『たねまる』 『たねまる』の声を担当している人物と『ポケモン』w ふなっしー?
>高句麗の〜〜〜文を解読することが出来た
同じ中華圏(実際は中華??)の出身、人物だと書いてあるはず その後、モンゴル帝国による侵略などがあるので・・・、
容姿などはあまり似ていない?
いまの半島辺りの人々とは、
少し違うという説 船氏以前に『聖化 日神 日霊 津』の人物が現れたんだと思う
同じ一族でしょ 誰かの本名なのかな、
謎のチェーンソーのゲームの動画を貼り付けたとき
「これは、□野さん?□野さん?」というレスがあった どちらが在日で日本人ではないのか?
みたいな話になってくる
実際に国を造ったような家や
一族がいるでしょ?在日?
一応、住んでいたと思うけど
だっ津ーの?
以前の、この地の住人は日本人ではないような話
頭の良い人は気づいている それと秦氏もいるでしょ
『秦氏 木嶋』
祀られている神、なぜか系統が違うと書かれていたり もし仮に7世紀前後に百済の王族が日本列島に領土を持っていた、或いは王位を簒奪したなら、もう一方の当事者である半島の各王朝にもその記録が皆無なのはおかしな話ではないかな
まず考えられないとは思わない?
唐軍進駐説にしろ半島の出先が勝手に軍を動かしたのでなく国家意思として渡海作戦に踏み切ったなら記録が残らないわけがあるまい 旧唐書や新唐書に百済が滅んで偽將五十八人が唐に連行され
偽王子の扶餘忠勝、忠志が士女及び倭衆を率いて降伏したとか
書かれてる。助命を乞うたと書いてあるのはどれだったかちょっと忘れた
日本国が倭国を併合したとする(旧唐書)のと日本国が倭国に併合された(新唐書)
とする違いがある 降伏した王族の中に「外王」と自称する扶餘考だか扶餘孝がいたんだよな
で、そいつが孝徳だという説を唱えてるのがお馴染みの某小林さん >>554 >>657
偽王族や偽将は百済本国降伏後の復興軍を認めない立場から偽なのかそれとも山賊の親玉だったのか
しかしながら自称外王を日本を支配した王と読み替えるなんて、そうする方が売れるからとかじゃなく本気の主張ならヤバいでしょ 「明治天皇の孫」を自称する中丸薫という人がいる。
昔の「朝まで生テレビ」で、現皇室は北朝でなく実は南朝である、と勿体ぶって厳かに発言していた「国際ジャーナリスト」。
この人、公安調査庁の元幹部との共著で
日本の古代史についてもかなりページを割いてるんだけど、
その内容の殆ど全てが小林某さんの受け売りw
出典表記もないから剽窃と言われても仕方ない。
それと、日本の皇族男子は全員が割礼を受けているとも断言していたし
まあ…似た者同士は惹かれあうのだなと感心した次第。
中央構造線と古代史を考える
http://www.geocities.jp/tyuou59/ >>660
> 「明治天皇の孫」を自称する中丸薫という人がいる。
自称ではなく、本当に孫。 >>661
明治天皇の典侍・千種任子が宮中を追われ隠し子を産んだ
これが中丸薫の父・堀川辰吉郎だと主張しているらしいが
千種任子は宮中を追われていないし
任子が産んだ2人の内親王(いずれも夭折)はきちんと明治天皇の子として籍があるのに
男児の辰吉郎が宮家設立も認められず福岡に放任されてた理由が不明 >>664
とはいえ、宮内庁は中丸薫氏に対してなんのクレームもつけていないし
中丸忠雄さんも堂々とNHK大河ドラマに出演していた。 >>665
宮内庁は中丸薫を皇族だと認めていない
中丸忠雄は薫の夫というだけで無関係の俳優 >>666
庶子の家なら当然、皇族ではないよ。
でも庶子の家であることを否定はしていない。 >>667
庶子の家でも皇族は皇族だ
一夫一妻制になったのは大正天皇からで
それ以前は天皇も宮家当主も側室腹が半分以上いる
明治天皇も大正天皇も側室の子で生まれは庶子だ 戦前に華族と婚姻できるのは、華族のみだったはず
中丸忠雄氏が華族じゃないなら、中丸薫女史も皇族身分じゃないことになるな 中丸忠雄。
シェイクスピア演劇への貢献を認められ、英国政府からサー
(Sir)の称号を贈られた。 持統と桓武の二度に渡る焚書で
破棄されたり公開を禁じられたりした諸豪族の家伝は
おそらく古い神社の縁起とかいわゆる古史古伝の中に名残を留めているんだろう それも戦国時代の戦乱と明治の焚書で大半が失われたらしい。 そもそも天智と天武って、血がつながっていないだろ。
どこの馬の骨ともわからない豪族の首長が、当時の天皇、皇族を暗殺した。
正統性がないので、後付けで、弟ということにした。
天智の嫁を奪って、子供を作り、天皇家の血筋に自分の血を混ぜた。 その馬の骨が作らせた歴史書が正統なんだから困るよな イングランドでいえば
ハノーヴァー朝が天武
テューダー朝が継体 >>675
天智の嫁じゃなくて娘でしょ。子供は天智生前のうちに出来てる。
蘇我・阿倍・巨勢・大伴といった当時の大豪族でさえ天皇家の娘と縁組できないのに、
どこの馬の骨ともわからない豪族の首長が縁組できるなんて無理。 乙巳の変〜壬申の乱が薔薇戦争なら
ジョン・ディーが空海か 天武系は易姓革命だったんだよ
これまでの天皇一族とはまったく違うやつら 天武は天智の同母弟というのが政府のタテマエだが、天武の方が年上だったことを知る人たちに対しても、書紀は天武即位の正当性を納得させる必要があった。
そこで、天武が実は斉明の連れ子で、天智の異父兄だったと解釈できるように挿入されたのが漢皇子に関する記述であり、天武の方が年上だったことを知っている読者に、
漢皇子=天武であると「読ませるように」書かれたのだと私は思う。
したがって、ここで安易に「天武は天智の異父兄だったのか」と思ってしまっては書紀の思うツボであり、
「天智の同母弟」と同様、「天智の異父兄」というのも政府のタテマエであって、そのまま信用してはいけないのである。
井沢元彦氏は、漢皇子の父親が高向王とされていることから、天武は皇位継承権を持たなかったために壬申の乱というクーデターによって王権を簒奪したのではないかと論じている。
しかし、書紀が漢皇子=天武であると「読ませるように」書かれているならば、父親が高向王であることが天武の即位を妨げる要素であってはならず、
クーデターが必要だった本当の理由は、天武の母が「斉明ではなかった」ことの方にあったと考えるべきである。
そして、このことにより、当時は父親が必ずしも大王である必要はなく、即位の条件は「斉明の血筋」にあったことを書紀ははからずも暴露しているのである。 天武が天智に娘たちを4人も差し出させているのも、斉明の血筋である天智の娘に子どもを生ませれば皇位継承権が発生するからにほかならない。
天武は、その時点では自分の息子世代に即位の望みをつないでいたわけだ。天武自身が斉明の子ならそんなことをする必要はなかったはずであり、
斉明の子ではなかったからこそ『記紀』の編纂を命じ、その中で自らを「斉明の子」と確定させ、即位を正当化する必要があったのだ。
また、天武は皇位継承権こそなかったが、天智から娘を4人差し出させるだけの実力者であったという事実は押えておきたい。
天武は天智より年上で、両者は赤の他人であった。
当時は斉明の血筋(天智系)であることが皇位継承の条件であり、斉明の子でない天武は武力(壬申の乱)によって王権を簒奪せざるをえなかった。
即位後の天武は、自ら編纂を命じた『日本書紀』の中で「天智の同母弟」あるいは「天智の異父兄」になりすましている。
天武が新王朝の祖であることを宣言しなかったのは、自分のあとをつぐべき息子たちがちゃんと天智の娘を母に持っていたからであり、あくまでも斉明の血筋が重視されていたのである。
記紀の天皇系譜は、天照大神を祖神とする天皇家が日本の統治権を世襲することを正当化するための創作であり、
斉明が初代神武から続く天皇家の末裔であったと信じる必要はない。
むしろ、斉明が最初に即位したとされるときの「皇極」という、ほとんど「初代」という意味にも読み取れる諡号に注目すべきであろう。 ・天武が天智より年長であるというのは如何なる資料か。
・舒明紀で皇極(斉明)所生の2男1女中に天武の名を載せ、斉明紀で「漢皇子を儲けた後舒明に適して2男1女を産んだ」
とあるのに、漢皇子=天武と思わせるように書いてある、というのは整合性に欠ける解釈ではないか。
・高市・忍壁など年長の皇子は天武初年から活動が見えるが、両者の母は卑母である。殊更「斉明系」にこだわっていたとは思えない。
後の官位でも、高市は事実上の最高位に昇ってるし、長・弓削・舎人(母が天智系)や穂積・新田部(母は豪族系)は横並びだ。
・そんな皇位継承について「斉明系絶対」の世の中で、実際に天智の娘を多く后妃とし、また多くの軍兵や人望を引き寄せ
近江朝廷を倒して新しい体制を築いた天武を、君はどのような階層の、どのように王権と関わってきた人物と考えているのか。
・そんな、律令国家を築き天皇号を創始するような「革新的」な人物(来歴含め)なら、
中国風に「新王朝初代」を名乗った方が手っ取り早いし相応しいのではないか。(まだこの時代は壬申の乱の頃を知っている人間が大勢生きてるのだ。
どうも君が書くような、天武(政府)の系譜に関する「大がかりな小細工」が、私には現実のものとして捉えられてこない)
・「斉明が初代神武から続く天皇家の末裔であった」と当時の人々には信じられていた、とお考えか? あるいは当時の王位継承の在り方をどのようにお考えなのか。
・「皇極」は奈良時代中期以降に付けられた諡。参照するんだったら日本書紀の「天豊財重日足姫」の方が適当。
皇極という語が初代を意味するのかは不明だが、天皇位を象徴する重要なワードであることは否定しない。
だがそれは、中央集権化(大王=天皇権絶対化)の発端となる乙巳の変時に在位していたこと、中央集権によって期待される大中至正の理念に基づくものであろう。 皇極が先代の皇統ではないということ?
そう考える根拠は具体的に他に何かある? >>691
天智よりも天武のほうが年上だったということだけど
天武の子は天智の子よりだいぶ年下だよね?
天武の第一子・十市皇女は653年生まれだが
天智の子である大田皇女、持統天皇、健皇子、大友皇子は
十市皇女よりも年上だ
天武が意図的に妻妾を娶ることを禁止されていたならだが
第一子の母親は斉明天皇に仕える宮廷歌人の額田王でありその気配はない
天智の娘たちが4人も父親よりも年上の男に嫁ぐというのは滅多にない 何故、日本書記は壬申の乱前夜に
▼書記670年(天智3年)
「上が黄色で下が黒、背中に申の字が書かれた亀が現れた」
→→五行思想で黒は天、地は黄 。
つまり、ひっくり返る(=クーデター)の暗示。「申」は「日」を貫く字。
▼書記671年(天智4年)
「大炊寮にある八個の鼎が次々に鳴りだした」
→→鼎が鳴るのは木が金を動かすからで、木が金を損なうの意 (『漢書』志・五行)
などと解説するのだろうか?
(壬申の乱の時に近江朝は「金」を合言葉にしていたことから、天智を金徳と考えるのは妥当であろう)
無論、このような予言の体裁を取る讖緯説的説明は後知恵、つまり天武の勝利後の正史編纂時に挿入されたことは言うまでもない。
しかしながら、武力行使という血なまぐさい手段であったとはいえ「兄弟間での権力移動」に対して、
このような血統の交代としか読み取れないアカデミックな記述(この時代に中国に倣った解釈と記述は間違いなくアカデミックで正統的であっただろう)
をしていることに、奇異の念を抱かざるを得ない。 矛盾が生じないストーリーを作ることなど容易であった筈なのに
書記編纂の基本方針(=神々の末裔である血統が途切れることなくこの国を統治してきたという建国のテーゼ)
に疑義を差し挟むと取られかねない記載が許された(?)のは何故なのか?
もしかすると書記の編纂チームは規律が緩かったのか?
それともウッカリ者揃いの集団だったのか?
あるいは記録することに対して「良心的な」官僚を許容するほど、チームトップが器の大きい人物だったのか? 親→子のルートで続いてるわけでもないんだから捏造も何もないでしょ
男系ルートなら兄弟だろうがなんだろうが構わないわけで
そのまま書いたって誰も困らん 少なくとも二人が赤の他人だと読み得る記録に異議を唱えない勢力がいたとは言えるんじゃね? >>700
どこに赤の他人だと読み取る記録があるわけ? 書きたくないのは弘文天皇が即位してたかどうかだろう
近江で群臣が「先帝(天智天皇)の言いつけを守る」と誓ってるシーンがあるけどこれが即位の事だろう
皇太子の争いはよくあるけど、天皇を倒すというのはかなり対面が悪いからね
だから皇統は引き継ぎつつも新しい王朝を作ったという体を取ってるんだろう
周辺国からの弘文天皇の弔問を全部断って「新しい国を建てたからそれは不要」と言ってるのもそう言う事だろう
唐書で日本と倭で混乱があるのも日本側のそういう微妙な対応が響いてるからと考えられる
血統そのものが変わってしまったというならそれこそ皇統の継承なんて主張する必要はないわけで
完全な新王朝だと言ってしまえばいいんだからね
逆に混乱するだけ >血統そのものが変わってしまったというならそれこそ皇統の継承なんて主張する必要はないわけで
え?? >>93のような伝承が残っていたのも
天智の死に関して何らかの疑念があったってことだよね 皇統を継承したのに新王朝を建てたと偽装する
皇統を断絶させたのに継承したと偽装する
明らかに前者の方が難しい 王朝が変わったにしては壬申の乱が小規模すぎるからな
身内同士の争いだから参加した豪族も少なかったんだろ
(畿内、伊勢、美濃ぐらいしか参加していない)
光仁天皇で天智系に戻っているからまた王朝交代なのに
ここでは合戦すら起きていないし そもそも、皇太弟であり内戦の勝利者であり天皇になり国家制度を整備し正史編纂を命じた人の生年が
その当の正史に記録されないなんて全く不可解だわ 大友皇子は天武天皇勢力に殺されたんだろ?
何で自殺とか奥歯に物が挟まったような物言いするの?
殺した、でいいじゃん。 光仁て本当に天智の孫なんか
血筋は藤原氏か帰化人か秦氏ちゃうの? 生年を隠したかった事情って、ひとつしか考えられないなあ
父親が、公式発表と違うんだろう >712
藤原氏だって、既に分裂してるのに何言ってるの? >>713
日本書紀は天皇の生年を記していないよ
伝承上の天皇を除けば没した時の年齢も記していない
天智天皇が即位前、大化の改新の時の年齢が20歳だと明記されているのが
珍しいくらい >>200とか見ると笑っちゃうね
恣意的になら何だって言えるじゃん() まぁ陰謀論者に掛かれば全部ウソで皇統が断絶して全く縁もゆかりもない王朝が出来上がった事にしたいんだろうよw でも天皇家自体、天武系をのけものにしてんのは、そういうことなんじゃね >>716
大化改新時の年齢(21歳)を記してるのは「上宮聖徳法王帝説」だね。
「日本書紀」には舒明没後に16歳とあるが、唐突な年齢表記や「東宮開別皇子」という異例の表記など、
ちょっと問題のある一文(追書とも)。ちなみにこれだと改新時は20歳で、帝説とは1歳差が出る。
そのほか「天武年長説」の元ネタとなってる平安以降の諸書では、享年53歳説、58歳説などあり。
この場合天武が年長になることはない。
要はこの時代の人の生年や享年は確実なことは言えないのであって、
天武年長という思い込みからしてそもそも間違ってることに、
思い込みの上に思い込みを重ねている可能性に気づかねばならない。 >>722
泉涌寺の位牌は後の時代に作られたものだよ
だいたい天智・天武の時代には泉涌寺自体が存在しない
泉涌寺に初めて天皇が葬られたのは鎌倉時代で
歴代天皇の菩提寺となり天皇が葬られる寺になったのは江戸時代から 天武系は奈良時代の政争の結果だろ
具体的に言うと持統天皇と孝謙天皇のせいw つか支離滅裂だよな
@天武系はそれ以前と繋がりの無い異王朝
Aだから今の皇室は天武系を冷遇してる
というんだろ?
意味わからん
なら天武系なんてそもそも皇統に入れないだろw
天智系の光仁天皇が居座ってた異王朝の天武系を打倒して王統を回復したと書きゃいいじゃん
なんでわざわざ縁も所縁もない天武系を同じ皇統に入れてんだ
そして仮に光仁天皇の時に新王朝を建てたならそもそもそれ以前の物なんて書く必要がない
それを流れの上に書いてるって事は天智、天武の流れってのは同じ皇統でやはり兄弟としての流派が違うだけ
しかも現在に繋がってると言う事になるだろ普通 >>726
神仏分離令により明治以降は天皇は神道であるということになったので
冠婚葬祭はすべて神道になった
ただし泉涌寺には明治、大正、昭和の天皇が参拝しているし
皇室の「御寺」という立場に変わりはない ていうか泉涌寺の位牌の問題って天皇家の意向というより寺の意向だよね? 江戸だろうが何だろうが同じだろ
別王朝の連中を同じ系統に入れる必要なんてないだろ 何の話をしているんだ
頭の病院に行ったほうがいいぞ >>721
よくそこまで断言できるね
願望も入ってるでしょ、それ 他のスレッドにも書いたけど、
もれ(仮)の父親の妹の名前:幸子
あの謎の写真の家 >>725
桓武は封禅の儀もどき?をやってるから親父の代からNEW王朝と思ってたわけだろ
余計なことやったと思うわw 本当に妄想も終わりにしたほうがいいぞ
ちなみに一般人で芸能人?ではないよ、
だからメディアなどにも出てこない >>733なんかはまさしく>>706の前者の例だね。 >>733
なら前の王統なんて一緒に載せる意味ないよね
自分が初代と書けばいいだけ
むしろ自分の立場弱くする行為をして何の得があるのかと 繊細過ぎて何に怯えたのか遷都を繰り返し、頼りきりの嫁の実家を付けあがらせ
軟弱で覇気に乏しくて男としてのバイタリティに欠け、娘ひとりを作るのが精一杯
その娘への帝王学教育を誤った結果、孤独癖のある頭でっかちな娘が血筋を絶やした
つまり聖武が悪い それで
そのテンノウの家と言うのは先住民で?
列島、簡単に言うと日本が作られた時から、
この地に住んでいる家なの >>737
聖武天皇は皇子がいるだろw
突然都合よく謎の死を遂げるからふしぎだなー(棒) 奈良時代の天武系の混乱と断絶は要は「自分の子孫を天皇にしたい」という持統天皇の思惑の結果だからな
それに藤原氏が乗っかって朝廷の乗っ取りを成功させたという流れ
王統がどうのとか天智と天武が兄弟かどうかとかそんな話じゃない ただ藤原氏も結局は朝廷に寄生する立場でしかない
皇室を破壊するような事をすれば自分達の意義さえ失う
しかもこの頃の藤原氏は摂関時代を確立する前の段階
皇統の根幹を何かできる立場ではない >>742
持統天皇は天智天皇の娘
弟の大友皇子を滅ぼして姉の持統天皇(当時は鵜野皇女)が政権を執ったという
天智系同士の姉弟対決だわな
文武天皇や聖武天皇には藤原氏以外の妃との間に皇子がいたが
藤原氏が臣下に落としたり抹殺したりしたため男系断絶に拍車がかかった
奈良時代は女帝が多く女系重視の相続が行われていたが
女性は一人が産む子供の数に限りがある上
女帝の元正天皇や孝謙(称徳)天皇は生涯未婚を強いられた 沢山いた天武天皇の王子も子孫も全滅だからなw
藤原氏も骨肉で殺し合いしてるし
奈良時代の暗黒ぶりは凄い >>745
全滅してないぞ
・高市皇子→子孫は高階氏
・舎人親王→子孫は清原氏(子孫に有名な清少納言)
・長皇子→子孫は文屋氏
など >>745
そういう時代だから日本のラスプーチンこと道鏡が表舞台に出てこれたんだね 孝謙天皇が凄いな
あの人、皇統滅ぼす気だったんじゃないかと思うくらいやりたい放題やってる 例えば、いま2017年でしょ
宇宙の始まり
↓
2017年まで直系なの?
どの国の人、家も同じじゃない? >>749
自分は未婚を強いられどうせ自分で自分の皇統は終わるからな >>751
敵対者にしょうもない悪口ネーム付けたりしてかなりヒステリックな感じだからなw
そういうタイプに見えるね >>753
男性執政者ならひと思いに暗殺でも何でもして
敵対者を殺してしまうだろうからね
悪口つけただけで済んだのはマシ 宇佐神宮神託事件はおもろいな
籠池みたいな奴はいつの時代にもいる 宇佐神宮は筑紫倭国、出雲大社は出雲王朝、伊勢神宮は畿内ヤマト ゴロツキヤマトニッポンの信者はニホンの歴史がわかっとらん >>754
道祖王や黄文王とか悪口付けられた上に凄惨な拷問の上に殺してますがな 奈良時代も酷いよな
広嗣、奈良麻呂、仲麻呂と先日まで栄えてた人達がいきなり反逆者になって処刑されるんだからな
少しも油断できない 新田部親王を不比等の義理の子と看做せば(むろん養子関係はなかったろうが)、
道祖王も黄文王も藤原広嗣も橘奈良麻呂も藤原仲麻呂も、
みんな孝謙女帝のイトコにあたるんだよな。
史上まれに見るイトコキラーw 天武、大海人は672年壬申の乱に先立ち、吉野で「出家した」と書記に明記されている。
伊勢の式年遷宮が妻の持統から始まったことと考えあわせれば
出家した姿で伊勢
は遥拝したことになり
既に奈良時代を待たずして、神仏習合していたとも考えられるのだがW >>725
王朝は同じだけど、皇統が違うんだろう。
それを拡大解釈してこじつけてしまったんだよ。 >>758
道祖王や黄文王を拷問死させたのは藤原仲麻呂だろ
道祖王が廃太子になった後皇太子に立てられた大炊王は
仲麻呂の長男の未亡人の婿となり仲麻呂の邸で暮らしていた
大炊王が即位して淳仁天皇になると
仲麻呂を臣下初の太政大臣に任命して政治の全権を委任した 大伴や巨勢などの没落した古代豪族のその後が気になる
紀氏は和歌山の日前神社の神主として今も健在だが、他にも大三輪氏や鴨氏のように
中央の権力から距離を置く神職になるしか生き残る手段はなかったんだろうな 乙巳の変の記載
からひとが、鞍作を殺した という記載はどうなんだろう
韓人、って中大兄のことになるのかな >>725
> @天武系はそれ以前と繋がりの無い異王朝
継体天皇もそうだが、皇統と無縁ってことはないだろ。
薄いかもしれないがつながりはあったと思う。。 >>767
最後に入鹿を斬った子麻呂と網田が、韓人の衣装に身を包んでいたとか。 >>767
そもそもその言葉を誰が聞いていて書紀の記事にしたんだって話
創作臭ぷんぷん >>767
皇極天皇に三韓からの使者が貢物を献上するという名目で
中大兄皇子らは蘇我入鹿を呼び出したんだよ
暗殺者たちは韓の服装だったのかもしれない 蘇我蝦夷・入鹿の本名って何?
どう見ても後付けの名前だろ?蝦夷ってw エミシって名前の人は他にも見受けられるんで別に別称でも何でもない >>771
日本書紀
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
この事件の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。
この後、古人大兄は怯えて家に籠ってしまった、って
法隆寺でみた説明にも書いてあったよ
天智天皇は山科で狩りをするのが好きで、度々訪れてる
ある日行方不明になり、皆で探したけど見つからなかった 仕方ないので
靴が落ちていたところを、御陵にした
敵が多いので、ありそうw 外国と戦争までしてるし 御陵には何が入ってるのかな
宝皇女が、結婚前に産んだのが天智とする説とか、この人色々怪しすぎる 皇太子歴も長いし
天武持統合葬陵は、鎌倉期に盗賊が入って 持統の骨箱は蹴散らかされてた、
って記録があるらしいね 天武王朝ができたのは白村江の不満が人民にたまってたからで
そうでなきゃ大友もあああっさりやられることはなかっただろう。
おそらく孝徳や天智あたりも白村江についてはあまり乗り気じゃなかったっぽいけど 筑紫倭国の戦争に畿内は乗り気ではなかったが、かえって戦後に唐から取り立てられて、列島の支配者とされた。 >>774
ここは検証スレではなく雑談スレだから。
まったりしなよ。 白村江敗戦後の大陸情勢が幸いし、うまく立ち回った結果
ポツダム政権が正当政権に昇格 中大兄皇子はあまり派兵に積極的ではなかったからね。 そうかなあ
百済救援に突き進んでいったように思えるけど 救援というより、傀儡政権を作ろうとしたんだろうね。
満州国と同じ構造だよ。
我が国は国際貢献という言葉を海外侵略の隠れ蓑にするのが伝統なんだよ。 >>786
中大兄は積極的だったから白村江の後責任を取らされて
皇極天皇崩後もしばらく即位できなかったのだろ >>788
今の国境線にとらわれ過ぎ
縄文時代から半島に倭人が住んでいるんだから >>790
大伴金村の父も朝鮮半島で戦死しているな。 >>790
扶余族の侵入でだいぶ倭人は追い出されたんだろう。 追い出されたというよりは混血が進んだのだろう
日本列島にはネグリトもオーストロイドも居たわけだから
いい意味で雑多な民族だよな 現在の朝鮮人はどちらかというと単一の遺伝子パターンだが、日本人は激しい混血民族だよ。
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http://www.asahiinryo.co.jp/company/newsrelease/2017/pick_0725.html >>789
記紀の記述をうのみにすると、天武の方が年上になる
宝皇女の、天皇との結婚前からの連れ子が天智で彼の父は渡来系か末端の皇族
だから皇位継承の正当性が微妙で長く皇太子をしてた一因、って説 どうなのかなー、
ヤマトタケルの出征の年齢が間違っとったり、記紀の筆者けっこう算数苦手だから
真に受けたら負けなんだろうか >>469に大海人皇子を補足
禰軍墓誌(678年)の「日本餘噍」は白村江残党のことで、罪を遁れて扶桑にいた。
旧唐書「扶餘勇者,・・・,是時走在倭國」から日本餘噍の長は扶餘勇を指す。
白村江で倭国に逃れた多くの百済貴族の長が扶餘勇。
筑紫野市HPは大宰府の防衛システムは百済の首都泗沘に類似するというので、
扶餘勇がこれらを造った。書紀では天智天皇が朝鮮山城を作るとあり、天智=扶余勇は100%。
旧唐書「麟コ二年(665),封泰山・・・倭四國酋長赴會,」から、倭国は唐の支配下になっていた。
筑紫都督府にとって倭国王には元倭国王か扶餘勇かの選択肢があった。
扶餘勇を選んだのは665年に来訪した元佐平の禰軍が関与しているだろう。
扶余勇は近江まで版図を広げ、天智に就位したのは668年。
新唐書「日本乃小國、爲倭所并」(壬申の乱)は日本=近江朝が倭国に負けたといっている。
勝者は倭国王である。大海人皇子は唐にはずされた元倭国王である。
元倭国王は扶余勇政権下で、扶余勇の配下に置かれ、統一に利用されていた。
扶余勇は全土支配の半ばで崩れ、元倭国王は壬申の乱を起こし、近江政府を倒し、復位した(天武天皇)。
(参考)
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm 天武系が倭国系なら、記紀を残すに当たって、なぜ本来の倭国の歴史を残さなかったのか >>803
卑弥呼や邪馬台国はそのものずばりでは出てきませんね。
雄略ですら書紀の上では年代が特定できないんですから、
歴史書というより、年代記風の物語じゃないんですか?
卑弥呼や邪馬台国がでないからといって、
天武が元倭国王でないことにはなりませんが。 >>804
>卑弥呼や邪馬台国がでないからといって、
>天武が元倭国王でないことにはなりませんが。
こんなくだらんもの言いなら、なんでも言える。
まったくくだらない。
唐にとって、百済にしても倭にしても、旧王族を再び持ち出す意味はない。
少なくとも直系は避けるよね。
その意味では、筑紫の君の直系ではない中大兄皇子は都合が良かったのだろう。 いやいや記紀は幾内中心史観でしょ、倭国出身の天皇がsんな歴史を残す必要がない >こんなくだらんもの言いなら、なんでも言える。
>まったくくだらない。
この明快な推理をくだらないと切り捨てることはできないはず。
こねくり回した屁理屈より、すっきりしている。
>唐にとって、百済にしても倭にしても、旧王族を再び持ち出す意味はない。
>少なくとも直系は避けるよね。
半島の都督には百済王族や高句麗王がなってるけれどね。直系だよ。 >>801
> 天武系が倭国系なら、記紀を残すに当たって、なぜ本来の倭国の歴史を残さなかったのか
そもそも、なぜ記紀なのか?という疑問は抱かないかね?
なぜ、古事記・日本書紀の二つの歴史書を捏造したのか?
なぜひとつにしなかったのか?
ここに大いなる謎がある 古事記は江戸時代に発見されるまで世の中には出てなかったよね
当時の政府には同時に2つの史書を編纂したという意識はなかったんじゃないか >>811
教えてやんない
ひとつだけヒントを言うと、対になってる 「壬申の乱 吉野の宮→(吉野の険しい山越え女人連れ)→不破 4日間 170キロ 30人→3万人」
これを愚直に信じている人は畿内説の馬鹿学者だけ? それとも九州説の聡明学者も?
ちなみに、16世紀における整備された主要街道行軍「秀吉中国大返し」ですら「備中高松城→山城国山崎 230km 10日」 記紀は、ある意味で2つで1つのダ・ヴィンチ・コードなのよ
コードが明かされる時は新たな時代の幕開けの時 「違うね」
そうなのか
キミの中ではそうだといいね
もうすぐこの2書に埋め込まれたコードが明かされ、真実の歴史が紐解かれる時が来る 記紀と魏志倭人伝は矛盾しない。
違う側面から筑紫倭国を描いている。
特に日本書紀の編者らは、魏志倭人伝も読んでいたから、内容からそれとわからないように重複部分を慎重に避けて描いた様子が伺われるね。 >>820
日本人が中国に提出するために日本語訛りの漢文で書いたんだよ。 >>822
「壬申の乱 吉野の宮→(吉野の険しい山越え女人連れ)→不破 4日間 170キロ 30人→3万人」
これを愚直に信じている人は畿内説の馬鹿学者だけ? それとも九州説の聡明学者も?
ちなみに、16世紀における整備された主要街道行軍「秀吉中国大返し」ですら「備中高松城→山城国山崎 230km 10日」 >>826
どうでもいいが秀吉の中国大返しはかなり速度が遅いぞ
現在、駅からの所要時間に最も広く使われる公式が
平均的な人が普通に歩いて一時間に4キロ歩ける前提
230kmを10日かけてなら一日23キロしか進んでおらず
平均的な徒歩で一日6時間で進める距離 軍隊は武器その他重い荷物を持ってたりするので、日本陸軍は標準24km/日 >>828
日本陸軍は最主力の武器として大砲を持ち運ぶからな
秀吉の時代の最先端主力武器は肩から担ぐ火縄銃程度だろ
大砲もあったが数が少ないので後から来ればよいし
山崎の戦いで大砲が大活躍したわけでもない >>825
つまり、白村江の戦いで敗北した日本は占領されたわけだよね
だから宗主国様に中国語で資料提出 >>831
痕跡はある。
書紀では天智称制でいないことになっている倭国王が、旧唐書「麟コ二年(665),
封泰山・・・倭四國酋長赴會,・・・」で存在している。
このくい違いを説明してほしい。この倭国王は誰なのかも。 >>834
「仁軌<領>新羅及百濟、耽羅、倭四國」 >>827
>どうでももいいが秀吉の中国大返しはかなり速度が遅いぞ
その秀吉の中国大返しよりもっと早い
「壬申の乱 吉野の宮→(吉野の険しい山越え女人連れ)→不破 4日間 170キロ 30人→3万人」
これを愚直に信じている人は畿内説の馬鹿学者だけ? それとも九州説の聡明学者も? >>837
いけるだろ、それくらい
日本書紀に大海人皇子が愛妻・鵜野皇女(後の持統天皇)を気遣って
休みを取りながらいった記載があるので
女連れなら山越えなど無理無理無理で
物凄く進軍が遅くなるように思ってるみたいだが
当時はまだ持統は20代でとても若く(持統は草壁皇子を10代で産んでいるため
息子はまあまあ大きくても本人は若い)
夫の天武死後あれほど精力的に政治を執ったのをみれば持病があったとも思われない
10歳以上年上の大海人皇子よりも体力が劣っていたとも思えない
で、九州説の聡明学者ってお前みたいな馬鹿の事? >>838
>いけるだろ、それくらい
愛妻・鵜野皇女(後の持統天皇)の吉野越えは、秀吉の中国大返しより強行軍だったってか? おまえあほ?
おまえはこれを愚直に信じている畿内説の馬鹿学者か? 大化の改新まで
親百済の九州 vs 親新羅(仏教推進派)の近畿
大化の改新により
親百済派の天智が近畿制圧
白村江の戦いにより
百済残党が倭に多数逃げてくる
→天智が百済将軍を配下に九州から近畿を支配し近江王朝を建てる
新羅が朝鮮半島統一したことにより
百済とのつながりは不要になる
→天智配下の百済将軍は居場所を失う
また新羅と繋がる必要性が高まる
壬申の乱
=天智親百済派vs百済排除親新羅派
結末
倭国の統一
結局は、朝鮮半島が統一されたことをきっかけに倭国も統一されたということ 基本的に歴史書ってのは、自分達の政権を正当化するためのフィクションなんだから、
真実の歴史を隠すために当時の権力者が何をどう細工したを読み解きながら推理していかないと無意味 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2017/09/29(金) 10:22:16.36 ID:GeIkGOSL
関東は、中国:唐の国の植民地だった????
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n2860
唐の植民地と言っても倭国領内に置ける唐の国の委任統治領だった。
それは倭国と唐の国との和睦の証し。そして唐の国の植民地総督府御
家人と供に高麗人が一緒に関東に移民したのです。
源氏=ゲン=元(モンゴル) 源平合戦=元平合戦 神風とか全部ウソ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1505816832/25 >>840
目の付け所はいいんだが、扶余勇と元倭国王が抜けています。 マジレスすると、
日本で起きた大きな戦いは、すべてが海外から攻められた時とか、
その海外の大本の国が滅んだから、日本にある出先機関のようなとこで政変が起きたとか全部そういう話
日本ってのは中国の敗北者の駆け込み寺なんだが、それを内戦に摩り替えてるだけ
壬申の乱もそうだし、源平合戦もそう
源平合戦や平将門の乱の実態については>>842にもあるように、
モンゴルからきた源氏(元)と平家(ペルシャからわたってきた)の戦い
元寇でカミカゼ吹いたとかあれ寝言だから そんな考えを持っているのなら、扶余勇が百済崩壊で倭国に逃れ、
唐の手先になって倭国を抑え、排除された元倭国王が忍従の暁に、
新羅と協力したと思われるが、唐への反抗ということで近江政府
をたおしたというのは受け入れられるでしょう。
次に論証してあるから、ここでは書かない。
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm
>その海外の大本の国が滅んだから、日本にある出先機関のようなとこで政変が起きた
文明の違いによって政治が変われば、当然日本も影響を受けます。出先機関?
>日本ってのは中国の敗北者の駆け込み寺なんだが、それを内戦に摩り替えてるだけ
壬申の乱をあてはめると、誰が、中国から来た人ですか? 中国の史記が、中国大陸にはなかった王国の
夏 = 日本(アスカ)
殷 = インダス
周 = シュメール
を自国内の歴史のように捏造しているのと一緒で、
記紀の内容は日本以外の場所にあった王朝の戦いをさも
日本で起きたかのように捏造している箇所も多い
例: スサノオ = スーサの王 = アレキサンダー大王 >>846
元(源氏)は平氏(北条政子)に乗っ取られた鎌倉幕府(源氏)を助けるために
来たと言うことか >>850
渡来人でなければ人類の起源は日本か?(頭大丈夫か 三韓からの上奏文の終わりに近づいても決起が起こらず、蘇我倉山田石川麻呂の声が震えだしたため、入鹿が怪しみ出した為! >>839
秀吉の中国大返しはのろかったって
定説じゃん
しつこいな、九州説の馬鹿者は >>854
>秀吉の中国大返しはのろかったって
定説じゃん
のろかったら「秀吉の中国大返し」なんて今に伝わるもんか。 あほんだら
おまえは「壬申の乱 吉野の宮→(吉野の険しい山越え女人連れ)→不破 4日間 170キロ 30人→3万人」
を 愚直に信じている畿内説の大馬鹿学者と同じだ。 >>855
「中国大返し」は速度が速かったことを言っているわけではない
あほんだら
九州説の大馬鹿学者と同じだ >>856
じゃ、わざわざ、なにをいってるんだ?
おまえは「壬申の乱 吉野の宮→(吉野の険しい山越え女人連れ)→不破 4日間 170キロ 30人→3万人」
を 愚直に信じている畿内説の大馬鹿学者と同じだ。 >>857
>>858
連投馬鹿w
170キロなら一日に40数キロ
フルマラソンすら2時間〜4時間で進めるのだから行けるだろう
また途中から合流した尾張の豪族たちから調達した騎馬隊があったと言われている
九州説の大馬鹿学者と同じだ。 >>859
>170キロなら一日に40数キロ
>フルマラソンすら2時間〜4時間で進めるのだから行けるだろう
もはや、救いようの無いアホ 秀吉の中国大返しは、4日かけて高松城→姫路城を踏破したんじゃなかったか?
6月4日出発、7日姫路着
1日当たり60〜70キロ >4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? >>862はこれを愚直に信じている畿内説の馬鹿学者か? 馬で行くのもたいへんだよ
慣れている人ばかりならともかく >4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? 生年不明になっているのは天智と双子で忌み子扱いだった、
とかはないか? >>862
>4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? 下がりすぎたので (*^_^*)あげ(*^_^*) 下がりすぎたので (*^_^*)あげ(*^_^*)
>>862
>4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ZVCP4 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
RLI 蘇我は河内上宮法皇(アマタリシヒコ大王)の大臣
上宮法皇一家死亡は大和による暗殺の可能性
大王に支配されていた大和は終に入鹿をも暗殺し河内を倒した
同年、難波(大王の首都)に大和孝徳が遷都を宣言したのがその証拠
大和が倭国の全権を握ったので大化を最初の年号と国史はする
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/amatarisihiko.htm
その後、百済の崩壊で政権はめまぐるしく変わり、血脈は国史とは異なる
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm アマタラシ系を滅ぼした蘇我
オキナガタラシ系(大津皇子)を滅ぼした鴨と天武
天武朝は自壊して、
皇統は月に戻る
天之御蔭 日之御蔭と隠坐て 龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと
草薙剣に祟られたのにも訳がある
大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、応神天皇 上宮法皇の暗殺は大和かもしれないし蘇我かもしれない
上宮法皇の死から孝徳の遷都までは河内と大和の抗争 大和は河内より古い政権
河内が4ー5世紀に有力になったが大和は倒れなかった
6世紀淀川水系(継体)が有力になったが河内も大和も勢力を失わなかった
7世紀はじめ河内が倒れて大和に政権が戻ったのが大化 >>496
そっスね
当時の唐軍の動きを見れば
天武朝の動きも見えてくる 天智称制は王がいないことになっている
元倭国王は存在していた 封禅に行く予定になっているのが元倭国王
大海人皇子のことだろう 「大阿毎」と書けばはっきりする
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm 蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿って蔑称だとおもうが
丈六光銘では巷哥伊奈米、巷哥有明子と書いてるね
蔑称にするなんてパワハラじゃねえのか 丈六光銘には巷哥有明子大臣の長男善徳と書いている
蘇我はみんなまともな名前なんだな
何で書紀は変な漢字にしたのかな? 書紀ってまったくいやな性格だよ つまり、書記を作った側からすると、蘇我を貶める理由があったのだな スメラミコト側からすると政敵ということなのだが
入鹿暗殺後すぐに難波への遷都宣言してるのは難波は蘇我の支配下だったということ
このとき最初の大化年号がつけられたのはスメラミコト側がはじめて全政権を握ったということ?
それまで難波はなんだったんだ?
蘇我はスメラミコトより上だったのではないか だから貶めているんだよ 蘇我氏こそがもともとの倭王で
中大兄に王位を簒奪されたという奇説もあるな。 それ奇説じゃなくて本命にちかい
蘇我が大和系のうえであったとするほうが説明しやすい
「入鹿は権勢を誇ったので誅された」のは蘇我が上位であってもそういえる
入鹿の少し前には倭国王アマタリシヒコ大王がいたが 日本史にはでてこない
蘇我はアマタリシヒコ大王の大臣じゃないかとおもうのだがな 蘇我氏は急進的なテクノクラート集団だったのさ
だから潰された 蘇我は臣だけれどテクノクラートだとしてもいいよ
急進的なとは大和になかった技術をもっていたということかい?それは何?
テクノクラートを潰したのだとすると名前を貶めたことがわからない 書紀は改竄しているから 物語的なのはやむをえない
書紀から史実は読み解けない
まず確実な資料から動かぬ史実を押さえて 書紀は参考程度に読むべし >入鹿暗殺後すぐに難波への遷都宣言してるのは難波は蘇我の支配下だったということ
最近の考古学の成果では686年(朱鳥元)正月に全焼してしまった難波宮築城はどうやら7世紀後期中葉以降(670年代?)ではないかと示唆されています
そもそも大化の改新自体がなく、あったとしても7世紀後期の改革ではなかったかとされていて乙巳の変も年代が下る可能性があります 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 なるほど前期難波宮の完成は後ろにずれ込む可能性ありということですか
書紀でも645に遷都を宣言しましたが落成には時間がかかっています
書紀の大化の改新の諸政策は今や後世の潤色とされています
ところで幸徳はなぜ難波に遷都宣言したのでしょう
これは事実でしょう、実際前期難波宮は遺跡として存在していますから
遷都宣言を645年として難波ってどういうところだったのでしょう?
四天王寺がありました。四天王寺で賑わっていただけでしょうか? >>900
遣隋使の使節団をもてなす迎賓館(鴻臚館)が難波にあっただろ
当時は瀬戸内海を通って大阪湾に着岸していた
孝徳天皇は港町の難波に本拠地を置くことで積極的な対外交渉をしようとした 埋め立てた進んだ現在、難波宮跡は内陸にあるが
当時は上町台地の西まで海が入り込んでおり
難波宮跡は海を見下ろす高台に位置していた 難波には大伴氏の本拠地があった。
仁徳天皇は難波に住んでいた。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 仁徳は堀江を開削して河内湖を排水した 大阪市内の大川は仁徳の土木工事の結果できた
ここに港ができ半島との交流も盛んになった 迎賓館もあったようだ
仁徳はここに宮を作った 南門から丹比までのまっすぐの道を作った(潤色説もあるが堀江の開削よりやさしい)
河内は商工業の中心地となった 百舌鳥古市古墳の人々は難波を拠点にした人々
中でも雄略(ワカタケル大王)は鉄武具の統一で全国制覇した倭の五王の武
武から100年後ハイセイセイが泊まった迎賓館は難波の迎賓館
このときの倭国王はアマタリシヒコ大王
推古とハイセイセイが会ったとする書紀はアマタリシヒコ大王の存在を否定
ハイセイセイが来た時の倭国の都は難波であって明日香ではない
仁徳の丹比への道(難波大道)と孝徳がたてた前期難波宮の中心線は一致する
異論はあるだろうが 難波は明日香より栄えた都だった
こういう事実を踏まえた上で書紀を読みなされ 世界史板でもここのいくつかと同じ長文レスをあちこちで見かけるんだが・・・ 用明と孝徳がほぼ同じ干支年に即位・崩御、名前も寮母も同じというのは。。。
用明即位 585年 45歳 橘豊日 穴穂部間人孝女 崩御47歳 磐余池上陵→53歳に磯長陵に改葬
孝徳即位 645年 45歳 天万豊日 間人孝女 崩御54歳 磯長陵 書紀に書いてある年次・姻戚は適当と疑わねばなりません
正確な文献・金石文・遺跡から史実を構築することです
法隆寺釈迦三尊光背(現存)により上宮法皇は実在しました
後の法王帝説はこの光背を引用して上宮法皇を聖徳太子(厩戸)として取り込もうとしましたが破綻しています
したがって上宮法皇は書紀上の人物とは別に実在しました 彼こそがアマタリシヒコです
磯長(河内)の聖徳太子廟は三棺あって上宮法皇(母・妻と連続死)のものです。
法王帝説と同じく上宮法皇=聖徳太子(厩戸)を主張するために聖徳太子の親の用明の墓を磯長に改葬しんじゃないですか
用明と兄弟の推古の墓も磯長に改葬されていますし、小野妹子の墓も近くにあります まるで物語です
こんなことをして書紀の史実作りをしてるんじゃないですか? 神武天皇稜すらあるわけですから
真実はひとつしかありませんよ
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/amatarisihiko.htm 稲荷山古墳出土鉄剣の金石文もどう頑張っても「ワカタケル」なんて読めやしないのに牽強付会で無理やり雄略としたり
もうむちゃくちゃ 記紀宗教はホントむちゃくちゃ そもそも「ワカタケル」なんて副将軍とか将軍代理くらいの意味で
名前じゃなく役職名だろうにねえ なるほど
稲荷山の「獲加多支鹵大王」は「□かた□ろ大王」とは読める
江田船山の「獲□□□鹵大王」と同一人物と考えてよさそう
年次的には全国統一を果たした「武」が「大王」を称していた
獲加多支鹵大王≠雄略なら書紀の虚偽がひろがるだけで
武とアマタリシヒコが大王を名乗ったことにかわりはない 仁徳天皇陵の被葬者は実は雄略天皇ではないかという説が一時期あったが。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 岡ミサンザイ(現仲哀陵)は5世紀でも新しい段階のもので
多くの研究者はワカタケル大王のものと考えている 稲荷山の「獲加多支鹵大王」は本拠地がシキの宮なんだから崇神天皇だろうに >>916
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、生年不詳 - 崇神天皇10年9月27日頃)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。
第8代孝元天皇皇子で、崇神天皇(第10代)に対する反乱伝承で知られる。
(ウィキペディア)
崇神天皇が欠史八代の正当な後継者なのかどうか微妙。
あるいは簒奪者だったのかもしれない。 河内王朝について
ワカタケル大王からアマタリシヒコ大王までの詳細は不明だけれども河内に王家があったことは古墳からも確実
過去に河内王朝と言った人がいるが河内王朝以前を創作としたのは間違いだろうね
大和には河内より古い勢力あったことが古墳上から証明されている
公費をもらっている学芸員は河内王朝を必ず否定する
河内王朝はあったのだが大和朝廷が唯一とする史学見解を否定することになるからね
天皇陵と称して調査を封鎖しているのは歴史を暴露されるのがいやだからだろう
仁徳天皇陵内の出土品の現物はボストン美術館にある 文字の一つもないのかね
時代があわないとか言いがかりをつけるのは歴史をぼかす目的さ
ボストンに置いたままのほうが改竄されずにすむ
古代東洋史の問題だから中国・韓国とともにやればよろしい 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 孝徳が652に難波宮を完成させたのに すぐ皇太子が上皇・皇后・皇子および公卿百官を連れて大和に戻り
孝徳が落胆して退位しようと山崎に宮を作った が、病を得てなくなったと出ています
孝徳以外の全員で難波を投げ出したような放漫な政治のように見えますが 何があったのですか >>920
それがわかるとよいのだけれど理由はわからないよね
そもそもなんで皇極天皇は退位したんだっけ
後の経緯からすると可能なら退位せずに済ませたかったんだろう
状況からやむなく軽皇子をたてといたが実質権力は皇極・中大兄チーム側にあった
孝徳チームが意向に沿わない路線をやり始めたから対抗するために難波から出て行った… 孝徳が難波に取り残されたころの国内事情や国際情勢で特徴的なものはありますか
一国の王を置き去りにするとは余程大事なことがあって、意見の相違があったとかが
なければ政治能力ゼロを思わせる記述です
書紀はどういうつもりで粗略に書いたのでしょう? >>921
> そもそもなんで皇極天皇は退位したんだっけ
だよなあ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 大化の改新前の中大兄皇子は、大王になれる可能性は高かった?低かった?
中大兄皇子の子供は、なぜ男子が少ないのか?女子は多数いるのに。 いや、こうだと思うね
大化改新は河内国を大和が手に入れた事変
明日香が河内国に威力を見せ付けるために威信をかけて立派な前期難波宮を作った
明日香陣営が難波に乗り込んだが既存の河内勢力との融和はならなかった
これが明日香勢が明日香に戻った現象 孝徳は自分の無力さに失意し崩御した
これを河内の存在を抜きにして語ると書紀のようにはなる
大化白雉ときたが孝徳の死とともに以降年号がないのは大和の政治でなくなったから
その後河内がつけた年号はもちろんあったのさ 大和史観からは空白
>>926
書紀の芸能的な記事には関心がないのだよ 孝徳は難波で内政を主にしているが
次の斉明は内政らきしことをしていない 蝦夷征伐とか百済問題とか将軍のような行動
難波にも明日香にもいた 九州で客死した
王は動かないものだから 倭国王は別に難波にいたのではないかと憶測する 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>929
どこかの寺に推古天皇とトヨトミミ大王が併記されてる資料があったはず
天皇と大王の並立時代があったのかもしれない >>931
聖徳太子は推古天皇の近親者ではなかったのに
強引に系図をくっつけたという説もあるな。 古代日本史は記録の操作があるが
天武天皇が天下を掌握して以降の歴史記録は
おおむね正確で信頼できるのではなかったかな? >>931
丈六光銘のこと?止與彌擧哥斯岐移比彌天皇と等與刀禰ゝ大王が併記されている
609年の作だが原本はなくコピーが747の元興寺縁起資財帳にでている
609年はアマタリシヒコ大王(上宮法皇)存命中で彼以外が大王と記されることはない
スメラミコトはいたかもしれないが大王が倭国王であることは隋書から明らかで
天皇と大王が両巨頭として並存したなんてことはない いずれにしても日本書紀にデタラメが含まれると言えます。
大化の改新に「そもそもなかった」説
『日本書紀』の孝徳紀には645〜647年、天皇が11の詔を下したとあります。
漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。
しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしい。
また、孝徳天皇が営んだとされる前期難波宮は、近年の発掘調査で、もう少し後世の天武天皇の時代のものではないかと見直されている。
律令制度が我が国で本格化するのは、白村江の戦(663年)で敗北し、国内の改革を痛感するようになった天智天皇の時代だ。 書紀は記録でなく700年以降に書いたものだからおのずと潤色となる
実際に孝徳という人は大化の改新に近いことをやったと思う
前期難波宮は掘立だが天武期のものなら礎石ではないのか
孝徳はあまりにもそれまでの政治と違うし
天万豊日天皇から百済扶余豊=孝徳ではないかと思うのだが
扶余豊は623年生まれ643年に倭国にきている
書紀は孝徳を654年に死んだことにしているが生きていたのではないのか
百済の皇子が人質ね 扶余勇を参考にしてもわかるようにすごい人物だと思うよ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >実際に孝徳という人は大化の改新に近いことをやったと思う
やってないと思う
そもそも幸徳なんて天皇の実在性が疑わしい 天智も天武も簒奪者だから間にワンクッション挟んだろっていう潤色 元興寺縁起資財帳(747作)に塔露盤銘(651作)のコピーが載っていて
題名の部分に「難波天皇」という表現がある 年次から孝徳にあたる
豊碕宮ができるまでも上町台地のどこかに宮を作っていたくらいで、孝徳は河内専従
明日香の連中に去られたとき隠居用に山崎(京都府)に宮を用意した 孝徳は明日香に戻るつもりはなかった
孝徳(軽皇子)に天皇位をすすめた鎌子が皇極3年に退去した先の三島郡と山崎は隣接している
大阪北部って当時なにがあったの?
>>938
何で孝徳におおいなる潤色をほどこしたのだろう 吉野宮とか和泉宮とか単なる離宮とは思えないんだな
吉野宮は泊瀬と関係が深そうだし >>934
それだそれ。
並立と書いたのは良くなかったかもしれない
両立くらいの方がよかったか
力関係が等しいとは俺も思っていないんだ >>940
> 大阪北部って当時なにがあったの?
軍事氏族でなおかつ大王家には逆らわない大伴氏の根拠地がそのあたりではなかったか?
違っていたらすまん。 >>942
卑弥呼のときに「共立」がでてくる
共立の意味は各国々の王家から倭国の王が決められた
河内あたりが大王を称し長年倭国王であった
アマタリシヒコ大王は最後の大王で倭国王
河内より古い大和のスメラミコトが倭国王を得たのが孝徳のときと思っている >>943
軽皇子は皇極紀に6回名前はでるが姿は現さない
孝徳は難波専門 退位後は(大伴支配?の)摂津に隣接する山崎を予定
孝徳は大和の人ではないんだろう 敏達の孫として挿入された? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 孝徳の白雉5年遣唐使は「地理と国初の神を問われ答えた」とでる
新唐書に神の名と神武から皇極までの天皇名が並んでいるのはこれに対応する
漢風諡号は700年代にできた説を採用すると
新唐書は和風諡号から漢風諡号に記録を塗り替えたことになるが本当か
また後ろの記事では斉明ではなく天豐財とかかれていたりする
新説として「書紀のあらすじは孝徳のときには出来上がっていた」
「漢風諡号もすでにあった」を提唱する 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>923
皇極天皇はトリカブトで毒殺されたんやで >>952
具体的には誰? 扶余豊が従っているからそれより上位。 >>952
貞観5年の高表仁とのトラブル後22年ブランクで倭国は新羅に着いて使いをした
孝徳の白雉5年の遣唐使は新羅についていった。
653年に義慈王は倭国と友好を通じた。
親子であるなら、もっと早くから友好を通じる。むしろ、新羅人ではないか 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>957
それはないな。
孝徳の和風諡号は天万豊日天皇というところでもあり得ない。
それよりも古代から朝鮮半島に軍事介入し、百済王の王子を人質にしたりと、
当時の日本は朝鮮半島に勢力地、いわゆる植民地があった、と考える方が普通だよ。 >>959
逆 倭国は百済の島流し先
天万豊日の天は大陸出身をさすのではないか
和風諡号は言霊だろうから短く正確に表している >>908
こういう情報が興味深い
書紀の綻びだと思うんだ >>920
>>554と関係しているのではなかろうか? 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之
わたつみの とよはたくもに いりひさし
今夜乃月夜 清明己曽
こよひのつくよ さやにてりこそ (15) 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>963
書紀が古代朝鮮語で読めるとか言い出すと収拾がつかなくなるからやめた方がいいと思います >>920は
翹岐=孝徳 40名の百済貴人をつれて倭国にわたっている 母親も女兄弟も一緒
彼らがいるので 倭国の人が明日香に去っても政治が成り立たなかったわけではない
大陸手法の政治が行われたわけだから大化の改新は潤色と決め付けられない
文化的には半島のほうが進んでいたと思うのははずれていないだろう 実は孝徳は即位しておらず名代として執政しようとしたのでは?
それがウザくて仕方なかった中大兄らが孝徳をハブったが、
彼にも実力で即位するほどの力はなかったことが以後の政治的混迷を生んだ 鎌子は中大兄に「軽皇子は殿下の叔父」といっている
翹岐(=孝徳=軽皇子)は扶余勇(=天智)の叔父
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/koutoku.htm
中大兄が天智天皇でないなら、イルカ殺し、古人殺し、孝徳つぶしなど悪行三昧
中大兄は創作された人物だろう >>961
その情報の出典は「東海姫氏の国−日本書紀謎解き控」(amazon−kindle)
全編そんな話のオンパレードで、まあ妄想も多いんだろうが、いくつかヒントは拾えそう 斉明の葬儀を青笠を被った鬼が見ていた という書紀の不気味な記載
日本書紀の讖緯説的記述の解釈の妥当性 孝徳=翹岐でおちついたようだな
孝徳は皇太子を指定せずになくなった
皇極が孝徳の皇太子として中大兄を指定したのが有効
ところが斉明として皇極が重祚したのは自分で作ったルールを破ったことになる
中大兄はどうなったのじゃ(創作された人物であるからどうでもいいんだ)
だから鬼の話の前に天豊財重日足姫て誰という問題があるのだが 乙巳の変と同時期に高句麗と新羅でもクーデターが起きている
つまり・・・ 当時の人は血筋というのを非常にたいせつにした 王家というのはそういうものだから
その血筋信仰を利用して書紀はありもしない血縁で王をつなげて正統性に信憑性を持たせた
現代でも血縁で書紀を読んでいる人がいるが次の例を見れば嘘であることがバレバレ
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm
ついでにいうと皇極は漢風諡号だから、後世の思想が入っているよ
名前ならむしろ言霊が入っていると見られる天豊財重日足姫で考えるべきだなぁ 殺し合いの世の中だから似たような事件はいつもあるさ 難波を抑えた孝徳を見放した皇極が重祚して倭国王?
難波には孝徳(翹岐)に付いてきた貴人40人がいて許さない
孝徳の後は百済系が倭国王に就位したんだろう
この倭国王のときに百済が潰れ(660)、祖国救援軍を出し敗北したのがハクスキエ(663)
倭国王の存在証明は劉仁軌の条にでてくる倭国王 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 そろそろ次スレたのんます
ワッチョイ入れられるなら入れても良いのでは? 971,979
日本語が変だけど、日本語の勉強を頑張ったんだね。
偉いねー。そこまでして日本のことを知りたいとは。
でも知識が偏って間違っているよ。
当時、朝鮮半島は任那の日本府という勢力地があった。
百済王家に人間は王家内部の争いや隣国との争いなどで、多くの人が日本に逃げてきた。いわゆる難民。
難民を受け入れる余裕が日本にあり、また朝鮮半島から侵略を受けないほどの戦力もあった。
古代朝鮮人は大和と人の行き来はかなりあり、人種的にも近かった。
しかしその後、朝鮮半島は中国や北方民族、そしてモンゴル襲来などにより征服されていった。
そのせいで現代の朝鮮人は、古代朝鮮人と遺伝的つながりが薄い。
遺伝子レベルでは中国と北方民族の末裔となっている。
古代朝鮮人は絶滅したのだろうか。百済王も新羅王も高麗王たちも今はいないのだろう。 中臣鎌足が藤原姓を与えられたのは、死の前日。
本来なら一代限りで諡に近いものだったのだと思う。
それを不比等が藤原姓をなぜか持統天皇から許され、
その後の日本の歴史に深く強く絡んでくるという。
これも言霊の世界か。
不比等を育てた人の中に魔術が仕えた人がいるにちがいない。 一般論をいくら語っても個別の事件が説明できるわけではない
誰がどうしてどうなったかを説明できなきゃひとつも進まない
日本の歴史学が停滞しているのはそのあたりが原因だとサエンガガムニダ >>983
むしろ不比等がもらった藤原姓を親にまで適応させただけじゃない?
本当に鎌足がもらったのなら不比等の兄弟が名乗れないのはおかしい 倭国が「日本」と称したのは新唐書の咸亨元年(670)以降
「任那日本府」が雄略紀や欽明紀に記述されていてもその名前によって倭国領土とはならない
禰軍墓誌にも百済のことを「日本」と書いているのと同じ
倭人は朝鮮半島南部から倭国に分布していたので往来はあった 任那はその半島部分にある
大陸の民族の圧迫により任那の支配者は押されて倭国に渡ったと思われる
欽明紀が任那を激しく記述し失ったといっているのは、逆に任那王が領土を失って倭国に渡り王になったということなのではないか >>986
それは、朝鮮人の妄想だよ。
剣道をコムドとか詐称しているのと同じ。
記述と歴史的事実は変えられない。
朝鮮半島に日本の勢力の任那の日本府があったのは事実だ。
朝鮮半島が日本に助けを求めたのも事実。 当時の半島でしょ、
なぜか上層、支配階級は日本人(いまの日本人と同じ)だったという話ばかり
あと頭の良い人は知っていることなんだけど
とある時代になり、再び現れる三貴神?
下層出身(とある時代になり、再び、現れたときは下層に置かれていた)だったという話 奈良、平安時代頃の話?
出自、身分が低かった・・・そういう話、人物がいたでしょ 出雲・・・猿田〜何やらの話も同じ
百済、新羅・・・などを祀っていると書いてあったり、
なんで知っている人がいるのか?なんだよ
>出雲国に猿田彦を祭神とした赤秦社が多く鎮座す。
>猿の尻は赤いので赤秦と称すが、
>その実は、百済系祭神を赤と称し、
>新羅系祭神を白と称す 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 調べてみた?
同じような名前の人々がいるでしょ、
なぜか東北地方(日本の)のほうに住んでいたり 『ボーボボ』
という作品などがあるでしょ、グーグルで検索してみて
なぜか家の写真と同じだし
葱の華、キュウリのような葉などが写っている写真 松の木が立てられている写真があって・・・
『松傾』?と同じ名前の家だし むかーし住んでいたというころも
伊達郡の山の上のほう、寺院があって・・・通っていたとか 日本国号は670年以降にできた 日本を使って百済をさした例もある
書紀が日本国号ができる以前の雄略や欽明の紀に「任那日本府」と書いた
「任那日本府」という名前で実在したとしても倭国の領土の証拠にはならない(日本は倭国を示すとはかぎらないからだ)
「任那日本府」を書紀がそう名づけたとしたら書紀の政治的見解による後付となる(これを支持する人は古代人を支持している) このスレッドは1000を超えました。
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