天智・天武・壬申の乱などの雑談スレ
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蘇我入鹿全盛期から天武天皇崩御の前後までの時代に関する雑談スレをつくりました。
過疎スレになると思うので「原則として」アゲ進行を推奨します。 >>952
具体的には誰? 扶余豊が従っているからそれより上位。 >>952
貞観5年の高表仁とのトラブル後22年ブランクで倭国は新羅に着いて使いをした
孝徳の白雉5年の遣唐使は新羅についていった。
653年に義慈王は倭国と友好を通じた。
親子であるなら、もっと早くから友好を通じる。むしろ、新羅人ではないか 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>957
それはないな。
孝徳の和風諡号は天万豊日天皇というところでもあり得ない。
それよりも古代から朝鮮半島に軍事介入し、百済王の王子を人質にしたりと、
当時の日本は朝鮮半島に勢力地、いわゆる植民地があった、と考える方が普通だよ。 >>959
逆 倭国は百済の島流し先
天万豊日の天は大陸出身をさすのではないか
和風諡号は言霊だろうから短く正確に表している >>908
こういう情報が興味深い
書紀の綻びだと思うんだ >>920
>>554と関係しているのではなかろうか? 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之
わたつみの とよはたくもに いりひさし
今夜乃月夜 清明己曽
こよひのつくよ さやにてりこそ (15) 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>963
書紀が古代朝鮮語で読めるとか言い出すと収拾がつかなくなるからやめた方がいいと思います >>920は
翹岐=孝徳 40名の百済貴人をつれて倭国にわたっている 母親も女兄弟も一緒
彼らがいるので 倭国の人が明日香に去っても政治が成り立たなかったわけではない
大陸手法の政治が行われたわけだから大化の改新は潤色と決め付けられない
文化的には半島のほうが進んでいたと思うのははずれていないだろう 実は孝徳は即位しておらず名代として執政しようとしたのでは?
それがウザくて仕方なかった中大兄らが孝徳をハブったが、
彼にも実力で即位するほどの力はなかったことが以後の政治的混迷を生んだ 鎌子は中大兄に「軽皇子は殿下の叔父」といっている
翹岐(=孝徳=軽皇子)は扶余勇(=天智)の叔父
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/koutoku.htm
中大兄が天智天皇でないなら、イルカ殺し、古人殺し、孝徳つぶしなど悪行三昧
中大兄は創作された人物だろう >>961
その情報の出典は「東海姫氏の国−日本書紀謎解き控」(amazon−kindle)
全編そんな話のオンパレードで、まあ妄想も多いんだろうが、いくつかヒントは拾えそう 斉明の葬儀を青笠を被った鬼が見ていた という書紀の不気味な記載
日本書紀の讖緯説的記述の解釈の妥当性 孝徳=翹岐でおちついたようだな
孝徳は皇太子を指定せずになくなった
皇極が孝徳の皇太子として中大兄を指定したのが有効
ところが斉明として皇極が重祚したのは自分で作ったルールを破ったことになる
中大兄はどうなったのじゃ(創作された人物であるからどうでもいいんだ)
だから鬼の話の前に天豊財重日足姫て誰という問題があるのだが 乙巳の変と同時期に高句麗と新羅でもクーデターが起きている
つまり・・・ 当時の人は血筋というのを非常にたいせつにした 王家というのはそういうものだから
その血筋信仰を利用して書紀はありもしない血縁で王をつなげて正統性に信憑性を持たせた
現代でも血縁で書紀を読んでいる人がいるが次の例を見れば嘘であることがバレバレ
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm
ついでにいうと皇極は漢風諡号だから、後世の思想が入っているよ
名前ならむしろ言霊が入っていると見られる天豊財重日足姫で考えるべきだなぁ 殺し合いの世の中だから似たような事件はいつもあるさ 難波を抑えた孝徳を見放した皇極が重祚して倭国王?
難波には孝徳(翹岐)に付いてきた貴人40人がいて許さない
孝徳の後は百済系が倭国王に就位したんだろう
この倭国王のときに百済が潰れ(660)、祖国救援軍を出し敗北したのがハクスキエ(663)
倭国王の存在証明は劉仁軌の条にでてくる倭国王 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 そろそろ次スレたのんます
ワッチョイ入れられるなら入れても良いのでは? 971,979
日本語が変だけど、日本語の勉強を頑張ったんだね。
偉いねー。そこまでして日本のことを知りたいとは。
でも知識が偏って間違っているよ。
当時、朝鮮半島は任那の日本府という勢力地があった。
百済王家に人間は王家内部の争いや隣国との争いなどで、多くの人が日本に逃げてきた。いわゆる難民。
難民を受け入れる余裕が日本にあり、また朝鮮半島から侵略を受けないほどの戦力もあった。
古代朝鮮人は大和と人の行き来はかなりあり、人種的にも近かった。
しかしその後、朝鮮半島は中国や北方民族、そしてモンゴル襲来などにより征服されていった。
そのせいで現代の朝鮮人は、古代朝鮮人と遺伝的つながりが薄い。
遺伝子レベルでは中国と北方民族の末裔となっている。
古代朝鮮人は絶滅したのだろうか。百済王も新羅王も高麗王たちも今はいないのだろう。 中臣鎌足が藤原姓を与えられたのは、死の前日。
本来なら一代限りで諡に近いものだったのだと思う。
それを不比等が藤原姓をなぜか持統天皇から許され、
その後の日本の歴史に深く強く絡んでくるという。
これも言霊の世界か。
不比等を育てた人の中に魔術が仕えた人がいるにちがいない。 一般論をいくら語っても個別の事件が説明できるわけではない
誰がどうしてどうなったかを説明できなきゃひとつも進まない
日本の歴史学が停滞しているのはそのあたりが原因だとサエンガガムニダ >>983
むしろ不比等がもらった藤原姓を親にまで適応させただけじゃない?
本当に鎌足がもらったのなら不比等の兄弟が名乗れないのはおかしい 倭国が「日本」と称したのは新唐書の咸亨元年(670)以降
「任那日本府」が雄略紀や欽明紀に記述されていてもその名前によって倭国領土とはならない
禰軍墓誌にも百済のことを「日本」と書いているのと同じ
倭人は朝鮮半島南部から倭国に分布していたので往来はあった 任那はその半島部分にある
大陸の民族の圧迫により任那の支配者は押されて倭国に渡ったと思われる
欽明紀が任那を激しく記述し失ったといっているのは、逆に任那王が領土を失って倭国に渡り王になったということなのではないか >>986
それは、朝鮮人の妄想だよ。
剣道をコムドとか詐称しているのと同じ。
記述と歴史的事実は変えられない。
朝鮮半島に日本の勢力の任那の日本府があったのは事実だ。
朝鮮半島が日本に助けを求めたのも事実。 当時の半島でしょ、
なぜか上層、支配階級は日本人(いまの日本人と同じ)だったという話ばかり
あと頭の良い人は知っていることなんだけど
とある時代になり、再び現れる三貴神?
下層出身(とある時代になり、再び、現れたときは下層に置かれていた)だったという話 奈良、平安時代頃の話?
出自、身分が低かった・・・そういう話、人物がいたでしょ 出雲・・・猿田〜何やらの話も同じ
百済、新羅・・・などを祀っていると書いてあったり、
なんで知っている人がいるのか?なんだよ
>出雲国に猿田彦を祭神とした赤秦社が多く鎮座す。
>猿の尻は赤いので赤秦と称すが、
>その実は、百済系祭神を赤と称し、
>新羅系祭神を白と称す 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 調べてみた?
同じような名前の人々がいるでしょ、
なぜか東北地方(日本の)のほうに住んでいたり 『ボーボボ』
という作品などがあるでしょ、グーグルで検索してみて
なぜか家の写真と同じだし
葱の華、キュウリのような葉などが写っている写真 松の木が立てられている写真があって・・・
『松傾』?と同じ名前の家だし むかーし住んでいたというころも
伊達郡の山の上のほう、寺院があって・・・通っていたとか 日本国号は670年以降にできた 日本を使って百済をさした例もある
書紀が日本国号ができる以前の雄略や欽明の紀に「任那日本府」と書いた
「任那日本府」という名前で実在したとしても倭国の領土の証拠にはならない(日本は倭国を示すとはかぎらないからだ)
「任那日本府」を書紀がそう名づけたとしたら書紀の政治的見解による後付となる(これを支持する人は古代人を支持している) このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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