邪馬台国畿内説 Part257 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501862033/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない
上古音nagが順当であろう
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある
建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆3,6、◆FAQ31,38,43,46を修文 もう九州説に決まっているのになんでスレを続けるかね >>53-54は荒らし
負けてるからイヤガラセする卑しい行為 >>56
このように平気で嘘をつくのが
今の堕落した九州説です
wwwwwwwwwwwwwwwwww 当然のマナーが守れず、注意されると逆ギレする
九州説ジイさんの歪んだ性格がよく出てる >>60
おいおい、53-54の罵倒してたの、だれ? 意味不明な書き込みでレスをつける気力を削りとろうとする畿内説 50レス以上も自説をテンプレとして開陳するのはマナー違反とは言わないのかね? >>66のように
畿内説にまるで反論できず誹謗するだけのなのが
九州説の情けない現状です 九州説がいかにクズ説か
よくわかるね
未だに全く反論できない >>72
お前のやってる中傷が犯罪だろ、世間常識ではな >>73
公開オナニーしてる自覚はあるのか、そこまでの理性は残していたのね >>70
結局また中傷しかできないというテイタラクか九州説 >>77
このように、何もかも歪曲するのがクズ説のやり口 いかんいかん、また畿内説のくだらない罵倒合戦にひきずりこまれていた
あばよ >>77
なぜ>>73の返事が事実だと認めたみたいな話に仕立てられるんだ?
日本語が読めないのか
それともナチュラルボーン嘘つきななのか 大阪から纏向まで歩いたことは無いが
一月もかかるだろうか まとめ(観察結果)
畿内説の論陣に歯が立たないから悪口雑言でウサばらしするだけ
悲惨
w >>85
裴世清はもっと時間かかってる
なんの問題もない >>86
スマン 陸行ですね
川も使ったとしたら、もっとスピードは速まりますね しかし
中傷にかまけたり畿内説を捻じ曲げて大和説にしようと運動したり
アンチはロクなことしないな >>91
何も理由を言わない
それが九州トンデモ説
嗤 畿内のことを倭人伝で書いていないが
七万戸は大和では無理であることから推測せざるを得ない 相手の主張もしていない大和説なるものを捏造し
歪曲したがために生まれた欠陥を攻撃目標にする
まさに詐欺の手口そのものだな >>85
大阪から纏向まで行程を100キロとしたら 1日3キロ進む
同 200キロとしたら 1日6キロ進む
直線では30〜40キロかな 畿内説でいけば
畿内の道路網はあったのだから、
大阪から纏向まで陸行1月はかかりすぎ
姫路、明石あたりで上陸すると、投馬国の比定地から水行10日はかかりすぎ 瀬戸内海ルートとした場合
当時、大阪から九州あたりまで水行で平均どのくらいの日数がかかったのだろうか?
倭人伝では30日
南至投馬國(水行二十日) 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 (水行十日)陸行一月 >>103
2日進んで1日休んでも 進んでる距離は少なすぎると思う 大和説にすると、畿内の国々が多すぎ、卑弥呼を擁立する国の数が倭人伝から乖離する 倭人伝によれば、帯方郡(韓国ソウル付近)から邪馬台国まで12、000余里とあり、
このうち伊都国(福岡県糸島郡)まで10、500里を計上している。
伊都国から邪馬台国まで残りは1、500里に過ぎないので、
比例関係からして邪馬台国は北部九州の域を出ない。
仮に邪馬台国が畿内大和とすれば、倭人伝は 「帯方郡から邪馬台国まで20、000余里」 と表現したはずである。 >>105
大和説に反論したかったら大和説のスレにでも行けば?
ここは畿内説スレだからオフトピは御免被る >>108
1,500里あれば九州から畿内に着くよ 倭人伝は 「倭地は周旋5、000余里」 とする。
この意味は「倭の領域はうねうねと端から端まで5,000余里=400〜500キロ」、である。
一方、同じく倭人伝は狗邪韓国(韓国釜山)〜対馬国〜壱岐国〜末盧国(佐賀県唐津)を3、000余里とする。
この比例関係からすると、仮に邪馬台国が畿内大和であれば、倭人伝は 「倭地は周旋10、0 00余里」 と記載したはずである。 >>111
対馬から女王国の東端まで大体うねうね五千里でしょ
邪馬台国が畿内でなんの問題もない ▲法隆寺五重塔心柱について。
<年輪測定のモノサシに100年の狂いがある>
▲石塚古墳・勝山古墳では、
<(60〜80年)の乖離で、ここでも『100年問題』が生じる>
▲二の畦・横枕遺跡については、
<150〜200年の乖離を生じたが理由不明のまま放置された>
▲池上曽根遺跡については、
<通説より100〜150年も繰り上がった> >>86
じゃあ空を飛ぶのか?
まあ、貴人は輿に乗ったかもしれない。
それなら徒歩よりさらに遅いだろう。 失礼
>>110
地図を広げて,前後を読んで欲しい >>96
大和や畿内と考えるからおかしくなる。
九州なら余裕。 飲尿信者はまだ倭人伝の好き勝手な読み替えなんてのが通じると思ってるんだから笑える
飲尿で脳までアンモニアに浸かってるんだろうなぁ 九州説が
「俺の説が正しいから畿内説は間違いだ」
という論理構造をとる限り
永遠に畿内説に勝つ見込みはない >>108
帯方郡から12000里は女王国まで
邪馬台国は伊都国から水行10日、陸行1月 どのスレだったかな、かなり前の話だよ
「人の褌で相撲」と言っている人がいたけど。
『位置が来る』と同じような意味なのかな。 >>113
法隆寺について
法隆寺は大宰府から移築されたもので何ら問題が無い
明治村(愛知)がよい例です、明治村ができた年と中の建物ができた年代とは違います
なぜなら、素材は移築されたからです >>128
その読み方が間違っているから矛盾だらけになるんだろ?
伊都に郡使が滞在するのに、その伊都が女王国の外だなんて、そんなわけないだろ。
しかも肝心な女王国の場所が明記されてない?
畿内説っておかしいだろ。
帯方郡から女王国の都である伊都まで一万二千里だよ。
あとは日数を追記。 渡来人が作ったものなんだよ
大陸に近いところ・・・畿内より九州でしょ >>131
伊都に郡使が滞在するなんて
倭人伝に書いてないな >>128
地図を広げましたか?
ここがポイントです
<このうち伊都国(福岡県糸島郡)まで10、500里を計上している。 > 渡来人が来る前までの住人は
計算とか出来たの?
木材なら木材、
材料の長さを測ったり 「出来ました^^」
というのは嘘だと思う、後出し、というの? 九州北部の国々は、女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)ではない、即ち倭国でもないというのが、魏志の時点での認識です。
他の地域(ヤマトや九州南部など)の歴史を盗んではいけません。
魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
◎重要なのは、一大率支配下の北部九州や伊都国は、女王国ですらなく倭国でもないこと。 また、畿内説を主張する狂人が論破されてしまっているね。。。。 >>135
短里・長里に関係なく畿内では説明が難しいな 弥生時代のこの青銅器の分布を見てると、北九州や瀬戸内に防人を配していたことが明白。
https://goo.gl/jLePrD
弥生時代後期、すでに都は畿内にあった。
この図は白村江の敗戦後の様相と同じではないか。
この図から狗奴国が静岡にあったことが分かる。
その北にある奴国は恵那であろう。
なぜこのような状況になったかと言うと帥升の朝貢失敗。
朝貢とは軍事的安全保障を意味する。
それが失敗したことで緊張を生んだ。
近江が面白い。
白村江敗戦後、天智天皇も近江に宮を置いた。
第2の都というか避難用の都であった。
弥生時代も同じではなかったか。
伊勢遺跡はそのような意味ではなかったか。
いずれにしてもこういう状況で北九州に都はない。
元寇のあと、博多に都をおこうと言った人間が一人もいないように、
他の地域は別として北九州だけには邪馬台国はない。 こんなところかな
九州説・・・・・倭人伝に忠実な説(多少 歪みはあるが)
畿内説・・・・・倭人伝を参考とする説(ある程度の歪みは許容範囲) 纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落、発掘した学者をして、纒向は外部の勢力の侵入を考えらずには得られないと言わしめている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろうね。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
テンプレは、敢えてこの事実を無視している。 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km 魏志倭人伝当時の日本を理解するには、倭人とは何か、倭国とは何かをはっきりさせる必要がある。 >>142
いろんな見方があるようです。
断定は????????? >>147
あなたの見解だと纏向から九州の土器が多数見つかるとよいですね >>131
>帯方郡から女王国の都である伊都まで一万二千里だよ。
邪馬台国はどこにあるんだい 纏向で閣地方の土器が見つかるのは、古墳造営の労働力としてかり出されたから
北九州は倭国の盟主なので、古墳造営には参加していない 纒向が邪馬台国の王都としたら
王様は非道な奴だな、いっぱい古墳を民に創らせて
民をどう思っているのだ。開墾に使うならまだしも。 >>149
伊都説は九州説の一つですべてでは無い。
吉野ケ里付近を邪馬台国とする説もあるし、
九州説は広義で邪馬台国は九州にあったでよいでしょう。
纒向のように一つに絞る方法もありますが、ちょっと?
畿内説では箸墓に至るまで卑弥呼の墓の比定地も変わっています。いまだホケノにこだわる人もいます。
今後、どうなるかは定かではありません。畿内に新たな卑弥呼の墓の候補が発掘されるかも しかも鉄器ゼロ青銅器ゼロ
木製鍬でしぬまで働かせたんだぜ
200回近く掘った結果だから間違いない >>145
対馬海流に流されて、末羅國(松浦)は有り得ない。
魏使はおろか、朝鮮通信使も一度として松浦に上陸などしていない。
末羅國は相島経由の福津近辺である。 @阿波 畿内は掘りつくされた感もあります。
九州に発掘調査の予算をもっとつければよいのですが・・・・・・ 纏向はもう一つの天孫降臨ニギハヤヒの物部郷。
物部の謂れしかない。
いい加減、ヒミコがいた王都であったなんて幻想は捨てよう。 >>151
ヤマト王権は封建制度だから、
朝廷は律令だがね 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 短絡的だけど
畿内だと卑弥呼一族は非道な奴に見えてきた 卑弥呼の時代は寒冷化時代になっていたので、半島経由の難民が増加したんだよ
その難民を喰わせるため、畿内に大規模な古墳を造ったんだね
公共事業の先駆ですね
ある程度古墳を造った後は、東国に難民を送って開拓させたんだ >半島経由の難民が増加した
大嘘
半島系の土器が無いことから、邪馬台国では無いと結論づけられようとしているのに 畿内は九州の弥生土器さえ出ないからな。
鉄も含めて九州から畿内への物資の流通が殆ど無い。 九州の弥生土器のかけらがひとかけらでたとか、
筑紫風鍛冶ふいごのかけらが出たのが大ニュースになるレベルで、
畿内には九州の物が少ない。 >>164
何個?
>>162
が完全に否定されるレベルのごくわずかな欠片しか出てないよね どんどん九州説が正しい証拠が集まってくる
畿内説終わってるな 飲尿カルト教団は飲尿スレあるんだからそこで思う存分妄想の話披露して来い
誰もお前のバカ話なんて聞いてないw 倭人伝によると、邪馬台国は九州から出る鉄鏃や骨鏃を使っていたらしいが、
畿内は石鏃が主でよくて銅鏃だから、
石鏃のほうが鉄鏃より威力があるという世にも珍妙な検証結果をひねり出したのだが、
なんと首都には木鏃しか無いという衝撃の事実w 256の>>962
>「南≠東」で×。 ってのは、魏使が畿内に入っていないという事実を認めるなら
倭人からの伝聞に由来する、間違い又は騙され、が成立する。<
魏使らは周髀算経の方向の決め方を知っている事になるから、
魏使らは方向を殆ど間違えない。
>実際問題、中国の史書で使者が畿内に入ったのは60裴世清0年のだけだろ?<
隋使の時の裴清は、大和に入っていない。
延喜講記と古田分析に拠れば、唐使の裴世清が大和に来たのは、初唐の「武徳中」の事。 >>145
「わかっている」と、口先でしょ言うだけで
根拠は何も無いんでしょ?
話にならないな わかっていない時なら、何を主張しても責任は発生しない。
おっきな建物が見つかった。
だからここが王宮のあった首都だ。
いいだろう。
だが、
わかってしまった時になって、嘘とわかって主張するのはどうか?
200回掘って何も無いことが分かった。
おっきな建物も他に見つかった。
わかってしまったのに、主張したのなら責任が生じる。 >>984
何も、史料事実の証拠を出さない。
何も理由を言わない。
それが・・・・大和のとんでも説。 いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>174
デマご苦労
よその大型建物は後の時代のものだから関係なし これなんかどうかな
(纏向デジタルミュージアム)
http://makimuku.jp/makimuku1.html
03 遠く海外からも技術者らが纏向にやってきた
纏向の街づくりには、朝鮮半島からも技術者などが参加したことが少しずつわかってきた。・・・ >>175
典型的だなあ
遺跡から出た土器全体の何%とか、
随伴して何がもたらされたのかとか、
分析は一切なし
ベニバナの花粉でわらしべ長者したり
多鈕細文鏡2枚を拡大解釈したり
倭人伝に記載のない桃から空想ワールドを展開するのと同じ >>178
後の時代?
同じ3世紀でしょ?
同じ3世紀に、もっと立派な建物があるのなら、
じゃあそこも何らかの首都だったの?どういうこと?
という考証がテンプレに必須。
何度も指摘されているのに、
のらりくらりと逃げまくって、
「何の反論もなし」と、
考古学ファンを心底がっかりさせる言葉逃れだけ。 いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>174
そんなウソばかりついてると近いうち閻魔に舌抜かれるぞ 256の>>981
>妄想だというなら、邪馬台国がどういう連合体をつくっていたが
倭人伝と整合する説明をしないとな <
「其餘旁國遠絶、不可得詳」の記載と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」とが、
はっきり別のものとしての記載になっているから、
卑弥呼共立連合は、九州及びその周辺地域になる。 >>182
3世紀に他のが見つかったのも問題だが、
3世紀以降に後継施設が見つからないのも問題。
北部九州では回廊がついた王宮が倉庫群と同じ集落の別区画に見つかっているからな。 >>181
出てるという事実の前にトンデモ九州説は無力 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明が一切ナッシング 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 256の>>994
理由もなく決めつけばっかり。
それが大和説だよな 。 >>182
大きな建物があるから首都だなんて
誰も言ってないな これまでのスレで議論はほぼし尽くしたからな。
もうまともに議論したら負けることは確定だから
決めつけで印象操作するしかないのだろう。 いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>191
出てるという事実でお前の珍説はもう死んだ >>194
そりゃそうだ
倉庫があるから首都なんて
誰も言えやしないな >>192
こういうウソをついてる限り東遷説の復活は無い バカは消しやすくて助かる
透明あぼーんでせいぜい独り言繰り返してくれ 256の>>995
なぜに大和説者は証拠を出さないか?・
それは全てがウソだから。 >>198
自分では無いが、元スレは、
>>167
>九州の弥生土器のかけらがひとかけらでたとか、
>筑紫風鍛冶ふいごのかけらが出たのが大ニュースになるレベルで、
>畿内には九州の物が少ない
これを否定するために、九州式の庄内が出ていると反論したのが畿内説。
であるから、九州式の庄内がせめて数十%のレベルは無いと、
>>167を否定したことにはならない。
だが現実には、九州式の庄内はごくわずか。
よって、
>>198
お前は完全に論破されている。
データも示せずにのたうち回るだけ。 >>204
あらら、倉庫と言われて反論なし?w
心の底では認めちゃってるんだ?w
ダサーw 256の>>996
証拠が出せなくて逃げてるのはアンチ九州説だ 。
それは、誰が見てもバレることなのに 、
平気で嘘を言う 。
それが大和説の異常な現状。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 纏向は古墳造営前線基地で、掘立柱建物は倉庫だろうね。 @阿波 >>205
残念でした
纒向で出た庄内式土器のの中に九州産があることが判明した時点で「九州産の土器が少ない」の根拠が失われた >>63
このように、アンチ九州説や、大和説はくだらない。 >>65
平気で嘘をつく「アンチ九州説=大和説」の異常さ。 >>213
悔しいのうw
悔しいのうw
外来土器が15%
悔しいのうw
九州土器は0.1%
悔しいのうw
朝鮮土器は3欠片
悔しいのうwww >朝鮮土器は3欠片
朝鮮式と確定してるのってあったか?
ソース示せよな >>208
根拠のない主張をしたお前が恥かいてるだけ >庄内式土器のの中に九州産があることが判明した時点で「九州産の土器が少ない」の根拠が失われた
だからさあ
この考え方が大迷惑って言ってるんだよ
あることが判明→少ないの根拠が失われた=いっぱいあったー
だろ?
みんな迷惑してんだよ、そのバカ脳にさ
さらに斜め方向にパワーアップして
鉄器ゼロなのに3世紀首都にしてみたり
中国ゼロ出土なのに中国鏡にしてみたりさ >>220
さあ、倉庫と王宮の違いを論じてみようか!
自説の根幹をなす論拠だから、もちろん学術的に違いを説明できるのだろう
どんな解答ができるのか、みんなが注目してるぞ!
九州には回廊付きの王宮があるから、それも引用してみたらいいよ! >>69
九州説に、まるで反論できず、誹謗するだけのなのが 、
大和説の情けない現状です 。 >>74
大和説がいかにクズ説か 、
よくわかるね。
未だに全く反論できない 。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>78
結局また中傷しかできないというテイタラクか?、大和説 。 >>221
>あることが判明→少ないの根拠が失われた=いっぱいあったー
>だろ?
あんたの脳の構造に疑問がある >>229
九州産の土器が少ないかどうかを論じているわけで、
あるかどうかを論じているわけではない
問題をすりかえて誤魔化しているのはお前の方だ
まあ、いつものことだがな
議論したら絶対に勝てないから
卑屈な言葉遊びで逃げるしかない可哀想な奴w
悔しかったら、九州式の土器が何%あるのか示してみな
もっと悔しくなるだろうけどw いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>149
>>>131
>>帯方郡から女王国の都である伊都まで一万二千里だよ。
>
>邪馬台国はどこにあるんだい
伊都国の言い換えだよ。
固有名詞ではないからね。 >>156
>畿内は掘りつくされた感もあります。
>九州に発掘調査の予算をもっとつければよいのですが・・・・・・
平原遺跡が卑弥呼の墓なら、もう発掘は済んでいることになるのだが。 >>235
他にも王墓があるだろうし
各種工房やら王宮跡やら普通に眠ってるっしょ >>175
>>>167
>九州で作られた庄内式土器が出てるよ
なんで畿内説は出土した数とか量とかを気にしないのかね?
難癖つけているヤクザみたいなもの。 九州島の東京ともいわれる福岡は
九州新幹線によるストロー現象やアジアへの地理的近さもあって
21世紀日本で一番景気がいい都市の1位を争ってるから
なかなか土地代が高くて難しいのです。
どこかとちがって・・・ >>194
>>>182
>大きな建物があるから首都だなんて
>誰も言ってないな
ますます畿内説の根拠がなくなるよw
畿内説は、ああ言えばこう言う、どこかのカルト教団の広報みたいだ。 1個どころか0個でも強引に強請ってきますからね
ベニバナとか桃の種とか倭人伝になくてマイナスでも >>200
>>>192
>こういうウソをついてる限り東遷説の復活は無い
東遷って、畿内説のことだよね。 神武東征と明記されてるのだけれど、それだと畿内に来ないから、
決壊した時の保険で東遷説を連呼しているらしいです >>231
おやおや、論理というものが分からないのか
頭がそうとう悪いようだ 回廊付の王宮ってもしかして吉武高木遺跡の事言ってる? >>244
ごたくはいいから何%か示せよw
それを示せない時点でお前の完敗W
俺は乾杯www
こめん、もうしちゃってるwww
圧勝すぎてwww >>237
では聞くが、九州の土器が少ないという根拠は何だい? 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>243
相手が言ってもいないことを捏造して非難するなんて、畿内説は卑怯だな。 >>249
はいはい
論点を、どうして示す必要があるんだ?
というところにずらすんですねw
九州式土器が多いことを示せば、それで勝ちなのだが
現実は「九州式土器は少ない」から、示せない
だから、あれこれと論点をずらして逃げるだけ
いつものことですねw >>251
九州説に対する反論で、東遷説という言葉を多用しますよね いや、ちょっと聞きたいんだけど回廊付の王宮ってどこの事言ってる?
吉武高木遺跡なのか? いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 纒向遺跡が当時の日本全国の他の遺跡と異なる一番の特長は、鍬(くわ)などの農耕具が極端に少ないこと。
一方「鋤(すき)」といった現代のスコップに当たる土木工事に使う道具が圧倒的に多いこと。 つまり農業を全くしない人たちが集まったのだ。 食料を作ることすら許されず
「木製」鋤で巨大な・・・ 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>257
奈良と京都と大阪では違うだろ。
どうやら奈良県民は詐欺師のようだ。
その典型が>>1 >>252
いや別に多いことを示す必要もない
なぜそんな必要があると? >>263
九州式土器が少ない、という事実を論破しようとしたのがお前だから
論破できないのなら、
九州式土器は少ないということで決着 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 3世紀に鉄器ゼロって、
現代だろ電気も通ってないまさかの原始集落の大発見? いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>267
ウソコピペの登場頻度が高くなってきたな
九州珍説また今日も敗退のサイン >>254
あーそこか
回廊付王宮とか言ってるからなにかと思った >>258
なんだ、巫女1,000人は土木作業員だったのか
本当に非道だな クズの誘導に引っかかるなよw
クズが逸らしたいのは、「半島系の土器がゼロ」ってところ
半島を経由して魏と外交していた邪馬台国ではないことが
はっきりと証明されるからな
だから九州系土器なんて持ち出して
のらりくらりとかわして
いつの間にか九州説の方に情報提供を求めてくる。
東遷説を持ち出すのと同じく
いつもの卑劣な手段だw >>274
あそこは倉庫群と首長館が明確に分かれてはいるのだが、
規模からして邪馬台国の首都ではないだろうな >>278
言い回して誤魔化すだけで
理系的には何も示していないから 半島系の土器がゼロって、明らかに邪馬台国では無いなあ 北部九州説というか、伊都説で決着はついているからな
そうでないと言うなら、逃げるんじゃなくてその根拠を示さないと 平塚川添遺跡のある朝倉市周辺って思いきり庄内土器分布域だな
平塚川添遺跡から外に向けての土器や祭祀、墓制の広がりは全く見られない
そしてここの土器は周りの土器と連動してない
要は孤立してる
つまり「ごく近くでさえも」周囲に影響を及ぼしてない
これが北部九州を少なくとも支配下に入れてる邪馬台国の都ねぇ
なにいってんだかね >>280
根拠が言えないの?
それじゃあんたは論破されました 証拠は?根拠は?は負けた根拠と証拠
しかし、巫女千人慰安婦説(笑) 平塚川添遺跡の支持者は「ここを中心として北部九州を勢力下に入れた7万戸の国が邪馬台国」って言いたいんだよな?
でもこの遺跡から周りに影響なんて及ぼせてない
大きな環濠に囲まれてるがその周囲に留まる集落に過ぎない存在なのが分かる
そしてこの地域は畿内の庄内式土器に取り囲まれてるようになっている
つまりむしろ九州の各クニグニが個々孤立して周りと連携しておらず、地域全体が畿内の強い影響下にあるのが明確になってるだけ
遺跡一つ見つかって浮かれあがってる辺り当時の状況を全く理解できてないとしか言いようがないな >>284
>平塚川添遺跡から外に向けての土器や祭祀、墓制の広がりは全く見られない
物資を吸い上げる側ならそれでいい。
物資が集まらない纒向みたいなのは都ではない。
あと、墓制は九州で普通の甕棺だろ?
何を印象操作しようとしているんだ?
詐欺師か? 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 >>286
九州説側が、畿内に九州系土器が少ない、と言ったことに対して、
そうじゃないと言ったのが、そちら
それをグダグダと言い回して、言葉回しで逃げ回って
結論だけ書きこんだのが、そちら
卑劣だねえ
恥ずかしいとかいう感情もないのだろうね
現実は、九州系土器は少ないのだから、あんたの負け 九州説の本命は、伊都説だろ。
狗奴国の平塚川添を持ち出してなに騙ってんだボケ 畿内が邪馬台国として有力なのはただ纏向と言う遺跡が見つかってるからだけじゃない
弥生時代後期から始まる他地域の墓制や土器の個性の壁を突き破って全国的にその影響を広めている事に大きな根拠がある
九州は畿内に限らず山陰や四国などからも一方的に影響を受け続けている状態なのが分かっている
これは貢ぎ物などではなく生活様式一式、祭祀や墓制と言う根本的な部分まで浸食されている状況を表している
その中心地に纏向があるという図式
このような中心性は九州には全く見受けられない
だから大きな遺跡が多少見つかったところでこの状況に何の変化もない
九州に当時の中心的場所などない
それ故に九州説など成り立たないわけだ
お分かり? 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>292
邪馬台国側の前線じゃないのか?
守りが固いし。 >>294
鉄器がないからなあ
>全国的にその影響を広めている
九州から全国的に押しつけられたことを
あたかも自分が開始したかのごとく勘違いしてるんじゃないの? 自信が無くなると他説批判に走る畿内説
ここは畿内説のスレ、畿内説を語るスレ 流れを見てると畿内厨が不利みたいですね。
邪馬台国の時代には、ロクな出土品がないのだから、まぁ当然ですがね。
土器の搬入と政治的な支配関係を結びつけるやり方がそもそもなんの根拠もない。 >>294
>弥生時代後期から始まる他地域の墓制や土器の個性の壁を突き破って全国的にその影響を広めている事に大きな根拠がある
それ、妄想。
>九州は畿内に限らず山陰や四国などからも一方的に影響を受け続けている状態なのが分かっている
西日本全域から筑紫が富を吸い上げていたんだろ。
鏡などの威信材の分布を見れば、権力の中枢は明らかに筑紫。 >土器の搬入と政治的な支配関係を結びつけるやり方
ダブスタだからな
畿内への各地土器搬入>貢物
博多への畿内土器搬入>入植
小学生でもわかる矛盾 平塚川添も吉野ヶ里も同じ
そこだけで終わっていて外に何も影響を及ぼせてない
九州はそもそも東も西も中部も南部も全て別文化圏として存在してる
邪馬台国を九州だけに限定したとしてもそれでさえも中心地など九州のどこにも見出せない
九州説なんて考古学知ってたらとても言えない話 纒向なんて、東海からちょろちょろと搬入している程度。
他の地域からは東海経由でおこぼれに預かっていただけ。
瀬戸内海との交易すらままならなかった。 >>303
鏡文化圏、銅矛文化圏の中心はどこだ?
福岡だろう。
銅鐸?
そんなものは魏志倭人伝に出てこないよ? 伊都平原で決まりっしょ
内行花文が全国展開
超大型を5つも所有
破鏡文化
福岡県の古墳群の副葬品の豪華さはそのご数百年ダントツですし >>303
平原1号墓の重要性が再発見された今、こうした紋切り型の九州説批判は如何にも陳腐ですね。 >>291
で、九州説側が、畿内に九州系土器が少ない、と言った
しかし九州説側は、畿内に九州系土器が少ない、という根拠が出せない
出せないで罵り出した
つまり九州説側は論破された
これ以外の結論は無いでしょ
>>299
九州説側が配色濃いと名入りで登場し
根拠のない九州説有利判定をするという・・・
印象操作としては逆効果w >>309
は?
九州式土器が0.3%かそれ未満!!
これで決着!!!
違うというなら根拠を示せ 銅鐸?
これも勘違いしてる人が多いが弥生時代の後期に入ってかなり早い段階で大和国では見られなくなってる
銅鐸の中心地は近江や東海地方
集団祭祀を放棄して大規模化していく過程にちょうど合致する
そして銅矛に関しては弥生時代後期になると九州では甕棺共々一気に衰退する
ちょうど倭国大乱の頃に当たる
今まで銅矛を各地に供給してた北部九州の衰退と各集落の小集落化と時期を同じくする
そしてその頃になると吉備や庄内土器の流入が目に見えて増えるようになる
銅鏡については最早かつてのような大量副葬するような中心地を無くしている
辺縁部に数枚程度の出土が見られる状況になっている
また最後の大量副葬を伴う平原は殆どが古い鏡を鋳つぶした国産鏡で最早かつてのような舶来鏡を持てなくなっている事を表している
鏡の分布を言うのであればこれはこの時期に九州の中心的勢力が崩壊してしまった証拠となる 朝鮮式土器が無い事実から逸らすために、九州式土器に論点ずらしする
九州説から逸らすために、東遷説を強調する
伊都平原説から逸らすために、吉野ヶ里や平塚川添 平塚川添遺跡は川と繋がった多重環濠だから唐古鍵と同じ長江流域系の環濠だな
環濠内からは鉄製品は出土していない
吉野ヶ里はV字の空環壕、満鮮ブタ地域のタイプ >>313
>銅鐸の中心地は近江や東海地方
纒向は東海の傘下、近江孫請け。
何が王都だ。 >>313
>今まで銅矛を各地に供給してた北部九州の衰退と各集落の小集落化と時期を同じくする
>そしてその頃になると吉備や庄内土器の流入が目に見えて増えるようになる
伊都への中央集権化だろ。
そして女王の支配域の拡大。 >>319
鉄器がない地域は女王と敵対した地域だから気をつけて! >>313
で書いたように
畿内は弥生時代後期に入るとそれまでの小中集落の乱立から大規模な国が生まれている状況が観察される
そして逆に九州ではそれまで存在していた九州北部を影響下に入れていた勢力が崩壊して小集落単位に分裂している様相が明確になっている
そのような流れの中で九州は周辺地域の強い干渉を受け続け、特に有力なった畿内の勢力の強い影響下に入っていく状況が見えてくる
邪馬台国の頃には九州は弱体化、衰退の様相が強く表れていて、各地域からの侵入を受け続けているというのが現実
九州一つどころか北部九州さえもまとめるよう勢力も中心地も既に失われている
こんなところに邪馬台国などあろうはずがない >>313
>また最後の大量副葬を伴う平原は殆どが古い鏡を鋳つぶした国産鏡で最早かつてのような舶来鏡を持てなくなっている事を表している
後漢鏡を超える超大型鏡の国産化に成功したんだよ。
技術力が高くなっており、国力が増大している。
伊都こそ倭国の繁栄の象徴。 >>317
いや、確たる証拠のある事実
九州説側はまた論破されました >>321
>そして逆に九州ではそれまで存在していた九州北部を影響下に入れていた勢力が崩壊して小集落単位に分裂している様相が明確になっている
意図的に伊都国を無視している? 畿内から平原遺跡と同じくらいの副葬品が出てきたら畿内説も考慮してあげようw だから鏡がちょっと見つかりました、鉄器が見つかりました、大きな建物がありました
はい、邪馬台国です
とかもう考古学もなんにも知らない素人くさい浮かれっぷりだなと失笑しか出ない >>321
よく平気で嘘をつくなあ。
本当に信じているなら、早くカルトから目を覚ませるべきだな。 >>323
伊都国は九州内部での影響力が明らかに弱体化してるでしょ >>321
結局、土器の搬入だけが論拠の妄想ですね。
大型内行花文鏡の畿内への展開を無視している そもそも平塚川添遺跡でも銅矛は既に放棄されて砥石になってる
もう北部九州を影響下に収めた勢力のシンボルなんて廃材として再利用する程度の扱いになってるわけだ >>329
反論できないと罵るばかりの九州説は
もちろん廃車もとい敗者
>>330
いや、お前が何を言っているのか本気でわからん。
頭おかしい? 伊都国だのなんだのの遺跡も周りに何の影響も及ぼせてない
そしてその周辺は取り囲まれるように畿内の土器に覆われている
「千戸だけの小規模で王も監視されている伊都国」
の状態と合致するわけだ
どこを切り取ったところで九州に邪馬台国なんて設定できない >>333
その廃材すら手に入れられない纒向が哀れ >>336
影響って、何を想定している?
今日まで八咫の鏡を三種の神器としているのは影響とは言わないのかね? >>331
また嘘をつく
葬制が語られてることを無視
大型内行花文鏡は単なる文化の伝播だと反論されてることも無視>>335 >>314
朝鮮式土器3片
とっくに出てるよ
>>180 【伊都国】
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族だけがいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていたと考えられる。 >>338
三種の神器? なんの話?
周りに何の影響も及ぼせてないだろ
周りに! >>344
九州説側は、畿内に九州系土器が少ない、という根拠が出せない
出せないで罵り出した
事実でしょ?
いくら罵っても事実は覆せない 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明が一切ナッシング >>340
特定の鏡種への極めて強い指向ですよ。
それが単なる文化の伝播?過小評価にも程がある。
平原からは割竹型木棺も畿内に先駆けてますね。 >>352
単なる文化の伝播じゃないという理由は? >>352
単なる文化の伝播だと反論されてることは知ってるよね。
無視してるというのはウソだ。 そもそもの話「九州勢力」など存在しない
九州は弥生時代全部を通して一度もまとまった事などない
そしてまた他地域に影響を及ぼせてない
九州は北、東、中部、南部に大きく分かれている
いわゆる北が伊都国、奴国等の地域だがこれも最盛期ですら西北部をまとめる程度でしかない
東は出雲などの山陰、四国などに強く影響され、南に至っては奈良時代まで別文化圏
銅矛の分布なども四国の西北部に広がる程度でそれより先には殆ど広まらない
出雲が出来た頃には瀬戸内海、山陰からは遮断されている
また土器に至っては畿内で須玖式の「欠片」が見つかっただけで大騒ぎになるくらい
九州は最盛期でさえも九州から外に対して殆ど存在感を示せていないのが分かる
「強大な九州」など存在してないのが分かる 土器の搬入は「支配の証拠」
内行花文鏡の展開は「文化の伝播」
畿内厨の幸せ回路発動中でしょうかね >>340
権力の象徴を文化の伝播にすり替えるなよ。 >>357
そんなこと言ったって証拠は?
また捏造? >>355
反論になってない。
苦しい言い逃れに過ぎない。 >>357
>土器の搬入は「支配の証拠」
それ、誰が言った? 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明がここまで一切ナッシン >>364
でも、単なる文化の伝播だと反論されてることは知ってるよね。
無視してるという岡上は明らかにウソついてるよね? 倭人伝にあるように
カリスマ卑弥呼が亡くなると
互いに争いを始めます。
つまり各小国が独自に動かせる軍事力が
あったということを示します。
九州の各小国はそれぞれが独自に軍事力を持ち、
カリスマ卑弥呼に応じて兵を出すこともあったでしょうが
基本的には独立国家でしょうね。
統一中央軍などはまだなかったと
考えて良いでしょう >>367
今回は俺は岡上を支持する
お前がウソじゃボケ >>361
騙されるな
花粉ででっちあげる奴らだからな >>375
引き上げるって、ここ畿内説スレですしおすし 「生活様式から祭祀、墓制まで他地域に塗りつぶされて自分から外に何も影響を出してないが、九州は何の影響も受けてないどころか他地域を支配してた邪馬台国です」
とか言ってるんだから最早九州説とやらが何を主張してるのかサッパリわからんね 今日のスレ今一度読み返してみなさい
畿内説ほとんど、答えて無いかトンデモ。 柳田の論文をわざわざ捏造歪曲してるから
単なる無知ではない
騙す側 ほとんど言い返せなくなった畿内説がかわいそうになってきた
九州説には憐憫の情がないのか >>380
また畿内厨が適当なこと書いてますね。
内行花文鏡と割竹型木棺、葬制の深奥部分が平原と古墳文化が直結している。
これは逃げようのない事実、直視しないと。 >>385
こういう嘘をつくようになった九州説は末期症状 土器は弥生時代後期に入ると各地域でかなりハッキリとした排他的個性が現れる
その土器の分布は墓制や祭器の分布とも連動していてそこに現れた「国」と呼んでいい地域の領域を示していると考えられる
ところが弥生時代の後期後半に入るとこの個性の壁を破ってそれまでにない広範囲の分布を示す土器や墓制が現れる
これは単なる文化の伝播などではなく他地域の排他的な国境や支配者のシンボルたる墓制や祭祀を一つの方向にまとめ上げる存在の出現を表しているとみられる
その中心地が吉備や畿内
そしてその他地域への影響力の伝播の中心地に纏向遺跡が現れる
このような広域にわたる中心地など日本の他のどんな大遺跡を持ち出しても該当しない
ましてやその影響を色濃く受けているのが明確な九州にそんな拠点など存在してないのは明白
九州に邪馬台国など求める事など到底できないのが分かる 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 やられたらやり返すは、わかるが返り討ちにあう畿内説 >朝鮮式土器3片
朝鮮土器や朝鮮住居や朝鮮送風管などは圧倒的に筑紫だろう
はるか以前の釣り針からして同じだし
大戦中に大阪に直行船便ができてからは大阪生野区に1位の座を明け渡したが
性犯罪率に関しては現在も大阪に次ぐ全国第2位の座を固守している >>389
これは単なる文化の伝播などではなく他地域の排他的な国境や支配者のシンボルたる墓制や祭祀を一つの方向にまとめ上げる存在の出現を表しているとみられる
その中心地が「阿波」
そしてその他地域への影響力の伝播の中心地に鮎喰川下流域集落群がある。 @阿波 >>383
確認するから、
柳田論文のどこを捏造歪曲してるのか教えて 巫女千人慰安婦説
↓
これなら、住居跡が無くても良いで賞 九州説は次から次に湧くように後続者がでてくるのに
畿内厨は一人
これじゃ勝てるわけがない >>393
ほら逃げた
つまり岡上の主張にはなんの根拠もない 九州は肝心の邪馬台国の時代には中小の集落に分裂して各々孤立した状態を呈している
倭人伝に描かれていると思われる北部九州にのみに限定したとしてもココをまとめるような勢力も中心地も存在しない
そして南方に視点を移したとしてもここは奈良に至るまで独自の文化圏を維持していて北部九州を支配してた邪馬台国の存在など見出せない
逆に北部九州のこの地域は畿内や吉備の土器が広くハッキリと分布する地域となっている
これは倭人伝にある「女王国の強い影響下にある九州」という状況に合致する
考古学的な発見と倭人伝の記述を併せてみればその記載された状況が明確に現れてくるのが分かる
九州説など根本から成り立たない >>401
自分の不勉強は全部棚上げですか。
畿内厨は手に負えない。
柳田も寺澤も等しく認めるところでしょ。
畿内説の立場でも十分に平原は評価可能なんですよ。
脊髄反射で九州のことはなんでも否定するから畿内厨と蔑まされるんです。 入賞
1、巫女千人土木作業員説
2、倭人伝によれば、帯方郡(韓国ソウル付近)から邪馬台国まで12、000余里とあり、
このうち伊都国(福岡県糸島郡)まで10、500里を計上している。
伊都国から邪馬台国まで残りは1、500里に過ぎないので、
比例関係からして邪馬台国は北部九州の域を出ない。
仮に邪馬台国が畿内大和とすれば、倭人伝は 「帯方郡から邪馬台国まで20、000余里」 と表現したはずである >>404
罵って誤魔化そうとし始めたな
つまり
証拠が出せないんだね? >>398
249スレ 693 日本@名無史さん 2017/07/13 20:24:48
柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(平原王墓p22)
「近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
大型鏡の・・・銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の・・・主文配置のずれ、L字文の逆方
向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」 >>404
そういうゴマカシばかりしてるからトンデモ説は大衆の支持を受けられないんだよね >>408
糸厨の犯行現場また晒される
wwwwwwwwwwwwwwwww >>407
証拠は畿内の前期古墳古墳ですよ。
下池山、柳本大塚。
平原の大型鏡と見比べてみれば? 多少の鏡だの大きな建物だのもうそんなもので決まる話じゃなくなっている
ちょうど邪馬台国の時代前後に九州から関東に至る広範囲に影響を及ぼす中心地など畿内以外に存在しない
その畿内の影響を明確に受けた上に、己からは他地域に全く影響を見せてない九州など論外としか言いようがない
この影響力の拡大も唐突に現れたのではなく弥生時代後期から始まる国の形成と影響力の暫時拡大という前提の上にある
どの時代を切り取ろうと、どの場所を切り取ろうとこのような場所は他に設定できない 伊都国を邪馬台国にデッチあげようなんて
無理筋に決まってるのにね
文献、考古どっちも敵だよ >>412
それがどうして証拠になるの?
何を言ってるのかワケがわからない >>413
また詭弁。
大型内向花文鏡を無視した立論なんて、なんのなんの価値も価値もないんですよ。極論ですが。 >>416
これが証拠にならないと言い張るあなたの思考回路がワケわかりませんね。 これも入賞
岡上
自分の不勉強は全部棚上げですか。
畿内厨は手に負えない。 世の中にはちょっと変わったものを集める趣味の人がいるからな >>412
こんな風にちゃんとした文章にできない無能さがトンデモ九州説爺さんには妙に共通してる >>418
だから、それが何の証拠になるの?
ちゃんと論じられないの? >>424
畿内厨がウザすぎですので、これで失礼。
古墳時代前期の鏡文化も無視して畿内厨はどこに向かってるんですかね? これ畿内説得意の罵声の典型ね
421日本@名無史さん2017/08/08(火) 21:17:28.75
>>417
反論になってない
422日本@名無史さん2017/08/08(火) 21:17:43.94
>>418
言い張るだけ?
423日本@名無史さん2017/08/08(火) 21:18:43.53
>>419
ウスバカ大賞
424日本@名無史さん2017/08/08(火) 21:18:46.18
>>412
こんな風にちゃんとした文章にできない無能さがトンデモ九州説爺さんには妙に共通してる 盲信しているだけの人は他人にそれを説明できない
自分はそれを理解している、というのが錯覚なのだから >>427
実に痛いところを突かれたろ
だから逃亡した >>426
古墳時代前期の鏡文化を無視したって証拠は? >>426
正解
バカを相手にしたらキリがない
おれもこれで失礼
どうせ、逃げたとカキコムのでしょうね
バカを相手にしたくないだけですので失礼 畿内厨言われっぱなしも癪なので、一つ論文を紹介。「鏡の階層性」 で検索してみてください。 >>413
ちょうど邪馬台国の時代前後に九州から関東に至る広範囲に影響を及ぼす中心地など「阿波」以外に存在しない >>426
そんな誤魔化しが世間に通じるものなら
どんな証拠を求められた時にも
味の素のフタでも出せばよい
それがなんの証拠になるのか説明できないで可なのだから 畿内説の罵声攻撃は威力あるな
論客2人追い出しちゃった 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>441
九州説に論客などいない
何も論じていないから いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>356
>九州は北、東、中部、南部に大きく分かれている
>いわゆる北が伊都国、奴国等の地域だがこれも最盛期ですら西北部をまとめる程度でしかない
>東は出雲などの山陰、四国などに強く影響され、南に至っては奈良時代まで別文化圏
これ、何か意味あるの? >>389
>その中心地が吉備や畿内
>そしてその他地域への影響力の伝播の中心地に纏向遺跡が現れる
嘘つき >>402
病気は畿内説。
何にも根拠のないことを信じ込んでいる。 九州説が好んで使う鏡など九州の衰退をハッキリと示す証拠にしかなってない
最盛期の頃のような大量副葬は既に見られなくなり、平原は古い鏡を鋳つぶした国産鏡でかつてのように海外から鏡を得られなくなった状況を示している
そしてその後は辺縁に数枚の出土が見られる程度に分散してしまっている
しかもその鏡は小型の国産鏡が主体となっている
見つかる鏡の鏡種もバラバラで広い配布の中心のような存在も見られない
鏡を持ち出せば持ち出すほど「弥生時代後期の九州は中心を失い崩壊している」と言う証となるのが分かる >>403
>逆に北部九州のこの地域は畿内や吉備の土器が広くハッキリと分布する地域となっている
畿内の土器ってなんのこと?
妄想? >>404
>脊髄反射で九州のことはなんでも否定するから畿内厨と蔑まされるんです。
鋭いこと言うなw
確かにその通りだ。 >>413
>多少の鏡だの大きな建物だのもうそんなもので決まる話じゃなくなっている
大きな墓があるから邪馬台国と言い張るくせに。 >>420
歴代天皇は変わった趣味として八咫の鏡を継承してきたのかw
自分で言っていてアホな主張だと思わないのか? >>431
鏡文化で言えば、圧倒的に九州北部、それも伊都国だろう。 >>441
畿内説は声が大きいだけで中身がない。
証拠もない。
文献もない。 >>389
これは単なる文化の伝播などではなく他地域の排他的な国境や支配者のシンボルたる墓制や祭祀を一つの方向にまとめ上げる存在の出現を表しているとみられる
その中心地が『阿波』
そしてその他地域への影響力の伝播の中心地に『鮎喰川下流域集落群』がある。 @阿波 >>462
また証拠もなく悪口ですか
負けた人はミットモナイですね >>450
>最盛期の頃のような大量副葬は既に見られなくなり、平原は古い鏡を鋳つぶした国産鏡でかつてのように海外から鏡を得られなくなった状況を示している
平原遺跡は、倭国の製造技術の向上と、卑弥呼の元への膨大な富と権力の一極集中の現れだよ。 九州に邪馬台国などない理由
「弥生時代後期の九州は中心を失い小集落に分裂している」
(鏡も衰退と分裂を示す証拠にしかなってない)
「福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち畿内の影響下にあるのが色濃く見えている」
「九州は弥生時代を通じて他地域に影響を殆ど及ぼせてない」
「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
(適当にどこかに邪馬台国を設定しても北地域を勢力下に入れていた邪馬台国になり得ない)
「九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている」
「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある」
この前提を全て覆すような発見など最早あり得ないと言っていい状態であり九州など論外 >>441
岡上が逃げたのはウソがバレたからだよ
尻に帆かけて逃亡さ >>455
誰かそんなこと言った?
九州南部とかは九州内でも無視されていて、倭国女王はひたすら中国の方だけを向いているよ。
九州をまとめる必要なんかないし、九州説は伊都が九州をまとめたなんて主張はしていない。
筑紫こそ至高であり、他は蛮族だから。
卑弥呼はひたすら魏を頼りとして、その産物を集めて着飾っていた。
それこそ倭国の姿だ。 >>466
筑紫は頼りとする物が平原だけだもんなぁ〜 邪馬台国は厳しいなぁ @阿波 >>463
古墳前期がそもそも関係ない。
邪馬台国は弥生末期。
年代観の捏造乙。 >>467
それくらい膨大な富が伊都にあったということでしょう。
魏志倭人伝に登場する莫大な財宝のやりとりも、さもあらん。 >>468
>「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
九州全域をまとめる必要がある? >>472-473
カジノでスッテンテンになった男が
「イカサマだぁぁぁ!」
と泣きながら叫んでる >>468
>(適当にどこかに邪馬台国を設定しても北地域を勢力下に入れていた邪馬台国になり得ない)
九州北部だけが、いや福岡県だけが邪馬台国だよ。 >>476
狗奴国と争ってんだから、纏まってるほうがおかしいわな 出土品からベイズ統計法に当てはめると九州の確立は高い
だからと言ってなんだと言われそうですが
参考という事で >>481
だよな。
貧乏すぎて戦う余力すらなさそうな纒向は論外。 >>410
困った人だな
量は関係ないだろ
朝鮮人が北九州を越えて纏向に入ってるのが大事 >>485
>九州説は今日一日だけでどんだけ詐欺やった?
カジノでスッテンテンになった男が
「イカサマだぁぁぁ!」
と泣きながら叫んでる >>408
えーと、確認したけど、そのとおりですね
どこが捏造だと? >>492
まさ詐欺をごまかして言抜けできると思ってる? >>492
平原1号が三世紀だと言ってるように読んだ人が誤解するよう
姑息な細工がされてる >>468
それ張り付けでしょうが
その反論、思い出せないがどなたかしてましたよ 九州全域がまとまったのは
景行天皇のモデルとなった豪族が肥を従属させ、
豊、熊襲を下したあとですね。
流れとしては景行記の記録に準拠して
良いと思います。
ただし景行天皇から神功皇后まで
畿内には戻った形跡がないので、
記紀編纂のときに、九州の豪族の話し
を組み込んだものでしょうね >>496
柳田は平原は3世紀と言ってますよ
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。瑪瑙や琥珀の玉類
は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化さ
れ、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下
がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が
出土しているが公表されていない。」 今日は畿内説のレベル低すぎます。
明日に期待します。 >>500
それ、何年に書いた文章?
伊都厨まだ詐欺続ける気? >>476
3世紀には北、東、中部の九州勢力は統一されていた
これが邪馬台国だ。 >>502
女王国以北に置いたと書かれてるからだよ 倭人伝には女王国30国の記述がある。
和名称による肥前と肥後の郡名は25国と近い数値となっている。
合併て25国となったのか、
それとも筑後方面を入れて30国だったのか? >>506
それなら伊都国の王が置いたことになるだろw >>504
どうする?
纒向集落のみの出土品で勝負するか
それとも纒向集落+ホケノvs九州出土品+平原出土品で朝まで徹底討論するか >>459
歴代天皇には平原のような変わった趣味はない
捏造するな、ちょんぼ伊都厨 >>511
何年に書いた文章だか答えられないの?
また詐欺? 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明がここまで一切ナッシン >>513
畿内だと中部地方か北陸に置いたことになる 北部九州邪馬台国だと、
北部九州から好きなだけ海外交流できるし、その考古学的遺物も豊富
平原女王墓もある
じゃあ、
畿内邪馬台国が海外交流した証拠ってなによ? >>522
中国出土ゼロの国産鏡
鉄器ゼロの辺境倉庫
朝鮮土器ゼロの辺境集落
ミジメだな >>504
2002年って書いてあるね
確認したけど捏造はなさそうだよ >>529
中国からゼロ枚出土
200回近く発掘調査して鉄器ゼロ
朝鮮土器ゼロ >>530
2002年って書いてあるという証拠は? >>531
魏志倭人伝に記されているように、
魏と交流するには朝鮮半島との交流が必須であり
倭人は朝鮮半島で鉄を採掘していると明記されており
朝鮮半島との交流があることが
邪馬台国の最低条件であるから。 >>530
畿内厨の詐欺連呼による詐欺だな
モウシネヨ
wwwwww 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明がここまで一切ナッシン >>533
さっきから見てるが、あんた自身は何も示せないんだな?
あんたが>>1だとしたら、説としては終わってるね >>528
玄関口の博多湾沿岸に朝鮮半島系集落(韓濊人)があればいいだけ >>538
玄関の博多湾に鉄器も朝鮮集落も女王墓もあって
弥生最大の工房住居密集地帯がまるで現代の博多のように広がっているのなら
鉄器も朝鮮土器も住居も無い
木器だけの
僻地の内陸集落ってなんなんだろうね?w >>533
本読めばいいだけでしょ
金がなけりゃ図書館へどーぞ >>535
証拠が出せないんなら2002だって言い張ってるのが詐欺では? 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>533
こんなのもあるよ
・柳田康雄「弥生王権論」2016
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 >>544
いくらでも出せるけど
どうしてもらいたいの? >>539
韓濊人を支配してるわけではないから
強制移住させるわけにはいかん >>543
つまり通説どおり2世紀後半で問題ないわけだね >>547
うんうん
栄えている首都には自主的に人が集まるね
外国人ですらも
ってことは、朝鮮土器が自主的に集まっている博多と
ゼロの辺境内陸集落だと・・・ >>549
日本に伝来するには年余が必要だからなあ
3世紀だろうね >>545
それが実際は1982年に書かれた論文だからだよ >>549
大型鏡、瑪瑙も考慮すると3世紀中頃で間違いないでしょう >>552
2002年に追認しているなら2002年の解釈だね 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明がここまで一切ナッシン 鉄器も青銅器もなんにもない
朝鮮土器も海外交流の痕跡もなんにもない
その説明ができないから
必死で話題そらししてるミジメな説w なに必死になってんの??
考古学的にも
3世紀に鉄器があるなんて当たり前じゃない!w
三国志東夷伝で、鉄器があることをわざわざ説明された国なんてないよ!
3世紀にもなって
鉄器ゼロの集落なんてあったら
陳寿がビックリして絶対に記されてるって!w 魏にとって鉄器が有る無しは関係ないよ
倭人伝には産物のほうを書いている
郡の周りの国が鉄武器を十分に持ってるほうが危険だからな >>562
>考古学的にも
>3世紀に鉄器があるなんて当たり前じゃない!w
>三国志東夷伝で、鉄器があることをわざわざ説明された国なんてないよ!
鉄器なんて、あるのが当たり前www
逆に、東夷伝で鉄器が無い地域ってどこよ?w 柳田は原田に遠慮したんだろう
原田が死んで年代否定も本来の自分の考えを出してきたんだろうな
鏡も岡村編年案にかみついてるようだし >>513
「以って」という語は、その対象を含むんだよ。
つまり、伊都は直轄地で、伊都の周りの国も伊都の一大率が支配した。
つまり伊都が倭国の首都であり、女王国。 郡を維持するのに戦費がかさむから倭国の産物を扱う
楽浪商人から税金とらないとな 鉄器が無くて朝鮮土器もないとなると
トポロジー的に、未知の荒野であろう 金印があって、三種の神器があって、女王墓があって、鉄も銅も硯もあり、魏の使いも滞在した伊都が倭国の王都。
人がいない、物がない纒向は比べるまでもなく名もなき辺境の地。 >>554
嘘はダメだね
2002年時点ではこれらホウ製鏡の制作年代を
「起源200年前後の後漢の動乱期であり、中国製品が入手困難な時期に符合する」p38
としている
つまり追認していない 九州に邪馬台国などない理由
@「弥生時代後期の九州は中心を失い小集落に分裂している」
(鏡も大量副葬は無くなり各地に分散した状態で見つかり、主体は国産の小型鏡。鏡は衰退と分裂を示す証拠にしかなってない)
A「福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち畿内の影響下にあるのが色濃く見えている」
B「九州は弥生時代を通じて他地域に影響を殆ど及ぼせてない」
(畿内に至っては須玖式の欠片が見つかって騒ぎになるくらいのレベルでしかない)
C「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
(適当にどこかに邪馬台国を設定しても北地域を勢力下に入れていた邪馬台国になり得ず肝心の北はAの状態)
D「九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている」
E「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある」
(九州は北九州に限定しても中心と呼べる地域も、まとまりも見られずAの状態になっている)
この前提を全て覆すような発見など最早あり得ないと言っていい状態で九州など論外だと分かる >>571
>@鏡も大量副葬は無くなり
正反対だろ
平原女王墓が出現してるじゃんwww
>A福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち
年貢の献上ご苦労!w
>B九州は弥生時代を通じて他地域に影響を
内行花文鏡を持った将軍達が大量に侵入してるじゃん!w
>C「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
平原女王墓に対抗できる王墓なし
つまりまとまっている
逆に、九州がまとまっていないのなら、
外部勢力が九州を制圧したこともないわけである
>D九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている
なにが根拠〜??
>E「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある
ダメダメ〜
鉄器が無いよんwww 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明がここまで一切ナッシン 北部九州が鉄器を掃いて捨てるほど使っていたのだから
その北部九州を支配したというのであれば
鉄器を掃いて捨てるほど使っていたことが最低条件であろう >>572
しかも伊都国王は女王国に統属してる
つまり女王の配下に過ぎないんだよね >>570
それは中国に平原鏡と類似品があるとすればという仮定の話だw
これこそタメにする議論だな 石鏃は鉄鏃より強力らしいけど、
木鏃ってどうなの?
そんなんで激流に流される女王()を狗奴国から守れんの? >>580
もう踊らなくてもいいよw
誰も信じてないからw >>570
本を持っているようだから >>500 が事実かどうか確認してくれませんか? 倭人伝にある伊都国の姿と考古学的な九州の状態の姿は合致している
福岡を中心としたかつての北部九州の中心地は畿内勢力の影響下にあり、孤立するようにその土器の分布が空いている小規模な地域が伊都国
逆に伊都国からは周りに影響を与えるような状況になく完全に孤立しているのが分かる
地元である九州北部にさえ干渉できず、逆に遥か彼方の畿内の影響に完全に埋没してる伊都国の状態が見て取れる
これは千戸しかない小集落の状態で女王国に監視されているという伊都国の描写そのものと言っていい
こんなところが邪馬台国であるはずがないのは言うまでもない 鉄器が無くて朝鮮土器もないとなると
トポロジー的に、未知の荒野であろう >>586
可哀そうにw
伊都こそが首都
平原こそが女王墓
否定できるもんならしてみ?w 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>581
どっちにせよ柳田が再調査前の80年代の考えを追認したというのはウソな >>591
どっちにせよ
平原が卑弥呼の墓ってのは確定な >>585
訂正された昔の見解だよ
柳田の結論は平原王墓が西新式以前の墓だということ
二世紀末だ この前の放送で
平原が卑弥呼の墓ってのは十分にありうるって言ってたぞ
どうすんの?www >>592
考古学にも文献学にも逆らって
どうやって確定するの? 大量の舶載鏡と
五尺鏡と
中国朱
それに対して
木器と
鏡2欠片と
あとは木器と銅鐸片
ぷげらっちょ
はげらっちょwww >>595
考古学にも文献学も誤解釈して
どうやって捏造するの? >>595
文献学からすると、
うーん、北部九州だなあ
考古学からすると、
うーん、鉄器ゼロ集落は脱落だなあ
やっぱ銅鏡大量の平原が女王墓でいいんじゃね? 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明がここまで一切ナッシン >>599
文献学も考古学も知らん人が何をいうやら 大規模な国の形成の進む弥生時代後期になって時代に逆行するように分裂し小集落化していく九州は急激に周辺地域の干渉を受けるようになる
そのような流れの中で山陰、吉備、畿内、四国の勢力が九州を分割するように影響力を行使しはじめる
「鉄を大量に持つ強大な軍事力を持つ九州」など存在せず、小村落の規模のまま大国化していく周辺国に呑み込まれていく姿が見て取れる
そして邪馬台国の頃になると福岡周辺を中心に畿内の影響が明確に現れるようになっていく
この流れは弥生時代後期からその後の古墳時代にまで断続的に続き次第に強まっていく
その為どの時代を切り取ったところで九州に主体的な勢力など見出す事が出来ず邪馬台国などないのが分かる >>602
だから木器と銅鐸片から何をみちびくんだよお前は?w
エスパーか?w >>593
ウソはやめようや
柳田の論文はほとんど持ってるけどそんな事実はないし、
近年の論文では土器は無視してるよ
なにしろ土器の現物は公表されてない(どこにあるの?)らしいからなw >>603
何の根拠も示さずに
おのれの希望だけを垂れ流しか
木器でどう説明する? >>604
湿地の泥搔き上げるには木製が合ってるんだよ
銅鐸片刃もう銅鐸祭祀が終わってた証拠 平原の時代を仮に3世紀の邪馬台国に持ってきたところで状況は変化しない
>>571で示したように九州は既に中心と呼べる周囲に影響を及ぼす国も、大きなまとまりもなく、周辺地域の影響下に落ちている状態
特に伊都国周辺は畿内土器に取り囲まれ孤立した状態であることに何の変りもない
ここで見つかる「古い銅鏡を鋳つぶして作った国産鏡」の数々は、
外国鏡を手に入れる事も出来なくなり周辺に干渉も出来なくなった伊都国王の衰退した終焉の姿と言うだけでしかない
平原が邪馬台国の時代であろうがなかろうが最早何の意味もない >>608
1も必死だなぁ
平原で衰退とか、無理すぎでしょ だから突出した権力を象徴する平原が頂点の内行花文鏡が畿内に分布してるだろ
それを無視して何を主張してるんだこのボケはw
それを上回る物があるかというと、
画文帯と、なんと内行花文鏡の欠片のみw
あとは木製品と土製品が並んで
北部九州に貢いでるだけ いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 繰り返しになるが>>571の状況になっている事から分かるように
「都道府県、地方単位の国」として成長している九州以外の各地域の国々と、
「中心を失いそれまでの集落のレベルで個々バラバラになっている九州」と言うのが邪馬台国前夜から邪馬台国の時代にかけての日本の姿
九州は既に中央でも大国でもなく、周囲の大国の影響下にある「地方」と成り下がっている
倭人伝でも女王国メンバーではなく「統属」した地域であると言う通りの姿なのが分かる
「九州が先進の大国である」と言う思い込みそのものが現実と大きく乖離している
九州は「女王国の属領」であって決して中心の邪馬台国でなどあり得ない >>612
それお前の願望じゃんw
じゃあ、
3世紀にまともな王墓も無い各地域と
甕棺墓が消えて平原女王墓にまとまった九州と
説明してみろよw 大量の舶載鏡と
五尺鏡と
中国朱
それに対して
木器と
鏡2欠片と
あとは木器と銅鐸片
ぷげらっちょ
はげらっちょwww >>612
繰り返しになるが、突出した権力を象徴する平原が頂点の内行花文鏡が畿内に分布している。それを無視して九州衰退などあり得ない
www ヤベエwww
消えかかった蝋燭の火を誰が吹き消すのかwww
俺?
お前?
岡上?
キングエンジンまじはんぱねーwww 邪馬台国は「やまとこく」じゃないのか?天照大神が卑弥呼という説まであるそうだが。 >>605
おいおい、またウソついてるな
>柳田の論文はほとんど持ってるけどそんな事実はないし、
ウソウソ
「王墓の時期が西新式土器より古いことが確定した。」p299
>近年の論文では土器は無視してるよ
>なにしろ土器の現物は公表されてない(どこにあるの?)らしいからなw
ウソウソ
それは1982年の文章
近年じゃない 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>580
じゃあ纒向には倭国王はいなかったということで。 平原の鏡は殆どすべてが古い鏡を鋳つぶした国産鏡でしかない
大量の船載鏡を出すような場所はすでに九州に無い
周辺部に数枚の鏡を出す程度になり主体も国産の小型鏡に移る
どこの遺跡のどの遺物もかつての須玖岡本や三雲時代に比べるべくもなく、国産鏡ばかりの平原でさえもその後に続くものが無い
鏡一点をもってしても九州の衰退はいうまでもなく明らか
「先進地域の大国の九州」などそもそも存在してないのが分かる >平原の鏡は殆どすべてが古い鏡を鋳つぶした国産鏡でしかない
洛陽に戻ったばかりの魏では、
古い鏡を鋳つぶした国産鏡にしか見えない銅鏡を作っていたんですね
銅鏡の専門家が認めています
九州で大量の船載鏡を出しているわけですね
対して畿内では・・・
中国出土ゼロの国産鏡が・・・
副葬状況からすると粗末な扱い・・・ >>586
伊都国を含む九州北部の状況こそ、戦乱に明け暮れる倭国の姿。
卑弥呼の時代は奇跡的に平原女王の卑弥呼に権力が集中できたが、それでもすぐ南に狗奴国があり対立していた。
戦乱の後すらない能天気な辺境の地である纒向は邪馬台国や倭国ではない。
まして、瀬戸内の娘を共立しただなどという頭の中がお花畑な妄想は、魏志倭人伝から程遠い。 3世紀の頂点は平原だが
大王が日本各地を転戦した4世紀は別として、
5世紀6世紀にはそれまでを遥かに凌駕する金銀財宝が
北部九州から出土するのだが
よって、お前は嘘だまし >>593
そもそも土器が副葬されていないのに、土器で年代って、ただのコンタミネーションだよ。
ちゃんと鏡の編年を考えようよ。
明らかに後漢鏡ではないのだから、魏の時代の卑弥呼の墓に他ならない。 >>603
>そのような流れの中で山陰、吉備、畿内、四国の勢力が九州を分割するように影響力を行使しはじめる
そうじゃない。
筑紫が西日本全域を支配し始めたんだ。 まともに議論に応じると論破される
だから論点ずらして
必死に逃げるしかない
だがそうすると
純真な考古学ファンがドン引きしてアンチになっていく
詰んだ? >>627
記紀にもそう記されているから「日本人なら」誰も文句はない >>608
>外国鏡を手に入れる事も出来なくなり周辺に干渉も出来なくなった伊都国王の衰退した終焉の姿と言うだけでしかない
バカジャネーノ
じゃあ、それすらもない纒向は何なんだよ。 最終的には日本列島全体が、平原遺跡の三種の神器と同じものを象徴とする天皇家の支配下になるよねえ。
纒向には何にもない。
桃の種や魚の骨は、何の証拠にもならないよ。 平原1号は素環頭大刀を棺の上から封印するように首元に交差させてるし
鏡は全部割られてるし、三雲の硯、楽浪土器、大型建物跡(4c)地点から見えない
曽根丘陵の西側斜面だしな >>617
九州北部にヤマトという地名がいくつかあるよ。
しかも、他にも多くの地名が九州北部から畿内に移転しているよ。
畿内は丸ごと九州筑紫の影響下に置かれるんだよ。 またさらに時代が進むと福岡周辺は中規模の前方後円墳の築造される墓所となる
前方後円墳のその分布の在り様から福岡地域の地位は高いとは言えず、むしろ東部に大型の古墳が目立つようになる
那珂八幡古墳からは畿内の古墳と同じ鋳型の三角縁神獣鏡が数枚見つかる等、中央と地方と言う関係がかなりハッキリと出ている
九州は後の仁徳天皇時代の頃の妃を出した時代になるまでその地位に大きな変化は見えず中心地として機能してはいないのが分かる >>622
>平原の鏡は殆どすべてが古い鏡を鋳つぶした国産鏡でしかない
生産力、技術力の高さだねえ。
>鏡一点をもってしても九州の衰退はいうまでもなく明らか
世界一の超大型鏡5面を含む、史上最多の40面の鏡、2000個の玉、魏から卑弥呼がもらったのと同じサイズの5尺の刀だよ。
古代史上最高の副葬品を前にして衰退とか、どこに目が付いているんだよ。 >>637
つかさ、
大量の副葬品をどう評価してんのよ?
土盛り=近辺の奴隷の数
副葬品=豊かさ
北部九州=とてつもない副葬品=豊か >>631
副葬品以外のものが、周溝に落ちていただけ。
お前は現場を見てないんだろう。 >>631
馬具は?
馬具馬具馬具馬具馬具馬具馬具馬具馬具馬具馬具 九州に邪馬台国などない理由
@「弥生時代後期の九州は中心を失い小集落に分裂している」
(鏡も大量副葬は無くなり各地に分散した状態で見つかり、主体は国産の小型鏡。鏡は衰退と分裂を示す証拠にしかなってない)
A「福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち畿内の影響下にあるのが色濃く見えている」
B「九州は弥生時代を通じて他地域に影響を殆ど及ぼせてない」
(畿内に至っては須玖式の欠片が見つかって騒ぎになるくらいのレベルでしかない)
C「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
(適当にどこかに邪馬台国を設定しても北地域を勢力下に入れていた邪馬台国になり得ず肝心の北はAの状態)
D「九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている」
E「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある」
(九州は北九州に限定しても中心と呼べる地域も、まとまりも見られずAの状態になっている)
特にBは九州北部勢力の全盛期であっても変わらず、影響はほぼ常に「西日本→九州」である
この事が「東征も東遷もない」と言う証拠となっている
古墳時代、飛鳥時代、奈良平安であってもこれは変わらない
この前提を全て覆すような発見など最早あり得ないと言っていい状態で九州など論外だと分かる
ましてや九州王朝説など失笑しか出ない珍説としか言いようがない >>637
>那珂八幡古墳からは畿内の古墳と同じ鋳型の三角縁神獣鏡が数枚見つかる等、中央と地方と言う関係がかなりハッキリと出ている
どっちが中央だと思っているんだよw
別の王権なら、畿内に妃を出していないことに何の意味がある? >>643
>B「九州は弥生時代を通じて他地域に影響を殆ど及ぼせてない」
>特にBは九州北部勢力の全盛期であっても変わらず、影響はほぼ常に「西日本→九州」である
「影響」とか曖昧な言葉を使うなよ。
西日本全域が筑紫に貢物をしていただけだから。 >>643
>@鏡も大量副葬は無くなり
正反対だろ
平原女王墓が出現してるじゃんwww
>A福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち
年貢の献上ご苦労!w
>B九州は弥生時代を通じて他地域に影響を
内行花文鏡を持った将軍達が大量に侵入してるじゃん!w
>C「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
平原女王墓に対抗できる王墓なし
つまりまとまっている
逆に、九州がまとまっていないのなら、
外部勢力が九州を制圧したこともないわけである
>D九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている
なにが根拠〜??
>E「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある
ダメダメ〜
鉄器が無いよんwww 大量の舶載鏡と
五尺鏡と
中国朱
それに対して
木器と
鏡2欠片と
あとは木器と銅鐸片
ぷげらっちょ
はげらっちょwww 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 天麩羅汚ねーw
木製仮面
木製鍬
木鏃
銅鐸片
鉄器も銅器も皆無なのに
なんでこんなもんを使っていたのかの説明がここまで一切ナッシン >>643
>ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170808-00000112-asahi-soci
いくら日本が嫌いだからってこれは無いだろ・・・ 九州の豪族は前提として「前方後円墳という中央によって構築されたシステム」の上にある事に変わりがない
後の江田船山古墳、稲荷山古墳の鉄剣に見られるように地方豪族が大王に服属していることが分かる事からも古墳の状態と地位は合致しているのが分かる
そしてそのシステムの上では九州の豪族は中小規模の地位を示す古墳を構築しているにすぎず、
副葬品に金銀を収めようがそれが王権内においてさしたる効果も及ぼしていないことの証拠にしかならない
単に朝鮮半島や大陸に近く交易品を手に入れやすいというだけで弥生時代の九州の勢力と何ら変わりがないのが分かる >>652
はいはい
で、鉄器ゼロは書類審査で脱落するとして、
どこに王都が?w だから突出した権力を象徴する平原が頂点の内行花文鏡が畿内に分布してるだろ
それを無視して何を主張してるんだこのボケはw
それを上回る物があるかというと、
画文帯と、なんと内行花文鏡の欠片のみw
あとは木製品と土製品が並んで
北部九州に貢いでるだけ >>652
妄想としか言いようがないな。
前方後円墳が畿内の専売特許だと思っている? 集落部分は木器と銅鐸片
頼みの副葬品は内行花文鏡の欠片<平原を前に恥ずかしくて出せないレベル
あらら〜勝負ついちゃってる >>652
おいおい
記紀の通りに
北部九州倭国が全国制圧したのを
ルックバックして誤解釈されても困るぜい いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
長髄彦という先住民がいて
饒速日も持ち出して
神武東征まで詳しく記しておいたのに
なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>652
お前の言う「中央」とやらはどこだ?
3世紀は明らかに平原遺跡がある伊都が絶対的な中央集権を敷いている。
卑弥呼は伊都に一大率を置き、周辺諸国の監視をしていて、皆これを恐れ憚った。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>543
柳田康雄「弥生王権論」2016を見てるなら
「二世紀に所属する墳墓では……三雲寺口墳墓と平原巫女王墳墓であり」p52
を見てなければおかしい
つまり柳田が平原一号を三世紀だと思っている、などという言葉が口から出るはずがない
やはりウソをついてる人だ 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 >>663
>ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170808-00000112-asahi-soci
いくら日本が嫌いだからってこれは無いだろ・・・ 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>660
つまり卑弥呼は伊都国にはいないんだが?
伊都国の王は卑弥呼に統属している
つまり部下である 九州に邪馬台国などない理由
@「弥生時代後期の九州は中心を失い小集落に分裂している」
(鏡も大量副葬は無くなり各地に分散した状態で見つかり、主体は国産の小型鏡。鏡は衰退と分裂を示す証拠にしかなってない)
A「福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち畿内の影響下にあるのが色濃く見えている」
B「九州は弥生時代を通じて他地域に影響を殆ど及ぼせてない」
(畿内に至っては須玖式の欠片が見つかって騒ぎになるくらいのレベルでしかない)
C「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
(適当にどこかに邪馬台国を設定しても北地域を勢力下に入れていた邪馬台国になり得ず肝心の北はAの状態)
D「九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている」
E「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある」
(九州は北九州に限定しても中心と呼べる地域も、まとまりも見られずAの状態になっている)
邪馬台国時代の九州には『北部九州さえまとめる勢力も中心もない』上に『その北部九州は遥か遠くの畿内の影響下に入っている』
こんなところに邪馬台国などあり得るはずがないのが分かる 考古学も文献学も踏みにじらないと九州説は無理ってことね
w >>668
>@鏡も大量副葬は無くなり
正反対だろ
平原女王墓が出現してるじゃんwww
>A福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち
年貢の献上ご苦労!w
>B九州は弥生時代を通じて他地域に影響を
内行花文鏡を持った将軍達が大量に侵入してるじゃん!w
>C「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」
平原女王墓に対抗できる王墓なし
つまりまとまっている
逆に、九州がまとまっていないのなら、
外部勢力が九州を制圧したこともないわけである
>D九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている
なにが根拠〜??
>E「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある
ダメダメ〜
鉄器が無いよんwww 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 古代東アジアでは、漢など中国の皇帝が各地の王の正統性を保障した。
倭国も古来より朝貢を重ね、倭王として冊封を受け、その証として金印、銅鏡(内行花文鏡)、璧などを受け取った。
特に金印は国書において国璽として用いられたと考えられる。
いずれも九州北部から出土し、畿内からは後世の遺跡から出土する例を除き出土しない。
・須玖岡本遺跡(奴国)
青銅矛5本
青銅剣2本
青銅戈1本
中国鏡約30面
ガラス璧
ガラス玉
・三雲南小路遺跡(伊都国)
青銅矛2本
青銅剣1本
青銅戈1本
中国鏡35面
ガラス璧8枚
ガラス玉
青銅製棺金具
倭奴国の王が金印をもらったのは伊都国が反映していた時代であり、後漢書の倭奴国とは魏志倭人伝の伊都国と同じである。
古くから発展し大きな人口を抱えていた奴国すなわち福岡博多に対し、伊都国は倭国大乱の前の後漢の頃に作られた政治と外交のための人工の政治都市であり、人口は少なかった。
平原遺跡の豪華な出土品からわかるように、伊都国は3世紀初頭に最盛期を迎える。
その地を治めた偉大な女王は王権の死後に王権の象徴である周8咫の大型内行花文鏡とともに葬られた。
副葬されなかった鏡は三種の神器として後の天皇家に伝えられた。
糸島平野の東にある高祖山には日向峠やくしふる山などの地名があり、伊都国の王家が八咫の鏡を伝えた日向三代の王家であったと考えられる。
それに続く倭国王であった卑弥呼ももちろん伊都国にいた。 >>667
>つまり卑弥呼は伊都国にはいないんだが?
そんなことは魏志倭人伝に書いてないな。
むしろ王は伊都国にいると書いてある。 そもそも平原遺跡は出土品も「古い鏡を鋳つぶした国産鏡」に過ぎないだけでなく「ただの墓」でしかない
個々を中心に何かしかの影響を周囲に広げているわけでもなく、ただ墓に副葬品を収めているだけのもの
祭祀遺跡などと言うのも小規模なもので、各地土器が出るわけでもなく中央の勢力として祭祀を行ったのではなく、「豪族の私的な葬儀」という程度の物でしかない
つまりこの遺跡からは「外国との主体的な交渉の姿もなく」「周辺のクニグニに対する影響力の中心たる機能もなく」「私財を投じて財物を埋めただけの墓所」というのが分かる
しかも後続する物ない
ただその時代の豪族が財物を使い果たした個人的な墓所と言う性格しか出てこないのが分かる
ここに少なくとも北部九州を影響下に収めた女王なりの墓があるというのはとても考えられない >>673
えー、それではここで対抗馬である畿内の副葬品を見てみましょう。
見て見て、、、あれ? 繰り返しになるが平原遺跡は「祭祀遺跡ではなくただの墓」である
大きな勢力を持ち径100歩の墓を作った巫女としての女王の墓たる祭祀の場としての機能など全く備えていない
墓所で行う葬儀の規模の遺構しか見つからず、周辺諸国の土器や献上品が多く出てくるわけでもない
その副葬品もただの古い鏡を鋳つぶしただけの国産鏡で中国などの大陸との交渉の証でもない
後に続くものがあるわけでもない
平原に過剰な価値を見出すような要素は実は何もないのが分かる >>675
平原遺跡の膨大な玉、水銀朱などは、大陸との強力な結びつきを証明している。
それは畿内が逆立ちしても得られなかったもの。
親魏倭王の称号を持ち、外交手腕に秀でた卑弥呼にふさわしい王墓だよ。
考古学の無視はいけないな。 >>677
そんなことは魏志倭人伝に書いてありません。 >>678
畿内説は発掘品の証拠もなく言い張るだけか。 糸島平野は南の脊振山地の井原山を源流とする瑞梅寺川と
雷山を源流とする雷山川がつくる扇状地だからな
後に宅蘇吉志が住んだ東の高祖山はじゃまになってるだけだもんな >>680
じゃあなぜ中国鏡を手に入れられないの?
支離滅裂 >>679
三種の神器や鳥居の遺構は、平原遺跡が全国に先駆けて神道を完成させた国家祭祀の場であったことを示すものだよ。
そもそも三種の神器は王だけの威信材だからね。 平原はそこで完結してる墓で何かしかの機能を有した場ではない
中央として周辺にも後にも影響を与えてない
ただ衰退して私財を投じた個人的な豪族の墓としての意味しか持ち合わせていないのが分かる >>681
しっかり書いてあるが?
世有王、皆統屬女王國 >>684
もっとすごい鏡を国産化できたから、それを象徴としたんだよ。 >>685
三種の神器が王だけの威信材だって根拠は? >>686
同じような副葬品は南小路遺跡などでも大量に副葬されているから、その程度では財を使い切るというほどでもなかったということだよ。
それほど伊都国は豊かだった。 >>690
ここは日本史板。
あまり無知なことを言うなよ。 >>691
でも2世紀末に使い切っちゃったんでしょ? >>687
その王と女王は同じ人物。
一つの国に二人もいらない。 >>694
卑弥呼より後は、三種の神器は性格を変えて伝世の品となったんだろうね。
そして伊都平原で卑弥呼によって確立された神道の祭祀と伝統は、少しづつ姿を変えながらも今日まで天皇家が継承してきた。
すごく後世に影響を与えているな。 要素を並べてみると平原と言うのがどんなものなのかよく分かろう
@鏡の大半は古い鏡を鋳つぶして作った国産鏡
A周辺地域からの献上品や土器の流入などもなく、逆にこちらから周りに何かの影響を与えているわけでもない
B大規模な祭祀の場ではなく「個人的な葬儀のレベルを超えない程度」の柱跡がある程度
C後続する墓もなくこれを最後に九州の大量副葬の墓はなくなる
・周辺に何の影響も与えてない
・中国との交渉の証ともなっていない
・宗主としての祭祀の場として機能もしてない
・後に影響も与えていなくその後は副葬品も殆どない貧相な墓になる
要素を一つ一つ抽出していくと「財宝を使い果たして終わった個人の豪族の墓」という姿だけが浮かび上がるのが分かる
平原と言うのはその程度の遺跡
繁栄した大国の証ではなく、九州の衰退の決定的なスタートとしての意味が大きい >>690
>三種の神器が王だけの威信材だって根拠は?
お前はどこの国から来たんだ? >>692
鏡・剣・玉は地方の首長だって持ってる威信材でしょ
日本史の常識 >>698
後続する墓がないってのは王墓と言える副葬品のあるレベルって意味でな >>699
答えられないお前はどこの国から来た人? 平原遺跡の特徴
・中国からの大量の輸入品を副葬、特に水銀朱
・世界最大の銅鏡である八咫の鏡を含む三種の神器を副葬
・鏡はいずれも後漢鏡より進化した魏の時代の鏡
・鳥居の痕跡があり、最初期の神道が成立し、後世の祭祀に大きな影響を与えた
・倭国大乱の後の最初の女王墓 >>700
八咫の鏡は倭国の王だけ。
他は小さい鏡のセット。 >>663
柳田は発掘報告書とか伊都博印刷物とか公的性格のものには慎重に2世紀末とか書く、公務員だからな
かたや自分の論文、出版物では3世紀と突っ込んで書く、という傾向だね。
根拠は、平原方形四矩鏡の製造技術が164〜235年のものだということだから、どちらも正しいと言えば正しい。
まあさらに大型鏡、瑪瑙を考慮すれば3世紀は堅いんだろうが、まだ言い切れないんだろう。 >>703
>・倭国大乱の後の最初の女王墓
これだけでも卑弥呼の墓として十分そうなものだが、八咫の鏡まで出てきたからさあ大変w >>684
卑弥呼の頃は倭国大乱もそうだが、その原因は後漢の混乱にあった
中国からの鏡の輸入が途絶えた時期だったんだね
だから国産も始まったんだろう。 >>703
”三種の神器”って弥生時代の九州でありふれた宝物セットだよな
ぜんぜん特別なものじゃない 八咫の鏡などと持て囃しているが現物など誰も見た事がない
想像で「これがそうだ」などと言う話に何の意味があるのか
これで何かを主張してるのならお笑い草でしかない
また平原の祭祀遺跡の柱跡を鳥居だなどとこれまた言いはやしているが2本の柱を立てたものなら何でも鳥居と言える
しかもこれが神道の起源だなどともう呆れるほかない
そもそもその遺跡が作られた『当時でさえ』「周りに何一つ影響を与えず周りからの参加もない」状態で
【その当時でさえ】そうなのに「凄い意味がある場所で多くの影響を与えたのちに続く王の墓だ」とかもう何が何だか
破綻と言うレベルではない 日が沈む方向にある平原は糸島のなかでも女王というような場所じゃない >>711
文章が破綻しているぞ。
急に読みにくくなった。
負けがこんできて血圧が上がっているようだから、今日はもう寝ろ。 倭国全体の王もそうだし、田舎小国王もそうだし
巫女さんが女王様って珍しくない・・ってか結構フツーなんでしょ古代日本 例えば西谷王墓などは吉備をはじめとした周辺のクニグニからの祭祀への参加の痕跡が見られる
多くの謙譲された各地の祭祀用の土器が見つかっているだけでなく、
墓所そのものも「祭壇」として利用できるようにスロープが作られ頂上に祭祀の場があった
そしてこの祭祀は西谷だけにとどまらずに周辺の国や地域でも広まって「影響を相互に与えあっている」
平原にこの要素があるのだろうか
後の日本の源流の多くをここに見出すと言いながらもこの墓だけで完結している程度のどことも関連してない個人簿の域を出ていない
平原を凄いものであるという勘違いそのものが九州説の誤解の原点だろう 柳田は平原の方格規矩四神鏡32面を国産と言ってるけど、
陶氏作、無名の10面は国産だろうが、尚方作(中国の国立工房)の22面は魏鏡だと思うね
つまり240年に卑弥呼に下賜された鏡だ 平原をどこの時代に持って行こうが同じ
周囲に何ら影響を与えていない国産鏡を埋葬しただけの個人墓
周りの地域は庄内土器が分布して畿内の強い影響下にある
結局どう転んでもこういう性格の遺跡であることに変わりはなくとても倭人伝に示されるような王の所在とは言えない
平原に過剰な価値を見出すのがそもそもの間違い
その後の九州の小国分立の状況を見るに、この遺跡は「北部九州をまとめていた勢力の衰退と崩壊の始まり」の場所として理解するべきであると言える >>720
柳田はイト国東遷説だから平原を卑弥呼の墓にはしたくないんだよな
卑弥呼の母親の墓だとか言って女王を捏造する始末
平原の方格規矩鏡に見られる特徴は魏代の鏡の特徴そのものなのに >>720
平原方格鏡の鉛同位体分析で中国産と国産と分析結果が分かれて出たはず ここまで九州説が圧倒してるな
ヤジにしかみえない畿内説 たすけ舟
流れを変えるには、物証から文献へ
物証では押されるよ >>725
これかな
http://arai-hist.jp/lecture/07.11.17.pdf
40面中17面が国産(陶氏作方格鏡他)、その他は漢代の鉛同位体比を示している >>725
いや、全部国産という結果だな
あるいは本当に1世紀の鏡かという二択
それが鉛同位体分析からわかること >>730
どこの鉛を使ったかは分かるけど、
どこで造ったかまでは分からないということだよね :::::::::::::::::::::``ヽ
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ヘ::::::::::::::| ,,,,ヽ._ 九州余裕
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、 '、:::::ヽ \_)
ヽ、 `ヾ'''゙ ,´
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ヽ、 ノ
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ヘ::::::::::::::| ,,,,ヽ._
`、::::::::ノ ゙゙゙/__) 畿内シドロモドロ
、 '、:::::ヽ \_)
ヽ、 `ヾ'''゙ ,´
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ヽ、 ノ
`` ─---─ ' 内容はともかく●✖だけでウマイ表現だ
そこだけ、褒めてやる 平原
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
にしては、小さすぎる ヒミコが判明してるのに何をウダウダと…
3世紀推定世代系図
(大王)
ヒメ踏鞴 神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初)
女王の住んだのは葛城な。
名柄あたりが最有力。
長柄神社(姫の宮)がある。 >>723
この口ぶり、強引な主張はスレ主だな。
匿名での投稿乙 >>729
三角縁は魏鏡ではないと明確に述べているな。 >>739
短里でしょうが、
徑百餘歩は実際に歩いた距離
1歩が25センチだと使者は相当小さい
また当時の歩数計算は今でいう2歩だから、小人の集団が魏の使者になる
例えば身長170センチの成人男性の一歩(現2歩換算)は140センチ
これを25センチに当てはめると使者の身長は30センチとなる >>740
キウスよハズレだな
1は庄内土器とは言わない
庄内式と言う
だから別人だ 107年に後漢・安帝に朝貢した帥升を名前の似ているスサノオだと仮定してみる。
間違っててもいいから一度仮定してみろ。
魏志の卑弥呼の朝貢が238年。
スサノオから5世代100年後に歴史上ヒミコと言う名前にもっとも近い最高位の女性がいる。
しかも魏志の記述どおり寡婦。
そしてすぐ後にトヨという最高位の女性もいる。
邪馬台国論争なんてあっという間に決着してたのだ。
ところが大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
スサノオは安帝の前で土下座したであろう。
神武なんて朝貢してたヒミコの婿。
記紀はそれをごますために時代を大きく引き伸ばし編纂された。
今の日本人は天皇が朝貢してたと知っても何とも思わないが江戸時代は違う。
ショックが大きい。
だから本居たちは九州説という虚構を創ってわざとごまかしたのだ。
論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。
その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。
これは天才の所為である。
これに気づいたわしも天才なのだが。 >>740
1さんぽいですね。
>周囲に何ら影響を与えていない国産鏡を埋葬しただけの個人墓
畿内でも古墳時代の始まりとともに国産の大型内向花文鏡の尊重が始まったじゃないですか。都合悪いことは徹底無視ですね。
そもそも三角も国産だし、国産だからダメといのも論理性が何もないです。むしろ弥生終末にあれだけの鏡の国産化した体制は先進性の現れと捉えたいですね。 >>743 マチガイデス
私は>>727=>>737=>>739です
畿内説が昨夜は相当痛めつけられていたので
可哀そうになり、少し助力しただけですよ
畿内説を生かさず殺さずです。・・・議論の楽しみが無くなるので
WWWWWWWWWWWWWWWWW 岡上さんにお叱りを受けるといけないので
ご無礼します >>747
反論になってないな
平原の女王が周囲の国に影響力を持ってた理由にならない
文章が読めない頭の悪さだけを晒してる だから何の謂れもないミカン畑だった平原にヒミコがいるわけない。
あれは防人集団の長の墓。
モノノフ(物部)だろう。 >>751
鏡文化として全国に広まりますね。
あなたの近所の神社も、入口に鳥居があり、祭殿の中に鏡が置いてあるでしょう? >>751
反論になっておらず、おまけに個人への誹謗が書いてありますね。 >>761,762
個人への誹謗だけに成りましたね 笑
仕事行ってきます >>759
相手の書いてる現代人の日本語が読めてないと言うのはなんとも・・・ 崇神が鏡を放逐しただろ。
平原から出た大きな鏡と同じ鏡とも言われてる。
崇神のお母さんは誰よ?
イカガノシコメ、つまりモノノフ(物部)だろ。
平原も防人集団の長モノノフ(物部)の墓。
曽根という地名も二田物部の本拠、池上曽根遺跡と通じる。 >>763
岡上は日本語が読めないと言う事実の指摘は
誹謗じゃないんだよなー
仕事できなそう 反論されたことにすら気づかないってのは流石にヤバイ 岡上ばかすぎ〜〜
これは恥ずかしい
生きていられるのが不思議なレベル >>730
40面中17面は国産
残りは中国製の可能性が高いが確実ではない
なんで全部国産とか言うの? >>770
実際は残りが中国製な可能性がほとんどないからだろ >>83
>すぐ逃げる卑怯者<
これ、ヤクザ暴力団や右翼や大和説者や・・・・らの常套手段ね。
何事にも、喧嘩でも口でも「勝てば官軍」だ、とおう思考。
世間の皆さま、こんな人種は、人間ではありませんよね。
君子危うきに近寄らず、です。 >>87
まとめ(観察結果)
大和説者らは、九州説の論陣に歯が立たないから、悪口雑言でウサばらしするだけ 、
悲惨 w 。 >>90
しかし、大和説の・・・・らは、
中傷にかまけたり、大和説を捻じ曲げて畿内説にしようと運動したり、
アンチ九州説はロクなことしないな 。 >>92
何も理由を言わない。
それが大和トンデモ説 、嗤 。 >>772
中国製であるなら紀元前か、せいぜいい1世紀前半に製造されたものということになる
使われてる製造技術は164〜235年のもの
だから中国製である可能性はゼロに等しい >>96
>畿内のことを倭人伝で書いていないが
七万戸は大和では無理であることから推測せざるを得ない <
「南≠東」だから、始めから、「畿内」でも「大和」でも×だよ。 >>139
昨夜は、畿内説に狂った狂人が、論破され続け、狂気が一層進んだよ。。。。 >>778
>使われてる製造技術は164〜235年のもの
何でそんなにキッチリ年代特定できるの? >>774-776が主語入れ替えオウム返しのデタラメ爺さんだとすると
>>777の純ウソツキも同じ人ってことになる
>>98
魏志が主張もしていない、「南→東」で大和説なるものを捏造し、
歪曲したがために生まれた「畿内説」の欠陥を、
また攻撃目標にされる。
まさにアホな詐欺師の破綻そのものだな 。 >>99
>大和説が嫌なら纏向説でいいだろ <
「南≠東」だから、大和説でも纏向説でも畿内説でも×。 >>101
>畿内説でいけば
畿内の道路網はあったのだから、
大阪から纏向まで陸行1月はかかりすぎ
姫路、明石あたりで上陸すると、投馬国の比定地から水行10日はかかりすぎ<
「南≠東」だから、始めから全部×。 >>102
>瀬戸内海ルートとした場合
当時、大阪から九州あたりまで水行で平均どのくらいの日数がかかったのだろうか?
倭人伝では30日
南至投馬國(水行二十日) 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 (水行十日)陸行一月<
「南≠東」だから、瀬戸内ルートそのものが、×。 >>106
>大和説なんていないから関係ない <
「南≠東」だから、大和説も近畿説も畿内説も纏向井説も、始めから×。 >>109
>大和説に反論したかったら大和説のスレにでも行けば?
ここは畿内説スレだからオフトピは御免被る<
「南→東」の嘘つきダマシをした上に、
「大和説→畿内説」という口先ダマシのインチキを、
世間の人々に吹聴宣伝される事は、
御免被る。 九州北部の国々は、女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)ではない、即ち倭国でもないというのが、魏志の時点での認識です。
他の地域(ヤマトや九州南部など)の歴史を盗んではいけません。
魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
◎重要なのは、一大率支配下の北部九州や伊都国は、女王国ですらなく倭国でもないこと。 >>788
要約じゃないけど前の方でバカが引用してるおー
・柳田康雄「弥生王権論」2016
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 >>790
「大和説→畿内説」というのがザラコク謹製の
口先ダマシのインチキでしょ?
なんの証拠もないデッチ上げ
>>793
柳田康雄は何でここまでキッチリした年代を特定できたんだ?
いつの御都合じゃないのかw
「普通は2世紀から3世紀に見られる鋳造・研磨技術である」とするだろ
164年と235年に技術が変わるような何かあったのかwww >>795
柳田が御都合って
どう言う中傷よ
九州説はもうダメだな
論で戦えない >>797
根拠が無いw
柳田康雄は164年と235年に何があったと言うんだwww >>798
日本語が読めないの?
>>793に書いてあるだろ >>799
>>793のどこに根拠が書いてあるんだよw
個人の主観じゃないかwww >>110
>1,500里あれば九州から畿内に着くよ<
「南≠東」でも、始めから大和に着かないし、
半島の七千里や、渡海の千里や、韓の 四千里との比率からしても、
大和には全く着かないよ。 >>800
「38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」
というののどこが
個人の主観? >>778
それがそもそもおかしいのよ、岡村編年に柳田がかみついてるとこ。
方格規矩鏡って漢代〜魏晋代で中国でポピュラーなもので、岡村はその様式で編年
していて、それだと(中国製だとすると)1世紀の前半〜中頃のものになるとしている。
でも岡村は柳田のいう大事な特徴を無視してるんだね。
魏晋代は後漢の混乱のせいでまともな職人が少なくなったんだろう、鏡式は後漢代のもの
そのままだけど、その紋様や意匠の退化、簡略化が顕著だ。その特徴が平原の方格規矩鏡に
見られるものと同じなのよ。
まあ柳田は魏晋鏡と同じというとこを無視して全部国産と言っちゃってるんだけどねえ >>803
それを認めないなら三角縁も国産ということが出来ない
そう言ってるわけだが
理解できてる? >>112
>対馬から女王国の東端まで大体うねうね五千里でしょ<
「東端」なんて書かれていない。
>邪馬台国が畿内でなんの問題もない <
「南≠東」だけで×。 >>803
紀元前の原材料使ってるところが重要
復古鏡であれば魏晋鏡にするのは無理
類例がない >>804
何を言ってんのか分からない
三角縁が何で出てくるの? >>805
書いてあるよ
女王国から東に千里行くと倭国の外側でしょ? >>116
>読んでも短里は実在しない <
読めば読むほど、「1里≒434m」の長里は全く存在しない。 >>806
紀元前の原材料となぜ分かるんだい?
同じ鉱山ならいつ掘ろうと同じ組成じゃないの >>811
紀元前でほぼ枯渇してるから2、3世紀には使われてない >>119
>飲尿信者はまだ倭人伝の好き勝手な読み替えなんてのが通じると思ってるんだから笑える
飲尿で脳までアンモニアに浸かってるんだろうなぁ <
「南→東」のウソダマシや「和田キヨエか偽書説派の尿?の飲尿」の大和説信者は、
まだ、倭人伝の好き勝手な読み替え、なんてのが通じると思ってるんだから笑える。
飲尿で脳までアンモニアに浸かってるんだろうなぁ。 >>125
大和説者は、史料事実根拠も言えずに、ただ口先で言い張ってるだけだから。 >>126
>言い張っていません 反論があればヨロシク <
「南≠東」などの反論をずっと、言って来てあるよ。 >>819
それを言い張ってるという
理由もなくな >>820
ほー、枯渇した金属原料って具体的には? >>127
>九州説が
「俺の説が正しいから畿内説は間違いだ」
という論理構造をとる限り
永遠に畿内説に勝つ見込みはない <
大和説が、
俺の説が正しいから、「史料事実に拠った九州説」は間違いだ、
という論理構造をとる限り、
永遠に九州説に勝つ見込みはない 。
思想宗教よりも、史料事実に拠った方が、確率が高い。 >>825
あれ、鉛が枯渇しちゃったんだ、そりゃ大変だ
ホント? >>804
三角縁は同位体の測定で国産と上の方に書いてあるな。 >>827
理由もなく定説を疑うなら好きにすればいい
トンデモ説の烙印が待っている >>828
もちろんそれは根拠のないトンデモ説だ
全く理由がない >>829
紋切り型の短文なので、何が言いたいのかわからない。
どこの何が枯渇してどうなったのか、まとめて書けよ。 三角縁にも鉛は使われてるよな
三角縁って4世紀ぐらいだろ、どーなってんの
国産の鉛ってこと? >>128
>帯方郡から12000里は女王国まで
邪馬台国は伊都国から水行10日、陸行1月 <
漢文では、「数量の説明」は「対象文言のすぐ後ろに記載する」事が原則であるから、
「女王之所都水行十日陸行一月」だから、
「水行十日陸行一月」全体の説明は、その前に書かれた「女王之所都」であり、
「女王之所都」への日数が必要になるのは、
途中の里数は既に書かれているので、
「從郡至倭」からの日数である事になる。 >>831
中国製の鏡に使われた鉛同位体比は前漢鏡と後漢鏡では一転まるで変わってる
前漢鏡タイプを出す鉱山が掘り尽くされて廃坑になったからだというのが定説だ >>132
>はず!とか言い張られてもな w<
史料事実からの推論の「筈」が確率が高い。
「南→東」などのような、史料事実を否定改竄する「論」は、確率が非常に低い。 「枝葉末節」 まだやってんの?
九州だ 畿内だと喧しいが、「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。 @阿波 「若杉山遺跡:弥生時代終末〜古墳時代初頭にかけての辰砂採掘遺跡
1950年代には遺跡の存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査で、その実態が明らかとなった。 全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。」
以後、邪馬台国問題は一気に解決してしまいました。 @阿波 >>838
平原は半分が前漢タイプ
のこりの半分がもっと後漢鏡とかけ離れた特殊タイプ
1は原料不足で鏡以外のスクラップを混ぜた可能性を言ってる
確実に非魏鏡だね
平原にしがみ付いてもその平原の実態は国産鏡を副葬して周りに何の影響も与えてない個人墓に過ぎないからな
しかもこれを最後に九州から鏡の大量副葬が途絶えて九州の衰退が確実になると
九州説がドヤ顔で持ちだしてくるものって全部自爆だな
まぁ考古学も資料も何も知らないんだから仕方ないけどね >>138
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。 <
「南≠東」だし、「邪馬台国」なんて存在もしないから、
この投稿子も嘘つきダマシのサギシね。 >>843
「南≠東」だし、古田説なんて嘘つきダマシのサギシね。 鳴門の重要遺跡群
鳴門市・板野郡(旧板野郡)には,きわめて重要な遺跡群があります.
萩原墳丘墓・・・前方後円墳のルーツ,2号墓で中国鏡の破片・中国の朱,1号墓で画文帯神獣鏡の副葬
阿王塚古墳・・・2面の画文帯神獣鏡の副葬(宮内庁所蔵の優品)
天河別古墳群,西山谷古墳群・・・国内最古級の古墳を含む古墳群
黒谷川郡頭遺跡・・・朱の精製,弥生後期〜終末期の県内最大級の規模の住居遺跡 2ちゃんへの書き込みが仕事ってどんなやつらなんだよw
それでも言ってることが正しく、邪馬台国を提示してるならかまわない。
しかし間違えてる。
つまりおまえらは、
カレー味のウンコか、ウンコ味のカレーかではなく、
ウンコ味のウンコだwwwwwww 舶載画文帯神獣鏡(阿王塚古墳)(宮内庁所蔵の優品)
面径14.0cm、内区欠
銘文
吾乍明竟 幽凍三岡
周亥无示 天王日月
充之序首 天下安平
四方服兮 天王日月
士官大吉 子孫番昌
□□□□ 立至三公
其市命長 天王日月
萩原1号墓の鏡の銘文は以下の通りです.
吾作明竟 天王日月
幽凍三商 統徳序道
配象萬京 天王日月
敬奉賢良 天王日月
曾年益壽 子孫番昌
天王日月 與天無亟
天王日月 見師命長 「内行花文鏡 阿南市国高山古墳」
国高山古墳は、阿南市内原町成松字山下21に所在する徳島県南部を代表する中期古墳である。
1982年には徳島考古学研究グループの測量調査により、墳長51m、後円部径約20m、後円部高2.5m、前方部長31m、前方部幅25.5mを測る、2段築成の前方後円墳とされた。
国高山古墳の副葬品:内行花文鏡、長方板皮綴短甲、鉄鏃(鳥舌鏃)、鉄剣、鉄槍、石製鞘入刀子、滑石製勾玉、鋤先、鉄製釣針ほか。 >>142
>弥生時代のこの青銅器の分布を見てると、北九州や瀬戸内に防人を配していたことが明白。
https://goo.gl/jLePrD
弥生時代後期、すでに都は畿内にあった。<
「南→東」だから、大和や畿内は×。
また、倭人伝には、銅鐸の記載はなく、「矛」があるんだから、
女王國や倭国は、「矛」の中心である九州だよ。 >>146
こんなところかな。
九州説・・・・・倭人伝に忠実な説(ほぼ歪みがなく、99.5%以上)
大和説・・・・・倭人伝に「南→東」や考古などで、ほぼ完全に矛盾している嘘つきダマシの詐欺説(0.5%以下) >>834
だからその痛説に根拠がない。
むしろ同位体からは4世紀の鏡の可能性があるということだな。 寺山3号墳は弥生の墳丘墓 邪馬台国期の特徴備える/徳島
4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、
県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。
邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。
寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、79年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅した。
菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期〜終末期の県内墳丘墓と比較した。
その結果、寺山3号墳(直径約12メートル)は規模は小さいものの、萩原墳丘墓(約20メートル)と同じ円丘で
▽頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある▽墳丘の表面を積石で覆っている▽徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した−など七つの共通点を確認。
「弥生墳丘墓と理解すべきであろう」と結論付けた。
破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。
「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。
兵庫県立考古博物館(同県播磨町)の石野博信名誉館長(81)=奈良県橿原市=は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が徳島県南部にあったとは驚きだ。
近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない」と話している。 >>841
香春岳の銅とか使っていたりしないのかな。
あそこは4世紀には掘られていたはず。 >>144
>纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落、<
纏向は、始めか「南≠東」であるから、女王の都ではなく、
庄内の年代も、久宝寺で伽耶の陶質土器との共存があるから285年以後。
>始めから発掘した学者をして、纒向は外部の勢力の侵入を考えらずには得られないと言わしめている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。
運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。
1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。<
・・・・かね?。
1000人の婢は、大型建築にはすし詰めにしても入れないんだから、
地べたにでも寝かせておくつもりなんかね?。 >>841
平原鏡は様式は1世紀なのに、鉛だけなぜ前漢鏡タイプなの? >>147
>いろんな見方があるようです。 断定は?????????<
自然や歴史においては、99.5%以上の不可知部分があり、
0.5%以下のデータでは、「断定」は不可能であって、「確率的な推論」になるしかなく、
だから、いずれの説も、その「推論の確率の高さ」を競うのであり、
だから、文献考古の(史料批判を経た)史料事実や史料実態からの帰納的推論の九州説の確率は99.5%以上であり、
文献考古の史料事実を否定する大和説の確率は、0.5%以下。 >>853
>畿内説では箸墓に至るまで卑弥呼の墓の比定地も変わっています。いまだホケノにこだわる人もいます。
今後、どうなるかは定かではありません。畿内に新たな卑弥呼の墓の候補が発掘されるかも <
畿内でも大和でも、文献考古の史料史料実態から、親魏倭王印でも見つからない限り、
99.5%以上、ありません。 >>857
同位体を根拠としているのに、日本語読めないのか? >>856
久宝寺で伽耶の陶質土器なんて出てないよ
札付き虚言癖老人ザラコクのデッチあげ
>>856
建物の中に千人いたなんて倭人伝のどこにも書いてないな
デマ乙 >>860
ザラコクの言うことウソの確率が高い
99.5%かな >>865
それは、中国の戦国期から宋代までの鉛との比較じゃないのかい? >>873
戦国期から宋代までの鉛と比較をすると何か悪いのか? 大阪の新井さんはトンデモだが
測定した学者は本物の学者なので
数字は信用できる 漢代の代表的な鉛同位体比(弥生後期の青銅器鉛)との比較とあるな >>878
とすると前漢タイプじゃなくて後漢タイプの鉛を使った可能性が高そうだね どうも九州説のおじいさんの投稿は意味のわからない呟きが多いですね。
脳が生きてるんでしょうか?
疑問です、 >>884
断片的で意味不明な呟きなので
とても理解できない >>884
お前には解るのか?
じゃ、通訳してくれ どんな議論でも、それこそ、邪馬台国と関係ない議論でも、畿内説を狂信する狂人が論破されてしまう、、、、 まあクズ説ジイさんの言ってることなんて
悪意の嘘かボケの錯乱の2つに1つだろ
その証拠に理由を聞かれると必ず逃げる
憫笑 常駐アンチ畿内説暇爺さんの特徴
ー日本語の文章がよく読めない
ー自分の意見を文章にまとめられない
ー嘘をつくことに罪悪感がない
ー能力ないのにプライドが高い
ーいつも理由が言えない >>885
平原鏡のほとんどが柳田は国産と言ってるが、一部は魏鏡ではないかと物言い。
前漢鏡と後漢鏡では鉛同位体比が異なるとの突っ込み。
→平原鏡が前漢鏡の鉛を使っていた場合、魏鏡である可能性は低い。
後漢鏡と同じ鉛であれば、魏鏡である可能性もある。
→新井論文で平原鏡の比較対象とされたのが、漢代の代表的な鉛同位体比(弥生後期の青銅器鉛)
弥生後期とあるので後漢の鉛と同等なのか? ← いまここ >>175
>九州で作られた庄内式土器が出てるよ<
大和からは、弥生銀座や「何本もの大道」のある筑紫の土器は、出ていない筈よ。 >>189
文献考古共に、出てるいないという事実の前に、トンデモ大和説は無力。 >>201
それが大和説のやり口か?。
汚いなー。 >>204
つまり纒向は「×」ということで決まり。 >>898
新井は基本的に素人なので言ってることがムチャクチャだから数字だけ見るべし >>213
残念でした.
纒向で出た庄内式土器の中に筑紫産はなく、
九州の辺地産があることが判明し、
逆に、筑紫へは河内や播磨からの搬入庄内が沢山あり、
大和からの搬入庄内がすくなかった事が判った時点で、
「大和が搬入庄内の多い都だった」という事の根拠が失われた。 >>213
残念でした.
纒向で出た庄内式土器の中に筑紫産はなく、
九州の辺地産があることが判明し、
逆に、筑紫へは河内や播磨からの搬入庄内が沢山あり、
大和からの搬入庄内がすくなかった事が判った時点で、
「大和が搬入庄内の多い都だった」という事の根拠が失われた。 ザラコク
他人の発言を丸写したあと機械的に単語を入れ替えたりして
自動的にデマを生産する生体bot
生体人工無脳ともいう >>288
>平塚川添遺跡の支持者は「ここを中心として北部九州を勢力下に入れた7万戸の国が邪馬台国」って言いたいんだよな?
でもこの遺跡から周りに影響なんて及ぼせてない
大きな環濠に囲まれてるがその周囲に留まる集落に過ぎない存在なのが分かる
そしてこの地域は畿内の庄内式土器に取り囲まれてるようになっている <
畿内の庄内に取り囲まれていて、
逆に筑紫の庄内が大和からはでなかったんなら、
平塚川添は、畿内からの搬入上納があった首都圏の一地域であった、という事。 >>894
>鉛の同位体からは、三角縁は仿製鏡
三角縁神獣鏡 実は、これは倭国(阿波)で作られ、全国へ拡散していったんですよ。
この事実、ほんとうは知ってるんでしょ? @阿波
気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が大分(赤塚古墳)、岡山(鶴山丸山古墳)
京都(内里古墳)、奈良(黒塚古墳)、群馬(天神山古墳)で出土していますね。 >>291
>九州説側が、畿内に九州系土器が少ない、と言ったことに対して、 そうじゃないと言ったのが、そちら
それをグダグダと言い回して、言葉回しで逃げ回って 結論だけ書きこんだのが、そちら
卑劣だねえ 恥ずかしいとかいう感情もないのだろうね
現実は、九州系土器は少ないのだから、あんたの負け<
卑劣だね。 恥ずかしいとかいう感情もないのだろうね。
現実は、纏向には、筑紫系土器は0なのだから、あんたの負け。 どっちにしても、郡使を饗応した伊都と関わりがないのなら、纒向は邪馬台国と関係がない地域だよ。 >>898
新井論文によると、平原鏡は国産鏡で結論ありですね、残念 >>294
>畿内が邪馬台国として有力なのはただ纏向と言う遺跡が見つかってるからだけじゃない<
纏向は、始めから「南≠東」で×。
>弥生時代後期から始まる他地域の墓制や土器の個性の壁を突き破って全国的にその影響を広めている事に大きな根拠がある<
大和は、河内や播磨と並んで、筑紫の倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国であったから、
搬入搬出が役目であり、だから交易範囲が広がっただけ。
>九州は畿内に限らず山陰や四国などからも一方的に影響を受け続けている状態なのが分かっている <
筑紫倭国は、地方の生活物品を搬入上納を受け、その見返りの代価として、貨銭や鉄や青銅や鏡や銅鐸や絹や中国や楽浪文物を送り返しただけ。
>これは貢ぎ物などではなく生活様式一式、祭祀や墓制と言う根本的な部分まで浸食されている状況を表している
その中心地に纏向があるという図式 このような中心性は九州には全く見受けられない
<
半島人や半島文物までもが大量に搬入されている、という事は筑紫が中心であった、という事を示すもの。
>だから大きな遺跡が多少見つかったところでこの状況に何の変化もない 九州に当時の中心的場所などない
それ故に九州説など成り立たないわけだ <
それ故に大和説など成り立たないわけだ 。
お分かり? >>303
>平塚川添も吉野ヶ里も同じ そこだけで終わっていて外に何も影響を及ぼせてない
九州はそもそも東も西も中部も南部も全て別文化圏として存在してる<
元々、100余りの国が存在していて、それがようやく30国になって、
それで卑弥呼が共立されたもの。
>邪馬台国を九州だけに限定したとしてもそれでさえも中心地など九州のどこにも見出せない
九州説なんて考古学知ってたらとても言えない話<
中心は、弥生銀座や「何本もの大道」がある(弥生銀座の)首都圏の筑前地域。 >>309
>で、九州説側が、畿内に九州系土器が少ない、と言った しかし九州説側は、畿内に九州系土器が少ない、という根拠が出せない
出せないで罵り出した つまり九州説側は論破された これ以外の結論は無いでしょ<
筑紫から纏向への搬入土器は「0」の筈。
つまり九州説側は論破された。
これ以外の結論は無いでし?。 >>313
>そして銅矛に関しては弥生時代後期になると九州では甕棺共々一気に衰退する ちょうど倭国大乱の頃に当たる
今まで銅矛を各地に供給してた北部九州の衰退と各集落の小集落化と時期を同じくする<
卑弥呼の頃の倭人伝には主要武器としての「矛」の使用が記載されている、
>そしてその頃になると吉備や庄内土器の流入が目に見えて増えるようになる<
列島での庄内の最古は、三雲であった。
だから、各地では、三雲で学んで、地元に帰って、庄内を大量に造って、市を介して、筑紫へ逆輸出していた事になる。
>鏡の分布を言うのであればこれはこの時期に九州の中心的勢力が崩壊してしまった証拠となる <
九州倭国の中心部族が、天孫族の阿毎氏から、卑弥呼の(後の東海姫氏國の)久留米付近の姫氏に変わったから。 >>918
>つまり九州説側は論破された。
>これ以外の結論は無いでし?。
イミフ
纒向は筑紫から何の恩恵も受けられない辺境の地であったということだろう。
筑紫には全国から人や物が集まっていたというのに。
纒向は東濃の影響下で細々と暮らしていた田舎だよ。
交易の主力ルートである日本海へは東濃の仲介で近江を経由していた。
筑紫はさらに遠く、纒向の人々は夢のような都の噂を聞いてあれこれ想像するしかなかった。 >>316
>纒向遺跡を忘れないで! 大黒遺跡とか<
「南≠東」だから、大和は始めから×。 >>321
>で書いたように 畿内は弥生時代後期に入るとそれまでの小中集落の乱立から大規模な国が生まれている状況が観察される<
倭国の別種の旧小国の、倭国の庇護の下での発展史。
>そして逆に九州ではそれまで存在していた九州北部を影響下に入れていた勢力が崩壊して小集落単位に分裂している様相が明確になっている <
卑弥呼の姫氏で、姫氏の台頭が始まり、317年頃に久留米で東海姫氏國が倭国王を継承するようになった。
>そのような流れの中で九州は周辺地域の強い干渉を受け続け、特に有力なった畿内の勢力の強い影響下に入っていく状況が見えてくる <
受けないし、
大和は、(姫氏ではなく)倭奴國や伊都国の一代率の阿毎氏系であるから、
倭国の軍事部門の中心になっていた。
>邪馬台国の頃には九州は弱体化、衰退の様相が強く表れていて、各地域からの侵入を受け続けているというのが現実
九州一つどころか北部九州さえもまとめるよう勢力も中心地も既に失われている こんなところに邪馬台国などあろうはずがない<
阿毎氏の大和が、(継体の反乱までは)倭国の王家の中心になれる筈がなかった。 >>324
いや、確たる証拠のある事実。
「南→東」の嘘吐きダマシのサギシの大和説側は、また論破されました。 >>325
>いや、伊都には流入しない 孤児状態<
いや、流入は当然一杯あったし、
伊都国は、阿毎氏の一大率があって、 倭国の軍事的中心であり、
倭隋(平西将軍?)や竹斯國やタリシホコとして、白村江まで頑張ったらしい。 畿内説の諸君
あまりにも稚拙なカキコミが多く、
このスレは、畿内説の足を引っ張っています >>928
そういうのが具体的内容のない稚拙な誹謗ね
ダメダメ >>330
>伊都国は九州内部での影響力が明らかに弱体化してるでしょ<
いや、天孫族系の倭奴國の伊都国の一大率の阿毎氏系から、卑弥呼の姫氏系の久留米付近の東海姫氏國に変わったが、
磐井以後は、伊都国の阿毎氏は、タリシホコを輩出するなど、またトップになった。 >>331
>結局、土器の搬入だけが論拠の妄想ですね。 大型内行花文鏡の畿内への展開を無視している<
庄内も三雲が最も古いし、
大型内行花文鏡も、伊都国と同じ阿毎氏である旧小国の大和が、伊都国の模倣をした事になる。 >>926
仕方ないよ、、、
最新の科学分析技術の数々が、これまで、畿内説考古学者の築き上げてきたものを粉々にしたのだからね。
それに加えて、あの2013年の古墳調査があった。。。
とどめを刺されたよ。。。 >>333
>そもそも平塚川添遺跡でも銅矛は既に放棄されて砥石になってる
もう北部九州を影響下に収めた勢力のシンボルなんて廃材として再利用する程度の扱いになってるわけだ <
平塚川添は、倭国内の一小勢力に過ぎない。 >>334
反論できないと罵るばかりの大和説者は、
もちろん廃車、もとい敗者 。 >>933
仕方ないよ、、、
最新の科学分析技術の進歩によって、「阿波」にとどめを刺されたよ。。。 @阿波 九州にはいたるところにある平塚川添クラスの遺跡でも、纒向よりずっと立派なのはなぜ? >>336
>伊都国だのなんだのの遺跡も周りに何の影響も及ぼせてない <
伊都国の阿毎氏は、タリシホコの頃まで、倭国の一大率や平西将軍のある軍事中心であった。
>そしてその周辺は取り囲まれるように畿内の土器に覆われている <
市を介しての搬入上納であり、大和などは、その見返りに先進的な文物を分けて貰った。
>「千戸だけの小規模で王も監視されている伊都国」
の状態と合致するわけだ <
一大率がいたから、軍事的に強かった。
>どこを切り取ったところで、大和に邪馬壹國なんて設定できない。 >>348
大和説側は、大和に(九州系ではなく)筑紫系の土器が0である、という事への反論根拠が出せない
出せない、で罵り出した 。
事実でしょ?。
いくら罵っても事実は覆せない。 >>353
「南≠東」への反論がが、全くなくなって来たな。
大和説敗走の兆候。 >>933
そうやってウソをつくから
九州説が信用を失ってダメになったのに
反省が、無いんだなー >>355
>単なる文化の伝播だと反論されてることは知ってるよね。
無視してるというのはウソだ。<
大和などは、
単なる伝搬ではなく、市を介して、生活用品を搬入して、
代わりに筑紫の技術や中国や半島系の高級製品を教えて貰って、学習模倣した。 >>941
畿内説は口にするのも憚られる存在だよ。 >>944
九州説はデマと中傷ばかりになってしまった
堕ちるところまで、落ちた
>>356
>そもそもの話「九州勢力」など存在しない 九州は弥生時代全部を通して一度もまとまった事などない
そしてまた他地域に影響を及ぼせてない 九州は北、東、中部、南部に大きく分かれている
いわゆる北が伊都国、奴国等の地域だがこれも最盛期ですら西北部をまとめる程度でしかない
東は出雲などの山陰、四国などに強く影響され、南に至っては奈良時代まで別文化圏
銅矛の分布なども四国の西北部に広がる程度でそれより先には殆ど広まらない
出雲が出来た頃には瀬戸内海、山陰からは遮断されている
また土器に至っては畿内で須玖式の「欠片」が見つかっただけで大騒ぎになるくらい
九州は最盛期でさえも九州から外に対して殆ど存在感を示せていないのが分かる
「強大な九州」など存在してないのが分かる <
「南≠東」であるし、
「大和は、倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であるし、
中国や半島との国交や高句麗戦や白村江などでの戦いの主体は、筑紫倭国であったから、
九州が列島盟主であり、強大であった。 >>365
>>土器の搬入は「支配の証拠」 <
>それ、誰が言った?<
「土器の搬入先は支配の証拠」とは、
最初は、大和説学者らが纏向のつもりで言った。
ところが、筑紫の弥生銀座などの方が、巨大な搬入中心になっている事を指摘されて、
それなら筑紫が支配者であった事になるので、
大和説学者は、それから殆ど言わなくなった。 >>371
アンチ九州説者は、「南→東」などのように、嘘が多すぎる。 しかし九州お爺ちゃんって何故か
理由をひとことも言わない人々なんだよね
異様な感じ
ただ結論を暗記させられる
奴隷教育を受けてたのかな
普通じゃないね
>>948
筑紫は搬入中心なんかじゃないよ
誰がそんなこと言ってるの?
根拠は?
ないよね 鉛同位体は洛陽周辺出土の魏鏡の鉛同位体を調べない事にははっきり結論は出ないし、比較もできない。
新井さんの分析は参考程度だろうな >>388
こういう嘘をつくようになった大和説は、末期症状。 >>955
都合の悪いことは何でも棚上げ九州説
w
w
w >>954
畿内からは搬入していないから、安心しなさい。
搬入したのは、阿波から進出した「筑紫忌部」 「東阿波型土器」の製法をね。 @阿波 >>955
つまり九州説は
しょせん反科学反学問
ってことだな >>955みたいな輩は、ただ問題を先延ばししたいのさ
すぐ畿内説勝利で結論が出ちゃうからね
焼け石に水なのに >>958
あら、畿内説にも助け舟でしょ?
三角や紀年鏡も「国産」の結論だった訳だし
中国出土の鏡については鉛同位体は調べれていないのは事実
日本にある鏡で確実な魏鏡というのは無いからね >>962
三角縁や紀年鏡を「国産」よばわりするのは新井がトンデモなだけだよ
内容読めばアホさが解る
ばかみたいな論理ミスの結果だよ データ不足
日本にある鏡をどれだけ調べても答えは出ない
でしょうね
ただ、三角に関しては、まず中国(魏の領域)から出土しないと話にならないかな >>966
九州説じいさんの人生がヒマすぎるだけだろ
口数だけが取り柄だから >>967
逃げてないよ
何故参考程度と思うかを説明してるだけだし
反論があるならどうぞ 三角縁の話をしてやっているんだから、畿内説のスレでいいだろう。 >>970
具体性がないから説明になってなあな
遁辞なだけ >>389
>その中心地が吉備や畿内
そしてその他地域への影響力の伝播の中心地に纏向遺跡が現れる<
庄内に関しては、三雲が最も早かったから、三雲が庄内の伝搬中心。
布留は、南加賀が一番古い、という説が出ているが、
筑紫でも3世紀後半になるので、不明。
纏向は明らかに庄内であり、
箸墓は、布留であるから4世紀。
>このような広域にわたる中心地など日本の他のどんな大遺跡を持ち出しても該当しない
ましてやその影響を色濃く受けているのが明確な九州にそんな拠点など存在してないのは明白
九州に邪馬台国など求める事など到底できないのが分かる<
纏向から筑紫への搬入上納は少しあるが、他からは大量の搬入があり、
筑紫から纏向への搬入は全くないから、
筑紫が支配中心であり、都。 >>971
三角縁はまあ、まず魏鏡だろう
否定材料はない
畿内説の根拠にできるほど確証が取れてないから
誰も使わないだけ >>973
>庄内に関しては、三雲が最も早かったから、三雲が庄内の伝搬中心。
これは明らかにザラコクの
捏造ね
笑える 三角縁は呉の職人さんが奈良で作ったことで解決してるんだろ >>975
上で紹介されている鉛の同位体についての論文は、三角縁が魏の鏡ではないことを証明している。
いくら君が言い張っても、科学的根拠のない意見だよ。 >>403
>九州は肝心の邪馬台国の時代には中小の集落に分裂して各々孤立した状態を呈している
倭人伝に描かれていると思われる北部九州にのみに限定したとしてもココをまとめるような勢力も中心地も存在しない
そして南方に視点を移したとしてもここは奈良に至るまで独自の文化圏を維持していて北部九州を支配してた邪馬台国の存在など見出せない
逆に北部九州のこの地域は畿内や吉備の土器が広くハッキリと分布する地域となっている
これは倭人伝にある「女王国の強い影響下にある九州」という状況に合致する
考古学的な発見と倭人伝の記述を併せてみればその記載された状況が明確に現れてくるのが分かる
九州説など根本から成り立たない <
また変な事を言っている。
倭は100余りの国があったのであり、卑弥呼の共立でも30国があったんだから、
元々、独立的な国の集まりであった。 >>979
証明になんかなってないでしょ
最初から三角縁は日本製と決めつけて
三角縁と同じタイプのものをホウ製と決めつける
後漢鏡でそれ以外のものを勝手に真の魏鏡と命名
それらと似てないから三角縁は日本製だと結論
つまりアホな循環論法だな
ところがフタを開けてみれば
真の魏鏡とやらの正体は呉鏡だというマヌケぶり >>480
そういうゴマカシばかりしてるから、
「南→東」などのトンデモ大和説は、
大衆の支持を受けられないんだよね。 >>413
ちょうど邪馬壹國の時代前後に、
中国に使節を送ったり、半島から東海などに至る広範囲に影響を及ぼす中心地は、
筑紫以外に存在しない 。 >>424
こんな風にちゃんとした文章にできない無能さが、
トンデモ大和説のガキさんらには、妙に共通してる 。 >>985
こんな風って、どんな風?
ザラコク中身ナシ >>444
「南→東」の嘘つきダマシが出発点の大和説者には、論客などいない。
何も論じていないから。 >>450
>九州説が好んで使う鏡など九州の衰退をハッキリと示す証拠にしかなってない<
倭奴國の天孫族の阿毎氏やそれから別れた別種の旧小国のやまとは、
「三種の神器」がお宝であって、銚子塚の「黄金鏡」や日田の「金メッキ鉄鏡」が造られたが、
317年頃に、(姫氏の卑弥呼の後裔の)東海姫氏國になってからは、
鏡を、余り重要視せずに、
高良大社の「三種の神宝」行列に使われる程度になった。 >>984
ちょうど邪馬壹國の時代前後に、
中国に使節を送ったり、半島から東海などに至る広範囲に影響を及ぼす中心地は、
倭国(阿波)以外に存在しない 。 >>978
で、そのごまかしてる、と思う内容がないのだか?
何が何をごまかしてるのかな? >>986
出土物の多さからだと思うよ・・畿内がお宝の山ならよいですが >>455
>「九州勢力」など存在しないってこと <
倭奴國や伊都国の阿毎氏は、タリシホコや出目であり、
大和の阿毎氏の本家でもあるんだよ。 続ければ、弥生期の大陸との交易を示す出土物の多くは九州です
それは、畿内の出先だったと言う方もいますが、
ならば、大陸から入ったもので高価なものは畿内で見つかっていなければなりません。 >>996
続ければ、弥生期の大陸との交易を示す出土物の多くは倭国(阿波)です >>468
>「福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち畿内の影響下にあるのが色濃く見えている」
「九州は弥生時代を通じて他地域に影響を殆ど及ぼせてない」 <
地方の必死で作った産物を、市を介して、都の弥生銀座に搬入し商売して、
それで儲けて、筑紫のお宝を買って帰っただけ。 >>487
>困った人だな 量は関係ないだろ
朝鮮人が北九州を越えて纏向に入ってるのが大事
大和は3人?だけらしいが、
藤崎西新町には、半島人居住区まで出来てる。 >>990
>「逃げ回るな」は禁句
そんなに逃げ回りたいの?
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