邪馬台国畿内説 Part288
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1507833741/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。 ◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。 ◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。 ◆FAQ 23−2
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかであるが、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽賓接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ18,57に加筆 >>68
>大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ソースは?
距離表S22とは? さて、九州説信者のマナーと頭の悪さがまた晒されたわけだが
やれやれ テンプレに書いてあるとは・・・・・
スレ主が書き込んでいるだけである
テンプレが解答になっていないので畿内説への疑問を質問を投げかけても
「テンプレに書いてある」なんて回答でも何でもない
つまり、畿内説はテンプレに従えという事・・・
結論
スレ主ひとりで自演それも、ズタズタのテンプレで >>72
テンプレが解答になっていない
って証拠は?
? テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。 変な大和至上主義が蔓延る原因。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。 >>76
んで結局
無視されてる重要な事実って何だったの?
だらだら書いてあるけど結論が見えない
九州説殺すにゃ刃物はいらぬ
理由の一つも聞けばいい 287の>>791
>ホケノ山は副葬品から3世紀中葉頃のものと言える <
ホケノは「有槨」であるから、卑弥呼の時代よりも後であり、
庄内〜布留であり、前方後円墳ですから、確実に3世紀末以後です。 >>79
九州説は理由を聞かれると逃げるから
死ぬ 287の>>796
>ホケノ山からは画紋帯神獣鏡が出ているから3世紀<
ホケノの画文帯は、魏鏡ではなく、
それより後の(徳島の萩原1号墳とおなじように)楽浪系鏡であった事がはっきりしており、
従って、「槨」や「庄内〜布留」や「前方後円墳」と同じように、
やはり3世紀末以降になる。 >>82
ホケノ山古墳の墳頂部(後円部)の中央から「石囲い木槨(死者を納めた棺のまわりを木材で取囲んで 造った墓室)」が出土してる。 287の>>802
>画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四世紀代の古墳から出土している。
なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。
そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。
中国北方の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない<
成程。 287の>>803
>卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべているように、
方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、
三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡は、はいらない、とみるべきである。
三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、
総数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。
卑弥呼がもらった100面の鏡としては、数が多すぎる。
画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。
今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。
いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう <
成程。 >>84
>従って、「槨」や「庄内〜布留」や「前方後円墳」と同じように、
>やはり3世紀末以降になる。
ホケノ山古墳? 阿波の有力豪族の墓ですよ。
ホケノ山古墳の工法も石材(青石)も水銀朱も土器も鉄器も銅鏡もその他諸々、全部倭国(阿波)の産物。
ホケノ山古墳は神武東征により、鳴門市萩原地域を脱出して大和へ逃げ込んだ登美能那賀須泥毘古の墳墓の可能性が高い。
ちなみに、登美能那賀須泥毘古の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、「黒谷川郡頭遺跡」が本拠であろう。
周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残っている。 @阿波
287の>>804
「南→東」などのウソ付きダマシのように、歴史資料にそぐわないを言い続けて、
誰にも相手にされなくなった大和説。 287>>808
>倭国大乱。 名の通り倭国の大乱。 卑弥呼vs狗奴国卑弥弓呼の争いが中心。
倭国の位置が何処にあったかが問題だな。<
「倭國亂 」であり、「倭国大乱」ではないよ。
「大乱」は、「天子の存在を脅かすよう反逆のような乱」の事。 >>84
ホケノの画文帯が魏鏡ではなく楽浪系鏡だと言ってるのは誰だ? 287の>>819
>>宿泊、補給で寄港地の準備は必要だったと思うよ。<
>だから背景として遠い地の首長らとのネットワーク形成が必要であり
それが広範囲になされたのが埋葬文化の共有や鏡の配布がなされた
北部九州から大和更には東日本までを背景にするのが畿内説
一体どういう趣旨で指摘してるのか知らんが 畿内説にとって有利になりこそすれ不利になる話でもない <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった。 287の>>826
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の人は、
なんで脈絡のきちんと続いた文章を書けないんだろうねえ?。
そりゃ、顔も怖くて醜い、・・・・だから。 287の>>834
>で最初期型あるいは全ての三角縁神獣鏡のオリジナルって九州の何処に出てるんだ?
九州ウリナラ起源説はマジ勘弁な<
呉系の楽浪鏡師らは、明帝からの下賜の魏鏡を知って、
こりゃ筑紫では魏鏡が配布されて商売にならんわ、として、
地方の豪族に取り入って、委託注文で造ったんだよ。 287の>>835
>海洋民族の拠点を調べないとな。 天然の良港。 難波津、鞆の浦、丹後半島etc。
弥生時代の天然の良港の分布が分かれば、色々ヒントになるかも。<
瀬戸内は、海洋民族の阿毎氏や姫氏らの倭国の、東征の地域。 287の>>846
「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・大和説者は、
もう荒らす事しか出来ない様だな 。 287の>>869
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者を見たら、
皇国史観の人種差別的殺戮戦争狂の・・・・の荒らしと思え。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 287の>>858
>里を知らずに日で計るのは倭国ですよ。<
「夷人」とは、(漢人ではなく)夷の住民を指す。
>よく行き来するので 里でわかってる不弥国以降は 現地の単位で記録するらしく
ちゃんと現地の日で記録されていますね。<
里は夷人は知らないが、日は、夷人も漢人や魏の役人らも知っている。
だから、侏儒國への里は魏の役人たちの計測記録であり、
投馬國や裸國や黒歯國への日数記載は、倭人からの伝聞記録であり、
水行十日陸行一月」は、魏使らの「從郡至倭〜女王之所都」の日数記録。 >>101
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 また訂正です。
287の>>859
いくら実測と違っても1里430m位を固持しなきゃならん大和説は、
終わったな。 忘れないように
削除したら「敗けを認めて削除したw」と笑われる
削除しなければ「推古紀が根拠w」と笑われる
どう転んでも笑われるテンプレくんw 287の>>862
>短里と違って歴史資料と証拠品があるから仕方ないだろ <
短里は、魏志の殆どにも、周髀算経や他の史料でも、証拠品があるから仕方がないが、
長里は、肝心の魏志に殆ど証拠がないから、仕方がないだろ?。 287の>>863
>ここは妄想を楽しむスレ<
ここは、「南→東」などの嘘つきダマシの皇国史観大和説者が、
近隣諸国民への人種差別的敵対殺戮戦争の、国家国粋優越の妄想を宣伝して、
国民を騙して戦争をさせる事を洗脳しようとするキョクウの・・・・スレ。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>873
この投稿への返事は書いた筈だが、
この投稿子が、また同じ投稿を掲載している。
現在、仕事場のPCが非常に調子が悪くて、ボタンを押しても反応が悪くて、混乱して?いて、
どこで掲載したのか?は、ちょっと判らないし、探せない。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>112の、
「287の>>548への返事」は、287の>>877にあった。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 287の>>884
南→東」などの嘘つきダマシの
皇国史観人種差別の殺し合い戦争狂のキョクウの大和説のこのスレは、
国民のためにならないから、
ゴミ箱へ。 287の>>887
おやおや?、 大和説はもう完全に論破されてるから、
コピペ荒らしやオウム返しばかりしてるんだろ?。
ウソをついては、いけないよ。 287の>>889
>根拠ならテンプレにたくさん書いてあるぞ。 九州説にできる反抗はテンプレを読まないこと、畿内説を知ろうとしないこと。
それだけ。<
テンプレにはもう2回も反論してあるが、
「南→東」などの都合の悪い事には、反論しないらしいよ。 >>104
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>118
岡上という、その人なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
テンプレートを張り付けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>117
未来のないジジイにとっては畿内説にすがりつくしかないからなあ >>77
畿内説がだらだら逃げるのはいつものこと。
だってなにも根拠ないから、断定的なことを書くとボロが出る。
>>76
>卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
ラジオ体操ならそれでもいいが、宮廷で仕事をするスペースとしては全く足りないよ。 もっかく【木槨】
古墳の内部構造で、棺または棺を納めた室の外側をおおい保護する木製箱形の設備 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>125
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上だと勘違いしているふしがあるね。。。
発狂しているからかな。。。。 魏志倭人伝には、邪馬台国の墓制として棺あり槨なしと明記されている。
ホケノや一連の畿内の古墳は、邪馬台国と関係がない。
時代や地域、またはその両方が違っている。 >>135
また嘘書いてるね
「於國中有如刺史」の主語は何?
w >>144
反論できなくなると罵るのは
議論に負けたひとだな >>133
東遷論は畿内説からも九州説からも嫌われ敵視され
ゴミ扱いされてる鼻摘まみだよ
コウモリだから >>135
>「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
>なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
康熙字典
「治」
略・・・
又州郡所駐曰治,如蜀刺史曰治成都,揚刺史曰治會稽。
→刺史が成都、會稽を治す、例あり
治す、は王に限らないね
http://www.zdic.net/z/1c/kx/6CBB.htm >>148
特置一大率 檢察諸國
倭人伝では一大率は諸国を検察するのが仕事と明記されているよ
国を治めるとはないね。 >>148
>又州郡所駐曰治,如蜀刺史曰治成都,揚刺史曰治會稽。
又州郡所駐治,如蜀刺史治成都,揚刺史治會稽。
ではなく「曰治」とあるなw >>150
「又州郡所駐曰治」
州の役所に駐していることを「治す」と言うようだね つまり定説を片端から否定しないと九州説は成り立ちようもないのさ 里数についての計算ですが、
畿内説はいかに考えていますか
1、帯方郡、狗邪韓国の比定地は何処ですか?
2、帯方郡から狗邪韓国まで七千余里ですが、どのようなルートですか?
3、1,2の比定で、1里は現在の?mになりますか? >>154
残念ながら「一大率常曰治伊都國」ではなく「一大率常治伊都國」ですからね。 (女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
なんて初心者の誤訳は失笑を買うだけってことだね つまり倭人伝を片端から否定しないと畿内説は成り立ちようもないのさ 女王が治めてるのが倭国だってことくらい
中学生にでもわかることだ
伊都国にあるのは一大率の駐在所だよ >>160
テンプレなんて読んでもしょうがないから・・・・ >>164
畿内説を知ろうとしなければ畿内説批判なんて無理無理 >>164
この薄馬鹿は自分が言い張ってきたテンプレへの非難が全部ウソだと自白しているよ。
どこまで頭が悪いんだか。
w FAQ61
>・・・釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である・・・・< >>168
ほら、テンプレを読んでないのがバレた
w
w
w >>158
曰治と治じゃ意味が違うw
>>159
皆さん関心するんじゃないのw
>>162
一大率は自女王国以北に置かれていいたんだよ
どうやって伊都国に常駐するの?
頭大丈夫? >>168
考古学知らないの?考古学で(距離表S22)を知らない人いないんだが >>172
テンプレ読んでりゃ知ってるだろう
他の個所にも出てくる >>169
読んだから、テンプレ読んでもしょうがないと言ったんだ何か? >>170
州郡の駐するところを治と言ってるんだが、わからんか? 弥生時代の遺跡から庄内式土器と、半島の4世紀半ばの土器が同伴しているんだ。
庄内式土器の時代は4世紀半ばまで繰り下がるんだよ。
箸墓は5世紀の墓さ。 >>173
何処に?距離表なんてあるの?
テンプレ読んで無いだろWww >>170
>曰治と治じゃ意味が違うw
どう違うの? >>181
ダメダコリャ
テンプレ読んでないの丸わかり 168(距離表S22)って何2017/10/16(月) 15:20:20.74>>169>>171
FAQ61
>・・・釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である・・・・< >>187
「前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。」
と明記されてるのに無視したんだから
見てても1は無視するだろ
荒らしなんだから >>186・・・あなたが擁護する必用はありません
FAQ61の
(距離表S22)も悪いのですが・・次スレで手を加えるでしょう
どこからか持ってきて張り付けたのでしょう >>193
何を貼り付けたと?
日本語の不自由な人だなあ >>187って深夜から荒らしてた奴か
どうしようもないな
>>180
おーい
半島の4世紀半ばの土器ってなに?
結局>>180は真っ赤なウソだったということね
九州説はどうしてこういうガセネタを流すんだろう
良心がないのだろうか >>139
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 FAQ61の
(距離表S22)?????????????? >>124
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 (距離表S22)探したがテンプレでは無いようですな、
これかなと思ったがここから1296キロはでない
FAQ60
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽 >>193の言う通りだが、どこかからの引用の貼り付けは悪くは無いと思う
ただ、引用の貼り付けは注意しないとイミフまで連れてきてしまう
愚かなので>>173のヒントでも気がつかない自演爺 >>213
勘違いするな、俺も興味あったから読み直したんだ
結論 あんたの負け >>217
テンプレ読んでないのに
どうしてテンプレに文句つけられるの? 朝からウソつきっぱなし
何か主張しても理由が言えない
そんな、しんぴょうせいなしの人のはだれ?
それは>>228 ウゼーな
キャンキャン吠えるな
(距離表S22)は昭和22年の距離表
考古学では当たり前 FAQ 19に
>海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
って出てきてる
気がつかないのはテンプレ読んだというのがウソな証拠 相手の話もろくに聞かずに
「でも畿内説って、何にも根拠が見つからないんでしょう?」
とか言ってる嘘つきの化けの皮は
簡単に剥がれるな 287の>>889
こんなふうに、
漠然と抽象的な言い返しや、
「南→東」などの嘘つきダマシのように、都合の悪い史料事実の否定曲解しか出来ないのが、
大和説がすでに敗北してる証拠。 287の>>900
ほらな。
「南≠東」などへの具体的な反論が出来ない 。
これが、大和説が既に敗退している証拠だ 。 こういう荒らししか対抗手段がないなんて
九州説もう終わってるな 287の901
テンプレが、
「南→東」や、
「祇園山の殉葬奴婢100余人」や、
「平原の21枚の尚方作鏡」などについての、
具体的な根拠と言っていない件について。 >>905
>>学問では、観察事実や実験や測定事実や史料事実などへの「否定曲解」の押し売りは、
通用しない。<
>つまり、古田説は失格<
古田さんは、原則として史料批判をして、
史料の適否や可否を判断してから帰納的確率的な推論をしておられるから、
失格ではない。
それに対して、大和説者は、都合の悪い史料を頭から「否定曲解」しているから、失格。 >>231
70年前の表をありがたく讃えてるのか
それがもう考古だな >>171
コピパクがバレてもそのまま直さないスレ主は厚顔無恥 >>239
こいつ、本当に頭悪いんだな。
距離のデータが変わるか? >>189
>>>187
>「前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。」
>と明記されてるのに無視したんだから
>見てても1は無視するだろ
>荒らしなんだから
都合の悪い批判は無視します、だろw >>240
安易な思い込みがいかに正常な認識を阻害するかという好例がここに >>241
そのデータがここで示されていなかったら意味ないのでは? >>242
オレ様が世に認められないのは陰謀のせいだと思い込むのと同じタイプの妄想だな。 >>240
マジでコピパクだとか思い込んでるのか
知能低いというか、思い込みが強いというか 287の>>907
>どれも反論になっていない ・千里の有効数字が500里〜1500里は、お前が決めて言張っているだけ<
数学的な常識だよ。
>>どこの話か?は知らんが<
> ・お前のレス>>114 >リアス式の激しい一大國では、海岸沿いの出来るだけ平坦路を移動すれば、 直線距離よりもはるかに長い距離の移動になる <
当たり前の事ではないか。で、何が問題なんだい?。
>>渡海なら一寸千里の法が中心だよ<
> ・それを循環論法という <
循環論法とは、「Aだから・・・Aだよ」というように、出発点の論に戻る事をいうのであり、
史料記載の「渡海の千里」と、「一寸千里の法」とは、「違うもの」だから、循環論法にならないよ。
>>渡海では歩測は出来ないよ <
> ・3海峡全部同じ千里なら測量しなくていい <
三つとも「有効数字1桁概数」という事までしか判らず、「3海峡全部同じ千里だ」とはなっていないよ。
>>始めから「長里」ありき<
> ・長里ではなく、東夷伝の一番初めに書いてあるのは 『尚書』〔禹貢篇〕九服之制の地理的世界観<
それなら、短里の否定になっていないよ。 >>251
短里の否定は「根拠が提出されてない」だ。 河伯(河童)の家は何代目になるの?
□代目当主とか、よく言うでしょ 287の>>908
>そもそも短里なんてものが存在しないのだから 長里なんていい方は認められない<
関係がない。
短里とは「1里≒76.5m」位の里単位であり、
長里とは「1里≒434m」位の里単位であり、
歴史上、両方とも存在する。 河伯、当時の日本に渡ってきたという話になっていない? 実際に魏志倭人伝に書かれている里程を否定することに躍起になっている畿内説って、なんなんだろうね。
ただの妄想なんじゃないか。 >>257
地図を片手に、魏志倭人伝を呼んでみてよ。 287の>>911
とりあえず、魏志倭人伝においては、
長里での記載になるものを実は誰も算出していないが、
短里での記載に なるものが全てである、
という事実を指摘して、
大和説を論破完了。 『日本昔話 福島県 姥清水』
「ひょーい、ヒョーイ」と言っているから、観てみて
『馮夷』? 長里なら、司馬懿の四千里征伐は、現在の洛陽市→遼陽市、
これはgoogleで高速道路を利用して、1445km=361m/里
当時は道も直線じゃないだろうから、魏里420mで問題ない。 山の上のほうに住んでいるのかな、
山のカミ・・・のような存在も出てくるから 287の>>913
對海國と一大國は、双方の海岸線から相互に見えない、という事実に拠って、
中国の古代の歴史上での距離計測法の内で、
三角測量や記里車や歩測は不可能であり、
一寸千里しか使えなかったのだ、
という事が、証明された事になる。 287の>>915
「(短里はなく)長里だけだ」っていうのは、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説学者らの一発芸でしょ?wwwww 。 >>259
こういうこ言う人は、どういうレベルの地図を使って言ってるんだろうね >>241
自分がなにをバカにされてるのかも理解できてないみたいだなw 287の>>921
>・12000里の±500里の誤差と1000里の±500里の誤差では測量精度がまったく違う<
「萬二千余里」は、「一寸千里と方向」からでも計測出来るから、
一応、各部分行程とは別の推論値の形であり、独立的な推論値であるが、
各部分行程の合計ともほぼ一致する、という形の記載。
だから、測定精度は各部分行程と一致する必要がない。
> ・郷ノ浦と唐津間の沿岸沿いの距離は棒の影の差を利用して測量することはできない<
古代での、海上での道のり距離測定は、全く不可能であり、
一寸千里や、可視地間での三角測量での直線距離しか、測定方法がない。
> ・3海峡とも千里だから測量の根拠がない <
一寸千里なら、3海峡とも可能。
> ・洛陽と会稽東冶は緯度差がある <
誤魔化すなよ。「会稽東治」だよ。
そして、陳寿は、郡〜女王之所都の南北緯度差と、
「郡の西方の山東半島〜会稽東治」の南北緯度差が、大体同じだ、と言っているんだよ。 287の>>924
>100年前から 方位は誤りであるって 反論してるのだが <
そうか。
大和説学者は、100年も前から、
「大和説」という皇国史観の「結論先にありき」の、
「南→東」などに嘘つきダマシの・・・・学者であったのか。 >>274
じゃあ、何をバカにしているんだい?
? >>232
渡しには関係ないけど笑いました
詭弁もここまでくると笑うしかありません
(距離表S22) >>278
反論できないで笑っている人は
自分自身をバカにしている 狗邪韓国と末盧国間はトータルして3000余里
金海と末盧国(中原遺跡)間のルート実測で250km
1里を77kmくらいとすれば77mx3000で231km
余里を1.9kmとすれば実測値と三千余里という記載は短里で完全に整合する。
1000里を430kmにしたら、狗邪韓国と対海國間だけで鹿児島まで行っちゃう。
畿内説や、長里説など文献上全く成り立たない。 >>280
悪いけれど、私が投げかけた質問でも反論でも無いです
ただ、(距離表S22) については貴君ら?貴君?が説明できないのに笑っているだけです
次回のスレで(距離表S22) は削除した方が良いと思います。 >>251
・測量して得た数値を4桁に丸めているというのはお前が言張っているだけ
倭人伝では500里は500里
・言張るだけじゃなく、リアス式の激しい壱岐の海岸沿いを歩いたら
壱岐島の方の2辺分になるというのをお前が実際に歩いて歩測して証明が必要
・お前は海峡間を一寸千里の法で測量したという仮定に戻っているから循環論法
・『尚書』〔禹貢篇〕九服之制は方万里の世界観の概念だから、
その里は度量衡の里の単位ではない >>281
松浦半島北端にある呼子から壱岐まで約28キロ
壱岐と対馬の間は73キロ、対馬と韓国の釜山の間は約93キロ
これが全部千里で一まとめ
正確に計測していたワケがない >>285
> その里は度量衡の里の単位ではない
東夷における里なんでしょ?
実際にその里で書いてある事実は変わらない。 >>286
正確になんて書いてない。
およそだと書いてあったはず。
アホか。 失礼
(距離表S22)は削除しなくてよいです。
私も勉強したいので (距離表S22)の記述された文献を示していただければ幸いです 287の>>933
>一寸千里は夏至の正午の南北でないと成り立たないんでないの?いつでも<
周髀算経には、一応24節季毎に推定影長の表が書かれているから、
一応1年中の「いつでも」測定できる。
>どこでも距離が測れるもんじゃないと思うなぁ<
周地付近と同じような「大地平面」近似が成立する地域でなら、
一応「どこでも」測定出来る。
そして、周髀算経は、周地付近から北回帰線付近まででも、周地と大体同じ一寸千里が成立する、
という認識を記載している。 >>275
・萬二千余里が各部分行程の合計とは別の独立的な推論値なら
郡から女王国までの直線距離ということになる
・郷ノ浦と唐津間が沿岸沿いの曲線距離も含んだ距離と言うのは
棒の影を使っていないと言っているのと同じこと
・他に会稽東治の例がない
三韓が山東半島から南の地域の東にあたる
287の>>935
>主語だけ書き換えるとウソを書いたことになるの
九州老人は気がつかないのだろうか?<
「南→東」などの嘘つきダマシへの反論や反省が出来なければ、
大和説者は、永久に「ウソをしゃべり続けることにになる」という事を、
大和説老人は、気が付かないのだろうか?。 287の>>936
「南→東」などの嘘つきダマシのアホな事を言い出す大和説者に対して、
史料事実を述べているだけだ。 287の>>937
>正確に言うと夏至の正午の南北でも成り立ってない<
これまた、アホを晒したね。
地球球面での思考では、確かに、「夏至の正午の南北」ではわずかに北の方が影長が長い。
しかし、大地平面での思考では、幾何学的に南北の影長は等しくなる。
そして、逆に言えば、
一寸千里の「夏至の正午の南北」での影長が等しい、という記載が、
周髀算経の一寸千里の法は、「大地平面」という設定をしている、
という事の証拠になる。 287の>>938
もともと周髀算経が長里を否定し、短里を肯定してるんだから、
話にならんでしょ。 287の>>940
>どこ読んでも皇帝の威信によって対馬海峡は三千里に確定したとか 書いてないんだけど<
魏使らや陳寿は、魏の皇帝の威信に逆らう事が出来ないから、
秦漢朝の長里記載をすることが出来なくて、
海峡の3渡海を、各「千余里」という短里的近似里数で記載したんだけど。 287の>>950
九州説には変な権威主義者が多いなあ
お薬、多めに出しておきますね。 また訂正。
287の>>950
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説には、変な権威主義の病人が多いなあ。
お薬、多めに出しておきますね。 >>295
なんで自分に突っ込みいれてるの?
バカなの? 短里で本売るのは、消費者が情報を取得するのに時間がかかった
ネットがなかった時代までだね 287の>>955
>それなら倭国の位置を遠めにおいて
こんなに遠い国からも朝貢しに来たんだぞとしたのかもな <
一介の家臣に過ぎない魏使らが、
「勝手なウソ」を付いた事が同伴した沢山の部下らの一人からだけでもバレたら、
そりゃ、魏使らの首は危ないよ。
> つまり短里はなかった <
つまり、長里ではなかった。 287の>>956
>倭人伝が伝える日本史に重要な事実は
九州北部の邪馬台国があった、ではなく
九州平定が250年以後だった事、それに伴う
高句麗馬の移入、銅鐸祭祀の放棄だろ? <
「邪馬台国」はなかったし、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、
(銅鐸族などを支配した)旧小国」であった。 >>291
時刻と距離によって影の長さは微妙に変わるんだよ
また正確に南北でないと測れない
そんな面倒な計測方法より歩測、あるいは日測で測ったとする方が
より現実的ではないか >>296
夏至の正午の南北での影長が等しくなったら
一寸千里もクソもない 287の>>957
相変わらず大和説者は、「南→東」などの嘘つきダマシの理由を何も言わない。
そういうことだからジリ貧になり、 学問の世界から消えた。 >一寸千里の「夏至の正午の南北」での影長が等しい、という記載が
まじかよw 287の>>266
>長里なら、司馬懿の四千里征伐は、現在の洛陽市→遼陽市、
これはgoogleで高速道路を利用して、1445km=361m/里
当時は道も直線じゃないだろうから、魏里420mで問題ない<
司馬懿の四千里征伐の「征伐」が、遼東付近での公孫氏の征伐の事であり、
「四千里」は、韓の「方四千里」と同じ位であって妥当であり、
短里の「千里≒76.5km」で問題がない。 287の>>272
對海國〜一大國は、出発時点では相手地が見えないから、
三角測量も記里車も歩測も使えず、
一寸千里しか使えない 。
証明済み。 287の>>969
大和説者って、現実とは異なる世界の住人なのか、
「南→東」などの大嘘つきなのか、いずれかだな。 287の>>973
>邪馬台国は九州にあった大和の出先機関の一つじゃないかな
卑弥呼と天照や大和の皇室を同一視するからお互い錯誤するんじゃないかな <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国。 287の>>979
相変わらず、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は理由を何も言わない 。
そういうことだから、
学問の世界に居る場所がなくなり、
ゴミ扱いされるようになった 。 287の>>982
不備なんかないじゃん。 バカを晒しただけ。
つまり大和説だ。 287の>>989
今どきになっても大和説に残っているのは、
日本語が理解できないレベルのクズ、
ってことが良くわかる 。 287の>>996
「南→東」などの嘘つきダマシをして、
マナーが守れないのはいつも大和説者だね。 287の>>998
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、いろんな意味で脱落者なのだよ。 287の>>1000
「南→東」などの嘘つきダマシの、
理由がないのが大和説。 >>68
>大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。<
大同江河口の鎮南浦にまで、北西に、「循海岸水行」に逆らってまで、大幅な遠回りをする必要がない。
京畿湾北岸の「海州」は、帯方郡内のようであるから、
「海州」から循海岸水行」をすればよい。 >>71
さて、また「南→東」などの嘘つきダマシの大和説信者のマナーと頭の悪さが、
また晒されたわけだが 。
やれやれ 。 >>76
>卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。 <
弥生銀座の広さの何分の一以下なのか?を比べた方がよい。
>卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。<
「南≠東」だから、卑弥呼は、大和の人間ではない。 >>78
大和説殺すにゃ刃物はいらぬ 。
「南→東」の嘘つきダマシの理由の一つも聞けばいい。 >>204
>>221
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>81
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
理由を聞かれると逃げるから、死ぬ。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>324
奈良の自称考古学者が狂っているのは当たり前だよ。。。 >>82
>例 「有槨」だという理由は?<
「棺を容れるに足る小部屋の構造物」があるから。 >>325
ザラコク如きが指図できることでもあるまい あくまで倭人伝だからな。
埋葬についても、当然倭人一般の風習についてかかれたもの。
つまり庶民の倭人の埋葬法。
木棺を土葬、当然槨はない。 日本列島統一までの長い道のりの極初期。
九州北部、伊都国や奴国が倭国に含まれなくても別段不思議ではないね。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。 クニの語源。
クは区切られた、神聖な。
ニ、ナは土地、土。
クニ、クナは区切られた神聖な土地という意味かな。
クナ、卑弥弓呼。 >>334
理解できるなら解説してくれ
説明できないと言うのは
どう言う意味だ? 国生みは島生み。
淡路島から始まる、海洋民族倭人の勢力拡大を表した伝承だろう。
神生みとセットだし、陸地の勢力と血縁を結んでいったのかもね。
日本列島津々浦々、倭人は勢力拡大していったのかもね。 やっぱり八十島祭なんだよね。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 宮中式内社、かなり興味深い。
宮中にはより事実に近い歴史が伝承されているのかもね。 以上ご覧のように著しく低レベルのやりとりです。
ひとえに、テンプレに呆れ果てた学のある各説の論者が、参加しないからです。
参加しているのは、テンプレレベルの低脳の畿内説の論者と、正義感だけで参加している他説論者です。 日本列島統一までの長い道のりの初期。
九州北部、伊都国や奴国が倭国であっても、畿内が倭国に含まれなくても別段不思議ではないね。 伊都国や奴国は倭人伝に書いてある国だから倭国だよ
女王国以北で一大率が檢察している諸國と書いてある 残念だけど、伊都国は倭国ではないよ。
親魏倭王卑弥呼を王とする女王国(新生倭国)に含まれないと魏志倭人伝に書かれている。
伊都国は、女王国の属国、その他の北部九州の国々は女王国の属領なんだよ。 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 畿内説は、倭国というものをわかっていない。
倭国とは、博多湾沿岸と対馬海峡に始まり、日本海に沿って発展した国だった。
後漢書を読めよ。 キウスは初めて見る(距離表S22)という言葉にとても興味を示しているようだ (距離表S22)
考古学ではオーソライズされたもの?
無学でスマソ >>359
考古学とは直接関係ない。
よく知られてるってだけ。
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ヴェナート S22 - 玄関ドア - YKK AP >>360
○✖S22って海保では断層じゃなかったけ >>362
↑
迂闊だったで賞・・・
迂闊というよりキウスに脳はない
>>231-232
他人の話す日本語が理解できないキウスは痴呆すぎるで賞
藁 >>93
>ホケノの画文帯が魏鏡ではなく楽浪系鏡だと言ってるのは誰だ?<
10年以上前にPCで紹介されたサイトでの記載であり、
「誰?」など、もう覚えていないが、萩原1号墳の画文帯との比較での論考であり、
論理的な分析であったよ。 >>96
>>「倭國亂 」であり、「倭国大乱」ではないよ。
「大乱」は、「天子の存在を脅かすよう反逆のような乱」の事。<
>理由は?<
「大」の使用例からの帰納。 >>143
>九州説はレベルが低いなあ <
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、レベルが低いなあ。 >>145
>反論できなくなると罵るのは 議論に負けたひとだな <
「南→東」などの嘘つきダマシの指摘に反論できなくなって、口先言葉尻で罵るのは 、
議論に負けたひとだな。 >>146
>東遷論は畿内説からも九州説からも嫌われ敵視され ゴミ扱いされてる鼻摘まみだよ
コウモリだから <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
白村江の後で、母国の倭国をようやく併合吸収継承したのであるから、
3〜4世紀頃の「東遷」説も、×であり、
東遷説学者も、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者の仲間のサギシにしかならないよ。 >>366
つまりこうさ
ザラコクのすべては
ネット上で聞きかじった
出所不明のデマの脳内変換品 >>155
>つまり定説を片端から否定しないと九州説は成り立ちようもないのさ <
つまり「南→東」などの嘘つきダマシをしている通説大和説学者の「定説」とやらは、
始めからサギで成り立っているのであるから、全て信頼性がなく、
片端から否定されてしまって、
大和説は、成り立ちようもないのさ。 >>367
帰納っていうのは魔法の呪文じゃないんだよ
本当に帰納しないと結果は出ないんだよ >>166
>畿内説を知ろうとしなければ畿内説批判なんて無理無理<
大和説者の「南→東」などの嘘つきダマシが、大和説の出発点である事を知れば、
大和説は全て信頼性が全く無くなってしまうのであり、
そんな嘘つきの九州説批判なんて、無理無理。 >>365
自分の常識を他人に押し付けるのは?
社会一般に知られているならともかく
^_^ >>168
>FAQ61 >・・・釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である・・・・<
大同江を下るコースよりも、
京畿湾北岸の「帯方郡内の海州」へ出る方が、直ぐに「循海岸水行」だ出来る、
という反論済みだよ。 加古川ジジイが理解している一寸千里の法
>>296
>これまた、アホを晒したね。
>地球球面での思考では、確かに、「夏至の正午の南北」ではわずかに北の方が影長が長い。
>しかし、大地平面での思考では、幾何学的に南北の影長は等しくなる。
>そして、逆に言えば、
>一寸千里の「夏至の正午の南北」での影長が等しい、という記載が、
>周髀算経の一寸千里の法は、「大地平面」という設定をしている、
>という事の証拠になる。 >>378
郡を水行で出発してるんだから
それはないよな
反論不成立 >>200
>おーい 半島の4世紀半ばの土器ってなに?<
庄内との共存の話なら、伽耶の陶質土器の事だろうが、
半島から、中国系陶器の流入の話もあったから、
どっちの事か?は判らないな。 >>202
結局>>200は、またいつもの「言葉尻への匂わせ誹謗宣伝」の真っ赤なウソだったということね 。
大和説者はどうしてこういうガセネタを流すんだろう 。
良心がないのだろうかな?。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>230
朝からウソつきっぱなし。 何か主張しても理由が言えない。
そんな、しんぴょうせいなしの人のはだれ?。
それは「南→東」などの嘘つきダマシの、怖い醜い顔の大和説者。 >>383
「言葉尻への匂わせ誹謗宣伝」じゃなくて本当に正真正銘
>弥生時代の遺跡から庄内式土器と、半島の4世紀半ばの土器が同伴しているんだ。
というのがザラコクの真っ赤なウソなんでしょ?
>>233
相手の話もろくに聞かずに,、「南→東」などの嘘つきダマシをして、
「でも九州説って、何にも根拠が見つからないんでしょう?」
とか言ってる嘘つきの化けの皮は、
簡単に剥がれるな。 >>385
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>391
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>391-395
岡上、そんなに必死に荒らすなよ >>236
「南→東」などの嘘つきダマシなどのような、
こういう荒らししか対抗手段がないなんて、
大和説は、もう終わってるな。 >>266
>長里なら、司馬懿の四千里征伐は、現在の洛陽市→遼陽市、
これはgoogleで高速道路を利用して、1445km=361m/里
当時は道も直線じゃないだろうから、魏里420mで問題ない。 <
これはもう反論説明しておいた筈。
「四千里征伐」の「征伐は、
(遠征路の里数ではなく)、遼東付近での征伐里数であり、
韓の「方四千里」の距離とほぼ同じであり、
だから、短里。 >>272
>一寸千里は使えない 証明済み<
北回帰線〜周地付近と同緯度で、8尺棒と尺定規さえあれば、
一年中正午の影長は測定出来、
一寸千里は使える。
説明済み。 >>283
>島巡り説は間違いってことで、おK?<
有効数字1桁概数記載の範囲内、ってことでOK?。
「1里≒434m」の長里説は×、って事でOK?。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>285
>・測量して得た数値を4桁に丸めているというのはお前が言張っているだけ
倭人伝では500里は500里 <
陳寿が、有効数字1桁概数での記載をした、という事が史料実態。
>・言張るだけじゃなく、リアス式の激しい壱岐の海岸沿いを歩いたら
壱岐島の方の2辺分になるというのをお前が実際に歩いて歩測して証明が必要<
地図を見ての推定で十分。
>・お前は海峡間を一寸千里の法で測量したという仮定に戻っているから循環論法 <
海峡距離の「千余里」は、魏志の距離表記であり、
周髀算経の「一寸千里の法」とはイコールではないから、
循環論法にならない。
>・『尚書』〔禹貢篇〕九服之制は方万里の世界観の概念だから、
その里は度量衡の里の単位ではない<
それなら、
尚書』〔禹貢篇〕九服之制は方万里の世界観を持ち出して反論しようとしたこの投稿子の方が、
嘘つきダマシのサギシであった事になるだけの事。 >>406
その程度の精度しかないなら
短里=約75mとか算出できないよね >>286
>松浦半島北端にある呼子から壱岐まで約28キロ<
「千余里」の計測は、おそらく、
出航港と到着港とでの一寸千里の測定、に拠る有効数字1桁概数。
おそらく郷ノ浦〜唐津。
>壱岐と対馬の間は73キロ、<
對海國の出発は、おそらく厳原。
>対馬と韓国の釜山の間は約93キロ<
對海國到着は、おそらく、浅茅湾の北方海岸。
> これが全部千里で一まとめ <
この投稿子は、わざわざ、ヘンテコな場所での計算をして誤魔化している。
>正確に計測していたワケがない <
始めから、有効数字1桁概数記録。 >>399
「征伐」とは、「出征討伐」のこと。
「出征」は、軍隊が戦地へ行くこと。
「討伐」は、反抗する者や従わないものを攻めうつこと。
明らかに洛陽→遼陽のお話 畿内説に反抗してるのは詐欺師のザラ黒と荒らしの脳キウスだけのようだな >>292
>>275
>・萬二千余里が各部分行程の合計とは別の独立的な推論値なら
郡から女王国までの直線距離ということになる<
魏使らも陳寿も、直線距離と道のり距離の区別をしていないので、
どちらの記載であるのか?は、それぞれの記載の文脈から判断すべき。
> ・郷ノ浦と唐津間が沿岸沿いの曲線距離も含んだ距離と言うのは
棒の影を使っていないと言っているのと同じこと <
曲線距離が直線距離の1.25倍位が多い、という事は、
両方とも、有効数字1桁概数の「千余里」の、概数の範囲内であるだろう、
という事になる。
> ・他に会稽東治の例がない <
後漢書は、范曄の自己解釈による書き換えの多い半分×書であり、
「東冶」も全く信用出来ない。
>三韓が山東半島から南の地域の東にあたる <
常識的には、帯方郡は、長串岬付近の東北東。
>>300
また訂正。
大和説には変な権威主義者が多いなあ。
お薬、多めに出しておきますね。 >>303
「長里だけだ」という嘘つきダマシで本売るのは、
消費者が情報を取得するのに時間がかかった、
ネットがなかった時代までだね。 水行十日、陸行一月は会稽東治の緯度に持ってくるために
わざと設けた一文
邪馬台国は伊都国から500里以内にある テンプレートを論破され続けている、小汚い狂った老人が、悪口ばかり言っているね。。。 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>406
・実際の海峡間距離は40〜50km
サギ師古田が本を売るために考えた1里76.5mなどとは無関係
陳寿が数字を丸めた根拠などはない
・地図見ただけで1800年前の島内の道などわかるはずがない
・お前はPart287>>877で「渡海なら一寸千里の法が中心だよ」と書いている
・お前が、「はじめに魏の公里ありき」と言うから
東夷伝では初めに『尚書』〔禹貢篇〕九服之制の方万里の世界観が書かれていて
その里は度量衡の単位ではないと教えてあげている
古田が考えた里などはじめから度量衡の単位として存在していない 棒の影の長さの違いだけじゃ
南北の距離は測れても東西は測れないよ >>411
・道のりか直線かではなく、萬二千余里が各部分行程を合計したのでなければ
郡から女王国までの直線距離にしかならない
・お前は渡海なら一寸千里の法が中心と言ってるが、
棒の影では曲線距離は測れない
・會稽東冶は呉書にある
・帯方郡など言っていない
山東半島から南の地域の東は三韓 地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描く(全周させなくてかまわない)。
午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがあるが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
この方法は、古くから『周礼』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられている。 >>426
東西方向の「距離計測」はどうしたんだろう? >>426
それは東西南北を得るインディアン・サークル法
距離と関係ない >>427
周パイなんとかは漢代に論破されてゴミ扱いだったトンデモ説明だからな
まともに相手されてわけない >>393
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>407
>>>406
>その程度の精度しかないなら
>短里=約75mとか算出できないよね
まあ、これで十分だね。
邪馬台国は九州北部以外にない。 >>418
>水行十日、陸行一月は会稽東治の緯度に持ってくるために
>わざと設けた一文
九州説でも畿内説でも、大多数が陸行は1日の誤りとしているよ。 >>433
あるさ
記録にあるのは正常な里だけだもの >>420
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 >>306
>時刻と距離によって影の長さは微妙に変わるんだよ<
また、誰か?は知らんが、変なアホな事をしゃべっているな?。
測影時刻は、正午であるし、数分位違えても、影長には殆ど変化がないよ。
また、南北距離は、それを一寸千里で測定するんではないか。
>また正確に南北でないと測れない <
これも測影時刻と同じで、南北から東西に少しずれた位では、影長は殆ど変わらない。
>そんな面倒な計測方法より歩測、あるいは日測で測ったとする方が より現実的ではないか<
歩測は、道のり距離であり、一寸千里の直線距離とは差異がでるし、海上では測れない。
「日測」とは何なんだい?。 >>439
岡上という、その人なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
テンプレートを張り付けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>307
>夏至の正午の南北での影長が等しくなったら 一寸千里もクソもない<
また変なのが出て来たな?。
もう既に何度も書いた事だが、
地球球面上では、周地付近からの南北千里の地点の影長は北の方が当然長くなるが、
周地付近の大地平面近似が成立するところでは、南北千里の地点の影長は等しくなる。
作図して見て、確かめてみろ。
そして、周髀算経の周地付近では夏至正午の影長は1尺6寸であり、
その地点の南千里地点では1尺5寸になり、北千里地点では1尺7寸になる、
という事が、逆に、
周髀算経は、「大地平面」というモデルを使っている、という事の証拠になる。 >>336
>あくまで倭人伝だからな。 埋葬についても、当然倭人一般の風習についてかかれたもの。
つまり庶民の倭人の埋葬法。 木棺を土葬、当然槨はない。<
ダメだよ。
魏使の張政は、女王卑弥呼の埋葬を見ていて、「有棺無槨」と記録した事になるから、
「有棺無槨」は、庶民から女王まで共通した埋葬法であった事になる。
だから、大和の国「有槨」のホケノは、卑弥呼の頃よりもずっと後。 テンプレートを論破され続けている、小汚い狂った老人が、悪口ばかり言っているね。。。 >>337
>日本列島統一までの長い道のりの極初期。 九州北部、伊都国や奴国が倭国に含まれなくても別段不思議ではないね。<
ダメだな。
不彌國で、「萬二千余里」はほぼ消化されているから、
「邪馬壹國女王之所都」の「倭国」は、不彌國のすぐ南にある事になる。 >>443
>地球球面上では、周地付近からの南北千里の地点の影長は北の方が当然長くなるが、
>周地付近の大地平面近似が成立するところでは、南北千里の地点の影長は等しくなる。
周地付近で南北千里の地点の影長は等しくなるなら
一寸千里の法が成立しないだろw 「岡上、荒らすなよ」連呼祖父さん=スレ主でいいの?
俺は岡上じゃないけど、連呼祖父さんはしつこすぎるよアラシだな >>338
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。<
「南≠東」だから、×ね。 >>351
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
これも、「南≠東」だから、×ね。 ザラコクは一寸千里を連呼する割には何も理解してねーな >>441
厳密に言うと同じ場所でも1日ごとにに影の長さは微妙に違ってくるし
緯度が違っても影の長さは変わるんだよ
あと正午に測るという条件で南北の距離が同じなら
東西にいくらずれても基本的に影の長さは一緒
少しぐらい東西にズレても変わらないとはどういう意味?
言ってる事が全体的に意味不明
あと日測とは1日進んだら何里という換算の仕方 周尺は約20cmだから、影がわずか1寸=2cm違えば南北2点間の距離が千里というのが
一寸千里の法(夏至南中時) >>371
>つまりこうさ ザラコクのすべては ネット上で聞きかじった 出所不明のデマの脳内変換品<
素人オジンとしては、
誰の情報であっても、史料事実を示してそれからの帰納的確率的な推論をしてあれば、
一定の価値のある貴重な情報として受け止めるだけであり、
「南→東」などのように史料事実を否定曲解するような話は、信用しないだけだよ。 里数はもういいかと思います
畿内説の解説で里数を論ずるのは良いでですが
九州説の里数計算の議論なら九州説のスレでやるべきです
なお、岡上さんもザラコクさん、四六時中書き込んでいないと思いますよ
誰彼構わず岡上とかザラコクとかキウスと書き込むのは四六時中貼りついてる人でしょ
誰とは言いませんが・・・・・
私の書きこみもめっきり減りましたよ
一応、レスには目を通しますが、、私的に気にかかかればカキコミはしますが
とにかく畿内説のスレですので里数は纏向に至る里数を問題にすべきです >>463
四六時中書き込んでるから指摘されてる。 >>373
>帰納っていうのは魔法の呪文じゃないんだよ
本当に帰納しないと結果は出ないんだよ<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得て「存在確認が取れた観察や実験や計測や史料事実など」からの、
(否定曲解ではなく、)帰納的確率的な推論をするべきであり、
それに拠って人類は、文明を発展して来たんだよ。 >>462
素人オジンのザラコクがいう
史料事実だとか帰納的確率的な推論だとかいう
理由のない断定が信用されてないだけ >>467
>船で1日進めば大体100里とかじゃね
まぁ、学問版じゃないな >>375
>自分の常識を他人に押し付けるのは? 社会一般に知られているならともかく ^_^ <
人類の常識も、自然や歴史の史料事実などからの、
帰納的確率的な推論内容だよ。 >>466 貴君ですか四六時中監視してるのは
正業を持たないのですか?
いずれにせよ今日は8:00限度でお相手します >>468
でも、帰納なんかしてないんだよね
ということはザラコクは
羊頭狗肉サギをしてるんだよね
それが悪いことだって、わかってる? >>380
>郡を水行で出発してるんだから それはないよな 反論不成立<
海州は、始めから帯方郡内の港町であり、
魏使らは、
大同江を北〜北西に下って黄海に出て、
危険な長串岬を大回りし遠回りするようなアホなコース選択をしないよ。 >>387
>「言葉尻への匂わせ誹謗宣伝」じゃなくて本当に正真正銘
>弥生時代の遺跡から庄内式土器と、半島の4世紀半ばの土器が同伴しているんだ。
というのがザラコクの真っ赤なウソなんでしょ?<
「弥生時代の遺跡から庄内式土器と、半島の4世紀半ばの土器が同伴しているんだ」
というのは、私(zarakoku)が言った文言、ではないよ。
だから、私は、それに関する情報の存在を書いてあげたんだよ。 yahooを締め出された時はyahooへの返事をドン来いに連投してたから
書く板がなくなったら奈良の文化財に落書きするだろう >>407
>その程度の精度しかないなら 短里=約75mとか算出できないよね <
幾つもの有効数字1桁の概数からの平均値として、
始めは「75〜90mで、75mに限りなく近い距離」だとして、算出出来た。 >>476
海州が帯方郡内の港町だとかいう根拠なし 当時の不確かな測量技術で
現在換算で数十キロになる距離を正確に測れただろうか?
75mぴったりというなら逆に数字の操作を疑ってしまう 一寸千里の法の測量実験をしようとしたら
影長を測るための目盛をつけた周尺のものさしが必要だな >>477
だからその、それに関する情報の存在を書いてあげた、とか、言うのが
ザラコクの捏造した真っ赤なウソなんでしょ?
どこまでウソをつくの? ここカキコミ
ボランティア
ボランティア
人の生死に関係無いが
ちと気になり
ボランティア 纒向がクナの墓地ってのはもーわかったよってそろそろヤマイがどこやったか語らんかい(^^ 488日本@名無史さん2017/10/17(火) 19:47:27.84
ここカキコミ
ボランティア
ボランティア
人の生死に関係無いが
ちと気になり
ボランティア はーこの板idでーへんからややこしやーややこしやー(てきとー
畿内説に歯が立たないから
ひたすら荒らすって
九州説はみじめなもんだ
しつれーしました^^
御歓談お続けくださいませ(さばら 距離表S22)(距離表S22)(距離表S22)
距離表S22)(距離表S22)(距離表S22)
距離表S22)(距離表S22)(距離表S22)
距離表S22)(距離表S22)(距離表S22)
距離表S22)(距離表S22)(距離表S22) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>499なんかみると、確かにいかにもアタマ悪そうではあるが・・・ キウスは自分が何を言いたいのか
自分ても解ってないんだろうね キウスは距離表という語よりも、
初めて遭遇したS22という文字に非常に強い関心を示している>>361 知能があれば昭和22年って意味だってくらい分かりそうなもんだが まさかスレ主が文をどっかから適当にコピペしたと勘違いして
はしゃいじゃったのかな? >>511
いや、それはないだろう。
部分的には切り貼りしてるかもしれないけどね。
論文とかにしたら追い出されるレベルだし。 今畿内説れ論文にすべきテーマって何があんのかね
スレでやってるような内容って30年以上前の古田説に付き合ってやってるようなもんだし >>442
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上だと勘違いしているふしがあるね。。。
発狂しているからかな。。。。 鉄の流通とか、当時の航海、港とかテーマになるんじゃないかな。 テンプレートを論破され続けている、小汚い狂った老人が、悪口ばかり言っているね。。。 テンプレートに全く歯が立たない、ボロボロのクソ汚い狂人が、ウソばかりコピペしているね… >>409
>「征伐」とは、「出征討伐」のこと。<
いや、「征伐」とは「征し伐する」事であり、
「征」は、「東征毛人」と使うように他動詞であり、「〜を征服する」という意味。
>「出征」は、軍隊が戦地へ行くこと。<
勝手に「出」という自動詞の文字を付して、自動詞に摩り替えるな、サギシ。
>「討伐」は、反抗する者や従わないものを攻めうつこと。<
「征≒征服する」の他動詞の意味であり、「伐≒伐採する」の他動詞の意味。
>明らかに洛陽→遼陽のお話<
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic24.html
に書かれているように、
「四千里討伐」の話は、明帝の「雖云用奇」や「臨危制変」という発言にあるように、
司馬懿の戦争における知略に信頼を置く事を示すものだから、
(遠征途中の話ではなく)、遼東における実際の戦闘を示す。 >>415
>正常な里しか無いよ 400mちょい <
魏志には、殆ど「76mちょいの正常な里」しかないよ。 >>417
>誰も算出したことのない短里w<
魏志や倭人伝では、殆ど誰も算出出来たことのない長里w。 >>422
>・実際の海峡間距離は40〜50km<
実際には、出発港〜到着港の距離であり、 一寸千里に拠る「有効数字1桁概数の範囲内」。
>サギ師古田が本を売るために考えた1里76.5mなどとは無関係<
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者が、 歴史を改竄するために考えた1里434mなどとは、無関係。
>陳寿が数字を丸めた根拠などはない<
また・・・・大和説者が変な事を言っている。 「有効数字1桁概数」で記録したのは、魏使ら。
>・地図見ただけで1800年前の島内の道などわかるはずがない<
山登りよりは、平坦が多い海岸沿いを選択するし、 3世紀頃の遺跡が多い中心的な町を通る。
>・お前はPart287>>877で「渡海なら一寸千里の法が中心だよ」と書いている<
当たり前だ。
>・お前が、「はじめに魏の公里ありき」と言うから 東夷伝では初めに『尚書』〔禹貢篇〕九服之制の方万里の世界観が書かれていて
その里は度量衡の単位ではないと教えてあげている<
関係なし。禹貢の頃は、短里であったんだよ。
>古田が考えた里などはじめから度量衡の単位として存在していない<
「長里だけだ」なんて、始めから存在していない。 昭和22年とか、腐りきった古い資料に頼るしかないのか。
畿内説も惨めなもんだ。 では最新の資料はどうなっている?
地理的な数値は100年単位で変わらないだろう ・・・・
もしかして家の父親は、あまり頭が良くないのかな
もう、かなーり前の話になるけど、
母親の家のほうの親戚(母親の弟)が家に泊まりに来て、
建築士、一級建築士の資格が何やらという話をしていた事があって
そんなの知らないよと言っていた事があったり 『山王院 山王宮』
たしか、昔この辺りに住んでいた事があるんだよ
と言っていた
父親が言うには
そんな話は知らないよ、むかし住んでいたところまで行って聞いて来い
と言っていたり
戸籍でも、そうなっているのに、何なんだろう 禮記 王制
古者以周尺八尺為歩,今以周尺六尺四寸為歩。 昔の人は出家したりしたのかな、
たしか寺院に通っていたと言っているし
なので・・・自分の家の事なども知らないとか? 調べてみると、ほとんど、合致しているような
謎の震災後、北斗の拳【再】を観ていたり、
確か道場のようなところが出てきて・・・ 川崎に来てからの話しか知らないのかな
「大島のほうにある寺院、
たしか二丁目だったか四丁目のほうだと聞いてるよ」
母親談 ほとんど正解だと思う
大島とか中島のほうの話をしているし、
そっちのほうにある寺院
調べてみると『竹生島』の事が書いてあったり そりゃ僧院武闘場の発展が道場だし
この辺は調べればつながり分かってくるでしょ ザ・モモタロウという作品、
これも同じような設定だし
神隠しなのか何なのか知らないけど、
山のほうに連れていかれるとか、修行? 邪馬壹なんてそれよりはるか500年以上前の記録さえ残ってない言ってみりゃ神代の時代調べだからな
なんも記録残ってなくてお前らは現在2000年の世界に生きてるわけだが1400年〜1500年ころのこと分かるか?って話なわけだ
なんとか伝承だけで話なんか聞いてるのせいぜい150年が限界だわ それよりも山王だよ、
邪馬台国もなかった時代だと言っている人がいたけど >>527
昭和22年以降 埋立地随分あるから変わると思うけどな >>524
算出する必要なんてないでしょ
文献に1里は1800尺と書かれているんだから>>539 よく考えてみると
・・・・頭が良い、悪いではなく、
そうなってくるし、正解だよ
生まれた年代からいっても、
そんなの関係ねーという世代
ゆる・ぶりんなーは、
凄い役者なんだよ・・・作品のために坊主にしたり、と言っていたり
wikiに書いてあるとおり、
かなり詳しいし 『山王院 山王宮』
家は、むかーし、
その辺りに住んでいたことがあって、寺院に通ったりしていた
馬に乗り、謎の刀・・・
どこかの城に行っていたようなことも言っていた
それにパトラでしょ 出来すぎているのかな、
何なんだろう
先祖の写真『葱の華』が写っていたり 子供でしょ、
兄と妹(おかっぱ頭)??
母親だという人は裸足、素足に下駄 >>539の四等キウスは頭が弱いので
埋め立てなんかない方が古代の実態に近いということまで
頭が回らない
ひさんである
>>525
・出発港〜到着港にして海峡間距離を伸ばそうとしても
一寸千里の法なら直線距離だから約40〜50kmに+2〜3km程度で
サギ師古田の76.5kmには程遠い
・魏の公里とかけ離れた里数であるので畿内説は測量を否定する
・壱岐は南北17km・東西14km・海岸線長は167.5 km
・お前は常に仮定の一寸千里の法に戻る循環論法
・魏使らが数字を丸めた根拠などもない
・禹貢篇は学派によって、方五千里と方万里が並存していたが
王莽が方万里を採用した
・「魏の公式里だけだ」と言ってる畿内説はいない
お前は大和民族への妬みだけで、一寸千里の法もよく理解できていないレベルだから
高校教師のサギに引っかかったんだよ 距離表って何処で出してるの
昭和22年以降出してないのか
S22って昭和じゃなく、ある文献の表NOじゃないの いまの時代、皇軍、皇軍言ったりしていると逮捕されるぞ
と言っている人がいるんだけど、なぜだと思う
つーちゃん、ネット内で言っていても、
本当に通報されたりしたら、逮捕されるとか 皇軍は相手にされていないだけ、
ネットなんだから、好きに言わせておけ、みたいな扱いなのかもしれないし
現実の世界で騒いでいたら、
逮捕だろうけど ハッタリだか何だか知らないけど、
本当に頭の悪いやつがいるんだな
他のスレを読んで、気づいている人もいる >>541
関係無いけど、港を埋め立てるのは難しよな
しかし、それなら昭和22年なんて古い距離表とやら持ち出さないで
もっと新しい年代の距離表を使用すればいいのにね、わざわざ昭和22年を探しだす必要なんて無いし
それも(距離表)なんて、どの距離表?
海上保安庁は昭和23年に創設だし、海保の場合 第○✖号距離表と明記されるし
謎の距離表S22を持ちだしても説得力皆無 このような書き込みがあったでしょ
奇形児「電車に飛び込むんじゃないぞ」
もれ(仮)「それで、いつ電車に轢かれるんだ?」 奇形児「電車に轢かれて死ぬなよ笑」
もれ(仮)「それで、それは、いつ頃の話になるんだ」 やばいな俺も距離表にこだわるようになった。
次回のテンプレで明示すれば良いだけの話 こだわる必要ないかな すでに気づいていると思う
もれ(仮)と書いているけど・・・説明不要 推古紀の方が興味あるけど、最近話題にならないな
もう、論破済みという事?? >>558
創作の話だろ、
と言っている人がいなかった?
捏造とか 鉄器のない畿内に何いうても王権など発生する余地なし。 だよな、鉄器が無いのにバジル・ベニバナちゃんちゃらおかしいな 知っていると思うけど、
ほとんど成り済ましみたいなものだよ
悪く言うとそう
本物は寺院に通ったりしていて、
戦争には参加していないし、軍人でもない
家も戦争には行ってないと言っている、
・・・・新しく作ったりした家や制度があるのかな キュウリのような葉、葱の華・・・・
あれが家の先祖?の写真
山の上のほうに住んでいて、
寺院に通ったりしていたと言っている >>549
バカがまだテンプレに噛みついてるよww
とうとう妄想まで始めた
w >>423
>棒の影の長さの違いだけじゃ 南北の距離は測れても東西は測れないよ<
何度も書いたように、
一寸千里で目的地との南北距離と、目的地への大体の方向が判れば、
直角三角形の他の一辺の近似的作図が出来るから、
大体の東西方向も判る。 S-22はたぶんIHO(国際水路機関)が発行している出版物だろ
頭文字にSがつけられているのは特殊書誌(Special(特別))
現行でもっとも古い特殊書誌は、Special Publication No.23(S-23)Limits of Ocean and Seas
S-1から S-22 までの文書は,現代では古くなって
実用的には価値がなくなりカタログから除かれている。
しかし,歴史的な価値があり研究者等にとっては貴重なものである。 山王の話
>信夫山の上の古い家々は、昔は院号・房(坊)を名乗っていたが、
>後に新たに京都から官職名を授かり除地(無税)の恩典を受けた。 『松傾』
あの日本昔話なんかも・・・この家の話じゃないの? 家の先祖の写真
軍人ではないでしょ、
あの子供の帽子とか 新井白石が邪馬台国を大和説から九州説に変えた。
そして本居宣長が熊襲が朝廷を僭称したとする「偽僣説」を唱えた。
その頃、金印が発見された。
この一連の流れに共通してるものがあると思います。
それは本居が言った、
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」
これです。
新井白石や本居宣長が唱えたのは説ではなく、もはや世論誘導です。
九州説自体が世論誘導であった。
その流れであの金印です。
おそらく金印偽造の黒幕は江戸幕府でしょう。
江戸時代の職人の腕が良すぎました。
綺麗すぎ。
何処で発見されたことにするか、これが一番悩んだでしょう。
仕方ないので福岡の入り口の志賀島にしたw >>567
>一寸千里で目的地との南北距離と、目的地への大体の方向が判れば、
見えない目的地なのに、目的地への大体の方向が判るはずないだろ。 あほ 『官職』
調べていくと、このような質問をしている人たちがいたり
>日本史です
>位階や官職に応じて与えられる田のことを
>なんと言うかと言う問題なのですが分からないので教えてください >>568
後付け
だから、貼り付ける時は、注意しないと >>424
>・道のりか直線かではなく、萬二千余里が各部分行程を合計したのでなければ 郡から女王国までの直線距離にしかならない<
有効数字1桁概数程度の話だし「余」の話なのであり、厳格な数字ではないのだから、別に問題はないよ。
郡〜女王之所都の総距離は、一寸千里の南北と角度からも求まる大体求まるし、
各部分近似距離の合計の概数からでも求まる。
>・お前は渡海なら一寸千里の法が中心と言ってるが、 棒の影では曲線距離は測れない<
一寸千里は、曲線距離など、始めから測っていない。
> ・會稽東冶は呉書にある <
呉志の「會稽東冶」記載は、
原則として永安3年の「会稽郡」→「会稽郡+(東冶がある)建安郡」の分郡以前の記載であり、
魏志の地の文での「計其道里、當在會稽東治之東」執筆時は、分郡の後であり、
だから「会稽東冶」は「会稽東治」ではない。
> ・帯方郡など言っていない 山東半島から南の地域の東は三韓 <
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた時の「計其道里」の計算の起点は、
「帯方郡〜女王之所都」に対するものであるから、
帯方郡の西方の中国大陸での「対応場所間。 本当に老婆のほうが詳しい、ただし、このような説明
「凄い土地を持っていた、
山の下のほう一面に、田んぼや畑が広がっていて、お前の家の土地だったんだよ」 >>576
俺は>>1じゃないから後付けはしない
俺は>>568じゃないかなと思うだけで、そうどうかは知らんよ グーグルで検索すると出てくる、
□□力夫氏の写真
あれは『三貴子』を表現しているのかな、
それとも、ウマヤド?
某と某・・・某(本名)という人物は同一人物だったとか?
『何者にもなれないお前たち』 ネットで調べたりしても出てこない写真
キュウリの葉・・・葱の華・・・・、
家の先祖の写真なんだけど
アニメの神様?本物なのかな >>581
というか>>576は思い込みが強くて妄想レベルに入っちゃってるんだな >>427
>東西方向の「距離計測」はどうしたんだろう?<
陸上なら、三角測量や記里車や歩測。
陸上から視認出来る海上なら三角測量。
視認出来なければ、起点からの大体の方向を知って、双方での一寸千里での南北距離を測定して、作図に拠って、対辺の東西方向を推定する事が出来る。 >>584
>視認出来なければ、起点からの大体の方向を知って、双方での一寸千里での南北距離を測定して、作図に拠って、対辺の東西方向を推定する事が出来る。
視認出来なければ、起点からの大体の方向すら、分からんだろうがよ。 カス >>429
>周パイなんとかは漢代に論破されてゴミ扱いだったトンデモ説明だからな<
魏の初代文帝が、即位の詔書の「受命改制」で、度量衡の統一を指示し、
その後、魏の重臣たちが次々と「周制への復古」の上表を繰り返した。
> まともに相手されてわけない <
通説大和説人種は、「南→東」などの嘘つきダマシのように、
都合が悪い史料は「何でも間違いだ」として否定抹殺して逃げる・・・・サギシ人種である。 15代応神天皇が390年元年であることは、
三国史記の百済国の阿花王 (392-405)との対比からほぼ間違いないし、
考古学でも誉田御廟山古墳外堤の須恵器が、最新編年で5世紀初頭であることから、
【決定】と言ってもいいようです。
ならば新唐書の「神功皇后は開化天皇の曾孫」という記述、
また他の豪族系譜からみても、
応神から10代崇神まで3世代、または4世代さかのぼるだけ。
一世代20年弱として、これはもう4世紀前半であり、
古事記の没年干支が正しいとしたら318年没が有力だと思われます。
また崇神期の任那のソナカシチの来日目的が日本との軍事同盟であろうことから、それは高句麗が楽浪を滅ぼしたAD313年。
AD313年は崇神の時代であったことになります。
神武は崇神からさかのぼること実質6世代でしょう。
記紀は崇神から神武まですべて父子継承で9世代になってますが、
これは時代を古くさせようとした意図で書かれてますので信用できません。
むしろ先代旧事本紀の物部系図、他に中臣、鴨、三上各系図がことごとく崇神から神武まで5〜6世代であることから、
一世代20年弱として神武は2世紀末〜3世紀初頭、卑弥呼の時代と合います。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴媛、神武とはご夫婦でした。
魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武に先立たれた寡婦時代のヒメ踏鞴五十鈴媛の様相です。 >>440
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
「南≠東」だから、×ね。 >>440
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
「南≠東」だから、×ね。 >>588-589
もう南の一文字しか頼るものの無くなった九州説が哀れでならない いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>447
>地球球面上では、周地付近からの南北千里の地点の影長は北の方が当然長くなるが、
周地付近の大地平面近似が成立するところでは、南北千里の地点の影長は等しくなる。<
> 周地付近で南北千里の地点の影長は等しくなるなら 一寸千里の法が成立しないだろw <
おや?、訂正。
周地付近の大地平面近似が成立するところでは、
南北千里の地点の影長差は1寸であり、等しくなる >>.453
>厳密に言うと同じ場所でも1日ごとにに影の長さは微妙に違ってくるし<
周髀算経は、一応24節句毎に、目安程度の影長表を作っている。
>緯度が違っても影の長さは変わるんだよ<
当たり前の事だ。それが一寸千里だ。
> あと正午に測るという条件で南北の距離が同じなら
東西にいくらずれても基本的に影の長さは一緒<
当たり前だ。それが周髀算経だ、。
> 少しぐらい東西にズレても変わらないとはどういう意味?<
太陽が正午から東西に少しずれた位では、影長は殆ど変わらない、という意味。
> 言ってる事が全体的に意味不明 あと日測とは1日進んだら何里という換算の仕方<
三国志の裴松之の注では、
車駕が1日300里であり、歩行は1日200里であった、
という記載であり、
5世紀になっても「短里」が使われていた、という例になった。 >>592
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 いつ覗いても糸屑がウソのコピペを貼り付けているね… >>459
>1日進めば30里とかそんな感じ<
三国志の裴松之の注では、
車駕が1日300里であり、歩行は1日200里であった、
という記載であり、
5世紀になっても「短里」が使われていた、という例になった。 >>467
>船で1日進めば大体100里とかじゃね <
古田さんは、魏志からの推定で、1日450里(短里)説。 >>483
>海州が帯方郡内の港町だとかいう根拠なし <
以前にどなたかが提示された帯方郡の地図で、帯方郡内であったし、
沙里院付近から「ほぼ南に真っ直ぐの道」も書かれていた。 >>596
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>600
その地図が信用できるものだって証拠は? >>600
75歳老人の記憶が信用できるという根拠は? どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>484
>当時の不確かな測量技術で
現在換算で数十キロになる距離を正確に測れただろうか?
75mぴったりというなら逆に数字の操作を疑ってしまう <
周髀算経は、簡易三角測量や一寸千里を使っているし、
それで、北回帰線までの距離や太陽高も計算している。 数年前の信onというスレ
・キリト君か?
・キリト君よ
このような謎の書き込みがあったよ、
>>レスが付いていたのかな
同じ名前の音楽家ではないよ 『SAO』と出てくるし『長竿』という意味なのかな
『松傾』? 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 3世紀の測量技術だから誤差が大きい、でいいじゃん。
でも平均は一里75メートルなんでしょ?
何が問題なんだかわからん。
しかもそれが東夷伝全体で共通なんだから、そういう単位が使われていた。
以上! 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 邪馬台国論争なんて過去のもの
九州北部に在った邪馬台国がその後どうやって
畿内のヤマト朝廷に代わったかが問題。 >>619
>九州北部に在った邪馬台国がその後どうやって
>畿内のヤマト朝廷に代わったかが問題。
その問題が大問題。 >>602
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>487
>>「弥生時代の遺跡から庄内式土器と、半島の4世紀半ばの土器が同伴しているんだ」
というのは、私(zarakoku)が言った文言、ではないよ。
だから、私は、それに関する情報の存在を書いてあげたんだよ。<
>だからその、それに関する情報の存在を書いてあげた、とか、言うのが
ザラコクの捏造した真っ赤なウソなんでしょ?<
「それに関する情報の存在を書いてあげた」事は事実だよ、・・・・クン。 >>593
周地付近の大地平面近似が成立するところでは
南北千里の地点の影長差は1寸であり等しくなった?
影の長さは等しいの?それとも1寸違うの?
それで何を主張したいのかさっぱり >>617
平均して75mでは何の証明にもならんよ 大和説のホラを聞くのにも飽きてきた
そろそろ討論はじめようや >>487
この投稿に対する返事は、「このページを表示できません」として、
5チャンネルに掲載拒否されました。 >>577
>各部分近似距離の合計の概数からでも求まる。
お前が書いたホラは>独立的な推論値である
>一寸千里は、曲線距離など、始めから測っていない。
直線距離なら郷ノ浦から唐津で42km、郷ノ浦から壱岐最北端まで13km
>分郡以前の記載
倭国の情報は永安3年以前、夏后少康の子が会稽に封ぜられて
文身した話と倭人の風習が同じとの記事と「當在會稽東冶之東」を一緒に書いている
会稽東治の用例はない
>「計其道里」の計算の起点は、 「帯方郡〜女王之所都」
帯方郡がどこの東にあたるかなど倭人伝に書く必要なし >>496
>畿内説に歯が立たないから ひたすら荒らすって 九州説はみじめなもんだ<
九州説に歯が立たないから、
ひたすら荒らすって、
大和説はみじめなもんだ。 >>623
>「それに関する情報の存在を書いてあげた」事は事実だよ、・・・・クン。
その書いた内容が、ザラコクの捏造した真っ赤なウソなんでしょ? >>573
>邪馬壹なんてそれよりはるか500年以上前の記録さえ残ってない言ってみりゃ神代の時代調べだからな
なんも記録残ってなくてお前らは現在2000年の世界に生きてるわけだが
1400年〜1500年ころのこと分かるか?って話なわけだ
なんとか伝承だけで話なんか聞いてるのせいぜい150年が限界だわ<
魏志の記録に残っているし、
後漢書なども「邪馬臺國」と書いたり、「邪靡堆」と書かれたり、
唐の李賢は「邪摩惟=ヤマイ」という呼称を書いている。 >>629
九州説は空虚なオウム返しばかりで惨めなもんだ >>540
>算出する必要なんてないでしょ 文献に1里は1800尺と書かれているんだから<
そりゃ、周の「1里=300歩」と秦の「1歩=6尺」の、
別の系統の度量衡を繋いだだけだから、始皇帝以後の文献だよ。 >>540
>算出する必要なんてないでしょ 文献に1里は1800尺と書かれているんだから<
そりゃ、周の「1里=300歩」と秦の「1歩=6尺」の、
別の系統の度量衡を繋いだだけだから、始皇帝以後の文献だよ。 >>548
>・出発港〜到着港にして海峡間距離を伸ばそうとしても 一寸千里の法なら直線距離だから約40〜50kmに+2〜3km程度で <
「千里≒76.5km」の有効数字1桁概数の範囲内に入っているが、大和説の「千里≒434km」の有効数字1桁概数の範囲内には入っていない。
>・魏の公里とかけ離れた里数であるので畿内説は測量を否定する <
資料実態は、計測を肯定する。
>・壱岐は南北17km・東西14km・海岸線長は167.5 km<
周辺の島々が入っていないから、「方三百里」の距離の算定が誤魔化しだな。
>・お前は常に仮定の一寸千里の法に戻る循環論法<
お前は常に「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が正しい、に戻る循環論法。
>・魏使らが数字を丸めた根拠などもない <
有効数字1桁程度の概数にそろっている事が根拠。
>・禹貢篇は学派によって、方五千里と方万里が並存していたが 王莽が方万里を採用した<
王莽では、始皇帝の後だから、長里の根拠にならない。
>・「魏の公式里だけだ」と言ってる畿内説はいない お前は大和民族への妬みだけで、一寸千里の法もよく理解できていないレベルだから
高校教師のサギに引っかかったんだよ<
大和説学者は、皆「南→東」の嘘つき騙しの詐欺師だよ。 >>563
>ホケノが3世紀前半に築造なら問題なし <
ホケノは「有槨」だし、「庄内〜布留」だから、3世紀末以後だよ。 >>572
>九州説自体が世論誘導であった。<
大和説自体が、「南→東」などの嘘つき騙しの皇国史観の、
人種差別的殺戮的領土戦争を鼓舞扇動するssnらの世論誘導であった。 >>574
>>一寸千里で目的地との南北距離と、目的地への大体の方向が判れば、<
>見えない目的地なのに、目的地への大体の方向が判るはずないだろ。 あほ <
古代中国は、東西南北の方向は判っていたようであるし、
見えなくても「倭人在帶方東南大海之中」のように、
「8区分方向」までは大体判っていたようだよ。 >>639
それ、なんか根拠あるの?
それとも、また素人オジン75歳の個人的意見?
? >>574
>>一寸千里で目的地との南北距離と、目的地への大体の方向が判れば、<
>見えない目的地なのに、目的地への大体の方向が判るはずないだろ。 あほ <
古代中国は、東西南北の方向は判っていたようであるし、
見えなくても「倭人在帶方東南大海之中」のように、
「8区分方向」までは大体判っていたようだよ。 >>638
海峡間約40〜50kmで魏の公里ではないから測量していない
一時期兵庫の元高校教師がサギ目的で短い里をキャッチフレーズに
イカサマ本を罵声で押売販売していた事件が起きたが
他の偽書販売の発覚を契機に
現在では被害に合った消費者は廃棄処分している
>王莽では、始皇帝の後だから、長里の根拠にならない。
方五千里や方万里は机上の世界観だから度量衡の単位ではない 低能キュウシュウセツはいまだにぼくちゃんの考えた凄い行程を喚き散らすだけ あくまで倭人伝だからな。
埋葬についても、当然倭人一般の風習についてかかれたもの。
つまり庶民の倭人の埋葬法。
木棺を土葬、当然槨はない。 >>584
>>視認出来なければ、起点からの大体の方向を知っていて、
双方での一寸千里での南北距離を測定して、
作図に拠って、対辺の東西方向を推定する事が出来る。<
>視認出来なければ、起点からの大体の方向すら、分からんだろうがよ。 カス<
「倭人在帶方東南大海之中」のように、
視認出来なくても、往来した事のある人からの情報で、
大体の方向は判るんだよ。 大体過ぎだろ、そんな方位じゃ三角測量なんかに使えない >>587
大和は、
倭國の別種の旧小国で、白村江の後で母国の倭國を併合吸収継承して、
701年にようやく盟主になって、記紀を造ったので、
記紀には、
「母国の倭國の歴史が大和の歴史である」かのように盗用したものが幾らでもあり得、
大彦も、倭姫も、景行も、小碓も、神功も、、応神も、仁徳も、
宣化も、欽明も、厩戸も、推古も、天武も、斉明も、
いずれも、倭國の王や武将や宰相や「率」や女王などであったものを、
大和王などとして盗用造作した記載をしている可能性が非常に高く、
このssnの論も、それが判らないらしいアホ投稿である訳で。 >>591
>もう南の一文字しか頼るものの無くなった九州説が哀れでならない <
「南→東」や、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
「白村江で大敗した母国の倭國を併合吸収継承して列島盟主になった」事や、
「纏向よりもはるかに巨大で何本もの大道もハイテク工業地域もある弥生銀座」や、
「殉葬奴婢百余人」の祇園山や、
「尚方作」鏡が21枚もある平原や、
前方後円墳は那珂八幡など筑紫が最も早い事や、
庄内は三雲が最も古い事や、
ホケノが「有槨」で「庄内〜布留」であるから、
3世紀末以後に扶余や東沃沮や古韓尺部族の流民が入って来て、威圧のために巨大古墳を造った事など、
全ての論点で、もう頼るものが全く無くなって、
反論も全く出来ずに逃げるだけになった大和説が、
哀れでならない 。 また小便着色本信者がアホの古田ネタとかのギャグを披露して笑いを取ろうとしてる >>601
>>三国志の裴松之の注では、
車駕が1日300里であり、歩行は1日200里であった、
という記載であり、
5世紀になっても「短里」が使われていた、という例になった。<
>引用してみ <
古田第1書の307頁を見てみろ。
三国志の裴松之の注では、
車駕が1日300里であり、歩行は1日200里であった、
という記載であり、
5世紀になっても「短里」が使われていた、という例になった。 >>603
>>以前にどなたかが提示された帯方郡の地図で、帯方郡内であったし、
沙里院付近から「ほぼ南に真っ直ぐの道」も書かれていた。 <
>その地図が信用できるものだって証拠は?<
半島学者でも日本学者でも、同じような比定であるし、
「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」では、
楽浪郡を攻撃するには大同江がよいが、
帯方郡を攻撃するには、海州上陸の方が、
早く沙里院付近に達する事が出来るから。 古田のバカ本持ち出して何か言った気になってるんだからあらゆる意味でお笑いだなw 偽書やイカサマ本をソント(声闘)で押売してた犯罪グループの比定する
朝鮮系遺物が豊富に出る春日からは倭人の習慣の卜骨は1かけらも出ていない
日本の調査では祇園山は集団墓
三雲では庄内式土器は作っていない >>619
>邪馬台国論争なんて過去のもの
九州北部に在った邪馬台国がその後どうやって
畿内のヤマト朝廷に代わったかが問題<
継体の反乱で、大和は筑紫倭國の王家の一員となり、
倭國が白村江で大敗して唐の軍官の拠って亡国の運命になったから、
大和が「元々大和が盟主であり、倭國は併合吸収します」としたから。 >>656
やっぱりザラコクはまた想像でテキトーなことを言ってたのか 山王(という人物?)の時代、
邪馬台国など無かったと言っている人がいたけど 直系→現在、兄弟妹という意味なのかな
家もそうなんだけど >>624
>周地付近の大地平面近似が成立するところでは
南北千里の地点の影長差は1寸であり等しくなった?
影の長さは等しいの?それとも1寸違うの?
それで何を主張したいのかさっぱり <
周地付近で影長1尺6寸。
南千里で影長1尺5寸。
北千里で影長1尺7寸。 >>624
>周地付近の大地平面近似が成立するところでは
南北千里の地点の影長差は1寸であり等しくなった?
影の長さは等しいの?それとも1寸違うの?
それで何を主張したいのかさっぱり <
周地付近で影長1尺6寸。
南千里で影長1尺5寸。
北千里で影長1尺7寸。 >>625
>平均して75mでは何の証明にもならんよ <
大和説の434mでは、6倍位も違うから、
何の証明にもならんよ 。 >>625
>平均して75mでは何の証明にもならんよ <
大和説の434mでは、6倍位も違うから、
何の証明にもならんよ 。 老婆の話
むかーし、銀?というのもいたよ
と言っていたよ
家に凄い刀があったとか >>628
>>各部分近似距離の合計の概数からでも求まる。<
>お前が書いたホラは>独立的な推論値である<
各部分行程での里記載も、「自郡至女王國萬二千餘里」も、独立的な推論値である。
>>一寸千里は、曲線距離など、始めから測っていない。<
>直線距離なら郷ノ浦から唐津で42km、郷ノ浦から壱岐最北端まで13km <
「郷ノ浦から唐津」で、「千里≒76.5km」の有効数字1桁概数の範囲内。
>>(呉志の「會稽東冶」は)分郡以前の記載 <
>倭国の情報は永安3年以前、夏后少康の子が会稽に封ぜられて
文身した話と倭人の風習が同じとの記事と「當在會稽東冶之東」を一緒に書いている
会稽東治の用例はない <
「計其道里當在會稽東治之東」の記載は、
永安3年以後の、陳寿の執筆時の「地の文」での説明記載。
>>「計其道里」の計算の起点は、 「帯方郡〜女王之所都」<
>帯方郡がどこの東にあたるかなど倭人伝に書く必要なし<
陳寿は、女王之所都の位置を、
中国側のどの付近の東になるのか?を説明しようとした。 >>654
これだね、
呉書十二慮翻傳・裴松之注
「荅曰:「翻能?行,日可三百里,自征討以來,吏卒無及翻者,明府試躍馬,翻能疏?隨之。」
慮翻が孫策に、自分は足が速いと自慢するところ、
→一般論ではなくて、あくまでも特技として自分は1日80km歩ける、と言ってるんだね。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>677
他にそんなことできる者はないと書いてある(笑 >>680
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>631
>その書いた内容が、ザラコクの捏造した真っ赤なウソなんでしょ?<
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な、真っ白な推論しか思い付かないの。 >>633
>九州説は空虚なオウム返しばかりで惨めなもんだ<
「南→東」などの嘘吐きダマシしか出来ない空虚な大和説者は、
オウム返しされてばかりで惨めなもんだ。 >>684
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 本当のスサノオ
外来系、渡来系だと考え場合、
🌞🌛のような信仰(陰陽、暦)を持って渡ってきた >>677
75m×300=22.5kmか
普通の人でも5km×10時間=50kmくらい歩けるわなw どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>676
萬二千餘里が独立的な推論値なら郡〜女王国境までの直線距離
42kmが76.5kmの誤差の範囲内という詐欺本など
加古川あたりの特殊な人種しか買わない
三国志魏書の執筆時期などは明確にされていないから関係ない
地の文などいかにもサギ専門の古田が考えそうなこと
女王之所都は帯方郡や馬韓にはないから山東半島とその南なんか関係ない >>644
>海峡間約40〜50kmで魏の公里ではないから測量していない<
倭人伝などの記載は、
魏の公里の周髀算経の里での、有効数字1桁概数で記録されている事になるから、
計測されている。
>一時期兵庫の元高校教師がサギ目的で短い里をキャッチフレーズに
イカサマ本を罵声で押売販売していた事件が起きたが
他の偽書販売の発覚を契機に 現在では被害に合った消費者は廃棄処分している<
あれっ?、このしゃべり方は、
和田キヨエをたぶらかして尿入り一升瓶?を大量に旧和田宅に置いておいた、
偽書説派の仲間にそっくり。
>>王莽では、始皇帝の後だから、長里の根拠にならない。<
>方五千里や方万里は机上の世界観だから度量衡の単位ではない <
「机上の世界観」なら、根拠のような言い方で出すなよ、尿入り一升瓶サギシ仲間さん。 『聖化 日神 日霊 津』
調べてみても、
この人物が現れ、初めて・・・国が出来たようなことが書かれているし >>646
>低能キュウシュウセツはいまだにぼくちゃんの考えた凄い行程を喚き散らすだけ <
「南→東」などの嘘吐きダマシの、尿入り一升瓶詐欺の、
国史観人種差別殺戮戦争狂の低能ヤマトセツ者は、いまだに、
安部政府文部省の大学先生や、右翼マスコミらの考えた「6倍も違う凄い行程」を、
喚き散らすだけ。 謎の埼玉?名字辞典
というものにも、
同じような事が書いてあったり
それとも「聖化・・・・津」は、すさのお、ではないのかな? >>647
>あくまで倭人伝だからな。 埋葬についても、当然倭人一般の風習についてかかれたもの。
つまり庶民の倭人の埋葬法。 木棺を土葬、当然槨はない。<
魏使らが見聞計測していた女王卑弥呼の墓は、当然「槨」は無かったから、
「有棺無槨」と書かれた。 >>700
そりゃ無いだろう
前方後円墳に槨は無いもの
>>695
魏の公里に周髀算経の里など使われていない
死んだサギグループの主犯が考えたキャッチコピー
小便で古書に見せかけるような小技はサギ専門古田の入れ知恵だろう
机上の方万里の世界観が漢代〜三国時代の知識人の世界観
その世界観に「前史の未だ備わざる所を接ぐ。」と締めくくって、
「荒域の外、重譯して至る。足跡車軌の及ぶ所にあらず」
東夷世界を追加してるのが東夷伝 魏志倭人伝には、実は邪馬台国までの行程は書かれているが、距離は書かれていないんだな。
書かれているのは、女王国までの距離、12000里。
女王国は広大なエリアに広がり、遠方の詳細は不明と書かれている。
邪馬台国はあくまで卑弥呼が都を置いたところ。
邪馬台国までの距離が書かれていないのは、道中距離測定が不可能な行程があるから。
対馬海峡の行程は基本手漕ぎのスピード、大凡の距離の推定が可能。
距離測定が不可能な行程は、全く目印のない海原で流速の速い海流に流される航海だろう。
大隅半島から黒潮に乗るんだな。 >>649
>大体過ぎだろ、そんな方位じゃ三角測量なんかに使えない <
8区分方向の45度で、最大で1.414−1=0.414の差だから、
22.5度差なら、0.2位か?それ以下の差。 倭人は呉の末裔を自ら名乗っている。
長江河口近辺から渡来した集団だろう。
神話、考古学的事実、遺伝子等、中国南部の影響が色濃く見られる畿内。
日本列島の中で倭人の本拠地に一番相応しい。
魏志倭人伝の倭人の記述、邪馬台国までの行程、どれも畿内と矛盾しないな。 このスレを荒らす九州説の輩は、確信犯だろう。
他の地域の歴史を奪い、倭人の歴史を奪う輩。
人として一番やってはいけないこと。 畿内に中国南部の文化なんかあったか?
畿内説はとうとう頭が変になったかな? >>707
畿内説が筑紫倭国の歴史を盗もうとしているよね。 だから言ってるんだよ
「何やら、ばんざーい、ばんざーい」
のような事を言ってると逮捕される、本気で言っていると、そうなる 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえない。 イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 桃の種や魚の骨があったから畿内が邪馬台国だなど、とうてい理知的な思考とは思えないな。 他のスレにも書いたはず、
特別な存在だとでも思っているのか? 漢委奴国王印は蛇紐だが
筑紫は蛇信仰してないだろ
他所から盗んできたのかもしれない おかしいと思うだろうけど、
朝鮮人が日本という国を作ったような話
または朝鮮人ではない、
外来系?他の豪族や部族という意味なのか
それか当時の日本から朝鮮に渡り、
一時期(数世代)、そこに住んでいたという意味なのか 弥生時代後期には、日本列島から鉄を求めて朝鮮半島に進出していたのは間違いない。
日本列島の土器しか出ない鉄鉱石の採掘跡も見つかっている。
それをまた日本列島まで運ぶ集団もいただろう。
記紀では、どれに当たるのか? それにしても、おかしな話だよ
音楽家ではないけど
「キリト君か?」というレスが来たことがあったり 『探偵eye』というドラマ
「りん、りん」と言っていない?犬の名前 >>1 の
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡<
と
FAQ 48 のA
だが
纏向遺跡は桜井市限定で良いのか? このようなスレもあったような
『2ch アラハバキ』
なぜかブラジルという言葉が出てきたり 桜井市教委と天理市教委の縄張り区分にしか映らない・・・・・
古代、桜井市と天理市の区分は無い
いの一番で>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡< と持ってくるのに疑問を感ずる 遺跡地図をみたこともない、自称「考古学に詳しい」キウス >>741
馬鹿の極み 遺跡地図 はぁ 小学生のスレかここは 【本当のスサノオ】
というスレがああるでしょ、なぜかポケモンの話をしていたり?
マサラタウンが何やら エヴァンゲリヲン?
を好きな人もいたような
当時の風雲、雑賀だったかな 須 王・・・津・・・山王?
同じ名前じゃない?
兄がいて、十月生まれ 自分でいうのも、
おかしな話なんだけど。
サ□シの兄は、このような名前だよ。
智□。 さいばーぱんくspecial
これも同じ話じゃない?
川崎区の南部のほうに住んでいるし、
むかーし住んでいたところは違うよ これも本当のスサノオというスレ、
ホーガンが何やらと言っていたり
「バカヤロー コノヤロー」
あの忍者アニメの話だと思う 仏教の話もしていない?
たぶん寺院に通っていたという話だと思う 山王?
調べてみると、〜供養という説明があったり
謎の震災後、
どうした聖人でも殺したのか?
という書き込みをしている人がいたり
そういう話じゃない? 勘違いしてたら御免
もし巫女1,000人が通勤なら芝遺跡からがいいと思う
わざわざ大和川の船通勤しなくていいし
以下貼り付け
芝遺跡は三輪山東麓の扇状地上に立地する遺跡で、弥生時代を通じて営まれた拠点集落です。
これまで、二十数次の調査が行われ、遺跡の南限は初瀬川の氾濫源におよび、北は現在の巻向川を超えて広がっています。
集落内部の構造や環濠の有無はまだよく分かっていませんが、竪穴住居跡や掘立柱建物、土坑、ピットなどが多数、検出されています。
弥生時代末、北隣に成立する纒向遺跡との関係で特に注意を要する遺跡です。 何が言いたいのかというと
超時空設定でも使用しているの?
神代、弥生時代でも何でも良いけど、当時のままの考えとか 超時空ではないとは、
このようなこと?
例えば
本当に家を継いでいる人は、
畿内から北海道に移住、引っ越していました
なので、この地(畿内)には住んでいません
とか 邪馬壹國 倭国
からヤマトを発音で結びつけるのは無理があるのでコジツケが多い
邪馬壹國や倭国からヤマト王権と名付けたのでは無いと思う 畿内でしょ
同姓(氏)だが何もしていないような、
人物が畿内に残っていて・・・
私こそが継承者だと思わせぶり
こういうのが超時空 お^^^い
スレ主に寝る時間与えてやれよ 夜中はカキコミ中止とか もしかして山王?
というのは本物の家だという意味?
>後に新たに京都から官職名を授かり除地(無税)の恩典を受けた。 wikiを見てみても
伊達郡というところになっているし、
「山王」と同じような人物の名が載っていない?霊山というの? 伊達郡なぜか川俣町という掲示板
すさの・・・?
と名乗る人物がいたり 川俣町という掲示板
スサノ・・・という名乗る人物が現れてから
かなりの期間、書き込みがなかったり
名乗るな、やめろと言われたのかな 読んでみるとわかる
すさの・・・が書き込みをした後、
数週間くらい書き込みがない 霊山というのは、
何かを供養しているのかな、
死者などが集まるとか、そういう場所なのかな 日本昔話 姥清水?
蛇なのかな、
それともホオズキなのかな?
そのような話があったような、
寝ぼけていて、見間違えたという話
ホオズキが蛇に見えた? お盆なのかな、
ホオズキがツタのように絡まっていて、
そのホオズキを刀で?
本当のスサノオ・・・・?
違う系統(家)なのかな >>729
>漢委奴国王印は蛇紐だが
>筑紫は蛇信仰してないだろ
>他所から盗んできたのかもしれない
畿内だったら蛇信仰していたのか?
そもそも魏から見た印象に過ぎないしな。 謎の距離表S22で賞
⇩
>>553
>(距離表)なんて、どの距離表?
海上保安庁は昭和23年に創設だし、海保の場合 第○✖号距離表と明記されるし< >>653
また和田キヨエをたぶらかして、
沢山の尿入り?一升瓶を、旧和田宅に置いた、
キョクウの戦争狂の・・・・偽書説派の大和説者の仲間だな?。
何だか、大和説で残っているのは、殆どこの・・・・だけになって来たようだね?。 >>775
アホだなあ
北朝鮮のデータなんだから旧帝国海軍のもんだろ >>655
>ほら、引用できない w<
残った皇国史観大和説者の中の、
その・・・・性が世間の人々に明確に衆知されたと思われる人間は、
まともには相手にしない。 >>657
>古田のバカ本持ち出して何か言った気になってるんだからあらゆる意味でお笑いだなw<
「南→東」や、
「魏志の里記載が1里434m位の長里」説や、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
「白村江で大敗した母国の倭國を併合吸収継承して列島盟主になった」事や、
「纏向よりもはるかに巨大で何本もの大道もハイテク工業地域もある弥生銀座」や、
「殉葬奴婢百余人」の祇園山や、
「尚方作」鏡が21枚もある平原や、
三角縁や那珂八幡などの前方後円墳なども筑紫が最も古い事や、
庄内は三雲が最も古い事や、
ホケノが「有槨」で「庄内〜布留」であるから、
3世紀末以後に扶余や東沃沮や古韓尺部族の流民が入って来て、威圧のために巨大古墳を造った事など、
大和説者らが、全ての論点で、もう頼るものが全く無くなって、
反論も全く出来ずに口先言葉尻ヘイトスピーチ逃げるだけになった事が、
哀れでならない 。 >>775
FAQ 19では「海保水路部距離表」と書いて
FAQ 61では「距離表S22」と書いてるんだから
1が昭和22年のは海保の発表数字じゃないって言ってるってことだろう?
つまり北朝鮮の地理データを取るのに海軍のを使ったって意味だってことくらい
普通に読んでてわかる >>777
昭和22年は終戦後なんだが。
もう日本領じゃないね。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>780
薄馬鹿が妄想しておかしな文句つけるのを虐めるとは言わないな キウスが朝っぱらから大暴れ
狂人に時間の概念はない すべての元凶は、スレ主がテンプレで周りに喧嘩を売りまくったこと。 >>781
素人おじん75歳の我流妄想珍考古学がまた出た >>787
キウスはテンプレが憎くて仕方ないのだな。
よっぽど1に虐められたのだろう。 距離表S22
スレ主のちょっとした貼り付けミスぐらい見逃してやれよ >>788
テンプレで九州説と東遷説が引導わたされたって意味だよね。 思い込みか強いやつだからね。
頭の弱いキウスはよくwikiの丸写しとかして、
注ナンバーをそのまま貼り付ける迂闊ミスをよく犯してるから、
自己投影してるんだよ。 確実に「wwwwwwwww」(爆笑)となるはず
民家園というのかな、家なども保存されていたり、
〜保険、国民何やらとか、昔から家にあるし
「ス」のほうの読みの家なんかも保存されていない? >>796
じきに迷惑な後期高齢者が
九州王朝説と東遷説から
各1名ほど死ぬか、痴呆廃人化して引退するから
スレも浄化されるよ ゲームや漫画、アニメなんかの話なのかな
「良く作れますね」
みたいなことを言っている人がいたり、人権侵害なのかな? 間違えた
「良く作れますね」ではなく
「よく作れますね」だったかな >>783
言ってることが支離滅裂だ。
距離表に韓国のデータは載ってるけど韓国は日本領じゃないぞ。
つまり、どこの領土かじゃなくて航路が稼働してるかどうかの話だろう。 古代の歴史のに謎はいろいろ有るが
キウスの頭の悪さに何も謎は無い
周知の事実だ >>801
S22は海軍の暗号?
日本海軍の古い資料を持ちだしてるの、もっといい資料なかったの?
ずれにせよ、距離表S22と言えば世間や考古学の世界では皆海軍の地理表とわかるんだね? そのような作品などから得た利益があるでしょ、
凄いお金を持っているんだろうな〜と思うかもしれないけど
何もないし
という事は騙りがいるという事でしょ?
おそらく、人の家の系図なども盗んだり、自分の家に繋げたり とあるスレ参照
「いくら持ってるんだよwww」
というレスをしてきた人がいたり、確か、いたでしょ >>806
北朝鮮〜韓国の距離データを手に入れるためにテンプレが旧日本海軍のデータを使うことに文句をつける理由はないってだけのことだ >>807
お前は学問全般に向いてないな。
理由を言わない人だから。 >>806
S22と言えば、日本人の間で昭和22年のことだとわかるね >>813
昭和22年なら、何処の地理表?
海軍無いし、自衛隊も海保も無いし □□力夫氏のwikiと同じようなものだと思う
このような事が書いてあるし、
お金は持っていたのだろうか、多少は持っていたのだろう
いまの話?そういう話なのかもしれない >>660
>偽書やイカサマ本をソント(声闘)で押売してた犯罪グループの比定する<
これも、分裂患者に特有の「 頭の中での幻覚妄想の増殖」症状のようだね。
世間の皆様、気を付けましょうね。
こんなキョクウ大和説の病人が秋葉原のような事件を起こし、日本を戦争に巻き込んで行くんですから。
>朝鮮系遺物が豊富に出る春日からは倭人の習慣の卜骨は1かけらも出ていない <
勿論壱岐で沢山見たから記録されたんでしょうね。
東京都心からは全く見つからないように、福岡の博多の弥生銀座付近からは見つけられない。
>日本の調査では祇園山は集団墓<
発掘の事実報告からは、墳頂の主体に対してに同時期陪葬(=殉葬)集団墓。
そして、発掘報告者のいうような50〜100年の集団墓である事は起こりえない。
だから、その学者も、何らかの思想宗教に染まった 「結論先にありき」の異常な学者。
>三雲では庄内式土器は作っていない <
柳田の頭の中の編年では、那珂八幡よりも三雲の方が古い。 >>814
海軍水路部は昭和20年に運輸省に移管された。
昭和23年に海上保安庁に移管。
だから昭和22年にまだ旧海軍時代のデータを使ってて何の不思議もない。 >>817
作っていないものは仕方ないな。
庄内式土器は三雲産ではない。 数年前の△スレ
良いことを言っている人がいたよ
・お前たちは、誰のおかげで、いまのような生活が出来ているんだ
誰に対して言っていたのか、これも問題になってくる 地理表S 35の解説
1.地理表S22は存在する
2、論文、テンプレしかり自分の主義主張を発信する
3、発信したのは良いが、自分はわかっても読み手に伝わらない
4、よって、距離表S22は読み手に伝わるよう表記し直す必要がある >>675
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
学者素人を問わず、
老若男女を問わず、
クルってる。 >>821
距離表ってものの存在を知らなかったキウスの情弱だけが問題なのでは? 海保水路部距離表という記述が既に有るのに気がついてない>>821だけが迂闊でバカなのでは? >>821
テンプレを特にレベルの低い人に合わせる必要はないと思われ >>817
ソント(声闘)お前が毎日やってるだろ50年間
卜骨は東京都内でも見つかってるし、関東は山陰に次いで多いが筑紫朝鮮銀座は1ヶも無い
祇園山を見たこともないくせに学者を否定してド素人編年をソント(声闘)するのがサギ集団
柳田も古田サギ集団の集まりなんかでは講演しないだろ 大和ね、
調べてみると宇宙戦艦ヤマトが出てくるんだけど 倭と書いて大和というの?
倭では戦艦は作れないと言っている人がいなかった?
製鉄などの話なのかな、
それとも作ることは出来たの? ごめん
距離表だった
書き直しするの面倒だから、よろしく
距離表S22なんて、スレ主がハンネ付けて
解説をすれば済む話なのにな >>831
解説なんか受けなくたって最低限の知識と好奇心のある人間なら理解できるは話だ。 >>677
>これだね、 呉書十二慮翻傳・裴松之注
「荅曰:「翻能?行,日可三百里,自征討以來,吏卒無及翻者,明府試躍馬,翻能疏?隨之。」
慮翻が孫策に、自分は足が速いと自慢するところ、
→一般論ではなくて、あくまでも特技として自分は1日80km歩ける、と言ってるんだね。<
「1日80km」なんてどこから出て来たのか?は知りませんが、
武具衣服を付けての長里なら「1日130km」で全く不可能。
短里なら「1日23km」で十分可能。 >>831
『海保水路部距離表』って書いてあるの読んでれば
解るんじゃないの? >>833
それ、他の人が誰も出来ないような芸当なの? >>833
参勤交代で一泊二日90kmとかだよ。
超絶優秀な徒士の第一人者が一日130km行けると豪語することの
なにが不自然? >>832
嘘こけ
テメーが解説しろよ
できないくせに、騒ぐな >>837
頭が弱い人なのか?
既に>>782の説明でいいと言ったはずだ。 >>838
ぴんボケ
使ったのは1であって海保じゃないのでは? >>834
スレ主と違う解釈は
テンプレ批判と見なされるよ >>845
1が同じ解釈だと信じるね
合理的理由がある >>694
>萬二千餘里が独立的な推論値なら郡〜女王国境までの直線距離<
一寸千里と、部分行程移動里数合計の、両方からの数字。
>42kmが76.5kmの誤差の範囲内<
「千余里」とは、「500余里〜1500余里」の間の有効数字1桁概数だから。
>という詐欺本など 加古川あたりの特殊な人種しか買わない <
「南→東」などの嘘つき騙しの、
皇国史観というキョクウの「結論先にありき」の大和説学者や文部省系の詐欺本など、
キョクウの・・・・あたりの特殊な人種しか買わない 。
>三国志魏書の執筆時期などは明確にされていないから関係ない<
普通は、陳寿が晋朝から下野してからの事。
>地の文などいかにもサギ専門の古田が考えそうなこと <
「計其道里、當在會稽東治之東」という総括説明文は、魏使らが書く筈もなく、
陳寿の考えでの説明文。
>女王之所都は帯方郡や馬韓にはないから山東半島とその南なんか関係ない <
陳寿の判断基準は、魏使らの「郡〜女王之所都」の移動での里数記載と、
「自郡至女王國萬二千餘里」の総括里数記載しかない。 などと何の素養もない素人おじん75歳が断定する・・・
理由もなく いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>831
>距離表S22なんて、スレ主がハンネ付けて
>解説をすれば済む話なのにな
それができないからスレ主は無能 >>853-854
事実じゃトンチンカンな妄想してた岡上が完敗して無能を晒してたろ >>751
>そりゃ無いだろう 前方後円墳に槨は無いもの<
ホケノは前方後円墳で「槨」がある。 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>854みたいに自分で自分にレスつけるのがキウスのやり方ね >>845
海保に、距離表のS22の存在確かめれば済み >>853
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>702
>魏の公里に周髀算経の里など使われていない<
魏の公里は、周朝の周髀算経の里。
>死んだサギグループの主犯が考えたキャッチコピー 小便で古書に見せかけるような小技はサギ専門古田の入れ知恵だろう<
尿入り?一升瓶の捏造の小技は、皇国史観人種差別的殺戮戦争狂のキョクウの偽書説大和説の、
詐欺専門係の策略だろう。
>机上の方万里の世界観が漢代〜三国時代の知識人の世界観 その世界観に「前史の未だ備わざる所を接ぐ。」と締めくくって、
「荒域の外、重譯して至る。足跡車軌の及ぶ所にあらず」
東夷世界を追加してるのが東夷伝<
陳寿は、漢代に西域がある程度明らかになった事に加えて、
魏代に東夷もある程度明らかになった、という事を記録しただけ。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>861
もう、海保のOB経由でやった
そんなの無いとの事 貼り付けで決定
貼り付けても良いが、注意しないと
根拠が根拠でなくなる そもそも根拠なんかなく、適当を書いているだけだよ。
それらしい単語を並べて煙に巻くのは、スレ主の常套手段。
キナイセツらしいやり口だね。 >>703
>魏志倭人伝には、実は邪馬台国までの行程は書かれているが、距離は書かれていないんだな。<
書かれている。
>・・・距離測定が不可能な行程は、全く目印のない海原で流速の速い海流に流される航海だろう。
大隅半島から黒潮に乗るんだな。<
黒潮に乗って、紀伊半島まで行って、それから紀伊半島を北上して大和へ行くつもりだから、
「南≒東」に拠って×だし、
不彌國で、満二千余里が殆ど消費されてしまっているんだから、その時点でも×。 >>706
>魏志倭人伝の倭人の記述、邪馬台国までの行程、どれも畿内と矛盾しないな。<
「南≒東」であるから、大和は×ね。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>707
このスレを荒らす大和説の輩は、確信犯だろう。
他の地域の歴史を奪い、倭人の歴史を奪う輩。
人として一番やってはいけないこと。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>729
>漢委奴国王印は蛇紐だが
筑紫は蛇信仰してないだろ
他所から盗んできたのかもしれない <
漢委奴国王印を造ったのは、漢だろ?。
蛇紐?を選択したのは、漢であり、筑紫でもないんだろ?。 スレ主が距離表S22のソースを明らかにすればいいだけなのにな 10代崇神天皇が4世紀初〜前半の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメ
D孝昭→ヨソタラシヒメノ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武の死後にヒメ踏鞴が寡婦であった状況であろう。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く) だからこそ、縄文人、越人、呉人、そして最後にやってきた徐福が率いたアンフィクチュオニーと彼らに一緒についてきた秦人がキマイラ的に連合できたのさ。
でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。逃亡百済人もここは本当のことを書かざるを得なかったのさ。
それから、投馬国だよ、投馬国。わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国と書かれた鞆の浦が、東とか南を説明しちゃうキーなのさ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。
彼らがこれを、帯方郡の役人に伝えたわけ。そのときの通訳がいい加減な奴だったのだろうね。だから東が南になったわけ。
単純なもんだよ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。
だから狗奴国は東国だろうね。
なにしろいい加減な通訳は東を南に間違う癖があるものね。
そして、周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は邪馬台国と狗奴国を周旋しに来たのさ。
つまり、紛争を解決するため、交渉役になってくれたのさ。
ほんの少しだけど、運悪く、殺された兵士や奴隷もいたようだね。
でも、魏の役人のおかげで丸くおさまったのさ。
平和なもんだよ。
五千里は卑弥呼の城と卑弥弓呼の城の往復距離だろうね。
周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は周旋役になってくれたのさ。(完) >>875
その通りだよ
自己満足のテンプレなんてブログでやればいい >>862
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>881
自己満のトンデモ九州説こそブログでやるべきだろ >>885
ならば失敗だよな
纒向にとってマイナスのスレ
信用度無し >>865
>もう、海保のOB経由でやった
>そんなの無いとの事
良いお友達をお持ちで w
w
w
w >>882
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>893
キウスはウソばかりついてるなあ
ログを見れば事実がわかる
畿内説の者が集まる時間帯は世間的によくある休憩時間とか夕食後とかに割と集中してる
四六時中いるわけでもない
夜中も昼間もべったり貼り付いてるのは、お前やザラコク >>851
>一寸千里と、部分行程移動里数合計の、両方からの数字。
部分行程移動里数合計してるなら独立的な推論値じゃない
>「500余里〜1500余里」の間の有効数字1桁概数だから。
有効数字とは測定値として意味をもつ桁だけという意味だから
サギ高校教師古田は魏の測量技術がとんでもなく低いと言ってるのと同じ
>普通は、陳寿が晋朝から下野してからの事。
荀勗は魏書に対しての不満から陳寿を左遷させているから下野してからではないし
当時の知識人がいちいち陳寿の人生の時期と照らし合わせながら三国志を読んだりしない
>陳寿の考えでの説明文。
陳寿の推量が地の文だから執筆時期の地名など加古川のぼんくら特殊高校生くらいしか騙せない
>陳寿の判断基準は、
だから陳寿は女王国がどこにあるかを推量し、
夏后少康の子が会稽に封ぜられた話と一緒に書いているのであって
帯方郡と馬韓の西の山東半島やその南など関係ない >>886、、、>>887
確かに、、、狂っているせいか、少しも説得力がないものね。。。 >>857
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 >>885
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>863
>魏の公里は、周朝の周髀算経の里。
金欲しさにどこの筋の者かわからない高校教師古田が思いついたキャッチコピー
>詐欺専門係の策略だろう。
東遷説の安本か?安本よりサギ専門高校教師古田のほうがお似合いだろ
>魏代に東夷もある程度明らかになった、という事を記録しただけ。
当時の知識人の西域を含めた世界観が机上の方万里がベースだから
東夷だけ手間隙かけてとんでもなく精度が低い測量などやって追加しても意味なし >>793
「南→東」や、
「魏志の里記載が1里434m位の長里」説や、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
「白村江で大敗した母国の倭國を併合吸収継承して列島盟主になった」事や、
「纏向よりもはるかに巨大で何本もの大道もハイテク工業地域もある弥生銀座」や、
「殉葬奴婢百余人」の祇園山や、
「尚方作」鏡が21枚もある平原や、
三角縁や那珂八幡などの前方後円墳なども筑紫が最も古い事や、
庄内は三雲が最も古い事や、
ホケノが「有槨」で「庄内〜布留」であるから、
3世紀末以後に扶余や東沃沮や古韓尺部族の流民が入って来て、威圧のために巨大古墳を造った事など、
大和説者らや東遷説者らが、全ての論点で、もう頼るものが全く無くなって、
反論も全く出来ずに口先言葉尻ヘイトスピーチ逃げるだけになって、
印籠を渡された、って事だね。 >>902
お前万年口先鸚鵡返しヘイトスピーチだろ 専門の学者が言うことをハナから無視して
素人老人75歳が発明した珍考古学なんて
何度連呼しても嘲笑と顰蹙を買うだけ 陳寿は里数や方位を書きながら女王国がどこにあるかを推量してたのだ
それで台湾と同じくらい南にあると結論づけてたから、夏后少康の子が会稽に封ぜられた話や海南島の風俗と比較する話などを結びつけて、納得して書いた
つまり彼が書いた距離も方位も間違ってたということ
彼は当然ながら短里なんてものは見たことも聞いたこともない 『福島県 民家園』
田の保存されている家、
これが『姥清水』オロチの話なのかな
このホオズキの飾りを斬りつけた、
むかーし家に凄い刀があったと言っていたから、そうなのかな 酒を飲んで?酔っていた、
夜中に目が覚め・・・・・・・・・・・・
ホオズキが蛇に見えたとか >>899
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 酒が好きだったので、
お供えものをしたという話なのかな? >>900
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
それとも、専門の下請け業者なのかな、、 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 漫画の話なのかな?
老婆「たしか銀□という名前の人もいたよ」 畿内説の決定的証拠は何?
畿内説の最大の発掘は何? 投稿を何度も複製して、貼り付けた文章と、必死に戦っている、狂った老人がいるね、、、
なぜだろう、、、 『社家』というのは何なんだろう
同じような名前の家があったりするけど、
家は本当は「す」のほうだと言っているし、上の名前の読み方 >>910
そういえばこの畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね 中国の史書に「日本国の使者と倭国の使者が互いに我こそ正統だとケンカをしはじめた」みたいなことが書いてあったって話をYouTubeの動画で言ってたんだけど
具体的になんていう書かわかる人いない? >>912
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 河童というわけではないけど、
キュウリのような葉も写っていたり >>924
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>920
やっぱり、狂っているからだろうね、、、 『松傾』
松の木(モミの木??)の立てられている、
写真の家だしな〜
どういう事なんだろう >>874
この投稿に対する反論は、「一定時間拒否された」ようですね。 スレ主は何が嬉しくて誰も読まない糞テンプレを貼り続けているのだろう。
哀れだなあ。 変な事言い出す九州説に
テンプレ読めと突っ込み入れれるから必要 >>936
そんなふうにキウスを悔しがらせるためじゃない? どうした聖人でも殺したのかw
という書き込みをしている人がいたり
謎の大震災後だったような でもテンプレ教に入信したら会話ができなくなるからなあ >>937
テンプレが長すぎるから、引用でもしないと、反論にならないよ。 テンプレでは学校の校庭くらいの広さで1000人の下女がラジオ体操。 何かの家だったのかな
昔、住んでいた家には本や書なんかが沢山並んでいて。
近所の人に、
あげたのか、売ってしまったのか、
誰かが持って行っちゃったのかな〜。
と言っていた テンプレは、元々畿内説とは何か説明してくれと要求したのは九州説のお爺さん
そして新スレの度に既出の質問するから
FAQをテンプレに入れたほうがいいということになった >>895
「自郡至女王國萬二千餘里」は、一寸千里と、部分行程移動里数合計の、両方からの数字。
「千余里」とは「500余里〜1500余里」の間の有効数字1桁概数だから。
陳寿の三国志や魏志の執筆は、普通は、陳寿が晋朝から下野してからの事。
>荀勗は魏書に対しての不満から陳寿を左遷させているから下野してからではないし
当時の知識人がいちいち陳寿の人生の時期と照らし合わせながら三国志を読んだりしない<
下野していなくっちゃ、孔明の事を称賛したり批判したり?出来ない。
「以接前史之所未備焉」だから、陳寿の考えでの説明文。
「計其道里、當在會稽東治之東」の陳寿の判断基準は、
「郡〜女王之所都」の行程記載と、「自郡至女王國萬二千餘里」の事実。 そして今度は長いから読む気がしないというわがままな九州説のお爺さんたち >>901
魏の公里は、周朝の周髀算経の里。
偽書説は、皇国史観の大和説者の詐欺専門係の策略だろう。
陳寿は、「以接前史之所未備焉」のように、
魏代に東夷もある程度明らかになった、という事を記録しただけ。 家の嫁だからなのかな
「何々様なんて言われていたよ」と言っていたしな >>914
岡上という、その人なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
テンプレートを張り付けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>906
>陳寿は里数や方位を書きながら女王国がどこにあるかを推量してたのだ
それで台湾と同じくらい南にあると結論づけてたから、
夏后少康の子が会稽に封ぜられた話や海南島の風俗と比較する話などを結びつけて、納得して書いた<
いや、「計其道里當在會稽東治之東」は、倭国や女王之所都の位置は、
「會稽郡の東の治所の東」だろう、と推定した。
>つまり彼が書いた距離も方位も間違ってたということ <
間違っていなかった。
>彼は当然ながら短里なんてものは見たことも聞いたこともない<
陳寿は、魏志では殆ど一寸千里の法などの「短里」で記載している。 >>954
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上だと勘違いしているふしがあるね。。。
発狂しているからかな。。。。
>>865
>もう、海保のOB経由でやった
>そんなの無いとの事
その人に馬鹿にされてんだな。
冗長で無駄なテンプレを読ませようとしてくる乞食、それがテンプレ教 >>956
なら何で
夏后少康の子が会稽に封ぜられた話や
海南島の風俗と比較する話などを
書いたの? >>962
一度読んだ、無意味な読後感しか残らなかった
思わず画面を叩き割りなくなったよ >>948
お前の脳は停止しているな
>両方からの数字。
なら独立していないし、一寸千里の仮定を連呼しているだけの循環論法
>魏志の執筆は、普通は、陳寿が晋朝から下野してからの事。
普通はの根拠は? 当時、三国志を読むのに陳寿の人生を知ったうえで読んでいたのか?
>下野していなくっちゃ、孔明の事を称賛したり批判したり?出来ない。
蜀志だし、出来ない根拠もない
>陳寿の考えでの説明文
だから?
>「計其道里、當在會稽東治之東」の陳寿の判断基準は
お前が言ってるのは女王国に至るまでの行程が山東半島やその南の東と言ってるだけ たしか、このスレだったよ
「あなたは一番下」というレスがあったり、一番古い、最初の家なのかな >もう、海保のOB経由でやった
>そんなの無いとの事
って平気で嘘をついてるの?
お友達に馬鹿にされて騙されたの? 畿内説の決定的証拠は何?
畿内説の最大の発掘は何? スレ主は>>1から>>69まで書いたのかよ
頭おかしいのかな? テンプレは、妄想がひどくて、とても読むに耐えない。 >>952
青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』[6] には、
「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった
『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している」
と記載されるなど、現在では公的団体も偽書であることを公表している。
東夷は中原の華夏が異民族の住む東方の呼称
机上の九服之制の方万里が中心の世界観
お前はサギ専門高校教師のマインドコントロールにかかって
76年の無駄な人生を送った
もう手遅れだが死ぬ前に目を覚まさないと地獄でまたサギ専門高校教師と出会うことになる 4世紀 九州・朝鮮遠征
メンバー:景行、神功、武内宿禰、応神
(遠征の間、大和には大王が不在であるはずはなく、当然別の大王が在位中であり政治を行っていた)
4世紀末
神功、武内宿禰、応神畿内帰国
応神の出生の秘密により大和からは腫れ物扱い、河内に王朝を立てる
歴代河内王朝の王
初代 倭王禰=武内宿禰
倭王武の上奏文「祖禰は・・・」禰を祖と認識
二代目 倭王旨=ウマシウチ宿禰=武内宿禰の弟
百済から贈られた七支刀に「倭王旨に贈る」と記される
三代目 倭王讚=応神=ホムタワケほか諸説
四代目 倭王珍=仁徳ほか諸説
五代目 倭王済=反正ほか諸説
六代目 倭王興=允恭ほか諸説
七代目 倭王武=雄略
熊本と埼玉からワカタケルの鉄剣
「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。」
八代目 清寧天皇→滅亡 やっぱり八十島祭なんだよな。
宮中式内社の詳細が分かれば、歴史に肉付けができそうなんだが。 武内宿禰を祭るのは九州北部の神社ばかり。
武内は筑紫倭国の倭国王。 鉄も重要だな。
当時の動きの一番の原動力かもしれん。
統一への動きは安定した流通路の確保、
朝鮮半島への進出は鉄を求めて。 邪馬台国の位置論争なんか時代遅れなんだな。
学問板なんだから、まともな議論をしたいものだ。
九州説を連呼する輩は退場願いたい。 纒向は2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。
外部勢力の侵入を考えざる得ない。
鋤が多く出土し、纒向の民は巨大墳墓造営など、主に土木作業に従事していた。 スレ主って匿名ありですか?
長いテンプレだから無いと思いますが! 纒向は中期の複合型集落が解体していく傾向の西日本で
2世紀末に農耕具が殆ど出土せず、各地の土器が搬入されている
中期までとはまったく違った弥生時代〜古墳時代初頭最大規模の都市 宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ
魏志倭人伝にも、
卑弥呼は鬼道にて衆を惑わすとある。
女性の祭祀者は、祭祀を行うことで民を教化し、兵たちを纏める役割を担っていたのかもしれない。 オオモノが畿内系でオオキミが九州系ってだけじゃないの? 倭国大乱で2世紀末に、記紀にあるように、
ヤマトの地は卑弥呼を共立する国々に征圧されたのだろう。
纒向の外来系土器。
伊勢尾張、吉備、丹波etc。
それらの地域の国々に攻め込まれたのだろう。
記紀の記述とも矛盾しない。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。 陶塤面白いねぇ。
宗像以東、出雲や丹後半島など日本海側に分布。
弥生時代前期。銅鐸より時代は古く、水稲が広がっていく時期と被る。
長江河口辺りから、大陸で大きな戦乱がある度に渡来があったんだろうね。
この勢力についても、解明が必要だな。 魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。卜骨も出てるし、倭人の活動範囲だろうね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島に鉄をもたらしていたと考えられる。
どのような勢力がこの役割を担い、日本列島のどの地域、勢力と結びつきが強かったか解明しないといけない。 老婆談を含め、
家の逸話、伝説があるでしょ
wikiなどを読んでいると、
同じような人物がいるけど、
どういうことなんだろう
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