★★ 邪馬台国は【葛城】である【4】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 和邇氏の東大寺山古墳から卑弥呼直結の中平銘刀が出た。
和邇氏の系図
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
ミミとは何なんだろう。 神武は7世紀に出来た称号で天皇とされている。
しかし神武の時代には天皇なんて呼び名はない。
神武は大王ではないし王でもない。
当時の王とは鴨王ことクシヒガタ、神武の義理兄だ。
では神武とは何だったのか。
正解は俘囚長だ。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png
なぜ部落解放運動の拠点である水平社博物館の隣が神武社なのか。
マスコミ、学者や文化人、誰も怖がって突っ込めないだろ。
俘囚長以外に答えはない。
俘囚長とは権力者である。
かつての移配俘囚を束ねた長州の俘囚長・安倍氏の末裔が今の総理大臣だし。 安本美典さんがなぜ用明天皇から20人の平均在位しか採っていないのかが謎。
平均を採るのに20代は少ない。
わしは30代で採ってみた。
30代平均
31代用明天皇元年585年〜60代元正天皇没930年
930−585=345年
345÷30は11.5年
用明天皇から30代の平均在位は11.5年。
では用明天皇から神武まで遡る。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、31代遡る。
11.5×31=356.5
用明元年587年−356年=231年
30代として計算した神武元年は231年、つまり卑弥呼の時代。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいない。
わしの説は正しいのだ。 倭国王帥升はどこに住んだか。
帥升の連れた160人の生口。
生口は王都に必要な人たちですから王都の生口をすべて連れて行ったとは思えません。
ということは帥升のいた土地には2世紀からかなり大きな俘囚郷があったと推定されます。
つまり「王都の謂れと大きな俘囚郷が両方存在する地域」が帥升の住んだ都でしょう。
九州の差別問題は7世紀の位配俘囚や黒田藩が姫路から連れて来た皮工をルーツとするようなので、
2世紀に存在したとは思えません。
そもそも王権の謂れがありません。
王都の謂れと大きな俘囚郷が両方存在する地域、それはやはり葛城。
土蜘蛛を思わせる国栖(くず くにす)に関わるであろう地名の俘囚郷も現存します。 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。 耳成山口神社。
天神社と呼ばれていたのに、祀られているのは高皇産霊と大山祇。
どういうことなんだろう。 >>9
神武が御所市の柏原宮
綏靖が同じく御所市の高丘宮
ならばヒメ踏鞴は「姫の宮」こと長柄神社ではないかと思ってる。
ttps://goo.gl/yzNUGD
(直リンできないので先頭にhを入れてね)
祭神はシタテルヒメ、ヒメ踏鞴と同じ鴨族であり、
神武ヒメ踏鞴夫妻より2世代前の人物である。
このシタテルヒメ、鴨族の中ではヒメ踏鞴よりも重要視される人物である。
古事記では高姫、下を照らす高い所にいる、ずばりアマテラスである。
わしはこの長柄神社は鴨族の姫たちの宮であったと推測する。
また当地の名柄遺跡は、全国で唯一、銅鐸と鏡が同時に出た遺跡である。
名柄遺跡の時期は弥生中期、鴨族が出雲から移住してきたと推定される時期である。 >>10
天孫、天神などという概念は7世紀に出来たもの。
高天原(御所市高天)に住んでいたのは大物主系の出雲族。
銅鐸族だ。
4世紀初頭に崇神がクーデターを起こし、それ以降、出雲系が国津神にされたのであろう。 >>15
モグラみたいにちょろちょろ出てくるなボケ >>1 さん乙どす^^
>>12
名柄の銅鐸はがいえんつきちゅーしきやったか?
それやったらたしかに出雲のおおなむちが畿内に侵入してきたころやなー
ミラーのほうはどんなの出たんですか? 神武の柏原宮、綏靖の高丘宮、ヒメ踏鞴の姫の宮の位置
https://goo.gl/iwrUC6 奈良盆地〜紀伊半島にかけて、元々は木の国だったんじゃないかな。検証が必要。
木結び、高皇産霊。
縄文系の人々とBC1000年頃日本海に渡来した水稲をもたらした人々との交わり。
BC5世紀頃には畿内に稲作が伝わっている。倭人の渡来より前の話。 草薙の剣。
草を薙ぎ倒した剣。
くさときは語源は同じ。植物。
イザナギが、木の国の勢力、カグツチ、何故かホアカリ系としてアマテラスに繋げられた勢力を倒した剣。
イザナギが、邪馬台国に負けた時奪われた剣。 ヤマトは大阪湾にいた倭人が、奈良の地を指した言葉。
山の向こう側、山外、ヤマト。
奈良盆地に住んでいた先住民は奈良盆地のことを木、キと呼んでいたのかもしれない。
ヤマトの本来の意味を隠した理由。 1世紀初頭、木の国の勢力は、丹後半島に元々いた勢力と手を組み、丹後半島のオロチ、本来のスサノオを倒し、スサノオの名を騙るようになる。
オオナムチが助けを求めた国、木の国。
次に助けを求めたのは、スサノオ、木の国から丹後半島に移った勢力。
支配層の名にミミがつく勢力。
オオナムチも奈良の地、木の国いた先住民と繋がっていた可能性があるな。
オオナムチは島根地方の王族、神庭の勢力を追い出す。 草薙の剣はかつて自分達を天岩戸の向こう側に追いやった剣。
他の勢力が持つのは危険だからね。
自分達で管理しているのかもしれない。 丹後半島のオロチ族は鉄器を作っていたが、主には玉を削る道具。 >>18
>>19
ひゃはー
えらい古いミラーなんやな?(日本最古かー
燕の人らが朝鮮半島でつくったやつでっしゃろ 倭人、イザナギ一派に「たけ」という言葉は、本来ない。
たけがつく人物は倭人ではない。
竹内宿禰、ヤマトタケルetc。
武はたけ。
武烈、たけの中心勢力を燃やして亡す(武烈本人はたけではない)
そして、武烈も殺されたんだろう。
継体は応神の縁者、イザナギ〜ニニギの系統。
以後天智まで母方をやま派とたけ派で争うのだ。
天武、たけの傍流の復活。
桓武、たけを棺に納める。天智系やま派の復活。 木の国は、姫の国。
殷が滅んだ時、逃れてきた人々。
BC1000年頃、日本列島に渡来し稲作を持ち込んだ人々。日本列島と同じ緯度、稲作が日本列島に定着する条件が合致した。
日本海側に渡来し、陶けんを使っていた人々。
BC500年位に畿内の内陸に辿り着き、姫の国、木の国を作る。
大山祇。食物神。
日本海沿岸部に止まったのが大海祇。
縄文系と交わりできたのが、木結び、高皇産霊。 倭人が勢力を拡大するまでは、奈良の地には、縄文系の国底立、高皇産霊の一族がいた。カグツチであり、何故かアマテラスに繋げられたホアカリ系。
この勢力が丹後半島の大海祇と手を結び、ヤマタノオロチ、本来のスサノオを追い出す。
ヤマタノオロチ一族は、倭人とほぼ同じ時期、弥生時代前期末に渡来し鉄の加工技術を持っていた集団。急速に丹後半島を支配下に置いたんだろうね。 すこし腑におちんのは姫は周の王さんの親戚じゃね?
殷との時系列が逆じゃね?(ちょっとめーまわってきた ここにマジレスつける人らはわえの目をまわすのじょーずや(妙に心地えー そして、弥生時代前期末大阪湾沿岸部に倭人が渡来。
今迄にない程規模の大きい渡来集団だったんだろうね。下戸遺伝子と関係の深い集団。
航海技術に長けた彼らは、各地の勢力に婿入りし急速に勢力を拡大する。
彼らは厳格な男系社会であり、それが勢力拡大に貢献したんだろうね。
銅鐸などの金属加工の技術、金属器を使った製板技術が必要な木棺、方形周溝墓、井戸の技術、灌漑技術を伴った水田、分銅の製作などが大阪湾周辺で一斉に認めるようになる。 ほあかりは燕てんじん(半島経由
あまてらすは呉越同舟(どっちでもえーが天孫くろしお(かいけつ >>34
殷以前から、始祖を姫とする国だらけだからな。 渡来人の直系以外、特に当時奈良の地にいた人々が姫の意味を理解していたとは思わないけどね。
同じ音の木と考えていた可能性が高い。 >>41
あーそーいうことか
YはぷろOぞくは姫だらけ?(ねます きのこたけのこ戦争のルーツが弥生時代にまで遡るとは 大山咋神
何故咋なのか?
倭国大乱の際、大山祇を咋ったのかもしれない。 ヤマトタケルは、ひょっとしたらたけ派とやま派の間の子なのかもしれない。
検証が必要だな。 白兎も興味深い。
時期的に前漢滅亡の頃だろう。
真水のあるところ琵琶湖近辺に来たと思われる。
伊勢遺跡、漢様式と思われるレンガが使われている。
兎は禹、姫と繋がる。
兎道の地、一時きの国と呼ばれていたこともある。
もう一つのキの国。 きのこの山はたけのこの里。
意味深い言葉だ。
きのこは姫の子、漢民族の末裔。渡来人の山。
里は出て行ったところの意。
たけのこ、先住民の末裔。
たけのこの里。先住民がかつて住んでいたところ。 YはぷろCとDはネマガリ竹を食べとった(熊も(またぎやん!
モウソウダケはまだない りくそんはコーエーでひょーか高かったんはスタッフにタケノコご飯好きな人いたからです(ぜったい しばらくじゆーになった(うーさーぎーおーいし(うさぎを食べる歌でないと気づいたのはこーこー3ねんせー(数えられた鰐は鮫やった(越の経由やな カムの国、タンの国、キの国、ワ(あわ)の国、中の国。 事代主
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クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
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建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
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建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
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豊御気主 トヨ津
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大御気主 孝昭
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阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
天足彦国押人命 は第5代孝昭天皇皇子で、第6代孝安天皇の同母兄、第7代孝霊天皇の外祖父である
と言われてる。
6代孝安天皇
和風諡号である「やまとたらしひこ-くにおしひと」のうち、「やまとたらしひこ」は後世に付加された美称、
「くにおしひと」の「ひと」は天熊人等と同様に神名の末尾に付く名称と見て、
孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であると言われてる。
天足彦国押人命と孝安天皇は同一人物か。
そうならますます和邇氏が王族直系であった証拠になる。 官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒かな、火の神。
弥馬獲支は、ミミわしじゃないかな。 阿波命神社(あわのみことじんじゃ)は、東京都神津島村長浜にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は府社。
祭神は阿波当ス @阿波 天安三年(八五九)に阿氣大神こと阿波当スは伊豆から駿河に移ったようだ。
静岡県沼津市に「大朝神社(おおあさじんじゃ)」という神社があるが
御祭神 大日孁命
天照大御神じゃなくて大日孁命である。
「神名帳考証」によると
阿波の大麻比古神が沼津まで行っている。 また同じく、阿佐多知比古神も沼津まで行っている。 @阿波 天照大御神を祭神とする神社は7世紀以前には遡れないはず。
伊勢神宮も7世紀以降に天照大御神になったはず。 >>66
だからか、「天石門別八倉比賣神社」の御祭神は「大日孁女命」
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波 阿波の地も姫系の地だからね。子を産み育て、その土地で暮らす。
和泉の井戸の神々も姫系の地。
倭人の男は海人、各地を転々とする。
イザナギは死んだ。邪馬台国側にイザナギの王統はない。
阿波の姫系の勢力は、ミミ族、ホアカリ系統を受け入れたんだな。そうしないと近親相姦になるからな。
阿波ビ(口に羊)
魏志倭人伝当時、既にミミ鷲。 王を失った倭人の男は瀬戸内海や各地でゲリラ戦だよ。
事代主も鰐に噛まれている。
本来のスサノオ、オロチ族の王を連れて、琵琶湖を北上し伊吹山の神の元で最後まで闘った倭人の男達もいただろう。 記紀は天武の時代に作られた。
その点を考慮しないといけない。
桓武以降の展開と照らし合わさないといけない。 蘇我氏が鳥の格好をして祭祀を行い、それを見ていた物部氏が笑う。
蘇我氏「鈴がなれば、もっと上手くできるんだけどね」
みたいなエピソードがあったな。
鳥、井戸の神々の真似事をしていたんだろう。
鈴鳴、スサノオと井戸の神々が祭祀を行っていた記憶があったんだろうな。 >>55
オシ/押、忍、、、、照る、光る、輝く等の意味らしい。
国押(忍)人、、、で国照人
天押(忍)人、、、で天照人/天光人
タラシは王号、帝号。(出雲系?) >>71
鳥(飛ぶモノ)を見る。、、、鳥見(トミ/トリミ。地名に残る)、、、富(トミ/トビ)家(葛城の登美家〜更に出雲の本宗家の富家)
要するにルーツを表し先祖を慰霊した? 鳥、井戸の遺跡はあちこちあるが、代表的なのは池上曽根遺跡だな。
井戸の神々は坐摩神社に纏められている。
他にもいるかもしれないが。 蘇我氏は真似事してたんだろう。
クナ国の。
明日香もそう。
サルタヒコのアショカのパクリ。
鳥もパクったんだろう。 東北にも、薬と結びついたニワトリ信仰があるのが面白い。
応神まで&天武〜桓武までの圧政から、東北に逃げ延びた人々もいたのかな。 >>67
大宜津媛、、、(ほぼ同じ音韻)、、、多岐(宜)津媛。別名を神屋楯媛。また、高津媛。 ●卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」
本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、
これらの考えは古田武彦らの九州王朝説へと引き継がれている。 (wiki)
「本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており」というのは、
言い換えれば、
「大和朝廷および古代天皇は絶対朝貢などしてません」という事だ。
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない(本居宣長)」がベースだ。
つまり、この「偽僣説」は世論誘導。
本居宣長1730年生れ
鶴峯戊申1788年生れ
那珂通世1851年生れ
この3人に接点はあったのか。あったのならまるで日本版フリーメーソンだ。
どちらにしてもこの熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」という奇説、
那珂通世を最後に消える。
本居や鶴峯の時代まで重く重く辛い史実であった古代天皇の朝貢、
これが那珂通世の生存中に突然、羽を生えたように軽くなった。
日本が日清戦争に勝ったからである。
中国に対して精神性で圧倒的優位に立った。
今の日本人なんて中国に対して優越感しかない。
それにしても世論誘導であったこの奇説をマジで捉えた古田武彦(笑) 誰々は、いなかった
中華(系)、漢人・・・視点の話なんだろう >>82
鴨厨はフリーメイソンやイルミナティに興味あるのか? 奴佳鞮、中臣だろうな。
天孫降臨で伊都国に行ったり、邪馬台国側に付いたり。
徹底していたのは、井戸の神々を守ったこと。
中の国の臣。王が変われど、姫系(母→母→母の系統)の中の国の勢力を守ったんだろう。 >天孫降臨で伊都国に行ったり、邪馬台国側に付いたり。
デタラメいうな >>75
井光、、、倭宿根(天村雲命(大倭国初代大王/系譜が横領、改ざんされて神武)の御子)の妃。 「天牟久怒命」=「天村雲命」を祀る、日本唯一(またまた)の式内社 阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」が、
阿波国旧麻植郡射立郷「村雲」に鎮座する。
この天村雲神の別名がなんと、「天五多底命 ( あめのいだてのみこと )」 なのである。
御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれる。
「天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼び、射立の神。鎮座地周囲は、湯立という字が残っているが、これは射立からの転訛。
もし、天村雲命=射立神だとすると、天村雲命=五十猛命とも考えられる。五十猛命は、素盞嗚尊の御子神であり、伊達神。」
全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する日本唯一の神社なのである。 @阿波 >>49
タケノコの里。
竹/武/建/猛などを一族の通り名/尊名とした一族=天カゴヤマ/五十猛(徐福(高皇霊命/イザナギ/天照皇大御神/スサノオ、ホアカリ/ニギハヤヒ=ニニギ)が父親の徐猛(オシホネ/オシホミミ)の名を息子に名付けた)〜天村雲命の子孫(海部/尾張氏流のあまたの大族)ら >天村雲命の子孫(海部/尾張氏流のあまたの大族)
それ全部、忌部一族だから。 @阿波 海部氏はあれだな、応神と一緒に畿内入り、丹後半島の勢力を討ったんだな。
むしろ、邪馬台国派、たけミミ派と対立する側。 阿波は姫を出す側。
倭国大乱を引き起こし、日本列島を500年の戦乱の時代に引き込み、イザナギ、サルタヒコなど神々を殺し、畿内の民を虐待した張本人だな。 東大寺山古墳出土の鉄刀
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」
「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」
中平とは後漢の霊帝の年号で、184〜189年を指し、「倭國乱」(『魏志』倭人伝)「倭國大乱」(宋書)が終結した時期、2世紀の末である。
中平銘紀年刀は「倭國乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。
この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。
しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。(wiki)
この地の人達とは和邇氏。
【和爾氏本拠】
和爾坐赤坂比古神社
奈良県天理市和爾町
祭神「阿田賀田須命」
和珥氏(和爾氏)の語義が、王族だという意味で「王氏」、
昔であれば「わう」という説を教えていただいた。
ならば和邇は王族の流れという事になる。
それもぞのはず和爾坐赤坂比古神社の祭神「阿田賀田須命」とは大物主。
鴨王ことクシヒガタの5世代後の人物。
崇神時代にクーデターを起こされオオタタネコにとって代わられる。
つまり2世紀末または3世紀初頭の卑弥呼とは鴨氏・和邇氏の系統にいたことになる。
トヨとは天トヨ津媛。
卑弥呼(ヒミコ)とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいないのだ。 国宝・中平銘鉄刀の流れとはこういう事だ。
ヒメ踏鞴(248年没)
┃
トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
【安那氏祖】 【春日氏祖】 【猪甘氏祖】
【真野氏祖】
【壬生氏祖】 記紀は天武、たけ系が作ったからな。
一番隠しているのは、クナトの神だな。
イザナギと書き換えられている。
倭人の神。 クナトの神以外は、
皆元は人。
鎮魂の為に神格化したもの。 仏教が入ってくるまでは、クナト信仰が強かったんだろうな。
仏教導入に拘った勢力は、クナト信仰、神道を排除したかったのかもしれない。 龍信仰:中国北部中部系、出雲族、本来のスサノオ・ヤマタノオロチ族など
太陽、鳥信仰:中国南部系統、倭人、
蛇、ミ:縄文系
かもしれない。 倭国大乱まで、龍も鳥も蛇も、ナガスネヒコも土蜘蛛もヤソタケルも皆共存し仲良くクニを作り平和に暮らしていたのにね。 >>93
>倭国大乱を引き起こし、日本列島を500年の戦乱の時代に引き込み、イザナギ、サルタヒコなど神々を殺し、畿内の民を虐待した張本人だな。
誇大妄想。 卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。
ついつい誇大妄想をしてしまい、その「幾つかの王族」を、記紀にあやかって付けた地名に惑わされて、 西日本全域で考えてしまう。
卑弥呼や壹與を共立した30国とは、倭国(阿波)国内の30国にすぎないのである。 これが現実的な見方。
吉野川中流域勢力(旧阿波郡・美馬郡・麻植郡) 対 吉野川下流域右岸(国府・石井) 対 吉野川下流域左岸(板野・鳴門) 対 県南勢力(阿南・小松島)
の勢力分布が考えられ、それらの中から卑弥呼や壹與が共立されたのだろう。 @阿波 伊勢神宮の神楽。
巫女さんが鳥の格好で舞うんだな。
古代の名残りなんじゃないかな。 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。 @阿波 鴨先生は丹後にクナ神社があることをどーおもってはる? >>104
>クナ神社
籠神社(このじんじゃ)の事か。
今気づいたわ。
クナ、コノは鴨かと思いきや尾張・海部系やな。
征服者側が滅ぼした側の怨霊を怖れて祀る場合もあるからな、
例えば崇神が大神神社に大物主を祀ったように。 尾張は国常立神、大魔戸乃神、カグツチ。
天香久山の神。 海部氏は応神からだろ。
それ以前の宮津の支配者の系統を引き継いだだけ。 ホアカリ系は記紀でいうスサノオ(本来のスサノオはヤマタノオロチ)。
応神以前の宮津の勢力、オオムナチは同じ一族。ミミ族。ミ、蛇。縄文系統の父系。 仲哀までホアカリ系、カグツチ系、邪馬台国系
応神〜天智までイザナギ〜ニニギ系、倭人系クナ系
天武〜ホアカリ系
桓武〜イザナギ系 ホアカリ系は神殺し。
ヤマタノオロチ、出雲のサルタヒコ、倭人のイザナギなどなど渡来人の王を殺していったんだよ。
500年日本列島を戦乱に陥れた張本人。 滋賀や大阪、奈良はホアカリ系の為に滅茶苦茶にされたんだよ。
多くの人々が殺され虐待されたんだね。
そういう歴史がある。
真実の歴史を明らかにしないとね。 >>114
どこからそういう話になるの? なんでそういう話が出来るの? @阿波 記紀でもヤマト征伐でナガスネヒコなど多くの現地の人々が殺されているな。
纒向は尾張が作った遺跡。現地の人を徴用し、土木作業に従事させて虐待している。
卑弥呼が亡くなった時に百人殉葬されている。
そんな文化はそれ以前の畿内にはない。
市だってそうだな。多くの大阪や奈良の人々を殺したんだろう。
切りがないわい。 大事なのは、事績の背乗りや系統の捏造は要らないということ。
ちゃんとした歴史を明らかにして、現代は仲良くしたらよい。 >>106
物部がクガミミを殺して祭ったからクナ神社(まじれす 1世紀中頃〜2世紀中頃は平和だったんだよ。
首長連合のクニ、倭国が作られ各地の交流も活発だった。
神武東征前のヤマトの地も、ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛など共存していたんだよ。 >>107
謹賀新年^^
じょふくはシャントンより船出
シャントンは燕
燕はてんじん
てんじんはほあかり
つまりいぬがみせんせーの正解か^^ >>117が正解だよ
普通の、お年寄りなら、そういうだろう。
あまり関心の無い人たちも、そう思っているだろう。 官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。 生駒だよな。
当時日本列島には馬はいない。
火クマじゃないかな。
クマ、クモ、カモ。 籠神社の宮司の話だったかな、神道は元々は一神教らしい。
日本は昔は多民族国家だった。
クナト信仰が幅をきかしていたのだろうね。
それをよく思わない勢力が仏教の導入を進めたんだな。そして物部氏と蘇我氏の仲間割れ。
多民族国家を纏める為に、主祭神を無くし(隠し)、祖先神中心の多神教の形をとるようになったのかもね。 聖徳太子。
仏教の力を得て、絶大な権力を持つようになる。
蘇我氏にとって聖徳太子は、怖い血統だったんだよ。
母の母の母、ここが鳥じゃないかな。
つまり母系は鳥、父系はイザナギ〜ニニギ。
仏教の力を得て、この血が天下をとりそうになったんだろうね。 海人の倭人の(男の)勢力は、南海トラフ地震に大分左右された可能性があるな。大体150〜200年周期。
紀元前後の地震はその中でも巨大だった。内陸の勢力の力が相対的に強まる。
カグツチの時期だろうね。
次は2世紀半ば、倭国大乱の幕開け。 天香久山に祀られているのは国常立神、大魔戸乃神。カグツチの話も残されている。
天香久山の神。
畝傍も同じ、火の神の勢力。
耳成山は天神山と呼ばれていたし、応神天皇所縁の勢力だろうな。 一人で妄想するのはさぞ楽しいだろう。
実際の邪馬台国とは何にも関係ないけどね。 天孫降臨は2種類あるんだな。
◎1世紀中頃倭国の中心中の国から、ニニギが猿(サルタヒコ)、キジ(天児屋命)、戌(太玉)を連れて、瀬戸内海の鬼を退治しながら、博多に伊都国を作る(倭国の宮家)話。
桃太郎の元の話だ。
◎もう一つは、2世紀末、尾張の縄文系の火の神、ミミ族が阿波と手を組み、太平洋周りで宮崎に拠点を作る話。隼人をやっつけて支配下に置く。 >>132
倭国(阿波)では古来より、県西部の剣山系山岳集落を指して「空・ソラ」と呼ぶ。
まさに、高天原「空・ソラ」の地である。
倭国(阿波)には、美馬郡一宇村に天磐戸神社、 神山町には天岩戸立岩神社 2社が鎮座している。
いずれも、いかにも高天原然とした山深い処に在る。
一宇村 天磐戸神社 http://ohara98jp.exblog.jp/23714547/
神山町 天岩戸立岩神社 http://yukitukihana.jimdo.com/%E3%81%94%E8%BF%91%E6%89%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8%E7%AB%8B%E5%B2%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
その剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところ(美馬郡穴吹町)に鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
こういう痕跡を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 大中臣能宣
たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9)
【通釈】鶴の棲む沢辺の蘆の地下の根に張っていた氷が解け、汀(みぎわ)がいっせいに芽吹く春はやって来たのだ。
桓武天皇以降、鳥達が棲んでいた芦原中津國の氷が溶け(丹頂、ヤマタノオロチ・本来のスサノオの眠る)、汀(上町台地や泉北丘陵、中洲の島々)に春がやってきた。 ヤマタノオロチ・本来のスサノオが亡くなった地と考えられる鈴の宮遺跡のあるところ、かつては小さな沢だった。
鳥達と素戔嗚は協力して祭祀を行っていた。
焚書したり事績を背乗りし、史実を捏造しなくても、事実は人々の記憶に、歌の中に残るのだ。 阿波は空海が慈悲深く弔ったんじゃないのか?
今更何がしたいんだ? 阿波、火の神、ミミ、物部氏、蘇我氏、天武、皆暴力的過ぎるんだよ。事績の背乗りも厭わない。酔わせて騙して殺す。何でもありだ。それを自慢する。
丹後半島の王族ヤマタノオロチ・本来のスサノオを追いやり、出雲の王族サルタヒコを追い出し、倭国大乱を引き起こす。纒向での虐待、四道将軍、築紫の君の討伐、聖徳太子一族暗殺、壬申の乱etc、血に塗れた歴史だよ。 魏志倭人伝当時、伊都国が実権を奪われながらも存続できたのは中国を含め各国の使者がいたからかもしれない。流石に悪事は働けないからな。
不幸中の幸いだな。 >>137
>今更何がしたいんだ?
誤った古代倭国の歴史を取り戻し、洗脳されし者の救済。 @阿波 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 『記』
大久米命
神武 倭の 高佐土野を 七行く 媛女ども 誰れをし枕かむ
神武
かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ
伊須気余理比売
大久米命 あめつつ 千鳥ましとと(千人力) など黥ける利目
大久米命
媛女に 直に遇はむと 我が黥ける利目
嬢子「仕え奉らむ。」 >>143
前者は天津神、後者は国津神?
しかし天津神も海の神のはず。
ねじれ現象? 神武はイザナギ〜ニニギの子孫でもないし、物部氏がイザナギ〜ニギハヤヒの子孫でもないからね。
捏造だな。 火神、石神。
焼畑の神と石切の神かな。古い神様達。 2世紀中頃の南海トラフ地震。
ほんと災いだな。
海と山の力関係が逆転する。 海幸山幸かな?
筑紫日向の王の物語。
伊都国を舞台とする倭国の権力争いの記憶。 >>149
>筑紫日向
それ何。新しいラーメン屋? 宮崎に石神あり、遠賀川上流にももっと勢力の大きい石神がいたな。
尾張からきた火の神。
西瀬戸内海の勢力。
皆で協力して住吉三神を退治したんだろうね。 日向をちゃっかり地名にしたのは和銅6年(713)5月以降。 @阿波 応神の時代まで九州の勢力が畿内を征圧した考古学的証拠はないんだな。 天武の時代に隼人の反乱が起こるのは当然。
天武は隼人を虐げた石神火神の系統だからね。 宮崎の石神、尾張からきた火神、西瀬戸内海の吉備、遠賀川上流の石神が協力して住吉三神を倒してできたのが、博多の一大卒。 九州を征伐して回ったのは、宮崎の石神、尾張からきた火神、西瀬戸内海の海賊、遠賀川上流の石神達。 阿波も和銅6年(713)5月以降。
それ以前は粟国(かつての邪馬台国)と長国(かつての狗奴国) @阿波 纒向を中心とした初期ヤマト政権を作ったのは、尾張の火神、阿波、葛城の高木結、西瀬戸内海の吉備、吉備軍に同伴した宮崎の石神、遠賀川の石神達です。
彼らが四道将軍を派遣し、全国平定を進めるんですね。
大阪、播磨、讃岐、岡山、皆被害者です。
更に丹後半島や滋賀、北陸、長野、神奈川、千葉、埼玉と征伐していくんですね。 島根の地は元々神庭に出雲族の王がいて、暦を独占し凄く栄えていたんです。
沢山の神々がいて平和に共存していたんですね。
ある時、丹波に進出した尾張の火神が、島根地方のオオナムチと手を組み、神庭の出雲の王族を倒すんです。
出雲地方も尾張の火神にやられたと同じですね。 >>160
それ、被害者とか征伐じゃなくて、忌部一族による開墾・拓殖ですから。 そこんところ宜しく。 @阿波 @阿波 >>161
それ、「倒す」とか「やられる」じゃなくて、忌部一族による開墾・拓殖ですから。 そこんところ宜しく。 @阿波 @阿波 地方はヤマト政権に征伐されたのである。
武力による討伐。
四道将軍は名の通り軍です。 神武東征として描かれるヤマト征伐によって、初期ヤマト政権が始まります。
それまでヤマトの地は、ナガスネヒコ、土蜘蛛、ヤソタケルなど渡来人も縄文系の人々も仲良く暮らしていたんです。
他の地域も、渡来人も縄文系の人々も仲良く暮らしていたんですね。
それを破壊したのが、尾張の火神、葛城の高木結、阿波、西瀬戸内海の海賊、宮崎の石神、遠賀川上流の石神、島根のオオナムチです。 彼らは倭人のイザナギの子孫を騙ることで、その罪を渡来人の倭人の王イザナギに擦りつけたんですね。
卑怯ですね。 継体の時代まで畿内の勢力が九州を征圧した文献的証拠はないんだな。 武烈天皇。
天武が作った日本書紀では暴君として描かれているが、古事記にはそのような描写はない。
公明正大な政治を行った真面目な天皇だったんだろうね。
公明正大な政治は、悪事を働く人にとっては非道と感じるのかもしれない。 継体の時代以後も畿内の勢力が九州を征圧した文献的証拠はないんだな。 @阿波 >>142
げいめんぞく球磨出身えつじんの後(かいけつ 阿波厨が九州対畿内を煽っているがやり方が汚いですね。
九州対畿内なんかないんですよ。
あるのは、火神石神阿波葛城オオナムチ物部氏蘇我氏対それらにやられた勢力です。
博多、住吉など北部九州と大阪の勢力は仲間です。 わじんは100えつの一つにしてシナ海沿岸にめぐりしものなり
そのほくたんは燕
じょうもんはいにしえよりありて日本湖沿岸にめぐりて
西で倭と交わりひのもとのひととなる(かいけつ >>171
>九州対畿内なんかないんですよ。
当然ですね。 九州も畿内も倭国(阿波)の出先機関。 @阿波 せっかく空海が慈悲深く弔って、呪いを解いてくれたのに。 物部氏の祖は、宮崎の石神や遠賀川上流の石神、尾張の火神が祖。
畿内は関係ない。
畿内や地方を征伐したのは、阿波、葛城の高木結、尾張の火神、島根のオオナムチ、宮崎の石神、遠賀川上流の石神、西瀬戸内海の海賊です。
その辺を誤解され、昨今畿内や大阪叩きが酷過ぎる。 >>175
「物部氏」の祖神とされている伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命が日本で唯一、阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社で祀られていることから、
物部氏は阿波國旧麻植郡が本拠。 @阿波 阿波にも石神がいたんだな。
石器を大量に作っていたしな。
確か切り出した薄い石板が散らばっている神社があったな。 物部は半島の全羅北道から南道、そして九州、瀬戸内を守ってた防人モノノフであろう。
半島から「十種の神宝」と酷似した遺物も出ている。
今度見せる。
そういう氏族だから、半島への関り事に重用され「韓国(からくに)連」なんて名前を朝廷から貰ったが、
本人たちは嫌で嫌で仕方ないから高原姓に変えてるね。
まぁ倭人だよ。 百済さん、新羅(しんら)さん、高麗(こま、こうらい)さん、は今も居るがな。
やっぱり嫌なんだろうなw 物部氏は石神ですよ。縄文系の人々です。
捏造はダメですね。
渡来人の倭人に罪を擦りつけるのは良くない。
彼らは物部氏にやられて酷い目にあわされた側です。 >>178
十種の神宝のいくつかは布なので、中心となるのはやはり鏡です。
饒速日は明らかに九州北部を中心とする筑紫倭国の尖兵です。
籠神社にある十種の神宝の鏡は内行花文鏡です。
平原の倭国女王卑弥呼を頂点とするヒエラルキーの一角ですよ。 饒速日命の孫を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県吉野川市)
延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。その論社が徳島県吉野川市山川町村雲にある「天村雲神社」である。
祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。
「天村雲命」は,饒速日命の孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。
阿俾良依姫(あいらよりひめ)を妻として,天忍人命(あまのおしひとのみこと)天忍男命(あまのおしおのみこと)忍日女命(おしひひめのみこと)を生んだ。
「天村雲命」は,
(1)饒速日命が大倭国に天降るときに防御の人として高皇産霊神に使わされた三十二人の内の一人。「先代旧事本紀」
(2)邇邇芸命に命ぜられて高天原から水の種を持ち帰った。それが天真名井である。その功績として,邇邇芸命より天二上命,小橋命という名を賜った。
「小橋」と言えば,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」は,日向時代に,阿多小橋君の女(むすめ)の阿比良比売を妻としている。
小橋命とよばれた「天村雲命」の孫あるいは曾孫が阿比良比売で,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」に嫁いだとしても不思議ではない。
「天村雲命」の妻の阿俾良依姫と阿比良比売の名にも共通性を感じる。
「天村雲命」は又の名を天五多手(あめのいたて)という。麻植郡には忌部郡と射立郡があり,「天村雲神社」が鎮座する射立郡は天五多手(あめのいたて)の名に通じる。
「天村雲神社」や同じく式内社の「伊加々志神社」周辺には「雲宮」とか「天王原」とか何やら意味ありげな地名が見える。 @阿波 >>181
>籠神社にある十種の神宝の鏡は内行花文鏡です。
籠神社にある鏡は十種の神宝と関係してたっけ?
>平原の倭国女王卑弥呼を頂点とするヒエラルキーの一角ですよ。
ブッブー
平原2号は卑弥呼の時代より前。
柳田さんも「卑弥呼のお母さん」などとNHK歴史ヒストリアで呼んでた。
でもまぁ物部(モノノフ)であり卑弥呼とは関係はない。 魏志倭人伝当時ですら、実権はないが伊都国は存続しているからな。1000戸しかないが、王もいる。
平原が物部の訳がない。
伊都国王家の墓。 >>184
>平原が物部の訳がない
弥生時代、北部九州には防人しかいません。 伊都国王家があると魏志倭人伝に書かれている。
伊都国は芦原中津國から天孫降臨した中の国の宮家。
物部とは関係ない。
魏志倭人伝当時物部の祖(尾張の火神、宮崎や遠賀川の石神、西瀬戸内海の海賊)はヤマトにいるからな。 >>186
>伊都国は芦原中津國から天孫降臨した中の国の宮家。
伊都国の王は倭国(阿波)から派遣された筑紫忌部の王(一大率) @阿波 桃太郎の話。天孫降臨の話だろうな。
桃太郎:ニニギ
猿:サルタヒコ
雉:天児屋命
犬:太玉
犬は滅んだだよ。空海が慈悲深く弔った。 「天太玉命」
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子。天照大神が天の岩屋に隠れた際、天児屋命(あまのこやねのみこと)とその出現を祈請し、また、天孫降臨に五伴緒神(いつとものおのかみ)の一として随従した。忌部(いんべ)氏の祖先神。 @阿波 若草山山頂の古墳だな。
最高の立地。誰の墓なんだろうな。 >>188
ねよーとおもったら天孫降臨か!
吉備津がニニギとは!!
なんかくうかい(こうやさんのぼうさんにいわれたことある^^ >>183
>籠神社にある鏡は十種の神宝と関係してたっけ?
饒速日の十種の神宝の中の鏡だと伝えられています。
>平原2号は卑弥呼の時代より前。
根拠なし。
それでは年代が倭国大乱と重なってしまう。
その時代に女王がいたという記録はない。 敵の敵は味方ということかな。
中臣⇆タケミカヅチ⇆鹿
百舌鳥耳原。鹿のミミの中は百舌鳥にやられていた。
仁徳天皇、鹿に纏わる話が多いからな。
鹿を引き連れたミミを倒して、鹿島の人達を味方に引き入れたってことかな。
海部氏が宮津を引き継いだのと同じパターンか。 >>192
>饒速日の十種の神宝の中の鏡だと伝えられています。
十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。
平気で嘘を言うな。
>根拠なし。
>それでは年代が倭国大乱と重なってしまう。
だから何なんだ。
>その時代に女王がいたという記録はない
というか、そもそも九州に王国があったという文献も女王がいたという文献もない。 >>194
何でもかんでも否定しないと畿内説は維持できないからタイヘンですねw >>194
>十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。
王権の象徴である内行花文鏡であり、九州北部の主要な遺跡の鏡と同様です。
畿内の王として派遣された饒速日の鏡としてふさわしい。
鏡の固有名詞まで一致しており、否定する要素は何もありません。 鶯塚古墳に祀られている人物は、舟形埴輪の出土から倭国(阿波)の有力海人だろう。 @阿波 >>197
>王権の象徴である内行花文鏡であり、九州北部の主要な遺跡の鏡と同様です。
>畿内の王として派遣された饒速日の鏡としてふさわしい
それは単におまえの願望であり、
十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明であることは変わらない。
あと饒速日が来た可能性としては吉備の方が高いのだが。
理由は天神本記に畿内入りした物部集団として、
「筑紫の物部、播磨の物部、讃岐三野の物部」と書かれてるが、
これは三人称であり、主役の扱いを受けてない。
主役は筑紫、播磨、讃岐の間にある吉備であろう。
実際、庄内土器は吉備の強い影響を受けている。
北部九州から派遣されたなんて夢物語、あきらめろ。 >>200
>主役は筑紫、播磨、讃岐の間にある吉備であろう。
主役は筑紫、播磨、讃岐、吉備へ進出した忌部一族であろう。 @阿波 >>200
>実際、庄内土器は吉備の強い影響を受けている。
実際、庄内土器は倭国(阿波)の東阿波型土器の強い影響を受けている。 @阿波 応神〜仁徳天皇の時にかなり勢力が変わっているからな。
神武東征以上の激戦だったんじゃないかな。
瀬戸内海で鹿退治をしたり、飛騨の怪物を倒したり。卑弥呼共立当時の西瀬戸内海勢力(尾張を含む可能性あり)絡みが軒並みやられたのかも。
記紀は天武の時代だから、さらっと流されているが。
宮津、三島、伊予と向かいの広島、岡山、東国(関東)。
関東では、中臣氏の影響力が強まり鳥信仰も広まる。
三島、タケミカヅチ、ワニ氏、宮津、等々全部別の勢力に引き継がれた可能性が高い。
敵の敵は味方の法則が関東や畿内で発動したんじゃないかな。
応神前のヤマト政権の王は、実は飛騨に逃げた顔が二つある怪物なのでは?
若草山の古墳、その王の墓かもしれない。山岳信仰のある勢力。敗れた勢力がかつての王の墓を山頂に作らされたのかも。 そんな話はない
悪く言うとパクリ、
そういう物語(神話)だけを真似て、
自分たちの物語(神話)とした 『カッパ』
wikiによるとキュウリが好きで、
サル、鹿、鉄などが嫌いと書いてない?
中国では「河伯」のことだとか 鉄・・刃物のような意味なのかな
『カッパ 宣教師』?
僧、仏関係などの意味? >>204
都合の悪い話はすべてそうやって無視するわけだ。
畿内説はみんなそうだ。
文献を無視しないと全く成り立たない、逆に言うとあらゆる文献が畿内説にとって都合の悪いものなんだ。 それと、この人物だよ
『松傾』
あの写真と同じ名前なんだけど、上の名前「す・・」 >>200
>十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明であることは変わらない。
実際に物証があってもこれだもの。
畿内説は腐っているな。
>主役は筑紫、播磨、讃岐の間にある吉備であろう。
根拠なし。
>北部九州から派遣されたなんて夢物語、あきらめろ。
九州北部からではない。
高天原からだ。
筑紫へも高天原から派遣されている。
その点では筑紫も畿内も同等だ。
ただし最終的に正統とされたのが筑紫の方だった(記紀、後漢書、魏志)。 河伯信仰、龍神信仰なら黄河系だろう。
水稲をもたらしたBC1000年頃の渡来人かな。
キの国系。
周防灘〜日本海、BC500年頃には畿内に入る。
卑弥呼共立当時に既に乗っ取られたんじゃないかな。姫系だけ残って。 江南の呉の太伯の末裔でしょ。
有明海沿岸の肥国王家である姫(き)氏が卑弥呼の出自ですね。 >>209
>実際に物証があってもこれだもの。
籠神社(このじんじゃ)の鏡との関連性は認められないと言ってるわけだが?
>>主役は筑紫、播磨、讃岐の間にある吉備であろう。
>根拠なし。
天神本紀において北部九州が主役(一人称)でないことは事実だが?
>九州北部からではない。
>高天原からだ。
>筑紫へも高天原から派遣されている。
高天原とは御所市高天以外にないね。 『河伯』
wikiには扶余が何やらとも書いてあったり >>212
>高天原とは御所市高天以外にないね。
高天原から畿内へは船で降臨しています。 >>212
>天神本紀において北部九州が主役(一人称)でないことは事実だが?
高天原は九州北部ではないのでしょう。
倭国の盟主は、出雲、筑紫、畿内と変遷し、その背景に高天原があるのです。 >>212
>籠神社(このじんじゃ)の鏡との関連性は認められないと言ってるわけだが?
勝手に認めたがらないだけでしょ。
鏡の名称が饒速日の十種の神宝の鏡そのものですよ。 >>211
で、江南の呉の太伯が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系武器と中国系武具と漢服と木沓と戸建ての住居は?
. >>216
>勝手に認めたがらないだけでしょ。
>鏡の名称が饒速日の十種の神宝の鏡そのものですよ。
おまえが勝手に認めても籠神社側が関連を言ってないわけだが。
だいたい内行花文鏡なんてあちこちからけっこう出てるわけだし。 >>214
別にいいんじゃね。
高地から平地に降りたわけだから。 >>217
こぴぺ乙^^
厳密には句呉は江南ゆうより三角州以北やぞ(かいけい以南が江南ちゃうんか?
ひょうりゅうあるいは逃亡やからからだひとつで流れ着いて縄文人に世話してもろたんやろ
玄米くらいもちこんだかものー あーちなみに越国も北方にのびとるのー
越人も山東以北ぼっかい沿岸あるいはりゃんとん以東に進出していったやろなー(とおいめ >>218
完鏡に復元できるほどの物は沢山ないだろ?
破鏡での出土は広範囲だが。
ちなみに、ホケノにあった鏡も断面が磨いてある破鏡ね。
内行花文鏡の出土は弥生時代と、それ以降も北部九州が中心だからなぁ。 倭人が龍信仰という根拠はないな。
鳥トーテムの遺物はあるが。
呉の民が王族ばかりというわけではないしね。
中国南部の風習と鳥トーテムは別に矛盾しない。
池上曽根遺跡とかが、秦代まで時代が下るなら別だが。 >>220-221
王族が一人で来る訳ないだろがカス。
で、江南の呉の太伯集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系武器と中国系武具と漢服と
木沓と戸建ての住居と龍信仰と、当時の中国の中粒種のイネは?
とりわけ呉のシンボルだった鼎と龍は?
. >>224
ハイハイおじーちゃんも時代感覚地理感覚みがかなあかんでー
たいはくがきてるわけないやろ?
臥薪嘗胆しらんのか? >>223
で、呉の民の倭人とやらが渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具と、当時の中国の中粒種のイネは?
. >>225
で、江南の呉の太伯集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系武器と中国系武具と漢服と
木沓と戸建ての住居と、龍信仰と、当時の中国の中粒種のイネは?
とりわけ呉のシンボルだった鼎と龍は?
早く言えよブタみたいなベトナム顔した江南ブタ広鼻チーノが。 籠神社の鏡は前漢鏡と後漢鏡が一枚づつ。
それが副葬されることなく神宝として伝世された稀有な例。
その由来も饒速日の十種の神宝としてはっきりしている。
歴史を覆い隠してはいけない。 カグツチを切って、その血が岩石に落ちて生まれた神。
タケミカヅチノヲと火の神ミカハヤヒ。
タケミカヅチとホアカリ。
吉備と尾張。
纒向を作った二大勢力。
岩石、石神と繋がるな。 胴は同じで顔が二つの怪物。
一人の王だったのか二頭だったのか。
若草山山頂の古墳はタケミカヅチ系だろうな。
もう一つ王墓候補の地、位の高いものの墓のある場所、山の上。
畝傍山は神武。
5世紀以降突然文献に出始める耳成山が怪しいな。
以前から火口を埋め立てした古墳じゃないかと噂がある。 >>229
>その由来も饒速日の十種の神宝としてはっきりしている。
籠神社がそんな由来を認めてないのに何でお前が由来を勝手に決め付けてるんだい? >>231
>耳成山が怪しいな
耳成山は謎。
絶対何かあるはず。 >>233
黙っているだけだろ。
お前みたいなのに攻撃されると嫌だから。 籠神社の社家の氏神は海神。
ホアカリではない。
しかも本当の主祭神は、別にあると話ている。
クナトの神だろう。
応神が生まれて、スクナヒコナが大喜びするだろうと記紀にあるし、そういうことだな。
ニギハヤヒは関係ないな。 >>236
>しかも本当の主祭神は、別にあると話ている。
だから天孫だが皇祖ではない饒速日だろ。
立ち位置が微妙なんだよ。 >>236
>籠神社の社家の氏神は海神。
天津神(海の神)、饒速日。 天津が最初に現れたんだよ、
だから実際には一番古い(一番下)とも言える
と言っている人がいた サルタ、猿田彦というスレを読んでみて、
同じような事を言っている人がいるから
土人、土民だぞ
とか すぐに出て来たでしょ
>《古事記》では天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など,
>先行的神格を別天神(ことあまつかみ)という。
先行=後発組の視点から言うと、古いとも言える、
本当は国津という意味 あまつ→くなつ→じょうもん→あかしげんじん→よみのくに よってるとおーとれすしてまう(自動筆記
なにかが降りてきた(はなぢ >>239
おまえなんか糞だ、黙っておけボンクラ。 籠神社の主祭神・彦火明命が饒速日でもいいが、だから何?
王でも何でもない男だし。 ◎縄文系の人々
◎BC1000年頃渡来し稲作を持ち込んだ民。(殷)
日本海〜BC500年頃に畿内に到達。
海の民ワタツミ、山の民ヤマツミ
◎弥生時代前期末の渡来人
神庭、暦、出雲族
丹波、鉄、ヤマタノオロチ(本来のスサノオ)
環大阪湾、倭人(中国南部)
etc。
元々は皆仲良く暮らしてたんだな。 全てはカグツチから始まるんだよ。
豊かになった一部の先住民が、新しく来た渡来人達(弥生時代前期末以降)に攻撃を始めるんだな。カグツチ。紀元前後の頃。
丹後半島の先住民とヤマトの先住民が手を組み、丹後半島の王ヤマタノオロチを倒して、スサノオの名前を奪う。
次に島根の山の民オオナムチと手を組み、島根の王神庭の出雲族を倒す。
怒った瀬戸内海の倭人イザナギ一派が、ヤマトや吉備、遠賀川のカグツチを倒すんだよ。
結果、遠賀川の石筒之男(石神、後のトヨフツ)、吉備のタケミカヅチノオ、ヤマトのヒヤハヒ(ホアカリ系)などができるんだな。
その時、イザナギ一派と手を組んだのが、九州なら住吉三神(上、中、底筒男)や綿津見三神。 >>249
yハプロで検索せー縄文は世界最古級にしてその血は日本人の誇りなり(マジレス
かえんどき
たまふるかたち
ほのおかな ちなみにわえのy染色体はdでした(けんさずみ
ざっとわえ周辺の20にんの日本人母数だと15ぱーせんとやったな カグツチ。
縄文系の人々とBC1000年頃渡来した殷の流れを引く人々の一部。
彼らがヤマト〜紀伊に作ったのが、キ(姫、木)の国。
イザナギの元に逃れて来たヤマタノオロチ一族とイザナギがヤマトのカグツチ(ホアカリ系)を倒すんだな。
その象徴が草薙の剣、草(木と同語源)を薙ぎ倒した剣。
ヤマトのホアカリ系は天岩戸(伊賀〜甲賀〜伊吹山)の向こう側、尾張に追放されてしまう。
国境の守りとして置かれたのが、賀、牙、駐屯部隊だな。 1世紀中頃、
環大阪湾の倭人、丹後半島から逃れて来たヤマタノオロチ族(本来のスサノオ)、島根から逃れて来た出雲族、カグツチに与しなかったヤマツミ(大山祇、琵琶湖南部)、縄文系の人々、漢からの渡来人などで首長連合を作る。
クニ、国、クナ。
対外的には倭国。
首長連合の一つが、上町台地〜泉北丘陵を中心とした中の国(芦原中津國)。
イザナギ、本来のスサノオ、サルタヒコがいた処。
年一回守山の伊勢遺跡に首長達が集い祭祀を行っていた。
日見、月見、暦をサルタヒコから貰ってたんだな。
そして、九州にも拠点を作る。
伊都国。博多湾一帯。クナの宮家。大陸との交流の窓口。
奴国から分捕ったんだろう。逆らう者もいたとあるしね。協力したのが、住吉三神などだろう。 最初にカグツチが渡来人を攻撃したのが、紀元前後の南海トラフ地震の後だろう。多くの海人が亡くなり、海の力が弱まった時期。
2世紀中頃の南海トラフ地震。
その後、天岩戸の向こう側に追放されたホアカリ系ミミ族や吉備のタケミカヅチが再び動き出す。仕返しだな。倭国大乱の幕開けだな。
阿波も彼らの側につく。
尾張紀伊阿波の同盟、更に太平洋側から宮崎の石神と手を結ぶ。この時尾張のホアカリ系から婿入りしている。
更に西瀬戸内海の海賊、遠賀川の石神とも手を組み、九州北部を征伐。
この時住吉三神は亡くなっている。
博多に一大卒を置く。
伊都国王家は実権を奪われるも、存続。
中国など各国の使者がいるので漢に冊封されていた伊都国には、手を出せなかったんだろうね。
後は神武東征の話。実態は尾張西征&吉備東征。
ヤマトの地を征伐し、卑弥呼を女王に据える。
邪馬台国だな。
卑弥呼を共立した勢力と倭国大乱で負けた側の争いがこの後600年続くのだ。 物部は石神が始まりだ。
宮崎と遠賀川の石神。
ホアカリ系(火の神だが)もタケミカヅチも誕生を考えると石神と言えるだろう。
石器武器作りに長けた集団。 大山祇や三島も卑弥呼を共立した国々にやられて、姫系統だけ残ったのかもね。 纒向遺跡、前代未聞の非道な遺跡。民を虐待した証だ。
卑弥呼が亡くなった時に殉葬100人。
大阪や奈良は滅茶苦茶にされている。
イザナギ、スクナヒコナ、サルタヒコ、スサノオ皆殺された。
天災で弱った時に助け合うのではなく、叩きに行く非道さ。
生贄の風習。
鬼門に封じ込められて当然と言える。
サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波サク
国底立神、国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神。&阿波。
倭国大乱を引き起こした張本人。 >>248
先代旧事本紀では饒速日に天照国照の称号を与えており、天照と大国主の両方の権威を引き継ぐ王として扱っています。
(出雲は直前に高天原が滅ぼしたため)
饒速日から邇邇芸へは兄弟相続が行われ、筑紫の邇邇芸の王統が高祖となっていきます。
(伊都高祖宮の筑紫日向三代)
饒速日は倭国王です。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 ニニギの系統は応神からだよ。
卑弥呼、神武〜仲哀天皇はニニギの系統ではない。
恐らく天武〜ニニギの系統ではないな。
桓武〜ニニギの系統だ。 鬼道を操る邪馬台国の神力を備える卑弥呼
卑弥呼は鬼門を封じてたからこそ
邪馬台国の盟主として女王に祀り上げられたのだよ 1世紀中頃〜2世紀中頃の倭国。
環濠も要らない程平和な時代だった。
九州も含め各地の交流も活発で、色々な民族が共生していた。
神武東征前のヤマトの地。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。 纒向遺跡を見たら分かるだろ。
尾張は天岩戸の向こう側、鬼門の向こう側だよ。 蘇我氏の焚書も酷いが、明治の神仏分離令に乗じた焚書も酷い。大鳥大社と並んであった神鳳寺の書物も行方不明だ。
明治政府はやることが酷かった。
歴史の捏造。
神武天皇陵、橿原神宮。 全国の神社はそれぞれ縁起も祭神も違っていたのに、明治初期に多くが天照などを祀る神社に変えられた。
廃仏毀釈で多くの文化財が失われ、明治政府や天皇家に都合の悪い歴史は改ざんされた。 息長氏、伊吹山の荒ぶる神(倒されたか不明)、ヤマトタケル、草薙の剣を置いていく、最後に白鳥が戻る堺、鉄、ヤマタノオロチ(本来のスサノオ)。
伊吹山、福井、謎が多い。
伊吹山の神々、ヤマタノオロチの神霊、井戸の神、三本足の烏、スサノオ、 元々ヤマトにいた火の神ホアカリ系。
ヤマタノオロチ退治という派手な舞台でスサノオに変わります。
次は舞台が暗転し、天岩戸の向こう側にいたホアカリ系のスサノオ。岩戸が開くと、アマテラスとして登場。
神功皇后〜仁徳。派手なストーリーの裏では、
ホアカリ系アマテラスが飛騨の顔が二つある怪物に変身。名前は建御名方になるんですね。タケ美濃方。
怖い話です。 >>271
>伊吹山、福井、謎が多い。
お前が勝手に妄想を抱いて自己矛盾しているだけ。 タケミカヅチ。
古事記では、事代主〜オオタタネコの子とある。
吉備津による温羅退治。
事代主系が瀬戸内海のタケミカヅチを乗っ取ったのかもね。
モモソヒメと大物主。 >>277
その事代主を祀っているのも、なぜか阿波だけ。 いや、当然か。 @阿波 オオナムチ、スサノオの仮面を被ったホアカリ系の血を引くミミ族の仲間。
タケミカヅチを乗っ取った事代主。
アマテラスとスサノオの仮面を持つ火の怪物、建御名方。
応神〜仁徳の代に、事代主(タケミカヅチ)、建御名方(顔が二つの怪物)が敗れ、
島根のオオナムチは国譲りを決めたんだろう。 >>280
その建御名方命を祀っているのも、なぜか阿波だけ。 いや、当然か。 @阿波 級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
国の御柱であり、天の御柱。
息が長い吹子、鉄と関係あるのかな。 伊勢神宮外宮の神域内にある別宮。
豊受大御神は、日本海側の神かな。
月夜見宮と風宮
月夜見は暦、出雲神庭の神、サルタヒコ。
級長津彦命、級長戸辺命は、同じく日本海側の神なら、ひょっとしたらヤマタノオロチ、本来のスサノオかな。 伊吹山の荒ぶる神は何だったのか?手ぶらで伊吹山に赴いたヤマトタケルの目的は?
福井との関係は?
謎が深まってきたな。 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)の『豊受皇太神御鎮座本記』として、この記述があるのは、非常に疑問である。 @阿波 昔は、伊勢の天照大神は男神で正体は蛇で、斎王の元に通っていたとか言われてたな。 そして通う度にウロコを三つ落とし、そのウロコを櫃ぎに入れて集めているとか。櫃が一杯になったら此の世の終わりとかの縁起があったとか。神鳳寺縁起張にそのような話があると。
能の演目『三輪』でも「思えば伊勢と三輪の神 思えば伊勢と三輪の神 一体分身のおん事 今さらなにと岩倉や」
とあったらしい。天照大神と大物主は同じで、石神ということかな。 >>281
それは俺ではないぞ。
忙しいので最近書き込んでない。 >>261
博多に王なんていない、カッペは黙っていろ。 >>286
いのししがりやね?
やまとたけるさんはまたぎやった(鼻ほじ 神話の復元は難しいな。
◎縄文系の人々
◎BC1000年頃渡来し稲作を持ち込んだ民。(殷)
日本海〜BC500年頃に畿内に到達。
海の民ワタツミ、山の民ヤマツミ
◎弥生時代前期末の渡来人
神庭、暦、出雲族
丹波、鉄、ヤマタノオロチ(本来のスサノオ)
環大阪湾、倭人(中国南部) >>294
おまえタイワチーノだろ。ブタ広鼻のハノイ顔した。
で、殷や中国南部から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具と、当時の中国の中粒種のイネは?
. 太陽が西に移動すると、東の国は夜になる。
夜を治めるのが月。
太陽は東を月に任して、大陸に近い西に行ったのかな。 伊都国は日本中で一番安全な場所だろうな。
各国の使者が常駐している。
魏志倭人伝でも伊都国の王として、存在しているしね。 伊都国は日本中で一番安全な場所だろうな。
各国の使者が常駐している。
魏志倭人伝でも倭国の王都として、存在しているしね。 出雲族の姫神の幸神とクナト神の間の子がサルタヒコ、月。
木の国の王族の姫神とクナト神の子がアマテラスかもしれないな。
宮中式内社にも、姫神がいたな。
イザナギの本当の名前はクナト神かもしれない。
対立するイザナミと同じような名前はおかしいからね。
クナト神、何か国津神と音が似ているな。 クナト神と素クナヒコ名。
気になるな。関係あるのかないのか。 かつて大阪城の地にあった生國魂神社。
生島神と足島神を祀っているが、副神なんじゃないかな。
籠神社や出雲大神宮と同じように、中央の主祭神を隠しているのでは?
クナト神かもしれない。
神道は元々一神教だったというしね。 ここで言っているアマテラスは男神、卑弥呼とは関係ないけどね。 > >魏志の2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで王権は葛城にあった。
>
> 巻向が作られ始めたのは卑弥呼が共立された2世紀末からで
> それ以前の最大の遺跡は出雲圏のムギバンダ遺跡だよ
いや、遺跡なんか関係ない。
奈良盆地の最も神聖な場所に卑弥呼や男王の墓がある。
それは高天原(御所市高天)。
日本最古の神社の【径百余歩】の御神域。
社殿は孝昭天皇の頃、3世紀第三四半期、だいたい260〜280年頃か。
御神域はそれ以前からある。
立ち入り禁止だし写真もダメ。 なんの根拠もない妄想乙。
最後は掘れないからと言い訳するのも畿内説の常套手段。 >>305
>奈良盆地の最も神聖な場所に卑弥呼や男王の墓がある。
湿地帯の奈良盆地に、墓は有っても、卑弥呼や男王の王都は無い。 @阿波 ◆◆ レス投稿者の皆さんへ ◆◆
邪馬台国関連スレ 類似スレが乱立され、同一人物によるage連投によって
日本史板の上位スレが常時 邪馬台国類似スレで占められて不快を感じている方が
多くおられます。
周りの方の不快感払拭のために、できるだけ sage進行でお願いします。
自己顕示欲 公開オナニーを見せたいのは解りますが、
ウザいので、 やめてくれ
分ったか、 カス やっぱり紀元前後だな。
イザナミ、縄文系とBC1000年頃稲作をもたらした渡来人の集団。
イザナギ、弥生時代前期後半に渡来した倭人を中心とした集団。
カグツチが原因で争いになったんだろう。
記紀でも生々しく書かれているな。 >>307
つまり奈良盆地の丘陵地が一番の適した場所だよ。
葛城や矢田丘陵、馬見丘陵がそうなる。実際遺跡も多い。
巻向辺りは居住区というより市場と祭祀場だからな。 >>314
>葛城や矢田丘陵、馬見丘陵がそうなる。実際遺跡も多い。
なんという遺跡? @阿波 >>315
矢田丘陵西側、竜田から三郷にかけて縄文からの遺跡、馬見丘陵なんて
一目みても古墳群だらけで上牧辺り銅鐸に画文帯神獣鏡も最近出土した。 >>313
稲作はもたらされたじゃなくて半島からパクったの。
朝鮮土器をさっぱり作らない、沿海州系土器を作る縄文晩期の渡来人が
半島から稲作をパクった遺構が日本最古の稲作遺構の菜畑遺跡。
だから菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器をさっぱり作っていない。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
これが半島からの渡来人の遺構に見えるなら、さっさと考古学をやめるべき。
渡来人は菜畑遺跡よりもさらに50年以上前に山陰あたりに弥生開始土器をもたらした集団。
それに弥生前期後半に新たな渡来人が渡来した事を証明する証拠遺跡も、
その生活痕たる外来系生活土器もない。
ポンコツ男は考古学を語る奈。 >>316
王都はどこ? 王都としての集落遺跡は? @阿波 >>318
王都なら馬見丘陵東側だな、
何しろ都や保津の地名に鏡作神社所在地。
鍵唐古や巻向も近い。 鍵唐古に多遺跡、保津宮古遺跡、桜井やこ橿原にかけても
いくつか弥生集落があるからその辺りか。 >>320
王都の遺跡というにはあまりにも貧弱と言わざるを得ない。 @阿波 >>306
神聖な場所や墳墓が掘れないのは当り前。
平原のようなミカン畑はいくらでも掘れwww >>307
>湿地帯の奈良盆地に、墓は有っても、卑弥呼や男王の王都は無い。
葛城には明神大社6社が集中している。
王のいた場所が宮として続いているなら発掘もできない。
名柄の長柄神社は弥生中期だと分かっている。
高鴨神社、高天彦神社も同様であろう。
発掘許可がおりて発掘された大きな集落などははたいした謂れがない。 人間にとって最も必要な水、
つまり水源を支配するのが王=神。
だから神の住まいは水源にある。
長柄神社、高鴨神社、高天彦神社、
ことごとく水源である。
ヒミコもアマテラスも水源にいた。
長柄神社、別名「姫の宮」であろう。 記紀でいう神武東征、ヤマト征伐。
誰が手引きしたのかと思ったが、御所辺りが噛んでいたのか。 >>324
>葛城には明神大社6社が集中している。
倭国(阿波)のみに鎮座する数ある神名社の比でない。 頭が高い。 @阿波 やっぱりカグツチだよ。
体の場所で大体の位置を表しているのかもしれない。
奥山津見辺りかな。
更に奥に吉野辺りに行くと闇山津見。
闇淤加美神
闇御津羽神 血はカグツチの動きが飛び火した場所なんだろうな。
剣で大体の位置を示している。 アマテラス。
倭人の国淡と木の国の和解の象徴だな。
イザナギ(クナトの大神)と大山祇の姫の間の子。 >>324
>発掘許可がおりて発掘された大きな集落などははたいした謂れがない。
基地外の論理 もしかせば
まきむくはずす
かもせいかい(じあまり イザナギ側:イザナギ(クナト、淡の国)、アマテラス(中の国)、大山祇(木の国)、根の国から逃れてきた出雲族ツキヨミ(サルタヒコ、中の国)、丹後半島から逃れてきたヤマタノオロチ族
スサノオ、オオナムチ側:島根〜丹後半島、尾張
アマテラスとスサノオの誓約は、両勢力の和睦かもしれないね。
木の国に残ったスサノオ派の領地を貰い受け、代わりに出雲族の領地だった宗像をスサノオ側に譲り渡す。 紀元前後〜1世紀前半の話だよ。
邪馬台国や卑弥呼は関係ない。 その後もスサノオが悪さをしてアマテラスが隠れて夜になるとある。
アマテラスが西に移り(博多湾に移り)伊都国を作ったんだろう。大陸外交の窓口。
東の淡の国、中の国、木の国は、イザナギ(クナトの大神)の子クナ彦ことスクナヒコナと、サルタヒコことツキヨミで倭国を作ったんだろう。国造り神話だな。
中の国を本拠地とし、首長達が集い祭祀を行う(暦を渡す)場として伊勢遺跡を作ったんだろうね。
1世紀半ば頃〜の話。 倭国は、尾張と日本海側のスサノオ(元カグツチ、ホアカリ系)に対する防衛拠点を、敦賀〜伊吹山〜甲賀〜伊賀置いたんだな。天岩戸。
2世紀半ば、南海トラフ地震が起きる。
環大阪湾の多くの倭人の男達が亡くなる。
この時に乗じて、尾張や日本海側のホアカリ系が再び攻勢に出るんだな。
阿波、紀伊もこちらに付く。
倭国大乱の幕開けだな。
倭人を中心とした倭国(クナ、国)伊都国体制を壊したかったんだろうね。
太平洋側周りで宮崎の石神と手を組み、海人の隼人を征伐。
西瀬戸内海の海賊や遠賀川の石神とも手を組み、九州北部を制圧し、博多に一大卒を置く。
後は記紀でいう神武東征だな。
魏志倭人伝当時は最終局面だな。
伊都国は漢に冊封されていて、各国の使者もいたので実権を奪われながらも存続。
倭国(クナ)は、倭人の王クナ彦(スクナヒコナ)は殺され難波の地は奪われ、和泉と河内だけまでに追い詰められていた。
残されたのは卑弥弓呼(日見彦、ツクヨミ、サルタヒコ、倭人と出雲族の王、クナ国王)。 サルタヒコも殺されたんだろうね。
ひらぶかいに挟まれて死ぬ。
泉北丘陵だな。
サルタヒコの遺言。倭国大乱の犯人を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立
国底立神、国常立神、天香山の山頂に祀られている神。
鬼門に封じ込まれた神。
天岩戸の向こう側に追いやられた神だろう。
&阿波。 スレあげんなカス sage進行でやれ。 やりたくない理由でもあるんか?
そこまで日本史板 汚したいんか?
ヤマタイ板の新設 申請しろ!!!
クススレ乱立して いちいちアゲんな
何度も言わせるなニートども 邪馬台国側が魏に朝貢し、倭国を名乗るようになる。
邪馬台国側が女王しか立てれなかったのは、邪馬台国側にも男王はイザナギの血じゃないとダメという勢力がいたんだろう。
卑弥呼亡き後男王を立てるも、内乱。
台与が王につく。
3世紀半ば台与の時代、卑弥弓呼が亡くなり、クナ国河内彦と和睦。
孝元天皇は(台与の時代)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したんだな。 河内彦って誰だよ?
クコチ彦だろ。
狗奴国は静岡以東の関東連合の事だよ。 しばらく邪馬台国系の時代が続き、四道将軍などで関東東北など全国征伐を進めていくんだな。
邪馬台国側に潜り込んだ中の国の臣、中臣、井戸の鳥姫達、伊吹山の荒ぶる神、関東の縄文系人々、九州の住吉族、朝鮮半島に逃れていた倭人etc。
彼らが繋がり、伊都国の血を奪還し、神功皇后〜応神〜仁徳で反撃に出るんだろうね。
敵の敵は味方の法則も発動したんだろう。 八十島祭。
かつて難波津で行われていた、住吉三神など倭国大乱で亡くなった神々を鎮魂し、天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀。
生國魂神社、住吉大社etc。
詳細不明の海神二座は、おそらくサルタヒコとヤマタノオロチだろうね。 トピ主です。
sageろというアフォが湧いてますが、ここはage進行でお願いします。
わしの秀逸な>>1をできるだけ多くの人に見てもらうためです。
sageは厳禁ですのでよろしく。 >>328
>倭国(阿波)のみに鎮座する数ある神名社の比でない。 頭が高い。 @阿波
え?阿波に明神大社はいくつあったっけ?ww >>350
>え?阿波に明神大社はいくつあったっけ?ww
阿波國延喜式内明神大社
@「天石門別八倉比売神社」
A「一宮神社」
B「上一宮大粟神社」
大和國延喜式内明神大社
@大神神社(三輪明神)
頭が高い。 @阿波 >>351
葛上郡
鴨都波八重事代主命神社 奈良県御所市
葛木御歳神社 奈良県御所市
葛木坐一言主神社 奈良県御所市
葛木水分神社 奈良県御所市
高天彦神社 奈良県御所市
高鴨神社 奈良県御所市
勝った〜〜!(*^▽^*) >>350
>え?阿波に明神大社はいくつあったっけ?ww
阿波國延喜式内明神大社
@「天石門別八倉比売神社」
A「一宮神社」
B「上一宮大粟神社」
大和國延喜式内明神大社
@「大神神社(三輪明神)」
A「春日大社」
頭が高い。 @阿波 ◆◆ レス投稿者の皆さんへ ◆◆
邪馬台国関連スレ 類似スレが乱立され、同一人物によるage連投によって
日本史板の上位スレが常時 邪馬台国類似スレで占められて不快を感じている方が
多くおられます。
周りの方の不快感払拭のために、できるだけ sage進行でお願いします。
自己顕示欲 公開オナニーを見せたいのは解りますが、
ウザいので、 やめてくれ
分ったか、 カス 古来阿波の人々かま崇めていたのが大和と河内の境にある明神山、
別名ヒルメ山、アマテラスの山という事だからな。
まぁ阿波の人々がそう扱ったのだから文句はいえないねw 明神山ま最近王寺町がかなり力を入れてるせいもあり、メディアに取り上げられる機会が
増えてきましたよ。
私の所にも資料提供が来たりします。
私も葛城地方は重視しますが、邪馬台国に関しては河内から奈良盆地一帯ですね。 >>355
>古来阿波の人々かま崇めていたのが大和と河内の境にある明神山
なにそれ? 初めて聞いた。 @阿波 >>355
>古来阿波の人々かま崇めていたのが大和と河内の境にある明神山
古来阿波の人々が崇めていたのが国府と石井の境にある気延山
「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。 @阿波 >>358
以前私もあなたに同じ話をしたはずですが?
忘れてるなら余り誉められた
記憶力ではないですね。
ヒルメ山は四国から三輪山まで一望出来る
霊山ですよ。
江戸時代には元伊勢として扱われた事もあり、
特に徳島方面からやって来る人が
多かったのです。
、 >>360
私も阿波の人間ですが、少なくとも私の知る範囲では、そんな話聞いたことがありません。
その話の出どころはなにですか? @阿波 >>360
ヒルメ山?なんぞに行かずとも
古来阿波の人々が崇めていたのが国府と石井の境にある気延山
「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。 @阿波 >>361
明神山に登った事はありますか?
ここの元伊勢騒動でも調べてみてください。
ちなみに私の義理の兄もは四国高知県、
徳島にも親戚はいますよ。
矢野遺跡の近くです。
地元だけ調べていても駄目ですゆ。 >>363
>明神山に登った事はありますか?
ありません。気延山 に登った事はありますか?
「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」 に参拝したことがありますか? @阿波 >>363
「天石門別八倉比賣神社」の裏手にある卑弥呼の墓と言われる円墳を見たことがありますか? @阿波 >>353
>阿波國延喜式内明神大社
>@「天石門別八倉比売神社」
>A「一宮神社」
>B「上一宮大粟神社」
ショボッwww
>>352で示したように葛城だけで6社あるのだが?www
勝った〜〜!(*^▽^*) >>354
畿内説スレ主のウンコ漏らし太郎君、
今日も泣いてるのかい?www >>352で示したように葛城だけで6社あるのだが?www
延喜式内明神大社じゃないショボッwww 神社がなにか? @阿波 聖徳太子と言えば、隋書倭国伝の記述が興味深い。
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
興味深いのは号。
大君の聞き間違いとされているが。
阿輩は普通に阿波、淡、嗚呼、烏のことじゃないかな。 日本書紀かな。
蘇我氏が鳥の格好をして祭祀を行い、それを見ていた物部氏が笑うという記述があるな。
蘇我氏が鈴が鳴れば、もっと上手くできるんだがみたいな返事をする。
鳥の真似事をしていたのが、滑稽だったんだろう。
日本書紀は天武の時代に書かれたんだな。
勝利を確信し驕りがあったんだろうな。 孝霊厨さんが興味を持っている香芝辺り。
二上山の上に大津皇子の墓があるんだって。
大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろうね。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。
母が鳥、仁徳天皇。 糞レスで 糞スレ
アゲんなカス
そこまで板汚したいんか?
ヤマタイ国がどこにあろうが
そんなもん 何がおもろいねん?? 天武、徳川、明治政府のせいで、誤った歴史が広がり迷惑している地域があるんですよ。
現在においても、誤った歴史を広めようとする力が強いです。
その結果、東日本の、大阪や関西叩きが酷いでしょ。
大阪人にとって関東の先住民は恩人なんです。
奈良に都のある大和朝廷は西日本の尾張伊勢や出雲など一部の先住民の朝廷です。全国を征伐して回ったのは、彼らですよ。他人の歴史を奪い背乗りして奪ったのも彼らです。
先に戦を仕掛けたのも、彼らです。
そろそろ事実に基づいた歴史を取り戻さないといけない。 >>368
いや葛城だけで延喜式内明神大社が6社なのだがw >>377
>いや葛城だけで延喜式内明神大社が6社なのだがw
違う。 それは全国どこにでもある延喜式内「名神」大社。 格が違う。 @阿波 >>364
10年程前までなら八倉姫神社、矢野遺跡はよく行ってます。
気延山にも何度も登ってますよ、埋蔵文化センターに行く機会も多かったので。
気延山は石段以外にも幾つか上がるルートがありますね。上からの景観は思ったより
よくなかった。
360度視界が開けた明神山の方が、アマテラスの名前の山なのも実感出来ますよ。
少なくとも登って調べてから批評すべきです。
個人的見解では八倉姫とはオオヤマトクニアレヒメの事と推測してます。
大倭の母体という位置ですね。 >>373
香芝というより二上山周辺は色々謎が多いですから。当麻寺中将姫に葛城高額姫の存在、
大阪側は聖徳太子に推古天皇陵もまとめられた王家の谷です。
そもそも武内宿禰縁の地ですからね。
何もない訳がありません。 >>379
>上からの景観は思ったより よくなかった。
そりゃ、当然ですよ。 気延山自体がご神体ですから、ご神木を切ることは何人も叶いません。
明神山?と一緒にされると迷惑である。 @阿波 >>379
>個人的見解では八倉姫とはオオヤマトクニアレヒメの事と推測してます。
大倭の母体という位置ですね。
大倭(奈良遷都後の大和)の母体(倭国阿波)という位置ですね。 @阿波 そういうお国自慢的態度の人は、考古学や
歴史学には向いてないですね。
冷静な判断がまず無理でしょう。
まず地元が中心でないと気がすまない。
私は元々阿波説と勘違いされてましたよ。
阿波は重要な場所だと主張しただけで。 ちなみに最近は倭人伝の投馬国は四国、阿波なのではないかという考えもあるかなと
思うようになってきました。
ウミ国が伊予国と考える事が出来ますからね。 >>383
湿地帯の奈良盆地になにを求めるの?、
考古学や 歴史学には向いてないですね。 @阿波 葛城地方は湿地じゃないからなw
大半が丘陵地と山麓部分でした。 >>386
>大半が丘陵地と山麓部分でした。
そんな丘陵地と山麓部分に王都など有り得ない。 その平地が湿地帯では、どうしようもない。 @阿波 卑弥呼はイワレ系や葛城系じゃないよ。
クナ国の歴史だけでなく、味方の邪馬台国の歴史まで奪うのかな。 現実に都が置かれた事を認識出来ないバカw
くだらん妄想ばかりしてるとおかしくなる見本だな。 >>384
不弥国は奴国と陸続きだからね。伊予な訳ない。
投馬国は船で南だからね。
孝霊厨は基本嘘つき。煙幕張るのが目的。 邪馬台国女王卑弥呼
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
この中に葛城系やイワレ系がいるかな?
いないだろうな。
尾張、出雲、阿波、+中臣かな。
卑弥呼の時代葛城やイワレ系は下っ端だよ。 古墳時代の中西秋津遺跡。
祭祀跡も興味深い。高台側、祭祀跡とゆとりある建物群。
低地側、二本の川に挟まれた所に密集した住居跡。
興味深い。阿波はどうなんだろう、関係しているのかな。 「石井・井ノ元遺跡」
「古墳時代前期 土器群が出土」 「祭祀用など250個以上」
石井町教委は15日、石井町石井の井ノ元遺跡から古墳時代前期(4世紀前半〜半ば)の土器群が出土したと発表した。
県内で同時期の土器がまとまって出土するのは初めてで、町教委は「土器によって年代を決定する編年研究の基準資料となり得る」としている。
土器群は地下約1.8mで見つかり、南北10m、東西35mにわたって帯状に広がっていた。
完全な形を残す物だけで250個以上あり、うち7割を祭祀用と思われる小型丸底壺や高坏が占める。手ごね土器や石製小玉、鉄製鍬先なども発掘された。
町教委は、祭祀後に土器を捨てた場所と推定し、近くに祭祀が行われた遺構が存在するとみている。
南側に渡内川があることから、水の神を祭る祭祀が行われていた可能性もある。
今回照査したのは約1500m2。西側に隣接する石井幼稚園の改築工事に伴い、5月から掘削に取り掛かった。
近世(18〜19世紀)から古墳時代前期にかけての4面の遺構が確認され、土器群のほか、
江戸時代の藍商屋敷に設けられていた石組み井戸や屋敷外の水田、飛鳥〜奈良時代の素掘り墓35基なども出土した。
奈良時代の水田を形成する溝の方角が8世紀前半〜中頃の条里制と一致することから、
石井町域でも阿波国府域と同時期、条里制に基づいて開発が進められていることも分かった。
町教委の菅原康夫文化財指導員は「今回見つかった土器群は、祭祀の内容や古墳時代の土器の様相を考える上で貴重な資料となる」と話している。
2017年11月16日 徳島新聞朝刊転記 @阿波 なあなあ
そkまでして アゲたいんか?
ヤマタイ国とムー大陸がどこにあろうが
誰もなん尾妙味もないしwwww
ひょっとして 自己顕示??? >>390
高齢は人畜無害だろ。
最後の文なんか単なる妬みにしか見えんな。 >>396
はいはーい。新人さん ちゃうよーーー
なあなあ サゲてえ
そんなにアゲんでもええやんか
>>397
それでよい。
age厨は頭がおかしい こんな投稿マルチポストしてる>>398は、明らかに頭がおかしい >>399
おまえはsage進行してるから許す
それでええ
ようは アホが乱立させた糞スレ群を板のトップに並べないことだ
不毛な邪馬台国論争をやるのは おれがそうこう言うことやない
やり方が問題や わかるか? >>387
>そんな丘陵地と山麓部分に王都など有り得ない。
いや、古代に王(神)は水源地に住む。
だから水源地から銅鐸が出る。
そして前期古墳も丘陵地(山の頂上ではない)に多い。
阿波・讃岐でも同じはず。 >>378
>違う。 それは全国どこにでもある延喜式内「名神」大社。 格が違う。
いやいや古さが全然違う。
高鴨神社に至っては社殿が孝昭天皇の頃だから3世紀第3四半期。
一般的には崇神時代の大神神社が日本最古なんて言われてるが高鴨の方が古い。
阿波なんて新しい神社ばかり。 古代は水源の大きさが都市の規模だからな
讃岐は川ないが、阿波は吉野川があるから有力者が居ただろうよ >>402
>阿波・讃岐でも同じはず。
違う。 吉野川などの河川流域に集落遺跡が集中している。
そんな丘陵地と山麓部分しかない葛城に大規模集落など有り得ないし、事実存在しない。 @阿波 >>405
葛城地方は既に西日本でも最大級の
水田跡が確認されたのにな。
もう少し勉強したら? >>406
西日本で最大級の集落遺跡でもあればね。
そんな丘陵地と山麓部分しかない葛城に大規模集落など有り得ないし、事実存在しない。 @阿波 @阿波の言動は我田引水がひどいし視野も狭い
ゆえに説得力に乏しくなるすえ他者を納得させるのは徒労に終わりやすい 現在秋津中西遺跡で確認された面積が三万越えで弥生前期では全国最大級なんだよ。
勿論これは掘った面積に過ぎないから本来はずっと大きい。
秋津といえば神武伝承地だから、
王都じゃないなんて余程のバカじゃないと言わないだろう。 泡男は確かに知識が偏り過ぎで尚且つ浅い。高齢は
考古学の発掘作業も実際やってたみたいだし、相手にも
なってないだろう。 >>409
>現在秋津中西遺跡で確認された面積が三万越えで弥生前期では全国最大級なんだよ。
西日本で最大級の集落遺跡でもあればね。
そんな丘陵地と山麓部分しかない葛城に大規模集落など有り得ないし、事実存在しない。
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。 @阿波 >>412
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 そもそも徳島なんかも美馬辺り間違いなく大雨の土地で
下流は大氾濫の可能性大なのに何寝言いってんだよ。 というより阿波か四国スレでやれよ、ここは葛城スレだし。 >>412
いつまでも水田跡に頼ってて「はダメだよ。 知識が偏り過ぎで尚且つ浅い。 @阿波 神武東征あるなら、2世紀末頃だろう。
紀ノ川沿い、五條〜葛〜御所〜葛城辺りの歴史を掘り下げる必要があるな。 >>419
だから、神武東征も倭国(阿波)国内での出来事ですから。
知識が偏り過ぎで尚且つ浅い。 @阿波 歴史上阿波人の足場
近畿>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>四国
自分達は関西の飛び地だと思ってるぐらいの情けなさ >>421
>それは全部君の頭の中の出来事だよ。
もういい加減に自説の限度を知るべき。 いい加減に見方を変える潮時だよ。 @阿波 奈良盆地南部は色々な神社があるんだな。
歳神も広く分布してるし。
色々な神を受け入れる地なのかな。 阿波と奈良盆地南部。
神の種類が多いわい。
阿波比刀i口に羊)と同じように、姫の地なのかな。 >>426
九州方面から数多くの神々が流れ込んだからな。 >>428
九州の神々は沼地を求めて流れ込んで来た。 やはりムツゴロウの血が騒ぐのか。 @阿波 秋津遺跡の近くではなく、鴨系の神社は山の中なんだろうな。
理由がよく分からない。 九州から数多くの神々が全国に流れ込んだから
全国に数多くの神々が分布する
だからややこしや〜ややこしや〜 時代がたつにつれ、畿内がオリジナルだと思い込むアホウが出てくる。 大山祇が大山咋に、三島が三島溝咋に何かあるのかな。 やっぱり咋サクだな。
サルタヒコの遺言も、あわさく。
阿波咋じゃないかな。
阿波なんかもろに津波をくらうからな。
阿波も海人と山人の勢力交代があった可能性があるな。 何処も彼処も、海岸沿いは津波でやられ、石神系に乗っ取られた可能性があるな。
海岸沿いの高台、上町台地〜泉北丘陵は生き残ったのかな。 渡来人何て元は少数派だからね。
初めは元々住みにくい場所から住み始めるんだな。洲や水利の悪い台地など。拠点がそういう所になり易いんだろうな。
奈良に都のある大和朝廷、やっぱり先住民系の政権だな。 こっちの方が落ち着くのでお邪魔します。
おそらくスレ主さんは葛城を御所辺りを
想定されてるみたいですが、本来葛城は
もっと広範囲、奈良盆地なら馬見丘陵辺り
まで含みますからね。
やはり最近の私の一押しは大坂山あたり、
山直郷が気になりますね。
何故江戸以前に地名の痕跡が見事に消え
失せたかかなり気になります。 >何故江戸以前に地名の痕跡が見事に消え
>失せたかかなり気になります。
もともと江戸以前には無かった地名を、江戸時代に創作しただけ。 徳川は大阪ではえげつないことしてますよ。
何十もの藩領に分割統治し、住民の連帯感を阻害。
神社の祭神を変更させたりね。
越前や彦根とかでも、色々やってたんじゃないかな。 つまり急に九州説が江戸時代に出てきた事が怪しいという事じゃんw 江戸時代の言っても長いんだぞ。
家康の頃と新井白石の頃を一緒にするなよ。 >>444
そんなことより
いちいち類似スレ
あげんなカス ていうか、444って、
おまえ、不幸なレス番踏んだなw
死相出てるで >>440
工作するならわざわざそんな事する必要はないですよ。
最初から地名を書かなければいいので。
ヤマダへの郷名が消えているのは
平安時代以前ですね。
ちなみに大坂山辺りは鹿島神社とも縁のある
土地です。 葛城は竹内宿邇の集落なんだからな。
古代史では最重要ポイントだろ。 何の根拠だよw
武内宿邇なら蘇我の先祖でもあるから葛城だろ。竹内集落なら
二上山のすぐ真横で縄文時代からの遺跡もある。 武内宿禰は住吉の神とも称され、筑前一宮住吉神社の祭神。
筑後一宮高良大社の祭神である玉垂尊の正体も武内宿禰と言われる。
肥前一宮は争いがあるが、一つは武内とその息子の応神天皇が祭神。
武内宿禰は九州北部、筑紫倭国の王だ。
ただし畿内の天皇家にとっては外戚になるので、記紀では臣下の扱いとなっている。
実態としては、九州生まれの倭国王である応神天皇の実父だよ。 >>449
>武内宿邇なら蘇我の先祖でもあるから葛城だろ。
武内宿邇なら蘇我の先祖が全国唯一祀られている倭国(阿波)だよ。 @阿波 武内宿禰の伝承なら日本各地にありますが、
元々の本拠というと葛城ですよ。
タケノウチという名前からは否定しようが
ないです。
北部九州は勿論半島方面の拠点ですから
足跡を残すのは当然の事ですね。
関係が深い神功皇后の母親も葛城高額姫という
人物ですからね。
私名抄にも高額郷という地名も確認出来ますよ。相撲発祥地の近くです。
これに関してはもっと詳しい話も聞いてます。 神功皇后と仲哀天皇の宮は穴門豊浦宮と筑紫香椎宮。
応神天皇は九州生まれの九州育ち、宗廟は宇佐神宮。
畿内なんぞ関係ない。 失礼、和名抄でした。
大坂について調べて気になったのが、大坂山口神社が二つある事ですね。
隣接して二つというのは元々一つの可能性もあります。
一つの祭神に神大市姫があるのも珍しいでしょう。まぁ石を大坂山から
切出し関係もあるのでしょうか。 天皇家は築紫の王であり、代々阿毎と名乗っていたんじゃないかな。
武内とかじゃないだろ。 >>452
>タケノウチという名前からは否定しようが
ないです。
あほらしくて肯定しようがない 二上山の別名はダケヤマですからね。
地元では春に皆で登るダケノボリという行事もあります。
葛城地方には興味深い名字の方が多いですよ。
アシタカさんにヤスカワさんが多いです。
金剛砂の事業を始めた方です。
ちなみに屯鶴峰から石川に流れる川は飛鳥川
ですが、これは元々安宿(ヤス)川と呼ばれていました。
天のヤスカワの上流の堅い石で、という図式はそのままですね。 >>457
故地である九州の地名をつけただけ。
以上。 場所的には天安河の舞台を穴虫辺りを想定してる可能性は高いですよ。
古市辺りはどう見ても古墳遺跡の密集地で
蘇我の本拠と言われてます。
天安河上流の堅い石、大坂山の石ですね。
大県の鉄工房、ここは弥生中期の最大級鏡が
出土した場所で、金山彦神社も直ぐ近所です。
河内堅上なんて名前もそのまんまですね。
まぁ天照の山、ヒルメ山はその真ん中に
ありますから。
位置的にここしかないですよ。 孝元天皇の時に邪馬台国とクナ国は河内彦中心に和解したが、その後武埴安彦の乱で河内は討伐されているからな。 卑弥呼の時代、二上山辺りは対狗奴国の前線。
河内は狗奴国側。
前線に女王がいるわけない。
邪馬台国側の下っ端が前線を任されていただけ。
邪馬台国側の中心勢力は、纒向、天理、奈良市辺りの奈良盆地東側。 当麻辺りは、内部の勢力争いで出雲に負けただろうに。
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は後の生駒。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 阿波の石神。
奴佳鞮は中臣。 ヤマダエ郷なんて名前があったのはそんな場所なんですよ。
でも地元香芝では詳しい記録は何もないです。
古すぎてね。でも奈良盆地では意外に他の
自治体から意外なヒントが残ってたりします。
でも三輪の元伊勢、桧原神社が真正面に
大坂山がくるのはやはり意識してだと思いますよ。
ミマカキとはやはり上牧辺りに基盤がある
豪族でしょう、のちに彦人皇子の基盤となります。 >>403
高賀茂神社。
古代出雲王国の東西2つの王家の内、西の王家の神門臣家の当主で出雲王国第8代オオナモチ(大王/主王)八千戈命(いわゆる大国主命はこの方(祟る大国主命))と
多岐津媛命(神門臣家の分家で九州の宗像家を創設したカタアタス命の長女。従兄妹の結婚)
の御子、高彦(味耜高彦)と御梶媛命が結婚してうまれた「多岐津彦」が、
先に大和国葛城に移住していた登美家(出雲王国の東の王家、富家の分家。創設した初代は天日方奇日方命(父は出雲王国第8代スクナヒコ(副王の称号)八重波津身命=いわゆる、事代主命/大物主命/少彦/粟島神))
らを頼り大和国の葛城中南部に移住入植。
多岐津彦は高賀茂家を号し、父の高彦(味耜高彦)を高賀茂神社に祀り、氏神と仰いだ。
出雲族の伝承他から、創建は紀元前2世紀頃ではないか? 応神〜仁徳の時に、葛城辺りの勢力が応神側に付くのは、それが遠因だろう。 ミマカキの本拠が元々阿波にあったとは
思いますね。でも天安河はあの辺りを
舞台にしているのは堅いと思います。
ヒルメ山に阿波から人がやってきたのも
その辺りが遠因があるのでしょう。
そうなると更に上流にある葛城山辺りが高天原、なので高天神社もあの場所なんでしょう。 生駒の火の神、聖武天皇の時だったかな、
性懲りもなくまた鳥を討とうしたんだな。
生駒の神の息子が父を討って、その企みを阻止。
以降、生駒の神は大切にされるようになるのだ。 味方の事績までパクるんだな。
基本ヤマトの在来勢力は記紀で神武東征として記述されるヤマト征伐で負けた側。一部寝返った勢力がいるだけだ。
卑弥呼は、年神に倒され姫だけになった、元大山祇の姫と尾張の縄文系の火の神の子だな。
神武の系統や鴨の系統とは何の関係もない。 >>470
>ミマカキの本拠が元々阿波にあったとは
思いますね
どうでもいいけど、すべて倭国(阿波)が本家本元。 @阿波 天照大神を放り出す崇神は、天照大神と何の関係もない。自分の祖先神を放り出す奴はいないからな。
祟りを恐れて、大物主や龍田大社の神を祀ったのを見ると、それらの神々に後ろめたいことをしたんだな。 阿波咋が登場か。
倭国大乱は、阿波国内の出来事と言っていたな。
阿波の石神と倭人の対立か?倭人を倒し、姫たちの集落を乗っ取ったのかな。
阿波に切り出した薄い石板が放置されている神社があったな。何だったかな。 >>474
崇神天皇も倭大國魂神社の鎮座する阿波國美馬群美馬(みま)。 @阿波 >>475
倭国(阿波)乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
こういう痕跡を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 阿波は有力な一族を擁する国というだけで、
邪馬台国そのものではないのは明白です。
何より奈良盆地は東国勢力の最前線でも
ありますからね。
ヤマの地名に囲まれているのはここだけです。
卑弥呼が都とする場所なら畿内のヤマトとなります。これはもう他に解釈しようがない。 「旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土
「旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力 弥生時代集落」
勢合銅鐸出土地
「那賀川流域勢力 弥生時代集落」
若杉山遺跡・福寺山遺跡 美馬辺りは石、岩関係の神社が多いな。
寂れているが。
岩師、イワシと関係あるのかな。 >>479
七万戸なんてとても無理だな。
というよりここ葛城スレだよ、スレ違い。 >>480
>何より奈良盆地は東国勢力の最前線でも
ありますからね。
湿地帯の奈良盆地に邪馬台国のような文化が発展する訳がない。
事実、これといった集落群が皆無である。 @阿波 >>484
本気で言ってるなら頭の病気ですw
水田跡だけでも奈良盆地がデカイのに。 >>483
妄想の花はよく咲かせるけど、痕跡が伴わない無駄花説。 @阿波 >>485
だから、水田跡がどうかするの? 奈良盆地に大規模弥生集落群あるの? @阿波 弥生中期以降は鍵唐古を初めとして奈良盆地に
集落群は多数存在してますが。
葛城地方は現在でも大水田跡を持つと言われてますし、橿原辺り、藤原京したにも
弥生遺跡の可能性も出てきました。
勿論河内平野や丘陵地にも沢山存在します。
考古学の常識位はきちんと認識して欲しいですね、荒らし目的なら以下阿波さんにレスは止めときます。 >>487
ないとでも?
もしかしてバカ?やっぱりw
水田跡は誰が作るんだww >>488
>藤原京したにも弥生遺跡の可能性も出てきました。
藤原京の下の遺跡は、阿波から遷都する前に居住させていた、半島人の住居跡ですよ。 @阿波 >>489
>水田跡は誰が作るんだww
倭国(阿波)から進出した、忌部一族が作ったんだけど、なにか? @阿波 つまり邪馬台国を奈良で作ったんやな。
めでたしめでたし、判ったらさっさと消えろ。 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
奥山、オクヤマツミ、秋津。 鴨かな。
鹿、鹿島の鹿、関東の先住民、中臣の守り神。
鹿が鳥の味方になり、オクヤマツミの勢力は負け秋が来た。悲しいなぁ。 >>488
>勿論河内平野や丘陵地にも沢山存在します。
ポツポツとね。 大規模弥生集落群は存在しないでしょ。 沼地が発展する訳ないですから。 @阿波 私は百襲姫の母親、オオヤマトクニアレヒメが阿波の出という説です。
なのでヤマトの母体になったという
ところですね。
なので邪馬台国は畿内説です。
これで百襲姫がヤマトから瀬戸内海へ進出出来たのも説明できます。
百襲姫の出生地は広陵町辺りですね。
保津、宮古辺り。名前のとおりです。 >>493
>つまり邪馬台国を奈良で作ったんやな。
作りたくても湿地では田んぼぐらいで、邪馬台国など作れたもんじゃないんですよ。
まして、弥生の大洪水で田んぼは壊滅。 @阿波 >>496
百襲姫の父親孝霊天皇も当然、倭国(阿波)ですよ。
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。 邪馬台国はヤマト国。単なる地名。
大和朝廷の始まり。
奈良に都のある大和朝廷は、先住民系の政権。 >>498
倭国(阿波)には、妄想じゃなくて痕跡があるんですよ。 現状阿波には鍵唐古以上の集落なんてないのだが。
その周囲にも多や大福、宮古等弥生遺跡が連なっていて
規模とすれば阿波なんて比較にならんのだけどな。
四国なら高知の方が規模はでかい。 聖徳太子と言えば、隋書倭国伝の記述が興味深い。
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
興味深いのは号。
大君の聞き間違いとされているが。
阿輩は普通に阿波、淡、嗚呼、烏のことじゃないかな。
阿波君かもしれないね。 何が かもしれないね やねんアホが
いちいちあげんな
ヤマタイスレ 並べんな 姫系は征服され、生き残る為の選択の結果の場合もあるからな。
一概に色付けできないな。
武内宿禰とかヤマトタケルとか難しいな。 >>485
>>>484
>本気で言ってるなら頭の病気ですw
>水田跡だけでも奈良盆地がデカイのに。
はあ?
何妄想こいてんの? 秋津遺跡は弥生前期だから、邪馬台国は関係ない。
卑弥呼の時代には耕作されていない。 古墳時代前期には巨大な祭祀設備や住居跡も確認されてるけどな。
単に掘った場所がそうだっただけで、弥生前期には北部九州と
あまり変わらない場所だったという事。
近くから鏡も銅鐸と一緒に埋められてたし。 >>502
>現状阿波には鍵唐古以上の集落なんてないのだが。
無知の恥さらし。 途中で消滅してしまう環濠集落ごときに言われる筋合いはない。
もっとも、鍵唐古遺跡も倭国(阿波)から拓殖のため、進出した忌部一族なのだが。 @阿波 >>508
>卑弥呼の時代には耕作されていない。
秋津遺跡は弥生前期の大洪水で壊滅したんですよ。 @阿波 鍵唐古は途中消滅なんてしてないのだが。
本当に脳内だけで歴史作ってるな。
まぁだからアワアワ言ってるんだろうがw >>513
>鍵唐古は途中消滅なんてしてないのだが。
無知の恥さらし。 本当に脳内だけで歴史作ってるな。 @阿波 コピペ大好き、おうむ返しする、知識があまりない男といえば、
畿内スレ荒らしてるあいつと同一視せざるを得ないのだがw >>515
それ、「負け犬の遠吠え」ってやつ? 根拠を提示してから反論しましょう。 @阿波 鍵唐古遺跡は水害出やられてもすぐ環壕掘って大きくなるの繰り返し。
隣に巻向が出来た以降も存続して古墳時代まで成立してるのにな。
しかも巻向自体が鍵唐古と大して離れていない距離だし。
無知にもほどがある。 >>517
>隣に巻向が出来た以降も存続して古墳時代まで成立してるのにな。
だから、古墳時代に消滅してるでしょ? 素直に認めなさい。
途中で消滅するような遺跡では、お話になりません。 無知にもほどがある。 @阿波 >>516
まさにお前のことじゃん、アワアワと負け犬の遠吠えw
鍵唐古は教科書にも載る代表的弥生時代の大集落として認知済み。 >>518
盆地南部の飛鳥に王都が出来て移っただけだが。
その後歴史から埋もれるのが阿波だろw
ボケてるのか? >>519
だから、途中で消滅するような遺跡では、お話になりません。
阿波の遺跡を見習いなさい。 @阿波 >>520
>盆地南部の飛鳥に王都が出来て移っただけだが。
根拠まったく無し。 飛鳥の王都も痕跡なし。 @阿波 スゲーな、阿波男。
飛鳥時代まで無しとか日本史全否定。
やっぱり日本人じゃないだろw
そもそも弥生から古墳時代でも阿波に都の痕跡なんて皆無なんだが。 唐古・鍵遺跡の勢力は継承されずに、他の勢力が九州から来て征服されたんだよ。 >>523
>スゲーな、阿波男。
>飛鳥時代まで無しとか日本史全否定。
今までの古代史を真っ向から否定できるのは、痕跡の残る阿波だからこそ。
間違った古代史に胡坐をかいているのが畿内説・九州説。 @阿波 つまり奈良盆地が都として相応しいから集まってきただけの事。
各地の土器等が集まる遺跡でもそれは証明済みだし。
神武天皇もヤマトタケルもヤマトがいいと言ってるぞw
少なくとも昔から日本の歴史書ではそうなってるはずだが。 >>525
自分が日本人じゃない事は否定しないんだなw
なら基地害染みた書き込み納得したわ。 >>526
>各地の土器等が集まる遺跡でもそれは証明済みだし。
奈良盆地は倭国(阿波)を発った豪族たちの墓造りの前線基地。 各地の土器があるのもその為。 @阿波 >>526
はみ出し者の吹き溜まりだよ。
神武は伊都の倭国大乱ではじき出されて、親戚筋の饒速日を頼って落ち延びた。
あと、ヤマトタケルのヤマトは九州北部のヤマト(倭)のこと。 >>523
徳島の山奥に忌部の本拠地がある
天皇が居たのは間違いないだろう
邪馬台国はわからないが 急に賑やかになってますが、百襲姫が阿波の黒田の生まれ云々の話には反論がありますね。
伝承ではヤマトから西へ海に出てまず淡路島にたどり着くとあります。
そこは母親の故地でもあるので、方角や理由も成立しています。
基本的に淡路島に母親の基盤があるので、その辺りが混同されている理由でしょう。 当り前、ヤマト→紀伊、紀伊の目と鼻の先が淡路島、
紀伊→淡路島→阿波、阿波で兵を整えて、讃岐征伐だよ。
綺麗事を並べるな。
やられた側に必要なのは事実だけ。
讃岐を征伐して、次に岡山だな。
岡山は元々邪馬台国側だったが、やり方が残酷過ぎて嫌気がさし、手を引いたのだ。 大阪や奈良の救世主は、応神さん仁徳さん住吉さんなんですよ。
鹿島の鹿さんは大恩人。
伊吹山〜敦賀の鶴さんも大恩人なんですね。 ヤマトの地もね、大半は皆尾張などにやられたんですよ。
やられた側に必要なのは事実。
ナガスネヒコ、兄磯城、ヤソタケル、
綺麗事では、やられた側は浮かばれないんだな。
倭国大乱までは、尾張以東や山陰を除くと皆仲良く暮らしてたんです。
縄文系の人々、様々なルーツの渡来人。
奈良と大阪も上手くやってたんだね。
元は奈良も狗奴国の一員だからね。 まぁ原点に帰って葛城地方が倭人伝に描かれた
邪馬台国か否かと問われれば、邪馬台国の
エリアにあるとする立場ですね。
卑弥呼が生れたて都とする国ならば、という
意味で。
イクメにミマショウ、ミマカキにナカテとなると舞台はやはり矢田丘陵から葛城にかけてです。
皆ヤマの付く地名が和名抄にも集中して残っています。 卑弥呼の時代も含め、初期大和朝廷の中心は、出雲と尾張伊勢だよ。
彼らを軽視したらあかん。恐ろしいぞ。
初期大和朝廷の中心は、大和盆地東側。
西側は対狗奴国の前線基地。 >>537
>まぁ原点に帰って葛城地方が倭人伝に描かれた
>邪馬台国か否かと問われれば、邪馬台国の
>エリアにあるとする立場ですね。
全く根拠なし。
むしろ魏志倭人伝の記述と関係ない集団が畿内にいただけ。 奈良盆地は東国勢力の最前線。
だから中臣氏の基盤が大坂山にもある訳です。
タケミカヅチ降臨した場所で、後に鹿島神社が
香芝にある由来です。 >>541
嘘をつくなよ。
東国とか言ったら、関東かと誤解するだろ。
奈良盆地の外来系勢力は東は尾張辺りだよ。 >>541
魏志倭人伝において少なくとも九州北部を支配していたことが明らかな倭国とは関係ないじゃん。 >>541
時系列、時代経過を敢えて無視して、ここを見ている人を煙に巻くのはやめて貰おう。
君は昔から言うことがコロコロ変わり、嘘ばかり。 タケミカヅチって、船で出雲に攻め込んだ人物。
追われたタケミナカタが諏訪に逃げ込んだ。
タケミカヅチが関東甲信越にいたなら、そんな逃げ方をするはずがない。
鹿島香取の成立は4〜5世紀と見られているしね。
古代の東国は、埼玉県の鷲尾宮まで出雲の勢力範囲。 タケミカヅチも中身がコロコロ変わるんだな。
2世紀末ヤマト征伐の時は、瀬戸内海の勢力。
古事記に書いてあるタケミカヅチはオオタタネコの子。
4世紀には、事代主系に乗っ取られている。
吉備津彦による讃岐岡山退治の結果だな。内部対立。
記紀神話は時系列が滅茶苦茶で数百年前後する話もある。
出雲に国譲りを迫るのは、五世紀。応神仁徳で事代主系統を倒し、タケミカヅチが中臣に乗っ取られた後だよ。 出雲の国譲りを受けて筑紫伊都が倭国の都になるんだよ。
タケミカヅチは1世紀の人物。
オオタタネコのタケミカヅチは別人だよ。 >>546
だから鹿島の鹿は藤原氏の守り神なんだな。
鹿島の縄文系の人々を征伐した中身が事代主系統のタケミカヅチを、中臣氏が鹿島の縄文系の人々と手を結び倒したんだな。
敵の敵は味方。 つまりイクメが生駒、ミマカキが牧、ヌカテが香芝辺りに基盤のある人物の名前が倭人伝には揃ってますね。
しかも和名抄時代まで、国や郷名ではその辺りの地名にヤマ残ってしまっています。
私は推測ではなく実際足を運んで関係各所にも
聞いて回ってますから。
時系列では一番記録の古い物を資料元にしてますのであしからず。
奈良盆地が東国勢力の最前線というのは、橿原から遮光式土偶の欠片が出土している点からも
伺えると思いますね。 >>544
言いがかりは止めてください。
私の言うことは一貫して邪馬台国は畿内わ河内湖周辺説で一切変わってませんが。
狗奴国の解釈は色々ですが基本的には九州南部から四国という説です。 孝霊厨さんは、紀ノ川沿いから話を逸らそうとして適当なことばかり言っている。
先ずはヤマト盆地への進入経路の紀ノ川沿いの歴史を明らかにしないとな。 >>551
反論するにも根拠が必要ですよ。
根拠は和名抄の地名ですね、少なくとも現代の地名を元にする以上の根拠にはなります。 >>550
>奈良盆地が東国勢力の最前線というのは、橿原から遮光式土偶の欠片が出土している点からも
>伺えると思いますね。
じゃあ、西国の邪馬台国とは関係ないじゃん。 考古学的には、畿内大和は瀬戸内海より西とはあまり関係ないと言うこと。
それは魏志倭人伝の世界と隔絶があることでもある。 >>553
ちなみに私の母方は橋本から高野山辺りの
一族ですけどね。
別に反らすつもりもないし、語りだしたら
本十冊文位の資料はありますよ。 九州南部も阿波も紀伊も女王国の構成国だよ。
ヤマト征伐に加担したエリア。
九州南部投馬国のイワレヒコ。卑弥呼を共立した国。
魏志倭人伝当時のクナ国ではない。
倭国大乱前はまた別の話だよ。
クナ国とはクニ、倭国そのもの。
天岩戸の向こう側の尾張と出雲などの山陰を除く西日本は、倭国。
クナ国だけどね。
倭国大乱で、クナ国の中枢を裏切ったんだよ。
紀伊、阿波、九州南部。原因は南海トラフ地震により海人が大ダメージを受け各地で山の民石神と勢力交代がおきたからだな。 倭国、クナ国は元々首長連合。
魏志倭人伝当時、大半は女王国側に付いたり征伐されたりでクナ国は小さくなっている。難波も淡路島も落とされた。
魏志倭人伝当時は、河内と和泉だけ。中の国しか残っていない。
厳密に言えば、伊吹山の荒ぶる神(若狭〜伊吹山)はまだクナ国側として最後まで闘ってくれている。 >>558
少なくとも対馬海峡や伊都国、奴国は支配下なんでしょ? 倭国大乱から4世紀の国の境界線まで確定出来る資料はさすがにないですからね。
でも確実に変動しているでしょう。
以前にも主張しましたが、台与を擁立したのは
狗奴勢力かもしれません。
これは完全に推測ですが。 >>561
その地域の話がまったく魏志倭人伝に出てこない。
それらの歴史を否定するわけではないが、九州北部のことばかり詳しく書いた魏志倭人伝に出てくる邪馬台国とは関係ないね。 壹與を共立したのは、卑弥呼の出自であり狗奴国の本家でもある肥国王家だよ。 台与は豊受大神に準えるからな。
恐らく大山咋の姫系と丹後半島のホアカリ系の間の姫だな。
台与の時に卑弥弓呼が亡くなり、河内彦は女王国側と和睦だな。
泉北丘陵和泉は捨て駒にされたんだな。 >>564
倭人伝に邪馬台国の情報なんて僅かしかない。
九州説の大半が倭人伝を邪馬台国伝と勘違いしてるだけ。 伊都平原の卑弥呼の死後に肥後狗奴国と邪馬台国は一つになったが、騒乱は続き、肥前河上の壹與(淀姫)が再び共立されたんだよ。 倭人伝に畿内の情報なんてない。
倭人伝に書かれた邪馬台国は九州北部。 九州だと思う人は該当スレへ行ってね。
九州説が信用されないのはそういう部分ですよ。 九州の歴史を剽窃して畿内の歴史を語るなよ。
邪馬台国と関係なく葛城王朝の歴史でも論じていれば、誰も口出ししないよ。
邪馬台国を巻き込むな。 >>550
孝霊厨は元気だったんだな
橿原から遮光器土偶てか、無脳児土偶とな >>571
事実やけんしょうがなかやろ
おまえは罰として徐福について述べよ >>572
それは韓国が日本や外国に慰安婦像を立て
まくるのと同じだと理解してる? >>577
畿内説がやっていることが、韓国がなんでも自国が起源と言い張っているのと同じだと思っている。 どうでもいいがおまえらageてくれよな。
わしの>>1ができるだけ多くの人の目に留まるようにな。 四天王寺も謎が多いわい。
今の石の鳥居は鎌倉時代だが、それ以前は木造の鳥居が創建当時からあったらしい。
元々は四天王寺ではなく、天皇寺とかという話もある。
聖徳太子謎が深いわい。 >>573
葛城や橿原周辺はやっぱりまだまだ何が出てくるか
わからないと思いますよ。
聖徳太子というと飛鳥や法隆寺の印象が強いですが、本来は二上山周辺、片岡辺りでの逸話も
多いですからね。
謎の多い彦人皇子の存在もこの辺りが基盤です。皇祖とされてるのに聖徳太子が目立つと
急に存在が消えてしまいます。 倭国本来の王の有り様は、二大勢力の同盟なんだな。
これが原型。
サルタヒコは出雲の王族の姫神と倭人の王クナトの神の子。定義みたいなものだ。
サルタヒコの子はサルタヒコになれないんだな。
淡の国の王クナトの神と姫の国(木の国)の王族大山祇の姫の子が、アマテラス。
アマテラスの子はアマテラスになれないのだ。
こういう有り様が、いつまで続いていたかだな。 あくまで、仮説。
聖徳太子の父が倭国王なら、本来なら聖徳太子は倭国王にはなれないんだな。
聖徳太子は倭国王のシステムを止めて、別のシステムを作ろうとしたんじゃないかな。
天皇とか。
倭国じゃなくて日本とか。
親子で継げるように。
蘇我氏が焚書したせいで詳細不明だが。
そのせいで天皇という呼称や日本の始まりの時期も、ズレて認識されている可能性がある。 ただ太子が摂政で実権、叔母が推古天皇というのは復古政治そのものだからな。
弟が政治、卑弥呼が巫女王という図式そのまま。推古天皇が亡くなる時は蝕の後というのも
意味深だしね。 天智天皇→大友皇子の時に壬申の乱だろう。
同じことの繰り返しだな。
天武天皇は、大津皇子の辞世の句を見ると、イワレ系だろうな。初のイワレ系かもしれない。 四天王寺、創建当時から木造の鳥居があったらしい。
本来の名は、天皇寺という説もある。
聖徳太子は日本を生み出し、初代天皇だったかもしれないな。 >>588
実は、その聖徳太子も倭国(阿波)の人物なのである。
厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇) ・中大兄皇子(後の天智天皇)
・大海人王子(後の天武天皇)など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。
それは取りも直さず、道後温泉が倭国王都(阿波)と同じ四国に在り、湯治場として近かったからに他ならない。 @阿波 >>589
お前の書き込みは阿波のイメージダウンだから止めろ。
どうせお前が州説なのはバレてるから。 >>591
>どうせお前が州説
州説ってなに? もしかして九州説のこと? 勘弁してください。 @阿波 ヒミコの郷は葛城
物部の郷は纏向
これガチだからな。 >>596
>阿波説なら阿波スレでどうぞ。
九州説や纏向説では相手にならないでしょ、最強葛城説には。 だから、阿波説が相手している訳なんですよ。 @阿波 【年已長大 無夫壻】
これだけでヒミコを生涯独身などと決め付けてる硬直化した論者がいる。
「歳すでに長大 夫はいない」なのでこれには寡婦も含まれる。
生涯独身も寡婦も両方ありで考えればいいのに、生涯独身の巫女と決め付けてる論者がいる。
もちろんヒミコに子供がいたかいないかも分からないのだから、
「いた」「いない」の両方で考えれば良いのに、「いない」と決めつけて考える。
そしてヒミコは記紀に登場しないと決めつけてくる。
7世紀の朝廷はヒミコが誰なのか分っていたから古代天皇の年齢を大きくずらして潤色したわけで、
逆説的だがヒミコは記紀に登場するわけだ。
まぁ一人しかいないわけだが。
3億円事件は終始「単独犯」と決め付けて捜査したから結局迷宮入りした。
あれを単独犯と複数犯の両方ありで捜査してたら犯人を逮捕できたかもしれない。
大戦末期も通常攻撃で米戦艦(空母?)を沈めてるのにも関わらず、
特攻!特攻!と硬直化したせいで何人の若者が死んだのだろうか。
日本人は優秀だが生真面目過ぎて時に思考が硬直化するという欠点がある。
邪馬台国論争はその最たるもの。 >>597
九州説と同レベル、というより成り済ましバレてるからなw >>601
>成り済ましバレてるからなw
何をもって「成り済まし」だと? 何のために? @阿波 書き込み内容や煽り方が全く同じじゃんw
基本的に九州が大和の雛型、
それを阿波が大和の雛型にと。
それを畿内説スレでやってる時点でバレてるわ。あからさまでレベルが低すぎる。 >>603
>書き込み内容や煽り方が全く同じじゃんw
被害妄想で相手が同じに見えるだね。 もうちょっと冷静に観察を! @阿波 >>604
ここだけは全く同意する。
最近の畿内説は被害妄想がひどいな。 >>605
被害妄想もなにも、現実に阿波とか九州に
関係ないスレ荒らしてる自覚すらないのかと。 >>604
疑われてる時点でダメだろう。
そもそも目的は同じなんだし。 >>606
九州説や纏向説では相手にならないでしょ、最強葛城説には。 だから、阿波説が相手している訳なんですよ。 @阿波 >>609
>阿波の奈良盆地の拠点は何処?
8世紀の藤原京。 @阿波 卑弥呼より500年も後かよ。
畿内説よりまだひどい。 >>611
>卑弥呼より500年も後かよ。
倭国(阿波)から大和へ遷都したのが8世紀なんだから。
>畿内説よりまだひどい。
どういう意味? @阿波 ヒミコに直結する唯一の遺物、和邇氏の東大寺山古墳出土「中平銘鉄刀」の入手経路。
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は女である。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。
古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。
石である事代主系が、山陰や瀬戸内海の大海神を倒し、姫系を奪った。
タケミカヅチ、八雷神となった事代主系は、
神功皇后の勢力に敗れるというストーリーが見えてくる。 訂正
牛鬼は磯女と現れるとあるのが多いな。
磯女の抱く子は石。
久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。
百襲姫と大物主神の箸墓伝説。
牛鬼が海神の姫である磯女を娶る話じゃないかな。
牛鬼は石であり蛇ということになるな。 >>616
2世紀末から4世紀までで、ヒミコ以外に誰が貰えたのか、その根拠を言え。 >>620
それがなぜ和邇氏の墳墓にあるの?
だいたい4世紀後半頃に中国との通行はあるのか?
空白の4世紀なのだが。 4世紀後半頃の大王が仿製刀の「中平銘鉄刀」とともに埋葬された >>624
4世紀後半頃の大王墓は佐紀盾列から河内。
東大寺山古墳の和邇氏は大王ではない。
ではなぜ和邇氏の墓から卑弥呼の刀出たのかが大きな謎。
和邇氏と卑弥呼は繋がる。
なぜなら和邇氏は魏志倭人伝の台与から始まるからだ。
トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
【安那氏祖】 【春日氏祖】 【猪甘氏祖】
【真野氏祖】
【壬生氏祖】
そしてトヨとヒミコはこう繋がる
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>625
それ、みんな阿波の忌部一族ですよ。 当然、葛城にも忌部が進出しています。 @阿波 >>628
いるじゃないか。
バカには見えないのだよw >>49
タケノコ、、、猛/竹、武、建、、、タケを氏の尊称に用いた氏族の末裔(=子)
、、、五十猛/天香語山を祖とする初期大和大王家(海部王家)並びに縁戚。
、、、海部/尾張氏流 >>631
タケノコ海部氏族は日本海側の開拓者であって、畿内の枠組みで捉えるべきではない。
古代の日本海は、筑紫や出雲など列強が並ぶ交易の中心であった。 >>628
豊国の女王でいわゆる崇神(イザナギ、スサノオ、)の后(崇神が南(都万国)から攻めて来て仕方なく政略結婚した)と成った
豊国の豊玉姫命が魏の使節を引き留め騙して大倭国女王を潜称。
まんまと口車に乗せられた魏の使節らから例の物を下賜して、魏史にヒミコと記載された。
崇神の畿内を攻略平定する遺志を継いで出師するも、
豊玉姫命(ヒミコ)安芸の宮島で天命が尽き崩御。
宮島に埋葬される。
後に遺骸は宇佐族の霊廟(宇佐神宮)の二の御殿に奉られた(姫大神)
女王ヒミコ/豊玉姫はその死に際して娘の豊(台与)姫に魏から下賜された玉帯や御幡を手渡して後事を託した? 畿内を除く、九州と瀬戸内海なと西日本で話が完結している。
畿内なんていらなかったんだ。 >>633
>豊国の豊玉姫命が魏の使節を引き留め騙して大倭国女王を潜称。
>まんまと口車に乗せられた魏の使節らから例の物を下賜して、魏史にヒミコと記載された。
脳内小説はやめてくれないか? ようするに魏志倭人伝の邪馬台国は九州北部なんでしょ? >>626
女系の系図があれば素敵なアイデア浮かぶかもなー(つまどいこん 朝貢年
266 年 台与 トヨ津
・
238 年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107 年 倭国王・帥升 スサノオ
邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この屈辱的な史実を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代を BC660 年と大きく古くずらし潤色した。
その結果 100 歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で、
男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、
女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
そういう事だ、あぁわしは天才。 >>639
成りすましするなボケ。
おまえ、アホの古田説者だろうが。
情けないのう。 >>639
ていうか、自分のスレ以外でも1なのかよ。 >>642
>北部九州はどうみても伊都だが。
北部九州はどうみても末羅国(福津市辺り)、伊都国(直方辺り)、奴国(田川辺り)、不弥国(築上町辺り)だが。 @阿波
伊都国 >>638
>この屈辱的な史実を日本書紀は書けなかった。
朝貢の記事は何度も書かれているだろ。
>そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
何でそんなことをする意味ある? >>642
まあ、遺跡の内容から考えると、倭国の中心は九州北部、そな中でも都は伊都でしょうね。 >>644
>朝貢の記事は何度も書かれているだろ。
卑弥呼や台与の使者を立てての朝貢と、
神(スサノオ)の海を渡っての土下座は全然意味が違う。
おまえは感性が低い。
>>そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
>何でそんなことをする意味ある?
高天原は御所市高天。
ここにスサノオこと古事記の最高神・迦毛大御神も、
シタテルヒメこと天照大御神もいた。
つまり大和朝廷はその初元段階から朝貢してた事になる。
だからアマテラスやスサノオの場所(高天原)を隠した。 御所市高天の高鴨神は、阿波国加茂の「鴨神社」からの勧請である。 頭が高い。 @阿波
「阿遅志貴高日子根神」は、大国主命と、須佐之男命の娘・多紀理毘売命との間に生まれた長男。 「迦毛大御神」とまで呼ばれた実力者である。
阿波国三加茂町加茂山の高い尾根上に占地する「丹田古墳」は「阿遅志貴高日子根神」の神陵。
その麓に鎮座する式内社「鴨神社」はその拝所。
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神
「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」とある。 @阿波 陰謀論を盾に、どこにも書いてないことを妄想して捏造している。 出雲王国第八代大穴持(オオナモチ/帝王)。八千戈命。(出雲王国の西の王家、神門臣家の当主)が概ねキキ神話の大国主命/大己貴命。
従姉?の宗像家(神門臣のカタアタス命(八千戈命の叔父)が分家独立。宇佐に都した。) の
2女、多岐都媛命(亦名、神屋楯姫命。亦云、「高津姫命」)が嫁ぎ、高彦(亦云、味耜高彦)と神度(神門)美良姫(、、、事代主命こと、八重波津身命の御子、天日方奇日方命(葛城の登美家初代/大鴨王)の后)を産む。
(どこで、多岐都媛を多宜都媛命と表記すると、キキ神話の大宜都媛命と字儀が同じ?) 「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。 @阿波 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。 @阿波 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 >>650
多岐都姫は婚姻相手がたくさん伝わっているような気がする。
天日方奇日方が出てくるのもやや唐突か。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身命)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方、鴨主)である。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになるが、婚姻相手が事代主という説とニギハヤヒという説があることになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>655
>この家系には別の伝承がある。
妄想や伝承じゃなくて、「阿波志」や「神道五部書」のような文書はないのかね? @阿波 熨斗鮑を作って、罪を噛みしめる役割を忘れたのだろうか? 何度も書くぞ。
これが卑弥呼唯一の物証、東大寺山古墳出土「国宝」中平銘鉄刀の流れから見るヒミコ・トヨの王統譜。
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>655
>その祖は博多の王である大山祇の子であり
いや博多のラーメン屋とは関係ないし。 イスケヨリ姫の母方の祖父が三島溝杙(賀茂建角身、陶津耳)、曽祖父は志賀島の大山祇。
イスケヨリ姫の父方の祖父が出雲の大国主。
イスケヨリ姫と神武の子孫が天皇家。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身命)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方、鴨主)である。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになるが、婚姻相手が事代主という説とニギハヤヒという説があることになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
BYJL2 若草山の鶯塚古墳。
昔は牛塚と呼ばれていたらしい。
誰の墓なのか?かなり歴史上重要な気がする。 >>664
>いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる
あくまで出雲であって筑紫は関係ない。
豚骨野郎は黙っててくれないか。 >>669
いや博多は関係がない。
水炊き野郎は黙っててくれ。 「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」とある。
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神
「郷社 下加茂神社」
鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2
御祭神 玉依姫命
※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。 @阿波 >>670
まともに反論してみせろ。
そもそも鴨王が王と名乗るのには理由があり、先祖がちゃんと名のある王だったから。
大国主と大山祇だ。 >>661
>何度も書くぞ。
何度書いてもいいけどさ、子孫は書くけど先祖は事代主しか書かないのは何故? 横 か ら ス マ ン
2 ちゃん と
5 ちゃん の
違いおしえてくれーーーーーーーーーーーーー >>672
>大国主と大山祇だ
だからなんでそれが博多なんだ?
モツ鍋野郎は少し黙ろうか。 やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ 邪馬台国論争はほぼ終了。
卑弥呼に直結する唯一の物証、中平銘鉄刀(国宝)が天理の和邇氏の東大寺山古墳から出た。
2世紀前半の其国の男王からヒミコ・トヨまでの王権と和邇氏は繋がるか。
繋がるのだ。
なぜなら和邇氏はトヨの末裔だからだ。
トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) ヒミコからトヨそして和邇氏の系図はこうだ。
イワレヒコ(神武)なる男は単なる女王の婿であったことが分かる。
だから複数の妃を持っていなかったのだ。
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>681
末裔だけ載せて、その前の系譜がことごとく筑紫か出雲につながることを無視した詐欺。 女王国は霧島山西部
https://i.imgur.com/Uks4WiX.jpg
種子島が侏儒国であると比定される動きが、一部に出ている。
これは、種子島から発掘 された弥生期から古墳時代にかけての人骨の調査結果で、
「極端な」短頭、低頭、低 身長特徴を持ち、魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致していると の見解による。
この特徴は同時期の人骨が発見されている沖縄や九州、
本州などには 見られない特徴で「小人並」の成人の人骨は種子島だけにしか見られないとのことである。 10.崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖尊)―壹與(御間城姫)
11.垂仁天皇(忍穂耳尊)―御真津比売命(栲幡千千姫)
12.景行天皇(瓊瓊杵尊)―日葉酢媛(木花咲耶姫)
13.成務天皇(彦火火出見尊)―弟財郎女(豊玉姫)
14.仲哀天皇(??草葺不合尊)―神功皇后(玉依姫)
15.応神天皇(神倭伊波礼毘古尊)
https://ameblo.jp/umn-321/image-12349682573-14124525246.html
神武東征の橿原建国(紀元前660年春)⇒ 応神東征の橿原即位(西暦431年秋) 卑弥呼(天照大御神)の子孫である神代三代は鹿児島近辺に陵墓がある >>683
>末裔だけ載せて、その前の系譜がことごとく筑紫か出雲につながることを無視した詐欺。
スサノオ(帥升) アマテラス 107年
・ オシホミミ
・ ニニギ
・ ホオリ
事代主 フキアエズ
@奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴ー神武 200年頃
A建飯勝 綏靖 220年頃
B建甕尻 安寧 240年頃
C豊御気主 トヨ津ー懿徳 孝昭 260年頃
D大御気主 孝安 孝霊 280年頃
E阿田賀田須 孝元 開化 300年頃
崇神(ハツクニシラス) 318年没
@からEまでが大物主である。
筑紫なんて関係ないのでしゃしゃり出ないでくれ。 >>688
姫多々良五十鈴姫の祖父(2人)と、さらにその父親の名前と出身を挙げよ。 >>689
上げて>>1をできるだけ多くの人の目に留まらせようとしてるのでどんどん上げてくれ。
>>690
先代旧事本紀では父方の祖父は大己貴神のようだがそこらあたりは微妙だ。
どちらにしても帥升=スサノオは確かであろう。
母方の祖父は三嶋溝杭で間違い。
銅鐸で有名な大阪府茨木市の東奈良遺跡近辺がその居住地。 訂正
× 三嶋溝杭で間違い
〇 三嶋溝杭で間違いない あげwww
>>695
質問してきたのおまえだろ。
お前が調べろ、ボケ。 だから、大山祇なんだってば。
調べて教えても信じないから、自分で調べたら、と言ってあげたのにw
まあ、その大山祇がどこの人間かというと、四国だとか九州だとか百済だとか、いろいろ意見があるみたいだけどな。
でも、一般に有名なのは志賀島の綿津見として祭られる大山祇だ。 三島溝杭の父が大山祇で志賀島ってか?
なんでもかんでも福岡に持って行こうとする明太子野郎は黙っててくれ。
一般に有名なのは四国の大山祇神社や静岡の三嶋大社だな。
三島溝杭ゆかりの大阪府茨木市にも三島という地名がある。
あと太田という銅鐸に関係する鴨族の地名もある。 なぜ福岡が出てくるんだ、
菅原道真〜〜〜の話?
そういうイメージがあるとか 天神何やら〜?というのを広めようとした・・・・、
そういう偽書があって・・・
とある時代になり・・・・・広まったと言っている人がいたり
調べてみる(ググる)と出て来たでしょ?
どの天神のことなのかは、わからないけど サルタというスレッド
天津、国津・・・・三貴子などの話 ヒミコもトヨもいる2世紀末から4世紀の系図
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
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建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg >>703
>鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
今で言えば皇居に武器はないよね?
それと同じ。
鉄鏃のような武器は福岡や瀬戸内の防人さんたちが持つもの。 >>704
>鉄鏃のような武器は福岡や瀬戸内の防人さんたちが持つもの。
これも、九州説の丹山とおなじレベルですね。 無理が過ぎますね。 @阿波 >>705
いやいや九州〜瀬戸内の防人さんたちが高貴な奈良の人たちを守ってたわけですからw
彼らは防人はモノノフと呼ばれます。 九州〜瀬戸内の防人さんでは、いざという時、間にくそ合わんじゃろ。
東国から攻められたらどうすんねん? 畿内、特に奈良盆地ばガラガラで、どちらかというとただの過疎地。
鉄器以外の生活用品や建物跡も乏しい。 鴨王らの歴史には、畿内勢力の成立の経緯が書かれているんだよ。
畿内説の連中は、畿内に有力勢力がいたと言うけれど、彼らの名前や出自は語らない。
その名前も出自もちゃんと記録に残っているのにね。
筑紫や出雲から入植したことが明白なんだよ。
そりゃまあ、何もない空間や木の股から人間が生まれるわけはないから、どこからか来たのには違いない。
そして、それは西から来たとはっきり記録されている。 >>708
大型建物が纏向遺跡から出てる。
卑弥呼の宮殿説もあるが、わしは物部の邸宅跡だと思っている。 あんた、話がわかるじゃないか。
卑弥呼を持ち出さなければいいやつなんだが。 >>710
>大型建物が纏向遺跡から出てる。
大型建物なんて他にも有りますよ。 特別なことではありません。 @阿波 >>709
>畿内に有力勢力がいたと言うけれど、彼らの名前や出自は語らない。
>その名前も出自もちゃんと記録に残っているのにね。
わしは語ってるけどね。
物部は磯城にいた、
鴨は葛城にいたと。
九州なんて豪族の名前すら語れないではないか。 10代崇神天皇は纏向に宮を構えた。
それ以前、特に6代孝安天皇以前は葛城である。
だから卑弥呼がいたのは葛城である。
何も難しい事はない。
しかし我々は「天皇」という名称にだまされてしまう。
「天皇」という名称は7世紀に出来た。
卑弥呼の時代に「天皇」という名称はない。
だから崇神以前の女性から普通にヒミコとトヨを探せばいい。
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
はい、邪馬台国論争終了。
長い間、ご苦労様でした。
発見者はわしだからね、邪魔しないでね。 阿波國美馬町は、吉野川中流域にあり「倭大国魂、倭大国敷両神宮」が鎮座する「倭地」である。
「所知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)」は「崇神天皇」のことで、
美万岐に入り込んで美万岐に居を定め、「師木水垣宮」を宮殿にしたと伝えられている。
この「師木水垣宮」の御宇に疫病がはやり、多くの人民が死ぬという大変な出来事が起こっている。
大国主命に近い埴夜須比賣命の一族を討亡した祟りと考えて恐れられたとも考えられ、後世の贈名でも祟神(たたりがみ)の天皇となっている。
また、大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、
大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、
伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。 @阿波 >>717
大田々根子は大阪南部の陶邑(今の泉北ニュータウン近辺)
多分、堺市上神谷(にわだに)
昔は「みわだに」と呼ばれた地域で「みわ」は「大神(おおみわ)」と同じく神の古語。
近くの狭山から出たと伝えられる銅鐸が加茂岩倉遺跡出土の銅鐸と兄弟銅鐸である。
つまり出雲族の居住地域である。 このコジキが仕事をしろ!!
と言ってる人がいたでしょ >>718
記紀には崇神紀七年、「大田田根子」を大物主大神の祭主とし、翌八年には高橋邑の「活日」を大神(オオミワ)の掌酒(サカビト)にすると記されている。
その大神とは「大物主大神」を指し、祭主となった大田田根子の「祭祀場」と掌酒を分担した活日の「高橋邑」は近接していたことになる。
阿波国旧美馬郡にある「段の塚穴型石室」といわれる特異な石室構造をもつ古墳は、分布範囲がほぼ旧美馬郡に限られており、
段の塚穴の2基のみでなく、旧美馬郡の範囲の古墳に共通してみられる特徴である。
その吉野川北岸美馬郡美馬町「段の塚穴」の南対岸 貞光町に「太田」と「高橋」の地名が並んで残っている。
尚且つ、日本唯一社「倭大国魂神社」が旧美馬郡美馬町に存在している。
「大田田根子」は「大国主命」の五世孫とされ、崇神天皇は河内の美努村(ミノノムラ)から「大田田根子」を探し求めたとされる。
この「河内の美努村」とは「三好郡美野郷」のことで、現在の三野町にあたる。
また日本書紀では「陶邑(スエムラ)から大田田根子を得た」とあるが、これは「三好郡美野郷」三野町の吉野川対岸に位置する三加茂町、
その下流の半田町が「陶邑」と考えられる。
半田(ハンダ)は植田(ハニタ)が変化したもの。 これは陶器や埴輪、瓦をつくる邑の意味になる。
このように「太田田根子」にまつわる伝承は、阿波の地名や伝承、そして「倭大国魂神社」が、現に美馬郡に鎮座していることから裏付けられるのである。 @阿波 他人の家に寄生したり、人の家の真似をしたり、
そんなことをしていないで、仕事をしろ
と言っていた人 便乗
例えば、
家が作ったものの上に乗り(物語などに沿ったようなカタチ)
商売をしていたり 阿波、熨斗鮑を刻み、その都度罪を噛み締める役割を忘れたようだな。 なぜ記紀が古代天皇の年齢を100歳超えるほど大きくずらしてるのか、
それを考えろ。
武内宿祢が300歳になってしまった。
子供にも笑われる。
しかしながら、それでもななお、なぜ大きくずらしたのかを考えろ。
何か絶対に隠したい、知られてはいけない史実があったのだ。
それはスサノオ=帥升の朝貢だ。
彼は107年中華皇帝・安帝に土下座した。
これを隠したかったのだ。
ならばそこから100年後の女性で最高位の人物が分かるだろ。
つまりヒミコは分かるだろ。
ヒメ踏鞴五十鈴だ。
神武東征紀は実際は女王国であったことをごまかすために大げさに書かれた。
ヒメ踏鞴五十鈴が住んだのは葛城、奈良県御所市だ。
九州でも纏向でもない、葛城だ。 事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津 ━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
宗家とは大物主一族(左側)、ヒメ踏鞴も天トヨ津も宗族です。
明らかに他氏族なのは神武であり、彼は王でも何でもない。
最後の大物主が阿田賀田須。
先代旧事本紀には彼の妻の名だけが書かれてない。
間違いなくモモソ媛でしょう。
中平銘鉄刀の出た和邇氏は今も和爾坐赤阪比古神社で阿田賀田須を祀ってます。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >その祖は博多の王である大山祇の子
ないない(笑)
博多のような辺境地に王はいない♪ >天日方奇日方はまたの名を鴨主という
主ではない王だ。
さらっと嘘をつくな。 >>728
三島については、ちゃんと筑紫日向から来たという伝承があるから、信用できないならググってね。 >>729
葛城だけの王としてなら、そう呼ばれることもあったろうが、別に日本語としては主が格下ということもない。
大国主の例もあるからね。 >>718
登美/向家(いわゆる葛城の大鴨王、三輪/大物主、事代主家)の地名があまた残るので間違っていないかと。
和泉(イズミ)はイズモと音韻(母音)が同じ。
登美ヶ丘。(ダンスで有名な登美ヶ丘高校等)
富田林。(出雲大神荒魂。こと、美具久留御魂神社(崇神、垂仁が直接創建に関わる)が鎮座。葛城を逐われた出雲族の中心地の一つだった?)。 神武天皇に鳴門で敗れた長髄彦は、『古事記』では 「那賀」須泥毘古 また 「登美能那賀」須泥毘古 と表記されている。
『日本書紀』には、「ナカ」邑の地に、また「トビ」の地名が起こり、それが後に訛って「トミ」になったと書かれている。
「登美」の後裔氏族には「中臣(ナカトミ)氏」がいる。
徳島県板野郡板野町周辺は、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦の末裔 中臣氏の本貫地は徳島県板野郡板野町周辺の可能性が高い。 @阿波 >>732
奪われたとかどこから思いつくのか不明だが、もともと鴨なら大阪三島から京都賀茂まで領土であったくらいなので、登美の名がつくところすべても領土でいいよ。
ただ、事代主はこじつけの可能性もあるから注意。 出雲の東の王家、富/向王家の当主で連合帝国(帝国と言って差し支えないかと)第8代少彦(スクナヒコ/副王の称号)で在られた
八重波津身命に摂津三嶋の豪族(高槻市あたり)から嫁がれた生玉依媛との間には、
天日方奇日方命(後、葛城に移住して登美家を号して分家独立)。
媛踏鞴五十鈴日女命(
後、兄?に随伴して葛城に移り、さらに御諸山/三輪山に父親の御霊を大物主と奉り祭祀慰霊。
併せて出雲族の国教え、幸神(サイノカミ)三神の、(大元神)クナト大神(始祖/イザナギ)、(后神)佐毘女大神(イザナミ/水神であり、太陽の女神(後、天照大神に改ざん))、(御子神)サルタ大神(スサノオ/猿田彦に改ざんされる/象頭神))をも祭祀して初代の祭主/大日女命となる。
後に丹波から南下して威勢を誇った天村雲(祖母は八重波津身の妹?高光媛)を倭の大王と奉るにあたり、連合王国の証として嫁がれ初代大后となられた。(二従兄弟の関係)
、、、ちなみに、大王宮は笛吹神社の場所に都したと言う。
(天村雲命(建位起命)に随伴してきた秦族(元は祖父の徐福が引き連れてきた秦族(渡来人))が故郷を懐かしみ望郷の念から笛吹していた事から笛吹の地名他となったらしい)
五十鈴依日女命。
、、、天村雲命(神武の一人目)と媛踏鞴五十鈴日女命の御子、第2代大王の大后(政略結婚。叔母と甥の結婚。かなり年上女房?) >>734
大阪三島から京都賀茂までも、忌部一族の入植地ですから。 @阿波 >>734
鴨は、古代、出雲の王族を神族と奉り「神をカモと発音していた」事から
鳥(「トビ」廻るもの)の鴨が宛られたらしい。
鴨の文字も意味深?で、甲(申に同じ。日(天/神)に通じる|=神)+鳥(トリ=十霊=最高神(王族)) 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>737
最高神というところが根拠なし。
単に王であっただけ。 加茂大神、死せる神々を蘇らせる神。
死んだものは、甦らないんだな。
鴨が死せる神々を蘇らせる仕組み。
悍ましいわい。
古墳時代の秋津遺跡。
強固な板塀で囲まれたエリアで何が行われていたのか?
死んだ神々の姫達を収容していたんだな。
姫達からの系図、姫達の持つ権威を利用したんだよ。
復活した神々の種は知らん。何でも良かったんだろう。クモでもな。 >>730
>ちゃんと筑紫日向から来たという伝承があるから
ないw 新石器時代縄文弥生、、、その遥かな時の流れで都がずっと同じ場所に在ったとゆうのが根本的に見誤る原因だろあな。
ポリネシアからの古来民は南西諸島→九州南部→九州北部→四国→畿内へと長い時間をかけて移って行ったんだろう。
その主流部隊は国栖、土蜘蛛、熊襲(隼人)ら古来の民じゃないのか。
それを束ねたのが葛城やと思うわ。
九州北部で留まってたとか考える方が不自然だわ。 事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津 ━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
倭国王とは大物主一族(左側)、ヒメ踏鞴も天トヨ津も同族です。
神武は王でも何でもない。
。
最後の大物主が阿田賀田須。
先代旧事本紀には彼の妻の名だけが書かれてない。
妻の名は間違いなくモモソ媛でしょう。
中平銘鉄刀の出た和邇氏は今も和爾坐赤阪比古神社で阿田賀田須を祀ってます。 >>742
>その主流部隊は国栖、土蜘蛛、熊襲(隼人)ら古来の民じゃないのか。
>それを束ねたのが葛城やと思うわ。
別に土蜘蛛とか古来の民というわけではないし、まして葛城は交通の便の悪い奥地だから交流の主体になれないし、妄想だらけ。 時代とともに移り変わり奥地と言われる場所に落ち着いたんやろな。
その拠点はやっぱり水か、紀和の豊潤な土地をつくる川やろな。 水浸しすぎて発展できないだろう。
海運が主力の時代に奈良盆地に高度な政治的中心は成立しないよ。 >>747
奈良盆地に高度な政治的中心は存在してるじゃないか、纏向とか。
まぁわしはあそこに卑弥呼がいたなんて思わないが。 >>748
おちょくっていないよ。
纏向とは今に例えれば政治が行われてる永田町。
皇居とは別。 >>750
規模が小さくて周りに何もないから、地方のハコモノ行政で建てた県庁止まりだな。 >>752
皇居の相当するのが唐古鍵ってか? 消滅してるぞ! どうすんねん? ん?
大物主の王居だよ
>>743
大型倉庫との間に代々の大物主の王墓があるじゃないか。
わかりやすい。 箸墓伝説
地元の人が大物主を馬鹿にした話。
能の三輪でも馬鹿にされている。
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。 >>751
皇居に当たるのは葛城
>>752がアホなこと言ってるが無視しろ >>732
>和泉(イズミ)はイズモと音韻(母音)が同じ。
発音は似てるが和泉の語源は水が湧き出る泉のようだな、残念。
>登美ヶ丘。(ダンスで有名な登美ヶ丘高校等)
登美丘ね。
古い地名でなく20世紀に出来た地名。 畿内登美なんて言ってる馬鹿は消えてくれ。
ましてやそんな所に王権はない。 葛城の鴨(=神=王)族には天日方奇日方命を初代とする登美家
(本家は出雲の東王家、富家。また、向(ムコウ)家とも)
、、、葛城の下鴨神社こと、鴨都波神社を氏神と仰ぎ、
併せて三輪山にも同じ祭神=氏神(八重波都身命=少彦(役職名としての出雲の副王)。故に、キキ編纂に当たり、それを改竄して都美羽八重事代主(生前の御名を反転した呪詛)とした。)
、神名を大物主神と仰いで初代の祭主には祭神の御子、葛城の登美家 初代、天日方奇日方の上の妹君の媛鞴踏五十鈴日女命(母親は摂津三島(高槻市島本町辺り)の生玉依媛命)が就かれた。
(以降、九州から侵攻、平定した物部王家(第2次侵攻。第1次侵攻はニギハヤヒやウマシマジに仮託された物部王家の別流。)の
崇神(実際には垂仁=イクメ大王)による祭祀の一旦停止迄、登美家の血筋の日女命が
歴代、三輪山の祭主/日女命(ヒルメの命/いわゆるヒミコ。なかんずく、数人に冠された大倭日女命の称号はまさしく偉大なる女王で大巫女で在られた証。))に就かれた。
その登美家を頼り、葛城の中南部に移住したのが
高彦/味耜高彦(出雲第9代少彦(副王)で西の王家、神門臣家の当主)の
御子の多岐津彦(祖母は宗像家の多岐津媛命)と出雲人ら。
多岐津彦は高賀茂家と号してその初代となり、
高賀茂神社に父親の高彦=味耜高彦を祀り一族の氏神、カモの大御神と仰ぎ(高賀茂神社)、また、叔母の下照媛命も氏神として祀った(中賀茂神社)という。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。 神武が実在したと考える人も、
実在しなかったと考える人も(ここにはあまりいないが)、
神武東征紀が異様に誇張された記述であるという考えでは同じだと思う。
ではなぜ誇張する必要があったのか。
神武の時代が魏志倭人伝の女王国であったからである。
神武の時代にヒミコが、少し後にトヨがいるのである。
この系図、わしが死ぬまで貼り付けてやるから覚悟しておけ。
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>770
>ではなぜ誇張する必要があったのか。
のちに天皇家が台頭するから。 >>770
>神武東征紀が異様に誇張された記述であるという考えでは同じだと思う。
異様に誇張されたと思うのは、トンデモ説だから。
ちっとも誇張なんかされてはいない。 単なる倭国(阿波)国内での東征譚。 @阿波 天武が磐余系、神武の系譜なんだろうな。
問題は、天武と天智桓武が同じ系譜かということだな。 >>771
>>ではなぜ誇張する必要があったのか。
>のちに天皇家が台頭するから。
意味不明。
のちに天皇家が台頭するからという理由で、
何で神武を127歳にする必要があったのかな? >>772
>異様に誇張されたと思うのは、トンデモ説だから。
>ちっとも誇張なんかされてはいない。
意味不明。
何で神武を127歳にする必要があったのかな? 帯方郡(ソウル)から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで1万二千余里
なので狗邪韓国までで半分以上の距離を使っている、その先で判っている里程は
狗邪韓国から末艪国までが3,000里、末艪国から伊都国、奴国
不弥国まで700里あるから残りは12,000-7,000-3,000-700=1,300里しか無い
僅か千三百里では不弥国から奈良の邪馬台国には到底届かない
邪馬台国は北部九州にあったと考えるのが正常な思考力。 福岡県発祥の神社
1.八幡神社・・・・・・飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮発祥
(築上町の金富神社説もある)
総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮
分社数約四万四千社〜二万五千社
関東では鶴岡八幡宮が有名
2.宗像神社・弁財天・・宗像市の宗像大社発祥、総本社も宗像大社
分社数約七千社 関東では藤沢市の江島神社が有名
3.住吉神社・・・・・・那珂川町の現人神社発祥、総本社は大阪市の住吉大社
分社数約二千三百社
4.海神社・綿津見神社・・福岡市東区の志賀海神社が発祥地、総本社は志賀海神社
神戸市の海神社や安曇野市の穂高神社が有名 >>775
>何で神武を127歳にする必要があったのかな?
稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞には、年齢は春秋歴を用いていたのだろう。 @阿波 >>777
>福岡県発祥の神社
>1.八幡神社
まず八幡神って誰なのか。
わしは、日本の神様とは、実在した人物が神格化された場合がほとんどではないかと考える。
葛城(高天原)にいた高天彦がタカミムスビに、
同じくシタテルヒメ(タカヒメ)がアマテラスに。
イザナギ・イザナミも瀬戸内の沼島に初めて住んだ夫婦が神格化されたのだろう。
では戦いの神・八幡神とは誰だろうと考えた。
どうも応神天皇と同一視されてるが、実は応神天皇は、お母さんの神功皇后と違ってあまり武勇伝がない。どうも結びつかない。
で、この人ではないかと思ってる。
羽田矢代https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E7%9F%A2%E4%BB%A3
『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、羽田矢代宿禰は紀角宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。
羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)
波多矢代 八多八代
八幡(やはた) 「矢」 「八」
いつしかこの武勇伝が応神天皇のものとされるようになったのではないか、と考えてる。 >>778
古田の言うように継体以前が倍歴だとしても、
神武が紀元前になり、当時の平均寿命や考古学的結果から大きく逸脱するので、
倍歴なんぞ到底無理。 >>779
八幡神は神功皇后が産んだ応神天皇となっている、父親は仲哀天皇かどうかは不明、
仲哀天皇と神功皇后は朝鮮出兵前に宇佐宮を詣でている、この時の宇佐宮の祭神は
比売大神だけだった訳でその後神功皇后と応神天皇を祀って八幡宮になっている。
比売大神が卑弥呼=天照大神説が強い >>780
それなら、稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞に間違いがあったのだろう。 なにも問題はない話。 @阿波 >>781
>比売大神が卑弥呼=天照大神説が強い
強いってどこで?w
君の脳内で強いかろうが関係ない。
宇佐の赤塚古墳は3世紀末、当地が大和の前方後円墳体制に組み込まれたというか、
大和から派遣された国造および防人さんの墓であろう。
その一族が神功皇后時代まで続いていただけで、
比売大神というのはその一族の中の姫様が祀られてただけ。
あるいは神功皇后そのものかもしれない。
どちらにしても応神天皇というのは武勇伝がない。
後世、八幡神にされたとみるべきだ。 >>782
考古学的に(あるいは半島の文献との比較でも)
15代応神が4世紀末から5世紀初頭、
10代崇神が4世紀初頭から前半。
この時点で倍歴説は崩壊。 >>784
>この時点で倍歴説は崩壊。
倍歴説が崩壊だろうが、有効だろうが、どうでもいいことなんですよ。
いずれにせよ、稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞に間違いがあったってこと。 なにも問題はない話。 @阿波 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>705
いや九州説の丹に関しては、倭人伝の内容を考察しての内容だが、畿内説の鉄鏃に関しては、支離滅裂
倭人伝には"宮室と楼観や城柵を厳しく設け、常に兵器を持った人々が守衛している"とあるからね 宇佐神宮の境内にある古墳を調べたら少しの糸口が見つかるかも知れんが
神社側の許可が下りんから全く調査は出来てない、奈良の重要古墳並の扱い >>780
二倍歴を何か勘違いしていないか?
年数が2倍になるんじゃなくて半分になるんだぞ >>789
だから1年を2年と数えるのだよね?
間違いだ。 明治以前の天皇が伊勢に参拝しなかったのは、
崇神が放逐したご神体の鏡が原因。
日本で一度だけクーデターがあった。
クーデターを起こしたのは現天皇家の祖先・崇神である。
クーデターを起されたのは出雲系・大物主である。
崇神は出雲から神宝を奪い(出雲振根事件)、出雲国造を置いた。
ヒミコやトヨはクーデターを起された出雲系・大物主の家柄である。
その証拠にヒミコの刀・中平銘鉄刀が出た和邇氏が和爾坐赤阪比古神社で今も祀っているのは、
最後の大物主・阿田賀田須である。
この阿田賀田須の妻がモモソ媛であろう。
伊勢神宮で、今も行き場がなく、20年に一度の式年遷宮という形で彷徨っているのは、
崇神が殺した阿田賀田須の血で染まった鏡(ご神体)である。
だから皇室が伊勢に参拝しなかったのであろう。 徳島県美馬市美馬町にある「玉振神社」。
主祭神は、玉振姫命・大己貴命で、美馬市美馬町宗重部落のほぼ中央にある。
すぐ東には四国最大級の巨石墳(円墳)の「段の塚穴古墳」があり、西には白鳳時代の寺院跡「郡里廃寺跡」がある。
この社はもと正部神社の祭神、清姫霊神の侍女、玉振姫霊神を祀っていたといわれている。
延宝五年(1677)に大己貴命を宗重部落の氏神として合祀し、鎮座したものだそうだ。
この美馬町は、吉野川中流域にあり「倭地」なのである。 美万岐に入り込んで美万岐に居を定め、師木水垣宮を宮殿にしたと伝えられている。
この「所知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)」は「崇神天皇」のことなのである。
この師木水垣宮の御宇に疫病がはやり、多くの人民が死ぬという大変な出来事が起こっている。
これは、大国主命に近い埴夜須比賣命の一族を討亡した祟りと考えて恐れられたとも考えられ、後世の贈名でも祟神(たたりがみ)の天皇となっている。
また、大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、
大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、
伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。
崇神天皇の謚号のとおり、崇神紀には天照大御神や倭大国魂神社の祭祀、天神地神、神地・神戸を定め、
供物の定義等のほか「玉振」として大田田根子や市磯長尾市が求められるなど、神祇制度の起源説話ととれる記事が集中している。
「玉振神社」は「玉振り」として求められた淳名城入姫命が祀られていたものと思われる。 @阿波 皇室が北朝のときには参拝しなかったんだよ
明治でインチキ南朝が復活したんで伊勢神宮参拝したんだよ
伊勢神宮は南朝、宇佐神宮は北朝 伊勢神宮は畿内ヤマト、百済、平氏、南朝
宇佐神宮は九州倭國政権、新羅、源氏、北朝(基本である、いいな 伊勢湾は鎮魂の場所。
倭国大乱の犠牲となった神々を祀る処。
荒魂は本来の場所と違うところに祀るのが原則。
伊勢湾は大阪湾のコピー。
阿波忌部は倭国大乱の罪を償うのが生業。
アワビを刻み倭国大乱の罪を噛み締め、熨斗アワビを作るのが役。
祝い事に熨斗アワビ。 新井白石
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」
本居宣長
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」
金印を偽造した江戸幕府
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」
金印を国宝にした満州事変(昭和6年)当時の軍部
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」 >794
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。 神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう(基本である、いいな @阿波 >>794
宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)。
『国府町井戸 八幡神社』
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修....」 以下略
御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)
※大分の宇佐神宮の開基は725年。
※大分の宇佐神宮より遡ること、白鳳二年(674年)にこの『国府町井戸 八幡神社』 は「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
※よって、大分の宇佐神宮も『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたのである(基本である、いいな @阿波 五塚原古墳https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。
また山代も河内も庄内土器で共通する。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。
偽書と片付けてる人間は馬鹿である。 >>799
>被葬者は誰であろうか。
いずれにせよ、倭国(阿波)から進出した忌部一族のひとり。 @阿波 >>801
倭人伝にも「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」とある。
縄文時代晩期末より、主に倭国(阿波)の海人族の大人らが東は関東、西は九州まで全国を移動し、
子孫や一族らによる新地開拓や移住・婚姻によって、列島全域に勢力を伸ばした。
また同時に、石器、青銅器、鉄器、朱、農耕技術や軽量薄型土器、墳墓築造などの先進文化・技術を全国に広めていったのである。
これまで「忌部」の研究が不足していたため、歴史の中で有名なその他の氏族のみで仮説・ストーリーが立てられてきた側面がある。
今後の研究が進み関係が明らかになることを期待する。 @阿波 >>801
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。
一方、今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波 >>801
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、
やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である
麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、
高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、
超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする
「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、
新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、大神から、日嗣の認承を賜る「物実」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品)
と観念されたからである。 @阿波 サルタヒコの遺言。倭国大乱の犯人を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立
国底立神、国常立神、天香山の山頂に祀られている神。
鬼門に封じ込まれた神。
&阿波咋。
阿波忌部の役は倭国大乱で犠牲となった神々の鎮魂。
責任をとり、代々鎮魂に励むのが役。 >>805
>阿波忌部の役は倭国大乱で犠牲となった神々の鎮魂。
倭国乱は倭国(阿波)の乱。 当然、倭国乱で犠牲となった神々の鎮魂をするのは当たり前。 @阿波 >>805
>倭国大乱の犯人を教えてくれる
ヒミコを擁立した王族のA集団ともう一つのB集団が争ってたのであろうね。
簡単。
ヒミコの時代に申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)が二人いる。
葛城にいた鴨の天日方奇日方と磯城にいた物部のウマシマジ。
4世紀には崇神を産んだ物部の勝利となるが対立はまだ続く。
葛城を出自とする蘇我との対立だ。
蘇我が丁未の乱(ていびのらん)で勝利して物部宗家滅亡。
ところが蘇我も後の乙巳の変で中臣にやられ、
ちゃっかり物部の石上麻呂が最高名誉職「太政官」になっているのだから、
乙巳の変は物部の復讐劇であろう。 延喜式(巻7、神祇7)[践祚大嘗祭式]の「由加物」条に記載された内容。
・由加物―大嘗祭に諸国から貢進される品物、即ち神に供える聖なる品のこと。 「雑贄」とも呼ばれた。
・由加物の貢進―阿波・淡路・紀伊の三国のみと定められた。
・聖なる由加物―これら阿波・淡路・紀伊の三国の由加物が通る国々の路地は道を掃き清められ、国司・郡領らがこれを送迎した。
由加物とは、清浄を期した聖なる産品。
阿波国から貢進される由加物のうち、海部(那賀郡に住む海女)が作るもの(県南部)
・鰒卌五編―加工したアワビ45編
・鰒鮨十五坩―アワビのスシ15壺
・細螺―シタタミ(小さな巻貝)
・棘甲臝、石花等併せて廿坩―ウニ、「セ」と呼ばれた節足動物のカメノテやフジツボの類を加工して土器に入れ献上していた。それは、現代風にいえば瓶詰めであったとされる。 >>807
>ヒミコを擁立した王族のA集団ともう一つのB集団が争ってたのであろうね。
倭国(阿波)乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱および旧吉野川流域南岸勢力内での争乱また、鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
こういう「邪馬台国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 102 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/02/27(火) 19:15:49.42 ID:
>>101
いや、すべての証拠物がもう既に出土してる
1万%、邪馬台国の場所は確定されてる
いまさら言うまでもなく、奈良だ
徳川の埋蔵金場所も1万%確定しているが完全に無視されとる
何でもかんでも暴けばいいってもんじゃねえ
聖徳太子についても
いまさら教科書に載せないとか片腹痛いわ!w
ホント学者は使えねえ >>810
>すべての証拠物がもう既に出土してる
なんでやねん。
正確に言うなら「卑弥呼の遺物の一部がすでに出土している」ということ。
それを卑弥呼のものではないとは誰も言えない。
その卑弥呼の遺物の一部とは東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀である。
発見者の金関さんが2017年3月の考古学雑誌で卑弥呼がもらった五尺刀ではないかとの見解を寄稿をされた。
2世紀末から4世紀にかけて刀を貰ったと記されてる人物は卑弥呼しかいないからだ。
おそらく誰も反論はできないであろう。 >>807
葛城の大鴨、登美家(出雲の東王家で宗家、富家から分家)の初代、天日方奇日方は紀元前2世紀の人。
(妹で三輪山の祭神の初代神主/祭主で在られ、後には初代大倭国大王の大后にトップ媛踏鞴五十鈴日女命(大倭国初代のヒミコ(各地にいた)/大日霊女)も2世紀の人)
、、、この家系が大倭国〜大和朝廷の歴史のフィクサー。事代主家、大物主家、大鴨王(きみ)家
ウマシマジ(第一次物部(ニギハヤヒ)侵攻で葛城の出雲神(かも)族らが担いでいた天村雲命(ホアカリ=ニギハヤヒの孫)を祖とする海部大王家(当時は孝霊天皇。やむを得なく大倭国を放棄して大吉備国を建てた(お伽噺の桃太郎の冒頭の元ネタ))を
逐って(葛城の出雲神(登美家、高賀茂家)族らが寝返り旧主を裏切ったのが勝因)一時期大倭国の大王家となった)は紀元一〜2世紀の人 >>812
>天日方奇日方は紀元前2世紀の人
なんでやねん、じゃ神武も紀元前2世紀かいな、アホ言え。
時系列が無茶苦茶な論者は来ないでくれ。 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 >>817
>反論は具体的にしないと。
いや反論も何も、10代崇神が4世紀前半なのだから、
神武や天日方奇日方の時代が紀元前2世紀なら10代崇神から400年以上も古い事になる。
崇神から遡る事9世代であったら(まぁ、あり得ないが)、
400÷9=44.444…
1世代間44年はおかしいでしょ?
以上。 葛城はグスクの転訛、としたら奄んゆつうのに信憑性を感じる。 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 岡上は最近になって身バレするから連続句点をやめたようだが
言ってることが同じだからバレバレなのは変わらない 五塚原古墳http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。
また山代も河内も庄内土器で纏向と共通する。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。
先代旧事本紀を偽書と片付けてる人間は馬鹿である。
前方後円墳とは物部の墓制であり、卑弥呼は埋葬されていない。 http://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/akandoyama-todaiji.html
中平年銘鉄刀
1961年、東大寺山古墳が天理参考館により発掘調査された。
前期後葉に築造された全長約140bの前方後円墳で、赤土山古墳よりも少し古く、この丘陵上に最初につくられた古墳である。
埋葬施設は長大な木棺を大量の粘土で包んだ粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる形式で、
この種の施設としてはもっとも古い部類に属する。すでに盗掘を受けていたが、
多種多量の石製品、玉類、おびただしい量の武器・武具類など、きわめて豊富な副葬品が出土した。
それらの中に「中平」の年号を記した鉄刀が含まれていたのである。
鉄刀は長さ103aの内反りの刀身で、柄頭(つかがしら)は日本製のものに取り替えられていたが、
正真正銘の中国からの舶載品である。
刀背に「中平□(年)、五月丙午」で始まる全部で24文字の銘文が金象嵌(ぞうがん)で刻まれていた。この「中平」は、後漢末、霊帝治世の西暦184年から189年まで用いられた年号である。
『魏志倭人伝』は、倭國が歴年にわたって乱れた末に、女王卑弥呼を共立した、と記す。
その乱の時期を『後漢書』倭伝は「桓霊の間」とする。「霊」は霊帝のことであり、
中平年間はその治世の最後に該当する。つまり、両書の記述による限り、
この刀の製作時期は卑弥呼共立の前後に当たることになる。
紀年銘をもつ鉄刀が中国皇帝からの下賜品である蓋然(がいぜん)性が高いことを考え合わせると、
この刀の持つ意味は深長である。金関恕氏は、共立されて間もない卑弥呼が後漢に使いを遣わし、
この刀を下賜された可能性を指摘しておられる。
またその刀が、どのような経緯をたどって150年ほども後に築造された東大寺山古墳に副葬されたのか、
その点もさまざまに想像がかき立てられる。
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・総括学芸員 岡林孝作 『魏志倭人伝』は、倭國が歴年にわたって乱れた末に、女王卑弥呼を共立した、と記す。
その乱の時期を『後漢書』倭伝は「桓霊の間」とする。「霊」は霊帝のことであり、
中平年間はその治世の最後に該当する。つまり、両書の記述による限り、
この刀の製作時期は卑弥呼共立の前後に当たることになる。
紀年銘をもつ鉄刀が中国皇帝からの下賜品である蓋然(がいぜん)性が高いことを考え合わせると、
この刀の持つ意味は深長である。金関恕氏は、共立されて間もない卑弥呼が後漢に使いを遣わし、
この刀を下賜された可能性を指摘しておられる。
またその刀が、どのような経緯をたどって150年ほども後に築造された東大寺山古墳に副葬されたのか、
その点もさまざまに想像がかき立てられる。
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・総括学芸員 岡林孝作
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事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 このただ一つの邪馬台国畿内説スレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしまったようだね。。。
せっかくだから、鏃は武器であり、農具ではないことを、初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521001812/ 金関恕先生がお亡くなりになられました。
ちょうど金関恕先生にお手紙を書いている最中でした。
残念です。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
中平銘鉄刀の主・和邇氏と卑弥呼は繋がっていました。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、、、、 「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル [福岡県]
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/402402/
もし古墳なら、6世紀後半に筑豊に流された片野田(物部守屋の子)だろう。 「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
江戸時代の国学者にとって最も大きな問題は、古代天皇および大和朝廷の朝貢。
そして「邪馬台国論争を定着させる事」、これが彼らが出した結論。
だから新井白石も本居宣長も意図的に九州を出してきた。
九州だ畿内だと論争してくれてるうちは、古代天皇の朝貢という重い史実を定着させなくて済む。
論者を引き付け、大いに論争させ、「永遠の引き分け」を狙ったのです。
引き分けは負けではありませんから。
金印もその流れで江戸幕府により偽造されたのでしょう。
金印が九州のどこから出たことにするか、それが一番悩んだ事でしょう。
選ばれたのが福岡の玄関口の志賀島(笑) ここも、頭悪い系のコピペ張り込みスレになってるなぁ
まあ、がんばれ 金印
wiki
発見の状態について
江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、
水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。
発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。
一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。
すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。
発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、
儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。
本居宣長
生年月日: 1730年6月21日
生まれ: 三重県 松阪市
死亡: 1801年11月5日, 三重県 松阪市
「日本の天皇が朝貢した歴史などあってはならない」
と言った本居の生存中に金印が見つかったようですね。
『後漢書』に記述のある金印だと言った亀井南冥という人物も怪しい。
国宝になったのは昭和6年満州事変の年。
軍部「日本の天皇が朝貢した歴史などあってはならない」 高天原(御所市高天)の水源に高天彦神社がある。
高天彦神社には土蜘蛛塚や蜘蛛窟がある。
出雲から来た鴨(神)族は水源を押さえるために、やむなく先住者を屈服させたのだろう。
107年、帥升ことスサノオが連れて行った生口160人も彼らであろう。
その生口の末裔は1800年後に、
高天原(御所市高天)のふもとで「人の世に熱あれ 人間に光あれ」と声を上げ、部落解放運動の震源地となるわけだ。
日本の歴史は葛城から始まるのだ。
悪いけど九州は黙っててくれ。
豚骨ラーメンだけ作っててくれ。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 金関先生の発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。
その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるか。
繋がります。
和邇氏はトヨから始まります。
事代主
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天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
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建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
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彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
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伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
ヒミコとトヨが住んだのは葛城です。 全部、出雲と筑紫の末裔だろ。
畿内はただの入植地。
開拓の功労者は、鴨主の祖父である三島溝杭、摂津の鎮守だな。
京都の上賀茂と下鴨神社なども鴨一族の領土であり、京都、奈良、大阪はすべて筑紫から侵攻を受けている。
ちなみに、筑紫からの神武東征を助けたのも、この三島溝杭とされている。 >>843
>ちなみに、筑紫からの神武東征を助けたのも、この三島溝杭とされている。
いえ宮崎からだよ。
「三島溝杭とされている」って誰にされてるんだ? >>845
神武東征を未だに筑紫や宮崎からと信じてるんだね。 ある意味、すごいね。 @阿波 >>846
10代崇神は神武ゆかりの宮崎神宮の社殿を建てている。
崇神は神武から代数では9代だが世代では6世代後。
6世代前の神武の出身地を間違えるとは考えられない。
また崇神の後、景行天皇が南九州を征圧しに行く。
なぜ神武ゆかりの南九州を攻めたのか。
神武が残してきた子、キスミミの末裔を討ちに行ったのであろう。
神武の男系王朝が2つもいらないということが理由であろう。
日本書紀には熊襲の反乱などと書かれた。
大和朝廷側が一方的に攻めてきてながらこのように書かれた。
激怒した隼人が日本書紀上梓の年の養老4年(720年)に反乱を起こしたのもこういう理由であろう。 >悪いけど九州は黙っててくれ。
>豚骨ラーメンだけ作っててくれ。
悪いがモツナベも作るね 神武が来た時点ですでに大和には神も王もいた。
事代主神と鴨王だ。
それぞれ神武の義理父と義理兄だ。
神武はこの王朝の入り婿さんだ。
神武は、神を父に持ち王を兄に持つヒメと結婚した。
ヒミコだ。
ヒメのままなら誰にでもヒミコを連想させてしまう。
だから、やれ踏鞴だ五十鈴だイスケヨリだホトタタラだを加飾して、極力ヒミコの印象から遠ざけたのだ。 それは神武が卑弥呼と同年代という過程が証明されてからにしよう。 卑弥呼以前にも倭国あり。男王の治世が70〜80年。 博多湾沿岸の倭国王とされる帥升から、卑弥呼まで、中国の記事は一貫しており、畿内へ遷都したという記事はない。 >>852
先代旧事本記の物部や鴨の系図は崇神から神武まで6世代。
そのほか中臣や三上の系図でも同じく。
記紀は時代を意図的の古くしようとして9世代などと言ってるがこれは信用できない。
あと崇神時代=布留1期から古墳時代の始まる庄内0期まで約120年。
1世代間20年でちょうど説明がつく。
つまり神武とヒミコは同じ時代。 >>854
>博多湾沿岸の倭国王とされる帥升から
博多には王権のいわれがない。
生口160人も連れ出したような大きくてなおかつ太古から続く俘囚郷もない。
それがあるのは葛城だけ。
あきらめろ。 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
博多湾沿岸は倭国の神代の王都 そりゃあ葛城には連れ出さなくても生口一万人くらいはいたんじゃないの?w >>826
いや、卑弥呼(モモソ姫)は大物主(物部の大神)に嫁入りしたんだから物部の墓制でもおかしくないよ >>859
モモソ媛は4世紀初頭から前半の崇神時代の人物。
2世紀末に即位した卑弥呼なわけない。
時代が100年は違う。 >>859
>大物主(物部の大神)
違う。
モモソ媛と結婚した大物主は阿田賀田須
先代旧事本紀では彼の妻の名だけが書かれてない。
朝廷に気兼ねしたのでろう。
崇神が最後の大物主・阿田賀田須をお殺せあそばされたからだ。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 ◎ここまでわかった日本書紀◎
2世紀末
倭国大乱と卑弥呼の即位
吉備・畿内同盟(百済、任那系)
考古学的証拠:墓、土器、特殊器台
文献的証拠:吉備に拠点を持つ孝霊天皇の娘モモソ姫が畿内の王大物主と政略結婚→大物主が死にモモソ姫が女王に
vs
山陰・北陸同盟(高句麗、新羅系)
考古学証拠:四隅突出墓の分布
文献的証拠:(3世紀後半だが)崇神代の記述 イツツヒコ「我の他に王はなし」
3世紀後半
台与の治世
吉備・畿内同盟
魏が弱体化し権威のバックを失い同盟が乱れ、崇神は大王位を失う
崇神、娘を宇佐の大王アマテラスの元に嫁入りさせる(トヨスキイリ姫=豊国の城に入った姫)
もう一人の娘を越の王大国魂に嫁入りさせようとするが失敗(ヌナキイリ姫=ヌナ川(越国のヒスイを産出する川)の城に入った姫)
(当然目的は山陰・北陸同盟の分断のため)
宇佐の大王アマテラスが死に嫁のトヨスキイリ姫が女王に 神=王 の読み替え
崇神6年、宮中で天照大神と倭大国魂神の二神を祭っていたが
二神の神威の強さを恐れ、宮の外で祀ることにし
天照大神をトヨスキイリ姫に託し、
倭大国魂神をヌナキイリ姫に託した
↓
宮中で同盟国の王達を集めて会議をしていたが
プライドの高い各地の王達の意見を崇神がまとめきれず、会議が決裂してしまった
そこで崇神は各地の王に自分の娘を嫁入りさせて関係強化を図った 葛城の葛は国栖、黒潮の民が分派しながら広がったんやろね。
国栖人、熊襲、隼人は其れと違うのか。
高野山で若き日の空海を守護した狩場明神と白と黒の犬と言うのも其れを暗示してそう。
今も宮中で国栖奏と隼人舞を献ってるのは、葛城氏系統と朝廷の関係を表してると思う。 ウソブいている在日南方ブタチーノがいるなあ…
さっそく屠殺しないと。 >>867
で、黒潮の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる南方系生活土器と南方系住居と石刃の南方系耕作用農具と
中粒種のイネは?
で、黒潮の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
. >>867
面白い。
葛城の宮滝遺跡から南九州の市来式土器が出ている。
恐らく朱を採りに来ていたのであろう。
また神武が日向だが神武の義理兄で鴨王こと天日方奇日方は、
別名が阿田都久志尼命、
この人物から5世代後が阿田賀田須。
そして隼人の反乱後に、隼人が畿内に強制移住させられるが、
彼らの一部が住んだのが五條市阿田。
阿田とは今も宮崎県日南市に吾田という地名もあるように南九州に多い。
また天日方奇日方の妻は日向賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)。
葛城の奥は熊野、南九州は熊襲。
クマは神の転訛だとしたら神の野、神の祖を意味するのかもしれない。
なんだか分らんが葛城と南九州は縁が深そうだ。 どこまでいっても、葛城にいたのは九州からの移民でしょ。 >>871
阿田、吾田、興味深い。
南九州、琉球、まで縁が有りそう。城をグスクと言うのは琉球だけなのか。
葛、国栖、くず。
葛城…グスクが転訛して漢字をはめただけのような気がする。 ぐすく、葛城、葛氏ならくず氏、国栖氏かもな。
かつらぎ、いららぎ、ゆらぎ、大和言葉は豊富やし「すめらぎ」なんて…。
古代史なんか想像(妄想)するロマンなかったら面白味ないわ。 葛城はもとかづらき。
今かつらぎというは訛れるなり。
イバラギではなくイバラキと一緒。 >>871
熊野にほど近い高野山の狩場明神と白と黒の犬、、、。
隼人と言えば、僥倖の先頭や都の角に立って警備?する吠声(はいせい)が有名やしね、 熊は、籠った奥まったという意味だろう。
クマ、コモ、クモ、カモ皆同じ。
水源のある山の奥に住んでいた人々。
葛城〜御所〜葛辺りは、殷系の水稲の民と、熊即ち山に棲む縄文系がいた所だろう。
尾張出雲によるヤマト征伐後に、九州南部投馬国系の神武の勢力が合流したんだろう。
元々のヤマトの勢力の姫達を乗っ取ったんだろうな。
兵士は男ばかりだからな。
男は纒向行き、奴隷行き。 >>878
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
. 「クマ、コモ、クモ、カモ」にコマ…狛犬…宮の角に立って吠声を発する隼人。
なんか繋がるね。
乗っ取ったとして、古来(ふるき)と新来、今来の再合流のような気がする。 海幸彦系の隼人と山幸彦系の神武の勢力は分けて考える必要がある。
海幸彦系隼人は山幸彦系神武の勢力に武力で支配されたんだろう。
色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。 丸木を絶妙に舟に造り上げる丸ノミ石器…古くから海人は道具を開発する職能集団やったんやろ。
其の技術力を持って内陸、山地に入れば山を掘削し土に籠もって稀少鉱石を採取出来る、朱の原料の丹生なども容易く手に入れたと思う。 彦火火出見を祭るのは筑紫日向にある伊都の高祖宮だよ。
筑紫倭国の宗家は彦火火出見とその末裔の神武。
そうすると、邪馬台(筑紫倭)の南にあった宮崎都万の王がホデリだよね。
つじつまが合うじゃん。 >>883
薩摩半島の先端にも
ぽつんと甕棺墓出てるからねぇ。不思議だねぇ。 >>884
中心部(伊都国)は卑弥呼に置き換わっても、周辺部には旧来勢力が追いやられた状態で残るものだよ。 >>878
で、殷系の水稲の民が渡来定着した集団を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
(卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人)
徑百餘歩の塚の周りに埋めたとは書いてない。
少し離れてても構わない。
王権の謂れがあり、徑百餘歩の御神域があり、奴婢が埋められた謂れのある場所がある。
高天原(御所市高天)だ。
鴨(神)族の聖地・高鴨神社の御神域は徑百餘歩。
少し離れた高天彦神社には土蜘蛛を埋めた謂れのある土蜘蛛塚や蜘蛛窟がある。
邪馬台国の女王・卑弥呼が住んだのはここだ。 >>889
>邪馬台国の女王・卑弥呼が住んだのはここだ。
民衆が住んだ遺跡は? @阿波 >>878
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 高鴨神社…代々宮司を務める鈴鹿家の始祖は天児屋根命、役小角の後裔でもあるとか、、、。天岩戸は葛城、国栖、土蜘蛛の拠点だったのかも。
天、奄、阿波、出雲も山陰の地名じゃなくクモ、クマを出立するのが本意で、南九州(奄美)から対馬(妻籠/つしまのカミ、クマ)を経て日本海側から東上した派と、五島列島から阿波を経て東上した派が其々、葛城山で集結したのと違うの。
アマとアワ、マとワは転訛したのかも
「一言主神社の縁起」にこんなのが。
雄略天皇が葛城山(かつらぎさん)で狩をしている時、向こう側から天皇と同じ姿の一行が現れました。
天皇が「お前は何者だ」と問いかけたところ、「私は悪事(まがごと)も善事(よごと)も一言で言い放つ神である」と申されました。
天皇はひれ伏し、その後、共に狩を楽しんだといいます。
このとき、天皇を一言でおさめたことから、一言だけ願いを叶えてくださるという一言主の信仰が始まったと言われています。
なんか妄想(空想)が広がる。 >>890
>民衆が住んだ遺跡は? @阿波
水源を支配したのは神。
民衆など住むわけがない。 >>892
天皇が「お前は何者だ」と問いかけたところ、「私は悪事(まがごと)も善事(よごと)も一言で言い放つ神である」と申されました。
この数年前、雄略がまだ大泊瀬皇子であった時に眉輪王の変が起きる。
そしてこの地の豪族・葛城円大臣(葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼殺される。
土地も娘も差し出すと懇願する葛城円を雄略は焼き殺した。
これらは事実であり、極楽寺ヒビキ遺跡として近年発見される。
普通、火事では火を消そうとするから柱に水が掛かって全焼といえども根元は残ったりするものだが、
この極楽寺ヒビキ遺跡は土まで焼けている。火を消そうとした痕跡が全くない。
燃えるがままに見ていたという恐ろしい遺跡だ。ここで葛城円が焼き殺された。
雄略天皇が葛城で出会った一言主神はこの事件をもちろん知っている。
したがって「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」とは、
意訳すれば「おまえのとんでもない悪事を知ってるぞ、言ってやろうか」という恫喝であろう。
それに対してはさすがの雄略も怯んだ。
しかしながら一言主が土佐に流されたという続日本紀の記述も土佐一宮が存在することからも事実であろう。
これは「今回は流刑だけで済ましたがそれ以上言い続けるとどうなるか分っているな?」という雄略側からの逆恫喝かもしれない。
この少しあと、葛城から出てきたのがあの蘇我だ。
蘇我のバックボーンには葛城の凄まじい怨念があったのは言うまでもないであろう。 >>893
>水源を支配したのは神。
民衆など住むわけがない。
その国邑には神しかいないのかね? よくわからん @阿波 >>894
一言主神社は常陸國へも…海の佐伯、山の佐伯、土蜘蛛がまつろわぬ者、さえぎる者と揶揄されたのは常陸國やったか。
高鴨神社の宮司が役小角の縁者で、其の佐伯の民、土蜘蛛を束ねた佐伯氏のひとつ佐伯直氏が空海の生家で紀和四国の山岳で、、、。
時代的な背景はよく知らんが同族の繋がりや伝承は有ったんやろね。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>895
>その国邑には神しかいないのかね?
高天原(御所市高天)の麓には中西遺跡という、弥生期では日本最大級の水田跡がある。 ヽ|/
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>高天原(御所市高天)の麓には中西遺跡という、弥生期では日本最大級の水田跡がある。
水田跡は「卑弥呼の民衆が住んだ遺跡」ではない。 @阿波 >>901
>時代が違うだろ。
卑弥呼は関係ない。
卑弥呼に関係する「卑弥呼の民衆が住んだ遺跡」は? @阿波 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>900
>水田跡は「卑弥呼の民衆が住んだ遺跡」ではない。
日本最大の水田跡が民衆のものでなければ何なんだ。 >>904
>日本最大の水田跡が民衆のものでなければ何なんだ。
その民衆の水田跡は弥生時代前期末から中期初頭の大洪水で埋まった水田跡。
「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」は? @阿波 >>906
西日本一帯の弥生時代前期末から中期初頭の大洪水によって、
弥生時代前期末から中期初頭に多くの消滅した集落遺跡はその為。 @阿波 >>906
中平銘鉄刀など考古資料や文献から葛城に住んだヒミコは特定できる。
したがって卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群がなければいけないという意味が分からない。
源平合戦の考古学的痕跡はないから「源平合戦はなかった」にはならないだろ。
弥生末期集落遺跡群はあれど考古資料や文献から阿波に住んだヒミコを特定できない君は少し黙ろうか。 中西遺跡
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/21580
「弥生時代後期〜古墳時代後期の遺構面。同期の建物跡、ピット、土坑など。」
これで我慢しておけ。
アワアワアワアワうるさい奴だ。 >>910
>これで我慢しておけ。
アワアワアワアワうるさい奴だ。
まさか「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」が中西遺跡だけってことはないよね?
あまりにも卑弥呼女王が惨めだろ。 @阿波 弥生時代末期に全国に集落があるのに、唐突に中西遺跡が邪馬台国と言い出すとは、恐れ入った。 >>912
そう言いなさんな。 九州説も似たり寄ったりでしょ? @阿波 九州説は、弥生王墓が根拠だよ。
集落はあって当たり前。 其れにしても、古代の阿波は重大な拠点やったと思う。
国産みの、天の橋からこをろこをろ…つうのの伊邪那岐命の橋の片側は阿波に掛けられてた事を示してるんやろ。
其の橋の真下の島の名前をあわじとしたのも…阿波路…国産みの前から阿波に橋の基礎が在った証しやと思う。 >>911
氷山の一角という言葉をご存知か?
発掘できるのは発掘許可が降りた場合だけ。
しかも道路が通るとか大きな建物ができるなどの場合しか無理。
纏向だって炭鉱離職者団地の建設の際に発見された。
葛城は大半が田畑で発展が望めない。。
いろんなものがみつかるとしてもこれからの話。 発掘は届出制で、埋蔵文化財包蔵地内での大規模開発行為であれば、むしろ調査をしっかり行うように指導される
逆に、今発掘しなければならないという理由が明確ではない場合は、重要な遺跡であっても軽々しく掘ることはできない >.>912
>唐突に中西遺跡が邪馬台国と言い出すとは、恐れ入った
そんなことは言ってない良く読め。
民衆とか言い出すから中西あたりではないかといったまで。
ヒミコの住んだ宮はおそらく長柄神社、通称「姫の宮」。
名柄遺跡は弥生Xだったはず。
全国で唯一、銅鐸と鏡が一緒に出た。
鴨族らしく水源地に建つ。
祭神はシタテル姫。古事記では高姫。
この人はヒメ(踏鞴)=ヒミコより重要視されている。
下を照らすほど高いところにいる、つまりアマテラスだ。 >>921
だから「埋蔵文化財包蔵地内での大規模開発行為」がほとんど田畑の葛城では行われないと言ってるわけだが。 >>919
>発掘できるのは発掘許可が降りた場合だけ。
それはどこも同じ。 阿波は発掘が遅れている地域。 それでも特異な遺跡がわんさか。 @阿波 >>922
>ヒミコの住んだ宮はおそらく長柄神社、通称「姫の宮」。
だから、ヒミコの住んだ宮はいいから「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」は?
民衆あっての卑弥呼女王だろ?
ヒミコの住んだ宮探しもいいけど、それよりも民衆が暮らした集落探しが先決事項。 @阿波 自凝島は、字の如く自ら固まってできた島。
淀川河口の中州だろう。
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>925
弥生末期集落遺跡群」は?
nakanisi >>925
まさか「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」が「nakanisi 」だけってことはないよね?
あまりにも卑弥呼女王が惨めだろ。 @阿波 >>929
>だけってことはないよね?
だけってことはないだろうね、見つかってないだけで。 九州は四国畿内へと東征する以前の一大拠点やったんやろな。
部族的にも本州の人間が見て一部を除いて琉球、薩摩、熊本辺りの人の顔は別種には見えんのやが。
もっと古い時代は南西諸島、琉球辺りが都やったような気がする。
分派、再合流を繰り返しながら そだねー
東征しただけで
東遷はしないよねー
鉄器ゼロだからムダ毛処理できないし
毛人の一員になるわけはないよねー
そだねー 畿内で再々再合流したとか違うの。特に頭に、あ、の付く場所は当時の人たちの重要なところやったと思う、奄、阿蘇、阿波、安房、、、天かける…とか天の浮橋とか其れらを尺取り虫みたいに渡っていったんやろな。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 南九州から移動してくる部族たちは阿波と言うか四国全域に広がってそうやな。
四国の南側の超大型の集落は相当な長い期間に住み着いてたとか、その間に四国中をくまなく探索するなかで丹生や阿波に群生する麻を見つけたん違うんかな。
阿波から紀伊半島へ、そして大和奈良へと(熊襲から隼人、そして国栖人へと)時間をかけ衝突と融合を繰り返したんやと思う。 >>939
>四国中をくまなく探索するなかで丹生や阿波に群生する麻を見つけたん違うんかな。
それもあるだろうが、阿波の地下資源(緑色片岩・紅簾片岩・辰砂・蛇紋岩etc.)が大きい。
それと吉野川などの大河、その背後の深い森林、黒潮流れる温暖な気候、豊かな海etc. @阿波 その中でいち早く大和に到達したのが葛城氏の国栖人なんやろな。
天の浮橋、あまのうきはし、、、。
あま…「あ」と「あ」の間、うきはし…「うき」「憂き」「はし」…「ならはし」「慣わし」、、、。
大和言葉はマジで含蓄が深い。面白すぎる。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! ・帥升に連れられた生口160人
・卑弥呼の死で奴婢100余人を殉葬
これ同じ地域の奴婢(生口)でしょう。
2世紀前半の「其国の男王」と帥升の時代が同じ、ひょっとして男王と帥升は同一人物か。
王都と奴婢郷が存在し、そして殉葬された奴婢の痕跡が日本のどこかにあるか?
高天原(御所市高天)あるのだ。
何度も行ってるのに今まで気づかなかった、殉葬されたのは土蜘蛛だ。
明神大社・高天彦神社前の蜘蛛窟。
埋められたのは神武の時代。それはヒメ(踏鞴五十鈴)の時代である。 卑弥呼の死で奴婢100余人を殉葬
goo.gl/qPEYFv
殉葬された土蜘蛛 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 紀和に程近い藤井寺の、藤、もいにしえには、葛、くず、くづ、で葛井寺と書いてふじいでらと読ませたらしい、葛城、国栖人の勢力(もとは熊襲/隼人、と近いつうか分派した古来「ふるき」の人たち)の広がりが大きかった証しやろな。
そう考えると藤原氏渡来人説も後年にこじつける人らの飛ばしかもな。
渡来したとしても、むしろ、原、がつけられてるから葛の本拠地からの新来(あらき)部族の頭目やったんかも。
学者らは何が何でも大陸半島由来にしたかったんやろ。 朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この屈辱的な史実を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、
女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。 倭国大乱で筑紫を追い出された天孫族の移動が神武東征。
その後で筑紫で共立されたのが卑弥呼。
倭の王都はずっと筑紫のまま。
卑弥呼の死後に大和を含む各地にまた再編の動きを生じて、畿内には前方後円墳の時代がやって来たのだろう。 >>952
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 朝貢ゆうより物々交換やったん違うの?
当時の倭国は大国やった説は信憑性高いと思うわ。 朝貢と言う名の物々交換だけど、形式上は倭王が中国の皇帝の家臣。 ココの人たち放置好きそうだから貼っとくね
https://goo.gl/Hgammx 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 >討たれるエピソードばかり。
もえあがれ
もえあがれ
もえあがれ キナイコシ
百余歩 走れ
まだ 箸墓にこだわる 闘志が有るなら
巨大な 内行花文を 討てよ 討てよ 討てよ
勝者の怒りを ぶつけろ キナイコシ
無鉄器戦死 キナイコシ キナイコシ たちあがれ
たちあがれ
たちあがれ キナイコシ
銅鐸よ 叫べ
神武の 東征に屈した 悲しみあるなら
倭国に 生口として 行けよ 行けよ 行けよ
うず巻く 内行花文に 萌えろ キナイコシ
無鉄器戦死 キナイコシ キナイコシ よみがえる
よみがえる
よみがえる キナイコシ
小枝を 掴め
まだ 罪悪感にふるえる 良心があるなら
真実を求めて 翔べよ 翔べよ 翔べよ
伊都へ 向かって 翔べよ キナイコシ
無鉄器戦死 キナイコシ キナイコシ >>961
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
物部神社社伝に書かれてるウマシマジ。
東海を征したあと山陰に行く。
彼の父であるニギハヤヒは筑紫、讃岐、播磨の物部集団を伴い畿内入り(先代旧事本紀)。
その主力=主体は吉備であろう。
先代旧事本紀は上田正昭や森浩一も復権を言ってたにも関わらず、
無視し続けるのは橿原考古学研究所の勝手である。
しかし上記のような「史実」に気づかない失態を演じるわけだ。
寺沢薫など筑備讃播と言いながら気づかない。
アホである。 >>968
それもこれもみんな忌部物語
物部も忌部一族のひとつ @阿波 冊封ねえ。
「冊封体制論」は日本だけのガラパゴス理解なのである。
1962年に西嶋定生という東大教授が提唱し、媚中ブームに乗って定説化しただけだ。
冊封は中国の皇帝が家臣に肩書きと任命書を与えて領土の支配権を認め、挨拶にやってきたり軍役につく代わりに保護するという関係だが、それと類似の関係を外国君主にあてはめたものだ。
日本の赤い学者らは突然こう言うこと言い出すんやね。
遣唐使説なんかもちょっと深く調べると其の出鱈目ぶりが よう解るからねえ。 高天原(御所市高天)にある最古の明神大社「高天彦神社」の境内に、
径百余歩の「塚」があり、
周囲に奴婢(土蜘蛛)が埋葬されている。
これは偶然ではない。 >>970
>冊封は中国の皇帝が家臣に肩書きと任命書を与えて領土の支配権を認め、挨拶にやってきたり軍役につく代わりに保護するという関係だが、それと類似の関係を外国君主にあてはめたものだ。
倭王であることの証として金印紫綬を受け取っていたのだから、まさにこの冊封体制だよ。
自分たちで作った印ではなく、漢や魏から与えられた印を身分証明に使っていたわけだからね。
倭に王を名乗る者は多かったが、その中で支配権を認めてもらうために朝貢したんだよ。
そのかわり、卑弥呼のように狗奴国などの勢力との戦いにおいて魏の保護支援を期待したわけだ。
典型的な冊封体制だよ。 >>952
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>972
其の金印自体、下賜された!!と言えるものなのか…
何処かにもカキコしたけど金印は大陸の一方の旗頭騎馬民族の大月氏國と倭国の二國のみが受けている、としたら其れは外交上の単なる贈答品やね。
媚中ブームとか言うプロパガンダが横行してた時代に刷り込まされた史観やろ。
「歴史終生者!!」と声高に言う人らの術中に嵌められた人間が多すぎると思うわ。 金印の意義がジョーカーやと思わせるのも赤い学者の思惑やろ。
俺も日教組の日本史の教員にそう教えられた記憶あるわ。
その教員は異を唱える者を力で捩じ伏せるヤカラやったし。
(殴られた事は無かったがヘッドロックで押さえ込まれた)
卑弥呼は後ろ盾を求めて魂を売った的な事を授業中に抜かしてたのに違和感を感じて、実際に派兵されたり他の国に其れがどれ程の抑止力になったのか聞いただけでね。 >>974
>其の金印自体、下賜された!!と言えるものなのか…
典型的な下賜だよ。
歴史を歪曲しようとしても無駄。 >>975
悪い教師に当たったことには同情するが、個人的な思いで歴史を捻じ曲げるなよ。
顧問が派遣されたが兵は来なかったことは、卑弥呼にとって期待外れだったろう。
ただし黄幢は与えられたので、卑弥呼の軍は形式としては魏の軍であり、それに弓を引く狗奴国は魏の皇帝への叛逆者の立場になる。
後世の「錦の御旗」と同じ役割だね。
それに加えての金印紫綬であり、典型的な冊封体制。 まあ遣唐使の件なんかでも、見識が広いと認められた司馬遼太郎でも、明治の学者が捻じ曲げた学説を踏襲して彼方此方で拡散してたようやし。
捻じ曲げたものが正史にされてるからな。
一旦、決め付けられたら覆す事なく信じれば楽やからな。 >>974
金かどうかはわからないが、
216年に曹操は、呉の支配下にあった山越族に印綬を与えて、呉へ挙兵させている >>977
卑弥呼が魏の兵を期待していたとは思えんな
もともと南船北馬の言葉もあるように、魏軍は船より騎馬がメインだ
そして日本に軍を派遣するには多数の軍船が必要だけど、
魏が軍船を使って敵と戦ったのは対呉戦のみ
しかも249年に卑弥呼は亡くなるが、
魏は223年の魏呉戦以来、軍船を使った戦いをしていない >>981
期待しなかったわけはない。
黄幢までもらっているわけだし。
しかし期待外れだったろうね。 >>979
前漢以来、倭はガッチリと中国の冊封体制に組み込まれているよ。
冊封体制から外れるのは隋の時。 >>983
勝手に組み込まれてただけじゃないの?東大の教授に。 >>973
おまえ、誰と間違えてるのか知らんが失せろや、基地外。 >>985
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。
古い海神と関係あるのか?BC1000年頃水稲栽培をもたらした勢力か?陶塤と関係あるのかな。
陶塤は、宗像以東、周防出雲丹後半島など日本海側中心に分布。
水稲栽培が伝わった時期、緯度を考えると殷からの難民がもたらしたのか。
殷に纏わるもの、亀ト、河伯信仰、生贄など。
カミイクスビ、イノヒメ
クマノクスビ クスビは奇し火
クマは篭った、奥まったという意味か。
イノクマ、生馬、生駒、伊熊、猪熊と何か関係あるのか。イン+クマ? >>988
案外、7世紀以降に「天皇」と言われた人が官であったかもよ。
なにせ女王国なんだからね。
安寧=たまてみ
懿徳=すきつみ
こんな感じの名前がいそう。 >>984
卑弥呼のほうから皇帝へ使者を派遣して、
王位を任命してもらってるから
日本の戦国時代に、地方大名が天皇や将軍に接近して名誉な官位を拝領して権威付けしたように、
古代では中国の皇帝から官位を拝領することが権威付けになったのだろう >>989
亀卜が日本に伝わったのは奈良時代だこの大バカ。
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! キチガイが居ついてしまった。
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