邪馬台国畿内説 Part331
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1519982666/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>189
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、終わったな。 >>943
唐代の魏志に「邪馬壹国」と表記されていたなんて
なんの根拠もないだろ? 曹操の墓より大きいのは良くないな。
まして100m越えとか、
魏に喧嘩を売っているんだろ。 >>955
薄葬法なんて存在しないから関係ないし。 鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説 @阿波 >>190
>新唐書では同じルートが逆向きに書かれている
新唐書卷四十三下 志第三十三下 地理七下 羈縻州 嶺南道 諸蠻 峯州都督府
「安南經交趾太平,百餘里至峯州。又經南田,百三十里至恩樓縣,乃水行四十里至忠城州。又二百里至多利州,又三百里至朱貴州,又四百里至丹棠州,皆生獠也。又四百五十里至古湧步, 水路距安南凡千五百五十里。」・・・
千五百五十里は水行(水路距)と書いてあるが、
川があっても川沿いに道をつけて陸路で行くのが大陸の人間の行動原理
なので、川沿いルートで、陸行と水行と合わせて二千四百里(=如至成都)と
いう書き方になってるんだよ <
新唐書の「安南→古湧步」の凡千五百五十里では、
旧唐書の「陽苴棟驕i大理)→安南」の「東、如至成都通水陸行」コースの是非の、
判定根拠にはならないよ。
勿論、当然二千四百里も合っていない。 >>191
>旧唐書の
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
に関して、ザラコクが間違っているのは、
起点が陽苴棟驕i大理)なのに、揚子江を持ち出すこと
揚子江は、成都から先の話で、大理から成都に行くのに揚子江は
最初から最後まで関係がない<
陽苴棟驕i大理)→安南の里数説明だけであるんなら、
「如至成都通水陸行」なんて余計な事になる記載をする必要がなく、
を始めから「2700〜2800里」位の里数を書けば済んだ筈。
そうせずに、如至成都通水陸行とのみ書いた、という事は、
(里数は不明だが)成都方向の道を採って通水陸行路を採るのだ、
という説明をしたかったから。 鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説 @阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 >>964
四文字で済んで合理的じゃないか
合理的に書いただけだよ >>192
>>大和は、他に影響を余り及ぼさない凡庸な一地方の「市」を監督する大倭職に過ぎない<
>大倭職って、それ、後漢書でいう倭国の王様ww 後漢書 其「大倭」王居邪馬臺國<
高慢な書き換え屋の後漢書は論拠にならないし、対象も違う。
元々、魏志にはきちんと「國國有市、交易有無、使大倭監之」と書かれ、
古事記にも、欠史八代の中の四人に「大倭」の称号が冠せられているし、
国生み神話でも、大和の地を意識してなのか?、「大倭」の文字が冠せられている。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 後漢書は明らかに九州北部を邪馬台国としているね。
そして境界は狗邪韓国としている。 >>970
安っぽい本のトンデモ説なんて引いても信用されないって >>975
そんなもの引用してないよ?
どこか被っているのかな? 理由もなく「邪馬台国の時代」って言い張ってるだけ
歴史学者は誰も認めてない >>173
>「「臣下に王より大きな墳墓の造営を許す王朝」があるなら
「一つでいい」から「根拠」として挙げて見せてくれ 」
に対して、答えてないんだよな 「根拠」となる他国の例は一つも挙げられない模様<
元々、倭国は、
魏朝から同盟国的な「親魏倭王」印を与えられ、
部下の大夫らが「率善中郎將」などの臣下になっただけであるから、
半分臣下的な状況であったのであり、
同じ事が、倭国と大和との間にもあって、
大和は、倭國から別れた別種の旧小国であったのであり、
だから、倭國に対しても、半分臣下的な立場。 >>976
自分の間違いを、なぜ素直に認めないんだ >>978
ほう、そうであったか。
ちなみに買ってなくてウェブで引用しているだけだね。 自分が引用したものをろくに見てないって、いい加減だね 九州説が終わってることは、もう皆の知るところだ
新スレへの荒らしぶりを見ろ >>203
>「大陸の史書が方角を間違うはずがない」という主張は 論理学的に「偽」だ<
大陸の人間でも、
実際に現地には確認に行かずに書かれた情報などは別として、
きちんと太陽や星の動きで方向確認出来た方向情報では、
「東と東南」などの8区分方向では混乱を起きる事があっても、
「南と東」のような四区分方向の間違いをする事は、
全くのように有り得ない。 >>993
嘘つき。
魏里だと畿内を通過して東海地方だね。 このスレッドは1000を超えました。
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