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♪邪馬台国ドンと来い!♪136
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/02(月) 21:51:55.76
       ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
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前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪135[転載禁止]©2ch.net・ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517409435/l50
0003日本@名無史さん
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2018/04/02(月) 22:11:57.52
自分で貼れよ。
0005くまモン論者
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2018/04/03(火) 06:39:06.73
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者
今使譯所通三十國從郡至倭

循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對海國
其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國
有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之

東南陸行五百里 到伊都國
有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
0006くまモン論者
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2018/04/03(火) 06:40:32.92
南至投馬國
水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都
水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國

此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
0007くまモン論者
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2018/04/03(火) 06:42:21.01
男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
計其道里當在會稽東治之東
0008くまモン論者
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2018/04/03(火) 06:43:27.84
其風俗不淫
男子皆露紒以木緜招頭 其衣横幅但結束相連略無縫
婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無
與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣
有屋室父母兄弟卧息異處
以朱丹塗其身體如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

其行來渡海詣中國恒使一人 不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚 不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉
其俗擧事行來有所云為輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
其會同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬但搏手以當跪拝
其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
不盗竊少諍訟 其犯法軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族
尊卑各有差序足相臣服
収租賦有邸閣 國國有市交易有無
0009くまモン論者
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2018/04/03(火) 06:45:04.35
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾
0010くまモン論者
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2018/04/03(火) 06:46:55.92
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
0011くまモン論者
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2018/04/03(火) 06:48:51.78
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都

其年十二月 詔書報倭女王曰
制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使
送汝 大夫難升米次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順

汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬
引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹

答汝所獻貢 直又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩
五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授

其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之

卑弥呼以死大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服更相誅殺當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
政等以檄告喩壹與
0012くまモン論者
垢版 |
2018/04/03(火) 06:56:43.28
個人的に直読で文意が通っているつもりですが
改行等に問題が有ればご指摘ください。
弟子@名無史が対応しますw
0013くまモン論者
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2018/04/03(火) 07:00:08.98
弟子タソ〜サボタソ〜阿波タソ〜日本海論者タソ〜肥国王家タソ〜葛城タソ〜名無しタソ〜(^O^)ノ
    , - ―‐ - 、
      /         \
     /    ∧ ∧  ,   ヽ
    ./  l\:/- ∨ -∨、! , ',  さあみんな集まってー!
   / ハ.|/          ∨|,、ヘ   祭りがはじまるよー!!
  |ヽ' ヽ     ●  ●    ノ! l
. 〈「!ヽハ._    __    _.lノ |
  く´ \.)    ヽ. ノ   (.ノ  ̄
   \ `'ー-、 ___,_ - '´
      ` - 、 ||V V|| \
        | ||   || l\ ヽ
0015日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 08:01:06.17
頼みがある
長文を書く時は改行を多くしてくれ
。のたびに改行してもいいくらい
それから空白行をたくさん入れてくれ
2、3行おきくらいで
それと長いのは2つのレスに分けるなどしてくれたらありがたい
0018日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 12:11:06.12
|∩`Д´) / '⌒☆ 1乙
倭人伝は魏=帯方郡が卑弥呼を倭王と勘違いした歴史のお話です。
238〜240年で 皇帝の印綬では 親魏倭王卑弥呼 ですが、実態を知った
陳寿、帳政、梯儁は女王国に倭国、倭王の表現を意図的に避けているように見えます。

>>5 >倭人在帶方東南大海之中
以降の本文に示す 帯方の南、対馬海峡〜九州を探検した魏使の報告に対して
陳寿は 倭人在帶方東南大海之中 と記していますから
帯方東南となる日本海の向こうに倭の本体が有ることを認識しています。

漢四郡の首都は漢時より楽浪ですが、この時は帯方郡が独自に
卑弥呼の使者、奴国大夫、難升米を洛陽の皇帝に紹介しています。
238年は魏が3代にわたり東夷を支配した、遼東〜漢四郡の公孫氏と戦中であり
楽浪はまだ平定できていなかったことも考えられます。
こういう半島情勢の中で取り次がれた卑弥呼の遣使だったという背景は重要です。

普通は卑弥呼が漢四郡の首都の新支配者に朝貢したとするのが常道ですが
倭人伝はこの発起文が楽浪郡でないことに、まず疑問をもって読み進むべきかと思います。
0019日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 12:57:50.40
>>18
>倭人伝は魏=帯方郡が卑弥呼を倭王と勘違いした歴史のお話です。

九州説はすぐこうやって卑弥呼を小さな存在にしたがるw

魏志倭人伝にも、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等って除正使を送ったことが
明記されてるだろ?
そして、
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
これだけの日程をかけて、邪馬台国(ヤマト国)まで行ってる
ヤマト国の女王が倭国の代表に足る存在だってことを、投馬國(出雲)にも
寄って確認してる

そう簡単に騙されてたら、魏皇帝の権威はズダボロだよ
0021日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 13:49:04.99
>>20
>列島を代表していたのは、博多湾沿岸の倭国だよ。

そう言い張る九州説の人はいても、
その裏づけとなる根拠はない

3世紀の北部九州は、地域王権の発達の見られない、一地方だよ
0023日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 14:05:05.74
三世紀の福岡は、日本最大の
弥生文化地域だからね。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 14:56:19.41
>>23
>三世紀の福岡は、日本最大の
>弥生文化地域だからね。

滋賀県の野洲川扇状地、三角州の弥生遺跡の充実度を見てごらん
九州説の人は、新しい情報を入れないまま古い見聞を信じ込みすぎてるよ
0025日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 15:01:53.89
>>24

弥生時代遺跡数

滋賀県 638件
福岡県 4033件

古墳時代遺跡数

滋賀県 1873件
福岡県 16129件
0026日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 15:19:24.40
>>20
>列島を代表していたのは、博多湾沿岸の倭国
倭人伝の時、卑弥呼が倭人国を代表していた これは倭人伝で判る。

>列島を代表していた
魏の列島認識に本州が有るのに九州までしか知らなかった。
というのが、>>18で、 

>>21 は 3世紀の北部九州は、地域王権の発達の見られない、一地方
だが、一応倭人伝の女王国は地域王権だよ。

>>23 >三世紀の福岡は、日本最大の弥生文化地域だからね
これは、畿内でも阿波でもいいけど、輸入鉄器青銅器宝飾類などじゃなくて 
大型古墳文化、銅鐸などの地域連携、軍事国家化としては
畿内系の考古学上の遺跡の方が、発達が早くないかな。

卑弥呼は福岡平野と久留米平野だけで、倭人伝が語る
半島南岸の倭人国も不属女王国だから、中国外交無しで
早期本州勢でも弁韓加羅に鉄を取りに行った勢力も有ったと考えられる。

邪馬台国は無関係で、後の倭王=朝廷は畿内から来ている。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 15:45:14.38
>>25
>弥生時代遺跡数

これをよく出してくる人いるけどさ、本ネタは何処にあるの?
他人が確認できる形でソースを出してくれるかな?
0028日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 15:47:15.45
>>26
>卑弥呼は福岡平野と久留米平野だけで、倭人伝が語る

これだと、
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
これが入らないんだってば!

それに、邪馬台国の七万余戸も説明つかないだろ
0029日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 16:06:09.28
>>27
いつも張られているのとは別のソースだな。
まあ、どのデータベースでも傾向は同じだよ。
自分がアクセスできる好きなソースで検索して見なよ。
できればその結果も貼って。
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 16:31:53.87
>>30
>帯方郡からの日程だよ。

そんな読み方はないと何度いえば
しつこいな

帯方郡からの日程なら、投馬国へ行くときはどこを通るんだ?
それに帯方郡からの日程なら
「南」至邪馬壹國ではなく
「東南」至邪馬壹國じゃなきゃおかしいだろ?
魏志倭人伝の最初に
倭人在帶方「東南」大海之中と書いてあるし
朝鮮半島の循海岸水行でも「乍南乍東」で東に向かってるし

帯方郡からの日程とするのは、無理な読み方だよ
0032日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 16:38:44.50
>>31
どうせ伝聞だし、福岡で宮崎はどちらかと尋ねれば、もっと南だよという答えが返ってくるだろう。
何がおかしい?
0033日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 17:02:37.40
>>32
>どうせ伝聞だし、福岡で宮崎はどちらかと尋ねれば、もっと南だよという答えが返ってくるだろう。

その福岡が「帯方郡から」だったら「南」ではなく「東南」じゃないとおかしいという話

投馬国へは、どこを通っていくんだ? という問いにも回答がないし

>何がおかしい?

全面的におかしい
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
を「帯方郡から」とするのは誤読
したがって、福岡でも宮崎でもない
0034日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 17:27:30.54
>>33
どこを通るかなんて、行ったことがない魏の使いが知るわけない。
東南ではなく南なのだから、出雲はないだろうな。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 17:33:01.26
>>34
>東南ではなく南なのだから

「帯方郡からであれば」東南でなければならないのに、南とかいてある時点で
「帯方郡から」というのは誤読

通常の大陸史書の地理・旅程記事の基本に従えば、というか従うのが当然だが、
南至投馬國水行二十日 の起点は、直前の不彌国
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月 の起点は、直前の投馬国となる

そして、この時点で、不彌国が福岡平野の国である以上、南方向の水行は不可能
ということになる

つまり、魏志倭人伝の記載どおりに読むことはできない、ということだ
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 18:45:41.45
>>35
>>5 から >>6 の間に段落が存在する。

里程で記されていたものが、日程に変わる。
倭人船に同乗の案内官 卑奴母離 が対馬、壱岐、奴国、不彌国まで同行した。
魏には東夷概念図が存在し、投馬国が半島南岸倭人国であることを知っている。

247年 張政は 倭人船で渡航した。 
目的は黄幢拝假難升米 為檄告喩之であり、難升米の奴国までしか来ていない。
往路は遣倭 載斯烏越 等詣郡の船
復路は 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 の船である。
これが、張政の行程 >>5 ちなみに、それぞれの船の母港は同じとは限らない。
出港が梯儁の参問国に無い、不彌国の港であった可能性が高い。

梯儁は、奉詔書印綬詣倭国 で240年に魏の軍船で渡航した。
この時、卑弥呼の王宮まで行軍し、国勢を参問調査し、21国に漢名を付けた。

邪馬壹國 の命名は この倭人国和名の表音 邪馬 国 に在る、
卑弥呼の 壹 これは 王宮の 表意文字である。
5万戸は半島南岸投馬国全体の人口、7万戸はこの女王国全体の人口である。

一月行は魏の概念図上の座標単位であり満二千里の2千里に相当する。
これが >>6 梯儁の行程である。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 19:24:49.97
>>36
>>5 から >>6 の間に段落が存在する。

ごめん、見えないものが見える人とは話ができないわ
相手しないよ
0038日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 19:27:34.97
>>25
成り行きは判るけど、福岡 対 琵琶湖しかない滋賀 はひどすぎ
吹いたwww

県単位のデータならせめて、京都奈良滋賀大阪 対 福岡佐賀大分長崎とかじゃない?
250年で対邪馬台国なら、本州勢って淡路、吉備、出雲、阿波もだけどね。 ん?
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 19:52:50.33
投馬国五万戸が邪馬台国七万戸に含まれるなら、奴国二万戸で尽きてしまう。
対馬や伊都はどうなるんだよ。
投馬国は邪馬台国に含まれない。
もちろん、半島南部でもない。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 19:55:31.38
遺跡数なら福岡県だけで
畿内の遺跡数を上回るからねえ。
0041日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 19:59:21.77
|∩`Д´) / '⌒☆ >>18 つづき
依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者
今 使譯所通三十國 從郡至倭

漢時にも朝見者の記録がある。
つまり、陳寿のデータには、史記他、漢の古文書が有る。
既知のものに、57年倭奴国金印、107年倭王帥升が有る。
百余国であるから、統一王権は無いとすべきであろう。

今 使譯所通三十國
今=魏が漢四郡を公孫氏から取り戻した238年以降
使譯=張政と梯儁によって、30国を知ることとなった。
以下の説明文を読むと、30国は女王卑弥呼に属する地域集落が国々である。

女王国紹介の結語によって
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
に、ある国々であることが判る。

從郡至倭
自郡至倭 でないことによって 以下が
郡使の説明に拠る行程が示されることを予告している。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 20:03:38.59
>>38
>250年で対邪馬台国なら、本州勢って淡路、吉備、出雲、阿波もだけどね。 ん?

3年前なら、絶対「阿波」はなかったんだが。 時代は「阿波」へと確実に変わっていっている。  @阿波
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 20:09:52.61
日数に変わったのは出発点からの日数の合計
そう考えると突然距離から日数に変わったことも不自然ではない
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 20:40:04.32
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 21:33:46.89
>>40
>遺跡数なら福岡県だけで
>畿内の遺跡数を上回るからねえ。

どうしてこれのソースを出してくれないんだよ!
話が進まない
おそらく、データの採り方が一様ではないから、それを検証したいんだが?
0046日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 21:36:40.98
>>43
>日数に変わったのは出発点からの日数の合計
>そう考えると突然距離から日数に変わったことも不自然ではない

不自然ではないと思うのは、43の個人の感想
距離表記が日数になっているのは、他の史書でも見られる
そして、途中まで順次記していた旅程が、いきなり起点まで巻き戻される例はない
水行陸行の日数が、帯方郡からと考えるべき理由は「九州に収めたいから」以外にはない
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 22:01:25.47
魏の使いが九州から出ていないということでしょう。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 22:22:31.30
>>47
>魏の使いが九州から出ていないということでしょう。

その妄想は 「九州に収めたいから」以外にはない
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 23:05:10.95
九州だと東に海があるからいいけど
畿内は東に海がないな
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 23:28:45.78
張政は倭人船で奴国へ来た。
卑弥呼の墓は伊都で見たのではないのか?
伊都が九州の外になる道理が無い。

奈良の南の狗奴国と戦争?
帯方郡が軍事同盟?
そんな歴史が日本にあるか?

なら、倭人伝は偽書で充分。
機内邪馬台国なら倭人伝の創作。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 23:56:30.42
>>45
自分の手元のデータで追試すれば?
で、結果はここに書いてくれるよね。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 23:57:15.53
【墳丘墓の分布】
弥生時代の墳丘墓、古墳のある遺跡数
一つの遺跡に複数の古墳あり
奈良は関西の中でも特に少ない

筑紫国
 福岡県 1945件
肥国
 佐賀県 415件
 長崎県 224件
 熊本県 166件
豊国
 大分県 310件
熊襲国
 宮崎県 145件
 鹿児島県 109件

大和国
 奈良県 198件
山城国
 京都府 616件
摂津国他
 兵庫県 638件
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 06:35:36.80
>>50
>好きなデータを使いなよ。
>結果は変わらない。

好きなデータだったら、どんな恣意的なデータを使ってるか分からないだろ
それがこちらの問いの根本でもある
共通のデータをもとに議論しないと、議論にならないんだよ

なぜ頑なにソースを示さないんだ?
0055日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 06:40:31.00
>>53
群集墳の数え方一つで左右されるデータで何が言いたいんだい
倭王の所在を探るためには、権力誇示のモニュメント巨大古墳で見た方が端的に分かる

同じのを何度も貼るの面倒なんだが
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
    作山古墳
    両宮山古墳 
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 

トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県 
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位がやっと 
奴国王家の豪族筑紫君の最盛期の磐井の墓だね
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 06:48:57.19
>>54
遺跡データベースで
時代、場所、遺構、遺物に
適切な項目を入れて
検索してみてください。

以前より件数が増えていますので
データは順次追加されているようです。
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 07:19:44.55
>>55
>倭王の所在を探るためには、権力誇示のモニュメント巨大古墳で見た方が端的に分かる

いや、それよりも絶対「弥生集落遺跡」で見た方が端的に分かる 。 @阿波
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 08:50:50.18
倭人伝による邪馬台国時代という時代背景があるとして
九州説なら57年以前、まあ0年〜250年相当になるが
九州のこれは、明らかに古墳時代ではないし、
九州自体の統一以前に大王墓が有ったとして、九州説30国では小さすぎる。

奈良については、この間銅鐸時代であって
本州豪族が経済発展や墾田所有の資産化や水利権紛争などから
軍事覇権を伴う富国強兵化の調略や統合、縁組で、
摂津、京都、近江、出雲、吉備、淡路、阿波などの紛争、序列化統合が有って
防衛重視の奈良に国家機能が建国されたと考えるべきなのではないかな。

銅鐸時代の歴史の時系列や展開が実際に存在した邪馬台国を
畿内説が無理無理組み込むことで解明困難にしてるんじゃないかな?
まあ、邪馬台国九州東遷説よりは、そうとうまとも、とは思うけど。

京都は平安京以前の史跡は
そのまま遺跡ではなく遷宮や神社寺院に発展しただろうし
大阪のような、戦場は戦国騒乱で保存されて無いんじゃないのか?
九州は、この点でダイブン環境は良いかもw
福岡の下町辺りは、今でも菊松里ってことは無いか? 知らんが・・・
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 09:00:24.36
>>60
言いたいことは、邪馬台国時代は倭国(阿波)ってことなんでしょ?  @阿波
0062日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 09:52:39.96
>>61
九州北部でもそれぞれ王の居る30国は王権相続のため戦争を繰り返す。
統一された倭国は無い、と言うのが倭人伝での中国側認識だ。

近江、淡路、など新しい鉄工所の発掘などで
纏向や唐古・鍵遺跡で統一国家を形成する土壌は明確化している。
阿波はその中でも、朝廷本流に近い古来譜代の部分と思うが
邪馬台国の小国群には含まれたらダメだと思う。

女王国の遣使は大夫であり、王を自称したが
阿波説だと
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
支惟王?/(載斯)烏越
は、どこの地域を想定できる?
壱与擁立までの内乱の主役はこの人たちのはず。

南の国境の向こう
狗奴王/卑弥弓呼
はどうするの?

奴王 難升米 都支王 都市牛利 巳百支王 伊聲耆 掖邪狗
は、軍事同盟で魏の軍の将軍を任されているが、
阿波の倭王はこれを許すような弱小国王か?

魏を過大評価する論が多いが、魏の漢四郡は239年略取、313年に滅びる斜陽国。
半島の魏を追討した高句麗と戦い、新羅、百済の建国を後援したのは倭王軍であり
この時、牛馬の移入に成功しているが、これには本州基盤が有り九州国ではない。

宗像地域が付属女王国では無く、本州畿内は並立して九州以上の軍国化がある、
という発想は阿波先生の論拠によって学んだことです。 ありがとうございました。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:14:10.02
>阿波説だと
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
支惟王?/(載斯)烏越
は、どこの地域を想定できる?
壱与擁立までの内乱の主役はこの人たちのはず。

この内乱の主役たちは倭国(阿波)のうち、吉野川流域・鮎喰川流域に割拠していた王たちである。  @阿波
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:26:45.15
>>60
>京都は平安京以前の史跡は
>そのまま遺跡ではなく遷宮や神社寺院に発展しただろうし

これ、九州北部も同じですよ。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:28:18.71
>>60
>銅鐸時代の歴史の時系列や展開が実際に存在した邪馬台国を
>畿内説が無理無理組み込むことで解明困難にしてるんじゃないかな?

この銅鐸時代(仮)の終わりをいつと見るか、という編年の問題に帰着するんだよ

標準的には、土器片年で畿内第V様式に入る時に一つの画期があり、その時に
銅鐸祭祀の時代が終わると考える

それから、庄内0期に纏向遺跡の建設が始まり、その画期が卑弥呼の共立を
契機とするものと考えるのが畿内説の概略

特に、問題はないと思うが?
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:28:46.27
>南の国境の向こう
狗奴王/卑弥弓呼
はどうするの?

狗奴国は県南に位置する、勝浦川流域・那賀川流域・海部川流域。
倭人伝と記紀を整合させるのであれば、卑弥弓呼=素戔嗚尊  卑弥呼=天照大御神  @阿波
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:33:57.37
>>65
>それから、庄内0期に纏向遺跡の建設が始まり、その画期が卑弥呼の共立を
契機とするものと考えるのが畿内説の概略

卑弥呼の共立は、纏向遺跡建設以前。 というより、奈良盆地入植以前。  @阿波
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:36:32.65
>>67  訂正
「本格的」な奈良盆地入植は卑弥呼共立以前。  @阿波
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:36:35.43
>>65
>標準的には、土器片年で畿内第V様式に入る時に一つの画期があり、その時に
>銅鐸祭祀の時代が終わると考える

そして、筑紫の銅鏡銅矛文化が押し寄せてきて、畿内の主流になるわけだ。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:38:37.99
>>67  再訂正
「本格的」な奈良盆地入植は卑弥呼共立以後。  @阿波
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 10:43:55.40
>>69
>そして、筑紫の銅鏡銅矛文化が押し寄せてきて、畿内の主流になるわけだ。

銅鏡銅矛文化も含めて、その時はすでに倭国(阿波)が先進文化超大国の時代。  @阿波 
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 14:27:40.51
>>69
>そして、筑紫の銅鏡銅矛文化が押し寄せてきて、畿内の主流になるわけだ。

こういう嘘がよく書けるよな
実際は、畿内第V様式から、庄内式、布留式と、畿内の土器様式の変遷に合わせて
九州からも畿内様式土器が出ていて、布留式期には在地様式の土器は消滅する

九州から東への影響拡散は認められない
逆に、九州は畿内の動きをそのまま後追いで受容するだけの地域になっている

弥生末期以降に、北部九州に有力が王がいたとは認められないし
弥生末期以降の東遷説も成り立つ余地はない
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 17:13:44.81
>>52
>自分の手元のデータで追試すれば?
>で、結果はここに書いてくれるよね。

奈文研の遺跡データベースってことでいいのかい?
で、見てきたけれど、結局は

「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」

『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
これが全てだな。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 17:14:19.91
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件 「弥生時代の集落遺跡」
2. [福岡県] 1703件
3. [調査 (除外検索)] 723件   「調査を除外」
福岡県の「弥生時代集落」のデータのうち、980件が調査報告の件数で遺跡数ではない

0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件
2. [奈良県] 229件
3. [調査 (除外検索)] 47件
奈良県だと、「弥生時代集落」のデータのうち、182件が調査報告の件数で遺跡数ではない

また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵

それに対して、糸島の三雲遺跡群は5件のデータとして、データベースに登録している
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2

結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ

これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ?
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 18:04:00.38
あと、福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる

そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 18:34:39.34
巻向にも200回掘った遺跡があったね。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 18:54:05.64
>>77
>巻向にも200回掘った遺跡があったね。

これはデータベースに200件という登録のされ方はしてないから!
でも、「汐井掛第90号木棺墓」シリーズは204件ある

こういう実証的な確認をするために、どのデータベースかはっきりしてくれって
言ってたんだよ

確認できなければ、77みたいな言いがかりがそのまま通ってしまうからね
0080日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 19:21:58.17
200回掘って目ぼしいものが出ないって、どうなの?  意地の所業?
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 19:32:20.08
>>70
阿波説の邪馬台国イメージが倭人伝本文に対して妥当な規模だってこともわかりました。
先に九州説が倭人伝の邪馬台国を矮小化し過ぎとの指摘が有ったようですが、

徴税や徴兵、国司支配で大型古墳時代に入った軍事覇権の統一国家として
倭人伝の邪馬台国では、外交姿勢や国体において、倭王が弱小すぎるというのは事実です。

313年に滅びる、漢四郡の魏を過大評価していることも問題ですが
世襲王が共立だったり、魏使の送迎して、国政に口出しさせてるような国じゃ
300年辺りからの百済新羅建国後援、高句麗防衛、半島進出なんて不可能なんです。

阿波説は畿内説のバリエーションかと思ったら、東遷説もかぶってる?
畿内王権は邪馬台国の50倍くらいの軍事経済ベースがあるように思います。
新井白石も本居宣長も、草葉の影で飯吹いてると思いますよ。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 19:44:22.03
>>81
>阿波説は畿内説のバリエーションかと思ったら、東遷説もかぶってる?

東遷説といっても、白村江の戦以後の8世紀奈良遷都ですね。  @阿波
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 19:48:36.62
>>81
>畿内王権は邪馬台国の50倍くらいの軍事経済ベースがあるように思います。

そんな夢想より、「畿内王権」なるものが有ったことをまず先に証明しなきゃ。  @阿波
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 21:30:43.17
>>80
>200回掘って目ぼしいものが出ないって、どうなの?  意地の所業?

200回っていっても、その中にもかなり小さな範囲しか掘れてないのもあるし、
そもそも「めぼしいものがない」っていうのが80の個人的見解だからね
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 21:32:19.72
>>81
>畿内王権は邪馬台国の50倍くらいの軍事経済ベースがあるように思います。

だったら畿内王権が倭王でなきゃおかしいんだってば
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 21:33:03.47
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身

耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に

4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた倭人の一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる

自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 21:55:51.12
200回掘っても
ありふれた土器や木製品ばかりで
最後にはももの種や魚の骨、
ベニバナ花粉を成果にせざるを得なかったね。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 22:09:00.99
>>86
>中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
>薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃

邪馬台国が肥国から起こったとしても、狗奴国は熊本だと思うよ。
卑弥呼と卑弥弓呼はどちらも同族で、同じ肥国の内乱なんだよ。
筑紫伊都の天孫族(対馬海峡の天津神、海の神、アマテラスの一族)は卑弥呼直轄の一大率により抑圧されていた。

>神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進

応神ではなく、景行(大帯日子、オオタラシヒコ、忍代別)だろ。
応神は景行の血筋を根絶やしにした方だよ。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 23:48:12.75
>>86



で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?


.
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 00:08:18.81
なら、桃の種の意味も分かるな?
3世紀半ばで、明確な宗教行事の直接的な遺跡は纒向の他にはほぼない

これ一つとっても「めぼしい発掘の成果」だよ

まあ結論ありきで考える人は「認められない」って根拠なくいうんだろうけどさ
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 00:13:09.30
>>86
だいたい高度な製鉄技術と冶金技術をもたらしたなら、原始漢字の金石文がないのは
おかしいじゃないか。



で、原始漢字の金石文は?


.
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 00:43:26.00
河内や大和に矛の文化や乾田などの高度な農法が入ってきたのは庄内期以降のこと
銅鐸が消えて銅鏃が作られるようになったのも庄内期から

庄内期に庄内土器と一緒に饒速日命が多くの部民を引き連れて高度な文化を遅れた河内や大和にもたらし土着の酋長を従えて王となった
銅鐸を廃止して天神の象徴たる天羽々矢を造った
大和は鉄の供給源から遠いので仕方なく大量にあった銅鐸を集めて溶かして鉄鏃ではなく銅鏃にした

庄内期を境に大和の文化に大変革があった
そのまま筑紫の文化が流れてきたのだ
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 06:57:19.39
>>95
岡上・・・
残念ながら、それ
全部、倭国(阿波)の文化だよ   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 07:20:26.95
>>94
>銅鐸を廃止して天神の象徴たる天羽々矢を造った

ここだけ違うよ。
弥生時代の鏃は地域や部族によって違いがあり、見分けがつく。
饒速日と神武はともに九州から矢を持ち込んでいたから、同族であることが証明できた。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 08:07:34.96
弥生の鏃の話は考古学では常識なんだが。
記紀はそれを裏付けているだけ。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 08:57:39.80
>>86


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと原始漢字の金石文は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ! 
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 09:43:31.40
ところで魏の船が一日に進む距離ってどれくらいだろう
単純にもし、魏志倭人伝に書いている事をそのまま当てはめると不弥国から水行南に20日
陸行1月、それからさらに水行南10日、これを仮に中世の帆船並みとすると(一日150km)
20日でオーストラリア大陸北部に到着、オーストラリア大陸を一月で縦断、そこから南に
水行10日となると南極大陸に到達することに
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 09:50:53.08
>>103
>これを仮に中世の帆船並み

これは無理
弥生時代には構造船はないし、帆を張るマストを立てたらひっくり返る
基本は手漕ぎで、もっとゆっくりを考えないと

それに中世の帆船も、1日に150キロは進まないと思うぞ
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 09:56:00.37
>>104
中世の帆船の速度を検索すると
大体150km〜200kmという記述が多かったもんで
魏の船の速度が検索しても見当たらなかったから
ここなら何かわかるかなっと
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 10:38:37.23
前漢には帆船あったでしょ。
遼東の陸行が不可能だった時に 衛氏朝鮮を滅ぼした楼船将軍時代にはある程度実用してた。 

魏の船はそれ以降と言うか、卑弥呼の帯方遣使の238、7?年用に
黄海渡って公孫氏を滅ぼす奇襲のために大量に新造した最新船だよ。
難升米が簡単に洛陽に案内されたのはその往来が有って
孤立している帯方郡には、倭国との軍事同盟が欲しかった為だし、
楽浪にはまだ首都機能が無いから帯方郡が魏を代表してんじゃないのかな。

247年の張政の倭人船はともかく、240年の梯儁は魏の軍船で来ている。
倭人船も400年には黄海を南朝建康に渡るが、
この300年当時位で帆船の技術は導入で来ている、と考えられるのではないか。

牛馬の導入時代は当然として、57年 帥升の生口150人とか、倭人船で運べたのかね?
水行10日については、梯儁の軍船だけど、
倭人のように半島航路寄港地も熟知してないし、
部隊の寄港幕営も成り行きで、単純にその時の旅程で良いんじゃない。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 12:33:52.24
ただなぁ、大陸王朝は基本海禁政策を採るくらいで海に出るのは苦手だし、
言うほど船を使っていたとも思いにくい

帥升等の生口160人の記事は、使者ではなく倭国王その人が朝献に来た
みたいな書き方だし、どこまで信じていいかよく分からない
この一行だけだしね
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
この生口160人は、半島側の倭地の人を連れて行ったと考えている人もいるよ
つまり160人が海を渡ったわけではない、と

記紀の記述だと、垂仁天皇の誉津別命の記事で、丸木舟を使っているような
描写があるし、応神天皇のところで出てくる「枯野」も丸木舟のようだ
対馬や壱岐の海人が、南北市糴に使っていたのも基本は丸木舟だと思う

魏の使者が、倭人の丸木舟に乗ったとも考えにくいけれど
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 12:39:50.46
遣唐使の南路という
直接九州から中国に行くルートでは
直線距離1000kmを20日くらいで行くね。
早ければ10日切ったり
遭難して二年という記録もあるけど。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 13:14:41.51
>>107
半島側の倭地からでもいいけど、帯方楽浪まではどっちにしても船だろう。
そして、魏志倭人伝からは、対馬海峡を渡る知識は倭人しか有していなかっただろう。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 13:15:51.80
>>109
遣唐使の時代でも20日で1000km
1日で50km程度しか進んでないと言いたいのでは
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 18:29:09.56
>>107
>半島側の倭地からでもいいけど、帯方楽浪まではどっちにしても船だろう。

公孫氏討伐で帯方・楽浪まで船を出したのはあくまで別働隊で、
司馬懿の本隊は陸路で決戦だろ?
公孫氏がいなくなれば、陸路でいいと思うけどな
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 19:33:30.10
>>86


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと原始漢字の金石文は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 20:40:02.15
113みたいなのを貼り続けてるのって、誰?

岡上かキウスだとは思うんだけど?

頭使わずに粘着質ってところを見ると、岡上かなぁ?
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/06(金) 21:00:36.53
その人、よそのスレで見かけたことあるけど、キウスや岡上ほど壊れてなさそうだったけどなぁ

それとも、キウスか岡上の別名義なんだろうか?
0117日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/06(金) 23:58:33.69
オモロイね!

船は毎回面白い訳だが〜
自分も昔から色々考えを変えているけど、、、
準構造船は間違いないとして、
多分基本アイヌ船の中型船だと今は思っている。
帆の有無は悩む所だけど、
「其兩袖長三丈」(東沃沮伝)は持衰の装束で、この袖長があれば確実に風の影響を受けることができるだろうと思う。
どう船に結び付けたりするのかは想像し難いけどね。
無論、帆の絵があったりするから帆はあるんだろうが〜
0118日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/07(土) 00:18:55.29
>>107
>安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

安帝永初元年、倭國王帥升たちは生口百六十人を献じ謁見を請い願う。

同じ後漢書にもう1つあってそっちを見ると。

後漢書孝安帝紀36
冬十月,倭國遣使奉獻。
冬10月、倭國使者を遣わして奉献す。

つまり、
「倭國王帥升たちは生口百六十人を献じ謁見を請い願う」イコール「倭國使者を遣わして奉献す」であり、

倭國王師升の使者と他の倭人王たちの使者たちを引っくるめて「倭國の使者たち」ということだと思いますよ。その構造は卑彌呼の倭國においても変わらない訳です。

>この生口160人は、半島側の倭地の人を連れて行ったと考えている人もいるよ
半島側で調達した生口でしょう。ただ生口(捕虜)は後漢と倭國にとっての共通の「捕虜」であり、つまり反後漢勢力の高句麗とその協力勢力だと思います。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 02:20:11.37
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/Q5Ifb-UXVic
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 07:35:23.42
BSジャパン(BS Digital)
2018/04/07(土) 07:30:00 〜 2018/04/07(土) 08:00:00
ミステリアス・ジャパン【邪馬台国説・吉野ヶ里遺跡〜佐賀県吉野ヶ里町〜】
佐賀県東部の吉野ヶ里遺跡。弥生時代の国内最大級の遺跡である吉野ヶ里遺跡は、卑弥呼が統治した
「邪馬台国」だったのではないかという説がある。その理由とは…?

番組内容
今回の舞台は、佐賀県東部に位置する吉野ヶ里遺跡。社会の授業で習う吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の国
内最大級の遺跡。現在は歴史公園として整備され、園内には古代の暮らしが復元された施設が点在している。
吉野ヶ里遺跡は、卑弥呼という女性シャーマンが統治していた「邪馬台国」だったのではないかという説がある。
その説を後押しする遺跡内に隠された秘密とは…?
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 08:37:38.50
>>68


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと原始漢字の金石文は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



今すぐ言えよおまえ! 
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 13:38:13.97
>>118
>「倭國王帥升たちは生口百六十人を献じ謁見を請い願う」イコール「倭國使者を遣わして奉献す」であり、

それで正しいんだけど、「謁見を請い願う」の主語が「倭國王帥升等」だから、
そのまま読むと倭国使者=帥升等になっちゃうんだよ

まあ、どちらも一行書きの短い情報だから、これ以上はなんとも言えないけれど
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 13:42:28.57
>>121
このコピペを貼って回ってるやつって「邪馬台国畿内説正統派」っていう
畿内説背乗り荒らし目的乱立スレの1つを立てたヤツだろ?

キウスでいいのかな?
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 15:51:02.57
>>120
吉野ヶ里は、九州平定での最後の砦だろ。壱与だろうね。
邪馬台国の卑弥呼の所在が明らかになったとして
九州説である以上、並立してた本州勢力にすぐ平定されるんだから
あんまし意味ないんだよ。

畿内説も九州説も卑弥呼の過大評価で学者ぶった奴等が飯の種にしてるだけだよ。
つまり、NHKが 飯のタネにされてるんじゃんwww
ネットの詐欺師に議論させときゃ良いんだよ。 
国民の視聴料無駄に使うな。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 16:00:32.01
BSジャパン ですたwww
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 16:24:22.49
吉野ヶ里遺跡は墓から見つかった人骨約300体が中国の渡来系らしいから
佐賀・筑後平野には邪馬台国じゃなくて徐福の子孫らの国があったんだろ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 16:39:15.17
倭國王帥升 107年だけど、大乱前として、卑弥呼の200年前くらいまで
金印の時もだけど、この後もずっと、
福岡平野、久留米平野諸国は、首長の統一、共立によって で
統一王朝が繁栄してた状態とは違うと思うんだけどね。

倭國王 帥升 にしても、大夫を自称した王であって、卑弥呼の使者とされる
奴王 難升米 、都支王 都市牛利、巳百支王、伊聲耆掖邪狗 、支惟王 載斯烏越
とかと、同レベルの倭王とみるべきでしょ。 

卑弥呼時代の国だと、語感としては、
支惟国王 の当て字で 帥 升 かな? 
割と安定してた漢でも 記録が小さいってのは、漢も九州国じゃ、
小国過ぎてあんまし相手にしてないんでしょ。

まあ、卑弥呼の時世で魏の場合は、司馬氏が馬鹿殿作って三国志やってて、
蜀戦がうまくいって、半島からせめて公孫氏の遼東取ったら、
その勢いで曹家乗っとって、280で、呉を倒しに行く場面だからね。
はったりでの、倭国と軍事同盟でも 無いよりマシ、ってやつかも。

卑弥呼が三国志参加してたら、司馬遼太郎も名前違ったかもなwww
陳寿遼太郎、は無理かの・・・
0128日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 16:57:50.07
>>124
>吉野ヶ里は、九州平定での最後の砦だろ。壱与だろうね。

これは無理だよ
吉野ヶ里は卑弥呼の遣使よりも前に、内・外の環濠は庄内式併行期の土器をふくむ土で埋まり、
この時期に中期以来営まれつづけた環濠集落は廃絶している
九州の柳田編年にしても畿内の寺澤、あるいは石野・関川編年にしても庄内期の開始を200年頃としており、これらの年代観を当てはめれば、吉野ヶ里は邪馬台国の頃には完全に衰退していたことになる

編年を抑えずに語られる言は、説得力を持たないよ
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 17:00:31.75
>>126
>吉野ヶ里遺跡は墓から見つかった人骨約300体が中国の渡来系らしいから

これのソースは? 何をもって中国の渡来系って判断できるの?

>佐賀・筑後平野には邪馬台国じゃなくて徐福の子孫らの国があったんだろ

徐福の子孫だったら、もう何百年も経ってるから倭人と区別できないよ
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 17:15:49.13
>>127
>支惟国

これなんて読むの?
「支」は壱支の「き」だから、「き」でよいと思うけど
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 17:27:25.08
庄内期開始が200年代なら

桓霊の間の直後だから卑弥呼共立の時代にかぶるね。

景初年間には少し間が空く。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 17:27:39.71
>>128
200年以前の環濠集落が先にあって、
卑弥呼より先に大陸系青銅器鉄器が有ったってこと?
公孫氏以前は結構頻繁に漢と往来有ったってことかな?

金印の奴国〜帥升 がそれか?
大乱が120〜190とかで、朝貢が途切れたってのと
公孫氏は190〜卑弥呼朝貢の238で卑弥呼時代と完全に被ってんだよね。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 17:36:31.87
>>133
漢への朝貢は年を間違えることなくきっちりと行われていたと書かれていたよね。
実際に前漢鏡も多数流入されている。
卑弥呼の時点で、中国王朝と倭の定期的な交流は数百年の歴史があるよ。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 17:40:54.30
倭国王師升等を 倭 国王 師升 等 ではなく

倭国 王師 升等
倭国 押 人 = 孝安天皇

という伝承もある。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 18:20:43.09
>>137
ありがとう

たくさんの甕棺墓の中に、300体の渡来系があったんではなく、
遺骨が調査できたものが300体で、
そこに渡来系と「考えることのできる」「特徴」があるってことだね

ただ、現在では、縄文人と弥生人の骨格の違いは、食事の違いが大きく
体型が変わるほどの外来遺伝子の移入はないというのが主流の考え方だよ

江戸時代と現代、さらに短く取ると戦前と現代では、日本人の骨格は
大きく異なるけれど、その間、異民族の大量流入と混血は起こっていないだろ?

その意味で、この吉野ヶ里遺跡のページの記述は、「縄文人との比較」で
「弥生人の特徴」とされるものを、「渡来人の特徴」としているだけで、
実際に吉野ヶ里の住人が渡来系が主だったと考える必要はないと思う

そして、これら300体は、甕棺墓列の遺体が主なんじゃないか?
特定家族墓の北墳丘墓には300体も埋まってないし

「吉野ヶ里遺跡の庶民は弥生人だった」以上の情報ではないだろう
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 18:35:45.66
>>135
>中国王朝と倭の定期的な交流は数百年の歴史があるよ
???

倭国大乱120〜190で朝貢が途切れて、190から公孫氏東夷専横。
そこから、たまたま魏が公孫氏討伐で帯方郡に進駐し始めた
卑弥呼の238年まで 洛陽とは 約100年間超 の断交が有る。

で、倭人伝での卑弥呼の遣使は
238年 難升米等詣郡、?240印綬で倭王因使上表 答謝詔恩
243年 曹芳元服 で 倭王復遣使 大夫 伊聲耆掖邪拘
247年 韓王家滅亡 太守王頎到官 卑弥呼 以死亡
壹與遣倭 大夫率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺

卑弥呼の外交は、この10年間で最大でも3回 ポッキリ だよ。
最後の 掖邪拘 等二十人  張政帰したのに、記載無いってのは、帰国してるかね?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 19:10:41.77
>>140
>張政帰したのに、記載無いってのは、帰国してるかね?

これを、266年の晋への遣使まで倭国にとどまっていたとする説もあるけど、
それはないと個人的には考えているよ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 19:20:01.73
環壕が埋まるということは
竪穴式住居の排水が必要ではなくなるということ。
つまり高床式に移行したわけだ。

竪穴式は地下水が出たら住めないから
微高地を選び、地下水面を下げる
ために周囲に環壕を掘って排水し
乾いた状態を保たなければならない。

また、高床式に移行すれば
低湿地帯にも居住することができる。
神埼の櫛田神社あたりは
その集落だろう。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 22:00:33.14
>>68


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ! 
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 22:38:36.23
>>142
>環壕が埋まるということは
>竪穴式住居の排水が必要ではなくなるということ。
>つまり高床式に移行したわけだ。

アンカは付いていないけれど>>128の吉野ヶ里の環濠についての話なら、
吉野ヶ里の環濠は逆茂木植えた防御用の空堀だよ
排水とは最初から無縁

さらに言えば、ヘクタール単位の面積の周囲に環濠を掘ったところで、
地下水面は下がらず排水にもならない

>また、高床式に移行すれば
>低湿地帯にも居住することができる。

これ自体は間違っていないと思うけれど、弥生集落は基本的に微高地に作られるものだし、
高床式建物跡と竪穴式住居跡が同じ遺跡内にあるのが普通

思い違いをしてると思うよ
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 22:41:27.21
>>131
>基肄城のキイだね。

キイと読むのだったら、紀伊の方がより当てはまると思うけれどな
ただ、紀の国は、鬼國のキ國の方かな、とも思う
0146日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/07(土) 23:19:51.98
>>122

なんで結局最初に戻っちゃうの?(苦笑)

史書の一般的な書き方から見て国王自身が朝貢に来ると読めるものはないですよ。
師升の例も国王自身が朝貢に来たとは読めません。
もし仮に万が一国王自身が朝貢に来たら、儒教的に考えて皇帝自身が途中まで出迎えに行ったとかそういう文が入る筈です(特にまだ後漢ぐらいの時代なら)。

「この一行だけだしね」とか「どちらも一行書きの短い情報だから、これ以上はなんとも言えないけれど」とか言うけど、
結局は結論を変えたくないんだろうなあとか思ってしまう。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 23:48:54.06
まあ、代理の使者が謁見を願い出たという意味だろうね。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 00:30:54.16
>>137
それは詐欺だわ。

日本には縄文弥生を通して中国から渡来定着した痕跡遺構は一つもない。

公式サイトが詐欺を働くとはヒドすぎる。

甕棺墓の北方モンゴロイド形質の弥生人は縄文晩期に中国じゃなくて、
沿海州南岸から渡来定着した渡来人の後裔。

弥生開始土器を調べれば分かる事。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 00:43:26.21
倭国王帥升等がどの動詞の主語かってことだよ
そもそも、倭国王の名前が「帥升」なのか「帥升等」なのかっていうのも実ははっきりしない
名前が「帥升」ならば「等」は、帥升以外の人も「謁見を請い願う」の主語に入ることになって
代理の使者を派遣したのは、国王たる帥升一人の責任ではないのか、ってことになる

帥升が名前で、帥升等で「帥升たち」と読むなら、謁見を願い出た複数人が「帥升たち」と
いうことになって、国王自ら使者として大陸に渡ったと読んだ方が話としては自然になる

まあ、国王自ら危険を冒して大陸に渡るのと、国王以外の人と共同して使者を送るのとでは、
前者の方が不自然だという理屈は分かるけどね
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 00:48:52.60
>>146
>儒教的に考えて皇帝自身が途中まで出迎えに行ったとか

これはないと思うな
中華思想の本場の大陸王朝の皇帝が、蕃夷の王を途中まで出迎えることはないだろう
李氏朝鮮の王は皇帝の使者を迎恩門まで出迎えて、三跪九叩頭の例で迎えてたくらいだから、
皇帝と蕃夷の王では格が違いすぎる
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 00:50:42.41
>>139
食生活の変化だけで鼻骨の高さや眼窩の形までは変わらんよ。

ただ、縄文晩期に沿海州南岸から渡来定着した渡来人は数人から数十人規模だと
思う。

西日本に縄文人が少なかったのと、朝鮮から農耕を導入して生産経済に入り、
安定した食糧確保が可能になったため、渡来人の後裔は人口爆発した。

日本内で彼らの後裔が増えただけなのである。
0152日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/08(日) 01:00:25.43
>>149
だから「倭國王師升たち(=倭國)が使者を遣した」ってことでしょ(苦笑)

師升の國と他の倭人の国々を合わせて倭國であり、その盟主が師升ということですよ。わかりませんか?

それは親魏倭國の盟主が邪馬壹國の女王たる卑彌呼で、親魏倭國が邪馬壹國と卑彌呼以外の倭人の王たちが統治する複数の王国との連合で出来ていることと同じです。

更に言えば、夏や殷、そして周と言った、古代中国の盟主と諸侯の連合から成り立っていた封建制国家と同じということでもあります。

「そういう古き伝説の時代を感じ出せる倭國」から「160人という、僅かながらも、健気にも、同盟国としての捕虜の献上があった」(皇帝の威徳尊大なり)という文な訳ですよ
0153日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/08(日) 01:21:23.00
>>150
>これはないと思うな
>中華思想の本場の大陸王朝の皇帝が、蕃夷の王を途中まで出迎えることはないだろう

倭人伝でも漢書でも、四夷の内、東夷だけは他の三方とは異なると書いた上で倭人を紹介している訳ですよ?
そういう文脈を無視してなんで「ないと思う」なんて自分の感想で結論付けるのかなあ。

>李氏朝鮮の王は皇帝の使者を迎恩門まで出迎えて、三跪九叩頭の例で迎えてたくらいだから、

西晋以降は華北に侵入した異民族が漢民族の後継を自称していく中で儒教的な謙譲の態度よりも偉そうな君主振りばかり目立つようになっていく。
後漢時代で相手が倭國王自身なら出迎えるぐらいはするでしょう。文脈から言えばね。なんで李氏朝鮮なんかと比べるのか全く理解できない(汗)
でもまあ李氏朝鮮に対しては「三跪九叩頭の例で迎えてた」。そういうことがわかる記述がなされていない時点で師升自身が朝貢している筈がないでしょ。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 02:46:46.73
>>154
非考古学者が書いた詐欺詐欺ドキュメントだな。


古代中国では亡くなると奴隷から王まで土器の「鼎」が墓に副葬された。

日本には鼎が一つも伝わっていない。

墓以前に土壁の中国系住居さえ縄文弥生を通して全く日本には伝わっていない。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 03:10:07.50
聴いてると
専門の考古学的知見がまるで普及してない、
考古学者全く仕事してないじゃん。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 08:41:08.84
知見がどれも北部九州説を支持してるから普及させづらいw
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 11:07:34.59
>>153
>倭人伝でも漢書でも、四夷の内、東夷だけは他の三方とは異なると書いた上で倭人を紹介している訳ですよ?
>そういう文脈を無視してなんで「ないと思う」なんて自分の感想で結論付けるのかなあ。

そうは言うが、漢、後漢の皇帝が四夷の王の朝献を出迎えたって記事は
見たことも聞いたこともないんだが?

まあ、私も素人だし何もかも知っている訳ではないから、そんな例が実際にあったのなら
後学のために教えてくれ

「四夷の内、東夷だけは他の三方とは異なる」はずの倭国王の遣使記事には少なくとも
出迎えたなどとは書いてない

記事も記録もないのに「出迎えたはず」っていうのは憶測だろ
ただ、おうじしんのちょうこうはないからきじもないといわれればそれまでだが
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 11:11:26.56
あと、簡単に検索した限りでは、後漢書で「請見」とあるのが7件だが、
その主語が複数となっているのは、帥升等だけだよ

「帥升等」の3文字で王名なら問題ないけどね
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 11:16:56.57
>>156
>専門の考古学的知見がまるで普及してない、

考古学的知見って、素人にはおもしろくないから
土器形式の変遷とか、口の部分のカーブがどうとか言われても分からないし

>考古学者全く仕事してないじゃん。

仕事していないのは、マスコミだと思うよ
ていうか、考古学に限らず、専門の科学者の知見はどの分野でも素人には伝わってないだろ?
クオークの色理論とか知らないでしょ?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 11:35:33.17
そこを含めて仕事よ。
一般会社でいうと営業営業。知ってもらってなんぼ。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 11:37:24.67
単なる土器編年見せられても面白くないけど
その編年から、復元される歴史像を合わせて伝えにゃー。考古遺物だけ切り取っても魅力は半減以下。
0164日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/08(日) 12:27:37.59
>>159
>まあ、私も素人だし何もかも知っている訳ではないから、そんな例が実際にあったのなら
>後学のために教えてくれ

元々はこの文から始まっているでしょ(苦笑)

>>107
>帥升等の生口160人の記事は、使者ではなく倭国王その人が朝献に来た
>みたいな書き方だし、どこまで信じていいかよく分からない

【そもそもね。そんな話をする以前に>>118で倭國王自身が来訪していないと理解できなかったらダメでしょ】。ただただ最初から結論を変える気がないだけ。
「そう思いたい」から離れられないなら根拠を示して説明する意味もなく、要はスレ違いだと思うね。
0165日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/08(日) 12:47:51.77
>>160

センスないなあ(汗)
請見で検索したって王名+等が主語になるのは極めてレアケースとまだわかんないの?夏殷周と同じ封建制を匂わせる表現なの。自称大夫と似たようなもん。

>「帥升等」の3文字で王名なら問題ないけどね
人名に「等」を使う訳ないでしょ。「等」を「等」として使えなくなる。史家をバカにしすぎ。

後漢書東夷列伝12
二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪內屬。

後漢書光武帝紀186
(二十三年十月)(中略)高句麗率種人詣樂浪內屬
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 20:33:28.92
ピッ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 20:37:23.80
>>68


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 21:29:17.02
>>127
帥升 について 支惟 (しい、きい) 国王、名を 升 の可能性を提示したが
伊都国が和名の 伊 国に表意文字の 都 の可能性があるとすると
伊の王、名を升 でも 有りかもしれない。

金印は57年、奴国王時代、升は107年伊国に王都を作り漢に報告に行ったとか?
57年の金印お届けの時でも漢使が、奴国を見ていると思うが、
小国であることを知って、銅鏡や青銅もって華僑が来るとか?通商はともかくとして
軍事同盟とかで、相手するのはやめたんじゃないかと思うんだが。

等 は一応、わざわざ倭音の当て字に使うより、別の意で複数代表の表意文字だと思う。
人名でも表意文字として命名の文化が有れば 
司馬達等とか和名でも不比等とか使ってるんじゃない?

誰が 当て字の中国名にしたかで、異字同音同意の例もあるので
これの推論用のデータを整理ちゅうだが、あるので、次にあげる。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 21:32:27.67
>>165
本来、他人の論考を紹介しただけだから、私個人はどうでもいい
漢文だけの解釈なら、倭国王帥升等が自ら大陸に渡ったと読む余地はある
ただ、字数も少ないし、確定するには不足

これがこっちの言っていることの全て

それに対して
国王自ら朝貢に来ることはない
来たら皇帝が途中まで迎えるはず

という、「史書の文章外の推測」をもとに否定してきたから、
それは推測だから根拠とするのは不適当、といっている訳だ

まあ、国王自ら朝貢に来ることはないだろうと私も思うが
「そう考える人がいるし、そう考える余地は残る」というのを
なぜ一生懸命全否定しようとするのかが不思議

実際に「皇帝が蕃夷の王を途中まで出迎えた記録はない」んだろ?
途中まで出迎えていないから王本人が来たはずがない、は事実上循環論法
根拠にはなっていない
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 21:32:44.23
それから、「帥升等」か「帥升」等か、について、こちらが疑義を表明しているのは、
「外交という本来王の専権事項」を複数形で書いてあることに対する不審だ

それに対して、
句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪內屬
これでは反論にならないだろ?
これの解釈は、
高句麗の蠶支落大加「戴升」ら万余が楽浪に詣でて内屬した。
これだと「戴升」自身も楽浪まで出向いているし、皇帝に対する外交でもない
まあ、投降(内屬)は国レベルの判断ではあるけれど

高句麗率種人詣樂浪內屬
これの解釈は
高句麗は種族の人を率いて楽浪に詣でて内屬した。
こちらは国名が主語になっているがこれはよくある

それから「等」は名前に使うはずがないと言うが、
この文章のどの部分が名前だか分かるかな?
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城」
普通の文章に使う文字も名前に使われるときは使われるよ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 21:48:01.15
|∩`Д´) / '⌒☆
【倭人伝に見る、諸国名、倭人名考察】

【張政による 漢語化当て字 による 和語の固有名詞】

對海/卑狗 卑奴母離 ・ 一支/卑狗 卑奴母離
末盧國/官無し、載斯烏越船の母の港?
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 ・ 奴/兕馬觚 卑奴母離
不彌/多模 卑奴母離 ・ 女王/壹與

*對海一支伊都奴は魏の東夷概念図や漢古文書を踏襲=表意文字である

張政は遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状に同行で来日の査察者
(卑奴母離は現地任命の官ではなく同行者の可能性が高い)

帰国は壹與の遣使 巳百支王/伊聲耆 掖邪拘等二十人 と送政等還因詣臺

つづく
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 21:50:02.66
|∩`Д´) / '⌒☆
【梯儁 漢語化当て字 による 和語の固有名詞】

投馬/彌彌 彌彌那利
邪馬壹/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮
狗奴/狗古智卑狗

梯儁は郡史だが卑弥呼に金印紫綬の皇帝の使者
魏の正規軍として卑弥呼王宮まで行軍したと考える。
*投馬国は魏の東夷概念図や漢古文書を踏襲=表意文字である

王名 左 梯儁による国王名 / 右 郡の聴取による名)
女王/卑弥呼 ・ 奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利 ・ 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
支惟王/(載斯)烏越 ・ 狗奴王/卑弥弓呼

東夷伝各国の諸国名、官名、職名が中国漢字由来のものが多いのに対し、
倭人伝における、倭人名、諸国名は
一字一音が多く漢字=表意文字文明の影響を示すものは希少。
弥生渡来人は中国文化から遠いと考える。

・梯儁 漢語化当て字 による国名
末盧國 伊都國 不彌國 斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國
彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國
華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 邪馬壹國 狗奴國
躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國 狗邪韓國

邪馬壹国 も 金印紫綬時の王宮を見た中国人 梯儁命名だが
邪馬 は倭人国の音に同じ、壹 は王宮の楼閣の表意文字
邪馬国 にある王の 臺 であると考える。
0173日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/09(月) 01:42:54.96
>>169
> ただ、字数も少ないし、確定するには不足

それがそちらの全ての言い分。最初から変わらずね。なればこそ。

>まあ、国王自ら朝貢に来ることはないだろうと私も思うが

そういうことを今更言うなって話(苦笑)
それも確定できないと言い切らないとね。
自分はまあ「倭國王師升自らが朝貢に来た」なんて恥ずかしくて言えない。
0174日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/09(月) 02:17:28.10
>>170
これはヒドイな(汗)

>「外交という本来王の専権事項」を複数形で書いてあることに対する不審だ
ここが日本人の浅知恵、等を音で読もうとする暴挙の原因。王が成り立つまでの経緯を考えれば、複数形も当然あり得るんだけどね。
結局は受け売りの王のみを王と思い込む。史書が漢字1つ1つを世代を超えて丁寧に積み重ねて作られていることに気付けない恥知らずな独りよがり。

>句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪內屬
>これでは反論にならないだろ?
本当にセンスないなあ(苦笑)

> こちらは国名が主語になっているがこれはよくある
もう詰んでるなあ。
>>165の2文と>>118の2文を比較して検討したら等が等以外に使わないことや使者の謁見が叶ったことがわかるよ。当然師升自身じゃないこともね。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 07:59:43.00
【邪馬台国の周辺の国】
それぞれの中心地は

1番 斯馬国は肥前国杵島郡(武雄)
2番 己百支国は肥前国彼杵郡(佐世保)
3番 伊邪国は肥前国松浦郡(伊万里湾沿岸)
4番 都支国は肥前国小城郡
5番 彌奴国は肥前国三根郡
6番 好古都国は肥後国八代郡?(女王国連合に属さぬ南方の芦北国、球磨国に睨みを利かせていた?)
7番 不呼国は肥後国宇土郡
8番 姐奴國は肥後国益城郡?(狭野尊の幼名を持つ神武天皇の本地?)
9番 對蘇国は日向国臼杵郡
10番 蘇奴国は肥後国阿蘇郡
11番 呼邑国は日向国児湯郡
12番 華奴蘇奴国は肥後国菊池郡?
13番 鬼国は肥後国合志郡?
14番 爲吾国は肥後国山鹿郡?
15番 鬼奴国は肥後国玉杵名郡
16番 邪馬国は筑後国八女郡
17番 躬臣国は筑後国御井郡 ?
18番 巴利国は筑後国夜須郡?
19番 支惟国は肥前国基肄郡
20番 烏奴国は筑前国御笠郡
21番 奴国は筑前国那珂郡
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 08:54:31.68
>>68


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今すぐ言えよおまえ! 
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 10:38:52.63
>>174
>>165の2文と>>118の2文を比較して検討したら等が等以外に使わないことや使者の謁見が叶ったことがわかるよ。当然師升自身じゃないこともね。

ちゃんと説明してくれるかな?
>>165の戴升等萬餘口詣樂浪內屬は
戴升たちでよいけれど、戴升自身も楽浪に詣でているよ

それがどうして、帥升等で帥升本人が入らない例になるのか、きちんと説明してくれるかな?

それと、これを読んでみてくれ
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城」
0179!ken:6
垢版 |
2018/04/09(月) 20:10:29.35
邪馬台国
0180日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/10(火) 00:09:19.46
>>178
>戴升たちでよいけれど

渋々認める所がダメダメなんだが(苦笑)
等は「等」の意味、「など」や「ら」としか読めない。
そこがまず大前提なんだよ。

日本人は自分たちの歴史を自分たちの字で残すようになるまで仏教伝来まで待たなくてはならず、
しかもそれもまずは漢字によって残しているにも関わらず、
漢字を少しバカにしている訳だ。
つまりは、色々な読み方が出来て確定し難い、或いは、固有名詞も漢字で示すことに分かりにくさを感じるとね。
それがわからないのは自分たちでは字を持たず本来持っていない読みや意味を漢字に勝手に与えて好きに使い倒した日本人くらいな訳だよ(笑)

平仮名は何種類あるか。50種類にも満たない訳だよね。
一方で漢字の種類は数え切れない程ある。
なのに等にあたる音を等で補うと思っている日本人がいる訳だ(笑)(笑)(笑)

もしそういう使い方をしてしまうならその文における等の本来の等の用法は信頼を失う。
そうまでして等と同じ音価を持つ漢字が少ないだろうか?
答えは否。漢字はそれこそ数え切れない程の種類がある。
等を本来の等、日本語で言う「など」や「ら」以外に使うことなんてあり得ない。
0181日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/10(火) 00:40:43.94
>> 戴升たちでよいけれど、戴升自身も楽浪に詣でているよ

良いかい?
正しさが確かなものから足をつけて、丁寧に歩を進めていけば「わからない」ということが無くなっていくんだよ。
大体ね。これがわからないと言うのは「等は名前の一部」という大嘘がもたらしているんだからね。

さて。帝紀(@)には出生からの事績が描かれ、皇帝即位から没までに起きたことが大雑把に紹介される。そして列伝など(A)ではそれが細かく説明される。

@後漢書光武帝紀186
(二十三年十月)(中略)高句麗が種人を率い楽浪郡を詣で内属した。

A後漢書東夷列伝12
二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪內屬。
23年冬、高句麗(国名)の蠶支落(地名、村落名)の大加(身分名、貴族のこと)戴升(人名)等(など)が万余口が楽浪郡を詣で内属した。

つまり@=Aであり、@とAを繋げてみればより良く意味が通じる。要はこう言うこと。

「23年冬10月、高句麗の内、蠶支落の大加である戴升という人などが種人を万余口も率いて楽浪郡を詣で内属してきた。」

高句麗というのは後漢に対して生意気。その高句麗が内属してきた、という喜ばしいニュースを伝える為に帝紀では主語が高句麗という国名になっている。
実際は高句麗という國そのものや高句麗王自身が内属してきた訳ではなく、高句麗の中でも蠶支落の大加という有力貴族が万余口を率いて内属して来ただけだった。
0182日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/10(火) 01:01:27.36
>>178
あとはわかるだろう?

❶後漢書孝安帝紀36
冬十月,倭國遣使奉獻。
冬10月、倭國使者を遣わして奉献す。

❷後漢書東夷列伝29
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
安帝永初元年、倭國王帥升たちは生口百六十人を献じ謁見を請い願う。

安帝永初元年冬10月、倭國つまり、倭國王帥升と他の王たちの使者が生口百六十人を献じ謁見を請い願い、奉献した(京都まで送り届け奉献を完了した)。

倭國というのは光武帝が謁見した伝説の倭人の國。その倭國が使者を送って来たという喜ばしいニュースを伝える為に帝紀では主語が倭國という國名になっている。
(皇帝は私人ではなく國を代表する公人なので、その相手もそれに見合う國そのものであったり國王だったりする)
今回は倭國の使者が倭國王師升の使者だけに留まらず、一緒に倭國連合を作っている倭國王師升以外の倭人王たちの使者たちもいたことが「等」の一字でわかる。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 09:01:54.32
>>68


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ!
0187日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 13:29:31.15
>>181
>大加という有力貴族が万余口を率いて

だから、大加等が主語になっている文では、大加が実際にその動詞の主語として
行動しているだろ?

その伝で行くと帥升等の文でも、帥升がその動詞の主語として行動してるという
読み方の実例にしかならないって言ってるんだよ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 13:33:12.85
>>182
>倭國王帥升と他の王たちの使者

ここの「他の王たちの」が、どこにも根拠がない恣意的な補完だと言っているんだよ
他の王が倭国王の外交に口出しをしている、というのを無批判に仮定して真実をする姿勢を
批判している訳だ

大加戴升等萬餘口は、萬餘口が「等」の中身だぞ
こちらは「等」の中身が明記してある
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 13:35:58.54
基本的に、>>181>>182に対しての疑義は
漢文が読めないのに聞きかじりでマウントを取りたいだけなんじゃないか、という点にある

いちいち上から目線で、えらそうに書いているのが討論の態度としておかしい

で、漢文が読めるかどうかの確認として
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城」と読んでみてくれ、
というのは都合が悪いのか無視し続けているし

読んで解釈してみてくれるかな?
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 10:10:01.35
|∩`Д´) / '⌒☆ >>41 つづき
>>5 循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里

海岸沿いに水行して韓国を過ぎます。 
韓伝では韓の西岸は、南岸倭人国に接する
方可4千里の一辺で4千里です。
韓地を過ぎるポイントは珍島辺りになるかと思います。
乍南乍東、ちょっと南からすぐ東へ向け、
渡海地点にある、北岸狗邪韓國へは帯方郡から7千里です。

張政は 遣倭載斯烏越等詣郡 の倭人船に同乗していますから
倭人船の寄港地は 狗邪 という港かと思います。
まあ、後の 加羅、伽耶、等の由来の可能性は高いですが、
航海の都合だと、方化4千里の南辺 四分の三で、巨斉島辺りかと思います。

247年 は240年台前半からの帯方と韓の紛争が終わり、
前太守が戦死して、韓王廃嫡、新しい太守王頎到官の時です。
245年に詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授が有りますから
難升米への 檄 の告喩 は郡の援軍要請に応えなかったことへの戒めかと思います。

魏本国の状況は、卑弥呼朝貢の年に、遼東で公孫氏を滅ぼしたけど
藪蛇の高句麗の台頭で、四郡には十分手が回らない状況のようです。
このため倭国との同盟は絶対的必要戦略だったと思います。

280年には呉を滅ぼしますので、東夷の状況も三国志なのです。
ただし、313年漢四郡撤退が、高句麗によるという歴史ですが
350年には百済新羅が高句麗を押して建国しますから
これを、日本が後援したことは以降の百済外交からも間違いないと考えられます。

これは邪馬台国ではなく、中華思想の大陸と敵対戦争の前提が有るために
牛馬や鉄の国内生産化を一気に進めた、東夷の大国大和朝廷の半島戦略でしょ?
これが、張政来日時の時代背景で九州東遷は、畿内説より有り得ないという根拠。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 11:09:21.66
>>68


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 12:09:10.71
>>191
広鼻ブラック先生がレイシストでアラシなのは重々承知で
>>1 の教えで、無視するよう努力はしてるんだけど・・・

うん、「また」なんだ。済まない。(バーボンaa略

なんで、関係ないレスに意味不明のレスを繰り返すの? 迷惑だよ。
名無しのちら裏だから、氏名と所属団体は言わんで良いけどw

はた迷惑な、意味不明な、アラシの理由は何?
さっさと言えよおまえ!

で、って
言いたいだけかwww(aa略
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 12:25:25.17
>>192


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



今すぐ言えよおまえ!
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 12:32:27.28
>>192


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ!
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 12:35:45.50
>>192


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0196くまモン論者
垢版 |
2018/04/11(水) 12:53:15.45
ぽまえらなに人のスレ荒らしてんだ、おおん?!
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 13:09:36.39
話を戻して

基本的に、>>181>>182に対しての疑義は
漢文が読めないのに聞きかじりでマウントを取りたいだけなんじゃないか、という点にある

いちいち上から目線で、えらそうに書いているのが討論の態度としておかしい

で、漢文が読めるかどうかの確認として
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城」と読んでみてくれ、
というのは都合が悪いのか無視し続けているし

読んで解釈してみてくれるかな?
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 16:09:13.95
そっち? |∩`Д´) / '⌒☆ >>190 つづき
>>5 始度一海千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴

>始度一海
度は渡 の誤字のような気もするけど、
始度渡一海 じゃ同義反復でアラシ的にくどいんで、陳寿さんの方が文学的に
きれいなのかもしれない。 古代漢文の美意識やセンスは判らない。

對海國 比定は対馬以外有り得ないけど、他案聞いたこと有りますか?
韓伝の韓4千里もだけど、方可四百餘里 と言った場合、実測っていうのは無くて
絶対に魏に東夷概念図が有るはずで、そこで範囲を計ると三次元の方可って表現になる。
これ、絵が間違ってるはずだから、陳寿さんに教えたゲテw 対馬って噴火した?

對海や一大は表意文字なんで中国人側の命名だと思うんだけど和名は何だろう?
ツマ イキ は 和名っぽいかな。
九州は主に領主の氏で国名または在所が姓みたいだけど、島の名はどうか?

4千里と3千里、千里で、万2千里とも、帳尻有ってるのに、短里は無い、
って 小理屈が、アタシには理解できません。 
魏では改めるよって、正史がここに定義してんのに・・・

これには、倭人伝本文史料挿絵に入れるべき 魏王朝の東夷概念図が有るのですが
前スレであまりに不評だったんで再録しませんw 有れば誤読無いのにね。

土地山險多深林道路如禽鹿徑
そうとう未開発で、漢は獣道も道路って言うようだけど
対馬が古来日本であり続けたことが奇跡で島の地理隠して隠れ里有ったように感じる。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 16:31:59.27
対馬には明治まで島内の道路はあまりなかったらしい
島民はみんな小舟を使って移動してたんだと
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 18:20:00.10
>>200
>度は渡 の誤字のような気もするけど、

誤字ではありません。

「度」は、その地域を「わたる 移動する」の意味がある。
わたるのは、谷、山、平地、河川、湖沼、海等です。
特に水上を移動する場合には、サンズイを付けた「度」を使う。
水の無いところを「わたる」度の用法は、後漢書にもあります。

この「始度一海」では、初回と水を渡るの双方の意味を兼ねた「度」の表現です。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 19:19:13.47
>>201
対馬は縄文時代からの日本海交易の要所で栄えそうな気がするんだけどね。
船を持った渡来人が まず定着するとしたら
土人の居ない離島かとも思うけど そうでもない。

対馬より壱岐の方が最初から繁栄してるとして、
半島南岸が倭人国になった状況ってのは、
関西に縄文人は少なかったっていうのと一緒で
半島南岸は最初から何もない過疎地なんじゃないかな?

そうであっても、対馬が交易のキーマンだとは思うけど
隠岐や壱岐みたいに明らかに日本の都市が背景にあった方が栄えるのかな?
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 19:31:24.61
>>203
>対馬が交易のキーマンだとは思うけど

この部分は同意

ただ、対馬や壱岐の人が、南北市糴していたのは事実でも、持衰が必要な
命がけであるのは変わりない訳で、そんなに自由自在に海を渡れた訳では
ないと思う
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 19:31:27.06
>>202
そう思います。 
度 は良いとして、前スレでも既出だけど
「始度一海」 はなんで 一海 なんでしょう?
あ、つぎ 名日瀚海 の 一海 も渡るんでまた。
ごはん喰って考えます。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 20:06:18.85
>>205
>「始度一海」 はなんで 一海 なんでしょう?

横レスで申し訳ありませんが、単純に「沿岸航海ではない」という程度の意味だと思っています
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 21:49:09.53
>>206
はい、そうなんですが
>単純に「沿岸航海ではない」

であれば、
始度渡海 と 始渡海 で良いんですが
これは 両方漢文的に気持ちよくない。
無駄な文字を削った筆風なんで、一の意味を深読みしすぎたカモ?

「始度一海」が陳寿の作文感覚に会っただけ? 
なんか、漢詩みたいな、古代漢文のルールみたいなもん、とは違いますね。
次又二渡海 とかwww
次は又一海だけど、同じ一海や二海じゃないから、名前書いてるし。

そりゃ、朝鮮海峡と対馬海峡、だよって教えてあげたいw 
茶番でスマソ。 ありがとうございます。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 22:00:37.10
>>204
壱岐の人が九州に市糴 は丸木舟で二日で往復してんじゃないでしょうか?
持衰が死刑になるのは、王船で大夫が出かけるときかと。
対馬はどっち行くか迷いそうだけど、九州近い壱岐の方が住みやすいんでしょうね。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 22:04:57.61
一大率を使って国を挙げて航路を維持して、その権益を独占し、部外者が無断で通行しないよう、身内から反逆者が出ないように取り締まっていたんだよ。
大陸との交易こそ、筑紫の最大の利点なワケだからね。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 22:39:04.92
|∩`Д´) / '⌒☆ >>200 つづき
>>5 又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

渡海二回目なのに一海だしw 南の方角は最初に書き忘れたか?
この方可三百里は、あってると思うけど壱岐は遠目にそのくらいの島って判る。
多分、対馬は見た方角で400里に見えたのかな
名日瀚海 は中国名、なぜ対馬海峡側に中国名、中国から見たのか、おいw? 

張政は倭人船便乗なので、倭人は漢字の名前教えないと思うんです。
地図が有ったことは、間違いないと思う理由です。

ここで、お話しておきたいのは、副日卑奴母離 です。
對海國 一大國 奴国 不彌國 でも雇われる、この張政の旅の主役です。

倭人船に同乗してたはずですが、奴国、不彌国も一緒っていうのは
単に張政が、気に入ったからかな? 名にある奴は、奴の関係者とか?
倭人伝作成の情報ソースの読み分けが正しければ、梯儁の仕事に比べて、
張政の仕事は相当やっつけで、さっさと倭人騙して、帰り送らせたように思います。
まあ、伊都では、首都なんでもうちょっとエロい政事向きの名士を雇ったようです。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 23:14:49.20
>>192


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



今すぐ言えよおまえ!
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/12(木) 07:53:16.48
>>210
>倭人は漢字の名前教えない

そもそも漢字の名前はないと思う
大和言葉の名前はあったと思うけれど
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/12(木) 17:06:30.98
>>205-206

>「始度一海」 はなんで 一海 なんでしょう?

「一海」は、ひとつの海 の意味です。英語の「a sea」に相当します。
ですから2回目の「又南渡一海」では「瀚海」と海の名称を書いているのです。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/12(木) 18:35:42.05
陳寿にとってのソースは複数あるからね。
瀚海は漢代の楽浪郡吏が残した記録から採ったのだろう。里程もそう。
日程や倭国の描写は張政など魏使の日誌あるいは直接インタビューだろう。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/12(木) 20:57:23.14
前置詞っていうのは、文法であって特定の箇所を選んで付けたら装飾譜かと。
副詞だの時制だのそれらが無いから漢文の文語文法が未成熟なわけで。

一海が引っかかったのは、一大国、一大率、との関連が?、と思ったのと
邪馬壹国、邪馬臺国 とか
表意文字としての、一、壱、という漢字を付加したことには
漢文の作法要因としての理由が必ずあると思うから。

古代漢文的には音読されることは意識してないと思うけど
文章作る美意識の問題なのかな、ってことで了・・・
陳寿の性格とか作文の癖にちょっと近づいたかもね。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/12(木) 22:54:36.00
其山有丹=その地域の山には水銀鉱床がある

水銀があればいいのだから、日本のほぼ全域が含まれる


朱儒国=朱が産物の小さな人がいる国

朱を採取している=阿波で確定

度量の小さな人=@阿波で確定
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/13(金) 08:55:58.16
>>192


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ!
0220日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 00:08:06.66
中国江南地方(浙江省)から肥の国に渡来定着した人々の信仰は、「龍」ではなく「河童」。

「龍」は、淮水流域(華北平原南部・黄河旧道・長江以北)地域の信仰である。
(古代アリゲーターの生息流域)
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 00:20:31.87
>>220
中国江南地方の越の遺跡からは龍を象った佩(おびだま)などの玉器や
龍文の青銅器などが出まくってるが、これは龍ではなく河童なのか?
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 00:26:20.37
ワニの生息できない寒冷地で龍信仰が発生する訳はない。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 00:29:44.60
>>221
龍信仰は7000年くらい前に遼河で始まるが、5000年前の中国江南地方の遺跡から
龍を象った玉器が出土しているところから、中国江南地方でも5000年前から
龍は信仰されていた。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 00:39:21.75
長江付近はワニの生息地域。揚子江ワニ(龍)が生息している。

浙江省の沿岸地域の海洋民(体に入れ墨する人々)が東シナ海を東に渡海した。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 01:04:53.75
>>225
で、どこに渡海したの? 
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 01:50:17.19
九州西岸(八代海〜有明海〜玄界灘〜朝鮮半島多島海)
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 02:40:47.29
>>227



で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?


.
0229くまモン論者
垢版 |
2018/04/14(土) 07:22:00.83
おまえらワザとやってるだろWWWW
笑ったw
0230くまモン論者
垢版 |
2018/04/14(土) 07:28:35.96
倭人伝の諸国が表音されてるなら、魏志韓伝の諸国も表音されてたのかな。
倭人伝も奴国までは間違いなく残ってるよな
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 07:34:57.47
>>227


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0233くまモン論者
垢版 |
2018/04/14(土) 11:07:35.19
>>232
どっちかというと同じ言葉を話してたんじゃないかと。
こっちには記紀があるけどあちらの三国史記や三国遺事は12世紀ごろだし、さっぱりだけど。でも魏志韓伝の斯盧(シロ)国が新羅かなとも思う。倭人伝と韓伝両方に不彌国あるし末盧は末羅から松浦になっていくんだよなあ。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 12:31:59.87
>>232
>つまり倭国側は言葉が変わっていない。

邪馬臺国はヤマト国
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 14:25:34.29
倭人は対馬海峡を挟んで結構な範囲に存在していたわけだな。

朝鮮半島で鉄を採掘して、鉄器を扱う3世紀東夷世界での標準的な文明人。
つまり北部九州倭国ですな。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 14:39:26.23
>>235
>朝鮮半島で鉄を採掘して、鉄器を扱う3世紀東夷世界での標準的な文明人。
 ↑
これとこれが繋がらない 典型的な根拠なし九州説の書き込み
    ↓
>つまり北部九州倭国ですな。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 15:21:41.19
>>234
福岡の山門(ヤマト)ですね
わかります
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 15:31:03.03
魏志倭人伝によると、倭人とは
>朝鮮半島で鉄を採掘して、鉄器を扱う3世紀東夷世界での標準的な文明人。

考古学的にも、弥生時代の鉄は朝鮮半島からの全輸入だし、
鉄器は北部九州を中心に普及している。

3世紀に圧倒的に鉄器が普及している地域が邪馬台国であり倭国。
>つまり北部九州倭国ですな。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 17:36:29.11
>>238
>3世紀に圧倒的に鉄器が普及している地域が邪馬台国であり倭国。
>つまり北部九州倭国ですな。

しかし、その北部九州では鉄器を作る技術を知らず、鉄器を作っていた痕跡がないらしい。  @阿波
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 17:41:35.07
>>239
圧倒的に鉄器が出土する九州で
鉄がないとは、阿波さんも
ミエミエの嘘をつくだけなのかな?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 17:49:02.99
>>240
>圧倒的に鉄器が出土する九州で
鉄がないとは、阿波さんも

「鉄がない」と言ったっけ?  @阿波
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 18:04:34.15
>しかし、その北部九州では鉄器を作る技術を知らず、

その根拠は?
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 18:25:30.84
>>242

鉄器を作っていた痕跡がないらしい。  @阿波
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 19:23:34.90
>>243
え?それはどこの世界の話?
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 19:38:53.31
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文は?


で、浙江省沿岸の海洋民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ!
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 06:23:44.29
>>246
>え?
>畿内のことでしょ?

北部九州でも鉄器を作っていた「らしい」痕跡はあるようだが、畿内のものと「五十歩百歩」  @阿波
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 07:28:21.97
福岡の山門(八女戸)は邪馬国なんだろうね。
ヤマ、ヤメ、という音に女という文字を当てたところからも、このあたりが筑後地方の中心で女王が治めていたんだろう。
神功皇后に討伐されたタブラツ姫、筑紫君磐井、悲劇の王たちの治めていた地域。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 07:32:22.03
>>238
>考古学的にも、弥生時代の鉄は朝鮮半島からの全輸入だし、
  ↑
これは未確認 弥生終末期までそうだとも言い切れない

弥生時代に列島の広範囲に鉄は行き渡っており北部九州の独占物ではない
これは明確に間違い 根拠を書いたつもりか知らんが、間違いor嘘だな
  ↓
>鉄器は北部九州を中心に普及している。
 ↑
これが間違っているからこれも妥当性がない 論理がない典型的な九州説の書き込み
            ↓
>3世紀に圧倒的に鉄器が普及している地域が邪馬台国であり倭国。

さらに言えば、倭国に鉄があるというのは特に首都・邪馬台国の描写ではないし
圧倒的に鉄器が普及しているところなど倭国内にはない(普遍的に普及)し
倭国と邪馬台国はイコールではない
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 07:45:54.44
>>227


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?




今すぐ言えよおまえ!
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 07:55:31.11
>>247
え?そうなの?
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 08:32:11.04
>>249
>>考古学的にも、弥生時代の鉄は朝鮮半島からの全輸入だし、
>  ↑
>これは未確認 弥生終末期までそうだとも言い切れない

具体的に弥生時代に開発されていた国内の鉄鉱山を挙げてください。

>さらに言えば、倭国に鉄があるというのは特に首都・邪馬台国の描写ではないし

普通は首都の様子を描写すると思います。
九州など地方には鉄器など文明が行き渡っているのに、首都には金属器がほとんどない先史時代の生活をしていたと?
そんなことが魏志倭人伝に書いてありますか?
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 08:44:20.85
国産鉄が確実に確認できるのは5世紀から。

製鉄、精錬、鍛冶の工程が必要だが
製鉄遺構は5世紀以降しか確実なものはない。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 08:48:05.13
東夷伝倭人の条。倭国とかまだないぞ。
親魏倭王の印綬をもって倭王冊封なんだから。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 08:52:19.24
鉄鉱石から鉄器を作るのは割と新しい。

花崗岩を砕いて砂鉄から作るのが弥生期の主流。
浜の真砂。

阿蘇は噴火後にできた在地の黄鉄鉱を使ったと言われているんじゃなかったかな。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 09:07:24.89
鉄器を地元の材料で作れる肥後狗奴国。
稲の生産高も高い。
しかも王は卑弥呼の親戚かも?
そりゃあ卑弥呼も手こずるな。
外交的に倭王として公認を取ることに意欲を燃やすわけだ。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 09:08:24.86
>>254
後漢の頃から倭奴国王が事実上の倭王として冊封されていたと見るべき。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 09:12:34.68
【黄鉄鉱】
硫化鉄を含む、真鍮(しんちゅう)のような色の鉱物。銅鉱の精錬などに用いる。
加熱すると亜硫酸ガスが出るのと、硫黄を完全に除去するのが困難であるために、製鉄の材料としては適していない。

適してはいないが、使えなくはないな。
熊本の鉄を分析すればすぐにわかりそう。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 09:18:07.33
227がウソブいているように、もし中国江南地方から鉄器が伝わっていたなら、
原始漢字が刻まれた鉄剣がないのはおかしいんだわ。

江南からは春秋戦国時代の原始漢字が刻まれた鉄剣がわんさか出土しているからね。

呉王夫差の名が刻まれた鉄剣も出土しているんだよ。

呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギジジイがいたが、
もし呉王夫差の後裔が山門に渡来定着していたら、原始漢字の刻まれた鉄剣が
出まくっているはずだわな。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 15:03:30.03
鉄器が九州にたくさんあるのは事実なのだが、それらの技術はどこからきたのか。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 15:16:09.57
鉄を取りに行った弁辰や中国南東部で
いいんじゃね?
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 15:24:42.65
>>263



で、中国南東部に鉄を取りに行った証拠は?


.
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 15:24:46.66
燕っしょ。
朝貢の記録も残ってるし。
燕自体は有能な人材を広く集めていたらしいから、
その一部が滅亡時に倭にも逃れてきたんだろう。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 15:33:53.88
>>265



で、燕から倭に逃れてきた事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?


で、燕から倭に逃れてきたとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?


.
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 15:58:08.06
菜畑遺跡
燕系の銅鏡祭祀などなど
倭人の中に少数の亡命燕人が混じるだけなので生活様式が本格的に変わることは無い。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 16:18:56.99
>>266
>日常食の蒸し餃子とワンタンは?

餃子など小麦料理は稲作ができない北部の主食。
稲作地域なら粥だよ。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 16:30:52.37
>>268
燕は今の北京あたりにあった国だぞ中卒。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 18:43:41.29
倭人って自分たちは呉の太伯の子孫だって自称してたんだっけ?
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 19:17:05.84
>>272
聞其舊語、自謂太伯之後。
以前に倭人は自分たちは太伯(春秋時代の呉国の始祖)の末裔である(つまり呉の国からやってきた)と言っている。

これは魏志倭人伝にはなくて、魏略の逸文だね
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 22:39:37.19
>>255
>阿蘇は噴火後にできた在地の黄鉄鉱を使ったと言われているんじゃなかったかな。

黄鉄鉱ではない。

沼鉄鉱(阿蘇黄土(リモナイト)等)が原料。ベンガラの原料
沼鉄鉱の大きな鉱床は、阿蘇だけではなく、菊池盆地や筑後川中流平野北部にもある。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 23:18:50.07
太伯は卑弥呼の時代からも1400年くらい前の伝説的人物。

中国人の勝手な妄想。

中国人の勝手な妄想だったものが、江戸期に逆輸入された徐福伝説と全く同じ。

縄文弥生を通して、日本には中国から渡来定着した痕跡遺構などは一つもない。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 23:32:19.66
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0278くまモン論者
垢版 |
2018/04/15(日) 23:43:25.34
>>275-276
なんでそんなに執着するん
いろんな考えがあってもいいんじゃね?

おやすみ( ˘ω˘ )スヤァ…
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 00:04:38.78
>>274
九州は鉄も銅も豊富ですね。
銅山としては香春岳が有名で、鏡の原料とされたとか。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 00:09:42.75
訂正(辺津宮、神夏磯姫を追記)

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫梟帥の神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 00:22:31.10
今までほとんど言及されていないが、宗像大社に八咫の鏡があるとすると、それは沖ノ島の祭祀が天照大神を祭っていたという証拠になるのではないか。
そしてそれは沖ノ島を高天原に見立てて、筑紫倭国の主導のもとに行われたのだろう。
古代における最大級の祭祀が畿内ではなく筑紫で行われ続けていたという事実は、倭国の中心がどこであったのかという理解につながる。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 08:04:49.03
>>280
>これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。

デカい鏡を何でも八咫鏡にすればいいってもんじゃないと思うが?

まあ、八咫鏡はデカい鏡という程度の普通名詞という説・考えもあるから、一概に否定はしないが
天照大神との関係を考えるなら、何でも八咫鏡というわけにはいかないだろう
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 09:37:59.68
平原の鏡以外は、いずれも八咫の鏡またはその同范彊と明記されている。
ただの大きい鏡は含まない。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 09:47:31.97
>>283
>八咫の鏡またはその同范彊と明記されている

でも、宮中の鏡はかなり後世になってから火事で作りなおしてなかったっけ?
同范鏡って分けにはいかないと思うが?

まあ、平原1号墓出土鏡は、八咫鏡と無縁というのは同意
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 10:14:55.22
>>265


で、燕から倭に逃れてきた事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?


で、燕から倭に逃れてきたとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ! 
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 10:36:49.88
>>284
たしかにその意味では宮中の鏡は同范鏡ではなくなっている。
しかし宮中にある八咫の鏡が八咫の鏡ではないと言ってしまうのはなにかと差し障りがあるように思われる。
他のスレで、宮中のは八咫よりずっと小さいと書かれていたのは、そういうことかもしれない。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 10:39:09.36
>>284
周八咫、径二尺の鏡が実物として確認されているのがむしろ平原の鏡しかない。
唯一の学術調査されたリファレンスなんだよ。
他の八咫の鏡が調査され異同がはっきりするまでは、確実な八咫の鏡はむしろ平原のものだけだよ。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 11:23:24.80
固有名詞としての八咫の鏡は神器なんだから
墓に埋まってるわけないだろ。

言葉は正確に使え。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 11:37:44.51
固有名詞であるというのが、後世の人間の思い込みかもしれない。
少なくとも、銅鏡であるからには同范鏡の存在を考慮するべきだ。
それが最初の持ち主に半分ほどを副葬し、残りが王権の象徴として伝世したと考えると矛盾がない。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 12:45:51.71
>>289
古墳時代前期までで、研究者の誰もが列島産だと認定する倭鏡で、同笵鏡の存在は確認されてないよ
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 13:57:51.57
>>291
ではその意味でも貴重な例になるね。
でも製造行程からはあってもおかしくない。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 14:14:08.84
>>287
>確実な八咫の鏡はむしろ平原のものだけだよ。

これが明確な間違い

大きい鏡という意味の普通名詞ではない、と考える限り
八咫鏡の「本物」は誰が何と言おうと、伊勢の神宮の御神体の鏡だ

そして、その八咫鏡は見てはいけない鏡なので、実見記録はないがその入れ物については実見記録がある

八咫鏡は遷宮の際に、御桶代に入れた上で御船代に載せて、移動するが
「そのオケの大きさが平原の鏡と一致する」と主張する伊都国説の人がいる

しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない

八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな

本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 15:17:22.74
>>287
>周八咫、径二尺の鏡

鏡を周で測ることってあるかい?
平原1号墓を卑弥呼の墓だと言い張るための、ただの数字合わせなんじゃないの?

鏡の大きさなら、「径二尺」で済む話だし、
「咫」に円周を測るための単位という意味はない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 15:31:15.05
>>294
>しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ
>神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。

尺は時代によって変わるからね。
センチメートルだと?
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 15:31:58.62
『皇太神宮儀式帳』(804)や『延喜式』(10世紀)では八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。
延喜式などの長さは唐尺計算であり、平原の鏡は後漢尺では二尺二分であるから卜部計算の二尺一寸三分にほぼ合致する。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 17:00:38.95
>>297
>八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。

>>294をよく読んで
それ、八咫鏡の大きさじゃなくて、御樋代の大きさだよ
八咫鏡そのものは誰も見てはいけないから、大きさも測った人はいない

この御樋代の大きさから、八咫鏡の大きさを想定している人が多いけれど、
その中にさらに黄金鑵があって、八咫鏡はその中に入っている
黄金鑵の内径が9寸という話

平原出土鏡は入らないでしょ?

『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない

原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html

御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分 
      径2尺   内一尺六寸三分

『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html

樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 17:04:34.39
>>296
>尺は時代によって変わるからね。
>センチメートルだと?

言うほど変わらないみたいだよ

ウィキペディアからの引用だけど
日本
大宝律令の大尺 : 約35.6 cm
大宝律令の小尺 : 約29.6 cm(小尺一尺二寸=大尺一尺)
又四郎尺・鉄尺 : 約30.258 cm
享保尺・竹尺  : 約30.363 cm

9寸だから、これに0.9をかければいい
まあ、27センチ前後でいいでしょう

三角縁神獣鏡を入れるのに、ちょうどよさそうなサイズだな
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 17:14:15.52
そもそもウィキペディアの「八咫鏡」のページの
説文解字の解釈が大間違いだからな

咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)

「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ
「周(の時代)の尺である」が正しいのは、説文解字の注釈まで
ちゃんと読めば確認できる
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 17:16:11.51
説文解字の「咫」は、清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、
それに拠ると以下のとおり

周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
 按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 17:41:11.03
でも漢代の径二尺の鏡が実際に見つかってしまったわけで、説文解字の著者の認識不足ということもあるだろう?
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 17:55:53.99
>>302
>でも漢代の径二尺の鏡が実際に見つかってしまったわけで

何が言いたいの?
見つかろうがなんだろうが、
「咫」は周尺で8寸の長さを表す単位
という以上の意味はないよ?

円周を測るときに便利な単位なんて意味はさらさらないし、円形のものの大きさを周で表す例を見たことがない

円形のものの大きさは、径で表すものだしそれで十分

「鏡の大きさ」を示すのに、
「円周の長さ」で示すっていうのは、普通はない

過去から現在までの、逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず
丸いものを計るのに径ではなく円周(周長)で示している例があれば、
できるだけ多く挙げてみてくれ

二つなり三つなり見つかるなら、そういう計り方もあるだろう、と判断できる
でも、他に例がないなら「単にたまたま数字が一致しただけだろ?」に対して
まったく反論が不可能になる
円周を計るというのは、なかなか正確には測れないものだし、円周で丸いものの
大きさを示すというのは少なくとも一般的ではない

そもそも、卑弥呼の墓に八咫の鏡を副葬したなどという記録はどこにもないのだし、
記紀の八咫の鏡を想定するなら、最高神の天照大神の写し身として大事にするべき
形代なのだから、破砕供献されていることに対して十分な理由付けが必要になる

ということで、日本でも大陸でもよいので、過去から現在までの、
逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:08:15.68
1咫が8寸という単位ができた理由は考えないのかい?
円周の1/4が0.79寸だから、そういう単位があると便利なんだよ。
婦人の手が云々は後付けの理由にすぎない。

円周で測る例として、同じ三種の神器である八尺瓊勾玉も挙げたよね?

鏡を破って副葬したのは、破鏡という文化的儀式だよ。
ただし、当時は卑弥呼に捧げていたのであり、最高神アマテラス云々は後付けの理由。
そもそもアマテラスを最高神としたのは後世だろ。
祝詞ではイザナギ大神を讃えるけれど、アマテラスは出てこないし。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:20:34.35
>>304
>円周の1/4が0.79寸だから、そういう単位があると便利なんだよ。
>婦人の手が云々は後付けの理由にすぎない。

これの典拠を出してから論じてくれないか?
これはただの憶測を超えるものではないぞ
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:22:36.09
憶測かもしれないが、合理的だよ。
そうでないと、なぜ8寸で一つの単位にしたのかむしろ説明できない。
ただ、漢代にはすでにその経緯も忘れられつつあり、混乱していたのだろうね。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:23:48.69
>>304
>円周で測る例として、同じ三種の神器である八尺瓊勾玉も挙げたよね?

他所のスレで、最後の999で書き逃げしたものを言われても

で、八尺瓊勾玉の「どこの周」が八尺なんだい?
まさか直径2尺の勾玉があったとか言わないよな?

通常は、勾玉を通す紐の長さが八尺という解釈だろ?
紐の長さは引っ張れば直線として測れるんだから、周の長さを測ったものではないだろ?

こんな不適当な例しか出せないってことは、
丸いものの大きさを周で表す例はないってことでいいかな?
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:28:14.16
>>304
>婦人の手が云々は後付けの理由にすぎない。

そう判断する理由は?
婦人の手の大きさというのは、
通典が引用する白虎通(白虎通義)の時点でそのように考えられていたと
はっきり原典が示されているぞ

『白虎通義』(びゃっこつうぎ)は、後漢の章帝の時代に儒教経典の解釈について議論した結果を班固に命じてまとめさせた書物。

どの辺から、後付けだと判断したんだ?
平原1号墓出土鏡が「八咫」じゃないと困る、というのは却下で
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:33:34.02
それに結構古い時代に、22/7(=3.1428)が円周率の近似値として知られていたから、
3.2なんていう荒い近似値を使う必然性がないだろう
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:53:14.57
>>304
>鏡を破って副葬したのは、破鏡という文化的儀式だよ。
>ただし、当時は卑弥呼に捧げていたのであり、最高神アマテラス云々は後付けの理由。
>そもそもアマテラスを最高神としたのは後世だろ。
>祝詞ではイザナギ大神を讃えるけれど、アマテラスは出てこないし。

でも、後付けだろうがなんだろうが、伊勢の本物や、その試作品と位置づけられている
日前宮の日像鏡、國懸宮の日矛鏡が、破砕供献されていないところを見ると、破鏡の文化は
八咫鏡とは異なる文化に属する、無関係なものってことだよな?

つまり、見た目上の数字の一致はあったとしても、ただの偶然以上のものではないってことだ
平原出土鏡の大きさは、直径46.5センチ
ウィキペディアさんによると、
「文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20cm)であった[3]。」
3.^ 『説文解字』夫部「夫、丈夫也。从大、一以象簪也。周制以八寸為尺、十尺為丈。人長八尺、故曰丈夫。」

直径2尺ってずっと言ってるけど「咫」を使ってた周の時代の尺だと2尺は40センチだから
平原出土鏡は2尺から、6.5センチ、1割以上ずれてるよ

単なる数字の「偶然の一致」以上のものはないんじゃないの?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:55:31.07
>>306
>憶測かもしれないが、合理的だよ。

憶測だって認めるんだ
じゃあ、憶測で根拠はありませんってことでいいね

>そうでないと、なぜ8寸で一つの単位にしたのかむしろ説明できない。

>>301に書いてあるだろ?
再掲
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
 按奄字未詳。疑是手之誤字。

漢文、読めないの?
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 18:58:07.43
全訳じゃなくて、大意だけれど書いておくよ

周尺也。  
周尺である

夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした

殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした

周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると8寸になるので、8寸を尺とした

 按奄字未詳。疑是手之誤字。
 奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う
0313日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 19:04:23.37
1.ウィキペディアの咫の説文解字の訳が誤訳
 咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
 咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり

たぶんこれがきっかけ

2.円形物の大きさは径で表すもので、円周で大きさを測る例はない

3.伊勢の神宮の八咫鏡とは大きさが違う
  御樋代の中の「黄金鑵」に、平原出土鏡は入らない

4.破砕供献されている

という理由で、平原1号墓出土の大型内行花文鏡は八咫鏡ではない

で、問題ないだろ?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 19:55:38.67
平原鏡=八咫の鏡説、直径2尺で円周8咫説を主張するには

1 古代中国において、鏡に限らず何らかの円い物体の周囲を「咫」という単位で測っている例をあげる
→「円周の尺」を論証

2 漢代で「咫」という単位を使用している例をあげる
→「周代の尺」に対する反証


が必須条件だと思う
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:06:54.93
>>309
円周そのものを定義にすればいいわけで、それが本来の咫なんだろう。
0.8は後世(と言っても後漢の頃)の後付けの数値だろう。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:07:49.09
>>310
>でも、後付けだろうがなんだろうが、伊勢の本物や、その試作品と位置づけられている
>日前宮の日像鏡、國懸宮の日矛鏡が、破砕供献されていないところを見ると、破鏡の文化は
>八咫鏡とは異なる文化に属する、無関係なものってことだよな?

副葬するときは破鏡するけど、そうでないものはそのまま。
簡単だろ。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:07:59.45
>>314

個人的には>>313
3.伊勢の神宮の八咫鏡とは大きさが違う
  御樋代の中の「黄金鑵」に、平原出土鏡は入らない

だけで十分だと思うけどね
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:10:55.04
>>315
>円周そのものを定義にすればいいわけで、それが本来の咫なんだろう。

これが、何の根拠もないんだって
「本来の咫」ってなんだよ?

大陸の文献に「咫は円周を測る単位」なんて一切どこにも書いてないのに、
「20世紀から21世紀の日本」でそう思う人がいるっていうのは、何の根拠にもならないよ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:12:43.66
平原の鏡が八咫の鏡だとよほど困るらしい。
これほどぴったりと整合性のある考古学的発見も珍しいのに。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:14:18.56
>>316
>副葬するときは破鏡するけど、そうでないものはそのまま。
>簡単だろ。

平原以外では、破鏡供献が見られる遺跡は桜井茶臼山古墳くらいかな?
有名どころでは
「副葬するときに破鏡する」文化が倭国にあって、
それが八咫鏡を信奉する文化と一致する、という根拠がこれまた何もない

ただの>>316の憶測か妄想、またはご都合主義

ここは科学板なんだから、「根拠に基づく論証」を心がけようよ
私の書き込みは、「論拠」「原典」を極力挙げるようにしてあるでしょ?
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:14:28.43
>>317
>>314

>個人的には>>313
>3.伊勢の神宮の八咫鏡とは大きさが違う
>  御樋代の中の「黄金鑵」に、平原出土鏡は入らない

>だけで十分だと思うけどね

まあ、考慮すべきはこのあたりだね。
ただ、伊勢の鏡はすでに灰らしいから、日前宮か国懸宮、辺津宮などの鏡でも見てみたいものだ。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:16:39.18
>>319
>平原の鏡が八咫の鏡だとよほど困るらしい。
>これほどぴったりと整合性のある考古学的発見も珍しいのに。

ここは科学板、なんだってば!
根拠なしの妄想を披瀝するところではないんだよ!

反論は歓迎するから、>>313に反論があるなら、
誰もが確認できる正統な「根拠」を示して、それで論証してくれ!

困るとか困らないとか、エモーショナルな単語を使ってないでさ!
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:17:11.93
>>320
>平原以外では、破鏡供献が見られる遺跡は桜井茶臼山古墳くらいかな?

十分じゃん。

>「副葬するときに破鏡する」文化が倭国にあって、
>それが八咫鏡を信奉する文化と一致する、という根拠がこれまた何もない

どちらも倭国なんだよ?
意味わからんよ。

倭国には破鏡の文化がある。
倭国には八咫の鏡を祭る文化がある。
平原から出た鏡は径二尺、周八咫。

何が不満なんだ?
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:18:01.99
>>322
>誰もが確認できる正統な「根拠」を示して、それで論証してくれ!

考古学的証拠は根拠にならないと?
文献に載ってないことは一切認めないと?
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:19:26.24
>>321
>日前宮か国懸宮

ここの鏡も、宮司ですら見ることを禁じられている神宝だから難しいと思うよ

とはいえ、籠神社の神宝の海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」も公開されたし、
いつかは見られるかもね
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:20:51.65
>>324
>考古学的証拠は根拠にならないと?

遺物という「物」じゃなくて、
その「解釈」部分が「憶測」か「ご都合主義」だって言ってるんだよ
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:25:47.89
>>323
>どちらも倭国なんだよ?
>意味わからんよ。

日本人なら、八咫鏡として作られた鏡を破鏡するという主張自体が
信じられないんだけどな

>倭国には破鏡の文化がある。

一部でだけ見られて、一般化できないもののようだが?

>倭国には八咫の鏡を祭る文化がある。

祀るものは、破鏡しないだろう

>平原から出た鏡は径二尺、周八咫。

これが、疑義がある
径二尺は実測でよい(といいつつ、周尺では1割以上の誤差)
円周を咫で測った例はない
咫は長さの単位であって、円周を測るための単位などという意味はない

「円周を咫で測った例はない」を否定したかったら、反例を出してくれればいい

何が不満なんだ?
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:25:53.00
事実と解釈を混同するとか、八咫バカは論理的な思考を行う訓練を受けてないんだろうな
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:27:33.07
もっとも整合性の高い説明をしているだけだ。
畿内説のスレのテンプレを見てみろ。
もっとひどい憶測を並べ立ててあるぞ。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:28:17.81
>>327
>日本人なら、八咫鏡として作られた鏡を破鏡するという主張自体が
>信じられないんだけどな

お?
差別発言が喉から出かかっているぞ?
破鏡も倭国の文化だろ。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:30:45.69
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外傳國語) 列子はみなその長さを「尺有咫」という
また、その長さを2尺だとは言わない
これは周がいまだかつて8寸を尺としなかった証としてよいだろう

「咫」は「尺有咫」みたいな使い方をするんだよ
18寸を、尺と咫、十寸と八寸、みたいな表現に使う
あくまで長さの単位であって、周を測るなんていうのは、
ウィキペディアにまで載っているけれど誤読

周尺を、周囲を測るって勘違いした人がいるだけ
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:31:28.90
>>327
>円周を咫で測った例はない

その貴重な例が考古学的に確認されたんだよ。
自分だって驚いたさ。
まさか卑弥呼とアマテラスに接点が本当にあるとは思っていなかったもの。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:32:43.38
>>330
>差別発言が喉から出かかっているぞ?

日本人なら、触らぬ神に祟りなし、とか、神仏の形代を壊したら祟られる、っていうのが
肌感覚で分かるんだよ

>>330は、分からないのかい?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:34:33.08
>>332
>その貴重な例が考古学的に確認されたんだよ。

考古学では、「測ったかどうか」は金石文で書いてない限り「分からない」んだよ

そこのところに、「現代人の解釈」が入っていて、その解釈に妥当性がない、
と言っているんだが?

この論理構成、理解できますか?
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:35:48.63
>>332
>まさか卑弥呼とアマテラスに接点が本当にあるとは思っていなかったもの。

逆だよ、逆
大きな鏡が出土した        事実
八咫の鏡だと思った人がいた    ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう   これは連想ゲーム
アマテラスのモデルは卑弥呼    そういう仮説もあるという程度
大きな鏡が出土したから卑弥呼の墓 風が吹けば桶屋が儲かる

こんな程度の話なんだよ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:37:32.09
>>333
明治になってから廃仏毀釈とかやっているんですがw
勝手な伝統をでっち上げるあたりは、相撲協会と根が同じだな。
破鏡も立派な倭国の文化だよ。
長年君臨した偉大な女王を悼む儀式だったのだろう。
別な合理的な理由としては、完全な鏡が盗掘されて使われるのを恐れたのかもしれない。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:41:28.19
>>325
>とはいえ、籠神社の神宝の海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」も公開されたし、
>いつかは見られるかもね

ですね。
せめて入れ物ごとレントゲン写真とか撮らせてもらえないですかね。
籠神社の神鏡はどちらも内行花文鏡であり、内行花文鏡が王権の象徴であるという確かな証拠です。
その内行花文鏡の中でも最大の鏡が皇位の象徴であるのは、当然のことに思えます。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:46:41.20
>>334
>考古学では、「測ったかどうか」は金石文で書いてない限り「分からない」んだよ

そりゃあ、作るときは径を図って作ったのだろう。
でも、完成した鏡は自動的に八咫の大きさになるわけですよ。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:49:52.06
賛同者のいない前提を事実だとした上での主張なんぞ学問的にはなんの価値もない
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 20:57:23.51
確認なんだが

>>297の「八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある」は
御樋代の大きさであって、八咫鏡の大きさではない

>>304の「八尺瓊勾玉」は周の長さで大きさを表したものではない

の2点はいいな?
>>294>>304は間違っていたというのは確認できるな?
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 21:06:43.25
>>337
>破鏡も立派な倭国の文化だよ。

そこらの鏡なら、いくら破鏡しても構わないけれど、
天照大神の形代として作られた八咫鏡を壊す文化は倭国にも日本にもない

実際、八咫鏡の試作品としてうまく作れなかったという
伝承まである日像鏡と日矛鏡でさえ、御神体の秘匿鏡として伝世されている

「勝手な伝統」どころか、触らぬ神に祟りなしはことわざレベルで
生活に密着してるぞ

あと、汚れとは別の穢れの感覚とか、日本人なら分かるだろ?

こういう、宗教的な観念を抜きに歴史を考えても、得られるものは少ないよ

>>337の国籍がどこであってもどうでもいいけれど、日本人の感覚が
分からないまま論じているのでは、限界があるよ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 21:11:23.10
>>338
>内行花文鏡が王権の象徴であるという確かな証拠です。

所蔵者の海部直が、王だったとは言えないのでは?
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 21:13:14.19
>>339
>でも、完成した鏡は自動的に八咫の大きさになるわけですよ。

それを、わざわざ測って、八咫とする理由がない
何度も書くが、円形のものの大きさを円周の長さで示した例はない

反論したい場合は、反例を挙げてくれ
悪魔の証明でもなんでもなく、反例があれば否定できるから
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 21:42:15.70
>>342
>「勝手な伝統」どころか、触らぬ神に祟りなしはことわざレベルで

ことわざが根拠w
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 21:44:38.95
>>343
籠神社の鏡はアマテラスが孫の饒速日に与えた十種の神宝の一部だよ。
饒速日は天照国照の称号を持つれっきとした倭王。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 21:52:21.41
八咫バカって物部東遷厨と同一人物なのか?
結論先にありきでまともに史料を読解できないとこも似てるな…
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 22:15:19.56
御祭神[本宮 籠神社]

◎主神
彦火明命(ひこほあかりのみこと)
亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。
尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。
彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。
又別の古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。
子孫長福、家内安全、諸病平癒の御神徳が聞こえる。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 22:17:16.94
>>338

大きさは権威と関係なかろう

むしろ希少価値 特殊な文様 意匠があったり
古いものほど権威があるはずだが。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 22:25:33.34
>>350
希少価値というなら、史上最大の鏡というだけで希少価値だよ。
こけおどしの文様ではなく、あくまでも王権の象徴としての内行花文鏡であるところが重要なんだよ。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 22:26:03.23
籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担っている。
海部氏とは海人族を統括した伴造氏族で[4]、全国に分布が見られ、籠神社社家はそれらのうち「海部直」姓を称して丹後に拠点を持った一族である。

一族には、現存では日本最古の系図「海部氏系図」(国宝、平安時代の書写)が残されており、彦火明命を始祖(初代)として82代の現宮司までの名が伝えられている[5]。
また海部氏一族が丹波国造を担ったとも伝えているが[注 3]、丹波国造について『先代旧事本紀』の「国造本紀」では尾張国造と同祖で建稲種命四世孫の大倉岐命を祖と記し、
同書「天孫本紀」では饒速日尊(天火明命)六世孫の建田背命を祖と記すように[6]、天火明命を祖とする尾張氏系と彦火明命を祖とする当一族との関連性が見られる[注 4]。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 22:31:32.08
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今すぐ言えよおまえ!
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 22:44:37.44
邇邇芸の王家も饒速日の王家も、大きさこそ違え同じ内行花文鏡をシンボルとしていた。
それは内行花文鏡が太陽神アマテラスを象徴すると考えられていたからだろう。
天津神の中でも皇祖である筑紫の日向の天孫族が最大の内行花文鏡である八咫の鏡を保有していたのは当然だな。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 22:58:40.02
>>351
>史上最大の鏡というだけで希少価値だよ。

っていっても仿世鏡だしな
作ろうと思えばいくらでも作れる
実際、平原1号墓で、破鏡供献に「5枚」使ってるだろ?
壊すためだけに作ったようなものじゃないか

希少価値って言葉は当たらないんじゃないか?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 23:05:30.12
反論がないみたいだから>>341は認めたってことでいいな!

>>297の「八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある」は、間違い
>>304の「八尺瓊勾玉」は周の長さで大きさを表したものではない

結局、平原1号墓出土鏡が八咫鏡であるとするための根拠は何一つ挙げられないってことだ

反論したかったら、日本でも大陸でもよいので、過去から現在までの、
逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 23:20:33.12
>>352でいろいろ書いてくれているけれど、丹波の海部直は海部一族の惣領家ではないし、
饒速日を王だというなら、その本宗家は物部氏だろう

彦火明命を王だという場合でも、海部氏よりも尾張氏の方が正系だろう

海部直の伝世鏡が、王権のシンボルというのには素直に頷けない
倭王のシンボルではなく、「各地の首長(豪族)レベル」のシンボルというなら分かるんだが
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/16(月) 23:55:57.22
>>358
なに、wikiから適当に引っ張ってきただけだ。
色々と後世の習合の痕跡がありすぎて個人的にはどうかと思う部分が多いが、いちおう公式に籠神社に伝わる話をまとめるとああなるのだろう。
主旨としては、籠神社の鏡はアマテラスの孫である饒速日は王として関西方面に降臨した時に与えられた鏡ということだ。
最終的に物部氏や海部氏という豪族にはなるが、饒速日の世代では天照国照の称号が示すように、天照大神と大国主の両方の権威を継承した倭王だったはず。
おそらく筑紫の邇邇芸へは兄弟相続か、東西で分割統治でもしたのだろう。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 00:23:45.08
>>356
>作ろうと思えばいくらでも作れる

王権の象徴を勝手に量産したら、古代においては反逆罪間違いなしだな。

>実際、平原1号墓で、破鏡供献に「5枚」使ってるだろ?
>壊すためだけに作ったようなものじゃないか

そりゃあ、持ち主の女王が死んだから破鏡で供養したんだろう。
もともとは伊都にいた女王が10枚ほどの大型鏡の全てを保有して、儀式の時に並べていたんだろうな。
鳥居の向こうの榊に鏡と玉、剣をかけ、周りにも鏡を配置して、神がかりの巫女女王が日向峠から昇る太陽を背に信託を垂れたのだろう。
その祭祀に立ち会った魏の使いは、この見知らぬ祭祀を鬼道と呼んで魏志倭人伝に記したのだろう。
そしてその鏡が副葬された平原女王墓の年代は倭国大乱の後の卑弥呼の治世であると。

これで平原女王が卑弥呼じゃなかったら、その方がびっくりだ。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 00:29:00.86
邪馬台国大和説の人は記紀の神武やニギハヤヒが東遷したことには目をつぶる
庄内期ですらド田舎の大和がどうやって成り立ったのか説明できない
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 00:37:38.65
>>359
>両方の権威を継承した倭王だったはず。

その権威の証のレガリアが、正系でも何でもないところにあったらおかしいだろう?ってこと
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 00:43:13.38
>>360
>王権の象徴を勝手に量産したら、古代においては反逆罪間違いなしだな。

逆だ、逆!
平原1号墓の主程度で5枚も使い捨てられる程度の量産品なんだから、
とてもじゃないけど王権の象徴なんてものじゃなかったんだよ

八咫鏡じゃないこともはっきりしたし
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 01:03:16.57
>>362
後世から見た正統なんて、その当時においてはどれが正統になるかなんてわからないだろう。
記紀では饒速日は神武がたどり着く以前から王として畿内に君臨していたことになっている。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 06:33:46.76
>>364
>記紀では饒速日は神武がたどり着く以前から王として畿内に君臨していたことになっている。

記紀に「畿内」などと一切書かれていない。  君が勝手にそう妄想しているだけ。  @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 07:02:22.08
大和か。
訂正しよう。
その時代に畿内という枠組みはないからな。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 07:07:24.46
九州北部説って、ホント笑えるよなw

九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月しといて、まーだ九州北部にいるんだからw

どんだけのろまなカメさんなんだよwwww 
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 07:13:20.61
>>366
>記紀では饒速日は神武がたどり着く以前から王として畿内に君臨していたことになっている。

記紀では饒速日は神武がたどり着く以前から王として「大和」に君臨していたことになっていない。
君が勝手にそう妄想しているだけ。  @阿波
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 08:43:18.97
>>367
>九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月しといて、まーだ九州北部にいるんだからw

北部九州からじゃなくて帯方郡からですね。
帯方郡から水行二十日、水行十日、陸行一日(月)。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 12:08:47.29
>>369
>北部九州からじゃなくて帯方郡からですね。

これが既に妄想
旅程の途中で、起点に巻き戻して記載していることになるが
そんな不自然な読ませ方をする文書なんてありえないだろ?

それに、冒頭で倭人在帶方「東南」大海之中と言っているのに
邪馬台国へは「南」至邪馬壹國で、これも矛盾しているし

投馬国は、どこをどう通っていくんだ?
魏志倭人伝の書き方だと、投馬国も
「自女王國以北」、其戸數道里可得略載に入るぞ
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 12:39:27.45
>>370
全体の所要日数を確認するのは普通のことだし、後漢書では邪馬台国まで一万二千里と言い切っているから、日数が追加情報にすぎないことは明らか。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 14:27:47.90
魏略でも日数の記述や奴国以下の路程記述もなくてたどり着くことは明白
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 14:52:28.84
>>371
>全体の所要日数を確認するのは普通のことだし

全体の所要日数を確認するのは、最初か最後だろう
途中でいきなり所要日数になるのはおかしい

そして、投馬国へも日数表記になっているが、投馬国への「水行二十日」は
「どこ」の全体の所要日数なんだ?

いずれにしても、矛盾だらけにしかならないんだよ

それから、萬二千余里は「女王国」までの距離であって、卑弥呼を共立した範囲までの
ざっくりした距離であって、「邪馬台国」までのピンポイントの距離ではない

魏略は逸文しか残っていなくて、しかもそれが翰苑が主だから、誤字脱字ばかりだけれど
自帯方至「女國」 万二千餘里 となっていて、これも邪馬台国ではなく女(王)国と
している
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 15:02:03.70
>>360
>これで平原女王が卑弥呼じゃなかったら

平原出土鏡は、八咫鏡ではない
伊勢の本物の八咫鏡とは面径がはっきり異なる

平原1号墓の大きさは、魏志倭人伝の「大作冢徑百餘歩」に合わない
小さすぎる

平原1号墓は2号墓と周溝を共有しており、同時に作られたと考えられるが
魏志倭人伝の卑弥呼の冢の記述に、双墓を思わせる記述は皆無

平原遺跡全体で見て、王墓のある王族の墓地とは判断できない
副葬品なしの小さな方形周溝墓の、集団墓地だ
その中に一つだけ副葬品の豊富な厚葬墓がある状態

周溝に作られた土坑墓の遺物から判断される編年を基に考えると
1号墓の築造時期は2世紀末から3世紀初となり、卑弥呼の没年に合わない

これで平原一号墓の被葬者が卑弥呼だったら、びっくりだ、というか
それを否定する根拠ばかりであり得ない
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 15:54:23.01
>>373
女王を共立した伊都国までで萬千五百里だよ
もっと言えば対馬国までで八千里
女王国は共立国の総称じゃない
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 16:03:37.92
>>373
>全体の所要日数を確認するのは、最初か最後だろう
>途中でいきなり所要日数になるのはおかしい

「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
行程記事はこの前迄で終わっている
途中ではなく終わったから追加の情報として行程に掛かる日数を説明したもの。

>そして、投馬国へも日数表記になっているが、投馬国への「水行二十日」は
>「どこ」の全体の所要日数なんだ?

「水行二十日」は「從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」に掛かる日数ですね。

>それから、萬二千余里は「女王国」までの距離であって、卑弥呼を共立した範囲までの
> ざっくりした距離であって、「邪馬台国」までのピンポイントの距離ではない

萬二千余里ですからピンポイントの距離ですよ、伊都国と奴国の国境付近がピンポイントの「女王国」ですね。

>魏略は逸文しか残っていなくて、しかもそれが翰苑が主だから、誤字脱字ばかりだけれど
>自帯方至「女國」 万二千餘里 となっていて、これも邪馬台国ではなく女(王)国と
> している

邪馬台国なんて追加の情報でたいして重要じゃないんですよ
女王国の方が重要なんです。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 16:05:22.15
>>375
>女王を共立した伊都国までで萬千五百里だよ

壱岐対馬の方可300里と方可400里を入れると
伊都国と奴国の国境付近が丁度12000里となります。
0378新人
垢版 |
2018/04/17(火) 17:24:19.80
>>370地図自体が正距方位図法で書かれてたはずだから
全ての距離は出発地点からだね
だいたいスレ読ませていただいたが
畿内説にはロマンや雅さを感じないよ
万葉集と比べても何か違う点も多々みられるし
考古学の人って万葉集詠んだりしてるのかな
当時の人達は雅さやロマンを本当に大事にしている
畿内からは何も感じない
多分九州で正しいと思う
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 17:59:30.66
>>376
>「水行二十日」は「從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」に掛かる日数ですね。

頭大丈夫か?
ここに水行20日かかってて

邪馬台国までの水行十日陸行一月が、また帯方郡からって、頭腐ってないか?
狗邪韓國までの七千餘里の水行に20日かかるのに、その向こうの倭国本土まで行くのに
どうして水行十日で足りるんだ?

「計算」、って言葉知ってるか?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 18:01:13.97
>>376
>「南至投馬國 水行二十日 (一部略)」
行程記事はこの前迄で終わっている

ということは、投馬国へ行くのは、行程には入っていないってことになるぞ?
どうやって投馬国へ行くんだ?

五万戸の、倭国第二の大国だぞ?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 18:03:14.96
>>376
>邪馬台国なんて追加の情報でたいして重要じゃないんですよ
>女王国の方が重要なんです。

卑弥呼が親魏倭王で、倭国王なんだから、女王国=倭国だよ

邪馬台国がたいして重要ではないと思うなら、邪馬台国論争のスレに出てこなくていいんじゃないかな?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 18:05:31.01
女王国と邪馬台国が別の場所に2つある、
と 言う読み方はある意味で倭人伝を読めている。ムー大陸なんで違うけどw↓
伊都が首都だが、卑弥呼の居城はさらに千5百里南。

240年に金印紫綬の来日の際に、邪馬國 にある 卑弥呼の砦の 臺 を見て
九州北部連合の国名を邪馬台国としたのは、梯儁である。
倭国とせず邪馬台国の国名を改めて付けたのは、
女王属国の21国の概要を確認し中国語名にしたが
帯方郡で倭王と認識した卑弥呼の国が九州北部の小国だと知ったからである。

247年の帳政は 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之 が目的であり
女王卑弥呼が既に死んでいたし、南限の王宮狗奴国との境界まで行っていない。
北部連合首都である伊都で用件を済ませ、奴国王 難升米 の奴国へは訪れた。

帯方郡からの行程が重複するのは、
張政は女王の死で、墓以南に行く必要はない為、女王国全体を把握していないので
陳寿が倭国の記録について、二人のデータを併記する必要があったから。
この梯儁記との段落が、里程から行程に変わる、不彌国部分であることは明白。

倭人船便乗の張政が奴国と不彌國で航海から同行している副日卑奴母離のほかに、
それぞれ現地の官を任命していることが、これを証明する。
しかし、政等以檄告喩壹與なので、難升米の生死は不明、以て死の可能性がある。
247 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
によって、邪馬台国と帯方郡の軍事同盟は無意味、不可能と報告されただろう。
掖邪拘等二十人が皇帝のお土産もって帰国出来たかは明らかにされていない。
多分、帰ってお土産が有れば、倭人伝で自慢する。

島の方可400里と言う表現を行程に加算するのはおかしい。
陳寿は概念図、地図上で、島の範囲や距離を検討しながら書いている。
対馬の大きさがおかしいのは、東西距離を俯瞰しないで概念が記されていたから。
上陸後、一月行は2千里なので、女王の王宮は、首都伊都ではなく
八女〜山門瀬高、おそらく最南。 卑弥呼はヒッキーで政務なんてやってないww
0383日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 18:08:02.36
>>377
>女王を共立した伊都国までで萬千五百里だよ

「計算」って言葉知ってるか? 再び

帯方郡⇒狗邪韓國 七千餘里
 ⇒至對馬國    千餘里
 ⇒至一大國    千餘里
 ⇒至末盧國    千餘里
 ⇒到伊都國    五百里

これを合計しても、萬五百里にしかならないぞ
どこで千里ごまかしてるんだ?
0384日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 18:09:01.98
>>377
>壱岐対馬の方可300里と方可400里を入れると

島巡り仮説を信じてくれる人は今どきいないよ?

対馬と壱岐は、正方形なのかい?
0385日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 18:12:14.51
>>374には触れないのかい?

平原出土鏡は、八咫鏡ではない
伊勢の本物の八咫鏡とは面径がはっきり異なる

平原1号墓の大きさは、魏志倭人伝の「大作冢徑百餘歩」に合わない
小さすぎる

平原1号墓は2号墓と周溝を共有しており、同時に作られたと考えられるが
魏志倭人伝の卑弥呼の冢の記述に、双墓を思わせる記述は皆無

平原遺跡全体で見て、王墓のある王族の墓地とは判断できない
副葬品なしの小さな方形周溝墓の、集団墓地だ
その中に一つだけ副葬品の豊富な厚葬墓がある状態

周溝に作られた土坑墓の遺物から判断される編年を基に考えると
1号墓の築造時期は2世紀末から3世紀初となり、卑弥呼の没年に合わない

これで平原一号墓の被葬者が卑弥呼だったら、びっくりだ、というか
それを否定する根拠ばかりであり得ない

伊都国=邪馬台国説は、結局は「平原1号墓が卑弥呼の墓」という思い込みだけが
理由なんだよな

そして、「平原1号墓が卑弥呼の墓」の根拠だと思ってたのが
「大型内向花文鏡が八咫鏡」 否定済み
「土坑墓が殉葬墓」     否定済み
だから、もうネタ切れ
0386日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 18:33:41.40
>>383
再びって何?
萬二千里コピーして二だけ消して五百付け足したんだ
千を消し忘れたのはミスだわ
共立国の対馬が八千里、伊都国が萬五百里だし女王国が共立国を指すこたあないな
0387日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 18:41:40.54
女王国は(女国)魏略または魏略が参考にした文書出典の言葉
帯方郡から伊都国までのルートも魏略出典
奴国から邪馬台国までのルート情報は帯方郡から伊都国までの書き方と違うから別の文書からの引用だろう
そして女王国の名前が邪馬台国と判明したというわけ
まさか国の正式名称が女王国というわけでもあるまいしその抜けを補ったという話だね
つまり女王国と邪馬台国は同一
0388日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 18:57:41.54
>>379
>邪馬台国までの水行十日陸行一月が、また帯方郡からって、頭腐ってないか?

「水行十日陸行一月」は投馬国から邪馬壹国までです。

>ということは、投馬国へ行くのは、行程には入っていないってことになるぞ?
>どうやって投馬国へ行くんだ?
> 五万戸の、倭国第二の大国だぞ?

投馬国は狗邪韓国を含む朝鮮半島南岸の地域です。

>>383
帯方郡⇒狗邪韓國 七千餘里
 ⇒至對馬國    千餘里
 ⇒          方可四百餘里
 ⇒至一大國    千餘里
 ⇒          方可三百里      
 ⇒至末盧國    千餘里
 ⇒到伊都國    五百里

7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000

>>384
島巡り説を否定する根拠がない。

>対馬と壱岐は、正方形なのかい?

航路の説明だから正方形の必要はない
現に方可と書かれてる
方可を面積とすると現実と全く合わないから外周の航路距離としか考えられない。
0389日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:04:53.12
>>388
ほうほう、なかなか面白い

やっぱり糸厨の方が誠実だな
0390日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:13:08.23
>>386
>女王国が共立国を指すこたあないな

共立国限定じゃなくて、倭女王のいる洲島のあるのが、
萬二千里の彼方って言ってるだけだよ
0392日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:19:45.44
>>374
>平原1号墓は2号墓と周溝を共有しており、同時に作られたと考えられるが
>魏志倭人伝の卑弥呼の冢の記述に、双墓を思わせる記述は皆無

否定する根拠ではないよ。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 19:20:19.14
>>388
>「水行十日陸行一月」は投馬国から邪馬壹国までです。
>投馬国は狗邪韓国を含む朝鮮半島南岸の地域です。

これ、おかしいと思わないのかい?

対馬海峡を半島から九州まで渡るのに、水行10日はかからないだろ?
どういう計算だ?

それから、狗邪韓国を人口五万戸とするのは無理だろう
十分な平地がない
さらに、投馬国へは「南」至とされているのに、狗邪韓国までの水行は
「乍南乍東」で南ではない

そして、北部九州を邪馬台国にしたら、七万戸とどうやっても矛盾する

矛盾だらけの無理な読み方だよ
0394日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:20:38.85
>>374
>周溝に作られた土坑墓の遺物から判断される編年を基に考えると
>1号墓の築造時期は2世紀末から3世紀初となり、卑弥呼の没年に合わない

副葬品で評価するべき。
耳璫などからは、魏晋の時代に比定される。
0395日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:21:12.03
>>375
>>373
>女王を共立した伊都国までで萬千五百里だよ
>もっと言えば対馬国までで八千里
>女王国は共立国の総称じゃない

残り千五百里では福岡県も出ないだろう。
0396日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:25:02.90
>>385
>平原出土鏡は、八咫鏡ではない
>伊勢の本物の八咫鏡とは面径がはっきり異なる

伊勢の鏡は焼けて灰になったからだろう。
0397日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:27:04.02
平原遺跡が卑弥呼の墓でない証拠を見つけようと必死になるキナイコシ
0398日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:28:00.69
>>385
>副葬品なしの小さな方形周溝墓の、集団墓地だ
>その中に一つだけ副葬品の豊富な厚葬墓がある状態

偉大な女王の墓だから、ピッタリだろう。
何をいちゃもんつけているんだ?
0399日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:28:55.69
水行二十日陸行十日を、総旅程だから帯方郡からとか言ってるやつがいるが、
全体の総括が、途中に入ってたらおかしいだろ?

全体の総括は、
其餘旁國遠絶、不可得詳。(中略)此女王境界所盡 と
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。 を書いたあとの、
まさに最後に
自郡至女王國萬二千餘里。 が置かれている

これが総旅程であることは、問題ないよ
そして、ここに書かれたこの萬二千里が総旅程である以上、
ある意味不屬女王の狗奴國までが、女王国の範囲で、
そこまでの全体=総旅程が萬二千里ってことだ

まあ、狗奴國一国分を抜いて、その手前の此女王境界所盡(ここが女王が支配する領域の境界である。)まで
でもいいけれど

自郡至「女王國」萬二千餘里が置かれている位置と、その直前の此女王境界所盡の関係を考えたら
これが一番素直な読み方
0400日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:30:05.05
>>395
>残り千五百里では福岡県も出ないだろう。

短里を信じている人には、そう見えるかもしれませんが、
魏晋里なら、ちょうどよい距離感ですよ
0401日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 19:36:14.95
>>393
帯方郡から狗邪韓国までが水行20日ですから朝鮮海峡を渡るのに10日は妥当です。
狗邪韓国が人口五万戸ではなく、狗邪韓国を含む朝鮮半島南岸一帯が投馬国で人口五万戸。
投馬国は朝鮮半島南岸一帯ですから帯方郡から見たら南の方角です
投馬国の中の狗邪韓国へ行くには「乍南乍東」です。
朝鮮半島南岸の投馬国と北部九州の邪馬壹国
五万戸と七万戸の国が在ったんです。
0402日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 19:39:48.16
>>400
短里とか魏晋里関係なく
倭人伝では壱岐から松浦までが1000里しかない
松浦から伊都までが500里
松浦から伊都までの3倍の距離では九州はおろか福岡県内からも出ない。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 19:43:33.77
>>399
漢文に()書きがあれば()を付けられたんだろうが
途中に張政の持ち帰った情報を新たに書き加えたんだよ
行程に関する情報なんで途中に書かないと他に書くところがない。
0404岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/17(火) 19:50:34.33
>>403
私も全く同意見です。
そう考えるのが一番自然ですね。

万二千里は、張政が実際に来るまでの情報で、
九州北部まで倭国の里程としてぴったりですね。

それに張政の報告書の伝聞を書き足したということです。
魏略と魏志の差もこれでスッキリします。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 19:50:38.31
2世紀中頃九州北部の奴国が後漢が乱れたことにより後ろ盾を失い国力が低下
倭国乱が発生し環壕集落どうしで戦いが発生、九州で数多くの戦死死体が現れる

3世紀始め九州北部で邪馬台国が力を付けはじめ奴国に代わり台頭
魏を後ろ盾にして倭王を名乗る

その頃本州では出雲王権たる葦原中国が存在
帯方郡(公孫氏)と独自に交易して得た先進物を日本海の交易ルートを使い大和・吉備・越などに伝え影響力下に置いた、しかし公孫氏が魏に討たれたため影響力が低下

3世紀中頃狗奴国を下した倭国が葦原中国平定に乗り出し出雲に国譲りを強要
出雲は王都出雲を残し支配権を倭国に譲る
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 19:52:54.15
九州から饒速日が支配権を譲られた大和統治のために降臨
庄内式土器とともに高度な文化を伝える
吉備の勢力も饒速日に便乗、大和の国作り()に参加
吉備は九州大和間の交易ルートたる瀬戸内海を支配することにより実利と影響力を得て、後の大和朝廷では要職と祭祀権を得る
出雲を通して手に入れていた鉄が九州経由で手に入るため出雲は不要に、逆に日本海の交易ルートを持つ出雲が邪魔になる

3世紀末神武天皇が東遷
宇摩志麻遅の手勢と交戦するも、宇摩志麻遅が交戦相手が天孫と気づき帰順
九州本国軍と本格的な戦争になっては勝ち目がないとの判断
ここに大和朝廷が成立
0407岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/17(火) 19:59:59.68
>>406
私の考えと相当近いですねー。
ま、神武東征は虚構でしょうけど。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 20:14:18.75
>>406
>ここに大和朝廷が成立

ここってどこ?  @阿波
0411日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 20:37:02.02
>>400
>>395
>>残り千五百里では福岡県も出ないだろう。

>短里を信じている人には、そう見えるかもしれませんが、
>魏晋里なら、ちょうどよい距離感ですよ

対馬海峡が三千里なんですよ。
0412日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 20:39:37.22
>>407
>>406
>私の考えと相当近いですねー。
>ま、神武東征は虚構でしょうけど。

饒速日も三島溝杭も、見方を変えれば東征なので、神武だけ否定する必要もないでしょう。
波状的に筑紫から西日本各地に侵攻(進出?)がったと考えるべきです。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 20:41:22.92
>>405
記紀によれば、出雲王権を倒して筑紫に王権を立てた天孫族が、なぜか筑紫を出ました。
おそらく、その後に成立したのが卑弥呼政権なのでしょう。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 20:49:18.89
>>413
>なぜか筑紫を出ました。

なんでだろう?

>おそらく、その後に成立したのが卑弥呼政権なのでしょう。

どこに成立したの?  @阿波
0415岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/17(火) 20:58:00.79
>>412
国譲りと神武東征が二重写しになっているのだと思いますよ。
国譲りで出雲勢力から譲られた国は、ヤマトであり、
譲られた勢力こそ内行花文を象徴にした勢力ということです。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 21:19:38.55
>>374には触れないのかい?

平原出土鏡は、八咫鏡ではない
伊勢の本物の八咫鏡とは面径がはっきり異なる

平原1号墓の大きさは、魏志倭人伝の「大作冢徑百餘歩」に合わない
小さすぎる

平原1号墓は2号墓と周溝を共有しており、同時に作られたと考えられるが
魏志倭人伝の卑弥呼の冢の記述に、双墓を思わせる記述は皆無

平原遺跡全体で見て、王墓のある王族の墓地とは判断できない
副葬品なしの小さな方形周溝墓の、集団墓地だ
その中に一つだけ副葬品の豊富な厚葬墓がある状態

周溝に作られた土坑墓の遺物から判断される編年を基に考えると
1号墓の築造時期は2世紀末から3世紀初となり、卑弥呼の没年に合わない

これで平原一号墓の被葬者が卑弥呼だったら、びっくりだ、というか
それを否定する根拠ばかりであり得ない

伊都国=邪馬台国説は、結局は「平原1号墓が卑弥呼の墓」という思い込みだけが
理由なんだよな

そして、「平原1号墓が卑弥呼の墓」の根拠だと思ってたのが
「大型内向花文鏡が八咫鏡」 否定済み
「土坑墓が殉葬墓」     否定済み
だから、もうネタ切れ
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 21:31:58.12
いろいろ行程論をこねくり回しているけれど、
結局は平原1号墓を卑弥呼の墓だということにして、
そうしたら伊都国が邪馬台国だぁっていうだけのガバガバ理論に合わせるために
結論ありきの無理やり屁理屈不自然読みをしているだけだからな

そもそもが、伊都国を通過してから行く、伊都国と並列で書いてある別の国を
伊都国に重ねる時点で、旅程が書いてある文章の読み方としておかしいんだから
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 21:35:20.54
記紀と倭人伝に整合性を持たせるなら
神武は天祖ニニギが天降って179万2470余年の
紀元前7世紀に九州から東遷している。

800年後の250年までの卑弥呼は全く別の九州に沸いた弥生土器文化人の国だ。
その後、ヤマトタケルや仲哀〜神功皇后が平定し、卑弥呼に属した王の多くは
本州北部や半島に配流されたか、朝廷に属して九州海神系の豪族化した。
正史なんだから、ご都合主義で読み替えないで、記紀もちゃんと読めばいいのに?
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 21:36:39.32
>>416
>女王のいる州島なら萬二千里彼方じゃないやん

女王のいる洲島が萬二千里の彼方なんだよ
その表現が
倭人在帶方東南「大海之中、依『山島』」爲國邑
從郡至倭(中略)到其北岸狗邪韓國、「七千餘里」
     +
絶在「海中『洲島』之上」、或絶或連、周旋可「五千餘里」

これを合わせて萬二千里になるように、数字を作ってるんだよ
実測地じゃない=魏晋里に合わない、のを、都合よく解釈してるだけだよ、九州説はみんな
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 21:53:54.40
>>421
だったら、倭人伝は地の果ての話であって、古代日本である必要が無くないか?
倭人伝は記紀の500年以前と一緒で神話なのか?
時系列も地理も領土の範囲も概ねで合ってるだろ。

陳寿は西域から、東夷までの地理や外交も含めて
三国志時代を俯瞰して、この時の中国史を語ってるんだけど?
魏志は漢以降の三国の覇者が同時代の280年に記録してるんだよ。
実際に遠征してるもんを馬鹿にしすぎだよ。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 22:00:40.59
>>421
「周旋可五千餘里」は奴国から奴国までの一周が5000里の意味です
博多から有明海の周りを天草等を通って一周して博多へ
萬二千里とか関係ありません
倭地内の説明。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 22:03:54.29
饒速日は神武の前に東方に植民した移民ですね
九州から次から次へと移民が東方に入植してたんですね
最後の入植者が神武だったってことですね。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 22:10:41.81
>>421
女王国より北に伊都国あるんだから女王国はやっぱり共立国じゃないなあ
魏略での古い表現 女王国
魏志で新しく加わった表現(正式名称) 邪馬台国
この表記がごっちゃになってるだけだよ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 22:33:26.34
>>424
>最後の入植者が神武だったってことですね。

最後の入植者「神武」は最終的にどこへ入植したんだい?  @阿波
0427日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 22:53:30.51
平原に埋葬されている女王は卑弥呼ではなく、その名前を記録されなかった伊都国の、偉大な女王じゃないかな。
倭国大乱で、歴史と伝統ある伊都国が新興の邪馬台国などに敗戦して没落したのは当時の倭人たちにとっては青天の霹靂というか
かなりショッキングな出来事ではなかったか。「千余戸」という数字も邪馬台国に占領されたため、大多数が隣の奴国あたりに移住させられて
その国土の多くを軍用に接収されたためではないか。マンション建設のため潰された大環濠集落、五郎江遺跡は
この伊都国が平和で幸福であった時代の痕跡だろう。
0428日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 23:16:48.66
>>427
>平原に埋葬されている女王は卑弥呼ではなく、その名前を記録されなかった伊都国の、偉大な女王じゃないかな。

間違いなく倭国の女王だよ。
それも倭国大乱の後の年代のね。
0430日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 23:31:09.43
>>427
それの可能性ももちろんあるのだが、倭人伝の記述では女王国はこの女王を統属してなければならず、その様な国は考古学的にどこも見当たらない。

平原遺跡の副葬品はかなりの権威を示しているのは事実な訳で。
ここを説明するのが非常に難しいのだよ。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/17(火) 23:39:28.58
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
0434日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 23:45:52.55
>>420
>その後、ヤマトタケルや仲哀〜神功皇后が平定し、卑弥呼に属した王の多くは
>本州北部や半島に配流されたか、朝廷に属して九州海神系の豪族化した。

仲哀や倭建は九州説でも卑弥呼の末裔を平定したことになると思うが、彼らもまた九州の勢力だよ。
九州北部では内紛が後々まで続くんだよ。
魏志倭人伝でも記紀でも、倭国の中では内紛が続くよね。
0435日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 23:52:39.30
仲哀景行や倭建は九州説では卑弥呼の末裔であり、
狗奴国の残党を平定したことになる。

九州北部の対狗奴国の内紛は景行と倭建が解決した。

その後の卑弥呼の末裔の中での九州北部の内紛は
神功皇后が解決した。

結局はボスの力量にかかっているので、
王家が乱れるたびに、
記紀でも、倭国の中では内紛が続く。
0437日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 23:58:48.72
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0438日本@名無史さん
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2018/04/17(火) 23:59:39.36
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0439日本@名無史さん
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2018/04/18(水) 00:01:04.87
>>423
>奴国から奴国までの一周

魏志倭人伝で使われている「周旋」の意味を全部調べて、
「一周して元の場所に戻る」ていう意味で使われているところは一つもないことを
きちんと論証している人がいるよ

周旋は、「いろいろなところによりながら進む」という程度の意味
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf

魏志倭人伝の旅程は、余傍国まで含めて北から南へ順に記しているという
構成になっているので、「次有奴國、此女王境界所盡」の「奴国」は、
伊都国の隣の奴国ではおかしいし、「○奴国」の脱字と解釈する人も多い
0440日本@名無史さん
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2018/04/18(水) 00:03:20.43
>>432
>すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。

投馬国も、自女王国以北に入ってるよ
伊都国が邪馬台国なら、伊都国が千餘戸ではおかしいだろ?
0441日本@名無史さん
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2018/04/18(水) 00:03:40.77
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 00:08:24.49
>>439の訂正

× 魏志倭人伝で使われている「周旋」の意味を全部調べて
○ 三国志で使われている「周旋」の意味を全部調べて

魏志倭人伝では周旋は1ヶ所しかないから意味ないね
ごめんなさい
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 00:10:17.25
>>441
>投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)

ほら、投馬国が女王国の南になっちゃうでしょ?
伊都国=邪馬台国は矛盾だらけにしかならないって
0444日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 00:11:04.61
>>439
>周旋は、「いろいろなところによりながら進む」という程度の意味

帯方郡から狗邪韓国まで七千里
女王国(の中心点)まで一万二千余里

と連動しているわけですよね。
>周旋五千里
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 00:11:12.08
>>374には触れないのかい?

平原出土鏡は、八咫鏡ではない
伊勢の本物の八咫鏡とは面径がはっきり異なる

平原1号墓の大きさは、魏志倭人伝の「大作冢徑百餘歩」に合わない
小さすぎる

平原1号墓は2号墓と周溝を共有しており、同時に作られたと考えられるが
魏志倭人伝の卑弥呼の冢の記述に、双墓を思わせる記述は皆無

平原遺跡全体で見て、王墓のある王族の墓地とは判断できない
副葬品なしの小さな方形周溝墓の、集団墓地だ
その中に一つだけ副葬品の豊富な厚葬墓がある状態

周溝に作られた土坑墓の遺物から判断される編年を基に考えると
1号墓の築造時期は2世紀末から3世紀初となり、卑弥呼の没年に合わない

これで平原一号墓の被葬者が卑弥呼だったら、びっくりだ、というか
それを否定する根拠ばかりであり得ない

伊都国=邪馬台国説は、結局は「平原1号墓が卑弥呼の墓」という思い込みだけが
理由なんだよな

そして、「平原1号墓が卑弥呼の墓」の根拠だと思ってたのが
「大型内向花文鏡が八咫鏡」 否定済み
「土坑墓が殉葬墓」     否定済み
だから、もうネタ切れ
0448日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 07:00:08.43
投馬国は朝鮮半島南岸ですから自女王国以北ですね。

>>444
周旋については、漢字研究家の白川静氏が「旗をめぐらして旋る意。周旋はもと戦う意に用い、〔左伝〕僖23年「君と周旋せん」とは戦場において馳駆角逐することういう。」と解説してますよ。
馳駆・・・馬を走らせること。
角逐・・・互いに競争すること。せり合うこと。

周旋とは同じ所をぐるぐる回転との意味ですよ。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 07:20:19.71
>>440
>投馬国も、自女王国以北に入ってるよ

伊都より北は里程が分かるとあるが、投馬国への里程は記載がない。
伊都より北ではないということ。
さらに、日程が邪馬台国より長い。
つまり邪馬台国より南にある。
宮崎県都万が5万戸の人口から言ってもふさわしい。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 07:52:31.60
投馬国への里程は記載がないが狗邪韓国への里程の記載がる
投馬国や邪馬壹国は国邑ではなく国邑の連合体で韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもの
第一宮崎県では5万戸の人口は無理ですよ。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 08:03:16.08
>>450
福岡平野で2万戸あったなら、宮崎平野で5万戸も可能だろう。
西都原古墳群のような大量の遺跡も存在するし。
王権の伝承にも事欠かないよ。

魏志倭人伝において、投馬国と邪馬台国が併記されているということは、投馬国が卑弥呼の支配下ではなかったということだろう。
狗奴国のようなあからさまな対立はなかったとしても、投馬国は独立していた勢力。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 08:05:42.07
>>892


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 08:06:41.15
ではなぜ狗奴国王ともとより不仲と書かれていたかといえば、卑弥呼と卑弥弓呼が同族で王位継承を争ったのだろう。
狗奴国が肥後熊本だとすると、卑弥呼も肥国出身で、肥国女王から倭国全体の王に共立されて筑紫の伊都に入ったのだろう。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 08:27:46.10
>>452
に一票。
戸数がヒントではある。

奴国が2万戸

投馬国で2倍以上、邪馬台国で3倍以上。
その様な国のあった形跡はあるのか?

5万戸と7万戸はそれぞれの連合国の総数の解釈の方が妥当性が高そうだがな。

つまり日程記述は、行程ではなく"日程"の説明記述であり、邪馬台国と投馬国は帯方郡からの放射的記述という説になるね。
不弥国までの記述とは情報元も意味も別かもしれん。
ここの解釈のみは岩元説に賛同。

いずれも推測でしかないがな。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 09:24:56.79
しかし九州北部説って、ホント笑えるよなw

九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月までしといて、
まーだ九州北部にいるんだからw


どんだけのろまなカメさんなんだよwwww
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 11:01:46.08
>>455
人口表記については晋の三国統一を評価するために
倭人伝は魏倭同盟での成果を盛ってる、と言うのは、事実だと思う。
韓が2〜30万なら、投馬国5万は妥当だと思う。

邪馬台国7万は福岡久留米平野だけど、
>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
の、参問の質に依存する、倭人メディアw発表に盛ったんだよ。

投馬国は半島南岸全部の倭人国だが、
この時、邪馬台国の存在が記録されて、
倭国が統一国家ではない事が明らかなわけで

半島南岸は、独立前のアメリカ大陸と言うか、植民の墾田開拓状態でしょ。
人口から言って、掖邪拘の帰り便で張政が寄港した
狗邪韓國以外は、不属女王国なのは、判る。

投馬国はのちに、と言うかこの後、朝廷の進出が本格化して
313に漢四郡も撤退すると、馬韓、加羅、辰韓の三国に分化収束していった。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 11:33:01.52
>>446
>なにがまずいんだ?

投馬国も、自女王国以北に入ってるよ

でも、北部九州説では、投馬国は北部九州を通り越して南九州まで行っちゃうんだろ?
邪馬台国を北部九州に置く限り、これは矛盾する
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 12:07:12.87
>>457
掖邪拘の帰り便で張政が寄港した ×
遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 の帰り便で張政が寄港した 〇
です。

>>455
の 岩元説 知らなかったのでググったら大変参考になろました。
ありがとうございます。
ネット上の資料で10分程度読んでも、從ー自、至ー到や又や行の意味
表意文字である漢字による作文に対する、一字の読み方は重要だと思います。

南=東が有るわけが無い。 
重要な誤字は次に読んだ人がお前は馬鹿か? と言うはずです。
三国志は、中国役人はもちろん、日本でも記紀編纂の参考に読まれた、中国正史です。

ただこれも、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
>>438 に たまたま ありますが、  
周旋 で時計回り説放棄した時の論文同様 で
読み込み過ぎなのか、方法や過程は良いのに
結果がミスリードになっているようなので残念です。

学会の圧力なのかな?
まあ、ほんとのこと書くと
考古学も遺伝子も半島での研究は不可能だと思います。
ネラーで名無し、が良いんじゃねw

ソースは? ♪ドン来いスレ、だが何かwww
|∩`Д´) / '⌒☆
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 12:17:24.66
>>447
>否定されたと夢想しているだけ。

夢想だと断ずるなら、それを夢想だとするための「根拠」を示してくれと何度言えば

否定するにも、きちんと論じないと意味がない
それが科学するということ
歴史は人文科学であり、日本史板は、科学板だ

原則に従ってくれ
科学板は447の、感想を書き散らすところではないんだ
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 12:24:17.85
>>448
>「旗をめぐらして旋る意。周旋はもと戦う意に用い、〔左伝〕僖23年「君と周旋せん」とは戦場において馳駆角逐することういう。」と解説してますよ。

「戦う意」ではないだろう
「君と周旋せん」は、「君と(戦いながら)周旋せん」だ
周旋で、元の場所に戻るという意味はここでもない

私も、ぐるぐる回るという意味で周旋を使っているところも知っているけれど
三国志の中では「まわる、元の場所に戻る」という意味で使っているところはないよ

周旋は、「いろいろなところによりながら進む」という程度の意味
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf

ぐるぐる回る例は
隋書/志 凡三十卷/卷十九 志第十四/天文上/天體(P.505)
前儒舊說,天地之體,狀如鳥卵,天包地外,猶㲉之裹黃,「周旋無端」,其形渾渾然,故曰渾天。
以前の儒者の旧説では、天地の形(體)は鳥の卵のような形状で、天は地を外から包み、なお殻が黄身の裏側を(包む)ごとくに、
端もなくぐるぐる回り、その形は継ぎ目もない(渾渾然) それ故に渾天という
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 12:29:08.18
>>452
>魏志倭人伝において、投馬国と邪馬台国が併記されているということは、投馬国が卑弥呼の支配下ではなかったということだろう。

どうしてそういう無理読みをするかなぁ
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]。可七萬餘戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、
の3つが、連続で書かれていて、投馬国が伊都国や奴国、不彌国と並列で
女王国以北に入るのは当然だろう

それで、どうして「卑弥呼の支配下ではなかった」などという夢想をするのかが不思議

それに、北部九州は奴国二万戸でいっぱいだから、邪馬台国七万戸は入らないよ
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 12:50:08.09
>>458
>でも、北部九州説では、投馬国は北部九州を通り越して南九州まで行っちゃうんだろ?
>邪馬台国を北部九州に置く限り、これは矛盾する

どこがどう矛盾する?
福岡で上陸せずさらに南に水行で投馬国だよ。
魏志倭人伝のとおり。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 12:52:51.97
>>463
>それに、北部九州は奴国二万戸でいっぱいだから、邪馬台国七万戸は入らないよ

邪馬台国七万戸は九州北部の総称なので奴国二万戸を含み、併記されている投馬国五万戸は九州南部の総称なので邪馬台国七万戸には含まない。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:01:35.05
>>444
>帯方郡から狗邪韓国まで七千里
>女王国(の中心点)まで一万二千余里

>と連動しているわけですよね。
>>周旋五千里

どういう計算?
「周旋は元の位置に戻る」、は放棄するのかい?

元の位置に戻る、ととるなら、往復で5千里だから、最大でも二千五百里
7千里と足しても9500里にしかならない

そして、元に戻らず一方通行と正しく解釈すると、萬二千里に合うけれど、
その場合でも、倭国が乗っている洲島が周旋五千里なので、余傍国、狗奴国が
邪馬台国の南にあって、そこまで含めて萬二千里なので、どちらにしても
邪馬台国までピンポイントで萬二千里は成り立たない
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:03:50.18
>>454
>肥国女王から倭国全体の王に共立されて筑紫の伊都に入った

こういう想定をなぜするのかが不思議
肥後女王が倭国全体の王に共立されても、もともとの権力基盤が
肥後なのだから、肥後を都にするだろう

伊都国説を採るなら、せめて卑弥呼は伊都国の王族じゃないと話が合わない
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:07:56.89
>>455
>投馬国で2倍以上、邪馬台国で3倍以上。
>その様な国のあった形跡はあるのか?

>5万戸と7万戸はそれぞれの連合国の総数の解釈の方が妥当性が高そうだがな。

九州限定で考えるから、そのような国がないことになるんだよ

五万戸は出雲・四隅突出墓の丹波以西の範囲、
七万戸は畿内第X様式土器の国・大和+河内〜環大阪湾の範囲で問題ない
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:09:01.25
>>457
>邪馬台国7万は福岡久留米平野だけど、

奴国二万戸の残りの五万戸は何処にあるんだい?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:10:08.55
>>457
>投馬国は半島南岸全部の倭人国だが、

この人は、ちょいちょい妄想を事実として書くから、相手がしづらい
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:15:50.83
対馬海峡を渡るのに水行10日だって行ってた人(>>457と同じ)がいるけど、
海峡の海の上で夜明かししたら、流されて遭難するよ?

渡海千里は、一日で漕ぎ渡ったところを一律で千里としたもの
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:18:54.73
>>464
>どこがどう矛盾する?
>福岡で上陸せずさらに南に水行で投馬国だよ。

さらに南にいったら、邪馬台国より南になるだろう?

>魏志倭人伝のとおり。

魏志倭人伝のとおりに読めば、
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
自女王國以北、其戸數道里可得略載
なんだから、投馬国は女王国以北になる

邪馬台国より南に行っちゃう読み方はおかしいんだよ
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 13:20:33.81
>>465
>邪馬台国七万戸は九州北部の総称なので奴国二万戸を含み、

その二万戸の他の五万戸分は、どうして書かれていないんだ?
その説明ができないだろ?
伊都国、奴国と邪馬台国を重ねちゃったら
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 14:15:59.57
根拠なし。

邪馬台国の南になんで投馬国があったらいけないんだ?
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 14:30:55.06
|∩`Д´) / '⌒☆
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
この一文は、倭人伝のここまで、外交史以外の部分の結語です。

ここまで、>>5 張政と >>6 梯儁の
今使譯所通三十國 從郡至倭 による、二つの行程
>>7  は、倭人の刺青考 これは古文書によるもの
倭人みずから奏上した、太伯の後という奏上を削除したため、文がおかしい・・・
計其道里當在會稽東治之東 と言う謎めいた珍文で、陳寿の反骨が見えます。
>>8  風物詩 産物 陳寿による古文書参考と魏使からの聞き取り。
(持衰については、他に見る可能性はないので張政の報告だろう)
>>9 梯儁による邪馬台国を見た所感
>>10 梯儁による邪馬台国の歴史と女王卑弥呼の宮殿の様子

これを 参問 したのは陳寿です。
陳寿が倭国では無く、倭地としているのは、
そこが 絶在海中洲㠀之上 つまり九州島だから。
或絶或連周旋可五千餘里 と記載したのは
皇帝に帯方郡が倭王として紹介した卑弥呼は 九州北部2千里の中にある
小国の王だったことを、陳寿は見抜いているので、ここで小声で告白しています。

外交史の最後は、
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
で、普通はお土産与えて自慢するのに帰国の報告は有りません。
張政は帰り便が無いので、魏の援軍を連れてくるからw とか、騙して
倭人が皇帝を騙したことにして、掖邪拘等二十人 を連行した手柄にしたと思います。

倭人伝についての、論争が不毛な結末にしかなっていないし、これらもそうなのは
時代状況、行間を読むことが、妄想である、とするから。 読経で真実が見えてくる。
考古学の発見による推論は皆妄想で出来ているのです。記紀ネタは 酷すぎw
倭人伝は学会の飯のタネ。 ネラーなら判るよねwww
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 14:33:33.39
>>474
>根拠なし

根拠なしって言いたかったんだね
いつも悔しい思いをしてるから

南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
自女王國以北、其戸數道里可得略載

帯方郡から順に奴国まで
不彌国
 ↓ 南
投馬国
 ↓ 南
邪馬台国     ここまでが、女王国以北

こういう風に、魏志倭人伝は書いてあるんだよ

>邪馬台国の南になんで投馬国があったらいけないんだ?

これで、投馬国が邪馬台国より南に来てたら「女王国以北」に矛盾するでしょ?
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 15:04:05.16
>>467
>肥後女王が倭国全体の王に共立されても、もともとの権力基盤が
>肥後なのだから、肥後を都にするだろう

肥後は肥国の中心ではないよ。
後世の筑後が有明海沿岸の肥国の中心。

>伊都国説を採るなら、せめて卑弥呼は伊都国の王族じゃないと話が合わない

肥国と筑紫の連合国である倭国(邪馬台国)の女王に共立されたんだよ。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 15:09:57.54
>>472
>南至投馬國水行二十日
>南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
>なんだから、投馬国は女王国以北になる

並列で書いてあるだけ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 17:43:11.56
>>479
>その他の20カ国を合わせたんだよ。

その他の国、余傍国は
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
なんだから、戸数も道里も分からないんだよ?

それを足しこんだら5万戸になるってそれは無理だろう

それに、投馬国は入っていなくて、しかも九州にあるんだろ?
投馬国が入らなくて、余傍国が入る理由はないだろ?

さらに言えば、
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。(中略)可七萬餘戸。
と、邪馬台国のこととして可七萬餘戸と明記してあるのに、余傍国を入れる必要はない

他の国と邪馬台国を重ねる読み方は、不自然で無理な読み方
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 17:46:55.83
>>477
肥後女王といっていたのに、都合によって肥国と言い直したり、都合のよいことですわね

それはそれとして、どこの連合国の女王であろうと、そのもともとの勢力基盤から
離れたところに都をおく理由がない

そうしないと伊都国が都にならないから、というのは、伊都国論者の勝手な
都合であって、弥生時代の政治状況とは関係ない

そもそも、肥国女王が出てくる筋合いじゃないけどな
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 17:48:21.40
>>478
>並列で書いてあるだけ。

並列で書いてあるから、同じように
帯方郡から順に奴国まで
不彌国
 ↓ 南
投馬国
 ↓ 南
邪馬台国     ここまでが、女王国以北

と読めばいいだけだろ?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 17:49:16.11
>>480
>根拠のない主観

旅程記事の途中で、移動の起点をまき戻すことの根拠を聞いたためしがないんだが?
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 17:49:57.95
はい、では平原1号墓出土鏡が八咫鏡ではないことを、きちんと論証しましょう

史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺    で使われているのが23件  
   尺有咫   で使われているのが 7件
   八寸曰咫  で使われているのが 6件

「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている

「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる

「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸

ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ

要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」      長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」

咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない

これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね

つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない
0486日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:19:59.70
詭弁の典型だな
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:41:29.84
>>481
>投馬国が入らなくて、余傍国が入る理由はないだろ?

その他の国は福岡県、佐賀県、長崎県だから、宮崎県より近いけど、魏の使いは行かなかったのでどこだか見当がつかなかった。
投馬国は大国だから情報としておよその日程だけ伝聞で入れた。
でも行かなかったところは里程がわからない。
投馬国の里程が書いてない理由もこれでわかる。

>と、邪馬台国のこととして可七萬餘戸と明記してあるのに、余傍国を入れる必要はない

邪馬台国は九州北部の総称。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:42:25.12
>>482
>肥後女王といっていたのに、都合によって肥国と言い直したり、都合のよいことですわね
>それはそれとして、どこの連合国の女王であろうと、そのもともとの勢力基盤から

肥後女王なんて書いたかな?
肥国女王の、間違いだ。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:45:06.81
途中で送ってしまった。
倭国が筑紫と肥国の連合国で、卑弥呼が肥国女王から倭国全体の女王になったなら、倭国全体の都である伊都に移動するのは当然だよ。
現代だって、地方に基盤があっても、総理大臣になったら東京の官邸に入るだろ?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:46:52.03
>>484
品川駅から名古屋まで〇〇キロ、名古屋から京都まで〇〇キロ、京都から新大阪まで〇〇キロ、大阪までは約2時間半です。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:48:23.07
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:50:43.99
>>487
>邪馬台国は九州北部の総称。

これの根拠がないんだってばさ
そして、余傍国は、「戸数」も道里も分からないと書いてあるのに、
どうして、それを足すと7万戸になるんだい?

理に合わないだろ?
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:55:41.79
>>492
内訳を知らなくても、全体だけ知っていたんだろう。
日本の県別の人口を知らなくても、日本の総人国は知っているだろ?
同じことだよ。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:58:17.76
>>486
>詭弁の典型だな

どこがどう詭弁なんだい?
具体的に指摘してみてくれよ

これまで、「咫」は長さの単位であって、周を計る単位ではないといってきた
>>300他を参照

そして、円形のものの大きさを周で表すことはない
あったら実例を示してくれとも言ってきた
>>303他を参照

「咫」は径一尺の円周を四咫とする便利な単位というのが、
伊都国説(平原出土鏡は八咫鏡)側の説明だった

しかし、「咫」は径一尺の円周を四咫とする便利な単位が正しいなら
大陸史書にも「咫」を使って、円周を計った例があるはずだが、
>>485で示したように、史記から後漢書までの大陸史書の
「咫」を全例検討しても、円周を図る例は一例もない

つまり、そういう単位ではないし、円周で円盤の大きさを表す例もない

つまり、平原出土鏡は八咫鏡は明確な誤り、ということだ

どこが詭弁なのか、具体的に指摘してくれ
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 18:59:07.28
弥生時代後期の箱式石棺墓の出土数

呼子唐津周辺域  6
末盧国 四千戸

福岡平野周辺域  36
奴国 二万戸

遠賀川流域周辺域 約100

筑紫平野周辺域  約180

熊本県      1個

投馬国 五万戸
邪馬台国 七万戸

熊本県は遺跡は多いのに文化が違って箱式石棺墓は非常に少ない
熊本県以北の地域が女王共立国であり、同一文化圏である
投馬国と邪馬台国の領域をどう分けるかはさておき、奴国との戸数と箱式石棺墓の比率においても特段おかしい点はない
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:00:18.61
では平原1号墓出土鏡の円周が46cm鏡ではないことを、きちんと論証しましょう

cmを丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない。史記にもcmを丸いものを計る単位に使った例はない

これによって、平原出土鏡を円周を46cmに『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね

つまり、平原出土鏡の円周は46cmではない


畿内厨www
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:06:47.43
>>490
>品川駅から名古屋まで〇〇キロ、名古屋から京都まで〇〇キロ、京都から新大阪まで〇〇キロ、大阪までは約2時間半です。

途中からって書いたから分かりにくかったかな?
総旅程が、「最初か最後」に書いてあるのは構わないんだよ
>>490の例でも、「最後」にまとめてあるだろ?

そして、魏志倭人伝でも実際に総旅程は余傍国、狗奴国の後で、「最後」にまとめて、
自郡至女王國萬二千餘里。
と書いてある

それは構わないんだが、旅程記事の「途中」で、投馬国のところから起点が
帯方郡に巻き戻される理由がないんだよ
逆に、そこから起点が帯方郡になるのなら、その旨を別に書いてない限り
そのようには読めない

品川駅から静岡までは〇〇キロ、
    名古屋までは〇〇キロ、
     京都までは2時間、
    新大阪までは1時間です。
と書いてあって、京都までのに2時間が品川駅からって思うかい?

魏志倭人伝の旅程は、出発点は「今いるところ」であって、
「名古屋から」京都まで〇〇キロ、診たいに明記されてないんだよ
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:07:02.95
じゃあ、咫を八寸とするとどうだろう。
なんと平原の鏡は周が八咫の鏡になるのでした。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:09:25.62
そういや壱岐で見つかった弥生文字は周だったな。
周という概念があったということか。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:09:51.78
>>489
>現代だって、地方に基盤があっても、総理大臣になったら東京の官邸に入るだろ?

それは「現代」だからだよ
現代は「日本という中央集権の権力機構」があるから、東京の官邸に入るし
正確に言うなら、総理大臣になる時点で、東京の国会に権力基盤があり
権力行使の官僚機構も、その中枢が東京にある

それに対し、弥生時代から古墳時代は、各地の豪族が分立状態で
ゆるい連合関係があっただけだから、自分の支配する国・土地を離れたら
何もできないよ
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:11:14.71
品川駅から京都までは〇〇キロ、
    新大阪までは〇〇キロ、
     博多までは5時間、
     大阪までは2時間です。

みたいな書き方なんだよ。
陳寿はメモ書きの資料をよくわからずまとめたので、順番が読みにくくなってしまった。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:11:58.28
>>496
なるほど、典型的詭弁だ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:15:50.75
>>498
>なんと平原の鏡は周が八咫の鏡になるのでした。

数値計算上の偶然の一致以上のものは何もないよ
それに正確には径二尺なら、62.8寸で64寸=8咫にはならないし、

何度も言うが、周を測るという記録すらない
つまり、周は計らないし、周を咫で表すこともない

そして、本物の伊勢の八咫鏡は、面径二尺ではないことが確実(>>297他を参照)
つまり、本物の八咫鏡の周長は、長さの八咫とは関係ない

つまり、平原出土鏡は八咫鏡ではないんだよ
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:16:53.55
>>502
>なるほど、典型的詭弁だ

でも、どこが詭弁かは指摘できない無能であった
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:20:51.26
>>502

ごめん、>>496が詭弁だってことだね!

史記にはセンチメートルという単位がないのに、
その単位がないことを、センチで計っていないことの理由にすりかえている

史記には「咫」という単位がきっちりあって、その用例も確認できるのに
史記にない単位で批判しているところが、典型的な詭弁な訳だ

>>502には悪いことをした
ごめんなさい ペコリ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:21:37.23
>>504
数的事実を用例から否定するのが詐欺。
読んで解らないお前が無能
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:25:56.27
>>500
>それに対し、弥生時代から古墳時代は、各地の豪族が分立状態で
>ゆるい連合関係があっただけだから、自分の支配する国・土地を離れたら
>何もできないよ

妄想だよ。
倭国は後漢の頃には倭奴国王を中心とする中央集権的体制になっている。
そもそも各地の豪族って、具体的に何を想定している?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:26:18.38
>>501
>品川駅から京都までは〇〇キロ、
>    新大阪までは〇〇キロ、
>     博多までは5時間、
>     大阪までは2時間です。

こんな風に、大阪と新大阪と書いてあれば、同じ場所だと判断できるが、
伊都国と、邪馬台国を同じ場所の地名と見ることは、普通はできないだろう

実際こう書いてあったとしたら、新大阪から博多まで5時間かかって、
博多から大阪までさらに2時間と読むのが、通常の読み方

実際、品川駅から京都って飛ばしているけれど、この間が
東京から品川、それから横浜、それから名古屋と、順番に書いてあるのが
確実なところの後ろに
広島まで2時間
博多まで1時間半
って書いてあるんだから、逐次的に読むのが妥当だろう
途中から、起点を巻き戻す必要はない
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:29:02.43
>>506
>数的事実を用例から否定するのが詐欺。
>読んで解らないお前が無能

数的事実と称しているものが、あまり正確でもない偶然の一致だってこと
古来円周率の近似値として22/7が知られているのに、3.2などという荒い近似値を
使う必要がない

それに、周を測るための単位とかいう主張だったのに、
周を測る用例が皆無なのはどうしてだ?
「周を測るため」という主張は、根本から破綻している

そもそも、円盤の大きさを、周で測ること時代がない
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:31:42.49
>>499
>そういや壱岐で見つかった弥生文字は周だったな。
>周という概念があったということか。

それ、おもしろいね
ソースは教えてもらえるかな?

ただ、周尺と言ったときに、周代の尺という意味になるように、
大陸にとって、周といえば春秋戦国時代の前からの王朝を指すのが普通だから
周の文字が、(円)周の概念を指すかどうかは、きちんと検討しないといけない
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:33:44.72
本物の伊勢の八咫鏡は、面径二尺ではないことが確実(>>297他を参照)
つまり、本物の八咫鏡の周長は、長さの八咫とは関係ない

つまり、平原出土鏡は八咫鏡ではないんだよ

これだけで、周の長さが何寸であろうと、記紀に記された八咫鏡とは無縁のもの
なのは確実なんだが?
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:34:04.87
>>335を再掲

大きな鏡が出土した        事実
八咫の鏡だと思った人がいた    ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう   これは連想ゲーム
アマテラスのモデルは卑弥呼    そういう仮説もあるという程度
大きな鏡が出土したから卑弥呼の墓 風が吹けば桶屋が儲かる

こんな程度の話なんだよ
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:38:23.14
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ!
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 19:40:37.28
>>509
偶然の一致だと時事ではなくなるのか?
偶然でも必然でも一致は一致、一つの事実。

早く楽になれよ
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 20:16:12.98
>>514
>偶然でも必然でも一致は一致、一つの事実。

円周146センチの鏡というのは事実だし、
円周4.8フィートなのも事実で、
円周6.32尺(漢尺)なのも事実
円周7.9咫っていうのが事実だよ
でも、それはそういう数字になるってだけで
それがどうしたって話だろ?

そして、平原出土鏡は記紀に出てくる「八咫鏡」とは
大きさも異なる無縁の鏡、というのが事実だよ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 22:46:08.38
>>511
>本物の伊勢の八咫鏡は、面径二尺ではないことが確実(>>297他を参照)

伊勢の鏡は紛い物なのか?
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 22:47:28.22
>>515
7.9咫だから八咫の鏡ではないと?
ならば伊勢神宮の鏡は八咫の鏡からもっと程遠いクズ鏡になってしまうぞ。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 22:52:38.64
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、賢所に置かれている。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫梟帥の神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 22:58:28.71
→九州説の証拠遺跡として、
将来もしかしたら決定打になりうるのが
宮原の地下の石製水路だ
長さなんと4キロメートル
香春岳の天香山の近くにある 
斉明天皇記に水工で作ったと記述があるんだが
近年までどこにあるかわからなかった(←ここがポイント)
もちろん奈良には存在しない

どうやら宮原の地下の水路が
斉明天皇の狂心の渠らしい

なにせ4キロメートルもある古い石で出来た水路なのに
誰が作ったのか近年の文書には存在しないのだ

これがはっきりすれば九州説は一気に加速する
これはゴッドハンドじゃ作れないぜ
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 23:02:06.62
作った年代もわからないなら、歴史学的には根拠にならんな
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 23:05:08.97
誰が作ったのか近年の文書には存在しないというのに斉明天皇の狂心の渠らしい不思議さ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 23:09:51.09
7.9咫の鏡www

めんどいから八咫鏡でいいな
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 23:12:42.06
香春岳なら、卑弥呼の眷属である香春宮の田湯津姫だろう。
銅の産地であり銅鏡祭祀の拠点の一つ。
神功皇后は田湯津姫を倒してこの地を手に入れた。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 23:18:54.78
>>528
はい、平原の鏡は八咫鏡で決定と。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 23:24:25.12
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/18(水) 23:33:40.68
敗者のうめきが清々しいスレはここですか?
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 02:00:36.91
日本書紀はさあ、年代について嘘をつくけど、ストーリーの本筋は変えないんだよ。
ただし主従関係などをボカして、読み手の誤解を誘うんだ。
特に畿内の万世一系の皇国史観を持っている人とかはコロリと騙されて、史実を読み違える。
つまり、キナイセツに毒されていると真実が見えなくなるんだよ。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 02:27:59.55
書かれていないことがわかっちゃうんですか?
それ、病気ですよ
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 03:03:21.18
書いてないわけではなく、実はちゃんと書いてある。
そこがミソ。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 07:42:44.63
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今すぐ言えよおまえ!
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 10:34:31.13
完璧ww

>平原鏡を後世に測定したら八咫だから八咫鏡と呼ばれるようになったんだr。

語るに落ちたね?
「後世に測定したら」って、その後世はいつの時代なんだい?
平原鏡は、破砕供献で埋能されてるから、昭和の時代まで周囲を測られることはないよ?

そもそも、「咫」で円周を測った記録はないし、使われ方もかなり特異な使われ方に
限られている

後世に計ったなら、尺と寸で示されるのが当然で
「咫」の出る余地はない

伊勢の本物の「八咫鏡」から考えるに、「八咫」は大きいことを示す「八」と使った
単に大鏡であることを示す修辞と見るのが妥当だろう

「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるのが通説のはず

類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 10:49:28.51
>>516
>伊勢の鏡は紛い物なのか?

伊勢の鏡が本物で、大きさは「九州説の主張する『八咫』とは関係ない」が正しい

平原出土鏡を八咫鏡にしたがるのは、九州説お得意の記紀神話の背乗りだよ
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 10:54:32.84
>>517
>7.9咫だから八咫の鏡ではないと?

7.9咫だから、ではなく、そもそも周囲を咫で計ることはない
きちんと大陸文献の全文検索して示してあるだろ(参照>>485

>ならば伊勢神宮の鏡は八咫の鏡からもっと程遠いクズ鏡になってしまうぞ。

伊勢神宮の鏡の命名には「咫」の具体的な長さは関係ないって何度も書いてるだろ?
「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、 単に「大きい(多い)」という意味と捉えるのが通説

類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った

神器をクズ鏡とかよく書けるな
祟られても知らないぞ
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 10:55:31.01
>>518
>平原が本物で伊勢は偽物に決まってんじゃん

思想で歴史を語るのは、止めたら?

ここは科学板だよ!
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 11:00:58.15
実際に周がほぼ八咫の鏡が実在するのに、それを無視とは、論理的ではないな。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 11:02:32.21
そもそもニニギが八咫の鏡を持ち込んだのは筑紫と書いてあるわけだし。
その筑紫から八咫の大きさの鏡が出たと。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 11:42:26.21
>>520
>伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。

これ、宮中の形代の方のを混同してる
宮中の鏡の方は
天徳4年(960年)9月23日(『日本紀略』『小右記』)、
天元5年(982年)11月17日(『愚管抄』 「焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ」)、
寛弘2年(1005年)11月15日(『御堂関白記』)、
長暦4年(1040年)9月9日(『春記』藤原資房)
に火事の記録がある

伊勢の火事の話は、ウィキペディアには
「原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、
 このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、」
と書いてあるが、原田大六氏が典拠としている「御鎮座伝記」(伊勢二所皇太神御鎮座伝記)は
度会神道の神道五部書の一つだが、これは外宮神官の度会氏が外宮及び自らの権威を
高める目的で作成した偽書とされている

で、ざっと伊勢二所皇太神御鎮座伝記を読んだけれど、火事の記録はないと思うぞ
↓で読めるから、火事の記録が見つけられたら教えてくれ
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&;C_CODE=0357-001413

そして、この他に伊勢神宮内宮の火事を記したものはないと思う
近世になってからだと、明治時代に御正殿が類焼した火事があって、
臨時の遷宮をするほどだったけれど、このときも御神鏡は風日祈宮に
避難して無事だった

伊勢の八咫鏡は、古代のものが伝世されているとされている
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 11:53:26.37
>>550
>伊勢の八咫の鏡の大きさが八咫でないのはまずいな。

別に、そういう名前だってだけだろ?
例えば、八咫烏のどこが八咫なんだ?
円でもないし、八咫を測る部分もないけれど八咫烏だろ?

大きい、くらいの意味なんだから問題ないだろう
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 12:00:47.98
>>551
>実際に周がほぼ八咫の鏡が実在するのに、それを無視とは、論理的ではないな。

それ、偶然だろ? に対して、まったく反論できないっていうのは
>>303でも指摘したとおり

もともと伊都国説、平原鏡=八咫説は、
「咫」という単位が、半径1尺の円周を表すための便利な単位って
主張してたよな? (>>304他)

でも、それは>>485の全例検索で完璧に否定されている

そもそも、円周率が3.14ちょいであることは、かなり古くから知られていて
22/7という近似値も知られていた
そこへ、3.2を近似値とすることになる「咫」を使う理由がない

「ほぼ八咫」というが、要するに八咫の長さになっていないんだよ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 12:04:33.34
>>552
>そもそもニニギが八咫の鏡を持ち込んだのは筑紫と書いてあるわけだし。
>その筑紫から八咫の大きさの鏡が出たと。

そのニニギの持ち込んだ鏡が、神武天皇他によって伊勢に運ばれているね
つまり、九州にはない訳だ

その伊勢にある「本物の八咫鏡」が、周尺の八咫とは関係ないんだから、
「周尺の八咫になんとなく近い」からというのは、意味がないよ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 13:04:45.28
>>556
>そのニニギの持ち込んだ鏡が、神武天皇他によって伊勢に運ばれているね

他って何だ?
そもそも神武は八咫の鏡を運んだとは書かれていない。
饒速日との会談で天羽羽矢をもって天神の子であると主張しているので、王権の象徴である八咫の鏡は持っていなかったことになる。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/19(木) 15:08:18.37
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

みたいなのを見ると「八咫鏡」っていうのは、(祭祀用?の)大きな鏡の普通名詞のようだね

宮中と伊勢神宮に奉祭されている以外の「八咫鏡」は、天照大神とは関係ないし
卑弥呼とも関係ないな
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 07:53:09.73
たあ
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 07:58:14.93
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今すぐ言えよおまえ!
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 08:46:32.96
宗像大社ウィキペディアより

神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。
宗像三宮の御神体依代について、筑前国風土記に依れば、
『西海道風土記曰、宗像大神、自天降居埼門山之時以、青玉置奧津宮之表以、八尺紫玉置中津宮之表以、八咫鏡置邊津宮之表以、此三表成神體之形而納置三宮、即隱之因曰身形郡後人改曰、宗像其大海命子孫、今宗像朝臣等是也云々』
と逸文に記述あり。
大和朝廷から重視され、古来遷都の度に宮中の賢所(かしこどころ)に当社の分霊が奉斎された。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 08:47:56.04
宗像三女神がアマテラスから拝領した鏡ですね。
天孫とともに筑紫入りしたと。
わかりやすい。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 08:55:36.56
宗像三女神が「怡土三女神」でない滑稽さ。  @阿波
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 09:03:10.90
鏡の分霊じゃなくて
祭神の分霊だろ。

鏡は鏡。

身の形代って書いてあるぞ。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 09:31:47.18
>>564
>大和朝廷から重視され、古来遷都の度に宮中の賢所(かしこどころ)に当社の分霊が奉斎された。

逸文とこの文は、関係ないよね?
賢所に、宗像神社の神霊の分霊(お札?)を置いたってだけで、
八咫鏡が宗像の分霊って意味じゃない

しかし、ウィキペディアもいい加減だな
というか、編集したやつがいい加減なんだろうが
この部分、読点の位置がおかしい
「自天降居埼門山之時以、青玉置奧津宮之表以、
 八尺紫玉置中津宮之表以、八咫鏡置邊津宮之表以、
 此三表成神體之形而納置三宮」

正しくは
「自天降居埼門山之時、以青玉置奧津宮之表、
 以八尺紫玉置中津宮之表、以八咫鏡置邊津宮之表、
 以此三表成神體之形而納置三宮」
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 14:48:59.83
宮中の鏡の容れ物が八咫より小さいのは、中にお札か小さな代わりの鏡しか入っていないからかな?
伊勢の分霊かと思っていたが、宗像の分霊だったとはね。
とにかく畿内政権の神宝が筑紫から来ていることは間違いないな。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 16:50:32.38
>>569
>でも八咫の鏡が宗像大社にもあるんでしょ?

正確には、宗像大社にある鏡「も」八咫鏡と「呼ばれている」だな

祭祀用の大鏡という意味の「普通名詞」としての八咫鏡だよ
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 17:01:13.28
>>570
>伊勢の分霊かと思っていたが、宗像の分霊だったとはね。

すでに、>>567>>568できっちり否定されてるのに、
分かってて書くところがたち悪いよなぁ

宗像の分霊は、宮中の八咫鏡とは無縁
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 17:05:19.00
>>571
>祭祀用の大鏡という意味の「普通名詞」としての八咫鏡だよ

これこそ根拠がない。

>>572
>宗像の分霊は、宮中の八咫鏡とは無縁

じゃあなぜよりによって宮中で八咫の鏡を安置するための賢所に、八咫の鏡があるという宗像大社から分霊しているんだい?
そもそもどちらも確認はできないわけだが、縁がないは言い過ぎだよ。
少なくとも縁があるから分霊して祭っているはず。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 17:55:58.53
>>573
>これこそ根拠がない。

>>558
>>558に、皇統と無縁の八咫鏡の例が挙げてある
再掲
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 18:01:16.81
>>573
>じゃあなぜよりによって宮中で八咫の鏡を安置するための賢所に、八咫の鏡があるという宗像大社から分霊しているんだい?

沖ノ島の祭祀遺跡の遺物が、三角縁神獣鏡をはじめとする、畿内の古墳文化の副葬遺物と
共通しているのはいいよな?

宗像三神は、半島との交通路の神であり、その祭祀は大和朝廷にとっても重要なものだ
だから、代替わりごとに宗像三神の分霊を受けるというのは、代替わりしても大和の
大王として宗像三神祭祀を継続するという意味になる

そして、宮中で神様を祀るところが賢所なのだから、そこで奉祭するのが当然だろう
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 19:33:30.34
宗像大社も賢所も八咫の鏡を祭っている時点で、所縁があるといえる。
あとはそのようになった理由を考えようよ。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 19:40:54.74
宗像大社が無い時代に 卑弥呼の墓に副葬した鏡と
600年以降に創作した記紀で大和朝廷の王権と関係が深いとされる宗像大社の鏡と
何の関係があるっていうんだよ?
記紀の九州史の250年以前がデタラメなのを証明してるのが倭人伝だよ。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 19:42:49.84
宗像の神の形代として鏡が先にあって
宗像と宮中の関係から
宗像を象徴する鏡を奉斎してる。素直に読めばこういうことだろ?

別に特段八咫であることを強調する必要はないし
そこは本質的ではない。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 19:51:27.56
>>580
よくわからないな。
それが八咫の鏡だからこそ祭ったんだよね?
宮中に祭るのだからどんな鏡でもいいわけではない。
所縁がない鏡を祭るわけはない。
無縁は言い過ぎ。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 20:02:00.25
>>582
>それが八咫の鏡だからこそ祭ったんだよね?

もとは、祭祀用の大鏡をみんな「八咫鏡」といっていた可能性が
このスレの進行とともに明らかになってきたんじゃないか

大王とも、天照大神とも関係ない豪族が他の豪族に送る鏡も
日本書紀雄略紀で「八咫鏡」と書かれているし、景行紀で景行天皇を
出迎えた神夏磯媛の鏡も「八咫鏡」って書いてあるしな

一方で仲哀紀で同じように仲哀天皇を出迎えた岡縣主祖熊鰐の鏡は
白銅鏡になってるけどね

祭祀用の大鏡がみんな「八咫鏡」で、そのうち三種の神器になった鏡が
固有名詞としての「八咫鏡」となっていった、くらいでいいんじゃないかな
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 20:04:32.59
続き

つまり、具体的な大きさが「八咫鏡」の条件ではないってことだろう

つまり、大きさが八咫だから、平原1号墓出土鏡が「八咫鏡」だと主張するのは
意味がないし、これまでできちんと論証されたように、平原1号墓の頃に
「咫」という単位を使って、円周を測ることはありえない
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 20:31:36.01
>これまでの詭弁で示したように

訂正
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 20:43:02.98
根拠を示しての反論ができないって、大変だね!

まあ、もともと根拠のないところを無理無理憶測で補って、
「説」でございって言ってるだけのパチモンだからしょうがないんだけど
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 20:47:14.94
悪魔の証明を求めている訳じゃないんだから、
反例一つで論破できるよって言ってるのに、
「咫」で円周を測っている例を一つも示せない

それどころか、記録に残る限り=歴史時代の文献では
伝承を示す部分以外で「咫」を長さの単位として
使っている例すらないことが示されちゃったからねぇ

一歩36センチも完全否定されてるし、お得意の
「あーあー見ない聞こえない」を言い続けるしかないねぇ

九州説は大変だ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 20:50:28.20
>>587

>>496
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 21:28:39.64
>>590
それ、単に筋悪の、悪意の論点ずらしorすり替えだよ?

鏡の直径は、尺・寸(センチでもよい)で計るし、
鏡の円周を測るとしても、尺・寸(センチでもよい)で計る、だけ
「咫」では測らないし、そもそも円周を測る例がない

魏志倭人伝の時代で既に、「咫」は計量単位としての実質を失っており
「咫尺」という熟語か、伝承中での「尺有咫(=18寸)」という使い方しかなくて、
「尺有咫」が使われる場合もいちいち「八寸曰咫」が必要な状態
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/20(金) 21:53:35.44
>>584
>日本書紀雄略紀で「八咫鏡」と書かれているし、景行紀で景行天皇を
>出迎えた神夏磯媛の鏡も「八咫鏡」って書いてあるしな

筑紫の梟帥、すなわち筑紫倭国の王、後世の太宰の帥だね。
倭国王だから八咫の鏡を持っていて当然。
0593岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/20(金) 22:52:48.48
まだ、畿内厨が頑張ってるみたいですね。そろそろ諦めたら(笑)

平原の鏡が8咫の円周を持つ(数的)事実は、論理でどうこう出来るわけないんですよ。出来るのというのは詐欺ですね、自ら詐欺師と名乗っているのようなものです。
論破できると言い張っているのは一人だけ。

テレビ大きさはインチでいうのが普通ですが、センチでテレビの周囲を測って何がわるいんですか?もちろん、長さの単位なら何で測っても構いませんね。

事実を示されて困るということは、平原の大鏡が八咫の大きさを持つということが、
畿内厨にとって、「不都合な事実」であると宣伝しているようなものです。
墓穴を掘っていることに気づかないでしょうか?
アホだから無理か(笑)
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 00:24:49.01
お鏡さんは簡単な論理もできないんだね

ちょっと考えてみれば、八咫厨の言うとおり「咫」が円周を測るのに便利だったとしても
面径が1尺または2尺以外の大きさだったら、何の役にも立たないよな?

そして実際、面径が1尺とか2尺ちょうどの鏡なんてほとんどない

こういう論理的な思考実験だけでも、八咫厨伊都国説の虚妄はすぐに明らかになる
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 00:26:08.75
「咫」で円周を測る例は見つかったかい?

一つ見つけられたら、それだけで勝ち誇れるのにww
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 05:17:26.97
鏡を副葬することと、祀る事には
根本的、死生感の違いが有る。

古墳は、古事記が無ければ神社は出来ない
事を示す遺跡なんだよ。

仏教が無い国つくりは、黄泉の国です。
おまえらの卑弥呼は祟る。

飯のタネ、論争は永遠だから安心しろ、
南無
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 06:50:03.44
>>596
縄文時代から、磐座信仰の存在は示唆されているし、
古社には山中に磐座のある神奈備山の存在がセットになっているのが基本

建物としても、現在の神社の社殿の元となった棟持ち柱を持つ高床建築物は
池上曽根遺跡の「いずみの高殿」ほか、弥生時代から多く見つかっている

古事記の前からアニミズムとしての原始神道は認められるし、
神社が存在しないというのは、想定としても乱暴
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 06:53:54.30
お鏡さんが、書き込み一つで引っ込むなんて珍しい!
強がってたけど、「咫」は円周を測るのに便利な単位ってのが
無理筋だってのがやっと理解できたのかな?

ずいぶんかかったねぇ
でも逃げることで傷口を広げなくなったのは、
進歩と言えば進歩と言えなくもないかww
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 07:23:07.70
八咫鏡なんて邪馬台国論争と無関係だから興味なかったけど、
平原鏡の円周が八咫であることは否定できないということが
よくわかった。

自分にとっての疑問は、そもそも
八咫という長さそのものの値がどうなの?
という疑問があったけど、これだけ粘着質な人が否定できていない。

てことは、
平原鏡の円周の長さ=八咫
というのは正しいんだね。

否定しているのは、
咫という単位で円周を測った実例が無い、
という点だけなわけだね。

ものの長さを測るのに、
インチで測ろうがセンチで測ろうが尺で測ろうが咫で測ろうが
なんでもいいわけだから、
単に、円周の長さを測るのに咫という尺度を使う実例が無い、
というのだけが否定の理由なら、理由になっていないよね。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 07:26:18.76
>>598
無意味だから
その論争は

ヤタの鏡と初めて名付けた人にしか正解はわからん
どんなに君が違うと叫んでもそれは主観であって、はっきりとは否定等はできんのだよ
もちろん肯定もできん
邪馬台国論争の文献解釈と一緒

ただ、
平原の鏡の大きさは事実
ということは"ありえる"、としか言えん

"八葉"の件も同じ

ただ、"ありえる"事柄が二つ重なっている事実は確かに面白い
0601岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/21(土) 07:42:58.68
>>598
>「咫」は円周を測るのに便利な単位ってのが
>無理筋だってのがやっと理解できたのかな?

こんな主張、一切してないですし。
私の主張は「咫は長さの単位なんだから、円周を図ろうが別に構わない」です。

まずは、全岡上病をどうにかしてからでないと、議論になりませんよ。
トリ付きハンネなんですから、判別は簡単なはずです。
0602岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/21(土) 07:53:32.06
>>599, 600 さん

記紀成立よりも平原遺跡は遥かに古いですからね。
八咫の円周長を持つ平原遺跡の大型内行花文鏡が発掘されたことで、
記紀でなぜ大きな鏡を「八咫」と呼びならわすのか、ということに重大な推論が成り立つわけです。

「咫」は、男性の手の身体尺の「尺」に比べて、夫人の手の長さの身体尺ですからね。
だいたいJIS第2水準で非常用のマニアックな漢字ですし、大きな鏡を表す慣用句として成立するには、不自然な訳です。
そこに記紀成立より遥か昔の遺跡から、現実に八咫の鏡が出てきたわけですから。

さらに平原の大鏡は日本最大ですからね。
太陽信仰の憑代として、その文様や大きさは王権によって規制されていたという推論も成り立ちます。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 08:12:39.74
>>602
平原遺跡より、宗像地方の遺跡のほうが歴史的価値が高い。  @阿波
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 08:42:00.95
特に女性が使う鏡を八咫の鏡と呼んだ、とか
この場合の八 は 単に大きいくらいの意味。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 09:49:25.32
>>601
>私の主張は「咫は長さの単位なんだから、円周を図ろうが別に構わない」です。

偶然の数字の一致には意味がない
「咫」で円周を測る例はない

どころか、伝承中で「尺有咫」という表現があるだけで、
具体的な長さを「咫」で計る、あるいは「咫」で表した例すらない

実際「咫」の字は長さの単位としては事実上使われておらず、
「咫尺」という熟語としてしか使われていない

「咫尺」は日本の辞書にも載ってるよ

しせき
【咫尺】
1.《名》わずかの距離。 「―の間(かん)」
2.《名・ス自》貴人の前近くに出てお目にかかること。

「咫」には大きいという意味はなく、「近い、短い」ことに使われる

「八咫鏡」が大鏡を意味するのは、「八」の字の方の意味

類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 09:52:56.58
「咫」を長さを測るのにつかっている例を一つも見つけられないのに、
測ったに違いない、測っても構わない、といくら妄想してもムダ

測ってないのに、計算上そうなるっていっても無意味なんだって!

お鏡さんも能なしだね
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 10:10:14.06
咫も尺も同じ長さの単位で
咫尺が短い意味ならなおさら 長さがわずかに違うけれどもはっきり異なる単位だってことになるじゃん。

矛盾するところ何もなし。
0611岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/21(土) 10:28:50.41
>>608
偶然というのは、あなたの解釈の問題。
あるのは、数的事実としての八咫と円周長の一致だけですね。

不都合な事実に対して、あなたが偶然として勝手に判断しただけの話。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 11:34:28.09
>>611
>数的事実としての八咫と円周長の一致だけ

いや、どの単位でも測れば数字は出るよ?

でも「咫」で長さを測った実例が一つもない
何度も言っているが、これの否定は悪魔の証明でも何でもないんだから、
反例を一つ出してくれればいい

出せないなら、いくら「測っても構わない」と言い張ってもムダ
「咫」は文飾用の文字であって、「長さ測定用の単位じゃない」んだからww

あれから新唐書まで「咫」の全文検索範囲を広げたけれど、後世に行くほど
「咫尺」という熟語専用文字になっていくよ

自分でも確かめてごらん
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 11:36:46.73
>>601
>トリ付きハンネなんですから、判別は簡単なはずです。

八咫厨、伊都バカのアバターの一つだってだけだろ
ただのバカです
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 11:41:10.06
数値の偶然の一致が、別の国として描かれている伊都国に
邪馬台国を重ねる無理読みの最大の根拠ってところが
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 13:31:02.14
ていうかさ、円周が八咫だって言っている人は、1尺を何センチだと思っているの?

ウィキペディアさんだと
「戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。
 漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。
 文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20cm)であった」
ってことになっているよ?

この周尺が、漢尺の8寸(8割)という意味なら、この約20cm=咫で、
八咫=160センチになる

この周尺20センチが10寸で、咫が8寸なら、約16センチ=咫で、
八咫=128センチになる

どちらも、146センチにはならないぞ?
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 13:49:15.63
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ!
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 18:18:18.90
>>615
おかしくない?

>戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。
>漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。

咫=8寸、尺=10寸
咫=0.8尺
だから、

1尺=23cmだったら、
1咫=23×0.8=18.4
八咫=18.4×8=147.2cmになるんじゃないの?
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 18:33:35.20
周で1.2センチなら直径でわずか4ミリの誤差。
わずか1パーセント未満の誤差で、ぴったり八咫の鏡ということになる。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 18:44:11.54
キナイコシ

結果ありきのオナニー計算が露呈して

液晶画面にグーパン自滅 乙www
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 19:04:55.91
>>620
算数もできないキナイコシ
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/21(土) 19:18:04.06
>>622
見当違いの計算に反論とな?
0624岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 08:20:11.69
>>613
アバターってなんですか?
岡上病を治してもらわないととどうにも議論できませんよ。

>>612
「咫の数詞としての実用例がない」からといって、「咫が数詞ではない」とは言えませんよ。

言えるのは、咫の数詞として実用されたか記録上「分からない」だけです。
主張 A が、証明できないからといって、直ちに「主張Aでない」が導出されるとは限りません。

未知の事項に対することなら尚更です。つまり、あなたが「咫」について「分からない」だけの話です。
咫が数詞ではない、なんていうのは踏み込み過ぎであって、明確に間違った推論なんですよ。

私は説文解字の解釈通り、咫は夫人の手の長さを基準とした数詞と理解します。
0625岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 08:30:55.15
否定という結論ありきの推論(もどき)を組み立てている方に言っても無駄でしょうが。。。

>>612
いくら「測っても構わない」と言い張ってもムダ
「咫」は文飾用の文字であって、「長さ測定用の単位じゃない」んだからww

といってるに、次の >>615 でいきなりご自身で数詞としての「長さの測定」を検討しているのはギャグですか?
たった3レス後にも、自分の主張を維持できないのだから、まさに鳥頭。

あと、
「この周尺が、漢尺の8寸(8割)という意味なら、この約20cm=咫で、 八咫=160センチになる」

って、幾ら何でも酷すぎでしょう。否定することだけしか考えないから、
なんでも直ぐに飛びついてしまうのです。
0626岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 08:47:24.27
鳥頭さんのために、立証と否定の関係をアナロジーで示しておきます。

19世紀初頭では「光速度が不変であること」は推論されていましたが、それを立証できていませんでした。
だからと言って、「光速度が不変でない」と結論されたら、科学の進歩はなかったですね。

同じことです。

「咫は数詞であること」は説文解字の説明として知られていましたが、それを文献学的には実例では立証できていませんでした。
だからと言って、「咫は数詞でない」と結論されたら、歴史学の進歩はないですね。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 08:49:00.23
八寸が咫なら

明確に咫は円周長だよ。
円周を8等分することと同じだから。

純粋にこれは数学的な話。一尺が何センチであっても、一尺の8割を咫とするとどの鏡でも八咫の鏡になる。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 08:57:17.64
キナイコシさんは排中律は適用限界があることよくわかってないと思う。
0629岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 09:02:29.71
>>628 さん
話せそうな人がいて、安心しました。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 09:09:31.07
円周率を3.14とすると、
直径1尺の円であれば、
円周長は、1尺×3.14=3.14尺

咫=0.8尺だから、
直径1尺の円の円周長3.14尺を咫で表すと、
3.14尺÷0.8=3.925咫≒4咫

直径2尺の円の円周長6.28尺を咫で表すと、
3.14尺÷0.8=7.85咫≒8咫


現代人は円周率(π=3.14・・・)をもとに、
直径1センチの円の円周長は3.14センチと暗算できる。

古代人は尺咫(咫=0.8尺)をもとに、
直径1尺の円の円周長さは4咫=3.2センチを暗算できたわけだ。
賢いね。

直径2尺の銅鏡が、円周長さ八咫の鏡になる。
キリがいい大きさだから、最初からそれを意識して大きさを決めた可能性が高いね。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 09:14:32.87
どこを覚えるかの違いであって、
現代人は円周率3.14を覚えるけど、

古代人は咫=0.8尺を覚えれば、1/4周の長さがすぐ求められた。
全周の長さだと咫を4倍するだけ。

有効数字が若干落ちるけど、古代ならその精度で充分なのだろう。
現代教育でもゆとりだと円周率を3にする場合もあるし。
0632岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 09:16:47.04
>>630 さん
それらは、きっと偶然の一致ですよ(笑)
平原大鏡が二尺で八咫で、日本最大なのも、
記紀で大きな鏡が八咫鏡と呼ばれているのも、
すべて、当然、偶然の一致です(笑)
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 09:57:48.25
壱岐で「周」の字が見つかったし、概念はあったんじゃないの?
0634岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 10:03:15.85
>>633
伊都の「鏡(竟)」字といい、想像が広がりますね。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 12:47:22.79
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
三足や耳の付いた中国系青銅器と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと
漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:29:59.13
>>631
>古代人は咫=0.8尺を覚えれば、1/4周の長さがすぐ求められた。
>全周の長さだと咫を4倍するだけ。

これが実は「バカすぎ」

径4寸の鏡の周は、咫を知ってると、どう求められるんだ?
径が尺ちょうどとか、2尺ちょうどの鏡じゃないと、まったく意味がない

そのための単位なんて意味がないしあり得ない
長さは尺と寸で測るんだよ

咫の出る余地はない

実際、咫は「長さを測る」「長さを表す」のにはほぼ「まったく使われていない」
事実上「咫尺」という熟語専用の文字

この単位で「測ったら」という、「あり得ない仮定」だけが、
平原1号墓の出土鏡を八咫鏡だと主張するための根拠だというのだから
初めから破綻している
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:40:18.09
>>637
こいつアホだな。

現代人は円周率(π=3.14・・・)をもとに、
直径1センチの円の円周長は3.14センチと暗算できる。

古代人は尺咫(咫=0.8尺)をもとに、
直径1尺の円の円周長は4咫=3.2センチを暗算できた。

数学の問題であって、破綻とか言ってる時点で理解できてない。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:42:16.09
>>638
頭がわるいほど声が大きいという典型例だな
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:44:15.79
>>639

【問題(小学生レベル)】

平原の超大型内行花文鏡の円周の長さは、漢尺で「何咫」でしょうか?
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:45:33.28
八咫
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:52:53.68
>>640
ピンポーン
0643日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:55:02.69
キナイコシの悲鳴が心地よいスレはここですか?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:58:26.53
神器ではないが
神器の原型としての八咫鏡は平原にあったということで。FA。

なんだ通説通りじゃん。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:08:46.08
咫で長さを測る例はない

径が尺ちょうどの鏡はほとんどない
径が尺でない限り使えない単位が単位として成立する余地はない

従って、鏡の外周が八咫になる、というのは単に机上の空論にすぎない

そもそも周尺の「咫」シと、日本語の「咫」アタは別
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:12:10.97
>>645
深く考えるなよw

平原の世界最大の銅鏡の直径=二尺
平原の世界最大銅鏡の円周長=八咫

この現実だけでいいじゃんw
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:13:51.23
そしてその鏡は卑弥呼の治世において女王墓に副葬されたと。
その女王の名は?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:20:31.59
測る例はないと言っているが

平原の鏡がちょうど八咫だからなぁ。
全然説得力ないわぁ。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:23:18.77
平原遺跡の鏡が円周を咫で測定していたと考えられる良い例だけどね。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:30:09.38
>>649
卑弥呼
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:31:18.06
>>647
>実際に測ると八咫なのに、なにをごちゃごちゃと。

実際に測って「ない」んだよ

そもそも丸いものの大きさを、周長で示した例はない
これに反例があったら出してくれに、間違った例しか出したヤツがいない

面径が46センチってのを見て、これが「漢尺」の2尺に近いと思った人がいたのが発端
でも、八咫というためには「周尺」じゃないとダメ
この時点で破綻している

さらに、「咫」は大陸の史書でも、伝承上の石弩矢の長さを「尺有咫」と書く以外に
ものの長さの表現に使われている例はない
これも伝承上そうなっているというだけで、実際には測っていない

卑弥呼の時代には「咫」は、近いことを表す「咫尺」という熟語にしか使わない文字に
なっている

平原1号墓の出土鏡の「周囲を測ったら」というのは机上の空論だよ

そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
ぜんぜん別モノだろう

何重にも無意味な空論
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:33:44.80
平原の鏡が卑弥呼の鏡だと認めたくないだけだろ。
倭の王権の象徴である八咫の鏡なら、持ち主は倭王に他ならないからな。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:38:15.87
咫が長さの単位として使われていない、というのは、
一咫も三咫も四咫二寸も、この手の表記が古今東西どこにもないことからも明らかだろうに

伊勢の鏡が八咫鏡と呼ばれるのと、その円周の長さはまったく関係ないし

「測れば八咫だから、八咫鏡」ってのは否定できない論拠だと信じ込んでいたんだろうが、
根拠になってないし、完全に否定されてるよ
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:38:18.92
キナイコシ
騒ぎに騒いで
アワレカナ
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:38:45.96
なんで周尺に限定しないといけないんだ???

内行花文鏡って漢鏡じゃなかったっけ???
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:39:59.35
長さの単位じゃなくて
円周長って散々でてるだろとことんトンチンカンなヤツだな。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:42:27.55
>>654
>平原の鏡が卑弥呼の鏡だと認めたくないだけだろ。

認めたくないじゃなくて、そう考える理由がない

大きな鏡が出土した        事実          
八咫の鏡だと思った人がいた    ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう   これは連想ゲーム
アマテラスのモデルは卑弥呼    そういう仮説もあるという程度
大きな鏡が出土したから卑弥呼の墓 風が吹けば桶屋が儲かる

こんな話だから

>倭の王権の象徴である八咫の鏡なら

八咫鏡は、日本書紀巻第十四 雄略天皇紀に
「使倭子連連、未詳何姓人奉『八咫鏡』於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」」
とあるように、もともとは皇統の証を指す固有名詞ではなく、「祭祀用の大鏡」程度の
意味のようだから、その意味で八咫鏡と言い張るなら御自由に

でも、皇統とも天照大神とも卑弥呼とも無関係だよ
そもそも「八咫鏡」には、円周が八咫という意味は「八咫鏡」にはないからね
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:45:25.78
>>657
>なんで周尺に限定しないといけないんだ???

説文解字にも
中婦人手長八寸、謂之咫。「周尺也」。
と明記されてる

漢魏尺の度量衡に、「咫」はないんだよ
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:49:41.69
>>658
>円周長って散々でてるだろとことんトンチンカンなヤツだな。

丸いものの大きさを、円周長で測ったり示したりした例はない
あったら出してくれ

円周長を測るための単位などはあり得ない
直径一尺の鏡の円周が四咫になるから便利とか寝言を言う奴がいるが、
直径六寸の鏡の円周を示すのに何の役にもたたないだろ?

少しは、論理的に考えるってことをしてみろよ

本当にトンチンカンなヤツだな
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:51:57.39
>>661
>直径六寸の鏡の円周を示すのに何の役にもたたないだろ?

2.4咫だな。
うわ、便利だ。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:54:40.40
邪馬台国論争、いよいよ詰みなんじゃないか?

卑弥呼の治世において倭国の王権の所在地は伊都でした。
天照伝説のモデルとなったのは、八咫の鏡を複数枚所有していた平原遺跡に眠る女王卑弥呼でした。

終わり
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:55:18.17
>>662
排中律も解らないキナイコシが
論理的思考となwww
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 14:56:50.61
>>663
祭りのあとに残るのは、騒ぐだけのキナイコシ一名のみだな
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 15:39:06.39
気がついたらたった一人逃げ遅れているキナイコシ

こんなのがスレ主だったとわw
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 17:47:25.00
女性が持つ鏡を 咫で表すってすごく合理的だと思うんだけど。
二咫だったら1人で持てるけど
八咫だったら4人必要だなとか。
直ちにわかる。超便利。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 17:51:31.76
>>666
>そんな例は不要。とことん的外れなやつだな

これが答えられないうちは、「論説」にならないんだよ

丸いものの大きさを円周で表すことはない
否定したければ反例を一つでいいから出してごらん

八尺瓊勾玉って、トンチンカンなことをドヤ顔で答えてたやつがいるけど、
そいつの二度と八尺瓊勾玉は出して来ないぞww

さあ、出せるものなら出してみな
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 17:55:57.18
八尺瓊勾玉の尺は本来は咫と書くんだよ。
知らないのか。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 18:00:44.51
>>662
>2.4咫だな。
>うわ、便利だ。

とことん、バカだな
大陸にも、日本にも「小数」という概念はない
だから、尺の下は寸だし、寸の下は分だ

で、2.4咫の「.4咫」は、どう表すんだ?
どうしようもないだろ?

だから、漢魏尺の度量衡には「咫」が入っていないんだよ

0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 18:03:09.65
>>670
>八尺瓊勾玉の尺は本来は咫と書くんだよ。

で?
八尺瓊勾玉のどこをどう測ったら、
「丸いものの大きさを円周で表した例」になるんだ?

紐の長さは、引張れば直線なんだから、丸いものの円周を測った例にはならないぞ

話をそらして、ごまかそうとするのはいい加減にやめな

本当に九州説は、まともに議論ができるやつが一人たりともいない
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 18:09:12.50
>>625のお鏡さん

それで、平原出土鏡=八咫鏡説では、尺と咫は、いくつの設定なんだ?

には答えずにごまかしてるだろ?

こっちの論旨は
1.そもそも円周は測らない
2.咫は長さの実用単位として使われていない
3.数値計算としても破綻している
4.伊勢の本物の八咫鏡は、円周が八咫ではない=円周が八咫だから八咫という論は意味がない
5.雄略紀に見られるように、皇統の証とは無縁の鏡の八咫鏡と呼ばれる例がある

と、多重に否定しているんだよ

それに対して、そちらの言い分は、
バカの一つ覚えの「円周を測ると八咫だから、、、」だけ

いい加減、自分のバカさ加減に気づきなよ
惨めで哀れなお鏡さん
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 18:10:26.00
>>669
排中律によってその論は不要。

まあ論理学でもちょっと難しい内容だからキナイコシがわからなくても別にいいよ。ちゃんと勉強してくれればね。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 18:51:53.10
>>675
キナイコシの相手、お疲れ様です。

丁寧に議論していただいたおかげで、
八咫の長さについての疑問が解消してスッキリしました。
漢尺で平原大鏡の周が八咫というのは本当だったんですね。
0677岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 19:10:39.28
>>674
>それで、平原出土鏡=八咫鏡説では、尺と咫は、いくつの設定なんだ?
>には答えずにごまかしてるだろ?

鳥頭さん、>> 617 さんが計算を示してくれて居ますね。

何度も同じことを繰り返すのも面倒ですので、あなたがもう少し論理学について勉強してください。
そうすれば自分の主張のレベルがわかるとおもいますよ。野矢茂樹先生のの著作が読みやすくてオススメですよ。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 19:37:46.98
>>675
>排中律によってその論は不要。

排中律って言葉を使いたかったんだなww
でも、使い方、合ってないぞ

測ってるか、測ってないかを、まず二律背反だと示す必要があるが、
その過程が論じられていない

そして、排中律を援用して測っていることを示すためには、
「測っていないことがありえない」=「確率0の全否定」であることを
示さないといけないのだが、それをしていないだろ?

逆に、こちらが、
測っていることを1例でも示せれば、測っていないことを否定できる
と、排中律に従った反論方法を示してあげているのに、

それはできない

っていい続けているだけなんだよ

実際、「咫」を使って何かの長さを測っている例は、大陸の史書にも
日本の歴史書にも、一例もない

九州説で、まともな論理展開ができるやつが一人もいないのが、
全てのスレを残念にしている理由だよな
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 19:44:41.69
>>677
>鳥頭さん、>> 617 さんが計算を示してくれて居ますね

ということは、>>617も、お鏡さんのアバターって言いたいのかな?
でも、お鏡さんより、>>617の方がしっかりしてるよ?

>>617
「咫=8寸、尺=10寸
 咫=0.8尺
 だから、

 1尺=23cmだったら、
 1咫=23×0.8=18.4
 八咫=18.4×8=147.2cmになるんじゃないの?」

この計算だと、尺を漢魏尺としていることになるけれど、
漢魏尺の度量衡には「咫」は、入っていなくて、
「咫」は周尺也と、説文解字に書いてある

で、周尺で計算したら、

ウィキペディアさんだと
「戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。
 漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。
 文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20cm)であった」
ってことになっているよ?

この周尺が、漢尺の8寸(8割)という意味なら、この約20cm=咫で、
八咫=160センチになる

この周尺20センチが10寸で、咫が8寸なら、約16センチ=咫で、
八咫=128センチになる
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 19:46:52.91
>>678
排中律を適用してどうするの。しかもトンチンカンな適用してる
ちゃんと論理学を勉強してから書き込んでな。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 19:47:10.42
>>676
>何度も同じことを繰り返すのも面倒ですので、

これがごまかし
答えないための方便

1.そもそも円周は測らない
2.咫は長さの実用単位として使われていない
3.数値計算としても破綻している
4.伊勢の本物の八咫鏡は、円周が八咫ではない=円周が八咫だから八咫という論は意味がない
5.雄略紀に見られるように、皇統の証とは無縁の鏡の八咫鏡と呼ばれる例がある

と、多重に否定しているんだよ

それに対して、そちらの言い分は、
バカの一つ覚えの「円周を測ると八咫だから、、、」だけ

いい加減、自分のバカさ加減に気づきなよ
惨めで哀れなお鏡さん

1〜5を全部否定できて、やっと「平原1号墓出土鏡が八咫鏡」だという主張が
意味を持てるようになるんだよ

どれ一つ、否定できてないじゃないか
ごまかしで逃げるだけで

いい加減、自分のバカさ加減に気づきなよ
惨めで哀れなお鏡さん
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 19:49:25.87
漢代以降の鏡になんで周尺とか古い尺を適用するの???
0683岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/22(日) 19:53:54.14
ああ、もうダメな具合にあばれちゃっていますね。
野矢茂樹先生の本を紹介したんだから、まずはそれを読んでみて。
オムロンのHPを探し当てる熱意があるんだから、それぐらい簡単でしょう(笑)
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 22:15:58.94
>>682
>漢代以降の鏡になんで周尺とか古い尺を適用するの???

だから、「咫」で計るのが想像としても筋違いだって言ってるんだよ

漢代以降の鏡を測る(笑)のに、既に時代遅れで使わなくなった「咫」で
測ったら云々といってるのが、噴飯もの

そもそも、円周を測った例すらないのを無視し続けているし、
逃げて逃げて、精神勝利法をやってるだけ
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 22:32:03.87
>>683
お鏡さんは具体的な反論一つできない人

オムロンヘルスケアの数値を使ってるから絶対勝ったと思ってたのに
それをひっくり返されたのがいまだに口惜しいんだね

平原1号墓は、まず小さすぎて卑弥呼の墓の可能性は最初からないのに、
さらに無理筋の「円周長が八咫」を言い張るしかないのが本当に惨め

>>681の1〜5に、一つでも有効な反論をしてごらんよ
まともな反論のできないお鏡さん!
0688日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 22:34:06.31
>>684
>時間軸を無視した議論は歴史学的には何の意味もない

そうだよな!
漢代以降使わなくなった「咫」で円周を測ったなんていう時間軸無視の
論立てには最初から意味がないよな!
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 23:02:29.52
>>686
これまで誰も周尺基準の咫の話とかしてないし
あなた以外にね。する必要もないし、漢鏡なんだから。

論理とか数学とか以前に人の話聞いてないでしょう。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 23:38:33.34
先に円周を測った例があるなら出してごらん?と論証方法まで教えてあるのに、そこから延々と逃げ続けているのが、お鏡さん他の八咫厨の連中なんだが?

そして、八尺瓊勾玉と寝言を言っては、一蹴されるのを三回繰り返してる

早く、円周を測ることはないってのと
   咫で長さを測ることがないってのを確認できるといいのにね!

円周が八咫になるって言うのは、都合のいい数値で、机上の計算をすると、
そんな感じの数値が偶然に出るってだけだよ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 23:40:09.19
>>689
>する必要もないし、漢鏡なんだから。

そうだろ?
環境なんだから!
漢代に使われない単位で測る必要もないし、測るはずもない!
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 23:53:54.55
違った。
人の話を聞いてないんじゃなく、理解できない人なんだな。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 00:13:45.57
用例がない
漢代には廃れていた
しかし日本書紀ではどういうわけか
はるか遡って咫の字を採用した。

日本書紀は中国語ネイティブが書いたから、それなりに用字を選んでることもわかってるから
まあ事実八咫と計算したんだろうくらいは推論できる。

もう一つは古事記では八尺鏡とされること
八尺瓊勾玉と合わせて考えると
たぶん、鏡の外周に沿って瓊勾玉をつないだ
ネックレス状のものこれを
鏡とセットで奉斎していたと思われる。

すると
鏡の外周の長さを測る必要な状況が生まれる。

さて、あなたの言い分を認めてなお
八咫であることを構成できたよ。

これでも
前例がないことがそれほど重要かね?

私は到底そうは思わないね。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 06:16:53.22
漢書列伝巻三十四韓信
「然後發一乘之使,奉咫尺之書,」
師古曰:「八寸曰咫。咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺,?輕率也。今俗言尺書,或言尺牘,蓋其遺語耳。」
0696日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 07:38:05.90
尺牘之名起於西漢,那時用一尺長的木牘寫書信,故名「尺牘」。《漢書》記載廣武君(李左車)謂韓信曰:「奉咫尺之書以使燕。」顏師古注道:「八寸曰咫,咫尺者,言其簡牘式長咫,或長尺。」
漢初,尚未有紙,所以每削木簡作為書信。刻制書簡的長短,約一尺光景,所以尺書和尺牘就是漢代「咫尺之書」。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 07:45:42.07
漢代には咫という単位がもう使われていなくて、唐代には一般人にはもう意味もわからなくなっていた
という文献的証拠キター
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 07:59:38.51
>>694
>漢代には廃れていた
>しかし日本書紀ではどういうわけか
>はるか遡って咫の字を採用した。

ここからもう既に間違い

そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
ぜんぜん別モノだろう

咫(あた)は、蛇(た)の通音として使っている気配もある
こっちはまだきちんと検証できていないけれど

八尺瓊勾玉の方は、 弥栄の当て字とも言われるし、八坂入彦、八坂入媛の彦姫が
記された「八坂」との関係もあるかも知れない
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 08:10:53.29
>>697
>漢代には咫という単位がもう使われていなくて、唐代には一般人にはもう意味もわからなくなっていた
>という文献的証拠キター

そうだよ、その通り

「咫尺」という熟語にしか使われない文字になっている
そして「咫尺」という熟語の意味にすら、注釈がいる状態

大陸の史書を「咫」で全文検索すると、
この「咫尺」という熟語がほとんどで、その他には
「尺有咫」という石弩または矢の長さの表現と
「咫が八寸」という注釈(表現の仕方は幅がある)
これが全てだよ

その時代に生きていた訳ではないから、確証はないけれど、
「咫」は長さの単位としても「八寸」の書き換えの意味しかなかったようだ

一尺八寸を尺有咫と書くような使い方だけ
九寸を一咫一寸と書いたり、十六寸を二咫と書く例はない

二咫も三咫も四咫もない
もちろん、長さの表現としての八咫もない
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 08:17:55.95
お、^_^適当に思いついた私の説を補強してくれてありがとう。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 08:24:02.61
注によれば咫は八寸が後代には伝わってただけのようだな。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 09:22:45.30
ではなぜ咫は八寸を意味するようになったのか。
そもそもは円周を簡単に計算するためだろう。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 09:46:53.73
>>699
>八尺瓊勾玉は尺ではなく咫が本字。

これ、何をもって、本字だといってるんだ?
三種の神器に関しては、記紀が根本的の典拠だと思うが、
古事記では
八尺勾璁之五百津之美須麻流珠 誓約、岩戸隠れ
八尺勾璁           天孫降臨
日本書紀
八坂瓊之五百箇御統      誓約 岩戸隠れ
八坂瓊之曲玉         一書
で、「八坂」あるいは「八尺」になってる

「咫」が本字、ってのの「典拠」はどれのことなんだい?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 09:51:22.33
>>704
>ではなぜ咫は八寸を意味するようになったのか。

十寸の尺より短い八寸をいうため、以外の理由はないだろ

>そもそもは円周を簡単に計算するためだろう。

何度も言うが、直径四寸の鏡とかの円周を出すのに、何の役にも立たない
実用的な鏡の大きさは、それくらいだ
全然簡単な計算にならないし、当時22/7が既に円周率の近似値として知られていた

あんまり頭の悪いことを繰り返し書くのは、恥の上塗りの上塗りにしかならないぞ
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 12:28:28.57
排中律を理解してない方が恥ずかしいぞ。
用例がないことが
数学的事実に勝てるとでも思ってるのか?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 12:36:12.27
>>706
>何度も言うが、直径四寸の鏡とかの円周を出すのに、何の役にも立たない

径二尺の円なら役にたつよ。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 12:36:42.73
>>705
>三種の神器に関しては、記紀が根本的の典拠だと思うが、

思い込み。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 14:37:48.42
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えおまえ!
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 15:09:11.50
驚いたな。。。
古事記に神功皇后という天皇の妻が、大活躍することが書かれているよ。。。
何者だろうか。。。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 19:30:20.68
>>708
>径二尺の円なら役にたつよ。

径二尺の円のため、なんていうピンポイントな単位なんてありえないだろ?
径二尺の円って、例えばどんな場面で使われると思うのかい?

そして、その円の円周の値を表す必要って、どこにある?

基本的に、平原1号墓出土鏡の円周が八咫だという主張は、循環論法でしかないんだよ
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 19:35:14.80
>>707
排中律って、これだけのことだぞ?

通常の論理の根本原理の一つ。
XはAか非Aかのどちらかであって、Aでも非Aでもないことはあり得ないという原理。

数学で、背理法で証明をするときの背景となる考え方ってだけ

排中律で何かを言おうとするなら、「A」または「非A」のどちらかについて
「真」あるいは「偽」であることを、確定的に示さないと意味がない

お鏡さんは、その部分を一切放棄して「排中律がー」ということで
煙に巻いた「つもり」になっているだけで、ただ単に自分の主張を
支持する根拠一つ挙げられずに逃げてるだけだよ

まあ、九州説系の論者の基本に忠実な逃げ方だよな
ああ、お鏡さんは東遷説系の畿内説を「自称」してるんだっけ

でも実質は変わらないよなww
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 19:36:36.81
>>709の「思い込み。」みたいな一言書き込みのムダさ加減ったらないな

根拠一つ書けないから、議論に参加すらできないデクノボーのやり口
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 19:38:48.94
>>713
うん
あなたが排中律の論理的適用ができない理由が
モロバレです。ありがとうございました。
もっと勉強してから書き込もうね。

高校数学の範囲でもないから
わからないのは仕方ないから。無理しなくていいよ。ひょっとすると大学の教養あたりで触れる機会があったかもしれないけどね。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 19:51:01.02
キナイコシが壮大に恥を晒したと聞いて
飛び出しました。
現場はここですか??
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 19:57:12.69
畿内説は根拠をあげられないからね
畿内説スレのあの長ったらしいテンプレも要約すると魏志倭人伝と反しててもこうこうこういう理由で問題ないということしか書かれてない
合致するではなく、違ってても問題ないというのは根拠足り得ない
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 20:07:56.38
>>709
>思い込み。

思い込みなら思い込みでいいからさ、
>>699
「尺ではなく咫が本字。」ってのの「典拠」を教えてくれよ

そうしたら、議論が進むだろ?

思いつきだけでそんな文献はないって言うなら、それはそれで仕方がないけどさ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 20:15:15.22
結局、排中律という言葉にだけ頼って、意味のある議論から逃げ続けている八咫厨の惨めさったらないね
根拠を挙げて論証するってのができないんだよな

「咫」を具体的な長さを測るのに使っている実例を挙げる
丸いものの大きさを「円周長」を測って示している実例を挙げる

たったこれだけのことができない
まあ、そんな実例はないからできないんだけどさ

ドン来いは、比較的平和に議論ができてたんだけど、
八咫厨が反論できなくなってから、質の悪さ全開で
これを全無視なのがとことんイタイww

           ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <『ソースを書きなさい! 』
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ
0721岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/23(月) 20:26:38.32
みんなあなたに辟易しているんですよ。

よくもまぁ高校生レベルの論理感覚で、そこまで大きく出れますね。
中の人が誰かしりませんが、ハンネ・トリつけてなくてよかったですね。
知性も足りない、品性もないじゃあ、本当救いようないですよ。
0722岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/23(月) 20:29:01.67
鳥頭さんは、論理感覚がにぶいから、自分が如何に「意味のない」議論を展開しているか、気づけないんですよ。

ヒントはもう書いてますから、あとはご自分で勉強してください。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 20:31:28.48
岡上さんという人が的確な助言してくれてるよ。

>>626より
19世紀初頭では「光速度が不変であること」は推論されていましたが、それを立証できていませんでした。
だからと言って、「光速度が不変でない」と結論されたら、科学の進歩はなかったですね。

同じことです。

「咫は数詞であること」は説文解字の説明として知られていましたが、それを文献学的には実例では立証できていませんでした。
だからと言って、「咫は数詞でない」と結論されたら、歴史学の進歩はないですね。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 20:36:16.70
もう一つあった。
こっちの方がいいな。

>>624より
「咫の数詞としての実用例がない」からといって、「咫が数詞ではない」とは言えませんよ。

言えるのは、咫の数詞として実用されたか記録上「分からない」だけです。
主張 A が、証明できないからといって、直ちに「主張Aでない」が導出されるとは限りません。

未知の事項に対することなら尚更です。つまり、あなたが「咫」について「分からない」だけの話です。
咫が数詞ではない、なんていうのは踏み込み過ぎであって、明確に間違った推論なんですよ。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 20:38:36.22
506 日本@名無史さん[] 2018/04/18(水) 19:21:37.23

>>504
数的事実を用例から否定するのが詐欺。
読んで解らないお前が無能
0726岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/23(月) 20:39:27.76
>>723, 724 さん
流石にちょっとはずかしいですが、ま、そういうことです。

鳥頭さんは、少し掲示板は控えめにして、色な本を読んでみて、
知識の幅を広げるといいとおもいますよ。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 21:14:03.21
>>724
やっぱり論理ができないバカだわ

>「咫が数詞ではない」とは言えませんよ。

こっちの主張は「咫が数詞ではない」ではなく、
漢時で既に「咫は数詞として使われていない」だ

そして、「咫の使用法」を実例で全例検証している

周尺の時代には、長さを表す単位として「尺有咫」という用例がある
しかし、紀元前91年成立の史記の時点で、「咫」には注釈が必要

尺有咫以外では「咫」は、事実上「咫尺」という熟語専用の文字になっている

「二咫」すらない時点で「八咫」を論じるバカさ加減に早く気づけるといいね!
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 21:15:13.30
結局、論旨のすり替えに持ち込んでごまかすことしかできないんだな

お鏡さんは賢いという「設定」なのに、惨めなものだな
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 21:27:36.85
>>612
出せないなら、いくら「測っても構わない」と言い張ってもムダ
「咫」は文飾用の文字であって、「長さ測定用の単位じゃない」んだからww

www
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 21:28:52.18
まさしく厚顔無恥
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 21:38:54.17
これまでの流れで論旨がすり替わってたところあったか?↓

「平原の鏡は八咫鏡ではない!」

「えっ、でも円周は八咫だよ」

「周尺の八寸が咫だから八咫ではない!」

「えっ、でも漢鏡だよ?漢尺で円周は八咫だよ」

「漢代には単に八寸の置き換えの用例しかない!」

「うん、漢尺で円周は八咫ってことだよね」

「咫で測った用例がない!」

「測らなくても尺八寸だけ分かってれば自動的に八咫になるよね」

「鏡は円周で測らない!」

「うん、計ったかどうかわからないけど、漢尺で円周は八咫だよね」

「八咫ではない!」
0732日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 21:47:04.91
「咫」は文飾用の文字であって、
「長さ測定用の単位じゃない」
=「咫は数詞でない」

という主張にしか読めないのだが?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 22:13:17.80
命題:
「咫」は文飾用の文字であって「長さ測定用の単位じゃない」 =「咫は数詞でない」

上記の命題が真なら、>> 727 が大嘘、よってキナイコシは大嘘つき。
上記の命題が偽なら、「咫は数詞である」から、当然、円周を測ってもよい。

どちらでもどうぞ。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 22:38:46.44
>>712
>径二尺の円って、例えばどんな場面で使われると思うのかい?
>そして、その円の円周の値を表す必要って、どこにある?

八咫鏡。
二尺鏡より語呂が良く末広がり。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 22:42:52.79
平原遺跡の内行花文鏡の大きさが八咫だと認めたくない
=「咫は数詞でない」ことにしよう

という主張にしか読めないのだが?
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 22:43:29.20
円周が八咫なら直径は二尺ですね。
今でも大工さんが使うサシガネの
計算法があります。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/23(月) 22:48:12.68
>>735
だな、キナイコシは大嘘つきで決定。
ま、知ってたが。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 06:52:35.32
キナイコシは
咫を周尺周時代の尺を基準に絶対値としての長さの単位と思ってんのかな

そうじゃなくて単に基準尺の八寸って言う相対値だと思う人と認識の溝が埋まらない感じ?

もともとの説文解字での周尺も
円周の尺って解説されてるけどね、日本語では。

>>737
これでFAですね。
0740くまモン論者
垢版 |
2018/04/24(火) 08:52:30.60
えらい伸びてると思ったら岡上さんきてたのか。胸熱w
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 10:08:02.21
別スレでキナイコシがはってたの拾った

周尺也。  
周尺である

夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした

殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした

周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると8寸になるので、8寸を尺とした

 按奄字未詳。疑是手之誤字。
 奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 10:25:02.33
これによると
王朝が変わるたびに一尺に対応する 長さが変わった 度量衡の変更があった趣旨の記述に読める。

ここでいう寸が王朝共通のものかはよくわからないが、ともかく咫は周の時代の一尺の長さであったということのようだ。円周の長さと限定したものとは思えないな。

尺八寸がキリのいい便利な単位になると気がついた人がいたんだろうね。

八咫の話はこれくらいでいいでしょう。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 10:39:28.92
>>742
円周専用と言うか、一尋とかは、径にかかわらず大木の周囲
とか巻き取れる釣糸等の長さに使ってるわけで

身体尺として、尋は広げた両腕で、手のひらひと広げ が咫っていう計測法だろ?
正円の直径なら 径〇咫 だけど 楕円とかならこれが便利なだけの事。

八咫の鏡っていうのは、皇室の三種の神器の鏡の固有名詞で
墓の副葬品として出て、それくらいのが複数枚あるならもはや王権とは無縁。
 
古事記創作以前と言うか、統一王権以前の250年なんだから当たり前だろ?
なんで国つくりの神に中国銅鏡や国産鏡があるよwww
時系列無しの歴史要るかよ?
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 10:47:47.72
>>742
>円周専用の尺だったのかw

平原出土鏡を八咫鏡だといいたい連中の根底にこれ「円周専用の尺」があるようだが、
だとしたら、

「咫」で円周を測った例が一例もない

ことと、整合性が取れないのは理解できるか?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 10:53:07.32
>>745
俺も何で邪馬台国論争で関係無い八咫の鏡の話をしてるのか理解出来ないな
バカじゃないの?
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 10:53:51.07
>>732
>「咫」は文飾用の文字であって、
>「長さ測定用の単位じゃない」
>=「咫は数詞でない」

>という主張にしか読めないのだが?

こちらの主張には、漢尺と周尺を混ぜてごっちゃにして都合のいい数字を作っているだけ
ってのもある

漢魏尺の度量衡には、既に「咫」は入っていない
漢魏尺を使っている社会で、「咫」で測るという想定は矛盾している

漢魏尺を使う時代には、「咫」は「咫尺」という熟語でしか使わない文飾専用の
文字になっている
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 10:57:12.58
邪馬台国論争と八咫の鏡の関係について説明して?
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 11:01:10.62
>>745
あなたの言ってることは被害妄想的で
独りよがりだから何が言いたいかよくわからない。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 11:06:22.66
排中律の話はもういいのかい?

排中律を論証に使うのならば、背理法として使う場合にのみ有効だぞ
「Aでなければ、¬A」というのは、前段の「Aではない」が言えない限りは無意味

ここで問題にしているのは
「咫で長さを測ることはない」がA
「咫で長さを測ってもよい(測ることはある)」が¬A

で、Aの部分の完全な証明は、悪魔の証明になるから不能
代わりに、大陸史書での「咫」の全例検討を行って、
全例で「咫で長さを測ることはない」を示した
そこからの帰納的な判断だ
十分な妥当性は担保されている

だが「悪魔の証明」は証明不能だからこの先はできない

一方で、¬Aである「咫で長さを測ってもよい(測ることはある)」は
ただ1例を示すだけで、正しいことが証明できる

Aと¬Aの証明可能性には、非対称になっている訳だ

¬Aである「咫で長さを測ってもよい(測ることはある)」が真であることを
示すことは、これが真であるならば非常に簡単なはず

しかし、できないんだよな

だから>>744「八咫の話はこれくらいでいいでしょう。」のように、
逃げ腰になっている訳だ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 11:18:07.80
>>751
アホさらしの自己紹介お疲れさま。
高校レベルの排中律の理解してないからそういう投稿になるんだけど
ほんしつてきなことは
もう岡上さんという人が的確に指摘してるし
ウィキペディアにも本質的なことは書いてあって
あなただけが理解できてないから。

八咫の話はここまででいいでしょうは
邪馬台国とズレたことを延々やってるから皆さんもう飽きたよね、ってことですよ。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 12:28:30.48
>>752
>八咫の話はここまででいいでしょうは
>邪馬台国とズレたことを延々やってるから皆さんもう飽きたよね、ってことですよ。

いや?
平原1号墓出土鏡が「八咫鏡」ではないことがはっきり示されることで、
九州説の一派の「伊都国説」が完全に破綻するから、邪馬台国「論争」には
十分に意味があるだろ?

逆に伊都国説としては、「ほぼ唯一」の頼るべき「根拠」だから、
「完全否定はできないよ」で、逃げようと躍起になっている

前に、オムロンヘルスケアのページに載ってる公式な数字だから、
「身長×0.45」は絶対に正しいと思って、一歩36センチという数字で
平原1号歩を径百歩にしようとして、どうしようもなく恥をかいたこともあるから、
早く逃げたいんだよな

36メートルですら、平原1号墓には合わないのにねww
0754日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 12:33:28.64
岡なんとかがこだわってるだけだろ
九州説とは何も関係ない
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 12:35:23.60
伊都説に八咫の鏡は入ってないって言われてるけど?
勘違いじゃない?

960 日本@名無史さん[sage] 2018/04/24(火) 06:35:04.05

五尺刀中国朱など副葬された女王墓で、70-80年男王墓が続いた後の長期政権。
だから、平原1号墓は卑弥呼の墓

魏使は伊都で卑弥呼や台与と面会している。
だから、伊都国が邪馬台国の都

三国志東夷伝の里程全てが、弥生時代にしては現代地理と驚くほど相関している。
だから、短里(東夷伝里)で正しいに決まってる

里程と日程を直列させるのではなく、里程は漢代楽浪郡使、日程は魏使、の並列記事。
だから、水行20日の起点は帯方郡
(外交問題に気を遣う人は、日程部分は放射読み)

以上が邪馬台国伊都北部九州説。


以下は、畿内ヤマト政権の成立に関わる後世の別問題。

平原1号墓出土鏡の円周は八咫
だから、八咫の鏡

長さを言っているだけだから事実ではある。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 12:42:13.52
>>751
すごいレベルだな 棒
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 12:47:31.87
>>756
そして、いつものように
根拠なしの一行書きで、批判したようなつもりになる

典型的な九州説ですね!
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 12:49:45.79
>>755
>平原1号墓出土鏡の円周は八咫
>だから、八咫の鏡

>長さを言っているだけだから事実ではある。

円周を測った例を一つでも出してから主張しなって言ってるのにww

「咫」が円周を測るのに便利な単位だという主張と
「咫」で円周長を測った例が絶無であることの、整合的な説明ができるならしてみそ?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 12:55:43.33
>>758
伊都説の人が八咫鏡は別問題って言ってることは無視ですか。

うんまあ公平に見て別にそんな話しなくても
行程論含めて必要ないしね。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 13:14:20.51
これ、詐欺だな

「咫で長さを測ることはない」がA
「咫で長さを測ってもよい(測ることはある)」が¬A

ここも詐欺

代わりに、大陸史書での「咫」の全例検討を行って、
全例で「咫で長さを測ることはない」を示した
そこからの帰納的な判断だ
十分な妥当性は担保されている
0761日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 13:21:15.55
まあ、平原遺跡が倭国大乱の後の女王墓というだけで、邪馬台国問題は解決だからな。
八咫の鏡はそれをさらに補強する、余禄だ。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 15:15:18.09
>>759
>伊都説の人が八咫鏡は別問題って言ってることは無視ですか。

そもそも、伊都説って発端が「平原1号墓が卑弥呼の墓だと思うにだ」だぞ
そして、卑弥呼の墓だと思う理由が
・殉葬墓がある
・八咫鏡がある
・耳璫などがあるから被葬者は女性
だけだからな

既に、殉葬墓は否定されている
これで八咫鏡が否定されれば、伊都国説は終わりだよ

伊都国が邪馬台国に決まってるという思い込みだけで、
旅程をごまかす
 ⇒ 水行10日の起点を帯方郡にずらす
  でも、投馬国への水行20日との齟齬は無視
戸数をごまかす
 ⇒ 余傍国のの戸数と都合のいい数字にした上で参入
距離をごまかす
 ⇒ 根拠がなく立証もできない短里をあると言い張った上で島巡りをする
墓の大きさを無視
 ⇒ 一歩36センチ説でごまかそうとしたが、論破されて挫折し無視に戻る

と様々な無理、無茶、ごまかしの上でのみ成り立つ仮説なんだから、
八咫鏡が否定されれば、おしまい
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 15:17:28.90
>>760
>これ、詐欺だな
>ここも詐欺

どこがどのように詐欺なのか、具体的に論証しておくれよ

まあ、能力的に無理なのは分かっているけど、一応、応援してるから、がんばれ!

そもそもこの記号「¬」読めるのか?ww
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 15:18:14.14
>・八咫鏡がある

だから、これ言ってんのは特定のバカ
九州説に関係ないでしょ
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 15:41:18.16
>>755
>五尺刀中国朱など副葬された女王墓で、

被葬者が女性は認めるが、刀剣の副葬も、中国朱の使用も多くの弥生墓で確認されており「女王」を指す指標にはならない
より多くの鉄剣を副葬している弥生王墓が実際にある(丹波大風呂南墳丘墓)し、朱の使用量も王墓というには少ない

>魏使は伊都で卑弥呼や台与と面会している。
>だから、伊都国が邪馬台国の都

一行目が、びっくりするほど「根拠」がない だから、二行目も意味がない

>三国志東夷伝の里程全てが、弥生時代にしては現代地理と驚くほど相関している。

魏志倭人伝 (末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実    千々賀遺跡   北東30キロ   三雲遺跡群     1里=60メートル
魏志倭人伝 (伊都国から) 東南百里    至奴國  ちょっと語順入れ替え
現実    三雲遺跡群   東北東18キロ  比恵・那珂遺跡群  1里=180メートル
方角も、距離もメタメタで、現実に合っていないよ

>だから、短里(東夷伝里)で正しいに決まってる

決まっていない

>里程は漢代楽浪郡使、日程は魏使

この部分は多くの人が認めるところだが

>だから、水行20日の起点は帯方郡

この読み方がどうにも不自然だし、投馬国の旅程とも齟齬が出る 直列読みで十分だし、そう読まない理由がない

結局、はじめに伊都国ありきの論立てにしかなっていないんだよ そしてその発端は、平原1号墓が卑弥呼の墓であるとの思い込み
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 15:42:29.59
>>764は、伊都国説を推すの?

伊都国説はもう終わりだよ
始まってもいないけどさ
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 16:48:25.11
五尺刀中国朱など副葬された女王墓で、70-80年男王墓が続いた後の長期政権。
だから、平原1号墓は卑弥呼の墓

魏使は伊都で卑弥呼や台与と面会している。
だから、伊都国が邪馬台国の都

三国志東夷伝の里程全てが、弥生時代にしては現代地理と驚くほど相関している。
だから、短里(東夷伝里)で正しいに決まってる

里程と日程を直列させるのではなく、里程は漢代楽浪郡使、日程は魏使、の並列記事。
だから、水行20日の起点は帯方郡
(外交問題に気を遣う人は、日程部分は放射読み)

以上が邪馬台国伊都北部九州説。

以下は、畿内ヤマト政権の成立に関わる後世の別問題。

平原1号墓出土鏡の円周は八咫
だから、八咫の鏡

長さを言っているだけだから事実ではある。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 16:49:07.09
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 16:56:39.20
九州説は倭人伝の邪馬台国の卑弥呼が九州のローカル王であって
後の大和朝廷になる、奈良遺跡、纏向とかとは無関係だ、って言ってんだから

平原から、朝廷の象徴の八咫鏡が出てる、ってのは、あっちゃいけないし、
墓からでたら王権相続に特定される、後の朝廷の八咫鏡じゃないし、
時系列で畿内説以上に 大間抜けの東遷説の話でも、
記紀の日本起源ネタの鏡が中国鏡時代の王墓に出るのは有り得ないだろ。

九州説での八咫鏡否定は九州説破綻じゃなくて九州説を担保してるし
倭人伝解読は新井白石と本居宣長の 邪馬台国の場所は九州 で終ってんだよ。

奴国王/難升米 率善中郎將
都支国王/都市牛利 率善校尉 
巳百支国王/伊聲耆掖邪拘 率善中郎將 印綬

ってのは、卑弥呼の配下の王=領主=大夫が魏の将軍になってるんだよ。
卑弥呼の王権が九州内にすら軍事的覇権が成立してないのが判るだろ。
黄幢 檄 に至っては、帯方郡の戦争に召集されてんだろが。

不毛な論争って、畿内説スレみたいな、
ただの埋めアラシでやってんじゃね?
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 17:41:02.15
>>769
>墓からでたら王権相続に特定される、後の朝廷の八咫鏡じゃないし、

もともと複数あった鏡の一部だけが後世に伝えられたと考えればいいだろ。

>記紀の日本起源ネタの鏡が中国鏡時代の王墓に出るのは有り得ないだろ。

もともと紀元前からずっと中国鏡の時代が長く続いていたんだよ。

>ってのは、卑弥呼の配下の王=領主=大夫が魏の将軍になってるんだよ。

卑弥呼は魏の配下の倭王だから、倭の将軍よりは格上だよ。
冊封体制とはそういうもの。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:02:47.67
>>770
複数あったら王権の象徴として都合悪いでしょ? って話。
後世に残った一つだけを 特定の八咫鏡 という固有名詞にしたんでしょ。
平原の墓から出たら、後世に伝えられた、と言うのは否定されるし
大きさが同等の鏡であっても、記紀が言う、皇室固有の八咫鏡ではない。

そもそも、アマテラスの時系列の鏡? を
実在の卑弥呼だろうが、架空の神功皇后だろうが、
自由に出土させたら歴史の話にならない。
紀元の2600年以上前の中国鏡なんて日本史に要らんよwww

>冊封体制とはそういうもの。
これは、まあ、倭の五王もだけど五経博士を百済からさらってくるまで
大和朝廷の前身は朝貢の意味を知らなかったみたいだね。
遣隋使で修正して、記紀も頓珍漢になってる。

卑弥呼当時の九州と半島は、軍事覇権で土地の私有化が進んだ銅鐸地域に対して
漢四郡勢力も及ばない、領土認識、国境のない墾田開拓地で外国同等だった。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:10:01.63
>複数あったら王権の象徴として都合悪いでしょ?

じゃあ前方後円墳は???w
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:13:55.14
>>770
>もともと複数あった鏡の一部

だから、仿製鏡は作ろうと思えばいくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?
平原1号墓の状況も、割るためにたくさん作ったように見えるし

それを八咫鏡と同列にしちゃいかんだろう
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:15:01.04
>いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?

じゃあ前方後円墳は???w
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:16:17.79
この世に5枚しか出土していない世界最大の平原大鏡

あれ?三角縁神獣鏡は何枚出土?
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:26:11.90
>>775
500以上だ

ドヤッ
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:27:02.86
>>767
>平原1号墓出土鏡の円周は八咫
>だから、八咫の鏡

ここがそもそも、ウィキペディアにも書いてある説文解字の誤訳がきっかけなんだってば

咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)

「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ

周を測ったりはしないんだって
平原出土鏡だって、周を計った人はいないぞ
面径から計算した人がいるだけ

>長さを言っているだけだから事実ではある。

それ、4.79フィートだから
「4.79フィート鏡であるのは事実である」っていうのと同等だよ?
バカらしくないかな?
あと、「4.8尺鏡であるのは事実である」(曲尺)でもいいけどさ
まるめて「五尺鏡」でもいいよ?
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:27:46.53
「鏡の大きさ」を示すのに、 「円周の長さ」で示すっていうのは、普通はない

過去から現在までの、逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず
丸いものを計るのに径ではなく円周(周長)で示している例があれば、
できるだけ多く挙げてみてくれ

二つなり三つなり見つかるなら、そういう計り方もあるだろう、と判断できる
でも、他に例がないなら「単にたまたま数字が一致しただけだろ?」に対して
まったく反論が不可能になる
円周を計るというのは、なかなか正確には測れないものだし、円周で丸いものの
大きさを示すというのは少なくとも一般的ではない

そもそも、卑弥呼の墓に八咫の鏡を副葬したなどという記録はどこにもないのだし、
記紀の八咫の鏡を想定するなら、最高神の天照大神の写し身として大事にするべき
形代なのだから、破砕供献されていることに対して十分な理由付けが必要になる

ということで、日本でも大陸でもよいので、過去から現在までの、
逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:29:50.79
>複数あったら王権の象徴として都合悪いでしょ?

じゃあ前方後円墳は???w

>いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?

じゃあ前方後円墳は???w


先生!

不利になったキナイコシが
話題転換しました〜
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:31:00.11
>>775
>>この世に5枚しか出土していない世界最大の平原大鏡

>あれ?三角縁神獣鏡は何枚出土?

つまり、平原の内向花文鏡は、「欲しがる人がいなかった」んだよ
周りに対する影響が皆無なのが、3世紀の北部九州

>>774
>じゃあ前方後円墳は???w

そして、前方後円墳及び三角縁神獣鏡は、日本の首長の葬送儀礼の
スタンダードになっている訳だ

その発祥の地が、その葬送儀礼を共有する社会の中心だっていうのは
特別な論証が不必要なほど、「当たり前」のことだろ?
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:32:29.14
>>779
相変わらず頭も悪いし、態度も悪いなww

でも、お前に煽られてムキーッてなるやつもいないから、まあがんばれ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:34:00.76
>複数あったら王権の象徴として都合悪いでしょ?

>いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:38:16.48
卑弥呼の鏡 の意味は
240年以前の中国鏡が100枚、日本のどっから出るか
まず、これが考古学の基本。

八咫鏡と言う 大きさ に意味があるとすれば
500年以降で、墓の中 以外にどんだけ存在したかだろ?

倭人伝、ちゃんと読めてるか?
卑弥呼の鏡同等、もしくはそれ以前の中国鏡が、それ以上の数本州からも出れば
九州の卑弥呼と銅鐸圏の諸国は並立して半島交易が有ったことになる。

出雲の鉄や青銅、淡路島や近江の鉄鋼も生産時期が卑弥呼以前なら並立確定。

アラシの意味を憶測するに、老婆心で中学生のアタシが言っておくが
学会や政府の併合時や戦後国交正常化の密約がどうなのかは知らんけど、
もう、考古学や遺伝子で半島の協力はあきらめた方が良いぞ。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:40:35.60
>>782
まさしく矛盾に気づかないキナイコシクオリ
ティ


wwwwwwww
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:42:25.47
キナイコシ

今日も安定のシャドーボクシングで

なぜか一人 K.O.  乙www
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:43:24.35
鉄器ゼロで銅鏡も無いから
自らの姿を見ることすらできずに
状況なんて理解できないんじゃないの?

毛人=ムダ毛処理ができずに毛がぼうぼうの野蛮人
0788日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:43:46.15
毛人=蝦夷=えみし

日本書紀の神武東征における歌に、
『えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず』
毛人は、一人で百人力の強兵と、人は言うけど、戦いもせず降伏した。
とある。

つまり鉄器国家北部九州から東征した神武に、
鉄器を持たない毛人は簡単に敗北した、というとても分かりやすい記録だ。


その後の478年に、宋書の倭国伝に倭王武の上表文として、
『東征毛人五十五國』

鉄器を持たないムダ毛ぼうぼうの毛人は、
鉄器国家北部九州からみて東方に55集落あったのが、
全部5世紀以前に征服されたということだな。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:52:25.06
>>782
>>複数あったら王権の象徴として都合悪いでしょ?
>>いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?

いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちで、当然「王権の象徴」としては不適当だろ?

>>785
>まさしく矛盾に気づかないキナイコシクオリ
ティ

何がどう矛盾しているのか、具体的に指摘してごらん?
九州説クオリティで構わないからさww

ああ、ごめん
具体的なことが言えない、書けない、根拠がない、が九州説クオリティだったね

できないことを要求してごめんな!

できるなら、やって見せて!
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:54:04.53
な、アラシの方向性が変わるだろ。
最後は、妖怪だぜwww

鏡はちょっと勉強になりマスタ。
不毛の埋め杉で秋田けど、感謝です。

hage 説 てか sage進行 が正解だったかな?
でも age だな。 
乱立ワロスwww
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:56:43.58
>>783
>神獣鏡はないわ単なるオマケ。

三角縁神獣鏡は、まさに始まったばかりの「前方後円墳祭祀共同体」の
メンバーシップの証、会員証みたいなものなんだよ、位置づけとしては

ただ、倭国が倭国になった、共立倭王卑弥呼の遣使を記念するものでもあり
「卑弥呼の鏡」をモデルにしたコピー品なのだと思う

500枚以上の三角縁神獣鏡に混じって、魏からの下賜鏡100枚もあるのだろうけれど
本物は、それこそ大王墓に副葬されているだろうし、陵墓指定の壁が厚くて
なかなか確定的な物は出てこないだろうね
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:57:06.96
架空の九州説を設定して
俺様理論を展開し
勝手に自爆するキナイコシ

もはや誰もついていけませんw
0794日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:58:02.50
>複数あったら王権の象徴として都合悪いでしょ?

>いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:00:18.43
畿内説スレじゃなくてよかったな
ザラコクさんに見つかったら、キナイコシに大喝じゃね?これw
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:03:33.00
>>793
ヤケクソで大暴れ中って感じだな
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:07:23.89
>>771
>大きさが同等の鏡であっても、記紀が言う、皇室固有の八咫鏡ではない。
>そもそも、アマテラスの時系列の鏡? を
>自由に出土させたら歴史の話にならない。
>紀元の2600年以上前の中国鏡なんて日本史に要らんよwww

記紀の年代に意義があるだけで、何枚か作った鏡のうち、天皇家に伝わったものが八咫の鏡と呼ばれたが、おそらく同范鏡。

>卑弥呼当時の九州と半島は、軍事覇権で土地の私有化が進んだ銅鐸地域に対して
>漢四郡勢力も及ばない、領土認識、国境のない墾田開拓地で外国同等だった。

わけわからん。
卑弥呼当時の九州は魏から冊封されていたが、畿内は野蛮な土地だったということかな。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:09:01.22
>>773
>だから、仿製鏡は作ろうと思えばいくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?

いやいや、史上最大だし、国産だからこそ卑弥呼の権威も上がるというものだよ。
トヨタが質の良い日本車を作るようになったら日本の格が下がるのか?
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:10:30.40
>>777
>平原出土鏡だって、周を計った人はいないぞ
>面径から計算した人がいるだけ

痛すぎるw
円なんだから、計算しようが測ろうが、結果は同じ、八咫だよ。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:11:01.84
>>780
>そして、前方後円墳及び三角縁神獣鏡は、日本の首長の葬送儀礼の
>スタンダードになっている訳だ

魏志倭人伝に鍵穴型の墳墓なんて出てこない。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:11:30.54
>>780
>特別な論証が不必要なほど、「当たり前」のことだろ?

根拠がないんだろ?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:13:03.57
>>784
>出雲の鉄や青銅、淡路島や近江の鉄鋼も生産時期が卑弥呼以前なら並立確定。

並立はしていただろう。
古田氏の多元王朝説そのものだがね。
しかし、魏と交渉したのは筑紫だけ。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:21:46.88
鉄器ゼロで銅鏡も無いから
自らの姿を見ることすらできずに
状況なんて理解できないんじゃないの?

毛人=ムダ毛処理ができずに毛がぼうぼうの野蛮人
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:22:04.22
毛人=蝦夷=えみし

日本書紀の神武東征における歌に、
『えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず』
毛人は、一人で百人力の強兵と、人は言うけど、戦いもせず降伏した。
とある。

つまり鉄器国家北部九州から東征した神武に、
鉄器を持たない毛人は簡単に敗北した、というとても分かりやすい記録だ。


その後の478年に、宋書の倭国伝に倭王武の上表文として、
『東征毛人五十五國』

鉄器を持たないムダ毛ぼうぼうの毛人は、
鉄器国家北部九州からみて東方に55集落あったのが、
全部5世紀以前に征服されたということだな。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:38:24.91
>>777
>>799

こ、これが畿内説スレ主=キナイコシの頭脳・・・?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:40:03.84
>複数あったら王権の象徴として都合悪いでしょ?

>いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちだろ?


キナイコシ

今日も安定のシャドーボクシングで

なぜか一人 K.O.  乙www
0809岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/24(火) 20:56:44.49
>>740
くまもん信者さん、お邪魔してます。

鳥頭の人が大暴れしているみたいで、すみませんね。
この人、日中、なにもないんですかね?私みたいな勤め人には羨ましい限りですよ。

まぁ、主張がある意味正直なので面白いですよね。
「平原の大鏡の円周は八咫ではない(と困ります。)」
「咫は、文飾的文言で、数詞ではない(と困ります。)」
「平原の内向花文鏡は、欲しがる人がいなかったんだよ(でないと困ります。)」
「周りに対する影響が皆無なのが、3世紀の北部九州 (でないと困ります。)
「倣製鏡は、いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちで(ないと困ります。)」
「平原の大鏡は、当然「王権の象徴」としては不適当(でないと困ります。)」
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:05:43.49
>>798
>いやいや、史上最大だし、国産だからこそ卑弥呼の権威も上がるというものだよ。

でも面径50センチもないんだろ?
国内史上最大の祭祀目的の青銅器は、135センチを計るものが出土してるよ

弥生時代の銅器製作技術を舐めすぎ
作ろうと思えば作れるんだよ
でも、使い勝手が悪いから、よそには伝わらなかっただけ

>トヨタが質の良い日本車を作るようになったら日本の格が下がるのか?

トヨタ車は、日本中でたくさん売れてるだろ?
三角縁神獣鏡が、日本中の古墳から出るのと同じだよ
いいものは、広まっていくものだ
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:09:40.68
>>805
>会員証がなんで一つの古墳から複数出るの?

首長層の個人的関係をもとにした連合、が卑弥呼の共立倭国の実相に近いだろう
その中で、首長間の個人的関係にも、当然濃淡はあるし、大首長はそこらの首長よりもえらい

古墳時代でも、国造レベルの豪族と、県主レベルの豪族がいるようなものだ
というか、弥生時代の国の大きさを、そのまま引き継いでいるのだろう

で、三角縁神獣鏡の配布ネットワークにおいて、大首長は二次的な配布中心になる
つまり多くの鏡を持つ立場にいる訳だよ
財物というのは、質と量の両面で、威信を表現するものだからね
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:14:30.09
>>802
>しかし、魏と交渉したのは筑紫だけ。

卑弥呼の遣使 238年 魏は帯方郡を制圧した
公孫氏は遼東で239年に滅びる。

卑弥呼の遣使の窓口、皇帝への取次が帯方郡であるということは
238年は 漢四郡の首都機能であった、楽浪は戦中なのではないかな?
倭人伝の行間が読めてるか?

245年には韓と帯方郡は太守が戦死の騒乱状態。
これが、詔賜倭難升米黄幢 付郡假授 の要因。

247倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
なのに、援軍ではなく、張政は倭人の帰国便同乗で
247年に新太守赴任で、難升米 檄告喩 である。

そして、247〜8年に
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
で、魏からの帰国報告や返礼は無い。
卑弥呼が倭王として魏を騙せたのはたったの10年ということなのである。

以降、魏は高句麗と交戦で313年漢四郡撤退、だがしかし、
高句麗が半島を制するのではなく、倭人の後援で百済と新羅が成立する。

金印が中華の大王によって、倭王に与えられたと考えてる、
邪馬台国論争っていうのは ちゃんと、倭人伝が読めているのかな?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:20:54.18
お鏡さん、やっぱり九州説クオリティだねww
根拠を付けて論じてごらんよ

「鏡の大きさ」を示すのに、
「円周の長さ」で示すっていうのは、普通はない

過去から現在までの、逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず
丸いものを計るのに径ではなく円周(周長)で示している例があれば、
できるだけ多く挙げてみてくれ

二つなり三つなり見つかるなら、そういう計り方もあるだろう、と判断できる
でも、他に例がないなら「単にたまたま数字が一致しただけだろ?」に対して
まったく反論が不可能になる
円周を計るというのは、なかなか正確には測れないものだし、円周で丸いものの
大きさを示すというのは少なくとも一般的ではない

そもそも、卑弥呼の墓に八咫の鏡を副葬したなどという記録はどこにもないのだし、
記紀の八咫の鏡を想定するなら、最高神の天照大神の写し身として大事にするべき
形代なのだから、破砕供献されていることに対して十分な理由付けが必要になる

ということで、日本でも大陸でもよいので、過去から現在までの、
逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:27:48.21
島巡り仮説にしても、自分に都合のいい「一例」がある、というのは
何の論証にもならないって分からないのかな?

そんなのは、いくらでも捏造可能だし、都合のいいのをチェリーピッキングすればいいだけ

複数例からクロスチェックして検証するっていう考え方が皆無なんだよな
だから、大陸史書の検索とかは一切、九州説はやらない
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:29:40.66
後漢書と晋書あわせてクロスチェックしたからじゃあ完璧だな。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:41:39.97
>>815
木材は人の胸のあたりの周長で測ります。
0819岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/24(火) 21:43:11.79
>>815
まだ言ってるんですか?

咫で測った例が文献上出てこなくても、言えるのは「咫が実測で使われたのか、文献上は分からない」までです。
そこまで私も同意しますよ。このスレの624 626をよく読んでください。

もう堂々めぐりですが、円周が説文解字における八咫に一致しているのは、数的な事実なんですから。
それを否定するのは無理筋ですよ。それを偶然と言い張るのは貴方の自由ですが、
それなら私にだってそれになんらかの 必然(人為)があったと考えるのも自由です。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:46:20.46
>>819
>円周が説文解字における八咫に一致しているのは、数的な事実なんですから。

事実だって証拠は?
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:47:27.75
>>804
>日本書紀の神武東征における歌に、
『えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず』

歴史の話は時系列を無視してはいけない。
神武東征は卑弥呼時代以降ではなく、さらに800年も遡る時代。
弥生文化発祥の九州が、開墾適地を求めて無人に近い関西縄文地域に植民した話だ。

250〜400年は、大和朝廷は九州以前に制圧した蝦夷が勇猛なのを利用して
卑弥呼以降に鉄器や船を準備して九州を制圧、
さらに九州海神族を利用して半島へ進出した。

青銅器の銅鐸時代から、淡路や近江の鉄で統一王権の古墳時代、
九州制圧から半島進出、時系列はこれで、ぴったし合う。

昭和の畿内説再燃、邪馬台国論争は、この間の歴史事実を曖昧にするためのアラシだな。
歴史厨ネラーのみんなには、邪馬台国スレのアラシが、学会の縮図に見えるだろwww

邪馬台国論争は、もういいから失われた3〜4世紀の日本史を取り戻そうよ。
まず、畿内説や もっと、おおまぬけの東遷説は消えてクサイw
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:55:05.33
畿内説の自作自演ではないのかな?
0825岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/24(火) 22:14:06.52
>>768 さん

耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。

これ、参照にした論文教えてもらえせんか?
もしかしてここですか?
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:50:49.57
銅鐸に代表される畿内、というか近江の文化は大陸北方、旧満州あたりから入って来たものなんじゃないか?
北陸の敦賀からもたらされ、近江を中心とする一帯にあった文化は吉備から入って来た勢力に敗れ
当時、まだそんなに開発されてはいなかったが地勢の良い大和を中心とする勢力が出来上がった。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:15:45.99
>>985
>>957
>神功皇后の事績は少なくとも3人の寄せ集めのように思われる

>庄内期は3世紀、
>淤斯呂和気や神功皇后はどうあっても
>4世紀にしかならないのはわかる。

>庄内期の九州での土器伝播を説明する人物は
>でも他に該当者がいない、、、

神武の実年代は、卑弥呼の直前
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:17:27.40
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:33:21.64
>>819
測ったと実証できないなら
測ったという主張には何の意味もない
実際測ったと考えるべき合理性のある理由が一つもない

しかも、八咫だと主張しながら、その長さを「漢尺の咫」などという「実在しない単位」を
捏造して、一致しているといっているだけ

漢魏尺には、尺、寸、分はあっても、咫はない
周尺は漢尺とは長さが異なる

平原1号墓出土鏡が八咫の鏡だというのは、デマだよ
実証による推論ではないし、論証しようもない
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:38:50.04
キナイコシはまだ踊っていたのか
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:39:00.66
>>829
>神武の実年代は、卑弥呼の直前

どうせ根拠はないんだろ?w

ザラコクが祇園山古墳の周りの弥生墓地を殉葬墓だって言うときに
よく引用してる宝賀寿男氏は、神武から崇神まで5世代だろうとしているね

崇神の実年代が、邪馬台国の頃と重なるから神武がその直前と言うことはなさそう
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:52:53.30
キナイコシは早く新スレたてろよ。
テンプレという荒らし付きで


www
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:57:48.81
キナイコシの荒らし技

ロングテンプレ「勝者の貫禄」

sage連打流し&一言レス流し

シャドーボクシングからの孤独K.O.
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:59:38.01
キナイコシ悲鳴が気持ちの良い1日でした
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 11:08:37.75
>>829
2世紀前半でしょう?

この頃に列島に来たのは日矛。

どうも日矛族が北部九州に根拠地を持って勢力を蓄えたように思える。

今の豊前か長門周防又はどちらも。
元丹波は、響灘の沿岸部のように思える。
この辺りの考古学的な成果が全くわからないからあれだけど。

伊都も岡県も日矛の末といってるし
香春岳には息長の大目が現れるし、アカルヒメが現れる。三上祝が近江野洲に落ち着く前が怪しい。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 17:15:18.06
別の畿内説論者が、卑弥呼の時代は神武と重なると主張しているね。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 19:41:22.09
>>841
>別の畿内説論者が、卑弥呼の時代は神武と重なると主張しているね。

お鏡さんじゃないよね?w
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 19:47:17.68
>>840
>そもそも崇神の実年代が邪馬台国と被るというのが眉唾

纏向遺跡の編年が、邪馬台国と被るのは問題ないだろ?

そして、崇神天皇の実在を認めるなら、崇神、垂仁、景行の三代の宮が、
磯城瑞籬宮、纒向珠城宮、纒向日代宮と、纏向に連続で置かれたことが
整合性がある

崇神天皇がこの3代の最初なので、纏向遺跡の編年に合わせるのが妥当だろう
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 20:49:42.02
>>843
>纏向遺跡の編年が、邪馬台国と被るのは問題ないだろ?

問題あるわ、ボケ
0846日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/26(木) 09:20:36.40
久々(笑)

>>187
>>188
>>189
は今まで何を読んでいたの?(笑)
0847日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/26(木) 09:24:32.14
>>202

度は誤字じゃなく下からの引用。

漢書王莽伝上52
越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯被四表,亦亡以加之。


「東夷王度大海奉國珍」
東夷王大海を渡りて國珍を奉ず。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 09:40:03.05
補足。
王莽の時の東夷王はデタラメという説もあるんだが、
編纂者或いは公孫氏や魏使の解釈では、王莽時の東夷王は對海國(対馬)の王ということ。
故に始度一海。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 10:43:50.07
>>843
稲荷山鉄剣に書かれたシキの宮が磯城瑞籬宮なら崇神は5世紀
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 11:08:16.20
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



いつ言うんだよおまえは!
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 11:49:29.16
>>847
とても有用な漢書情報をありがとうございます。

漢四郡はBC100にはあった訳で、
卑弥呼朝貢までの公孫氏台頭の後漢から魏進出の前の話ですが
この段階で、東夷王度大海 であれば東夷の本流は倭です。

たとえ対馬だとしても韓に含まれれば 度大海 は無いので倭人の話かと。
越裳氏、黃支、匈奴の單于 に対し 渡海の東夷は 王 ですから、
渡海の先の倭の概念には中華序列外の王権を想定してるように見えます。
本州を知らないのは確かだけど、南北西の外国にたいして対馬じゃ小国過ぎるかと。

前漢で黃支自三萬里貢生犀 なら、倭人伝で地の果て満二千里議論は不毛だし・・・

ドン来いスレのレス2行でこれだけの情報量なのに
倭人伝読めてないのは判るんだけど、日本の学者って、文献読んでないんだろか?

引用と言うか、漢字としての度は渡の原型ってことですね?
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 11:56:06.70
>>849
>稲荷山鉄剣に書かれたシキの宮が磯城瑞籬宮なら崇神は5世紀

稲荷山鉄剣に書かれた斯鬼宮は、泊瀬朝倉宮で問題ないだろ
泊瀬も朝倉も磯城郡の地名だし

九州にもハツセ、アサクラという地名があるという人もいたけど、
それぞれ離れた別の場所で、泊瀬朝倉宮という一つの宮の名称に
使われるには無理がある
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 14:28:58.80
>>843
問題あるだろうな
纏向遺跡の編年が、邪馬台国と被るという明確な根拠はないだろう?
崇神陵は4世紀前半から中頃が通説だ
卑弥呼の時代とは100年違う
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 15:21:10.09
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。

​平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。

・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年

11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、

「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。

11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。

神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 15:24:46.07
なんでまだ、記紀の記述と倭人伝が整合すると思ってるの?
記紀は、倭人伝を神功皇后記に引用してるけどそれが何のことか解っていない。

西暦と符合する倭人伝では神功皇后の100年前と推定されるが
記紀には、そういう女帝は居ない。

つまり、記紀を日本の歴史だと認めるのであれば
記紀の歴史を持つ皇統の国と、邪馬台国は同時期の日本にあった別の国。
文献的には、記紀も倭人伝も相互でそれを証明するだろ。
畿内じゃダメなんだよw
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 15:29:47.24
>>855
おいおい笑わせるな
記紀を日本の歴史だと認めるのであれば
記紀の歴史を持つ皇統の国と同時期の日本に
別の国は無い
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 15:37:41.37
>>856
おいおい笑わせるな
倭人伝が偽書であるとするならば、邪馬台国論争に意味はない。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 15:46:31.16
>>854
>平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
>正確な数値が出ないと思われるので、
>30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。

統計学を習ったことないでしょ?
・25代平均 ・28代平均 ・30代平均 ・33代平均 ・35代平均
このデータの取り方、25代までのデータが全てに入り込んでいいるから、
独立なデータになっていなくて、単に25代までのデータの末尾がゆれるだけなのは当たり前
大陸王朝の正史からデータを取ると
前漢  17年
後漢  16年
魏晋  11年
東晋  9年
南朝  7年
隋・唐 16年
こんな感じだよ

そして、応神天皇の即位年は、決めがたい
確実なところでは、推古天皇か用明天皇の辺りまで下る
敏達天皇でもいいけれど

で、基準年は用明天皇即位年に取れば586年、平均は気を使って11年から16年として、
代数は実質的な天皇であった神功皇后を入れる必要があるので22代遡ると

平均 11年
586-11x22=344 ---> 344±8年 ---> 336〜352年
平均 16年
586-16x22=218 ---> 234±11年 ---> 223〜245年

意味のある計算にはならないのは分かるかな?
安本美典氏の発表以来、どれだけツッコミが入ってるか、知らない訳でもあるまいに
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 15:49:20.31
同情は良いから、畿内説を救ってやれよ。
ここはひとつ、排中律の先生に名誉挽回の解説をお願いしたい。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 16:03:23.66
>>860
キナイコシはお笑い排中律しか説明できない
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 16:16:15.71
いや、一番分かってないのはお鏡さんだよ

排中律があるから、
「「咫」が長さを測るのに使われている例は、一例もない」を否定するのに
「「咫」で長さを計った例を挙げる必要がない」とか言い切っちゃうんだから


お笑い排中律キタコレ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 17:29:00.17
>>859

前漢 14年
後漢 14年
魏  9年
西晋 10年
東晋 9年
隋  7年
唐  11年

復位や重祚や廃帝をどうカウントするかにもよるけど数字はこんなもん
前漢後漢が長いけどだいたい10年ぐらいというのは間違っていない

天皇は
9〜12世紀 平均12年
13〜16世紀 平均15年
17〜20世紀 平均22年

応神天皇400年として崇神天皇が卑弥呼と同時代なら240年
5代遡ったら平均32年
急に32年なんてでてきても無理、誰も信じないよ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 17:40:34.95
>>863
キナイコシさん
あなたがお笑いの神だと思うよ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 17:52:12.94
文帝 煬帝 恭帝 高祖 太宗 高宗 睿宗 武則天
24 12 1 9 23 34 0 21   これで平均すると16年になるんだが?

隋の7年ってどういう計算だ?

それと、応神天皇400年が、まず怪しいと言っているのに、
崇神天皇からの系譜は

崇神 垂仁 景行 ヤマトタケル 仲哀 応神 
         成務

で、天皇の代数と世代数が一致している
もしこれが、一代10年そこそこだったら、それこそおかしいだろう
10歳で、次の世代を仕込むことになるぞ

仁徳 履中 市辺 仁賢
   反正    顕宗
   允恭 安康
      雄略

みたいな、天皇の代数では9代で、世代数では4世代みたいなところと一緒にしてはダメだよ
この辺もきちんと見ると、一世代30年くらいになっていて、生物学的にも無理のない値になる

あんまり適当なことを書かないことだよ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 18:33:58.69
>>866
恭帝トウと楊浩まで入れた数字
上の2人を含めず3代にしても13年、4代なら9年
唐も高祖から哀帝まで重祚含めて11年

応神400年前後は倭の五王からほとんど確定してるから異論はないだろ
神武天皇から履中天皇までの16回連続兄弟相続無し、叔父から甥に相続が1回以外全部父子相続を信じるのはダメ

武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで5代の間仕えている
一世代約10年なら仕官50年弱
一世代約30年なら仕官約150年弱
無い無い、これは無い
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 18:46:08.51
世代の計算は、この板のもう一人の畿内説のスレである葛城スレからのコピペなんだけどね。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 19:28:56.88
>>867
>武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで5代の間仕えている
>一世代約10年なら仕官50年弱
>一世代約30年なら仕官約150年弱
>無い無い、これは無い

それがな、紀年をそのとおりに読まず、春秋年とすればそこまで不自然ではない

武内宿禰は、成務天皇と誕生日が同じとされている
景行天皇には、息子の同期として青年期に仕えたことになる
成務天皇は同い年
そして、仲哀は世代としては甥だが、成務の兄の息子なので自分の息子よりも年上
神功皇后は仲哀と同世代
応神は世代としては孫世代だが、ヤマトタケルと成務の年齢差だけ差が詰るので
この兄弟の年齢差を10歳とすれば、応神と武内宿禰の年齢差は30歳程度になる
その応神の息子が仁徳だから仁徳の即位年齢にも拠るが、年齢差は50歳程度だから
20で即位したとすれば、そのとき70歳
不可能ではない

仁徳50年の記事に武内宿禰が出てくるが、さすがに仁徳天皇の在位が50年と
いうことはなかろう

どこまでが史実で、どこまでが潤色かは細かく見ていかなければならないが、
記紀の系譜どおりでも、景行から仁徳まで仕えることは不可能ではない

それが正しいと主張はしないけれどな
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 21:29:10.76
だから、なんで倭人伝に合わせて記紀をトンチキな時系列にするよ。
倭人伝の邪馬台国と本州王朝は別の国なんだから書いてある通りで問題ないだろ。

弥生文化民は2600年前から九州を出て拡散した。
後に、銅鐸時代はなぜかよく覚えてないらしいけど、この間軍事王権成立してないとして、
紀元前100〜250年までは九州北部に倭人伝中国史と繋がった首長国連合があった。
ヤマトタケルや仲哀天皇〜神功皇后は軍事統一された本州から、250年以降でそれらを平定した。

それで、半島進出や鉄や牛馬の移入の富国強兵ができて古墳時代で、倭の五王時代になった
畿内説が無きゃ、普通に創作含んだ記紀で日本のこの間の歴史に光が当たるだろ。

学会=キナイコシ?www が わざと、古代史の明白な時系列を潰してんだよ。
戦後レジームと無縁の、歯に衣を着せない、ネラーは騙せんだろw

日韓併合や国交正常化とか、歴史認識工作で 古代史が変わんのかよ?
ゴッドハンド丸見えダッチューの。 ネラーに金配れよwww
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 22:07:01.30
>>870
一代30年超えにしないと崇神天皇が卑弥呼の時代まで遡らないぞ
一代30年はどこにいったんだよ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 23:39:57.57
排中律以前に
命題論理も全くわかってない。

苦笑を通り越して、、、脳、
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 23:51:35.11
>>873
天皇の代数と、世代数の区別は付いてるか?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 23:52:42.98
>>872

2600年だと天皇の数が足りない。
考古学的には出雲もこれから栄えるくらい。

筑紫の倭国と本朝が別なのはいいが、神武より前の日向三代は筑紫が舞台なのだから、魏志倭人伝などの中国の歴史書とどこかですり合わせないと。
まあ、福岡県日向ではなく投馬国(宮崎県都万)に丸投げしてしまうという手もあるかもしれないが。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 00:11:43.66
そもそも応神天皇を起点にするって言うのが恣意的なんだよ
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 02:27:21.50
応神のどこが確実なんだよ
0881日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 09:22:44.34
>>877
>崇神天皇から応神天皇までは世代数=代数という主張だったよな?

神功皇后は当然天皇の代数には入れてないぞ
神功皇后は仲哀天皇と同世代(夫婦だから当たり前)で、この辺を「在位代数」に
入れる入れないでそっちがごまかしてるだろ

きちんと数えてごらん
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 09:43:44.11
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えおまえ!
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 10:06:01.93
>>881

別にごまかしてないし
平均10年説なら入れようが入れまいが大差はない
どちらにせよ崇神天皇が卑弥呼と同時代というのは不可能というのがわかっただろ?
できるというのなら詳しく年代観を教えて欲しいね
応神天皇が定かではないというのなら雄略天皇あたりから上る感じかな?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 12:47:36.99
>>883
>応神天皇が定かではないというのなら雄略天皇あたりから上る感じかな?

雄略天皇の頃からなら、かなり信用できる
一番確実なのは、継体17年が西暦523年というラインだけどね
雄略没年(雄略23年)の己未を479年とするのは、大体コンセンサスがある

ただ、そこから遡っていくときに、春秋年を認めるかどうかで大きな差が出てきて、
春秋年を認めない倉西裕子氏の推定では、応神の即位年は388年になるが、
春秋年を採る高城修三氏の推定だと、応神の即位年が368年になっている

どちらも、紀年の引き伸ばしはあるが、伝承を元に一定のルールに従って
紀年の引き伸ばしをしているという作業仮説を立てて、そのルールを
探ることで、本来の伝承の紀年を復元できるとしている
だが、それでも応神即位年で20年、ほぼ一世代分の差がついている

倉西裕子氏の方は、神功皇后の干支が二運、120年ずらされているというのを
前提にしているので、ある意味機械的に計算している

高城修三氏の方は、古事記と日本書紀の紀年引き伸ばしのルールが異なることを
根拠に、二つを比較することで逆算していて、個人的にはこちらの方が「多少」
信頼度が高く感じる

倉西裕子氏は、神功皇后の没年=応神天皇の即位年までしか計算していない
高城修三氏の推定では、崇神天皇の没年が290年となっていて、日本書紀の
崇神天皇の在位が68年間、高城氏の推定は春秋年を前提としているので、
実年(太陽年)での在位期間は34年となる
290−34で、崇神天皇の即位年は256年頃となる

これを、卑弥呼の没年248年より遅いと考えるか、届いていると考えるかは
まあ、個人の考えで構わないと思う
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 19:53:35.00
>>884
崇神天皇在位期間34年というのは長すぎるだろう
34年以上在位した天皇は記録が確かなもので33代推古天皇の35年間
聖徳太子を実質の天皇とする立場では在位年数は減るし
その次は102代後花園天皇まで待たなければならない

256年〜368年を5代分で割っても平均22年
平均在位年数が中華皇帝や9〜12世紀の天皇の倍近い長さ
後世になるほど天皇は平均在位年数が伸びるという傾向にも反する
崇神天皇陵の推定年代とも大きく異なる

畿内説論者は古代天皇の寿命や在位年数を長く見積もりすぎる傾向がある
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 20:59:25.21
>>885
>畿内説論者は古代天皇の寿命や在位年数を長く見積もりすぎる傾向がある

とかいうわりに、卑弥呼の共立を二世紀末の180年ごろとかいう人もいるし
その場合は、248年の卑弥呼の没年まで70年近く倭王だったことになるぞ
200年共立でも50年近い

この辺との整合性はどう考えるんだい
0888くまモン論者
垢版 |
2018/04/27(金) 21:25:32.67
卑弥呼の死は247年頃、この時トヨはまだ13歳だから邪馬台国が存続してたら300年ごろまではトヨか。
宋書倭国伝では、「讃死弟珍立遣使貢献」、「元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す」
仁徳天皇が倭王讃だとしたら在位87年だから即位したのは逆算したら349年ぐらいになるよね、で先代の応神天皇の在位期間が41年だから308年ぐらいに応神天皇即位。
神功皇后はトヨ?!?
てか在位87年ってWWWW
0890くまモン論者
垢版 |
2018/04/27(金) 22:55:43.34
そこをなんとか!

おやすみなさい、良い夢をハァト
0891日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 00:06:58.74
台与13歳がずっと女王だったわけじゃなくて
台与を擁立した実力者が適当なところで王位についたろ。
倭王讃はその男王の息子か孫か曾孫かともかくその子孫だろ
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 00:44:08.02
>>891
>台与を擁立した実力者が適当なところで王位についたろ。

想像に過ぎない。
0893日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/28(土) 01:06:09.07
>>851
>本州を知らないのは確かだけど、南北西の外国にたいして対馬じゃ小国過ぎるかと。

これは対馬を実際に見ることのできる人間だけがそう思うことのできる「印象」です。
しかし、王莽にとって重要なのは「遠さ」であり、また彼にとって度大海の東夷王は十分過ぎる程の宣伝効果を持っていると思います。

>引用と言うか、漢字としての度は渡の原型ってことですね?

度と渡は同意で、
倭人伝の始度一海の「度」は、
漢書王莽伝の度大海の「度」にわざと被らせています。

そのことで倭人伝の「始度一海(始めに一海を渡る)」の一海と
漢書王莽伝の「度大海(大海を渡る)」の大海とが、
同じ海であることを伝えているのです。
(そして王莽後の光武帝の時代になって更に遠くの倭奴國から王の使者がやって来たと続く)

仮に始度一海が始渡一海と、度が渡であったなら、このことを示すのに追加の文字数が大量に必要となる。
ただ渡を度にするだけでことが足りてしまう。そのような構成に編集し直している点が驚きな訳です。
これは史書の知識の深い者であれば読み解くことができる、
文字数を必要最小限に減らした簡潔な美文です。

自分は現代の検索機能によって度大海と始度一海の類似に気付いただけですが。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 09:12:19.64
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えよおまえ!
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 14:49:10.35
>>887
>卑弥呼は別格なんだよ。

なら、卑弥呼の男弟で、大和朝廷の実質的な始祖王の崇神も別格でよかろ?
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 14:53:27.54
名前も記録されなかった、ただのメッセンジャーだよね。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 17:19:09.92
>>896
>名前も記録されなかった、ただのメッセンジャーだよね。

有「男弟」佐治國。
自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有「男子一人」給飮食傳辭出入。

通常は、
一行目の、「国を治めるのをたすけた(左治)『男弟』」と
二行目の、「飲食を給仕し、辞を伝える『男子一人』」とは別人と考えるよ
国を治める(のを助ける)男弟が、婢千人に混じって食事を運んでたらおかしいだろ?

魏志倭人伝はきちんと読もうな
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 17:32:04.23
>>886
後漢書を読む限り2世紀末の倭国大乱の終息のために即位したとも読めなくもないが、実際のところは220〜230年代即位だろう
即位の時に成人してたみたいだから当時の寿命を考えるとそのぐらいだろう
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 18:28:23.43
305 名無しさん@1周年[] 2018/04/28(土) 18:18:37.72 ID:d1Qlmd4X0

真相

おまえらは平和ボケのアホだから言っとく

南北が何故今のようにスンナリ行ってるのか?
不思議だと思わねえか?

理由は簡単、双方の利害関係が一致してるからだ
韓国の大統領は左翼じゃねえ、極右翼だ!

奴の夢はな
南北を連合なり統一なりしてアメリカ軍を撤廃させ
核保有国になることだ!

奴が極右翼だと認識してるのは
刈り上げくん、米国、中国、ロシア
そしてオレみたいに前線にいる一部の者たちだ

このままだと日本は完全に沈む
早う気づけやアホどもが!

この国の平和ボケはもうキチガイレベルだという事実を知れ!
キチガイどもが!
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 18:46:01.89
>>898
>実際のところは220〜230年代即位だろう
>即位の時に成人してたみたいだから当時の寿命を考えるとそのぐらいだろう

私もそう思うんだが、魏志倭人伝の「其人壽考、或百年、或八九十年。」を楯にとって
2世紀末共立でも、80過ぎまで生きればおかしくないって言う人もいるんだよな
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 19:08:59.86
魏志倭人伝や後漢書が信用できないなら、邪馬台国論争はそもそも成り立たない。
190年ごろ即位で247年没はありえなくはない。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 19:47:37.46
>>901
>魏志倭人伝や後漢書が信用できないなら

とは言っても、100パーセント絶対に正しい、なんてことはあるはずもなく、
当然に史料の限界も意識して読まなければならないだろ?

古田史学のように、短里を正しいとした挙句に、伊都国から百里だからといって
奴国を日向峠の西側にまで引張ってくるような、魏志倭人伝原理主義で
現実の地理まで捻じ曲げる様では、何も言えなくなるだけじゃないか

>ありえなくはない

というのは、それを当然の前提として使えるものではないよ
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 20:35:03.92
質問スレで勝利宣言するようなみっともないマネは止めてください。
他スレにめいわくかけるな

さらしあげ
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 20:36:39.02
あげ
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 21:00:13.60
今日TBS 世界ふしぎ発見で
大英博物館に秘められた卑弥呼の謎
って放送する
楽しみだわ
何か判るかも
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 21:04:28.33
>>901
だから、記紀でそういう女帝が有り得ないなら
邪馬台国は畿内では、有り得ないでしょ?
記紀を全否定するなら許すwww

神功皇后以前の女帝で、在位が50年を超えてたら
平均在位が10〜20年の、皇位継承は成り立たない。

神功皇后って天皇じゃないのに、なんで在位が長いよ?
聖徳太子が良いなら有りにしたか? 
摂政での長期政権の前例か?

卑弥呼は死んで、皇位継承で戦争になったけど
日本の実在可能性のある、古代皇室は前帝死亡の嫡子相続じゃないんだよ。
大和朝廷史に存在しえない卑弥呼は 238年から247年の実在がガチ。
九州の非軍事覇権の小国だろw
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 21:33:54.33
全否定とか、マルバツゆとり思考の間抜けさに藁







0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 22:01:06.33
>>893
うん、いい感じです。 一海の 一 はなぜ? 
のときの疑問が、渡ー度 の前例、用法によって、文学的美意識だけではない
前例の有る一海と言える、特定の海になり得るってことですね。

漢四郡時代的には、対馬=倭国方向、に渡る海は、その一海しかない。
一大国というのも、表意文字ですが、同様の倭国側の一大島 という気がします。
まあ、縄文でも隠岐から日本海交易有るわけですが?

表意文字である、漢字の使用目的を読み、一字一句、ないがしろにしない
という姿勢の論調は、たいてい尊重できる。

でも、なぜ結論がミスリードを誘う方向性なのかが不思議なのです。
日本海ルート先生もコテハンからそっちで、何度かご教示いただいていますが

本スレにあった、周旋可五千餘里 の 周旋の用法とか
忘れたスマソだけど、何とか先生論で、至ー到、東ー東行、の用法
で、里程から行程に変わる、不彌国以降に段落あり、まで読めて
結論を濁し粉飾てしまう論、というのは、ちょっと理解しがたい。

漢籍読めてると新井白石と本居宣長の九州で終ってると思うんだけど、
昭和系邪馬台国論争は、何のために、どこに行きたいんだろうか?

歴史の場合、職業的学問の目的は粉飾なのかな? ←これはひどい
↓ 中学生には無理、禁止w
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 22:50:40.46
>>900
卑弥呼の在位は長く、魏へ遣使した時は老婆だったと思うね

鬼道で つまり神の声で国を統治するのは大変だよ
神の声なんて聞こえるわけないのに、ちゃんと統治して、
さすが神の声通りに収めるとすべて丸く収まると、傘下の諸国の万民に思わせないといけない

かなり複雑なコツが要る
それが老婆になって、「ボロ」が出てきて、人々が疑いを持ち始めた
身の危険を感じた卑弥呼は魏に使いを派遣し、倭王に任じてもらうことで、
自分の地位保全を試みたのである

若くして女王になった台与はコツを掴む前に、「ボロ」を出してしまい廃位されたのではないか?
卑弥呼は遼東半島公孫氏の滅亡直後に遣使し、台与は司馬炎が魏帝から禅譲されて晋王朝を立ち上げた直後に遣使しているから、大陸の情勢にかなり精通している
にもかかわらず、280年に司馬炎が呉を降して中国大陸を統一した時に、
何も遣使していない
おそらく280年以前に早々に台与は廃位されたのだろう
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 00:21:40.01
>>907
>だから、記紀でそういう女帝が有り得ないなら

記紀は男系原理で書いてあるから、推古天皇以前の女帝は認めないんだよ

基本は彦姫制で理解すればよいと思う
ヒメ王が祭祀王で、ヒコ王が政務王の二頭制
魏志倭人伝の、卑弥呼と男弟も彦姫制そのものに読める

各地の豪族はそれぞれの地域で、ヒコ王として支配を続ける
その上に統一祭祀王として卑弥呼を共立する
そして、大和のヒコ王が崇神だったとすれば、記紀とも齟齬なく読める

記紀の倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼でよいと思っている
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 00:35:17.17
いやいや、卑弥呼がそもそも天津神とは限らない。
女首長は九州には記録が多い。
畿内とは別に九州に女帝を戴く国があったんだよ。
0913日本海ルート論者
垢版 |
2018/04/29(日) 00:41:02.94
>>909
>でも、なぜ結論がミスリードを誘う方向性なのかが不思議なのです。

ミスリードとはどういうことだろう?
0914くまモン論者
垢版 |
2018/04/29(日) 00:46:47.55
>>904
質問スレに行ったの何故わかったんwww

265 日本@名無史さん[sage] 2018/04/21(土) 13:16:02.03 ID:
長嶺 諸近のことが知りたい。小右記の刀伊入寇のところの原文と現代語訳誰か教えてたもれ

これなんだけど誰も教えてくれんかったorz orz orz
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 02:49:34.75
>>911
神せ皇后が卑弥呼じゃないなら、あとは百襲姫くらいしか候補が居ないしな。

たぶん、それで正解なんだと思われ。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 03:13:56.16
天王=スサノオとなっていたりするけど、
どういうことだと思う


天王というのが、後に天皇となったとか
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 06:19:17.85
>>917
>天王=スサノオとなっていたりするけど、

まともに相手にするネタじゃないのかも知れないけど
スサノオは、牛頭天王!

仏教との神仏混淆ネタで後世のもの
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 15:28:15.83
さらしあげ
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 15:42:28.70
>>227


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、浙江省沿岸の海洋民が九州西岸に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



さっさと言えよおまえ!
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 15:49:13.80
これでも奈良か? 名無し募集中。。。 04/28(土)22:21 ID:0(68/160) AAS
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況

奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72

古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから

絹織物の出土に関しては九州たくさん、奈良0

奈良は九州から遅れて栄えたと思う
九州が外国と争いしてる間に、奈良だけ平穏に栄えただけじゃないかな
0925日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 21:36:50.45
箸墓って埴輪が発見されてるよな
殉葬を禁じて代わりに埴輪を置いたという伝承に従えば、故に埴輪が発見されてたら卑弥呼の墓ではない
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 22:09:44.64
その伝承が嘘っぱちだったことが考古学的成果で確定したわけだが
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/29(日) 22:26:40.74
埴輪で最も古くからあるのが、円筒埴輪と壷形埴輪だと明らかになった
人の形をした埴輪は古墳時代中期にならないと現れない
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 14:08:40.33
935 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/04/30(月) 13:46:09.89 ID:hBaqkL8x0
当然の結果

平和ボケが為、2036年、日本は韓国の植民地と化してることが確定!
https://youtu.be/ALW8RvbbN0Q
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 14:40:16.70
>>922
いまだにこんなこと書いてるやつがいるんだw

>10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4

10種の魏晋鏡とか書いてる時点で、典拠は安本美典系の「邪馬台国の会」だろ?
邪馬台国の会のウェブページでは、福岡県が37枚となっているが、いつバージョンアップしたんだ?

邪馬台国の会 250回活動報告
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm では
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフの、福岡県が37枚」
表2の抜粋だが、
三雲遺跡寺口U-17 2号石棺墓 福岡県 連弧文鏡(蝙蝠)△1
汐井掛遺跡4号箱式石棺墓    福岡県 方格規矩渦文鏡 ●1
汐井掛遺跡6号箱式石棺墓    福岡県 連弧文鏡    △1
汐井掛遺跡28木棺墓      福岡県 飛禽鏡     △1
汐井掛遺跡203土壙墓     福岡県 連弧文鏡    △1
平原遺跡            福岡県 方格規矩四神鏡 ●32
                    連弧文鏡    ●2
                    キ竜文鏡    ●1
                    連弧文八葉鏡  ●5
と、庄内期の福岡県の鏡が45枚挙げてあって、このうち37枚を「10種の魏晋鏡」としている訳だ
『ひと頃までは』、この平原遺跡の40枚のうち、大型の連弧文八葉鏡5枚は仿製鏡とされ、
キ竜文鏡1枚は前漢鏡、連弧文鏡2枚のうち1枚は後漢鏡で1枚は仿製鏡とされていた
とすると、平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚と、その他の遺跡で1枚ずつの5枚を合わせて、
「福岡県は37枚」としていたと考えられる
たぶんこれで合っているだろう
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 14:40:44.86
ただ、問題は、同じ邪馬台国の会のウェブページで、この鏡のグラフだけを示したページがある
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/206kagami.htm
このページでは、福岡県の37枚が、「およそ邪馬台国時代」の20枚と、「およそ古墳時代」の17枚に分割されている
福岡県の枚数が多いのは単に平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚を数えているから多いだけで、20枚と17枚に分けるのであれば、
必ずこの32枚のうちの何枚かが「およそ邪馬台国時代」別の何枚かが「およそ古墳時代」に分割されていることになる
ひとつの墳墓からの遺物をどうして「邪馬台国時代」と「古墳時代」に分けられるのか、説明は一切ない
つまり不適切なデータの扱いということになる

さらに、ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htmの表2では平原1号墓の鏡の枚数が
「40枚」になっていて、このページ自体は2002年の「季刊邪馬台国」のデータの転載だと考えられる
平原1号墓の鏡の枚数は、長らく「39枚」されていたが、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」での
「40枚」への修正を反映したものだと考えられる
2000年の報告書の内容が、2002年の季刊邪馬台国に反映されているので問題はないように見えるが、
この2000年の報告書で平原1号墓の鏡は「漢鏡5期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡と
漢鏡3期の四螭二朱雀龍虎鏡のの2枚以外は『全て仿製鏡』」とされている
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 14:41:29.19
鏡の枚数が40枚になっているところを見ると、2000年の報告書を参照していると見られるが、
それならば平原1号墓の鏡は全て外れるので、卑弥呼の銅鏡百枚候補の「10種の魏晋鏡」の
福岡県の枚数は「5枚」でなければおかしい

先に『ひと頃は』とカギカッコを付けたのはそういう意味
新しい報告書を参照しながら、九州説に都合の悪い部分はデータを更新しないままにしてあるのは、誠実な態度ではないと思う

結局「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない」とセットで九州だったらいいな説の人がいう
「10種の魏晋鏡は福岡県が圧倒的」というのは、平原遺跡出土鏡だけに依拠したものであり、
現在平原遺跡の鏡が古い伝世鏡2枚を除き『全て仿製鏡』とされている以上、まったく根拠がないことになる

そして、桜井茶臼山古墳の方が「10種の魏晋鏡」でも圧倒的に多い

安本美典氏の九州説は、エンターテイメントとして需要があるから意味のある仕事だと思うけれど、
きちんと考古学的資料・報告書を見て、学会誌などでピアレビューを経た論文をしっかり読めば、
九州説はオワコンっていうのは「素人でも判断できる」んだよ
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 14:55:07.38
68: 名無し募集中。。。 04/28(土)22:21 ID:0(68/160) AAS
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況

奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72

古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから

絹織物の出土に関しては福岡たくさん、奈良0

福岡で鉄製品で食べ物を売り買い出来た時代に
奈良は土器に入れた食べ物を物々交換していた
 
暇なら張莉論文くらい読んでみ。日本書紀はかなり創作
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 16:08:32.37
>>933
例えばこれの典拠を出してよ
>10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4


>暇なら張莉論文くらい読んでみ。
「倭」「倭人」について 張 莉 - 立命館大学
www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou7/no07_03.pdf
なら、ずいぶん前に読んだよ

もともとの「倭」は、百越の中の一派だという認識、辺りまではおもしろかった
でも、上に書いてある数字とはまるで関係ないよな?

典拠、根拠なしの言いっぱなしは意味がない
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 20:39:54.14
>>934
それ、おまえみたいな中卒の馬鹿老人をダマす中国から来た来た詐欺だろ。



で、倭が百越の中の一派である事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?


.
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 21:21:50.51
>>935
それは、933に言ってやってくれ

文献読みが考えると、大陸最古の論衡に出てくる倭の記録は、日本列島の倭ではなく
百越の一派の倭で、鬱林郡あたりの人ってあたりは特に問題ないと思うぞ

それが、のちの史書で倭人の南方イメージの下敷きになったってのまではいいだろう

結局、九州説に持って行くあたりは、文献史家の限界だけどな
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 22:11:51.32
>>936


で、その百越の倭と日本の倭が同一であるという考古学的証明は?



中卒のバカジジイ。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/30(月) 23:19:52.66
荒らしにかまうからそうなる
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 00:18:08.93
自分に不都合な人物は荒らし呼ばわりなw


タイワチーノw
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 06:47:14.78
張莉論文によると中国人は
倭=akaと発音してるんだよな、
俺ら日本人はwaと発音してる
 
漢字の無かった日本人と漢字のあった中国人と比べてみて
何だか悩んできたんだよ

ちなみに倭の意味は他所から来た人って意味らしいんだよな
何かしっくり来ないモヤモヤする
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 07:43:01.71
>>937
>>で、その百越の倭と日本の倭が同一であるという考古学的証明は?

日本語読めてるか?

百越の倭と、日本の倭を、大陸側が同じだと「認識」していたって話だから、
実際に同じ訳ではないし、当然考古学的事実はないよ?


何言ってるんだかw
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 08:51:55.75
その人日本語認識に不自由な人だから相手にしても対話にならないよ。
単なるスピーカー。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:09:50.37
>>941
なら、最初からそのように明確に書けよ。

このバッド ジャパニーズ スピーカーが。



>>942
サギサギ台湾ブタ広鼻インドシナ原人は日本の掲示板に書くなよ穢らわしい。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:20:21.75
この人には通り名は付いてないの?
キウスでもなさそうだけど
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:36:14.98
>>378
>万葉集と比べても何か違う点も多々みられるし

でも、万葉集巻一の最初の歌は
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇 / 天皇御製歌
と題詞が書かれていて、泊瀬朝倉宮に当たる地名は
奈良盆地にしかないから、雄略天皇は大和の天皇で間違いないでしょ?
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:39:52.13
>>945
ありがとう

京大ってのは自称なんだろうね
京大に対する風評被害がひどいことにww
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:50:12.83
>>946おいおいおいおい
朝倉は福岡に堂々と昔からあるぞ。
しかも地元では天皇発祥の地と言われるんだぞ
なんで断定的に奈良というのかな?議論にならないわ
ちなみに私は地元東京だから九州の見方をしてる訳でもない 
ただ真実を知りたいだけ
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:52:06.31
鋭い指摘をするのでその点はすごいです。
意味のない内容を連投しなければそれなりに尊重されると思うんですけども。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:54:31.58
>>945
逆だ、逆。


>>947
2ch創業来、19年間も、中国から来た来た詐欺 も瞬殺できねえ中卒バカジジイの学歴コンプかw

俺が来なかったら、詐欺られたまま鬼籍に入っていたこの中卒バカジジイが。

日本の恥だろおまえ。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 09:56:32.26
雄略天皇の宮っていう奈良の場所は
事績にみあった場所じゃないから
比定ミスという疑義もあるしね。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 10:08:52.94
土器kidだろw

考古板の最高刺客。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 10:18:54.70
>>946奈良にも浅倉や三輪がある
福岡県にも浅倉と三輪町がある

なぜか福岡県と奈良の地名は被り過ぎている異常な程
誰か権力者が真似してつけたとしか思えない程に

何故なんだろう?
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 10:49:27.46
>>950
>2ch創業来、19年間も、

で、御高説の土器コブラこと京大キッドさんは、
19年間もネットに張り付いてる引きこもりなの?w

京大卒でこんな態度の人間は、ろくなもんじゃないな、というのが感想だよ

学歴コンプレックスのない人間は、学歴コンプなんて言葉は普通は使わない
自己紹介乙って言葉もあるしね
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:12:36.08
福岡県に泊瀬はないけど
奈良と同じく長谷(長谷山)ならある。
詳しい人みたいだから聞いてみたいけど
なぜ奈良と福岡県は地名がこんなに同じなの?
どっちが先?誰が地名つけたの?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:27:58.70
福岡の地名を移転したという意見が多い。
そもそも記紀でも神代の王都は筑紫。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:36:09.28
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

新唐書

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:42:51.42
福岡の筑紫が最初なら、卑弥呼も邪馬台国も
福岡でいいんでない?何を皆悩んでるの?
  
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:49:53.86
イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。

そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。

考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:50:47.37
【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:51:10.25
>>957
>福岡の地名を移転したという意見が多い。
>そもそも記紀でも神代の王都は筑紫。

まあ、これが安本美典氏一派の主張の根本だよな

ただ、福岡の地名というのは安本氏の説に忠実ではなく、
甘木付近を中心とした地名という主張だったはず

甘木から各方向にある地名と、大和から各方向にある地名に
対応関係が見て取れるものが多いという説のはず

まあ、福岡県ではあるけれど、最大人口の奴国の福岡市近辺の地名ではない

そして、その甘木付近に「ヤマト」がないんだ
ヤマト国=邪馬台国は、奈良盆地固有の地名ということになる

そして、その周辺の人がいなかったところは、あとから持ち込んだ地名を
つけることができた
そんな関係が見て取れる
0965日本@名無史さん
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2018/05/01(火) 11:51:11.97
倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。
0966日本@名無史さん
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2018/05/01(火) 11:52:08.46
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0967日本@名無史さん
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2018/05/01(火) 11:53:11.70
【狗奴国】

狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。

このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。

邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:53:49.57
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 11:55:27.62
>>955
19年間、ネットを繋ぐと引きこもりなのかよこの学歴コンプの中卒のバカジジイがw

ネットなんて25年前には既にあったぞw

ホント笑わせてくれるバカジジイだなw

じゃあ、何でおまえは中国から来た来た詐欺すら今日の今日まで瞬殺できねえの?

その能力があるのは俺だけじゃねえか。

今日の今日まで、中国から来た来た詐欺を瞬殺できるヤツに俺自身以外に会った事がない。

それに京大生のほとんどが東大コンプなの知らんだろ中卒バカジジイはw
0971日本@名無史さん
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2018/05/01(火) 12:00:29.14
>>960
>福岡の筑紫が最初なら、卑弥呼も邪馬台国も
>福岡でいいんでない?何を皆悩んでるの?

地名を持ち込んだのが正しいとして、それがいつ頃なのかってのが問題なんだよ

東遷説スレにあった言葉
「東遷の時期の範囲を不明にすれば
 畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
 つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
 遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
 早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう」

畿内説は、かなり早い時期の神武の移遷を想定しているよ
個人的には、崇神の五世代前、100〜150年前くらいだと思っている
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:02:19.89
>>970
>それに京大生のほとんどが東大コンプなの知らんだろ

じゃあ、オレがコンプレックスを向けられるのは甘受するよ
仕方がない

>19年間、ネットを繋ぐと引きこもり

これは、京大キッドさんの自己紹介だと思ってたよww
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:03:32.24
>>971
>畿内説は、かなり早い時期の神武の移遷を想定しているよ
>個人的には、崇神の五世代前、100〜150年前くらいだと思っている

絶対年代は?
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:07:21.41
九州説だけど、神武が東征(東遷ではない)した後に福岡の倭国で共立された倭国女王が卑弥呼だと思っている。
だから卑弥呼は記紀に登場しない。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:15:46.41
>>972
俺は通常はみんなから土器キッドと呼ばれているんだがw

京大コブラは殺しに行くときに自分で使うてるだけw

昔、コブラというマンガがあっただろ?w

コブラは必ず殺すところから拝借したw

俺はネットを繋いだのはちょうど20年くらい前で、俺の周りからしたら
遅い方じゃなかったかな??
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:18:31.72
>>956
>福岡県に泊瀬はないけど
>奈良と同じく長谷(長谷山)ならある。

釣られてくれてありがとう
その長谷と、朝倉は、全然別の場所だろ?

奈良ヤマトの、磯城郡の中の泊瀬(初瀬)の朝倉、という関係になっていない
泊瀬と朝倉という二つの地名が別々にあっても、泊瀬朝倉宮の比定地は想定できない

泊瀬朝倉宮御宇天皇は、奈良盆地、つまり大和朝廷の天皇だよ
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:21:44.87
>>951
>雄略天皇の宮っていう奈良の場所は
>事績にみあった場所じゃないから
>比定ミスという疑義もあるしね。

桜井市黒崎の白山神社境内の「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」は、
間違っていると言われていたけれど、
桜井市内の脇本遺跡が現在、泊瀬朝倉宮の候補地とされているよ
推定年代もあっているし
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:22:07.42
記紀に朝倉宮が書かれているのは知ってるが
泊瀬なんて記述はあったかな?
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:27:25.09
>>973
>絶対年代は?

崇神天皇の年代を、纏向遺跡の推定年代に合わせれば、3世紀半ばから後半
そこから100〜150年遡れば、2世紀始めから2世紀半ばくらいになるだろう

神武は磐余彦と呼ばれていることから、奈良盆地の一角の磐余を確保した程度の
小領主だと思う
そこから、在地の豪族と通婚関係を広げることで5世代かけて地歩を固めていった
と考えれば、年代的にも大きな齟齬はないだろう
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:29:50.55
>>978
>泊瀬なんて記述はあったかな?

日本書紀 雄略天皇紀
十一月壬子朔甲子、天皇、命有司設壇於「泊瀬朝倉」、卽天皇位、遂定宮焉。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:30:16.48
もともと泊瀬という地名があったが

近所に古墳や神社があって
それにゆかりがある宮として

記紀に書かれてる朝倉宮をネタ元に
あとから朝倉を追加して
泊瀬朝倉宮と名付けただけだろ。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:43:06.61
>>932

桜井茶臼山古墳のような4世紀の古墳を持って邪馬台国時代を論じるのは畿内説の時代錯誤作戦の1つ
桜井茶臼山古墳の副葬品は破砕鏡、剣、刀、鏃、ヒスイ勾玉、ガラス管玉とまさに九州系の副葬品
というか副葬品自体が九州の風習だがそれもそのはずで、古墳の傍らには北部九州系の宗像神社がある
十種神宝や鏡造部をニギハヤヒが持ち込んだという伝承とも一致する
乾田などの高度な農法も持ち込んでいるし、銅鐸がなくなる
まさに東遷の時期は庄内期だろう
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:45:49.68
>>979
神武が筑紫を去った後に卑弥呼が筑紫で倭王に即位したと考えるとおおむねどの史書も矛盾しない。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 12:57:01.71
>>982
>桜井茶臼山古墳の副葬品は破砕鏡、剣、刀、鏃、ヒスイ勾玉、ガラス管玉とまさに九州系の副葬品

申し訳ないが、桜井茶臼山古墳も阿波の豪族のお墓。 ごめんね。  @阿波
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 14:35:30.28
福岡の筑紫が最初なら、卑弥呼も邪馬台国も
福岡でいいんでない?何を皆悩んでるの?
  
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 14:36:17.61
日中どちらの史書も倭国は九州北部で一致しており、疑う余地はない。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 15:10:49.53
>>986
漢書〜倭人伝の倭国が九州なら
崇神〜景行天皇でその倭国=邪馬台国は滅びるんじゃないかね?
それは、同じ倭国として一致するとは言わない。

>>985
魏志の邪馬台国は、記紀だと、その後すぐ滅びちゃってるんで
記紀の皇統が、魏が認定した女王卑弥呼じゃないから
邪馬台国論争が無意味になっちゃうから飯のタネに困るんじゃないの?

時系列では、200年代に女帝は居ないから
卑弥呼を倭王にした魏志がアホ、で解決だけどwww
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 15:18:54.29
伊都国王なんてのはない。奴国王の間違いだろ
大官ってのは伊都県主、ニキってのは出雲系の人物、一大率はこいつ
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 15:37:11.86
>>981
>もともと泊瀬という地名があったが

九州の朝倉まわりには、泊瀬の地名はないよね?
長谷でも同じ
つまり、九州ではない

>近所に古墳や神社があって
>それにゆかりがある宮として

>記紀に書かれてる朝倉宮をネタ元に
>あとから朝倉を追加して
>泊瀬朝倉宮と名付けただけだろ。

改行が無駄に多くて引用がしにくいな
まあいい

>>981で書いたように、記紀の時点で
日本書紀  設壇於「泊瀬朝倉」、卽天皇位、遂定宮焉
古事記   大長谷若建命、坐「長谷朝倉宮」、治天下也
と書いてあり、あとから追加とかではなく、最初から泊瀬朝倉宮(長谷朝倉宮)だよ

原文を確認してみてくれ
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 16:03:02.97
>>982
>銅鐸がなくなる

これは、畿内第V様式になる前だよ
編年をきちんと確認してくれ
これを庄内期と言っているようでは、共通認識に立った議論ができない
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 17:53:01.84
>>987
>崇神〜景行天皇でその倭国=邪馬台国は滅びるんじゃないかね?

景行天皇は筑紫女王である神夏磯姫と共闘しているので、筑紫倭国は滅びていないことになるよ。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 17:54:27.20
伊都国の禰宜は邇邇芸のことだから、天孫族だよ。
つまり出雲を滅ぼした側。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 17:55:03.74
【庄内式土器】

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 18:16:23.95
>>993
それ、いつの情報?

「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ

胎土分析の結果、庄内式土器、布留式土器が、九州でも生産されていたことがはっきりしたってことだよ
西新町式土器とか、九州在地の土器は作られなくなり使われなくなる
0995日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 18:18:00.50
>>993
【庄内式土器】は畿内第X期「東阿波型土器」の工法を畿内で広めたもの。  @阿波
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 18:33:56.55
>>990
出来上がった銅鐸の多く山の中からポツンと出てきて、土器類などと一緒に出てこないから共存関係は不明なことが多いが
唐古鍵遺跡に銅鐸鋳造片が畿内第IV、V様式、纏向2、3式土器複合層から一緒に出てきてる
0997日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 18:55:18.40
>>977
ふむ
これは知らなかった。

欽明朝の話もあるが、有力遺跡ということで記憶しておこう。ありがとう。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/01(火) 19:02:42.81
くまもん信者じゃなくて、くまもん論者さんだった
ごめんなさい

こんなんが1000コメでごめんw
10011001
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