邪馬台国畿内説 Part350
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1527325137/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 スレ主です
このスレは間違って立てたので下の本スレで濃厚な畿内説の議論を深めましょう
邪馬台国畿内説 Part350
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1527601713/ ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 倭国大乱前の倭国は男王
邪馬台国、初期の大和朝廷は、女王卑弥呼、男王で内乱、女王台与
邪馬台国、初期の大和朝廷側には男王足り得る血統がなかったのかな? ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 卑弥呼、台与が女王足り得たのは、猪の血のおかげの可能性があるな
男王にはなれないけど ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。
東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 海幸彦山幸彦の色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。
天武の時代に隼人の乱が起こったのは当然と言える ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 夜の食国を治めたのは月読
月読、日見彦、食国、なにわ
卑弥弓呼 狗奴国 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、北陸、伊勢尾張からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。
問題は男王が何処にいたかだな
淡路島の鉄器を利用しやすい、本州沿岸部の高台が怪しいが
かつて大坂城の地にあった生國魂神社
神武東征の際に生島神、足島神を鎮魂した謂れが残っている
八十島祭で重要な役割を果たし、宮中式内社にも同じ神が祀られている
籠神社や出雲大神宮と同じように、隠された主祭神がある可能性も考えられるな ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。(東から来たってのが興味深い)そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で出ているな。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、卑弥弓呼。日見彦。暦の一子相伝者。
倭国大乱で殺されて、日本列島から暦が無くなる。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
荒らしのスレ立て妨害が入っていますが
適切に分別お願いします。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 やっぱりシラ、白も重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
シラ、白澤、白沢、白佐波
新羅も本来はシラ 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 まずヒミコが誰なのかキチッと解明してみろアホの>>1
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。
キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。
ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族
サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
牛鬼は老いた椿という言い伝え。元々は古い海神だったが、石に乗っ取られたということかな。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 故・金関 恕(かなせき ひろし)氏が奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかと言われてたようだ。
仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が分からなかった。
解いたのはわしだ。
まいったか。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな 660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm
664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005
668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。 674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm
>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。 大阪の交野(かたの)に森古墳群という前期古墳群があります。
この古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者が特定できます。
交野の語源になった肩野物部です。
当地にある天田神社の祭神は、今は住吉大神ですが、
その由緒書きに、それ以前の祭神がニギハヤヒであること、
そして開拓民としてはっきりと肩野物部の名前が記されています。
この森古墳群の最古にして最大の墓が雷塚古墳(3世紀末)です。
この古墳は箸墓古墳を小さくした形で、被葬者が崇神の叔父である伊賀色雄命ではないかとも言われています。
そして今も枚方市伊香賀町という地名が残っています。
ただもう一人候補がいます。
先代旧事本紀で伊賀色雄命の1代後、ニギハヤヒから数えて7世後の多弁宿禰命(たべのすくね)です。
この人物は先代旧事本紀に交野連と書かれてます。
いずれにしても崇神以前から物部氏が前方後円墳を墓制に採用してた傍証になると思われます。
やはり纏向古墳群は物部氏の墓群でしょう。 >>100
>やはり纏向古墳群は物部氏の墓群でしょう。
その、物部氏も「忌部一族」の一派です。 @阿波 >>102
物部の祖はアマテラスの孫の饒速日だよ。
神武天皇より古い氏族になる。 >>102
>物部は五世紀以降の氏族だよ
武人の姓をもつ「物部」「久米」「佐伯」「大伴」なども、元を辿れば全部「忌部一族(倭人)」 @阿波 >>102
津田史学あたりの影響を受けたアホ学者の一つの説をありがたがってるお前は馬鹿。 物部ってのは大王の官房長みたいな、いわば初期官僚みたいなもんが管理下の部曲を取り込んで出来上がった新・氏族だろう
昔からの地域密着型氏族とは違う >物部ってのは大王の官房長みたいな、いわば初期官僚みたいなもん
申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)だな。
>新・氏族だろう
大和盆地では新氏族。彼らが瀬戸内海洋集団を引き連れてきたことは先代旧事本紀に明記されている。
纏向遺跡・古墳群と瀬戸内の関りは言うまでもない。
だから物部だと言ってるわけだが。
>昔からの地域密着型氏族とは違う
それは鴨、つまり神。
神武という男はその鴨(神)王朝に婿入りした。 京都の五塚原古墳http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。
また山代も河内も庄内土器で纏向と共通する。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。
先代旧事本紀を偽書と片付けてる人間は馬鹿である。
前方後円墳とは物部の墓制であり、卑弥呼は埋葬されていない。 >>953
>国民の7割などと連呼して九州説に紛れ込んでるのは
兵庫、大阪中心の差別の連呼で商売してる反日民族団体だからね<
国民の3割しかいない大和説者に紛れ込んで、
「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
人種差別の殺戮戦争を怒号する・・・・大和説者は、
兵庫や大阪やなどで差別でを連呼をして商売してるしてキョクウ団体のwwだからね。 日本最古の神社は大神神社ではなく高鴨神社だ。
大神は崇神の時代。
高鴨は孝昭の時代。
その高鴨神社よりさらに上座にあり、
もはやいつ頃出来たのかも分からない古い名神大社がある。
高天彦神社だ。
つまり奈良盆地最上に位置し、最古かつ最聖の神社である。
その高天彦神社の境内に径百余歩ほどの塚があり、奴婢が埋葬されている。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/56_tn_34d18608f7.jpg
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
葛城で土蜘蛛を退治した男がいる。
神武である。
それはヒメ(踏鞴五十鈴)の時代でもある。 >>954
>一周忌は12月目だわ<
普通の月に亡くなれば、翌年の同じ月の同じ日。
「後〜月」に亡くなって、翌年にその「後〜月」がなければ、
12月目の同じ日だろうなあ。 >>115
「決めつけ罵倒は論破された人のすること」
というお前の言葉をそのまま返そう。 景初四年があったのは正月だけなの?
景初三年十二月→景初四年正月→正始元年正月と言いたいのかね?
そうするとどっちで一周忌やって、どっちで正月祝いやったの?
三回忌以降は正月祝いと一緒にやるの? >>955
>鋳型は1回きりじゃなく数回使えるね それで作れば大きくなるね<
鋳型の大きさの変化は、青銅の冷却収縮に比べて、はるかに小さいだろうね。 >>115
先代旧事本紀は上田正昭さんや森浩一さんも復権を言われてた。
お前ごときが偽書だと断言できる代物ではない。
頭が高い、控えおろう雑魚。 >>956
>コピー鏡を作れば熱で鋳型が膨張し
それが数回利用される事によりコピー元より大きい鏡が出来る<
鋳型の大きさの変化は、青銅の冷却収縮に比べて、はるかに小さいだろうね。
>大きい三角縁神獣鏡が九州、吉備殻出るのなら
畿内が三角縁神獣鏡の中心であり周囲の国に
コピー品を配ったと言う当時の状況と一致するとも考えられる<
やはり、この投稿子の議論相手の彼が言うように、
同笵鏡の大きい方が、中心になるから、
九州から伝わった事になるね。 >>958
>あと三角縁神獣鏡は径が小さければ文様が不鮮明と書いてあるが
洛陽で発見された三角縁神獣鏡はかなり小型だが
国内で見つかる鏡よりも漢字などが鮮明だそうだ
小さいほうが文様が鮮明なら
洛陽で見つかった三角縁神獣鏡はコピー元そのものか<
ダメだね。
大きい方がコピー元だし
洛陽からの出土は0〜1だし、
明帝の下賜の銅鏡百枚の全てが1枚のコピー元から出来た筈もないし、
列島の500枚以上の三角縁神獣鏡の全てが同じ模様である筈もないし、
極めてそれに近い鏡であると推察もできる。 その後
北斗の拳でいうところのシン、
またシンの部下といのが蘇生、生き返したんだろう >>13
>倭国大乱前の倭国は男王
邪馬台国、初期の大和朝廷は、女王卑弥呼、男王で内乱、女王台与
邪馬台国、初期の大和朝廷側には男王足り得る血統がなかったのかな?<
「倭国大乱」も「台予」も「大和朝廷」もなかったね。 ピッコロ、マジュニア、カミ(シン)・・・?
そのようなコンセプトになってない? 数年前の、とあるスレ
「ピッコロはペンギンだったよな」と言ってるひとがいたり
『ピッコロ ペンギン』 >>20
>倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
「倭国大乱」も「大和朝廷」もなかったし、
記紀は「倭国の存在や歴史」を抹殺盗用造作した半分偽書だから、
史料批判なくしては論拠にならないよ。 >>22
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。<
畿内なんてなかった。
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があって、
纏向にはその内の一国の「地方の市を監督する大倭職」の国ができたから。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<
記紀は半分偽書だし、大和朝廷なんて、なかった。
>畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。<
畿内もなかった。 どのスレだったかな
誰々や某による、家の系図?・・・ロンダリング?だと言ってる人がいるけど
そういう意味ではない、知ってる人は知ってる もともと『松傾』の家、一族の話なんだよ、何かの家の人なのかな >>133
なのに古田説が史料批判をしないのは、なぜ? >>23
>邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。<
邪馬台国なんてなかった。
>伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?<
生駒と言った瞬間に「南≠東」に拠って×。 >>969
>笵が使い回しされていることは傷の観察で確実<
明帝の下賜の銅鏡百枚が、
全て一つの三角縁神獣鏡を笵にして造った、という筈もないし、
列島の500枚以上の三角縁神獣鏡も、
全て一つの三角縁神獣鏡を笵にして造った、という筈もない。 >>51
>1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。<
伊勢遺跡は、
九州倭国からの「自昔・・・東征毛人五十五國」の東征将軍と、出雲や越の住民との、
共存支配地域。 伊勢遺跡は三上祝の遺跡。
多分、日本の副首都の意味合いがあったのだろう。
だから白村江の敗戦でそわそわした天智天皇が近江に都を移している。 >>80
>サルタヒコ。 出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。<
猿田彦は、
倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」で出来た神社で、
九州倭國の将軍らに協力した在地部族の首長のような形で祀られているから、
在地の毛人系で、倭国の東征を受け入れて協力した部族の「長」ら、
という形の部族長。 >>143
どこまで妄想するやら
なんも根拠ないでしょ?
w >>82
「南≠東」などのような、
平気で嘘をつく病気がある?大和説者や大和説学者らの、
虚言癖の心理・原因と対処法!が必要。 むかーしの事は知らないけど
wiki『征東大将軍』
小手子の像の話をしていたり、
川崎に来る前まで、そこの周辺に住んでいたことがあるとか
『松傾』のような名前の家なんだけど 伊達郡の川俣町というスレ、
同じような事を言ってる人がいるでしょ
受験などで言ったわけではないんだけど、
亀戸天神に行ったりもしたよ(老婆談)
当時住んでいた家には、
凄い刀(謎の刀)が飾ってあって・・・ あの写真
お爺さんの家の・・・子供の頃の写真だと言っているし、
白い制服のようなものを着ているけど、戦争などには行ってないとか
軍人、警官でもないとか >>96
>天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。<
大和朝廷なんてなかったし、
大和も伊勢も、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の話だな。 以前から書いていることだから、
気づいていると思うんだけど
311?震災などがあり、
いま住んでいるところ(川崎)に、
引っ越してきたというわけではないよ 例えば、謎の『サイバーパンクspecial』というコミック
その作品が発表?される以前から
川崎(南部のほう)に住んでいるし、どういうことなんだろう 老婆談、ドラクエも無かった頃の話だし、
漫画・・・出版社(wikiを調べてみた)も無かった頃の話 >>120
>景初四年があったのは正月だけなの?
景初三年十二月→景初四年正月→正始元年正月と言いたいのかね?<
景初四年なんて始めからなかった。
あったのは、
景初三年十二月→景初三年後十二月→正始元年の(おそらく)正月か二月。
>そうするとどっちで一周忌やって、どっちで正月祝いやったの?
三回忌以降は正月祝いと一緒にやるの?<
一周忌は、景初三年後十二月一日。
改元や正月祝いは、正始元年の(おそらく)正月。 >>128の訂正
ダメだね。
大きい方がコピー元だし
洛陽からの出土は0〜1だし、
平原の鏡には幾種類もあるから、
明帝の下賜の銅鏡百枚の全てが1枚のコピー元から出来た筈もないし、
列島の500枚以上の三角縁神獣鏡も、沢山の差異があるから、
その全てが同じ模様である筈もない。 >>112
神武以前から大和を治めていた、地域密着型氏族の代表だけど? >>161
>大きい方がコピー元だし
科学的に否定されてる >>1
>それは桜井市纒向以外にありえない
古墳の序列は大>中>小以外にもある。
立地場所だ。
上座>中座>下座になる。
実際、各地域の上座には始祖王らしき人物の墓がある。
例を挙げれば河内の玉手山6号墳、森古墳群の雷塚古墳、讃岐の猫塚など。
では大和盆地の最上座とはどこか。
高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通りヌヒが埋葬されている。
トヨもヒミコもヒミコの父さんやお母さんも叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後に高天原の神々になったのだ。
纏向の箸墓?
あれは瀬戸内下人の墓だ、ば〜か。 >>160
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! >>164
どういった方法で科学的に否定されたの? >>148
ザコラクって?
1)どういう主張をする人?
2)あだ名の由来は?
新参者ですので教えて頂ければありがたいっす >>1
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
> 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
こういうのを妄想と呼ぶ。 >>169
>ザコラクって?
新参者でも、まだスレもそんなに長くないんだから、最初から読んで御覧なさいな
つ >>87 >>147
>どこまで妄想するやら なんも根拠ないでしょ? w <
倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」という上表文の証言が根拠。 >>163
>なんで年内に一周弔があるんだ <
一年後だ。 >>172
ほうw ありがとうございます! 75歳ってほんとなんすかね?
>>173
倭の五王が九州王朝なら「西の衆夷六十六国」はどこなの? 無理ありすぎない? >>176
>ほうw ありがとうございます! 75歳ってほんとなんすかね?
>>87も、もうずいぶん前から繰返し貼られてるから、
今ではもう少し歳が行ってるらしい >>175
>倭の五王が九州王朝なら「西の衆夷六十六国」はどこなの? 無理ありすぎない?
ザラコクの書くことは決まってるww
「西服衆夷六十六國」の「服」は、「自動詞的意味」だから、
九州倭国のことを指すのであって、九州の西という意味ではない >>164
>>大きい方がコピー元だし<
>科学的に否定されている<
鋳型よりも、金属の青銅の方が、温度の低下に拠る収縮性が大きい、
というのは科学的常識。 >>177
>「西服衆夷六十六國」の「服」は、「自動詞的意味」だから、
多少でも漢文の読める人間なら
こういう恥ずかしい間違いは
ぜったいに犯さない >>177
ザコラク先生の与太話はそれでいいとして、
本家の古田はどういう言い訳してたんですか? >>181
皇帝にへり下って
自国民の倭人を夷と表現したのだと
アホなことを言ってたよ
当然笑われたが >>175
>倭の五王が九州王朝なら「西の衆夷六十六国」はどこなの? 無理ありすぎない?<
唐会要は、
倭国から別れた別種の旧小国の日本国の伝と書き分けて、
倭国伝として、「正北抵新羅」だと説明しているので、
倭国の位置は九州であった事が確定しており、
宋書の倭王武の上表文の
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」での、
「西服衆夷六十六國」の「服」は、
(「征」や「平」の他動詞とは書き分けて)、本来の意味は「服属する」という自動詞であり、
それを「西(九州)では既に服属ではせしめられていた」、
という意味に使用されていた事になり、
九州付近の六十六國であった事になり、
「無理」はない。 >>178
>一年後なら景初四年だな<
景初四年という年次は設定されずに、景初三年の「後十二月」が設定されたんだから、
明帝が亡くなった景初三年の元旦の「一年後」は、
景初三年の「後十二月」の一日だ。 >>180
>>「西服衆夷六十六國」の「服」は、「自動詞的意味」だから、<
>多少でも漢文の読める人間なら こういう恥ずかしい間違いは ぜったいに犯さない<
漢文での「動詞として使用された文言」の自動詞であるか?、他動詞であるのか?は、
その文言に「す」や「する」を付けてみれば判る。
そして、「征す」や「平す」は、「征伐する」や「平定する」という他動詞になるが、
「服す」は「服属する」という自動詞になる。
そして、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は九州である事が確定しており、
西は九州の事であった事が確定だ。 >>182
>皇帝にへり下って自国民の倭人を夷と表現したのだとアホなことを言ってたよ
当然笑われたが <
倭王武は、
倭国が「中国からは東夷と呼ばれた」地域の国であった、
という事を、当然知っている。 >>186
平安時代に藤原常嗣が「正北抵新羅」な場所から使者として来た国だよ
その国は日本で、都は京都
九州倭国とかいうファンタジー国家ではない >>175
>>177に書かれたとおりのことを>>183、>>186で書いてるだろ?
ザラコクさんは、何度間違ってると教えてもらっても、
それを認めることができずに、延々と同じ間違いを書き続ける人なんだよ
ザラコクは
物事を 知らない、
指摘されても 調べない、
教えられても 認めない
のないない尽くしの人だから、気にするだけ時間の無駄だよww >>190
>自作自演
どれが?
だれの?
まあ、九州説の人はいつもやってるから、他人もやってるんだろうと
思っちゃうんだろうね!
キウスとか、キウスとかww >>188
>平安時代に藤原常嗣が「正北抵新羅」な場所から使者として来た国だよ
その国は日本で、都は京都 九州倭国とかいうファンタジー国家ではない<
唐会要倭国伝に書かれたとされる藤原常嗣とされる人物は、
開成四年(839年)にとされる倭国使と名乗った遣唐使であった事になるが、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku5/satiyam5.html
の「残映」に、
ついで同じ『宋史』日本伝中、興味深い記事がある。
「天聖四年(一〇二六、後一条天皇、万寿三年)十二月、明州言う、
『日本国太宰府、人を遣わして方物を貢す。而も本国の表を持たず』と、
詔して之を卻(しり)ぞく。其の後も亦、未だ朝貢を通ぜず、
南賈(なんこ)時に其の物貨を伝えて中国に至る者有り」。
日本国の太宰府から、中国(北宋)へ朝貢をもってきた、というのである。
明州からの報告だ(明州は今の寧波、すなわち、浙江省〔会稽道〕勤*県)。
しかも、日本国王の上表文をもたず、単独で自主的に献上してきたのだ。
しかし、中国の天子はこれをしりぞけた、というのである。
だから、倭国の太宰府は、
平安後期になっても、まだ独立国的であったという事であり、
太宰府に赴任したとされた藤原常嗣が、倭国使を名乗ってもおかしくない。 >>192
平安朝の朝廷の出先機関である大宰府で
都督が独断専行しただけでしょ?
それが、何か? まあ、九州王朝説という時点で古田説もトンデモだけれど、
劣化古田説のザラコクと一緒にしたら、さすがに申し訳ない気もする 『伊達の桃太郎』
「司徒 司馬 司空」
このような言葉が出て来たりしない?
読んでみた? >>192
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! >>193
>平安朝の朝廷の出先機関である大宰府で都督が独断専行しただけでしょ?<
「朝廷の出先機関」ではなく、
太宰府は、独立国として行動していた、という事だ。
他にも、
新羅が8世紀以後にも、太宰府倭国と大和日本国とを区別した記載をしていた事や、
渤海が、太宰府倭国との国交を求めて来た、
という事件もあった。
>それが、何か?<
唐会要は、
九州倭国と大和日本国とをはっきり区別して記載しており、
倭国を「正北抵新羅」と説明した、という事は、
倭国は九州にあった、
という事の証拠だ。 >>194
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
どんどん辻褄合わなくなっていくね。 >>201
>太宰府は、独立国として行動していた
1026年の7年前の刀伊の入寇(1019年)を撃退したのは大宰権帥の藤原隆家
藤原純友の乱(938‐947)に追討使として九州に下向した倭漢氏の大蔵春実以来
孫種材が刀伊の入寇に活躍するなど
その子孫は大宰府の官人として九州管内の各地に勢力をのばした 『天王宮 山王院 菅野』
このような名前なんだけど、どういうことなの?
『天王』? 数年前の陰謀スレ
「だっつーの!」(だっ津ーの?)
「もうどうにもならないんだっつーの!」
「生きてたのか!」
「真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
その人物の話をしているんじゃないの? >>161
コピーすればするほど文様は不鮮明になる
三角縁の原産地洛陽で見つかった鏡はかなり小ぶりだが文様は鮮明
つまり小ぶりの鏡こそコピーの原本
大きい鏡はコピーされた側 「もう私ではない、何度も言いました、そういう事なんだっつーの!」
「だっつーの!だっつーの!」
このような書き込み、何だったんだろう >>207
元々中国鏡は質がいいから紋様も鮮明
三角縁神獣鏡のような倭鏡は質が悪いから紋様が不鮮明
というか自分が張った論文で鏡が小さくなるって実験結果書いてあったのに見苦しいな >>209
1ミリも小さくならないって論文なんだが
わかってないのか・・・orz 伊達郡の川俣町、そこの山の上のほうに住んでいたことがあるんだよ、
という話をしただけで
何か、わかった人がいたのかな?
あと、あの写真w
キュウリの葉、葱の華・・・ 邪馬台国畿内説っていうタイトル嫌らしいな
邪馬台国はヤマト国だろう
他の畿内の人々からしたら迷惑なんだよ
大和朝廷の一員と勘違いされて、イメージが悪くなるんだな
勝手に大和朝廷の罪まで擦りつけられるのも迷惑
畿内は卑弥呼を共立した勢力に倒された側
大和朝廷に抵抗した側なんだけどな 他の畿内の人々じゃなくて
兵庫、大阪の日本の歴史をよく知らない反日反天皇民族団体の人々だろ
いつも数を水増ししようとする >>214
お前が日本の歴史を知らないんじゃないの?
畿内の大部分は大阪だよ。
大阪では奈良と違い天皇は大切に祀られている。
何処よりも日本を大切に思う土地柄 >>215
大阪の人々と書いてるのではなくて、
兵庫、大阪の日本の歴史をよく知らない反日反天皇民族団体の人々
日本語が理解できないやつだな >>209
洛陽で見つかった小さい三角縁神獣鏡の話をしてるんだけど
さらに論文には鋳型は膨張して大きくなるって書いてあったろ
鋳型は複数回使えるからそれで作った鏡は大きくなる
九州説に脳をやられるとこんな簡単な事すらわからなくなる 大阪で親しまれている生玉さん
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている
倭国大乱、神武東征でなにわの地は征伐されたんだというのが大阪人の共通認識だな
神功皇后、応神、仁徳天皇、住吉さん辺りは、救世主として大切に祀られている そもそも畿内などという枠組みを道出すからいけない。
桜井市が図に乗って、自分たちの天下のように思い込む。 鏡が小さいのではなく
文様が小さく不鮮明になる、だろ? 難波のあたりは大阪の陣で荒廃して
家康が伏見城下の商人を大坂に移住させたから
その時に周辺からも町民や労働者が集まったんじゃねの >>221
息長氏は琵琶湖北部
神功皇后が三韓征伐に出発したのは和泉
三韓征伐の復路は住吉明神と合流して瀬戸内海の塵輪鬼を討つ伝承が残っているな
九州の住吉さんは大恩人だな
忍熊皇子など倒されたのは大和朝廷の勢力 九州説は三角縁神獣鏡をあくまで国産とか言い張るからボロが出まくる >>225
>三韓征伐の復路は住吉明神と合流して瀬戸内海の塵輪鬼を討つ伝承が残っているな
>九州の住吉さんは大恩人だな
仲哀天皇が崩御した夜、神功皇后と住吉の神の間に密事があったと伝えられる。
ここで言う住吉の神は武内宿禰のことらしい。
そして10月10日を過ぎて産まれたのが応神天皇。
神功皇后は石を抱いて産み月を遅らせたといい、今でもその石が福岡県に残っている。
>忍熊皇子など倒されたのは大和朝廷の勢力
仲哀天皇は穴門豊浦宮にいた九州の倭王。
神功皇后は仲哀天皇と皇子を倒しして、武内宿禰と組んで筑紫倭国の王権を簒奪した。 穴門豊浦宮を出て、筑紫香椎宮に迎えられたところで崩御したんだよ。 仲哀天皇は、九州説が背いたので、鎮定のために
紀伊国徳勒津の仮宮から穴門豊浦宮に向った 仲哀を迎えたのは筑紫宗家に近い伊都高祖宮と豊国王家である筑紫岡田宮の王達だ(県主と格下げされて表現されている)。
そして仲哀天皇が崩御した後、神功皇后は肥国王家の末裔であり、邪馬台国王統の田湯津姫を倒すんだよ。
筑紫、豊国、肥国を平らげて、神功皇后が九州北部の倭国を統一した。 >>210
1mmも小さくならないが小さくなる
0.0001mmすら大きくなることはない
あ、小さいのが原型で大きくなるんだっけ?おかしいなあ >>218
論文読めないの?
鋳型の膨張率より、完成した鏡の収縮率の方が高いから作れば作るほどちいさくなる
え?そんな小学生の簡単な算数すらできない? >>223
洛陽の三角縁神獣とかまだ言うか
・銅鏡専門の考古学者は三角縁神獣鏡であることを否定
・考古学では出土状況不明のものは資料価値はない
・畿内説学者の権威がこぞって三角縁神獣鏡説を否定
まずは5chで暴れる前に学者を説得するんだな
それか博物館まで押しかけて持論を発表させろと喚いてもいいぞ 中堅から若い鏡の専門家はこぞって魏鏡説を支持
鏡の専門ではない御大たちはついて行けていない >>225
息長氏の本貫は九州やぞ。
詳しくは宝賀氏の「息長氏」を読むべし。 >>234
鋳型が再利用されたって見解なんだよ、その人。 >>235
へーどう否定されたの
フチが高いから三角縁じゃない?wwww >>234
>作れば作るほどちいさくなる
あんた、なあ・・・
踏み返しの踏み返しの踏み返しの・・・とか
せんから、そゆこと
ww 九州くんは地球平坦説とか創造論を信じてるような電波 通説である同笵鏡/同型鏡説からすると
「なにアホいうとんねん」
という珍説ですな 邪馬台国は、元々九州に合ったものが、卑弥呼の時代に畿内に移ったって説どう思うよ? >>203
>>太宰府は、独立国として行動していた<
>1026年の7年前の刀伊の入寇(1019年)を撃退したのは大宰権帥の藤原隆家
藤原純友の乱(938‐947)に追討使として九州に下向した倭漢氏の大蔵春実以来
孫種材が刀伊の入寇に活躍するなど
その子孫は大宰府の官人として九州管内の各地に勢力をのばした<
その後も、山口の西の京都の大内氏や、大友宗麟も、「都督」のような身分を名乗った話もあった筈で、
九州付近は、京都とは、違った別の「中国の都督」である事を誇る、という底流が流れていたらしい。 >>207
>コピーすればするほど文様は不鮮明になる
三角縁の原産地洛陽で見つかった鏡はかなり小ぶりだが文様は鮮明
つまり小ぶりの鏡こそコピーの原本
大きい鏡はコピーされた側<
根本的に、
洛陽発見の三角縁?の文様などは、列島の三角縁の文様などとは全く違うのだから、
列島の三角縁のコピー元にならないし、
だから、「列島の三角縁が魏鏡であったか?」という事の根拠には全くならない。 >>212
>邪馬台国畿内説っていうタイトル嫌らしいな 邪馬台国はヤマト国だろう<
邪馬台国も畿内もなかったし、「南≠東」なんだから、始めから×。
>他の畿内の人々からしたら迷惑なんだよ
大和朝廷の一員と勘違いされて、イメージが悪くなるんだな
勝手に大和朝廷の罪まで擦りつけられるのも迷惑<
大和の人にも、近畿の人にとっても、ウソつき騙しを宣伝されたら、
自分らが嘘を付いているように見られて、迷惑なんだよ。
>畿内は卑弥呼を共立した勢力に倒された側 大和朝廷に抵抗した側なんだけどな<
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、卑弥呼の倭國は九州にあったのであり、
畿内にいたかのような嘘つき騙しの宣伝をされたら、
全ての国民にとっても、迷惑なんだよ。 >>214
他の畿内の人々じゃなくて、
日本を、天地開闢以来、大和の天皇家が一元支配していた、
という事でなければならないし、そうしたい、と宣伝している、
反日反天皇家の国粋国家の戦争狂の民族主義団体の人々だろう。
いつも、「南→東」などのような嘘つき騙しや、数を水増しの詐欺をしようとする。 >>217
>大阪の人々と書いてるのではなくて、
兵庫、大阪の日本の歴史をよく知らない反日反天皇民族団体の人々<
いや、wwは、
日本を、天地開闢以来、大和の天皇家が一元支配していた、
という事でなければならないし、そうしたい、と宣伝している、
反日反天皇家の国粋国家の戦争狂の民族主義団体の、・・・・人種。 【畿内説の矛盾】
・魏志倭人伝の方角と完全に不一致。
・箸墓古墳は百襲姫の墓として宮内庁が認定。他に卑弥呼の墓に該当する墓がない。
・鉄器がない。
・畿内という場所柄外国(魏等)との貿易がしにくかった事が想定され文明の発達が遅かったと考えられる。
・畿内にあったのは大和朝廷である記述は記紀に記載済み。 >>250
>唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、卑弥呼の倭國は九州にあったのであり、
おいおい
平安京政府の派遣した藤原常嗣が
唐会要倭国伝に載ってるんだから
「正北抵新羅」に拠って
卑弥呼の倭國は畿内に都があってOK
なにも問題なし >>218
>洛陽で見つかった小さい三角縁神獣鏡の話をしてるんだけど<
だから、それは、列島の三角縁神獣鏡とは、模様も形も全く違うものだから、
列島の三角縁神獣鏡の元になった明帝の魏鏡ではない、と言っているんだよ。
おそらく、呉系の楽浪鏡師らの一人が造ったもの。
>さらに論文には鋳型は膨張して大きくなるって書いてあったろ<
その鋳型の膨張率よりも、青銅が熱せられて鋳型に入れられて、
その後で冷却され収縮した率の方がはるかに大きい、
と言っているんだよ。
>鋳型は複数回使えるからそれで作った鏡は大きくなる<
数回使った位では、冷却され収縮した寸法の方がはるかに大きい 。
>九州説に脳をやられるとこんな簡単な事すらわからなくなる<
大和説に脳をやられて、・・・・アホになると、
こんな簡単な事すらわからなくなる。 >>248
>九州付近は、京都とは、違った別の「中国の都督」である事を誇る、
>という底流が流れていたらしい。
豊後大友氏は相模国愛甲郡古庄の出で頼朝の側近中原親能の養子
少弐氏や島津氏と同じ九州に下向した東国武士
大友宗麟はキリシタン大名 >>255
はるかに大きい、はるかに大きいと
いくら夢中で連呼しても
1ミリも変わらない 畿内説を宣伝するキナイコシが、追い詰められているな。。。 >>258
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 むかぁしむかし畿内というところに卑弥呼とトヨはいませんでした。
卑弥呼とトヨは北部九州で生活をしお墓も北部九州に作りました。 >>247
そんな大移動をする余裕があるわけない。
まして、外交や通商に最適な福岡の地を捨てるわけがない。
九州北部は多くの勢力が交代したというのは、王都の支配権を巡って長年にわたりせめぎ合いが続いたというこたなんだ。 案外、卑弥呼の墓は邪馬台国に無く、中国地方や四国にあるのかもな >>226
>九州説は三角縁神獣鏡をあくまで国産とか言い張るからボロが出まくる<
大和説者は、洛陽出土の0〜1枚の、
(列島の三角縁神獣鏡とは形も大きなも模様も違う)三角縁神獣鏡を、あくまで、
魏の明帝に下賜の銅鏡100枚の一つだ、
とか言い張るからボロが出まくる。 >>236
>中堅から若い鏡の専門家はこぞって魏鏡説を支持<
ははーん、大和説の「中堅から若い鏡の専門家」とやらは、全員、
洛陽の0〜1枚の三角縁が、列島の三角縁とは、
形も大きさも模様も全く違うから、別物だ、
という事も判らなくなった、・・・・アホ人種だった、
という事か。
>鏡の専門ではない御大たちはついて行けていない<
鏡の素人である国民でも、全く附いていけない。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>240
>傷の一致も見られる鏡もあるそうだし<
何故、洛陽の類三角縁神獣鏡の、形や模様や大きさが、
列島出土の 三角縁神獣鏡全く合わないの?。
合わなかったら、列島の三角縁神獣鏡は、
明帝の下賜の銅鏡百枚にならないんじゃないの?。 あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。 >>244
大和説者は、天地開闢以来大和天皇家が全世界を支配したもうた、という説とか、
日本が全世界を創造したとか、
の論を信じてるような電波。 >>277
観光業界が宣伝のために放送している電波でもあるなw 大物主というのは九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 >>280
キナイコシが、優れた考古学者に打ちのめされた話題に、登場したのではないのかな。。。 >>247
>邪馬台国は、元々九州に合ったものが、
卑弥呼の時代に畿内に移ったって説どう思うよ?<
「邪馬台国」も「畿内」もなかったし、
「南≠東」だし、「倭國は正北抵新羅だから九州」だし、
「大和は、倭国から別れた別種の旧小国」であったから、×。 >>254
>>唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、卑弥呼の倭國は九州にあったのであり、<
>おいおい 平安京政府の派遣した藤原常嗣が 唐会要倭国伝に載ってるんだから<
おいおい、倭国伝と日本国伝とを区別して記載したした唐会要の倭国伝には、
「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」と書かれていたんだから、
薜原朝常嗣等は、「倭國の使者だ」と名乗った、という事になるんだぞ。
>「正北抵新羅」に拠って 卑弥呼の倭國は畿内に都があってOK なにも問題なし<
倭国が正北抵新羅だ、という事も、倭国は新羅のほぼ真南にある、ってことだから、
新羅の西の大和は全く×であり、
倭国は九州にある、って事だぞ。
このwwという人物は、宗教に狂った・・・・アホだ、という事で、問題なし。 >>253
>【畿内説の矛盾】
九州説よりはるかに矛盾が少ないのですが?
>・魏志倭人伝の方角と完全に不一致。
九州説は、水行陸行合わせて2ヶ月を外さないといけないんだよな?
畿内説は、方角に対する陳寿の認識の間違いくらいを指摘するだけで自然に読めるぞ
>・箸墓古墳は百襲姫の墓として宮内庁が認定。他に卑弥呼の墓に該当する墓がない。
纏向遺跡古墳群の100メートル級の纏向型前方後円墳も、もちろん候補になるよ
それらのうちで、編年研究によって年代の合うものが第一候補になる
もちろん、百襲姫=卑弥呼であれば、宮内庁の認定が正しかったことになる
>・鉄器がない。
纏向遺跡の、庄内期の範囲の纒向石塚の北東200m近辺から、鞴羽口や鉄滓等が
出土しており、鉄鍛冶遺構と考えられている
纒向遺跡メクリ地区からは、大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石も
出土しており、鉄器がなかったと考える方が不合理
>・畿内という場所柄外国(魏等)との貿易がしにくかった事が想定され文明の発達が遅かったと考えられる。
それは、>>253の「個人の感想」だろう
のちの東山道沿いには、かなり発達した弥生遺跡も見られるし、列島内の縄文以来の流通ネットワークを考えれば、内陸だから不自由ということはない
>・畿内にあったのは大和朝廷である記述は記紀に記載済み。
その大和朝廷が、そのまま邪馬台国として、三国志に書かれたってだけ
何も矛盾がない >>256
>九州付近は、京都とは、違った別の「中国の都督」である事を誇る、
という底流が流れていたらしい。<
>豊後大友氏は相模国愛甲郡古庄の出で頼朝の側近中原親能の養子
少弐氏や島津氏と同じ九州に下向した東国武士
大友宗麟はキリシタン大名 <
太宰府や大分や山口などでは、
京都からは独立した「都督の国家」だ、という意識が持てたようだ。 >>284
>その大和朝廷が、そのまま邪馬台国として、三国志に書かれたってだけ
万世一系カルト >>261
無知と、分裂幻覚妄想の宗教と、「南≠東」などの嘘とを、
団子に丸めたのが、 いまの大和説だなあ。 >>262
大和説者らは、追い詰められてウソを連呼するしかなくなったかw。 >>284
>のちの東山道沿いには、かなり発達した弥生遺跡も見られるし、列島内の縄文以来の流通ネットワークを考えれば、内陸だから不自由ということはない
内陸は沿岸部と比べて相対的に不利なことは間違いない。
畿内説が若狭や摂津ではなくあくまでも内陸の大和だとするなら、それ相応の考古学的証拠がなければいけないが、現状では圧倒的に不利だ。 >>266
>案外、卑弥呼の墓は邪馬台国に無く、中国地方や四国にあるのかもな<
魏使らは、卑弥呼の墓を実見しており、
魏使らが、卑弥呼の埋葬を追っかけて中国四国へまで行った記録がないから、×。 >>269
まったく負け組九州説の嘘つき騙しの・・・・は、
議論や論理そのものの理解も出来ないアホだから、
困ったものだな。 >>284
>>畿内説の矛盾<
>九州説よりはるかに矛盾が少ないのですが?。
九州説は、矛盾が全くのようになく、大和説は、倭国の別種の旧小国以外という事以外は、99%矛盾なんですが。
>>・魏志倭人伝の方角と完全に不一致。<
>九州説は、水行陸行合わせて2ヶ月を外さないといけないんだよな?<
萬二千余里は不彌國どほぼ終わっており、
「日数」記載は、当然「里数合計の萬二千余里には含まれない別の日数説明」であるんだよな。
>>・箸墓古墳は百襲姫の墓として宮内庁が認定。他に卑弥呼の墓に該当する墓がない。<
>纏向遺跡古墳群の100メートル級の纏向型前方後円墳も、もちろん候補になるよ<
前方後円墳自体が「冢」ではないし、百余歩は、周制では25m位だし、
何よりも、「jun葬者奴婢百餘人」がある墓がないから、×。
>それらのうちで、編年研究によって年代の合うものが第一候補になる<
前項のように全くならない。
>もちろん、百襲姫=卑弥呼であれば、宮内庁の認定が正しかったことになる<
「南≠東」であるし、書紀は神功時代にしているから、×。
>畿内説は、方角に対する陳寿の認識の間違いくらいを指摘するだけで自然に読めるぞ<
方向の決め方を知っている魏志らは「南→東」の間違いをしないから、×。 ここはニセスレ
・偽スレを立てる
・他人に成り済ます
・ウソスレを立てる
・いずれも使い切らないのに複数立てる
・自演三昧
・しばらくするとほったらかし
は、誰がどう見ても異常
それを擁護するのも異常 >>284
>>・鉄器がない。<
>纏向遺跡の、庄内期の範囲の纒向石塚の北東200m近辺から、鞴羽口や鉄滓等が
出土しており、鉄鍛冶遺構と考えられている<
魏志倭人伝に書かれた「鉄鏃」が、一個しか見つからないから、×。
>纒向遺跡メクリ地区からは、大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石も
出土しており、鉄器がなかったと考える方が不合理<
当然卑弥呼の宮殿や女王国は、鉄鏃で防御された筈であるから、
九州に比べて鉄鏃が全くのように出ない纏向は、×。
>・畿内という場所柄外国(魏等)との貿易がしにくかった事が想定され文明の発達が遅かったと考えられる。<
>のちの東山道沿いには、かなり発達した弥生遺跡も見られるし、
列島内の縄文以来の流通ネットワークを考えれば、内陸だから不自由ということはない<
半島の鉄を、倭も貨幣代わりに使っている筈であるから、
東方の倭種から鉄製品が出なければ、倭国の中心ではない。
>その大和朝廷が、そのまま邪馬台国として、三国志に書かれたってだけ 何も矛盾がない<
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」に一国であり、
倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国であるから、×。 >>294
>当然卑弥呼の宮殿や女王国は、鉄鏃で防御された筈であるから、
鉄鏃で防御せんだろ普通 >>296
>>当然卑弥呼の宮殿や女王国は、鉄鏃で防御された筈であるから、<
>鉄鏃で防御せんだろ普通<
半島から手に入れており、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」だから「兵=武器=弓や矛」を持っており、
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與」だから、
壹與も当然、鉄鏃の弓で守られる。 ここはニセスレ
・偽スレを立てる
・他人に成り済ます
・ウソスレを立てる
・いずれも使い切らないのに複数立てる
・自演三昧
・しばらくするとほったらかし
は、誰がどう見ても異常
それを擁護するのも異常 九州 畿内
萬二千餘里 ○ ○ 解釈次第でどうとでも
水行三十日陸行一月 ○ × 水行や陸行○日の距離と合わない、 熊本なら合致
兵用矛〜鐡鏃或骨鏃 ○ × 記載されている兵器の出土数
倭地温暖 ○ ○ 気温の比較 あちらの都よりは温暖
有棺無槨 ○ × 甕棺の出土
父母兄弟卧息異處 ○ × 父母兄弟が別々の家に住むという住居形態
出真珠青玉 ○ × 真珠、翡翠の出土数
其山有丹 ○ ○ 硫化水銀の産地 縄文時代から関東以外全域で水銀朱有り
女王國以北特置一大率 ○ × 伊都国が北にあるかどうか
倭國亂相攻伐歴年 ○ × 戦死者の墓の出土数
其南有狗奴國 ○ × 南に狗奴國が存在する可能性
東渡海〜復有國皆倭種 ○ △ 女王国の東に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ × 周旋可五千餘里に収まるか
銅鏡百枚 ○ × 3世紀と言える三角縁神獣鏡は皆無
倭錦 ○ △ 絹の出土数
白珠 青大句珠 ○ × 勾玉の出土数
五尺刀 △ × 刀の出土数 確実ではない
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い >>296
城の中から矢を射るんだよ。
城の守りでは定石。 >>260
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>297
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! 戦争していた倭国は九州だよね?
畿内は関係ないよね? >>299
これは
九州説やってる人が
いかに考古学を知らないか
という表にちがいない 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 二世紀末とか三世紀とか
九州のどこかで戦争してたって話は
とくに聞かないな 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて無知を晒すだけになってきているな。。。 そういえば、古事記や日本書紀に景行天皇の戦争の記録があったな。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>314
倭人伝に「倭國亂 相攻伐歷年」とあるじゃないか。
>>307
>戦争がないなら鉄鏃も出土しないよ
つまり鉄鏃が出土しない場所は倭国に含まれてないなかったてことですね。 >>318
>>戦争がないなら鉄鏃も出土しないよ
>
>つまり鉄鏃が出土しない場所は倭国に含まれてないなかったてことですね。
同意します。
倭人たちは矛や弓矢で武装して長年にわたり戦いを続けていた。
鉄鏃がなく、建物としても丸裸の纒向遺跡は、邪馬台国とは関係ありません。 ここの九州説の人たちはどうして九州説スレに書き込みしないの? >>321
人がいないから
間違ったことを書いて悦に入るために来ている 畿内説を宣伝するキナイコシが、無知を晒し続けているな、 >>321
それなら正しい説を九州説スレにまとめておいてください
人によって言うことがバラバラでどれが正しい九州説なのかわかりません >>241
何がおかしいのか知らんがその通り
洛陽で売られていた斜縁鏡が大型化したものが日本で出てきても、斜縁神獣鏡という名前になるからまあがんばれ また畿内説が論破されたのか
いつも負けてんなこいつら 3世紀の大和なんて田舎だから。
ヤマトは君の心の中に つぶやき荒らしと、連続句読点と、キナイコシ連呼と、コミュ障フィリアの人は、
同じ人なの? そんな中味のない悪口しか言えないってことは
「九州説は負けました」
って告白してるのと
同じことだよ >>333
そんな中味のない悪口しか言えないってことは、
「大和説は負けました」 って告白してるのと、
同じことだよ。 >>327
モノが出ちまったんだからしょうがないだろ
洛陽で発見の鏡は乳突起や文様などから
三角縁神獣鏡の第二期のものと大きな逸脱はない
そこは認める所なんじゃないの九州説は 畿内説
邪馬台国=大和国と地名が一致
三角縁神獣鏡が多数発見
九州にない規模の前方後円墳
九州説
短里wで魏志倭人伝を読み替える >>334
>十中八九そだな
この人と、ザラコクの二人くらいだよね、本格的にオカシイのはw
あとは、お鏡さんかな
お鏡さんと連続句読点の人は、同じでいいのかな?
八咫バカで伊都クズなところや共通だけど >>340
キウスの暴れっぷりも相当なもんだぞ
最近来てないようだが、ついにお迎えが来たのかな? 嫌いなんじゃなくて説明できないんだよ
根拠を積み上げる論理的な思考で得られた考えじゃなく
上っ面だけの情報を自分に都合よくかき集めただけだから >>341
いるんじゃない?
尻馬人間だから判りにくいけど
思い込みが強いのがお鏡はんで
やや馬鹿度が高いのがキウスかな まったく九州説は薄気味悪いよ
明らかにポジショントークしかしないし お鏡さんが「自分は畿内説」と自称しながら、
畿内説をディスる以外の書き込みをしないのもなんとかならんかね、とは思うけどね
結局、2,3人なんだよね、九州説関連で大量書き込みはあるけれど
そこまで頭はおかしくないけれど、しつこいのがその他に2人くらいかな まあ畿内説にも実はトンデモがいる
ニュー速+をはじめ邪馬台国関連のスレがたつと湧いてきてしつこくコピペしてるやつ
>>22とか>>212がそのトンデモの典型 >>349
彼は確実に九州説だろ
島巡り説と短里説明の支持者だもん >>353
>自分だけマトモなつもり?
こういうのも九州説はよくやるけど、逆質問に逃げるのと、オウム返しの変形であって、
まともに論じる能力のない人間のやり口の典型なんだよなww
どっちもどっち論法は、負け確側の負け惜しみのための精神勝利法w >>337
認めるもクソも畿内説の学者先生が違うと言ってるうえに、露店で売られてたものなんか石ころ並の価値って言ってるだろ
だから専門家は誰一人騒がない
考古学的価値ゼロのものに騒ぐことはない >>337
>洛陽で発見の鏡は乳突起や文様などから
三角縁神獣鏡の第二期のものと大きな逸脱はない
そこは認める所なんじゃないの九州説は<
何だいそれは?。
乳突起や文様などが大きな逸脱はない、という事は、
斜縁だけではなく、乳突起や文様なども逸脱がある、という事であり、
また、第一期や第三期以降のものともかなりの逸脱がある、という事であり、
洛陽のものと、列島の三角縁神獣鏡とは、同じものはない、
という事ではないか。
という事は、洛陽の鏡は、列島の三角縁神獣鏡と同じものではなく、
だから、やっぱり、列島の三角縁神獣鏡は、
明帝から卑弥呼への下賜の銅鏡100枚へではない、という事だな。 >>349
お前も超大量書き込みの1人だろ
数えてないけど邪馬台国関連スレの半分以上でレスしまくってるだろ 一部で有名なコピペ
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる
「つ誤審だからオレの勝ちだ」←は?
九州説はこんなのばっか >>357に、お前呼ばわりされる筋合いはないなぁww 畿内説がリードしてること
年代不確定の遺跡に年代不確定の前方後円墳があることと謎の仮面と桃の種と土器が出ること
全て魏志倭人伝に記載一切なし! >>339
>畿内説 邪馬台国=大和国と地名が一致<
邪馬台国なんて存在せず、邪馬壹國も邪馬臺國も大和とは読めない。
>三角縁神獣鏡が多数発見 <
洛陽から出土しなかったから、根拠にならなかった。
>九州にない規模の前方後円墳<
大和の前方後円墳は、那珂八幡などの伝来模倣であり、3世紀末以後。
>九州説 短里wで魏志倭人伝を読み替える<
魏志の記載は、ほぼ全て短里であった。 >>359
必死になって1日中ほぼ全部の邪馬台国スレでレスしまくってるの?
1日何レスぐらいしてる? >>343
大和説者という人種は、
「南→東」などのような都合の悪い史料事実の否定曲解の嘘つき騙しと、
頭と性格や顔の悪さと、
説明嫌いも共通だ。 >>344
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らは、
説明も嫌いなんだし、「嘘を付いている」から説明もできないんだよ。
根拠を積み上げる論理的な思考で得られた考えじゃなく、
都合の良い情報の上っ面だけの情報を、自分に都合よくかき集めただけだから。 >>367
わかったわかった
博物館言って発表してこい
露店で売られてたのは斜縁神獣鏡ではなく三角縁神獣鏡で日本の三角縁神獣鏡の元となった鏡だってな
顔真っ赤にして帰ることになるだろうな >>345
大和説者には、
人種差別的殺人狂の国粋皇国史観のヘイトスピーチ専門の・・・・アホがいるんじゃない?。
尻馬人間ばかりだから判りにくいけど、
思い込みが強いのがssnで
・・・・アホ度や馬鹿度がややや高いのがややwwかな?。 >>346
大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しだから、
理由を聞かれるとキレるのも共通項。 >>368
必死やねえ
九州説にとってそんなに都合が悪いのか
洛陽発見の三角縁神獣鏡は >>347
まったく大和説者は薄気味悪いよ。
明らかに、嘘つき騙しや、ポジショントークしかしないし。 >>356
卑弥呼が貰った鏡100枚のうちの1枚とは誰も言ってないよ >>348
大和説者には、尻馬人間や、思い込みが強い奴や、馬鹿度が高いのが、
いるのかねえ?。
だとしたら、「国民の3割」の、騙された人々が、お気の毒。 >>249
大和説者が、「自分は畿内説」という騙しを自称しながら、
大和説をディスる事になる事以外の書き込みをしないのもなんとかならんかね、
とは思うけどね。
結局、2〜3人なんだよね、大和説者で大量書き込みはあるけれど。
また、そこまで頭はおかしくないけれど、しつこいのがその他に2人くらいかな。 >>350
「南→東」の嘘つき騙しの大和説、あれは世に憚かるよ。
阿弥陀も来ない。 九州説も三角縁神獣鏡は国産品って立場なんだから
洛陽で見つかったのも国産のものが渡っただけってふんぞり返ってればいいのに
やっきになって否定するのは悪手だな >>352
島巡り説と短里説の支持者だもん。
彼は確実に、史料事実からの帰納的推論の、立派な九州説者だろ。 >>354
こういうのも大和説者はよくやるけど、
逆質問に逃げるのと、オウム返しの変形であって、
まともに論じる能力のない人間のやり口の典型なんだよなww。
また、どっちもどっち論法は、
負け確定側の負け惜しみのための、口先騙しの詐欺であり、詐欺勝利法w。 >>958
一部で有名なコピペ
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる
「つ誤審だからオレの勝ちだ」←は?
大和説はこんなのばっか。 >>371
おう、がんばって三角縁神獣鏡だと騒いで恥さらしてええんやで >>371
必死やねえ。
大和説にとってそんなに都合が悪いのか?。
洛陽発見の三角縁神獣鏡?と、列島の三角縁神獣鏡とで、
形状や大きさや模様で、全く一致するものが、全くない、という事が。 >>382
別に全然都合悪くないね
魏から倭に配られなかった時期のものらしいし
まだ国内で発掘されてないだけなのかも知れない というか三角縁神獣鏡を口から出任せで攻撃するしかないんか九州説は >>377
>九州説も三角縁神獣鏡は国産品って立場なんだから
洛陽で見つかったのも国産のものが渡っただけってふんぞり返ってればいいのに
やっきになって否定するのは悪手だな<
「国産のものが渡っただけだ」なんて言わないよ。
洛陽の人に、知らん粗悪な鏡を持って行っても、売れもしないから。
有り得るとすれば、楽浪からの戦利品が、洛陽に持ち込まれたのではないか?、
ってことだけ。 九州説にとって三角縁神獣鏡はどこ制の何の鏡なんだ
国産といったり楽浪産といったり
見解は統一してくれんか >>383
確実に恥を晒したのは
日本で出た三角縁がひそかに輸出されたノダーと
真顔で言ってた九州説じいさん
偽造だって本だした安物さんもかな >>384
>別に全然都合悪くないね
魏から倭に配られなかった時期のものらしいし<
何だ?、それなら、明帝の下賜の銅鏡百枚と同じものではない、
という事を認めるんかい?。
そりゃ結構な事だ。
>まだ国内で発掘されてないだけなのかも知れない <
もう列島で500枚以上見つかっている三角縁神獣鏡の中には、
まだ明帝の下賜の銅鏡百枚の内の一枚も見つからなかった、
って事?。
そりゃ、結構な事だ。 >>385
というか、とうとう、
列島出土の三角縁神獣鏡を、口から出任せで攻撃するしかないんかい?、
大和説者は?。 >>389
三角縁神獣鏡は多様性がある鏡らしいから別にどうとでも
あと倭から魏には4回ほど遣いが送られてるし鏡の国内コピーもある
500枚見つかってても不思議でなないな >>387
>九州説にとって三角縁神獣鏡はどこ制の何の鏡なんだ 国産といったり楽浪産といったり
見解は統一してくれんか<
もう何度も言っているよ。
呉系楽浪鏡師の一群が、魏の楽浪攻撃から逃げて、筑紫にやって来て、
その中の一部が、筑紫でまず三角縁神獣鏡を造ったが、
明帝→卑弥呼の銅鏡百枚を知って、筑紫では商売にならない、と考え、
列島各地の豪族からの依頼製作に切り替え、
大和が鏡作り神社を造ったので、そこで子弟に造り方を教育し、
子弟らが、大量の粗悪な副葬用の三角縁を造った。 >>388
九州説にとって本当に三角縁神獣鏡は邪魔なんだな
景初三年と魏の年号が入ってるし畿内で多数見つかるし
おまけに洛陽からも出てくるし >>388
確実に恥を晒したのは、
列島の三角縁は、明帝→卑弥呼への下賜の「銅鏡百枚」だ、
と主張した、大和説学者や、学会教育界や、右翼マスコミや、
安部自民公明政府の文科省。 三角縁を粗悪品とかぬかしてるボケは現物を見たことないんだろうな >>393
三角縁神獣鏡の材質の銅は日本国内製のものとは違い
当時の中国魏晋時代のもの
銅出徐州とも彫ってある >>396
それで平気で、魏帝から貰ったのは
双頭龍文鏡だとか言うからなあ >>390
>得をしたのは畿内説の特鋳説明<
魏が、敵対する呉地域で盛行した三角縁や神獣鏡の鏡を特鋳する必要がないし、
「尚方作」と書かれた21枚の方格規矩鏡が存在するのに、
「特鋳」もする必要がない。 >>399
>魏が、敵対する呉地域で盛行した三角縁や神獣鏡の鏡を特鋳する必要がないし、
ザラコクは三角縁が中国にあると認めてるwww 70年代までにはよくいた、革新系進歩幻想に未だにしがみついているな >>392
>三角縁神獣鏡は多様性がある鏡らしいから別にどうとでも<
列島で多様性があったのに、
洛陽からは同じ模様や形状や大きさのものが出なくっちゃ、
そりゃ、その鏡は、明帝→卑弥呼の鏡ではないわ。
>あと倭から魏には4回ほど遣いが送られてるし<
銅鏡百枚を貰った、という記録があるのは、一回目だけ。
>鏡の国内コピーもある 500枚見つかってても不思議でなないな <
同笵鏡のコピーで、大和から始まったものはなかったし。 三角の多様性はモデルとなった鏡が多様であったことによる
それだけ多様な鏡を参照できる場所って、冷静に考えればすぐ分かる 骨董市の一枚でから騒ぎ
学者なら恥ずかしくてマネできないだろうな >>411
学者なら、情報を収集し、可能ならば現物を確認する
実際、そのように動いた学者がいる >>406
洛陽から見つかったのは今のところ1枚きりだから比較しようがないし
下賜された鏡でなければ何なのか
サンプルで1枚作ってどっか気に食わないとこがあったからあげなかったのかも知れない >>399
呉は魏に神獣鏡を献上してるんだよ
それち、呉地域で盛行した神獣鏡は見た目からして全然違う
「尚方作」なんてパチモンは腐るほどあるし、平原の鏡はほとんど国産で確定 幼稚園児のような粘着癖で通用するのは匿名掲示板だけ
助かったな畿内説 >>417
妄想と現実の区別がつかなくなってますね?
心療内科を受診することをおすすめします
ご家族や周囲の方々のためにも 死んでいることに気づかないのはゾンビだからかも
畿内説オブザデッド >>411
あらゆる証拠を見なかった事にして
洛陽で見つかった鏡は三角縁神獣鏡じゃないと九州説が騒いでるんだが
黙ってれば恥をかかずに済むものを まあ結論言っちゃうと
畿内説は、三角縁が国産でも全く困らない
だから余裕
九州説の、三角縁が魏鏡だと即死する
だから必死
匿名掲示板だからといって嘘が許されるわけじゃないのにね まだ骨董市にすがってるやつもいるんだな
おどろいた >>423
伊都クズ説は死ぬ以前に生まれてすらいないぞ 九州説のできる事はひとつ
一言だけ捨てゼリフを吐いて逃げる >>421
「幼稚園児のような粘着癖」って
具体的には何のこと?
中身がないと、ただの誹謗中傷になりまつ 三角縁国産説
→中国で出ないじゃないか!で思考停止
三角縁魏鏡説
→詳細な観察により中国鏡との共通点を積み上げる
この30〜40年ですごい差がついてしまった >>426
九州説の50%は嘘で出来ています
残りの50%は素人ならではの誤解です そもそも洛陽の三角縁は発見者も発見場所もわかっている
日本から実見にいった研究者が
鏡の所有者に発見場所に案内しましょうかと言われたが
悪天候のため断ったそうだけど 金関先生の発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。
その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるか。
繋がります。和邇氏はトヨから始まります。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
邪馬台国の都はヒメ踏鞴やトヨ津が住んだ葛城、奈良県御所市。
神武東征紀とは、実際には女王国であった史実を隠ぺいするための大袈裟な記述であった事が分かります。 >>438
そっちこそ資料的価値の意味がわかっていないようだな
骨董市ダンスマン 九州説はあれだな
ゴリ押しするにしろ調べ方が甘すぎる >>436
中国のは捏造品だらけなのに
日本人の学者は最初に愛想よくしちゃって引っ込みつかなくなるから
忖度しなきゃいけない空気に追い込まれるんだよ >>433
むちゃくちゃやね
いまどき魏鏡説を真顔でいってるやつなんて畿内説にもいないぞ 捏造品っつても最近のもんなら専門家が見ればすぐにわかるさ 石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 菅文は昔から国産説なんで今さら貼られてもなんだかな〜て感じ あちこちで堰を切ったように書き込み再開www
独りで多投・連投してるのバレバレだなぁ >>445
三角縁神獣鏡の他に一致する文様のない模造品を
わざわざこしらえる価値なんてあるのだろうか 車崎正彦とか岡村秀典とか岸本直文とかマジで知らないんだろうか >>456
新しい見解で三角縁神獣鏡は国産だと言ってる人と言質は? >>394
>九州説にとって本当に三角縁神獣鏡は邪魔なんだな
景初三年と魏の年号が入ってるし<
明帝が亡くなったのは、景初三年元旦であり、
銅鏡百枚の詔書を書いたのは、景初二年12月なんだから、
景初三年鏡は、明帝→卑弥呼の鏡ではない。
>畿内で多数見つかるし<
大和や纏向から出ていないから、×。
>おまけに洛陽からも出てくるし<
洛陽の0〜1枚の鏡と同じ形や模様や大きさの鏡は、
列島の500枚以上の三角縁神獣鏡には存在しない。 >>396
>三角縁を粗悪品とかぬかしてるボケは現物を見たことないんだろうな<
写真では、大和から出た副葬用の三角縁は、粗悪だったな。 >>397
>三角縁神獣鏡の材質の銅は日本国内製のものとは違い 当時の中国魏晋時代のもの
銅出徐州とも彫ってある<
材料銅には、
呉系楽浪鏡師の持参の手持ち銅と、
以前に中国から齎された鏡の再溶融銅や、
征服した毛人や出雲系銅鐸や銅剣の再溶融銅もあったから。 >>398
>それで平気で、魏帝から貰ったのは 双頭龍文鏡だとか言うからなあ<
九州説は、明帝の下賜の銅鏡百枚は、
内行花文鏡や方格規矩鏡が中心であり、
その他のタイプの鏡は少数だった、
という説だよ。 >>400
>神獣鏡が呉の鏡とかどんだけ情弱なんだか<
神獣鏡が魏の鏡だ、とか言っているヤツは、
どんだけ情弱な頭や精神なんだか。 >>401
>あんた、政治思想で歪みすぎ<
当然、「南→東」などの史料事実の否定曲解までして、大和説を叫ぶ人種の精神構造は、
「大和天皇家一元列島支配」宗教的政治思想にクルっているからであり、
wwやssnや「川崎や伊達」投稿子や「直ぐに言え」投稿子などのような、
人種差別的なヘイトスピーチをする・・・・大和説者も沢山いて、
結局、大和説者や大和説学者らの殆どは、
安部自民政府や右翼マスコミやらキョクウの学会教育界の、
皇国史観的国家国粋戦争狂に狂った憲法違反人種であるようだ、
という事になるから。 >>402
>>魏が、敵対する呉地域で盛行した三角縁や神獣鏡の鏡を特鋳する必要がないし、<
>ザラコクは三角縁が中国にあると認めてるwww<
この男は、三角縁や神獣鏡が、呉付近で盛行した、
という事を知らんアホであったらしい。 >>478
おい、半分は畿内説スレ荒らしに来てる九州説だぞ >>404
>70年代までにはよくいた、革新系進歩幻想に未だにしがみついているな<
大和説者は、戦前までにはよくいた八紘一宇の皇国史観宗教の、
憲法違反の殺戮支配戦争狂の幻想に、
未だにしがみついている・・・・殺人狂アホなんだな。 発見された三角縁神獣鏡のうち
倭人伝に記された鏡とそうでない鏡と区分はできているのだろうか? >>414
>洛陽から見つかったのは今のところ1枚きりだから比較しようがないし
下賜された鏡でなければ何なのか <
その他大勢の鏡の一つ。
>サンプルで1枚作ってどっか気に食わないとこがあったからあげなかったのかも知れない<
呉系の楽浪鏡師の造ったものが流れ込んで来た、という可能性が高い。 >>415
>呉は魏に神獣鏡を献上してるんだよ <
呉と魏は敵対したから、献上しないし、
献上されたんなら、魏からも沢山見つかっている筈。
>それち、呉地域で盛行した神獣鏡は見た目からして全然違う <
製作者が違うから。
>「尚方作」なんてパチモンは腐るほどあるし、<
「尚方作」のパチモン鏡を造ってバレれば、首が危ない。
>平原の鏡はほとんど国産で確定<
21枚もの「尚方作」方格規矩鏡があったんなら、
それは、明帝の銅鏡百枚が元になったものしか有り得ない。 >>419
>鏡を貰わなかったという記録もない<
陳寿は、献上品や下賜品があった場合には、
きちんと律義に記載しているようである。 >>422
大和説者は、妄想と現実の区別がつかなくなってますね?。
事件や事故を起こす前に、
心療内科を受診するか警察に自首されることをおすすめします。
ご家族や周囲の方々のためにも。 >>424
あらゆる証拠を見なかった事にして、
洛陽で見つかった鏡は、明帝→卑弥呼の下賜の三角縁神獣鏡賜だ、
と大和説者が騒いでるんだが。
黙ってれば恥をかかずに済むものを。 >>425
まあ結論言っちゃうと、
九州説は、三角縁が国産でも呉鏡でも全く困らない。
だから余裕 。
大和説の、三角縁が魏鏡ではないと即死する。
だから必死。 >>485
>「尚方作」のパチモン鏡を造ってバレれば、首が危ない。
いや、それ・・・あんたの妄想だから >>431
大和説者にできる事はひとつ。
一言だけ捨てゼリフを吐いて、逃げる。 >>464
岡村以外は知らないねw
で、今のところ魏鏡説は有力なんですかね?w >>433
三角縁国産説
→呉系じゃないか!で、確定。
三角縁魏鏡説
→詳細な観察により、列島の三角縁とは合わない、で確定。 >>472
俺が教えてあげたんだろそれ
斜縁と三角縁の違いも知らず大騒ぎ
変種というのは語弊があるけどな >>496
誇大妄想狂か自意識過剰ナルシーだな
誰でも知ってる常識なのに
みっともないぞ >>303
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>504
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 >>505
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>506
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 >>511
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 >>434
大和説の99%は「南→東」などの嘘つき騙しで出来ています。
残りの1%位は、素人ならではの、
国家権力や学会教育界信仰や、右翼マスコミの宣伝を妄信した誤解です。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>513
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 >>435
「畿内」という存在しないものを煽り、
「南→東」などのような嘘つき騙しをする奴が、
本当の人間の葛。 >>436
>そもそも洛陽の三角縁は発見者も発見場所もわかっている
日本から実見にいった研究者が
鏡の所有者に発見場所に案内しましょうかと言われたが
悪天候のため断ったそうだけど <
本当に実見したければ、天候の回復を待って、見に行けばよい。
それをしなかったんなら、その研究者は、おそらく、
日本で見た三角縁神獣鏡とは同じものではない、と知っていて、
見ても無駄だ、と知っていたから。 >>519
三角縁神獣鏡のことで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>439
卑弥呼もトヨも、「南≠東」などによって、大和にはいなかったから、×。 >>441
>須玖岡本のキホー鏡と同じだよ<
公的機関が確認せず、民間人が発見したからと言って、
その史料の存在を100%抹殺してしまう事は、詐欺。
金印も同じ。
古田さんらなら、キホー鏡も洛陽出土鏡も、100%否定抹殺する事などせず、
それを含めた推論をされる。 >>442
大和説はあれだな。
「南→東」などの嘘つき騙しのゴリ押しするにしろ、
調べ方が甘すぎる。 >>443
大和説者は、
「南→東」などのように、情弱がデフォなだけではなく、
脳がクルっている・・・・アホだからな。 >>444
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らは、
国民もびっくりのザルな調査や思考をするなあ。 >>451
>九州説の印象操作が始まった<
大和説者らの、
都合が悪い事を言った石野博信や、森浩一や、白石太一郎や、菅谷文則や、原口正三らへの、
ヘイトスピーチ的な否定抹殺の、
印象操作が始まった。 >>459
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
あちこちで堰を切ったように書き込み再開www。
独りで多投・連投してるのバレバレだなぁ。。 >>464
>車崎正彦とか岡村秀典とか岸本直文とかマジで知らないんだろうか<
時々、「南→東」などの嘘つき騙しで大和説を宣伝している・・・・のようである、
という事は、見ていた。 >>472
>三角縁が斜縁の変種だって知らないの?<
呉付近では、斜縁の方が先に出来ていた、という話は読んでいるが。 >>531
呉付近ってナニその誤魔化し
魏の南部って正直に言えよ >>516
あのお粗末な掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 >>500
物知りの500さんよ、
で、魏鏡説は学界では有力なんですかね? 畿内説の中では多数派なんですか?
(「学界では」も「畿内説の中では」もほぼ同義だろうけど)
そのへんどうなのよ? >>534
人気投票しても仕方ないが、国産説は少ない >>532
>(三角縁や神獣鏡)呉付近ってナニその誤魔化し 魏の南部って正直に言えよ<
嘘を付いて、世間の人々を騙すなよ。
呉は、魏と敵対していたんだから、
「魏の南方」であって、
「魏の南部」にはならないよ。 三角縁神獣鏡をはじめとする魏の年号入りの鏡を国産で大量に作った事実があったとして、
全て偽物(卑弥呼が魏から拝領した鏡ではない)だとした場合、その意味や目的は一体
何だったと推定されるであろうか?
「魏鏡を偽装している+朝貢時期に合わせている=卑弥呼が魏から下賜された鏡であることを
主張している」
以外には考えられないだろう。
なぜそのような卑弥呼の鏡をイメージした「本物の魏鏡ではない贋造鏡」が、大和の地を中心に、
関東圏まで覆うほどに広範囲に古墳時代以降に陵墓から発見されるのであろうか?呉あたりから
鏡職人を連れては来たかもしれないが、国内で勝手にデザインして大量に鋳造、朝貢年を記念し、
魏の支援ストーリーを偲ばせる鏡を提携先の地方豪族に配布し、しかも均質な墓制まで普及させた。そんなことができた強力な政治勢力がどんな連中かが透視できる。
「邪馬台国に関連した勢力が、近畿を中心とした支配圏を確立するのに魏鏡の模造品が必要であり、
かなりの期間にわたって効果的であった。」
つまり、古墳時代をけん引した初期大和政権は元祖邪馬台国と関係が深い、いや同一であることになる。 >>425の
「まあ結論言っちゃうと
畿内説は、三角縁が国産でも全く困らない
だから余裕 」
ってのはこういうこと(>>538) >>538
それは九州勢力が畿内を統一した後の話だからね >>540
しっ。
面白いから泳がせておいて、観察するのが良いのではないのかな。。。 つまり九州から来た神武に統一された大和地方で、魏から認められたという正統性を示すために魏の年号を入れた国産鏡を4世紀以降に配下に配ったということ なるほどな、キナイコシは、謎の三角縁神獣鏡を、卑弥呼が貰った鏡だと偽って、作らせた国家こそ、倭国だと思っているのではないのかな。。。 >>544
真実は、倭国とは別の日本国が、倭国の女王卑弥呼が本物の魏の鏡を配るのに対抗して、作らせたのが三角縁神獣鏡だったのだな。。。 >>545
倭国と日本国は別の国家だと発表した、優れた考古学者の考えだと、そういうことになるな。。。 >>538
>三角縁神獣鏡をはじめとする魏の年号入りの鏡を国産で大量に作った事実があったとして、
全て偽物(卑弥呼が魏から拝領した鏡ではない)だとした場合、
その意味や目的は一体何だったと推定されるであろうか?
「魏鏡を偽装している+朝貢時期に合わせている=卑弥呼が魏から下賜された鏡であることを
主張している」 以外には考えられないだろう。<
「全て偽物」などという事が、そもそも有り得ない。
始めは「呉の年号入りの鏡」を造っており、
卑弥呼の遣使の時(景初二年)の公孫氏討伐戦の年の年号鏡は見つからず、
公孫氏討伐終了後の景初三年鏡から、列島で出土している。
だから、呉系楽浪鏡師らが列島へ逃避して来て、
列島で魏に服従した事を示すためにいろんなために魏年号の鏡を製作した事のが、
可能性が高い事になる。
>なぜそのような卑弥呼の鏡をイメージした「本物の魏鏡ではない贋造鏡」が、大和の地を中心に、<
紀年鏡は、大和から出土していない。倭國の「東征毛人五十五國」の範囲や、出雲や越の地域だ。
>関東圏まで覆うほどに広範囲に古墳時代以降に陵墓から発見されるのであろうか?呉あたりから
鏡職人を連れては来たかもしれないが、国内で勝手にデザインして大量に鋳造、朝貢年を記念し、
魏の支援ストーリーを偲ばせる鏡を提携先の地方豪族に配布し、しかも均質な墓制まで普及させた。そんなことができた強力な政治勢力がどんな連中かが透視できる。
「邪馬台国に関連した勢力が、近畿を中心とした支配圏を確立するのに魏鏡の模造品が必要であり、
かなりの期間にわたって効果的であった。」<
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国だ。
>つまり、古墳時代をけん引した初期大和政権は元祖邪馬台国と関係が深い、いや同一であることになる。<
つまり、お前も「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師だ。 三角縁神獣鏡と八咫の鏡は、関係あるのだろうか、、、 >>549
九州から軍勢を率いて、神武天皇が畿内を制圧した時ではないのかな。。。 >>539
>「まあ結論言っちゃうと 畿内説は、三角縁が国産でも全く困らない だから余裕 」
ってのはこういうこと<
畿内なんて存在しないし、
九州倭国から別れた別種の旧小国の大和からは、
4世紀以後にしか三角縁神獣鏡は出土しない。
まあ、これが、この男のインチキであり、
詐欺している証拠。 >>541
>それは九州勢力が畿内を統一した後の話だからね
神武の実在を認める場合でも、邪馬台国時代よりもずっと前
100年単位の昔になる
そして、時代が重なる土器編年でいう庄内期〜布留式土器の時代には
北部九州最大勢力の奴国が、九州における畿内様式甕の生産地となるなど
九州側が畿内勢力の出先・協力者の地位にいることが分かる
卑弥呼の遣使から、古墳時代まで100年くらい時間があれば、
東遷説でもよかったんだけどねぇ >>550
大物主が、神武天皇の子孫の霊園管理者になったころだな、、 追い詰められたキナイコシが、倭国と日本国が同時に存在していたことを、隠そうとしているな。。。 >>554
キナイコシが東遷とかいう謎の理論を持ち出して、胡麻化そうとしているねw 神武天皇は倭国の都を移したわけではないのにね。。。 >>556
倭国出身の神武天皇が、畿内に新しい国家を作っただけなのにな。。。 しかし、なぜ、日本書紀にも古事記にも、倭国のことが執筆されなかったのだろうか。。。 >>558
神武天皇の軍勢は、九州を追い出された存在だったのではないのかな。。。 >>559
倭国の本当の天皇が、神武天皇の軍勢を邪魔者扱いしたのかもしれないな。。。 >>552
>神武の実在を認める場合でも、邪馬台国時代よりもずっと前
>100年単位の昔になる
根拠なし。
神武の実年代は卑弥呼と同時期だと思う。
>九州側が畿内勢力の出先・協力者の地位にいることが分かる
主観的な判断で、無意味。 >>562
>神武の実年代は卑弥呼と同時期だと思う。
実在を認めているわけではないのだが?
>主観的な判断で、無意味。
畿内で九州様式甕を作らず、九州で畿内様式甕を作っている
それは事実だよ
それをどう判断してくれるのかな? >>562の客観的見解では? >>538氏のいってることが学界の大勢じゃないの?
>>536氏はなにを根拠に「国産説は少ない」といってるのかねぇ… 勝手ながら私の仮説
〇倭国大乱により、倭国の約100か国が約30か国に減る。
〇環瀬戸内勢力が戦乱の収束のため、シャーマンの元に共存を図ることとし、同勢力の日の出の方向で神地伊勢と線で結ばれる巻向に
卑弥呼(日の巫女の当て字)を立てる。
*この時期、環瀬戸内勢力郡が交流・交易関係に転じていること、巻向が突然建設されたこと、西日本各地の土器などが出ること、
建物群が伊勢を向いていることと符合する。卑弥呼が魏と外交交渉していることから見てもこの程度の政治合意ができる程度に
倭国社会は成熟していたと思われる(証拠はないが)。
〇卑弥呼、台与の後、邪馬台国(台与の台を「と」と呼ぶのなら、邪馬台国は「やまと国」と呼べる。)が混乱し、その後、邪馬台国構成勢力
で最大、最強であった九州勢力の長が、吉備を抑えた後、機内に乗り込み、王権を奪取し、初期大和王朝を打ち立てる。
*同経緯は、吉備での滞在や機内の抵抗勢力の排除など、日本書紀、古事記の内容と符合する。大和王朝はアマテラスなどからの
神授の王権であるとするため、それ以前に王統が存在していたことは伝承しない。これが卑弥呼や台与が記記に
出てこない理由。
〇卑弥呼が巻向にいても、鉄器の生産など当時の経済社会の中心は九州であるため、九州説は間違いとはいえない。
現在でも掲載社会の中心と政府機関の所在地が異なるのは米国など多く存在する。
〇伝承にしても、そもそも初代神武天皇が「即位」したというのには、それ以前に全く王位のなかった国としては違和感がある。
エジプトのファラオや、ローマ帝国皇帝位のように、いったん形成された権威の称号が形成されれば、権力基盤がとって変わっても
同称号を使うことは歴史上度々ある。その意味で邪馬台国は大和王朝形成の前提となっていると思われる。 >>552
>神武の実在を認める場合でも、邪馬台国時代よりもずっと前 100年単位の昔になる<
「邪馬台国」なんて存在しない。
また、二中歴に拠って、神武即位元年は紀元前91年頃になるから、300年位前になる。
>そして、時代が重なる土器編年でいう庄内期〜布留式土器の時代には<
重ならない。
柳田に拠って、列島での庄内は三雲が一番古かったから、
弥生銀座や瀬戸内近畿も、三雲から伝播模倣した事になり、
瀬戸内近畿と弥生銀座とが、類似の庄内を造った、という事になる。、
>北部九州最大勢力の奴国が、九州における畿内様式甕の生産地となるなど <
また、米田に拠って、布留は近畿よりも南加賀が古い事になるが、
弥生銀座と南加賀の先後は不明であるから、
近畿の布留が弥生銀座へ伝播模倣された、という事もならない。
>九州側が畿内勢力の出先・協力者の地位にいることが分かる<
大和は、九州倭國から別れた別種の旧小国であり、
近畿も、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一地域であった、
という事であるから、近畿側が九州倭国の東征の出先の地位になるから、
この男は、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 >>564
>畿内で九州様式甕を作らず、九州で畿内様式甕を作っている それは事実だよ
それをどう判断してくれるのかな?<
時期的に逆だな。
柳田に拠って、庄内は三雲が一番古いのであり、
米田に拠って、布留も南加賀が近畿よりも古い事になり、
近畿は、いずれも三雲や南加賀などからの伝播模倣であった事になり、
だから、近畿や大和が、後から九州の甕様式を模倣改変した、という事になる。 >>568
>〇倭国大乱により、倭国の約100か国が約30か国に減る。<
倭国は、唐会要倭国伝に拠って「正北抵新羅」であるから、九州であり、
倭国大乱はなく、あったのは倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」。
>〇環瀬戸内勢力が戦乱の収束のため、シャーマンの元に共存を図ることとし、同勢力の日の出の方向で神地伊勢と線で結ばれる巻向に
卑弥呼(日の巫女の当て字)を立てる。<
これも×。「南≠東」に拠って、卑弥呼は九州の女王であり、纏向の女王ではない。
>*この時期、環瀬戸内勢力郡が交流・交易関係に転じていること、巻向が突然建設されたこと、西日本各地の土器などが出ること、
建物群が伊勢を向いていることと符合する。<
いずれも、「東征毛人五十五國」に拠って、「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」が出来、
それらが「倭国の地方の市を監督する大倭職」になったから。
>卑弥呼が魏と外交交渉していることから見てもこの程度の政治合意ができる程度に
倭国社会は成熟していたと思われる(証拠はないが)。<
関係なし。卑弥呼は、九州の倭国の女王。 畿内説もプロパガンダだろう
邪馬台国はヤマト国
ヤマト説が正しい >>573
>九州説は政治的プロパガンダ<
「南→東」や「倭国は正北抵新羅に拠って九州」や、
「大和日本国は倭國から別れた別種の旧小国」などの、
史料事実の否定曲解をし、それに敢えて固執し続ける大和説は、最早、
「大和天皇家一元列島支配」という思想的宗教に拠って脳がおかしくなった・・・・であり、
大和説は、政治的プロパガンダ。 >>573
畿内説が万世一系の政治的プロパガンダなのは有名だが
九州説は何の為の政治的プロパガンダ? >>574
>畿内説もプロパガンダだろう<
大和説もプロパガンダ。
>邪馬台国はヤマト国 ヤマト説が正しい <
「邪馬台国」なんて存在しないし、
大和については、
(倭国伝と日本国伝とを書き分けた)唐会要の倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、
倭國は(大和ではなく)九州であり、
大和は、九州倭国から別れた別種(倭種)の旧小国であり、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の国」であるから、
邪馬壹國女王之所都は、大和ではなく、九州。 >>565
学界の現状に疎いなら口出ししない方がいい >>576
ザラコクがさんざん言ってる
皇国史観がどうのこうの
邪馬台国が畿内に確定すればみんな天皇万歳になるとか思ってるんだろ >>574
複数の書物に卑弥呼が魏に遣いを送って鏡をもらったと出てくる
景初三年(239年)と魏の年号入りの年号三角縁神獣鏡が畿内から多数出るし
その頃に全国に他にない大規模な前方後円墳も畿内にある
当時の畿内は国内一番の勢力があって魏と交流があったと
そう結論づけるしかないだろプロパガンダとか関係なしに そろそろ頭の病院に行け
天皇陛下?万歳なんて言葉、
一度も聞いたことないんだが?
どこの国の人間なんだ?
成り済ましか何かなんだろう >>583
>天皇陛下?万歳なんて言葉、
>一度も聞いたことないんだが?
それはそれで日本人としては珍しいな
肉声で聞いたことがなくても、報道や記録映像その他で耳にすることは
いくらでもあると思うが? 九州説の原点は江戸時代の国学者による皇国史観に基づいた熊襲偽僭説だね
九州の戦前生まれのお爺さんのは、ワシの先祖が大活躍した夢ロマン作り話九州説
九州説に紛れ込んでるのが、いかなる日本人にも盲従しないというスローガンを掲げた
反日民族部落運動で、北朝鮮への謝罪とお金を要求している あくまでも認識の違いがあるようだが
畿内説は別に誠意時中のような皇国史観の復活なんて目論んでねーぞ
第二次大戦中の政治体制なんぞゴミと思ってる
だけど邪馬台国は畿内というのは事実は事実
これを曲げようとするのはいかん事やで 本物(不明)というのは
近代の戦争?そういうのとは無関係 他のスレにも書いていることなんだけど、
どこの国の人間なの? >>568
> *この時期、環瀬戸内勢力郡が交流・交易関係に転じていること、巻向が突然建設されたこと、西日本各地の土器などが出ること、
瀬戸内と纒向は関係ないんだってば。 >>579
あなたは大学講師か大学院生か何かなの?
2chで「疎いなら黙れ」はないだろw >>591
>瀬戸内と纒向は関係ないんだってば。
でも瀬戸内と河内の関係は認めるんだよな?ww >>587
>第二次大戦中の政治体制なんぞゴミと思ってる
でも結果的に主張の内容は変わらない。
昔から大和が倭を統率していた。
始まりが2600年前の神武か、3歳機の卑弥呼か、くらいの話。
神武が卑弥呼と同時代とかいう話まで出てくると、結局日本の歴史は神武からみたいな話になってしまう。 >>585
>何でそこに食いつくんだ九州説は
万歳と、自らの王を称えることができず、
千歳しか許されなかったところがあるらしいよ
それでじゃないかな? >>595
変わらないと思ってしまう方に問題があるな >>591
>瀬戸内と纒向は関係ないんだってば。
阿波忌部と纏向は相関関係だけどね。 @阿波 >>595
>神武が卑弥呼と同時代とかいう話まで出てくると、
畿内説で、それを主張している人は5ちゃんねるでも見たことがないんだが?
むしろ伊都国が日向三代の舞台とか言ってる、伊都国説の連中だろ?
神武が卑弥呼の頃とか言ってるのは サルタヒコの遺言。倭国大乱の犯人を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立 、阿波咋
国底立神
国常立神、天香山の山頂に祀られている神。 鬼門に封じ込まれた神。
天岩戸の向こう側に追いやられた神だろう。
阿波咋 今だ!600ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ >>595はおそらく離島民あたりじゃないかな
反日民族部落民の連呼と同じで単純な倭人社会を妄想している
畿内説が想定している3世紀の倭国は、FAQ 26に書いてあるように
通商ネットワークが政治的ネットワークに発展する段階で
各地の首長による統治もまだ面的に完成していない点と線の政治的結合
ゆるやかな首長連合と表現される あの桃核さぁ、日本産樹木較正曲線JCALを使うと3世紀末〜4世紀頭の可能性も高いらしいね…
この桃核は土坑出た出土した物だよね?
溝と同時期と見られ、布留0の時期だったかな?
土坑と溝は建物の後じゃなかったっけ?
このあたりが曖昧なんだけど >>602
三世紀には倭王権がすでに成立していた
「もと男子をもって王としとどまること七八十年」とあるだろ
だから倭王の王位をめぐって
女王派と男王派(卑弓弥呼=ヒコミコ=男皇子)の争いになるわけで
これは記紀によくある皇位継承争いと同じパターン
連合というと現代人は
「対等の者同士が横に直接に結びあうイメージ」をもつので適切でない。
邪馬台国を中心とする倭の諸国は卑弥呼を正統な倭王と認める連中だし
狗奴国を中心とする諸国は卑弓弥呼を正統だと信じる諸国
つまりあくまで卑弥呼なり卑弓弥呼なりという個人を介在した属人的な結びつき。
それ抜きに直接に横同士だけのつながりではない
「連合」じゃなくて単純に「男王派」「女王派」という方がよい
陳寿が書いてる「女王国」というのも「卑弥呼を王として認める倭の諸国」の意 >>605
皇位継承争いなんかは中央集権が成立した8世紀に書かれた3世紀の数百年後の歴史
狗奴国との争いに女王国の全ての構成国が関わっているようなことは何も書いてないし
2万戸や5万戸の国があるということは30国を統率しているような倭王ではない 本当に頭の良い人は気づいている、
名無しをプロデュース?(プロジェクト)とか、そういう話
ほとんど中華〜半島視点 まずヒミコが誰なのかキチッと考えれば、ヒミコは纏向にいないと答えが出て来る。
ヒミコもトヨも葛城にいた。
故・金関 恕さんの発見した「国宝」中平銘鉄刀の保持者である謎の豪族・和邇氏とトヨ、ヒミコは繋がっていた。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
ヒミコ、トヨをはじめ鴨族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり土蜘蛛=奴婢を埋葬している。
https://goo.gl/ajTi3m >>579
>学界の現状に疎いなら口出ししない方がいい<
「南→東」などの嘘吐き騙しを止めない、という学会教育界の現状に疎くて、
学会教育界に妄信追従する事しか出来ないアホな大和説者であるんなら、
口出ししない方がよい。 やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取、神奈川、埼玉 >>580
>皇国史観がどうのこうの邪馬台国が畿内に確定すれば
みんな天皇万歳になるとか思ってるんだろ<
少し違うだろうなあ。
大和説学者らは殆ど皆、天皇家支配万歳と思っているから、
存在もしない「邪馬台国」や「畿内」や「天皇」を造作捏造し、
「南→東」の捏造もし、
「大和日本国は九州倭国から別れた別種の旧小国」や「倭国が正北抵新羅」などの、
史料事実の否定もしたんだろうなあ。 >>581
「南≠東」などの嘘吐き騙しを指摘されて議論に幾ら負けても懲りないのは、
大和説者らのようだよ。 >>582
>複数の書物に卑弥呼が魏に遣いを送って鏡をもらったと出てくる
景初三年(239年)と魏の年号入りの年号三角縁神獣鏡が畿内から多数出るし<
大和や纏向からは出ないよ。
それに、明帝は、景初三年の元日に亡くなったので、
銅鏡百枚などが準備されたのは景初二年12月であるから、
景初三年鏡は、明帝の鏡ではないんだよ。
>その頃に全国に他にない大規模な前方後円墳も畿内にある<
九州倭国からの東征毛人55国をした将軍や地方の市を監督する大和職が、
支配した毛人を威圧するために、巨大古墳を造ったんだよ。
>当時の畿内は国内一番の勢力があって魏と交流があったと
そう結論づけるしかないだろプロパガンダとか関係なしに<
これも×だな。
列島で一番勢力があったのは、弥生銀座のある筑紫。 >>583
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者らは、そろそろ頭の病院に行け。
そんなウソを付くような人種は、
「大和天皇家一元列島支配」という宗教に狂った精神的な異常者しかいないんだよ。
どこの国の人間なんだ?
成り済ましか何かなんだろう 古墳の序列は大>中>小だがそれ以外にもある。
立地場所だ。
上座>中座>下座になる。
実際、各地域の上座にはその地域の始祖王らしき人物の墓がある。
例を挙げれば河内の玉手山9号墳、森古墳群の雷塚古墳、讃岐の萩原墳墓、佐賀の久里双水などなど。
では大和盆地の最上座とはどこか。
高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
https://goo.gl/8CUXf1
トヨもヒミコもヒミコの父さんやお母さんも叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後にこの地に埋葬され、高天原の神々になったのだ。 >>585
>何でそこに食いつくんだ九州説は<
史料事実からは、倭国は九州しか有り得ないのに、
大和説者は、
「南→東」などの」嘘つき騙しをしてまでして、
「大和天皇家一元列島支配」の皇国史観を諦めよう、
としない・・・・詐欺師だから。 >>599
>畿内説で、それを主張している人は5ちゃんねるでも見たことがないんだが?
鴨厨だよ。
スレを二つも三つも立てている。 >>618
立地の高低の序列なんてねーよ
先行する方がいい立地を使えるだけ >>586
>九州説の原点は江戸時代の国学者による皇国史観に基づいた熊襲偽僭説だね
九州の戦前生まれのお爺さんのは、ワシの先祖が大活躍した夢ロマン作り話九州説
九州説に紛れ込んでるのが、いかなる日本人にも盲従しないというスローガンを掲げた
反日民族部落運動で、北朝鮮への謝罪とお金を要求している<
はいはい、また、人種差別の殺戮戦争狂の国粋皇国史観大和説の、
・・・・キョクウのwwの、ヘイトスピーチ街宣投稿ね。 >>599
>畿内説で、それを主張している人は5ちゃんねるでも見たことがないんだが?
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 >>623
>立地の高低の序列なんてねーよ
>先行する方がいい立地を使えるだけ
前期古墳が山の上であることは常識。 若草山山頂古墳
何で牛塚と呼ばれていたのか?
何故毎年火に炙られるのか? >>587
>あくまでも認識の違いがあるようだが
畿内説は別に誠意時中のような皇国史観の復活なんて目論んでねーぞ
第二次大戦中の政治体制なんぞゴミと思ってる<
お前ひとりが思っていても、大和説者の殆どは、明治憲法の賛美者であり、
「南→東」などの嘘吐き騙しをする皇国史観狂人種だよ。
>だけど邪馬台国は畿内というのは事実は事実
これを曲げようとするのはいかん事やで <
邪馬台国も畿内も存在していなかったんだし、
「南≠東」や、「倭国は正北抵新羅だから九州」や、「大和日本国は九州倭国から別れた別種の旧小国」、
などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しをする事は、
いかん事やで。 群集墳も山の斜面にもぶれつくように造られてるところがあるな >>627
5世紀だね。
前期古墳が山の中腹にあるのはおそらく水源であろう。
水源を征するのがその地の王であり山の神。
箸墓ごときは下人の墓だ。 >>626
時期差じゃなくて世代差程度でも先行する方がいい場所を使ってる >>588
>本物(不明)というのは 近代の戦争?そういうのとは無関係<
大和説者のwwやssnや「今すぐ言え!」男らは、
近隣諸国を蔑視敵対殺戮戦争をしたいような、
・・・・だよ。 >>631
大和盆地の最上座に日本最古の神社があり奴婢を埋葬した径百余歩の塚がある。
ヒミコの墓は高天原にあったのだ。
箸墓ってwwwwwwwww >>593
>>瀬戸内と纒向は関係ないんだってば。<
>でも瀬戸内と河内の関係は認めるんだよな?ww<
米田は、河内と大和との密接な関係を否定したんだよ。 オオヤマト古墳群とか立地と築造順をみたら面白い
西殿塚→東殿塚
行灯山→櫛山
中山大塚→燈籠山
いずれも盆地側に古いものがあり
その後ろに後の世代のものが造られてる >>594
>吉備の土器や特殊器台が出てるのに?<
首長層間では、神武東征の時に吉備が援助する関係になっていたから。 あきらかに「完全に頭がおかしい」
と思われるレスに対しても、まめにレス返してるヤシを見てると
「オマエも頭のおかしなヤシのナカ〜マに見えるよ」
と逝ってやりたくなるは >>626
それらの古墳を造った連中が、元々の大和の王権ではなく新参者だったから。
物部だね。 >>636
柳本の上の山→渋谷向山もそうじゃないかな >>595
>でも結果的に主張の内容は変わらない。<
大和説者が、「大和天皇家一元列島支配」という宗教人種である事には、変わりがない。
>昔から大和が倭を統率していた。<
「南≠東」だし、
「倭國の中心は正北抵新羅だから九州」である事は変わらない。
>始まりが2600年前の神武か、3歳機の卑弥呼か、くらいの話。<
神武即位元年は、二中歴に拠って、紀元前91年頃。
>神武が卑弥呼と同時代とかいう話まで出てくると、
結局日本の歴史は神武からみたいな話になってしまう。<
ならない。 >>603
>あの桃核さぁ、日本産樹木較正曲線JCALを使うと3世紀末〜4世紀頭の可能性も高いらしいね…
この桃核は土坑出た出土した物だよね? 溝と同時期と見られ、布留0の時期だったかな?
土坑と溝は建物の後じゃなかったっけ? このあたりが曖昧なんだけど<
ふーん。 >>604
何人かで延々と自演してるか大和説キチwww。 >>606
>自演は九州説の華w <
「南→東」などの嘘吐き騙しや、史料事実の否定曲解の・・・・の自演は、
大和説の華w。 >>607
>皇位継承争いなんかは中央集権が成立した8世紀に書かれた3世紀の数百年後の歴史
狗奴国との争いに女王国の全ての構成国が関わっているようなことは何も書いてないし
2万戸や5万戸の国があるということは30国を統率しているような倭王ではない<
九州地方のほぼ30国から、卑弥呼は共立された、という事になる。 >神武が卑弥呼と同時代とかいう話まで出てくると、
結局日本の歴史は神武からみたいな話になってしまう。<
分かりやすく言おうか。
7世紀の朝廷は神武東征紀でサザエさんをマスオさんに変えたのだ。
この時代が女王国であったのを知ってたからこそ男王国に変えたのだ。
卑弥呼が誰なのか分かられると帥升が誰なのか分ってしまうからだ。
日本の歴史が帥升=スサノオ、つまり神の土下座から始まることになるからだ。
本居はそんな事はとっくに分かってたからこそ、あえて卑弥呼は熊襲の女酋長とかの珍説でごまかした。
まだ分からないのかバ〜〜〜カ。 男系相続は天津神、女系相続は国津神の伝統だよ。
ただしこの対比があったのは基本的に筑紫や出雲においてである。
畿内は蚊帳の外。 >>607
>狗奴国との争いに女王国の全ての構成国が関わっているようなことは何も書いてない
そりゃ「全部の国が」「直接に」関わってる必要はないね
様子見でとりあえずついただけの国もあったろうし
>2万戸や5万戸の国があるということは30国を統率しているような倭王ではない
何をいってるのやら? 倭王は倭国全体の王だが?
卑弥呼は邪馬台国を首都にしてただけで邪馬台国だけの王ではない。
そんなことは基礎だろう オマエ等の話なんて相手にされていない、
すさのお?機織り、星座?などの話みたいなんだけど、
老婆も、そのような事を言っていたし
ネットなど調べてみると・・・そんな気がする
『西王母 宇宙』 老婆の話
あの311大震災が起きた後、
北斗の拳【再】を観ていたり
なぜか一度(何話なのか、わからない)だけ観ていた 北斗の拳【再】はMXでやっていたんだよ
本当に震災後なんだけど、
蚕が何やら、機織りの話をしていた、
伊達郡の川俣町のほうの話とか
何かしたのがいるんじゃなのか?
と言っていたり 本居宣長ほどの人物ならば帥升(スイショウ)とスサノオの名前が似ている、
もしかして同一人物ではないかと仮定してみたであろう。
ならば1分で卑弥呼が分る。
当時の寿命は40歳に満たない、そして1世代間20年。
朝貢年
107年 倭国王・帥升 スサノオ
・
・
・
・
・
238年 卑弥呼 ヒメ(踏鞴五十鈴)媛
・
266年 台与 トヨ津媛
日本の歴史が、後漢皇帝・安帝への「神の土下座」から始まる。
古代の天皇が100歳を超えるほど日本書記が時代を大きくごまかした原因はこれであったことに本居は気づいたはずだ。
しかし本居の時代でも公表はできない。
ショックが大きすぎる。
だから熊襲の女酋長説とやらでごまかしたのだ。
騙り、成り済まし、寄生・・・?
犯罪なのに、よく生きていられるな〜と思う どこだったかな?
悪く言うわけではないんだけど、同じような事を言ってる人がいた
秦(ハタ)だからと言って、
機織り、七夕など・・・なぜ、すべて秦氏に繋げるのか?とか 邪馬台国が機内にあった
ヤマト王権の前身が邪馬台国、王統が何度も入れ替わり最終的に天皇家が権力を掌握
https://i.imgur.com/kSa35lq.jpg
中国から倭・邪馬台国までの道のりが南へと誤認されていた
https://i.imgur.com/ACKMZhw.jpg
倭=日本列島・領域を表す言葉
邪馬台国=複数の国が連邦を形成した連合国家 天皇家なんてないんだが、いつ出来たんだ?
大昔から住んでいる大王家、アマテラス、渡来人だと言ってみたり、
どういう話なのか、詳しく説明してみて 中華(天子)〜日本に渡ってきた??????
もっと西方のほうから来たと言っていたり、ここで説明してみて 西王母・・・調べてみると帝の話も出てくるはず、
日本の天皇家というのは帝だと言っていたり? アマテラス、スサノオ、邪馬台国・・・の時代でも良いけど、
当時、日本に天皇、帝なんていない、無いでしょ?
本来なら、いないといけないはずなんだけど、
話がデタラメなんだよ
いわれひこ〜何やら〜なども、
誰が考えても中華(中国の人)の名前ではないし 畿内説は破綻してるが
また騙されたど素人が飛び込んできたなwww >>613
>>少し違うだろうなあ。
大和説学者らは殆ど皆、天皇家支配万歳と思っているから、
存在もしない「邪馬台国」や「畿内」や「天皇」を造作捏造し、
「南→東」の捏造もし、
「大和日本国は九州倭国から別れた別種の旧小国」や「倭国が正北抵新羅」などの、
史料事実の否定もしたんだろうなあ。<
>なんでそういう妄想が抱けるやら<
自然現象や生物の行動は、殆どが不可知部分であっても、
おそらく全て、何等かの原因理由があるものであるから、
その原因理由を推定するの。 >>622
>鴨厨だよ。 スレを二つも三つも立てている。<
鴨厨=ssnであり、
Yahooではkssnであったのであり、
2chの古田史学スレでも、zarakoku名を語って、なりすまし投稿をしていた・・・・だよ。 >>638
>あきらかに「完全に頭がおかしい」
と思われるレスに対しても、まめにレス返してるヤシを見てると
「オマエも頭のおかしなヤシのナカ〜マに見えるよ」 と逝ってやりたくなるは <
「南→東」などのような、
あきらかに「完全に嘘つき騙しだ」と思われるレスを、
まめに投稿し続けているヤツを見てると、
「オマエも頭のおかしなの皇国史観大和説のナカ〜マに見えるよ」
と言ってやりたくなるわ。 >>658
>邪馬台国が機内にあった
ヤマト王権の前身が邪馬台国、王統が何度も入れ替わり最終的に天皇家が権力を掌握
>中国から倭・邪馬台国までの道のりが南へと誤認されていた
>倭=日本列島・領域を表す言葉
邪馬台国=複数の国が連邦を形成した連合国家 <
これを見ても、大和説者という人種は、史料事実などどうでもよく、
都合の悪い史料を全て否定曲解する、
分裂幻覚妄想の・・・・だ、という事が直ぐに判るね。 >>658
その地図持ちだして邪馬台国は畿内と言う学者もういないよ 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>673
>九州説はデマばかり<
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解や、
「倭国は正北抵新羅だから九州」などの史料の隠蔽黙殺などの、
嘘つき騙しのデマばかり。 九州は短里とか邪馬台国はなかったとか史料事実歪曲のデマばかり >>675
>九州は短里とか邪馬台国はなかったとか史料事実歪曲のデマばかり<
大和説学者は、
史料事実に合わない「長里だけだ」、とか、
「邪馬台国や畿内や天皇」があった、とか、
「南→東」などの都合の悪い方向記載だけの否定曲解の嘘つき騙し、とかの、
史料事実歪曲のデマばかり・・・・詐欺師。 >>>666
鴨厨って葛城説いってる人のことかw
ザラコクさんと同一人物ならザラコクさんも一応畿内説だったのか… >>658
その地図、長崎等で他にも模写された物が見つかってて、それには普通に日本が東西に描かれてたんだよ まあ、日本人が模写すれば、日本は東西方向に直して書くわな
回りは海で、よその土地との関係はあまり考えなくていいし 混一彊理図は他にも天理図書館所蔵図、熊本県本妙寺所蔵図があり、これらでも日本列島はほぼ正しく配置されているみたいだね
龍谷大学所蔵の地図はスペースの問題で日本を南北に記述した、との推測が主流ですね 島原本光寺の疆理図のほうは淡路島、能登半島、房総半島が描かれて
龍谷大のものよりかなり日本列島を正確に描いているから
日本の地理に詳しい者による後世の製作だろうな そもそも、混一彊理歴代国都地図は1402年に朝鮮で作られた物で時代が違いすぎ……
というか朝鮮では15世紀になっても日本が南北に長いと思っていた、なんてちょっとあり得ないかなぁ 朝鮮ではというか、混一図は元朝(1260〜1368)末期の李沢民の『声教広被図』と
元末明初の僧・清濬(1328〜1392)の『混一疆理図』(1360年作製)を合わせたもので
清濬は慶元路(現在の寧波)の阿育王寺で製作した地図 地図ね???
対馬から釜山見えるから
その地図だと富士山相当広範囲で見えちゃうね >>676
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! 頭に血をのぼらせて怒鳴るだけって敗北宣言だよねふつう >>689
>で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?<
殆どは、「自然や歴史における不可知部分」の中。
僅かに、「大夫」や「鯨面文身」や「甕棺」や「稲の種類」や、
「文字のあるホウ製鏡」や、室見川の銘板」や、
「新撰姓氏録の松野連」や、「松野氏姫氏系図」や、
「日本書紀私記の東海姫氏國」の記載など。
>で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は? 早く言えサギジジイ!<
世間の人々にも、
・・・・である、という疑いの強いとはっきり判る人間は、
原則として、殆ど相手にしない。 >>691
んなこと聞いてねえんだバカヤロウ!
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えテメエ! >>692
>・・・今言えテメエ!<
関心がない。
「不可知部分」での挙証を要求する・・・・大和説者には関心がないから、
相手にしない。 >>502
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 もう荒らしはできんぞ
スレタイちょっと間違っててワッチョイが標準でIPは一部の板だそうだが
【朗報】jim「メンテナンス後は全ての書き込みが強制IP表示になります。荒らしが酷すぎるためです」
http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1527941149/ ヤマタイ厨が大量発生したから 書き込めなくなったんだ!
このカスども >>698
「スレタイ」とか」とか、「ワッチョイ」とか、「IP」とか、
「jim」とか、「メンテナンス」とか」、「強制IP表示」とかは、
何の事なの?。
さっぱり判らん。 >>705
>わからんなら自分の個人情報垂れ流し<
「スレタイ」や「ワッチョイ」や「IP」や、
「jim」や、「メンテナンス」や、「強制IP表示」の、
どれが、「個人情報」の垂れ流しになるの?。
また、誰が、個人情報を垂れ流すの?。
さっぱり判らん。 >>706
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>676
その時代に使われた度量衡が記されてある律暦志の
どこを探しても載ってないという史料事実を無視し
短里をゴリ押す九州説
邪馬台国や畿内や天皇がなかったとかの主張はデマ以前の問題
さらに畿内説の仮説の1つ程度である魏志倭人伝の方位は南→東という見解を
さも声高に主張しているかのような印象操作 メンテ終わったかな
>>698
安全性は確保されたの? キナイコシ連呼の人と、連続句読点の人と、つぶやき荒らしの人が、
ワッチョイで同じIDだったら大笑い >>709
>その時代に使われた度量衡が記されてある律暦志の<
魏代の律暦志がなければ、魏代の度量衡の根拠にならない。
>どこを探しても載ってないという史料事実を無視し 短里をゴリ押す九州説、
魏の初代の文帝の即位の詔書で「度量衡の統一」を指示した、という事は、
漢代でも、度量衡が不統一であった、という事の証拠であり、
そういう史料事実を無視して、「長里だけであった」とゴリ押す大和説者。
>邪馬台国や畿内や天皇がなかったとかの主張はデマ以前の問題<
「3世紀に邪馬台国や畿内や天皇があった」とかの嘘つき騙しの主張は、
デマ以前の良心の問題。
>さらに畿内説の仮説の1つ程度である魏志倭人伝の方位は南→東という見解を
さも声高に主張しているかのような印象操作<
魏や郡の役人たちや、魏使らが、「東西南北」を簡単に決定出来るから、全く間違えない、
という事は、仮説とか印象操作ではなく、
史料事実や史料批判された史料実態である、という事。 >>714
このスレも、「南→東」などの大和説の、
嘘つき騙しの欺瞞を暴露するスレだぞ。 >>707
>・・・今言えサギジジイ!<
「南→東」などの嘘つき騙しをする理由は?。
今すぐ言え、大和説のサギのガキ!。 >>716
魏代の度量衡を記した律歴志に載ってない
魏代に短里はないの根拠になるね >>716
度量衡の統一の命令があれば短里と普通の里が混在するわけがない
魏の距離を表す単位は律歴志にあるように普通の里しか存在しない
これこそが史料事実 邪馬台国はヤマト国、位置論争は無駄だな
そろそろ女王国の版図、女王国の中心勢力を明らかにしていかないといけないな >>716
邪馬台国や機内やその時代の頃は数世代は過ぎていたであろう天皇を否定し出した
九州説もとうとう底が割れたな >>719
>魏代の度量衡を記した律歴志に載ってない <
そりゃ、魏代よりも後代に書かれた律歴志の話になり、
魏初代文帝の度量衡の統一の指示や、
魏の役人たちの「周制度量衡への復古」の上表を無視した文書の話だから、
魏代の度量衡の根拠にはならない。
>魏代に短里はないの根拠になるね<
魏代には短里はなかったという事の、根拠にならない。 >>724
どの史料にも出てこないなら短里なんぞない >>724
度量衡の統一の指示があったなら
魏の距離単位を記録した律歴志に載ってるとおり
普通の里しかなかったんだろ短里じゃなくて 魏初代文帝の度量衡の統一の指示があったから
短里はますますないと結論が出せる
魏の度量衡を記した律歴志に
短里でない普通の里しか載ってないから いや度量衡は魏初代文帝のもと普通の里に統一されていたのだ というかザラコクよ
魏初代文帝の度量衡の統一の指示のソース出せや さー九州説がゴリ押す短里は存亡の危機だな
魏の初代文帝の度量衡の統一の指示があったのなら
魏の距離単位を記した律歴志に短里は載ってなくなく普通の里しかない
つまり魏には短里はなく普通の里しか存在してなかったという事だな つまり短里なんぞなかった
邪馬台国は帯方郡より1万2000里は
九州北部を指してるものでも何でもなかったって事だな 魏代には短里はなかったんじゃないかな
公孫氏が東夷で使ってたローカルな里じゃないのかな。 >>670
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>694
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 キナイコシが論破されてしまっている話題の一つが、短里の存亡のことのようだね。。。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>724
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! ●安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
●卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人
日本の歴史は大量の奴婢(生口)の記述から始まる。
王権のある場所には王都があり、大量の奴婢がいたという事です。
王権の謂れと太古からの奴婢郷の両方が存在するところ。
どこでしょう?
葛城しかありません。
福岡の差別問題は比較的新しい。
葛城には国栖(くず くにす)に関わる地名も残ってます。
この時点で邪馬台国も帥升の住んだ所も決まりです。
高天原(御所市高天)でした。
纏 向 で は な い。 >>720
>度量衡の統一の命令があれば短里と普通の里が混在するわけがない<
蜀は(魏に敵対して)漢を継承する国であり、蜀も魏に敵対した国であるから、
漢里と魏里(周里)の混在の可能性があるが、
魏朝は、原則として、初代文帝の即位の詔書の指示(混在の解消)通りに、
始皇帝や漢の度量衡を否定して、周制への復古の方針を上表されたのだから、
漢代末に再収集注釈された周髀算経に拠って、
周代の度量衡(周里)に統一した可能性が極めて高い。
>魏の距離を表す単位は律歴志にあるように普通の里しか存在しない
これこそが史料事実<
魏朝や陳寿や西晋朝の使用里は、周髀算経に従って、原則短里。
しかし、一部の勢力は、秦漢里(長里)を使用した。
そして、後代の史家や学者の律暦志は、魏朝の「周里への復古」が判らず、
秦漢里のままだった、と記載してしまった。
これが、史料事実であり、史料実態。 >>721
>邪馬台国はヤマト国、位置論争は無駄だな <
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙しの文言であり、
「南→東」などの嘘吐き騙しの位置論争なんて、無駄だな。
>そろそろ女王国の版図、女王国の中心勢力を明らかにしていかないといけないな<
女王國の版図は、ほぼ狗邪韓國〜九州。
中国四国以東は、倭種。
共立女王國の中心勢力は、邪馬壹國と伊都国。 >>723
>邪馬台国や機内やその時代の頃は数世代は過ぎていたであろう天皇を否定し出した<
邪馬台国も畿内も天皇も存在していなかったし、
倭國は、「正北抵新羅」であるから九州にあったのであり、
大和(後の日本国)は、
卑弥呼の頃には既に倭國から別れた別種の旧小国で、倭國の地方の市を監督する大倭職の国であって、
倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国でしかなかった。
>九州説もとうとう底が割れたな<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、とうとう底が割れたな。 >>726
>どの史料にも出てこないなら短里なんぞない<
魏志や東夷伝は、ほぼ短里の記載であり、
江表伝や、海賦や、以後の後代史書や、倭の記録などで、
「短里」の記載が、長里の記録と混在して存在するのだから、
「短里」の使用も継続していた、というしかない。 >>727
>度量衡の統一の指示があったなら
魏の距離単位を記録した律歴志に載ってるとおり<
後代史家の律歴志の記載は、自己解釈に拠る勝手な主張であり、
同時代記録に勝るものではない。
>普通の里しかなかったんだろ短里じゃなくて<
魏の文帝は、秦漢朝の度量衡を継承するんなら、
即位の詔書で「度量衡の統一」を指示する必要がないし、
度量衡の統一を指示した、という事は、秦漢の長里を否定する事を意図していた、
という事になる。 >>728
>魏初代文帝の度量衡の統一の指示があったから
短里はますますないと結論が出せる<
晋漢朝の「長里」でよいんなら、文帝は、「度量衡の統一」を指示する必要がない。
短里と長里が混在して混乱していたから、文帝は、度量衡の統一を指示する必要があった。
そして、重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返したから、
漢末期の再収集注釈がなされた周髀算経の、短里を採用する事になった。
>魏の度量衡を記した律歴志に 短里でない普通の里しか載ってないから<
東晋から、長里の採用の方針変更がなされたから、
それ以後の史家や律歴志学者は、また、「長里主義」での記載に変わった。 >>729
盗人語るに落ちるじゃなく、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、語るに落ちる、だな。 >>730
>度量衡を統一する暇もなく滅んでるじゃん<
文帝の即位の詔書での指示は、明帝の頃にほぼ実施され、
西晋朝も引き継いだが、
東晋は、北朝に対抗するために、秦漢代の公定度量衡の「長里」への復古に変わった。 >>731
>いや度量衡は魏初代文帝のもと普通の里に統一されていたのだ<
それまでの秦漢朝の「普通の里の度量衡」を踏襲するんなら、
文帝は、始めから、「度量衡の統一」を指示する必要もなく、
わざわざ即位の詔書で指示する必要もなかった。 >>732
>というかザラコクよ 魏初代文帝の度量衡の統一の指示のソース出せや<
文帝の「受命改制」の即位の詔書を読めよ。
市民の古代第15集の、秦政明さんの論考に紹介してあった。
秦政明さんは、その後、宝賀さんらの会に変わられ、事務局長のような仕事をされたが、
大分前に亡くなられた。 >>733
>さー九州説がゴリ押す短里は存亡の危機だな<
さー「南→東」などの嘘つき騙しの大和説がゴリ押す長里説は、
存亡の危機だな。
>魏の初代文帝の度量衡の統一の指示があったのなら
魏の距離単位を記した律歴志に短里は載ってなくなく普通の里しかない
つまり魏には短里はなく普通の里しか存在してなかったという事だな<
(現代大和説学者らの「南→東」などの嘘つき騙しと同じく)、
後代の長里時代に書かれた律歴志というものが、
魏西晋朝の同時代史書に書かれた短里記載を否定する事が出来ず、
後代史家の「アホ性」を露呈してしまった、という事だな。 >>734
つまり魏西晋朝では、長里なんぞなく、短里であった。
邪馬壹國女王之所都の帯方郡より1万2000里は、
「南≠東」などに拠っても、
九州北部を指していた、って事だな 。 >>735
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、
これにて滅亡。 >>736
>魏代には短里はなかったんじゃないかな <
魏朝代には長里はなかったんじゃないかな。
>公孫氏が東夷で使ってたローカルな里じゃないのかな。<
東夷伝だけではなく、魏志に書かれた里記載は、
僅かな「不明確な里数記載」を除いて、殆ど全ての里記載は、
「短里」と「国や地域間里数記載」は、
双方の居住外縁部間の里数」として、
ほぼ全て、説明出来てしまう。 >>734
>王権のある場所には王都があり、大量の奴婢がいたという事です。
王権の謂れと太古からの奴婢郷の両方が存在するところ。 どこでしょう?
葛城しかありません。<
倭国は、「正北抵新羅」に拠って九州にしかならないし、
大和は、倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国でしかなく、
倭国の東征将軍の支配下の「地方の市を監督する大倭職」でしかなかった。
>福岡の差別問題は比較的新しい。
葛城には国栖(くず くにす)に関わる地名も残ってます。
この時点で邪馬台国も帥升の住んだ所も決まりです。<
「邪馬台国」なんてなかったし、
倭國王帥升も、倭国王だから、当然九州の王。 >>759
さあ、ザラコクさん、きちんと解釈して見せてくださいな
「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」 >>758
>倭國王帥升も、倭国王だから、当然九州の王。
いやそれはもう反論ではないのだが。
単なるお経かお題目。
アッラーは絶対であるというもスリムと同じ。
迷惑だから消えてくれないか。 107年の帥升の時代に、
ヤマトが北九州まで傘下に収めていたことを示す証拠こそ何もないだろ
考古学遺跡大好きの畿内説厨でさえも認めるはずだ 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
リライト本です。「なか見検索」で立ち読み頂けます。原版は
国立国会図書館デジタルコレクションで無料で読めます
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BT473FB
(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V >>759
>さあ、ザラコクさん、きちんと解釈して見せてくださいな
「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」<
文帝は即位の詔書で、「同律度量=律度量を同じゅうする」と指示しているのだから、
混乱している度量衡を統一せよ、と指示している事になる。 >>760
>>倭國王帥升も、倭国王だから、当然九州の王。<
>いやそれはもう反論ではないのだが。<
いや、唐会要倭国伝が(日本国伝と区別して)「正北抵新羅」と説明していたのであるから、
倭国の本体は九州にあった、という事になる。
>単なるお経かお題目。 アッラーは絶対であるというもスリムと同じ。<
倭国の中心が大和であった、というのは、
単なる皇国史観教のお経かお題目。 アッラーは絶対であるというもスリムと同じ。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者や、
それを盲信隷従する・・・・大和説信者は、
国民にも迷惑だから、消えてくれないか。 畿内征伐があったかどうかそろそろ白黒つけていいだろ
記紀や各地の神社の謂れは、畿内征伐で一致している
倭国大乱
2世紀末に纒向の集落が突然誕生
東海や山陰の外来系土器
円形周溝墓等今までなかった風習が持ち込まれる
東海や山陰勢力によるなにわ、ヤマトの征伐はあったんだろうな 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
天の岩戸は敦賀〜伊吹山〜甲賀〜伊賀にあった国境警備の拠点じゃないかな
大和朝廷と最後まで闘った伊吹山の荒ぶる神はその名残りかもしれない
賀は牙
旗印を掲げた拠点 >>766
>三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
共に、倭国(阿波)を発った忌部一族だからね。 @阿波 >畿内征伐があったかどうかそろそろ白黒つけていいだろ<
畿内なんて存在していなかった。
瀬戸内近畿東海であった事は、 (正北抵新羅の)九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」という征伐戦。
>記紀や各地の神社の謂れは、畿内征伐で一致している<
記紀は九州倭国の存在を否定盗用造作をした半分×書であり、半分しか根拠にならない。
>倭国大乱<
九州内での「倭國亂、相攻伐歴年」の話であり、「倭国大乱」なんてなかった。
>2世紀末に纒向の集落が突然誕生 <
九州倭國の東征将軍らや、地方の市を監督する大倭職の祭祀集落。
元は、出雲銅鐸祭祀部族や毛人と、九州倭国の東征や大倭職との(婚姻などに拠る)共存地域であったが、
九州倭国側が優勢になって、祭祀集落が造られた。
>東海や山陰の外来系土器<
「市」が出来たから。 しかし、播磨や河内とは一線を画した。
>円形周溝墓等今までなかった風習が持ち込まれる<
九州倭国からの持ち込み風習。
>東海や山陰勢力によるなにわ、ヤマトの征伐はあったんだろうな<
高地性集落が起きた事を含め、 全て九州倭国の東征毛人五十五國の結果。 >>768
宣伝工作の仕事を首にされてしまったのではないのかな。。。 >>770
脳の悪さを、雇い主に見抜かれてしまったのではないのかな。。。 >>769
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>763
>文帝は即位の詔書で、「同律度量=律度量を同じゅうする」と指示しているのだから、
>混乱している度量衡を統一せよ、と指示している事になる。
漢朝と同じにする、変更しないという意味
易服色や承土行と続けて読めば明らか
九州説がトンデモなのは
漢文が読めないからだね >>765
>東海や山陰勢力によるなにわ、ヤマトの征伐はあったんだろうな
内行花文鏡や銅矛など、瀬戸内海を通じて九州北部(筑紫)の文化が畿内を席巻した。
ヤマトの地を征服したのは筑紫の倭王権。 ・2世紀以前の国内の遺跡において九州北部以外に大量の副葬品の持つ王墓が見当たらない
・九州北部に倭国大乱の痕跡あり(首なし遺骨な殺傷跡の骨が多数見つかる)
・3世紀に入りこれまで大勢力の痕跡が無かった畿内に突如として纏向の巨大遺跡が現れる
以上のことから倭国大乱は九州北部勢力の東征であり
纏向は九州北部勢力の東征拠点であったことがわかりました もちろん、王都は3世紀の女王墓がある九州北部のまま。 後漢の光武帝が金印を授けた王は「委奴国=伊都国」の王
なんらかの理由で伊都国の対岸にある志賀島に埋められた
後漢書東夷伝に記されている倭国王師升も伊都国王のこと
井原鑓溝遺跡に眠る
ということは
平原の女王墓は誰の墓かわかりますよね? >>766
>三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。<
三輪の大物主は、出雲系。
伊勢神宮の外宮の豊受姫も、大国主の親族で出雲系、
として説明出来る。
>天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。<
大和を占領支配した倭国の天孫族と、伊勢の銅鐸系との間の関、
として説明出来る。 >>775
>>文帝は即位の詔書で、「同律度量=律度量を同じゅうする」と指示しているのだから、
混乱している度量衡を統一せよ、と指示している事になる。<
>漢朝と同じにする、変更しないという意味 <
「漢朝」とは書いておらず、
「上古之始有君也・・・今朕承帝王之緒・・・」だから、
上古の帝王を範とする、と言っている。
>易服色や承土行と続けて読めば明らか<
「服色」も簡素に容易にし、「土行」も、上古の帝王を継承する、と言っている。
大和説者がトンデモなのは、
漢文が読めないだけではなく、
何故そのような事を記載する必要があったのか?、
という事を考える事も出来ない・・・・アホだったからだね。 俺 関係無いけど よくわからん
>>773
周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着ししていないという証明は?
いても不思議で無いと思わないか? 周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。
呉王夫差 春秋末の呉の王。在位,前496‐前473年。
以上の時代より前
日本は稲作も伝来してたし・・・・大陸との繫がりはあったよ
昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始 め、
今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことは明らか
それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえある 纏向の墓からは割られた鏡が大量に見つかるが
鏡を割るという風習は九州北部のものだから
纏向は九州北部の勢力 おつむが極度に軽いな
ネクタイ締める習慣はヨーロッパのものだから
ネクタイ締めてたらヨーロッパ勢力か? >>789
現代に当てはめるおまえのほうがあたまわるい あくまで現代に例えるなら葬式に例えるのが正しい
宗派ごとに葬式の方法は違うように
纏向の墓は九州北部の葬式方法で行われているから九州北部からきた勢力だ >>790
ネクタイが現代だと思ってる池沼ハケーン 畿内は九州北部(筑紫)の文化に飲み込まれていく姿しか見えない。
特に葬礼の際の副葬品が九州を代表する内行花文鏡を主としていたことは、明確に畿内が九州の勢力の支配下に入ったことを意味する。
内行花文鏡が主なら、三角縁神獣鏡は従の存在であり、実際の質も粗悪な量産品である。 >>792
2世紀までの日本において割った鏡など大量の副葬品を墓に入れるのは九州北部だけ おそらく、大和は何度も九州勢が流入したのだろうね。
事代主、鴨主、饒速日、神武など、九州から来た勢力の謂ればかりだ。 >>789
>おつむが極度に軽いな ネクタイ締める習慣はヨーロッパのものだから
ネクタイ締めてたらヨーロッパ勢力か?<
「今すぐ言え!」男にも書いた事があるが、
例えば、以前に何度か書いた「甕棺」埋葬は、
(他部族に伝播するようなものではなく)、その部族に特有のものであるから、
その伝播は、その部族民の移動移住を意味する事になり、
「甕棺」や「大型甕棺」は、
揚子江流域から、九州や東南アジアや南アジアや太平洋やエクアドルなどに見られ、
その部族民自身の移住拡大地を示すその証拠になる。 そもそも
「纏向の墓からは割られた鏡が大量に見つかるが」
って・・・
どの墓から何個? >>798
>破鏡を知らない無知なキナイコシ
桜井茶臼山古墳の破鏡は、平原1号墓の上位互換
ホケノ山でも一部鏡片が出ている、くらいじゃなかったっけ?
まあ、いずれにしても、大王級古墳は天皇陵指定を受けていて、
発掘できていないから、なんとでも言えるといえば言えるけれど >例えば、以前に何度か書いた「甕棺」埋葬は、
>(他部族に伝播するようなものではなく)、その部族に特有のものであるから、
な〜んて決めつける理由は? >>801
>桜井茶臼山古墳の破鏡は、平原1号墓の上位互換
ホケノ山でも一部鏡片が出ている、くらいじゃな
だっていう根拠は? 畿内説のくせに、桜井茶臼山古墳の概要も知らないのか。 破鏡や丹塗土器は九州北部の埋葬方法だが
纏向も同じことから纏向に居たのは九州北部の勢力であるとわかる >>754
普通の里はちゃんと証拠があんの
律歴志に載ってるのもそうだし尺の基準のモノサシである
約24cmの正始弩尺もある
短里はどちらもないしさらに文帝の度量衡統一令で尺度は1つしかなかったのなら
短里は存在しなかった事になる >>805
>破鏡や丹塗土器は九州北部の埋葬方法だが
だから、言い張るだけじゃなくて
証拠出せよ
出せないの? >>791
>>あくまで現代に例えるなら葬式に例えるのが正しい
宗派ごとに葬式の方法は違うように
纏向の墓は九州北部の葬式方法で行われているから九州北部からきた勢力だ<
>九州北部の葬式方だって証拠は?<
まず、前方後円墳の源流は、
「壹與の使節が西晋武帝に朝貢して教わった中国の天円地方思想」と、
モンゴル〜高句麗方面からの部族の北部九州への渡来伝播であり、
筑紫の(庄内から布留期の275年頃の)那珂八幡などが、列島では一番早い事になり、
更に、大和では庄内の石塚が最も早いそうだが、
筑紫の庄内と大和の庄内とでは、以前から、
大和の庄内は、筑紫の(三雲の)庄内よりも50年位遅れる、という事であったのであり、
久宝寺や加美で、(285年頃の)伽耶の陶質土器と(布留ではなく)庄内との共存があったので、
大和の庄内の石塚は、3世紀末頃になり、
筑紫からの前方後円墳部族の移動に拠る伝播模倣であった、という事になる。 >>803
>だっていう根拠は?
そういうあおりはいいから
>>803が、>>788なら、
纏向から大量の鏡片が出ていることを示すのはむしろそっちだ >>804
>桜井茶臼山古墳の概要
なら、それを書けよ!
>>804は知ってるんだろ?
それを他人に分かりやすく簡潔に書いてくれ、
それができてから始めてえらそうにしてくれ >>793
>ネクタイが現代だと思ってる池沼ハケーン<
3世紀以前に、中国や列島に「ネクタイがあった」かのようなインチキ論で、
九州説を誹謗ヘイトスピーチする、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説詐欺師、発見!。 仮に機内が九州勢に征服さねたのだとしても
邪馬台国は機内 >>797
>まったく証拠を出さずに妄想で突っ走る九州説スゲー<
まったく反論証拠を出さず言えずに、
「南→東」などの口先での嘘つき騙しでの、
分裂幻覚の妄想のヘイトスピーチで突っ走る大和説の、
・・・・はスゲー。 >>812
後漢書によると倭国王師升は井原鑓溝遺跡に眠っているというのが定説だが
平原1号墓の被葬者は女性ということがわかっており
卑弥呼は伊都国にいたことになるが? >>809
いやいや>>803だが、別人だ
俺の指摘は
・纏向から大量の鏡片など出ていない
・平原1号からは破鏡など出ていない
(破鏡と破砕割は違うってこと) >>814
女性の被葬者なんて畿内の古墳を発掘できればいくらでも見つかるだろう >>815
なら了解です
桜井茶臼山は、纏向遺跡じゃないし
ホケノ山の発掘で、少し鏡片が出ているだけですね >>802
>>例えば、以前に何度か書いた「甕棺」埋葬は、
(他部族に伝播するようなものではなく)、その部族に特有のものであるから、<
>な〜んて決めつける理由は?<
遺族にとっては、埋葬形態を同じくにする事が、「部族の一員であった事」を示す、
という事であるのは、人類の常識だから。 >>806
>普通の里はちゃんと証拠があんの<
魏里(短里)には、周髀算経〜魏志などまでの、沢山のちゃんとした根拠があんの。
>律歴志に載ってるのもそうだし<
後代史書での「筆者の解釈や考え」での記載は、
同時代的な記録よりも、客観性や信頼性がかなり低いの。
>尺の基準のモノサシである約24cmの正始弩尺もある<
「尺」の寸法は、周代から魏代まで殆ど変わっていないんだから、
「尺定規」の寸法は関係がなく、根拠にならないの。
問題は、始皇帝が決めた「1歩=6尺」という里歩系単位と尺寸系単位との換算法であり、
魏では「1歩≒1尺」という程度であったの。
>短里はどちらもないしさらに文帝の度量衡統一令で尺度は1つしかなかったのなら
短里は存在しなかった事になる<
尺寸系の尺度は、変わっていないんだから、関係がなく、
里歩系の単位系の「短里が存在しない」という事の根拠にならないの。 >>822
あくまでも仮定の話だよ基本的に発掘できないから
でも古墳は畿内には大小合わせて100基は軽く超えるし
箸墓古墳は被葬者が女性と伝えられてるけど >>807
>>破鏡や丹塗土器は九州北部の埋葬方法だが<
>だから、言い張るだけじゃなくて証拠出せよ 出せないの?<
破鏡の一つである「卑弥呼の下賜の鏡片」の分布は、筑紫付近が圧倒的に多く、
それ以外は、半島や播磨や北陸?阿波?などに少数。
丹塗土器に関しては、
http://j-town.net/tokyo/event/museum/236680.html
丹塗磨研土器は、約2,000年前の弥生時代中期、
筑前西部から肥前東部の地域において極度に発展したもので、
ベンガラなどの赤色顔料によって赤く塗られ、
ヘラ状の工具で丁寧に表面を磨かれた祭祀用の土器です。
筑前町栗田遺跡出土の丹塗磨研土器は、器種の多様性や残存状況のよさなどから、
甕棺と共に「栗田遺跡祭祀遺構出土土器」として一括して国の重要文化財に指定されています。
今回は「栗田遺跡祭祀遺構出土土器」のうち、
5年をかけて行った大型甕棺の修復が完了したことを記念し、
甕棺の他、同遺跡出土の丹塗磨研土器群、
さらには栗田遺跡周辺の同時代の遺跡から出土した祭祀土器などを展示公開し、
筑後平野北側の甕棺墓祭祀に関連した資料を紹介します。 >>810
>>桜井茶臼山古墳の概要<
>なら、それを書けよ! >>804は知ってるんだろ?
それを他人に分かりやすく簡潔に書いてくれ、
それができてから始めてえらそうにしてくれ <
例えば、
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/sakuraicha2.htm >>820
短里が存在することの証明を
短里で距離が書かれてるらしいという書でもって行うのは
循環論法に当たる 循環論法じゃないよ
だってザラコクの脳には血液が循環してないもの >>820
1歩=1尺なんて意味わからんものあるかよ
1歩は6尺
1歩=1尺ならどっちかいらんだろ >>823
>箸墓古墳は被葬者が女性と伝えられてるけど
伝なんとかなんて、なんの根拠もないな。
平原の耳璫のような考古学的な証拠は? >>812
>仮に機内が九州勢に征服さねたのだとしても<
「仮に」にはならない。
「正北抵新羅」に拠って、倭国の中心は九州であり、
大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
倭国から別れた別種の旧小国の、倭国の地方の市を監督する大倭職の国。
>邪馬台国は機内<
邪馬台国も、機内も、存在しなかったし、
大和は、「南≠東」に拠って、邪馬壹國女王之所都ではない。 纏向は3世紀後半以降のものなのに
邪馬台国の証拠になるわけない >>820
魏志倭人伝は絶対正しくて同じ時期に書かれたであろう律歴志は正しくないと
その根拠はそう解釈すると邪馬台国が九州に有利になるからな
これも結論先にありきの循環論法 >>829
だから今のところはないよほとんど発掘できてないんだから
古墳発掘すればどっかから出てくるだろもしかしたら箸墓古墳からとか 発掘してから主張しな。
現状では全く根拠のない妄想だね。 >>831
景初3年(239年)銘入りの三角縁神獣鏡が出てまっせ
まあ正確に言えば纏向じゃなく畿内に相当する場所だけど >>834
別に発掘する必要もないね
女性被葬者なんて100以上の畿内の古墳にあるだろうなんてちょっと考えればわかる
平腹の被葬者が女性なんて邪馬台国の何の根拠にもならない >>826
>短里が存在することの証明を
短里で距離が書かれてるらしいという書でもって行うのは 循環論法に当たる<
論の出発点は、
魏志などの史書や周髀算経に、
1里が75〜90m位になる事になるにな記載がばかりが存在する、
という史料実態。
そして、短里は、それらからの帰納的な推論結果であるから、
出発時点での史料実態論が、推論結果と一致しないから、
循環論法になっていない。 >>837
なら短里が75〜90mだなんて事をどうやって証明する? >>828
>1歩=1尺なんて意味わからんものあるかよ<
周髀算経では、1歩≒1尺の記載であった事になり、
およそ、成人男性の測定長の長さ。
>1歩は6尺<
始皇帝がそんな命令を出さなければならなかった、という事は、
周代には、各地でいろんな「歩と尺の換算」習慣が存在していて、困ったから。
>1歩=1尺ならどっちかいらんだろ<
「1歩=1尺」だなんて言っていないよ。
長い距離を示す里歩系単位と、体の寸法程度の短い長さの寸法を示す尺寸系単位とは、
始めから違う別の単位系。
そして、魏朝は、「1歩≒1尺」と決めた事になる。 >>839
だからどっちかいらんだろ
同じ距離を表す単位で違う表記が混在してたらややこしいわ
メートル法でいうなら10m=10cmみたいなもんだ >>838
魏志倭人伝と実際の地理を比較すると求めることができる。
自分でも計算してみたら? >>840
別に証明する必要もないからね
畿内の全ての古墳には女性が埋まってない事を証明しろというのは
悪魔の証明だろう >>844
証明できないことを根拠もなく言い張っているだけ。 >>842
魏志倭人伝は短里が使われている
なぜなら魏志倭人伝の里は短里で書かれているからだ
はい循環論法 >>846
罵るけど反論できないのは
園児以下
w >>832
>魏志倭人伝は絶対正しくて同じ時期に書かれたであろう律歴志は正しくないと
その根拠はそう解釈すると邪馬台国が九州に有利になるからな <
魏代の律歴志は、実在していない。
全て、魏代よりもはるかに後代の史家や学者の、
魏志などの里記載を確認する事無しの「自己解釈」でしかない。
>これも結論先にありきの循環論法<
後代の律歴志の筆者が、実際に三国志などの里記載の実際距離の確認をしていない、
というからの帰納的推論であるから、循環論法になっていない。 >>845
ならそっちが証明したらいい
畿内の古墳全てには女性の被葬者はないと
俺はどっかにはあるだろと思ってるから証明する必要ないと思うけど >>835
>景初3年(239年)銘入りの三角縁神獣鏡が出てまっせ
まあ正確に言えば纏向じゃなく畿内に相当する場所だけど<
畿内なんて、存在しなかったし、
河内や摂津や山城は、大和ではないし、
倭国の「東征毛人55国」の中の別々の一国ずつだよ。 >>849
そうか
九州説は実在してなきゃ何とでも言えるのか
まあ他の時代と比べても極端に違う短里なんてあった可能性は低いけど >>849
帰納って言葉の意味を知らないで書いてるでしょ
それはそうとう恥ずかしいことだよ >>851
古墳の被葬者が女性は
邪馬台国の位置に特に関係ないという事が理解できない九州コシ そもそも漢字も伝わっていない当時の倭国に
「里」で長さを測ることが定着していたとは思えん
魏の勅使「一支国から末魯国が千里ぐらいじゃな」
邪馬台国の案内役(へえ。。。そのぐらいなんだあ)
魏の勅使「ところで案内役殿、末魯国から奴国まで何里ほどかの?」
邪馬台国の案内役「ええっとですねえ
(里って確か大陸で長さを測るやつと聞いたことがあるけどお・・
でも1里がどれほどの長さか詳細はよくわからんのよねえ
でもわかりませんと言ったらバカにされそうだし・・
むむむ適当に言っとけ)5百里でございます」
魏の勅使「ふむ さようか」 >>855
あのなあ、卑弥呼は女性だったんだよ?
キナイコシが探しているのはヤマト王権の痕跡であり、邪馬台国や卑弥呼ではないようだね。 >>858
いや別に構わんけど
まあ畿内説スレ」だし一応はね >>857
倭人は長さを図ることに慣れていないから、魏の使いが体感でおおまかに測ったんだよ。 >>860
その畿内説という名称と、嘘だらけのテンプレが炎上の原因なんだよ。 >>836
>別に発掘する必要もないね
女性被葬者なんて100以上の畿内の古墳にあるだろうなんてちょっと考えればわかる<
それなら、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」に適合する墓を見つけてから、大和説でも唱えてな。
九州には、日本で唯一適合出来る祇園山がある。
>平腹の被葬者が女性なんて邪馬台国の何の根拠にもならない<
大和の古墳に、卑弥呼の墓に当てはまる墓がなければ、大和説は、×。 >>859
古墳から女性が出れば邪馬台国か?
なら畿内からはたぶんもっと出るから畿内はもっと邪馬台国になるな >>863
>九州には、日本で唯一適合出来る祇園山がある。
平原遺跡も当てはまるし、平原遺跡の方が卑弥呼の崩御の年代に近い。 >>864
見つけてから言ってね。
3世紀の女王墓が畿内にあったら考え直してもいい。 >>862
大和説って言い出したら邪馬台国=大和国を連想さす気だやめろと
お前らは絶対騒ぎ出す >>838
>なら短里が75〜90mだなんて事をどうやって証明する?<
一寸千里の「谷本論文」や、
魏志などでの、「距離説明対象の区間がはっきりしている」記録群からの、
1里の距離の「可能性のある範囲」。 >>868
だって見つかっていないのに言い張っていたら、ただの妄想と区別できない。 >>867
たいていは畿内説側がヤマトだからと主張しているようだが?
九州説のせいにしないでくれよ。 >>863
仮に古墳から女性の遺骨が見つかっても
それが卑弥呼かどうかはっきりわからなければ何の意味もない >>872
うんだから大和説でも構わないよ
むしろ好都合なくらいだ >>855
>古墳の被葬者が女性は
島の山古墳の前方部埋葬主体の被葬者は、女性と推定されてるよ
それから、西山塚古墳の被葬者は手白香皇女の可能性が高い
平原1号墓被葬者が女性というのと同等以上の推定だから十分でしょ >>841
>(尺寸系単位系と里歩系単位系)だからどっちかいらんだろ
同じ距離を表す単位で違う表記が混在してたらややこしいわ
メートル法でいうなら10m=10cmみたいなもんだ<
測定対象が違うかったから、始めから、両方が必要であった。 >>871
畿内のどっかの古墳から女性の被葬者が見つかって
卑弥呼発見!邪馬台国は畿内で決着とかオレら言い出したらどうする?
しかも古墳は100基以上あるから女性被葬はほぼ確実にある >>876
それだと他の時代は1歩=6尺なのはどういう説明になるんだ
歩で測る測定対象が魏の時代だけ6分の1小さかった? 話題逸らしの手法
◎鏡の話、里の話に持ち込む
◎九州vs畿内を煽る >>879
なんだ桃の種すら出ない九州は羨ましいのか? >>876
>測定対象が違うかったから、始めから、両方が必要であった。
これをまじめに書いてるんだったら、どうしようもないな >>881
律暦志やほかの証拠を見るにどうやらそうではないらしいけど >>843
>どうやって計算したの? 見当もつかない<
周髀算経では、谷本計算で。
魏志などでは、
計測の起点と終点が明確な地点間の「地図上などでの距離」を記載里数で割り算して、
1里の距離の範囲」を出した。 >>839
>およそ、成人男性の測定長の長さ。
これ、本気か?
歩は複歩だぞ?
成人男子の身体尺としての歩がもともとなんだから、
成人男子の測定長の歩が尺と同じくらいってのは、あり得ないぞ >>885
谷本計算も正しい物としては扱えないね
当時の技術で80km相当の距離を直線で正確に測れた事が前提になるから >>844
>別に証明する必要もないからね
畿内の全ての古墳には女性が埋まってない事を証明しろというのは
悪魔の証明だろう <
関係がない。
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」に当てはまる墓を提示して貰えばよい。
それが嫌なら、
「邪馬壹國女王之所都」論争を諦めて退散してくれればよい。 >>889
当てはまる墓ならいくらでもあるだろう
畿内は古墳の宝庫だし >>847
>魏志倭人伝は短里が使われている
なぜなら魏志倭人伝の里は短里で書かれているからだ
はい循環論法<
魏志の里数記載の明確な距離例や周髀算経の1里距離を計算して、
それをプロットすると、
大体「75m〜90m」位の中に収まり、
長里の「434m」位とは明らかに違う里数が求められる。
それを短里と呼ぶ。
はい、どこにも循環論法なんかになっていない。
なぜなら魏志倭人伝の里は短里で書かれているからだ
はい循環論法 >>848
>罵るけど反論できないのは園児以下 w <
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘に、
罵るけど反論できない大和説者は、
園児以下。w >>892
魏志倭人伝や周髀算経の距離が短里で書かれているらしいという事を
魏志倭人伝や周髀算経が短里で書いてあったからと証明にするのは
循環論法 >>853
そうか。
大和説は、実在していても、知らん振りして何とでも言いくるめるのか?。
>まあ他の時代と比べても極端に違う短里なんてあった可能性は低いけど<
周髀算経などや、魏志などの史書群の里記載が根拠だけど。 >>854
大和説者って、帰納って言葉の意味を知らないで書いてるでしょ?。
それはそうとう恥ずかしいことだよ。 倭人伝里を実際の地図で解読してるだけだから循環論法じゃないな >>855
>古墳の被葬者が女性は
邪馬台国の位置に特に関係ないという事が理解できない九州コシ<
卑弥呼や壹與は共立女王だから、
彼女らの墓の被葬者は、まず、女性でなければならない、
という事が理解出来ない大和説の・・・・アホ。 >>856
>じゃあ大和とでも言えばいいのか <
畿内なんて「存在もしない嘘」を付くよりは、まし。 >>899
古墳から女性の骨が出てきても
それが卑弥呼かどうかわからなければ何の意味もない >>857
>そもそも漢字も伝わっていない当時の倭国に
「里」で長さを測ることが定着していたとは思えん <
当たり前。
「夷人不知里數、但計以日」だったから。
「里」を測定し、記録したのは、魏使ら。 だからこそ、三種の神器のような王であった証が重要となる。 >>858
>邪馬台国大和説でいいのでは?<
邪馬台国なんてなかったし、「南≠東」だから、×。 >>905
墓から三種の神器が出てきたら
そりゃニセモノだろ >>860
>いや別に構わんけど
まあ畿内説スレ」だし一応はね <
「畿内」なんても存在もしていなかったから、×。 >>861
>倭人は長さを図ることに慣れていないから、魏の使いが体感でおおまかに測ったんだよ。<
倭人は里を知らなかったから、
魏の使いや郡使らが、一寸千里や簡易三角測量や記里車や、歩測や日数換算などから、
大体の近似値計測を、測ったんだよ。 >>864
>古墳から女性が出れば邪馬台国か?
なら畿内からはたぶんもっと出るから畿内はもっと邪馬台国になるな<
古墳から女性が出ただけでは、邪馬壹國にはならんな。
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」などに適合しなければ。 >>868
>別に見つえる必要性を感じないね <
「「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」などに適合する墓を、
大和で見つけられなければ、
祇園山が見つかっている九州説の勝ちだよ。 >>896
短里で距離が書いてある「らしい」書物群は短里の証明には使えんよ >>912
畿内の箸墓古墳は144mで径百歩(140m)と書かれてる魏志倭人伝に適合するなあ
そんで1歩は短里ガーとか言ってくるだろうから>>828 >>841な >>913
魏志倭人伝が信用できないなら、邪馬台国論争に参加しないで、空想の国の話でもラノベ板でしてくるといいよ。 当時の遺跡が唐古・鍵くらいしかないのに
どこが邪馬台国なんだ奈良は?
三雲・井原・平原と延々と時代が続く遺跡でも見つけてこいよ畿内バカは 唐古・鍵は集落遺跡で
三雲・井原・平原は墓だからな 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>873
>仮に古墳から女性の遺骨が見つかっても
それが卑弥呼かどうかはっきりわからなければ何の意味もない <
祇園山は、墳頂の箱式石棺は、盗掘されて空っぽ。
しかし、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」に合っているし、
墳裾の第1主体の甕棺の殉葬者は、剣や鏡片を持った成人女性と判断されている。 >>874
>うんだから大和説でも構わないよ むしろ好都合なくらいだ<
「南≠東」などから、×だよ。 >しかし、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
>「其死、有棺無槨、封土作冢」に合っているし、
考古学者は否定
>>875
>島の山古墳の前方部埋葬主体の被葬者は、女性と推定されてるよ
それから、西山塚古墳の被葬者は手白香皇女の可能性が高い <
「南≠東」だし、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や「其死、有棺無槨、封土作冢」
に合わなければ、始めから×だよ。 畿内説は物証に乏しいだけでなく
ディベートも弱い・・・妄想だから >>931
アンチの投稿は内容に乏しい
頭も弱い・・・こんなふうに > 2009年歴博の発表によると、箸墓の周壕から出土された土器のススを放射性炭素年代法で測定したところ240~260年に箸墓が築造されたという結果がでた。
歴博の(一方的な)発表は学会で承認されている訳ではありません。
毎日新聞 2009年6月1日
「箸墓は卑弥呼の墓」(暦博年代測定 信憑性疑問も)
発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。
(新聞記事は東京都立中央図書館などの新聞縮刷版で確認できます) 畿内説 九州説
=========================
事実はこうだから >>>>> 俺の考えはこうだから
九州説は間違いだ | 畿内説は間違いだ
|
越えられない壁
> 一大率は刺史の如くとの説明があるが、刺史は魏の官職で地方を監察する行政長官である。
ネタ本は、渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」ですね。
私見では「一大率」=「(中国の)刺史の如き(性質の官)」は渡邉義浩のいうところの倭国への好意です。
さて「自女王国以北 特置一大率 検察諸国 ・・・ 常治伊都国」
(渡邉義浩は女王国以北について見解を述べていない)
女王国以北とは山城・近江・若狭ですか?それとも「以北」を「以西」の誤記としますか?
「以西」にすると一大率の検察範囲が山陰・山陽・四国・九州地方にまで及んで伊都国に居る一人の大率には広すぎます。当時は乗馬の習慣はありませんでした。移動手段の整った現代でさえ検察・警察は都道府県に設置されています。
(女王国を倭連合国とすると以北は朝鮮半島です。(念のため)) >>933
その理事は箸墓が卑弥呼の墓だと言ってるよ
w >>935
一大率の検察範囲がどこだとか
倭人伝には細かいこと書いてないし >>938
統属してる諸国と読めばいいんじゃないの
対馬国から伊都国まで >>900
>>歩は複歩だぞ?
>根拠なし
いまだにこれを言うバカがいるとは思わなかったわ
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497
説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。 実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更) 伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm
さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png 伊都國には王がいて女王國に従属しているから
女王國ではないよ
里数が書いてない國が女王國の構成国 >>905
>三種の神器のような王であった証
三種の神器の組合せは、そこらの普通の豪族の古墳の副葬品にも見られる
皇統の専有物ではなく、広く首長層で共有されていた葬送儀礼の一部
ちょっとググればすぐに見つかるよ >>917
>当時の遺跡が唐古・鍵くらいしかないのに
拠点集落だけで10以上あるし、集落遺跡は200以上
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>929
>「南≠東」だし、
ここで話題にしている島の山古墳の被葬者が女性であるかどうかにはまったく関係ないだろ?
本当にザラコクは論理的なものの考え方とは無縁だなww >>933
>毎日新聞 2009年6月1日
それ、もう10年近く前だろ?
その後もいろいろな研究、計測が積み重ねられて、その年の炭素で育ったのが
確実な植物試料による計測結果がつい最近も公表されてただろ?
歴博以外の独立した2機関の計測だから、歴博の計測は信用できないというのは通らない >>877
>畿内のどっかの古墳から女性の被葬者が見つかって
卑弥呼発見!邪馬台国は畿内で決着とかオレら言い出したらどうする?
しかも古墳は100基以上あるから女性被葬はほぼ確実にある<
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」に合わない墓は、
卑弥呼の墓としては、認められない。 >>878
>それだと他の時代は1歩=6尺なのはどういう説明になるんだ <
おそらく、周朝の換算ではなく、秦國内での換算習慣。
>歩で測る測定対象が魏の時代だけ6分の1小さかった?<
尺寸系は、成人男子の身体の各所の平均的寸法で、
大体「家屋」位の大きさ以下のものの計測に使用。
里歩系は、田畑や集落の大きさ以上のものの計測に使用。 >>880
>話題逸らしの手法
◎鏡の話、里の話に持ち込む
◎九州vs畿内を煽る<
大和説者の話題逸らしの逃げや騙しの手法。
◎史料事実や史料実態の基本的な全体的な話から逃げて、
鏡の話や里の話などの「各論の一部分の正否議論」に持ち込む。
◎「邪馬台国」や「畿内」や「天皇」などの存在もしなかった宗教的文言を使って、
九州説と大和説とが対等であったかのように装って、
九州vs畿内という宗教論争にすり替えて、国民を煽る。
何だか、安部自民公明とそっくり。 >>947
大和には人はいたと思うし、それなりの勢力だっただろうね
しかし、3世紀前半の文化がちょっと…まだ先進文化が入ってきてない感じ
大陸との関連も濃いとは言えないし
ホケノや箸墓から急に鉄や鏡が現れる事から、外部からの影響があったのだろう
仮に西日本に大範囲の緩い連合があったとして、大和が邪馬台国で都だとしたら、鉄や大陸製品が少なすぎるんだよ
特に巻向は乏しいし、北部九州との関わりも薄い
重要なのは卑弥呼の治世は3世紀前半だということ
トヨは可能性があると思うけどね >>882
>なんだ桃の種すら出ない九州は羨ましいのか?<
何だ?、大和は、桃の種しか根拠がないのか?。 >>883
>>(尺寸系は家屋程度以下が主対象、里歩系は集落や田畑程度以上が主対象)
測定対象が違うかったから、始めから、両方が必要であった。<
>これをまじめに書いてるんだったら、どうしようもないな<
尺寸系は、身体長が基準になっており、
里歩系は、田畑や集落長が基準になっている、
という事が、どうしても判らないらしい・・・・アホの大和説者は、
どうしようもないな。 >>933
その桃核の年代は国際較正曲線INTCAL13のみのもので、日本産樹木較正曲線JCALだと3世紀末〜4世紀頭の可能性も高いのだが、なぜこれは発表しなかったのだろうか?
表を見ると日本産樹木較正曲線JCALでは2通りの可能性があり、従来の土器編年と比べると後者の方が妥当に感じるが >>954
九州説は現実味のない夢ばかり見ているね >>958
そう思うのは
従来の土器編年を
知らないからだな >>884
>律暦志やほかの証拠を見るにどうやらそうではないらしいけど<
魏西晋代以後のわか後代史書の律歴志は、
魏西晋朝は(秦漢の里ではなく)周朝の里を使っていた、
という事が全く判っていなかったアホであったようだから、
どうしようもないな。 >>886
>短里はどう理屈こねてみても矛盾だらけ<
大和説者は、
周朝や魏西晋朝は短里を使っていた、という史料実態が、
どうしても理解出来ないらしい・・・・アホ集団であったらしい。 >>887
>>およそ、成人男性の測定長の長さ。<
>これ、本気か? 歩は複歩だぞ?<
お前もアホか?。尺寸系の「尺」長の長さの話であり、足底長の長さだぞ。
>成人男子の身体尺としての歩がもともとなんだから、
成人男子の測定長の歩が尺と同じくらいってのは、あり得ないぞ<
「歩」は、里歩系であり、
尺寸系の単位ではなかったんだぞ。 漢文のまったく読めない九州珍説は
「今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。」
が理解できない
かわいそうだね >>888
>谷本計算も正しい物としては扱えないね
当時の技術で80km相当の距離を直線で正確に測れた事が前提になるから<
周髀算経は、太陽高や太陽直径を簡易三角測量で計測計算しているから、
「見えておりさえすれば、80km相当の距離を直線でほぼ正確に測る」事も出来たし、
途中での障害物があっても、分割して計測出来たの。 >>890
>>「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」に当てはまる墓を提示して貰えばよい。
それが嫌なら、「邪馬壹國女王之所都」論争を諦めて退散してくれればよい。<
>当てはまる墓ならいくらでもあるだろう 畿内は古墳の宝庫だし<
あるんなら探し出してくれてもよいが、
どっち道、「南≠東」などに拠って、×だよ。 当然ながら次スレはここだよな
↓
>>0921 1 ◆UiepmfCeDJqf 2018/06/05 05:14:38
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>891
>祇園山のような集団墓地は日本中いくらでもある<
「集団墓地」だけではダメだよ。
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墓だよ。 >>968
ならば伊都国のある方角もわかるから
東南陸行なんて書くわけないよな
トンデモ説が自滅してら
ww >>976
毎度ニセスレ立ててる奴って、なんか心を病んでるの? >>944
>皇統の専有物ではなく、広く首長層で共有されていた葬送儀礼の一部
根拠なし。
>ちょっとググればすぐに見つかるよ
それが正しいという根拠は? 桃の種が3世紀だとどうして卑弥呼がそこにいたことになるんだ?
柿の種ではまずいのか? >>895
>魏志倭人伝や周髀算経の距離が短里で書かれているらしいという事を
魏志倭人伝や周髀算経が短里で書いてあったからと証明にするのは
循環論法<
記載から一里の距離を計算したんだから、
どこにも循環論法になっていない。
はい、拠ってお前は・・・・アホ。 >>983
記載から、どうやって一里の距離を計算したの?
ww >>983
魏志倭人伝や周髀算経?
一部の短里信者が結論先にありきで何やらコジ付けてるアレのこと? >>902
>>倭人伝里を実際の地図で解読してるだけだから循環論法じゃないな<
>循環論法だよ<
大和説者って人種は、全くの・・・・アホだな。 >>986
返答に窮すると罵って誤魔化す敗者
自意識過剰な老人によくある卓袱台返しね >>984
地図と見比べるだけだろ。
畿内説のレベルの低さに呆れた。 >>913
>短里で距離が書いてある「らしい」書物群は短里の証明には使えんよ<
「短里の証明」になんか使わないよ。
「一里に相当する距離」の帰納的推定、に使うんだよ。 >>988
そうか
地図と見比べただけか・・・
「記載から一里の距離を計算したんだから」
などと
またウソをついていたんだな? >>914
>畿内の箸墓古墳は144mで径百歩(140m)と書かれてる魏志倭人伝に適合するなあ
そんで1歩は短里ガーとか言ってくるだろうから>>828 >>841な<
「大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」に、
全く合わないから、始めから×だよ。 地図上の距離と魏志倭人伝の記載を比べたと言う意味だろ。
キナイコシには日本語が通じないのか? >>978
>根拠なし。
ほいよ、根拠
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
もう当然に既知のことだから、何度も書くのをやめただけなんだけど
情弱の人には、新しい情報なんだねぇw
びっくりだよw >>915
>祇園山? ぜんぜん合ってないけど?<
「大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人」や、
「其死、有棺無槨、封土作冢」に、
ほぼぴったりだよ。 >>965
>お前もアホか?。尺寸系の「尺」長の長さの話であり、足底長の長さだぞ
相変わらずバカだなぁ
尺が足裏長さの訳がなかろう
たまに、歩が足裏長さだという大バカが湧くけれど、
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