邪馬台国畿内説 Part354
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528820870/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979___________170.3 18.5 159.0 17.1 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。 神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東に元々住んでいた人々が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 日本書紀を編纂した天武朝は、神武系だったのかもしれない
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。
天武の時代に隼人の乱が起きたのは当然と言える。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた尾張三河の勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。 尾張辺りには石作神社が散見される
あま市石作神社
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか? やっぱりシラ、白も重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取、神奈川、埼玉 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火など火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。元々は古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
久留米では、牛鬼を退治しその耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 前スレ埋めなくていい
900越えてたら、新スレで無視される
畿内説の今までの手口
臭い物にはフタ 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。
キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。
ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族
サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 畿内説が破綻したと主張しているのはキチ
纒向遺跡 邪馬台国論争「畿内説」に画期
毎日新聞2018年5月14日 14時07分(最終更新 5月14日 14時35分)
解説
邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の中心的施設跡で出土した大量のモモの種について、
放射性炭素(C14)年代測定で「西暦135〜230年の間に実った可能性が高い」との分析結果が出た。
遺跡は邪馬台国より後の4世紀以降とする異論もあるが、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の活動時期と年代が重なる今回の分析は、
遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。 スレ主は奥山で正解
okuyamaと自分でミスってかき込んでしまった
2017/12/05(火) 18:49:51.41
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな 660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm
664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、
『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005
668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003 674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm
>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。 「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20180527/Cyzo_201805_post_163508.html
歴史ブームも、光あるところに影がある。
若い世代には歴史をテーマにしたあらゆる形態の作品が人気を博したり
『応仁の乱』や『観応の擾乱』といった、
マニアックなジャンルの歴史書がベストセラーとなる昨今。
だが、人気の裏にはさまざまな問題もあった。
「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で
『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』
という人が、最近多いんですよね」
そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。
すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、
リタイアした団塊の世代による独自研究の「持ち込み」が増加しているという。
「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。
でも、だいたいはトンデモ論。
原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、
一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで
『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同) 今 #okuyama
って打ち込んでも出ないよ
昔の話だから
スレ主のお馬鹿が迷惑したのは
奈良県立橿原考古学研究所の
奥山 誠義 OKUYAMA Masayoshi
👆
彼はスレ主と同姓だが関係ない >>92
>
「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で
『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』
という人が、最近多いんですよね」 <
それよくわかるが
バックが強いと纏向学研究センターなるヘンテコなものが出来上がる
橿原考古学研究所の一部で纏向やればいい
税金の無駄遣い センター長のポストが減り、施設も減り、職員も減り
諸々減る
税金の無駄遣い削減できるし・・・・・ >>96
ムリ
埋蔵文化財センター長のポストは市教委
纏向学研究センター長のポストは県教委
桜井市の財政には違いないが 寺澤が纏向学研究センター閉鎖して清算すべき
彼の在任中は許してもいい・・家族のためかな >>1=◆FAQ 5 以下 帰納的推論で立証せよ
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。 帰納的推論:
(1)
今朝は太陽が東から昇った、昨日も太陽が東から昇った、その前も そののその前も...。
だから、太陽は毎日東から昇る。
(2)
あのカラスは黒い、このカラスも黒い、あっちのカラスも黒い、いつか見たあのカラスも黒い...。
だからすべてのカラスは黒い。
要するに、個別の言明((1)だと一個一個の日に対する言明)から一般的な言明(すべての日についての言明)を引き出す推論 >>33
》卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
死んでから、10年近くも殯(もがり)を行ってたのかアホ。
卑弥呼のお父さんお母さん、叔父さん叔母さん、男弟、
2世紀前半の其国の男王、その後の王、
それぞれの墓を答えてもらおうか。
ヒミコが誰なのか考えずに適当な事を言うなアホ。 鴨厨
金関 恕や和田萃も解けなかった「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏とヒミコの関係を解いた天才である。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 古墳の序列は大>中>小だがそれ以外にもある。
立地場所だ。
上座>中座>下座になる。
実際、各地域の上座にはその地域の始祖王らしき人物の墓がある。
例を挙げれば河内の玉手山古墳群、交野の森古墳群、讃岐の萩原墳墓や猫塚などなど。
では大和盆地の最上座とはどこか。
高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg
トヨもヒミコも、ヒミコの父さんやお母さんも、叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後にこの地に埋葬され、高天原の神々になったのだ。
箸墓なわけないだろ、アホの>>1 アホの>>1 アホの>>1 ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
ヒミコの時代から1700年後、土蜘蛛の末裔たちが高天原の麓で声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が20世紀の水平社運動の原点となる。
ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代、土蜘蛛=奴婢を束ねた男がいた。
日向から来た神武である。
だから今でも水平社博物館と神武社が並んでいるのだ。
http://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png ではここのアホの>>1が言う箸墓古墳とは誰の墓であろうか。
箸墓古墳と強い近似性を持つ二つの古墳がある。
京都の五塚原古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は
箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。
また山代も河内も庄内土器で纏向と共通する。
つまり「伊香色雄命」という一人の人物が浮かび上がってきた。
彼が磯城の王であったことは妹の伊香色謎命(いかがしこめ)とヒメヒコを形成してる事でも明らかだ。
その伊香色謎命(いかがしこめ)から産まれたのが崇神である。
箸墓古墳とは「伊香色雄命」の墓であろう。 >>101=>>102
帰納的推論では説明できない
>>1が悪いのでは無い
引っ張ってきた出典が悪いか、1のテンプレの構成が悪いだけじゃねーの 朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この【屈辱的な史実】を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらした。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代もやたら猛々しい神武東征紀でさも男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。 >>95
あんたが口を出すことではない
設立の目的がが違う 橿原考古学研究所や各センターの設立趣意書を見たのかな >>71
>三輪能<
纏向から3世紀の木製の仮面が出土している
能面のルーツかどうかは分からないが
脳の歴史はもっと後世 九州説自体が極右によって創り出された虚構。
新井白石や本居宣長は、
大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という史実を、
国学者のプライドとして認めることが出来なかった。
だから「当て馬」として九州をあえて出した。
九州説なるものを創作し、馬鹿を集め、議論させる。
議論してるうちは大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という重い荷物を着席させずに済む。
永遠の水入り、永遠の非着席、永遠の中腰を狙ったのだ。
これは天才の発想だ。 前スレ終わってないから、書き込んでるやつ荒らし扱いだぞ
どうでもいいけど 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」 炭素年代法 は きな臭い
☟☟☟☟☟☟
纒向の桃の種 ( 纏向学研究センター)
西暦135〜230年
卑弥呼の死亡時期 (倭人伝)
西暦247〜248年
箸墓古墳の土器付着物 ( 国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
☝☝☝☝☝☝
纒向は100年余りの誤差があるが・・・・2世紀から3世紀に持って行きたい???
箸墓は20年の誤差・・・卑弥呼の没年に持って行きたい????
この誤差はなんだ?やり直し >「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
何かしてけつかんねん。
ヒミコが誰なのかキチッと考えてないから間違えるわけだ。
ヒミコは葛城だ。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 炭素年代法 は きな臭い
☟☟☟☟☟☟
纒向の桃の種 ( 纏向学研究センター)
西暦135〜230年
卑弥呼の死亡時期 (倭人伝)
西暦247〜248年
箸墓古墳の土器付着物 ( 国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
☝☝☝☝☝☝
纒向は100年余りの誤差があるが・・・・2世紀から3世紀に持って行きたい???
箸墓は20年の誤差・・・卑弥呼の没年に持って行きたい????
この誤差はなんだ?やり直し 炭素年代法 は きな臭い
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纒向の桃の種 ( 纏向学研究センター)
西暦135〜230年
卑弥呼の死亡時期 (倭人伝)
西暦247〜248年
箸墓古墳の土器付着物 ( 国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
☝☝☝☝☝☝
纒向は100年余りの誤差があるが・・・・2世紀から3世紀に持って行きたい???
箸墓は20年の誤差・・・卑弥呼の没年に持って行きたい????
この誤差はなんだ?やり直し 炭素年代法 は きな臭い
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纒向の桃の種 ( 纏向学研究センター)
西暦135〜230年
卑弥呼の死亡時期 (倭人伝)
西暦247〜248年
箸墓古墳の土器付着物 ( 国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
☝☝☝☝☝☝
纒向は100年余りの誤差があるが・・・・2世紀から3世紀に持って行きたい???
箸墓は20年の誤差・・・卑弥呼の没年に持って行きたい????
この誤差はなんだ?やり直し 桃の種なんてどうでもいい。
勝山古墳の祭祀に使われたと言われる木材を、
中塚武教授の酸素同位体比を使った新しい年輪年代法で鑑定すればいいだけ。
なんでやらないのだ、アホなのか。 >>124
年代詐欺がバレると困るからだよ。
言わせんなよ恥ずかしい。 >>125
もし鑑定して、勝山や纏向石塚の板材は光谷の年代が正しかったとしたら、
九州説はあきらめるのか? 前は桃核を測れ測れと言ってたな
測って自分に都合の悪い結果でたら
これだよ
w >>959
>用例とか同時代性とかをことごとく無視したりねじ曲げたりするのが伊都クズ<
都合の悪い「原史料」を、ことごとく部分否定して曲解捏造し、
異なる時代の用例を絶対論拠にしたり、口先ヘイトスピーチ宣伝をして、
世間の人々を騙そうとするのが、大和説教学者やその信徒の大和説者。 >>960
>>どこが「片方の足跡」になっているんだ?。<
>これも何度も貼ってるんだがな
https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
前が「止」で後ろが「𣥂」の象形文字
二つ合わせて「歩」になるんだよ<
何だ?、
「歩」は、(前後方向の大股歩行ではなく)、
上が「止」で、下が「少」であり、
片方の下肢の最小限の動きを表している事になるではないか。
それなら、「足底長」と同じだよ。 >>124
年輪年代法で分かるのは材木の育った年代で建物が建った年代は分からないよ
材木の育った年代以後に建った建物だとしか分からない。 >>130
少なくとも
歩という単位が「足底長」一個ぶんだと言い張る人が
救いようのない脳足りんだと
http://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
が証明してる >>961
>祇園山古墳のWikipedia、えらい適当な編集がされてるな・・・<
不満なら、
発掘報告書と、
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
の両方を読んでみな。
私も、
筑紫の前方後円墳時代の前になる事と、
庄内や、甕棺や、三角縁神獣鏡や、殉葬第1主体の鏡片の成人女性や、
冢である事などから、
列島で唯一の、「卑弥呼の墓」である、可能性のある墓だ、と特定している。 つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>133
また「殉葬第1主体」とかデタラメ書いてて藁 殉葬第1主体について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>963
>韓、倭を服属させた司馬懿の功績に手をつけることを恐れたため韓・倭の権威・国力に関わる数字が10倍のまま修正されていないと仮定した場合
水行二十日、水行十日、陸行一月、奴碑千人、径百余歩、殉葬百人も10倍されていると見るべき<
魏使らは公務員であり、10倍誇張のウソを書いて見つかったら、罰せられるし、
後からも張政らの何人ものらの使節が来ているから、ウソを書けば簡単にバレる。
>邪馬台国の七万戸は一戸5人なら35万人で日本の総人口60万人の半分以上<
一戸5人がそもそもインチキ。
一戸は1〜5人で妥当。
>壱岐島三千家はあの狭い島に15000人/60万人で日本の総人口の約1/40も壱岐島にいる計算になる
明治時代の30000人/4000万人の約1/1333と比べて異常な数値である<
吉野ケ里で千戸位であるから、異常に大きい数字ではない。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。 今、5年ぶりに覗いたけれど、5年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 >>138
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 >>144
>1今、5年ぶりに覗いたけれど
うそつけ、おまえ毎日居ついてるやつじゃないかw >>964
>韓の家が平均4人以上なら、半島南部だけで日本の総人口を上回る計算<
韓の家が平均4人以上、という設定や、日本の総人口の設定が、そもそも異常。
韓の家が平均1〜4人位であり、
農業が広まった地域の人工と、狩猟漁労中心地域とでは、始めから比較にならない。
>扶余の10倍近く、高句麗の25倍という韓の人口密度は異常
よって韓の家数も里数同様に誇張されているとみて間違いない <
扶余や高句麗は、農業だけでは食うに困難であり、狩猟漁労地域だ、と言うべき。 「歩」は元々「步」で、「少」(小さい点の象形)とは字源が別 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は何もないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>131
>年輪年代法で分かるのは材木の育った年代で建物が建った年代は分からないよ
どれはそうなのだが、まず祭祀に「古材」は使わないであろうから、
勝山古墳の場合は、木材の年代がが被葬者埋葬の時代であろう。 伊都説の根拠とされるものがまったく役に立たないものであることが、優れた5ちゃんねらーによって明らかになったな 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/08/31(木) 21:18:37.45
なんですか、大規模工事の女性墓を探すぐらいが、畿内説では突合というのですか???
笑わせないでください。
で、伊都国説への反論では、、、、 >>135
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>966
>ただ一人の倭王のための墓、大作冢と特記された墓が、
いくらでも候補があるような凡百の墓ではおかしいとは思わないのかねぇ
時代が合う厚葬墓で、最大の墳丘を持つものが第一候補だよ<
×だな。
魏の家臣になった限り、薄葬令に制約され、楽浪太守程度のサイズを守るしかない。
>「径百余歩も同時代それに相当する冢はないが」となるのは、恣意的に
倭国を九州限定にしているから
北部九州の外には、古墳時代に入る前から巨大な墳丘を持つ首長墓が、
吉備、出雲、丹波、大和で作られるようになっているよ <
魏の薄葬令の規制にかからないような、地域の墓サイズは根拠にならないし、
倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」地域の墓は、「南≠東」に拠っても、
始めから卑弥呼の墓の権利はない。
そういうのをすべて無視して、無理やり倭国を大和限定にしないと
成りたたないのが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説。 そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 >>155
最有力の説は、粗末な土間の掘立小屋の遺蹟だね。。。 >>967
>>(平原一号墳)副葬品だけ見れば卑弥呼の墓の条件を満たしていると言えるが<
>魏晋代の舶載鏡が一枚も副葬されてないんですがそれは?<
それ、柳田のインチキ。
洛陽晋墓の内行花文鏡との対比をしていないし、
21枚の「尚方作」の方格規矩鏡の存在を無視している。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 >>969
>径が小道だとしたら
箸墓には円部の直径に近い直線の小道があったことにならないか<
箸墓は、「南≠東」などに拠って、始めから×。 キナイコシが連続句読点に過剰反応するのはなぜだろうか、、 >>970
>参詣径だとしたら、
前方後円墳は、遺体は円墳の頂上に埋葬され、方墳はあくまで頂上に至る通路としての役割として
径百歩はどこからどこまで?? <
卑弥呼の墓は、(前方後円墳ではなく)、
始めから「冢」であるから、×。 >>146
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 名前:岡上 ◆Lv09mLa3HM Mail: 投稿日:2018/05/20(日) 22:58:47.10
パート2、3は消費が早かったですが。。。
どれぐらいで規制かかるんでしょうね?
名前:岡上 ◆Lv09mLa3HM Mail: 投稿日:2018/05/20(日) 23:00:58.76
あのねぇ。。。
岡上病は自粛願います(笑) >>161
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、連続句読点使用者の究明に、話を逸らしているな。。。 >>165
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 連続句読点使用者の発する意見について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>150
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 >>153
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>144
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>145
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 >>174
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/08/31(木) 21:18:37.45
なんですか、大規模工事の女性墓を探すぐらいが、畿内説では突合というのですか???
笑わせないでください。
で、伊都国説への反論では、、、、 >>971
>卑弥呼の冢が築かれた時代を考えてみよう 卑弥呼の死の直前は
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
卑弥呼の死後は 更立男王國中不服更相誅殺 という戦乱の時代
築造年数 約15年8か月 作業人数 約680万人 費用約800億円
これは仁徳天皇陵の試算だからこれよりかは幾分少なくなるだろうが、これほどの年数、人員、費用を戦乱の時代に墓造りに割けるだろうか?
いや割けない、戦争・戦乱でそれどころではないはずだ <
これは、卑弥呼の墓の「径百余歩」の「歩」を、
始皇帝の「1歩=6尺」の135cm余り位だ、という計算で書いている事になり、
魏朝の「周制への復古」の周髀算経の「1歩≒1尺」の25.5cmの計算とは、
全く違って、極端に過大になっておりになっているようなので、
論拠にならない。 >>975
>関川尚功編年とか大昔の、しかも調査報告書で没った編年を持ち出しても
なんの反論にもならないでしょ <
「南→東」などのような、
史料事実を否定曲解するような嘘つき騙しの大和説に所属するような、
嘘つき学者の「調査報告書の編年」説なんて、
何の反論にもならないでしょ。 >>978
>伊都説ボロボロだな<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、ボロボロだな。 >>168
同じじゃないのかな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているからね。。。 >>163
連続句読点は、畿内説を妄信するキナイコシを、完膚なきまで叩きのめしている、優れた考古学者が、インターネット上の投稿で、多用する癖なのではないのかな。。。 >>158
仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
畿内説者のレベルの低いこのスレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。 岡上氏は、テンプレートを貼り付けているあの狂った奈良の老人には脅威のようだね。。。 >>188
仕方ないよ。。。
端から見ていると学識とIQの差がありすぎるのだもの、、、 >>189
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、 >>170
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>172
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 >>176
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 名前:岡上 ◆Lv09mLa3HM Mail: 投稿日:2018/05/20(日) 22:58:47.10
パート2、3は消費が早かったですが。。。
どれぐらいで規制かかるんでしょうね?
名前:岡上 ◆Lv09mLa3HM Mail: 投稿日:2018/05/20(日) 23:00:58.76
あのねぇ。。。
岡上病は自粛願います(笑) 前スレ>>975
反論しなくてはならないのはそっちだ
寺澤薫も土器編年では絶対年代を特定できないと言ってるのに、何を根拠に古墳の年代を決めているのであろうか
そもそも土器編年を定めるにあたって明確な基準などなく
編年の上限下限の須恵器や寡銭の時期も土器の一代の長さも土器の形式数すらみな統一の基準はない
このような状況の中でこの編年は正しくこの編年は正しくないとする根拠はない
そして何をどうすれば箸墓の年代を3世紀中頃になるのだろうか
何度も言うが畿内説の大御所の寺澤薫の編年でも時代が合わないとしているのだ >>164
だよね、
箸墓は前方後円墳だから論外だな まだかいな、紅花花粉、バジルの、炭素年代測定の結果 >>980
>(関川編年)大学出たての時の作だもの拙劣なのは仕方ない
問題は何年経っても間違いを直さないこと<
新しい大和説者や考古学者は、
大学時代から「南→東」などの嘘つき騙しの大和説教授らの説を、
ずっと妄信隷従して来ていて、
関川氏や九州説者らの批判を拒否しているアホ学者だった、
という事。 キナイコシと畿内説は関係無い
キナイコシに畿内説を語る資格はない
出たとこ勝負の詐欺師 >>200
そんなもの測定できるわけない
非常識だな >>984
>負け組の九州説さん もう中傷しか打つ手がないんですか? ww <
「南≠東」で始めから負け組のwwや大和説者さん、
もう口先での中傷しか、打つ手がないんですかい?。 >>985
いろんな研究者の言うことがだんだん纏まってきたな。
そろそろ、
邪馬壹國女王之所都は筑紫、
ということで決着がつきそうだ。 >>205
「南≠東」なんて、とっくに論破されてるのに >>987
纏向は、3世紀末。箸墓は4世紀。
「南≠東」で、大和は、
「邪馬壹國女王之所都」ではなく、
倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国。
矛盾なくまとまって来たね >>989
>九州説、頼みの綱は我流トンデモ読みかw <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、
頼みの綱は、wwらの口先騙しと、我流トンデモ読みか。 >>991
>だから「歩」を靴のサイズだぁみたいにいうのはナンセンスな珍説
そうなら「歩」じゃなくて「脚」を使うだろって話 <
「脚」は身体の部分呼称。
距離や長さの単位としての「歩」は、「少し止まる」位の距離。 >>1000
あらゆる史料や学問を否定するや大和説。
大体もう九州説で決まりだからな。 >>201
>関川氏や九州説者らの批判を拒否しているアホ学者だった、
関川のほうが昔の古い説なんだから
関川の批判を拒否とか言うのは
時系列的に狂ってる。 >>212
>距離や長さの単位としての「歩」は、「少し止まる」位の距離。
それは間違った俗説だね
「歩」の古字は「少」を含まないない >>191
では、大物主は何年前の者だろうか、、、 >>197
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/08/31(木) 21:18:37.45
なんですか、大規模工事の女性墓を探すぐらいが、畿内説では突合というのですか???
笑わせないでください。
で、伊都国説への反論では、、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上氏という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。 最近、僕たちは、銅鏡のことを研究しているのだが、キナイコシは、今日は銅鏡のことを話題にしないな。。。 >>219
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 >>228
仕方ないよ。。。
岡上氏なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
張り付けているテンプレートを論破され続けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>229
キナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 >>130
>片方の下肢の最小限の動きを表している事になるではないか。
>それなら、「足底長」と同じだよ。
足跡が二つ書いてある時点で、複歩だってことをまず認めなさい
複歩であれば、足底長であっても25センチ前後にはならない
まあ、足底長っていうのは、まったく意味がない
ザラコクの足りない脳内での思いつきにすぎないのだが、
それすら、きちんと否定されてしまう訳だ >>212
>距離や長さの単位としての「歩」は、「少し止まる」位の距離。
大笑い
「歩」はもともとは「步」
https://jigen.net/kanji/27493
で、ザラコクさんが「少し」とか言っているのは
「𣥂」
https://jigen.net/kanji/145730
で、「少」とは別の文字で、音読みはタツ
「止」の反字
漢典の「𣥂」も貼っておくよ
http://www.zdic.net/z/92/js/23942.htm
异体字ってところを見てごらん
「止」の反字って意味が分かると思う
まあ、環境によっては、表示されない文字だらけだけど >>65
ごれも、スレ更新の投稿の最初に、
「大和朝廷」や「倭国大乱」などの存在しない文言を使って、
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説者の、
インチキ投稿。 >>66
この投稿も、
「大和朝廷」や「畿内」などの存在しない文言を使って、
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説者の、
インチキ投稿。 >>127
この結果に都合の悪いのは恐らくは畿内説だろう
桃の種130年〜235年、一緒に計測された土器付着物は100年〜200年というが現在多数説の布留0式280年、それと同時期から少し前の庄内3式の年代から大きく遡る
桃の種は100年の誤差があれど実際の示す年代はその中の1年でしかない
12個の桃の種の試料を平均した確率分布法のグラフを見たが山が140年前後、180前後、220年前後に3つあるものの、谷の部分は山よりあまり低くはなっていないほとんど平らな状態
つまり卑弥呼の年代の230年ぐらいをピンポイントで示してる確率は低く、130〜230年の間ほぼ等しいぐらい可能性がある
となるとこの試料からは纏向が後漢の時代を示す可能性の方が極めて高いと言えるのになぜそうは言わないのだろうか ザラコクさんのやっていることは、世間で通用しないごまかし詭弁だからねぇ
畿内がなかった、って言われたら、日本人の100人中98人以上が
「はぁ? 何言ってんだこいつは?」としか思わないよ
ただ、畿内説スレの議論を妨害するためだけに
延々と無意味な書き込みを大量にし続けるあたりが、
大方の日本人とは異なる価値観で生きてるんだなぁっていう証拠だね
頭悪くて、現代物理も分からないし、論理展開も理解できないし
漢文も読めないし >>165
>では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、
神武から6代考安まで。
彼等には后(奥さん)はいるが妃はいない。
7代孝霊から複数の妃がいる。
神武から6代考安までが女王国であった証拠だ。 10代崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
この時代が女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武の死後にヒメ踏鞴が寡婦であった状況であろう。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。 纏向に卑弥呼はいなかったことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>244
最有力の説は、粗末な土間の掘立小屋の遺蹟説だね。。。 粗末な土間の掘立小屋は大物主の物ではなかったのかな。。。 頭が変なだけでは駄目
心も病んでないと
九州説は続けられない
という
ひとつの結論 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。 >>248
桃の種のことで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 他のスレにも書いたはずなんだけど、
何か知ってる人がいるのかな?
家の母親は『藤ノ木』というところの生まれ、
弟(家の父親、兄もいたけど、もういない)と結婚したんじゃないの?とか
『松傾』のような名前の家なんだけど 卑弥呼が居たのは伊都国で魏使も伊都国までしか来てない
邪馬台国畿内説とか妄想
纏向って何ですか? 神奈川県の川崎区の話なんだけど
キュウリの葉、葱の華・・・写っている写真とかw
家の隣に高野さんが住んでいて、
うちだゆーや?のバンドでドラムをやっていたり、
(いまは鶴見のほうに引っ越したみたいだよと言っていた、横浜の鶴見) もれ(弟)がいて・・・・・・兄、妹:5月15日生まれ
同じ幼稚園に島津というのがいたり、小中学校も同じ。
子孫、末裔の話は別にしても、偶然? 偶然にしては出来すぎている
母親の実家の裏(庭)に竹が生えていたり、
数十本くらい?だったかな、青竹?そのような濃い色のものではない 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、意味を理解できない呟きだけになってきているな。。。 コンドウという名前の家で、家の家紋は下り藤だよとか、
でも良い家の〜だとは言ってないw 本当に職業が、わからない、家の話
蚕、機織りの話、
いま小手子の像が立てられているところがあるんだけど、
むかーし、その辺りに住んでいたことがあるんだよとか 群馬の藤ノ木というところなんだけどw
松傾?の家に来た(嫁)という話
どうなっているんだろう これも本当の話
高野さんは茨城県とか、
そっちのほうの人だよ
と言っていたり 受験などではないんだけど、
亀戸(天神)に行ったこともあるんだよ
という話とか
これは老婆が生まれるよりも前の話 キュウリの葉、葱の華・・・・あの写真
子供がいて、
白い制服のようなものを着ているけど、
軍人ではないと言っているし、警官でもないとか 最近、気づいたことなんだけど、
家の真似をしている人がいたとか?
そのような気がするんだけど、
家には力夫?という名前の親戚もいないし 昔の事だから、詳しいことは、わからないんだけど、
どこだったかな〜、城に通っていたんだよという話、
当時、住んでいたところは、確実に伊達郡だと言ってるし
老婆は二本松のほうの生まれ >>67
>魏志倭人伝 邪馬台国の官<
邪馬台国なんてありませんから、この男も大和説者と同じく、×人間です。
>伊支馬は生駒。
>邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。、
大和朝廷も「南≠東」などのよって存在しませんから、
この男は、やっぱり、×人間です。 >>68
>魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。<
「南≠東」などのよって、この男は×。 >>69
>邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな<
「南≠東」などに拠って、この男は×人間。 >>71
>関の向こう側に追いやられていた尾張三河の勢力が、
ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。<
この作文も、「大和朝廷」なんてなかったから、×ね。 >>75
「天皇」も「皇后」もまだいなかったから、
この作文を書いた男は、×。 >>140
破賊文書 舊以一為十 及淵上首級 如其實數
軍事報告書は、旧くは一を十と表記していたが、淵の反逆した賊の首級報告は、実数そのままだった
軍事報告書は元々数を10倍するのが常
国淵さんは反逆した賊を10倍報告したら身内の恥を大きく見せることになると判断し、自らの武功を捨ててまで実数で報告した
実数で報告したので、首級がそこから1/10判定を受けて武功少なしと怒られそうになったが、国淵さんの思惑を曹操が理解してくれたので逆に誉められたという話である
曹操の青州兵三十万と男女百万の降伏を受けたとか、黄巾軍三十万を破っただの武帝記の曹操の武功は10倍のままだ
これは曹操の功績に手を着けるのを憚られたからだと言われている
吉野ヶ里は人口が全盛期で1200人と見積もられている、戸数ではない
重要なのは比率だ
数字や統計は嘘をつかない
壱岐に当時の日本の人口の1/40が集まっていたなどと誰が信じられようか >>86
>(箸墓)同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、
陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。<
「邪馬台国」なんて存在せず、
「卑弥呼の墓」も「南≠東」などに拠って始めから×であり、
「森岡理事」らも、云うならば、皇国史観宗教に狂った・・・・詐欺師。 >>87
>畿内説が破綻したと主張しているのはキチ<
畿内なんて存在もしなかったし、
未だに「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を主張しているののは、キチ。
>纒向遺跡 邪馬台国論争「畿内説」に画期 毎日新聞・・・<
毎日も、右翼マスコミの半分×新聞であり、
「AMS法は古い年代が出る」という批判がある事を無視しているから、
×新聞。 >>92
>そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。<
郷土資料館の職員なら、そりゃ、大学で、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に、
十分に教育され洗脳隷従させられたハクチ人間でしかないから、
そんな人間の発言など、全く根拠にならない。 >>99
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の、
妄想の自演が酷い。 >>101
>小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、
誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。<
通信使が、
「魏代の魏使らのような、周髀算経の里数や東西南北を計測」を知らず、
案内の船頭さんらにも確認せず、
勝手な判断で記録したアホであった、というだけの事。
そんな記録が、3世紀の魏志の記録の正否の判断根拠になる筈がない。
という事は、スレ主も、
大和説にとって都合の悪い記録を、
はるか後代の全く根拠にならないの記録に拠って、否定抹殺した・・・・詐欺師であった、
という事。 >>103
>>33 》卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある<
其八年、太守王kui到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人。
の記載順であるが、
奇妙な事に「詔書、黄幢」を、
本来卑弥呼に対して齎し拜假すべきなのに、そうではなく、
難升米に対して「爲檄告喩之」をしており、
卑弥呼は、謁見出来る状態ではなく、例えば既に病床にあった、という可能性があり、
従って、卑弥呼は、景初八年の直ぐ後頃に亡くなってしまった可能性が高い。
拠って、卑弥呼の「径百余歩≒26m余り位」の墓は、
250年頃には出来上がっていた事になり、
布留であるために4世紀になる箸墓とは時期が全く合わず、
勿論「南≠東」でも、箸墓は完全に否定される。 >>104
>※ヒメ踏鞴(248年没)<
ヒメ踏鞴は、「南≠東」などに拠って卑弥呼ではないから、×。 >>105
>高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。 ・・・
トヨもヒミコも、ヒミコの父さんやお母さんも、叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後にこの地に埋葬され、高天原の神々になったのだ。<
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>106
>ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。<
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>107
>彼が磯城の王であったことは妹の伊香色謎命(いかがしこめ)とヒメヒコを形成してる事でも明らかだ。<
ssnは、大和付近の話だけで止めておけば、よかったものを、
「ヒメヒコ」などと、卑弥呼を匂わせた瞬間に、
「南≠東」などに拠って、全部×になってしまった。 >>283
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! ズラ酷使…
失礼!変換ミスでした、改めて。
zarakoku氏。
「南≠東」をいちいちレスしなくていいから。
いい加減にしてくれ。 ひなすら「南≠東」など変なお経を唱えてる人がいるな
何も知らないんだろう >>108
>(朝鮮通信使)帰納的推論では説明できない
>>1が悪いのでは無い
引っ張ってきた出典が悪いか、1のテンプレの構成が悪いだけじゃねーの<
はるか後代の、
「周髀算経などの里計測や東西南北計測も出来ずに、勝手は里数や方向を書いた」、
朝鮮通信使の記録は、始めから、
帰納的推論の論拠にもならない代物。 騒動宗、何やら〜、
悪く言うと騙り、成り済ましだと言ってるわけなんだけど
家は川崎に住んでいて、
近所の寺院に通っていたみたいなと言っているし
仏教でいうと何宗? >>109
>266年 台与 トヨ津
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴 <
「台与」なんて存在しないし、
「南≠東」などに拠って、×。 談(話)、家の近所を調べてみると、
真言宗、天台宗・・・あと、
もう一つ?だと思うんだけど
大島、中島(川崎区)のほうの寺院だと言っているし >>112
>九州説自体が極右によって創り出された虚構<
大和説自体が、「大和天皇家一元列島支配」という、
極右の「万世一系支配の皇国史観の」に拠って作り出された虚構。 >>116
>畿内説は実は東遷説だな。 【畿内説の主張のまとめ】 (奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」<
東遷説にも2種類ある。
卑弥呼は、九州の女王であり、であり、その後東遷した、という安本説。
卑弥呼の時に東遷した、という現在の大和説。
どちらも、
唐会要の「倭国は正北抵新羅に拠って九州」や、
倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」などに拠って、
始めから、×。 香野という家があって・・・、
昔、結婚した家なんだけど、という話もしていた >>119
>何かしてけつかんねん。
ヒミコが誰なのかキチッと考えてないから間違えるわけだ。
ヒミコは葛城だ。<
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>124
>桃の種なんてどうでもいい。
勝山古墳の祭祀に使われたと言われる木材を、
中塚武教授の酸素同位体比を使った新しい年輪年代法で鑑定すればいいだけ。
なんでやらないのだ、アホなのか。<
中塚の酸素同位体法も、結局は年輪年代法を使うので、
(欧米の大平原の森林のような一定の生育が見込まれるものではなく)、
日本列島では、基準木と検査木との、
生育時点での光合成酸素や根から吸収水中の酸素の同一性が確保し難いから、
絶対的は根拠にはならない。 >>126
>もし鑑定して、勝山や纏向石塚の板材は光谷の年代が正しかったとしたら、
九州説はあきらめるのか? <
光谷のも中塚のも、始め方絶対性がないから、
(AMSではなく)ベータ線法できちんと確認検査をしないと、
証拠にならないよ。 なぜ騒動宗=偽なのか、悪く言うとそうなる
『もののけ姫』という作品などがあるでしょ、
アサノという人物が出て来たり、誰々を殺せみたいな台詞とか
神殺し? 超時空設定 >>127
>前は桃核を測れ測れと言ってたな 測って自分に都合の悪い結果でたら
これだよ w<
纏向の桃核も、箸墓の土器付着炭化物も、どっちもAMSだから、
古い年代が出過ぎて×だよ。 纒向の桃の種 ( 纏向学研究センター)
西暦135〜230年 神殺しなど、実際は言ってないと思うんだけどw
『浅野 曹洞宗』
『浅野セメント 曹洞宗』 漫画やアニメ、ゲーム何でも良い、
制作者などがいるでしょ?
何かの息がかかっているとか?
そのように作れみたいな >>132
>少なくとも 歩という単位が「足底長」一個ぶんだと言い張る人が
救いようのない脳足りんだと http://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
が証明してる <
http://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
これでも、最大で「2足底長」にしかならず、
その少ない方なら「1足底長」にしかならず、
更に、周髀算経の一寸千里の「谷本さんの里距離の確認計算」に拠って、
「1歩≒25.5cm」が求められるから、
「1歩≒1足底張」という事になる。 >>298
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! △の陰謀というスレ
もん帝、もん帝と言ってる人がいたから、少し調べてみたんだけど
『モンティ・パイソン 建築家』というコント、
あれは『もののけ姫』でしょ >>136
>両方読むと
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
が、いかに適当なこと書いてるか分かるよ <
両方を読むと、
発掘報告者が、発掘事実に対して、いかに曲解空想捏造した解釈をしていたのか?、
も判るよ。 >>291
>大和説自体が、「大和天皇家一元列島支配」という、
>極右の「万世一系支配の皇国史観の」に拠って作り出された虚構。
それならば大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
右翼さんにとっては極めて都合が悪い。
だから九州説という虚構を創った。
新井白石だ。
お前はアホだから右翼さんの説に自分が取り込まれてることが分かっていない。
本物のアホだw >>137
>また「殉葬第1主体」とかデタラメ書いてて藁<
祇園山の墳裾の第1主体の甕棺には、鏡片を付けた成人女性で埋葬されており、
鏡片は、卑弥呼が親愛なる部下に対して下賜したお宝であったから、
殉葬した奴婢のリーダー的な身分の女性であった、という事になるから。 >>296
>光谷のも中塚のも、始め方絶対性がないから、
中塚教授のは科学だ。
お前ごときが口を挟むな。 1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか
いろんな、疑問が湧いてきますがご説明ください >>148の訂正
農業が広まった地域の人口と、狩猟漁労中心地域の人口とでは、始めから比較にならない。 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 日本の話のような気もする
パイソン〜ヒドラ?オロチ? 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか ホワイトスネイク?
そのようなことを言ってる人がいたり >>285
俺も納得できない
南→東
ザラコクだけ無い 明確な解説が畿内説で頼」 >>295
>中塚の酸素同位体法も、結局は年輪年代法を使うので
いや全然意味が違うしw
とりあえず分からない事は黙っておこうやw 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか >>321
方位磁石ができる前、まだ方位が確定してなかった時代に、
方位が確定してる今の尺度を当てはめれないという話。 >>1
あのーーー
帰納的推論で 南→東 朝鮮通信使の一例で
解けないから
南→東の根拠 朝鮮通信使(これは帰納的推論外)
帰納的推論でも何でもいいから 多数列示してください
南→東の根拠 324日本@名無史さん2018/06/18(月) 19:31:08.69
310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 324日本@名無史さん2018/06/18(月) 19:31:08.69
310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか >>324
>箸墓は20年の差異で特定してますね
その通り。
放射性炭素測定で100年ならともかく20年幅なんて分かるわけがない。
なんとか箸墓を卑弥呼墓にしたい一部の学者の暴走。
ふざけた話だ。 314日本@名無史さん2018/06/18(月) 19:26:35.81
310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか 314日本@名無史さん2018/06/18(月) 19:26:35.81
310炭素年法を教えて下さ2018/06/18(月) 19:24:51.45
1)纏向桃の種(纏向学研究センター)
西暦135〜230年
⇧
桃の種は135年〜230年にかけて100年でばらまかれたという事ですか
纒向遺跡は西暦135年には王宮ととしての機能があったのですか
2)箸墓古墳 (国立歴史民俗博物館)
西暦240〜260年築造
⇧
箸墓は20年の差異で特定してますね
そこで
質問1 纏向遺跡の掘立柱建物は箸墓同様 20年の誤差で特定できないのは何故???
質問2 箸墓の土器付着物は 西暦240〜260年築造ですが、桃の種の一部で西暦240〜260年と特定できた種は公表してますか
質問3 ベニバナ花粉の炭素年代法の結果はどうでしたか ホワイトスネイク〜『何者にもなれない お前たち』?
同じ家でしょ、家の話? >>324
質問1 してる
質問2 被験資試料を公開するわけない
質問3 泥の中に顕微鏡で発見した花粉をタンデトロンにかけるなんて物理的にありえない >>151
>>年輪年代法で分かるのは材木の育った年代で建物が建った年代は分からないよ<
>どれはそうなのだが、まず祭祀に「古材」は使わないであろうから、
勝山古墳の場合は、木材の年代がが被葬者埋葬の時代であろう。<
勝山の材木が、どんな木の、どんな場所のどんな状態(角材か・原木か?)だったのか?、
ベータ線法での確認が出来ていたのか?、などを言って貰わないと、
根拠にはならないよ。 >>152
>伊都説の根拠とされるものがまったく役に立たないものであることが、
優れた5ちゃんねらーによって明らかになったな<
平原には21個の「尚方作」の方格規矩鏡があるから、
明帝の下賜の鏡が元になったものだし、
幾つのも巨大鏡もあるし、
大量の玉の副葬や耳トウがあるから、女王であった事も確実であり、
卑弥呼か壹與のどちらかであった可能性が高い。 >>336
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! >>207
>「南≠東」なんて、とっくに論破されてるのに、
「南≠東」は、
スレ主も逃げた問題であり、
大和説者に論破された事も見た事もないのに。 >>338
スレ主も逃げた問題だったら
テンプレに書いてあるのはなぜ? >>334
>ベータ線法での確認
また新しい言葉を一つ覚えたんだねw >>234
>>片方の下肢の最小限の動きを表している事になるではないか。
それなら、「足底長」と同じだよ。<
>足跡が二つ書いてある時点で、複歩だってことをまず認めなさい
複歩であれば、足底長であっても25センチ前後にはならない <
何時の時代の画像であったのか?は知らんが、
上下に書かれちゃ、身体内の上下の事になるだけてだけで、
地面に着いているのは片方であって、
複歩になっていないし、
何よりも、一寸千里の谷本計算で、
「1歩≒25.5cm」という「1足底長」が求まってしまっている、 間違った古代史観が広がっているせいで、
災害で皆が助け合わないといけないのに、
大阪は酷い叩かれよう
テンプレみたいな誤った歴史観が原因
畿内の人々は大和朝廷を作った勢力に真っ先に征伐されたんだけどな >>235
>>距離や長さの単位としての「歩」は、「少し止まる」位の距離。<
>大笑い 「歩」はもともとは「步」 <
関係ない。始めから、
「歩が距離や長さの単位」として使われた時期の字形の話だ、
と言っておいた筈だよ。
>で、ザラコクさんが「少し」とか言っているのは 「𣥂」 で、「少」とは別の文字で、音読みはタツ
「止」の反字<
そりゃおかしい。
「歩」の文字が出来た時は、「上が止で下が少」であり、
「止」と「少」は反字になっていない。
>漢典の「𣥂」も貼っておくよ http://www.zdic.net/z/92/js/23942.htm
异体字ってところを見てごらん 「止」の反字って意味が分かると思う
まあ、環境によっては、表示されない文字だらけだけど<
「漢典」ってなんだ?。何時の誰の本?。 >>238
>この結果に都合の悪いのは恐らくは畿内説だろう
桃の種130年〜235年、一緒に計測された土器付着物は100年〜200年というが<
土器付着物の年代は、先に書かれたのと違うね。
>現在多数説の布留0式280年、それと同時期から少し前の庄内3式の年代から大きく遡る
桃の種は100年の誤差があれど実際の示す年代はその中の1年でしかない
12個の桃の種の試料を平均した確率分布法のグラフを見たが
山が140年前後、180前後、220年前後に3つあるものの、
谷の部分は山よりあまり低くはなっていないほとんど平らな状態
つまり卑弥呼の年代の230年ぐらいをピンポイントで示してる確率は低く、
130〜230年の間ほぼ等しいぐらい可能性がある
となるとこの試料からは纏向が後漢の時代を示す可能性の方が極めて高いと言えるのに
なぜそうは言わないのだろうか<
成程。 近代の軍人でもなんでも良いんだけど、
階級、位などの話があったでしょ?
あまり関係がないという話があったり
階級や位などは低いんだけど、
上位の人物よりも、実際は凄い家の人とか ここのテンプレの罪は重い
無実の畿内の人々に大和朝廷の罪を擦りつけ、誤った歴史観を広めている
大阪の人々は何度も何度も征伐されて耐えてきただけ。
外部からの支配者が権力闘争で次から次へと自滅していっただけだな 某という人物の部下、配下、弟子・・・でも良いんだけど、
実際は某よりも上の人物(凄い家)
そのような事が書いてあったり、
どこかで見たような
wikiにも書いてある? >>239
>畿内がなかった、って言われたら、日本人の100人中98人以上が
「はぁ? 何言ってんだこいつは?」としか思わないよ <
大和が天皇を称したのは天智からだ、と判っているのに、
卑弥呼の頃に畿内とか天皇があった、って言われたら、
日本人の100人中の70人位の人は、
「はぁ? 何言ってんだこいつは?」としか思わないよ。 【百済王年譜】
辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
?有王(427-455)
蓋鹵王(455-475)
文周王(475-477)
三斤王(477-479)
東城王(479-501)
武寧王(501-523)
百済25代武寧王(501-523)は墓から買地券(金石文)が出てるのでこれは絶対年代。
ならば阿莘王擁立が日本書紀・応神3年条だから応神元年は390年。
応神から30代後の1代平均在位は11年弱だから、 神功皇后を入れて6代遡る10代崇神は4世紀前半。
ならば魏志倭人伝のトヨまであと数十年、トヨとは4代天皇・懿徳の皇后のトヨツ姫だと分る。
そしてヒミコはその少し前の最高位の女性、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛だと分る。
トヨツ媛もヒメ(踏鞴五十鈴)媛も住んだのは葛城(奈良県御所市)である。
邪馬台国とは奈良県御所市である。
当地には高天原(御所市高天)がある。
文句ないね? >>240
>神武から6代考安まで。
彼等には后(奥さん)はいるが妃はいない。
7代孝霊から複数の妃がいる。
神武から6代考安までが女王国であった証拠だ。<
またssnが変な事を言っている。
卑弥呼はは独身なんだから、
神武から欠史八代は、全部×だよ。 >>241
>つまり彼らは大王ではなかったのだ。
この時代が女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。<
「南≠東」に拠って×。 >>247
頭が変なだけでは駄目。
心も「萬世一系の皇国史観」教にという明治憲法に病んでないと、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は続けられない。
というひとつの結論。 2世紀前半の其国の男王からヒミコ、トヨまで続いた王権や人物を日本人が忘れてるはずがない。
今も日本人が信仰してるのに誰も気づいてないだけだ。
真理とは得てして単純明快である。
難しいことはわからない80歳のおばあちゃんを納得させれる人物こそがヒミコだ。
ヒミコとはえべっさん(事代主)の娘さんだ。 >>352
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えボケジジイ! >>351
>卑弥呼はは独身なんだから、
【年已長大 無夫壻】
寡婦でも生涯独身でもどちらでもいいのだよ。 >>273
>軍事報告書は元々数を10倍するのが常
国淵さんは反逆した賊を10倍報告したら身内の恥を大きく見せることになると判断し、
自らの武功を捨ててまで実数で報告した
実数で報告したので、首級がそこから1/10判定を受けて武功少なしと怒られそうになったが、
国淵さんの思惑を曹操が理解してくれたので逆に誉められたという話である<
この男も、アホ。
魏志倭人伝の数字は、(軍人や戦争の話ではなく)、
平和な魏使らや、郡の役人らの 実見や計測の話。 >>286
>ひなすら「南≠東」など変なお経を唱えてる人がいるな
何も知らないんだろう<
「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に反論も出来ずに、
ひたすら大和説者を弁護して、
変なヘイトスピーチのお経を唱えてる人がいるな。
顔も脳もおかしい・・・・なんだろう。
怖いから、関わらないで、放っておきましょうね。 >>296の訂正
光谷のも中塚のも、始めから絶対性がないから、
(AMSではなく)ベータ線法できちんと確認検査をしないと、
証拠にならないよ。 王氏(king)の話なのかな、
そもそもking(王氏)という名前だし >>304
大和説勢。
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
最後の頼りは、
口先ヘイトスピーチ街宣の擬似科学。 邪馬台国でしょ?
女王、王女でも良いんだけど、
そもそも王、名前自体「王」という名前の人物がいたり >>307
>>大和説自体が、「大和天皇家一元列島支配」という、
極右の「万世一系支配の皇国史観の」に拠って作り出された虚構。<
>それならば大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
右翼さんにとっては極めて都合が悪い。<
都合が悪くない。
半分×書の書紀では、中国との「対等」的な記載だ。
>だから九州説という虚構を創った。 新井白石だ。
お前はアホだから右翼さんの説に自分が取り込まれてることが分かっていない。
本物のアホだw <
新井白石も、大和説と九州説との間で腰がふら付いている半分アホだ。
そして、ssnは、本物にアホだ。 >>344
>「歩」の文字が出来た時は、「上が止で下が少」であり、
どうしてザラコクさんはこんなにバカなんだろう?
漢字がいきなり整った楷書体で作られるはずがないだろうが?
折角貼ってもらった漢典の「𣥂」のページは見たのか?
ついでにこれも貼っておいてあげるよ
http://www.zdic.net/z/92/js/23957.htm
順番としては
これhttp://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.pngが
楷書化したのがhttp://www.zdic.net/z/92/js/23957.htmで
字体が整えられて「步」になる
これが「歩」の旧字
下の「𣥂」が、当用漢字音訓表にないから、「少」で代用して
「歩」の字形にしたんだよ
最初からずっと「足跡二つ分=複歩」が、大陸の「歩」
漢典 は、台湾教育部編の『国語辞典』のほか、部首の概念を初めて用いた『説文解字』、
現在の漢和辞典のもとであり、Unicode 配列のモデルにもなった『康熙字典』などが
検索できるサイト。 >>309
>>光谷のも中塚のも、始め方絶対性がないから、<
>中塚教授のは科学だ。 お前ごときが口を挟むな。<
中塚は、
通説大和説者らが「南→東」などの嘘つき騙しである事を、調べも確認もせずに、
大和説の年輪年代法の応援をしたんだから、
似非科学だ。 >>325
>方位磁石ができる前、まだ方位が確定してなかった時代に、
方位が確定してる今の尺度を当てはめれないという話。<
周代の周髀算経と礼記に、午後から夕方の8尺棒の影(端)と、翌日の午前の8尺棒の影(端)とを結んで東西を決め、
それと直交する方向で南北を決める事が書かれているし、
方位磁石も、漢代頃には使われていたようだから、
魏使らは、東西南北の方位を殆ど間違えない。 このような謎の広告が出て来たりした事もあった、
何なんだろう
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』 >>339
大和説者は、史料事実に拠る反論が出来ず、
口先だけでのヘイトスピーチ誹謗に必死だな。 王(king)〜〜〜〜〜〜いち公?
上のほうに貼り付けた写真 >>340
>スレ主も逃げた問題だったら
テンプレに書いてあるのはなぜ?<
スレ主は、
「南」は真偽不明だから別の論点から否定する、
と言って、逃げたの。 >>367
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えボケジジイ! 『公』
調べてみると、偶然というか、おかしな話ばかり
あの老婆の話・・・「大家(おおや)さん」と言っていたり >>350
>応神から30代後の1代平均在位は11年弱だから、 神功皇后を入れて6代遡る10代崇神は4世紀前半。
ならば魏志倭人伝のトヨまであと数十年、トヨとは4代天皇・懿徳の皇后のトヨツ姫だと分る。
そしてヒミコはその少し前の最高位の女性、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛だと分る<
これも簡単。
「南≠東」だから、×。 >>354
>ヒミコとはえべっさん(事代主)の娘さんだ。<
これも簡単。
「南≠東」に拠って、×ね。 その「市」の家の話なんだよな、
当時、住んでいた家には、本や書なんかが沢山並んでいたとか
どのような物なのか、わからないんだけど、
刀も飾ってあった >>367
>周代の周髀算経と礼記に、午後から夕方の8尺棒の影(端)と、翌日の午前の8尺棒の影(端)とを結んで東西を決め、
それと直交する方向で南北を決める事が書かれているし、
いやその方角自体があいまいという話。
>方位磁石も、漢代頃には使われていたようだから、
魏使らは、東西南北の方位を殆ど間違えない。
方位磁石は11世紀だアホ。 >>365
>>「歩」の文字が出来た時は、「上が止で下が少」であり、<
>どうしてザラコクさんはこんなにバカなんだろう?
漢字がいきなり整った楷書体で作られるはずがないだろうが?<
どうして、wwはこんなにアホなんだろうか。
始めから「歩」という漢字は出来た時の話をしているんだし、
それが「長さや距離の単位」として使われた根拠の話をしているんだよ。
>折角貼ってもらった漢典の「𣥂」のページは見たのか?<
見たら、現代中国語で書かれていて、周代の文献ではなかったようだから、
「漢典」て、何時のどんな本?、って質問したの。
>漢典 は、台湾教育部編の『国語辞典』のほか、部首の概念を初めて用いた『説文解字』、
現在の漢和辞典のもとであり、Unicode 配列のモデルにもなった『康熙字典』などが
検索できるサイト。<
悪名高い台湾と、康煕字典か。
根拠にもならんな。 >>377
>方位磁石は11世紀だアホ。
ただ、指南魚は3世紀頃から記録があるようだよ >>341
>>ベータ線法での確認 <
>また新しい言葉を一つ覚えたんだねw<
Yahooの時から言って来た事だし、
2chでも5chでも、書いた事があるよ。 >>356
>>卑弥呼は独身なんだから、<
>【年已長大 無夫壻】 寡婦でも生涯独身でもどちらでもいいのだよ。<
ssnが、本妻や妃の話をしていたんだよ。 >>378
>始めから「歩」という漢字は出来た時の話をしているんだし、
やっぱり分かってない
ザラコクさんはバカ丸出し
篆書の頃の漢字がどんなものかまったく考えていない
歩という字が、その成り立ちからずっと一貫して複歩なのに、
それを認めると自説が最初から嘘だったとバレるから必死でごまかし続けているww
象形文字の歩
http://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
篆書の頃の歩
http://pic.zdic.net/xz/swpic/6B65_3107.png
异体字の歩
http://pic.zdic.net/kai/jt/20/92/23957.gif
旧字
「步」
今の楷書体
「歩」
今の楷書体でいきなり漢字ができるはずがないし、
楷書体になったときに初めて漢字の意味が作られるはずもない
ザラコクさんはどこまでもバカww >>378
>根拠にもならんな。
ちゃんと使いこなしてから言いなよ
漢典から説文解字も検索できるし、漢字の成り立ちを知るには便利だよ
ザラコクさんの「嘘でたらめ捏造ごまかし」の数万倍は信用できるよww 凄い上の人間のような感じがするでしょ、
でも、なぜか下のような気もする? >>381
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えボケジジイ! 問題は、
なぜストーカーのようなのがいるのか?なんだよ
頭の良い人は気づいているはず、
漫画、アニメ・・・ゲームとか
家に収入があるわけでもないし、
どういう仕組みなんだろう 収入がないという事は騙りがいるという事なのかな、
家の名を名乗っていたり、系図なども盗でるのがいるとか その白い服の写真にも印のようなものが押してあるから、
何かを証明する写真なんだと思う
この子供の頃の写真とか
http://iup.2ch-library.com/i/i1915103-1529344445.jpg
実際(実物)は上のほうに貼り付けた、
写真と同じような色、キュウリの葉、葱の華の写っているやつ 母親の実家の写真もあるんだけど、
それは貼り付けないw
ほとんど偶然、
家の横(裏)に竹が生えている トンデモ九州説
こんなつまらん
低脳荒らししか
出来ないような
頭の出来だから
落ちぶれたんだ 笹の葉さらさら?
蚕を飼い、機織りをしていたと言っているし、
祭祀関係の家だったのかな 家は落ちぶれたんじゃなくて、
泥棒?に入られたと言ってる
あと戦争をしているとき、
疎開もしたと言っていたり 詳し事は、わからないんだけど
創価(何宗?)か何かだろう、
みたいな事を言ってる人がいたり >>371
逃げたのなら、どうしてちゃんとテンプレに書かれてるの? 『天王宮 山王院 菅野』
頭の良い人は気づいているみたいだよ もともと落ちぶれるとか、
そういう家でもない、祭祀関係? >>397
九州説が論破されたから消したいのだね?
相手の発言を力づくで封じるのが九州説のやり口
こんな連中が権力を握ったら、どんな酷い社会になるんだろうね
困った人だ それとも、いま住んでいるところは、本当の家じゃないのかな?
凄い家に住んでいて・・・みたいな事を言われていたとかw 本当の話、いま住んでいるところは
『何者にもなれない お前たち』
このような家w 邪馬台国論争に敗れた九州説は、いいかげんに腹いせのイヤガラセ行為をやめなさい
見苦しいだけです 龍宮?
凄い家に住んでいると聞かされていたとか、
老婆も、そのような事を言っていたし 老婆も、そのように言ってるんだけど、
凄い家に住んでいる人だよと言われて・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・結婚したとか 邪馬台国論争に敗れた九州説は、いいかげんに腹いせのイヤガラセ行為をやめなさい
見苦しいだけです wikiを読んでみて
龍宮?水晶宮(クリスタル)・・・などと書いてあるでしょ でも犯人=創価(何宗?)だとは言えない、
ただ、あまり好きではないと言っている
何か理由があるのかな その写真なんだけど、偶然だと思わない?
家の写真だよw
松傾? 『王母仙園近』
西の王母の庭園、仙宮?
西方の国・・・王母? >>410
>その写真なんだけど、偶然だと思わない?
思うよ。
>家の写真だよw
マジ??
松傾? >>400
朝鮮通信使で論破?
ハァーーーー
頭の中身が見てみたい >>379
[方位磁石も、漢代頃には使われていたようだから]
というアホ発言を取り消すのか?
魏使は方位についてはおおよその方角しか知らず【曖昧】でいいな? >>413
現に論破されてるな
だって反論できないだろ >>415
被害者が自演してるのだと
罪をなすりつけようとしてる
悪質な荒らしテロリストがいます 呟き荒らしと連句点は同一人物だろう
コミュ障の症状が同じっぽい >>414
〇方位磁石は無かった、指南魚はあった
「曖昧」はちょっと言い過ぎ
三国志他、古代史書を否定してしまう(含む日本の史書、和歌等)
〇「ほぼ、方位はあっていた」 >>419
>〇方位磁石は無かった、指南魚はあった
ただ、指南魚はおもちゃみたいなもので、実用にはならないもののようだけどね 箸墓
奈良県立橿原考古学研究所自体は
築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しえおり、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることがわかっており、
この墓が卑弥呼の墓である可能性は低くなっている。
いずれにせよ、
現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりである。 >>424
>現在ではようやく発掘許可がなされたため
こういう嘘の書き方はキウス? C14炭素年代法による測定値は九州説の100年程度古く出ることがわかっており、 以下略 >>382
>>始めから「歩」という漢字が出来た時の話をしているんだし<
>篆書の頃の漢字がどんなものかまったく考えていない
歩という字が、その成り立ちからずっと一貫して複歩なのに、
それを認めると自説が最初から嘘だったとバレるから必死でごまかし続けているww
象形文字の歩
篆書の頃の歩
异体字の歩
旧字 「步」
今の楷書体 「歩」 <
异体字の歩 の頃から、象形文字時代の頃の両足が、くっついて一体化して来ており、
旧字体の頃には、上下が別の文字になって、
「止まる+少しなり」という事になったようだな。
だから、「歩」は、やっぱり、「片足で止める」という意味に変わっていたんだな。
だから、距離や長さの単位としての「歩」は、
旧字体の頃に「片足の足底長」という意味に変わったんだな。
そして、それで、
周髀算経の「1歩≒25.5cm≒1尺」という事と符号する事になる。 >>383
>>(漢典)根拠にもならんな。<
>ちゃんと使いこなしてから言いなよ
漢典から説文解字も検索できるし、漢字の成り立ちを知るには便利だよ <
康煕字典時代にも、まだ周髀算経の一寸千里が「1歩≒1尺」の記載になる事を知らなかったんだし、
当然「漢典」と名付けた、という事でも、
始皇帝の「1歩=6尺」の命令が絶対であった、という事だから、
まあ、信頼性がガタ落ちであり、参考文献程度のものにしかならんな。 >>387
>収入がないという事は騙りがいるという事なのかな、
家の名を名乗っていたり、系図なども盗でるのがいるとか<
収入がないという事が、
戦前憲法の「萬世一系の皇国史観」にすがって、
その仲間に入れて貰って、また侵略殺戮戦争をして大儲けしたい、
という騙りがいるという事なのかな?。
天皇家の先祖を褒めたたえ、天皇家関係の家の名を名乗っていたり、
系図なども盗でるのがいるとか・・・。 >>395
>(スレ主が南≠東問題から逃げた件)
逃げたのなら、どうしてちゃんとテンプレに書かれてるの?<
テンプレでも、スレ主は、「南≠東」問題には直接反論をせずに、
全く関係のない話を、傍証であるかのように誤魔化したり、
考古年代を捏造したりして、大和説に決まったかのような騙しをして、
「南→東」が成立するかのような、ヘイトスピーチをして来たの。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 >>400
>九州説が論破されたから消したいのだね? 相手の発言を力づくで封じるのが九州説のやり口
こんな連中が権力を握ったら、どんな酷い社会になるんだろうね 困った人だ <
「萬世一系皇国史観」での大和説が論破されたから消したいのだね?。
史料事実に基づいたまともな九州説や、近隣諸国民などに対して、
相手の発言を、殺戮する事も辞さずに、力づくで封じようとるのが大和説者のやり口。
キョクウのやくざ暴力団やオームやナチスらと全く同じ。
こんな連中が権力を握ったら、どんな酷い殺し合い社会になるんだろうね。
困った人だ >>403
>邪馬台国論争に敗れた九州説は、いいかげんに腹いせのイヤガラセ行為をやめなさい
見苦しいだけです<
「邪馬台国」なんて存在しないよ。
「南≠東」などの嘘つき騙しで、邪馬壹國論争に敗れた大和説は、
いいかげんに腹いせのイヤガラセ行為をやめなさい。
見苦しいだけです。 消してるのは九州説の人だから
きみらは
キョクウのやくざ暴力団やオームやナチスらと全く同じ
なんだね つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 >>406
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅で九州」などで、
邪馬壹國女王之所都論争に敗れた、「万世一系皇国史観」の侵略戦争狂の大和説は、
いいかげんに腹いせのイヤガラセ行為をやめなさい。
国民のためにならず、国民の7割にも見放されて、
見苦しいだけです。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>433
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>440
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>414
>>方位磁石も、漢代頃には使われていたようだから<
>というアホ発言を取り消すのか?<
Yahooでの議論でも少し聞いた事があるし、
5chでも最近どなたかが書いておられたから、取り消さないよ。
魏使は東西南北の方位については、周髀算経や礼記の方法も知っているから、
ほぼ【正確】であった、でいいな?。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 >>417
>被害者が自演してるのだと 罪をなすりつけようとしてる
悪質な荒らしテロリストがいます<
「南→東」などの嘘つき騙しの被害者の九州説者が、自演しているのだと、
罪を擦り付けようとする、「万世一系皇国史観」の殺戮戦争狂の大和説者の、
悪質な荒らしのテロリストがいます。 >>420
>無視すれば良いのですよ<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
反論が出来ないから、無視して逃亡しているんですよ。 >>421
>やっぱり論破された奴が嫌がらせに荒らしてるんだよ<
やっぱり、
「南≠東」などで論破され、
国民の7割から否定され、
絶望を感じた大和説の奴らが、
嫌がらせや口先のヘイトスピーチで、荒らしてるんだよ。 指南魚は北宋代だろ
方位磁針があったら指南車なんかいらんからな >>429
>「止まる+少しなり」という事になったようだな。
本当に度し難いバカだな、ザラコクさんは!
「𣥂」と「少」は別の字だと何度教えれば!
「𣥂」は
http://pic.zdic.net/xz/swpic/23942_9551.png
「少」は
http://pic.zdic.net/xz/swpic/5C11_1525.png
形は似ていても、成り立ちも意味も別の字だよ! バカというより
変な思政治想に狂った人
の側面が凶悪 間違った古代史観が広がっているせいで、
災害で皆が助け合わないといけないのに、
大阪は酷い叩かれよう
テンプレみたいな誤った歴史観が原因
畿内の人々は大和朝廷を作った勢力に真っ先に征伐されたんだけどな
ここのテンプレの罪は重い
無実の畿内の人々に大和朝廷の罪を擦りつけ、誤った歴史観を広めている
大阪の人々は何度も何度も征伐されて耐えてきただけ。
外部からの支配者が権力闘争で次から次へと自滅していっただけだな >>429
>だから、「歩」は、やっぱり、「片足で止める」という意味に変わっていたんだな。
歩の意味は、一貫して足跡二つ分=複歩で一切、変化していない
>だから、距離や長さの単位としての「歩」は、
>旧字体の頃に「片足の足底長」という意味に変わったんだな。
だから、これはただの妄想であり、大嘘
>そして、それで、
>周髀算経の「1歩≒25.5cm≒1尺」という事と符号する事になる。
これがどうやっても無理なんだって!
これを認めたら、全てが崩壊するから必死でがんばっているけど、
歩は複歩で、足裏長さじゃないし、そうなると周髀算経の記述も現実に合わない
つまり短里なんてないってことだ
つまり、九州説の拠り所は完全に破綻してるってこと >>452
>「南≠東」などで論破され、
「南≠東」って呪文を唱えると、なんで畿内説が論破されるんだ? >>457
なんかもう、これも変な宗教だな
九州説はマッキー猩々だよ
>>430
>康煕字典時代にも、まだ周髀算経の一寸千里が「1歩≒1尺」の記載になる事を知らなかったんだし、
知る訳ないだろう?
未来のことは分からないとかいうこと以前に、実際になってないんだから!
ザラコクさんの脳内妄想は、現実世界や過去には何にも影響しないんだよ!
原子核の外の電子の状態が、核内の強い力の場に影響しないのと同じだよ!
どうして、自分が正しいと思うことが正しいと言い張るためだけに、
現実世界を歪めようとするんだろうね? 魏志倭人伝の文字資料を分析するだけでは、畿内説にたどり着くのは困難
邪馬台国四国説と同レベルになる 原子核の外の電子の状態を突き詰めると、纏向遺蹟が邪馬台国と無関係だったことがはっきりしてきたな。。。 原子核の外の電子の状態のことで、畿内説を宣伝しているキナイコシが、また恥を掻かされているな。。。 >>465
あまりレベルの高い話題では、無いのではないのかな。。。 >>466
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 魏志倭人伝の文字資料を分析するだけでは、九州説にたどり着くのは困難
九州をはるかに通り過ぎてしまうから
邪馬台国エジプト説と同レベル 名前:岡上 ◆Lv09mLa3HM Mail: 投稿日:2018/05/20(日) 22:58:47.10
パート2、3は消費が早かったですが。。。
どれぐらいで規制かかるんでしょうね?
名前:岡上 ◆Lv09mLa3HM Mail: 投稿日:2018/05/20(日) 23:00:58.76
あのねぇ。。。
岡上病は自粛願います(笑) >>116の荒らし
畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
167 名前:日本@名無史さん Mail:sage 投稿日:2017/04/18(火) 07:46:22.28
畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/09/10(日) 20:17:29.97
それに、倭奴国と無縁の纒向で田舎娘が「唐突に共立された」という立場だと
代々伊都国の王が女王国に服属しているという解釈は、矛盾してませんかね。
名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/06/07(水) 23:04:57.19
「吉備の田舎娘を共立した」みたいな想定が、左巻きのユートピア思想にかぶれた
安っぽい妄想であることに早く気づいてほしいですね。 >>437
「南→東」などの嘘つき騙しをして、
先の戦争を引き起こした「万世一系の皇国史観」の人は、
大和説の人だから、
きみらは、キョクウのやくざ暴力団やオームやナチスらと、、全く同じ なんだね 。 >>471
先の戦争を引き起こした「万世一系の皇国史観」の人は
九州説 >>454
>本当に度し難いバカだな、ザラコクさんは!
「𣥂」と「少」は別の字だと何度教えれば!
・・・形は似ていても、成り立ちも意味も別の字だよ!<
wwは、自分から、「𣥂」は、「少」の旧字体だ、と書いていたよ。 「𣥂」を突き詰めると、纏向遺蹟が邪馬台国と無関係だったことがはっきりしてきたな。。。 >>455
>「南→東」が嘘だって証拠は?<
別方向だから。 「𣥂」を突き詰めると、纏向遺蹟が邪馬台国と無関係だったことがはっきりしてきたな。。。 「𣥂」のことで、畿内説を宣伝しているキナイコシが、また恥を掻かされているな。。。 >>477
あまりレベルの高い話題では、無いのではないのかな。。。 >>478
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>456
「南→東」などの嘘つき騙しを決して止めない大和説者って人種は、
バカというより、「万世一系皇国史観」の変な思政治想に狂った人 。
「殺人戦争狂」という側面が凶悪」。 >>473
>wwは、自分から、「𣥂」は、「少」の旧字体だ、と書いていたよ。
>>365
「字体が整えられて「步」になる
これが「歩」の旧字
下の「𣥂」が、当用漢字音訓表にないから、「少」で代用して
「歩」の字形にしたんだよ 」
「步」が「歩」の旧字とは書いているが、
「𣥂」が「少」の旧字体と書いたことはないぞ
「𣥂」と「少」は形が似ているだけの別の字
理解が足りないと、結果としてうそつきになる
ザラコクさんは、ウソばかりww 「万世一系皇国史観」は東遷説なんだがな
畿内説は関係ない まだ言ってるの?
そろそろ頭の病院に行け、
自分の名前くらい書いたらどうなんだ
ちなみに、もれ(仮)は、その写真の家なんだけどw
そのままじゃない?松傾? 「万世一系皇国史観」
何度も絶えていると書いてあるはず、
そういう話も出て来たでしょ、調べてみた?
あまり関係ないのかもしれないけど、
このような広告も出て来たり
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』 偶然なのかな
もれ(仮)の家、その写真の家のことだよ、
その松傾の家に嫁(母親)に来たとか、母親は『藤ノ木』というところの生まれ
松の木の植えられている当時は、
まだ結婚していないよ 場所は違うんだけど
『藤ノ木』
調べてみると、古墳のようなものが出て来たり、
誰が調査をしたり、管理をしたりしているんだろう 松傾の話(家の話?)
いま小手子の像が建てられているところがあるでしょ、
その周辺にも住んでいたことがあるんだよ
と言っていたり 一時期?住んでいたというところ
>川俣町の地名は、小手子の郷里、
>大和国(やまとのくに・奈良県)高市郡川俣の里にちなむという説がある。 『藤ノ木 古墳』
という古墳があるんだよ、ググってみて 攻撃したい相手を
世間でイメージの悪いものの
仲間だと理由もなく断定して連呼
これ、スターリン崇拝の活動家がよくやった 馬に乗って・・・腰に刀・・・・という話をしていたり
これは老婆談 『何者にもなれない お前たち』『位置が来る』
その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほとんど同じ 伊達郡川俣町という掲示板も読んでみて
なぜか家の話をしているから、実際に住んでいるところは川崎区(神奈川県) 老婆談というのは埴輪(何かのモデル?)などの話をしているのかな たまに反応するが
他人と会話は出来ない
呟きコミュ症男 老婆が言うにはセメント関係の会社で仕事をしていた
とか
その前の代などの職業は知らない(機織り?)
あと何の話なのかわからないけど、
北海道のほうまで行ったことがあるんだよ
と言っていたり 本当に、おかしな話
・北海道=蝦夷
・キュウリ=胡(エビス)瓜 とある時代になり、
誰かの配下(部下)になり、北海道まで行ったとか?
行ったこともあるんだよと言っていた、
旅行などではない 本当に、おかしな話
松傾自身、そもそも蝦夷?の系統だという説があったり、
調べてみると、そういう話があるでしょ 九州説みたいなトンデモに入れ込んで
どうしようもなく負け組になってしまうと
こんなにも心ささくれて歪んでしまう
もんなのかねえ 松傾?
何の家なんだろう、相撲の話もしていた(老婆談)
そういうアニメなども無かった時代の話 関係ありそうで、なさそうな、サルタヒコというスレ?
読んでみた?
このような事が書いてあったり
金の元、金のなる木、良いネタを見つけたな
とか >>453
>指南魚は北宋代だろ<
Wikiでは、3世紀にあった、と書いてあるよ。 >>454
>>(「歩」は)「止まる+少しなり」という事になったようだな。<
>「𣥂」と「少」は別の字だと何度教えれば!
「𣥂」は http://pic.zdic.net/xz/swpic/23942_9551.png
「少」は http://pic.zdic.net/xz/swpic/5C11_1525.png
形は似ていても、成り立ちも意味も別の字だよ!<
旧字体の「𣥂」が新字体で「少」になった、と言ってんだから、
「𣥂」ではまずいんで、「少」にした、という事であり、
結局「歩」は、
上が「止」で下が「少」という形の文字が適切である、
という結論になった、という事だよ。
そして、それには、「複歩」なんて意味はどこにもない。 >>455
>「南→東」が嘘だって証拠は?<
字形も意味も全く違うから。 >>456
>バカというより変な思政治想に狂った人 の側面が凶悪<
「南→東」などという嘘つき騙しを止めない大和説者は、
バカというより、
戦前憲法の「万世一系の皇国史観」という、変な思政治想に狂った人。
おそらく内面的にも、
やくざ暴力団やナチスやオームなどのような、凶悪な殺人狂。 >>509
>旧字体の「𣥂」が新字体で「少」になった、と言ってんだから、
>「𣥂」ではまずいんで、「少」にした、という事であり、
ここでいう、旧字体って、
「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に対していう。」
だぞ?
このときに、漢字の数を減らすことを目的に、漢字を使用制限をした
そのときに、「𣥂」が採用されなかったというだけで、意味がまずいとかそういう
内容に踏み込んだ判断があった訳ではない
そもそも、3世紀のことを論じるのに「1949年(昭和24)内閣告示」の結果を
論拠にするって、どこまでバカなんだって話だよ
ザラコクさんは、歩が複歩だと認めたくないというだけで、どこまで根拠なしの
無理読みを引っ張るだろうねぇww >>458
>>だから、「歩」は、やっぱり、「片足で止める」という意味に変わっていたんだな。<
>歩の意味は、一貫して足跡二つ分=複歩で一切、変化していない<
上が「止」で下が「少」では、結局どこにも、複歩の意味なんて存在しなくなった。
>>だから、距離や長さの単位としての「歩」は、
旧字体の頃に「片足の足底長」という意味に変わったんだな。
そして、それで、 周髀算経の「1歩≒25.5cm≒1尺」という事と符号する事になる。<
>これがどうやっても無理なんだって!
これを認めたら、全てが崩壊するから必死でがんばっているけど、
歩は複歩で、足裏長さじゃないし、そうなると周髀算経の記述も現実に合わない
つまり短里なんてないってことだ<
お前から提示して北実態だよ。
つまり、大和説の拠り所は完全に破綻してるってこと。 つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>497
>>「南≠東」などで論破され、<
>「南≠東」って呪文を唱えると、なんで畿内説が論破されるんだ? <
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の南だ、と書かれているのに、
大和は不彌國の「東〜東北東」になるから。 >>460
>なんかもう、これも変な宗教だな 九州説はマッキー猩々だよ <
「南→東」などの嘘つき騙しを決して撤回しない大和説は、
先の戦争での「萬世一系の皇国史観」という変な宗教」であり、
大和説者は、殺人戦争狂だよ。 >>461
>>康煕字典時代にも、まだ周髀算経の一寸千里が「1歩≒1尺」の記載になる事を知らなかったんだし、<
>知る訳ないだろう?<
いや、例えば、
周地付近の南方で、夏至正午の8尺棒の影長が1尺5寸になる場所を探して、
その地の周地からの距離を測れば、
大体(後の西洋のメートル法での)76.5km位の距離になった筈であり、
その距離が千里であったと書かれていたんだから、
1里は76.5mになり、1里=300歩だから、1歩≒25.5cmだ、
として求まる事になり、
知る事だ出来た。
要するに、康熙帝の部下は、それをやらなかったアホであっただけであり、
谷本さんに、先に計算されてしまい、
谷本さんにも負けた事になった。 >>519
>1里は76.5mになり、1里=300歩だから、1歩≒25.5cmだ、
周髀算経でも、1里=300歩は当然とされている
歩はその語の成り立ちからずっと複歩
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)
時代とともに長くなる傾向があるが、極端な長さの変化はない
である以上、1歩≒25.5cmが成り立たないのは自明で
周髀算経でも、1里=300歩は当然とされているからには、
1里は76.5mもありえない
つまり、短里はないってことで、九州説の唯一のよりどころ、
「魏志倭人伝を短里で読めば九州」ってのも破綻することになる
まあ、ザラコクさんがどんなにがんばっても、バカをさらすだけだよ
まあ、このスレでのザラコクさんの評価は、最低位置にあるから、これ以上
評価、評判が下がるってことはないけれどねww >>1
あのーーー
帰納的推論で 南→東 朝鮮通信使の一例で
解けないから
南→東の根拠 朝鮮通信使(これは帰納的推論外)
帰納的推論でも何でもいいから 多数列示してください
南→東の根拠 頭の良い人は気づいているんだよ、
邪馬台国の話に限った話ではない
お前が作った(造った)わけではないんだろうw
という話 >>468
>魏志倭人伝の文字資料を分析するだけでは、九州説にたどり着くのは困難
九州をはるかに通り過ぎてしまうから 邪馬台国エジプト説と同レベル <
萬二千余里が不彌國で殆ど終わっており、
投馬國説明は、起点の不彌國と投馬國に至る間に、途中移動の説明がないから、
魏使らは、投馬國へは行っていない、という事になり、
そうすると、不彌國の次が「至邪馬壹國女王之所都」である事になるから、
「九州をはるかに通り過ぎてしまわない」し、
そんな解釈をしたこの男も、「南→東」などの嘘つき騙しと同じく、
嘘つき騙しの詐欺師であった、
という事になる。 >>472
>先の戦争を引き起こした「万世一系の皇国史観」の人は 九州説<
九州説は、「大和天皇家の一元列島支配」という「萬世一系の皇国史観」を否定しているんだから、
この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 「步」は今も中国(簡体字)でも台湾(繁体字)でも使われていますよね もれ(仮)には妹がいるんだけど、
5月15日生まれなの、どういうことだと思う?
ジョジョでいうところの
マイク・オーの某曲(MV)
松傾でしょ? 他のスレにも書いたんだけど
カブキロックス『虹の都』
深い海 沈み込む(ウラシマのようなコンセプト。長い竿。龍宮。鳳凰。) >>481
>「字体が整えられて「步」になる これが「歩」の旧字
下の「𣥂」が、当用漢字音訓表にないから、「少」で代用して
「歩」の字形にしたんだよ 」
「步」が「歩」の旧字とは書いているが、 「𣥂」が「少」の旧字体と書いたことはないぞ<
wwが、「步」が旧字で、「歩」が新字だ、という説明を書いたから、
私は、「𣥂」の部分が旧字の一部で、「少」が対応する新字の部分だ、
という意味で書いた、
というだけの事だ。 畿内説は嘘つきだから騙されちゃいけないんだけどさ
「卑弥呼の時代の三角縁神獣鏡が畿内から多く出てる!」って畿内説が論拠に上げるわけ
そこがもう、わざと騙そうとしてるんだけど
たしかに卑弥呼の時代に「作られた」銅鏡は畿内から出てくる
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから真相はやはり九州説を強化してるわけ
つまり、九州に伝来した三角縁神獣鏡が、100年かけて畿内まで普及した、と 三角縁神獣鏡について
畿内の三角縁神獣鏡は、卑弥呼の時代からだいぶ後の時代の遺跡から出土する
対して九州の三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代に近い時代の遺跡から出土
中国から伝来して拡散していくルートがわかるじゃん
そしてそれが九州邪馬台国→畿内ヤマト王権への移行(移住)とも重なるでしょ? >>490
攻撃したい相手を、世間でイメージの悪いものの仲間だと、
理由もなく断定して連呼。
これ、戦前の「万世一系皇国史観」時代にも、
現在のPCや携帯電話時代でのヘイトスピーチでも、
キョクウの戦争狂や靖国崇拝などの活動家がよくやった。 >>504
大和説みたいなトンデモに入れ込んで、 どうしようもなく負け組になってしまうと、
こんなにも、心がささくれて歪んでしまうもんなのうかねえ。 本当に、どういう事なのか、わからないんだけど
松傾のような名前の家で(本物なのかな、貼り付けた写真なども)
兄、弟(書き込みをしている人。仮:モレという事にしておいて)、
それと妹がいて・・・5月15日生まれ >>521
>>1は能天気だから無理
能天気な人の特徴や性格
責任感が無く何事もきっとどうにかなると思っている
目の前のことに意識が集中しすぎている
何度同じ失敗を繰り返しても反省しない
周りの人のことは考えていない
他のことや自分のことを考えている
ストレスを感じることがない
やるべきことを先延ばしにする
>1は「能天気」
から言っても無駄 >>510
ひとが「東」を「南」と間違えないという証拠は? >>521
演繹的に解けば一例だけでいいでしょ
日本列島上の何処も会稽より南でない
だから南は間違い >>528
>wwが、「步」が旧字で、「歩」が新字だ、という説明を書いたから、
>私は、「𣥂」の部分が旧字の一部で、「少」が対応する新字の部分だ、
>という意味で書いた、
>というだけの事だ。
調べもせずに、ザラコクさんが間違ったことを書いたってのが、事実だね
ザラコクさんは、相変わらず
知らない、 歩という字のもともとの成り立ちも知らない
調べない、 いろいろと典拠資料を示されているのに一切確認しない
認めない どうやってもザラコクさんの言い分は通らないのに、認めないの一点張り
どうしようもないねww >>524
「大和天皇家の一元列島支配」が「萬世一系の皇国史観」だって証拠は? 写真の話
松(もみ?)の木、灯籠も写っているはず、
それと手前のほうに池、照明のようなものがあるんだけど
龍神池?本人、本物が住んでいる家? >>525
>「步」は今も中国(簡体字)でも台湾(繁体字)でも使われていますよね
「歩」を使うようになったのは、戦後の当用漢字音訓表の制定から、だからねぇ >>531
ザラコクって・・・そういう人なんだね
怖いね >>530
>畿内の三角縁神獣鏡は、卑弥呼の時代からだいぶ後の時代の遺跡から出土する
>対して九州の三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代に近い時代の遺跡から出土
これを合理的に考えると、畿内の「後の時代」とされる遺跡の
「編年が間違っている」可能性が高いことになる
たぶんそれが正解ww むかーし住んでいたところは
〜〜〜の山の上のほうだよと言っていたり 母親談
お兄ちゃんが生まれたとき、
落ちると危ないからと言って、池は埋めちゃった(潰した?)んだよ 錦鯉なんかがいたとか、
その鯉なんかはどうしちゃったんだろうという話
殺したのかな >>528
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えバカジジイ! >>364
>>それならば大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
右翼さんにとっては極めて都合が悪い。<
>都合が悪くない。
半分×書の書紀では、中国との「対等」的な記載だ。
だから7世紀後半にそういう風に記紀を編纂したのだよ。
中国史書に書かれtる倭の五王も自ら臣下になることを願い出てるね。
7世紀の朝廷にとってはプライドとして大変都合が悪い。
だから「記」と「紀」で天皇の没年が違うだろ。
これは倭の五王を誰だか分からなくするためだ。
極めつけは倭国王帥升だ。
107年、後漢・安帝に土下座したのはスサノオだと書けなかった。
だから100年後のヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代を夫の神武とともにBC660年にした。
そして神武東征紀を過剰に創作、猛々しい男王国にした。
高天原も大和朝廷の発祥地・御所市高天にあった。
記紀ではそれを潤色した。
そもそも九州には王権も何もない。
論外である。 テンプレは桜井市の利権だけのために維持されている。 何かのマスタークラスだったのかな?
いま住んでいる家を建てるときも、
基礎、土台?を作るところから見ていて、
大工などに何やら言ってたとか
池などは自分で作ったとか >>535
天才バカボン以外は東は東
日出処天子至書日没処天子無恙 >>549
禿同
桜井市教委(含 纏向学研究センター)と橿原考古学研究所の見解が違うね
興味があればググってみてください >>512
>>旧字体の「𣥂」が新字体で「少」になった、と言ってんだから、
「𣥂」ではまずいんで、「少」にした、という事であり、<
>ここでいう、旧字体って、
「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に対していう。」
だぞ?
このときに、漢字の数を減らすことを目的に、漢字を使用制限をした
そのときに、「𣥂」が採用されなかったというだけで、意味がまずいとかそういう
内容に踏み込んだ判断があった訳ではない<
また、無意味な変な事を言ってるな?。
私は、旧字の「步」と、新字の「歩」との話をしているんであり、
「𣥂」と「少」との話をしているんではないよ。
また、「旧字体が昭和24年に新たに定められた」って言うんなら、
お前が「旧字だ」と言った「步」は、昭和24年以前には存在していなかった、という変な事にもなってしまうではないか。
一体、周代や漢代は、旧字体であったのか?、新字体であったのか?、どっちなんだい?。 >>559
サッカー日本勝ったよ
仲が悪いわけでなく、お互いの利権を大事にしている關係 >>559
スレ主も以前は桜井市を纏向遺跡から外してたが
指摘を受けて天理市の一部を纏向遺跡に組み込みこんだ
仲が悪いわけでない >>520
>>1里は76.5mになり、1里=300歩だから、1歩≒25.5cmだ、<
>・・・である以上、1歩≒25.5cmが成り立たないのは自明で
周髀算経でも、1里=300歩は当然とされているからには、
1里は76.5mもありえない <
幾ら誤魔化しても無駄。
1歩≒25.5cmは、周髀算経から導かれる「史料実態」。 纏向学研究センターが天理市の遺跡に手を出せないのは事実 纏向学研究センターが天理市の遺跡に手を出せないのは事実 >>559
県立橿原考古学研究所がコントールしてるから分をわきまえてる >>535
>ひとが「東」を「南」と間違えないという証拠は?<
そりゃ、普通の人は間違えないが、
大和説の人は・・・・だから間違えるらしいよ。 >>536
>演繹的に解けば一例だけでいいでしょ
日本列島上の何処も会稽より南でない だから南は間違い<
魏志には「日本列島が会稽より南だ」なんて、どこにも書かれていない。
つまり、この男は、
存在しない事を使って「南は間違い」と言った事になるから、
やっぱり嘘つき騙しの詐欺師。 >>537
>wwが、「步」が旧字で、「歩」が新字だ、という説明を書いたから、
私は、「𣥂」の部分が旧字の一部で、「少」が対応する新字の部分だ、 という意味で書いた、
というだけの事だ。<
>調べもせずに、ザラコクさんが間違ったことを書いたってのが、事実だね<
「步」と「歩」との話を、
wwは「𣥂」と「少」の話にすり替えて、世間をだまそう、としていた事は、事実だね。 >>563
>>1はまた変えてるぞ
以前
<箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
ここ纒向が女王の所都である <
今
<倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 <
卑弥呼が居たのは桜井市纏向と微妙に言い回しを変えているがな >>538
>「大和天皇家の一元列島支配」が「萬世一系の皇国史観」だって証拠は?<
「萬世一系」史観は、
記紀に書かれた「大和天皇家(だけ)が天地開闢以来、日本を支配する事になっていた」、
という史観だったから。 >>560
>また、「旧字体が昭和24年に新たに定められた」って言うんなら、
>お前が「旧字だ」と言った「步」は、昭和24年以前には存在していなかった、
>という変な事にもなってしまうではないか。
どうしてザラコクさんってそんなにバカなの?
どうしてまともに日本語が読めないの?
昭和24年に新たに定められたのが新字体だろ?
それまでは日本でも「步」を使ってたし、大陸でも台湾香港(繁体字)でも「步」だよ
で、その新字体=当用漢字音訓表の範囲に「𣥂」が入っていないから、「步」を「歩」に
改めたんだよ >>541
攻撃したい相手を、世間でイメージの悪いものの仲間だと、 理由もなく断定して連呼。
これ、戦前の「万世一系皇国史観」時代にも、
現在のPCや携帯電話時代でのヘイトスピーチでも、
キョクウの戦争狂や靖国崇拝などの活動家がよくやった。
大和説者らって、・・・そういう人なんだね。
怖いね。 >>564
>1歩≒25.5cmは、周髀算経から導かれる「史料実態」。
周髀算経から導かれるのは、
「周髀算経が間違っている=実測すらしていない机上の空論」という実態ww
もちろん、1歩≒25.5cmなんてのは九州説の人ですらザラコクさん
以外は認めない大ウソだよww なんなのこれ
纏向学研究センターは纏向遺跡の範囲を天理市は入れてない
<大爆笑>http://www.makimukugaku.jp/ >>544
>(三角縁神獣鏡)いや、全国的に布留0期から出はじめる<
大和では、(庄内と布留の)ホケノのより以前はもちろんの事、
(布留の)箸墓からも未だに出ていないらしい。
という事は、大和の三角縁神獣鏡は、布留1以後であり、4世紀。 >>571
>「步」と「歩」との話を、
>wwは「𣥂」と「少」の話にすり替えて、世間をだまそう、としていた事は、事実だね。
いんや?
もう一度読み返してみなよ?
こっちは常に正しいことしか書いてなくて、
ザラコクさん一人が無理な誤読をしてから回ってるだけだからww
世間どころかザラコクさん以外全員、「歩」は複歩って分かってるよww >>580
垂仁天皇の都が纏向珠城宮であり、崇神天皇陵が天理市柳本町に、
景行天皇陵は、天理市渋谷町にあるので、天理市も卑弥呼の里として町おこしするべきです。 >>580
>なんなのこれ
>纏向学研究センターは纏向遺跡の範囲を天理市は入れてない
なんなのこれ?
やっぱりまともな日本語が書けないのか?
言いたいことは
「纒向学研究センターは纒向遺跡の範囲に天理市が入らないようにしてる」
ってことなのか? >>548
>>>それならば大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
右翼さんにとっては極めて都合が悪い。<
>>都合が悪くない。 半分×書の書紀では、中国との「対等」的な記載だ。<
>だから7世紀後半にそういう風に記紀を編纂したのだよ。<
記紀の編纂は8世紀だし、
記紀は、半分×書だから、記紀の記載は根拠にならない。 やはりな
畿内説の研究者や桜井市は銭儲けだな・・税金の無駄遣いと言われてもしょうがないな >>584
俺もそのように受け止めた
寺澤は桜井市の職員だから仕方ない >>587
無知ゆえの妄想だな
寺澤が発表した纏向遺跡の地図には天理市も含まれている 寺澤薫
1950年(昭和25年)、東京都生まれ。
1973年(昭和48年)、同志社大学文学部文化学科(文化史学専攻)を卒業。
その後奈良県教育委員会に入り、奈良県立橿原考古学研究所の研究員として発掘調査にたずさわる。
2012年4月、奈良県桜井市に設立された纒向学研究センターセンター長に就任する。 >>588
纏向学研究センターのHP
http://www.makimukugaku.jp/
これの「纏向遺跡ってどんな遺跡」の冒頭読んでご覧
センター長は寺澤
HPと寺澤の意見が違うならセンターとセンター長の意見が違うってこと??
ようわからんから教えてくれ >>591
そう突っ込むな
テンプレがおかしいだけじゃねーの 纒向学研究センターってのが正確じゃないんだよ
正確には「桜井市纒向学研究センター」
桜井市の組織だから、桜井市の範囲を扱うってことだよ
桜井市の外まで発掘には行けないでしょ? >>598
つまり
纏向遺跡の範囲を天理市の一部を含めるかどうかという事
「桜井市纒向学研究センター」のHPを見る限りは桜井市北部に纏向遺跡を限定しているが正しいかどうか 纏向遺跡が王都ならば、
天理市は王都(纏向遺跡)から省かれるかどうか
天理市の南部も王都(纏向遺跡)の一部と見ていいかどうか
畿内説を非難しているわけでは無い
あまり参考にならないが
吉野ヶ里遺跡は佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがっている なお吉野ケ里は
国営吉野ヶ里歴史公園として管理、運営されている
セクト意識は無いと思うが天理市と桜井市仲良く合同で研究すれば良い
ひょっとして橿原市も入るかもしれないが 遺跡の範囲ってのは自治体で決める
遺跡になっているかどうかで何が違うかっていうと
開発行為を行う際の手続きが異なる
遺跡の範囲内で開発行為を行う際には事前に自治体に届出ねばならず
届出を受けた自治体は開発行為の内容によってどのような調査が必要なのかを指導する
遺跡の範囲外であった場合、遺跡に隣接する場合を除いて届出も不要
当然自治体は調査の指導もしない
つまり遺跡の範囲内でなければ、自治体は何か発見されるまでは動くことができない
逆に言えば、遺跡に認定していれば、開発行為に際して自治体が動くことができる
桜井市が纒向遺跡の範囲を市境までとしているのは、上記のため
利権とかいってるのは、ゲスの勘ぐりもしくは救いようのない陰謀史観 馬の耳に念仏
豚に真珠
猫に小判
キウスにマジレス >>605
それで、畿内説では王都を天理市南部を含めるの含めないの
テンプレでは桜井市纏向と言い切っているのだが 行政上の纒向遺跡は桜井市
王都に擬せられる範囲については実際の遺構分布が確認されていないので不明
纒向遺跡の北部は天理市と桜井市にまたがる向山遺跡と重複認定
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm >>605
県がやればいいと思う
纏向の発掘調査は当初は県立橿原考古学研究所が手掛けたのでしょ
桜井市が先導いてやったわけでは無い
桜井市に委ねる?から調査もややこしくなったのではないのかな >>610
桜井市纏向学研究センターを作ったことが
考古学の前進とみるか後退と見るかじゃん
天理市が協力してるかどうかは知らんが もともと埋蔵文化財の調査は70年代の列島改造時代に都道府県単位で対応が始まったが
遺跡地図の整備をはじめとしてシステムの充実と開発行為の増加によって調査件数も激増し
都道府県単位ではきめ細やかな対応ができなくなって市町村単位での対応となってきた経緯がある
現在は開発主体や開発規模の違いによって都道府県が対応するか市町村が対応するかを決めている
お前の主張はそうした埋蔵文化財行政の歴史に対する無知から生まれた暴論 >>536
>演繹的に解けば一例だけでいいでしょ
日本列島上の何処も会稽より南でない だから南は間違い<
前提が一般論や誰もが当然知っている普遍的な事実であり
また必然に必然を重ねることで結論にいたるというプロセスが無いので駄目 >>612
橿原考古学研究所によって纏向の調査が始ったのは1971年
桜井市が本格的に絡んだのは、2000年代じゃなかったっけ
文化財保護行政で市区町村にまたがる遺跡なんていっぱいあるよ >>612
追記
天理市と桜井市 各々に委ねたほうがきめ細やかな対応ができとた思うよwww いずれにせよ
纏向遺跡だけが王都でなく天理市の一部も含まれるでいいのでしょ 「纏向学」なんて商標登録する必要があったのかも疑問 >>608
◆FAQ 48 より
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016) >>612
御免 間違えた
あんたの言っているのは桜井市埋蔵文化財センターも含めてだよね。
すると、既存にあった桜井市埋蔵文化財センターの一部所として
「纏向学研究センター」の役目も包括すれば良かったのに
何か不都でもあったのかな? >>621
文化財課から調査研究部門を独立させてシンクタンクとして機能しやすいようにしただけでしょ >>621
桜井市近隣の他市では文化財課じゃなかったっけ
たぶん
桜井市の財政が良かったのか?
文化財課の人を増やしても対応は可能だったと思うが 市役所に聞いてみたら >>620
それ誰かが指摘して付け加えた奴だね
しかし
テンプレの1では
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。<
纏向の掘立柱建物と言う意味でいいのだろか 昨夜の流れで行くと
王都は纏向(櫻井市の遺跡)限定で無く天理市も含むとなる
テンプレで纏向(遺跡)を使うときは桜井市限定となる
ややこしい 王都は違う言い方できないものだろうか >>626
>>609および>>616が正解
ややこしいのはわかるが畿内説どうしでやってくれ
邪馬台国と関係無いからな 【奈良県遺跡地図Web 利用上の注意】
・本サービスである奈良県遺跡地図Web(以下「Web」と略記)は、
文化財保護法第95条に基づく埋蔵文化財包蔵地の周知を目的として提供するものです。
・「Web」はシステムの精度の都合上、埋蔵文化財包蔵地および史跡名勝天然記念物の範囲や内容についての
公的証明資料としては使用できませんのでご注意下さい。 >>626
纏向(学)遺跡と纏向遺跡と区分すればいいと思うが・・・・ >>605
>遺跡の範囲ってのは自治体で決める
>遺跡の範囲外であった場合、遺跡に隣接する場合を除いて届出も不要
おかしくないか?
開き直るなよ。 >>630
キウスと呼ばれるぞ
お手上げの時>>1が書き込むキウス >>605のこれは絶対おかしいなww
>桜井市が纒向遺跡の範囲を市境までとしているのは、上記のため
利権とかいってるのは、ゲスの勘ぐりもしくは救いようのない陰謀史観 < >>629
桜井市纏向遺跡と県纏向遺跡の使い分けでどうかな 纏向遺跡の範囲なんてどうでもいい
邪馬台国は畿内じゃない
畿内説なら早く
南→東が誰もが納得できるように論じろ
ザラコクがしつこく書き込むのはわかる。誰も納得していないから >>552
>中傷専門になった九州説って悲惨だな <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレ、
人種差別的な中傷やって口先でのヘイトスピーチ専門になった大和説者って、
悲惨だな。 >>554
>また九州説が思考を停止した<
また大和説が、口先でのヘイトスピーチ的な宣伝だけになって、
思考を停止した。 >>555
>禿同
桜井市教委(含 纏向学研究センター)と橿原考古学研究所の見解が違うね
興味があればググってみてください <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の、・・・・詐欺師同士であり、
何の価値もないから、関心もない。 >>556
>ほら、また中傷しか出来ない ww<
ほらまた「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のwwは、
口先での中傷しかできない。 >>562
>九州説は妄想漬けだな<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
分裂幻覚の妄想でのヘイトスピーチ漬けだな。 >>563
>スレ主も以前は桜井市を纏向遺跡から外してたが
指摘を受けて天理市の一部を纏向遺跡に組み込みこんだ
仲が悪いわけでない <
どっち道、「南→東」などの嘘つき騙しをしている大和説の犯罪者同士だから、
国民に害になる精神的な異常性のある面々であり、
さっさと病院か刑務所に収容して貰えばよい。 >>572
>>>1はまた変えてるぞ
以前 <箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
ここ纒向が女王の所都である <
今 <倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 <
卑弥呼が居たのは桜井市纏向と微妙に言い回しを変えているがな<
ふーん、スレ主は、やっぱりこっそり皆の投稿や議論を見ていて、
判らんように、少しずつ書き換えていたのか?。 >>577
>>また、「旧字体が昭和24年に新たに定められた」って言うんなら、
お前が「旧字だ」と言った「步」は、昭和24年以前には存在していなかった、
という変な事にもなってしまうではないか。<
>どうしてザラコクさんってそんなにバカなの? どうしてまともに日本語が読めないの?
昭和24年に新たに定められたのが新字体だろ?<
wwが、
「旧字体が昭和24年に新たに定められた」
なんて変な日本語を書いたんだよ。 >>579
>>1歩≒25.5cmは、周髀算経から導かれる「史料実態」。<
>周髀算経から導かれるのは、
「周髀算経が間違っている=実測すらしていない机上の空論」という実態ww<
これまた、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者のwwの、
口先詐欺。
「周地付近とその南北千里で、
夏至正午の8尺棒の影長を計測した事が、
きちんと書かれている。
もちろん、1歩≒25.5cmなんてのは九州説の人ですらザラコクさん
以外は認めない大ウソだよww >>544
>>581
畿内説は嘘つきだから騙されちゃいけないんだけどさ
「卑弥呼の時代の三角縁神獣鏡が畿内から多く出てる!」って畿内説が論拠に上げるわけ
そこがもう、わざと騙そうとしてるんだけど
たしかに卑弥呼の時代に「作られた」銅鏡は畿内から出てくる
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから真相はやはり九州説を強化してるわけ
つまり、九州に伝来した三角縁神獣鏡が、100年かけて畿内まで普及した、と >>582
>いんや? もう一度読み返してみなよ? こっちは常に正しいことしか書いてなくて、
ザラコクさん一人が無理な誤読をしてから回ってるだけだからww <
いんや?、wwは、
「歩」のという文字形だけでは「複歩」なんて意味が発生しない、という事や、
「步から歩に何時頃からかわったのか?」の返事をせず、
「𣥂」と「少」の話にすり替えて、世間をだまそう、としていた、
という事が、事実だね。
世間どころかww以外は全員、
おそらくwwがインチキをしているしている、って分かってる、と思うよww。 普及というか、
物々交換のための高価値アイテムだったんだろう
物々交換していくなかで、九州の卑弥呼の三角縁が、
数十年かけて徐々に畿内に移動して行った
翡翠や出来の良い土器や奴隷との交換
または嫁入り道具、婿入り道具だったのかもしれない >>583
>垂仁天皇の都が纏向珠城宮であり、崇神天皇陵が天理市柳本町に、
景行天皇陵は、天理市渋谷町にあるので、
天理市も卑弥呼の里として町おこしするべきです。<
卑弥呼は、「南≠東」などに拠って、九州倭國の女王であった事が決まっているし、
大和は、「倭國の東征毛人五十五國の中の一国」であり、
「倭国の附庸國の旧小国」であったんだから、
「天皇」なんて存在していなかったので、
大和は、倭國の地方の市を監督する大倭職の国であった、として、
町おこしをすべきです。 倭國の地方の市を監督する大倭職の国、、、、
これでは、観光の宣伝のキャッチコピーとしては、インパクトが足りないのではないのかな。。。 >>650
湖の畔の大物主の倉庫、、、
こちらの方が、良いな。。。 >>603
>畿内説を非難しているわけでは無い<
大和には天皇なんていなかったんだし、当然「畿内」もなかったから、
「畿内説」は嘘つき騙しの詐欺的呼称。
纏向の範囲や天理(の一部?)を含めるのか?は、
卑弥呼らとは直接関係がないから、
倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国の範囲内での問題、
としてやってくれ。 >>606
馬の耳に念仏
豚に真珠
猫に小判
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や畿内説の・・・・詐欺師にマジレスは、
時間の無駄であり、無意味。 >>622
>いや、都だw<
いや、大和には、7世紀末までは、
倭国の東征毛人五十五國の中の国の居住地(宮)はあっても、
「都」という広域都市は発見されていない。
該当したのは、弥生銀座から筑紫付近だけ。 >>626
>昨夜の流れで行くと 王都は纏向(櫻井市の遺跡)限定で無く天理市も含むとなる
テンプレで纏向(遺跡)を使うときは桜井市限定となる
ややこしい 王都は違う言い方できないものだろうか、<
纏向からは、「都」は発見されていない。
せいぜい、倭国の地方の市を監督する大倭職の「宮」や「祭祀場」クラス。 >>647
>「歩」のという文字形だけでは「複歩」なんて意味が発生しない、という事や、
「歩」のという文字形だけで
ザラコクの「あしの裏一個分の長さ」説が
否定されてるんだよ
ww >>636
>朝からバカが独り<
朝から、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説のアホが、また独り。 >>645の訂正
もちろん、1歩≒25.5cmなんてのは、
周髀算経の一寸千里の論理から演繹的に求まる事であり、
その後の魏志などでの根拠も極めて沢山ある事であり、
それを認めない、とするwwらの大和説者は、皆大ウソ付きだよな。 >>657
日本列島上の何処も会稽より南でない という前提が一般論や誰もが当然知っている普遍的な事実であり
そこから、必然に必然を重ねることで南は東の間違いという結論にいたるというプロセスがあるでしょ?
九州説は駄目だな >>658
もちろん、周髀算経の一寸千里の論理が間違いであることから、1歩≒25.5cmなんてのは妄想だという結論が演繹的に求まる
ww つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>648
>普及というか、 物々交換のための高価値アイテムだったんだろう
物々交換していくなかで、九州の卑弥呼の三角縁が、 数十年かけて徐々に畿内に移動して行った
翡翠や出来の良い土器や奴隷との交換 または嫁入り道具、婿入り道具だったのかもしれない<
いや、大和には、鏡作り神社や伝承があるんだし、
4世紀以後の古墳に大量の粗悪な三角縁神獣鏡の副葬が存在するんだから、
やはり、呉系の楽浪鏡師らが、(筑紫や地方の依頼製作の後)大和にも招かれて、
大和の子弟にも三角縁神獣鏡の作り方を教えただろう、
と思うよ。 >>660
周髀算経の一寸千里の論理から演繹された1歩≒25.5cmが漢字の成り立ちから否定されて
必然的に周髀算経の一寸千里の論理が間違いであることが証明されるのでもあるが >>656
>>「歩」のという文字形だけでは「複歩」なんて意味が発生しない、という事や、<
>「歩」のという文字形だけで ザラコクの「あしの裏一個分の長さ」説が
否定されてるんだよ ww <
だから、(一般的な歩行での「歩」の意味使用とは違って)、
長さや距離単位としての「歩」を使用する事に関しては、
周代の周髀算経時点での一寸千里に拠っての「1歩≒25.5cm」が決まっているから、
その場合の「歩」使用は、足底長であり、短歩である事になる。 >>659
>日本列島上の何処も会稽より南でない という前提が一般論や誰もが当然知っている普遍的な事実であり
そこから、必然に必然を重ねることで南は東の間違いという結論にいたるというプロセスがあるでしょ?<
そんな嘘つき騙しのプロセスなんて存在しない。
「萬二千余里」に拠って、倭国は九州確定であり、
「南≠東」に拠って、大和の否定も確定している。
大和説者、という・・・・アホ人種は、やっぱり駄目だな。 >>660
>もちろん、周髀算経の一寸千里の論理が間違いであることから、
1歩≒25.5cmなんてのは妄想だという結論が演繹的に求まる ww<
もちろん、周髀算経の一寸千里が実測であることから、
演繹的な谷本計算に拠って、
1歩≒25.5cmだという結論が、ほぼ演繹的に求まる。
wwは、結局は、・・・・アホであった、という事だな。 >>664
>周髀算経の一寸千里の論理から演繹された1歩≒25.5cmが漢字の成り立ちから否定されて<
否定されていない。
周髀算経の周代には、既に、
原初の「2足底長」の字形を否定して「1足底長」的な字形に変わってしまっていた、
という事になっている。
>必然的に周髀算経の一寸千里の論理が間違いであることが証明されるのでもあるが<
証明されていない。
だから、この事からも、必然的に、
wwが、「南→東」などの嘘つき騙しだけではなく、
周髀算経や谷本確認計算をも否定曲解するする嘘つき騙しの・・・・詐欺師であった、
という事が確定した。 今、5年ぶりに覗いたけれど、5年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、 >>668
残念ながら、漢字を見れば「歩」が「一足底長」じゃないのは誰にでもわかるからね
つまり1歩≒25.5cmが否定されるので、「周髀算経の一寸千里の論理」という現代日本人の妄想も否定された >>667
>周髀算経の一寸千里が実測であることから
証拠なし >>666
>そんな嘘つき騙しのプロセスなんて存在しない。
>「萬二千余里」に拠って、倭国は九州確定であり、
それ、九州が会稽よりずっと北だという事実で否定されてますが >>656
>>「歩」のという文字形だけでは「複歩」なんて意味が発生しない、という事や、<
>「歩」のという文字形だけで ザラコクの「あしの裏一個分の長さ」説が
否定されてるんだよ ww<
https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-xia/zh
において、周髀算経が、
「術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步」
というように長さ距離単位として「步」を使っていたから、
既に「止+𣥂」になっていて、「複足底長」の意味は消失していた、
という事になっていたんだよ。 >>674
>「術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步」
>というように長さ距離単位として「步」を使っていたから、
無理無理
それ、漢代で六尺=一歩で、一尺=23cmの時代だよ >>671
>残念ながら、漢字を見れば「歩」が「一足底長」じゃないのは誰にでもわかるからね
つまり1歩≒25.5cmが否定されるので、
「周髀算経の一寸千里の論理」という現代日本人の妄想も否定された<
残念ながら、漢字を見れば「歩」が「2足底長」じゃないのは誰にでもわかるからね。
つまり周髀算経や谷本確認計算に拠って1歩≒25.5cmが肯定されるので、
「周髀算経の一寸千里の論理の否定」という現代日本の大和説者らの妄想も、
否定された。 >>668
>周髀算経の周代には、既に、
だから、周髀算経は周代の本じゃないの >>676
もう思考やめてオウム返しに堕落したか
論破されたのを認めたようだな
ww >>668
>周髀算経の周代には、既に、
>原初の「2足底長」の字形を否定して「1足底長」的な字形に変わってしまっていた、
>という事になっている。
zarukokuの脳内だけでな >>672
>>周髀算経の一寸千里が実測であることから<
>証拠なし <
周髀算経の、
「周地付近とその南北千里での、夏至正午の8尺の影長に記録」
の史料記載事実そのものの存在が、証拠。 >>673
>>そんな嘘つき騙しのプロセスなんて存在しない。
「萬二千余里」に拠って、倭国は九州確定であり、<
>それ、九州が会稽よりずっと北だという事実で否定されてますが<
ウソを付くな・・・・。
九州は、会稽東治の「東〜東北東」。 >>675
>>「術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步」
というように長さ距離単位として「步」を使っていたから、<
>無理無理 それ、漢代で六尺=一歩で、一尺=23cmの時代だよ<
「術」者は、周髀算経の(注書きではなく)本文だから、当然周代の人間であり、
始皇帝の秦代や、漢代にはならないよ。 >>677
>>周髀算経の周代には、既に<
>だから、周髀算経は周代の本じゃないの<
いや、前漢初期に収集されたんだから、周代からあったものだし、
記載も周公から始まっているし、
若しも漢代も物であれば「漢髀算経」と名付けられる筈なのに、
「周髀算経」と書かれているんだから、
周代の文献であったんだよ。 >>678
>もう思考やめてオウム返しに堕落したか 論破されたのを認めたようだな ww <
wwは、もう思考やめてヘイトスピーチに堕落したか。
どこかの博士号を自慢していたwwは、
論破されて、議論での負けを自覚したようだな。 >>683
題名だけで断定ってww
読んだことない人特有の妄想だな >>681
ザラコクさん、そんな地図を見られたらすぐバレるウソを、ついたら駄目だよ >>679
>>周髀算経の周代には、既に、
原初の「2足底長」の字形を否定して「1足底長」的な字形に変わってしまっていた、
という事になっている。<
>zarukokuの脳内だけでな <
原初の「2足底」の字形が、
周髀算経の頃では、全く消失していて、「步」という全く違った形になっていた、
という事が史料実態。 >>683
>「周髀算経」と書かれているんだから、
>周代の文献であったんだよ。
ばかですか?
じゃ「漢字かきとり問題集」って書かれてたら
漢代の文献なのか?
ww >>688
どこに、そんな史料実態があるの?
脳内でないなら、見せて >>685
>>いや、前漢初期に収集されたんだから、周代からあったものだし、
記載も周公から始まっているし、
若しも漢代も物であれば「漢髀算経」と名付けられる筈なのに、
「周髀算経」と書かれているんだから、
周代の文献であったんだよ。<
>題名だけで断定ってww 読んだことない人特有の妄想だな<
何だ、どこかの博士号を自慢していたwwは、
結局、反論も出来ずに、口先ヘイトスピーチで逃走か?。
大和説者に特有の、インチキ詐欺師だな。 >>680
>周髀算経の、
>「周地付近とその南北千里での、夏至正午の8尺の影長に記録」
>の史料記載事実そのものの存在が、証拠。
周髀算経に、
「周地付近とその南北千里での、夏至正午の8尺の影長に記録」
なんて史料記載事実は存在しないだろ >>691
題名だけで断定するのはアホだろ
って言うのは有効な反論だから
ザラコクの抗弁は駄目 >>686
>周髀算経が書かれたのが漢代なのは常識<
能田氏が、周髀算経に記載された北極四星の動きは、
「紀元前1122年前後100年頃の位置とほぼ一致している」、
としておられたから、
周髀算経が書かれたのは、周初頃だ、という事になるんだよ。 >>663
畿内説は嘘つきだから騙されちゃいけないんだけどさ
「卑弥呼の時代の三角縁神獣鏡が畿内から多く出てる!」って畿内説が論拠に上げるわけ
そこがもう、わざと騙そうとしてるんだけど
たしかに卑弥呼の時代に「作られた」銅鏡は畿内から出てくる
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから真相はやはり九州説を強化してるわけ
つまり、九州に伝来した三角縁神獣鏡が、100年かけて畿内まで普及した、と >>687
>ザラコクさん、そんな地図を見られたらすぐバレるウソを、ついたら駄目だよ<
どこかの博士号を自慢していたwwさん、
そんな地図を見られたらすぐバレるウソを、ついたら駄目だよ。
会稽東治の東端は揚子江河口南岸であり、
九州南端は、その真東の700km位であり、
九州の南北長は280km位であり、北700km付近が東北になるから、
九州の北岸は700kmの半分の350kmよりもはるかに南だから、
九州は、揚子江河口南岸の「東〜東北東」の間にある、
という事はちっとも間違っていない。 畿内説ってほんとうに痛いとこ突かれると反応せず黙るんだよなw >>689
>>「周髀算経」と書かれているんだから、 周代の文献であったんだよ。<
>ばかですか? じゃ「漢字かきとり問題集」って書かれてたら 漢代の文献なのか?<
何だ?、漢字は「漢の文字だ」という意味である事を否定するんか?、博士号は。
周髀と書かれたものは、漢代の髀だ、なんて事には、全くならんよ。
ww < >>699
それ、本がいつ書かれたかと関係ないから >>696
>でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
証拠は? >>662
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>695
じゃ、5ちゃんの投稿にそれを書いたザラコクは周代の人ってことになるか?
ならないよね
周髀算経が書かれたのは漢代だ 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 >>644
どこまでもバカだな
>「旧字体が昭和24年に新たに定められた」
引用範囲が正しくない
正しくは>>512
ーーーーここからーーーー
旧字体って、
「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に『対して』いう。」
ーーーーここまでーーーー
『 』は改めてつけた
「昭和24年に新たに定められた新字体」に『対して』、
それ以前のものを「旧字体」と呼ぶ訳だ
日本人なら、常識以前!
こういうバカをさらし続けるから、ザラコクさんをはじめ、九州説の
頭おかしい人たちは「日本文化の下で育ってないだろう」って言われるんだよ!
疑惑じゃないのかもしれんがなww >>699
だから、「漢字かきとり問題集」は漢代の文献なのか?
ばかですか? 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 「漢字かきとり問題集」について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。 >>669
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>697
>会稽東治の東端は揚子江河口南岸であり、
>九州南端は、その真東の700km位であり
揚子江河口南岸は呉郡
会稽東治はそんなとこに無い
地名詐欺は駄目だよ
九州南端でいいなら、北部九州まで12000里説が破産だな
九州説、終わりました 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。 >>643
>判らんように、少しずつ書き換えていたのか?。
こういうところもバカだよな
スレ立てごとに、テンプレの最後で
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ65,67に追記
みたいな形で、変更点が明記されてるよ 狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。 >>645
>「周地付近とその南北千里で、
>夏至正午の8尺棒の影長を計測した事が、
>きちんと書かれている。
それ、原文で示してみてww
冬至と夏至の影の長さを24節季で等分にしたって時点で、測ってないって丸分かりww 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>647
>「歩」のという文字形だけでは「複歩」なんて意味が発生しない、という事や、
文字の成り立ちの象形文字時代から、一貫してずっと複歩
>「步から歩に何時頃からかわったのか?」の返事をせず、
>>512に書いてあるだろ?
でも、それ以前に、日本人には常識だぞ?
やっぱり日本人じゃないのか?
>「𣥂」と「少」の話にすり替えて、世間をだまそう、としていた、
>という事が、事実だね。
騙されているのは、ザラコクさんがザラコクさんの脳内妄想に
セルフ欺瞞されてるんだよww 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>658
>周髀算経の一寸千里の論理から演繹的に求まる事であり、
演繹法は「確実な真理」を前提にして行う推論
一寸千里が、真理でもなんでもないから、推論方向としては演繹だけれど、
前提が間違っているから、何の意味も持たないよww >>665
>長さや距離単位としての「歩」を使用する事に関しては、
>周代の周髀算経時点での一寸千里に拠っての「1歩≒25.5cm」が決まっているから、
>その場合の「歩」使用は、足底長であり、短歩である事になる。
周代で、歩=8尺または6尺4寸(6寸)
秦以降長い間、歩=6尺
これは、ザラコクさんがどう言おうと変わらないよww
足底長は「脚」だしねww >>668
>周髀算経の周代には、既に、
>原初の「2足底長」の字形を否定して「1足底長」的な字形に変わってしまっていた、
>という事になっている。
変わってないよ?
周髀算経の本文テキストは
三分里之一,即為百『步』 となっている
「止+𣥂」は、止とその反字
つまり、左右対称の右足と左足の足跡そのものの形象
複歩の足跡そのままだよ
そもそも、周髀算経は戦国時代末期から前漢にかけての著作
前提から何から、ザラコクさんの書くことは全部間違いww 足の踵とつま先を合わせて歩いて大きさを測るのは、安定した測定に有利だな。 >>674
>既に「止+𣥂」になっていて、「複足底長」の意味は消失していた、
>という事になっていたんだよ。
いや、「𣥂」は「少・ショウ」じゃなくて「𣥂・タツ」で、
成り立ちも意味も「止」の反字
「止」と「𣥂」で、左右対称な右足と左足の複歩の足跡そのもの >>680
>史料記載事実そのものの存在が、証拠
史料記載の信憑性と、史料記載があるからっていうのは、循環論法にすらなってない
ザラコクさんはすごいなww
考え方が根本からまともじゃないわww >>684
>どこかの博士号を自慢していたwwは、
それ、別の人ww
東大の博士号って書くのが悔しくて書けないのかな?
それに、事実を書いただけで自慢はしてないよ?
で、ザラコクさんはどこの院に行ってたのか、いまだに答えないけれど、
恥ずかしくていえないのかな?ww >>688
>原初の「2足底」の字形が、
原初は2足=複歩だってことは認めるんだな?
ザラコクさんにしては、大進歩じゃないか!ww
>周髀算経の頃では、全く消失していて、「步」という全く違った形になっていた、
>という事が史料実態。
篆書体から楷書体に書きかたが変わっても、文字の意味は変わらないんだよww >>690
>>原初の(「歩」の)「2足底」の字形が、
周髀算経の頃では、全く消失していて、「步」という全く違った形になっていた、
という事が史料実態<
>どこに、そんな史料実態があるの? 脳内でないなら、見せて<
wwが提示して来た情報、であったから、
またwwに見せて貰いな。 >>693
>>周髀算経の、 「周地付近とその南北千里での、夏至正午の8尺の影長の記録」
の史料記載事実そのものの存在が、証拠。<
>周髀算経に、
「周地付近とその南北千里での、夏至正午の8尺の影長に記録」
なんて史料記載事実は存在しないだろ<
https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-shang/zh
にある。 日本列島は会稽よりずっと前にだって事実を指摘されて、デタラメでも弁解をしようとする奴がzarkoku一人だけなんだね
ほかの九州説はホッカムリで逃亡か
zarakoku以下だなんて、最低のそのまた下なのか九州説 つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 >>694
>題名だけで断定するのはアホだろ って言うのは有効な反論だから
ザラコクの抗弁は駄目<
能田氏が、
周髀算経に記載された北極四星の動きは、
「紀元前1122年前後100年頃の位置とほぼ一致している」、
としておられたから、
周髀算経が書かれたのは、周初頃だ、という事になる、
って証拠も出しておいたよ。 >>701
>それ、本がいつ書かれたかと関係ないから<
能田氏が、
周髀算経に記載された北極四星の動きは、
「紀元前1122年前後100年頃の位置とほぼ一致している」、
としておられたから、
周髀算経が書かれたのは、周初頃だ、という事になる、
って証拠も出しておいたよ。
こんな事は、漢代には起きないんだから、
漢代の本だ、という嘘つき騙しを否定するもんだ。 >>704
>じゃ、5ちゃんの投稿にそれを書いたザラコクは周代の人ってことになるか?
ならないよね 周髀算経が書かれたのは漢代だ<
ならないよ。
能田氏が、
周髀算経に記載された北極四星の動きは、
「紀元前1122年前後100年頃の位置とほぼ一致している」、
としておられたから、
周髀算経が書かれたのは、周初頃だ。 >>691
>何だ、どこかの博士号を自慢していたwwは、
だから、それも別の人ww
それから、何行か改行した後に「ww」を置く人も別の人だから
間違えないようにね!
それから、ザラコクさんは、どこの院に言ってたの?
東大の文字すら書きたくないほど、
学歴コンプレックスを拗らせているザラコクさんに訊くのは酷かな?ww >>697
>どこかの博士号を自慢していたwwさん、
だから、それも別の人ww
それから、ザラコクさんは、どこの院に言ってたの?
以下(ry >>706
>>(wwは)「旧字体が昭和24年に新たに定められた」(と書いた)<
>引用範囲が正しくない <
wwの引用が変だ、と指摘した。
>正しくは>>512 ーーーーここからーーーー
旧字体って、 「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に『対して』いう。」
ーーーーここまでーーーー 『 』は改めてつけた
「昭和24年に新たに定められた新字体」に『対して』、 それ以前のものを「旧字体」と呼ぶ訳だ<
wwはまだ脳がおかしい。 >>743の続き
wwは、
旧字体って、 「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に『対して』いう。」
って書いているんだから、
「「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に『対して』いう。」
は、(新字体の説明ではなく)、
旧字体の説明だ。
つまり、ここでもwwは、またインチキを書いていた。 >>707
>だから、「漢字かきとり問題集」は漢代の文献なのか? ばかですか?<
いや、周髀算経の「周髀」が「周の髀」であるように、
「漢字」は「漢の字」だ、っていう意味さよ。
お前も、・・・・アホの、大和説詐欺師ですか?。 >>743、>>744
ザラコクさん、本気で書いてるの?
第二次世界大戦後の国語改革で、旧字(別の言い方では繁体字)が使われなくなって、
1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体=新字体に移行した
というのは、日本人なら常識以前のことなんだが?
何を訳の分からないことを書いているんだ?
本当に分かってないのか?
日本でもずっと「步」(旧字体)を昭和24年まで使っていた
日本で「歩」(新字体)を使うようになったのは、昭和24年の当用漢字音訓表制定以降
これ、誰かに言われなくても分かっている事柄だぞ?
こっちはそれを確認の意味で改めて書いているだけなのに、
ザラコクさんが自分で誤読して、自分に騙されておいて、
こっちに文句を書いて来ているんだが?
本当に、日本語がまともに読めないほど頭が悪いの?
本当に、旧字と新字の区別もつかないほど、日本社会の常識がないの?
本当に、日本人じゃない工作員なの? >>712
>>会稽東治の東端は揚子江河口南岸であり、
九州南端は、その真東の700km位であり <
>揚子江河口南岸は呉郡 会稽東治はそんなとこに無い 地名詐欺は駄目だよ <
陳寿は、「夏后少康之子封於會稽」の情報との関係を説明していたんだから、
会稽の東方海岸は、
魏の末期に呉郡に分郡されて呉郡になっていて?も、
魏代の大半は会稽郡であったから、
「会稽東治」というの」という呼び方を使ったのであり、
何も問題はない。 >>716
>>(スレ主は)判らんように、少しずつ書き換えていたのか?。<
>こういうところもバカだよな スレ立てごとに、テンプレの最後で
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 【追加・変更点】 ◆FAQ65,67に追記
みたいな形で、変更点が明記されてるよ<
それで、スレ主は、
◆FAQ65,67で、
「卑弥呼」という文言を消して書き変えた事を、記載してあったのかい?。 >>718
>>「周地付近とその南北千里で、 夏至正午の8尺棒の影長を計測した事が、
きちんと書かれている。<
>それ、原文で示してみてww<
https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-shang/zh
>冬至と夏至の影の長さを24節季で等分にしたって時点で、測ってないって丸分かりww<
wwが、
周髀算経が、夏至と冬至とで影長を計測しておいて、
残りの22節句は、影長を均等分割して割り当てた、
って事を隠している事が、またバレた。引用しておこう。
冬至晷長一丈三尺五寸,小寒丈二尺五寸,大寒丈一尺五寸一分,立春丈五寸二分,
雨水九尺五寸二分,啟蟄八尺五寸四分,春分七尺五寸五分,清明六尺五寸五分,
穀雨五尺五寸六分,立夏四尺五寸七分,小滿三尺五寸八分,芒種二尺五寸九分,
夏至一尺六寸,小暑二尺五寸九分,大暑二尺五寸八分,立秋四尺五寸七分,
處暑五尺五寸六分,白露六尺五寸五分,秋分七尺五寸五分,
寒露八尺五寸四分,霜降九尺五寸三分,立冬丈五寸二分,
小雪丈一尺五寸一分,大雪丈二尺五寸。 >>749
>>それ、原文で示してみてww<
>https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-shang/zh
全文じゃなくて、その中のどこに書いてあるのかを示してくれって言ってるんだよ!
漢文を読んで、内容を確認してるんだよね?
だったら、どこに書いてあるか、具体的に示せるだろ? >>749
>残りの22節句は、影長を均等分割して割り当てた、
それが、実際には測ってないことの証明だろ?
測ってたら、均等分割では合わないことが自明だからな >>722
>>「歩」のという文字形だけでは「複歩」なんて意味が発生しない、という事や<
>文字の成り立ちの象形文字時代から、一貫してずっと複歩 <
旧字体からは、複歩なんて字形になっていない。
>>「步から歩に何時頃からかわったのか?」の返事をせず、<
>>>512に書いてあるだろ?<
wwは、「歩」という字形の始まり時期を書いていなかったんだよ。
>>「𣥂」と「少」の話にすり替えて、世間をだまそう、としていた、 という事が、事実だね。<
>騙されているのは、ザラコクさんがザラコクさんの脳内妄想に セルフ欺瞞されてるんだよww<
世間の人々を騙しているのは、すり替えたww。 >>744
大辞林 第三版の解説
きゅうじたい【旧字体】
漢字の字体で、古くから用いられていた字体。
特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに
定められた字体に対していう。旧字。
これは、誰がなんと言おうと、旧字体の説明だろ
それがどうして、>>644で
「「旧字体が昭和24年に新たに定められた」
なんて変な日本語を書いたんだよ。」
に化けるんだよ?
本格的に頭おかしいだろ? >>724
>>周髀算経の一寸千里の論理から演繹的に求まる事であり、<
>演繹法は「確実な真理」を前提にして行う推論 <
「演繹法」だ、なんて」断定して言っていない。
「演繹的」だと言った、
>一寸千里が、真理でもなんでもないから、<
影長計測値からの演繹的に得られたものだ。
>推論方向としては演繹だけれど、 前提が間違っているから、何の意味も持たないよww<
計測値だから、ほぼ合っており、
「間違っている」と決めつけたwwの方が、・・・・詐欺師だな。 当用漢字字体表について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>725
>>長さや距離単位としての「歩」を使用する事に関しては、
周代の周髀算経時点での一寸千里に拠っての「1歩≒25.5cm」が決まっているから、
その場合の「歩」使用は、足底長であり、短歩である事になる。<
>周代で、歩=8尺または6尺4寸(6寸) 秦以降長い間、歩=6尺
これは、ザラコクさんがどう言おうと変わらないよww <
周髀算経の計測値から、「1歩≒25.5cm≒1尺(短歩)」。
これは、wwがどういおうと変わらないよ。
>足底長は「脚」だしねww<
これも嘘つき騙し。
「脚」が、膝付近からの下の事、っという文献を紹介した。 >>756
>周髀算経の計測値から
計測値じゃないから >>726
>>周髀算経の周代には、既に、
原初の「2足底長」の字形を否定して「1足底長」的な字形に変わってしまっていた、
という事になっている。<
>変わってないよ? 周髀算経の本文テキストは 三分里之一,即為百『步』 となっている<
「1里=300歩」の関係の方は、周代ずっとから変わっていないよ。
>「止+𣥂」は、止とその反字 つまり、左右対称の右足と左足の足跡そのものの形象
複歩の足跡そのままだよ <
反字の形にもなっていないし、左右対称の右足と左足の足跡にも読めないし、
複歩の足跡にも読めない。
>そもそも、周髀算経は戦国時代末期から前漢にかけての著作
前提から何から、ザラコクさんの書くことは全部間違いww <
能田氏の「1122年前後100年」の記録、という証言に拠って、
wwは、脳も精神性も知能も全部×。 >>728
>>既に「止+𣥂」になっていて、「複足底長」の意味は消失していた、
という事になっていたんだよ。<
>いや、「𣥂」は「少・ショウ」じゃなくて「𣥂・タツ」で、
成り立ちも意味も「止」の反字
「止」と「𣥂」で、左右対称な右足と左足の複歩の足跡そのもの <
いや、「左右対称な右足と左足の複歩の足跡」であるんなら、
「止」が、片足の象形になっていればよいのに、そうなっていないし、
「止」の左右反転字形を「止」の下に置けばよいのに、「𣥂」はそうなっていない。 >>758
漢代の本が殷周の時代のことを書かないと思うのは
脳も精神性も知能も全部×な証明。 >>729
>史料記載事実そのものの存在が、証拠<
>史料記載の信憑性と、史料記載があるからっていうのは、循環論法にすらなってない<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
単一事象や孤立情報である事などいくらでも有り得るから、
それに対する存在性の資料批判が、証拠になる。 畿内説は嘘つきだから騙されちゃいけないんだけどさ
「卑弥呼の時代の三角縁神獣鏡が畿内から多く出てる!」って畿内説が論拠に上げるわけ
そこがもう、わざと騙そうとしてるんだけど
たしかに卑弥呼の時代に「作られた」銅鏡は畿内から出てくる
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから真相はやはり九州説を強化してるわけ
つまり、九州に伝来した三角縁神獣鏡が、100年かけて畿内まで普及した、と 三角縁神獣鏡について
畿内の三角縁神獣鏡は、卑弥呼の時代からだいぶ後の時代の遺跡から出土する
対して九州の三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代に近い時代の遺跡から出土
中国から伝来して拡散していくルートがわかるじゃん
そしてそれが九州邪馬台国→畿内ヤマト王権への移行(移住)とも重なるでしょ? >>747
>陳寿は、「夏后少康之子封於會稽」の情報との関係を説明していたんだから、
その越が呉を征服するのは、彼の何代も後の子孫
だからザラコク珍説は不可能
>会稽の東方海岸は、
>魏の末期に呉郡に分郡されて呉郡になっていて?も、
>魏代の大半は会稽郡であったから、
そんな事実なし
捏造はダメ
>「会稽東治」というの」という呼び方を使ったのであり、
ありえない
地名詐欺は不可
問題おおあり >>732
>>原初の「2足底」の字形が、<
>原初は2足=複歩だってことは認めるんだな?<
wwが提示した画像では、「2足底」の可能性がある、って程度の事だな。
>>周髀算経の頃では、全く消失していて、「步」という全く違った形になっていた、
という事が史料実態。<
>篆書体から楷書体に書きかたが変わっても、文字の意味は変わらないんだよww<
書体を変えれば、内容も少し変わるものだ。 >>764
>畿内の三角縁神獣鏡は、卑弥呼の時代からだいぶ後の時代の遺跡から出土する
証拠は? >>766
ザラコクは馬鹿だと
隷書で書いても
楷書で書いても
意味は同じ >>735
「日本列島は会稽よりずっと南だ「」」なんて、
史料にも存在しないデタラメ、でしかない事をいう大和説者が出てきても、
ほかの大和説はホッカムリで逃亡したままなんだよね。
ww以下か?、最低のそのまた下なのか?、大和説は?。 >>745
>いや、周髀算経の「周髀」が「周の髀」であるように、
>「漢字」は「漢の字」だ、っていう意味さよ。
そして当然ながら
「漢字かきとり問題集」は漢代の文献ではなく
「周髀算経」は周代の文献ではない >>769
>「日本列島は会稽よりずっと南だ「」」なんて、
史料にも存在しないデタラメ、でしかない事をいう大和説者が出てきても、
出てこないから問題ない これも以前から思っていたことなんだけど
学校に通っていたのか、いないのか?
わからないような人物なんだけど
なぜ頭の良い人がいるのか、なんだよ
自身が先生か何かのかな?
〜〜〜〜〜〜ずっと教えるような立場の人 >>746
お前は、
旧字体って、 「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に『対して』いう。」
って書いたんだから、
(新字体の話ではなく)、
「旧字体」の話として書いたんだよ。
だから、それを「新字体の話だ」というお前は、脳がおかしい嘘つき騙しの詐欺師。 松傾?
どこの学校を出た、通っていたとも聞いたことないし、
むかし住んでいた家の話
本や書なんかが沢山並んでいた 白い制服のようなものを着ている子供、
松傾の家の・・・・子供の頃の写真だと言っていたり >>757
>>周髀算経の計測値から<
>計測値じゃないから<
「日中立竿測影」と「測影」とはっきり書いている。 老婆が言うには、
まだ小学校にも通っていないころだよ
と言っていたりw
漫画、アニメのキャラなのかな? >>761
>漢代の本が殷周の時代のことを書かないと思うのは
脳も精神性も知能も全部×な証明。<
漢代の人が、紀元前1122年の星座の位置を計測記録できる筈がない。
記録出来るとする大和説者は、脳も精神性も知能も全部×な証明。 寺子屋?
そういうところで勉強していたのかな、
寺院の話をしていた事があったり 芝居の話もしているし、
カブキ、芝居が好きで・・・とか
馬に乗りという話でしょ?
『松傾』検索すると出てくる、その画 >>778
>漢代の人が、紀元前1122年の星座の位置を計測記録できる筈がない
無知無能も極まれりだな
計測なんてしなくても記録があればこと足りる
日没時の北斗の向きでいま何月か知るとか、古代中国じゃ民衆レベルの生活の知恵なんだよ
そういう記録の断片をかき集めて、自分で測定なんかせずに空想で宇宙論を書いたのが周髀算経というトンデモ本なんだよ
だから測定地も観測年代もバラバラのデータと空想的推定値がゴッタ煮になってる なぜか、何々様なんて言われていたとか、
その写真に写っている母親の父親だったかな
老婆から見ると、何に当たるの?家族関係 >>776
書いてあったら何だ?
「測影すればウン寸(になる筈だ)」だろ?
「太陽が南六万里にある正午に」とか
みんな想像上のニセ観測だ ヒミコではないと思うんだけどw
その写真の子供から見ると祖父になるんだけど、
何々様なんて言われていたよ
とか 老婆の話(談)しかしらないんだけど
家⇔何々様、写真の母親の父親
家⇔写真の母親
家⇔老婆
家⇔藤ノ木生まれ、母親
家⇔ 畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシが意味の無いことを呟き始めたな。。。 >>786
テンプレートを論破され、追い詰められたからではないのかな。。。 >>788
意外と>>1は素直だ
論破されたら訂正や加筆している
結果 長ーいテンプレになったのと魑魅魍魎となったのは確かだが
努力はしている >>○✖等
>>1の
纏向☛桜井市纏向は間違った訂正と言うことだろ
元に戻せばよいだけじゃねーの >>○✖等
>>1の
纏向☛桜井市纏向は間違った訂正と言うことだろ
元に戻せばよいだけじゃねーの >>789
嘘に嘘を重ねた結果だろ。
そもそも騙す気満々の悪意のある文章だよ。 >>759
>そうしないと分からないなら馬鹿の証拠 <
説明出来ないで、ヘイトスピーチで返した、という事は、どうやら、
スレ主は、「卑弥呼」を消して別表現に変えた事を、断っていなかったんだな?。 スレ主の
>>1はわかりずらいが畿内説の主張にあっている
>倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。<
桜井市纏向と限定していない たぶん纏向遺跡(櫻井市周辺市を含む遺跡)
>纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 <
纏向遺跡に包括される桜井市の大型建物が宮殿所在地と言いたいのであろう
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 <
これも纏向遺跡に包括される桜井市の大型建物に女王は居たと言いたいのであろう >>790
なんで間違ってるの?
桜井市以外に纏向あるのか? 私がスレ主なら
>>1を下記のようにする(言い切るのは説として良しとする)
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが 勝者の貫録を見せつつ、<
・・・・・・・・・・・削除
>権力基盤を持つ女性であったと考えられる。<
・・・・・・・・王で有った(女性削除)
> 倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない。<
・・・・・・・・纏向遺跡で発掘された大型建物が女王の居館域である >>795
質問は桜井市以外に纏向(遺跡)はあるのかで良いですか? >>796です少し訂正
>> 倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない。<
・・・・・・・・纏向遺跡で発掘された大型建物が女王の居館域である
⇧
>> 倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない。<
・・・・・・・・邪馬台国の女王卑弥呼は何処に居たのであろう?纏向遺跡で発掘された大型建物がの居館域である >>752
>wwは、「歩」という字形の始まり時期を書いていなかったんだよ。
本格的に、日本人じゃないな
>>512に「1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに
定められた字体」って書いてあるんだから、
『昭和24年が「歩」という字形の始まり時期』であることは
明確に示されてるだろ?
でも、日本人なら、誰かに言われなくても、戦後の国語改革で新字体が
始まったのは常識として知ってるぞ?
ザラコクさんは、どこで生まれ育ち、どこで教育を受けたんだ?
通っていた大学院を言えないのも、そういう理由なのか? >>765
>>陳寿は、「夏后少康之子封於會稽」の情報との関係を説明していたんだから、
会稽の東方海岸は、 魏の末期に呉郡に分郡されて呉郡になっていて?も、
魏代の大半は会稽郡であったから「会稽東治」というの」という呼び方を使ったのであり、<
という事は、陳寿の魏志での「会稽東治」という表現での「東治」とは、
陳寿執筆時点での呉郡(=魏代の会稽郡の東治)という事の簡略記載、
であった可能性が高い。 >>797
いいえ
纏向という地名は桜井市纏向以外にあるのか?です うろ覚えなんだが「俺は纏向といえば纏向日代宮伝承地のことを言うんだ」ってゴネた人がいて、1が纏向を桜井市纏向に変えたんじゃなかったっけ? >>773
そろそろボケてきたか?
>だから、それを「新字体の話だ」というお前は、脳がおかしい嘘つき騙しの詐欺師。
こっちの原文は
「ここでいう、旧字体って、
「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に対していう。」
だぞ?」
普通の日本人なら、
「1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体」が『新字体』であり
「その新字体に対してそれ以前の字体」を『旧字体』というのは、まったく紛れがない
それを>>560で
「「旧字体が昭和24年に新たに定められた」って言うんなら、 」と
日本人なら決してしないような誤読をして、自分で混乱していったのがザラコクさん
ザラコクさんも、ここまで深刻にボケてきているようなら、5ちゃんねるに
書き込みできる残り時間ももうそんなに長くはないかもね >>767
>>畿内の三角縁神獣鏡は、卑弥呼の時代からだいぶ後の時代の遺跡から出土する<
>証拠は?<
「畿内」なんて存在もしない文言を使うと、このような突込みが入れられてしまう。
「大和」であれば、「有槨」のホケノにも三角縁神獣鏡がないので、
4世紀までは三角縁神獣鏡はない、と言える。 本来このスレは、議論しながらテンプレ部分も含めてブラッシュアップしていくのが
目的なんだから、テンプレで疑問に思うところはどんどん出していけばいいんじゃないの?
九州説のいちゃもんみたいなのは、結局瞬殺されるんだしww
ザラコクさんは、本当に邪魔だなぁと思うけれど、バカなんだからほっとけばいいし >>801
現在 桜井市纏向と言う地名は無いのでは?・・
もし地名があったとしても
吉野ヶ里史跡を例にすれば 周知のとおり吉野ケ里遺跡は
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがっていますが吉野ケ里神崎遺跡と言いません
吉野ヶ里遺跡が正式名称として認知されています
纏向遺跡は私的には「太田勝山遺跡」でも良いと思いますが すでに纏向遺跡となっているので異論はありません >>801
現在 桜井市纏向と言う地名は無いのでは?・・
もし地名があったとしても
吉野ヶ里史跡を例にすれば 周知のとおり吉野ケ里遺跡は
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがっていますが吉野ケ里神崎遺跡と言いません
吉野ヶ里遺跡が正式名称として認知されています
纏向遺跡は私的には「太田勝山遺跡」でも良いと思いますが すでに纏向遺跡となっているので異論はありません >>770
>>いや、周髀算経の「周髀」が「周の髀」であるように、
「漢字」は「漢の字」だ、っていう意味だよ。<
>そして当然ながら 「漢字かきとり問題集」は漢代の文献ではなく
「周髀算経」は周代の文献ではない<
周髀算経には、(能田氏が指摘したように)、
紀元前1122年前後100年位の北極四星の記載があるから、
周代に書かれた文献。 >>800
いや、その可能性はない
魏代に会稽郡が呉郡を含んでたってのはガセだから 失礼
纏向の地名はあります(住所と間違えました)
以下です
吉野ヶ里史跡を例にすれば ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・異論はありません >>771
>>「日本列島は会稽よりずっと南だ」なんて、
史料にも存在しないデタラメ、でしかない事をいう大和説者が出てきても、<
>出てこないから問題ない<
大和説者は、長里説者であるから、
郡から萬二千余里東南へ行けば、
無条件で、会稽よりも南へ行く事を主張してしまっている、
という事になる。 >>808
>周髀算経には、(能田氏が指摘したように)、
>紀元前1122年前後100年位の北極四星の記載があるから、
>周代に書かれた文献。
ばかですか
じゃ、能田氏の著書も紀元前1122年前後100年位の北極四星の記載があるから、
周代に書かれた本なんだな?
そう言うんだな? >>811
郡から萬二千余里「東南へ」行くなんて
主張してないから
会稽よりも南へ行く事を主張してる
という事にならないな
ザラコクの捏造 >>804
いえないな
黒塚にも桜井茶臼山にもある
三世紀だ >>814
最大にさかのぼっても三世紀末、だな
つまり卑弥呼の時代からは50年の隔たりがある
三角縁が畿内に伝来するまで最低でも50年かかってるってこと >>815
つまり
畿内説は嘘つきだから騙されちゃいけないんだけどさ
「卑弥呼の時代の三角縁神獣鏡が畿内から多く出てる!」って畿内説が論拠に上げるわけ
そこがもう、わざと騙そうとしてるんだけど
たしかに卑弥呼の時代に「作られた」銅鏡は畿内から出てくる
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから真相はやはり九州説を強化してるわけ
つまり、九州に伝来した三角縁神獣鏡が、100年かけて畿内まで普及した、と
ってことだな >>781
>>漢代の人が、紀元前1122年の星座の位置を計測記録できる筈がない<
>無知無能も極まれりだな 計測なんてしなくても記録があればこと足りる<
普通の人間や学者は、自分が知り得て確認を取れた事を書き残すもの。
思想宗教に狂った・・・・や詐欺師は、分裂幻覚の妄想であっても、構わず書く人種。
>日没時の北斗の向きでいま何月か知るとか、古代中国じゃ民衆レベルの生活の知恵なんだよ<
漢代の学者は、漢代に確認出来た事しか書けないもの。
>そういう記録の断片をかき集めて、自分で測定なんかせずに空想で宇宙論を書いたのが周髀算経というトンデモ本なんだよ
だから測定地も観測年代もバラバラのデータと空想的推定値がゴッタ煮になってる<
空想で書いた事が、千年も前の出来事と一致する可能性は殆どない。 >>819
>漢代の学者は、漢代に確認出来た事しか書けないもの。
じゃ、なんで周代のことを書いてる学者がたくさんいるんだ?
あたま悪いやつだなあ >>818
>でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから証拠は? >>819
>普通の人間や学者は、自分が知り得て確認を取れた事を書き残すもの。
皆さま、ザラコクがこんなこと言いました
ww >>783
>(日中立竿測影)書いてあったら何だ?)<
計測があった、という事だ。
>「測影すればウン寸(になる筈だ)」だろ? <
計測の結果が、
「周髀長八尺,夏至之日晷一尺六寸。髀者,股也。正晷者,句也。正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸」
であった、という事だ。
>「太陽が南六万里にある正午に」とか <
ウソを書くな。そんな事は書いていない。
>みんな想像上のニセ観測だ<
お前の話は、みんな皇国史観大和説にクルった・・・・の、
分裂幻覚の妄想ばかりだ。 >>819
>空想で書いた事が、千年も前の出来事と一致する可能性は殆どない。
なんか東のほうを適当に指差して一年間立っててみ
ある日その指差す方向から日が昇るから >>789
>意外と>>1は素直だ
論破されたら訂正や加筆している
結果 長ーいテンプレになったのと魑魅魍魎となったのは確かだが
努力はしている <
スレ主は、「南→東」の嘘つき騙しを撤回もしないし、
素直でもないし、努力もしていない。
おそらく、オーム信者らと同じように、
皇国史観大和説に洗脳された・・・・アホだ。 >>819
>普通の人間や学者は、自分が知り得て確認を取れた事を書き残すもの。
周髀算経は確認もとらずに空想で適当なことを書いた箇所がいくつも見つかってる
そんな書物なんだよ >>799
>>wwは、「歩」という字形の始まり時期を書いていなかったんだよ。<
>>>512に「1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに
定められた字体」って書いてあるんだから、
『昭和24年が「歩」という字形の始まり時期』であることは明確に示されてるだろ?<
昭和24年の、突然初めて「歩」の文字が造作された、という筈がなく、
当然、以前に「歩」と「步」の混用時代があって、
昭和24年に「步→歩の統一」があった、
という事になる。
だから、「歩」はどこで何時から起こったのか?、を聞いている。 毎度だけどこれってキチガイかスレ主?
>老婆の話(談)しかしらないんだけど ・・・・・・・・・・・・ >>828だが
カキコミが止まったときとか、議論に着いて行けないか反論できない来るネトウヨ?
ここのネトウヨはスレ主とザラコクだが
☟
>老婆の話(談)しかしらないんだけど ・・・・・・・・・・・・ >>803
>こっちの原文は
「ここでいう、旧字体って、
「特に、1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体に対していう。」
だぞ?」
だから、お前が変な(意味不明な)表現をしている、と最初に断っておいたのだ。
>普通の日本人なら、
「1949年(昭和24)内閣告示の「当用漢字字体表」で新たに定められた字体」が『新字体』であり
「その新字体に対してそれ以前の字体」を『旧字体』というのは、まったく紛れがない<
普通の日本人なら、きちんと、
昭和24年に当用漢字字体表が作成されたおり、「歩と步の混乱や混在が起きたから、歩を採用して步を止めた」
とでも、はっきりと書くもの。
しかし、普通の日本人ではない、思想宗教の詐術にクルったwwは、
日本語も不自由だから、誤解させ易い変な文を書くんだろう。 纏向や箸墓が3世紀でもいいじゃん
邪馬台国と関係ない3世紀だから >>805
>本来このスレは、議論しながらテンプレ部分も含めてブラッシュアップしていくのが
目的なんだから、テンプレで疑問に思うところはどんどん出していけばいいんじゃないの?
九州説のいちゃもんみたいなのは、結局瞬殺されるんだしww
ザラコクさんは、本当に邪魔だなぁと思うけれど、バカなんだからほっとけばいいし<
本来は、掲示板は自由投稿が原則なんだから、
スレ主やテンプレやwwらは放っておいてもいいんだが、
やはり、「南→東」などの嘘つき騙しや、
「万世一系の皇国史観」という極右の戦争やヘイトスピーチ狂の投稿に、
国民がこれ以上騙されて行く事は、黙過し難い。 >>833
>やはり、「南→東」などの嘘つき騙しや、
反論も出来ないくせ
ww >>827
本当に日本人じゃないのか? 今までは疑惑だったんだが?
>昭和24年の、突然初めて「歩」の文字が造作された、という筈がなく、
>当然、以前に「歩」と「步」の混用時代があって、
>昭和24年に「步→歩の統一」があった、
>という事になる。
そんな空想と一生懸命書いても、何の意味もないんだよ
旧字体の時代は、新字体の「当用漢字字体表」に当たるものはなかったから、
活字ごとに書体の揺れは当然にあったけれど、「步」はこの形の
旧字体しかなかったよ
今、新字体で「のむ」という字は「飲む」と書くけれど、
旧字体のときは「飮む」と書いてた
偏が異なるだろ?
「飲む」という字は昭和24年の新字体への移行時に作られたんだよ
「歩」と「步」の関係は、「飲む」と「飮む」の関係と同じ
古い新聞を探して見れば、「步」しかないのは確認できるよ
あ、いい例を見つけた
しんちょくって変換してごらん
進捗の「捗」の字の旁、
「歩」じゃなくて「步」になってるだろ?
新字体への移行時に直しきれなかったのは、全部「步」だよ ザラコクも
南→東が論理的に畿内説が説明すればザラコクも何度も方位については連呼しないと思う
☟
南→東は解明中だから、他の話題でヨロシクもいいかも
漢字の世界は中国に委ねるでいいかも・・逃げでなく「私はそう思が・・」で止めれば良いのでは >>809
>いや、その可能性はない
魏代に会稽郡が呉郡を含んでたってのはガセだから<
会稽郡から呉郡が分離した話は、wwからの情報であったのであり、
その時にも、その分離時期を、嘘つき騙しのwwは、
魏代末から二転三転させていて、全てにおいて、信用し難かった。
だから、その時にも、「東治」の地域は、
旧会稽郡の地域であった中の東部にあった地域で、呉郡になった地域の事だろう、
という推定を書いておいた。 >>831
>だから、お前が変な(意味不明な)表現をしている、と最初に断っておいたのだ。
これが意味不明だと感じられる日本人て、どんな日本人だ?
ありえないだろう?
旧字体の存在を知らない小学生ならともかく?
本当に日本人なのか?
だから、在籍したという大学院名も言えないのか? 畿内説のスレだから
本論の畿内説について探求しようよ
ザラコクや他説は参考程度で良いと思う
畿内説のスレだから >>838
証拠は?
すべて老醜ザラコクの夢とうそだろ >>832
>纏向や箸墓が3世紀でもいいじゃん
>邪馬台国と関係ない3世紀だから
いやあ、箸墓古墳とかは4世紀だろ。
もちろん、邪馬台国と関係ないところで同時期に作られたと言うことでもいいけどさ、それ以前に学者が平然と年代の嘘をつくのは許せないね。 >>831
>「歩と步の混乱や混在が起きたから、歩を採用して步を止めた」
混在も混乱もないよ
本来的に、どちらで書いても通じるし
まあ、公的な文書では当用漢字音訓表の使用が義務だったから、
步は使わないけどね >>812
>>周髀算経には、(能田氏が指摘したように)、
紀元前1122年前後100年位の北極四星の記載があるから、
周代に書かれた文献。<
>ばかですか
じゃ、能田氏の著書も紀元前1122年前後100年位の北極四星の記載があるから、
周代に書かれた本なんだな? そう言うんだな?<
アホですか?。
周髀は周代の髀であるし、
本文は周公の話から書き始まっているから周代の記録であるし、
記載された北極四星の位置は、紀元前1122年前後100年頃の位置であったんだから、
周初に記録された、
という事で十分であるから。 各説対峙せず
邪馬台国は何処かを研究しようよ
見苦しい・・5ちゃんだから仕方が無いが
学問び域を逸脱するカキコミも歓迎だが
過ぎたるは猶及ばざるが如し・・・5ちゃんだから仕方が無いが >>842
お前みたいに、素人が平然と年代の嘘をつくのは、どうよ?
許されるつもりか? ザラコクさんの頭が悪過ぎて、相手をするのも本当に面倒なんだけど
ザラコクさんでも「𣥂・タツ」の存在自体は理解したな?
これが当用漢字音訓表に入らなかったから、「步」を「歩」に
直す必要があったんだよ
で、「𣥂・タツ」と「少・ショウ」が別の字だってのも理解したな?
となれば、>>235の「「歩」は、「少し止まる」位の距離」ってのが、
どうしようもないくらいバカの言い分だってのも分かるな? >>813
>郡から萬二千余里「東南へ」行くなんて 主張してないから<
魏志倭人伝には「倭人在帶方東南大海之中」として、
「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれている。
>会稽よりも南へ行く事を主張してるという事にならないな ザラコクの捏造<
大和説者やwwは、長里説だから、
郡から東南へ長里で萬二千余里行けば、確実に、
「会稽よりも南へ行く」事を主張した事になる。 >>845さん
なるほどだけどさauthorizeされてないのでは >>845
>つま先と踵をつけて歩けば、きちんと測定できるよ。
キチンとではないが、測定できないことはないかもしれん
でも、そんな歩は、大陸史書のどこにも書いてないんだ
大陸度量衡の歩は始皇帝の度量衡統一以来、ずっと複歩で6尺の長さ
複歩なのはその前の身体尺の頃から変わらない
一歩ー=六尺は唐代に一歩=五尺に改められるまで続く
「つま先かかと歩き」が「歩」とされた時代はない >>844
>本文は周公の話から書き始まっているから周代の記録であるし
「むかし周公はナンタラかんたら」って文章は
漢代にも書ける
周初には書けないがね 畿内説は嘘つきだから騙されちゃいけないんだけどさ
「卑弥呼の時代の三角縁神獣鏡が畿内から多く出てる!」って畿内説が論拠に上げるわけ
そこがもう、わざと騙そうとしてるんだけど
たしかに卑弥呼の時代に「作られた」銅鏡は畿内から出てくる
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから真相はやはり九州説を強化してるわけ
つまり、九州に伝来した三角縁神獣鏡が、100年かけて畿内まで普及した、と
九州は3世紀中盤の那珂八幡古墳から三角縁出てるからな
卑弥呼の時代リアルタイムの遺跡から出てる
伝来の流れがわかるよな 畿内説が唯一無二の説では無いので
畿内説の優点も認めてくれないか
南→東は畿内説の劣点かもしれないが優点も認めてくれないか >>822
ザラコクでは無いけど
>普通の人間や学者は、自分が知り得て確認を取れた事を書き残すもの。<
これは否定できない
>「自分が知り得て確認を取れた事を書き残すもの」< >>814
>>「畿内」なんて存在もしない文言を使うと、このような突込みが入れられてしまう。
「大和」であれば、「有槨」のホケノにも三角縁神獣鏡がないので、
4世紀までは三角縁神獣鏡はない、と言える。 <
>いえないな 黒塚にも桜井茶臼山にもある 三世紀だ <
黒塚も桜井茶臼山も「竪穴式石室」であるから、
3世紀末ホケノの「有槨」の発展形になり、
だから、4世紀だ。 >>854
>九州は3世紀中盤の那珂八幡古墳から三角縁出てるからな
第2主体だから無効
九州説は日々劣化している >>816
>畿内説へのエール<
畿内なんて存在していなかったから、この投稿者も嘘つき騙しの詐欺師。
>「転んだら起きればよい」<
転んだら、警察に自首するか、病院に収容して貰えばよい。 >>820
>>漢代の学者は、漢代に確認出来た事しか書けないもの。<
>じゃ、なんで周代のことを書いてる学者がたくさんいるんだ?
あたま悪いやつだなあ <
漢代に、周代から残っていて確認が取れた史料があったから。
この大和説男も、まったく頭の悪い・・・・アホだなあ。 ザラコクさん
畿内説の南→東は学術的に結論がでたわけでは無いが
方位の説は各説それ以上でもそれ以下でも無いという事で頼みます
尺や歩は議論地の余地はあるので議論しましょう
私も 勉強したうえで書き込みますが難しい「尺や歩」
勉強しても完璧ではないと思いますが 私見として書き込みます
時間がかかるのはお許しを >>860
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えボケジジイ! >>858
第二主体だろうが有効だよ
悔しかったら三世紀中盤の畿内の古墳から出た三角縁あげてみろよアホw >>821
>>(大和の三角縁神獣鏡のある墓)
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね <
>だから証拠は?<
前方後円墳自体が、卑弥呼の墓の「冢」ではなく、
(庄内と布留の混在の)ホケノの「有槨」も、卑弥呼時代の「有棺無槨」でもないから、3世紀末以降であり、
更に箸墓は、(庄内ではなく)布留であるから、4世紀以後であり、
更に、桜井茶臼山や黒塚は、「槨の発展形である竪穴式石室」であるから、始めから、4世紀以後。 >>862さん
ボケジジイに聞いても無駄出すよ
貴方がボケジジイと認定してるなら
ボケジジイに聞いても無駄出すよ 大平洋ルートで
邪馬台国は畿内でいいと思うが
大平洋ルートを畿内説の亜流で片付けないで
このスレでは
畿内説の少数派の一説として認知して欲しい >>826
>>普通の人間や学者は、自分が知り得て確認を取れた事を書き残すもの。<
>周髀算経は確認もとらずに空想で適当なことを書いた箇所がいくつも見つかってる
そんな書物なんだよ<
周髀算経は、一寸千里の確認計測から、
帰納的推論や演繹的計算に拠って「天地像を推定」したものだ。 >>858
畿内説のスレだから他説批判はいけない
テンプレも他説批判はしていない >>832
>纏向や箸墓が3世紀でもいいじゃん 邪馬台国と関係ない3世紀だから<
纏向は、前方後円墳型の石塚で庄内だから、那珂八幡の後の3世紀末であり、
箸墓ははっきり布留だから、4世紀以後。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、・・・・アホだから黙過し難い。 >>867
筑紫から畿内への進出ルートがどこであったかは議論があっても良い。
だが邪馬台国は九州だし、太平洋ルートはほとんどの文献に出てこない。 ザラコクさん、ほんとは周髀算経を読んでないんでしょ それで?
右翼の大物というのがいたりするけど、
実際は、どこの雑魚なんだよ 畿内説論者のスレでいいんでねーの
他説が畿内説にいちゃもんつけてきたら
他説攻撃でなく
畿内説を正しく説明すればいいんでねーの
納得するかどうかは個人の問題で否定はできないけど >>871
>纏向は、前方後円墳型の石塚で庄内だから、那珂八幡の後の3世紀末であり、
なんで?
理由は? >>836
>>昭和24年の、突然初めて「歩」の文字が造作された、という筈がなく、
当然、以前に「歩」と「步」の混用時代があって、
昭和24年に「步→歩の統一」があった、 という事になる。<
>そんな空想と一生懸命書いても、何の意味もないんだよ
旧字体の時代は、新字体の「当用漢字字体表」に当たるものはなかったから、
活字ごとに書体の揺れは当然にあったけれど、「步」はこの形の
旧字体しかなかったよ<
検索でも、平安時代の将棋の駒などに「歩」があった、
とかの情報があった。 >>836
>>昭和24年の、突然初めて「歩」の文字が造作された、という筈がなく、
当然、以前に「歩」と「步」の混用時代があって、
昭和24年に「步→歩の統一」があった、 という事になる。<
>そんな空想と一生懸命書いても、何の意味もないんだよ
旧字体の時代は、新字体の「当用漢字字体表」に当たるものはなかったから、
活字ごとに書体の揺れは当然にあったけれど、「步」はこの形の
旧字体しかなかったよ<
検索でも、平安時代の将棋の駒などに「歩」があった、
とかの情報があった。 色々と、ねつ造したり、
話を作ったり、学校などでも、嘘を教えるなという意味
聖徳太子は右翼ではない、
天皇(へいか?)を中心の〜なんて言っていない
どこに書いてあるんだ >>840
>畿内説のスレだから本論の畿内説について探求しようよ<
畿内や邪馬台国なんて存在しないんだから、
「邪馬台国畿内説」という表題の始めから、スレ主は、嘘つき騙しをしている事になる。
>ザラコクや他説は参考程度で良いと思う 畿内説のスレだから<
嘘つき騙しの大和説者やスレ主に、国民が騙されるのは黙過し難いし、
更にキョクウ戦争狂の・・・・大和説者に国民が騙されて、
戦争に行かされて殺される事も黙過し難い。 >>871
>纏向は、前方後円墳型の石塚で庄内だから、那珂八幡の後の3世紀末であり、
箸墓ははっきり布留だから、4世紀以後。
纏向石塚より那珂八幡の方が古いという意味か?
もう消えてくれ爺さん。 >>843
>>(昭和24年)歩と步の混乱や混在が起きたから、歩を採用して步を止めた<
>混在も混乱もないよ 本来的に、どちらで書いても通じるし
まあ、公的な文書では当用漢字音訓表の使用が義務だったから、 步は使わないけどね<
あれ?、この人は、昭和24年以前にも「歩」が存在し、使われていた、
という事を知っている。 人の名を語ったり、成り済まし、騙り?
色々いると思うんだけどw >>845
>つま先と踵をつけて歩けば、きちんと測定できるよ。<
その可能性は十分あるけど、
周髀算経の一寸千里の谷本確認計算で、「1歩≒25.5cm」が出て来てしまうんだから、
やはり1歩は、(両足分ではなく)、
片足の「1足底長」であったんだろうね。 黒澤明監督の名作「生きものの記録」という映画は、
三船敏郎演じる鉄工所の老経営者が、
原爆恐怖症をこじらせ、狂ってしまい、
最後は自分の工場に火をつけてしまうという内容だ。
まるでzarakokuだ。
しかし「生きものの記録」では、この老経営者が狂ってるのか、
原爆を何発も持ってて平気なこの世界が狂ってるのかという大きなテーマがあるが、
zarakokuにはもちろんそのような大きく深いテーマはない。
ただ狂ってるだけ。 力夫という人がいるでしょ?
写真などを調べてみて『臣民』が何やらと書いてあったり
どういう意味だと思う? >>846
>各説対峙せず 邪馬台国は何処かを研究しようよ
見苦しい・・5ちゃんだから仕方が無いが
学問び域を逸脱するカキコミも歓迎だが
過ぎたるは猶及ばざるが如し・・・5ちゃんだから仕方が無いが<
邪馬台国なんて存在していなかったし、
やはり、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が跋扈し、宣伝するのは、
国民のためにも、黙過し難い。 悪く言うと、あの当時?
テキトーに作られた人物だろう >>880
>検索でも、平安時代の将棋の駒などに「歩」があった、
>とかの情報があった。
またウソをついてる
その情報の原本、原典を出してごらん
まあ、ザラコクさんの場合は、自分を自分の思い込みで騙していることが多々あるから、
本人の認識ではウソではないのかもしれないけどな
で、話を戻すが、旧字体の「步」の下の部分は「少ない」ではないから
>>235の「「歩」は、「少し止まる」位の距離」ってのが、
どうしようもないくらいバカの言い分だってのはいいな? 児玉ヨシヲというのと同じ、
wikiを読んでみて、設定と書いてあったり >>886
>やはり1歩は、(両足分ではなく)、
>片足の「1足底長」であったんだろうね。
いくら言い張っても無駄
大陸史書の「步」は複歩ってのは確定 >>884
>あれ?、この人は、昭和24年以前にも「歩」が存在し、使われていた、
>という事を知っている。
昭和24年「以降」も「步」は使われていた、だよ 全レスバカの癖に、ザラコクさんが答えないこと
・在籍していた大学院はどこ?
・「步」が複歩だってのは分かったな?
・本当は日本人じゃないんだろ? >>848
>ザラコクさんでも「𣥂・タツ」の存在自体は理解したな?
これが当用漢字音訓表に入らなかったから、「步」を「歩」に 直す必要があったんだよ<
「步」や「歩」が何時からあったのか?、がまだ不明だ、と言ってんだよ。
>で、「𣥂・タツ」と「少・ショウ」が別の字だってのも理解したな?
となれば、>>235の「「歩」は、「少し止まる」位の距離」ってのが、
どうしようもないくらいバカの言い分だってのも分かるな?<
「𣥂」は、検索では「シツ」しか出て来ないなあ。
それに、「歩」の使用者は、「少」の意味を意識している事になる。 >>849
>ザラコクとキウスが酷い <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らが酷く、
まともな人種とは、とても思えず、
黙過し難い。 それと楠木正成
いまは悪役だとされているの?
あまり印象が良くないとか
有名なんだけど、どうでもいいような人物と、
時代時代で評価が変わったりする人物がいるという話 >>852
>>つま先と踵をつけて歩けば、きちんと測定できるよ。<
>キチンとではないが、測定できないことはないかもしれん
でも、そんな歩は、大陸史書のどこにも書いてないんだ<
ウソを付くな。
周髀算経の一寸千里が、谷本確認計算に拠って、「1歩≒25.5cm」であった事になり、
両足の足底長がほぼ同じ寸法であるから、
それで計測しても、十分計測出来る事になる。 >>853
>>本文は周公の話から書き始まっているから周代の記録であるし<
>「むかし周公はナンタラかんたら」って文章は 漢代にも書ける<
周公と商高の千年位前の会話なんて、漢代には知る由もないんだから、書けない。
>周初には書けないがね<
周初なら、商高からの伝聞でも書ける。 >>858
>>九州は3世紀中盤の那珂八幡古墳から三角縁出てるからな<」
>第2主体だから無効 <
布留期で第2主体だから、本体は、3世紀中頃に十分有り得る。
>九州説は日々劣化している<
大和説者は、日々、劣化退化して行っている。 皇国史観、天皇?を助けたという話でしょ
戦後は悪党となっていたり、
現代では、そうなっている? wiki『日本三悪人』
いま(現代)では善だという意味だよ >>861
>ザラコクさん
畿内説の南→東は学術的に結論がでたわけでは無いが
方位の説は各説それ以上でもそれ以下でも無いという事で頼みます<
周髀算経などの、
「日の入り日の出の8尺棒の影端を結んで東西を決め、それに直交する方向で南北を決める」、
という方法が書かれていちゃ、
それだけでも、もう大和説は嘘つき騙しが確定ですが、
更に、3世紀に指南魚という方位磁石があった、という情報まであるので、
大和説は、最早絶望です。 >>896
>「步」や「歩」が何時からあったのか?、がまだ不明だ、と言ってんだよ。
バカ?
篆書、隷書まで遡って、複歩だって示しただろ?
字体が変わっても、意味は基本的には変わらないし、
今問題にしている周代から、魏晋代、南北朝、隋代のあたりの
「歩」の長さは複歩であることがはっきりしている
「歩」は昭和24年から
「步」は楷書体が確立した頃から
これではっきりしたな!
ごねても無駄 >>896
>「𣥂」は、検索では「シツ」しか出て来ないなあ。
現代の拼音でも「tà」だよ >>896
>それに、「歩」の使用者は、「少」の意味を意識している事になる。
自分の間違いが早く認められるようになるといいね
昭和24年以降のことが、3世紀のことと関係するはずがないだろ! >>899
>周髀算経の一寸千里が、谷本確認計算に拠って、「1歩≒25.5cm」であった事になり、
これが、300歩=1里から否定されるんだから、いくらウソを書いても無駄
歩は複歩で150センチ以上 >>867
>大平洋ルートで 邪馬台国は畿内でいいと思うが
大平洋ルートを畿内説の亜流で片付けないで このスレでは
畿内説の少数派の一説として認知して欲しい <
魏帝の命令での魏使らは、「安全最短の大原則」があり、
滅茶苦茶遠回りして、黒潮に身を任せて漂流し、危険で困難な紀伊半島横断、
というような「安全最短の大原則」に反するルートを選択する筈がなく、
魏志倭人伝の説明とも矛盾するような説は、
認知したくなく、黙過もし難い。 >>908
歩は複歩で150センチ以上は言い過ぎ
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一) >>870
>畿内説のスレだから他説批判はいけない テンプレも他説批判はしていない <
掲示板であるからこそ、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者やスレ主や、それを応援する5chなども、
国民のためにも、黙過し難い。 >>900
>周公と商高の千年位前の会話なんて、漢代には知る由もないんだから、書けない。
じゃ、なんで我々が知ってるの? >>912
king(王)、河伯?というのがいたでしょ、
その人物が知っていたんじゃないの? king〜河伯(日本に来てからは河童など)となっていたり
『松傾』
実際は、かなり昔の人間でしょ、日本に来た時期? 今の日本地図を右下に45度くらい傾ければいい。
方角の話はそれで済む。 >>877
>>纏向は、前方後円墳型の石塚で庄内だから、那珂八幡の後の3世紀末であり、<
>なんで? 理由は?<
庄内の三雲先行が確定しており、
大和は、筑紫の倭國から別れた別種の附庸國であったんだから、
文化は、原則として全て筑紫からの伝播模倣になり、
ほぼ全て50年位筑紫に遅れるから。 wiki『河童』
それと『モンティ・パイソン 建築家』というコント、
よくわからないんだけど、鹿のように見えたり、最後のほうに出てくるでしょ?
鹿頭のような人間 松の木、シダ類の葉・・・
オジギソウの類などの写っている写真、松傾?のような名前の家なんだけど、
どういう事なんだろう、偶然なのかな
キュウリの葉、葱の華・・・その写真も同じ >>883
>>纏向は、前方後円墳型の石塚で庄内だから、那珂八幡の後の3世紀末であり、
箸墓ははっきり布留だから、4世紀以後。<
>纏向石塚より那珂八幡の方が古いという意味か?、<
前方後円墳は、西晋武帝の天円地方思想の学習がきっかけで、
モンゴル〜高句麗の前方後円墳の伝来で、筑紫にしか発生せず、
那珂八幡や津古生掛などが列島初元であり、
それから東征毛人55国の中の吉備や東瀬戸内に伝来し、
大和に伝来したのは、その後になるから、
石塚は、那珂八幡の後。 >>917
>庄内の三雲先行が確定しており、
どういう理由で確定したの?
そう主張している人は誰? 相撲の話をしていたこともあった、
あと調べたりしない人がいるかもしれないから
wiki『河童』
>好物はキュウリ、魚、果物。これにちなみ、
>キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。
>キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、
>キュウリは初なりの野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる
>鉄、鹿の角、猿を嫌う。
>河童は水に12時間潜っていられるが、
>猿は24時間潜れたので闘うと猿に負けるという民話もある。
>シダの葉で頭をなでると人間に化けることができるとされる。 寺院の話、
あと肉も食べなかったと言っていたり
泥棒のようなものに入られてから?
仕事、働くようになったのかな
昔は機織りなんかをしていたと言っているし >>891
>>検索でも、平安時代の将棋の駒などに「歩」があった、 とかの情報があった。<
>またウソをついてる その情報の原本、原典を出してごらん<
Yahooで検索して読んだだけ。
知りたかったら、自分で検索しな。 >>893
>>やはり1歩は、(両足分ではなく)、 片足の「1足底長」であったんだろうね。<
>いくら言い張っても無駄 大陸史書の「步」は複歩ってのは確定<
幾ら嘘つき騙しを言い張っても無駄。
周髀算経の一寸千里の里の距離の確認をされた谷本計算に拠って、
「1歩≒25.5cm」が求まるので、「1歩はほぼ片足の測定長」で確定。 >>893
>>やはり1歩は、(両足分ではなく)、 片足の「1足底長」であったんだろうね。<
>いくら言い張っても無駄 大陸史書の「步」は複歩ってのは確定<
幾ら嘘つき騙しを言い張っても無駄。
周髀算経の一寸千里の里の距離の確認をされた谷本計算に拠って、
「1歩≒25.5cm」が求まるので、「1歩はほぼ片足の測定長」で確定。 家の近所の話
焼肉屋が並んでいたり、
昔は、なかったのかな?
川崎区の南部のほう >>927
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! >>895
>全レスバカの癖に、ザラコクさんが答えないこと ・在籍していた大学院はどこ?
・「步」が複歩だってのは分かったな? ・本当は日本人じゃないんだろ? <
掲示板のような場には、思想宗教に狂った・・・・大和説者らが幾らでもおり、
その連中は、幾ら真面目に答えて上げても、全て曲解捏造解釈をして、
ヘイトスピーチ宣伝の種にすり替えてしまうだけだから、
そのような・・・・内容の投稿は、
原則として相手にしないで、放置して置くことにしている。 以前から書いていることなんだけど、
ツーちゃん(いまはファイブチャンネル?)
もれ(仮)は、ここでしか活動していないんだよ、
活動というか、発言、書き込みなど >>905
>「歩」は昭和24年から 「步」は楷書体が確立した頃から<
人類の常識として、昭和24年時点で、
それまでに「歩」という文字が、全く使用されていないのに、
「步」を廃止して「歩」を創作する、なんて事は起こり難い。 『』内を調べてみてと書いても、調べないでしょ?
『モンティ・パイソン 建築家』
というコント、youtubeで初めて観たんだけど >>907
>>それに、「歩」の使用者は、「少」の意味を意識している事になる。<
>昭和24年以降のことが、3世紀のことと関係するはずがないだろ!<
「3世紀」なんて、何の事かね?。
また、24年に、それ以前に「歩」という文字がなかったのに、
「步」を廃止して「歩」を創作する、なんて事は、
人類の常識として、考え難い。 >>908]
>>周髀算経の一寸千里が、
谷本確認計算に拠って、「1歩≒25.5cm」であった事になり、<
>これが、300歩=1里から否定されるんだから、いくらウソを書いても無駄<
変な男。
「1歩≒25.5cm」は、「1里=300歩」を使って計算して出たもの。
>歩は複歩で150センチ以上<
「25.5cm」は、ほぼ「1足底長」。 >>912
>>周公と商高の千年位前の会話なんて、漢代には知る由もないんだから、書けない。<
>じゃ、なんで我々が知ってるの?<
周髀算経が記録して置いてくれたから。 >>913
>「南→東」が嘘だという証拠は? <
魏使らは、「東西南北」の決め方を幾つも知っており、
実際、魏や郡の役人や、陳寿も、方向を間違えていないから。 馬に乗り〜みたいな話もしていない?
そのモンティのコント >>916
>今の日本地図を右下に45度くらい傾ければいい。 方角の話はそれで済む。<
魏使らや郡役人や陳寿らは東西南北の間違いをしないし、
東夷伝や魏志などでも間違っていないし、
大和説では、ますます他の方向の話がそれで済まなくなる。 >>921
>>庄内の三雲先行が確定しており、<
>どういう理由で確定したの?<
庄内は、筑紫に伝来した楽浪土器や瓦式土器の焼成技能が参考になり、
また、半島の鉄や青銅の溶融技能が参考になった、とかんがえられるから。
>そう主張している人は誰?<
柳田に聞いてみな。本当の事を言うのか?は知らんけど。 聖徳太子の話なのかな、
法衣が何やらとか、それとも、もっと上の人の話? >>940
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えバカジジイ! やーーや〜〜やーわれこそは元大阪の住人吉備桃太郎なあり
じじいども精進せえ(ここ読む気せん(ごめん それにしても老婆談だよ
蚕を飼い機織りをしていた話でしょ?
何やら建設(企業、会社の規模、大きさの話ではない)の話とか
なぜか、
川俣町(小手子の像の近所)というところの話をしていたり、
昔、住んでいた事があるとか 『法衣』
調べてみると出てくるけど、そういう服なのかな?
写真にも写っている緑色の着物、何なんだろう、作業着? あの服も、自分の家で作っていたのかな?
落雁(供えるもの)も、自分の家で作っていたと言っていたし 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1529509196/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 成り済まし、騙りというのがいるんだけど、
何がしたいんだ?
人の家の名を騙っていたり、
普通に犯罪なんだけど 家の老婆の旧姓は渡辺というんだけど、
二本松のほうの生まれだしな・・・、広瀬座が何やらという話とか
家も保存されている? あの緑の着物は法衣なのかな、黒い足袋に下駄でしょ、
白い制服のようなものを着ている子供の父親だと言っていたり
ハタチ過ぎたくらいだよ
とか(老婆談) 何があったんだろう、震災の話なのかな
頭おかしくなるわ!!と言ってる人がいたり、
真似なんてしているから、こんな事になってしまった
とか どのスレだったかな
・川崎に住んでいるんじゃないの?
・誰々って川崎に住んでいるんでしょ?
家の話だろう、神奈川県の川崎区 これは本当の話だと思う
『東日本大震災 余震 回数』
それと、いつになるのか、わからないけど、
これから来ると言われている南海トラフ?
周辺に住んでいる人は、引っ越しをしたほうが良いと言ってるのに >>924
>Yahooで検索して読んだだけ。
>知りたかったら、自分で検索しな。
>>891を書き込む前に検索した上で書いてるんだよ
ザラコクさんみたいに単なる思いつきをでたらめに書いてるわけではない
古い将棋のコマが見つかったのは本当でも、そこに「歩」のコマがあったのが本当でも、
そこに書いてあるのは「步」の崩し字
それを現代において文字に起こすと、新字体の「歩」で書かれるってだけ
本当に情報がまともに読み取れないくせに、間違ったことを書き散らす迷惑人! 『倭人 使い』
どの人物の話なのかは、調べて読んでみて、
言語(中国?漢民族ではない)が違うだとか、トルファンとか・・・その他 >>932
>人類の常識として、昭和24年時点で、
>それまでに「歩」という文字が、全く使用されていないのに、
>「步」を廃止して「歩」を創作する、なんて事は起こり難い。
そんなのは人類の常識なんかじゃないんだよww
漢字はいろんな要素の組合せでできているものが多い
その要素の数を絞ったのが昭和24年の国語改革
「歩」はなかったけど、「少」はあったんだよ
それで「𣥂」を廃止して、「少」に置き換えた
0から新しい字を創造したんじゃなくて、便法として組み替えで新字を作ったんだよ
「歩」の字は昭和24年以前には書き間違いとされるんだよ
「臭」の字も昭和24年から
本来はというか旧字では「臭」
「自」は鼻を示し、それに「犬」を添えて、イヌが鼻で臭う様子を表している
これが新字体になったからといって「臭」というのは、
「『自ら大きくなる』という意味だな」と言っている人がいたら、バカとしか思わないだろ?ww 全レスバカの癖に、ザラコクさんが答えないこと
・在籍していた大学院はどこ?
・「步」が複歩だってのは分かったな?
・本当は日本人じゃないんだろ? >>930
>その連中は、幾ら真面目に答えて上げても、全て曲解捏造解釈をして、
>ヘイトスピーチ宣伝の種にすり替えてしまうだけだから、
自己紹介乙
>そのような・・・・内容の投稿は、
>原則として相手にしないで、放置して置くことにしている。
「・・・・」=「ザラコク」ww
これは答えられるだろ?
・「步」が複歩だってのは分かったな?
逃げ続ける惨めなザラコクさんww >>953
>古い将棋のコマが見つかったのは本当でも、そこに「歩」のコマがあったのが本当でも、
そこに書いてあるのは「步」の崩し字
それを現代において文字に起こすと、新字体の「歩」で書かれるってだけ<
私は、昭和24年以前に「歩」が使われた古い例を探したんだから、
「歩」で検索しただけ。
要するに、(wwの奇妙な断定とは違って)、
昭和24年以前に「歩」という文字も使われていた、って事らしい、
という事であった。 畿内説を解説もせずに個人攻撃ばかりで、さすがに見苦しいよ。 >>956
>>人類の常識として、昭和24年時点で、
それまでに「歩」という文字が、全く使用されていないのに、
「步」を廃止して「歩」を創作する、なんて事は起こり難い。<
>そんなのは人類の常識なんかじゃないんだよww<
近隣諸国民への、人種差別敵対殲滅を鼓舞扇動するような、
ヘイトスピーチ宣伝投稿をするキョクウの・・・・のwwが、
「人類の常識」を知っている筈もなし。
>漢字はいろんな要素の組合せでできているものが多い
その要素の数を絞ったのが昭和24年の国語改革
「歩」はなかったけど、「少」はあったんだよ <
「歩」がなかった、なんて、人類の常識に反する話は、証拠を出さない内は、信用出来ない。
>それで「𣥂」を廃止して、「少」に置き換えた
0から新しい字を創造したんじゃなくて、便法として組み替えで新字を作ったんだよ
「歩」の字は昭和24年以前には書き間違いとされるんだよ<
昭和24年の審議会だったか?の記録を提示してみな。
しかし、この頃は、公的機関の記録の抹殺を隠蔽が流行しているからなあ。 【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
朝日が煽り毎日が否定する
このパターンが定着してるな畿内説は >>958
近隣諸国民への人種差別的な殺戮殲滅を叫ぶキョクウのヘイトスピーチの、
「南→東」などの嘘つき騙しの国粋皇国史観の大和説のwwでは、
始めから・・・・である事が見え見えであり、
「早く言え」狂や「モレ」らと同じく、放置対象だな。
北大阪の地震でも、
携帯やPCで、関東大震災での朝鮮人大殺戮を思わせるような流言飛語が飛び交った、
という報道があったが、
人種差別的な・・・・は、狂人だから、怖いねえ。 >>963
>【古代】卑弥呼の時代ではない?
纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに?
C14年代測定は「発展途上の技術」
朝日が煽り毎日が否定する このパターンが定着してるな畿内説は<
ふーん。
成程。 震災時の流言は中国人に関しては無いんだよな
関東大震災の時は、ザラコクのような日本人に強い憎しみをもった反日朝鮮人の
日ごろの言動のせいで
日本人や中国人や朝鮮人が殺傷される被害が発生してしまった >>964
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えテメエ! >>965
>震災時の流言は中国人に関しては無いんだよな
関東大震災の時は、ザラコクのような日本人に強い憎しみをもった反日朝鮮人の
日ごろの言動のせいで 日本人や中国人や朝鮮人が殺傷される被害が発生してしまった<
そう言えば、関東大震災では、
流言飛語に狂わされた国民は、
日本人までも殺害してしまっていたらしいね。
(wwのように)狂ったら、何をするにか?、想像も付かない。
今回の地震でも、キョクウの・・・・らは、
流言飛語を相当飛ばしていたらしいね。 流言の会の古田の本は震災時のような混乱を引き起こすのが目的だね
どろぼう偽書が判明したのでザラコクのような反日朝鮮人だけが残った >>959
>昭和24年以前に「歩」という文字も使われていた、って事らしい、
>という事であった。
ウソをつくなというに 本当にバカだなあ
今の文字媒体なら、昔使われていた「步」も、
新字の「歩」に置き換えて書かれているに決まってるじゃないか
それで、昔「歩」が書いてあったという現代の記事を見つけても、
ちゃんと原典を調べれば「步」になっているよ >>960
>畿内説を解説もせずに個人攻撃ばかりで、さすがに見苦しいよ。
私はこと細かく解説したうえで、ザラコクさんが間違いばかり
書いている能力の足りない人だ、と言っているだけww >>960
ザラコクさんが書いている>>961の
>近隣諸国民への、人種差別敵対殲滅を鼓舞扇動するような、
>ヘイトスピーチ宣伝投稿をするキョクウの・・・・のwwが、
見たいなのが、見苦しい個人攻撃っていうんだよww >>961
>昭和24年の審議会だったか?の記録を提示してみな。
また話をそらしてごまかそうとしている
>>212の「「歩」は、「少し止まる」位の距離」というのが、
ザラコクさんの恥ずかしい勘違いで大間違いだってのを、まず認めなさいっての!
都合の悪いことは、全レスしながら意図的に無視してるけど、>>956の
「「臭」の字も昭和24年から
本来はというか旧字では「臭」
「自」は鼻を示し、それに「犬」を添えて、イヌが鼻で臭う様子を表している
これが新字体になったからといって「臭」というのは、
「『自ら大きくなる』という意味だな」と言っている人がいたら、バカとしか思わないだろ?ww」
と同じだって分かるだろ?
ヘイトスピーチとかもまったく関係ないぞ!
さあ、さっさと認めな!
「「歩」は、「少し止まる」位の距離」というのは、
ザラコクさんの恥ずかしい勘違いで大間違いだって! >>968
>流言の会の古田の本は震災時のような混乱を引き起こすのが目的だね
どろぼう偽書が判明したのでザラコクのような反日朝鮮人だけが残った<
こんな嘘つき騙しの流言飛語をしゃーしゃーとして書けるんだから、
(「南→東」などの嘘つき騙しの)wwは、
もう相当のキョクウの・・・・殺人狂になってしまっている、
ってことだろうなあ。 >>961
>昭和24年の審議会だったか?の記録を提示してみな。
実施が昭和24年だから、審議はその前に行われているよ
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/index.html
まあ、議事録レベルだから、そこまで細かいことは書いてないけれど、
どの時点で何が議論されていたのかは確認できる >>969
>>昭和24年以前に「歩」という文字も使われていた、って事らしい、
>という事であった。
>今の文字媒体なら、昔使われていた「步」も、
新字の「歩」に置き換えて書かれているに決まってるじゃないか<
いくら叫んだって、
それまで使っていた「步」を止めてまでして、新しい「歩」という文字に変える、
って言う事の、人類の常識に反する不自然さは、免れないよ。
>それで、昔「歩」が書いてあったという現代の記事を見つけても、
ちゃんと原典を調べれば「步」になっているよ<
それを、きちんと立証しなければ、何の価値もない。 >>961
>昭和24年の審議会だったか?の記録を提示してみな。
見つけてきたよ なんて親切なんだろうね
旧字体
当用漢字表
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/sisaku/enkaku/pdf/12_001.pdf
これの2ページ目(pdf文書の3枚目)の止部に「步」があって、「歩」ではないことが確認できる
新字体への移行については、経緯も含めて
活字字体整理案 (活字字体整理に関する協議会)
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/sisaku/enkaku/pdf/12_004.pdf
で確認できる
資料要求している間は、未確認でごまかして逃げ切れるって算段だったのだろうが、
これで、完全に確認できたな?
さあ、さっさと認めな!
「「歩」は、「少し止まる」位の距離」というのは、
ザラコクさんの恥ずかしい勘違いで大間違いだって! つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 >>975
>それを、きちんと立証しなければ、何の価値もない。
平安時代の将棋の駒に「歩」が使われていたと立証するのは、
ザラコクさんの方だよww
そんなことも分からないほど、バカなんだね!ww >>971
>>近隣諸国民への、人種差別敵対殲滅を鼓舞扇動するような、
ヘイトスピーチ宣伝投稿をするキョクウの・・・・のwwが、<
>見たいなのが、見苦しい個人攻撃っていうんだよww<
wwが、これまでも、私に対して、
「反日朝鮮人」とかの、嘘つき騙しの流言飛語を書き続けて来たから、
それに対して私が言い返して来た、
という事は、
もう、このスレの読者にも、世間の人々にも、掲示板担当者にも、マスコミにも周知になっていた、
と思うが、
>>968の、
「もう世間の人々に流言の会の古田の本は震災時のような混乱を引き起こすのが目的だね
どろぼう偽書が判明したのでザラコクのような反日朝鮮人だけが残った」
というwwの投稿も、また、酷いヘイトスピーチ投稿になっていたね。 >>978
>「反日朝鮮人」とかの、嘘つき騙しの流言飛語を書き続けて来たから、
どこで?
「日本人としての常識がない」、とは書いたけれど、
「反日朝鮮人」と書いたことは一度たりともないぞ!
こういうのを「捏造による個人攻撃」って言うんだよ!
ザラコクさんに「日本人としての常識がない」のは、
新字体と旧字体の切り替えに関する理解がないことでも、明確に示してある
捏造じゃないぞww >>979
全ww病はやめろってww
>>968も私の書き込みじゃないぞww
邪馬台国スレで、極右だの皇国史観だの、ヘイトスピーチだのの
パヨク御用達政治用語を使いたがるのはザラコクさんの方だ
本当にバカだし迷惑w 畿内説は嘘つきだから騙されちゃいけないんだけどさ
「卑弥呼の時代の三角縁神獣鏡が畿内から多く出てる!」って畿内説が論拠に上げるわけ
そこがもう、わざと騙そうとしてるんだけど
たしかに卑弥呼の時代に「作られた」銅鏡は畿内から出てくる
でもそれは「卑弥呼の時代より100年くらい後の遺跡から」なんだよね
だから真相はやはり九州説を強化してるわけ
つまり、九州に伝来した三角縁神獣鏡が、100年かけて畿内まで普及した、と
九州は3世紀中盤の那珂八幡古墳から三角縁出てるからな
卑弥呼の時代リアルタイムの遺跡から出てる
伝来の流れがわかるよな 那珂八幡の三角縁が出てる第2主体部はUC期〜VA期 「景初三年」鏡・・・・4世紀中ごろ築造の「神原神社古墳」より出土
4世紀末ごろ築造の「和泉黄金塚古墳」より出土
「正始元年」鏡・・・・4世紀末ごろ築造の「森尾古墳」より出土
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国産か九州からもたらされたものと考えてもおかしくない 「景初三年」鏡・・・・4世紀中ごろ築造の「神原神社古墳」より出土
4世紀末ごろ築造の「和泉黄金塚古墳」より出土
「正始元年」鏡・・・・4世紀末ごろ築造の「森尾古墳」より出土
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国産か九州からもたらされたものと考えてもおかしくない 「景初三年」鏡・・・・4世紀中ごろ築造の「神原神社古墳」より出土
4世紀末ごろ築造の「和泉黄金塚古墳」より出土
「正始元年」鏡・・・・4世紀末ごろ築造の「森尾古墳」より出土
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国産か九州からもたらされたものと考えてもおかしくない ◆FAQ 28
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに「公式調査報告書」は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする「文献的根拠」は無い。
⇧
>>1のテンプレが「公式調査報告書」や「文献的根拠」に基づき論じられてないのによく言うよ ◆FAQ 28
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに「公式調査報告書」は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする「文献的根拠」は無い。
⇧
>>1のテンプレが「公式調査報告書」や「文献的根拠」に基づき論じられてないのによく言うよ 鏡なんぞより国宝・中平銘鉄刀。
http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/0/6/06e12156-s.jpg
卑弥呼と和邇氏の関係について考えよう。
解けるよ、ほら。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>991
>>>1のテンプレが「公式調査報告書」や「文献的根拠」に基づき論じられてないのによく言うよ
じゃあ、>>991が「公式調査報告書」や「文献的根拠」に基づく正しい見解を
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