邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>731
>おまえは逝ってろw
そうは、イカン。 @阿波 >>725
>山一つ越えたら天孫降臨?
>エラくローカルでスケールの小さな話だな、おいww
ニニギ自身は対馬海峡の向こう側の高天原から来たのですよ。
でも倭国にはその前から王統があったので、天孫族の視点からは降臨、倭国全体としては先代王朝の早良王国から糸島平野への遷都になります。 >>722
そもそも景行天皇は勝手に戦って回ったのではなく、筑紫の梟師である神夏磯姫の要請で戦っていたので、筑紫やその従属であった肥国は初めから攻略対象ではなかったのですよ。
肥国が神夏磯姫の側であったことは、そもそも卑弥呼から神夏磯姫までの倭国の女王達が肥国を本貫地としていた可能性を示唆するものだと考えています。 >>734
いくらそんなことを言っても無駄。 九州は皇室と無縁。 丹とも無縁 @阿波 >>727
巻向というか、奈良がね、
卑弥呼共立後の3世紀前半、
鉄も鏡も大陸製品も北部九州の土器も殆ど無い
これはかなり厳しい状況… >>730
>卑弥呼の墓が低地の湿地帯に造られる訳がない。 無礼千万。 @阿波
纏向遺跡の地は扇状地の川筋の間の微高地
そういうところはむしろ水が地下に抜けやすいって中学校で習わなかったのか?
粟はえらそうに言ってるくせにこういう基礎がまるで分かってないし知識として入ってない >>728
>勉強しろよ・・・
具体的に書いた方が説得力が出るよ?
具体的に書けばいいのに
書けないの?
あるっていえばあることになるの? >>737
>纏向遺跡の地は扇状地の川筋の間の微高地
湿地帯も扇状地の微高地も平地に変わりはないよ。
天皇の陵墓を湿地帯や扇状地の微高地などに造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 結局粟はこの程度
混ぜっ返しをわめくだけww
再度ザラコク並みに降格だな
要は最低ランクだってことだ >>738
宮内庁所轄の
参考墓ではない直轄陵墓が
九州じゃここだけかな
応神天皇の子王子か孫か >>742
>宮内庁所轄の
>参考墓ではない直轄陵墓
これが意味不明だが、
「上のびゅう塚古墳」のことが言いたいんだな?
一応、都紀女加王の墓とされているが、記紀にはなく、
旧事本紀の国造本紀に応神天皇のひ孫として載っているだけ
皇族ではあるが傍流の末だよな
皇統にとって重要な土地というのはかなり苦しい
それよりも都紀女加王が米多国造の祖とされているが、
この「米多」が倭面土國王帥升の「面土」じゃないかという方が興味深いな >>741
>そういう場所を微高地というのだが、粟に言わせればそれも平地らしいw
だから、天皇の陵墓は「山のてっぺん」に造られるものだと、何度言えばw
微高地? なんじゃそれ? @阿波 崇神天皇陵も景行天皇陵も垂仁天皇陵も、平地または山裾の尾根だよ
「山のてっぺん」の天皇陵ってそもそも存在するか? >>745
>崇神天皇陵も景行天皇陵も垂仁天皇陵も、平地または山裾の尾根だよ
だから、それらは本当は天皇陵じゃないんだって。
天皇の陵墓を平地または山裾の尾根などの中腹に造る訳ないよ。 無礼千万の説。
天皇の陵墓は「山のてっぺん」に造られるものだと、何度言えばw @阿波 >>746
>だから、それらは本当は天皇陵じゃないんだって。
ああ、粟はここからもうトンデモなのか
崇神、垂仁、景行という被葬者は、それほどあてになるのもではないが
当代最大の古墳であり、大王の墓であることは疑いようがない >>747
>当代最大の古墳であり、大王の墓であることは疑いようがない
これが、そもそもの誤り。 安直・短絡的思考。
天皇の陵墓を平地または山裾の尾根などの中腹に造る訳ないよ。 無礼千万の説。
天皇の陵墓は「山のてっぺん」に造られるものだと、何度言えばw @阿波 先代旧事本紀に伝わる都紀女加(つきめか、都紀女加王)
>第15代応神天皇の曾孫(三世孫)で、筑志米多国造の始祖とされる。
墓は、宮内庁により佐賀県三養基郡上峰町坊所にある都紀女加王墓(つきめかのみこのはか)に治定されている。
古墳は前方後円墳で、墳丘長は49メートルで5世紀の築造と推定されるが、埋葬施設は明らかでない。
>埴輪・葺石・周溝が見つかっている。昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)により、都紀女加王の墓に治定された。
一帯の丘陵地には目達原古墳群(めたばるこふんぐん)が存在していた。
しかし、戦中の目達原飛行場建設に伴って消滅した。、 >>743
「上のびゅう塚古墳」というのは、
吉野ヶ里遺跡の東1qほどの、現在自衛隊の駐屯地になっている微高地かな。
空撮画像で、かっての飛行場らしき敷地が見える。
古代も今も、佐賀川上と並ぶ、最高の立地だねえ。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>750
>古代も今も、佐賀川上と並ぶ、最高の立地だねえ。
でも吉野ヶ里も卑弥呼のころには廃れていたし、人がいなかったわけではないだろうが、
繁栄した王都の所在地というのは無理
米多にある程度の勢力があったのは認めるが、それが皇室の故地とか考えるのは
無理がある >>750
そうすると、神崎・吉野ヶ里・米多原(目達原)は、同一圏内の邑と考えるのが適当かもね
ということは、二世紀には面土国だったが、
卑弥呼共立に伴う町村合併?で、三世紀にはまとめて不彌国になったのかなあ >>752
第15代応神天皇の曾孫(三世孫)ということだから、
天皇家の王女が嫁いだ先の遠いご親戚、といったところだろうねえ。、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>754
>第15代応神天皇の曾孫(三世孫)ということだから、
>天皇家の王女が嫁いだ先の遠いご親戚、といったところだろうねえ。
都紀女加王だから、男系子孫じゃないか? 畿内説の物証 (特に纏向)並べて欲しい
推理はいいから
並べて欲しい
いきつく先はホケノたと思う 畿内説の物証 (特に纏向)並べて欲しい
推理はいいから
並べて欲しい
いきつく先はホケノたと思う 平原遺跡って書いてる人は、平原5号墓のことや、
平原1号墓の柱穴の配置とか分かってるんだろうか 魏略に「其国王皆属女王也」ってあるけど、
伊都国の国王は皆女王の親族って読んだりしないのかな?
直後の狗奴国も不属女王だから女王の血統ではない、的な。
伊都国って政治機構と外交機関があって人口千戸って千代田区みたいだな。
魏使が留まるから、記録した風俗は伊都国のものなんだろうね。 >>759
邪馬台国卑弥呼の拠点は甘木の夜須河原
平塚川添近辺
死んだところは平原
生まれは山門、瀬高、八女あたりか >>762
>伊都国って政治機構と外交機関があって人口千戸って千代田区みたいだな。
正解。
あと、狗奴国の王は卑弥呼の親族だろう。
名前が似ているからね。
だからこそ、家督をめぐってもとより不和なんだよ。 >>763
古い時代から伊都国、奴国のルーツ
そして邪馬台国全体の中核
一方の日の国の中心、それは三根郡(吉野ヶ里)だった
神武東遷後も景行天皇・日本武尊の時代においても役割を果たしていたね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>765
>平塚川添近辺
>死んだところは平原
宮殿奥深くにいる引きこもりの女王がどうして死ぬときに何十キロも離れた伊都国まで行くんだ?
死期を悟った猫が家出するのと同じだとでも思ってるのか? 故郷に葬られた
日没する処へ葬られた
いろいろ考えられますな >>767
能無しバカ
畿内においても歴代天皇の墓は治政の場所とは離れてるわ >>767
キナイコシが華麗に恥をかいたね。
「引きこもりの女王」ネェ。 >>771
>畿内においても歴代天皇の墓は治政の場所とは離れてるわ
また適当なことを書いてる
宮と墓所は同じ場所ではないけれど(宮に古墳を作るバカはいない)
宮も墓所も同じ治所、治国の中だぞ
なんで遠く離れた場所まで遺体を持っていってたかが
10メートルちょいのしょぼい墓に倭王を葬らないといけないんだ? >>770
>伊都が王都だろ
王都が平塚川添、甘木だって言ってるやつがいるんだよ >>774
それは壹與からだと思うけどね。
きっと祇園山が壹與の墓だよ。 >>775
その「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「祇園山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 3世紀の倭の都は伊都国ですね
7世紀には太宰府が倭国の都
4〜6世紀は北部九州内だろうけど何処に都が在ったか不明。 >>775
>きっと祇園山が壹與の墓だよ。
祇園山と平塚川添も、決して近くはないんだが? >>781
>福岡と佐賀が倭国の中心部なら、問題ないよ。
福岡も佐賀も倭人伝の「其山有丹」に反する。 よって、即刻終了。 @阿波 そのていで言ったら即刻終了する項目は九州以外の方が多いだろ >>783
>そのていで言ったら即刻終了する項目は九州以外の方が多いだろ
そうだね。 九州説だけじゃないね。 倭国(阿波)以外はすべて即刻終了。 @阿波 そもそも、魏志倭人伝(三国志)は、正史とされる史書であり、暗号書でもパズルでもない
「解読」して、この読み方が正しい、などというのは愚の骨頂
極力素直にそのままで読めば、読者に意味が通じるように書かれている
その意味で、伊都国と邪馬台国が別の国として
旅程も戸数も別に書いてあるのに、同じ国だという読み方は、不自然の一言で却下されてしまう
古代の王都はその国の中心となるのが当然
実際、魏志倭人伝でも、女王の都するところと明記された邪馬台国は
戸数、七万餘戸の倭国最大の大国として描かれている
伊都国の戸数は、千戸であり、魏志倭人伝に「国」としてと数を記された中では同率最下位だ
隣に二万餘戸の大国、奴国があるのに、伊都国に都があるとするのは不自然の一言だ
平原1号墓が卑弥呼の墓だとするのと、伊都国が倭国の都=邪馬台国とするのは、
互いに相手を根拠とする循環論法に過ぎない
平原1号墓は、殉葬墓があって、八咫の鏡があるから、卑弥呼の墓という論法だったが
殉葬墓とされた土坑墓は埋葬時期がずれていて殉葬ではないには明らかだし、
円周が八咫だから八咫の鏡というのも否定された
墳丘サイズが12×8メートルで径百歩にはどうやっても届かない平原1号墓は、
卑弥呼の墓ではあり得ないし、伊都国が倭国の都とするのも、不自然なことばかりであり得ない
伊都国=邪馬台国説は成り立つ余地がない >>762
原本は千じゃなく万だったのではないかって説もある
根拠は知らん
候補地と人口が合わないとかじゃね? だいたいの候補地は人口が何千とか万とか行ってそうな場所だしな そのまま読んだら南海の孤島になるから解読してんだろ >>785
長々と妄想ご苦労。
途中から読む気がしなくなったけどね。
そんな恣意的な読み方は捏造とかわりない。 倭人伝は「其山有丹」なんだけど、後漢書だと「其山有丹土」なんだよね。
献上品に真珠、サファイアときてベンガラはさすがに無いと思うけども、
後世の意訳的なものも含めて微妙に表記に揺れがあるから、
魏志だけじゃなくて魏略逸文とか隋書だとか倭国、倭人系は全部読まないと
判断できないよなぁ。 其山有丹=倭の山に丹がある
日本全国どこでもあてはまる >>786
>原本は千じゃなく万だったのではないかって説もある
>根拠は知らん
それの根拠は魏略だな
東南五百里 到伊都國 戸万余 >>787
記事に誤りが無いという奇抜な信仰を押し通すから「解読」なんていう奇行をしでかす羽目になる
地理の記載が誤ってることを認めて、記載から離れるべき >>788
>そんな恣意的な読み方は捏造とかわりない。
短里があるとか
水行の起点は帯方郡だとか
「到」と「至」は違うとかww
恣意的で捏造と変わらないね!
伊都国が邪馬台国の都ってのもあったなww >>791
>日本全国どこでもあてはまる
倭国が列島サイズならそれでいいよ
だが、九州のみが倭国だというなら、九州には弥生時代に丹山がないからありえないことになる 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >九州には弥生時代に丹山がないからありえないことになる
〇其山有丹
×其國有丹山
見苦しいねえw どんな気持ちで文献曲解してるのかなあ
陳寿が笑ってるぞwww >>796
佐賀県に丹山があるだろう。
どの九州説でも佐賀県は邪馬台国の領域だね。 >>798、>>801
ないよ
物理的に存在していても、弥生時代の時点で見つかっていないし丹も採られていない >>802
弥生時代に見つかっていないという証拠は? 弥生時代にド田舎の阿波で採掘されてるんだから
500年ほど先を行っていた北部九州ではとっくに丹山は見つかっていただろうな
>中国丹が安価だからわざわざ採掘していなかっただけで 献上物の記述を見て、倭には真珠とサファイア(翡翠)が採れる所があって、
辰砂の出る山があるんだって認識っぽいけどね。
その後の植物は色々書いてあって生姜も山椒も美味いの使わないとか
文句言ってるから、魏使か張政の報告書なんだろうなw 関係ないけど、倭人の婦人は淫らでなくて嫉妬しないけど
東夷伝高句麗の婦人は淫らとか書いてるし、魏使の主観が面白すぎる。
魏使「倭人って飯は生もの食べてて、美味しくないけど、女は清楚だよ」 >>805
>弥生時代にド田舎の阿波で採掘されてるんだから
弥生時代の阿波が「超先進文化国」だったことは今更言うまでもない。
>500年ほど先を行っていた北部九州ではとっくに丹山は見つかっていただろうな
その「北部九州産の丹」が全く出土しないというお粗末。 @阿波 >>805
>>中国丹が安価だからわざわざ採掘していなかっただけで
中華皇帝の権威を示す下賜品が、真珠五十斤で11キロくらいの量
桜井茶臼山一つで水銀朱の使用量は200キロ超
中国丹が安価なんてどこから来た?ww >>804
>弥生時代に見つかっていないという証拠は?
九州の丹は、飛鳥時代になって畿内豪族が九州まで出向いて「発見」してるんだよ
それ以前に知られていたら、「発見」できないだろ >>809
>桜井茶臼山一つで水銀朱の使用量は200キロ超
その「桜井茶臼山古墳」や「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」なんだけどね。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>795
誰が見ても「到」と「至」は違う字ですよ?
君には同じに見えるの???
ここのスレが伊都国が邪馬台国の都ですけどw >>792
魏略には奴国が無いですから伊都国+奴国で戸万余ですかね
魏略の方が魏志倭人伝より古いようですから
その後に伊都国と奴国が分かれ奴国が更に大きくなったのかもね。 委奴国がイ国とナ国に分かれて
イ国がイつ国と呼ばれるようになったんだよ
きっと >>814
>魏略の方が魏志倭人伝より古いようですから
魏略は逸文しか残っていないから確定的なことは言えないけれど、
記載されている範囲の最後のころの記事からすると、魏略のほうが古いとも言えないというのが通説
現状では、魏略、魏志倭人伝よりも古い共通の典拠資料があって、それを双方独立に引用しているらしい
>その後に伊都国と奴国が分かれ奴国が更に大きくなったのかもね。
そもそもこの部分の魏略逸文が、翰苑の「分軄命官統女王而列部」に対する注の部分なので、
魏志倭人伝にも対応部分がある「其國王皆属王女也」を書くのが目的の部分
なので、伊都国までが引用されているのであって、奴国の記事が魏略になかったということではない >>815
>この人このスレの冒頭も読んでないな。
スレ冒頭どころか、前前前スレから読んでるよ
このスレの趣旨には真っ向から反対の立場
そもそも邪馬壹国は誤記だし
翰苑の廣志逸文に邪馬嘉國とあるから邪馬臺国はなかったっていう人はいないだろ >>813
>誰が見ても「到」と「至」は違う字ですよ?
>君には同じに見えるの???
違う文字だけれど、意味の違いで使い分けされている訳じゃないってこと
「到」が到着地でその先に行っていないというのは、誤読 >>807
そこら辺の記載は経書の世界観を元に造作された空想で事実無根だよ
コビト国とか女人国の話も長寿という話も男女比の偏りも同様。元ネタが経書の中に存在することが確認されている。
>>813
詩歌など韻文を書くときに韻を踏ませたくて読み方が違うだけの同義の文字を使うことは多く行われる一般的風習だが、三国時代は(その時代に限ったことではないが)
散文を書くときにも押韻を強く意識して書くのが普通だった。
だから、韻を踏むためだけに同義の別辞を使い分けることは多く、意味で使い分けたとは限らないんだよ >>820
私の論考ではないけれど、この辺が参考になるかな
http://shiroi.shakunage.net/ronbun/itaru.htm
倭人伝の到と至
−三国志東夷伝の原史料についての考察(前編)− >>820
がんばるだけ無駄だよ?
九州説の一部しか、「到」は到着地で特別って言ってる人いないもの >>821
ええ、倭人の風俗って空想なの?
生野菜食べる、生姜山椒は美味しいのに食べない、
婦人は淫らじゃなくて嫉妬しないってのは空想なのか。
魏使が実際見たのかと思ったけど。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 倭国の風俗や風土に関する記載の多くは空想だぞ
経書の東方風俗と南方風俗をミックスして、さらに遠方特性を付け加えただけ
経書由来じゃない真の目撃談を抜き出すには経書の関連記事をチェックしないと駄目らしい >>826
>倭国の風俗や風土に関する記載の多くは空想だぞ
ごじゃくそ言っちゃあ、イカン。
倭人伝は倭国(阿波)の風俗や風土を書いているのは明らか。 @阿波 遠くへ行けば行くほど男女比が偏っていって、世界の果てでは女ばっかりになる(=女人国)とか、
僻遠の地に行くと寿命が長くなるとかいう経書にある記載が無関係に見えるのか
どう見ても倭人伝の記載(のうち、事実とは考えがたい怪しい部分)の元ネタだぞ 経書の世界観か。経書ってたくさんあるが、どれのことなんだろ。
妻が4,5人なら必然的に女性が多いんだなって思うとか、
日本でも田舎の人は長生きって思ってるとこあるよね。
小人国や寿命ネタ、裸国、黒歯国が1年〜みたいなのは
言い伝えが入ってそうだけど。
まぁ、葬式、服装、集会だとか猿雉がいて虎はいないってのは
生々しいし見聞っぽいな。 >>829
>猿雉がいて虎はいないってのは
虎がいないはともかく有獮猴黒雉って日本か?
吠え猿も黒い雉もいないだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています