邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>625
張政が里程部分の行程で伊都と奴国、不彌国まで。
梯儁が水行陸行で、金印紫綬だから女王まで、って読み方の話だろ。
張政の上陸港末蘆から500里が伊都、
梯儁の行程は上陸地名は無しで残り2千里で女王だよ。
二千里は対馬、壱岐間の2倍。 福岡県には北九州市というのがあるので、これと北部九州のイメージが重なり、
単に「北部九州」というと福岡県のことと思われやすい。
また、九州島の中心が阿蘇山になるので、熊本は北部九州とはいいがたい
熊本と長崎を含めるなら、九州中北部というのが良いのではないか。
(なお「南九州」は、慣例として宮崎・鹿児島のことになる。) 熊本は狗奴国だから、邪馬台国に含めなくていいよ。
九州北部で十分だ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. これまでの邪馬台国の有力な説としては、
古田説、安本説、筑後説などがあるが、
どれもこれも福岡県内なので、「北部九州」というと、実質的に福岡県内と思われるな。 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 >>629
わたしは >>636 を前提にしてますね。 西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂
倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征
近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)
九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に
律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定 >>635
× これまでの邪馬台国の有力な説としては、
○ これまでの邪馬台国の無駄に声の大きいトンデモ説としては、 >>636
侏儒國、裸国、K歯国 を実在扱いしたら、その時点でトンデモだよw コビト国、全裸国、オハグロ国か。あとは女人国(男がいない国、アマゾネス伝説か?)しか残ってないな >>639
そうすると、倭奴国が東遷し、邪馬台国は九州残留組。
その邪馬台国政権は、景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で滅亡。
こういう筋書きなんだな。 老婆の言うところの、
クモスケ(不明)?勢力の勝利みたいな話 >>642
>その根拠は?
そう思うなら、侏儒國、裸国、K歯国の比定地を具体的に挙げて論じなよ
これらの国は、山海経や淮南子にある伝説の国だよ
日本で江戸時代に化け狸の実在が信じられてたのと同じ 侏儒國 徳島など淡路関連(国産朱、少彦名
K歯国 お歯黒出土の大阪
裸国 侏儒國K歯国より九州から遠い室戸岬もしくは紀伊半島南端 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >沿海州あたりから渡来人の渡来があり
Ohクニぬし
魏志東夷伝
高句麗条ワイ条
積石
十月
矛 >>648
又有侏儒國在其南。人長三四尺。「去女王四千餘里」
又有裸國、黒齒國、復在其東南、「船行一年可至」
は無視か?
言えばいいってもんじゃない 短尺を主張する一部信者の説に従うなら「人長三四尺。」は10cm前後って事になるのかな
蝶のように小さなコビトだね(小さくないコビトなんて有り得ないけど 尺は普通だろう。
そうでないと平原遺跡の超大型内行花文鏡の大きさの意味がわからなくなる。
径二尺だからこそ、円周が八咫の鏡になるのだから、邪馬台国における尺は23cmほどであったはず。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>654
>尺は普通だろう。
では少なくとも『周髀算経』は、短里の根拠にならないな
『周髀算経』の中で1里=1800尺になっているから
尺が普通なら里も短里になりようがない
『周髀算経』は蓋天説という根本のモデルが間違っているだけ >>654
>円周が八咫の鏡になるのだから
寝ぼけたこと言ってちゃダメだよ
漢尺の度量衡にも、魏晋尺の度量衡にも、「咫」は入っていないし
当時「咫」で物の長さを計ることはないし
円形物の大きさを円周長で表すこともないし
平原1号墓出土鏡の円周をきちんと咫で表すと8.63咫で八咫にならないし
そもそも2咫とか3咫とかの複数形の使用例が咫にはない
寝ぼけたことを言ってちゃダメだよ 定義からすると、四咫か八咫しか利用価値はないからね。
そして縁起のいい数は古来から八。
四咫では大きくないし。
結果、八咫の鏡しか意味がないから、そのように作ったんだよ。
逆に、当時の尺にどのような大きさが使われていたのかがわかる資料となっている。 なんら歴史的事実に基づかずに
自らの妄想を強弁し続ける伊都クズ
見苦しいことこの上ない 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>658
>定義からすると、四咫か八咫しか利用価値はないからね。
そんな定義はないwww
>>657でも書いたように、二咫、三咫 のような複数形の使用例はない
もちろん四咫も八咫も使用例はない
四咫と八咫しか利用価値がないなら、そんなものが単位として
成立するはずもなければ余地もない >>662
もともとの周代の身体尺では
男の手長(開いた親指の先から人差し指の先まで)が尺で
女の手長(開いた親指の先から人差し指の先まで)が咫だった
神事のためなんてのはどこからも出てこないよ 大陸では、円周を計算しやすくするためだった。
尺より一回り小さいというのは、π/4の近似値だよ。
それをいつしか見かけの大きさについての婦人の手という表現だけが残った。
円の計算以外に、そんな尺度を制定する合理的理由はないからだ。
日本においては、事実上、鏡の大きさ、それも八咫の鏡という表現くらいしか生き残らなかったが、そう呼ぶにふさわしい超大型内行花文鏡が見つかったことで、
「八咫は単に大きいことを意味する」
などという寝ぼけた妄言が否定されるに至ったわけだ。 >>665
>大陸では、円周を計算しやすくするためだった。
また嘘をついてる
>尺より一回り小さいというのは、π/4の近似値だよ。
>それをいつしか見かけの大きさについての婦人の手という表現だけが残った。
これが正しいなら、咫は常に円周と関連する形で使われるはずだが、
円周長を咫で示したり計ったりしている例は、一例たりとも存在しない
>円の計算以外に、そんな尺度を制定する合理的理由はないからだ。
女性の使う単位が女性の身体尺である咫だってだけ
これが身体尺から公定尺に切り替わるときに、咫=八寸、尺=十寸とされ、
咫の使い道がなくなった
秦の始皇帝の度量衡の統一以降、その体系に咫は入れられなかった
そこから400年経ったのちに、咫が計量単位として使われなくなって400年後に
外国にそれが伝わって円周長を計るのに使われたとか、妄想以外の何ものでもない >>667
>女性の使う単位が女性の身体尺である咫だってだけ
そんな単位を作る理由がない。
適当な言い訳をこじつけているだけにしか聞こえない。
もっと合理的な説明をしなさい。 >>668
今でも箸を選ぶときに、箸の長さは自分の手で計って「一咫半」の物を選ぶとよいって言うだろ?
その自分の手で計る長さが周では男が尺、女が咫という文字で表現した
それ以上の意味はないよ
径が尺の円形物がほぼないのに、その円周にしか使えない単位があったなんていうのは妄想が過ぎるww ありゃりゃ
八咫の鏡以外の咫の使用例が登場したよ
一咫半でも使うんだな
やはり単位として使われているわけだ
じゃあ平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>670
>ありゃりゃ
>八咫の鏡以外の咫の使用例が登場したよ
>一咫半でも使うんだな
wwww
釣られたなww
「一咫半」は、日本の単位で「咫=あた」と読む
九州説が主張しているのは大陸の単位「咫=シ」だから別物だよ
そして、日本の「あた」も円形物の円周を測るのに使われたことは一例もないww
>やはり単位として使われているわけだ
日本の単位に借字として「咫」を使っているだけ
>じゃあ平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいな
いい訳ないだろw
昭和の時代の、原田大六氏の思いつきに過ぎないんだから
弥生時代に八咫鏡なんて、日本の何処にもないよ
八咫鏡の初出は、8世紀の記紀だからね 猿田彦について、日本書紀から
一神あり、天八達之衢(あめのやちまた)に居り、其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り、まさに七尋(ななひろ)といふべし、且(また)口尻明り耀れり、目八咫鏡の如くにして
"七咫"の"咫"は長さの単位では? それ、8世紀の日本語の「あた」
3世紀の大陸中華では「咫=シ」は、度量衡に入れられてないし
実用単位として使われなくなって400年経ってる
3世紀の倭国に大陸から「咫=シ」が伝えられて、
それに合わせて鏡を作るなんていうのは
妄想もいいとこ
日本の単位の「あた」に「咫」の字を使うのは
「借字」であって同じ単位ではないことに注意 >>674
日本のが大事でしょ
日本の資料で八咫と七咫が併記されている事は重要だね >>675
ではなぜ、平原1号墓出土鏡の「円周長」が「漢尺の八咫」だから八咫鏡だって主張するんだい?
漢尺の八咫ってのは思いっきり大陸の度量衡だろ?
でも、漢の度量衡に「咫」は入っていない
記紀の猿田彦に八咫の目、七咫の鼻が書かれているのは、記紀編纂以前に漢籍が輸入されて、
日本語の「あた」に「咫」を借字として当てるようになったから
そのずっと前に平原の鏡は割られて埋められているから、咫の文献がもたらされたときには
大きさが測れないし、八咫鏡と呼ばれる理由もない >>676
そんなに断固主張してないが?
可能性はある、と思っているよ
"咫"が長さの単位であればね
むしろ、可能性が無い、とするのが難しい状況
正直、倭人伝論争において、ここはどうでもいいのだが、答はわかるはずもないのだし 倭のアタだと、日本書紀で用いられている1アタの長さを知る術がないので
平原の鏡を八咫鏡だと主張する根拠が消えるな
はい、終了! >>677
>むしろ、可能性が無い、とするのが難しい状況
はい、トンデモが論破されたときの逃げ口上、
「絶対ないとは言い切れない」いただきましたwww
それいわゆる「悪魔の証明」だから、論破されてないとただいうためだけのもの
可能性はないよ
円形物の大きさを円周で表したものはない
この時点でただの妄想 >>677
>正直、倭人伝論争において、ここはどうでもいいのだが、答はわかるはずもないのだし
でもな、北部九州説の伊都国推しは、平原1号墓を卑弥呼の墓だとしないと成り立たず、
径十歩に満たない墓を卑弥呼の墓にするために、例の鏡を八咫鏡だと言い張る必要がある
まあ、伊都国が邪馬台国とは別に書いてあるのを認められない人たちだから、
何を言っても聞かないだろうけどさ そんな小さい墓でも
畿内の完形前方後円墳より
副葬品が豪華なんだよねえ >>681
>畿内の完形前方後円墳より
完形前方後円墳なんて言葉、初めて見たわw
畿内の王墓級で埋葬主体が発掘されているのは
メスリ山古墳と桜井茶臼山古墳しかなくてしかもどちらも盗掘済み状態だったが
どう見ても平原1号墓とは比べものにならないくらいの物量だぞww >>682
完形って昔はよく使われたけどね。
まあスラング的な言葉なのは間違いないが
箸墓古墳以降の完成形の前方後円墳を指すんだよ。
古いものは手鏡型、撥型、帆立貝型など
安定してないから、これらと区別するためのものだよ。 >>678
>倭のアタだと、日本書紀で用いられている1アタの長さを知る術がないので
これまで出土した最大の鏡である平原遺跡の超大型内行花文鏡を八咫の鏡とみなせば、倭における咫の実際の大きさがわかるだろうね。 >>683
逆に、箸墓がそんなに古いはずがないという疑念に繋がるんだよなあ。 >>680
原田が「現代の伊都国王」なんて持ち上げられている頃は良かったが、
畿内大和で箸墓撤退が相次いだせいで、すっかり追い込まれ、
何が何でも平原を死守しないと、あとがないからねえ >>686
>馬具まで出ちゃって大変だよな
それが濠の底から出たなら大変だけど、集合を埋める堆積物の中に浮いてる状態だからな
箸墓を作ってから、かなり経ってから濠に投棄されたことになる
そういうのを全部無視して、馬具が出た鐙が出たしか言わないから、チェリーピッカーって言われる >>690
20〜30年堆積した所で布留1の土器と同伴
箸墓は布留0の墓
問題は鐙の形等でわかるはずの大陸やその他の地域での出土物との時代的平行関係の話が無いこと
このあたりの資料が気になるのだが >>679
断定できない事項を断定すると、胡散臭くなるから注意 畿内説推すにしても箸墓を卑弥呼の墓とみるのは悪手のような気がするんだが ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>680
伊都説推しだが、筑後川流域説も捨てがたい
八咫鏡の件は重要視してないよ
+αになるだけで
糸島周辺は神社の伝承や地域名で天孫降臨説もある地域だから、面白くはあるが、ここも事実はわかりようがないからね
ただ、パズルが嵌まっていく感覚は面白い
妄想よりの推測でしかないけど
ただ、考古学的事象は事実に伴うから一番重要視している
当時の鏡の保有率と大陸製品の豊富さ、中国朱やジトウの存在が大きい
平原は墓の規模は確かに100歩には届かんが、全解決の誇張説だったら"あり"になる
が、やはり弱点はここだろうなぁ >>691
>問題は鐙の形等でわかるはずの大陸やその他の地域での出土物との時代的平行関係の話が無いこと
>このあたりの資料が気になるのだが
鐙の形式編年は、「金属の鐙」しか対象にしてない
そもそも古代の木製の鐙なんて、他にはほぼ存在しない
しかもそれが壊れているのを「鐙」とするのは果たして正しいのか疑問に思っている >>694
>畿内説推すにしても箸墓を卑弥呼の墓とみるのは悪手のような気がするんだが
纒向古墳群のいずれか、でいいんだよ
あとは編年次第
現行編年を尊重するなら、箸墓は少し遅い
寺澤先生はその立場
桃核の14Cの測定結果が出て、土器編年もまた修正されるだろうから
最新情報に合わせて考察していけばいいだけ >>698
>纒向古墳群のいずれか、でいいんだよ
こいつのこういうセリフは大抵嘘 箸墓古墳は主体部を発掘できないため
結論は出せないが
周壕などからの出土物は
全部4世紀以降のもの。 >>696
>当時の鏡の保有率と大陸製品の豊富さ、中国朱やジトウの存在が大きい
そんな物は倭国(阿波)にも有るよ。
北部九州は「其山有丹」で即刻、終了。 @阿波 >>1
>>696
時系列に見た邪馬台国は筑後川流域が主体で
伊都はもともとその前哨国だよね それが歴史の流れだろう
とくに筑後川流域の中核都市で吉野ヶ里から出土している巴形銅器の鋳型
その鋳型と一致する銅器や遺物が糸島側や那珂遺跡群で見つかっている
吉野ヶ里の部族が弥生前・中期から博多や糸島に進出していったか
あいるは親密な関係を継続しながら、
後期の倭国(邪馬台国)を形成していったのかという証拠のひとつだ
また重要な三種の神器や墓葬のプロセスを見たときに
吉野ヶ里、筑後川流域からそれが博多・糸島側へ進化しているのがわかる
それは日本の精神性、宗教・信仰のかたちがどう形成されていったかを考察する上で重要だ
三種の神器とは別に分類されているが
銅鐸は弥生の祭器のひとつだが
その銅鐸にしても
吉野ヶ里からもっとも古い銅鐸の鋳型が見つかっている
そして同型のものが島根で発見されている
銅鐸を使った祭祀のスタイルは
西から生まれて東へ拡大進化していったということだろう
日本の成立を考えるときに
祭祀のあり方や神道、そして付随する三種の神器はとても重要で
時系列的にあるいば位置的に
それがどのようなかたちで変遷、進化していったのかをまず
考察しなければならない
答えはひとつだろう >>704
>日本の成立を考えるときに
>祭祀のあり方や神道、そして付随する三種の神器はとても重要で
まさに「忌部」。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 卑弥呼時代の邪馬台国が肥国の影響下であることは認めるが、三種の神器の起源は博多湾沿岸の吉武高木だよ。
筑紫の分家である肥国の姫が高齢独身になったから呼び戻して即位させたのではないか。
悪く言えば、肥国が起源だと思い込むのは、畿内が起源だと思い込むのと同レベル。 >>707
>三種の神器の起源は博多湾沿岸の吉武高木だよ。
博多湾沿岸は皇室祭祀と関わりがない時点で終了。 @阿波 天皇家のルーツが福岡で
肥の邪馬台国は吸収されたのでしょう。
有明海周囲の肥国連合は、
筑紫に負けて、有明海周囲の一角である
筑後を明け渡してしまいました。
つまりは、そこで肥国が、筑紫に負けたのでしょう。 >>709
>天皇家のルーツが福岡で
博多湾沿岸は皇室祭祀と関わりがない時点で終了。 @阿波 それはいつの時代のことを言っているのでしょうか?
卑弥呼が肥国出身なら、筑紫が逆に乗っ取られていますよ。
ちなみに私は、壹與は佐賀川上の淀姫という意見です。 >>707
>三種の神器の起源は博多湾沿岸の吉武高木だよ。
三種の神器・・・
セットで見つかっている
次が古い→新しい順番だね
吉武高木遺跡→三雲南小路遺跡→須玖岡本遺跡→井原鑓溝遺跡→平原王墓
しかし、三種の前に一種類や二種類があるんだね
時代とともに変遷と進化がある
吉武高木遺跡のまえに吉野ヶ里があるんだね 後世でも筑紫の君と肥国の君は割と仲が良さそう。
景行天皇も肥国ではあまり戦っていない。
神功皇后は戦ったけど。 >>713
そうそう。
日向峠の東側から西側に遷都したんだよ。
そして伊都国にニニギ王統が成立する。 九州なんて皇室から遠すぎ。 そもそも出発点が間違い。 @阿波 >>714
>>716
吉野ヶ里遺跡のほど近くに皇室のお墓がある
またこの一帯は景行天皇の巡幸の記述を見ても別格だ
そしてまた
吉野ヶ里の近くにはヤマトタケルが熊襲を打つ際に出陣を準備した場所、神社がある >>717
いくらそんなことを言っても無駄。 九州は皇室と無縁。 @阿波 九州北部だけを束ねてて九州中南部も中国地方や四国もまったく領有しない辺境小国が邪馬台国だったので無い限り、邪馬台国があった時代に王都だった可能性を想定できる大型遺跡は巻向ぐらいしかないからしかたないね
阿波は四国を代表する重要地域ではあっただろうけど、全国を代表する規模じゃない。 >>719
>邪馬台国があった時代に王都だった可能性を想定できる大型遺跡は巻向ぐらいしかないからしかたないね
纏向遺跡ごときに、そんな可能性は微塵もない。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 肥国が筑後を明け渡した時点で
全力の殲滅戦争ではなく
国を残しての従属関係を選んだのでは
ないでしょうか?
さらに戦争を続けるとなると
肥後国の本部である熊本市あたりまでは
まだまだ先のことですから
兵站補給や長期間の戦争は難しかった
のだと思います。
むしろ従属させることで
肥前、肥後の豊富な生産力を
加えることができ
これが、豊前から日向大隅などを
攻める補給源になったのだと思います。
熊襲攻めのあとに、兵力を連れて
肥後各地を巡幸しているのは
肥後が完全に筑紫の支配下になったのではなく
支配層を残しての従属ですので
兵力を見せつけることで
反乱する気をなくさせるためじゃないでしょうか? >>722
いくらそんなことを言っても無駄。 九州は皇室と無縁。 @阿波 >>717
>吉野ヶ里遺跡のほど近くに皇室のお墓がある
それ、どれのこと?
具体的に書いた方が説得力が出るよ?
具体的に書けばいいのに
書けないの?
あるっていえばあることになるの? >>715
>日向峠の東側から西側に遷都したんだよ。
山一つ越えたら天孫降臨?
エラくローカルでスケールの小さな話だな、おいww
それくらいの距離なら普通に通婚圏だろうにw >>725
倭国(阿波)にヒントを得たにわかトンデモだよ。 @阿波 >>699
>こいつのこういうセリフは大抵嘘
根拠もなく汚い言葉で罵るしかできないこういうバカは、
九州説が馬鹿にされる要因だから九州説の人で締めた方がいいよ
纒向古墳群は最初期の纒向石塚古墳からずっと100メートル級の列島最大の墳墓が
作られ続けている
このうちの年代の合う物が卑弥呼の墓で何の問題もない >>728
>勉強しろよ・・・
それはイカン @阿波 >>727
>このうちの年代の合う物が卑弥呼の墓で何の問題もない
卑弥呼の墓が低地の湿地帯に造られる訳がない。 無礼千万。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています