神武・倭国の連合東遷説

1ホワイトケープ2018/08/31(金) 12:13:59.27
神武・倭国の連合東遷説とは
神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。
東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。
 
【連合東遷説の定義その1】
定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。
定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。
定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。
定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。
定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。
定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。
定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。
定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。

2ホワイトケープ2018/08/31(金) 12:16:22.43
【連合東遷説の定義その2】
定義8 魏志倭人伝の行程方角基準は、当時の倭人が使用した基準で、マイナス28度偏向していた。
定義9 魏使行程の里程は、1里=76.5mで記述している。
定義10 魏使行程の投馬国へ水行20日は、九州西岸では水行10日の航路である。
定義11 ニニギの天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。
定義12 弥生終末期、九州には北部に倭国、中部に倭国に囲まれた狗奴国、景行天皇名付けの碩田国、九州南部に投馬国があった。
定義13 海神・豊玉彦は投馬国へのみならず、西日本各地へ航路を拓いていた。
定義14 海神・豊玉彦は国生みを記録していた。
定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。
定義16 高城山を残した部隊は、四国、山陰、丹波に遠征した部隊だった。
定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。
定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。
定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武が即位した。
定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。

3ホワイトケープ2018/08/31(金) 12:27:59.25
【神武・倭国による連合の根拠その1】
図1 全国の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu01.jpg

 都を移す東遷がこの先、国の歴史に残る重大な事業と考え、記録する工夫を行っていた。その一つが東征・東遷の経路を同名同種の山に記録することであった。
 図1は高取山と鷹取山の全国分布である。東征の進攻方向(ベクトル)を記録したもので、高取山が出発地、鷹取山で当面の目的地を記録していた。
 奈良より西が神武東征、東は日本武尊東征の記録で、二つの東征は一連の建国の事業と、とらえていたことが分かる。

4日本@名無史さん2018/08/31(金) 16:11:09.04
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

5日本@名無史さん2018/08/31(金) 16:16:10.14
     |
     |
     |
     |ツツー
     |
     鼎

6ホワイトケープ2018/08/31(金) 18:38:53.29
【神武・倭国による連合の根拠その2】
図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg

 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。
 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T
に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、
倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。
 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、
出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国
との決着の戦いがあったことが見えてくる。
 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上
部隊があったことが見えてくる。
ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録
している。 
 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方
向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され
ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する
博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別
途報告する。

7ホワイトケープ2018/08/31(金) 19:19:57.77
【神武・倭国による連合の根拠その2】
図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg

 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。
 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T
に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、
倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。
 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、
出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国
との決着の戦いがあったことが見えてくる。
 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上
部隊があったことが見えてくる。
ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録
している。 
 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方
向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され
ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する
博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別
途報告する。

8ホワイトケープ2018/08/31(金) 19:20:01.37
【神武・倭国による連合の根拠その2】
図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg

 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。
 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T
に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、
倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。
 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、
出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国
との決着の戦いがあったことが見えてくる。
 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上
部隊があったことが見えてくる。
ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録
している。 
 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方
向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され
ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する
博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別
途報告する。

9日本@名無史さん2018/09/01(土) 07:48:44.15
神武は人命、倭国は国名。
神武の出身は筑紫の日向、すなわち倭国そのものです。

10ホワイトケープ2018/09/01(土) 09:38:20.07
>>9 
>神武は人命、倭国は国名。
神武の出身は筑紫の日向、すなわち倭国そのものです。

レスありがとうございます。
人名と国名の連合というタイトルは、良くなかったかも知れません。
神武は南九州にあった、投馬(都萬)国の出自と思われます。倭国の女王・卑弥呼(天照大御神)がニニギを
派遣し建国した国なので、倭国と一心同体の国です。東征にあたり倭国と連合するのは、必然な行動と考え
ます。タイトルに神武を入れたのは、神武東征が倭国との人々との共同作業だったことを強調したかったため
で機会があれば修正します。

11ホワイトケープ2018/09/01(土) 09:48:01.22
【神武(投馬国)と倭国による連合の根拠 その3】
古事記が記す東征出発の記述の中に、倭国との連合を記した部分がある。
一つは最初の行程を「・・・、すなはち日向を発たして筑紫に幸行でましき。故、
豊国の宇沙に到りましし時、・・・」とあり、これを順次式に読めば、まず筑紫に出
向いていることが分かる。図2のベクトルF1→F2である。
その後、迂回した先の竺紫の岡田宮は、「筑」を「竺」に変えて記録していて、目的
地を先に記述したのではない。
 二つは岡田宮迂回である。この迂回は北部九州の倭国との連合とする見解は、これ
までもあったが確かな根拠がなく推測にとどまっていた。先のベクトルから判明した
別な部隊との合流や、遠賀川域での東征のための船を準備するためであったことが見
えてくる。

12日本@名無史さん2018/09/01(土) 10:57:47.81
日向高千穂宮は伊都国三雲
筑紫は奴国
岡田宮は現在の北九州市

でいいじゃないか。
八咫鏡を携えたニニギが降臨したのは平原遺跡がある伊都国だろう。
宮崎の投馬国が関わりの深い国であることは間違いないが、卑弥呼や神武らの倭国とは糸島市と福岡市を中心とする筑紫の日向だと思う。

13ホワイトケープ2018/09/01(土) 11:39:32.09
>12

>>12

レスありがとうございます。
ニニギが降臨した高千穂の現在地については、いろいろな考えが発表されています。
まだ確定的な説は無い状況と考えます。私の考えは南九州の高千穂峰ですが、その根拠については
定義11の説明の中で研究結果を案内したいと思います。

14ホワイトケープ2018/09/01(土) 17:14:51.37
定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。
【卑弥呼=天照大御神の根拠】
表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応
http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg
 古事記は天照大御神の父母は、伊邪那岐命・伊邪那美命と記している。
 表1は伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニの名から1文字
ずつ採った名であることを示している。

名前 クニ名     クニの代表
伊 伊都国     天之御中主神
邪 邪馬台国    高御産巣日神
那 奴(那)国    神産巣日神
美 不弥(宇美)国  宇摩志阿斯訶備比古遅神
岐 壱岐国     天之常立神

奴と弥の文字が名前とクニ名で異なるが、それぞれの有力比定地、那珂川の那と
宇美町の美から採られたものと考える。
 邪馬台国の痕跡が少なく非実在説もあるが、伊邪那岐・伊邪那美の名の中に登場す
ることから邪馬台国は実在したクニであった。表1のクニ代表は、「別天つ神五柱」
の神々を、古事記が記す順にクニに対応させたものである。別途検証した結果、魏志
倭人伝が記す倭国乱を収束させるために、話し合ったクニの代表者であった。また
伊邪那美岐の文字順は、クニの格順でもあった。

15日本@名無史さん2018/09/01(土) 20:11:38.27
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

16ホワートケープ2018/09/02(日) 10:03:27.02
【卑弥呼=天照大御神の根拠 つづき】
 >14
以上のことを踏まえ、魏志倭人伝が記す卑弥呼と、記紀が記す天照大御神を比較す
ると次のような共通点が多くあり、二人は同一人物である。

@ 伊邪那岐・伊邪那美の子、天照大御神は魏志倭人伝が記す卑弥呼と同じ、3世紀
前半に生きた女性である。
A 共に夫がおらず、弟がいた。卑弥呼の弟の名は不明だが、天照大御神の弟には月
読命と須佐之男命がいた。
B 表1のクニグニは邪馬台国を除くと、博多湾岸が有力比定地である。邪馬台国の
比定地は多々あるが、倭国乱収束の話し合いに参加したとなれば、他の有力比
定地と同じ北部九州が有力である。
 一方、天照大御神の後継、豊受大神は、図1の九州のベクトルが形成する朝倉の
三角域付近に住んだと思われ、天照大御神も同じ三角域に住んだ人物と思われる。
C 伊邪那岐・伊邪那美の名付けの動機は、当時の倭国乱にあった。互いに敵として
戦った伊都国宗家の男子と奴国王・神産巣日神の娘が結婚し、その子を統一倭国
の王とすることで戦乱を収束する話し合いの結果であった。天照大御神は父、伊
邪那岐命の指名で高天原の主になったが、話し合いで始まる王となる経緯は魏志
倭人伝が記す、卑弥呼共立の表現に近い。
D 卑弥呼亡き後、女性の台与が共立されている。天照大御神亡き後も女性の豊受大
神が継いでいる。
E 卑弥呼は魏の明帝から、銅鏡100枚を賜った。一方、天照大御神はニニギの天孫
降臨に際し鏡を授けていて、二人は銅鏡とのかかわりが強い。

17日本@名無史さん2018/09/02(日) 11:20:46.66
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

18ホワイトケープ2018/09/02(日) 15:01:01.34
定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。

【豊受大神出自が出雲の根拠】
図3 豊受大神の系譜 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu03.jpg

@ 魏志倭人伝では、壱岐(一大)国・邪馬台(邪馬壱)国など、固有名詞の地名や
人名に、疑義が頻出している。これは陳寿の死後、草書体の文章を楷書に書
き改めたとき、草書で形のよく似た文字が行間では判断できず、写し誤りが
あったとする井上悦文の説に従う。
壱と台の旧字はよく似ていて、もし台与でなく壱与が正解ならば、壱岐国の
ように一の文字を使用し一与になったはずで、そうでないから台与(とよ)が
正解である。
A 古事記の神々の生成において「和久産巣日神の子は豊宇気毘売神という」と
ある。また、須佐之男命の大蛇退治の段で「また大山津見神の女、名は神大
市比売を娶して生める子は宇迦之御魂神」とある。伏見稲荷大社では宇迦之
御魂神を主祭神としていて、豊受大神と同一人物である。
B 図3は、古事記の上記のような記述から、系譜を作成したものである。ただ
し大山津見神と和久産巣日神の夫婦関係は推測している。ここに推測が入っ
たが、豊受大神が須佐之男命の娘であることは変わらない。
C 卑弥呼は天照大御神なので、須佐之男命の娘、豊受大神は卑弥呼に近い宗女
である。魏志倭人伝の記述と整合する。
D 高天原の天照大御神は出雲の国譲り交渉を行っていて、建御名方神とは長野
の善光寺付近で戦いがあった。また播磨風土記によれば、大国主命と天日槍
は播磨の奪谷などで戦いになった。天日槍の軍は8千人と記述されていて、
大きな戦いである。
E この状況の中、須佐之男命の娘・豊受大神が出雲から共立されたならば、出
雲国譲りが完了した結果と合わせ、魏志倭人伝が記す卑弥呼の死後の状況と
一致する。「あらためて男王を立てたが、国中は不服であった。こもごもあい
誅殺した。当時千余人を殺しあった。卑弥呼の宗女の台与なるもの、年13を
たてて王とした。国中はついに定まった。

19ホワイトケープ2018/09/03(月) 07:25:39.38
定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。

図2 九州の高(鷹)取山の分布  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg
図4 北部九州の高尾山と〇尾山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu04.jpg

図4は、図2の北部九州の高(鷹)取山のベクトルに、〇尾山の配置を追加した
ものである。〇尾山の〇には異字が当てられている。その中で高尾山は特別で全
国的に多く、高尾山・高雄山・鷹尾山を含めると56山がある。
 この山は、高(鷹)取山のベクトルを補佐していて、個別部隊の経路などを記録
している。〇尾山は高尾山を除いて全国に177見つかっていて、越えた峠など個
別なことを記録していた。
【博多湾沿岸国の東遷参加の根拠】
@  一支国(高尾山)、末櫨国(高尾山)、伊都国(高祖山)、奴国・不弥国(高雄
  山)と伊都国のみ異なる山名になっているが、点線で結んでいるように太宰
  府付近での合流を記録している。
A 五島(松尾山)、鹿島(蟻尾山)、武雄(黒尾山)の配置は、魏志倭人伝が記
  す旁国で、@のクニグニと区別し参加を記録している。
B 大宰府付近で合流後、米ノ山峠を越えたことを、峠に笹尾山と竹ノ尾山で記
  録している。
C 若松半島の岩尾山と舟尾山を結び伸ばすと、遠賀川河口を指し示し神武隊が
  迂回してきた船(岩舟)の停泊地を記録している。
D 遠賀川上流の船尾山は、新しく船を造る木の伐採地と思われ、木の川出し地
  付近には、位登(いとう)古墳があり、伊都国が川出しを采配した痕跡であ
  る。
E 位登付近から下流5kmには糸田町があり、伊都国が造船を采配した痕跡であ
  る。

20日本@名無史さん2018/09/03(月) 07:37:24.35
九州古墳最大規模の日向男狭穂塚古墳に

倭国に繋がる皇統の謎を解き明かす秘密詰まってる

21日本@名無史さん2018/09/03(月) 07:39:04.48
てない

22日本@名無史さん2018/09/03(月) 08:45:08.09
>>20

西都原にある男狭穂塚古墳は、大和で起きた狭穂彦の垂仁天皇への謀反に由来するのではと考えたりしています。
狭穂彦の妹・狭穂姫は垂仁天皇の后でもあったので、二人の間で葛藤し、垂仁天皇の膝枕中に涙をこぼし兄の謀反が知られてしまいます。
その後の結末は日本書紀にある通りです。

二人の兄弟愛を残すために、それでも謀反の罪ある故、大和でなく遠い宮崎に陵を造ったのではと思います。

西都原が皇統につながる故地であることを、知ったうえでの選択地だったと考えます。

23日本@名無史さん2018/09/03(月) 09:25:59.80
>>22
投馬国の名残だよ。
そこにも分家があったんだ。

24日本@名無史さん2018/09/03(月) 10:53:36.29
>>22

西都原は投馬国(都萬国)の聖地であり、神武東征の出発地でもあったと考えています。

25日本@名無史さん2018/09/03(月) 11:09:24.58
>>24
神武の出発地は、倭国の都であった筑紫の日向の伊都クジフル山の高千穂宮。

26日本@名無史さん2018/09/03(月) 11:28:50.55
>>25

ここで討論するつもりはありません。あしからず。

27ホワイトケープ2018/09/03(月) 17:18:29.39
定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。
図5 夜須町と大和郷の地名一致図
  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu05.jpg

邪馬台を「やまたい」と読むことが多いが、本来は「やまと」と思われる。ま
た偶然、奈良に別な大和(やまと)が生まれることはないので、この神武・倭国
の連合東遷により倭国の都・邪馬台を奈良に遷し、大和になったことは十分に推
測できる。
【遷都の根拠】
@ 先に鏡味完二は、「九州と近畿とのあいだで地名の名づけがよく一致してい
る。」と発表していた。安本美典はこの発表に興味を持ち、地図を開いて北九
州の夜須町と大和の国大和郷の地名の一致をみいだした。
図5は安本美典が発表した地名比較図で、地名を線で結んだ形が同じようで、
多くが同じ位置に名付けたことが分かる。これは倭国の都の高天原を、同じ
地形の奈良に移す遷都の意識が強かったことを示している。
A 日本書紀の神武の橿原即位の項で、次のように記述している。「だから古語に
も、これを称して次のようにいう。『畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩
にしっかりと立てて、高天原に千木高くそびえ、始めて天下を治められた天
皇』。」古語としているが、古くは橿原を新しい高天原と認識していたことを
記録している。
B 日本の国名は、倭・大倭・大和の変遷が見られ「大」の1文字の追加は、こ
の連合の際が、最もふさわしい。南部九州の投馬国と北部九州の倭国との連
合であったので、新しい都を大倭とし「やまと」と呼ぶことに、神武兄弟と
豊受大神の話し合いで決まった。
C 東征の目的地・大倭に「ひのもとの大倭」と枕詞が付いたのは、兵たちを鼓
舞するためで東遷の最中である。「ひのもと」には山の向こう側の意が含まれ
ているので、奈良で生まれたのでなく、生駒より西の領域で生まれたもので
ある。

28日本@名無史さん2018/09/03(月) 20:26:09.65
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

29ホワイトケープ2018/09/04(火) 08:09:32.23
定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。
図6 九州の高城山の分布    http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu06.jpg
図7 九州の大きな鉄遺跡の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu07.jpg
図8 西日本の破鏡の分布    http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu08.jpg

【狗奴国との決着の戦いの根拠】
図1の九州のベクトル図では、神武が熊本平野を縦断し日向に戻っていたので、
決着の戦いがあったと思われた。

@ 図6は九州に残る高城山をプロットし結んだものである。南阿蘇に始まり高
  千穂町を経て佐伯に到り、最後は苅田(かんだ)町で終わっている。神武・
  倭国の連合隊の1部隊が、狗奴国との戦いを決着させ、高千穂町に戻りその
  後、日向からの神武隊と佐伯で合流し、北上した記録である。
A 図7は九州の大きな鉄遺跡を結んだもので、図6の高城山の経路とよく一致
  している。
B 図8は西日本の弥生後期〜古墳前期の集落跡から見つかった、破鏡片の出土
  地をプロットしたものである。
  破鏡とは破砕された銅鏡片に穴開けや断面を鋭角に後加工したもので、考古
  学では破棄や放棄された鏡の解釈であるが、本説では紛失した鏡と解釈して
  いる。
C 出征兵士の家族は、離れ離れになる家族の絆として分け持った鏡片が、戦い
  や食料自給の農作業で落としたか、うっかり忘れたものが現在、住居跡や田
  んぼで見つかったと理解している。
D このような視点で分布図をみると、激しい戦いがあった河内、熊本平野南部、
  大分・大野川流域に多く見つかり、紛失の理解で状況が一致する。
E 北部九州は分散的にみつかり出征兵士の親は、亡くなると帰還してきた子に、
  誰の墓か分かるように副葬したのである。

30日本@名無史さん2018/09/04(火) 10:40:41.47
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

31ホワイトケープ2018/09/04(火) 20:11:34.53
定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。
図9 九州の高倉山の分布  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu09.jpg
図10 九州の高塚山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu10.jpg

東遷を行うことは、これまで倭国を作り上げてきた先祖との別れでもある。豊受大神
はどんな別れをしたのか。
【豊受大神が薩摩に出向いた根拠】
@ 図9は九州にある高倉山をプロットしている。4山があり、朝倉付近の2山は
  「麻底良山(まてらやま)」を指し挟んでいる。麻底良山は、アマテラスのアと
  スを抜いた名前で、豊受大神が高天原を去るにあたり、さし残したものと推測
  する。
A 薩摩半島の2山はニニギが木花之佐久夜比売と出会った阿多を指し示していて、
  ニニギに東遷の報告と加護を祈った痕跡である。薩摩川内市にはニニギの陵と
  される可愛山陵がある。この薩摩半島2山が麻底良山を指し示しているのは、
  高天原との関係を記録したものである。
B 図10は九州の高塚山をプロットし結んだものである。朝倉を出発し豊受大神を
  高塚山隊が警護しながら進んだ経路を記録している。戦いのあった熊本平野を
  避けた経路である。

32日本@名無史さん2018/09/04(火) 20:55:36.71
渡来渡来というけど、弥生人なんてのは4000年も5000年も前から徐々に形成されてきた
遺伝子だろ。そしてそいつらは西日本でずっと縄文文化やってたんだよ。そこに稲作という
新技術が渡来した。弥生人たちは縄文文化から弥生文化に移行した。こんだけの話しだ。

ノルマン人のアイスランド植民化みたいなのを知ってのち、あと知恵で根拠なく主張してる
だけだろ。弥生人の遺伝的形成には画期などなく、長い期間をかけて混血されていったんだよ。

33ホワイトケープ2018/09/05(水) 08:28:30.09
定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。

図1 全国の高(鷹)取山の分布  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu01.jpg
図11 朝倉付近の三角域の拡大  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu11.jpg
画像1 槵触神社の高天原遥拝所 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga01.JPG

 古代は上座郡(かみつあさくらぐん)、下座郡(しもつあさくらぐん)と呼んでいたが、
明治になって「じょうざぐん・げざぐん」の呼びになった。

【都(高天原)は上座郡・下座郡の根拠 その1】
@ 図1で九州のベクトルが、朝倉市付近に三角領域Tを形成していると案内した。
  図11は、その三角域Tを拡大したもので、筑紫平野北部の扇状地形にある。
  1辺は約10kmの大きさである。
A 高木・甘木・杷木の三点を結んだ概略領域が高天原である。この3地名の頭を取った
  (高・甘・把=高天原)は高天原を残そうとした古代人の工夫の痕跡である
B 形成された三角域Tは、領域の左半分にあり、下座郡に該当する。この中央部に
  三奈木の地名が残るのは、先人が残した工夫を解くヒントである。
C 古代の天皇・皇后が九州に下った際に留まっていて、ここ朝倉は天照大御神が
  住んだ高天原と知っていた痕跡である。
・景行天皇の熊襲討伐では、討伐の最後に筑後川対岸の浮羽にやってきて、食事を
 されたと日本書紀は記している。麻底良山の筑後川対岸に鷹取宮が残る。
・仲哀天皇の熊襲征伐に同行した神功皇后は、天皇が亡くなられたあと熊襲征伐を
 引き継ぎ、高天原に近い荷持田村(のとりたのふれ、現在地・朝倉市秋月野鳥)の
 羽白熊鷲を討ちにやってきた。
・斉明天皇は西征の際、麻底良山近くに朝倉橘広庭宮を建て遷った。ここで亡くなった。
D  扇状地奥の式内社・美奈宜神社は、羽白熊鷲を討てたのは天照大御神の助けが
  あったからと、神功皇后が創建したものである。美奈宜(みなぎ)の名は
  (高・甘・把=高天原)を知ったうえでの美奈宜である。

34ホワイトケープ2018/09/06(木) 08:11:19.10
【都(高天原)は上座郡・下座郡の根拠 その2】

D 三角域右辺領域は、上座郡にあたるが、図11のように高倉山と高山(こうやま)を
  結んだ線上に麻底良山がある。この山頂に天照大御神一族を祀る、式内社・麻底良布
  神社がある。
E 福岡県には天照大御神を祀る式内社は3社あるが、そのうち2社が朝倉にあり、この
  集中は高天原の痕跡である。
F 高山は、岩屋戸事件で天照大御神を招きだす真榊など、種々を求めた天の香山と
  されるのも痕跡である。
G 岩屋戸事件の場所は高山の麓の志賀神社と比定した。志賀神社がある塚原集落には、
  神社で酒を酌み交わす祭りが残り、岩屋戸事件の内容と重なる。
H 甘木付近を流れる小石原川が別名、天の安の河とされるのも、高天原の痕跡である。
  付近には現在はないが夜須町があった。
I 比定地糸島市の伊都国から須佐之男命がやってきて、小石原川を挟んで天照大神と
  対峙したならば、対峙の方角や小石原川が高天原の境である状況が記紀記述と一致する。
J 小石原川は筑後川ほどの大河でなく、小川でもない。古代と地形は変わっているが
  中河川であることは不変で、互いに川を挟んで30mほどの距離で対峙し、言葉を
  交わしたとすると記述と整合する。
K 小石原川が筑後川と合流する付近には、多重環濠が残る平塚川添遺跡が見つかっている。
  この付近は地下水位が浅く、天の安の河での対峙後、誓約のため天眞名井の3か所を
  掘ったと記す日本書紀の記述とも一致する。
L 三角域中央を佐田川が流れている。上流の鳥屋山付近には佐田村があり、
  本名・佐田彦とされる猿田彦神の出身地と比定した。高天原を出発した天孫降臨の
  先遣隊が、猿田彦神に遭遇した八街は日田とする説があり、遭遇後のやり取りや
  天孫降臨参加の記紀記述状況が一致する。
M ニニギは天孫降臨の際、高千穂町のくし触神社(くしふるじんじゃ)の裏手で、
  高天原遥拝を行っている。遥拝した向きを碑の石積方角で計測したところ、
  三角域Tの底辺部に向いていた。画像1は遥拝所風景。

35ホワイトケープ2018/09/06(木) 20:27:07.32
定義8 魏志倭人伝の行程方角基準は、当時の倭人が使用した基準で、マイナス28度
    偏向していた。

図12 クニの配置の偶然      http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu12.jpg
図13 大山津見神の日本列島の認識 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu13.jpg
図14 魏使行程の方角記述の検証  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu14.jpg

ここでは魏志倭人伝の方角・行程などから、卑弥呼が住んだ倭国の都(三角域T)の根拠を求める。

【方角偏向の根拠】
 この偏向角度は夏至の日の出方角を東としたときの、南北線に相当し当時の倭人が、使用した基準である。
@ 図12はマイナス28度偏向した南北線で、魏志倭人伝に登場するクニを結んでいる。
  この配置は偶然と思われるが一部意図的なものがある。
A 西側の第1南北線は、狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末櫨国が高千穂峰までの直線で結ばれる。
  ニニギは高千穂峰で「此地は韓国に向ひ、・・・」と詔し、この高千穂峰が特別な日の、
  特別な方角にある山と認識していた。
B 東側の第2南北線は不弥国、邪馬台国、狗奴国、投馬国が、この偏向基準で結ばれる。
  ニニギは投馬国の中心にある都萬神社位置を、特別な日の邪馬台国の南であることを
  認識したうえで選んでいる。
C 第2南北線を北に伸ばすと沖ノ島に結ばれる。天照大御神は、須佐之男命との誓約で
  成った多紀理毘売を、この奇跡の沖ノ島(胸形の奥津宮)に派遣していて、
  この方角基準を知っていた。
D この基準は、大山津見神が国生みの時代に、日本列島の形を日の出方角基準で認識して生まれた。
  図13は日本の大山の分布の一部で、日本の本州の屈曲点が富士山と認識している。
  この富士山より西の海岸線は、夏至の日の出方角に平行だと記録している。
  これを西に延長すると高千穂峰を経て、魏志倭人伝が記述する会稽・東冶に至る。魏志倭人伝は、
  倭人が認識していた日本の形状の情報を得て、会稽・東冶を導き出していた。
E 富士山より東北の背骨を走る直線は、立春の日の出方角を基準とした南北線である。

36ホワイトケープ2018/09/07(金) 08:03:15.15
【魏使上陸後行程における方角の検証】
F 図14は魏使が末櫨国(呼子港)から伊都国(細石神社)〜奴国(春日市岡本)
  〜宇弥国(宇美町)〜邪馬台国(甘木)と進んだとして、マイナス28度
  偏向した基準で魏志倭人伝が述べる方角が合致するか検証した結果である。
  全て比定した地点で合致した。

37ホワイトケープ2018/09/07(金) 10:17:40.31
定義9 魏使行程の里程は、1里=76.5mで記述している。

図15 周碑算経の概念 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu15.jpg
図16 渡海の千余里  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu16.jpg
図17 魏使の呼子港上陸後の経路想定図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu17.jpg

 魏使行程の方角基準を定義したので、距離基準について定義する。長里説と短里説の
論争があるが、ここは短里説に該当する。

【距離基準の導き出し】
 谷本茂が漢書「周碑算経(しゅうひさんけい)」の記述から求めた、千里=76.3〜76.9km(平均76.6km)の数値がある。
 周碑算経は洛陽の南北二千里の間に80寸の3本の棒(周碑)を立て、夏至の正午の影の長さを測定した値を記述している。
 図15に示したように、影の長さ(16,15,17寸)を直角三角形の高さ、周碑の高さ(80寸)を底辺としたタンジェント角を
 求めることができる。太陽光線と北回帰線は平行とおけるので、この角度は図に示した、北回帰線と周碑の位置がつくる
 地球の中心角θと相対角になり一致する。
 地球を円と仮定すれば、この中心角θA、θB、θCから、北回帰線からの、周碑の位置A、B、Cまでのそれぞれの距離を
 求めることができる。求めた距離の差A-B、C-Aの値が千里の距離となる。計算過程は省略し結果を記すと。
 計算結果 A-B間が 76.70 km
      C-A間が 76.35 km  平均  76.5 km
そこで平均値の76.5kmを、千里とした。
 谷本茂の計算との違いは、谷本が極半径Rを6,357kmとしていて、
本説は極周長を40007.88kmと置いたことの違いである。 千里を76.5km、百里を7.65kmとして行程を検証すると、
行程の経路や計測方法が見えてくる。

38ホワイトケープ2018/09/08(土) 16:04:11.77
【距離基準での有力比定地の検証結果】
@ 狗邪韓国〜対馬:図16のように狗邪韓国の比定地、金海の海岸から、対馬の海神神社前の浜までが
  約千里である。ここから浅茅湾内は倭人が案内し小船越を越えた。
A 対馬〜壱岐:小船越〜壱岐の筒城浜までが約千里である。
B 壱岐〜末櫨国:筒城浜〜呼子港に進み上陸し陸行した。呼子港で魏使が下船し、船は唐津湾伝いに
  伊都国に積み荷を運んでいた。伊都国の港までが約千里である。船の方角には変更があったので
  方角を記載をしなかった。
C 末櫨国〜伊都国:魏使は呼子港から陸行し、伊都国の入り口(国境)までが魏志倭人伝が記す
  500里である。
D 伊都国〜奴国:これも、飯場峠越の経路で早良に入り那珂川町を経由するルートである。
  この国境、飯場峠までの100里を記述している。
E 奴国〜不弥国:熊野神社から宇美町中心の宇美八幡宮までの距離で、約100里である。
  CDが国境までの距離だったが、ここでは国の中心間距離となっている。
  これを東行と「行」の一文字を加えて区別している。
F 投馬国:これは伊都国または呼子港から水行10日の行程であった。
G 邪馬台国:「南邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」と「自郡至女王国万二千余里」
  これは呼子上陸後の陸行が一月だった。帯方郡から一万二千余里の記述で、伊都国や
  不弥国までの記述距離を合計し、一万二千余里から差引して邪馬台国までの余里を
  算出するのは、途中の記述が国境までの距離なので合致しない。呼子港までの
  水行10日の一万里を差し引いた、呼子港〜不弥国〜邪馬台国の二千余里(約153km)
  が適合する。
H 図17は、これまでの検証結果から想定した道路地図経路である。距離143km、
  1867里が得られた。古代の道は曲がりくねっていたと思われ、
  距離は二千余里に近づく。地図の邪馬台国の須川は、卑弥呼宮殿があったと
  想定している集落である。

39ホワイトケープ2018/09/09(日) 08:57:21.22
定義10 魏使行程の投馬国へ水行20日は、九州西岸では水行10日の航路である。
図18 投馬国へ水行10の航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu18.jpg
表2 投馬国航路の寄港地     http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy02.jpg

【水行10日の根拠】
@ 図18は対馬から九州西岸を経て鹿児島湾内に続く、長崎鼻を結んだもので
  附番J〜Sまでが水行10日の航路である。
A 帯方郡からが水行20日の航路になる。宮浦宮が終点なのは、日向・大隅・薩摩の
  中心にあり、時の大王が何処にいても向かうのに便利な為と、佐多岬沖の外洋を
  通らない安全な航路を選んだためである。
B 九州西岸の経路も安全な陸沿いや内海を通っている。
C この長崎鼻は寄港の浜に入る目印の岬に名付けたもので、表2のように近くには
  見張りの山が名づけられている。
D 1日の平均漕航距離は54kmであった。
E 長島付近に二つある長崎鼻のうち、東側・黒之瀬戸付近にある長崎鼻は、
  ニニギの天孫降臨を先導した猿田彦が、黒之瀬戸を渡海した時に名付けている。
  この名は猿田彦の長い鼻に由来するかもしれない。
F 投馬国への航路は、ニニギの子・山幸彦が結婚した妃・豊玉媛の父・豊玉彦が
  拓いた航路である。
G 対馬の浅茅湾には旧豊玉町があり豊玉彦が魏使を迎えたところである。
  魏志は大官を卑狗(彦)と記している。

40日本@名無史さん2018/09/09(日) 14:09:56.79
>>39
>A 帯方郡からが水行20日の航路になる。宮浦宮が終点なのは、日向・大隅・薩摩の
>  中心にあり、時の大王が何処にいても向かうのに便利な為と、佐多岬沖の外洋を

地理に詳しくないのでお聞きします。
宮浦宮から都万への陸路は整備されているのでしょうか?

41ホワイトケープ2018/09/09(日) 16:56:56.23
>>40
>地理に詳しくないのでお聞きします。
>宮浦宮から都万への陸路は整備されているのでしょうか?

レスありがとうございます。
次の定義11で天孫降臨したニニギが薩摩半島と大隅半島を巡った経路を、紹介したいと
考えていました。高千穂峰を逆「の」字型に巡った遠征です。 

http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg

大隅半島では、ニニギの遠征隊は福山町の狐ケ丘から惣陣が丘に進んでいます。当時の道の状況は
ひどいものだったと思いますが、福山町の牧之原交差点付近から、鹿児島湾に下る道があり、
その出口に宮浦宮があることから、当時からこの道があったか新たに拓いて、出口に宮浦宮を
設けたと考えます。

ニニギがこの遠征で曽於の山中で難儀したことは、丘と岡の山の名付けで見えてきますが、航路が
出来たころには、道はかなり開けたと思います。

42日本@名無史さん2018/09/09(日) 17:26:11.73
個人的には、ニニギの王都はあくまでも伊都なので、山幸の彦火火出見に負けた海幸が都万に都落ちしたルートなのかもしれないと考えています。

43ホワイトケープ2018/09/09(日) 18:31:23.64
>>42

いろいろな考えがあって良いと考えていますので、討論はしません。
意見だけ申し述べると、南九州にはニニギ、山幸彦、海幸彦、神武などの伝承がたくさん残っていますので、これを無視して海幸彦逃避の経路と立証するのは大変困難と考えます。
伊都の細石神社は木花之佐久夜姫が祀られているので、伊都はニニギと関係が深いと考えています。
ニニギ、山幸彦、神武たちは、この航路や陸路で、頻繁に南九州と伊都国を往来していたと思われます。
それが、北部九州に残る「くんち」の神幸祭として残ったと思います。くんちは別名、お上り、お下りとも呼ばれ頻繁に行われたことが想像できます。
伊都国にあった一大卒の役で諸国を検察したものと考えます。

参考にしてください。

44日本@名無史さん2018/09/09(日) 18:42:02.77
伊都の高祖宮(おそらく高千穂宮)の祭神が山幸こと彦火火出見です。
ニニギの王権を継承したなら、彦火火出見が伊都に残ったはずです。
宋史では、彦火火出見も彦渚も筑紫の日向宮にいたと書いてあります。

45ホワイトケープ2018/09/09(日) 19:51:46.76
定義11 天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。

図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg
図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg

【天孫降臨7年の根拠】
@ 図19は南九州に集中して見つかる〇〇丘という山と、〇〇岡という山に番号を付けて、結んだものである。
A 朝倉の高天原を出発したニニギは、阿蘇を越え高千穂町の国見ケ丘(図にないが附番1)で新しい国の国見を行った後、西都に向かい宮をおいた。
B 宮崎平野の灌漑稲作の目途が立つと、薩摩・大隅へ遠征をおこなった。
C 図19の21,22,23を結んだ直線を点線のように延長すると、高千穂峰横の虎ケ尾岡を経て39,40,41がつくる矢印で西都方向を指し示している。
D これはニニギが詔した、「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて・・・甚吉き地」の内容を大地に記録したものである。
E 附番2から始まる遠征は高千穂峰を周回する、逆「の」の字形に薩摩半島、大隅半島を経て八代海の獅子島にある黒崎丘で終わっている。
F 図19では丘と岡の区別を表示していないが、図20に示すよう「丘―岡―丘」というように丘と丘の間に岡を記録しその間が1年を有したと有年ケ岡で記録している。この遠征に7年をかけていた。
G 丘の中の一つ宇都丘の「宇都」と同名の宇都地名が、南九州に多く見つかり訪ね巡ると、灌漑稲作の水を得る川の最上流の田んぼがある集落と判明した。これは灌漑稲作普及のために水利権を取得するためであった。
H 高千穂峰にまず登ったのも、一帯の水利権確保の意味があったかも知れない。高千穂の名そのものが稲作である。灌漑稲作を普及させる投馬国の建国であった。
I 神武東征時に迂回した北九州で「岡水門」「岡田宮」と岡がつく地名を残したのは、天孫降臨に由来する。山に岡の名を名付けなかったのは天孫降臨と混同するからだった。
J ニニギが行った山への、丘(岡)という名の記録は、神武東征や日本武尊東征へと引き継がれ、さまざまに工夫した同名同種の山で、日本の古代を記録していた。

46ホワイトケープ2018/09/10(月) 08:38:36.06
定義12 弥生終末期、九州には北部に倭国、中部に倭国に囲まれた狗奴国、景行天皇名付けの碩田国、九州南部に投馬国があった。

図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg

【倭国と投馬国領域の比定根拠】
図21は九州にある宇都・宇土・鵜戸地名の分布である。この分布から倭国・投馬国の領域を比定する。

@ 投馬国は南九州の日向、大隅半島、薩摩半島、種子島、屋久島、長島、甑島を含む領域である。日向地域と天孫降臨した地域の大隅・薩摩は、鵜戸と宇都で区別している。

A 九州島内の倭国は、星印の地域と、五島列島が含まれる。星印を結んだように熊本平野の狗奴国は倭国領域に囲まれていた。

B 九州北西部で盛んにおこなわれている神幸祭「くんち」は、熊本平野と投馬国の九州南部にはない。


C 投馬国のニニギ命、日子穂穂手見命(山幸彦)、ウガヤフキアエズ命は、魏志倭人伝が記す一大率で、星印を結んだような経路で諸国を検察していた。

D そのことが神幸祭「くんち」として残った。「くんち」は別名「おのぼり」「おくだり」と呼ばれていて、頻繁に倭国と投馬国を行き来している。


E 投馬国内は自国領内なので検察の必要がなかった。投馬国内の神幸祭は、天孫降臨のことを呼んだ「浜下り」の名で今も残る。

F 人吉は「くんち」が残ることから、投馬国でなく倭国の領域である。


G 景行天皇が筑紫に下った時、土蜘蛛と戦った大分の古い呼び名、碩田国(おおきたのくに)は、女王国に属していなかった。狗奴国と戦った高城山隊と、日向を出発した神武隊は合同で碩田国と戦った。

H 「うと」は伊都国の有力比定地、糸島市日向峠の麓にある「宇土」が元となった「うと」である。

47日本@名無史さん2018/09/10(月) 14:58:49.24
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

48ホワイトケープ2018/09/10(月) 18:45:52.45
定義13 海神・豊玉彦は投馬国へのみならず、西日本各地へ航路を拓いていた。

図22 西日本の古代の航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu22.jpg
図23 古代の琉球列島航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu23.jpg

 図22は豊玉彦が、西日本に拓いた航路である。
 赤三角印は寄港地に入る目印の長崎鼻である。寄港の浜には白浜や、豊玉彦由来の豊浜や玉ノ浦などの名が当てられている。
 
【図から読み取れた航路】
@ 伊都国から最長の航路は、下関海峡を越え、四国西岸、四国沖、熊野沖、東海沖、房総沖を経る銚子に至る航路である。寄港地約28が見つかる。魏志倭人伝が記す航路で船行一年は、寄港地の数から船行一月の誤りである。

A 侏儒国は、遠賀川河口の白浜発〜(1)下関海峡を渡った先の豊浦〜(2)国東半島の長崎鼻付近〜(3)佐田岬半島の長崎鼻付近〜(4)宇和島の白浜の4航海、約230kmと想定する。

B 白浜山が小豆島、笠戸島、萩市の山中に見つかる。小豆島の白浜山を基点に指し示す銚子を黒歯国、鳥羽の菅島付近を裸国と比定した。

C 女王国に属しない、大分の碩田国(おおきたこく)を迂回する、宇和島から日向への航路があった。

D 瀬戸内海航路は姫路の白浜に至る。ここから日本最低高度の分水嶺を越える加古川・由良川を経由し、火明命が住む舞鶴の志楽への海路・陸路が拓かれていた。

E 舞鶴の志楽から日本海の航路が能登半島では陸路横断し、糸魚川から青木湖畔の白浜を経て安曇野にいたる海路・陸路の道が拓かれていた。


F 内陸横断の陸路があった。渥美半島の白浜〜吉良の白浜〜豊田市の白浜で矢作川を渡る〜津島市の白浜付近から木曽川など3川を渡る〜稲部市の竜ケ岳付近を越える〜近江の稲部遺跡を経る〜琵琶湖を渡り、高島市の白浜〜小浜へ山越え〜志楽と至る。

G その他、五島列島への航路、大村湾内の航路、琉球列島の航路があった。琉球列島航路は最西端の西表島の白浜に続く。図23は想定した航路図。

49ホワイトケープ2018/09/11(火) 07:51:47.42
定義14 海神・豊玉彦は国生みを記録していた。

図24 西日本の龍(竜)王山の分布  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu24.jpg
図25 近畿の弥生遺跡と龍(竜)王山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu25.JPG
図26 近畿の弥生遺跡と龍(竜)王山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu26.jpg

連合東遷のまえ、弥生後期、伊邪那岐と伊邪那美は国生みという名の開拓を、四国・近畿・吉備周辺で行っていた。これを後に豊玉彦は龍(竜)王山の名付けで記録していた。
 図24は国生みがあった四国・近畿・吉備に集中分布する龍(竜)王山である。
 龍王とは竜宮城の主とされる海神・豊玉彦の事で、自分から龍王を名乗ることは無いので、ニニギか高天原が豊玉彦に、現地を訪ね国生みを記録させたと考えた。

50日本@名無史さん2018/09/11(火) 09:18:01.28
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

51ホワイトケープ2018/09/11(火) 19:24:21.43
>49 につづく

【龍(竜)王山分布から見える近畿の弥生】
@ 伊邪那美命が亡くなるまでは、二人は主に四国を拠点に活動し、そこで天照大御神など三貴子が誕生した。その間、近畿の弥生集落を巡り陣頭指揮にあたっていた。

A 図25は近畿の弥生集落の近くに見つかる龍(竜)王山である。
B 伊邪那美命は熊野の産田川沿いの開拓の最中、火の事故により亡くなった。
この時、伊邪那岐命は西摂の猪名川上流にいた。それぞれに竜宮山を置き、二人の所在地を記録していた。

C 伊邪那岐命は悲しみを乗り越え、四国を離れ吉備の開拓を行った。吉備に竜王山が多いは、その規模が大きいものだったと見える。
D 天照大御神(卑弥呼)はこの開拓の中で成長した。
「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子の知らす国ぞ」と述べた強い統治意欲はこの経験からと推測する。

E 国生みの後、須佐之男命が向かった出雲には龍(竜)王山が無い。
F 播磨、吉備西部・山口東部にも龍王山が無いのは、ここが国生みの空白地であった。播磨風土記で、後に大国主命や天日槍が登場することと符合する。

G 図26は四国の龍(竜)王山で阿波に多く見つかる。
H 熊野で亡くなった伊邪那美命は、阿波に運ばれて吉野川市の高越山に葬られた。那賀町にあるI竜王山はウジがわく伊邪那美の姿に衝撃を受け逃避した道、高越山から阿南に至る尾根道の里に出たところにある。

I 奈良盆地の弥生遺跡・唐子鍵遺跡の東には龍王山があり、伊邪那岐命はここにやってきたと思われる。

52日本@名無史さん2018/09/11(火) 23:28:36.30
豊玉彦とは、もちろん豊国を治める王である。
豊国は志賀島から東、宇佐から西の、九州北部のことである。
竜宮城のモデルの1つは、関門海峡の断崖に張り付くように建てられた穴門豊浦宮である。

53日本@名無史さん2018/09/11(火) 23:34:02.89
その起源は博多湾に浮かぶ志賀島にあり、ここに海神を祭る綿津見神社の総社である志賀海神神社がある。
天孫族が博多湾沿岸に侵入して伊都の都を建設することにより東の小倉方面に追いやられたが、豊玉姫などを輿入れさせることによる外戚として倭国の王家の一員であり続けた。

54日本@名無史さん2018/09/11(火) 23:41:29.22
そもそも天孫族も海神も大山祇も、みなイザナギイザナミ夫婦の末裔である。
イザナギイザナミは、天沼矛で博多湾の小島である能古島(おのころ島)に最初の領土を獲得した国生み神話を持つ。
博多湾沿岸は、考古学的には銅鏡銅矛文化の中心地である。
ちなみに畿内は銅鐸文化、瀬戸内は銅剣文化である。
後に西日本も東日本も、福岡の銅鏡銅矛文化に塗りつぶされてしまう。
同時に、国生み神話の舞台も西日本全体に再配置される。
しかし、銅鏡銅矛文化の分布を見れば、倭国の中心が博多湾沿岸であったことは疑いようがない。

55ケープホワイト2018/09/12(水) 07:58:06.12
定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。

図27 神武東征の経路比定図  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu27.JPG
図28 高尾山に記録した経路  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg
図29 六甲にある「たかお山」 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu29.JPG

 図27は「高(鷹)山」のベクトル図に、主な高尾山を追記して、その位置をつなぎ連合東遷隊の経路を比定した図である。
 図28は九州から続く高尾山の足跡を抜き出した図である。

【神武隊の経路】
 図27、図28から見えてきた神武隊の経路を見てみる。
@ 記紀が記す神武隊は、瀬戸内海を船で進んでいるが、山陽道を進む陸上隊と連携しながら並行して進んでいた。それを遠賀郡水巻町に始まる、山陽道の高尾山の直列で記録していた。

A 山口市の高尾山付近は、日向や筑紫平野の人々が周防灘を渡って、東征隊に参加した集合地点となっていた。港の入り口に藤尾山を残した。
B 日本書記は安芸国の埃宮(えのみや)に着いたことを記している。その比定地、広島県府中町に残る多家神社埃宮付近に高尾山を残している。

C 吉備では戦いの準備を整えるため、しばらく留まったことを記している。これを赤穂に雄雌の雄を用いた高雄山を名付け、吉備の区切りとしている。また近くの播磨に入る峠に高取峠と名付けている。


D 図29は六甲山塊にある五つの高尾山・高雄山・鷹尾山である。中心にある高雄山は西からやってきた船隊と陸上隊の合流と区切りを記録している。その内の一隊は芦屋の鷹尾山に向かった。又一隊は丹波に遠征した記録と思われる。

E 鷹尾山が特別な名になっているのは、高城隊や高塚隊、丹波に向った隊が全員、生駒越えの決戦に向けて集合した場所の名づけである。
F 孔舎衛の戦いに敗れたあと、和歌山から熊野に迂回したことを記録している。

G 田辺の高尾山から先、中辺路を進んだ陸上隊と、海上を進んだ隊があったことを分岐の高尾山で記録している。
H 熊野山中を越え、宇陀に出た記紀の記録を、高尾山で記録している。
I 東遷の最後を井手町の高雄山と、宇治上神社付近の槙ノ尾山で記録している。

56日本@名無史さん2018/09/12(水) 09:17:29.25
>>55
>定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。

神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。

「西山谷2号墳」 http://awakouko.info/uploads/webphoto/photos/y00178y4da2b05f09c57.pdf#search=%27%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E4%BA%8C%E5%8F%B7%E5%A2%B3%27

神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

57ホワイトケープ2018/09/12(水) 11:11:34.58
>>56

レスありがとうございます。
東征に関しいろいろな説があることは承知しています。
討論すると果てなく続くので行いません。

阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。
出雲の神や、イザナギ・イザナミに関する多くの神が登場します。
国生みの地なので、後の神々などもそのことを知っていてイザナミを
弔うために訪ねていると思います。

58日本@名無史さん2018/09/12(水) 12:11:17.51
>>57
>東征に関しいろいろな説があることは承知しています。

そうですね、確定はできていません。 あとは、地理・古神社・古地名等による状況証拠の積み上げでしょう。


>阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。

実は、吉野川だけではなく、鮎喰川・勝浦川・那賀川・海部川等、徳島県下の河川全般に古社が存在しています。
吉野川だけでは、記紀を説明しきれません。  @阿波

59ホワイトケープ2018/09/12(水) 13:02:46.43
>>58

@阿波さんは、阿波への思い入れが強いようです。
私も阿波への思いが強いです。
何度も訪ねていますが、この春は著書の表紙のため、阿波市の瀬詰大橋付近からの
高越山を撮影に行きました。
伊邪那美といったら、高越山の神陵でしょう。
高越山の山頂に行ったときは、今も山伏のようなお坊さんが、神陵をお守りしているようで
感動しました。
伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。

60日本@名無史さん2018/09/12(水) 13:33:32.14
>>59
>私も阿波への思いが強いです。

それにしては、>>1で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。


>阿波市の瀬詰大橋付近からの 高越山を撮影に行きました。

シャープでいいアングルですね。 でも私はもうちょっと西からのどっしり感が好きです。


>伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。

その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。  @阿波

61ホワイトケープ2018/09/12(水) 14:26:18.35
>>60

>それにしては、>>1で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。

>>1 は神武・倭の連合東遷説です。
伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。阿波時代は東征の前の時代の出来事なので、直接登場していません。

>その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。  @阿波
奇妙というより、伊邪那岐の逃避の出来事由来と考えています。
阿南に橘や青木も見つかります。小戸神社もありますネ。
ようやく逃げおうせた伊邪那岐が体を清めたくなるのは自然なことです。
国に戻って博多湾でもう一度、禊することも自然な行いと考えます。


忌部氏の直系にあたる、三木信夫さんの家を訪ねたことがあります。
その屋敷の裏が断崖絶壁で、高越山から伊邪那岐が逃避した尾根道が見える場所でした。
三木さんの先祖は、この逃避の尾根道を語り遺すため、この断崖の上に住むことに
したと考えて一人で感動した思い出があります。
三木さんにこのことをお話しすると、うすうすは思っていたようで、若いときにその
尾根道を登ったことがあり、見えるほど急な道ではないと話されていました。

62日本@名無史さん2018/09/12(水) 14:57:38.01
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

63ホワイトケープ2018/09/12(水) 16:39:40.73
定義16 高城山を残した部隊は、四国、山陰、丹波に遠征した部隊だった。

図30 高城山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu30.jpg
画像2 宇陀にある高城山  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga02.JPG

図30は、九州を離れた高城山の部隊が、経路に残した高城山を結んでいる。九州を出発するにあたり、狗奴国と決着の戦いを行った高城隊は、最強の部隊と思われる。高城山に記録したその足跡をたどってみる。

【高城隊の経路】
@ 浜田市三隅町にある高城山から始まる足跡である。広島を経て四国の剣山近くに次の足跡がみつかる。四国西部も遠征し物部川を遡り、峠を越えて那賀町に進んだと思われる。峠には赤城尾山がある。

A 次は倉吉市の高城山に続いているが、伊邪那美命が葬られた高越山を指し挟んでいた。この連合東遷は伊邪那美命の国生みに始まる、建国の過程と認識していたかも知れない。一つひとつの高城山は、いろいろな意味を込めた名づけであることが分かる。

B 倉吉市の高城山近くには、多くの殺された骨が見つかった青谷上寺地遺跡や、焼けた当時の住居跡が見つかった秋里遺跡がある。両遺跡で破鏡が見つかっていて、激しい戦闘の中で紛失したものと考える。青谷町の南には木尾山を残している。

C 高城山の足跡も、高尾山の足跡と同じく、孔舎衛坂の戦いに負けて、和歌山に向かったことを記録している。
吉野川を遡って宇陀に進んだようにも見えるが、天川村山中に高城山と共に天狗倉山があり、本隊と別ルートで熊野を越えたかも知れない。

D 古事記では、宇陀の血原の戦いの記述に高城が登場する。
「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず」
血原の地名は2ヵ所残るが、その中の宇陀市室生区田口元上田口付近に高城山が見つかる。画像2が宇陀の高城山。

64日本@名無史さん2018/09/12(水) 17:21:37.82
>>61
>伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。

「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか?
國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。  @阿波  

65日本@名無史さん2018/09/12(水) 17:47:14.61
剣山でたくさん見つかった弥生人のミイラはどこ行ったんだろう

66ホワイトケープ2018/09/12(水) 19:10:48.64
>>64
>「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか?
國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。  @阿波

私が記紀を研究した結果の「国生みの概要(1,2,3)を挙げます。
@阿波さんの考えと全く違いますので、議論はしません。
質問であれば、補足説明します。

国生みの概略(1)
1、神々は、伊邪那岐命と伊邪那美命に、「この漂へる国を修め理り固め成せ。」と詔して、二人を天の浮橋から出発させた。この記紀の記述が、日本の歴史の記録の始まりである。
2、伊邪那岐と伊邪那美の名は、魏志倭人伝に登場する五つのクニ名から、一文字ずつ採った名である。
3、伊邪那美・岐の文字順は、当時のクニの格順になっていて、古事記が記す「別天つ神五柱」の記載順と対応している。
4、「別天つ五柱」は、魏志倭人伝が記す倭国乱を、収束させる話し合いのメンバーだった。
5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。
6、 話し合いは志賀島の志賀海神社で行われたと、推測した。
9、博多湾の小呂島と能古島で指し示す室見川河口が、二人の船の出発地と考えた。
10、伊邪那岐命は瀬戸内海を進み、伊邪那美命は四国の太平洋岸沿いに進み、二人は淡路島東岸にある沼島付近で再会したと考えた。
11、沼島にある上立神岩が、二人の結婚の場「天の御柱」と比定した。
12、始めて生んだ州とする淡島は、徳島平野の吉野川中流にある、日本最大の中の島、現在の善入寺島と考えた。
13、開拓に失敗した二人は、高天原の神々にアドバイスを受けに戻った。

67ホワイトケープ2018/09/12(水) 19:12:27.77
国生みの概略(2)
14、次に取り組んだのは、淡路島の諭鶴羽川流域だったが、雨が少なく、ここも不満足な結果となった。
15、 淡路島北部で発見された、鍛冶工房跡の五斗長垣内遺跡は、二人がやってくる以前から、東進してきた周辺地域の人たちに、鉄農具などを供給するために築かれたものと考えた。
16、瀬戸内海東部に多く見つかる、高地性集落は倭国からやってくる船を迎えるために、待ち受けた場所と考えた。
17、近畿の大きな弥生遺跡付近には、龍(竜)王山が見つかり、これは後の龍王こと豊玉彦命が、国生みの跡地にやってきて国生みの事績を記録したものと考えた。
18、銅鐸は神武東征時、豊受大神が鏡を鋳造するため、邑々から拠出させたときに、邑人が隠匿したものと推測した。
19、淡路島の開拓の次に取り組んだのは、伊与二名州である。伊予は伊都国の将来を託した意味で、二名とは二人のことと考えた。「愛媛」は伊邪那美命の当時の愛称と推測した。
20、瀬戸内海東部に多く残る、加茂・賀茂の地名は、福岡平野の戦乱を逃れ人々が、東方に移動した痕跡と考えた。
21、二人は次に善通寺市付近の開拓を経て、先に失敗した吉野川流域の開拓に戻ってきた。
22、神生みは国生みが終わってからのできごとでなく、国生みという名の開拓の中で活躍した人への、尊称を与えたできごとと考える。
23、建築の神々、自然にまつわる神々、河口の神・山の神などは、このことで、技術や知識の次の世代への伝播が図られたと推測した。
24、伊邪那美命の死の事故があったのは、熊野の「花の窟」付近で、また伊邪那岐命は猪名川上流にいたことが、二つの竜宮山で記録されていた。
25、事故にあった伊邪那美命を、急ぎ徳島の吉野川上流の宮まで運ぶことになり、その様子が熊野速玉大社の御船祭として残されていることが分かった。
26、熊野諸手船に稚児像が乗せられることから、須佐之男命が伊邪那美命の事故に遭遇していたと推測した。

68ホワイトケープ2018/09/12(水) 19:14:04.00
国生みの概略(3)
27、伊邪那美命の死の知らせを受け、伊邪那岐命は戻ってくると、迦具土神を斬ってしまうが、その血が流れ走りついた先は、伊邪那美命の殯の場所だった。
28、吉野川市山川町の天神社が、殯の行われた場所と推定した。その付近一帯に、殯を記録したと思われる地名が残されていた。
29、伊邪那美命の遺体は、近くの高越山に葬られたと推測した。
30、伊邪那岐命は伊邪那美命との最後の別れに、高越山に登るが、遺体の変化に驚き、自分がいつまでも妻を慕う弱虫だったことを悟り、強く生きることを決意した。
31、殯の地に戻れば弱虫に戻ると考え、反対の阿南に向けて尾根伝いに降りた。
32、木屋平に残る忌部氏直系の屋敷は、伊邪那岐命が降りた尾根道の反対の崖上にあり、この尾根を記録しようとした場所と考えた。
33、泣沢女に追われながら降りた逃避の道には、記紀が記す出来事に由来すると思われる、地名が残ることが分かった。
34、伊邪那岐命が禊した場所として記される、「橘の小門の阿波岐原」の橘や青木が阿南市にあり、禊の伝承があることが分かった。
35、禊の際に成ったとされる、天照大御神など三貴子は殯の里から阿南に呼び寄せられた、再会の場面と考えた。
36、伊邪那岐命は弱虫をはねのけ、次の開拓地吉備に進んだ。そこで伊邪那美命の陵の地を探した。
37、日本書記が記す、伊邪那美命を葬ったと記す比婆山は2ケ所あり、中国山地の比婆山は竜王山や井原市の高越山で、山川町の高越山と結ばれていた。
38、 吉備の開拓にめどをつけると、倭国に戻ることとした。
39、室見川河口の小戸神宮前の浜で禊した後、三貴子を紹介しそれぞれの今後の役割を示した。

69日本@名無史さん2018/09/12(水) 19:31:17.06
>>66
>質問であれば、補足説明します。

質問
>5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。

まず、「伊都国」とはどこですか?  @阿波

70ホワイトケープ2018/09/12(水) 19:43:35.91
>>69
>まず、「伊都国」とはどこですか?  @阿波

伊都国は有力比定地とされている、現在の糸島市と福岡市の西区を合わせた領域と考えています。

71日本@名無史さん2018/09/12(水) 19:51:06.48
>>70
質問
「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか?  @阿波

72ホワイトケープ2018/09/12(水) 20:06:10.51
>>71
>質問
「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか?  @阿波

当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。

73日本@名無史さん2018/09/12(水) 20:17:48.32
>>72
>当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。

質問
別に喧嘩をするつもりはありませんが
伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか?  @阿波

74ホワイトケープ2018/09/12(水) 20:36:44.20
>>73
>質問
別に喧嘩をするつもりはありませんが
伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか?  @阿波

伊邪那岐が伊都国の出自であることが判明すれば十分で、住んだ集落を特定する必要はないでしょう。
伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で
あることは前に述べたとおりです。
この伊都国の代表が「天之御中主神」なので、伊都国は海人(天)族の国であることが分かります。
先の比定領域には天神社が最も多く集中していて、天族の領域であることは、
石井好の研究「伊都国日向の宮」で述べていて支持できる内容です。

75日本@名無史さん2018/09/12(水) 20:46:09.49
>>74
>伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で
>あることは前に述べたとおりです。

質問
伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では?  @阿波

76ホワイトケープ2018/09/12(水) 21:02:02.77
>>74
>質問
伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では?  @阿波

次のように「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から
1文字づつ採った名前なので、伊のみが四国の伊予から来たものではありません。

伊 伊都国      
邪 邪馬台国
那 奴(那)国
美 不彌(宇美)国
岐 壱岐国

当時の倭国乱を収束させるために、「別天つ神五柱」が話し合って二人に
与えた名前と考えています。

77日本@名無史さん2018/09/12(水) 21:14:57.37
>>76
>「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から
>1文字づつ採った名前なので

質問
「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。
「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか?  @阿波

78ホワイトケープ2018/09/12(水) 21:46:34.77
>>77
>質問
「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。
「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか?  @阿波

魏志倭人伝は、卑弥呼(天照大御神)が年老いた239、248年頃、倭国に来た時点の
記述なので、卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では
ありません。わずかに伊都国には「世有王」と記すのが、伊邪那岐の痕跡でしょう。

本日は、もう寝ます。質問が出た場合は明日の回答になります。
いろいろ質問していただき、これを読んでくれている他の人に、参考になってくれている
かもしれません。
ありがとうございます。

79日本@名無史さん2018/09/12(水) 21:57:48.97
>>78
>卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では
>ありません。

質問
「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。
「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか?
記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では?  @阿波

80日本@名無史さん2018/09/12(水) 22:52:28.03
お話しぶった切りごめん
狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ?
まあ御歓談あれ?

81日本@名無史さん2018/09/12(水) 22:56:51.46
幕末期のが熱いぜよ(歴史ひすとりあ

82日本@名無史さん2018/09/13(木) 07:24:07.40
>>80
>狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ?

狗奴国の国力・財力を考えると、狗奴国は権力の元となる鉱物資源・海洋資源を持つ長国以外に無い。  @阿波

83ホワイトケープ2018/09/13(木) 08:16:20.69
>>79
>質問
「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。
「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか?
記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では?  @阿波>

おはようございます。
>>76 で述べたように当時の倭国乱を収束させる神々の話し合いで、この名が生まれたと考えています。倭国乱は北部九州の土地争いと思われ、格順1位の伊都国が北部九州以外の国から1国のみ参加することは考えられません。
伊予の伊は伊都国に由来し、伊都国の将来を伊邪那岐・伊邪那美に預けた意味、または伊都国の地を広めた意味が予に込められていると考えています。

84日本@名無史さん2018/09/13(木) 08:32:50.11
>>83
>伊予の伊は伊都国に由来し、

なんども書いていますが「伊都国」は記紀には登場しません。
だから、「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。
あなたは記紀と倭人伝をごちゃまぜに考えています。
記紀は倭人が書いた書物。
倭人伝は中国人が書いた書物。
「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。  @阿波

85ホワイトケープ2018/09/13(木) 09:04:33.10
>>84

議論するつもりはありません。
伊邪那美・伊邪那岐の名前は古事記に登場します。
そして、その名前の文字が魏志倭人伝に登場するクニ名とつながったのです。
古事記と魏志倭人伝がリンクしたのです。
新井白石も本居宣長も古事記研究の中で発見できなかった事柄です。

この発見で、邪馬台国が実在した国であることが立証されました。

人の考えは修正できません。自分が納得した時変えられるだけです。
伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは
以上の通りで修正するつもりもありません。

86ホワイトケープ2018/09/13(木) 09:10:07.39
定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。

図31 高塚山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu31.jpg
図32 出雲の高塚山     http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg

豊受大神の薩摩下りを警護した後の、高塚隊が残した高塚山の足跡をたどってみる。 
図31、は九州を離れた高塚山の部隊が、経路に残した高塚山を結んでいる。

【高塚隊の経路】
@ 高塚隊は豊受大神を警護しながら、大神の生まれ里の安来までやってきたと思われる。出雲から戦隊に加わった足跡である。
A 安来付近の短い足跡は、別な意味を含ませている。図32はその考えられる意味を地図に表した。
・出雲の造山古墳は古墳時代前期のもので、東遷後この高塚山の意味を知る人がここに戻り墓の位置としたと思われる。
・二つの高塚山が指し示したものであれば、松江にある和久羅山が該当する。この山は豊受大神が和久産巣日神の須佐之男命を想う心を残した山である。
島根半島の和久王島との対で、須佐之男命の陵・黒山を指し示している。
・二つの山で指し挟んだとすれば、豊受大神の生まれ里、宇賀荘である。
B 図31の点線で示したように、高城山でもあった伊邪那美命の墓標・高越山への指し示しがある。
C 潮岬にある高塚は灯台近くの、原始林の中に残る太陽祭祀跡である。高塚隊が残したもので、この位置が東遷先・橿原の南に位置していて意味があったと考える。
D 最終の高塚山は宇治を越えて、伏見の稲荷山付近にある。豊受大神を意識した位置である。最終の高塚山と一つ手前の高塚山は14kmしか離れていない。
E この二つで指し残したものがあるとすれば、纏向の天照御魂神社と考える。豊受大神が天照大御神の御魂をお連れして来て、新しい高天原をお見せしたところである。

87日本@名無史さん2018/09/13(木) 09:21:12.43
>>85
>伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは
>以上の通りで修正するつもりもありません。

倭国(阿波)に来たりして興味がある割に、本当の倭国(阿波)を知らない。 失望しました。  @阿波  

88日本@名無史さん2018/09/13(木) 09:23:08.16
>>85

↓これが君のご先祖様の地だ。 こんなところは他所には無いから、誇りに思いなさい。  @阿波
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf

89ホワイトケープ2018/09/13(木) 10:33:41.28
定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。

図33 高倉山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu33.jpg
図34 慰霊の足跡      http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu34.JPG
画像3 伏見稲荷の上社神蹟 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga03.JPG

図33は、豊受大神が東遷隊を追った経路に残した高倉山を結んでいる。

【豊受大神の経路】
@ 山口市付近に上陸し山陰に進んだように見える。
A いきなり山陽に戻ったのでなく、点線のように生まれ里の安来に寄ったと推測する。稲荷山が島根半島の和久王島付近から始まっている。

B 吉備付近に高倉山と稲荷山が多く見つかる。
東征隊は吉備で戦いの準備を進めたとあるので、豊受大神もしばらく留まったと思われる。戦のあった河内を避けて、淡路島に迂回した経路である。

C 図34のように淡路島の高倉山と、泉南と和歌山にある高倉山を結ぶと、それぞれ男神社と竈山を指し挟んでいる
孔舎衛坂の戦いで亡くなった五瀬命を慰霊する足跡である。

D 熊野で神武が萎えていたとき天照大御神の名の下、高倉下を使わして神剣・布都御魂を届け励ました。

E 東征隊が熊野山中で進退極まった時、八咫烏を派遣し熊野越えを成功させた。
F 宇陀の高倉山では、高倉下の案内で神武と再会し、神武を大王に推戴し東遷後の国造りを託した。

G 神武の橿原での即位には立ち会わなかった。
投馬国の勢力と北部倭国の勢力で争いになることを避け、摂津から丹後に身を引いた。

H その途中、橿原宮の真北にある稲荷山で、新しい高天原の安寧を祈り、南に向いて三度の伏拝を行った。下社神蹟・中社神蹟・上社神蹟(画像3)がのこる。

90日本@名無史さん2018/09/13(木) 11:29:06.66
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

91ホワイトケープ2018/09/13(木) 15:59:12.01
定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武は即位した。
 
図35 天皇代数と没年     http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu35.JPG
図36 天皇代数と没年(拡大)  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu36.jpg
図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション
http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG

図35は横軸に天皇の代数を、縦軸に西暦をとり各代天皇の没年を表したものである。神武は第1代なので代数0を即位年と想定した。
問題は没年が不確かで空白とした、20代以下を遡る方法である。これまで平均在位年数を求める方法や、相関曲線を求める方法で推測がされてきた。
いずれも用いるデータ(代数)の範囲で結果は変化することである。 図36は空白部分を拡大した図である。少なくとも代数0と交わる点が、紀元前でないことが分かる。
目算では西暦200〜350年には収まりそうである。日本書記は辛酉の元日に即位した、と記していて先の西暦内では241年と301年が該当する。

92日本@名無史さん2018/09/13(木) 19:22:45.78
日本神道を知るのに欠かせない大麻
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201808160000/

韓国にも日本の王の古墳があります
高句麗は日本人が建てました

93日本@名無史さん2018/09/13(木) 23:21:35.73

94ホワイトケープ2018/09/14(金) 11:59:12.46
【神武即位年の状況的根拠】

@ これまで定義してきたように、東遷は天照大御神(卑弥呼)が亡くなった後に、豊受大神と神武兄弟が行った。
A 卑弥呼が亡くなって男王の争いの後、豊受大神(台与)は13歳で女王となったので、250年ころ13歳であった。この13歳では東征を決断することは不可能である。晋への最後の遣使(265年)を行った、28歳の後なら決断が可能と考えられる。

B 豊受大神は東遷を行うにあたり、ニニギに東遷を行う報告のために薩摩に出向いている。ニニギが天孫降臨した年数が7年と知っていて、この神武・倭国の連合東遷も7年と計画したふしがある。


C 日本書紀では干支でできごとを記しているが、十干を省き十二支で見ると、高千穂宮での話し合いから、寅・卯・辰・巳・午・未・申と7年を掛け、翌年の酉の1月1日に即位している。

D 東征隊は山名に鷹を用いている。また鳥の尾をイメージした〇尾山を名付けてきた。
東征隊は自分たちが「神の遣いの鳥」という認識があったように見え、即位年を酉年と決めていたと思われる。
即位後、鳥見山に高皇産霊尊を祀った。
E 最後の遣使、265年以降の酉年は、277、289、301年が該当する。

F 一方、丹後国風土記逸文の奈具社では、豊受大神が和奈佐という老夫婦に請われて娘となっている。
豊受大神が丹後に身を引いたときは、まだ老夫婦から娘になるよう請われる年代であったことが分かる。

G 上記の酉年での豊受大神の歳は277年(40歳)、289年(52歳)、301年(64歳)となり、東征を追う旅ができる年齢と考え合わせれば、277年の神武即位の可能性が高い。

H 図37は277年神武即位として、登場人物の年齢をシミュレーションしたものである。姉・天照大御神の系譜の神武と弟・須佐之男命の系譜の伊須気余理比売が結婚しているので、年代がつながるか模擬している。
結果、神武をウガヤフキアエズと異母兄弟と比定し、年齢を若く想定すれば277年即位は可能である。

95日本@名無史さん2018/09/14(金) 16:01:05.99
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

96ホワイトケープ2018/09/15(土) 18:54:19.65
定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。


図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg

 図38はこれまで、いろいろな根拠から見えてきた、建国の過程を図に表したものである。

【連合東遷説を要約】
1 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に記す5クニ名から、一文字ずつ採った名であることが分かり、この名づけ方法から倭国乱を収束させる話し合いがあったことが判明した。
2 梁書の「霊帝光和中、倭国乱」の記述から、伊邪那岐・伊邪那美による国生みは光和年間177〜189の189年頃に始まったとした。

3 国生みの中で生まれた天照大御神と、魏志倭人伝が記す卑弥呼は同時代に生きた女性で魏志倭人伝の記録と記紀の記録で共通点が多いことから同一人物と比定した。
4 天照大御神(卑弥呼)は国生みから戻ると、統一倭国の女王に共立され、都を邪馬台国に置いた。

5 天照大御神は孫のニニギを南九州に降らし、都萬国(投馬国)を建国させた。
6 天照大御神(卑弥呼)が亡くなると、須佐之男が建国した出雲国、ニニギが建国した都萬国から、それぞれ後継者が男王として立ったが纏まらず争いとなった。

7 そこで須佐之男命の娘・豊受大神(台与)が共立されて国中は収まった。
8 豊受大神が晋へ最後に遣使した数年後、都萬国の神武兄弟は、高天原に出向き豊受大神に倭国の東遷を建議し、神武・倭国による連合東遷が決まった。

97日本@名無史さん2018/09/15(土) 18:58:00.25
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

98日本@名無史さん2018/09/15(土) 19:00:13.91
頭の病院に行け

99日本@名無史さん2018/09/15(土) 19:01:49.91
あと、お前たちの右翼の大物というのは何なんだ?
家に連れて来いと言っているんだよ

金魚のフンか何かだろ

100ホワイトケープ2018/09/16(日) 09:02:34.82
9 このとき東遷先の地名を現在の都・邪馬台(やまと)からとり、連合の意味を含めた大倭と書く「やまと」とした。
10 北部九州の倭国各地から兵が集められ、一部はこれまで倭国と対立していた熊本平野の狗奴国や、大分の碩田国(おおきたこく)との決着をつけるため南下した。

11 神武も都萬国の兵を集めるなど戦いの準備のため、都萬国に戻って再出発した。
12 北部九州の倭国各地から遅れて集合した兵は、北九州の遠賀川周辺に移動し、東遷のための船を準備しながら、神武や狗奴国・碩田国で戦った隊を待った。

13 豊受大神は東遷の準備を高天原で進めたのち、都萬国に向かいニニギなど国をつくってきた先人に、東遷の報告と加護を祈願した。
14 東遷の部隊は大きくは神武兄弟の4人が率いる4隊であった。

15 北部九州の兵による本体と、南九州兵による神武隊は、山陽道を進み武器や食料の準備、山陰・四国、丹波遠征隊への補充・支援が行われたと思われる。
16 戦いの中心部隊は高城隊で、狗奴国・碩田国と戦って、海を渡り山陰に進んだ後、四国に渡り土佐から物部川を遡り阿波に進んだ。その後、鳥取、丹波へと転戦した。

17 総力を挙げて、生駒越えで奈良に入るべく、転戦の部隊は芦屋周辺に集合した。
18 春、浪速の渡りを行い一旦、竜田に向かったが道狭く孔舎衛坂での生駒越えを決行した。しかし迎えた長髄彦(ながすねひこ)との戦いに敗れた。

101ホワイトケープ2018/09/16(日) 16:51:52.96
 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。


図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg

【連合東遷説を要約3】

19 この時長兄の五瀬命は、流れ矢が肘にあたり倒れ、和歌山の竈山に葬られた。
20 東征隊は熊野に回り宇陀から奈良に入ることにしたが、熊野では嵐に遭遇し稲氷命、御毛沼命が亡くなった。

21 東征隊を追った豊受大神は、戦いが有った河内を避け淡路島に迂回し、和歌山に向かった。
22 豊受大神は五瀬命を竈山に慰霊し、熊野で苦戦する神武には神剣・布都御魂を届け励まし、熊野越えで進退極まった時は八咫烏を派遣した。

23 豊受大神と神武は宇陀の高倉山で再会し、このとき豊受大神は神武に東遷後の国造りを託した。
24 豊受大神は、お連れした天照大御神の御魂と共に橿原にはいり、新しい高天原をお見せし、加護を願った先人に報告と感謝を行った。天照御魂神社が残る。

25 その後、豊受大神は南九州出身の兵と北部九州出身の兵で、勢力争いが起きないよう摂津を経て丹波に身を引いた。
26 途中、伏見の稲荷山山頂の三峰から新しい国の安寧を祈った。
27 神武は橿原で即位した。

102ホワイトケープ2018/09/18(火) 12:53:31.62
 補足 神武兄弟の投馬国(都萬国)は、北部九州にある倭国クニグニの一員である。

【投馬国が倭国の一員である根拠】
1、 投馬国は天照大御神が派遣したニニギが建国したクニで、神武兄弟はその末裔である。
2、 魏志倭人伝では、投馬国に官・弥弥と副官・弥弥那利がいると記し、神武兄弟に王はおらず独立国ではなかった。
3、 ニニギの子に日高穂穂手見(ひこほほでみ)や神武の子に當芸志美美や建沼河耳など、ミミとつく名前が多い。

 以上のことから、東征にあたり神武兄弟が当時にの倭国女王の台与(豊受大神)と相談し、倭のクニキグニの人たちと力を合わせるのは、自然な行動である。倭国の都・邪馬台(やまと)が奈良に遷り大倭となり、そして大和になったのはなんら矛盾がない。

103日本@名無史さん2018/09/18(火) 17:53:23.43
筑紫の倭国は天照の孫の邇邇芸が建国した国で、その息子の代で海幸が国を追われて建国したのが都万国。
神武は筑紫の日向にいた山幸の孫。

104日本@名無史さん2018/09/18(火) 18:01:26.93
魏志倭人伝では伊都国の官を禰宜と呼ぶ。
伊都の高祖宮の祭神は邇邇芸の息子の彦火火出見(山幸)である。

105ホワイトケープ2018/09/24(月) 19:35:38.21
邪馬台(やまと)→大和 となったのは、邪馬台国東遷があったからと考える人は多い。
次は、邪馬台国東遷説その1からの抜粋である。そこに神武東征との関係の疑問が生まれる。
それの疑問に答えられるのは、この神武・倭国の連合東遷説かありません。

>邪馬台国東遷説その1
>200 :日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:47:17.26
邪馬台国東遷と神武東征とは違うものだと認識してるんですか?。一緒だと考
えるなら神武は邪馬台国の統領だったくらいは証明しないとねー。

それでも記紀を見る限り東征は有ったことになる。無ければ「おらが先祖の業
績」として東征話を書くわけは無いよね。書いた以上いつか、なんらかの東征
があって、その歴史の基に大和朝廷はできたと自慢しているわけだ。そこを皆
よおおおおおおくかんがえなよ。

106日本@名無史さん2018/09/24(月) 21:46:36.48
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

107ホワイトケープ2018/09/25(火) 09:30:59.87
>>106
>長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

龍についての情報、ありがとうございます。
勉強になります。

豊玉彦命を突然、竜王の名で呼ぶことはないと思われ、その背景に龍についての古い文化があり、
それが文字とともに当時、すでに伝わってきていたのかもしれないと考えました、

108日本@名無史さん2018/09/25(火) 10:40:10.43
荒らしにかまうな

109日本@名無史さん2018/09/25(火) 12:10:03.89
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

110ホワイトケープ2018/09/25(火) 13:52:47.57
>邪馬台国東遷説 その1より
>262 :日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:27:25.05
畿内説は妄想だが、東遷説はそれ以上に酷いトンデモ 軍事的に100%ありえない
母国の支配が及んでない地域に遠征軍を派遣して何年間も過ごし遥か離れた場所にある適地を攻略できたことなど人類史上1度もない
日本だけでなく世界中探してもない
補給路を断たれて囲まれたら全滅するから東遷説を主張してるやつらはこのあえりないことをどうやって乗り越えたか絶対に答えようとしない

東遷説をトンデモと表現する方が時々見えるが、記紀は神武が最後まで生き残ったので、神武の記述が多い。
他の兄弟の部隊の行動は省くか、よく伝わっていなかった可能性があります。
上記では軍事的に100%ありえないとしている。
そんなことはありません。
日本書紀では吉備に3年とどまり兵器や糧食を蓄えたと記している。
吉備は国生みの際、伊邪那美が亡くなると伊邪那岐が向かった開拓地で倭国の一部だったと思われます。
兵站のことは十分に計画しています。
取り囲まれないよう、丹波も熊野、四国も事前に遠征してこと向けしていたことが、同名同種の山の記録で見えています。
世界に前例のない東遷をやってのけているのです。
豊受大神の高天原を捨て、女王の位も捨てた覚悟を思いやってください。
ひたすら国を想い、身を捨て天照大御神に仕えています。
大宰府天満宮に残る「翰苑」では、「 臺与幼歯方諧衆望」と記しています。
臺與(だいよ)は幼歯(ようし)にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。

111日本@名無史さん2018/09/25(火) 14:02:06.63
記紀にあるのはそもそも東遷ではなく東征ですよ。
あと、神武が出発したのは高天原ではなく、筑紫です。
高天原から筑紫へはニニギの代で遷都しています。

112ホワイトケープ2018/09/27(木) 14:25:33.66
>邪馬台国東遷説 その2より
>908 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
>>902
・日本列島は地殻変動によって陸地が大陸から切り離され島になったのであって、イザナギとイザナミが創り出したのではない
・死後の世界も高天原とかいう天上界も存在しない
・ヤマタノオロチのような頭が8つもある生物は地球上に存在しない
・白兎は人間の言葉を話さない
記紀をそのまま信用したい人は信用すればいい
おれは信憑性のない神話より現代科学を信用する

連合東遷説とやや外れるが述べる。
記紀は神話として記しているが、記述の中に科学があると考える。
因幡の白兎は、大陸から伝わった伝承ではないことを発見した。

白兎の形をした波を、白兎海岸で見つけた。
白兎海岸の西端に気多の岬がある。
その岬の先80mに淤岐ノ島があって、白兎は隠岐の島から鰐の背伝いで渡ってきたのではない。
気多の岬と淤岐ノ島間の水面下に、テーブル条の岩群れがあって、それを鰐と言っているようだ。
沖からやってきた波は、淤岐ノ島で左右にわかれ、岬側を進んだ波はうねりのまま、岬で跳ね返され岩群れの上を越えて砂浜の海岸に進んでいた。
淤岐ノ島で砂浜側に進んだ波は、白波がたった状態で浜に進んでいた。
そこへ、岬側からの波があたり、波頭が後ろ側に倒れ、兎の耳の形に見えた。
二つの波が、水面下の岩群れの上で干渉し、白兎の形に見える自然現象だった。
このことが、因幡の白兎誕生のきっかけだった。

1800年ほど前の自然現象が、運が良ければ今も見ることができる。
是非、この感動を味わってほしい。歴史研究は感動があるから楽しい!

113日本@名無史さん2018/09/27(木) 18:46:12.06
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

114日本@名無史さん2018/09/28(金) 06:55:06.59
イザナギとイザナミが国土を作ったというのは、征服して領土を獲得したという意味だよ。
何しろ使った道具が武器である矛だからね。
銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島から国産みが始まる。

115ホワイトケープ2018/09/28(金) 08:43:44.41
>>114

レスありがとうございます。
いろいろな意見があって良いので、否定するわけではないですが、私の意見を述べます。

古事記の「国土の修理固成」の段に登場する矛は、イザナキ、イザナミが国生みにのため、船の航海で使用する櫂を神々から賜ったことを、当時の矛にたとえた表現と考えています。
出発地が博多湾であることは、同意見です。
具体的出発地は、小呂島(おろのしま)・能古島(のこのしま)を結んだ先が指し示す室見川河口と考えています。
出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。

116日本@名無史さん2018/09/28(金) 09:09:00.21
>>115
>出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。

ここは面白いね。
しかし能古島からは実際に矛も出土するから、櫂云々は蛇足だと思う。

117ホワイトケープ2018/09/28(金) 11:20:00.48
>>115

面白いと思っていただきありがとうございます。

伊邪那岐。伊邪那美の名が、魏志倭人伝のクニ名から一文字とり、「別天つ神五柱」の神が名付けた名前と定義1で発表しています。
5柱の神々が話し合った場所は、志賀島の志賀海神社と考えています。
伊都国が最初なので、伊都国が格順が1位のクニで、邪馬台国は2位です。
これについて、次の発表をしています。

http://www.zenyamaren.org/yamaren20-054.pdf

興味があれば読んでください。

118ホワイトケープ2018/09/28(金) 11:35:06.52
>>115

小呂島と能古島を結んだ地図です。
http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu39.JPG

島の頂上を互いに結んでいます。

119日本@名無史さん2018/09/28(金) 14:06:01.26
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

120日本@名無史さん2018/09/29(土) 00:23:07.34
神武天皇より前の神話はとりあえず世界の成り立ちと
皇室の由来について適当な辻褄合わせの説明ではないのかな?
出雲とか日向みたいな地名が出ているものはともかく
国産みみたいな神話の中にどれだけ歴史上の出来事が読み取れる
んでしょう??神話の神々は実在した人物なのですか?

神武天皇から欠史八代はあくまでも天皇家の開祖についての
伝承で、四道将軍の派遣についての記述がある崇神天皇から
事実上の初代天皇じゃないのかな。景行天皇の時代になると
東国征伐の記事も現れる。蝦夷はそれまで一度も王化に従った
ことがなかった。神武が「残りのわざわいは根強いが畿内(うちつ
くに)は平穏だ…とりあえず、宮殿を建てよう」と言っている
時点ではまだ大和政権の支配域は奈良盆地の外を出ていないはず。
「日本は旧(もと)小国で倭国の地を併せたり」という中国の記事
からすると、神武・倭国の連合東遷説には大いに疑問ありです。

121日本@名無史さん2018/09/29(土) 05:33:22.96
>>120
実在しているよ、普通の一般人というの?
だから認識できない

「本当に、この人が神なの?(だったの?)」みたいな感じ

122日本@名無史さん2018/09/29(土) 05:37:45.80
こういう作品なども、ほとんど同じでしょ

『ボーボボ』・・・その他、

だから「神」を知っている人がいるという意味

123日本@名無史さん2018/09/29(土) 05:47:53.69
探偵eyeというドラマがあったでしょ?
主人公が出てきて、なぜか「りん、りん」と言っていたり、
妹の子供の名前と同じ


主人公の名前も、
某ゲーム内に作成したキャラ名と同じ、
妹ではなくモレ(仮)が作成したキャラなんだけど

あと、もれ(仮)の本当の名前・・・
『松傾』
こういう名前の家

松の木の立てられている写真、
キュウリの葉、葱の華などが写っている写真も持っていたり

124日本@名無史さん2018/09/29(土) 05:54:59.66
これが家:兄弟妹(5月15日生まれ)
       ↓
一般人なので名前などは書かないけど、
兄弟の弟のほうと結婚した

もれ(仮)の家も一般人なんだけど

125日本@名無史さん2018/09/29(土) 05:59:21.76
『もののけ姫』?

左目を射られた生物がいるでしょ、
神様?だと言っていたり


そういう話じゃなかった?

126日本@名無史さん2018/09/29(土) 06:05:04.18
『ハーン』
(小泉八雲)という人物がいるでしょ、wikiなどを読んでみて

左目が何やらと書いてない?

127日本@名無史さん2018/09/29(土) 06:09:35.55
家に凄い刀(謎の刀、剣?)が飾ってあって、
銀という名前だったかな〜・・・、という親戚がいたという話も同じだし

128日本@名無史さん2018/09/29(土) 06:16:47.84
伊達郡、東北地方(日本の東北)のほうに住んでいた事があるとも言っていたし、
アイヌ、エミシ(不明)関係?

川俣町が何やらとか

129日本@名無史さん2018/09/29(土) 06:28:16.08
よく考えてみると、おかしな話

百済から渡ってきた鏡、鏡の精。
この鏡を私(不明)だと思って、祀りなさいという話じゃなかった?

130日本@名無史さん2018/09/29(土) 06:50:36.05
それにしても、どういう話なんだろう

『雲外鏡』『紫の鏡』とか

131ホワイトケープ2018/09/29(土) 16:48:21.88
>>120

いろいろな考えがあってもよいのですが、ずいぶん古い観念の記紀の理解と思われます。
罵倒がはびこるこの掲示板の世界でも、研究は日々進んでいて少しずつ前進していると考えています。

私の研究では古代人は、文字が不自由な中でも大事な国の成り立ちを記録する工夫をしていたことが分かりました。
日本書紀が記す多くの一書もその一つです。
別天つ神五柱の神々の名づけの工夫もその痕跡です。
伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニから一文字づつ採って名付けていたこともその一つです。
日本に多くある、同名・同種の山の配置もその工夫の跡です。
地名にも工夫の跡が見られます。

考古学は記紀を無視して日本の成り立ちを描くことは不可能ながら、記紀の神代を証明することは可能と考えます。
AIに先を越されて、がっかりしないよう日本人の手で日本誕生の経緯を解明したいものです。

132日本@名無史さん2018/09/29(土) 16:52:26.89
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

133ホワイトケープ2018/09/30(日) 10:22:51.36
> 邪馬台国東遷説 その2より

967 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
歴史が書かれた文献を信用しないのなら、歴史の検証なんてしようがない。
大体神話は内容を検証するのではなく、書かれた背景を検証するものなのは言うまでもない事。
重要なのは国生みが淡路島を念頭に描いてあるという事実で、イザナギイザナミがSEXする事じゃないw
968 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
いずれにせよ日本書紀で邪馬台国東遷説は証明できないよ むしろ、考古学的成果から銅鐸文化圏と剣鉾文化圏とかで検討した方が賢明だ
(ちょっと古いかな)

>967 が述べるように記紀の記述をまず信用しないと、歴史の検討なんて成り立たないでしょう。
>968 が述べるように記紀の記述から邪馬台国東遷説を証明することはできません。
最近は、邪馬台国東遷とか伊都国東遷と個別のクニの東遷を議論しているが、北部九州にあった倭国が東遷し、大倭、大和となったので倭国の東遷のレベルで考えたい。
記紀は神武が倭国の伊都国王を継ぐものなので、倭国東遷を当然のこととして改まって記述せず、最後まで生き残った神武の逸話を主体に記述したものと思われます。

134日本@名無史さん2018/09/30(日) 11:41:42.72
アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

135ホワイトケープ2018/10/02(火) 16:22:08.01
邪馬台国東遷説」その3より
次の指摘があったので答えます。

15 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
邪馬台国東遷についてはいくつか考慮点が有る。最初に
@ 東遷が有ったか否かだが、有ったとするならば
A それは何時ごろ有ったか、
B 東遷する前の邪馬台 国はどの辺りに有ったか、
C どこへ東遷したのか、
D 東遷した根本的な理由は なぜだったか、
E 東遷のやり方はどんなやり方だったか、
E 東遷を推し進めた立役者はどんな人だったか、
このような疑問を解決していただきたい。

答え
@    倭国の都・邪馬台を奈良に遷した遷都があった。
A    台与が最後の遣使を行った265年の数年後、7年を要した遷都で、277年の酉年に神武が即位した。
B    東遷前の都は、現在の朝倉市にあった。旧上座郡、下座郡で高天原と称していた。
C    奈良県橿原市に、宮を置いた。
D    いろいろな理由があったと思われるが、日本列島の領域を認識したうえで、中央に都をおく必要があった。
E    倭国各地から兵を募り神武兄弟の4部隊が、海上、陸所を進んだ。
西日本を隈なく言向けしてしてから奈良に入った。
F    神武兄弟と台与(豊受大神)が相談して、高天原の遷都を決めた。

136日本@名無史さん2018/10/02(火) 17:54:38.13
高天原からはニニギが筑紫に遷都したんだよ。
神武は筑紫から大和に移動した。
記紀をもっときちんと読もうよ。

137日本@名無史さん2018/10/02(火) 18:30:31.16
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

138日本@名無史さん2018/10/02(火) 18:31:10.72
神武倭国軍最強

139日本@名無史さん2018/10/02(火) 18:48:13.20
>>137
最古の稲作は鹿児島か唐津でしょ

140ホワイトケープ2018/10/03(水) 20:26:59.94
邪馬台国東遷説」その3より
次の意見がありました。

>210 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
熊本の阿蘇周辺の鉄鍛冶集落からの出土鉄器は鉄鏃に偏りすぎている
鉄剣、耕地開発のための鉄器が少なすぎる
この状況は鉄鍛冶技術をもつ他の地域が、九州内での戦争に備え阿蘇周辺での製造が想定できる

私の意見
これはよく分析していると思います。
神武東征の高城隊は、狗奴国と決着の戦いをやっていて、勝利し次の大分での戦いに備えて阿蘇周辺で武器の準備をした考えています。
弓での戦いを想定し鉄鏃を多く製作したのでしょう。耕地作業の鉄器が少ないのは納得できます。
最後の一行の分析は、よく想定したと感心します。

141日本@名無史さん2018/10/03(水) 21:30:31.90
邪馬台国との決戦に備えた狗奴国の鍛治

142日本@名無史さん2018/10/03(水) 21:54:34.16
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

143ホワイトケープ2018/10/04(木) 07:06:38.36
>>141
>邪馬台国との決戦に備えた狗奴国の鍛治

レスありがとうございます。
当然でてくる意見と考えます。
ところが、この遺跡群が神武東征軍の痕跡とする根拠があります。
東征隊は自分たちが神の遣い鳥と認識していたようで、足跡に鳥の尾をイメージした〇尾という地名を残していました。
調べると鉄遺跡名に狩尾遺跡、小倉付近には高津尾遺跡が見つかります。
有名な西弥護面遺跡は住宅地になっていて、遺跡は残っていませんが、その近くに高尾野入り口の地名があります。
狩尾遺跡付近で鉄原料のリモナイトを採掘した山の名が天神山といわれていました。
今は採掘し終わって平地になっています。

144日本@名無史さん2018/10/04(木) 09:36:23.40
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

145日本@名無史さん2018/10/04(木) 09:38:45.71
>>143
鳥をトーテムとするのは当時の倭のほとんどの部族が行なっていたので、根拠としては低いかと思います。

146ホワイトケープ2018/10/04(木) 10:06:29.85
>>145

東征隊は東征の足跡を、高尾山や多くの〇尾山で記録していて、〇尾の地名づけも一連の行動と考えています。
下図はその足跡記録です。

図28 高尾山に記録した経路  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg

147日本@名無史さん2018/10/04(木) 10:07:32.65
高尾山なら東京都にもあるのだけれど。

148日本@名無史さん2018/10/04(木) 10:19:36.90
高尾山なら秋田県にもあるのだけれど。

149ホワイトケープ2018/10/04(木) 10:37:05.76
>>147 >>148

高尾山は、全国に高雄山・鷹尾山を含めて56あります。
西日本のたかお山は神武東征、東日本は日本武尊東征の足跡でした。
二つの東征は一連の建国の事業と認識していたことが分かります。

東京の高尾山は、横浜インタ付近の高尾山から繋がり、山梨の高尾山に続いています。
北陸に進んだ部隊の足跡で、福井の大野で終わっています。
秋田の高尾山は、酒田の鷹尾山との組み合わせで鳥海山を差しはさんでいます。
二つの東征で、日本列島が鳥の海となった認識を残したものと考えています。

150日本@名無史さん2018/10/04(木) 10:38:22.70
神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。

151ホワイトケープ2018/10/04(木) 10:48:52.27
>>150
神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。

日本武尊東征については、いろいろな説があります。
このスレッドと外れるので、深入りしません。

152日本@名無史さん2018/10/04(木) 14:45:45.92
>>151
>秋田まで東征したのではないのかな

秋田まで東征したのなら津軽までいってる可能性大
平安時代の藤原保則が蝦夷討伐で
878年に東北出羽国の秋田柵で俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田柵城司に対して大規模な反乱を起してる
秋田柵城が焼かれて出羽に駐留していた朝廷の派遣軍勢では対応できないほどの反乱規模になってる
蝦夷の東北社会は集落が散財して大きな権力集中の見られないことが特徴とされてたが
この秋田柵での反乱では米代川や八郎潟流域に及ぶ蝦夷住民勢力が大規模な行動を起こし
雄物川以北を蝦夷達の占有地とすることを朝廷側に強く要求。
朝廷から出羽権守として派遣された藤原保則は鎮守将軍小野春風とともに
軍事威圧を背景にして説得し、その策によってようやく蝦夷達による秋田柵の反乱の鎮圧に成功し
藤原保則の日記に
「これによって津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、帰付せざるもの、皆ことごとく同化さす。」と記されてる。

153ホワイトケープ2018/10/04(木) 19:27:36.76
>>152

>>151
>秋田まで東征したのではないのかな

>>150 への呼びかけの誤りでは?

154日本@名無史さん2018/10/05(金) 00:07:55.79
ヤタガラスと言えば、高句麗チュモンと神武天皇

155日本@名無史さん2018/10/05(金) 00:27:35.04
畿内を開拓した神である三島溝杭耳が、八咫烏に化けて筑紫から来た神武を助けに来たそうだ。
三島溝杭耳が筑紫からの尖兵であったことがよくわかる話だな。
三島溝杭耳の息子が、うっかり神武と戦ってしまって後に成敗された長髄彦であり、三島溝杭耳の孫が、神武の妃となるイスケヨリ姫である。

156日本@名無史さん2018/10/05(金) 00:46:21.46
賀茂建角身命は三島溝咋耳命、陶津耳命の別名を持ち饒速日尊と同世代のようである。
伝承をまとめると以下のようになっている。

賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、
神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。
これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。
 神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。
妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。
彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。
<賀茂始祖伝より>

賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、
山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。
妻 伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。
玉依日子は、後に、賀茂県主となる
玉依日売は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる
生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。
丹塗りの矢は、火雷神(ホノイカズチノカミ)だったといわれる
<山城国風土記逸文>

157日本@名無史さん2018/10/05(金) 01:31:10.49
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

158日本@名無史さん2018/10/05(金) 01:31:43.42
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

159日本@名無史さん2018/10/05(金) 09:24:21.63
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

160ホワイトケープ2018/10/05(金) 14:12:29.58
> 邪馬台国東遷説 その3より

>214 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
この阿蘇周辺鍛冶遺跡の後に熊本県下ではもっとも早く、宇土半島の付け根、熊本平野の南端に畿内型の前方後円墳が造られ始めるんだよな
そして、熊本市城南町、球磨〜南九州に分布する免田式土器が消滅する

>220 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
熊本も菊池川流域飛んで宇土半島はもとから北部九州の物流範囲だな

上記二つの見解は、神武・倭国の連合東遷説と符合します。
下図は定義12で載せた画像で、倭国は宇土地名で熊本平野の狗奴国を取り囲んでいました。
北部九州に残る祭礼「くんち」の分布と一致します。

図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg

宇土のの地名は、糸島市の日向峠の麓にある宇土に始まると思われます。
宇土半島付け根の畿内型前方後円墳は、連合東遷に参加した人が、東遷後奈良から故郷に戻り一帯を支配した人の墳墓と想定します。

北部九州や宮崎の古墳も皆、東遷から戻った人による築造と考えます。

庄内式土器が北部九州から東遷とともに、畿内に伝わったのか、
東遷から帰還した人が畿内から持ち帰り九州に伝えたのか結論は出たのでしょうか?

161日本@名無史さん2018/10/05(金) 14:45:47.72
>>160
その地図で宇土のある地域は
景行征西地域と全く一致する。

息長氏は宇土半島に領地があったという。
葦北国造の日羅
琳聖太子も一時期葦北にいて周防で領地をもったという。

やはり景行天皇の説話部分は息長氏かもしれんな。
宇土ウドではなく継体天皇に繋がる、オオド大々杼の原義にあるのかもしれん。
阿蘇のピンク色の凝結凝灰岩の輸出先とも関係があろう。

162日本@名無史さん2018/10/05(金) 14:49:23.61
また宇の音がuではなくwの音写のつもりなら
倭の字音とも重なる。本来の倭国の範囲が示されていることになる。

163日本@名無史さん2018/10/05(金) 14:51:16.87
天孫族=渡来人と
九州倭人の集合体が東征だ

164ホワイトケープ2018/10/05(金) 17:14:25.87
>>161 >>162 >>163
意見やコメントありがとうございます。

魏志倭人伝が記す旁国の位置が定まらないのは、倭国領域が狗奴国を囲んでいて、山都町や宇城、宇土市、天草、島原などを想定していなかったためかと思われます。
「遠絶にして、つまびらかにできない」と言っているのは、このことかも知れません。

165日本@名無史さん2018/10/05(金) 21:38:24.38
>>163
それ正解

166ホワイトケープ2018/10/06(土) 18:57:54.78
破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。
弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。

次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期〜終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。

図40(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu40.jpg
図41(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu41.jpg

熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。
ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。

当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。
福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。
家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。
出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。
兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。
突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。
妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。

鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。
三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。
東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。

九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。

167日本@名無史さん2018/10/06(土) 20:06:17.76
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

168日本@名無史さん2018/10/07(日) 22:36:09.89
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

169ホワイトケープ2018/10/08(月) 10:48:11.56
> 邪馬台国東遷説 その3より

751 :日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
何度か書いているが、畿内説は元々自生説で、邪馬台国の候補地は 唐古・鍵遺跡だった。
その邪馬台国の唐古・鍵の人々が纏向を建設し移ったというわけ。
移った年代もわかるというものだろう。

その期待を受けて、唐古・鍵遺跡では100回を超える発掘調査が行われた。
いつか、何か出てくるという期待は、今の纏向に似ている、しかし、吉野ヶ里遺跡が発掘された頃、ついにあきらめられた。
理由は簡単、石器しか出てこないのだ。王のような存在も認められない。

環濠集落という名前は吉野ヶ里遺跡も唐古・鍵も同じで、一見、同じような 集落という印象があるが、実体は全く違う。

唐古・鍵がだめだというわけで、年代を100年ほど繰り上げて纏向が浮上した。1995年頃のこと。


近畿の弥生遺跡についての研究結果
近畿地方には、唐古・鍵遺跡だけでなく、近江の伊勢遺跡、稲部遺跡、摂津の東奈良遺跡、泉南の池上・曽根遺跡など大きな遺跡があります。
これらの遺跡は、北九州から戦乱を逃れたやってきた人たちが開拓したものと思います。
その代表的な人たちが加茂、賀茂と呼ばれた人たちで、瀬戸内海東部にはこの地名が多く見つかります。

図42(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu42.jpg

その開拓のさなかに、伊邪那岐・伊邪那美が国生みでやってきます。
伊邪那岐はこれらの開拓地を訪ねめぐっていると思われます。
その痕跡が、後の海神、あるいは龍王と呼ばれる豊玉彦が残した竜王山です。
図43(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu43.jpg

奈良の唐古・鍵遺跡の真東に龍王山が見つかります。近江や摂津の遺跡の源流域にも竜王山が見つかります。
水利権を公的なものにするためでした。

170ホワイトケープ2018/10/08(月) 10:54:14.52
添付忘れです。
図44(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu44.jpg

171日本@名無史さん2018/10/08(月) 11:41:25.96
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

172ホワイトケープ2018/10/14(日) 10:36:22.72
> 邪馬台国東遷説 その3より

865 :日本@名無史さん:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN
倭面土國は、邪馬台国の可能性も高いと思う。

それは、倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」から来ている。

いわゆる倭国の大乱の70年か80年前が、帥升が後漢に朝貢した西暦107年と合い、男子の王が帥升を意味していると考えられるからである。

また、そのように考えることにより、倭国王・帥升が築いたあるいは支配した三十カ国あまりの王の跡継ぎを巡る争いが、倭国の大乱であり、その王に
なった卑弥呼が巫女的な女王でありながら、魏から倭王と呼ばれ、三十カ国あまりを支配していた理由がわかるからである。

伊都国の王が代々女王国に統属していたというのもこれで理解できるし、官が置かれ、一大率が置かれていたことも理解できる。


私ホワイトケープの意見
>865 の意見に私も近い考えです。
倭国乱を光和年間(西暦177〜184)とすると、倭国王の帥升が後漢に朝貢した西暦107年は、倭国乱の前70〜77年となります。
77年ころ「別天つ神五柱」の神々が話し合い、伊都国宗家の男子と奴国王の娘、すなわち伊邪那岐と伊邪那美が結婚し天照大御神(卑弥呼)が生まれ、統一倭国王に共立されているる。
このことから、神世七代の初代・国之常立神は卑弥呼から7代前、天皇の一代、10〜11年説に従えば70〜77年になり朝貢した倭国王・帥升と一致する。
帥升を記紀に登場する人物比定は諸説あるが、神世七代の初代・国之常立神である可能性が高い。

記紀に7代も昔の系譜が記されたのは、初代倭国王の功績が大きいので、その系譜が大事にされ、記憶されていたためと考える。
代々の伊都国王の系譜である。

図45 系譜_伊邪那岐・伊邪那美(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu45.jpg
図46 系譜_神武       (http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu46.jpg

173日本@名無史さん2018/10/14(日) 10:48:38.22
神代七代は、早良などの福岡側の王墓の人物の方が年代観が合うような気がするな。
伊都はヒコホホデミ(山幸)や木花咲耶姫など、日向三代との関係がうかがえるからね。
帥升はニニギかその前かわからないけども。

174ホワイトケープ2018/10/14(日) 13:52:29.51
>>173
レスありがとうございます。

「神世七代」が伊都国王の系譜である根拠に次があります。
7代にあたる伊邪那岐が迦具土神を切った剣の名を古事記は「天之尾羽張(あめのおはばり)」亦の名は「伊都之尾羽張(いつのおはばり)」と記していて伊邪那岐が天族(海人族)のクニ、伊都国の七代に当たることがわかります。
奴国王の墳墓、須玖岡本遺跡から出土した漢鏡が、伊都国の三雲南小路遺跡出土の漢鏡より鏡種年代が古く、奴国王が帥升より古い時代に活躍したと思われます。
それが西暦57年に後漢から賜った「漢倭奴国王」の金印と考えます。
このことが、伊都国・邪馬台国連合と奴国・不弥国連合の戦になるきっかけになったと考えます。
結局、伊都国が覇権争いに勝ったことになります。

175日本@名無史さん2018/10/14(日) 16:01:39.36
それって出雲の国譲り。
その結果に成立した伊都国の王権が日向三代でしょ。
それ以外には覇権争いの記録はないでしょ。
あ、日向三代の海幸山幸の争いがあるか。

176ホワイトケープ2018/10/14(日) 17:09:22.45
>175
レスありがとうございます。

出雲国譲りも覇権争い、山幸彦・海幸彦の争いも覇権争いですが時代が違います。
出雲国を建てたのは、伊邪那岐・伊邪那美の子、須佐之男なので、伊邪那岐の前の時代の神世七代の時代の覇権争いではありません。
山幸彦・海幸彦も伊邪那岐の末裔なので時代が異なります。
伊邪那岐含めた神世七代は倭国乱の時代で、その名の通り覇権争いです。

177日本@名無史さん2018/10/14(日) 18:45:51.14
イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ?
出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。
そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。

178ホワイトケープ2018/10/14(日) 19:37:38.93
>>176
イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ?
出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。
そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。

伊邪那岐・伊邪那美の名が魏志倭人伝に登場するクニの名から、一文字づつ採った名であることを定義1で述べたことがあります。
表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg

倭国乱を収束するために「別天つ神五柱」が話し合って決めた名前なので戦乱の終わりの時の名前です。
倭国乱が水争いのような、河川ごとの争いでなく、博多湾沿岸国を中心にした北部九州の覇権争いと思われます。
北部九州の広範囲に、当時の甕棺から多くの武器が出土するのは、争いの痕跡といえます。

神武は伊佐那岐・伊邪那美の末裔なので、東征があったのは豊受大神(台与)の最後に晋に遣使した265年ころから後にあったと理解するのが、多くの出来事の前後関係があってきます。
年代をシミユレーションした結果は次の通りです。
図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション
http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG

179日本@名無史さん2018/10/14(日) 21:16:51.73
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

180ホワイトケープ2018/10/27(土) 14:17:23.19
> 邪馬台国東遷説 その4より
>34 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
なんかの雑誌で、考古学の先生の意見を見たけど
考古学的に見て、神武東遷の形跡って、ないらしいぞ。
そんな首都が移動した大規模な移動の形跡はないらしい。
ただし、だからといって、記紀にある神武東遷を完全否定しているのではなくて
なぜ、あう言う記述になったのか考えましょうよという感じ。
あれは何を意味するのかって。

私の反論
>なんかの雑誌で、考古学の先生の意見を見たけど 考古学的に見て、神武東遷の形跡って、ないらしいぞ。

そんなことはない。考古学的な東征・東遷の形跡はいっぱいある。
鏡、破鏡など出土地の時間変化を見ると、弥生の終末期に九州から大和に短年度で移動したことが分かる。
考古学者の論文を読むと、その変化が読み取れるにかかわらず学会的に、神武東征の視点で検討すると異端の目で見られてしまうため、
言い出せないジレンマが読み取れる。

>ただし、だからといって、記紀にある神武東遷を完全否定しているのではなくてなぜ、あう言う記述になったのか考えましょうよという感じ。
>あれは何を意味するのかって。

もし考古学者に上記ような考えが残っているならば、多く残る伝承や地名の移動などあらゆることに、アンテナを張って歴史を研究しているはずである。
論文の中にひとかけらも、言及していないのは異常としか言えない。
地元に神武東征の伝承が残りながら、その地の歴史資料館の説明に神武東征が登場しない。
このような束縛された研究、あるいは考古学は日本の大きな時間の損失になっていると考える。

新石器の誤りと同じように、後にどれだけの論文や発掘資料の説明の修正が生まれるか計り知れない。

181日本@名無史さん2018/10/27(土) 15:27:52.91
神武は落ち武者みたいなもの
神武が離れても、倭の王都は筑紫の日向のまま
そこで卑弥呼が共立された

182日本@名無史さん2018/10/27(土) 17:50:02.43
101:名無しさん@1周年[] 投稿日:2018/10/23(火) 21:07:19.18 ID:VqEDfgY70
>>76
あのね出雲が凄い国、絶大な影響力を持った国だったら
中華帝国の正史である魏書魏志倭人伝や隋書倭国伝
それに朝鮮の新羅本紀や百済本紀、高句麗本紀に出てくるんだけど
塵の如く倭国倭人関連で出雲らしき記述が全く出てこないんだけど
創作されたファンタジーに妄想を膨らませるのはいいけど
現代になってさえ未開人と変らない幼児性を伴った精神構造なんだよなぁ

高度なIQを持ったアインシュタインの宗教に関した語録で
「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」ってのがあるけど
置き換えると
「宗教のない科学はかたわ、客観的事実のない神社宗教は盲目」ってなるね
古代も現代も変らない比率で盲目的な未開人が存在するのが恐ろしい

721名無しさん@1周年2018/10/24(水) 16:20:52.92ID:u/wiOi+0O
>>659
史実性が全く無いスサノオは
偽造された歴史経緯が侵入された古事記や日本書紀に
後世の人間を真実から目を背けさす為に
>>101でも言われる様に
御伽噺のように神話として記述されただけだから

中国の重要な古代神学教理書である九天神章経を
急ごしらえの大和政権の役人は勉強して
日本神話を考え出した古事記日本書紀を書き上げたし
日本神話の重要な部分の経緯なんて
九天神章経からパクって宇宙創造神の別天津神などをこしらうたからね

183日本@名無史さん2018/10/27(土) 18:51:54.66
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

184日本@名無史さん2018/10/27(土) 22:20:08.65
今のところ実在した可能性が高いと言われているのが
第10代崇神天皇でしょう?その崇神天皇が生きていた時代が
二説あって3世紀半ば頃と4世紀初め頃。崩御年の干支を
どう解釈するかでだいたい60年の開きがある。崇神より前
に9人の天皇が実在したとすれば、その初代(神武天皇)が
いくらなんでも248年頃に亡くなったとされるヒミコより
後の人物とは考えにくい。遅くともヒミコと同時代か少し前の
人物のはずであり、この大和政権の創始者が治めていた場所と
邪馬台国の場所が必ず一致するとも断言できない。

185日本@名無史さん2018/10/28(日) 01:00:15.80
日本古来の神々は古事記では天之御中主神から豊雲野神まで
配偶神を持たない独神であったとか、日本書紀では国常立尊
以下三神は男神であったと言われるように、男神と女神のペアでは
なかった。国常立尊が天鏡尊を産み…、沫蕩尊が伊弉諾尊を産んだと
いうように男神が代々男神を産んだというのが本来の伝承である。
ところで天皇はヒトであるから有性生殖によらないで跡継ぎを作る
ことはできない。そのため中国古典を利用して神世七代なるものに
よって男神と性行為が可能となる女神を造り出す必要があったのであろう。

213神も仏も名無しさん2018/07/02(月) 01:54:11.71ID:eCXJHK2T
神世七代の解釈は、たぶん天と地の形成と人の姿をした
男女の神(人間の先祖?)が生れるまでの過程ということで
学者の意見は一致してるだろう。

>>186を参考にすると、まず、天と地が混沌としていた中に
萌え上がる葦の芽のような創造の力(ウマシアシカビヒコジ)
が生まれ、それが空高く立ち昇って天(アメノトコタチ)と大地
(クニノトコタチ)とを生じ、ここで湿潤な雲(トヨクモノ)が
大地を覆い潤すことで、性別ある生き物が自然発生できる土壌ができた。
まず、最初の生物は泥から生まれた、あるいは泥のように不定形で
(ウヒヂコ、スヒヂコ)、これに体が芽生え(ツノグヒ、イクグヒ)、
生殖器が発達し(オホトノヂ、オホトノベ)、顔立ちが整って恥じらう
気持ちも生まれ(オモダル、カシコネ)、そうして、いざない合う人間
の男女(イザナギ、イザナミ)が生れたと解釈するなら、
古事記作者も当時の人なりに生命の発生と進化を考えていたということになる。
まあ、大昔恐竜がいたとか知らなかっただろうけどね。

186日本@名無史さん2018/10/28(日) 01:27:22.95
単に王の名前だけが残っていた時代が長いだけ

187日本@名無史さん2018/10/28(日) 03:00:52.56
ん?どういうことかな。
天皇家より前に日本列島を支配した王たちが何人もいて、
古事記や日本書紀の作者が彼らに神々の名前をつけて神話化した
可能性はひょっとしたらあるかもしれないが、王たちの本名や事績は
亡失、抹消されたはずだ。

アマテラスやツクヨミを天皇家が歴史の表に登場する前に実在した人物たちだ
と言ってみたところで、彼らの本名や日本列島における事績は記紀をいくら読んでも
復元できない。天之御中主王とか国之常立王、高御産巣日王みたいな天の中心や国土、
万物を産みだす力を表す名前の人物なんて実在したはずがない。

188日本@名無史さん2018/10/28(日) 03:04:31.64
オホトノヂ、オホトノベのように男性器や女性器の名前を付けられた、もしくはそれを自称した
貴人なんてのも実在したんだろうか?
(オホトノヂ、オホトノベの本来の意味は生殖器、あるいはその機能でなく家での生活に関するもの
という説もあり、ツノグヒ、イクグヒも棒状の杙で境界を表すという説もある。しかし、
その類の神名の意味の神を羅列するなら、初めて夫婦になった男女神、イザナギ・イザナミ
より前でなく国産み・神産みのときで十分であろう。記紀を書いた人たちは人間の男女
の姿形をした夫婦の神を作りだす必要があった。イザナギ・イザナミより前の男女神は、それ
ぞれ生き物のオス、メスの性質や特徴を表す神であり、その特徴だけでは人間の夫婦が完成しない。)

私が思うに、自然科学を知らなかった時代、神を想定して物事を説明した古代人の
「科学」であって「古代史」の代用だということ。古代史の代用と書いたのは記紀には
大和政権より前の縄文時代や弥生時代をありのままに書いていないからである。
新井白石は「神とは人のことであり、身分の高い人の尊称である」、そして神話は何らか
の史実を反映をしているのはないかと言ったそうだが、聖書の創造神ほどでないにしても
神話の神々は明らかに常人の能力を超えている。目や鼻を洗ったり誓約をすることで子どもを
口から何人も産みだしたり、高い空の上から山の峰に降臨しても木っ端微塵にならなかったり、海
と陸地を行き来してサメと子どもを作ったり、神とは「人間にできないことができる者」という要素
が必ず含まれていると考えられる。そこを無視すべきではない。

神が実在しなくても理屈が通ればいちおう自然科学や歴史の代わりになるのであり、歴史の勝者
である大和政権の人々が自分たちの都合で神話伝承を改竄するのもごく自然なことだろう。
先祖の時代では作り話であった神話も玄孫の代には本当にあった出来事になっているんだろうな。

189日本@名無史さん2018/10/28(日) 03:06:57.14
訂正 自然科学を知らなかった時代の前に「神話とは」が抜けていました

私が思うに、神話とは自然科学を知らなかった時代、神を想定して物事を説明した古代人の
「科学」であって「古代史」の代用だということ。

190日本@名無史さん2018/10/28(日) 07:13:07.31
そもそも、神という解釈が明治以降の観念であり、本来は王の伝記ダロ
天皇家が歴史の表に出てくるって、いつからを想定している?

191日本@名無史さん2018/10/28(日) 08:58:14.40
>>190
王の伝記と言えばそうだが、武家政権下の影の薄かった時代は
ともかく、飛鳥時代や平安時代に天皇家が日本の支配者であって、
武士や庶民がその権威に服したのは史実じゃん。聖武天皇や
後白河天皇が架空の人物だったとでも言うの?いくらなんでも
明治になって天皇が誕生したというのは酷いでしょう。
もちろん天皇号じたい後世作られたものだし、古代の大王や
彼らの家族がどんな名前の人物だったのかはほとんど分からない。
それを承知で当時の人物を〇〇天皇とか△△命、✕✕媛と呼んでいる。

192日本@名無史さん2018/10/28(日) 08:58:52.58
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

193日本@名無史さん2018/10/28(日) 09:14:11.91
で、私がいつからを想定してるかというと

>>184ぐらいの古墳が作られた時代から。ひょっとしたら
もう少し後かもしれない。大和政権が海外から来た征服王朝なのか、
一豪族がのし上がって日本各地を統一していったのか、邪馬台国が
東遷したのか、記紀とか嘘八百で7世紀に朝鮮の王朝に征服されて
できたのか今となっては分からないし、

今の天皇のおよそ70代ほど前の先祖の神武天皇が西暦何世紀の人物か
は主張する人によっては三百年ぐらいの開きがあって、天皇家を開祖
とする大和政権の「萌芽」をいつとするかは結論が出ない。

神武紀を読むあたり、神武天皇が奈良盆地より外を出て日本各地
を平定してまわったという記録は全くないし、欠史八代という事
績の書かれていない時代があるのは、崇神天皇より前の天皇家の
当主は(仮に実在したとして)日本列島の広域を支配しておらず、
日本列島の数ある豪族の一つに過ぎなかったからかもしれない。

それから
ヒミコ=アマテラスで邪馬台国が発展して大和政権になったとか
ヒミコ=ヤマトトビモモソヒメで大和政権の一時期が邪馬台国だ
とか、4、5世紀の天皇は倭の五王のこの人物だいうのなら、
日本書紀はそのことを遠慮なく書けばよかったのになあと思う。
中国に朝貢したという記録がそんなに嫌だったのか。
紀元前660年の建国とかそんな大ぼら吹かなくていいだろ
って言いたいですな。日本書紀の主張に寄り添うなら
天皇家は漢の光武帝から金印を貰った倭国の王とも、ヒミコや
イヨの邪馬台国とも、倭の五王とも無関係と考えるしかない。

194日本@名無史さん2018/10/28(日) 09:25:27.36
今の天皇のおよそ70代ほど前の先祖の神武天皇

今の天皇のおよそ70「世」代ほど前の先祖の神武天皇

神武天皇がその通り今上天皇の71世代前の先祖だとするなら
西暦1世紀の建国になるだろう。しかし、
初代から履中まで17世代(およそ四百年に相当)も父子継承が順調にいく
のは王家としてはきわめて珍しい。4、5人ぐらいは同世代間の継承を父子
継承と誤魔化して歴史を過去に延長しているかもしれない。

195日本@名無史さん2018/10/28(日) 09:51:59.78
伽耶という要素を無視してはならないと思う。
特に金海大成洞遺跡の、武装、祭祀関係の出土物は、日本と見分けがつかないほどだ。
伽耶は、何らかの形で倭と深い関係にあった。
その上で、伽耶は馬という新しい要素を持っていた。
伽耶は神功/応神の「東征」に関係したのではないか?

196日本@名無史さん2018/10/28(日) 09:54:07.94
頭の病気か何かなのか?

197日本@名無史さん2018/10/28(日) 09:55:40.34
『倭寇』

調べてみた?

198日本@名無史さん2018/10/28(日) 14:00:36.65
>>191
>それを承知で当時の人物を〇〇天皇とか△△命、✕✕媛と呼んでいる。

同様のことを、神武以前の世代にも当てはめればいいんだよ。
筑紫や出雲の王権のことも明記されているし、考古学的状況とも一致する。

199日本@名無史さん2018/10/28(日) 14:01:50.90
>>195
魏志倭人伝の狗邪韓国でいいだろ。

200日本@名無史さん2018/10/28(日) 16:27:35.95
高島宮(岡山)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%AE%AE
神武天皇が日向から大和国への東征途上で、吉備国に営んだとされる行宮である。
吉備高島宮、吉備高嶋宮(きびのたかしまのみや、きびたかしまぐう)とも呼ばれる。

『日本書紀』によると、太歳甲寅の年の10月5日に軍舟を率いて日向を出立し
大和へ向かう東征を開始した彦火火出見尊(後の神武天皇)は、豊後水道を通り
筑紫国、安芸国とを経て、翌年(乙卯年)3月6日、吉備国の高島の地に行宮を造って
3年間滞在し、その間に船舶や武器の準備、兵糧の備蓄を行った上で
戊午年2月11日に再び大和へ向かい出航したというが、この時の行宮が高島宮である。
神武天皇の即位は高島宮進発の3年後、辛酉年であるとされている。
『古事記』も大同小異の伝承を記すが、高島宮での滞在を8年間としている。

201日本@名無史さん2018/10/28(日) 17:34:10.93
>>199
金海の伽耶が扶余系であった可能性は魏志倭人伝ではわからない。
伽耶の知見が開けたのは大成洞遺跡の発掘以降のことだ。

202日本@名無史さん2018/10/28(日) 21:43:16.31
鳥取県倉吉市の上里神社に伝わる神武天皇由緒

「神倭天皇九州日向に発たれ東夷大和平定により(平定後)
山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」

203日本@名無史さん2018/10/28(日) 23:32:41.99
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

204ホワイトケープ2018/10/29(月) 13:01:22.89
>>202
鳥取県倉吉市の上里神社に伝わる神武天皇由緒
「神倭天皇九州日向に発たれ東夷大和平定により(平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」

情報をありがとうございます。
(平定後)(帰り)は解釈で、末尾の「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」の記述から往途の可能性もありますね。

高城山に記録した経路では、倉敷に高城山があり遠征軍が倉敷に向かい、青谷上寺地で戦いがあったことが想定されます。
他場所では戦いの痕跡が少ないのに、秋里遺跡の焼けた住居跡など鳥取では戦いになったのでしょう。
国譲りは終わっているので、別な理由があるかもしれません。

205日本@名無史さん2018/10/29(月) 13:03:15.41
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

206日本@名無史さん2018/10/29(月) 13:21:22.82
◆古代中国のイネの粒種の変遷グラフ



http://www.doc88.com/p-0738740710502.html


.

207ホワイトケープ2018/11/05(月) 16:42:15.17
> 邪馬台国東遷説 その4より
>42 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
ど素人やアマチュアが掘り出した出土状況がはっきりしないものは評価してはいけないという いい教訓になった事件であったな。
宮崎の盗品穀壁なんかは中国からけちがつけられる前に、中国の研究機関に調査依頼したほうがいい。
宮崎の大和が造った墓は皆空である 。泥棒の庭に造ってしまったようなものだな 。

串間の穀壁についての意見
串間の市役所を訪ね、大きくて重そうなレプリカの穀壁を見たことがあります。
発見者が一般人でも、盗品と決めつけては良くない。
串間には「奇しき土地」の意味があると考えられます。串木野とおなじく天孫降臨があった際の名づけと考えています。

図47 狗邪韓国に延びる直線(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu47.jpg

ニニギが天孫降臨の際、高千穂峰に登ったのち、反時計回りに薩摩半島から大隅半島にわたり小林に至っています。
ニニギは高千穂峰で「ここは韓国に向かい、・・・甚吉き地」と述べています。
図47を参照。
ここ串間は狗邪韓国比定地の金海から高千穂峰を結んだ直線が、太平洋に出るところで畏敬の念があり串間の名を残したと考えます。

ニニギならば、穀壁を持参していても不思議はなく、串間からの出土も不思議ではない。

208ホワイトケープ2018/11/05(月) 16:46:03.98
リンク誤りがあったので再掲です。

図47 狗邪韓国に延びる直線(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu47.jpg

209日本@名無史さん2018/11/05(月) 18:23:40.74
そんなの、宇宙からでも見ないとわからない。
天孫降臨の筑紫の日向は、倭国の王都である伊都国のこと。
正確には、伊都国と奴国を合わせた高祖山周辺が筑紫の日向だ。

210学術2018/11/05(月) 19:46:17.71
和歌猛る。

211ホワイトケープ2018/11/05(月) 20:17:17.79
天孫降臨のすべてを分かった訳ではないが、すこし分かってきたことがあります。
紹介します。図は参考図です。

天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。
図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg
図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg

【天孫降臨7年の根拠】
@ 図19は南九州に集中して見つかる〇〇丘という山と、〇〇岡という山に番号を付けて、結んだものである。
A 朝倉の高天原を出発したニニギは、阿蘇を越え高千穂町の国見ケ丘(図にないが附番1)で新しい国の国見を行った後、西都に向かい宮をおいた。
B 宮崎平野の灌漑稲作の目途が立つと、薩摩・大隅へ遠征をおこなった。
C 図19の21,22,23を結んだ直線を点線のように延長すると、高千穂峰横の虎ケ尾岡を経て39,40,41がつくる矢印で西都方向を指し示している。
D これはニニギが詔した、「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて・・・甚吉き地」の内容を大地に記録したものである。
E 附番2から始まる遠征は高千穂峰を周回する、逆「の」の字形に薩摩半島、大隅半島を経て八代海の獅子島にある黒崎丘で終わっている。
F 図19では丘と岡の区別を表示していないが、図20に示すよう「丘―岡―丘」というように丘と丘の間に岡を記録しその間が1年を有したと有年ケ岡で記録している。この遠征に7年をかけていた。
G 丘の中の一つ宇都丘の「宇都」と同名の宇都地名が、南九州に多く見つかり訪ね巡ると、灌漑稲作の水を得る川の最上流の田んぼがある集落と判明した。これは灌漑稲作普及のために水利権を取得するためであった。
H 高千穂峰にまず登ったのも、一帯の水利権確保の意味があったかも知れない。高千穂の名そのものが稲作である。灌漑稲作を普及させる投馬国の建国であった。
I 神武東征時に迂回した北九州で「岡水門」「岡田宮」と岡がつく地名を残したのは、天孫降臨に由来する。山に岡の名を名付けなかったのは天孫降臨と混同するからだった。
J ニニギが行った山への、丘(岡)という名の記録は、神武東征や日本武尊東征へと引き継がれ、さまざまに工夫した同名同種の山で、日本の古代を記録していた。

野間岬には越冬した宮跡、笠沙宮が山中に今も残ります。

212日本@名無史さん2018/11/05(月) 20:19:02.87
投馬国が宮崎なのはいいが、高千穂や日向は筑紫だよ。

213日本@名無史さん2018/11/05(月) 20:21:14.61
こんな土地が荒れてどうしようもないところなわけない。

http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg

ニニギは豊葦原瑞穂の国の王となるべくやってきたんだぞ。
稲作先進地であり、対馬海峡に面した博多湾沿岸に決まっているだろ。

214ホワイトケープ2018/11/06(火) 10:37:08.95
ニニギは投馬国建国のため南九州に降った。
天照大御神がめざす「しらす国」をつくるための実践でもあった。
荒れた土地を開墾すること、それが当時の国造りであった。
まず高千穂峰にのぼり、一帯の水利権を公のものとした。
霧島川の最上流には、ニニギが稲作を行った「狭名田の長田」が今も残る。
その下流には、ニニギを先導した猿田彦の屋敷跡も残る。

南九州の宇都はみな、稲作の水を得る川の最上流の地名である。

215日本@名無史さん2018/11/06(火) 10:41:14.28
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

216日本@名無史さん2018/11/06(火) 11:16:04.02
筑紫の日向を追い出された海幸(ニニギの息子)が逃げた先が宮崎県の方の日向であり、ちゃんと現地にその伝承がある。
それが魏志倭人伝にある投馬国(都万神社)。
ちなみにここを日向と命名したのはもっと後の景行天皇。

217ホワイトケープ2018/11/14(水) 19:33:20.15
> 邪馬台国東遷説 その4より
>52 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
>>49
ヤマトスクネも道案内している。
ヤマトスクネは、神武の曽祖父のニニギの兄にあたるホアカリの後胤。
つまり、神武の親戚。あと、高倉下命っても登場。
こいつは、ホアカリの孫rasii. つまり、神武と親戚。

九州には、神武らニニギの子孫が多くおり畿内には、ニニギの兄のホアカリの子孫が多く住んでいる。
あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。
ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。
これもひっかかる。

以下、ホワイトケープの意見
倭宿祢について 

218日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:42:41.30
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

219日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:58:47.20
>>217
なんで饒速日が乱を起こしたことになるんだよ。
天照国照の称号を持つ倭王そのものだ。
饒速日は天孫本人だからな。
長髄彦は饒速日を王として迎えた側だろ。
ちゃんと読み直せ。

220日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:06:00.85
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

221日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:06:54.90
饒速日は、自分は天火明命の櫛玉(形見)と主張したんだろう?
つまり、天孫の御落胤だと主張して、倭王の地位に就こうとした。
でも、尾張氏や皇室の祖先はそれを認めなかった。
 
新撰姓氏録でも、饒速日の後胤の物部氏は、天孫ではなく、ただの天神とされている。
天火明≠饒速日とされている。

222日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:08:00.81
神武東征なんて、科学的に言って、あんな遠征なんて無理だよ。

223日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:55:22.85
>>222
おっしゃる通り。

だから、倭国(阿波)国内での争乱と言ってるんですよ。  
中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。  @阿波

224日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:41:05.27
>>223
平地の多い大陸と山だらけの列島って差もデカイ

225日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:38:50.34
>>224
>平地の多い大陸と山だらけの列島って差もデカイ

海の存在はもっとデカイよ。  @阿波

226日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:42:21.34
>>225
東征の海路って山抜けるより楽だから選んでるのに?

227日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:50:50.02
>>226
>東征の海路って山抜けるより楽だから選んでるのに?

だれが選んでると?  君がかね?  ところで、その海路ってどこのこと?  東征軍は何艘の船団だろうね?  @阿波

228ホワイトケープ2018/11/15(木) 12:01:53.09
>>219

ごめんなさい。 入力途中で誤ってアップしてしまいました。ニギハヤイの乱は私の意見ではありません。


> 邪馬台国東遷説 その4より
>52 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
>>49
ヤマトスクネも道案内している。
ヤマトスクネは、神武の曽祖父のニニギの兄にあたるホアカリの後胤。
つまり、神武の親戚。あと、高倉下命っても登場。
こいつは、ホアカリの孫rasii. つまり、神武と親戚。

九州には、神武らニニギの子孫が多くおり畿内には、ニニギの兄のホアカリの子孫が多く住んでいる。
あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。
ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。
これもひっかかる。

以下、ホワイトケープの意見
倭宿祢について 
ヤマトスクネが神武を船で迎えて、先導しているが、神武の東征や出発を知っていたことになります。
これは、高天原の豊受大神からの先導依頼があり、出発の情報が伝わっていたために、できた先導と思われます。

曾祖父の火明命は舞鶴東部の志楽に宮を置いていたが、瀬戸内海航路でたえづ九州の高天原と行き来していて瀬戸内海航路に詳しいため、豊受大神が手助けをいらいしたものと考えます。
したがって、ハヤスイは明石海峡でなく豊予海峡が正解と思われます。

高倉下について
高倉下が神剣・布都御魂を神武に届けているが、高倉は豊受大神のことなので、高倉下は豊受大神の遣いをした
名前です。
火明命の末裔、高倉下も豊受大神と瀬戸内海航路を利用して行き来していた関係で、豊受大神をサポート
したものと思われます。

229ホワイトケープ2018/11/15(木) 12:49:29.45
>>228  の分割あっぷです。

ニギハヤイについて
ニギハヤイが奈良に向かった動機について、考えてみました。
天照大御神が亡くなると、男王が立ったけれど国中は不服であったと、魏志倭人伝は記します。
この時、立った男王が誰かは記していないが、高天原はニニギか山幸彦を立てたと思われるが、
出雲は大国主になったであろう。火明命の舞鶴からはニギハヤが立ったと思われる。
皆、高天原に集まって相談したがまとまらなかっと思われる。
結局、国造りの志にはやるニギハヤイは、九州から奈良にむかったものと考えます。

奈良に新しい都を作る計画は神武の時に突然にできたものでなく、この話し合いの中でも話題になっていたと思われ
それを先取りしたのではないだろうか。

230日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:32:34.42
>>221
>でも、尾張氏や皇室の祖先はそれを認めなかった。

先代旧事本紀では、饒速日の称号は天照国照。
天照と大国主の両方の権威を継承している。
その後に兄弟相続で邇邇芸に王権が移ったのだろう。

神武と饒速日の会談で、互いの天羽羽矢により同族であることを確かめ合っている。
これにより、神武の大和入りが完了した。

231日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:35:17.27
>>228
>あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。
>ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。

天孫の証を持っていたのは饒速日と神武だ。
記紀を読み直せ。

>>228
>曾祖父の火明命は舞鶴東部の志楽に宮を置いていたが、瀬戸内海航路でたえづ九州の高天原と行き来していて瀬戸内海航路に詳しいため、豊受大神が手助けをいらいしたものと考えます。

舞鶴と筑紫の間なら、日本海航路だよ。

>したがって、ハヤスイは明石海峡でなく豊予海峡が正解と思われます。

しかし神武はあえてハヤスイ、つまり関門海峡を抜けて筑紫から大和に向かった。

232日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:36:47.96
>>229
>天照大御神が亡くなると、男王が立ったけれど国中は不服であったと、魏志倭人伝は記します。

では、八咫の鏡を持っていた平原遺跡の女王がアマテラスで良いのだな。

233ホワイトケープ2018/11/15(木) 17:06:25.29
>>231
舞鶴と筑紫の間なら、日本海航路だよ。

若狭湾と瀬戸内海を結ぶ、加古川〜日本最低の分水嶺〜由良川を結んだ河川を
利用した交通路を拓いていたと思われます。
火明命が大国主命から志楽という辺境の地に住むよう指示されたとき
ここは良い地と述べたのも、このルートで出雲を経ずして高天原と行き来
出来たためと思われます。




図22(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu22.jpg)は豊玉彦が、西日本に拓いた航路である。

234ホワイトケープ2018/11/15(木) 17:12:54.59
>>232
では、八咫の鏡を持っていた平原遺跡の女王がアマテラスで良いのだな。

八咫鏡は日嗣の3種神器で、天照からニニギに渡されたと思われます。
今は伊勢神宮にあると思います。

平原遺跡から大きな、内行花文鏡が出土していて、八咫鏡と同種かも
知れないが、八咫鏡とは呼べないと思います。

235日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:15:51.52
平原遺跡の女王が天照であろう。

236日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:16:59.08
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。

http://www.geocities.jp/itosimadoranekoki/isourou/naikou.jpg

237日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:38:55.35
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

238ホワイトケープ2018/11/17(土) 08:45:40.63
>>236

【八咫鏡】の鏡についてのコメントありがとうございました。

239日本@名無史さん2018/11/17(土) 09:20:24.46
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

240日本@名無史さん2018/11/17(土) 09:46:41.45
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

241ホワイトケープ2018/11/22(木) 13:26:13.41
> 邪馬台国東遷説 その4より
>62 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
卑弥呼の遺物遺跡が全く存在していないのは作為を感じるね。
明らかに何者かによって隠されてると思う。
倭人伝はもちろん半島の歴史書までその名が登場してるからね。
書紀では倭人伝の卑弥呼台与の記事を神功皇后にあててるよね。
これと何か関係あるのかな。

ホワイトケープの考え
卑弥呼の遺物遺跡が全く存在していないのは確かといえる。
同一人物と考える天照大御神の遺物・遺跡もほとんどない。

私の考えでは、跡をついだ台与こと豊受大神が、東遷にあたり「後を濁さず」の考えがあって宮殿や遺跡も壊して出発したためと考える。
東遷のあとに残された宮殿などが別人に使用されることを懸念してのことかも知れない。
それでも、残すべきものはしっかり残している。
麻底良山(まてらやま)である。アマテラスのアとスを抜いた山名で、朝倉と日田の境にある。
しかも、二つの高倉山で差しはさんでいる。高倉山は伊勢の外宮の境内にある大きな山で、豊受大神が東遷のとき、経路に残した山でもある。
図9 九州の高倉山の分布  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu09.jpg
図11 朝倉付近の三角域の拡大  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu11.jpg

日田の小迫辻原遺跡の居館跡から焼土が出ていて、ここも焼き払ったのかもしれない。
日田市日高で出土した、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼あるいは台与が持っていたものとの説もあるが、ここは猿田彦がニニギを待ち受けた八街と考える日田市若宮町の
若宮神社から1kmしかない。
猿田彦神は豊受大神が尊敬していた上で、若宮神社を二つの高塚山で差しはさんでいる。

242日本@名無史さん2018/11/22(木) 13:50:14.67
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

243日本@名無史さん2018/11/23(金) 10:19:45.48
神武東征も、あの時代に宮崎から奈良まで大規模な軍事遠征が出来たとは到底考えられない。

一族郎等せいぜい数十人が、元の住処を追われるようにして、途中で武装勢力に襲われて小規模戦闘しながら流浪に流浪を重ね、最後に尾羽打ち枯らし、やっと奈良に流れ着いて何とか落ち着いた。

こう言う移住初代の話を、後から盛りに盛ったのが神武東征だと思うよ。

244日本@名無史さん2018/11/23(金) 10:29:14.61
>>243
>最後に尾羽打ち枯らし、やっと奈良に流れ着いて何とか落ち着いた。

そんな有様で、なんで「神武東征」などと華々しく語られるのかね?
しかも、海の無いジメジメした奈良盆地へなどとw
もうちょっとマシな妄想を考えないとだめだよw   @阿波

245日本@名無史さん2018/11/23(金) 11:09:54.74
故郷の宮崎を追われるようにして、流浪の末に「結果的に」奈良盆地に落ち着くことが出来た神武一行は、その後は家運が上向いて、地域の有力者になった。

当時の奈良盆地は稲作の高度成長期で、人手が足らず、神武一行のような素性も知れない流れ者の一団でも受け入れてもらえたのだろう。

そして高度成長にも後押しされて地域の有力者になった神武の家系は、かつて自分たちを追放した故郷に当て付け、こっちこそ正当なんだと見せつけるように、奈良盆地のあちこちに、九州と同じ地名をつけまくった。

そう言うお話を、記紀で盛りに盛ったのが神武東征の実状だと思いますよ。

246日本@名無史さん2018/11/23(金) 11:17:06.27
天孫降臨が出雲ではなく何故か日向の片田舎であった理由。

奈良盆地にあった邪馬台国、卑弥呼=アマテラス系のクニを、征服したか、簒奪したか、あるいは婚姻によって新参の神武系が乗っ取った際に、後付けで無理矢理正当性を持たせるために作ったストーリー。

247日本@名無史さん2018/11/23(金) 11:29:37.49
魏とも修好したかつての女王国は、その権威において圧倒的だった。

神武以降、崇神、応神、継体と、実質的な王朝交替があるのだが、みなかつての女王国、卑弥呼=アマテラスの末裔であるとストーリーを作ったり盛ったりした。それが記紀。

248日本@名無史さん2018/11/23(金) 11:44:47.82
ちなみに邪馬台国が奈良盆地なのは、弥生時代から既に人口の中心は本州だったから。

魏使が本国に本州のことを伝えない訳がなく、北九州から結構な距離を進んで最初に到達する大人口地帯が奈良盆地。

249日本@名無史さん2018/11/23(金) 11:54:21.59
>>245-248

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw  @阿波

250日本@名無史さん2018/11/23(金) 12:15:49.07
魏使は何遍も邪馬台国に来て、何年も滞在してるんだから、九州のすぐ隣に馬鹿デカい島があって、そこにもっと大勢の人間が住んでることを知り得ないはずがないでしょ?

251日本@名無史さん2018/11/23(金) 12:16:34.06
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

252日本@名無史さん2018/11/23(金) 12:17:41.41
邪馬台国が仮に九州だとして、魏使が本州の存在に気づかないなんて、あり得ないでしょそんなこと。

253日本@名無史さん2018/11/23(金) 14:20:14.99
>>248
誰がそんな適当な旅行をするんだ。
する訳ないだろ。
それに、弥生時代の畿内なんて水浸しで人口は少なかった。

254日本@名無史さん2018/11/23(金) 14:53:59.89
>>253
弥生時代に、九州の連合軍が遷都しようと奈良盆地まで

255日本@名無史さん2018/11/23(金) 14:55:13.36
攻め上るとか、信長の野望じゃないんだから。補給をどうするのよ?補給を。

256日本@名無史さん2018/11/23(金) 15:01:50.78
>ホワイトケープ
よく研究されてますね
そちらが載せている各種の地名や破鏡の分布図と、↓これらの地図にも類似性があるようです

> 593 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:14:14.49
> 北部九州は縄文時代から既に西日本の中心だった
> そしてそれは弥生時代から古墳時代にかけても継続した
> 縄文時代の貝の交易マップと、北部九州の海人族・安曇の分布がほぼ一致している
>
> 縄文時代の貝の交易
> http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608018/30/55536130/img_3?1506135325
> http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
> 安曇族ゆかりの地
> http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
>
> また、縄文時代には貝で作った貝輪が北部九州の有力者の証だったが、弥生時代以降にはそれをモデルにして銅で作った
> 銅釧(かなくしろ/どうくしろ)がこれに代わり、やはり同様の分布を示す
>
> 銅釧出土地
> http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png
>
> 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる
> http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm
> >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
> >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。
>
> やはり、邪馬台国の時代に至っても北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ
> 銅釧の出土を見ると、畿内も大阪湾南岸は既に北部九州の勢力下に入っていたようだ
> 現在の和泉市や泉佐野市のあたりなのを見ると、和泉(イズミ)も安曇(アズミ)由来の地名のようだな

257日本@名無史さん2018/11/23(金) 15:03:28.17
> 596 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:25:44.39
> 安曇の関係地や海人の特権階級が身につけた有鉤銅釧の分布は連続的ではなく飛び飛びになっており、
> 邪馬台国は本州に飛び地を持っていた可能性が高い
> http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
> http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png
>
> 例えば近江に安曇族が来たのは卑弥呼の時代とも一致するらしい
> 邪馬台国の飛び地だったと言ってもいいだろう
>
> https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603
> > 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、
> > 新旭町安井川の「安曇」や太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、
> > 今津町南浜の「天川」などである。
> > そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して
> > 安曇川流域付近に住 みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。
> > また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。

258日本@名無史さん2018/11/23(金) 15:04:14.35
> 602 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 01:10:22.43
> https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1559278/18/54429718/img_3
> この伝阿曇居住地(水色の丸印)を見ると、奈良が完全に安曇に包囲されてるのがよく分かる
> この状態から畿内が九州に対して逆転勝利を収める目は存在しない
> 完全に包囲されて圧力に屈した奈良が入婿(神武)を受け入れて権力を明け渡した程度の話が東征の実態だろう

259日本@名無史さん2018/11/23(金) 15:08:36.30
> 599 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:49:02.97
> 安曇の関係地の一つである渥美半島で、異様に上腕骨の太い縄文人の骨が見つかっている
> 海流に逆らって船を漕ぐためにそうなったと考えられており、海人族が縄文時代には既にここまで来ていたことを示している
> ちなみに、2番目にマッチョだったのが海人の本拠地、福岡玄界灘の集団であった
>
> https://readyfor.jp/projects/koukai2/announcements/84232
> >最後に補足ですが、図中のGは保美に次いでマッチョだった縄文男性なのですが、北部九州の玄界灘集団です。
>
> これと同様にマッチョな弥生人の骨が長崎の離島からも見つかっている
> やはり海人族だろう
> https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html
> > 弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。
> > ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。
> > それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。
> https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_eyecatch.jpg

260日本@名無史さん2018/11/23(金) 15:14:33.46
>ホワイトケープ
>>256-259は下記からの引用です
引用したもの以外にもあるので興味がありましたらどうぞ

【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542023631/593-602

261日本@名無史さん2018/11/23(金) 18:55:23.58
九州の連合軍が奈良盆地まで攻め上ったのなら、なぜにその後、

崇神が四道将軍を発したり、ヤマトタケルが熊襲征伐をしなきゃならんのよ?

九州から奈良盆地までを征服したのはどうなったんだ?途中に吉備のような結構大きな勢力もあるが、吉備はどうしたの?征服したの?

そうじゃないんだよ。

神武は大軍を従えた征服者ではなく少人数の流浪者・移住者で、その後のヤマト政権は、奈良盆地とか畿内ローカルの勢力だったからだよ。

262日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:02:53.43
>>261
> 神武は大軍を従えた征服者ではなく少人数の流浪者・移住者で、その後のヤマト政権は、奈良盆地とか畿内ローカルの勢力だったからだよ。

そうじゃないんだよ。
神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw  @阿波

263日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:03:48.95
記紀の神武だって、何だか妙にショボい戦さを繰り返してるだろ。敵を騙して家に閉じ込めて外から火をつけるとか、まるで弱小豪族同士の抗争だ。

後世の記紀編纂者が、盛りに盛ってあれだからね。

実際は一族郎等合わせて数十人規模で、地域地域の武装勢力と諍いを起こして、結局その土地を奪えずに、諦めて先に行く。その繰り返しで、最後にやっとこさ奈良盆地で落ち着いたの。

264日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:05:42.17
>>261
熊襲は狗奴国だからもともと敵対してたんだろう
四道将軍もまた同じ
>>256とかを見ると吉備は縄文時代から玄界灘勢力と付き合いがあったようだし、同盟関係だったんじゃないか

265日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:05:51.26
>>263
>実際は一族郎等合わせて数十人規模で、地域地域の武装勢力と諍いを起こして、結局その土地を奪えずに、諦めて先に行く。その繰り返しで、最後にやっとこさ奈良盆地で落ち着いたの。

そうじゃないんだよ。
神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw  @阿波

266日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:12:33.51
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

267日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:19:19.00
>>256-259
こういう考古学的資料があるのにそれを無視した議論には意味がないよな
実際にこれらのものが出土しているという事実を踏まえて考えれば九州邪馬台連合が東遷したとしか考えられない
>>257の近江の例などと同じような現象が近畿、畿内各地でおこったのだろう

268日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:29:04.85
神武東征では、神武の兄弟も死にまくりと言うのも不審。

大軍を擁した征途のいくさで、王の兄弟がそんなに死ぬかね?そんな大軍だったら、みなさん一軍を預かる将軍でしょ?

でも実際には兄のイツセは、矢がビュンビュン飛んで来る前線で戦ってたってことでしょ?

弟たちは荒れた海を強引に航海して難破して死んでるし。将軍様の御座船に、そんな無茶させる?

あと「宴会に招いて騙し討ち」とかもしてるし。

だからね。せいぜい、弱小豪族の小規模な抗争くらいの戦闘規模だったのよ、神武東征と言うのは。

269日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:30:29.66
>>267
>実際にこれらのものが出土しているという事実を踏まえて考えれば九州邪馬台連合が東遷したとしか考えられない

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw  @阿波

270日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:33:02.86
>>268
>だからね。せいぜい、弱小豪族の小規模な抗争くらいの戦闘規模だったのよ、神武東征と言うのは。

そうじゃないんだよ。
神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw  @阿波

271日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:38:16.52
神武一行のイメージとしては、まあ、故郷を追われた「山賊」みたいなもんだろ。

行く先々で戦闘や掠奪を繰り返し、どんどん東に流れて行く。

逆に言うとせいぜい山賊規模なので、補給や占領地行政などを気にせず、日向から奈良盆地まで流れ着くことが出来た。

272日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:40:06.42
>>271
>逆に言うとせいぜい山賊規模なので、補給や占領地行政などを気にせず、日向から奈良盆地まで流れ着くことが出来た。

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw  @阿波

273日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:44:36.34
>>267
共通の交易品が日本の広い範囲で見つかりました、と言う話がどうして、

「九州から畿内までの大規模軍事遠征がありました」

と言うストーリーの証左になるのさ?

274日本@名無史さん2018/11/23(金) 19:48:07.10
>>273

妄想だからw   @阿波

275日本@名無史さん2018/11/23(金) 20:36:22.47
来たぞ!

【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/

276日本@名無史さん2018/11/23(金) 20:36:56.60
>>273
> 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる
> >http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm
> >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
> >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。

277日本@名無史さん2018/11/23(金) 20:37:57.77
>>273
>>258を見ればわかるさ

278日本@名無史さん2018/11/24(土) 00:07:06.19
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

279ホワイトケープ2018/11/24(土) 07:39:29.76
>256〜

いろいろ情報をいただいて、ありがとうございます。
すこし、検討してみます。

280日本@名無史さん2018/11/24(土) 08:05:39.28
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

281日本@名無史さん2018/11/24(土) 15:09:22.74
伊都を追われた神武の後に伊都で筑紫倭王に共立されたのが卑弥呼だったのだろうね。

282日本@名無史さん2018/11/26(月) 10:15:55.06
>>74もう西区の集落跡を見つけ出すのは無理だろう
開発されまくって海岸も埋め立てだらけ
>>1の文章の書き方には浪漫を感じる
好感をもてる。頑張って欲しいです。

283日本@名無史さん2018/11/26(月) 11:23:35.67
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

284日本@名無史さん2018/11/26(月) 13:06:08.82
天皇の一族が最大勢力になったのって飛鳥時代のあたりだろ
それまで豪族とかたくさんの王が割拠してたんだろう

285ホワイトケープ2018/11/26(月) 17:05:54.86
282日本@名無史さん2018/11/26(月) 10:15:55.06
>>74もう西区の集落跡を見つけ出すのは無理だろう
開発されまくって海岸も埋め立てだらけ
>>1の文章の書き方には浪漫を感じる
好感をもてる。頑張って欲しいです。

エールをありがとうございます。
古代はロマンにあふれています。調べるほどに古代の人は国造りに純粋に生きたと思えてきます。
もしよければ、県立図書館に寄贈しているので取り寄せて読んでください。
「たかとりが明かす日本建国」
「丘と岡が明かす天孫降臨」
「伊邪那美岐が明かす国生み」
です。3冊目はこれから寄贈の予定です。
日本武尊や豊受大神の生涯に、多くのロマンを感じることができるでしょう。
85歳の方から、「生きているうちに出会えてよかった本」の感想が届いています。

286ホワイトケープ2018/11/28(水) 11:29:34.66
古代研究の中で見つけた古代ロマンです。
「和久産巣日神の須佐之男を思う心」
和久産巣日神は伊邪那美の神々の生成の最後の方に登場する。
この神の子は豊受毘売と謂うとある。
和久産巣日神は加具土神と埴山姫の間の子である。
伊邪那美は加具土神を生んだために亡くなってしまう。
伊佐那岐は怒り、加具土神を十拳剣で斬ってしまった。
須佐之男と和久産巣日神は幼馴染だったと思われる。
須佐之男の父に、わが父が殺された和久産巣日神。
時が流れた。
須佐之男は高天原を追われ出雲に向かった。
和久産巣日神は須佐之男を追って出雲に行っていた。
和久産巣日神は、慕う須佐之男と結婚できなかった。
和久産巣日神は出雲に来ていた大山津見神との間に神大市比売を生んだ。
須佐之男は年老いたが神大市比売を娶り豊受毘売を生んだ。
そのころ
出雲国譲り交渉のなか、天照大御神が死んだ。
倭国王に高天原からはニニギか山幸彦が立った。
出雲からは大国主か事代主が、丹波からはニギハヤイが立った。
国中は不服で争いになった。
この状況に和久産巣日神は、高天原に出向いた。
伊邪那岐に斬られた、加具土の子・和久産巣日神の心が高天原を動かしたのだろう。
須佐之男の子、豊受大神を女王に推戴、国仲は収まった。
その名、産巣日の神名はその功績のなである。
大宰府に残る翰苑は「臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。」と記す。
豊受大神は、幼いながらもよく衆望にかなう働きをした。
豊受大神は国譲りを成功させた。
豊受大神は東征の途次、出雲に立ち戻った。
このとき祖母・和久産巣日神の、須佐之男を慕う心を和久の地名で記録した。
図32 須佐之男の陵がある黒山を和久の地名が指し示す。 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu48.jpg
東征隊は豊受大神のこの行いを、高塚山で記録した。
図32 高塚山が指し示す和久羅山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg

287日本@名無史さん2018/11/28(水) 11:46:06.52
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

288ホワイトケープ2018/11/30(金) 17:52:10.12
> 邪馬台国東遷説 その4より
119 :日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN
邪馬台国や卑弥呼がそこまで日本史上重要であるなら、記紀に登場しないはずがない
卑弥呼=アマテラスだという主張もあるが、諸々の事件や時系列は都合良く無視してるように思う
卑弥呼が記紀の於けるどの時点で登場してるのかはっきりさせてくれ

ホワイトケープの検討結果

表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg

表1は、伊邪那岐と伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニの名から1文字ずつ採った名であることの、発見を表した表である。
この表の検討から次のことが分かった。
1、伊邪那美岐の文字順が、対応するクニの格順になっている。
2、古事記に登場する「別天つ神五柱」の登場順がクニの代表で対応が取れている。
3、「別天つ神五柱」が、魏志倭人伝が記す倭国乱収束の話し合いを行った。
4、話し合いで、伊都国宗家の男子と、敵であった奴国王の娘を結婚させた。
5、生まれた子供から、統一倭国の王を選ぶことは、会合で決まっていた。
6、それが偶然、長女の天照大神で卑弥呼だった。

>119が疑問視しているが、
しっかりと記紀に登場していて魏志倭人伝より詳しく書いている。
時系列はあっている。伊邪那岐、伊邪那美に魏志倭人伝に出てくるクニ名が出てくるので
その子・天照大御神は邪馬台国の時代に生きたことは確かである。
魏志倭人伝は共立としか書いてないが、「別天つ神五柱」が話し合いで決めた、共立だった。

289日本@名無史さん2018/11/30(金) 17:53:34.44
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

290ホワイトケープ2018/12/06(木) 11:40:05.86
> 邪馬台国東遷説 その4より
>343 :日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:29:01.21
>335
ひょっとして光谷さんの年輪年代法が科学だとでも言うのかな。
あれはブラックボックス。検証不可能なものは科学とはいえない。

それにしても、年輪年代で年代が遡ったのは素早かった。
あっという間もなかった。
また、マスコミや出版業界を通じての宣伝もすごかったが、各方面への圧力のかけ方もすごかった。

しかし、法隆寺の心柱の年代などで年輪年代が問題になっても、考古学会は知らん顔していた。
年代を見直そうという気はさらさらないようだった。
恐らく、光谷さんの年輪年代法が問題になったとしても、我関ぜずの態度だっただろうな。

旧石器捏造事件と似ているな。


ホワイトケープの意見
>343と同じ考えです。
年輪年代法に100年の年代遡りがると指摘したのは、2011年の考古学総会での鷲崎弘明の発表でした。
しかし、これは無視されてその後も弥生時代の年代区分や、古墳時代の幕開けに100年の遡り状態が続いています。
すべてが、邪馬台国が奈良にあったとする先入観念の裏付けに利用していると思われます。
科学的と言われるものをすべて、このように利用して自己満足しているのかも知れない。
1、纏向遺跡から出土した桃の種の、C14放射性同位体残存量を解析も、日本に特化された「JCal」補正を行わず、世界標準の「IntCal13」補正を使っており、
【邪馬台国畿内説】に有利な結果を出している。
2、遺跡の時代区分に出土した鏡の鏡種を用いているが、この考えの中に同じ鏡種は中国から各地にほぼ同着した考えが入っている。
九州と奈良に同じものがあれば、同じ年代区分の遺跡とする考えである。(下記リンク)これも纏向遺跡の時代遡りの原因となっている。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf

3、近畿では、池上曽根遺跡や近江の伊勢遺跡・稲部遺跡など大型弥生遺跡が見つかっていて、これを源大和の痕跡と考えたかもしれない。
これらは、加茂族などの集団が倭国乱を逃れて移り住んだ遺跡で、源大和なる活動のあとは全くない。

291日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:03:07.81
>>1 関連スレ

♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]c2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1421710539/
伊都国東遷スレ 10
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1534419766/

292日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:12:23.91
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

293日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:54:11.51
>>290
畿内は淀川が内陸交通の要所だった。
琵琶湖を含めれば日本海から瀬戸内海まで通じていたからだ。
伊勢遺跡は日本海沿岸の盟主だった出雲の出先だろう。

実際に畿内を開発したのは、瀬戸内海から上陸した三島の神(三島溝杭耳)らの鴨族であり、大和もその末裔である登美の鴨主らが開発したと思われる。
彼らは博多湾沿岸の倭王であったイザナギの直系の祖先であり、筑紫の勢力が畿内を開発したことは明白なのである。

294日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:00:22.54
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。

この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。

古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

295日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:10:31.63
鴨王とは、嘉麻市嘉麻川周辺カモ→嘉麻
蕨手文の一族
と思う。妄想ですが

296日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:23:08.10
すいません、その地名をそもそも知りません。

297日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:32:33.54
>>295
残念ながら嘉麻って地名は平成18年製

298日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:35:39.02
遠賀川の一部が明治期に嘉麻川と呼ばれてたけど、江戸時代までは岡川か遠賀川なんだよな

299日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:10:42.74
昔の遠賀川は鮭が毎年遡上していた
年魚は鮭

300日本@名無史さん2018/12/08(土) 08:13:39.63
>>297
いや筑前国嘉麻郡は和名抄にも載ってるが
ここで嘉麻を検索してみ?
http://chimei.nabunken.go.jp/

301日本@名無史さん2018/12/08(土) 08:28:12.50
ならば畿内を開拓した鴨の一族も、発祥は福岡県ということで納得。
結局は筑紫倭国が拡大して、一部の勢力が東征して畿内を開拓した。
続いて饒速日が東征して畿内を征服した。
鴨から二、三世代遅れて筑紫から再び神武が東征した。
その過程で銅鐸勢力が衰退したが、饒速日から始まる物部が纒向や前方後円墳を作った。

302日本@名無史さん2018/12/08(土) 08:41:17.98
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

303ホワイトケープ2018/12/09(日) 09:51:44.29
>>298 日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:35:39.02
遠賀川の一部が明治期に嘉麻川と呼ばれてたけど、江戸時代までは岡川か遠賀川なんだよな

岡と丘について、ホワイトケープの調査結果
遠賀川(古名・岡川)がある北九州付近には、岡田宮や岡水門など神武東征で名付けた岡の地名があります。
なぜ岡なのか、調べたところでは、ニニギが南部九州で名付けた、〇〇岡や〇〇丘に由来すると思われます。
次図のように、ニニギが天孫降臨の道に名付けた岡や丘です。
丘は出発地と到着地に名付けて、中間に岡を名付けています。
天孫降臨の最初の丘は、高千穂町にある「国見が丘」で、最終地点は八代海にある獅子島 の「黒崎丘」です。
猿田彦が海でおぼれて亡くなった、悲しみの黒です。意味のない名付けはありませんでした。

図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg

図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg

神武は東征を、ニニギの国造りの延長と認識していたようで、東征最後の地点に「甘樫丘」を名付けています。
東征途中に〇〇岡や丘を名付けては、天孫降臨と混同するので、地名に名付けたと思われます。
近畿には他、城ケ岡・雙ヶ岡・石堂ケ岡が見つかるのみです。
日本武尊東征でも東北に三つの「〇〇岡」を名付けています。地図で探してみてください。

304日本@名無史さん2018/12/09(日) 12:17:59.56
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

305日本@名無史さん2018/12/09(日) 21:32:18.84
蕨手紋の古墳壁画の船の先端部には
鳥が書かれているのよね
ヤタガラスなのか鴨なのか鵜なのか私にはわかりません
全て当てはまりそうでw
奈良県の古墳の内部壁画ないのかなあ
発掘品ばかり発表で、内部の構造写真とか少ない
ような気がする

306日本@名無史さん2018/12/09(日) 22:28:07.63
>>285あ、本屋に1冊だけ注文してみたわ

307ホワイトケープ2018/12/10(月) 07:34:14.47
>>306日本@名無史さん2018/12/09(日) 22:28:07.63
>>285あ、本屋に1冊だけ注文してみたわ

ありがとうございます。
多くの発見に驚いてもらえると思います。

山々を訪ねた記録は次にアップしています。
読書の参考にしてください。
http://vbsoft.sub.jp/hana/takatori1.html

308日本@名無史さん2018/12/10(月) 12:28:09.60
記紀の国生みで女神の名は四国だけ
四国が女王国であることを匂わせてる

309日本@名無史さん2018/12/13(木) 11:57:47.14
朝鮮の高句麗からやって来た天皇が九州北部を硬め
大和王朝を乗っ取った

310日本@名無史さん2018/12/13(木) 13:10:20.39
記紀の国生みにおける天津国は対馬海峡が中心。
そのほかの島は後から追加された。
国生みに先立っておのころ島(能古島)が作られた。

311日本@名無史さん2018/12/13(木) 17:15:03.79
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

312日本@名無史さん2018/12/13(木) 18:10:48.17
>>308
>記紀の国生みで女神の名は四国だけ
>四国が女王国であることを匂わせてる

各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。

「阿波国風土記」  @阿波  
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa

通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか?

役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」で済まされる話ではない。 

313ホワイトケープ2018/12/18(火) 13:56:40.66
>>308
>記紀の国生みで女神の名は四国だけ
>四国が女王国であることを匂わせてる

ホワイトケープの四国の調査結果
「別天つ神五柱」の神々から国生み派遣された伊邪那岐・伊邪那美は、主に阿波の吉野川流域を拠点に開拓を行っていた。
開拓の中で活躍した人物に神の称号を与え、子や孫に技術の伝搬を図った。
建築の神々がはじめだった。
次に自然にまつわる神々だった。神も人なれば自然を司ることはできない。
河口の潮の干満、明日の風向きなど自然を読む能力があって、伊邪那美より神の称号が与えられたと考えます。
食べ物の神は主に、女性であった。
吉野川流域には多くの古代の神々が祀られているのはそれゆえと考えます。
大国主なども登場するが、歴史の重要な場所であることを大国主も知っていて訪ね来ているかも知れない。
天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている

314日本@名無史さん2018/12/18(火) 14:32:25.23
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

315日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:30:50.74
>>313ホワイトケープ
>天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている

ここで突然現れる、吉備・九州の無理筋。  @阿波

316日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:45:56.38
>>313ホワイトケープ
>天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている

吉備や九州へ行ったのは吉備忌部や筑紫忌部たちなんだよ。  @阿波

317ホワイトケープ2018/12/18(火) 15:53:12.14
315日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:30:50.74
>>313ホワイトケープ
>天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている

ここで突然現れる、吉備・九州の無理筋。  @阿波

ホワイトケープの意見
いろいろな意見があるのは比定しません。合意は出ないので討論はしません。
阿波の方なら、高越山に伊邪那美の神陵があるのはご存知と思います。
邪馬台国に固執するより、国生みをもっとアピールすることが大事なように思います。
邪馬台国の主張に特別な意義を感じているなら、ごめんなさい。

318日本@名無史さん2018/12/18(火) 16:19:41.27
>>317
>邪馬台国に固執するより、

邪馬台国に「特別な意義」は持っていませんが、魏志倭人伝の記述が倭国(阿波)の事というだけ。


>国生みをもっとアピールすることが大事なように思います。

国生みは邪馬台国が始まりです。  @阿波

319日本@名無史さん2018/12/18(火) 17:48:58.78
国産み神話は福岡県那珂川周辺
記紀に載らない国産みの祖先は福岡県田川大分県日田

福岡県と合併する前の小倉県
小倉県も調べるとなかなか面白い

320日本@名無史さん2018/12/18(火) 17:52:14.60
>>319

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw   @阿波

321日本@名無史さん2018/12/18(火) 18:01:13.47
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

322ホワイトケープ2018/12/23(日) 11:15:39.58
国生みの話題となったので、おのころ島について少し。

1、博多湾から国生みに向かった伊邪那岐、伊邪那美は、別々な船で出発したと思われる。
2、志賀海神社には綿津見三神が祀られているので、三神の船団で分かれて進んだと考えた。
3、第一団は、日本海を進み本州を一周した。
4、第二団は、瀬戸内海を進んだ伊邪那岐の船団と思われる。
5、第三団は、四国沖を進んだ伊邪那美の船団と思われる。
6、伊邪那岐は距離が短く、淡路島東にある沼島で伊邪那美を待ち受けた。
7、距離のある伊邪那美は遅れてやってきて、迎え出た伊邪那岐との再会に感激しと思われる。
8、沼島の上立神岩が天の御柱に見立てところで、伊邪那岐は航路と同じく左回りした。
9、そして伊邪那美が右回りしたと記すのは、航路の経路を示唆したものと考える。
10、積極的な伊邪那美は、うれしさのあまり先にプロポーズしてしまった。

323日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:17:12.94
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

324日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:22:27.67
日本の神話と言っているけど、
本当は日本の話ではないんだよ

どこそこで生まれたとか、
そういうのも嘘

325日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:48:24.02
博多湾の話だってば。

326日本@名無史さん2018/12/23(日) 12:07:21.60
>>325

博多湾は、「其山有丹」で論外の話だってば。   @阿波

327日本@名無史さん2018/12/26(水) 07:46:20.69
>>326
オッケー分かった
そろそろ帰れや

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

328ホワイトケープ2018/12/27(木) 20:50:08.97
古事記は二神の結婚の段で次のように記している。
『次に淡島を生みき。こも亦、子の例には入れざりき。』

次のように考えた。
1、この淡島は、和歌山市加太の淡島神社の淡島神で、水蛭子と同じ不遇の子とする説がある。
2、私は徳島の吉野川中流にある、日本最大の「中の島」である、現在の善入寺島を淡島と比定した。
3、伊邪那岐・伊邪那美は、水が得やすいこの島をまず開拓し始めた。
4、徳島の特産の穀物も植えた。
5、ところが、雨が少し多いと吉野川が増水し開拓地は水につかり土が流れてしまった。
6、島はすぐに水がつくことから、水の泡のようだと自虐して「淡島」と呼んだのだろう。
7、そこに植えた特産の穀物も、粟(あわ)と呼ぶようになった。
8.ついにこの島の開拓をあきらめ、神々のいる高天原にもどり相談をした。
9、神々には開拓を続けてくれることが大事で、失敗の原因は何でもよかった。
10、やり直しのできることを、失敗の原因とした。
11、「女先に言へるによりて良からず、また還り降りて改めて言へ。」
12、二人は、次に淡路島にもどり、南あわじ市のおのころ島神社がある島を改めて回った。

329日本@名無史さん2018/12/27(木) 21:44:12.04
>>328
オッケー分かった
そろそろ帰れや

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

330日本@名無史さん2018/12/27(木) 22:22:50.63
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

331日本@名無史さん2019/01/01(火) 17:06:13.01
延喜式に掲載されている神武天皇をご祭神とする神社はただひとつ
阿波は鈴川山に鎮座した樫原大明神ただ一社
奈良県橿原神宮は明治建立のばったもん

332日本@名無史さん2019/01/01(火) 17:28:23.15
「樫原神社」  @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/

333日本@名無史さん2019/01/01(火) 20:30:13.61
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

334ホワイトケープ2019/01/07(月) 16:52:38.52
記紀は、一書を含めて全て淡路州をまず生んだとしている。

次のように考えた。
1、伊邪那岐・伊邪那美の二人は高天原から戻り、南あわじ市の「おのころ島神社」付近に上陸した。
2、おのころ島を改めて回りなおすと、諭鶴羽山の谷水を利用した開拓を開始した。
3、麓の神代浦壁や神代社家などの地名は、その名残かもしれない。
4、しかし、諭鶴羽山(608m)は低く、谷も浅く、海岸まで10数kmしかない。
5、日本有数の灌漑用池が密集している地区で、当時も水に難儀したものと思われる。
6、日本書紀は、淡路州の結果が不満足で、「吾恥島」だと自虐的に記している。
7、つぎの土地に移ったのだろう。
8、淡路島の鉄遺跡、五斗長垣内や舟木遺跡は、邪馬台国時代には終わっている。
9、伊邪那岐・伊邪那美の国生みで、瀬戸内海東部の情勢が安定し、鉄工房は各地に拡散したと考えた。

335日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:27:28.40
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

336日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:10:07.84
>>334
なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。
考古学的にもデタラメ。

337ホワイトケープ2019/01/08(火) 10:50:46.84
>>334
なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。
考古学的にもデタラメ。

指摘ありがとうございます。
考古学のプロではないので、誤りがあるかもしれません。
具体的に指摘の内容を説明していただければ助かります。

自分なりに、誤りとわかれば修正したいと思います。
できるだけ詳しく、お願いします。

338日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:24:35.03
>>337
淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。
そもそも銅矛文化圏(九州北部)の伝承と考えられる。
おのころ島は接頭語や助詞の違いを考慮すると、博多湾の能古島のことと考えられる。
かなり飛躍があるかもしれないが、イザナギらによる博多湾沿岸の倭国建国譚と解釈できる。
国生み神話では、九州北部の周辺の島ばかり小さい島が多く登場し、名称に「天の」とついている。
イザナギらの天津国は、この九州北部の島々(あまつくに=海の国)と考えられる。
記紀への収載に際して、西日本の各地を追加されたのだろう。

339日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:30:54.26
>>338
>淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR

340日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:41:39.15
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

341ホワイトケープ2019/01/09(水) 09:59:29.64
>>337
淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。

>334
なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。考古学的にもデタラメ。
337は、考古学的反論でないので、334の方と違うようですね。

>337
歴史書を読んだ意見の相違のようなので、議論はしません。あしからず。

342日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:10:57.66
淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系
淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力

弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。

>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。

343日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:13:20.68
近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、
これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる

https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603
> 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や
> 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。
> そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に
> 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。
> また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。
>
> しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、
> 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が
> 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。

344日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:17:08.53
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

345日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:18:57.22
淤能碁呂島については、仁徳天皇御製と伝わる和歌に檳榔の島が出てくることから、檳榔が自生しない瀬戸内海ではないことが分かる
檳榔の自生北限は福岡県である

http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html
> この口語訳は「古事記(講談社学術文庫)」によると以下のとおりになります。
>  『(おしてるや)難波の崎から、出で立って、わが領有する国をながめると、淡島や島、また檳榔の島も見える。佐気都島も見える。』
>  注釈には「おしてるや」は難波の枕詞、「淡島はイザナミ・イザナギの二神が国産みの最初に産んだとされる産み損じの島」であり、
> オノゴロ島は「神話上の島」、檳榔の島は「空想上の島」であるらしい、さけつ島も「実在の島ではあるまい」としています。
>  檳榔とはビロウの古名であり、ビロウは熱帯性のヤシ科の植物なので、南九州や四国太平洋岸には自生していても、
> 淡路島周辺の瀬戸内海には見ることができない植物です。これがネックとなり淡路島周辺のどこを見た風景なのかわからなくなってしまい、
> 結果「オノゴロ島」も「淡島」も「さけつ島」も全て「実在ではない島」となってしまっています。
>  ところが、この詩がそもそも淡路島から見て詠われたものではないと仮定して、淤能碁呂嶋候補と言われている島の中から、
> 自生ビロウが存在する島に絞って考えてみると、以外にこの詩のなぞが解けてくるのです。
> 淤能碁呂島候補でビロウが自生している島とは、唯一『小呂島』しかありません。

346日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:21:39.33
つまりは海洋民族国家である天津国(海の国)すなわち倭国が筑紫を起点に日本海ルートと瀬戸内ルートで西日本を席巻したのが弥生後期の列島の姿であり、その中でも富と権力を思いのままにしたのが筑紫の日向の伊都に眠る卑弥呼であったのだろう。

347日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:22:44.10
檳榔が南国の植物であることからも分かるように、ビロウ祭祀は南海系の文化
ゴホウラ貝などを南西諸島と交易していた海人が持ってきたと考えると>>342、343と符合する
それが皇室の重要な祭事で重視されているというのも、皇室が海人の出自であると考えれば妥当だろう

http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html
>なぜ、ビロウが手掛かりになるのかというと、このビロウという植物の古代天皇制から現在の天皇家にいたる祭祀上の特殊な位置づけがあるからです。
>まず第一に、古代天皇制においてビロウは「最も神聖な植物」とされたということです。
>皇族の中でも特に高貴なものに許された乗りものに、ビロウ毛の牛車というものがあります。屋根材をビロウの葉で覆っているものだそうです。
>なぜこのような牛車が高貴なものしか許されなかったのか?
>おそらくそれは、天皇の即位式である大嘗祭に由来しているのではないだろうかと思われます。大嘗祭においては、天皇として即位する
>儀式のため百子帳という小屋を建て、そこが天皇になるための禊の場となるのだそうです。
>この百子帳の屋根材は、なんと今でもビロウの葉でなくてはならないのです。
>ビロウ毛の牛車とは、おそらくこの百子帳を日常にアレンジしたものであろうと思われます。
>ならば、その使用は天皇にごく近い血筋をもったものしか許されなかったことは、想像に難くありません。

348日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:24:30.29
>>347の続き

>第二に、ビロウは古代から続く信仰のシンボルでもあった可能性があるということです。
>折口信夫によると、ビロウの葉は風を起こす呪具であり、扇の元となったといいます。風は航海や海戦にとって、命を左右する自然現象です。
>古代において、呪術と科学は同じですから、ビロウの葉はシャーマンにとって風をあやつることができる(とみせることができる)、
>重要なアイテムだったのです。
>また、吉野祐子によるとビロウの葉は扇の原型でもあるが、幹は男根の象徴であり、蛇信仰のシンボルでもあったといいます。
>実にビロウは、日本の風土と信仰に深く根ざす植物でもあるのです。
>そもそも、ビロウ祭祀を行っていたのは、南方から流入した系統の民族であり、沖縄・南西諸島のには必ずビロウが自生しています。
>宮崎県の天孫降臨伝説が残る青島は、まさに北半球最大のビロウ自生地であり、青島神社の元宮は縄文時代からの遺物が発掘されます。
>古代天皇制に南方の習俗・祭祀が取り入れられているのは、古墳時代の遺物からもゴホウラガイの腕輪などからも推測されますが、
>山幸彦・海幸彦伝説の起源を考える上でもとても興味深いのです。
>
>さて、このようなビロウが沖ノ島や小呂島に自生しているのは、どんな意味があるのでしょうか?沖ノ島は4世紀から9世紀までつづいた
>天皇家による古代祭祀が行われた場所として、当然祭祀目的で持ち込まれたことが推測できます。
>なぜなら、沖ノ島のビロウは海岸からは遠い崖の上に自生しているので、とうてい海流による自然分布とは考えられえないからです。
>このことは、総合地球環境学研究所の秋道尚彌名誉教授が沖ノ島世界遺産関連の論文の中で指摘しています。

沖ノ島の檳榔が自生ではなく持ち込まれたものであるというのも重要ポイント
そこが皇室にとっての重要祭祀の地であったことの裏付けとなる

349日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:35:50.13
倭国とは対馬海峡の海洋国家。
だが筑紫は本拠地ではなく、倭王ニニギは宗像氏族に守られて筑紫の日向つまり伊都国に赴任した。
どこから来たのか?
記紀には高天原とあるが、それがどこかはわからない。
だがアマテラスを祭る国家祭祀が行われていた場所が対馬海峡の中にある。
世界遺産にも指定された沖ノ島だ。
ここが高天原の有力候補だろう。

350日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:13:28.05
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

351日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:14:50.63
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

352ホワイトケープ2019/01/13(日) 09:53:01.58
>>342
淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系
淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力

舟木遺跡の情報ありがとうございました。
淡路島の五斗長垣内や舟木遺跡が大阪湾でなく西を向いた位置にあることから、近畿の勢力がわざわざ淡路島に鉄工房をつくったのではなく、瀬戸内海をやってきた人たちが
つくった遺跡との意見は、これまでネットでも見られました。
伊邪那岐・伊邪那美がやってくる前に、加茂族に代表される北部九州の人たちが、戦乱をのがれ海人の力を借りて瀬戸内海をやってきたのではと考えました。
やってきた人たちは、農地の開墾や漁業など生活に鉄道具は欠かせない時代となっていたので、力をあわせて中心に近い淡路島に鉄工房をつくったのではないでしょうか。

353日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:05:49.00
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

354日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:10:49.41
>>342
>淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系

淡路島は倭国(阿波)の数ある島の一つ と、何度言えばw  
鍛冶遺跡も同前。  @阿波

355日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:19:25.17
神武天皇という漢風諡号じゃなくて神倭伊波礼毘古命という和風諡号を日本人は使うべき

356ホワイトケープ2019/01/13(日) 10:34:37.94
>>343
近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、
これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる

「安曇海人の軌跡」の情報ありがとうございます。
最近は安曇の検討も進み、ネットで知られてきましたが、まだ知らない情報でした。
私は、海神・豊玉彦を調べている中で、渥美半島の白浜から三河湾の白浜、豊田市の白浜、津島市の白浜の経路をたぐり、二つの稲部を経て琵琶湖を渡り高島市の白浜につづく、日本の中央部を横断する道を探し当てました。
豊玉彦が銚子の砥石などを舞鶴の火明命の地に運ぶ道ではないかと考えました。
改めて高島市付近をみると、鴨稲荷古墳が見つかりました。加茂族も無関係ではなさそうです。
高島市を見下ろす位置に稲荷山があり、訊ねたことがあります。もしかしたら東征を終えた豊受大神は丹後に身を引いた前後に、この高島を訪ねているかもしれないと考えています。
海神・豊玉彦が国造りに貢献したことの感謝に出向いたのでしょう。この部分は私の古代ロマンです。

357日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:11:24.34
>>343
>これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる

九州には、倭国(阿波)の海人族(忌部)のような部族は認められない。  @阿波

358日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:48:04.87
矛でかき混ぜは鳴門の渦潮を表してる
高天原は渦潮が見える山

359日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:09:25.15
いにしえの人々の気持ち、ロマンが感じられないセンスのない答えはいらない

高天原は海と大空が繋がるところ
美しい大海大空が見れるところ
天命を感じることができるところ

360日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:17:11.14
>>357
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

361日本@名無史さん2019/01/15(火) 10:47:07.67
私は淡島粟島は九州の淡海にあった島が発祥と見ている
数ある福岡のあわ島神社も創建が不明な所もある
朝倉日向の淡島、川崎の淡島
古遠賀潟や多くの河川が埋めたてられた土地になってしまったから
淡海のイメージが伝わらないだけ
万葉集の淡海にヒントがあると思う

362日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:00:27.27
すいません万葉集で淡島です
淡海ではありません

363日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:16:03.54
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

364日本@名無史さん2019/01/15(火) 12:38:45.15
万葉集の淡島は阿波志摩という表記がある
阿波のどこか
徳島の善入寺島は古くから粟島と呼ばれてる
淡島は善入寺島のことだろう

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